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歯痛

kaminari.jpg

痛み。
これは、何かで誤魔化せない。
痛み以外の何ものでもなく、それ自体であり、還元不可能の感覚である。
誤魔化して何とかなる程度の痛みは、ただの気持ちの問題として解消されてしまう。
そもそも相手にされない。
根性とか、精神力など、の領域で語られともすれば、説教の対象とされる。

そうではない、必ずオカズを口に入れるとビックっと痛む歯痛などは、治療以外に成す術もない。
これに対して説教を垂れる人はいない。
おかあさんに、しっかり歯を磨かなかったからよ、と原因について叱られるにしても、今現在の痛み自体については、話は別である。

この痛みという直接性。
ぼやっと生きているより、遥かに生であり、生半可な現実感覚より明瞭で明確、鋭く一義的である。
しかも、よく言われる他人の痛みを感じなさい、が如何に馬鹿げた戯言かをこんな時に忌々しく思い知る。
痛みはそれを感じる個体のみの感覚であり、それは絶対に共有不可能である。
想像で大変だろうなということは、自分の過去の経験から推察可能としても、痛みという表象を身体的に感じとることは原理的にできない。
喉元すぎれば熱さ忘れる、の方が絶対的に真理である。
それは言うまでもない。
そういうものだから。

他人の痛みを感じるとは、精神的なことだ。
悩みとか、辛さとか、に対するCompassionを意味するものだ、とか当然くるものだが、、、
このぼやーっとした現実感覚で、ぼやーっとした思考判断で、ぼやーっとした悩みだか辛さとか、、、
そんなもんに共感してられないというのが現実。
歯の痛みはレアルそのものだが、そんな吹けば飛ぶような心理なぞ糞くらえだ!
勿論、そんなものと一緒にされては困るという、何かの被害者の方などの苦痛もあるはずだ(殺人とか)。
しかし、それはなおさらのこと、共感は絶対的に不可能だ。
容易く同情するなという位相になる。

何れにせよ、痛みの共有など出来はしない。
客観的というのは、感覚的にはほとんど意味をなさないばかりか、事件などで状況証拠とかに参考にされでもしたら極めて危険である。
先入観や常識などその人の持っていることばによって事実は無意識に編集される。
そこで車のクラクションなど鳴っていないのに、何度も鳴ったのを証人は聞いてしまう。
自己対象化してない人ほどその傾向は強いと思われる。
自分のもっていることば(パラダム)に無関心でいるため。

歯医者に行く。
極めてレアルな体験である。
これは、どのようなパラダイムに内包されていようとその地平を垂直に打ち破る痛覚を激烈に刺激する。
目は一気に醒めるが、痛みと涙で何も考えられないし見えない。
この状況では知者とはなり得ない。
ただの、痛い人どまりである。

痛みがなくとも、知性の働きのみで覚醒しなければ、意味がない。
さらに、もう歯医者には行きたくない。
しかし、後3回は最低でも行くことになっている。
予約もとった。


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釉薬

2014073122204173d.jpg
釉薬で失敗してしまった。
釉薬そのものというより、その扱いの問題である。

わたしはこれまで、釉薬を塗って不味かったという経験が無かったため、今回はかなりのショックだった。
施釉においては、下絵の具をしっかり塗ってから、透明釉を塗るという方法を主にとっていた為、今回のように不透明な釉で色を出すことに関しては経験が少ない。ただ、選んだ色は特に問題のない色であった為、その色になれば良いと簡単に想いこんでいた。
が、甘かった。

サンプルの色と同じ色が出たのは、4分の1。真っ白のものだけ。
それだけは綺麗な発色であったが、後はかなりの酷さ。

なぜこうなったのか、一つは2色混ざった色があり、釉の混入が考えられ、釉薬の管理上の問題が挙げられる。
それから、焼く時の温度調整から来る相当な経験上のコントロールが不可欠となる現象。どのくらいの時間で最高温度に達するようにするかなど、温度と時間関係の設定により、微妙に色は変わる。
しかし、ごく普通の焼きで、このような醜い発色が起きるとは思わない。
さらにサンプルと、蓋のネーム、その釉薬の入った容器の関係が異なっていたことが充分考えられる。これも管理上の問題というのか、管理とかいうレベルの以前の問題ではないか。

白系を選んだのに全くの黒があった。
青のはずが所々に青が点在するだけ、殆どが黄土色だったり。

これはあり得ない。いくら何でも。
釉薬の色から焼き上がりの色は釉薬を熟知していなければ想像できないものであるから、それ等ネームの対応関係が違っていたら万事休すだ。これは誰でも困惑するはず。
初歩というより前提的な環境ができていなかった、というよりほとんど打ち捨てられていたというべきか。
よく使っているヒトにしか分からない私有特権的環境となっていたのか?恐らくそれであろう。

わたしの経験不足が1番の原因であるが、相当がっかりした。


しかし上で「醜い色」と書いたが、別にその色それじたいが醜い訳ではない。
色は関係で決まる。
ことばと同様に。
単に単独の単語としてみれば、、、。
かなり有機的で複雑怪奇な形態であれば、それを演出するに適した色あいには思える。
今回のわたしの作品が幾何学的な直線・曲線形態であったが為、色がそぐわなかったように見える。
とは言えそれらを置く場所、その色彩的なコントラスト如何で、かなり面白く映えるかも知れない。
あくまでも場所-コンテクストによって決まる。
理屈ではそう言っても良い。

どうだろう。
幾何学的な立体なので、スッキリフラットに塗られていた方が良い。
それを強調するような。
正反対の有機的で茫洋とした色。
不透明色を重ねて塗って焼き直そうか、やはり検討したい。
という気持ちは依然としてある。
感覚を理屈でねじ伏せるのは難しい。

実際手にしたヒトに聞いてみたい。
中には真っ白で当たりのヒトもいるが。
しかし、とっても形体が気に入っていて、色が想定外だったものは、ちょっと諦めきれない。
置く場所で落ち着き馴染めばよいが。
そうでなければ、、、。
なんとかしよう。

なんとかしましょう。


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ご焼香後。

moreau_aphrodite00.jpg

今年は、地域の人や自分の親戚もかなりの人数が亡くなった。

今日はお隣にお焼香に行き、父親の墓参りもした。
今年はお線香をよく灯した。
香を焚くことはわたしは好きだ。
その香りも雰囲気も。
一応、みな厳粛な態度で。
曲がりなりにも死に幽かに触れる場であると言って良いだろう。
(個人差はあるが)
清められたい、という衝動に駆られるとき、わたしは香を炊きたくなる。
(形式や作法は全く知らない)


さて隣のわたしの同級生とは、これまで話をしたと言っても、一言挨拶を交わすくらいだったため、初めて話をした気分だ。
小中学校のとき同じクラスだったにもかかわらず。(これといって話をした記憶はない)
隣に住んでいたにもかかわらず、である。(挨拶のみ)

今日は、まずは故人の話、闘病生活と最期の数日間の話を聞き、わたしの切れ切れの思い出の片辺をぼそぼそ語り、さして特別な話題も無くなって所謂おしゃべりの時間に移って行った。
小学生時代に遡ってからの話に始まり、21世紀までにかなりの時間を費やした。
また、新世紀に入ってからの十数年に関しては、少しお互いに歯切れの悪い、ちょっと不景気な話となった。
彼女が溢れる話題を次々に提供してくれたので、話題に事欠かなかったが、後半は世情に対する苦言も多くなった。
確かにだんだん世知辛くなってきたことは、大きなスパンで話を進めているとお互いに自然に納得できるものだった。
終盤は、お互い子育てが遅くなって大変だ、ということがメインである。
哲学科出の彼女であるが、実に一般的な普通の世間話で終わった。
(いきなり「死」とは何か?での議論でもよかったが、ほぼ初めて話す相手にさすがにそれはなかった。)

さらに同い年の人たちとの交流はあるか、という必ず出るであろう月並みな話題については、双方とも全く切れている、という事で笑うのみであった。
小・中学校時代の同級生は地区にまだ2人いるのだが、一人は最近東京で一人暮らしをしているという。
だから、あとひとりを交えて折角だしそのうち話でもしましょう、ということになった。

地区同窓会結成である。
3人である。

それぞれ忙しく、話をたまにはしましょう、と言われたところで、すぐ近くに住んでいても実際はなかなか話をする機会もないことは承知の上だが、折角彼女がそう持ちかけてくれたのだし、お母さんの介護も無くなり、寂しいにしても時間と体の余裕は出来たはず。

もうひとりの子、もはや子ではないが、わたしにとっては小・中学時代の大変可憐な面影のその彼女とも話はしてみたい。(彼女の一番印象的な面影は、夕暮れどき幼稚園時代に母親に抱かれながらこちらに向けて手を振っている姿なのだが)

3人で話をしに集まる余裕はどうにかあると思われる。
たまたま、外でお隣さんと挨拶した機会にそちらにも声をかけに行って3人で一緒に話でもしよう。
恐らくそんな流れだ。むこうは突然でびっくりするだろう。
全てはお隣の彼女の采配に任せよう。
2人はまだ仲良しで、東京に移った彼女も加え、ときおり3人で一緒に美術館とかよく出かけていったそうだ。
今の私は、美術館は何かひとつ背中を押してもらえなければ行けない。
その専門ブログに位置づけている”Low”がもう3ヶ月休館であることから考えると、そろそろ美術館への繰り出しに良い機会となれば、と思う。
あのブログはわたしにとってとても大切なものだ。

わたしも外へ、徐々に外へ向かわなければならない。
お隣さんの存在がそのよい契機になればよいと思う。
これも何かの縁だ。


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お焼香を離れ 断片補遺

darkmoon.jpg

死については最近いろいろなかたちで接してきた。
と言うか、その影響を被ってきた。

見知らぬ他人の関与。
人身事故の場合、こちらは多大なダメージは喰らうが、その主体や背景に関しての知識・イメージはゼロである。死んだのかどうかさえ分からない。
ただ人災の一種としてこちらにぶっきらぼうに告げ知らされるが、そののっぺらぼうな事件に単に不条理をひたすら感じるのみである。

このような見知らぬ他人の最も極端な影響として。(ピンポイントの)
投身自殺志願者が下を歩いていたヒトを直撃し、無関係なヒトは即死でダイブしたヒトは助かったという話。
自殺志願者が突然運転中のハンドルを切り、対向車線を走ってきた車に正面衝突し、普通に走ってきたドライバーは即死し、自殺志願者は命に別状なかったというケース。等々。
単に運が悪いのか?それで片付けられてよいのか?残された家族はどうするのか?そこの生活は大打撃なんてもんじゃあるまい!


しかし、考えてみれば、死は誰にも突然やってくる。
勿論自死を除いて。(自殺だってすんなり行くとは限らない)
だから、巻き添えを食って死んだ人も本質的には多くの死者と同等である。
その突然さにおいては、特筆すべきケースではあるが。
もしかしたら、本人も死んだことに気づいていない可能性も感じる。

だが、死においては、みんな原理的には同じである。
ひとりで死ぬ。
その孤独さにおいては。
これほどの現実と孤独は他に有り得ない。
どれほど現実感に乏しい夢想家にとっても誰にとっても、死だけは完全な現実として立ちはだかる!
それは暴力的な現実=レアルとして。

ひとりの人間の死によって恐らく多くの情報が消え去る。
その人間にまつわる多くの物語が語られる。
大概、その人間にとってほとんどどうでもよい物語が。
しかし物語という物自体がそういう属性で成り立つ。

死者のものなんてこの世にはない。
死者そのものなどどこにもない。
すべてはその関係者による錯綜した辻褄の合わぬご都合主義の物語に塗れて逝くだけである。

原子にまで分解され、何かを構成する一部となったからといって、もうそれは何の意味もない。
死者は消滅する。

物語も消滅する。
担うものが少なければたちまちのうちに、、、。

世界は忘却によって成り立っている。

そして言うまでもないが、わたしが死ぬと同時に世界も消滅する。
無というとき誰にとってもそれはすでに指し示せない。




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お焼香をあげに

darkmoon.jpgアラマサ氏提供。

お隣とそのお隣がほぼ同時期に揃ってお亡くなりになった。
すぐにお通夜等かけつけるものであるが、あいにく週日であり、帰りも遅くて参列できず、土日にと思ったのだが、それもどうにもならない用が入り、今日は午前は変更できない予定で、午後は疲れて寝てしまったもので、(そう、ここのところの疲労は尋常ではなかった。人身事故とかの影響大である。)明日は確実に行くことにしている。
お焼香に。

お隣は、うちの母より若いがほぼ同年輩の女性の方。つまりわれわれのお母さんに当たる方。
そのお隣は、やはりお隣と同年輩の、丁度おとうさんに当たる方。

親戚の場合は、一日忌引きをもらい、その日の朝から電車で出かけてゆくのでこういうためらいは生じない。
ご近所の場合はまず、うちの母親がすべてしてくれているので、少し後にお隣にお線香をあげに行けば良い手筈なのだが、これがすぐに行けそうで、なかなかゆけない。
土日のどちらかでタイミングを見て行けるはずなのだが、、、。

恐らく子供の頃など色々とお世話になっていることは確かだ。
罰当たりとか何とかというより、そのご家族に申し訳が立たない。
長く伸ばすと、ご近所付き合いにもよくない。


明日は最優先で午前中に速やかに行くつもりだ。

考えてみれば、お隣もそのお隣もお宅に上がったことが、これまでに一度もない。
故人と話したこともほとんどない。(忘れているかも知れぬが)
近所とは言え、近くて遠い未知の場所だ。

親戚の葬儀でも集まったヒトの何%知っているかといえば、極親しいところ以外はどこの誰だかさっぱり分からない。
そんなものだ。だからいつもそこで、名刺交換して自己紹介して親戚との親交を図る場ともなっている。
お話を伺えるようなら伺いたい。
何らかのエピソードを。
ほとんど存じ上げない方たちであるが、些細な物語でも最期の日々のことでも。

勿論それでも何も知らないに等しいが、僅かでも亡くなった相手についての物語の片辺を垣間見たい。
実感のまるでないテレビなどで見る死ではない死に、ほんの僅かでも触れたい。
死に際しての生の場所をそこで分かち合いたい。
隣のおかあさんは、わたしの小学・中学時代のクラスメートの女の子のおかあさんでもある。
彼女とは、小学校の時、一緒にダンスをしたことを今でも覚えている。
彼女の口からお話を聴きたい。
レアルな記憶と実感をもちたい。
何処かの時間の共有によって。



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不眠

sands of time
眠れない日々が続く。
この為に、かなりの休暇を以前とったことがあるのだが、普通に生きてる限り、改善はみられない。
謂わば、不治の病である。

どうしてこれほどまでに眠れないのか、と思う。

夜中にムックリ起き出し、キッチン周りの片付けをする。出しっ放しのものをしまう。ゴミを集めて捨てる。鍵を確認する。付けっ放しの電灯を消す。
本や小物の整理を意味もなく始める。

パソコンを見出すと、1〜2時間は知らぬうちに消えてしまう。深夜、特に面白いものを見出すことはない。
最後にメールのおもに返信すべきものだけチェックする。

限りのない作業。
そういうものは、大概する必要もないものがほとんどだ。
しかし、そうとも言えない。
鍵が掛かっていなかった扉を発見したこともある。
ちょっとした掃除が、無くなったと思っていた小物を発見したこともある。
少しばかり気持ちの整理がつくこともある。
何故か、大きな問題よりも瑣末な事柄がヒトを悩ますことがことの他多い。
こんな時、ほんのちょっとしかし確かにスッキリする。

些細なことの効用。
と言うより、些細で当たり前な事の連動で世界は生成し、反復継続している。
それで円滑に流れていく。


後は何処でその円環を破るかだ。
しかし、今のままの不眠状態では、一向に埒があかない。
不眠は辛い。常に睡魔に襲われる。
覚醒の正反対。
夢の対局にいる。
疲労が余計に身体を興奮させる。
この負のエネルギーは何処に蓄積されて行くのか?
質量をもたない鈍重な麻痺。
硬直。
鏡。

不眠。が、続く。



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人身事故

20140925173346556.jpg

ここのところ通勤電車がしょっ中、人身事故で止まる。
行きはさほどではないが、帰りによく遭遇する。
短い距離なら、一駅くらいなら歩くつもりなのだが。
しかしその一駅がやたらと長い。
電車なら距離がそこそこに思えても、実際歩くとなると、尋常ではない。さらに通行止めやら迂回など、徒歩の場合、線路沿いはなかなか真っ直ぐ進めない。
距離そのものが、結局想像以上に延びる。

歩くのは、疲れて帰って来るその日の最後の最後となる為か、かなり効いて来る。
翌日に残る疲労となる。

止まった駅構内でアナウンスされる振替輸送というものが分からない。振替輸送ですんなり帰れるのなら問題無いが、そんなものでどうにかなるものでない場合、さぞ有効な代替案があるようにアナウンスされても、ただ虚しい。わたしの場合、まあ、歩くしか無いもんで!歩けなければ、動くまで待つのみ!

歩くと判断した場合、大変な距離を暗い中ひたすら歩く。
帰ってから何か出来る状況ではない。
ブログを書く気力にも響く(笑

朝の出勤時であれば、これはもうやきもきして大変な状況である。
過去2度ほど完全に遅刻してしまった経験があるが、朝大概余裕を持って出かけているので、ほとんどはスレスレセーフとなっている。また、午後に起きた時よりも止まる時間も少ない。(もちろん事故にもよるのだろうが)


さて、人身事故にも色々あるようで、単に人身事故とアナウンスされても、どんな事故なのか具体的には分からない。時には内容を知り、それを人身事故と呼ぶのか?と言うものもあった。

別に具体的に内容を知りたいという野次馬的な好奇心があるわけでは無いが、こちらにも毎回、物理的にも肉体的にも時間的にもかなりのダメージがかかるのだし、わけの分からぬ、「人身事故」とかいうことでサラッといかれても納得がすんなり出来ない気持ちが残る。
そもそも人身事故ってなんなのか?
大概駅で起こるようだが、駅で電車と人がどうなるのか?
接触か?落っこちるのか?轢かれたのか?
しかし、何で?

急いでいたのか?
スマホをしていたのか?
死にたくなったのか?
なんだか分からぬ事故としか片付けようのないものなのか?
線路内での仕事中?これはシステムの上の問題?
もしかしたら自然災害?
人災?殺意をもった?
単なるオフザケ?

兎も角、われわれにあっては、いつ何処で何に巻き込まれるかは分からないよ、と言う警告ともとれる。

そんな風に受け取り、電車が止まった時の行動パターンを幾つかしっかり考えておく必要があろう。
自分の行動範囲において、一種のハザードマップを用意しておく必要はあろう。

巨大地震の起きる確率は年々上がっている。
こうした日々の災難を何らかの兆候と捉え、それが何かの始まりかもしれないと言う受け取り方もあるかと思う。
あくまでも受け取り方の問題ではあるが。
兆候ととれるのなら、それを無駄にしないことだ。(たんなるくたびれもうけに終わるのではなく)



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市民ケーン

20140920195007358.jpgアラマサ氏提供
Citizen Kane
1941年
アメリカ
オーソン・ウェルズ監督・脚本・製作

オーソン・ウェルズ、、、チャールズ・フォスター・ケーン(新聞王)
ジョゼフ・コットン、、、ジェデッドアイア・リーランド(ケーンの親友
ドロシー・カミンゴア、、、スーザン・アレクサンダー(ケーンの2番目の妻)
エヴェレット・スローン、、、バーンステイン(ケーンの親友)
レイ・コリンズ、、、ジェームズ・W・ゲティス(ケーンの政敵)
ジョージ・クールリス、、、ウォルター・サッチャー(ケーンの後見人)


今回も古典の名作映画について一言だけ。
まず監督、主演のオーソンウェルズ。
彼の逸話はとても多い。
知らない人でも、何か知ってしまっている。そんなヒトだ。
少なくともあの我の強そうな味のある顔は1度見たら忘れられない。
かなりの巨漢でもある。
演技も凄い。
あの貫禄からも目立たぬはずはない。

今でも日本では、「SF」が新聞の一面を飾るようなことはない(一部名物新聞を除けば)。
1938年アメリカにおいて、H・G・ウェルズが1898年に火星人の侵略を書いた『宇宙戦争』が現実に起き、パニックとなった。

当時23歳のオーソン・ウェルズの『マーキュリー劇場ラジオ・ドラマ』による事件だった。
まさにヒンデンブルク号炎上の惨事を思い起こさせるような臨時ニュースから始まり、ウェルズ自身演じる目撃者による回想を元にしたドキュメンタリー形式のドラマ進行。
前例のない構成と演出さらに迫真の演技による放送の結果、聴取者はこれを本物のニュースと信じて避難を始め、全米が大騒動に巻き込まれることとなる。
一夜にしてオーソンウェルズは一躍時の人となった。
その後、この番組には、シャンベルスープがスポンサーにつく。

ユーモアとウェットに富み、マジックが大好き。脚本に才能を発揮。
監督としても、カメラの超ローアングル(小津安二郎よりはるかにロー)どの距離にあってもフォーカスが合うディープフォーカス、広角レンズへのこだわり、鏡の効果的使用などなど映像美の追求は徹底している。また、優れたシェークスピアの演出家としても著名である。

しかし、権威の怒りに触れるような題材が多く、作品は興行的に失敗が続いた。
資金繰りに何時も苦労する映画人であった。
この市民ケーンのような出来栄えの映画ですら、批評家からは極めて高い評価を得ながら、興行的には失敗であったという。

傍若無人でやりたい事は大方やっていたわけで、かなり人生は楽しんでいたようだが、才能がどれだけ正面から評価されたかは分からない。
金集めの為もあり、存在感で売る怪優として三流映画にも幾つも出演している。
子供の頃、いじめにあって、トイレに逃げ込みそこで赤いペンキを体に塗りたくり、重症を負った姿でクラスに戻ってから、以後いじめに会うことは一切なかったと言われる。
若葉より芳し、とはよく言ったものだ。
そこで発揮された才能はずっとフィルムやラジオ放送に定着されていくこととなった。(やはりいじめも才能で回避できるのだ)

市民ケーンにおいても、実在する新聞王を題材にした為、上映に漕ぎ着けるまでが大変であったようだ。
そこに描かれた悲劇の巨人は、有る意味シェークスピア悲劇を思わせるものである。それを斬新な映像手法を用いて描ききった映画と言えよう。
とことん映像美にこだわり抜いたことは分かる。

やはり、この映像への拘りを観るにつけ、彼は監督業に1番執着があったと思える。





オズの魔法使い

Judy Garland

The Wizard of Oz
1939年アメリカ

ヴィクター・フレミング監督

ジュディ・ガーランド、、、ドロシー
レイ・ボルジャー、、、案山子・ハンク
ジャック・ヘイリー、、、ブリキ男・ヒッコリー
バート・ラー、、、ライオン・ジーク
ビリー・バーク、、、グリンダ(北の良い魔女)
マーガレット・ハミルトン、、、ミス・ガルチ(西の悪い魔女)


ジュディガーランドについては、基本的に薬物中毒で公私において大変苦しんだ才能豊かな大女優ということと、かのライザミネリの母というくらいの知識しかない。
確かガーランドと同時期の子役のスーパースターにシャーリーテンプルがいる。彼女は女優引退後は外交官として活躍した。
オズの魔法使いも当初、ドロシー役はシャーリーテンプルが予定されていたようだが20世紀フォックスに断られ、MGMの新人であるガーランドが起用されたという話は有名である。

この映画の魅力はかなりの比重でジュディガーランドが担っている。
演技のセンスにしろ、歌唱力、(エヴァンゲリオンファンなら誰もが聴いているオーバーザレインボーも彼女の歌である。)さらに可憐さ、凛々しさなどにおいて圧倒的な存在感を放っている。
この映画の主演で、この先の大ブレイクは目に見えている。
しかし、立て続けの映画主演をこなす為、周囲から(どういう形なのか?)睡眠薬や覚醒剤を勧められハードな生活を薬にどっぷり浸かって見た目元気に送っていたのだから、当然悲惨なかたちで早晩破綻はやってくる。
13歳くらいの子供が映画界入りして(それ以前は歌手として活躍を始めていた)、16歳でのオズの魔法使いのドロシーのころには、もう薬浸けが始まっていたかも知れないことを思うと、何とも言えない。
当時はまだこれらの薬の害についての認識も現在より薄かったこともあろうが、同時代の子役のシャーリーテンプルは、品行方正な超優等生で結局85歳で死ぬまで通してしまった。(女優を超えたアメリカ人のイコンのような存在として、、、どこかその姿はオードリーヘップバーンにも通じるものがあるが。)
何故こんなに差ができてしまったのか?
彼女自身の個性、性向にもよるところがあるのか?しかし、子供の個性はやはり環境に大きく影響・作用される。

才能有り余る彼女の薬物依存は、ハリウッド全体の問題なのか、MGM特有の問題か、又はガーランドの性悪な取り巻きたちの仕業なのかは、わたしには知る由もない。
ただ彼女が役者としても歌手としてもアカデミー賞を受賞しつつ、発作的な自殺未遂を繰り返し衰弱しながら47歳で死んだとき、ライザミネリが母はハリウッドに殺されたといい「母はハリウッドが大嫌いだった」と述べ、ハリウッドを拒絶しニューヨークで葬儀をあげたことは、本当に感慨深い。
悲運な女優であったことは確かだ。
単にハリウッドに食い物にされたという感も否めない(特に娘にとっては。)
シャーリーテンプルの代役的な抜擢で大スターになったとは言え、全く境遇は違う。
何故これほど違いがでたのか?
どちらかといえば、ジャニスジョプリンに重なるところが大きい。(風貌や雰囲気はかなり異なるが。)
資質はこちらに近かったのかも知れない。
天才肌の破滅型などと言えば紋切り型で情けなくなるが。

さて、オズの魔法使いであるが、子供に見せられる、また見せたい有難い映画である。
もう60年も昔の映画であるが、その後の映画やTVドラマがどれだけここから生まれてきたか、挙げたらきりがないだろう。
愛する友のために戦う過程で、自分にないと思っていたものが最初から自分に備わっていることを知るドラマの典型である。
映画として、全く破綻なく見事に作り込まれている。
カメラワーク、照明、ストーリー、配役、美術セット、音楽
特撮も全く今の映画と比べても遜色ない。
夢や超自然の表現が極めて自然であった。
音楽の出来は、むしろ上である。言うまでもなく、オーバーザレインボーは永遠の名曲だ。

わたしも間違いなく、子供時代に一回は見ているはずなのだが、、、既視感は十分にあった。
ストーリーの概略は知っていた。
まさにこのストーリーというより、このストーリーを綿々と受け継いできた多くのストーリー群を通して知っていたのだ。
しっかりとした骨格をもった、ファンタジーの古典であり、われわれの日常時空の背景輻射ともなっている。

そう、風と共に去りぬのヴィクターフレミング監督であった。





見ること 見えること

20140920195008fdb.jpgアラマサ氏提供


ヘミングウェイの豹の話は有名だ。
キリマンジャロの頂上近くまで登った豹の屍の話だ。
バナナフィッシュでも吉田秋生がアッシュにその逸話を語らせている。
(ちなみにサリンジャーはヘミングウェイを嫌っていたが、敢えてそれをもって来たか、、、)

確かにアッシュが語れば、それらしく聞こえてくる。アッシュなら語る資格がある。
キリマンジャロの西側てっぺん当たりまで、豹は何を思って登って行ったのか?生存の為では断じてないその行動は、彼の実存について考えさせられる。そしてわれわれを途方に暮れさせる。干からび凍ったその屍はヘミングウェイに、何を語ったのか?威厳をもって全ての問いを、はねつけたのか?


何故、豹がそんな処まで、登って来たのか聞けるのならその豹に聞いてみたい。しかし、人の場合と同様に聞いて事の真相が掴めるなんてことはない。(豹ならどうかは知らないが)

恐らく豹自身にもはっきり分からないものだったかもしれない。何かに惹かれて止むに止まれぬ思いで半ば狂気のうちに登って、登りきった処で力尽きたのだろうか。
実際、のっぴきならない事態であったことは、想像に難くない。

死体は今や何処にでも転がっている。ヒトの営為の中で、死体は定期的にコロコロと生産される。
遺棄された死体を朝の散歩に見つければビックリもするだろう。

しかし、この豹の話ほど戸惑い、考えさせられ、想い巡らしてしまう死体はそうはあるまい。

この高貴さすら感じさせる、孤高の行為、目的の全く分からない行為に対して、わたしは厳粛さにとらわれ身のすくむ思いでいる。

そう、何処かアッシュの生き様ではないか?いや、死に様だ。


われわれが漫然と見ているものの中にもこんな映像があったかもしれない。昼間の光景に。
2度見る事を単にしていなかったかもしれない。
真に他者の姿として看過できず。
観ていなかったかもしれない。
ずっと何年にも渡り、見ているつもりで観ていなかったかもしれない。

何も幻想や夢に何かを託す必要などない。そんなことはわざわざすべきことではない。「押し並べて、夜は気まぐれ」(Few)なものだ。

昼間の光景を昼間にもっとしっかり観るべきなのだ。

さんさんに降り注ぐ太陽光の下で。
本当に観るべきなのだ。
何時もの光景を。



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既視感

20140920195009064.jpg写真提供:アラマサ氏

心理学による発生のメカニズムの通説により、既視感については詰まらぬ感覚として処理されてしまうことが多い。
ほとんど錯覚の部類である。
しかし、何となくぼんやりした、色褪せた既視感と、雷に打たれたようなそれとは、明らかに異なるものだと思う。

これは大岡昇平の野火にも日野啓三の幾つもの作品にも語られているものだが、その表象がどれほどの時間(重層された時間)から感知されたのかが問題である。

今生の時間幅など些細なものである。
それが種として(集合的な)時間の流れからきているのか、さらにもっと古い層からの記憶からなのか。
植物~無機物のころからの記憶なのか。

当然この射程で考えるべき事だと思う。

われわれはもっと思い出さなければならない。

見るといっても、目で見ることより遥かにレアルな(俗に言う)幻視というものもある。
本人は他者に対しては「幻想ですけど」と理るはずだが、それが通常の光景よりも遥かに色濃く鮮明であり、意味深く衝撃的であることは、往々にしてあるものだ。
それは1生涯残る経験となるかもしれない。

これを単なる既視感ですから、と適当に片付けることはできない。

何故それがそれほどの強度をもった経験となり得たのか、その当人がしっかり思い出すしかない。
少なくとも、その現象の意味とその重さを正しく扱うためには。

われわれは忘れすぎているのだ。
肝心なことを。

時折、記憶の断片が何かのきっかけで蘇る。
これは一種の宗教観とも繋がり、かつてヒトは啓示と呼んだ事かも知れない。
非常に鮮明な場面として蘇り。
その説得力には抗えない。

今この場と重なる。
何故、他でなくこの場でないといけないのか?
ここは何なのか?
その圧倒的な異様さに言葉が竦む。


要するに時間なのだが、そのスパンを心理学では極端に短く設定してしまっている。
しかし、別に物事を心理学で説明する必要などない。
それだけのことだ。

それは心理の問題ではなく精神の問題であることが多い。
無機物から連続(継承)する事がらであってもおかしくはない。



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他者

20140918224709ce0.jpg

他者とは

すべてのものは燃焼する
それは垂直性を得るための
知を求めて
求心する痛みの
乾き

すべては他者と出会うための
梯子を登る
マリア
瘡蓋を無数に落としつつの
昇天




全ては炎に包まれる
炉を内包するものたち
細部から乾くものたち
自らを燃やすことのうちに燃える理由を探るものたち
上昇をやめないものたち

最後には他者が立ち現れる
その物語だけを信じて

誰かが火を焚く


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身体時計

sands of time

あえて、生理時計とは言わない。
わたしは、ほとんど起きることには困らない。
寝ることについては、苦手だ。
不眠症に近いとも言ってよい状況かも知れない。
しかし起きることに関しては、何時に寝付こうが、7時に起こしてね、と自分に言えば7時に起きる。

これは生理的には狂っている。
しっかり睡眠が取れていないし、生理自体が不調である。
しかしわたしの身体は7時と言えば7時にちゃんとわたしを起こしてくれるのだ。
この願いを聞いてくれなかったことはない。
ありがたいと言えば、確かにありがたい。
これでしくじったことはない。

とは言え、行くべきところに遅刻した経験はある。
それは寝坊が原因ではなく、電車の乗り間違いが原因の全てである。
わたしの場合は100%それである。
(この地理・地名・方向音痴についてもそのうち向き合わないと危ないことだとは感じている)
しかしここは、その話ではない。
身体とのやり取りのことである。

意識ではどうにもならないことを身体はどうにかしてくれる。
これがわたしがひしひしと感じていることなのだ。
身体とは無意識機械だ。(機械状無意識と言ってよいだろうか?)
身体はわたしの中では寧ろ自然の側にある。
意識がボーっとしているときなど、頭―脳は妙にスッキリしてくる。
しかし明晰な理性が働くとかいう状態ではない。
どちらかというと省エネSleep状態に近い。

このような時に多分、もっともわたしと身体が密接になっていると感じる。
脳は休んで、意識のノイズが消えると、身体が後はうまくやってくれる。
特に内蔵の働きなどにおいて。
日常生活のほとんど全てについても、身体の自動制御で動いていることは、少し反省すればすぐ分かることだが。

意識レヴェルから波及する疲労で体調を崩すにつけ、身体レヴェルとの濃い関係を維持することの重要性をこの頃感じる。
ヒトが走ったり、山に登ったりするのも、このための一種の行でもあると思われる。
いや、もともとスポーツはその起源においてはそのような意味合い―機能をもっていたという。
どこかで読んだ覚えがある。
スポルトの起源。身体と言語との関係を調整するものとしての。

多分そのため、健康によいのだと思われる。
われわれは健康であるに越したことはない。
但し、健康という病気にはなりたくない。


さて、明日は何時に起きるか、決めてから寝よう。


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遠近法

2014091822470871d.jpg

遠近法は歪む。
身の丈よりも大きく。
世界は思っていたよりフラットだった。


疲労の色にフィルタリングされた明るくも暗くもない空に
投影されるものは何も残っていなかった。

雨にふやけたあやふやな身体にかけられることばもなく。
ただ並んでいるものをどければ、どこにでも座ることはできた。
うたたねでは夢は見れないが。

定まらない角度と距離。
消失点は疼く。

待つことが続く。
曖昧さを増してゆく空間。


何もかもが遅れ出す。
遅延が次々に観念を生む。
失速した観念に囚われ。

果は、待つこと自体が目的となる。
何も思い出せないのだ。
何のイメージも浮かばない。

時間が厚みを失ったのだ。
(あのざわめきはどこへいった)


ただ、塗り重ねられたフラットな建造物がやたらとこの時間、艶やかだ。



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仕事~単純な話

20140912185518051.jpg

まだまだわたしは、くだらないことをやり続けていくことでしょう。
それが、ほとんど生活と同義にもなっています。

仕事ですから、自分のやりたくない苦手なこともやらざるを得ない。
そんなことは沢山あります。
しかし、よりによってこんなことを、というのもやらされることがあります。
まさにやらされる、です。
まさか自らこんなことを選んでやるようなことはない。

しかし、周りとの関係でやるしかない。
単にそれに時間を奪われるとか余計な準備時間を取られる、だけでなく、何とも言えない落ち着かない漠然とした不安と苛立ちに襲われる。
その精神状態が暫くの間、支配的に続く。
これが困った。
他のことをやるときの生産性にかなり影響するのだ。例えばブログ書き(笑


そう、ずっと以前に自転車を駅駐輪場に預け、職場に通っていた当時、いつも気持ちをイラつかせるフォークソングが駐輪場全体に鳴り響いていたことを思い出す。一瞬でも早くそこから逃れたいと思って、走って外に飛び出していた。
毎日毎日だ。それが一日の始まりと言えた。今想うと。
どこの時空にあっても、そういう事態というものはある。
継続時間と規模と強度に差はあれど。
必ずある。

ただ、逃れたい。
それに慣れたところで、何の得もない。
勉強になります、なんてとても言えない。
しかし、仕事ならやらないわけにも行かない。
さっさと終わらせてしまおう。
といってもやる日が決められており、それが他者との関係に大きく依存している。

楽しんでできるほど、柔軟性も達観もしていないが。
気持ちの持ちようでどうにもなるというのは、その通りかもしれない。
しかし。
そんな気持ちになる気にならない、というのが大体のところではないか?
そんなもんだと思う。


肯定感というのはやはり自分の価値意識による。
自分が価値を認めないもので楽しむということは所詮無理である。
世界に価値が認められなければ死ぬしかない。
単純な話だ。

幸か不幸か、わたしには他に面白いことが沢山あるので、死ねない。
しかし詰らないことも山ほどある。
それも事実だ。
単純な話だ。



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マンマ・ミーア~KARAを聴いて

KARA.jpg

こんな記事はこれまで書いたことはない。
アルバムやアーティストについてはあるが、一曲だけでわたしに記事が書けるとは到底思えない。

しかし、この曲のMVをiTunes Storeから購入しVideoで見ているのだが、あの滅法格好良いSpeedUpをも凌ぐ何かを強く感じる。そこを(その周辺を)ちょっとだけ語りたい。
この曲には、またこの曲を唱っているKARAには、あるところにたどり着いた、という雰囲気がある。

畳み込まれた時間が放つ郷愁とでも言うか。
遠い昔に滅んだ文明から続くCodeが琴線に触れた感触だ。
SpeedUpは徹底してスタイリィッシュを極めたMVであった。
ともかくハラさんがあまりに決まっていた。
全く隙のない凄い出来で、K-Popの中でも傑出していた。
しかし今度の”マンマ・ミーア”は、何の変哲もないユーロポップのCode進行の曲のようでいて、何とも言えない郷愁を覚えてならない。

KARAはドタバタ続きのようでいて、KARA自体(としか言い様のない何か)は相当な結晶化が進んだと思う。
(2人が抜け、新メンバーがひとり加わったばかりだが)
新しいヒトはピッタリマッチしてると思う。
カン・ジオンさんが出来れば戻ってくれればと思っていたが、これでいいと思い直した。
この音の方向性はとても素敵だ。
このサウンドがこのメンバーならではのサウンドであるなら。
これがKARAのベストかも。
(カン・ジオンさんのソロを聴く限り、明らかに方向性が違う)

他に、K-Popグループでこの傾向の音を出しているのは、Raniaかな?
彼女らの選んだプロジューサーがマイケル・ジャクソンのプロデューサーだったテディー・ライリーだ。
RaniaはKaraの他にわたしの大好きなK-Popアーティストでもある。
T-AraやAfter Schoolも個性的でとても気になる存在だけども。

Raniaや新生Karaには、えも云えぬ郷愁を感じる。
永い時間レヴェルの郷愁を。

この先、彼女らには期待したい。

しかしKARAは、ハラさんと新メンバー以外の2人はかなりの年齢になる。
グループで激しく踊って歌うという形に耐えるのか?ひとりの表現者として独立したほうが良いのではないだろうか。
(余計なお世話だが)
KARAとしては、なるべく早い時期に、ハラさんと新メンバーだけ残し、2人新人を入れて再起動したほうがよいかも。
中のメンバーが新しく若くなったとしてもKARAの結晶化はこのまま進むように思われる。
このKARAはハラさんの個性がいよいよ熟成してきた結果かも、という気がする。
勿論、コンポーザーとプロジューサーが曲を制作している、とは言え表現者は彼女らであり、彼女らに合わない曲ーイメージは提供できないはず。彼女らも一方的に作られるほど大人しい存在ではないのは明白だ。

同様にRaniaにも”STYLE”のような方向性を強く打ち出して欲しい。
ただ心配なのは、STYLE MVでも一際目立っていたRikoさんが休養中とか。
彼女は学生時代、日本留学をしていた頭脳明晰な方で、当時日本語による文章力なども高く評価されていた。
確か、NHKの韓国語講座でTVにも出ていたはず。

話はだいぶ逸れたが、今うちではこれが頻繁にかかっている。



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ウェアラブル端末Apple Watchだそうで、、、

アップルウォッチが来年初めにお目見えするということだ。
apple watch


iPhone6と6plusも出たところだが。
今度のiPhoneはわたしが少し前に触ったNEXUS7に似た感触のものだと思われる。
あのサクサク感があるといいなと思う。
CPUもA8にパワーアップされ、バッテリーの持ちはよくなったとのこと。(持ちは悪かったからね)
あの薄さと広さがあるようだ。
いいと思う。
アプリケーションも使いやすくなったかな?(よいとは言えないものが多かった)
ともかくこれまでより、使いやすくなったのなら。
すぐ変えよう。
ハイ。

サイズが変わったため、これまでのカヴァーは全て使えない。
これもよいと思う。
どんどん回転しないと。
われわれも気分一新が図れるし。

さて、それはよいとして。
これまで新しい製品をひとつも出さずに来たAppleであったがやっと、3年ぶりか?新製品を世に送り出すという。
それが、大して新鮮味のない時計型端末だそうだ。

Apple Watchだそうで、、、。

噂によれば、健康管理に役立つアプリケーションなどが入っているとのこと。
これはiTunes Storeの入ったiPodやiPhoneとは少々わけが違うとは思うが、まさかこれだけが売とは思えないので、詳しい情報を待ちたいとは思う。
ともかく何か斬新な機能があるというより、iTunes Storeのようなサービスを売るための端末という性格を持つことにはなると思う。
自分の健康状態を毎日測定し、医療機関とのネットワークで統合的に管理して、dataの閲覧やアドヴァイス、検査のすすめなどがすぐに確認できるとか、、、。問題があれば速やかに診察・検査予約が取れるなどなど、、、。
そんなツールを想像してしまう。宿敵IBMと提携したのもそのへんの大規模ネットワーク絡みだと思うし。
クック氏はサービス業務に革新をもたらそうと思っている節が見える。
もうハードでヒトがブッ飛ぶようなものは作れないと諦めているようだ。
案外正しいと思う。

自分はジョブスではない。
でも革新はしないと、AppleのCEOとはいえない。
そこで、今の方向性がもっともよいということになった。
多分。
ジョブスも音楽・映画の配信サービスに革新をもたらし、単にハードだけではなかったが。
(ただこの配信サービス自体は彼の発明ではない)

ともかくApple TVのようにならないように、がんばってください。
それから、健康管理も良いけど、アメリカ人は健康オタクが多いからそこそこ受けるとは思うが、それだけでは到底iTunes Storeのような市場は確保できないことは言うまでもない。
サービス端末として、もっと多岐にわたる様々なサービスを用意する必要はあろう。
少なくともMapの表示機能というより単純なルート表示を持たせて欲しい。(わたしの切なる願い)
メールとかその手のものはiPhoneに任せ、なるべくサービスのダブらないものにして欲しい。
却って煩わしく憂っとおしい。
スパムメールが両方にひっきりなしに来出したら発狂してしまう。
電話はWachでもよいかも。マッハGoGoの「流星号応答せよ」をいっぺんやりたい(アホ
恐らく、Siriが使えるんだろうから、何か答えそうだな、、、。やってみたい。
後考えられるものは、おおかたiPhoneの機能とダブってきてしまう。(リマインダー、天気、株価とか)
OSは同じなのか?

エクササイズ支援レヴェルなら害はないが、IBMとも組んだものだしどうなるか。
人々が健康を気にしすぎて、「健康という病」でオカシクなってしまっては困る。
しきりに時計を見ながら自分の体のことばかりに気をとられていると、本当に深刻な病に犯されてしまうだろう。
そこのところ、どの程度のレヴェルと規模にするのか?

また、個人差に対するカスタマイズの徹底である。折角の腕時計なのだし。
そのためには、前提としてどれだけのサービスが用意できているか。(iTunes Storeは確かに凄かった)

果たして、どのようなサービス提供端末になることやら、、、。

一抹の不安がある。
ヒトの身体にぴったり絡むものなら文字通りソフトマシーンとなる。
アプリケーションの出来、操作性の高さ(誤操作性の低さ)、デザインすべてがこれまで以上にしなやかで繊細なものでなければならない。
大丈夫か?
ちなみに、わたしは今のスマフォなどに、全く満足できていない。
全く親しみもない。
本当にまだまだの出来だ!

だめよ。ダメ、ダメ、である。


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ソフトマシーンズ 

20140912185515d10.jpg
ウインクするソフトマシーン。

最近の好物は、パンケーキ。
自由が丘のも食べたい。
好きなアクセサリーは、ほっぺちゃん。
えっ今だに?
まだまだほっぺちゃんで引っ張れる。
カタログ見るだけでも楽しいんだ。
今度、買ってもらうの、たくさんね。

ニンテンドーのDSでコルグのM01 DETUNEで遊ぶのにはまる。
その音は、わたしが懐かしい音なのに。
まだ作曲まではしていないけど。
音で遊ぶのはやめられない。
自分の声でもシーケンサーで遊べるよ。
夜は程々にして。
向こうでは、乃木坂46を聴いている。
「いくちゃんが帰ってきたよ」
ふたりも「いくちゃん」みたいにお勉強しっかりしてね。

べつに一番になる必要はない。
すべて特別賞でよい。
そっちの方が面白いから。
きっとね。

「おべんきょう好きだよ」
「字もじょうずになったし、けいさんもできるよ」
ピアノでシール何枚もらった?
「3まい」
「2まい」
いいでしょう。ほめられたのなら。
「ほめられないのもあった」
そうでしょう。もっとがんばってね。
「せんせいにおり紙プレゼントした」
鶴?
「そうだよ、あとカニも」
よろこんでた?
「ありがとうって」

20140912185517394.jpg
これは、土星のエヴァンゲリオンか?!

そう、すべては他者。
これが肝心。
そこがくっきりしているほど、世界は豊かになる。
これは間違いない。
無関心が基本マナー。
自己投影は犯罪。

「その眼差しに反対するとも」(誰だっけ?ポール・エリュアールの詩にあったような)


ちょうど3分経った。
今日は、ほんとに久しぶりにカップラーメン食べる♡
どんな味か?


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可愛い、、、

daiougusokumushi2.jpg
最近、ダイオウグソクムシのiPhoneカバーを使っているヒトが結構、目に付く。
臆面もなくその形である。
iPhoneをカバーしてますよ、ではなくiPhoneがグソクムシの1部だ。
やはり大きい。
オシャレなファッションというより、何かの悪戯にも見える。
それに乗ってこれ見よがしなヒトもいる。
本人は満足気だ。
なかにはそれを見て、可愛いと一声かけていくヒトもいた。
かけられた本人は満更でもない。
あれ、可愛いのか?可愛いにも色々あろうが。

可愛いのは良いが、がさばるのは困る。
スマートフォンではない。
がさばりフォンである。(まんま)。
でも、そのメリットを殺してもそれを被せたい心境は、やはり目立ちたいからだろう。
確かに目を引く。
さらに膨らみがあり、持ちやすくなる事も事実だ。
多少大きくなっても持ちやすく、落としにくくなった、とも言えば言えよう。
それで可愛いといわれる分には悪い気はしないに違いない。

しかし、あくまでもダイオウグソクムシが可愛い?のである。
おたくではない。
(ほとんどのヒトは気づいているが)
また、そのヒトのセンスが対象となっているわけだ。

それが、かなり異物性を放ち、目に痛いモノにも出くわす。
そんな例も日にいくつか見つかる。

アクセサリーだけが1人で歩いている女性はやはり目に付く。
シューズのアクセントだけが際立ち、目が釘付けになる。などはたびたびある。
奇抜なジャケット柄がモアレを引き起こして目眩がするとか。
ときに様々な色ガラスで装飾した木箱(カバンだろうか)を持ちにくそうに抱えて吊革にいかにも辛そうに掴まる若い男性など、など。
こちらの方が落ち着かないで疲れる。

いづれも、使いやすさより見た目をしかも特異な効果を意識したであろう事はよく分かる。
確かに使いやすさだけでは目は引かない。
見せたいのだ彼らは。
誰もが眠い朝、その意欲はたいしたものだ。

奇抜さも面白い。
その多くはサイズ的に収まりにくかったり、扱いが面倒だったり、強烈な配色構成から視界の暴力だったりもする。
しかし、朝の通勤には、少し目の覚める刺激も欲しいものだ。

そう思うことはある。

ただひとつ、不快感に堕する手前の、奇妙さ、面白さ、奇抜さに対する感覚は、肝心だと思われる。(それは取りも直さず、他者に対する感覚でもある。)
それらは今日、もっとも曖昧で、都合のよい両義性のある言葉に当てられる。

[可愛い]


朝で1日が決まると言っても過言ではない。
お互いの朝は大切にしたい。
ただそれだけの些細な話。



パソコン椅子の記事と同じく、何の捻りもないものになってしまった(謝
またチャネリングのときのように、異彩を放つ記事をまた書きたいものです。






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月のある地球

2014091009560188b.jpg
昨夜スーパームーンでした。
十五夜の次に。
ここのところ月が話題である。

地球には、月がある。
今地球型惑星を何故か血眼になって探しているが、地球のような月をもった惑星は他にあるだろうか?
これがかなり大きい。
地球人にとって、大変大きい。
身体にとって、精神にとって。
こんなお話なども生まれて来ない。

「ある晩、お月さんがポケットへ自分を入れて歩いていた 坂路で靴の緒がほどけたので 結ぼうとうつむいたハズミに ポケットからお月さんが転げ出て 急雨に濡れたアスファルトの上をコロコロコロと転げ出した しまったと思ってお月さんは一生懸命に追っかけたが お月さんは加速度を増して転んで行くので お月さんとお月さんとの距離が次第に遠くなって行った そしてお月さんはとうとう ズーと下の青い霞の中へ自分を見失ってしまった」稲垣足穂

こんな覚えの有る人はかなりいるとも思う。
わたしもかなり昔に自分を青い霞の中に失ってしまったように想う。
それも何度も何度も。
覚えていない。
幼虫が蛹になり成虫になるように。
または輪廻転生。
進化。

このお話はアナロジーではない。
まさにお月さんが自分を見失った話だ。
月が月でなくなったという月の話。

目眩がする。
死もこんなコズミックドライブ感覚なのか?

爽快である。



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Web上の買い物依存にご注意

201409091757159ca.jpg

Web上でのパソコン椅子購入についてのお話。

今使っているパソコン椅子が大き過ぎてそこでうたた寝する位しかメリットが無いため、思い切って違うものに替えることにした。
妙に足周りが場所を喰うのだ。

今回Webから注文した椅子は、小振りで幅が細く、背もたれがメッシュで軽い物だ。
Webで始めての椅子買いだ。

それが、昨夜届いた。

驚いた。空いた口が塞がらない。

段ボール梱包から部品がはみ出ているではないか。
長いWebの買い物生活でこんな酷い梱包始めてである。
配送中の取り扱いが悪く破れて飛び出たというものではなく、始めからサイズの小さい箱に無理やり部品を押し込んだのが見てよく分かるものだ。
常識からは考えられない詰め込み仕事なのだ。
素人でもこんな事は絶対にしない。
自分も箱詰めをして送った経験があるが、とても気を遣った厳重な梱包にした。

この状況から心配なのは、破損だ。
よくこんな風に押し込んだものだと思いつつ、物凄い量のテープを剥がしながら、つまりテープでかんじがらめに固定したのだ、部品の状態と数を確認した。

特に壊れている様子もなく、組み立て用紙にある部品と数も過不足無く入っていることは分かる。

実際その通りに作ると造作なく出来上がった。
簡単な構造だから、当たり前だが。
そして、椅子の高さを調節するレバーを動かすと、何と全く作動しないではないか。
1番高いところに固定状態だ。
どうにもならない。
これは飾りか?
残念だが飾り以外の何物でもなかった。

とはいえ、もう1度解体して、一体何に荷造りして、返すというのか?
途方に暮れた。
返すのが明らかに面倒くさい。
このまま使おう、と言うことになった。
椅子の高さをしょっちゅう変える必要は無い。
今がタマタマピッタリなら、基本的に問題はないはずだ。

だが少々高めで固定されてしまっている。
高さが下げられれば、娘も使えるスリムサイズの椅子なのだが。
残念だ。
が、わたしが主に使う椅子なのだから、これでよいことに、した。
時に、諦めも肝心である。
次に来た物が良い物かどうか確証はない。

やはり、椅子の類いは、実店舗でじっくり吟味して、出来たものを届けてもらうに限ることを知った。
これまでは木製のがっしりした物しか使ったことがなかった。
基本的にわたしは木製が好きなのだが、パソコン椅子ならスチール製も良いのでは、と思ったのだ。

今回スチールに初挑戦してみたわけだが、スチール製がどうのというわけではなく、今回の店とこの製品固有の問題であろう。
また、Web上の取引であるため、大きいものは、こんな時面倒なことになる。
これからは、信頼のおける家具店、またはパソコン専門店に行こう。

最近、忙しさや慣れから何でもWebで買い物を済ませて来たが、実店舗の重要性を再認識したものだ。




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夏はもう終わったのか?

taniku01.jpg
夏は終わったのか?
なんとも言えませんが、
残虐な灼熱の日々が終焉すれば、恐らくは、穏やかな秋となるはずです。

多肉植物が眠りから覚め、どんどん大きくなります。
水を下手にやり過ぎ、徒長しなければ、中味の充実した重みの有るしっかりした成長を遂げます。
温度、日光が彼らにとっては命です。
それから風通しの良さですね。
病気、虫の発生を考えるととても肝心な要因となります。

硬くなった土の取り替えも兼ねて、鉢を一回り大きくするのもよいでしょう。
その時、根に綿虫カイガラムシなどついてないか、また少し根切りした方が良いかどうかも、良く観る必要があります。

暴れた株はこの時期の株分けが最適です。
それを夏にやるとまずほとんどは失敗します。
綺麗にまとめるとすれば、これからです。

サボテン用の培養土に赤玉を混ぜたり、細かい砂を混ぜるのもよいです。
鉢の底は必ず水はけ用の小石をたっぶり入れてください。
多肉植物、サボテンは何より水はけの良さが大切ですので。
彼らは育てるのが簡単のようによく言われていますが、根腐れし易いとてもデリケートな植物です。

彼らの元の生育環境は、雨季と乾期に分かれていますが、雨があまり長く続くようなら、雨の当たらぬ場所に移動しておいた方が良いですね。
やはり水には弱いです。

秋の話でした、、、。

秋と言うと、わたしには多肉植物となります。
この時期の彼らの成長は面白いほど露骨で生命の不気味さに満ち満ちていますから。
葉っぱを幾つも場所を決めて置いておくと、そこに子株がコロコロとどんどん育っていきます。
その速いこと、キモかわなこと。

それこそアーティフィシャルな生き物です。
単純で抽象的な形を大胆に試し、様々なパタンを生み出す。
本当に機械のようです。
ソフトマシーン。
機械状無意識とはこういうことかと思う程。
われわれの機械としての生命の在り方を照射してくれるおもいです。
恍惚とします。
純粋に成長の夢を見続ける機械のめくるめく姿。
いつまでも観ていられる。

そう、芸術の秋でしたっけ。
秋だけ芸術するのも可笑しいものですが、ものことを深く感じるには良い環境だとおもいます。
だから、わたしにとって読書にも向いてますね。

夏が終わったのなら、きっと多肉植物は元気になり、わたしも読書を始めていることでしょう。
多分。






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娘をラーメンに誘いはぐらかされているわたし。

ramen01.jpg

歳のせいか、最近ラーメンをあまり食べる意欲がなくなってきました。
意欲で食べるのか?

そう純粋に食欲で、というよりラーメンの場合、それのもつ記号的な価値って大きいですよね。
料理という蓄積された文化の中でも特に裾野も広く伝説も多く、それが麺にスープに色濃く絡んでくる。

ラーメンを主人公にいろいろな切り口でTV番組もすぐに出来てしまうほど。
そういう情報すべてが意識に寝かされて、あの噂のラーメン食べに行きたい、とか惹かれてゆく。

そう、惹かれてしまうのですね。
それで特定のラーメン屋の信奉者になってみたりもする。

あそこで使ってるモンゴルの塩は、とか店の主人譲りのウンチク披露してみたりして(笑
ラーメンとの関係って少なからず、そういう面で成り立っているはずです。

逆に、ああお腹空いた、といってラーメンはあまり食べに行かない。
むしろ焼肉とかステーキ屋(これも最近は意欲がない)、イタ飯とか、、、かな。

どうだろう?
本当に空腹の時は、何を食べたいだろう?

そうだ!食欲自体が以前と比べないのでした。
それではっきりと思い浮かばない。

肉もラーメンも寿司、、、イタ飯、何にしても。
昔はよく食べたものだけど。今はもう食欲で食事はしていないことに気づく。

そうなると、必然的に意欲も減退してきます。
何か強烈な文化的動機付けが必要になりましょう。ヘルシー志向のラーメンもそのひとつでしょうな。

かつてラーメンは何となく食べ歩いたものです。上弦の月、青葉、長浜、支那そばや、、、よく行きました。
ラーメン屋のはしごをしたほど、特にとんこつラーメンのファンでした。

情報を頼りに行って、コケたことも沢山あります。
TVで紹介される店は、店で頼んで広告を打つものも多いようですし、鵜呑みにできません。

大学時代ラーメン研究会に所属していた同僚から非常にコアな情報を得て、食べに行った時期もあります。
もう店の名前もほとんど忘れましたが、並んで食べたこともありました(苦

今もラーメンは食べたいとは思います。(MooonBreakでも其の辺のことを綴ってはおりますが。)
うちの近くの「みんみん」漢字はどうだったか忘れましたが、八王子ラーメンで美味しいです。

食欲を満たすというより、その店だけが醸すお味(麺とスープの絡み)や雰囲気を楽しみたい。
しかしここのところ、娘を誘っているのですが、ずっとはぐらかされています(泣

娘たちにはラーメンというものが今ひとつピンとこない。
オムライスとかカレーの方がずっと好きですね。

思い出しますが、ラーメンを食べ歩いていた当時、わたしはスウィーツ友の会もやっており、
自由が丘が途中下車の通勤経路にいたため、ほぼ毎日自由が丘でスウィーツ三昧してました。

スウィーツフォレストなんて、わたしのためにできたお店ではないかと信じていました。
でも実は、ほんとに美味しいお店は市街のそこかしこにありました。

自由が丘駅周辺にはとんこつラーメン屋さんはあり、焼肉激戦区でもあったため、時折焼肉も食べ、、、。
今、考えるだけでも背筋の凍る思いがします。

まさに戦慄すべき食生活です。
やはりもうラーメンは控えたほうが良いかな、という気が自然にしてくる今日このごろです。


矢野顕子さんの曲は半分位に熱狂していて、半分はほとんど聴きませんでした。
「ラーメン食べたい」は聴かなかった側の曲でした。題名は知ってましたが。


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Utadaさんのアルバムを聴いて ”Exodus”

今さっき、”Exodus”聴き返してみて思うのは、あまりにストレートだということ。
ストレートに自分のこころのありのままを叩きつけている。
すくなくともプログレッシヴな要素など微塵も無い。
勿論、実験性や新しさを狙うといった、そういう類のアルバムではない。
表現までの距離が感じられない。
余裕が見られない。
”EasyBreezy”、”Kremlin Dusk”など、かなり「楽曲」として対象化された感のある曲もあるが、アマルガムなレヴェルの曲も目立つ。
何でこんなにヘビーなのか?
普遍性(イデア)を琴線に覚えるフレーズも勿論沢山あるが、過剰な力が噴出している印象が強い。
完成度は高いが、何かヘビーすぎる。
力―意思が楽曲に昇華―構成されきっていないとまで言う気はないが。
ストレートでハードでヘビーで、痛々しい。と言うか、生々しい。
久しぶりに聴いてそう想った。

彼女の資質からも、精神性をひたすら研ぎ澄ましてゆく過程で表出された音楽だと思うが、
宇多田さんのいつもの音楽的な洗練と醸成とは別次元のものだ。

このヒトの曲は、いつも極めてエモーショナルだ。
歌詞と相まって非常に哲学的で啓示的な昂まり(至高感)をも感じさせる。(相当な文学少女でもあるし)
しっかりした世界観のもとに無意識的にも意図的に作られたものであることが分かる。
聴かせるところを丁寧に聴かせてゆく、それは精緻なガラス細工のように作り込まれ練りこまれて。
そのため基本的に彼女の曲は、どの曲についても文句なしに共感でき感動を呼ぶものだ。

しかし、Exodus(出エジプト記)―脱出は、もしかしたら自分の限界を越えようという意思をひたすらに具現化したものかも知れない、と思われた。かと言って、意表を突いた小細工など一切使わないケレン味のない方法でのアプローチ。
しかしそれは、視聴者に向いた表出(メッセージ)ではなく、自分のみに向けた極めてストイックなDisciplineとしての生成。
とすれば、これもまた如何にも彼女らしいアルバムとは言えよう。
ファンなら必ず聴く。わたしも聴いた。

わたしは何故かこのアルバムを聴いて、Scritti Polittiを思い出してしまった。
対極の洗練スタイルだろうか。
音構成をひたすら極めるアーティスト。芸術至上主義的な。
しかしまんざらでもないはず。
宇多田さんならこの方向でも、精神性を追求する音楽性を高めてゆくのも可能だ。
どうだろう。
と当時、思った。
うんと軽くてスタイリッシュな宇多田節。

このアルバムの5年後に出た”ジス・イズ・ザ・ワン”では見事に宇多田節の、ある意味洗練された姿があった。
完成度はとても高いことは分かる。重厚なものも多い。
しかし、ちょっと異質に感じたとても気になる(結果お気に入りアルバム)Exodusで放出されたスターダストがどれだけ芽吹いたかは、判断出来ない。"Apple And Cinnamon"や"On And On","This One"など極めて素晴らしい楽曲もあるが、"Come Back To Me"などは、どうしたものか?こういう曲からのExodusだったのではないか、と勝手に想像してしまっていた。あの激しいパワーは重厚さに落ち着いた。
”ジス・イズ・ザ・ワン”は、”Exodus”をどういう形で受け継いだのか?
異なる形で昇華・異化されてより完成された宇多田節に戻ったという感がある。
安心できる反面、うーん。


あれからもうかなり歳も重ねたし、、、
そろそろ次の場所―ステージでの楽曲が聴いてみたい。


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珠玉のコメント ~ Ashes Are Burning

IPhone.jpg
わたしは、スマフォはまだまだ、好きにはなれない。



それは、、、
コメント欄に本来はあるものなのですが、わたしの管理の至らなさから、ここにはありません。
が、消滅しても蘇るべきものは蘇ります。
残るものは残ります。
わたしにとって
価値の滅することのないように。
それらのことばは、蘇ります。
何度でも。
ほんの些細な事柄についての何気ない受け答えであったとしても。

永遠への憧憬とともに ~ Bound For Infinity

それらのことばは菫色反応によりわたしの近さにむけて落ちてくるのです。
宇宙の理に従い。

ときに、、、
フェルメールの藍とともに。
ピカソの夢とともに。
マルクの馬とともに。
ハイデッガーの近傍とともに。
ヴィトゲンシュタインの凧とともに。
アントナン・アルトーの雲間からの一条の光とともに。

ときおり、、、
重い蓋をそっと開けるように、なかを窺います。

いつもの風をたしかに感じ、、、

すぐに閉めます。

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娘の絵 補遺 ~ プラスチック・ルドン

20140902220552eaf.jpg
ひとつだけ、加えておきます♡
長女のものです。
次女は最近、やたらと入浴中の絵を描くので、やめておきます(笑


なんというのか?
ルドンの幼児版(現代版)のような感じの絵です。
観葉植物に目が付いたみたいだから、ルドンを想わせる、というより目の付いている白い頭の部分そのものが、ありそうでなさそうなもので、、、。

妙なプラスチックなリアルさを見せているところが、ルドン的に想えるところです。
プラスチック・ルドン。
あまり、ルドンを引き合いに出すと、真面目にお怒りになる方がいると困るので、この辺にしておきますが。

やはり花が白であるところが肝心でした。
これが他の色だと、今ひとつ抽象性がダウンしたはずです。
真っ赤なお花で、可愛いお目目がふたーつついていたら、そのまま「おかあさんといっしょ」ですから。
ただの幼児向け絵本の世界です。

ちょっと白菜風な白い頭ー花、、、これは見たことあるぞ、、、そう、イレイザーヘッド(デイヴィッド・リンチ)のシルエットだ。
別に長女を持ち上げる?気持ちは全くないのですが、そこに例の赤ん坊と血縁関係の「目玉」がくっついている、と思えばかなり自然です。
無理がない。
そっち側の、普通です。
(われわれとはスタート地点が違うのは当然とは言え)

というところで、エヴァンゲリオン以降を原風景―自然とする世代の一つの落書きです。
実際、一分くらいで描いているものであり、落書き以外の何物でもありません。
但し、時間をかけてキャンバスにアクリルで描いたかなりの数の絵も似たりよったりのものたちです。
画材の違い、関係ないですね。
時間もほとんど関係ないですね、この人たちには。
推敲ーBrushUpなどしない人たちですから。
徐々にある世界に近づける(完成に向かう)、のではなく、単にそれ以外の何ものでもないものを行き成り描いているだけですので。
これはまた幼児の絵の常態ではありますが。

でも、これが面白いところです。

これが、いつまで続くか、です。


わたしにとっては、距離が肝心です。


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娘の絵―2 タブレットpicture

201409022205541e2.jpg
真っ黒の背景に明瞭に浮かぶ蛙の戦士といった風情の絵。
ハート型の顔から蛙を連想するが、口元を見ると猫を想わせもする。髭もある。
かなり凛々しい姿である。
位の高い戦士と見てよいようだ。
彼女自身、出来栄えには結構満足気であった。

長女の絵である。

彼女はプリキュアを意識したような普通の女の子の絵も描くが、異形系となると頭部はハート型になる。
いつもこうなっていたかは、定かではない。

この絵、一見、黒背景に好きなキャラをポンと描いたように思えて、かなり構成的に成り立っている。
ゴッホも描線がほとんど点に近いものから、少し長めの長方形位の物まであったが、この蛙の戦士(と取りあえず呼ぶ)の持つ鞭は、ゴッホの長い線にあたるような破線で構成されている。
胴体の鎧のような部分は幾つかの向きを持った色線を重層して描かれ、一番上に赤のハートが刻みこまれている。
この複雑な構成が、顔の表情と見合って戦士に威厳を持たせることになる。

さらにプロテクターを付けた腕、大きな手は彼の秘めた腕力の強さを十分に想わせる。
そして、しっかり握られた鞭である。
スターウォーズに出てくるソードを思わせる武器であるが、破壊力は遥かに上であることが分かる。
そこに、鞭に絡むように(鞭の輝きを示すような)、2つの青い3重光。
静かな神聖なる破壊者に時間性が加わる。
平面性に奥行きと広がりが発生する。
動きが予期される。

ここまでなら、まだどこにもありそうな絵だ。
ハート型の顔は、幼児がよく描く形に見られる発達段階的なものでもある。
色遊びも、特に目立つものは見られない。
ただ、色の選択についてはこれまでの経験の蓄積がすでに窺える。
3重光の構成‥に。

しかし、基本的には長女がこれまでに獲得したことば、技法・技術、色の好みと知識の範囲―制限、のなかにあり、何より半ば自動的なシュルレアリスティカルな生成の結果といえる。
このような原型があらかじめ全体イメージとしてすでに在って、それを表現したという訳ではない。
線が次の線を呼び、形体が次の形体を生み、色が次の色を準備する。
まるでビーズ通しをやるように見通しをもちつつ。
このへんはほとんどイメージの思考というより、機械的な無意識で行っている。
パネル上に指が描いたというのが一番ほんとうのところであろう。

しかし、この「蛙の戦士」には、得体の知れない突出といえる部分がある。
しかも異様に目立つ。
生々しい芽生えである。
それは両眼の間に、名状しがたいキノコ状のピンクの突起物として姿を現す。
おできのような覚束ない位置感覚の不条理な実在。

とても彼の身になれば邪魔なところに、非実在的な異物が視界を邪魔して生えている。
内側から何かの養分で外に成長してきたとすれば、その場所も異常である。
またどこからか取って付けたのなら、この人物の一貫性(アイデンティティ)が崩れる。

長女の、この過剰な描写―構成は何なのか?

恐らく最後に付け加えた要素であろうことが分かる。
付け加えずにいられないものであったであろう、それは何か?
この形のはっきりしなさ加減は、核心を持って無意識的でありながら意図的に加えたのだが、彼女自身のことばにない、存在であり、不安な生成を治めることばが見つからないまま、破れ目を作ったところで、終わりにした絵というのが精確なところであろう。

この異物の生成によって、この絵は悪夢となる。
異様さの次元がはっきり変わる。


よく長女は怖い夢を見たと言って、朝バーバの部屋に入り込んで、布団を頭にかぶっていることがある。
入り込んで、はしゃいでいるのがほとんどだが。

わたしとの話の中にも死を織り交ぜた、外へのはみだしが窺える。
自我の芽生え。
実存のさわり。

そう言ってよいものか?
分からない。
ただ、存在の異様さ不気味さに対する感覚は、わたしと同様のものをもっているようだ。
娘なんだから、仕方ないが。


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娘の絵ー1 ~ 幼稚園の娘がタブレットに指で描いたもの。

うちの双子の娘は、今音楽と絵に興味が向いています。
ちょっとした隙にiPadに絵を好き勝手に描いています。
ときどき笑ってしまうのですが、ぼんやりずっと眺めていられる絵でもあります。
それは、奥行がない平面構図の絵であるからだと思います。
奥がないこと。表現以前の描写であるもの。重さがないもの。
今だけの絵かも知れぬこと。表現主義の画家の絵に妙に似ていること(笑
ひとつ見てみます。

これは水から着想を得ていますが、それをテーマとして表現しようという意識はありません。
水の連想ーボキャブラリーというところでしょうか?
20140902220638ae0.jpg
画面は、上3分の1が、魚ー熱帯魚の水槽を真横から描写したものとなっており、3分の2が入浴中の自分であり浴槽を上方から俯瞰したような図である。しかし彼女自身はほとんど前から見た姿勢でもある。
上に位置する水槽は上3分の1は真っ白い空間である。青い水の部分は、中央で上方に登ってゆく気泡により2分割される。
左側にはヒトデ、右手にはニモがいます。

画面は水槽空間と次女のいる浴槽空間とに大きく別れることは分かりますが、それが殊更意識されない、色相構成となっており、無理なくひとつの画面として楽しめるものとなっています。
不思議なほど裂け目のない構成となっているのは、単純化された平面性によるところがやはり大きいです。
全く遠近法のない平面画面としての、シンプルに好きなものー語彙による構成です。
彼女のことばとものとの関係が窺い知れるようです。

しかし、そこにあって、色とは何なのか?
上部にしろ下部にしろ、はっきりその空間の独自性を示す色でありながら、同一空間においてはビビットに補色関係で構成し合い、異空間対比としては、明度の差によっており、小さい水槽空間は彩度を高く、大きい浴槽空間には彩度を落として全体としての一つの水の喜びを思わせるまとまった画面となっています。

ほぼ破綻はない。特に浴槽の周りの空間の薄赤紫が肝心な役目を果たしている。
色の選択という無意識(意識も働いてはいるが)が、ことばというものとはまた別の重要な仕事をしていることはたしかであろう。この色に関しては、さしあたり不確かな固有色の知識と快・不快の観点からの選択であると思われるが。

技法上の小さな発見としては、指をチョンとパネルに触れた時の○をそのまま気泡などの形ー要素として使っています。
気泡は女の子ーおそらく自分(次女)が手に握っている、巨峰にもなり、魚やひとでの目玉、にも自分のほっぺの明るみにもなり、おへそや乳房にもなるというところです。どこで使おうかと思い、使えるところに使ってみたのでしょう。ちょっと快感だったはずです。

それから、このシチュエーションからの巨峰というアイテムである。
無論、水分たっぷりの甘酸っぱさ。次女の好物の一つが些細な刺激を画面に与えている。
説明的であるほど色相的には目立たずに。
またおそらく浴槽にも香りのよい入浴剤も入れていると思われる。

心地よく安らぐ甘酸っぱい刺激のある独自の空間を彼女なりに定着させたのであろう。
下の浴槽空間は色からいっても羊水を想わせる。
生まれた時から抱く郷愁も幽かに感じさせるものだ。
わたしにとって、その彼女の郷愁が愛おしい。







Stay Gold 大好きだから、ずっと、、、。

Stay Goldはスティーヴィーワンダーの曲がよく知られてますが、うちでは宇多田ヒカルのStay Goldです。

日本のポップスをまともに聴き始めたのは、宇多田さんの曲を聴いてからです。
はじめて、超越的な美を目の覚めるような思いで感じたのが宇多田さんです。
それまで全く日本のロックやポップスには感じなかったもの。
宇多田さん以前は、日本のものでなければ取り敢えず何でも良い、という感じで聴いていましたから。
未だにロックはそのままですが。全く変わらない。

かつてのイギリスの発狂寸前の甘味な毒物ものや、ドイツの破壊的・観念的で徹底したもの、アメリカというよりニューヨークの乾ききった退廃的なもの、イタリアの潔癖な構築美(しかしもっとも虫唾の走る類の音も伊製のものですが)、に惹きつけられていましたから。(*伊は、アルティ・エ・メスティエリ、プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ、アレアくらいです。どれもよいのは。チェレステも捨てがたいが、レ・オルメ、オザンナもアルバムによる。その他は、あまりに無残なものばかりが目立ちました。)他の国ではオランダのメカノ、フランスのオルケストル・リュージュがトテツモナイ特筆ものですが、他は目の覚める、、、まではいかず。そこそこいいね、というところでした。
所謂、思春期ずっとそれらに呪縛されていました。

はっきり言って、日本はロックの生まれる土壌ではないですね。

一神教による内面化された尋常でない抑圧もないし、八百万の神のいる、中空構造の国というのは、ある意味救われてしまってますね。石と鉄でなく木と紙という建物も外と内という関係が流動的で、溜まり滞るものがない。
そもそも自我も生じない。
ロックも生じようがない。
流行に乗って真似してみたものの、何も生まれなかった。
必然性がないから。
しかしそれが必要で、なければ生きていけないヒトもいます。
海外から、他者から、しか得られない薬が。

文化に根付くものと根付かぬものは確かにあります。
それで良いと思います。
それを取り寄せる怪しい店はあります。

宇多田さんがニューヨーク生まれというのは重要なファクターです。
単に才能が飛び抜けていた、というだけの問題ではないでしょう。
それだけでは、何も生まれない。
何も、誰も惹きつけない。

あの過剰さは、何か(生命レヴェルのもの)を強烈に守ろうという意思(無意識)を想定してしまう。
つまり、瀕死の状態から生きようとする根源的で盲目的な力、、、。
こういうことを言ってしまうと超越論というかやはり本質論になってしまうが。
少なくとも幼い頃から音楽に慣れ親しんでいますから、というところから出てくるものではない。
(そういう人の音楽は思いっきり詰まらぬものが多い。パンクの対極にある。)
わたしがロックに求める場所を彼女の音楽はあの独特のキャッチーでヒット性の高いサウンドに宿していた。
パンクに快感を覚えていたわたしをも確実に捉えた。


昔、西新宿の雑居ビルの隣が学習塾をやっているレコード屋で”ノーニューヨーク”(LP)をGetしたとき、もう少し手にするのが遅かったら、そこに来ていた女子高生にその最後の一枚を奪われていたことを思い出す。

とても綺麗だが過敏で内向的な表情をしたその女子高生(に見えたが、女子中生だったかも)も明らかに、暇さえあれば、いつもひとりでこういうところにアルバムを探りに来ている種族で、その日はまさにそれ目当てで来ていたのだった。わたしがそれを手に取ると、明らかに悔しいという表情を見せたのだ。
わたしと多分精神的な血縁関係者だと感じられた。
勿論、気の毒だが、そのアルバムは絶対譲る気などない。
当時ニューヨークで神と呼ばれていた、ブライアン・イーノプロデュースのコアなパンクアルバムだ。
大いに期待していたアルバムだ。わざわざ遠くから買いに来たのだ。(遠い割にはしょっちゅうやって来ていたが。)

ソリッドにも程がある、という音だった。なんにもないサウンドだった。乾いた残虐な涅槃の音。
こういう音しか聴けなくなった者がギリギリ何とか世界に繋がろうとしたとき、宇多田さんの音にはスムーズに連動できた。非常に懐の深い音なのだ。
詩がまた、とても良くかけている。
彼女の詩の朗読も好きだ。


あの女の子は、その後、宇多田さんの曲、、、”Stay Gold"でなくても聴いただろうか?
そのまま、西新宿のそのレコード店通ってるようでは、もうかなり前から生きてない気がする。
確率二分の一で。
この世に着地出来てるか?


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プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
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