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GOMA28

Author:GOMA28
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九品仏〜フルーツティーの想い出

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九品仏周辺の思い出〜フルーツティー

なないろ文庫不思議堂はまだあるのか?
最近とんと、等々力〜九品仏あたりに足を運ぶ機会が無く、もう何年行っていないか。少なくとも6年は空白があると思われる。

ふと脳裏に立ち現れる、思い出深い所が幾つもある。
九品仏だと、ウェルバン。自由が丘美術館。なないろ文庫不思議堂。
まだあるが、このへんが私にとっての代表格だ。

ウェルバンで教わったフルーツティーは是非とも自分の手で復活させたい。そもそも店は今どうなっているのか、知りたい。
勿論、売りはそこでしか飲めないフルーツティーであるが、他の紅茶も美味で、トーストもここでしか食べられない絶妙な風味と食感があった。更にその日のオススメ手作りケーキがたまらない美味しさであった。
店内はいつも品の良い老夫婦がアジアの各国を回って収集した置物やレリーフなどが適度なローテーションで飾られていた。
1番の想い出は、平日の午前に取って置きのお洒落な窓辺の席につき、柔らかい木漏れ日の中で時折、外でキラキラ風に揺れるハーブを眺めながら、深く甘酸っぱいフルーツティーを堪能した日である。
巨峰のブランデーのたっぷり染み込んだ芳醇な甘酸っぱさがまた格別だった。わたしはそこのフルーツティーの具は、マンゴー以外は全て食べてしまったものだ。
平日の午前のゆっくり流れる貴重な時間であった。

フルーツティーの作り方は夫人に教わった。
北海道からわざわざ作り方を聴きに来ている人もいたっけ。
その人が持って来たハーブが庭のスペースの大きな面を覆っていた。
勿論、そのハーブも使われていた。
また、作るか。
沢山甕が必要だ。

なないろ文庫不思議堂は、神田に行ってもタイミング的に手に入らなかった本が幾つも買えたところだ。
小さな古書店であったが、不思議にわたしがあるといいなと思っている本が置いてあった。西洋の没落や擬場とその周辺、長新太のマンガも欲しいものが、すぐ手に入った。遊の第1期のもの、21世紀精神の始めの装丁もの。パイディアの幾つか、諸星大二郎特集で彼の書斎の写真の載っているムックなど、、、。
少し高かったがお得感があった。
1番の想い出は、下敷きである。
何故か下敷きが欲しくなり、というか必要になり、下敷き、下敷きと念じながら文房具店ではなく、不思議堂に行ったら、ダンボール箱一杯に詰まった下敷きが置いてあった。これまでにその書店でそんなもの見かけたことなどなかったのだが、何故かその時はSF系のマンガの絵柄の下敷きが、ぎっしりであった。絵柄が何であるかは分からなかったが、結構気に入った。
50円であった。その下敷きはその後かなり長く使うことになる。

自由が丘美術館は、リューベンスの銅版画を中心とした版画美術館だ。一時期、かなり足繁く通ったが、その間、絵が入れ代わったことは一回だけだった。オーナーがヨーロッパ旅行で収集した作品だそうだ。
ある時期から、私と同じくウェルバンの店主から作り方を教わり、暖簾分けされたようで、正式に直伝のフルーツティーを同じような形で出し始めた。
ウェルバンがなにぶん老夫婦経営ということもあり、4時頃には閉めてしまうため、フルーツティーが飲みたい場合、そこで飲むことが出来るようになった。
しかし、お味はまだまだ本家には及ばなかった。その後どうなったか分からない。わたしはその開きがかなりあったのでフルーツティーを飲みに行くことはなくなった。
しかし雰囲気はとても良いところで、まるで隠れ家的な美術館とも言え、友人をかなりつれていったし、紹介をしたものだった。みな感想は良好だった。

お隣の自由が丘など、通っている最中に、店が無くならなくとも、どんどん変わっていったものだ。

とりわけ雪の九品仏はとても素敵な場所だった。
そろそろその季節になる。



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キャリーを観てしまった。

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carrie
2013年
アメリカ

キンバリー・ピアース監督
スティーヴン・キング 『キャリー』原作

クロエ・グレース・モレッツ 、、、キャリー・ホワイト
ジュリアン・ムーア 、、、マーガレット・ホワイト
ジュディ・グリア 、、、デジャルダン
ポーシャ・ダブルデイ 、、、クリス
アレックス・ラッセル 、、、ビリー
ガブリエラ・ワイルド 、、、スー
アンセル・エルゴート 、、、トミー


による、評判の高い1976年度作品のリメイク版。
確かキャリー2という続編もあったな。
スティーブン・キング原作。

クラスメイトの虐めと狂信的な母親からの虐待によってテレキネシスを獲得してしまう。
そして、、、言わずと知れた、である。

話は非常に単純。

虐め虐待はヒトにおいて本質的で根深い深刻な問題だ。
死まで追いやられることも少なくない。


しかしここでは虐めや虐待は、単にキャリーがテレキネシスを発動する契機となるための前提であり、それ自体は問題ではない。

とは言えクロエ・グレース・モレッツが何故虐められるのかは、やはり説得力が弱い。
今は結構、変人でもこれだけの容姿があれば、個性的な不思議美少女でもてはやされる。
ちょっとしたタレントになってしまうかも知れない。
キャリーぱみゅぱみゅあたりはすぐなれそう。(決してこれが言いたかったわけではない。念のため)

最初のキャリーの頃は状況も、もっと硬直したものだったかも知れないし、クロエさんの様な派手な美人ではなかったので、虐めを受けるリアリティーはあったであろう。

それより意味不明なガブリエラ・ワイルドの行為。

何でキャリーをパーティーに出すため自分の彼氏を貸すのか?
彼氏も何で納得して従うのか、意味不明。
無理にパーティーなどに出したらさらにまた、虐められるだろうに。
しかも彼に対しても自然に情が移ってしまうだろうに。
キャリーに酷いことをしてしまい詫びたい、という意識が何故そういう形を取るのか理解不能である。
詫びたいなら素直にその事を詫びれば良い。
そして少しずつ仲良しになって行けば良いではないか。
ちょっとした話をする仲になり、いじめっ子からかばってあげれば良い。
何でそんな突飛な、更に彼女を後々傷つけるのが明白な残酷な事をわざわざするのか?
悪意とか作為があるようでもない。
何を考えてるのか?と呆れる。
まあ、物語上はそこのパーティーでのクライマックスに持ち込むためではあるが、不自然でならないのだが?
他にも物語にのせる方法は考えれば幾らでも出てくるではないか。


わたしは最初のデパルマ監督の映画を観たはずだが、ストーリーは兎も角、その伝説となっている撮影手法とか、狂気に陥ってゆくキャリーの精神状態の緻密な描写や、キャリーの女優がどんな少女だったか覚えていない。

今回のキャリーを観てみて、少なくとも切迫し危うい狂乱状況から「引き起こされてしまう」惨劇ではなく、怒りに震え「テレキネシスを仕掛ける」復讐劇という、形をとっていると思う。
ベッドでテレキネシスの練習もしてニヤニヤしてたし。
自分が身に付けた強力な武器で自分を貶めた者たちをもう許せないわと成敗する、みたいな。
そこが、前作と恐らくひどく異なる点じゃないかと思う。
ブリキュアじゃあるまいし。(おどろおどろしいプリキュアか?)

ホントに超能力美少女の話だったか、、、
(いくら演技が上手いと言っても、クロエ・キャリーはミスキャストだ。健康的で華があり小悪魔的で、どうにも無理がある。監督も何を描くべきか恐らく分かってない。)
最初のキャリーをそのうち見直さなければならない。
原作までは読む気など全くないが。





赤瀬川原平さん亡くなる

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昔からとても気になるヒトだが、わたしは忠実なファン(読者)とはとても言えない。
それでも影響は何故か、相当受けている。
知らずのうちに、いつの間にか(笑、、、適当な奴だ、わたしも。

結構本は持っているが、あまり読んだと堂々と言えるものがない。
芥川賞作品「父が消えた」、野間文芸新人賞の「雪野」(どちらも尾辻克彦の名で発表)も、すぐに買いずっと大事に持っていてまだ読んでいない。
短編を幾つか読んでいるが、題名は覚えていない。
エッセイ集もいくつもあるが、サラッと目を通したままでいる。しかし刺激はかなり受けた。
絵本?風のエッセイは随分面白く読んだが。(その類のものだと赤瀬川さんと長新太さんのものはずば抜けて印象に残る)
肝心の絵画作品については、それについての評論と写真は見たが、それだけだ。
南伸坊さんとの"トマソン"は知人と盛り上がり、真似をしたものだが。
知人にはほとんどいつも、それはトマソンとは言えないと、批評されっぱなしだった。
確かにトマソンは不動産でなければならないのだった。
あの純粋階段「四谷階段」には笑って唸った。
末井昭氏の写真時代に、次々に発見されてゆく「超芸術トマソン」が連載されていたと思う。
それらは、わたしの廃墟への憧れにも繋がっていくものだった。

彼の引き起こすムーブメントで驚くのは芸術界への影響力に留まらず、世間への多大な(犯罪も含め)浸透力だ。
トマソンはまだ一部の好事家向きかも知れぬが、カメラ好き(クラッシックカメラ)で「日本ライカ同盟」とか、他にもなんとかの会というものを沢山作っていた。(わたしはそのうちのほんの幾つかしか知らないが)
更に、流行語大賞にも輝いた「老人力」などもあり、その同名本は筑摩書房で最も売れた本であった事は余りに有名だ。
映画「利休」のアカデミー賞脚本賞も映画を観る人なら、知らない人は少ないはず。


他に彼についての知識は、中3まで寝小便が続いたこと、反芸術の旗手であった?というなんとでもとれる適当な称号。
千円札裁判で有罪(肉筆で描いたわけだから、相当な描写力だ)となったことくらいか。


結局そんなによく知らない方ではあるが、顔は写真から脳裏にとても焼きついており、まず街であっても必ずわかるくらいだ。
南伸坊さんも勿論だが。(南氏の場合、一度見れば忘れられない)
何かと気になる思想家であったことは確かだ。

彼の凄いとしか言えないところは、幅広い知識があり、造詣が深い事は言うまでもなく、誰も思いつかない物事の切り取りが軽やかに出来る事だ。
重厚な哲学者のようにではなく。
物事の異化が得意だ。
またそれを語る文章が軽妙だ。
アイデアがあり、好奇心の塊の様なヒト。
同様のお仲間を見つけるのにも長けていて、次々に集団(ユニット)を立ち上げ、面白いことが創作出来るヒト。(わたしはこれが大の苦手だ)。
そこからまた優秀なヒトを沢山世に送り出す。

結局、思考力と発想力と言うより、寧ろ全てを編集してしまう天才の問題だと思う。
ここまでのヒトは、なかなかいない。
専門家にのみ絶賛される作曲家とか、常識をなぞるだけの広く浅くのみ受ける物を作る仕事人はいくらでもいるが、それらには自分の共同体でのみ受けるCodeを使い回すだけという共通点がある。
はっきり言って全く面白くない。
また、本当の発明家や研究者や表現者も理解・共感できるヒトが極、限られている場合が多い。
彼ほど幅広くヒトを刺激し動かしたアーティストはいただろうか?ナムジュンパイク?、、、

歴史をくまなく探ってもほんの少数だと思う。


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不眠の朝

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毎晩風呂から出ると猛烈な睡魔が襲う。
しかし、無理矢理仕事をし始め、一時間も過ぎると、抽斗に畳み込まれた疲労感といつもの寝付けないだけの麻痺した覚醒感に重く囚われていく。

ここにもっとも不足しているのは、開放感なのだ。
文字通りドアや窓を開け放つこと。だが夜更けになれば、家の外に通じる閾を全て閉ざす。いよいよ溢れ出す過飽和した未知の気配の誘惑に耐えるため。
新月に震え。
それらを締め出す。


しかしわたしは夜そのものに期待をかけたことはない。それは大方昼間の過剰な残骸の塵芥が漂っているにすぎないのだ。
夜気も同じ汚された空気なのだから。
気紛れな光に惑わされてはならない。
見かけの熱気。
夜に何も特別な名はない。
夜である必要もなく、白日夢の中でもよかった。
そこに静かな廃墟があるなら。

雑多な光の萎み消えた外部の深淵に、その深みにこそ、白く光る根を細かく何処までも張り巡らせ、霊気を思い切り吸い込みたいのだ。
解放だ。
そして再生。
植物的な、ひたすら植物的な。
月の吐息に。

わたしを解放したいのだ。
わたしから。
わたしという身体から。
その重みから。
そう、この重みはわたしという重みそのものがこの場所から染み出してくる現象なのだ。
まるで虚空から現れるかのように。
かつての人たちは、この疲れを何者かに憑かれたと表したのではなかったか?それは私自身の念だ。

まさにわたしという重力に憑かれている。家の中は今、悪しき廃墟と化して。悪しき魍魎の跋扈する空間となる。

立ち上がり、新しい空気を入れなければならない。
もっと垂直に。
この地球にあって上昇と下降は同じ意味を持つ。


ほとんど連続した意識の元、遠くで聞こえた時計のベルに促されベッドから降りる。

不眠の朝。

これで外へと出かけて行けというのか?外という名の内界に。



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『北京ヴァイオリン』を観て

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2002年
中国

チェン・カイコー監督・脚本


唐韻(タン・ユン)、、、小春(シャオチュン) 天才ヴァイオリニスト
劉佩琦(リウ・ペイチー)、、、劉成(リウ) 小春の育ての父
王志文(ワン・チーウェン)、、、江(チアン)先生 小春を最初に育てる先生
陳凱歌(チェン・カイコー)、、、余(ユイ)教授 大学の著名な音楽の教授
陳紅(チェン・ホン)、、、莉莉(リリ) モデル
章婧(チャン・チン)、、、林雨(リン) 余教授の弟子で、小春のライバル


「初恋の来た道」と「北京ヴァイオリン」は、ほぼ同時期に観て、見直すときも同じ日に観たりしている。
3回は観たと思う。
こういう、直球で来る映画は必ず定期的に観たくなる。

男が刑務所帰りに、鉄道事故現場から、赤子とバイオリンを拾うところから始まる熱いが爽やかなドラマ。

母親の形見のヴァイオリンを素晴らしい腕前で弾く少年とその育ての父親との絆を元に、音楽を通し周囲をも巻き込んで展開してゆく物語。他の登場人物もそれぞれに活き活きした自分の生を色濃く生き、深く絡んでいる。

映画で弾かれるクラシックも多彩だ。チャイコフスキー、パガニーニ、シベリウス、、、あと何があったか、沢山弾かれる。

息子の才能を信じ、父親が北京へと息子を連れて行き、そこで正規の教育を受けさせ音楽界で大成させようとする。その過程で様々な人間ドラマが見られ、息子も葛藤の中から自らの道を選びとってゆく。

達者な役者が揃っているが、特に父親は素晴らしい。あの正直さと直向きさ。教養のなさからくる粗雑さや押し付けがましさはあるが、それらを全て打ち消して余りある無償の、いや無垢な愛情に満ち満ちている。まるでヒトのささくれ立った心を暖かく溶かしてしまうような。
また、主人公の少年の反発しながら迸る情熱と才能を発散してゆく姿にも共感できる。(実際の収録ではアフレコだそうだが、本当に弾いている)

最後の自分の進むべき方向を選んだ後の少年の吹っ切れた表情で弾くチャイコフスキーには、清々しい風を感じた。
コンクールから身を引いたとしても、これもひとつの在り方なのだ、という。




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『千と千尋の神隠し』を観て。廃墟のテーマパークの可能性

sen.jpg
2001年

宮崎駿監督・脚本
久石譲音楽
主題歌 木村弓「いつも何度でも」

スタジオ・ジブリ

荻野 千尋(おぎの ちひろ) ・ 千(せん) 、、、独り異界に迷い込んだ10歳の少女
ハク 、、、湯婆婆の弟子
湯婆婆(ゆばーば) 、、、「油屋」の経営者
坊(ぼう) 、、、湯婆婆の息子
釜爺(かまじい) 、、、「油屋」の釜場でボイラーを担当している老人
リン 、、、 千の仕事場の先輩
カオナシ、、、人の欲しがるものを出し、それを欲した瞬間にその人を飲み込んでしまう
kaonasi.jpg


のっけから、廃墟の中での妖怪?たちの大パーティーと言うか、あれが日常なのか?あの打ち捨てられたテーマパークは、何とも言えない郷愁に彩られていて、そこで生活をする物の怪達の贅沢三昧が少し羨ましいものだった。ちょっと台湾ぽい。

なかでも物語の中心的な舞台となる八百万の神が一休みに来るお宿というのが、また珍妙だ。
なんとも人間臭くて、まるで代議士の接待現場を覗いているような感じもしたものだ。

お父さんとお母さんがあの場所に、ほんの入り口に過ぎないが、楽しくなってしまうのも分かる。それにひきかえ、千尋は何で子供なのにあんなに分別臭いのか?遊びゴコロがないのか?欲もない。ちょっとつまらない子だなと思う。
暫く見ているうちに、突然の事態、知らない物事に対する幼い警戒心がそうさせているだけだと分かる。(欲がないことは、この子のとても優れた資質に思える。)
だから両親が霰もない豚に成るなどのショックを体験して次第に揉まれて行くうちに、何に対しても逃げずに、判断にも冷静な洞察が見られるようになってゆく。
周囲にも認められ、信頼と人望を得て、だらしない小娘から一躍ヒロインになってゆく過程が、あたかも冒険譚で逞しくなってゆく様に描かれている。よくあるパタンだと言えばそれまでだが。

また、名前を奪って、忘れさせて、そのヒトを支配するというのは、分かる気はする。
神などの場合は特にそうだろう。
名前がそのままパーソナリティーであるから。
わたし自身は名前を奪われようが忘れようが、何一つ変わらない自信があるが。そんなもの元々、何とも思ってないし、何の役目も担ってない。
しかし代わりに貰った名前が、ルーリードなんていうかっこいい名前だったら、そんな気になってしまうかも、、、。

キャラクターたちも、どれも面白いが千尋は、トトロのメイの長じた顔に他ならず、よく出てくる美人ではない側の女の子であり、元気なお婆ちゃんはほぼ同様な姿で重要な助演役で他のアニメでも強力な力を発揮して物語の動きを支えている。
宮崎アニメのキャラと顔パタンには興味が湧くものだ。
菅原文太の蜘蛛のような釜爺は、他の宮崎キャラアニメに近い形では見られるものがあったが、そのもっとも完成された姿に思える。彼の言う、「やっぱり愛」は確かに千を成長させた。ここでも主人公を影で支える良い味を出している。
「顔なし」などについては、身近かな人間を思わず浮かべてしまったが、顔なしと言う割にかなり特異な魅力と表情をこの物語に与える重責を担っている。また、普遍性をも持つ、少し物語をはみ出る名脇役でもある。
よく出てくるタイプのハクはここでも神秘的で超越的な魅力と力を発揮して千の相手役である。
ハクの本来の名前と実体には余りに荒唐無稽で驚いたが、実際どのような形で彼が千尋と邂逅するのか、興味が湧いたが物語は何も知らせてくれなかった。
ちょっとそこまで観てみたい気がして少し最後に物足りなさが残った。
しかしそれをどんな形であろうが知らせてしまっては、平凡なエンディングになってしまう可能性は高い。


なんと言うか、ごく普通の(車がアウディなので経済的には比較的恵まれた)女の子が通常ではない通過儀礼により、逞しい活き活きとした魅力的な女の子に成長(変身)する物語の様にも受け取れる。
(両親は何というか、リベラルなタイプの放任主義というか、実際子供にはあまり手をかけない人たちであろう。)
廃墟という場所にこんなパワーが眠っていたら凄いものだ。
通常のテーマパークなど完成したって、こんな体験などできようもない、と言うか質がそもそも違い比較の次元ではない。
とんでもないプロデューサーがいたらどうだろう?
アニメでは、まず宮崎駿がやった。

このREALな空間で誰かやってみないか?
親があまり親でなくなった現実で、子供をホントに遊ばせる(仕事をさせる)場所があると面白いな。
ハクの役目もないことには、どうにもならないか?



初恋の来た道、、、

2491841.jpg
1999年
中国

チャン・イーモウ監督
パオ・シー脚本
鮑十(パオ・シー)『初恋のきた道』原作

章子怡(チャン・ツィイー) 、、、チャオディ(若い頃の母)
鄭昊(チョン・ハオ) 、、、ルオ・チャンユー(若い頃の父)
孫紅雷(スン・ホンレイ) 、、、ルオ・ユーシェン 私(語り手)
趙玉蓮(チャオ・ユエリン) 、、、老年の母


文化大革命のこと、その背景などでここを埋める気はない。
そんな暗黒時代があったとしても、そんなものより遥かに本質的で、普遍的な力と美をここに見たい。
監督はその年齢からもその時代の辛酸を嘗め尽くした世代だろう。
わたしの全く窺い知れない、現実を生きてきたはずだ。
それでも、なおこの「道」ははっきり残されている。
チャン・イーモウ監督はそれを見てきたのだ。
その「道」を自らも通り、待ち、蹲って来たのだろう。
その「道」は、、、
何よりも明るく照らしだされて。
しかも強烈な強度をもって。
激烈な郷愁を呼ぶ。

「初恋」

「初恋」とは何だ?
「初恋の来た道」とは何だ?
現代の東京では、いや日本ではまず、現実が(社会が)許さない。
映画でも、少なくとも、日、米、欧ではあり得ない。
UFOに出会うほうがずっと易しい。

しかし、良い邦題である。
まさしくこの通りだ。
「初恋」
この絶対性を全身からオーラ(後光)として激しく終始放ち続け、
すべての道をひとつの道へと統合してしまう、チャン・ツィイーのただ美しい疾走振り。
「初恋の来た道」
残念ながら、これほどシンプルで本源的な行動が現在もとれる道はもう地球上には恐らくない。

これを今現在やってしまったら、集団リンチのうえ何処かに収監されてしまうだろう。
われわれはもう真の意味では生きてはおらず、死ぬことも出来ない。
この映画の夫婦のように生きてはいない。死んでもいない。
この映画でのチャン・ツィイーのように、夫の死んだ後もこれほどに恋し続けられるなんてことは稀である。(この夫婦の場合、立場に関係なく対称的である)

もはや初恋自体の強度などなく、萎えた、ルサンチマン塗れの心理的やりとりが恋愛のように見られて久しい。

人間のDNAもそのプリント自体が薄れて、消えつつあるところに来ているのかも知れない。
DADAで一回はリフレッシュする機会はあったとしても。
ビッグデータ、ビッグブラザーの下で、ただ、枠組みと人目だけを気にして互いに訴えあっては、チョロチョロ逃げ回っているだけの存在だ。

もう早晩消え去る運命の種に「初恋」など無意味と言えばそれまでだ。

この映画は、強烈な郷愁に染め上げられている。特にカラーの場面。
その郷愁には、何の大災害に因るでもなく自分たちの内側から立ち腐れして逝くわれわれの悲哀が深く滲み渡っている。


この映画を観ている間だけ、われわれは正気に戻り、「初恋」の真の美に触れた気になれる。
本当の生と死を想える。
それが自分ではなくとも。自分の外でのことであっても。
イデアとして。

だから涙なしに見れない。



hokiの想い出。

ad97525e.jpg

わたしの想い出に常に優しく現れる白い猫がいる。
その白い猫は、煌く雪白の毛並みとその高貴で気まぐれな可愛さを益々増してゆく。
いつも共にいた猫。わたしの掛け布団の重みでいたもの。
いまも、ふと亡きその重みを感じ、目を覚ます。

膝で丸く眠り、肩まで軽やかに登り、音もなく飛び降り、呼んでは遠のき、でも耳は欹てて尻尾を立てる。
もう決して逢えぬ猫。
いまでも膝の上にいても不思議でないのに、どこにも見つけられない、触れられない存在。

どこかの廃墟で虚空を鋭い爪が引っ掻く。
白猫の”hoki”がいよいよ雪白の体を煌めかせてゆく。
相変わらず悪戯っぽく、知性に満ちた瞳を大きく見開いて、気持ちを自在に伝える尻尾を翻して走っては、後ろ姿にこちらを窺っているのを知る。

そう耳を立てた。何かを察知している。
何時もながらの白い美しい横顔。
大きな口を開いて鳴く。いや話す。彼女は美しいことばを沢山もっている。
直接繋がることばに心に裂け目はなかった。

私たちは形而上学、超越論、抽象思考無くして生きることはできない。
そういった指向は、もっとも大切なものを不当に失った心がそれを過剰に取り戻そうとする、本源的な欲望のなせる業だと思う。
例を挙げれば、イエス。
彼の不在によってどれほどの巨大な超越的価値体系が構築されたことか。

いまは亡きものと語ろうとするとき、その愛しさに思わず触れようとしたとき、、、
わたしの身体はこの地から身を振りほどき
想いとなって天に伸びる。
この垂直に屹立する精神。

大きな塔としてばかりではなく。
膨大な体系としてばかりでなく。
わたしは日常に多くの梯子が様々に立てられているのを見る。
ヒトは地べたを這いつくばってばかりはいられないのだ。
登って逝くヒトたちを知る。
梯子を登り、また梯子を降りてくる者にも知らず出逢っていく。
それがどんな時間流に乗っていようが。
どんな場所にあろうが。

形而上学、超越論、抽象思考、、、。ここで最終的に呼び求められるもの。
それはなんであっても魂の別名である。

死が優れて美しい形而上学となりますよう。
ヒトの生はそのためにある。




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「審判」~キノコ雲が上がった!

20141024161851a03.jpg
THE TRIAL
1963年
アメリカ

オーソン・ウェルズ監督・脚本
フランツ・カフカ原作

アンソニー・パーキンス、、、ジョゼフ・K
ジャンヌ・モロー 、、、ビュルストナー女史
ロミー・シュナイダー、、、レニ
オーソン・ウェルズ、、、ハスラー弁護士
エルザ・マルティネリ、、、ヒルダ


近未来の設定のようだ。
企業の巨大なコンピューターが重々しく働いており、人々のオフィスや建造物は、巨大さと画一性という設定はされていても、撮り方で処理されている。
これといって特別な物をしつらえているわけではない。全てカメラワークで、こなしている。
見事な近未来イメージが構築されている。ほぼカメラワークだけで。
このような手法は、他の惑星に普通の車だけで行ってしまうゴダールもアルファヴィルで見せているが、こちらの本家?の方が緻密で破綻なくREALである。

また、ウェルズ得意の光の見せ方である。スモークの中に光を通し光線を生むこと。夥しいスリットから光を走る人物に当てていく切迫・速度効果。鏡とガラスの織りなすハッとする美しいリズム、後はパンフォーカス、超ローアングルカメラなどの彼の定番が非常に洗練された形でいたる場面に散りばめられている。
後々映画の原型がここに完成を見せていることが分かる。
わたしの好きなブレードランナーのレンブラント光線のモノトーン版である。

これをベースにアンソニーパーキンスが怒りと不安とこの世・法に対する不信と誘惑に振り回され突き動かされつつ疾走する。

確かにうってつけの環境だ。
Kにとってこれほどの舞台はない。
後は、ディテールを克明に稠密に描き尽くすこと。

オーソンウェルズ監督のカフカ解釈ー脚本にかかってくる。

最後は犬のように殺されたKは、ダイナマイト死だったのだ?!
あの執行人達がナイフを相手にお手玉のように返していたのが、法制度のある意味本質である。全ての書類はただ上から下へと回され続ける。
「自分でやれ」と叫ぶK。
キノコ雲が上がる。集結。
ズレはあっても、間違った解釈とは思えないが。
映画好きなカフカにとっても結構、楽しめる内容ではないだろうか?

それを表出するキャストも適役だった。特に女優陣と弁護士ウェルズが見事だった。勿論、アンソニーパーキンスは、ハマり役だ。まさにKにしか、見えない。
これもカフカ映画のひとつとして、、、
どうだろう?









階級関係~アメリカ(カフカ)を観て

kiriko.jpg
Klassenverhältnisse
1984年
西ドイツ

ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ監督・脚本
フランツ・カフカ「アメリカ」原作
ウィリアム・ルプシャンスキ撮影

クリスチャン・ハイニシュ
ライナルト・シュネル
マリオ・アドルフ
ラウラ・ベッティ
ジェーン・ワイアット


まるで、キリコの絵画を見ているような気分になった。
噂に聞くストローブ=ユイレ監督作品。
間合い、行間、独特のフレーミング、空白と沈黙。
廃墟そして乾き。
自在な時間感覚。
疾走する失踪者としての主人公。
同時に挑発的な挑戦者。
その疾走する線は休むことなく、最後にはアメリカ南部オクラホマに続いてゆく。
ニグロと名を変えて。(なんと挑発的な!)

カール・ロスマン、タフでポジティブな人物の多いカフカの小説の登場人物の中にあって特に際立つ若者である。
そしてこの失踪者(アメリカ)は、もっとも挑発的でエネルギーに満ちているが、もしかしたらもっとも絶望的な場所に向かう主人公かも知れない。
 
全編どうにもならない階級関係のなかで展開してゆく。
しかも闘争と逃走が向かうところで必ず繰り広げられる。
(カフカの小説では特に「審判」で階級の権力関係は露出する。)
大変原作にも忠実な映像描写への転換であり、過剰なイメージ・思想の追加などの饒舌さと変奏はない。
確かな読み・構造化により、非常に禁欲的で崇高な映像に編集されている。
ここでは表題にもなっている「階級関係」としてつかみ出している。
ちょっと、ゴダールを思い浮かべてしまう簡潔な手さばきである。
役者は素人が演じているという噂を聞いたことがあるが、そこがまた良い効果を産んでいる。
内面を欠いた人物たちと風景を途切れなく見続けると、わたしもその夢の中に知らず入り込んでゆきそうになる。

そう、夢のような空間飛躍は、昔関わってしまった悪党に歌手の家に幽閉された後、唐突に希望に満ちた”オクラホマ劇場スタッフ募集”の広告に出会うところである。「12時までに応募しなければ永遠に希望は閉ざされる。」
幽閉場所からの脱出劇をわたしは見損なったのか、眠ってしまったのか、もう一度確かめる必要はあるが、ロスマンの意識はもう汽車に揺られ、微かな笑みを浮かべながら南部のオクラホマへひたすら向かっている。

素敵なエンディングだ。
この映画、他の映画とは次元の異なる構造をもっている。
映画を観た気がしない。

では何を見たのか?
わたしも夢を見ていたような気分だ。
ロスマンとともに。




「田舎医者」あえて小説を映画にすることについて~アニメーションの可能性

ryuko4.jpg
2007年
山村浩二監督・脚本


さらっと「田舎医者」を観た。
感想としては、もう一回観てみたい。


言語による形式を映像、音楽による形式に移すとすれば、もちろん全くことなる形式への還元操作を経る。
異なる表出形式になるだけで、全く異質な身体性を持つ。わざわざ断るまでもない事であるが。
不可避的に、原理的にそうである。
では、何故あえてテクストを映画に変換するのか?
それは、イメージ化したいのだ。そういう欲望が映画監督と呼ばれる人にはあるのだ。

そしてそのイメージの集合体を世に問いたい。
そういう類いのヒトがいるのだ。
それで映画というものが、少なくとも小説作品の映画が存在することになる。

どうしても、映像と音楽の絡みは強烈な印象ーイメージをヒトに植え付ける。
まさに映画として。
この作用は大きい。

形式を還元する事自体、元のテクストについての解釈であるが、その解釈を言語化できないレベルに不可避的に拡張して、又は付加して供給することについての恐れはないのか?
と思う。

わたしはとても怖いことに思える。
その小説に触発されてこんな世界を思い描いて見せました、ならまだ分かるし気も楽になる。
正にその小説の映画化と言ってもどのみち、触発を受けて自分の思想と感覚の及ぶ範囲でその世界を描くことには変わりないものだが、、、。

要は監督自身の思想の魅力の問題となる。また、それを具現化するdeviceの独自の使い方などのtechnique。起用するキャスト、スタッフも采配のうち。それらが上手く連動してどうなったか、である。

しかも、今回観たのは、アニメーションだ。
具体的な書割(3DCG・セット・現実の市街など)に生身の役者を配して見せるものとは基本的に形式が違い、絵ー動画での表現である。
さらにイメージは自在性を増す。
セリフは狂言で、少年合唱団みたいな日本的(童謡みたい)な歌も入り乱れ、形・動きともに呆気にとられるほどに誇張され歪曲された映像である。
もう、小説ー原作がどうであったかなど吹っ飛んでしまっている。

この「田舎医者」はかなりのものだ。
カフカの「田舎医者」として、というよりアニメーション作品としてだ。
そして何よりカフカ的であるのに感心した。
彼の世界の物質的な雰囲気が終始漂い続けている。(ここが凄い)
イメージがその極端な表現のために逆にわれわれのなかで落ち着かない。
ああ、こういう作品なのか、という納得や理解が中吊りになって漂いだしてしまう。
収束しない。
言語から溢れ出ていってしまう。
これはアニメーションの利点を最大限に利用して作った作品だと思われる。
監督というか作家が、アニメーションという形式を熟知した上でそれを自在に使いこなしていることを窺い知るものである。

こんな方法もあるのだ、ということを知った。



カフカの映画を観てみる


Kafka.jpg

カフカの小説を映画化した作品を幾つか手に入れた。
アメリカ、審判、ある田舎医者の話の3つで、田舎医者は、アニメーションである。
時間に余裕ができたら、近いうちに観たい。

カフカには、高校時代に最初読んだ時から、音楽的なものを感じない。
例え、歌手を題材にしたものでも、全く歌が聞こえてこない。声すらどんなものか分からない。
読み始めたらそこを離れられない。余計な詮索の余地は無い。

暗黒の無音状態というものを感じた。
それは、雑音を排除して明瞭化する思考運動の拠り所か?
ちなみにわたしはその頃、雑音を排除するために、過剰なサウンドに身を包んでいた。それも一種の無音状態であったが。
それは多少なりともレアルな世界を志向する際に不可避的に必要な前提となる。

カフカの文学は、音楽を排除した場所に成り立っている、孤独で稠密な記述により成立する。

優れた芸術は音楽の状態に憧れる、というあまりに有名な一節があるが、彼の小説は芸術というより極限的な記述である。不可避的に明晰な記述。
ショーペンハウアーではなくカントの類いの明晰さによって綴られる。感情的な酔いや陶酔の対極にある、知性の究極的な運動が静謐なリズムによってひたすら刻まれてゆく。

映像は如何なのかと言えば、其処に映像的な印象をわたしはそもそももったことがない。イメージではなく、ことばだ。
ことばがあるだけ。
イメージは恣意で不純物が多く、速度が及ばない。遅延が大きくなると、ことばの連結から途切れ、置き去りにされる。

それらのことばは、全く妥協のない、破れ目のない、極めて精確に固有の速度で機械的に綴られてゆくだけで、わたしはそれに機械的についてゆく以外にない。

カフカの小説を読んで画像が浮かんだ事はない。それはことばからの脱線を許さない。

岩成達也の詩を読むときにも同様の感覚である。この人の詩を読むときに豊かなイメージを膨らませながら読める人がいたら、呆れ返るしかない。明らかにイメージを超えたことばの実体がトポグラフィックに展開運動してゆくだけだ。
そう、何よりことばが実在することを自己主張している。少なくとも彼の詩はことばで何かを示すものではない。

カフカも極めて平面的にいや、表層のことばを生産しているだけだ。内面など微塵もない。内界は表面とトポグラフィックに繋がる同じ表面に過ぎない。無限に延長する表面はカフカという装置により、ことばそのものに変換される。
では何を書いたか。
身体だ。
ヒトの虫の身体を精確に書いた。
測量士の城に延びる身体を書いている。
、、、、、、


さて、わたしがそう捉えている、テクストが映画となっている。
楽しみだ。




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身体性

20141007164004afc.jpg

他者性が最近気になる。
身体性の異なりだと思う。
かなり理解がし合え、普段多くの人の中にあっては、仲が良い?と言うか親和的な関係が保てている仲でも、小さな単位や2人で話し込むと、違和感が際立つような場合である。

やはり人同士は適度な距離と適当な言葉でスムーズなやり取りが可能となっている。
ひとつ突っ込むと、どうしてもdetailがササクレ立つ。

そういうものだ。と言えばそれまでだ。

だが、その部分がホッベタにできたおできの様な感覚として、後味として残り続ける。

その異物感に対し、塗り薬をつけて遠ざけておきたい気持ちにもなる。
それが、必要な他者かどうかという点においては、必要なのは言うまでもない。しかし、近くに常にいてもらうのは、身体的な抵抗がある。

観念的には好ましいが、物質性が高まるとー実体化の強度によって、気持ちが後ずさりしてゆく。

これは決して普遍的なことではなく、極めてわたしの個別的な症例である。
わたしは物を見ることはよくするが、手触りで確認すると言うか、楽しむということが、ほとんど経験としてない。
最近、粘土に関わり出したのもその辺に原因がありそうだ。

触覚的な世界を求めている。触覚的な造形、構成である。
その辺から世界のmapを形成しなおしたい、という身体的な欲求がある。

実際のところ分からないが。


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win8.1今度こそ回復~何らかのソフトの妨害あり

gara01.jpg

「糠喜び」という言葉を噛み締める。
世の中そんなに甘くはない。
ケーブル挿して、イーサーネットに切り替えたくらいで、ネットを見せてたまるか。
というノリで、また一切接続不能となる。

喜劇である。

今日は日曜日。
何か調べるには、今日しかない。

○まずwin8.1の状態を確認すると。
・動きが全般に不安定状態であり、ほとんどウェブには接続不能であること。(昨日はその日の記事を書くときだけは生きていた(笑
・使い始めの頃はネットに接続できた
・イーサーネットは接続確認はされており、常にIPaddressは配布されている。(今は無線を切っている)
・さらに異常にシャットダウンが遅い
修復関係のユーティリティも異常が見つからない、またはループしている?。(アニメーション上は動いてる振りはしていても、ハードディスクの点滅を確認すると動きがない)
強制終了しかパソコンを止められない、再起動がまともにできない状況にまで来ている。
・タスクマネージャーをしょっちゅう使ってソフトを止めることになる。特にウェブブラウザ。


・その他の端末については、取り敢えず普通に使える。
(細かいことは話を不明瞭にするので)


○そこから、シンプルに切り分ければ、
win8.1の個別問題であり、プロバイダ(ONU)の問題ではない。
・肝心なことは、不安定さが高まってきていること。そこから考えられることに注目する。
・短い期間ではあったが、作業を通して入ってきた(インストールも含む)何かのファイル(ソフト)が基本的な動作の邪魔をいている疑いがあることが分かる。不安定さは破壊や必要ファイルの喪失によっても起こるが、それらはむしろ全く動かなくなる方が可能性としては高い。


○対応策
・必要最低限度のソフトで動かし、基本ソフトとハードの点検をまずする。
・そのソフト構成で問題なく起動し、ウェブ接続も確認されたら、仕事に必要なソフトのみ順次追加して、動作を見ていく。
・必要最低限のソフト構成でも不安定でウェブ接続もできなければ、重要データを外部コピーし、リカバリーをかける。
・リカバリーをかけても、問題が見られれば、ハードエラーとして、工場ゆき。
・必要ソフト追加の安全性の見分けとして、しっかり短時間で再起動できるかがポイント。

○実際の具体的作業
・まず、ディスクトップを右にカーソルをワイプして検索へ。
・検索窓にmsconfigを入力。この時間違ってもウェブ上の検索をしない。端末内部の検索である。(下にアイコンとともに出るやつ)
・システム構成が出る。
・サービスタブをクリック。
・Microsoftのサービスをすべて隠すをチェック。すべて隠れたか確認。それ以外の項目をすべて無効にして停止する。(誤って Microsoftのサービスを消してしまうとどうにもならないので、まずそれを隠してからの作業となる)
・ 再起動。
・再びシステム構成に行く。
・スタートアップタブをクリック。
・Corel関係、そのメーカーのサービス関係(Fujitsuならそれのついたもの)、大概Realtekもの、その他最低限必要なファイルをスタートアップに残す。

・サードパーティのソフトで真っ先に試すのは、ウイルスソフトから。わたしはAVG。大丈夫だったが、この先は、カスペルスキーに変える予定。
・そこが大丈夫なら、仕事上最低限必ず必要な、ものからチェックを入れていく。わたしの場合は、ドロップボックスとエヴァノート。取り敢えずこれがなければ話にならない。

そんな感じで、加えては動作を確認」という方向をとりたい。


○今後の流れと注意
*むやみに使うかどうかはっきりしないものは、インストールしない。迷ったらインストールはしない。その際に余計なユーティリティが知らず入り込むこともある。ウイルスも可能性がある。
*ウイルスチェックソフトはやはり強力なものを使う。但し設定やポート指定には気をつける。
*アップデートの場合、winの定期的なセキュリティアップデートなどであれば、無意識にアップしていけばよいが、他のアップデートの場合は、Microsoft及び、その端末メーカーのHPを確認してからアップデートをかける。
*今回、win8.0から8.1に無意識にアップしてしまった人にはかなりのシステム不具合が発生している。
同時にドライヴァー関係のインストールセットなども含め、必要なセットを確認してアップデートをかける必要があった。
なお、8.1は8.0とは異なるOSであり、7と8くらい隔たるものであったようだ。
*アップデートも含め、インストールをあまり気軽に考えないほうがよい。知らず入ってくるものが大変な悪さをしていることがある。


取り敢えず、今現在は小さな構成で安定して動いており、ウェブにも接続し、これを書いている(昨日もそう書いたものだが、恥ずかしい、、、)
ということで、物事は、一筋縄ではいかないし、パソコンの場合、再起動をかけて、いつまでもぐるぐる回っているつぶつぶを見て待っているときの虚しさに耐えなければならない。
そのアニメーションもまやかしだったりする。
ハードディスクのランプの点滅から事態を読む目も必要となる。
また、いつも使うGoogleChromeは不安定さが見られるため、再インストールをする予定。
これは、IEからの投稿です。


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何故かつながる!Win8.1

business_tool_ca_004.jpg

うちが新プロバイダーに変えたことは、以前の記事にも書いたが、それに伴い新しいONUに全てのノードを接続していくことになる。

今度の設定はおよそ、設定とは呼べないもので、こちらで何もいじれないし、間違えようのない、選択の余地のないものなのだ。
何かしようにも、余計な?ポートは全て黒いテープで塞がれており、なんにも出来ない。

そのため、繋がらなければ、どうしようもない。設定・編集画面というものが、そもそもないのだから。
ONUにもアクセスは出来ない。
win8.1端末についても、実質何もない。

所謂、BlackBox状態だ。

だんだんパソコン関係の機器はそうなってゆく。(昔はいろいろ考えて自分でいじる余地がたくさんあったものだ。特にMacのOS9まではその意味で面白かった。ハードにおいてもそうだったし。)

では、というところでONUにケーブルを直接繋いだ。
(これまで何度かやってきた)
最初はダメだったが、しばらく待つと、繋がった。
このままコンスタントに繋がれば、ケーブル接続の方が速いはずだし、mainで使うマシンは速い方が良いということで、こっちで行こうということになった。

結果オーライと言うしかない。
(何故、前にケーブル挿した時に繋がらなかったのかは不問にして)
結果よければ全て良し、とする。
何故、繋がったかは、暇なときに確認しよう。
今、そんな暇は、無い!

紙兎ロペのアキラ先輩みたいに脱力笑いするだけだった。
おかげで、この記事もそのノートで書いている。
あと少しでアップします。


いろいろご心配かけ、アドバイスもくださった方々、まことにありがとうございます。
今後とも、宜しくお願いします。



前のプロバイダーは配布されるプライベートIPaddressは5つまでだったが、今度は10台だって大丈夫?と担当者が言っていた。まあ、10台でも大丈夫であっても同時に使えば当然、負荷が大きくなり速度も遅くなる。
別に同時5台で充分ではある。それ以上あっても、DHCPでその都度繋ぐのだし。IPaddressリース期間の問題も生じるが。
繋がりさえすれば、今度のプロバイダーは速さが売り物なので、未だ速度感は全く実感してないが、今後に期待したいと思ってはいる。

ご近所も注目しているので。
もう何人もの方から、どう、NUROに変えて?と聞かれているので、実感レポートもしなければならない。




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透明な身体性

Perugino Keys

wwwを発明したヒトは大したものだ。
今、われわれが何かやる時の透明な前提は正にそれだ。
われわれにとって空気と同じと言ってもよいほどそれは抵抗がない。
完全に日常に溶け込み、電気が通っているところに端末は必ずあり、そこからほとんど何にでもアクセスが出来きる。
そもそも、
それがあっての仕事であり、趣味であり、遊びである。
また、友との繋がりである。
URLである。
そしてアウトプットの出来ない庶民からの飛翔である。
もう既に随分前から取り込んでいる身体性である。

勿論、今やアプリの世界がURLを隠蔽しつつあるが。
それでは、もうウェブとは言えない。
ウェブが見えなくなったらお仕舞いだ。
アナーキズムが無くなる。
アナーキストは、
やはりウェブが面白い。

しかし、ちょっとしたバグやミスでそこに入れなくなる。
これは体調を崩すというより、病気で動けなくなるに等しい。
いや、等しい、ではなくレアルに病む。
身体のかなりの核の部分まで血が巡らなくなる。
壊死してしまう。
早くメンテが必要だ。

早く入らなければならない。
ウェブの中に。



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win8.1インターネットが「使えず」

kumo.jpg

設定・メンテを昨日から、複数端末に渡ってやり始めたのだが、大きな問題としてwin8.1ノートの問題が1番深刻である。

取り敢えず、現時点でわかっていること。

問題点のない部分
・ネットワーク接続は有効である。
・無線LANネットワークに関して、電波の発信はある。
・アクセスポイントにも接続している。
・インターネットプロトコルにおいて、IP Address有効、DHCPによる取得がなされている。

問題の部分
・インターネットアクセスが出来ない!
これに尽きる。
接続はされているため、AVGなどは、せっせと働いているのだが、なにせBrowserが反応しなければ、ネットが仕事に使えないではないか!

複数のパソコンが普通に動作しているため、どう考えてもこのwin8.1ノート固有の問題である。
また、他のパソコンがそれぞれネットに繋がっているため、(プライベートIP Addressが配布されているため)PPPoEの問題ではない。最初、このブログを書いているノートしかブラウザが開かなかったため、ONUと各端末間にブロードバンドルーター噛ませようかと考えたりしてしまった。

しかし、今確かめていると、MacBook Airのネットが見れるところと見れないところがある?
メールはしっかり来ている。

やはり変だ。

すべてがこれまで通りに動いているのは、このノートだけか?
もうひとつのVistaノートである。

また明日継続して調べらければ。
どうにもならなければほぼ初めてのサポート。


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飛躍への憧れ

kaminari.jpg

午後から雨という予報であったが、朝、出勤時から大きな雨粒がポツンポツンと頭や額にかなりの抵抗で当たってくるではないか。
6時前半の時間からの現象である。

昨日、職場にiPhoneを置き忘れて来てしまったため、もうバスに乗ってからでは伝えられまい。
だが、家に戻る気などない。
その間にバスが来てしまったならもうお仕舞いだ。
神奈中のバスは、いつも来たい時に来る。
だから来ないとなったら一向にこない。
間引きもサイコロを振ったのではないかという感じで突然入ってくる。
時間は基本的に気にしない事があの会社のポリシーのように思われる。
われわれにも時間をはかれないように、計画が立たないような絶妙な運行プログラムである。
自由人にはうってつけのバスであろう。
わたしも早く、神奈中と相性バッチリのヒトになりたい。

出がけに見たが、うちの母は洗濯物を外に干していた。
天気予報を真に受けるタイプの人間だ。
確かに最近の天気予報の精度は高い。
当たることが多いが多少のブレや誤差はある。それは何にでも。
洗濯物干しは一種の賭けだ。
(ギャンブルはしなくとも、われわれは日常生活の中で結構賭けはしている)

雨がそのまま降り続けば、わたしが職場に着いて電話をしても2時間は雨に晒されている。
もう洗濯物は台無しだ。
それまでに気づき、取り込んでいてくれることを取り敢えず祈る。
それにしても危うい些細な”Fragile”なことで日常は成立している。
日常自体が”Fragile”だ。
最近のニュースを見てもつくづくそう思う。


今日は、帰宅してからパソコンの調整や再設定をかなりやらなければならない。(今帰りの電車でこれを書いている)
結構、賭け的な要素もあり(アプリケーションの好き好きの点で)、面倒な設定もメンテも入る。
出荷時に戻したパソコンも大いに調整、設定しなければ、普通に使えるようにはならない。
設定もシステムに深く絡んでくるところもあり上手く行かなければ、また初期化の可能性もある。
慎重に進めたい。
このノートが壊れた原因も掴んでいない。
レジストリが破壊されたのは確実だが。
何故なのか。ウイルスか?ウイルス同様に他のソフトと抱合せでどさくさ紛れに入ってきたものか?
そのへんが大いに怪しいが、ソフトのインストールも賭けの一種だ。

もう一台のノートは、そのメーカー特有のウェブ・ユーティリティーが入っており、素直にネットに繋がらない仕組みのようだ。メーカーのリンク設定後にうちのアクセスポイントを繋ぐ必要がある。
このマシンでは、リッピングをする予定で、オリジナルソースとの関係もあり、仕事を急がねばならない。
今夜は忙しい。

基本全ては、雑務である。
しかし、近頃雑多な情報から背を向けているため、私生活自体はシンプルで明快なものになりつつある。
生きていくにあたり、必要な情報量はそれほどいらない。
刹那的な刺激よりも、単なる積み重ねよりも、転換・飛躍を呼ぶ”Discipline”こそが重要。
そしてたまには賭けに出る。

最近、たまたま得た情報の中で、気に留まったのは、量子コンピューターの実用化の話くらいだ。
日本の研究者の考案した量子アニーリングによる解法だという。(つまりソフトの問題か)
それをカナダのD-Wave社がハード的に実現したようだ。
これまでの不安定なものではない。
活用、運営次第ではスパコンと比べ、桁違いの処理が出来るという。(京のようにでかくなく、場所も取らない)
TVで4色塗り分け問題をサラッと解いており、呆れたがあまり驚きはしなかった。
今のコンピュータの苦手な画像認識も全く問題としないようだ。
解き方のプロセスが根本から違う(アーキテクチャが異なる)ため、こんな飛躍的、超絶的な出来事が起こるのだ。

Googleがこのコンピューターをいち早く購入し、更に高性能な量子コンピューターを開発・製造するという。
きっとそうだろうな。
勝算のある賭けだ。
特に驚くことでもない。
もはやAppleではなくGoogleである。

飛躍に憧れる。
努力にしても、飛躍に向けた努力がしたい。
それ以外は意味がない。
自分の本当にやりたいことを努力の意識なく続ける。
そして場合によっては賭けにも出る。


これからも細々とした情報は波打ち際で堰き止めて、じっくり取り組める仕事だけをメインにしたい。
まずは、本がゆっくり読め、絵を描く時間の確保が一番肝心となる。フルートも週に1回くらいは、吹きたい。
この生活を基盤におきたい。
何をやるにもこの下部構造の上でだ。
飛躍する場所はあくまでもここに。


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光の効果

20141014162721899.jpg

電車は普通に動いていた。

朝から強い日射しだ。
空がことの外明るい。
空気はスッキリしていて、少し肌寒い。

何時もの電車のシートに座り、下を向いて鞄の中を確認していても、はっきり強烈な光が今の空の状態を知らせてくれる。

空は明るく鮮やかに青い。
白い雲がくっきり際立つ。
昨夜の荒れ狂った風雨による残骸は、街路上の彼方此方に見られはするが、ホームや路線近辺には様々な面や粒子が、濡れて強く輝きを放っている。またはメタリックな金属柱からは光が滴り落ちてゆく。
虹色の輝きを秘めて。
そのなかの幾つかは水滴となって落ちた。

街じゅうが光にコーティングされていた。
この時間を支配しているのは、水と光の織りなすリズムに他ならなかった。電車の小さな揺れは何時しかそのリズムに変換されていた。
身体からスッキリ覚めてきた感覚がある。

明るさのために時折、周囲が見えない。光に盲いる。
光はまた、隣り合わせで暗黒の影を纏うのだ。

光の効果を想う。

電車を降りて、勤め先まで歩く広い道程は、何故か家から最寄り駅までの広い街路に似ている。全くアップダウンのないこと。碁盤目状の道路構成であること。車道、歩道ともに充分に広いこと。大きな桜並木が長く続いていくこと。
かなり似ている。
鉄道路線の行程を挟み、家から駅までと勤務地から駅までの道程が驚くほど対称的であったことに気づく。

舗道には、やはり同じように、かなり大振りな枝や夥しい色とりどりの葉っぱが積み重なるほど厚みをもってばら撒かれていた。当然、靴底の感触は普段とは違う特異なものであった。


勤め先に着いて、建物を見渡すと、今日は明暗のくっきりとした、オランダの風景画を思い起こす。
光の効果だ。
どの建物の古風な壁にも、光の粒子が無数に煌めいていた。

全く何時もの時間の通勤であっても、少しだけこの世界が清められ垂直性を湛えた場所になることがある。

光のおかげだ。



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モロッコ ~ 映画の確立?

moroco.jpg
Morocco
1930年

ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督
ベノ・ヴィグニーの舞台劇『Amy Jolly』原作

マレーネ・ディートリヒ、、、アミー・ジョリー(酒場の歌手)
ゲイリー・クーパー、、、トム・ブラウン(外人部隊の兵士)
アドルフ・マンジュー、、、ベシエール(金持ち)
ウルリヒ・ハウプト、、、セザール副官
イヴ・サザーン、、、セザール夫人
フランシス・マクドナルド、、、軍曹
ポール・ポルカシ、、、マネージャー


昨日観た映画より古いものを観たかった。
もはや、DVDに見つからず、VHSの山から発掘した。
何より驚いたのは、解像度と言うか画質の、悪さ。
最近、この質の画像ー動画を見たことはない。
調べてみるとこの映画、1930年制作。
ローレンス・オリビエの「嵐が丘」より8年古い。
初めて日本語字幕が付けられた映画ということ。
つまりは、日本はこの時期、サイレント映画に弁士という映画形式が標準であったということか?
これより古くなればチャプリンか?いや、チャプリンにダブっている時期ではないか。

何とも言えないトーンがあるが、「嵐が丘」の撮影方法・技術を考えると映像・音声に8年以上の隔たりを感じさせる。
「嵐が丘」が秀逸で斬新なのか、この「モロッコ」がいささか前時代的なのか?
前者であろう。
マレーネ・ディートリッヒの歌も録音状態からかなりキツイものであった。(これはうちの録画状態の問題もあったかも)
しかしそれ以外の、セリフのやり取り、効果音、間などに問題なく流れには一切破綻は見られない。
充分に臨場感はあった。
その意味では、当時としては画期的だったのかも知れない。
ストーリーにおいては、恋愛心理がしっかり押さえられた、よく出来た大人の映画だと思う。
ディートリッヒの倦怠感と目の演技、クーパーの思いを秘めた手の表情、など細かい演出も功を奏している。
しかも、3角関係か?お金持ちの紳士が心が広く、あまりに寛大に、やはりディートリッヒを深く愛していたことが淡々と描かれている。
しかしヒトは(彼女は)恋に走る。
それはそうだ。衝動は恐ろしい速度をもつ。砂漠も裸足で突っ走ってしまう。
恋は盲目とは言うが、、、。
しかし2人とも普通の生活をその過剰さによってはみ出して境界線に行き着いた存在であり、砂漠を走破する資質をもともともっている。
ひとところに定住するタイプではない、Monadの先駆者でもあるか。

初代嵐が丘のローレンス・オリビエとマーロン・オベロン(険悪な仲での撮影だったそうだが)のように、この映画でも役者の際立った魅力に支えられている。
この「モロッコ」もマレーネ・ディートリッヒとゲーリー・クーパーの魅力で魅せている映画と言って良いはずだ。
どちらも、飛びぬけたオーラを放ち続けている。その上、役柄も極めて格好良いと来ているから大層このふたりは、人気を博したはずだ。
容姿が美しいというだけではない立ち振る舞いの「粋さ」加減が半端ではない。
これをもってハリウッドスターの元型なのかと推測した。
しかし、富豪の紳士役のアドルフ・マンジューのひたすらマレーネ・ディートリッヒを愛し支え続ける健気で誠実な演技(これもハリウッドの1パタン)にも大いにうたれる。
この紳士と結婚すれば、まず豊かで幸せな生活が送れるこに相違ないが、そうはいかないヒトの業が説得力を持って描かれている。またそう行かなければ、ドラマにならない。
これもハリウッドの映画シナリオのスタンダードとなったはず。


今回の映画のカメラワークには、とても親近感を覚える。
素人っぽい、というわけではないが、非常に丁寧にオーソドックスに撮られていて、驚かされることはないが、安定した視座をもって、こちらは物語に専念できる。
いやもしかしたらカメラワークのスタンダードをこの映画が確立したのか?
ある意味、カメラを意識せずに映画の物語に入り込めるカメラレンズの透明化に成功した映画なのかも知れない。


嵐が丘のリメイク映画の数には驚いたが、このモロッコもリメイクがあるのだろうか?
しかし、どんな役者と優れた撮影技術をもってしても、この2人にはかなわないと思う。
嵐が丘もあの2人を超えるのはまず不可能だ。

今回古い映画を見て、美の変遷も見て取れる部分を感じた。
特に、ディートリッヒの当時言われた脚線美であるが、美の基準が当時(1930)と現在では大きく変わっていることが分かる。
今はただひたすら細い脚が持て囃されている。
モデルや歌手、女優みな細い。そして軽い。85年位の間の変遷である。
かつてルーベンスのいた産業革命期では、思い切りふくよかな女性が美しいとされてきた。
富と美の象徴がふくよかさであったためである。今見ればルーベンスの3美神など、ど迫力の美である。
しかし、ルーベンスの時代ではないが、わたしはディートリッヒの脚線美が圧倒的に正しいと思う。
それをつくづく思った。細ければなんでも良いというものではない。
同様にジュリエット・ビノシュの方が勿論、現代的な美を体現しているが、マーロン・オベロンの知的で繊細かつエキゾチックな(もしかしたら古風な)美は、寧ろ新鮮ですらあった。





嵐が丘 ~ よりによって

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嵐が丘
1938年上映

ローレンス・オリビエ
マーロン・オベロン
ジェラルディン・フィッツジェラルド
のキャストに監督はウィリアム・ワイラー

この映画は物語の後半を思い切りよくカットした映画である。
ヒースクリフのキャシーの死後の壮絶な復讐劇をすべてカットして、2人の恋愛劇としてフレーミングし直した映画である。
嵐が丘を元に、ウィリアムワイラーの描きたかった恋愛映画なのであろう。それだけではなく、嵐が丘のあるヨークシャーの荒れ野、その無慈悲な風雨の吹き荒ぶ、荒涼たる風景が余すところなく描かれていた。
アカデミー撮影賞を受賞している。

原作の忠実な描写、思想の再現ではないが、本人も計り知れない深いところで結ばれた男女の恋の機微は漏らすところなく捉え、表現し尽くしていると思われる。それを演出する陰惨な(時に晴れやかな)風景と共に。

その点の監督制作者の力量は大したもので、2人の間の恋愛感情の微妙かつ繊細で衝動的な揺れ動きついては恐ろしく真に迫った描写がなされていると思う。
究極的な恋愛映画として正に金字塔と呼んで良いものであろう。
この嵐が丘の恋愛映画への影響はどれ程大きなものであったか。

もしかしたら、ワイラー監督は、復讐の部分を故意に霞ませたのは、恋愛をテーマとしてより普遍性をたかめたかったのではないだろうか。

しかし無論、嵐が丘自体は監督が切り取った先へと大きく広がっていく。それが更に2人の究極的な結びつきを逆照射する構造をとる。
とは言え、よくヒースクリフとキャシーの出会い、子供時代から、父(ヒースクリフにとっては義父)の死後の冷え切ったアーンショー家の惨状、リントン家との確執とエドガーの求婚、ヒースクリフの出奔、キャシーの諦観を秘めた平穏な結婚生活、ヒースクリフの出現その激しい波紋、エドガーの妹イザベラを巻き込み最期のキャシーとヒースクリフの超絶的な恋の回帰。そして、彼女の死を看取る彼の崇高な場面まで、よくあれだけの時間で過不足なく描き切ったものだ。一分の無駄も無かったと思われる。

ジュリエット・ビノシュの嵐が丘では、原作との関係など、色々と氣になるところがあり、あまり映画自体に入れなかった。少なくとも感情移入はあまり出来なかった。
日本でも昼メロでドラマ化されていたのは知っており、それをちょいと見た範囲では到底原作やこの映画など見たくもない、といったところが正直なものだったが、早く原作やこの映画は観ておくべきだった。
これは後悔した。

特に、キャシーが死ぬ間際に。
「エドガー、優しくしてくれたわね」
「お願いだから、ヒースの花を取ってきて」と言う。
エドガーは、大慌てで医者を呼びに行く。
その間にヒースクリフが現れキャシーと最期のお別れを交わす。
窓辺に彼に支えられて立ち彼女は幼い頃の丘の城の王妃であった頃を想いつつヒースクリフひとりに看取られて死ぬ。

こういうことなのか、と思い知った。
エドガーとキャシーは所詮、虚栄心を満たすだけの関係でしかなく、エドガーにはキャシーを看取る意志は無かった。所詮そんな強さを持ち得ていない。だいたい今際のときに、その願いもそっちのけで医者を呼びに自ら行くなんて愚行をおかす男がいるか?単なる口実だ。「貴方はひ弱よ」とキャシーに罵倒されたことがあったが、正に彼は優しく接する事以外何も出来無かったのだ。しかも肝心な時は、逃げるしかない。キャシーそのものを受け止める器量など元々無かったのだから。その死などとても恐ろしく正面から捉える事などできようはずもない。もしかしたら、ヒースの丘が何を意味するか察知し、わざと時間を空けたのかも知れない。それはそれでとても悲しい選択だ。哀れな宿命だ。

ヒースクリフは正に来るべき時に現れ、彼女の愛だけははっきり確かめた。あまりに壮絶であるが、それができたことだけは幸運だ。「分かった。死ぬのなら俺をいつまでも呪い続けてくれ。」

真面目に3回は泣けた。


せめて、うんと若いうちにこういう原作及び映画に接しておくべきだった。いい加減な恋愛ものなどを見て侮蔑して、本当の強度をもった恋愛に対しての感性が錆び付いていてはどうにもならない。
それは命がけのものである。
そんな時に、、、
ガメラやゴジラを見てる場合か!

わたしは既に手遅れだ。




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また古典映画を観てみよう。

35mm Film on Platters

古典と言われる映画が必ずしも良い映画とは限るまい。
歴史的価値を超えて強度を維持するものはあるだろうが。
明日と明後日、一本づつ何か見てみようと思う。
ともかく、古いものを。

初めて見る映画なら新鮮な気持ちで観れるはずだ。
(だが古典となると真っ新は無理だ。すでに色々と情報が入ってきてしまっている)
以前見たことがあるものだと(見たことを思い出したものだと)
そこから感想を書くにしても、極私的な感慨を起こすことになるはず。
昔観た記憶が時熟して徐々に異化している場合もある。
何でも熟したものは変質するものだ。どういう方向にせよ。
どういう方向にせよ、、、

何かが覚める事もある。
驚愕すべき発見もあるかも知れない。
しかしこれまでの夢が。
全て間違っていたと。
かつての宝物はガラクタであることを告げ知らされる事もある。
昔から大切に飾り棚で保存し続けていたモノが今や視野にも入らない風景に沈んでいるように。
それらは暗闇に潜んでいるわけではない。
暗闇に溶け込んでしまったのだ。
もともと実体など無かったのかも知れない。あれは何だったのか?もはや思い出せまい。

意味、価値が更新され異なる輝きを宿すものもある。
何度も回帰するものもある。

しかしそれより遥かに多くの物や芸術と呼ばれたものが虚しい形骸となって逝く。
チョット指で突くと胡散霧消する。
恐らく、殆ど全てのものはそうなのだ。
エントロピーの方向に逆らえる強度をもった観念以外は。
永遠の観念。
のみが残る。

ヒトの求めるものは究極にはこれだけだ。
宗教が代わりを勤めては来ても。
もう、それに力はない。
有りもしないものを有り難がるのはやめにしよう。

全てのものは滅び去る。
All Things Must Pass
(ジョージハリスン)
このアルバムに収められた曲、
Beware Of Darknessは未だに怪しい煌めきを放ち続ける不可思議な力をもっている。まるでマントラのような囁き。
不滅の魅力をもつ曲。永遠の生命をもつ曲だ。

 暗闇に気をつけろ。
 そこにあるのは、全て幻だ。
 そこに何かを求めるのは辞めろ。
 暗闇はいつも君を惑わす。
 気をつけろ。

それでもヒトは何かを求め続ける。
(せめて)確かな明るさの下で。
明晰さと虚心をもって。

過剰な価値は求めないで、気軽に、観てみよう。
明日にでも。





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カフカの「審判」がBlu-ray Discで出る!10月24日発売

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カフカの「審判」のBlu-rayが出る!
10月24日発売。
一番好きな作家の気になる作品。
わたしは、これだけでなく「変身」、「城」、傑作で名高い「アメリカ」すべて観てない。
しかし、カフカファンだ。
だから、観ないようにしてきた。
カフカの究極のリアリズムが小説と同等レヴェルまで映像で描けるか?
これが疑問であった。
不条理な世界をどう描くかなどという、馬鹿げたアプローチで作ろうものなら最初から終わっている。
SFの名作も勘違い解釈から跳んでもない映画が幾つも作られてきた。

しかしこれは、観てみる。
はじめて観るカフカの映画として意味がありそうだから。
オーソンウェルズ監督、脚本。
アンソニーパーキンス主演。
ジャンヌモロー、オーソンウェルズ、ロミーシュナイダーも共演と言われれば、生半可なものである訳ない。
と、感じてしまう。

オーソンウェルズやはり只者ではない。
シェークスピア作品の脚本家として名高い彼でも、カフカとなれば一筋縄ではいかないはず。
よくカフカに挑戦したものだ。
一体どう料理したものか?
観る前から大変ワクワクである。

そのまま忠実になど形式変換できるわけないし。
妙な解釈やら不条理思想?などを施したらそれまでである。
どこまでレアルに描ききれるか、である。
ひとつ彼の勝算としては、映像装置ーテクニークに特別な武器を持っていること。
さらに脚本力に自負があること。つまり構造が掴み取れる。
そのへんから彼の野望(彼は大変な野心家である)がこの作品の映像化に向けられていったのか。
彼の研ぎ澄まされたカメラワークや映像の仕掛けがどう機能しているか?
優れてディテール描写が鮮やかで明晰な小説の水準が、保証されているか。それこそが内容そのものでもあるのだから。
オーソンウェルズもその点では力量を遺憾なく発揮しなければ映画化は達成されまい。
ついでにアルビノーニのアダージョがどんな風に絡んでくるのか?も楽しみ。
(映画には音楽がある。これは大きい。)
何れにせよ「市民ケーン」以上の作品を当然期待してしまう。
特に怪優オーソンウェルズにサイコのアンソニーパーキンスの演技の絡みはどれほどのものか、脚本・演技・演出に破れ目のない作品を期待したい。

もう昔に出来ていてわたしが単に観てないだけの映画に、期待したいというのもなんであるが、、、。
映画評だけはくれぐれも見ないようにしたい。
(いつも見ないが、2チャンネルのを以前見てしまい変な先入観となって困ったことがある。)

さて、それまでまた古典的な映画でもいくつか観てみよう。
以前見ていてもほとんど忘れているものも多い。(わたしの場合。)
オズの魔法使いは面白かったし。
またそのころのものでも掘り起こして観ていよう。
10月24日まで。

「城」、「変身」、手に入れば「アメリカ」もこれ次第で、観てみるかも。
それこそ映画の可能性に触れたい、と想うのでは、、、。
(わたしは良い小説の映画化されたものはあまり観たくない。観るときは背徳的な気分になる。「嵐が丘」も観てはいけないものを恐る恐る観た。)


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絵を描く季節

Perugino Keys

絵を描き始めるに当たって。

何を描くか。
その構想も含め、
制作時間の割当。
これが問題となる。

何を描くか(描く対象)はすでに決まっており、どのように描くかはこれからの問題となる。それも含め、短い時間でどう割り振って行くかを今後、考えていかなくてはならない。絵は短い時間で少しずつ積み上げていくように制作することになる。
わたしがまとまった時間がとれないことは、これまでの記事に度々書いている通りである。

制作過程のお知らせをする程、計画的に整然と進められるとは思えないため、それはやめておく。
完成を見るまで、以後これについて言及する事はないと思われる。
が、特別何か訴えたいことなどが生じた際は、記事にする可能性はある。
完成まで、、、
早くて3ヶ月。長くて1年。
アクリルで描く。
制作過程で生まれたクロッキーやdrawingは、欲しい方がいれば、差し上げるかも知れません。
では、関心のある方のみの記事になってしまったので、少しばかり他の話題を。

たまに写真を撮って感じることだが、被写体の美しさは光の加減によって変わる。ただ明るいとか、集光力とかではなく、その時の光の趣きとでも言いようが無いような。
光は面白い。
光画と云うが正にそうだ。

光の粒子と波の相反する両面から来る効果が様々な所で思いがけない絵を作る。
そしてわたしか特に気にするのは、flamingと構図である。
これによって、驚くほど絵は変わる。
そのままアクリル画にしたこともある。
勿論、わたしが描くのは具象画である。
写真がたまたまよく描けていれば、それで良いと思うこともある。
しかし最初から写真作品を作ろうと思ったことはない。
絵を描くために写真を使ったことはある。
これがなかなかどんな絵になるのかは分からないのだが。
今、それを少しばかり試しているところだ。
今度の絵にも。

結局、絵の話に戻ってしまった。
さてそろそろ描きはじめるか。




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疲労の理由

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さて、今週は月曜日BlueMonday!
から地獄であった。そのためか既に週真ん中で疲れきっている。
おまけに歯医者は2回あり、週末は娘の幼稚園の運動会が控えている。生きた心地がしない。

疲れの無視できない理由の一つに雨・雪対応の大袈裟な長靴の影響は大きかった。靴屋で勧められてつい買った物だ。
残念なのは、歩くのが大変なのだ。
ちなみに靴は履いて歩くためのものだが。
重くて、フィット感がなく、ロボットみたいに歩くことになるので、長距離を歩こうなんて気にはとてもならない。(月曜日は振替乗車券で一駅分バスに乗ったが、以前同じ災難で徒歩で歩いた時の方が短時間で駅に着いた。その時は普通の靴だった。)
靴屋では、サイズのことしか考えなかった。まさか靴屋の内外構わず歩き回って履き心地を確かめる必要があるなんて思わなかったし、そんな発想などもっていなかった。

これは農園芸のようなその場に根を張った類の作業をするのに適したものだ。多分その用途が正しい。
早く引退してそういう仕事をやってみたい。明らかに現在とは異なる大きな時間流に乗る。蚊に刺されないようにさえ気をつけていれば、自分のペースでやる分には快適だと思える。

何より疲れたのは、帰りのショックである。
晴天の霹靂であった。
気色が悪いほどに晴れているのに、何故電車は動かないのか?
未だに復旧しないのか?駅は納得のいかない人でごった返していた!ハード面のトラブルではなく、ダイヤの乱れだけではないか?今更止まることはなかろう!
遅れながらやって来た最後の乗り換え駅でこうである。気持ちの上でも萎えた。
振替乗車券を受け取り、初めて乗るバス停を探す。時間を確認して並ぶ。
空を見上げると透明な満月が幽かな雲の合間から薄氷のような脆弱な表情を見せていた。


バスは少し遅れてやってきて、街中を複雑に縫って走る。その度に車内も右左に揺れ、適度に暗く、本は読めない。意識も散り散りに、当てもなく漂い出してゆき、エントロピーの果の倦怠感に浸かる。

窓の外を過ぎ行く灯りは、見知らぬものであるが、何の好奇心も刺激しない印象の残らぬpatternのものである。
「風景はコード化されていた」(バラード)
何も感じず、何もしない方が疲れる。この疲れは、物事が悉く滞ることから来るストレスから滲み出している。

今日になってもまだ月曜日の日記を書こうというのは、今回の動機である疲労の深さ、むしろ後味の悪さか?を物語る。しかし19号の際には同じようなことを書くつもりは毛頭ない。
19号にあっては、違う時間にジャンプする。

新鮮な場所での非日常をこそ描こう。




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次はマドンナ”Madonna”を描く ~ 最期の陶芸パタン

20141007164005b48.jpg
ひとつだけ新しく小物入れを作った。
曲面の幾何的組み合わせによるもので、魚をわたしとしてはイメージの源泉としている。
しかも二匹である。
対関係は動きを生み、相克する力の緊張を見せる。
そして親和的で静謐な趣も。
陰陽二極の太極図をすぐ連想してしまうが、自然とそういう形は呼び寄せてしまうものだ。
しかしここでは、カチッと二極に固定せず第三項を挿入している。
小物が3箇所に別けて入れられるというだけのものだが。
20141007164004afc.jpg
例の陶芸粘土で作ったものだ。
この粘土、直ぐに乾く。
ひび割れも早く、作りにくい部類に入ると思われる。
別に粘土全般に詳しい訳ではないが、そんな感触を強く受ける。
20141007164003fe0.jpg
この小物入れは、これまで作ったものの取り敢えずのまとめに当たるものだ。
小振りだが、今回幾つか作った形体の構造とエッセンスは基本的に備えている。
つまり、構造としては、2匹の魚のからだが高低差のある斜めの面で構成され、それが互いにまとわりつくように動くうち、力の拮抗する2点を探り出し、それぞれの接合面となって固着し全体の形を作っている。
20141007164002508.jpg

だがこのpatternだともうここまでで、一応の完了となるか。

この次は全く違うアプローチで作りたい。
今回、釉薬の失敗はあったが形自体ももっと丁寧な成形を心掛けるべきだった。少し粗さが目立つ物もあった。特に面の接合面である。それから曲面はよいがエッジが弱い。そこでメリハリがあやふやになる所があった。
今回はその点に気を配った。
だがひとまずはこれで切り上げたい。


平面に移りたい。(戻りたい)
そろそろ絵を描かなければ。
本来やるべきことを進めないと自分の核の部分がどんどんあやふやになっていってしまう。

最近読書をしようと思っても、身が入らない。身体の核がない、そんな感覚なのだ。
ふわついてしまう。
ふわつくにもチリやゴミなどの拠り所が中心として必要なのだが。
核が極めて希薄なのだ。
兎も角、描こう。
それが外にも内にも働きかける。
身体に。
身体の奥深くに。
描こう。


Madonnaを。
誰にも邪魔はさせない。
自立した系を形作る。
垂直に延びる系を。
剥き出しの太古の荒涼とした光景のなかに華美な装飾を纏ったMadonnaを。
永遠に向けて。


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遅延証明

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雨が降ることは、地球人であれば恐らく誰でも知っている。
有史以前から、知っているだろうし、かつてはとてつもない雨量であった。
地球が出来た頃は大雨なんてモンじゃないシャワーが降り注いでいた。
それから見れば今のどんな雨だって小雨にもならない。
近頃の若いもんはと言いたい人はいるだろうが、それが言えるのは古い地層の中にいる魚か貝とか、だろう。

だいたい、科学技術の進歩とか言って、肝心なところは全く手付かずではないか?公共交通機関、エネルギー問題などなど。

何故未だに雨が降ると電車が止まるのが?おかしいではないか?
走ってもバスも電車も間引きはあるし、速度も到着も遅れに遅れ、わたしのような長距離通勤者は時間が見えない。

テクノロジーにはこういうところで力を発揮してもらいたい。
速度とか快適さとは何か?
速度が速くても、止まっていたら亀にも負ける。時間通りに雨の日も運行できることが、正に快適さとなる。
最高速度が何キロとかサスペンションやシートや吊り革の問題ではない。

どうも科学技術の発展と言っても、歪さを感じる。
便利さばかりが追求されて、などと言われてきたが、何処がどれだけ便利なのか?それ程のことではないではないか?
まだまだ便利さが足りない!快適さが足りない!その縛りとなっている安全性も。
まだまだ進歩の余地がある。
だいたい通常運転を前提に全ての計画がたてられてしまっているのだ。

どんな仕事もそれぞれの領域で固有の一定速度で運行されている。
インターネットは特別な攻撃でも受けない限り、情報遅延の障害は受けないが、(その代わり漏洩や消失の恐れは絶えずある)人を含め現物の交通は、運行機関が動かない事には、どうにもならない。現物の交通の必要性はこの先まだまだ続く。直に人と人とが会わなければどうにもならない事は沢山ある。
安全性を上げ止まらずに済む輸送手段を是非開発してもらいたい。

インターネットの流行り出した頃、ネットで「ざる蕎麦」を頼み、それがすぐさまdataで届いたのは良いが、その解凍が出来ずに慌てている4コマお笑いマンガがあった。
人も圧縮して、さっと火星に届く位になれば、随分楽になるが、それまでは、現動力機関の改善を切に望む。

今現在関係機関で勤勉に働いている人たちには全く文句はないが、維持・管理側ではなく、研究機関には少しでも早くなんとかしてもらいたい。

石油などのエネルギー問題にしても、そうである。
まだ石油が必要なら、化石燃料を掘り出すのではなく、科学的に合成すれば良いではないか?特権的な場所からの解放をすべきだ。
それが出来る事をひと頃、雑誌やテレビで放映していたが、最近とんと聞かなくなった、、、。
どうなってんのか?
ふいに消えていく科学学説と言うか、、、結構あるのだが。
けたたましく、話題になったものも最近あったが、、、自殺者まで出して。

遅延証明を貰って書類を書いた。
そもそも台風の時に出勤するシステム自体がおかしいのかも知れない。

多分そうだ。


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天災が続く ~ コミュニケーションの問題

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富士山を始め日本には活火山が幾つもある。
いつ噴火しても不思議ではない状態だ。
マントル層、マグマはこのところ何かと話題に載る。
地震との関連も深い。
意識に入れておく必要がある。
台風も進路はいつも同じとは限らない。
これまで関東は大概、逸れてしまうか勢力が衰退してしまうかしていたが、いつもそうとは限らない。
なにせ自然のやることだ。ヒトのことなど関係ない。
(アラル海の乾上がりは完全な人災だが、自然災害と見えても人為の影響が少なからず範囲している場合はある)

われわれには制御不能の巨大エネルギー。
これが利用出来るテクノロジーが開発されれば、エネルギー状況が大きく変わることは間違いない。
原油産出国(特権者)に対する拘りもなくなり、国際関係も随分スッキリする。

しかしすでに超越者は存在し、身近に現れる。

ロシアに巨大隕石が着弾する直前に、そのマッハ50を超える速度で飛ぶ物体を後方から追撃し粉々に打ち砕く未確認飛行物体を世界中の人間が確認している。おかげでひとりの死者も出なかった。その隕石の質量と速度からくるまともな衝撃力からすると、驚く程小さな被害で済んだ。

これは小さなことではない。

近所に「不思議なことがあるもんですねえ」を口癖にしている老婦人がいるのだが、不思議といえばこの世界があること自体がとてつもない神秘だ。神秘現象だ。

その中で、何があっても起こってもおかしくなどはない。

天災にしても、未確認存在にしても、われわれにとっての超越者であり他者である。
ある意味、当たり前の存在である。
蟻が象に対してどれほどの認識をもち得るか。
実在する他者。
相手に対する認識が非対称であることの方が自然であろう。
(なぜかわれわれは「在る」ということに対する認識がぼやけている)

まずは、他者に対する激烈な覚醒。
それに対しての何らかの交通手段。
われわれの文化と接続出来ないか。

やはりコミュニケーションの問題となる。
破壊的でない、壊滅的に進まない、コミュニケーションが。


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お茶の間陶芸

娘ふたりと、そのお友達、それからお友達のママを対象に、自宅リビングにシートを敷き粘土教室を開く。
準備したものは、陶芸粘土。どべ。布。のし棒。たたら。
石膏のボール用の型。コーヒー缶(飲み終えたもの)。プラスチックトレイ(トレイも作るなら)。片栗粉。
それから、型抜き(クッキー用)。ヘラ。竹串。紙(広告のもの)。ハサミ。セロテープ。
特別に、陶芸用下絵の具と本焼きのときに使える色ガラスなども参考までに。
素焼きと本焼きの説明に少しは役立つ。

さて、娘のお友達の希望で、マグカップから作る。
コーヒー缶に丁度缶を展開した長方形に切った広告の纸を巻きセロテープで固定する。
布の上に粘土を適量置き、たたらで挟み、のし棒でたたらの厚みになるまで粘土を平に広げる。
ちなみにうちのたたらは5mm。
へらで粘土を長方形に切り取り、纸を巻いた缶の上にしっかり巻きつける。
固定したところで、底の面を切り取り側面にしっかり固定する。

プレーンな表面にヘラ、串などで模様や絵を描く。
小学校前の子供だと、幾何学模様より自分の好きな絵を描くことが多い。
3人ともおばけやハロウィン関係の絵であった。かぼちゃが面白かった。
串の代わりに鉛筆で上手に描いた。描く線の深さも丁度よい。
握りやすかったのだと思う。普段使っているし。
さらに型抜きで気に入った形を抜いたものをどべで綺麗に貼り付けるのもよし。

絵柄付けが終われば、とってを付ける番だ。
蛇を作り適当な場所にどべを使いとってらしく貼り付ける。
ここは、丁寧にしっかり貼り付けたい。

全体の形や飲み口が平らであるか、尖っていないかなど確認する。
そんなところでよいと思う。
最後に釉薬もかけるし。
乾燥を待つ。
素焼きのことを説明し、その後の下絵の具による着彩、釉掛け、本焼きの手順も簡単にお話しておく。

さて、次は石膏型を使ったボールである。
石膏型には前もって片栗粉を塗しておく。
先のマグカップの時のような長方形ではなく正方形に近い形に平にする。
そして、充分たたらの厚みにまで引き伸ばしたところで、型の上にぴったりと乗せ手でぱんぱんやりながらくっつける。
この時、空間が粘土と型の間に出来ないようにする。
側面に絵柄や言葉や型抜きで抜いた形をどべで貼り付けても良い。

下つまりボールの一番上の部分をヘラなどで切り取り、余分な粘土を取り去る。
切り取ったあとも平らになっているか、ひっくり返してしっかり確認して滑らかに直す。
ヒビや割れ目などは、どべを流し込むように擦り付ける。
これで綺麗な補修ができる。

さてこれも普段人が立ち寄らないような場所に置いてしっかり乾かそう。
乾きが不十分だと素焼きの際に割る可能性が高い。
また、厚すぎるとそこに閉じ込められた気泡のせいで破裂することがある。
薄く作って充分に乾燥させたい。

素焼きで割れていなければ、まず最後まで行く。
釉薬が思った通りに発色していて下絵の具が綺麗に出ていれば言うことない。

友達はボールの段階で飽きて、暴れまわり、お母さんが続きを丁寧に作って帰って行った。
うちの2人はいろいろわがままを言いつつも、そこそこ楽しい絵柄のマグカップとボールを仕上げた。
これで野菜サラダをたくさん食べてくれるといいのだが。


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01.jpg

わたしは人一倍、蚊に刺されやすい。
複数の人と歩いても、どんな集団の中で行動していても、わたしだけ蚊に刺されるか、真っ先に刺される。
勿論、たなりの集団の場合、ホントにそうかは確かめられない。
わたしより先に刺されたヒトがいたかも知れない。
いちいち蚊に刺された事を確認して回ることはできないし、まして刺された時間など確かめようもない。
しかし、これまでの経験上、わたしの蚊に刺されやすさは尋常ではない。少なくとも、確認出来る範囲では、常にわたしが真っ先に狙われる。

今これを打っているのは駅の構内であるが、先ほどエスカレーターで登ってきて自動販売機でコーヒーを買った瞬間、すぐに刺された。
こんなところに蚊がいるのかというようなところであっても。

娘と歩いていて、わたしだけ刺されることもざらである。うちの娘も虫に刺されやすいことは幼稚園でも、ちょっと有名である。が、わたしはさらにその上を行っている。
これ程自慢にならない事はない。
先日ほんの少し、多肉の様子を見に外に出た途端、庭で三箇所刺された。時間にして2分だ。

人をなんだと思ってるのか?
と蚊に聞きたい。
どう他の人間と違うのか?

元々外骨格の昆虫である。
異星人よりもわたしは馴染めない。
しかし連中からすればわたしは恰好の餌である。
敵は太陽系の外でもなく、地底でもなく、普通に屋外、いや室内、寝室にも忍び込んでいる。
ブーンと言う集合的無意識の底からわたしを不快に神経を逆撫でする音と共に纏わり付く他者。
そう、彼等は完全な他者であり、思う以上の敵である。

最近、デング熱が流行り、消毒を何箇所かで行っていたが、そこへわたしが足を運ぼうものなら、もうただでは済むまい。
最近公園が億劫であり、怖い。


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”Bon voyage.”

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