折り紙を長女に習う。 ~ 明日から彼女らは海外旅行に

長女は絵も音楽も好きだが、一番こちらを驚かせるのは立体造形―工作で、特に折り紙には独自の研究も進めており、鶴と手裏剣についてはわれわれが教えてもらった。折り紙は、うちの大人では到底かなわない。
どうやら彼女は折り方を機械的に覚えているのではなく、正方形の紙が折られて形になってゆく流れを構造的に全体を俯瞰して把握しているようだ。ある形の折り方を覚える早さと理解がわれわれとは違う。
それに考えてみると、折り紙などこれまで1度も教えたことが無い。
幼稚園で簡単なものを先生が教えてくれる前から、何故か紙を織り込んで何かを作っていた。
作っている時だけは、まるでいないかのように静かに没頭している。
(反対に歌を唱っている時の存在感は圧倒的で、ワニの吠え方よりも恐らく凄い。)
鶴とか手裏剣等を教えられるとすぐにレパートリーに入れてしまい、それを利用して面白い彼女だけの立体工作にしてしまう。工作道具も手放せないマストアイテムとなっている。
(まるでさつきから傘を貰ったトトロみたいに)
本人にとっては、特に難しいことをしたい意識はなく、何か作りたいものがあって、それを作っているに過ぎない。
もういくつも友達や先生、親にもバーバにもプレゼントしている。
わたしもしまいこんでいるものが幾つもある。
上の写真は多分先生シリーズ第一弾で、一年ほど前に作っており、彼女のカメラのSDカードに入っていたものだ。
明日からの旅行でかなり撮るはずなので、彼女のパソコンに画像をコピーしておこうと思い発見した。
元作品は明日探す予定。(たくさん出てくるはず)
ほとんど写真は姉妹でのお洒落姿(時にはとんでもない格好だったりする)を撮り合ったり、買ってもらった可愛いグッズが写っていたりが多いのだが、時折変なものの上に乗せて、自分の作品(自分が作ったデザート等も含む)を撮っていることがある。
明日から彼女らは旅行で出かけているので、おもちゃ箱などを探しこれまでの作品を集めて保管・整理しておきたいと思う。
ともかく作ることが楽しく、人に見せてから後の保管については長女は全く無頓着である。
写真に撮るのもそれを残すという意識はなく、ただいろいろ撮ってみたいだけで、たまたまその中に作品も入っていることがあるというだけだ。
作りたいものがあって、一心に作っているときは、一番幸福な状況だと思う。
自分を振り返ってもそうだ。
少なくとも疲れという概念はなかった。
自分が他の目的のために(外部システムにのっとって)仕事をすることで人というものは疲弊し老いてゆくのだ。
それで磨り減ってしまう感性など所詮それだけのものだなどとよく言われるが、果たしてそうか?
これから、自意識ができてきて、知見が広まり、他者が見え、自分が対象化されてくると、どうなってゆくのか?
それでも動かしがたい価値(拘りとは違う)意識がはっきりあるなら、
その頃も相変わらず、何かを一生懸命作っているようなら、その方向に進んでもらいたい。
学校が近いので、親としては女子美に入れたい。
うちから通えることが一番なので。
気の遠くなるほど先の話だが。
基本、一生続けられる好きなことを精一杯やらせてあげたい。

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