「田舎医者」あえて小説を映画にすることについて~アニメーションの可能性
2007年
山村浩二監督・脚本
さらっと「田舎医者」を観た。
感想としては、もう一回観てみたい。
言語による形式を映像、音楽による形式に移すとすれば、もちろん全くことなる形式への還元操作を経る。
異なる表出形式になるだけで、全く異質な身体性を持つ。わざわざ断るまでもない事であるが。
不可避的に、原理的にそうである。
では、何故あえてテクストを映画に変換するのか?
それは、イメージ化したいのだ。そういう欲望が映画監督と呼ばれる人にはあるのだ。
そしてそのイメージの集合体を世に問いたい。
そういう類いのヒトがいるのだ。
それで映画というものが、少なくとも小説作品の映画が存在することになる。
どうしても、映像と音楽の絡みは強烈な印象ーイメージをヒトに植え付ける。
まさに映画として。
この作用は大きい。
形式を還元する事自体、元のテクストについての解釈であるが、その解釈を言語化できないレベルに不可避的に拡張して、又は付加して供給することについての恐れはないのか?
と思う。
わたしはとても怖いことに思える。
その小説に触発されてこんな世界を思い描いて見せました、ならまだ分かるし気も楽になる。
正にその小説の映画化と言ってもどのみち、触発を受けて自分の思想と感覚の及ぶ範囲でその世界を描くことには変わりないものだが、、、。
要は監督自身の思想の魅力の問題となる。また、それを具現化するdeviceの独自の使い方などのtechnique。起用するキャスト、スタッフも采配のうち。それらが上手く連動してどうなったか、である。
しかも、今回観たのは、アニメーションだ。
具体的な書割(3DCG・セット・現実の市街など)に生身の役者を配して見せるものとは基本的に形式が違い、絵ー動画での表現である。
さらにイメージは自在性を増す。
セリフは狂言で、少年合唱団みたいな日本的(童謡みたい)な歌も入り乱れ、形・動きともに呆気にとられるほどに誇張され歪曲された映像である。
もう、小説ー原作がどうであったかなど吹っ飛んでしまっている。
この「田舎医者」はかなりのものだ。
カフカの「田舎医者」として、というよりアニメーション作品としてだ。
そして何よりカフカ的であるのに感心した。
彼の世界の物質的な雰囲気が終始漂い続けている。(ここが凄い)
イメージがその極端な表現のために逆にわれわれのなかで落ち着かない。
ああ、こういう作品なのか、という納得や理解が中吊りになって漂いだしてしまう。
収束しない。
言語から溢れ出ていってしまう。
これはアニメーションの利点を最大限に利用して作った作品だと思われる。
監督というか作家が、アニメーションという形式を熟知した上でそれを自在に使いこなしていることを窺い知るものである。
こんな方法もあるのだ、ということを知った。