歯痛

痛み。
これは、何かで誤魔化せない。
痛み以外の何ものでもなく、それ自体であり、還元不可能の感覚である。
誤魔化して何とかなる程度の痛みは、ただの気持ちの問題として解消されてしまう。
そもそも相手にされない。
根性とか、精神力など、の領域で語られともすれば、説教の対象とされる。
そうではない、必ずオカズを口に入れるとビックっと痛む歯痛などは、治療以外に成す術もない。
これに対して説教を垂れる人はいない。
おかあさんに、しっかり歯を磨かなかったからよ、と原因について叱られるにしても、今現在の痛み自体については、話は別である。
この痛みという直接性。
ぼやっと生きているより、遥かに生であり、生半可な現実感覚より明瞭で明確、鋭く一義的である。
しかも、よく言われる他人の痛みを感じなさい、が如何に馬鹿げた戯言かをこんな時に忌々しく思い知る。
痛みはそれを感じる個体のみの感覚であり、それは絶対に共有不可能である。
想像で大変だろうなということは、自分の過去の経験から推察可能としても、痛みという表象を身体的に感じとることは原理的にできない。
喉元すぎれば熱さ忘れる、の方が絶対的に真理である。
それは言うまでもない。
そういうものだから。
他人の痛みを感じるとは、精神的なことだ。
悩みとか、辛さとか、に対するCompassionを意味するものだ、とか当然くるものだが、、、
このぼやーっとした現実感覚で、ぼやーっとした思考判断で、ぼやーっとした悩みだか辛さとか、、、
そんなもんに共感してられないというのが現実。
歯の痛みはレアルそのものだが、そんな吹けば飛ぶような心理なぞ糞くらえだ!
勿論、そんなものと一緒にされては困るという、何かの被害者の方などの苦痛もあるはずだ(殺人とか)。
しかし、それはなおさらのこと、共感は絶対的に不可能だ。
容易く同情するなという位相になる。
何れにせよ、痛みの共有など出来はしない。
客観的というのは、感覚的にはほとんど意味をなさないばかりか、事件などで状況証拠とかに参考にされでもしたら極めて危険である。
先入観や常識などその人の持っていることばによって事実は無意識に編集される。
そこで車のクラクションなど鳴っていないのに、何度も鳴ったのを証人は聞いてしまう。
自己対象化してない人ほどその傾向は強いと思われる。
自分のもっていることば(パラダム)に無関心でいるため。
歯医者に行く。
極めてレアルな体験である。
これは、どのようなパラダイムに内包されていようとその地平を垂直に打ち破る痛覚を激烈に刺激する。
目は一気に醒めるが、痛みと涙で何も考えられないし見えない。
この状況では知者とはなり得ない。
ただの、痛い人どまりである。
痛みがなくとも、知性の働きのみで覚醒しなければ、意味がない。
さらに、もう歯医者には行きたくない。
しかし、後3回は最低でも行くことになっている。
予約もとった。

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