既視感

心理学による発生のメカニズムの通説により、既視感については詰まらぬ感覚として処理されてしまうことが多い。
ほとんど錯覚の部類である。
しかし、何となくぼんやりした、色褪せた既視感と、雷に打たれたようなそれとは、明らかに異なるものだと思う。
これは大岡昇平の野火にも日野啓三の幾つもの作品にも語られているものだが、その表象がどれほどの時間(重層された時間)から感知されたのかが問題である。
今生の時間幅など些細なものである。
それが種として(集合的な)時間の流れからきているのか、さらにもっと古い層からの記憶からなのか。
植物~無機物のころからの記憶なのか。
当然この射程で考えるべき事だと思う。
われわれはもっと思い出さなければならない。
見るといっても、目で見ることより遥かにレアルな(俗に言う)幻視というものもある。
本人は他者に対しては「幻想ですけど」と理るはずだが、それが通常の光景よりも遥かに色濃く鮮明であり、意味深く衝撃的であることは、往々にしてあるものだ。
それは1生涯残る経験となるかもしれない。
これを単なる既視感ですから、と適当に片付けることはできない。
何故それがそれほどの強度をもった経験となり得たのか、その当人がしっかり思い出すしかない。
少なくとも、その現象の意味とその重さを正しく扱うためには。
われわれは忘れすぎているのだ。
肝心なことを。
時折、記憶の断片が何かのきっかけで蘇る。
これは一種の宗教観とも繋がり、かつてヒトは啓示と呼んだ事かも知れない。
非常に鮮明な場面として蘇り。
その説得力には抗えない。
今この場と重なる。
何故、他でなくこの場でないといけないのか?
ここは何なのか?
その圧倒的な異様さに言葉が竦む。
要するに時間なのだが、そのスパンを心理学では極端に短く設定してしまっている。
しかし、別に物事を心理学で説明する必要などない。
それだけのことだ。
それは心理の問題ではなく精神の問題であることが多い。
無機物から連続(継承)する事がらであってもおかしくはない。

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