可愛い、、、

最近、ダイオウグソクムシのiPhoneカバーを使っているヒトが結構、目に付く。
臆面もなくその形である。
iPhoneをカバーしてますよ、ではなくiPhoneがグソクムシの1部だ。
やはり大きい。
オシャレなファッションというより、何かの悪戯にも見える。
それに乗ってこれ見よがしなヒトもいる。
本人は満足気だ。
なかにはそれを見て、可愛いと一声かけていくヒトもいた。
かけられた本人は満更でもない。
あれ、可愛いのか?可愛いにも色々あろうが。
可愛いのは良いが、がさばるのは困る。
スマートフォンではない。
がさばりフォンである。(まんま)。
でも、そのメリットを殺してもそれを被せたい心境は、やはり目立ちたいからだろう。
確かに目を引く。
さらに膨らみがあり、持ちやすくなる事も事実だ。
多少大きくなっても持ちやすく、落としにくくなった、とも言えば言えよう。
それで可愛いといわれる分には悪い気はしないに違いない。
しかし、あくまでもダイオウグソクムシが可愛い?のである。
おたくではない。
(ほとんどのヒトは気づいているが)
また、そのヒトのセンスが対象となっているわけだ。
それが、かなり異物性を放ち、目に痛いモノにも出くわす。
そんな例も日にいくつか見つかる。
アクセサリーだけが1人で歩いている女性はやはり目に付く。
シューズのアクセントだけが際立ち、目が釘付けになる。などはたびたびある。
奇抜なジャケット柄がモアレを引き起こして目眩がするとか。
ときに様々な色ガラスで装飾した木箱(カバンだろうか)を持ちにくそうに抱えて吊革にいかにも辛そうに掴まる若い男性など、など。
こちらの方が落ち着かないで疲れる。
いづれも、使いやすさより見た目をしかも特異な効果を意識したであろう事はよく分かる。
確かに使いやすさだけでは目は引かない。
見せたいのだ彼らは。
誰もが眠い朝、その意欲はたいしたものだ。
奇抜さも面白い。
その多くはサイズ的に収まりにくかったり、扱いが面倒だったり、強烈な配色構成から視界の暴力だったりもする。
しかし、朝の通勤には、少し目の覚める刺激も欲しいものだ。
そう思うことはある。
ただひとつ、不快感に堕する手前の、奇妙さ、面白さ、奇抜さに対する感覚は、肝心だと思われる。(それは取りも直さず、他者に対する感覚でもある。)
それらは今日、もっとも曖昧で、都合のよい両義性のある言葉に当てられる。
[可愛い]
朝で1日が決まると言っても過言ではない。
お互いの朝は大切にしたい。
ただそれだけの些細な話。
パソコン椅子の記事と同じく、何の捻りもないものになってしまった(謝
またチャネリングのときのように、異彩を放つ記事をまた書きたいものです。

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