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エヴァンゲリオンはまだ見て興奮する。

asuka.jpg

わたしは動けないタイプの人間であり、ひたすら部屋でものを考えているのが一番合っている。
少なくとも、夏に野外にあって活動などするのは、おかしい。
単におかしい。
人にも会いたくない。

ここのところ全く自分らしくない生活を送っている。
しかも娘たちが不在だ。
ありえない状況下でよく生きていたものだ。
調子が狂っていると狂った者が立ち現れ狂った歯車が連動しかけては、外れギコチナイ場面展開がホップステップしてゆく。

金曜日(またブログ更新をサボった日だ)行きたくもない出張で電車を乗り継ぎ、バス乗り場方面に下りては来たが、肝心のバスターミナルが見当たらない。
永福町駅前通りに出て行くと確かに道なりに停留所が幾つかは並んで見える。
が、わたしが乗ろうと思っている「宿33」もその中にあるのか、そこはまた別の通りに面したところにあるのか、ちょっと不安だ。無駄な動きはもうしたくない。午後2時だ。このままスムーズに行きたい。
と思ったら、交番があるではないか。ちょうど若い警官が立っている。

そこで指をさしながら「あそこの並びに宿33のバス停ありますか?」と聞いた。
すると、その若い警官は、「どこに行くんですか?」と聞いてきた。
駅前交番だし、行き先に応じてピタリとピンポイントで教えてくれるのかな、と考え取りあえず「栄橋です。」
と答えた。
すると、怪訝な顔で「栄橋?」と言い、「最終目的は何ですか?」とまさか耳慣れない質問を返してくる。
知らないのか?答えに詰まって、トンデモナイことを口走ったのか?それとも、、、。
(この警官、さっきから一度もこちらの問いには答えず、質問ばかり返してくる。)
一瞬何だか訳が分からなくなったが、「栄橋です。」と返した。
それ以外に返しようもない。まさにそこに行かなければならないのだから。
間があいたが、その若いのはこちらにバス停の情報など教える気がないのか、ただ知らないのか、知らないのに何をひっぱっているのか、不信感が募り顔をよく確かめようと思った矢先、自転車のご婦人が、「栄橋」ですか?それならあそこに来る、新宿行きのバスに乗れば大丈夫ですよ、と割って入って親切に教えてくれた。
もしかしたら、いや多分そのご婦人は最初からのやり取りを見ていて、(やむにやまれず)入ってきてくれたのだ。
そのおかしな警官は、ご婦人にありがとうございます、などと間抜けな顔でぬかしていた。
何がありがとうだ!

わたしもご婦人にお礼を言ってすぐに横断歩道を渡った。丁度バスが来てわたしが乗り込むと扉が閉まった。
あの狂った奴にそれ以上付き合っていたら、バスに間に合わなかったのは確実だ。
ひとが急いで、単にバス停の最低限の情報を求めただけなのに、何をもったいつけていたのか?
バス路線に全く知識がなくても、そこからすべてのバスが出ていますよ、くらいは答えられる。いつも前に立ってんだろ!
(またはそこ以外にもうひとつあの通りにありますとか)
それを、何処に行くのか、まで聞いておいて、答えると、最終目的は何か、だと?!
そう言えば何処に行くのかを聞いたとき、何か妙だった。
まるで、行く先など関心のない何かを言い返すような雰囲気があった。
バス停を聞いたのに素直にそれに返さず、何処にと聞き返して来たところでおかしかったのだ。
あげくに、最終目的は何ですかって、これはまるでバス乗り場を教える事から逸脱している。
分からないなら、何処へなど聞くんじゃない、とかいう問題ではそもそもない。

まず端からこいつは、こちらの今の状況を察したり、助けようなどという気が全くない、のは明白。
質問などに答える気はなく、何処へなどと挑発し、その答えを無視し、最終目的は、と喧嘩を売る。
その変な流れで取り調べめいたことでも仕出かそうというつもりか?
おまえの「最終目的」こそ何だ?
『この特異なクソバカは一体何なんだ!!』
『わたしの時間を奪うな、この屑が!』
と思いつつもう時間が許さず小走りに走ってバスに乗ってしまったのが口惜しい。
あのご婦人のお陰で、乗りそびれず、そこはかろうじて助かったが。
しかしそんなことは、すでにどうでもよろしい。

そう言えば、
以前も目黒の交番で場所を聞いたとき、似たようなことを体験した。
これも若い警官だった。
じわじわと増幅してきた激しい殺意を抱きつつ出張先に向かったが。
そこでも、かなりこちらの調子の狂うことばかりで、ストレスの針はレッドゾーンに吸いついたまま。

こいつについては、何処かに(警察か)に改めて訴えるつもりだ。

世界の中心でふざけるな!と叫びたい。
エヴァンゲリオン祭りだそうで、立て続けにやってますな。




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夏の感触の残る冷気

reinbow.jpg
写真提供 井ノ上様

意識的にはまだ夏なのだが、空気の感触はもはや夏ではない、というところか。
しかし生ぬるい。
しゃきっとしない、モワッとした空気だ。
雨も降る。確かにゲリラ的に。だが傘が壊れるような目の覚めるようなシャワーではない。
わたしの子供の頃と変わったことといえば、雪が降らなくなったこと、夏が少し暑苦しくなったくらいか。
とは言え、わたしの住む土地では、よく言われる異常気象があまり実感できない。
普通の生活がひたすら続いている。
このまま未来永劫に渡って大した変化なく続くのではないか、という鈍い恐怖すら感じる日々が。
しかし変化は確実に訪れ日本を覆っている。

もう随分前に思えるが、民主党が仕分けなどというパフォーマンスをTvを通してしきりに行っていた頃、結構華々しく目立っていた女性議員が、堤防やダム建設の予算をカットしようとして、担当者の400年前には大変な水害に遭っていますという説明に対し、400年前に起きたことのために予算など組めるはずがない、そんなことがまた起きるあてもないのにと言って一刀両断にしていたのを思い出す。
わたしはその時とても違和感を持ち、この政党で大丈夫かと心細くなった覚えがある。
近年異常気象といわれ、この先何が起こるか分からない時期に、自然災害においての予算を調べもせず威勢良くカットしていく姿には、不快感を募らせた。
未だに事後処理が全く出来ずにいる原発事故ともども、ここのところの一連の災害は、ほとんどが人災だと思う。

おまけに、わたしもこころ踊らされたSTAP細胞がこのていたらくだ。
期待を持った分、ここまで落とされると、人の話をそのまま聞くのがますます難しくなってしまった。
人々の猜疑心はかなり高まったはずだ。

しかし、それでも気持ちがフッと晴れる時がある。
綺麗なものにふと触れた時だ。
美はヒトを癒す。
現実を超脱する力をくれる。

美は最高の薬だ。


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Secondhand Daylight ありきたりな日の出

mig.jpg

最近、予定が急に変更になったり、文字通り想定外のことが起こったり、しています。
家族も含めこちらの体調についても機械の調子についてもです。

その日の約束が、幾つも流れた連絡が入る。更には中止も。
思いもかけない事で、人も去る。
歯医者で痛い目に合うと長女も歯が取れる。これは乳歯だが。
他の件は具体的には書けないことばかりですが、、、。
鈍痛が何時までも残る。
別に悪いこととはっきり断言できることは何一つないのですが。
中には助かったと思ったことも幾つかあるにせよ。

そして何と、娘たちの帰国が伸びた!

全てにおいて、調子がおかしい。
不思議の国の時間流に乗っかりました。

または、その目まぐるしさと無力感から乱気流に呑まれたような、そんな感じです。


それなのに。
どうにもリアリティがない。
それらの事柄自体もそうだが、それを記述する文章にも。

何か文にしようとすると、全てが比喩になりますね。と言うより、良くって隠喩です。アナロジー。
こうではない記述をしたいのですが、なかなかそうもいかない、歯がゆさ。
しかしこんな風に書かなければ、どうにも書きようがない。
その結果、非現術的なことに何かわざとらしい胡散臭さが加わる。

恐らく、いちいち人に言うことではないことかも知れない。
が、やはりわたしには、最も大きな、と言うより唯一の現実なのだ。
それが、こんな物語に収束しようとする。
さらに呑み込まれる。

この流れは何なのか?
この異様で一度きりの朝が、もうすり切れるほど反復された果ての朝としか思えない。
この使い古された一日。
名状し難い一日の終わり。





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祝 窯入れ

Climbing kiln
乾いた粘土作品、窯に入る。
先ずは素焼き。
始まりました。
楽しみです。
素焼きで問題なく焼きあがれば、後はもう割れなどは気にしなくて大丈夫でしょう。、

わたしの作品入れたところで、窯のスペースは、ギュウギュウです。
でも、素焼きなら重なって焼いても大丈夫なので、この段階では1度にいっぱい焼けます。
但し、釉を掛けてからの本焼きは重ねられないので、と言うより、間を空けて焼くので、こうは行きません。
本焼きになると2回に分けるのかな。多分そうなるはず。
焼く温度もさらに500度は高くなります。

縄文人は大した者だ、といつも思うところです。
あれだけの強度をもった形をよく見出し、精確に形成したものです。
焼き方も野焼きで絶妙な火加減で焼いている。
技巧的にも超絶的です。
今見ると神秘的で抽象的な像ですが、一体実際には何を観ていたのでしょうか?
いや感じていた。
捉えていたのでしょうか?

どのような表象ー世界に取り囲まれていたのか。
どのような身体性をもち。

あの文様。源言語性が芽生えていたなら、表現も可能であったか?
表現の余地はまだ生じていないか?
しかし写実という意識が生まれていたかどうか?
それは、ラスコーの壁画を観れば分かる。
クレーの天使たちを観ても。
必然的に当のものの形態をなぞるもものだ。
急に何の話だ?

お渡しする方、もう暫くお待ちください。


考えましたが、このような立体はお届けするということから、やはりもともと実際に知っていた方に差し上げることになります。Webを介して圧縮して送るというのは無理なので、Web上で始めて知り合った方との広がりが生じない。
データー化出来ない。
そのため、絵にしようかと思っています。2次元です。
どういう形にしようかは、迷っていますが。
絵なら、Web上のストレージに1週間ほど預けておけばよいので、とても手軽です。
勿論、気に入って頂ければのお話で、そちらが前提ですね。

今日は単に陶芸粘土による、伸し棒とたたらを使っただけの手び練り作品を窯に入れるだけのことで、縄文の大先輩について、ちょっとばかり想いを馳せてしまいました。


想うだけならタダです。ただ、それが少しでも、ダダっぽかったら、よいな。


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映画とわたし?

aoi yuu
今日は幾らでも粘土で何か作る余裕がありました。
頭がスッキリ晴れるので、やろうかなとは思いましたが。
先週、今日と粘土に触れる気が起きず、あるスポーツの審判を頼まれているため、そのルールブックを読んだり、機械的にできるプリントアウトや印刷、シュレッダーをやって、後は片づけ仕事などをしていました。

勿論、今進めておかなければならない仕事は有り、手はつけて進められる範囲で進めましたが、人に確認しながらやらなければならない部分も少なくなく、御盆からまだ帰らぬ人も多くいるため、なかなか効率的には出来ません。
ハッキリ言って無理やりやったので、後から直す所がいくつも出て来そうです。


そんな中で、また映画でも見ようかと思っています。
実は鉄人と平成ガメラ第一弾はすでに見ました。どちらも2度目ですが。
「マーニー」の方は娘が帰ってきてからゆっくり見に行くとして。

鉄人は2度見ようが、何度見ようが関係有りませんね、映画史に残るトホホ作品であることに変わりありません。
誰がどう頑張ってもフォロー出来ない珍しいくらいの、やっちまった作品です。
異様に豪華な出演者。
しかし彼らをもってしても、どうにもならない、強力な磁場。
全てのものがまともに動かない空間がここに出現した!(そういうシュールな映画か?)

わたしとしては、リドリースコットのレンブラント光線の元、荘厳に蘇って欲しいのですが。
誰がリメイク版を作ってくれるか?
このままでは、鉄人も浮かばれない。横山光輝先生のお怒りも鎮まらない。
鉄人をこよなく愛する監督が撮り直してくれること期待します。
兎も角、この映画には制作側の愛が微塵も感じられない。


平成ガメラの第一弾ですが、ガメラが可愛かったです。それで良いと思います。
ガメラはいつも逆境に耐えて健気に頑張ります。
ギャオスの死に方はお約束になりましたね。
結構この断末魔スタイルは決まってます。
ゴジラと違って、どうしてもガメラは古代文明人によって作られたというだけあって、人間寄りです。
しかし人間はどういうつもりか敵に味方したりして、カメラに惨い仕打ちをします。
それでもガメラは人類を救わなければならない、という定めのようです。
この辺はカメラ映画の一貫したつくりです。特に平成ガメラは。

ガメラ自体、スピード感もかなり出て、テンポもはやくなってゆき、この先武器も凄まじいものになっています。
平成になってからが凄い、あれがあったの!?とビックリするような。
どれだけガメラがハイテク怪獣であったかを思い知ります。
がしかし、ガメラはいつも哀愁を濃く纏うのです。
ともすると演歌の世界に落ち行くような。
よくゴジラとは音楽の差と言われて来ました。
ガメラ音楽、なんとかしたいですね。千住さん。


先ず、鉄人のリメイクからです。
ゴジラで気をよくした、ギャレス・エドワーズでもよいし、パシフィック・リムのギレルモ・デル・トロでもよい。
細部までキメ細かく作りこんでくれること間違いない。
雰囲気も質感もダイナミックさも圧倒的なものになるでしょう。
ショウタロウクンが鈴木福くんでよいかは、後で考えればよいことで、芸術性と愛情のある映画をお願いしたいです。
芦田愛菜には、ガメラで出てもらいましょうか?相性良さそうですし。


さて、これから今日は何見よう?



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去年の夏は?

flower001.jpg

ふと、そんなことを思って、見てみると、おおっそうだ!BASHARのことを書いてるではないか。
懐かしい、、、。
しかも、もう1年以上ここで書いてるんだなあ、という感慨にも少しばかり浸ってしまった。
このくらいの期間ブログを続けていると、意図せぬところで、いろいろトラブルというか珍事に遭遇する。


今思い出したのだが、わたしがBASHARについて書いたことで、大学の教授としての立場上、こんなブログにLINKなどしていたら品格を疑われるので、LINK外してくれという感じのメールをもらい、ブロとも解約された方がいたっけ。
どうやらチャネリングが引っかかっていたようだ。BASHARについてもそうか?
それに関心を持つ人間のブログと相互LINK関係にあることが他者に知れると、大学で肩身の狭い思いをするのか?
と思うと、思わず腹を抱えて笑ってしまった。

しかしその方には何の文句もない。
ブロともとかいう訳の分からないものについては、全く任意のものであり、自分の気持ち次第である。
自分にとって相手がそぐわない、と思ったら離れる、というのは全く正しい。
自分の意に反して、ブロとも続けていたり、商売のためにブロとも申請してきたり(これは結構いて、それとはっきり分かる)そんな者たちより、ずっと率直で好感持てる。

しかしチャネリングやBASHARはそんなに、如何わしいものなのか?
それまで、世間的にどう認知されてるかなど微塵も考慮せず、面白いものを片っ端から見たいと思ってあたってきたわたしとしては、このような反応には大変奇異な印象を受けたのは事実だ。
それに、それまでもっとアカデミズムから遠く外れた内容もしこたま書いていたのに、やはりチャネリングとかBASHARという単語に反応してきているらしい。
コンテクストなどともかく、それらの言葉の実体化をして。
忌諱すべき名称の一つに触れたというのか?
まあ、わたしもチャネリングの紹介という立場で、そこに交わされたBASHARとの対話の内容を重く見ていることは確かで、賛同者のひとりであることに間違いない。そのまま、無反省に驚いている。ただ面白くて楽しんでいる。

それを察して、私の正体が見えた、と思ったのか。
ちょっと魔女裁判みたいで面白い。
わたしは、何に接してもはっきりツマラナイと思ったもの以外はすべてまずそのまま受け入れる。
それから自分のフィルターを通し、そこで引っかかたものを日常ー実存を通しゆっくり濾過してゆく。
そこで、自分が身軽になってゆけば、それはよい知識だったと思う。
そんなところか。

しかし役職上、情報をうんと規制されるというのも堅苦しいもんだな。
周りはするとガラス張りだ。自意識で充満し、気象異常がこりゃ進むな。
情報への接し方がいろいろあってもいいじゃないか、未知のもの異質のものへの感覚とか自由な発想とか創造云々言うつもりなど端からないが。
単につまらない世界もあるものだ、とは心底思った。
他者を締め出した世界などで、そもそも息ができるのか?
というところだ。

わたしとしても離れてもらって清々した(笑


とは言え、離れてもらいたくない方もはっきりいる。

本当に世の中、何が在るか分からない。
災害に近い現象もある。
そう、実際災害は起こる。
はっきり他者は存在する。

しかしネガティブなものに足を取られ流されてはいけない。
決して動かない岩になろうと。
( to be a rock and not to roll )
そうして待てばよい。


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霊的なもの

night01.jpg

昨日はまる1日、叔父のお通夜関係で、他のことは何もできなかった。
ブログも帰ってから書くのは無理であった。お休みにした。それは、二つの理由から。


思いの他道が混んで、車が進まず、当地までの時間が思いの他掛かってしまった。
しかもお寺の広い駐車場がすでにいっぱいになっており、停めるところを探すのに戸惑った。
結局、少し離れた急斜面のものすごく狭い道幅の坂を登りきった、小高い丘の上にある広場?のようなところが仮の駐車場として押さえられていることが分かった。
なんということだ。と思いつつ、エンジンを吹かし登りきると、そこもあと少しで止められない状況に来ていた。

一体何人押し寄せてきたのか?
どっと疲れが押し寄せてきたのか、車を前に寄せ、バックで空いたスペースに入れようと思ったとき、誤ってアクセルを踏んでしまった。車はそのまま前方の低い塀にフロントノーズをこすりつけた。少なくともその音はした。
よくこの手の話を聞くたびに、自分には全く無関係の事と聞き流していたのだが。
まさか自分がやるとは、、、。
バックで車を入れ、すぐに車を飛び出して、あわててフロント周りを確認した。
すると、あれだけ前に飛び出し、塀に少し斜めに擦りつけたはずの部分がなんでもなかった。
その音も聞こえたのに、かすり傷一つ見つからない。
見つからないのだ。

そのままきつねにつままれた気分で、お寺に戻り記帳を済ませ、住職のお経を聞き、線香をあげ一通りの法要を済ませた。食事を摂りながら暫くあっていなかった叔父、叔母、甥や姪、従兄弟などととりとめもないことを喋り、親戚の一人が挨拶をして席を立ったところで、わたしもそれに続いて出ることにした。
帰りがけにまた車のフロント付近を眺めたが何もそれらしき傷や凹みは見つからなかった。

生前、その叔父は何についてもわたしによくしてくれた。
遠路はるばる葬儀に来た甥に対し、粋な計らいをしてくれたのだろうか?
とぼんやり思った。その他にこれといって考えようがなかった。塀も確認してみたが、はっきりその場所も特定できなかった。
一瞬のことである。やはり事故は、事故として起こる。気持ちも動転した。
もしかしたら、わたしの感覚の問題で、本当は急ブレーキによる地面との音で、何かに接触した音ではなかったかも知れない。しかしそう思うことの方にわたしは無理を感じる。砂利の軋む音ではなく、ボッコという軽くぶつかる感覚の音であったからだ。

以前わたしは急に飛び出て来た自転車がフロントに少し触れたかどうか、というところで急停車したことがあったが、ご婦人は「大丈夫」を繰り返しさっさと普通に自転車に乗って走り去ったが、こっちのバンパーにはしっかり傷がついていたことがある。その部分は気になり、後日トヨタで直す羽目になった。
その時と比べるとかなりの破損かと覚悟していたのだが、、、やはり通常の出来事ではない。
あの時だけそれまでの時間流を飛び越えた気がした、とも喉まで出かかっているのだが、瞬間的に何かがあった時の気持ちとはみなそんなものだろう。


気にはなったが、まあよいことにした。
疲れた。
それから、今回のことはまだしっかり腑に落ちないし、書けない。


今朝早々と、トヨタの担当の人から電話が入った。「お車の調子いかがですか?9月は定期点検が入っています。日時をまたお知らせください。」
「はい、おかげさまで、特に問題ないです。日時は後日決めてから電話します。」

まあ、わからなくともよいことにした。
そのままここに書こう。
と、いうことで、、、。



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本当のところは、分からない。決定不能。後は記述法。

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何か問題があって、その解決にあたるとして、単純な機械的なケースであれば、ここのケーブルが抜けていたから挿して、で終わってしまうことも少なくはない。これは単なる見落としに近い。あるいはうっかり、とか。
しかし、われわれの問題の多くは、解決不能であり、問題とはズレたところの何らかの同意で解消されたり、が大抵のものだ。
そこに関わる人たちの気持ちの問題である。大事である。
厳密に追うと自己言及性のパラドクスに行き着くこともある。かなり理論的に掘り下げるとだが。
これはそれを包含する(メタレベルの)理論があれば解決するが、それがなければ決定不能のままだ。

究極的に物事を詰めてゆくと、内側から崩れることが、なんにでも解明されている。
論理ー数学が基礎的に孕んだものだ。
コンピュータはその上に立って大丈夫なのか?

ついでにAIがそもそも分からない。
ヒトとコンピュータ
意識と演算能力、全く違う原理を持ったものをどう結ぶというのか?
よくコンピュータがこのままスペックを上げてゆくと「意識が生まれるかも知れない」ってTVで言っているが、当の意識について何か知ってることでもあるのか?
知りようもない、原理的に対象化不可能なものをもって生まれるもなにもないだろうに。

そもそもなんでまた人間ーロボットを作りたがるのか?
死んだ神に任せるしかないことだ。
かつての絶対的メタレベル。
AIは多分永遠に不毛で、アンドロイドは10億年たっても原理的に無理だと思うけど。

今生きてる神は、AKBの女の子たちだ。(別に乃木坂46でもいいけど、、、わたしとしては、こっちの方が好きだ?生田さんとか素晴らしいではないか!)
フェイスブックとかですぐお友達にはなれる。
もっともページの管理とかは事務所のスタッフがしているのだろうけど。
本人も見たこともないかも知れない。気づいてないかも知れない、自分のフェイスブック。
虚しい記号関係。
このレベルでは、カンケイなどと呼べる域ではない。
ではどういうレベルが関係なのか。
握手会に行って手を握れば、取り敢えず関係の第一歩なのか?そこで刃物を持って暴れて怪我をさせればもっと濃密な関係か?
そもそも、、、神とどういう関係を持つというのか?
しかしコンサートや握手会で逢える神々とは、身近と言えば身近だ。
教会にいってもイエスに会えるわけではない。それなら取り敢えず握手会行こうってか。
神によって自我を支えたい。他に無い。
この寄る辺なさ、この不安を引き取ってくれる慈悲深きモノ。
そうなのか?

しかし、そういうもんだろう。

形式を追求しても数学のような問題に究極においては突き当たるし
その他の領域においてメタファーとして論じても同様の決定不能に行き着く。
そのへんの経緯はグスタフ・ルネ・フォフスタッターの「ゲーテル・エッシャー・バッハ」にたっぷり論じられている。

何処においても、何においても、はっきり何も掴めない。
メタレベルの論理などそうそう身近に転がってるわけではない。
しかも、例えば精神分析のようにそのメタ論理を適用しようとも本人が納得してそれを受け入れられるかどうか。
つまりは構造化されるかどうか。
これを吟味するのは個々の意識の水面にかかっている。
受け入れられ、有用とあらば、本質論が成り立つか。
とりあえずの物語が生まれる。

メタレベルの物語ーメタファーはその都度必要だが、意識そのものー現存在(これは不正確なハイフンだが)においては、おとぎばなし(メタファー)は使えない(ハイデッガー)。


不可知を不可知と認識できればはっきりするところは、はっきりするはず。
そして知るべきものは知らないと話にならない。

わたしは相変わらず、ひりつくだけで居心地悪い。


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蝉の音 

Cryptotympana facialis

松尾芭蕉の『奥の細道』に「閑さや岩にしみ入る蝉の声」がある。
あまりに有名だ。
知らぬ人はまずいないだろう。
深い木立の中で鳴く何種類もの蝉の声を流しているYouTubeのビデオもよくみかける。
あえて聞こうとは思わぬが。
そう言えばセミは羽化する。
あれを見てしまうと、やはり外骨格。われわれとの接点などあるものか、と思ってしまう。
他者という以外の何者でもない。
異星人や地底人の方が親しみがありそうに思う。


これはさておき、蝉が啼く。
夕方になってもなおも、蝉の鳴き声が止まない。
一向に止む気配がない。
厚く響き渡る。
一定時間、音が壁のような抵抗となって持続し、途切れたかと思うとほんの少し趣の異なる次が確かな強度で、続く。

一定数のグループが順番に啼いてリレーしているようにも窺える。
その空間の隙間を強迫的に埋め尽くそうとする稠密な音。
神経症の響きだ。
わたしを殊更に居た堪れなくさせる。

岩に染み入る、、、とはよく詠ったものだ。

これは単に観測の問題か?

何時しか啼き声であることが曖昧になる。
とは言え、何か他の音になるわけではない。単に名状し難い音の厚みとなる。
そしてわたしたちには同調し難いリズム。
反復が永劫に続くのではないかという不安を高まらせながら。
長い吐息、風、波、、、。
自然の露呈。


クーラーの効いた部屋の窓越しに揺らぐ湿気を含んだ残酷な熱射の光景に交る音。
決して近づけない異物であり他者の音。
この、感覚の錯乱。
周りの空間は占拠された。
夏の宵を埋め尽くす圧倒する自然。
そうこれは夏の自然だ。寄る辺ない冷気の窓の外に見る残酷な光景。

これに単調に上がる花火などが加わればもう究極の孤絶である。
この部屋はエントロピーの舞台となる。



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陶芸粘土はくせになる。

陶芸はまだ続いた。
またもや、チョイと作ってしまいました。今日はごく短時間空いたので、やっしまいました。
1.円筒形筆入れ(マスコット管理もね)
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[これはカップではない]というメッセージとして、上部に8つの穴が空いてます。
これにジュースを入れたら悲惨だと見て取る人と、チョイとスリルを楽しむか、という人がいるかなあ?まずいないと思います。
これは、以前、写真にも撮らなかったプレモデルの存在をお伝えしましたが、それと同格のものです。但し、これについてはしっかり使えます。ペンたてにしても、十分な使い勝手があります。特に特異な取手は便利です。8つの穴は紐のついたホッペちゃんのようなマスコットアイテムを吊るして管理に役立てます。ペンたてには、アイカツやプリキュア鉛筆などを立てて下さい。

2.タイプF-3
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明らかに小型で、シリーズGに入れても良いのですが、形も動物を抽象してますし。
作りは紛れもなくFシリーズなので、そちらにします。
このタイプを気に入ってくださる人が結構いましたので、また知らないうちに作っていました(笑
Fの小型版と見て下さい。

と言うことで、また作る可能性も匂わせて終わります(笑


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ピカソの”夢”が好き

わたしは、今日は一日中眠くて、何もできなかった。
昨日、遅くまでブログを書いていたためというなら、それはそれで眠気の意味もある。
だが、昨日はブログをサボって書かなかったのである。
文字通りのサボりである。
何たることか。
それでいて今日は一日中欠伸のし通しである。

これをもって、堕落と言う。
情けない。
どうにもならない。
どちらかというと、これがわたしの常態に近いのだ。

ともかく、眠りたい。
素敵な夢を見たい。
夢?

わたしは、ピカソの絵では、「ゲルニカ」や「アビニョンの娘たち」より”夢”が好きだ。
女性が眠りながら周囲に溶け込んでゆくようでいて、賑やかな配色でどちらかと言うと、眠りを妨げるような絵である。
夢にこれだけ補色関係が積極的に使われているのは、それだけ活き活きした夢を観ているのか。
眼は閉じていても眠っていないのか?白昼夢?
でもわたしも、覚醒時よりも明晰な夢の世界にいた覚えは何度もある。
きっと、この配色は非常に覚醒した明晰な夢を見ていることを示しているのでは。
とすれば、このあとの目覚め時が勝負だ!
それを有効に活用し得る作家が傑作を生む!
これはそうとう美しく活性化した創造的な夢に違いない。
モデルは愛人「マリー・テレーズ」、やはり良い絵だ。
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しかし今日の憧れは、ベッドでゆっくり眠りたい、ひたすらそうであった、、、。
その究極はジョルジオーネの”眠れるヴィーナス”の世界か。
これも私の好きな絵の一つである。
優美なヴィーナスが文字通り気持ち良さそうに眠っている。
高貴で詩情溢れる穏やかな眠りである。
夢も見ているかもしれない。
全体としては官能的かつ神秘的な絵といえよう。
観れば観るほどに神聖な眠りである。
しかも美しい。
Venus dormida


あとすぐに気づくのが、アンリ・ルソーの”夢”だ。
こちらはもう、夢の世界―内容だ。
ルソーだから、当然アーティフィシャルな南洋の森の中である。
鮮明な夢だが、夢は大概、現実よりも鮮明である。
鳥やトラやライオン、その他にも潜む大きな動物たち。
ここは常温かクーラーも効いているかも。
素敵な夢であるが、このようなタイプの絵は模倣者がつきやすい。
きっと、素敵な夢の世界であるからだ。悪夢は悪夢で真似され易いが。
Henri Rousseau Il sogno


夢は、未だに神秘的で魅力に溢れる題材となる。

眠ろう。
もう眠ります。
お休みなさーい♡




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さて、いつも通りの生活を、、、

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ほっと一息。
いつも通りの生活に戻ろう。
うちは、またTVの重要性が高まっている。
子供のせい、いや、普通の「家族」生活を営んでいるせいだろう。
わたしが以前、東京の自分のマンションにいたころ、TVは年に数分しか見ない時期が数年間続いた。
はっきり言って、自分ひとりではTVを見る必要性が感じられなかった。
何故か?本を読んでいたからだ。TVやネットはむしろ鬱陶しいものだった。
閃きは感じることはあっても、体系的な展開というものがない。
これだと背骨ができない。
バラバラなものを統御・編集までもっていけない。
作ることができないと、その主体もできない。(作る過程で主体も生成されてゆくのだと思う)
もともとわれわれは受身世代なのだし。

それはそうと、、、。

NHKの受信料を払うのも(自動の振り落としを組んでいたからしかたないが)妙な気分だった。
しかしTV自体は置物同然でも持っていたから、どうにもならない。無骨な置物だった。
テレビや冷蔵庫などの家電はかつてのウイリアム・モリスのアーツアンドクラフツなどの工芸製品の流れやAppleのようなインダストリアルデザインの波を被ったことがあっただろうか?
パソコンだって勿論、スティーブ・ジョブス―Apple 以前はとんでもない箱であった。
椅子やテーブルなどには意識的な流れつくづく感じるが。
やはり他のものとの関係はアンバランスである。

いや、その話ではなく、、、。

わたしはBS最初期のころ(1と2だけのころ)お皿を立てて観ていたら、激しい雨の時画面が乱れてよく見えなかったという経験を以前ここで書いたが、それは設置上の問題であって、BS固有の問題ではないようだ。
(何処の電気屋に設置してもらったっけ)
特に、最近は性能も上がったこともあり、雨で見れないくらいならとっくに消えてなくなってるはず。
今回、ニューロ光にNTTフレッツ光から変えることにした。
それはまずネットの速度が段違いに速くなること。(Wi-Fiの速さ)
雪の時以外は天候は気にすることはない、ということからお皿へ戻ることへの懸念が無くなった。
よって、光ネットからTVを切り離すことにおける不安はほぼ払しょくされた。
初期費用だけで、この先TVにかかる費用はないし。

ネットのプロバイダーは、SO-NETになるみたいだ。
困ったな。今の、ocnのメールアカウントをあちこちで使いまくっている。
たしか、それも多少の費用負担で継続使用が可能のはずだが。

今日、業者が見積に来たが、今後はうまいタイミングで工事と、契約解除を組むこと。
空白は作りたくない。
わたしはいまだにそれほどTVは見ないが、次女は彼女専用の番組プログラムをもっている。
見ると言ったら絶対見る女だ。
今回の旅行中見れないTV番組を全部で7つわたしは次女に言われた通りに予約録画している。
帰って来てから、ちゃんと見れないとえらいことになる。
特に「妖怪ウォッチ」と「アイカツ」は外せない。それに加えて「黒田官兵衛」である。シブイ。渋すぎる。
その点、長女は見れたら見るし、見れなければそれでよいという拘らない人だ。
アウトプットにおいては、時折鬼気迫るものを感じるが。

思いは本当に散り散りに現れる。
しかし、意識というものはそんなものだ。
だから、このような線状的(リニアな)記述形式はどうもそぐわない。
事物―諸表象とイメージー言葉の関係もさらにその記述形式についてもである。
そう、ことばの発声についてもそうだ。発話か。

ネットとかTVとかそれらのツールは単なるツールに過ぎない。
バーチャル度がいくら高まってもスペックが上がろうとも、あくまでも単なるバーチャル精度の高まりに過ぎない。
生活の中でのそれらの置き方には、意識したい。
無理やりまとめても意味がない。


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また、作ってしまった粘土~手を動かす。頭は休む。

今度はかなりプリミティブです(笑
まさか大人が作ったものじゃないよね、という感じのものです。
自分のルーツを探るような(そんな大げさなものではなく)探求的な要素は全くない遊びです。
クレーのように迫りたい憧れはありますが。
ともかく、生活の中で使えるもの、という縛りです。


まあ、ついでですが、秘められた何かが顕になるとか隠されたものが見つかるとか、そんなことは、構造というスタティックな本質を捉えるという類の物語に過ぎません。
勿論、何かを説明しなければならない時には、何らかのメタレヴェルからの構造化が必要だったりしますが、しかしその説明(体系)に納得するかどうかは、やはり現存在の意識の問題です。
意識の水面からたちあがるもの。
それによる。
納得できるかどうか。
ですから、構造化が悪いというものではない。
納得できる本質が提示できれば、それはそれで有用であったりはする。

物語はすべて何かの翻訳か、そうアナロジーということばがあった。
存在の記述について、おとぎばなしは一切使わない、というところからハイデッガーは出発した、と認識しています。

物は使用目的によってその都度異なるものとして立ち現れます。
われわれの価値意識によって物とその由来は決まります。
しかし意識はいやわれわれという身体は、その生成原理が異なります。
この諸表象がどうやってこのように立ち現れているのか。
つまり知ることの原理的にできない縁から存在、いや物に対する現存在と呼ばれるべきそれは、不可知を孕みつつ屹立してきます。


なにをわたしは言いたいのか?
そう、物を作ることは、何らかのズラシで異なる物を立ち上げることであり、隠された何かをえぐり出すとかいう物語に無理に加担することはない、ということです。


とか言い訳?を置いて。
今日、ともかく頭を使う仕事はしたくない。
気持ちをスッキリさせリフレッシュしたい。
それから考えるべきことを考えよう、ということで、手に任せたものです。

1.モモンガの小物置き   とりあえず、前に作った「小動物Gシリーズ」とは明らかに作りが違うので、そのままの名前です。タイプに属しません。(退行したかも?)
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2.海子ガメの鉛筆たて   これもまんま。しかし作りからいうと、タイプGにこれは入れてもよい。
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3.タイプF-2    タイプFの亜流のようなもの。Fの評判が良かったため、知らず作っていた。
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4.ひよけざる    有袋類のひよけざるです。子供がいます。ドラマです。直線的で幾何学的なシンプルな置物が、かなり有機的プリミティブな形になってきました。(退行か、、、そう言えば欧米かというのがあったな)
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これらを午前にごく短時間で作りました。
結構、手を感覚的に動かすことは、スキットします。
ちょっと面白いものをストイックにならずに作る。
それから使えるものにすれば、飾る圧迫感も解消されます。


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”Wuthering Heights” 嵐が丘 ~ Kate Bush

”Wuthering Heights”が聴きたくなった。

Kate Bush.のデビュー曲で1978年1月リリース。
1年前の19歳の時の作品(14歳のときに原曲は作っていたらしい)。彼女の本名は”キャサリン”だそうです。
恐らくこの曲をまず最初に出したかったのか。
全英チャートNO.1の曲です。

Out on the winding windy moors we'd roll and fall in green
You had a temper like my jealousy too hot too greedy

How could you leave me when I needed to possess you?
I hated you I loved you too

Bad dreams in the night
They told me I was going to lose the fight
Leave behind my Wuthering Wuthering Wuthering Heights

*Heathcliff
it's me, Cathy, I've come home and I'm so cold
Let me in your window

Oh it gets dark it gets lonely on the other side from you I pine a lot I find the lot
Falls through without you.

I'm coming back love cruel Heathcliff
My one dream
My only master

Too long I roam in the night
I'm coming back to his side to put it right
I'm coming home to Wuthering Wuthering Wuthering Heights

*repeat

Oh let me have it let me grab your soul away
Oh let me have it let me grab your soul away
You know it's me Cathy.

*repeat



風の吹きすさぶ荒地でわたしたちは緑の茂みを転がり落ちた
あなたの気性はわたしの嫉妬こころのようにあまりに熱く貪欲だった
よくおきざりにしたわね
あなたを独り占めにしたかったのに
大嫌いよあまりに好きで

夜の悪夢が訪れ
わたしの負けだとみんなが言うの
嵐の吹きすさぶ嵐が丘を立ち去って

ヒースクリフ
わたしよ
キャシーよ
戻ってきたの
とても寒いの
窓から私を入れて

あなたのいない世界は
とても暗くて寂しい
激しく焦がれやがて悟ったの
あなたなしでは
わたしは負けてゆくのだと

残酷な愛しいヒースクリフ
わたしはあなたのもとへ帰るわ
わたしのひとつだけの夢わたしのたったひとりの主

あまりに長い夜を彷徨ってきたけど
彼のもとでやり直すことにしたわ
風の吹きすさぶ
ふるさとへ
嵐が丘へ

ヒースクリフ
わたしよ
キャシーよ
戻ってきたの
とても寒いの
窓から私を入れて

ああ、あなたの魂、すべてが欲しい
わかるでしょ、わたしよ、キャシーよ

ヒースクリフ
わたしよ
キャシーよ
戻ってきたの
とても寒いの
窓から私を入れて



だいぶ前ですが遊佐未森さんが”嵐が丘”歌っているのを貼り付けたことがあります。
どこだったか忘れました。
普段綺麗で優しい牧歌的な歌の多い遊佐さんがかなり鬼気迫っていました。美には狂気が混じっています。
狂気が混じってゆきます。



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信じることの揺らぎ

実に人間の精神は繊細極まりない。
自分を省みても、本当に些細な言葉でスッと楽になったり、ちょっとした言葉の端に深く沈んだり、、、。
意識とはそういうものではないか?

さらに自分が傷つくならそれだけのものだが、尊敬するヒトを思わず傷つけてしまったときの悔恨と戸惑いはそんなものではない。

ひとつ気づくのは、われわれはテクノロジーにかなり翻弄されていること。
やはりSNSとかで顔・人格・身体として関わらず、身体性の欠けた言葉(しかしことばは大きいものだ)だけで関わっていることは、危うい。
ひとつテクノロジー上の事故があると、それがおおきなメッセージと化して言葉の関係を凌駕してしまう面がある。
モバイルガジェットなどが深くヒトの身体と化してしまっており、その動きが便利な反面とんでもなく融通が利かない。
デジタルの悪い面が時に際立つ。
われわれの関係までon/offにしてしまう。
これは紛れもないITデヴァイスの身体化により始めて可能となるはずのものだ。

ローテックなもののアナログ性がヒトには大変優しく作用することはもっと注視してもらいたい。
本は未だに紙の本の方が読書においては、あらゆる面で優れている。
とは言え、わたしはタブレットで本の読書経験を凌ぐものが出ることを願っている。
斜め読み(飛躍的ページ移動)や複数同時に閲覧出来るような自在性を持つものだ。
美しい質感を持った表紙は当然必須だ。カラーは極限まで出せるようにしてもらいたい。
帯も無ければ納得しない人もいるはずだ。
しかし開発側は確実に努力している。
かえって今の普通の書店こそつまらない。
良いデヴァイスの開発こそを願う。
そのためにも十分、ローテックの良さを吸収してもらいたい。

いずれにせよ、本そのものが存続するかしないかはともかく、ITデジタルデヴァイスの拡大はさらに加速することは間違えのない事実である以上、そちらがアナログのよい部分を取り込んで統合してもらうことを期待したい。

そのへんから身体性がまた変わってくると思われる。
きっと信じられることばが帰ってくる。
もっと優しくゆったりした関係が生まれてくる。

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「危機」

「危機」と言っても、フッサールの「西洋近代諸学の危機と超越論的現象学」についてではありません。
私自身の危機であり、当ブログ存続の危機でもあります。

私にとってもっとも大切なメールを誤操作で消してしまったのです。
お送り下さった方には何とお詫びを申し上げればよいか分かりません。

全ての原因は私にありますが、単に不注意だったで済ませて良いのものか。
問題点に当たってみます。

まず現状。
・電車通勤の時間で結構面倒で細かなブログ更新や編集は操作上無理がある。
・乗り換え時で上手く作業が切れず、エスカレーター上でも続けたりするのは、誤操作を誘発しやすい。
・何故か家でもファイルダウンロード中にキャンセルボタンを平気で押している。
・あたらしいファイルが見当たらないので調べたら知らずに破棄していたようだ。


つまり、悪い操作環境で作業を無理に進めていた。しかも、最近特に注意力が散慢になり、集中力も衰えているようである。
この現状に早く気づき、ブログについてはアップも減らし、ゆったりと寝る前に一言二言書いて終了とするべきだったか。
しかし、日にひとつほどは書きたいことが自然に出てくる。まるでご隠居の乗りだろうか?
書くべきことがない際は書かないのだが。取り敢えず書きたいことは書いておきたい。これは無理もない。
いざやるとなると、あまりスムーズには進まないことが分かる。心地よさがない。これは作業をするにおいて問題である。


そもそも操作環境はどうなのか?
iPhone(または使用ソフト)のINTERFACEについて。
字が小さい。いちいちズームしながらの作業ははかどらない。もっと困るのは押しづらい。誤入力はかなりの確率で起きる。
しかも作業中のミスタッチが時にとんでもないことを引き起こす。
今回のように!
これはブログ(ソフト)によって異なるが操作メニューや操作画面のボタン配列。新規入力と削除がピッタリ並んでいる。しかもその画面でコメント管理に行くと、誤って削除を一回押せばもう回復不能の削除となる。普通一度は本当に削除して良いですか、と聞いてくるものだが。わたしがプログラマーなら絶対そうする。


はっきり言って、リアルに物を書くのが一番便利で効率も良い。
平安時代の歌詠みみたいに。いまだ、紙に筆を超えていない。

椅子にドッカと座り、大画面PCで(または15インチノートでもよい)作業もそこそこストレスなくこなせる。
まず字が十分な大きさで見ることができ、キー操作(やはりキーボードに勝るものはない)がし易い。
全体が一望でき、複数画面を同時に俯瞰して比較でき、すぐに必要記事が呼び出せれば、システムエラーなどによるフリーズやシャットダウンさえなければ特に問題なく最後まで進む。(今であれば、放熱処理であるが、そのための冷却装置はノートの下で有効に稼働しており、パームレストも熱くはない。)

改めて言いたいことは、スマフォやタブレットで文を読んだり、書いたりはまだまだ発展途上だ。こんなものでは、とうてい満足できない現状であることは間違いない、ということ。


ここのところ、メール=コミュニケーション・ツールに振り回されている。

必要な時にバッテリーを切らし連絡が来ないとか人為的な問題もあるし、上記のような危ういツールを使っているという自覚が大切で、心してかからなければならないことは言うまでもないのだが。
今回の一連の、特に今朝の誤操作のなかでも厄介な誤削除は本当に気をつけなければならない事項だ。
わたしもついこの間まで、職場でITの主任を長年やってきたがそれは一番困るミスの一つだ。
しかしLost Dataの復旧の対策は3重に講じていた(トラッシュ設置、レイド5設定、サーバー自体の丸ごとバックアップ)からそれで深刻な問題に繋がることはなかった。だが、削除されたことに気づくまでの時間が空費される。(普通自分が探せないとまず思い、ひたすら彷徨う。)

個々の個別のアプリケーションの問題は多いが、ツール自体ハード的にもまだまだであることは確かで、大幅な改良いや革新を望む。またそれに最適化された基本ソフトと、そして各ベンダーに間違いない開発モジュール提供ができれば問題ない。
スティーブ・ジョブス亡くなるのが早すぎた。

誤操作関係は、ユーザーの注意、心がけによって回避できるものであるが、それは危うい。
ユーザーは生身であり、生理的状態やモバイルガジェット使用中の周囲の環境は様々である。
いかに人間工学に基づいたヒューマンインターフェイスが構想されているのか、あまりそのへんが感じられない。


そして、ブログに届けられるコメント・メッセージなどは、当事者間においてはとてつもなくナイーブで貴重で重要なものである。ヒトとヒトをとりもつツールである以上、条件が最悪の環境下でも、少しでも早くそれを読みたいという者の気持ちをもっと安全に保証するものであってほしい。これでさらに創造的関係が築けたり、壊れる関係も十分に有り得るのだから。
生身の私としての反省は、今後くれぐれもツールには落ち着いて関わり危うい使い方をしない。
これ以上何ともしようもない。

そしてヒトは間違えるものだということが基本認識としてないツール(ハード)とアプリケーションは、使えない。

しかし、ミスはすべてわたしの責任にあることは確かです。
深くお詫びします。


それから、他人のコメント欄に下劣極まりない商売コメントを無神経に載せてくる輩については、単にスパム警告と迷惑メール指定だけでなく、もっと根本的な手段を講じるつもりだ。そのへんのわたしの早急なコメント削除についても、今回の件に誤解とナーバスな影響を与えてしまう元となったことは否めない。これについては、わたしの怒りも限界に来ている。


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宮古島での潮だまり小宇宙の想い出

海岸では、干潮時に潮だまりができる。
満潮時に岩場に入り込んだいろいろな魚が閉じ込められている。
(理科の先生ならば小さな魚の観察には絶好の機会と言うはず)

そのタイドプールを覗き込むと、奇麗で鮮やかな彩の魚が思うままに泳ぎ回っている。
目を凝らせば、大小様々な魚の他にカニ・ヤドカリも見つけられる。

こんなところにという驚きと、ほんのひと時とは言え、永遠を感じさせる楽園を想う。

フジツボやカサゴに気をつけ、入り込んでみる。

BGMはスプリットエンズの”Time and Tide”にしよう。
オールディーズであるが夏にこれほど爽やかなサウンドはない。
きらきら輝く水面にもっとも相応しい。

さて魚の中には、いろいろなものがいる。
変わり種が沢山いる。というより地味なものを探す方が難しい。
とびぬけた実験や試みをからだを張って行っている魚たち。

みのあんこう、ふうらいうお、くまどり‥‥形や色彩・配色ではまさにお手本。
圧倒的で、限度を超えた面白さ。である。
他にもいざりうお、クリオネ、ハリセンボン‥のお馴染み有名どころ。
ピクサーの人気キャラもここから来た?

形だけでなく行動、行為がとびぬけているのは、
それこそいろいろだが、
逆立ちして泳ぐべこあゆ、砂底を歩いてしまうほうぼう、てっぽううお、とか楽しいものたち。
そう、特にわたしが好きなのは、泥団子を口から次々出してゆくコメツキガニ。泥から養分を濾し、カスをきれいに丸めて並べる姿は職人芸を見るような。
ただ魚の世界は楽しいだけでは済まない。
人間にも至る潜在的な特性がここでもはっきり見受けられる。人はあくまで言葉や道具で、かれらは自らの身でそれを表現する。

他の魚たちの体や口の中を掃除する、ほんそめかけべら。
この信用に基づいた共生関係を利用(悪用)し、ほんそめ‥にソックリな、せくろすじぎんぽは自分も掃除するようなそぶりで相手に近づき、口をあーんと開けて待っている魚を食べてしまう。これは大した玉だ!
人間界に蔓延する詐欺師の大先輩に当たる。それもかなりの上級者の。

おとめえびも魚の掃除係だ。ニモにも出演して良い味を出していた。

オスがメスに貼り付き、栄養を補給する魚、提灯アンコウ。
これも人間界のひとつの定番「ひも」か?

発光に関しては、しびれえいも忘れてはならない。
無論、ホタルイカもだ。しかも群れをなして大発光。花火・お祭り好きにはファンが多い。言うまでも無いが酒飲みにも。

偽餌をちらつかせて捕食するいざりうお。
これも騙しの手口としては基本中の基本。王道だ。

擬態するタコ。何となれば墨も吹く(タコは広範囲に煙幕として、イカは自分の擬態のように濃密に)
海底の砂に隠れるエイ。これも襲いかかるための擬態だ。忍者の師匠である。アートでもある。芸術家の系譜に入る。

毒で殺すごんずい。オコゼ(これは見事な汚れ役だ)。
毒を盛るのももはや流行り廃れのない方法として歴史的に定着している。

成長に従い性転換するものたち。
これも人間の追従者は多い。

みな偉大な海の先駆者たちである。

おお、彼らだけの特技。
ひげやひれで味をみたり、
口の中で卵を守るネンブツダイ。
一度に3億個の卵を産むマンボウ!
海中を卵の群れが埋め尽くす・・・・・・

大きく脱線している。いや転覆か?
ここで挙げたほとんどのものは、果敢ない潮だまりには迷い込まない。
われわれは足を怪我せぬよう、厚底のシューズを履いていれば大丈夫だ。

それにしても魚の話がことごとくヒトを照射するはめに。
魚と人間は結構似ているのだ。
趣味や考える事において。


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日本航空123便墜落事故が起きた日に。

全ては他者に対する想像力の問題である。

30年経ってこの日はいよいよナーバスな日になっている。
TVでも特集も組まれている。
そんな日に、よりによって。

こちらとむこうの温度差の激しさを痛感することとなった。

およそ予定より5時間を超えて、LINEでバッテリー切れによる遅れの連絡が入った。
子供たちは向こうの家で元気にはしゃいでいるという。

こちらの心配など全く関心の外である。
だいたい、その日の昼過ぎに1報入れるだけの連絡が出来ないほど、スマフォンのバッテリーを何に使っているのか?
まず、最優先に連絡を入れなければならないところはどこなのか?

いろいろいらぬ想像を巡らせてしまい、次女がふらふらしていて、何処かでいなくなってしまったのか‥‥。
あちこちで愛想を振りまくのが取り柄の娘だ。
本当に心配してしまった。

杜撰かつ無神経な行動としか言えない。
わたしは特にiPhone は バッテリーの消費が激しいため、常に2回分充電できる充電器を持ち歩いている。
充電器を過去に何度も勧めたが邪魔になると言って取り合わない。
せめて充電の確認(準備)そして残量を気にして目的に合わせて使うようにしてもらいたい。

とは言え、これは使い方の問題ではない。

全ては他者に対する想像力の問題である。


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今日、娘たち出発。(この時期3回目。原発事故時含め4回目。)

次女の頭も心配なさそうなので、3人は予定通り8時20分にリムジンバスに乗って、羽田に向かった。
天候も大丈夫だろう。

羽田に着いた連絡は予定した時間にすぐにきたが、現地に到着予定時間を3時間半過ぎても連絡が来ない。
バッテリーが無くなって補給が出来ずにいるのか?
間抜けな事態なのか、深刻な状況なのか、分からない。
個人レヴェルの問題か。
ネットで調べても分からない。


空虚が張りつめる。

すべての運動が凍てつく。


来るべきものが来ない。
宙吊りのことばが。
揺れながら線香花火のように消える。

待つことも手を伸ばすことも聴くことも出来ない。

停止。


眠りに入って観てみる。


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折り紙を長女に習う。 ~ 明日から彼女らは海外旅行に

eri001.jpg長女が自主的に工作した担任の先生(自分のカメラで撮影。何故かわたしのMacBook Airの上で)

長女は絵も音楽も好きだが、一番こちらを驚かせるのは立体造形―工作で、特に折り紙には独自の研究も進めており、鶴と手裏剣についてはわれわれが教えてもらった。折り紙は、うちの大人では到底かなわない。
どうやら彼女は折り方を機械的に覚えているのではなく、正方形の紙が折られて形になってゆく流れを構造的に全体を俯瞰して把握しているようだ。ある形の折り方を覚える早さと理解がわれわれとは違う。

それに考えてみると、折り紙などこれまで1度も教えたことが無い。
幼稚園で簡単なものを先生が教えてくれる前から、何故か紙を織り込んで何かを作っていた。
作っている時だけは、まるでいないかのように静かに没頭している。
(反対に歌を唱っている時の存在感は圧倒的で、ワニの吠え方よりも恐らく凄い。)
鶴とか手裏剣等を教えられるとすぐにレパートリーに入れてしまい、それを利用して面白い彼女だけの立体工作にしてしまう。工作道具も手放せないマストアイテムとなっている。
(まるでさつきから傘を貰ったトトロみたいに)
本人にとっては、特に難しいことをしたい意識はなく、何か作りたいものがあって、それを作っているに過ぎない。
もういくつも友達や先生、親にもバーバにもプレゼントしている。
わたしもしまいこんでいるものが幾つもある。

上の写真は多分先生シリーズ第一弾で、一年ほど前に作っており、彼女のカメラのSDカードに入っていたものだ。
明日からの旅行でかなり撮るはずなので、彼女のパソコンに画像をコピーしておこうと思い発見した。
元作品は明日探す予定。(たくさん出てくるはず)
ほとんど写真は姉妹でのお洒落姿(時にはとんでもない格好だったりする)を撮り合ったり、買ってもらった可愛いグッズが写っていたりが多いのだが、時折変なものの上に乗せて、自分の作品(自分が作ったデザート等も含む)を撮っていることがある。

明日から彼女らは旅行で出かけているので、おもちゃ箱などを探しこれまでの作品を集めて保管・整理しておきたいと思う。
ともかく作ることが楽しく、人に見せてから後の保管については長女は全く無頓着である。
写真に撮るのもそれを残すという意識はなく、ただいろいろ撮ってみたいだけで、たまたまその中に作品も入っていることがあるというだけだ。

作りたいものがあって、一心に作っているときは、一番幸福な状況だと思う。
自分を振り返ってもそうだ。
少なくとも疲れという概念はなかった。
自分が他の目的のために(外部システムにのっとって)仕事をすることで人というものは疲弊し老いてゆくのだ。
それで磨り減ってしまう感性など所詮それだけのものだなどとよく言われるが、果たしてそうか?
これから、自意識ができてきて、知見が広まり、他者が見え、自分が対象化されてくると、どうなってゆくのか?
それでも動かしがたい価値(拘りとは違う)意識がはっきりあるなら、
その頃も相変わらず、何かを一生懸命作っているようなら、その方向に進んでもらいたい。
学校が近いので、親としては女子美に入れたい。
うちから通えることが一番なので。

気の遠くなるほど先の話だが。
基本、一生続けられる好きなことを精一杯やらせてあげたい。


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暴風雨注意報がわたしのエリアでも出る~がそれだけではなかった!

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車の左後輪で大切にしていた多肉植物をひとつ鉢ごと轢いてしまった。
今日1日掛りで妻と娘たちがスパリゾートホテルに遊びに行っており、夕刻迎えに来るように連絡が入ったため、車を出したときのことであった。
いつの間に棚から落ちたのか、見事に轢いてしまっていた。
ただし、多肉なら、修復はいくらでも効く。アニメに見る不死身のキャラさながらに。
秋には何とかしておこう。
しかしタイヤに鋭く刺さるような形で割れている陶器の鉢の破片が気になる。
トヨタで見て貰った方が良いかも、と思いながら車を出した。
嫌な感じだ。少しイライラする。


ここのところ、突然の風雨もあり、夏休みの我が家の行事は様子見状態になっていた。
一つは、ディズニーリゾートへホテルを取っての丸一日のお楽しみもまだ、予約を取れず。
もう一つは新江ノ島水族館「ナイトアクアリウム」 の大水槽で3Dプロジェクションマッピング を堪能したいとのこと。
とは言え、なかなか実現せず、園のお泊まり会でも飽き足らず、家で喧嘩ばかりしているので、幼稚園のお友達家族とスパリゾートで落ち合い遊ぶこととなったものだ。
折しも、全国区TVで暴風雨警報の堂々と出された日にである。


わたしは今ひとつ、3Dプロジェクションマッピングというものがよく分からないのだが、映画がスクリーンに映像を映すのと基本的に同じだと思うが、ただそれを意外な場所に写して見せているだけのことだと理解している。だとすれば、水槽という対象に映すのは魚たちの様々な動きや水の透明な流れやそれらの影響で生じる多彩な光の表情が加わり、どこかの壁などを使うより複雑な効果が得られるだろうなと想像はできる。特に3D画像も魚との融合を考えると、緩急の動きやシンクロ、奥行を工夫し面白いものがつくれる余地も大きいはず。

さらに娘達が最近見たファインディング・ニモに被らせて想像を膨らめていることも確かで、彼女らがその気でなければわざわざ行く気は起きなかったと思う。
ただ、近くの宇宙科学研究所にある”はやぶさ”を観て思ったが、これらのものは記念碑としてもオブジェとしてもしばし見入ってしまう味がある。
新江ノ島水族館には引退した”しんかい2000”が置いてある。ただ置いとくだけでなく、いつでも潜れるように定期的にメンテを施しつつ展示しているという。確かに相模湾にはよく潜っていたようだし。良いところで余生を送っている、”しんかい2000”にちょっと逢ってみたい。
ついでに群れなす魚や亀、クラゲ、マッコウクジラなども。昼間のうちにイルカショー、一度出てお昼をゆっくり食べ散歩などして再入場、夕方(夜)には「ナイトアクアリウム」と思っている。恐らく誰でもそうだろうが。


さて、例の呼び出されたスパリゾート前につくと、エントランスからガラス越しに3人ともこちらが確認できる場所におり、すぐに風の中をこちらに向け飛び出て来た。
車に乗り込むと次女がずっとメソメソ泣いている。
今日は温泉を誰よりも楽しみにしていた次女だ。
クラスの誰より仲の良い男の子の家族と一緒でもある。(それが一番嬉しかったはず)
どうしたのか聞くと、「お風呂で転んで頭をぶつけたの」ということ。

なんとまあ、、、。
絶句である。
にこやかに帰って来るとばかり信じていたのに。
世の中何が在るか分からない。
風が強いことから多肉の上棚から鉢が落下することくらいは想定内におかなければならないが。
(あるいは悪い予感か?synchronicityを感じる。)
浴槽から出て、普通に歩いていて足を滑らし頭を打つなど。
水が床上をかなり溢れていたのだそうだ。
帰宅後もしばらくの間、泣いていた。
今夜は様子を注意して見てみるつもりだが、こういうのは一番まずいパタンだ。

自然に対する身体の対応を少し研ぎ澄まさねば。
もうすぐにも国外に彼女らは飛び立つ予定が入っている。(3人での海外旅行)
くれぐれも無理はさせないようにしたい。


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ネクサス5を触ってみた Yahoo!でも替えない。

mac pro

わたしはずっとiPhoneで、家ではMacを趣味に使い、仕事でWin。
とよくあるパタンで過ごしている。
iPadは最近は、子供のおもちゃである。
これもよく聞く。

買い物ついでに、Yahoo!がキャリアとして、とてもお値打ち価格のスマフォ端末サービスを開始し、ハードの方もネクサス5でスペックもとっても良いし、触ってみた。
ものすごくキビキビ動くし、何とかプロセッサー2.3Ghzのクワッドコア、32GSSDもあり、画面も広い何と5インチ。HD画面は文句なし。写真は綺麗だ。動画もそうらしい。でかくて薄いのがちょっと持ちにくいが慣れだろう。アンドロイド4.4というのも慣れである。
が、入れ替えは難儀だ。しかもソフトのレヴェルで一番困る。わたしはiOSとMacOSとの間で管理している。
ということで、アンドロイドでなければ、替えるのにな、という感想を持った。

たとえ安くても、性能が良くても、今使っているiOSにデフォルトで付いているアプリケーションへの依存度が高い上、iTunesで一括管理しているデータ移動ができないと思うと、替える気になれない。
ただ、我が家は随分昔のNTT光のため、ここらでプロバイダを替えて、ちょっと料金体系を根本的に見直そうということにはなった。Yahoo!のようなお得感は得られなくとも、ダイエットはしたい。
しかし、検討をするにつけ有力な候補として挙がったのはSO-NETだが、IPTVまではカヴァーしない。

つまりお皿を付けなければならない。
どうせ付けるならBSだってなければつまらない。少なくともこれまで観てきたのだし。
とすると初期費用は結構出る。しかし、新料金体系+キャンペーン期間だと、確実に元はすぐに取れてしまう。
それに、ずっと気になっていた「速さ」が手に入る。
これはTVのこともあって半ば諦めていたのだが、TVを分離しお皿に任せようと決心したところで、世界最速をダイレクトに味わいたくなった。ということでSO-NET乗換前提の環境構築に入ることにした。なんという名前だったか?聞いた端から忘れたが。

ということで、ネットの基本部分を根本的に変えることとなった。
出来ればソフトバンクやめて、メルアドも捨てて、これまでの繋がりをうんと解除しようと思ったが、面倒なことが幾つか持ち上がりそうなので、かろうじて踏みとどまった。
5Sにいつ替えるかタイミングを見ている矢先でもあり、キャリア変更も当然考えには入ってくるというもの。
いろいろスッキリしたい。
いろいろと、切りたいものが山ほどあるし。

『カケホとデジラ』これはAUか。
『カケホーダイ&パケあえる』ならばDoCoMo。
『スマ放題』うちのSoftBank。
など、何だか眠気が出てしまう競争が3社に見られるが、ほとんど同じに思える。
そんなに特徴出すなんて出来ないよね。

そんなに特徴なんて出せるものではない。
そんななかネクサス5のサクサク、キビキビ感は心地よかった。
これからうちでもWi-Fi環境が断然速くなれば、凄まじい速度体験が出来るはず!?
期待しよう。


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跳鼓舞(ちょうこま)太鼓の舞台を観る!

2014080823005947d.jpg写真はアラマサ氏より提供
跳鼓舞を調布で見る。
日頃、お世話になっている友人が跳鼓舞というグループで太鼓のコンサートを開くというので見に行った。

勿論、太鼓に関する知識などない。どんなものかほとんど分からず会場に飛び込んだが、一言、凄かった。

なんでも跳鼓舞の50周年記念コンサートということで、海外から彼らの影響を受け彼らに太鼓を教わったという2つのグループもフルに加わり、エネルギッシュでパワフルでしかもエキゾチックな演目が揃っていた。

"かりゆしの夜"など、聴き覚えのあるものもあったが、独自の編曲でより勇壮な魅力も加わり、聴きごたえがあった。
なかでも今日のピークはテクと華麗なバチさばきの圧倒的な石狩太鼓であった。そこでの友人が主人公的な中心の位置にいたのが驚きであり、その技術は見事であった。

余程の研鑽を積んだのだろうなと思ったが、それより何よりほんとに活き活きと正に水を得た魚のように演奏していたことが印象的であった。こんなに好きなことがあり、それに身を投じていることは、きっと幸せなことであろう。

最後にわたしの音楽の琴線に最も触れたものは、アメリカオレゴン州から今回参加しているグループの作品"倭奴国"である。
外国人の笛の重奏の音が素晴らしく、マジカルでミステリアスとプログラムにあるとおり、繊細で無国籍な、ジャンルを超えた美しい響きが太鼓のリズムに鮮明に絡み、静かな感動を覚えた。
正直、前半の部の4曲目であったが、ここからわたしはこのコンサートに入り込んだと言える。倭奴国の源流を感じるサウンドであった。

POPでもクラシックでもなく、何処かの民族音楽とも特定しかねる美しい楽曲だった。
太鼓の舞台演奏というものの奥深さを味わえた、良い機会であった。
友人にお礼を言いたい。




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お泊まり会が終わり

20140801195941749.jpg写真は油絵の先生アラマサ氏より提供

今日は一日中外で子供と遊んでいた。
朝、子供をお泊まり会から引き取ってきて、一緒に”ニモ”を観て、ケーキを食べ、後何すると聞くと、
いつも行っていた公園に行きたいと。
猛暑で誰も来ていない、公園に行った。

この気候で外にいること。
遊具のスチールも大変な熱さだ。
喉も渇く。
これも尋常ではない。

何かのテストのようにも思える。
外にいるだけで低温火傷を起こしているような。
風は熱風だが異様に強い。
湿り気も多い。

終始植物の匂いに取り巻かれる。
公園の植物と熱帯植物園の匂いは違う。
植物の違いとか、晒されている外気の違いはあるかも知れない。
植物の睡眠の質の違い、夢の匂いの違いか?

われわれ親子も白昼夢のなかを彷徨っているのは間違いない。
さすがに娘2人とも、熱帯植物園に涼みに飛び込んだか、とは思ったのだが、
いつもの植物も取り敢えず見て回り、新しくたくさん入れられていた食虫植物を暫く見やって、
金鯱が大きくなったとみんなで確認し、何故か映画ホールに入る。

スクリーンには、これから先の公園の催しプログラムの説明が順番に流れていた。
ただそれだけのことだ。反復して流れているだけだ。
われわれの他には誰もいない。
しかし、かなりの間、われわれはその客席に居続けた。

娘たちは、席を替わり続ける。
わたしは急に溜まっているメールをひとつ残らず消したい衝動に駆られる。
この間3000件は消した。
わたしに来ているメールで、わたしが開くメールは少なくともここ2ヶ月間はゼロである。

ブログのメッセージあるいはコメント以外目に入らない。
娘たちはこの真っ暗な空間を小動物みたいにカサコソと移動し続けている。声を潜めて。
引いてみると。もう少し引いてみると。
一体どういう映像なのか?

ネオヌーベルバーグですらない。ダダだ。
映画スクリーンには、ただひたすら何日から何日が流されてゆく。
わたしはメールを消してゆく。
2人の6歳になりたての少女はすべての座席を攻略しようと機械的に侵攻を進めている。

言葉がなくなってゆく。
メールが消えるに従い、座席が座るところがなくなるにしたがい、
言葉のストックが世界から消えてゆく。
わたしは咄嗟に「帰るぞ!」と大声を発し、2人を引き連れ映画ブースを出、植物園もその足で出た。

あと少しいたら、車まで行き着けなかったかもしれない。
スポドリを2人に買い与えて、帰路についた。

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ファインディング・ニモ 娘と3Dも観るかどうか検討中

p400216-FNC106.jpg
Finding Nemo
2003年
アメリカ

アンドリュー・スタントン、リー・アンクリッチ監督
アンドリュー・スタントン、ボブ・ピーターソン脚本

ニモ(クマノミ、ひとつだけ残った卵から生まれる)
マーリン(ニモの過保護な父)
ドリー(忘れっぽいナンヨウハギ)

ピクサーの中でも”ニモ”は特にお気に入り映画であり、3Dの噂にも、なにもあれだけ良いものをあえてまた3D化しなくてもよいではないか、と思っていたのだが、3Dがまた素晴らしい体験だった、という声を聴くにつけ、観ようかどうしようか迷いはじめている。
海の描写が半端でなくて、まるでダイバーになったみたい、と目を輝かせて言われてしまっては、そのまま無視できない。
子供に観せたい。
一緒に観たい。
と、思うようになった。
勿論、ニモは海が舞台のとても感動的な冒険譚である。
ファンタジーである。

海については3Dをそのうち手に入れてどれほどのものか観てみよう。

うちの娘たちは海はまだまともに見た事がない。

江ノ島の海辺を少しばかり歩かせたことはある。
江ノ電に乗って。
鎌倉高校で降りて、、、。

もう覚えてないだろうし、海体験と言うには程遠い。
海の匂いと風は僅かに感じたろうが記憶に残っているとは思えない。
夕日ともども、、、。あの永遠の片鱗も。

勿論、ニモで自然を学べるものではない。
それは情報量がいかに多くても単なる映像表現であり、全く異質の形式に過ぎない。
知識にすらならない。映画としての知識とはなるだろうが。
自然は美しいとか楽しいとか癒される、というより恐ろしいものである。
もちろんそれなしでわれわれの生存は不可能なものであるが、常に死に直結し死を湛えている。
自然の偉大さは、そこにあると言ってよい。
もっとも、ニモたちにとっては人間社会が極めて危険な死と間近な世界である。
そこからのスリリングでハードな逃走劇である。
つまり、うちの娘たちがニモのもっとも危険な敵という構図でもある。
それらも含め、やはりこんな映像があるということで観せたい。


ということで、だいぶ以前に購入したDVD版”ファインディング・ニモ”を明日観せてみたいと思う。
いまは、幼稚園のお泊まり行事で始めて彼女らは家にはいない。
夜いないのは、病院に入院していたときくらいだ。
妙な気分だ。
しんっと静まりかえっている。
なにもかもがだ。
本当に静かだ。
静謐とはこんな時間を指すのだ。
この時間はどこに属するのだろう?

明日、2人が家に戻って来るまでは、恐らく全ての音も画像も意味がない。
そして明日は、2人の娘の誕生日でもある。
この時間というものは、自然なのか人間社会のものなのか?
考えてみれば、極めて意味深い場である。


ニモは一人息子と父の教育的な物語ともとれるが、わたしも改めて彼女らと一緒に観てみたい。
可愛い子には旅をさせろ、か。
ちょうど自転車にもなんとか乗り始めたところだし。
周りの危険にばかり気を取られてダメだしばかりせずに、彼女らを信頼してもっと任せてみたい。
ニモほどの冒険をいきなり始められてはかなわないが、、、
強く逞しく育ってほしい。


ちょっとお店に

ord01.jpg

デザイナーズ家具はもう20年くらい前から巷で騒がれているが。
表参道まで用事で来たので、せっかくだし家具でも見て帰りたい。
例えばインテリアでは、hhstyle.com 青山本店に行ってみると、
椅子が面白い。
取り敢えず限定モノなどの高価なものではなく形の面白いものだけ見てみる。
キッズから見ると、イームズエレファント(25200)アメリカが象そのものだった。
でかい象の飾りにも見えるが。
ティップトン(27300)イギリスが黄色い普通の椅子に見えて、座ると前傾姿勢になる。
その傾きによって端末操作時の体の姿勢をよくするそうだ。
ベジタル(39900)フランスは、まさに植物だ。
室内・外両方で使用可。植物をモチーフとしたとても座りやすい椅子。
パントンクラシック(116550)デンマーク真っ赤な椅子。一体成型の子供向けの粘土アニメに出てきそう。
これも一体成型であっても見た目より安定しており座りやすい。
ヴィグルサイドチェア(77700)カナダは、パントンクラシックのように一体成型だがもっと複雑に畳み込まれている。
素材はダンボールだ。非常に強度は高いという。
写真を撮りたいものだがさすがにそれはできない。

家具屋とカフェが一緒になっているところがこのへんは多い。
もともと、家具店とカフェは相性はよいはず。
この界隈だと、、、。
カフェ・バイ・フランフランなど。
そしてベルコモンズはあまりに有名。
こっちはテーブルがやたらと目に付く。
インポートテーブルにはやはり目を奪われるものがある。
わたしが近所の家具屋で買ったものより4万円は安いが遥かにセンスの良いものがあった。
そんなものだ(苦
妙に芸術的なものは興味ないが、面白いものがある。
例えばコロロデスク(68000)。
小窓があちこちに付いた箱型デスク。
何か小物を吊るしたり、小窓を開けたときにできる小テーブルにカップを置いたり、
巣箱にも似ているいろいろな使い方に対応するデスクだ。
お尻隠さずだが、秘密基地めいている。

わたしはこれが一番気に入った。
こういうものが時折見れるのなら、こっちの方にも隙を見て出向きたいと思った。
かつてこちらに実家がありそこで古陶器店を営んでいた知り合いの家をもう訪ねることはなくなったので、
最近は今回のように他に来る用向きがなければとてもわざわざこれなかった。
でも、実際にこういうものには触れてみるのも大事だ。

そういえば、子供の頃、ダンボール箱に頭を突っ込みしきりに何やらやっていた友達がいた。
よく分からないが、妙に集中していたように見受けられたものだ。

店で言うと他にスパイラルが有名。スパイラルカフェも。
雑貨にすごいものがある、はず。
ウェディングギフトなどはここで充分見つかる。
まだ、行ったことない。
今回行こうと思ったが、へたった。

アンティークにまで行くともう、間違っても買えるようなものはないので、スッキリ帰る事にする。
150年くらい前のものになると、本気で欲しくなるものも見つかる。
もうないだろうな。見置きは出来ないというし。
ビンテージものには味わいあるものが多い。
ただ高いだけのものも、状態がイマイチのものも少なくないが。

ともかく疲れた。
次に来るのは何年後か?

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土偶の先鋭性~恐るべき縄文

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一万六千年前の前衛。
もはや縄文を振り返るなんて古い?
いや、もともと古いなんてもんじゃない。
土偶を改めて観て、驚いた。
としか言い様がない。
美しい。

かの岡本太郎氏も舌を巻いた表現である。
最近国宝に指定されるものも増えている。
縄文の女神、縄文のビーナス、、、中空土偶、遮光器土偶
まるで、ザッキンの彫刻のように凹面と凸面を逆転したような表現。
極めて無駄のないシャープで研ぎ澄まされた面の流れ。
それでいてお尻はいかにもお尻を感じさせる。
かと思うとポテロのイデアのようなもの。
球体のみで構成されたのごとく。
とても自然に体育館座りをして和んでいる土偶。
まるでゆるキャラのような。
そして精緻な縄の目によって覆われる、生命に直接訴えかける文様。
その多彩・多様なパタン。

土偶は使用目的のある道具であったとされるが、何に使われていたのか?
何に対して使われていたのか?
よくある、豊穣のための祝祭的なアイテムとして?
危険を回避するための呪物として?
少なくとも今現在においては前衛造形である。
意味がはっきりすれば、新しいコードであり源コードである。
どうだろう?
精霊の意味。その気配のことば。
顔のない顔。顔を超えた顔。
イメージと造形の繋がり具合は。
土偶のデザインは、そのまま今の馴染んでいる様々な形態に共鳴していくフォルムーイメージも確かにもっている。

とは言え。
普遍と真実。
今一番口に出せない言葉。
この言葉とイメージそしてものとの関係が破壊された世界において
それらの言葉に
どれだけの蘇生力が戻るだろう?
土偶の過激な抽象性に関わってみたいという気持ちが沸いている。
勿論、自分の蘇生のために。
改めて、生きるために。

Exileとして不可避的に生きて、結局何も出来ないでいる。
それを自覚的に切返すコンセプチュアル・アートを考えてみたい。

すでに河原温がやり尽くしているとして、、、
こちらからの個々の場所はどう戻すのか?
いや全く新たな場所であって良い。
まずは、わたし(われわれ)に欲しいのは生命力だ!

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フェリックス・ヴァロットン ~ ボールとは何か?

varotton.jpg

フェリックス・ヴァロットン(1865~1925)
彼はモノクロの木版画による挿絵で有名な画家であるが、時折、印象派や象徴派の画家を集めた画集に彼の油彩画が載ることがある。
家でも「ボール」と「貞節なシュザンヌ」裸婦のシリーズで「トルコ風呂」などは画集の中に見つかる。
彼はナビ派に属していたが、一人だけのスイス人(ローザンヌ生まれ)ということもあってか、疎外感と孤独感に耐えていたという。仲間内からは異邦人と呼ばれていた。確かに異邦人には違いない。
画家としてパリにあって、厳格なプロテスタントの家に生まれるた彼。
妻はブルジョアの生活に浸りきった女で再婚であった。
連れ子が2人いたが、意思の疎通が感じられない食卓の絵が彼との関係を雄弁に物語る。
彼自身何重にも疎外された存在であったことは想像に難くないが、彼はそれを異端という立場に変えて積極的に表現へと昇華している。
実際屈折した面は持ちながらも複雑な多面的なものを見せる人でもあったようだ。

彼は日本の浮世絵の影響をもとに単純化された斬新な手法を見出す。
それは版画に効果的に表され、ヒッチコックのようなサスペンスドラマを感じさせる。
孤独と緊張さらに退廃これがスリラーにまで昇華されている。
それは挿絵として一躍彼を有名にし、時の人となる。

彼は油彩画もかなりの枚数を手がけている。
一種単純化された色面による、無駄のない構図である。
どの絵にしても、この謎を解けと迫る物語を封じ込めた画面が特徴である。
一見ただの裸婦像に見えるものも多い。

それぞれの絵にフェリックス・ヴァロットンの特性が窺えるかも。


ボール
ボールを追いかけながらも
何か宿命的な不穏さから逃げる少女。
この両義性は人間の本性。いや真実か。
森に入ってしまうと
無意識の悪意が襲いかかってくる。
それを知っていても行かざるを得ない。
ボールは転がってゆくのだから。
遠くで少女をそれとなく見つめつつお喋りを交わす2人の婦人。
これから起きる事件の目撃者・共犯者・被害者・加害者のどれかとなる運命はすでに避けられない。

貞節なシュザンヌ
女一人を囲んでふたりの初老の男の密談。
不敵に微笑むシュザンヌと思しき中央の帽子をかぶる婦人。
その何かを企てようとしている怪しい目。
左右の後ろ向きの男たちの生々しい頭部のテカリ。まるで裸電球のような。
伝統的な聖書からとられたこの主題が、こうまで変容されるか。
フェリックス・ヴァロットン以外にここまで悪意と機知に富む変奏は見られまい。
(これまでの絵画であったら、水浴している裸体を人に見られ貞節の危機に慄くシュザンヌが美女と野獣的に官能性をもって描かれるところ。ここでは、その素肌に当たるところが初老の男たちの頭となっており、シュザンヌは被害者の立場ではなく、男たちの支配的立場に居る。)

トルコ風呂
彼は女は基本的に嫌いなようだ。それが生理的に解る絵である。
女たちに対する愛情は微塵もなく、彼女らに個性も生命力もなく体温もとても低い。
形態を単に描きたいのだ。Fetishな次元で。
お尻に対する形態的な偏愛が分かる、相当な執着がみられるものだ。
19歳だかで描いた「臀部の習作」も尋常ではないが。
お尻の画家である面も確実に窺える。
顔よりお尻だ!桃かメタリックなネジ頭でもよかったか?
ともかくフォルム至上主義。
少し、マン・レイを思わせる。
きっと写真をやったら彼のような写真を撮ることだろう。


三菱一号館美術館でいま展覧会が催されています。~9/23まで。
オルセー美術館およびフェリックス・ヴァロットン財団の監修によるもの。
わたしも行けたら行ってみますが、暑くて行き着かないかもです。


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となりのトトロ ~ 夢だけど夢じゃない

Wooden hourglass

さつきとメイって、どちらも5月だけど、どういう意味をもたせているのだろう、とおもいつつ見ていたが、メイが行方不明になった時から、もう完全にのめり込んで見てしまったため、何だかわからなかった。
何せ、メイが見つかった時は、おばあちゃんと同じくらいの精神状態だったから。
それから、さつきがメイの言うトトロはトロルのことだと言っていた。
トロルは有名なノルウェーの妖精であり死神である。


5月と言うのは植物が芽生え緑に萌える季節だからか?
その季節を両親が好きだからなのか?
(ところでトトロが活発に活動を始める季節なのか?)
生と死を行き来するもの。
この映画は、お母さんが人里離れた病院に入院していることが重要な要素であり物語の中心ともなっている。
お父さんと娘二人の家族でわざわざ田舎に引っ越してくる。
そこからさらに奥地のお母さんのいる病院を中心にこの物語ー日常は動いている。
いつもこの親子は死―彼岸と隣り合わせに暮らしている。
隣にはトトロが居眠りしている。
常に死が基調に流れている物語だ。
見え隠れする彼岸をトトロと猫バスが行き来する。
しかし、さつきとメイにしか見えない。

物語最後の場面で、せっかく猫バスに乗って母親の病院に行ったのに、高い木の枝に座って見ているだけで、何故会わなかったのだろう?(お父さんもお母さんも、窓の外に全く気付かなかったのか?)
エンディングは、以前DVDの紹介記事か何かで読んだものだが、家族そろって歓談する和やかなシーンだが、確かに書かれているようにみんなが若く、これはそこでの指摘のように回想であると言った方が腑に落ちる。
お父さんは、家では考古学の研究ではなく、小説を書いていたのか?
よってお父さんの想像の物語であると、受け取ることも可能な構造であり、それを匂わせる場面も幾つかみつかり、そう見る事は出来る。

しかしそれでは単に家族の在りし日の回想録であり、トトロは完全に影を失う。
ちょっとした添え物に過ぎない。
物語が過去の時制に一本化されることで、トトロはとんだ脇役の道化だ。

さつきとメイにしか見えなくてもトトロは、
小トトロ、中トトロ、大トトロは、とても恍けて人懐っこい可愛い妖精?である。
彼らがオカリナを吹き夜空を舞い風を呼び芽を次々に吹かせる光景。

これは明くる日には実現したものである。
トウモロコシも実際に届けられた。「おかあさんへ」と書かれて。
会わなかったのは、トトロと猫バスの説明が大人にはつかないから、2人の配慮である。


トトロがその実在性を失うことで、この物語は大変貧しいものになることは確かである。
よくある波乱万丈な物語がすべて実は主人公の夢だったとか。
すべて丸ごとならともかく、トトロによって2人が現と彼岸を行き来することがこの物語の物語たるところである。
現在時制にあることで、トトロははじめて活き活きと実在性をもち、この世界の時間と空間の重層性を確かに支える。
これがこの物語の骨格であり、場所である。
此処を潰しては、もはや「となりのトトロ」でも何でもない。
貧弱な過去を想起するだけの物語であり、夢も希望もない。
トトロではなくトロルとした方がよい。

トトロとは、
ある意味、この世の極―縁の存在と言える。
あの大きな神木の下、いや上か。
子供のころなら、わたしにも見えるのか?
行くことも?
とても瑞々しい感性と知覚によって受容される存在であり、世界である。
そこに触知出来る事は幸運である。
世界=ファンタジー

それでも
行くとは逝くことか?
少なくともそう見たいひとはいるようだ。


とても胸を打つ素敵な話なのだが、どこか回想めいた物悲しさを纏う余地を呼び込む映画ではあった。


続きを読む

USB 端子に根本的な脆弱性が見つかったようだ

Duf La Fée Électricité


USBの根幹の脆弱性を狙ったマルウェアの存在が明らかとなったようだ。
USB<――>パソコン間双方向での乗っ取り・書き換え・破壊が可能らしい。
USBを接続する際のデヴァイスコントローラーを狙ったもので、デヴァイス内部に入ったり、ファイルにとりつくというものではない。
デヴァイスコントローラーチップを狙うということからそのマルウェアは、ファームウェアに隠されるものであり、既存のチェックソフトで確認は出来ない。
ファームウェアレヴェルにマルウェアが入り込んでいるかどうかが分からなければ確認できないという。
今現在そのようなものはない上に、仮にチェック出来たとしてもチェックする基本バージョンがない状況。

外部デヴァイスを接続する端子のコントローラーチップレヴェルが狙われると、非常に厄介なことになるという魁か。
今後、USBはどうなる?
これだけ汎用的なものとなっている今。
問題はもうすでにそれが入り込んでいて、乗っ取られているかどうか。
そのへんのチェックも現在はユーザーレヴェルで出来るものではない。

取り敢えず、今後USB機器を接続する場合、絶対に信頼できる機器、ストレージのみにする。
多少なりとも危ない可能性のあるものは挿さないことで身を守るしかない。
まだ大丈夫なものについては。

外に対して開放しているものは、基本リスクが次第に大きくなってきている。
安心して使えるのは、完全スタンドアローンな家のXPパソコンくらいか。
しかしできることは、外部とのやり取りの全くないことのみ。
いや、安全なUSBを介して行うことまで。
メンドクサイ!

わたしの他のブログにも例の馬鹿コメントがとり憑いていた。
開かれた場における弊害とその対策はこの先、まだまだ決着はつかないだろう。




プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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