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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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出来たてのホヤホヤ 第二部完結 (暫く粘土はやりません)

前回に引き続き、陶芸粘土による、使える小物シリーズ第二弾です。
作ったばかりの写真ですので、色は黒っぽいですが、乾けば真っ白になります。
今回も前回と同じく、850度で素焼き後、釉薬を2種類程度掛け、1250度で本焼します。
これ以後は暫くの間、作る予定はありませんので、今回の物をよくご覧になり、もしお気に召したらお伝えください。
おひとり様一点に限らせて頂きます。
(焼き前で、釉も掛けていないため、質感は全く異なりフォルムだけで見て頂きます。もう予約が少し入っておりますので-間違っても当方は店ではありません-この時点で、できるだけお決めください。代金は一切頂きません。)
乾燥棚に置いておいたものをご覧になった油絵ご専門の先生が、イサムノグチに似ておる、と仰っていました。
一気に出世した気分です??


基本的に面の形状と動きだけで、指先と視線にできるだけ多くの愉しみを味わってもらいたい。
面の高低とその稜の左右の傾斜がかなりかかっております。つまり上がったり下がったり左右に傾いたりでかなりの速度感は有するはずです。
面には連続・飛躍・通過(通底)・生成をテーマに構成しており、親和的な動きで落ち着いたものから、せめぎ合いでの力のぶつかりを意識させる物-小物入れ(筆立て)があります。
穴のある小物立て、ペン立てがあります。
これらはホルダーを吊るすのに使えます。サイズ的に無理なモノもありますが。

タイプC~Fまではほぼおなじくらいの大きさで、ペンを立てるのに丁度良いサイズとお考え下さい。
タイプGはすべてお化粧に使う小道具などを入れる・立てるのに丁度良い大きさです。目安は綿棒を立てるのにピッタリくらいの大きさ。

タイプE
稜については左右に傾斜がかかっています。その面の動きは上から下、下から上の半円カーブを途中と最後に持ったものです。鋭角的で一番単純な構図的に安定した動きのペン立てです。
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タイプF
無機的ですが、はっきりと破壊的衝動をもつ鋭角的な二つの面が対峙してというより組合っています。その間に大小いくつものペンが立てられますが、組合っている二者間にカード等の紙類を挟みこむことも出来ます。かなりの枚数が可能です。
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タイプG:1~4
小動物編Gは、1.ねずみ(うさぎ)、2.おたまじゃくし(オオサンショウウオ)、3.ヒヨコ、4.さかな(うなぎ)
以上4種類です。( )については、そう見てもらってもよい、という意味です。ひよこだけは他に見ようがなかったもので。
すべてに鼻のようなものが付いていますが、それが進む方向性又は指向する向きを表します。
PREタイプですでにうちの双子用に使っているものにもついています。


1.耳らしき面がポイントです。面・稜の高低ははっきりしており、落ち着いた雰囲気です。
入れる部分は小さな円筒状の部分と、大きめなオーバル部分に分かれます。
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2.小動物シリーズでは一番大きいです。おたまがうねうね泳ぐ感じの形状と動きです。面・稜の傾斜高低ともに流れが感じられます。ペンを立てる部分はほぼ同じ大きさの頭部に2つと2倍くらい入るしっぽの部分で3箇所で構成されます。
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3.形態的には横に寝ている断面のように見えます。二つの立てる部分に分かれます。
コンパクトですがまとまっており、思いの他たくさん入ります。
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4.横を向いているように見えますが、お腹、ヒレ部分が流れに揺れながら泳いでいく動きを全体の形状と頭部の向きと、3つの高さと傾斜面の異なる小物立て部分の連結-連動により表しています。
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なお、前回のものもそうですが、本焼きがいつ出来るか分かりません。
多分完成は忘れた頃となるはずです。
窯が空き次第となりますので、今いつ頃仕上がるかははっきり分からない状況です。
気長にお待ちになってください。
宜しくお願いします。





立体に走る。しかもアナログと言うか最も原始的な粘土!

連続性、飛躍、生成

これらを形にしてみたい。
実際に日常に使える物で。
もう少し詳しく述べると、面をテーマに、その連続と飛躍ー潜在、そして生成運動または反復を言葉でなく物質的に形にしてみたい欲求があるのです。
作りたいということはまた、作り易いはず、簡単にということではなく、作ることに快感が伴うということです。
何故、このような概念が形になり易いのか?わたしの生理的にまたは、獲得した身体性において、です。
多分。

今回、2度目の陶芸粘土のオリジナルを作っています。わたしは実際、粘土は幼少期に油粘土で夢中に遊んだ記憶があるくらいで、意図があって最初に作ったのは、5年前に2作品ほど。
つまり双子の娘が生まれたすぐ後に作りました。
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タイプA次女用

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タイプB長女用


今回と同じく、陶芸粘土の余りで、白を使っています。何という銘柄の白かは忘れました。
まずは5年前の作品(処女作。


これらは筆立てです。
今も娘が使っています。
短くなったら寝かして置けるところも備えた筆立てです。消しゴムも置ける。彼女らはシールもよく置いています。
筆立ては子供はかなり使います。
ですから使い勝手が重要になります。

他にも可愛い筆立てが欲しいというので、自分の創作意欲も満たすもので作ってみたい、まだ可塑的素材の自在な造形に慣れていないので、思った通りにはいきませんが、作るのはやはり充実感と快感があります。

普段よく書いている、文頭にあげた連続性、飛躍、生成は入れながら、使えるものを作っているつもりです。

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タイプC

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タイプD


まだこれらは粘土で作ったばかりの乾燥前の試作品です。ちょっと触ると崩れます。水気が飛んでしまいパサパサしてるので余計です。

これからジワジワ乾燥させ、素焼きをした後、下絵具は使わず、釉薬だけ2種類くらい掛けて本焼きをしようと思います。
素焼きは750度、釉を掛けてから本焼きは1250度でいく予定です。
これはこれで焼いたら使うつもりです。
もしこんな風な物でよろしければ、リクエスト等あればどうぞ。
ご要望にお答えできるかどうか、分かりませんが、やってみます。

但し、焼くのは窯が空いた時ですので、日取りはそれ次第です。ともかく作れる時に作って乾かしておきます。


オマケ画像。これは児戯に過ぎませんが、ランプシェードです(笑
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中にLEDランプを入れて部屋を暗くします。




新しい時間へ

Princess mononoke photos1

新しい空間というのは、家を新築するとか新しいマンションに移るとか、別荘を買ったとか、なんでも良いけど、そうそう新しい車にしたという時もそれに当たる。
何か自分を包む空間の質が変わり気持ちがよい、と思えることはあるはず。

しかし、やはり新しい時間だ。
何といっても、時間-無意識の流れの乗り換えがその存在―身体性を根こそぎ変えるはず。
ここのところ全く同じことを毎回ずっと言い続けている気がする。
何故、変えること、変わることに過剰に拘るのか?
今のままではだめなのか?

娘に時折、それとなく諭される。
5歳の娘が一番覚醒していることに気づく瞬間。
やはり娘と同じレヴェルで過ごせないというのは、確実にどこかが軋んでいる。

このブログをお読みの方もきっとそれが引っかかり、イライラするときもお有りだったと思う。
それも知りつつ、どうしても拘ってしまっていた。


まず映画がそうだ、何故こんなふうに頼まれてもいないのに拘って観るのか?
もっと単に好きな映画を気楽に観ればよいではないか?
などとここのところ、妙に拘わりに引きずられて来た感がある。
ガメラが見たけりゃガメラを観れば、というところなのである。
勿論、自分なりに系統立てて観た映画も純粋に面白かった。
観て損したというものは一つもない。すべてが良い経験となった。
(しかし実は古いガメラに遡りすべてのガメラ映画もDVDでだが買ってしまった!やはりこれからの楽しみである。)

ある意味、ヒトを辟易させるような拘わりも引き継ぎつつ-大変根深いものは無理に切断出来ない-

しかしやはり新しい時間を生きることだ。
これは真に生きてゆく。
つまり意識的に生きてゆこうということと同義なのである。
全細胞が一定期間にすべて入れ替わるように。
生きることは、つまり一つの主体として持続することは、イコール生成を意味する、ということ。
不可避的に物理レヴェルでも入れ替わるが、意識レヴェルも総じて変わりたいという意思というより指向性が働くのだ。


このままから、そのままへ。
とは、よく言ったものだ。


夏は特に植物性その眠りと途方もない成長が地上を覆う季節だ。
このモワッとする皮膜のような時間のうちを半ば眠りつつ漂い、忽然と展出する。
ゴジラだ!
ゴジラはやはり出るべくして出た。
わたしの家ではガメラもだ。
大丈夫か?
富士山がいつ噴火するかも知れないのに。
とも思うが、そうではない。
こういう時だからこそ、自分に徹底して拘る必要がある。
(急に開き直った?!)

機会というのは、本当に大切だと思う。
機会を間違えなければ、スッと変わっているはずだ。
ハイデッガーの言う”放下”か?
しかしそれこそ、語るべきことではない。





デパート空間

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特に何が欲しいということでもないのだが、家にいるのが煮詰まり、家族でデパートに行った。
デパートは、浴衣姿の女性、お子様がそこそこいた。
なかは勿論、丁度良い按配に涼しいのだけれど、やはり夏の季節感で統一されていた。
よく写真集などで、夏を扱っていてそこを構成する事物はすべて夏なのに全く温度感のない写真がある。
その逆照射の如くにこのカラフルで大きな密閉空間そのものが、温度を感じない夏のセールの場所であった。
水着や浴衣、クールビズ関係のスーツや靴、バッグ類、寝具類などなど、、、。
先ほど紋きり型にカラフルでと書いたが、色はあるのだが、今ひとつ彩度に乏しい。
彩度が今ひとつな分、明度が高く設定されている。
だから尚更彩度が低まる。

こういう経験は、元気のない、客に見放された大手デパートなどに顕著であった。
どことは言わないが、昔からとても有名で、その土地のシンボル的なデパートが潰れて無くなるころなどそうだ。
無くなると決定し発表される頃はほとんど惜しいなどと思えぬ状況になっているものだ。
まず、従業員のサービス、品揃え、装飾性の低下も見られ、これでは仕方ないと思わせる魅力の低下が伺えているものだが、心理的にそれを強調する光の加減が感じられる。
今日行ったデパートなどは、その徴候はまだ見つからないのだが、実際の光の物理的な強弱というより心理的な強度といえるものかも知れないが、パッとしない現状維持で取り敢えずやり過ごそうというような雰囲気が、光の薄さに出ているような気がした。(単にすべてをLEDに変えたからというようなレベルの問題かもしれぬが)
客が少ないというわけでもないが、いやかつてよりは少ない。
4時の土曜日にしては。

元気がないとか、全体として何らかのやり方が特にまずいとか病んでいるというものでもないと思うが。
今日はわざとゲームコーナーには行かなかったのだが。
普通の店内の賑やかさがあまりなく、詰まらなさを感じるのだ。

出来ればここで空間アドヴァイザーなどという人々には出てきて欲しくない。
そういう問題ではない。
空間には結果的に最後に反映してきているだけのことだから。
のっぺらぼうな空間というのがある。
そんな感じだ。
音がいろいろしてきても、いろいろなCM広告が貼られていても。

ひとつこれはないなと思ったことは、見本のないすっきりしたタイプの自販機が所々に置かれているのだが、中の飲み物の種類が恐ろしく乏しい。
デパートにある飲み物中心のショップへの配慮でワザとそうしてあるのか知らないが、大変物足りなさを感じた。
そういう目で改めて店内を見てみると「つまらなさ」が充満していた。
ここに、少し買い物客が休めるシートがあれば良いのにとか、、、。
かつて結構どこでも客を集めていた、昭和の駄菓子屋風の雑貨屋がさほどの品も値段にしても惹き付ける磁力が無いにもかかわらず、店内の写真を撮らないでという注意書きの紙が何枚も貼られていたり。
何割引という貼り紙にも何のインパクトもない。
装飾にも代り映えがない。
アロマや、ラッシュのような店の香りが向こうから爽やかに吹いてくることもなかった。

そう、妙に風がない。
これは空間管理上の進歩なのか?
よく分からないが、今日は特に欲しいものもなく、目玉商品売り場も魅力がなく、折角来たので何か買っていこうという何時もの購買欲も出ずに、ほんの些細な日用品のみ買って帰ることにした。
近所のお店で買えるようなものだけである。
店に入ってからの客個人のストーリーが作れなかった、というものか?
確かに強い動機を持たずに来たものだから。



出る頃気づいたが、一階に空いているブースがあった。






最近、素敵なコメント・メッセージが貰えるようになったな、と思いきや

bosch judgment00

基本的にわたしの知ったことではないが、以下に該当するものはまともな死に方はしません。

自動ツール、しかも大変出来の悪いもの、で無作為にコメント欄を狙って送られて来ると思われるメールが来はじめました。
最初の一通目については、もしかしたら送り主が(手動で送っていないとしても)確認に1度くらい来はしないかと思い(というのも他人の家に土足で断りなく上がり込む行為ですし、犯罪者もその場所を見回りに来ると言います)、暫くの間、「こういうことは絶対に止めてください」というコメントをわざわざ返していたのですが、何の反応も無く、削除と迷惑指定しました。するとまた同様のメールが来て、すぐに拒否と迷惑登録をしましたが、さらに3回目が来てすぐに2回目と同じ処理をすることに。
こういうのは、際限なく発信することは出来ますし、個別対応みたいなものではどうにもなりません。
内容は愚劣極まりない、稼ぎ系の詐欺メールです!

ネットで稼ごうと、ポンコツ・ツールや誰に習ったのか(或いは自動生成か)トンデモナイ品性のない屑コピーをなりふり構わず送りつけてくる真似はいい加減に止めましょう。だいたいまともな神経の持ち主なら絶対にそんなものに食いついては来ません。
儲かりませんよオタク。使うのなら、もう少しまともなツールに資金投入しなさい。(という問題か?!)
ただ、すべて自動化でやっているとしたらその主体は何が起きているかも知らんのでしょうな。
その結果について。何の想像もしないのだろうか? 
どうなんだろう。それほどの馬鹿がホントにいるのだろうか?

他者に対する想像力を完全に欠いた動物。
人間はある意味、想像力次第でどんな動物にもなれる。

最近、ボヤっとWEBを観てると、やたら中国や韓国で日本人の他を想いやる人格の高さを称える文が目立つ。
わたしは、こういうのも実態ですよと彼らに教えてやりたい。
哲学者の池田晶子氏はその手のものを「ごろつき」と呼ばれておりましたが、わたしも手短に「人間の屑」と呼んでおります。(ありきたりでごめんなさい。ひねる愛情すらないので。)
どっちでもよいが、彼らはどうせ相手など見てはいないし見る気も無い。ただ自分の預金通帳に金が入るかどうかにしか興味がない。他者の究極の記号化に走ってしまっていることで自らも貧しさの極みにいる事に気づかない。さてそんなもののところに金が入ってきて一体どうしようというの?

もうジタバタしないで、静かに地獄に落ちなさい。
永遠におやすみなさい。




河原温81歳でニューヨークで亡くなる 河原温について (序

そう遠くないうちに、河原温について改めて書くつもりです。
いま全くと言ってよいほど彼について書く用意がありませんので。
ともかく、日付。最低限の数字と記号ですね。
凄いところに着目しました。



浴室シリーズが今も鮮明に脳裏に残る画家である。
鉛筆ドローイングによる一目で彼の物と分かる作品である。
あの独特な閉鎖空間での身体像は強烈だった。
不安。なんとも言えない不安で切迫した寄る辺ない印象であった。
それは、描かれた人物たちには即物的な物質性しか残っておらず、それを観るわたしの不安の充満であった。
切断された死体や体の部分も転がっていた。
何故、浴室なのか。人間存在の危うさとモノ自体の姿をもっとも有効に描きだせる場であるのか?
特に、タイルの浴室である。処刑室のようにも見える。
よく確認したいのだが、今すぐにその画集が探し出せない。

戦時中の体験もきっと絡んでいると思われる。
コンセプチュアルアート開始から、自身の姿を恐らく消す、精確に言えば影だけ残す必要が生じたのだろう。
彼自身一切メディアに姿を見せず、自身についても作品についても何も語らぬ画家となる。
そこは徹底しており、それも彼の表現活動の一環であることはまちがいない。
メキシコでの活動も謎に包まれている。

はっきりとコンセプチュアルアートとして全世界的なアーティストとなるのは、”日付け絵画”からか。
それまでの具象絵画は白紙にしたものだ。(その頃の作品を自ら破棄したという話もある)
人間の存在における時空を扱ったものという。
単色で塗られた地に日付けが単一書体でレタリングされる。
彼によって絶対的制作ルールが決められており、基本的に1日に1枚を制作して、箱に入れて保管して行くようだ。
その日のうちに制作が間に合わなかった時は、その日の日付け絵画は存在しない。
描かれた国の言語で描かれ、国によってはエスペラントで描かれる必要のあるものもあるそうだ。

日付けそのものは、客観的なものだが、自分の誕生日だったりすると、特別な意味を纏うという。
彼の心的な状況によっても微妙な影響が現れるらしい。

わたしにとって特別な日とか、そのような記念日を作りたいという意思はまるでない。が、そのような行為は面白い。
存在する日と存在しない日があるというのも何とも言えない。
何とも言えないが、あっても全くおかしくない。
”One Million Years”という過去と未来それぞれ百万年の年号をタイプした作品もあり、これをすべて読むのは人間には無理だ。実際にキャスターが少しばかり朗読したという記録はある。
よく彼はデュシャンやウォーホール達と比較されるそうだがデュシャンは分かるが、マレービッチなどに近いヒトだと思う。思想や制作理念が同じというのでは無く、徹底した制作姿勢の頑固さというか。

その後、”I am still alive”を世界各国から発信するという制作行為を始める。誰に発信していたのか?
”I Got Up”シリーズも彼が起床した時刻だけを記した葉書を特定の人物に送り続けた。
Twitterによる発信も行なっていたという。わたしは知らないが。

訃報もTwitterで広まったそうだ。

彼は非常に知名度の高い国際的な画家であるが、わたしは初期の浴室シリーズなどの絵が特に好きである。
というのも、ほとんど彼の創作活動・コンセプチュアルアートについて知らないからである。
知っているものについてしか語れない。葉書も観たことない。
初期の画集にある絵だけが、取りあえずわたしにとっての、河原温である。
しかしその初期の絵のインパクトは絶大であったので、取りあえずここで彼の死を取り上げることにした。




詩人平出隆の著になる、「言語としての河原温」というメールアートと言うか、河原温論も出ております。
平出さんは「胡桃の戦意のために」以来のファンですが、多摩美の教授をされていたのですね。




高温注意報5時発令

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自然に降ってわいてくるもの。
ボウフラのような。
暗いざわめき。
私は駅で何をしている?
陽光の元。
目を閉じ、感覚を澄ます。
様々なもなのが生まれ。生まれると同時に蠢き始める。
強い光の陰の楽園がある。
水溜りは、地球には幾らでも見つかる。
どんなところにもある。
私の細胞の中にも。

彼らには目的がある。
様々な湖にあって。
目を覚ます様々な層の生たち。


あるものは飛び立ち、
血を吸うこと。
羽音が小さな戦闘意欲を
撒き散らす。

陽光に包まれ祝福されて、
血を求めにやって来た。
その無の泉から、
多くの同胞とともに。

犬が何処かで吠えている。
電車が時間ピッタリに入って来た。
静かに扉が開く。

彼らは乗り込めたのか?





失くなったボールペン 〜今あなたが持ってる

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身体に速度のかかることがいつもより感じられる。
殊更に陽射しが強く射すこと。
看板。
看板、これほど看板が多いことに驚く。
金属の熱。
ミラーの歪み。
植物達の眠り。
いつもの人達。
何か変わっているのか。
少しずつ幽かに変わっている。
静かな進化を感じる。
いや、変化に過ぎないか。
方向性は、それにワクワク出来れば幸福なのだとよく言われる。
胸騒ぎならするが。
よく分らない。

村上春樹の小説のような、
何かの看板のコピーか絵柄が、
小文字が大文字だったり、
右だった絵柄が左向きになっていたり、
そんなことが気づかない内にありそうな日だ。


しかし今ふと気づく。
わたしの気掛かりができた。
ボールペンが見当たらないのだ。
いつものポシェットに入っていない。
わたしのボールペン。
勿論、失くしたのは、初めてのことではない。
また、一本失くなって仕事に直接影響を及ぼすようなことはない。
しかしこれまでとは違う。
分らないが。
周囲が何かの関係が少しズレていく。
そんな思いに囚われる。


会議室にも、机の抽斗にも、、、。
行きそうなところをあちこち探したが見つからない。

何故、ボールペン一本にこだわるのか?
今どうしようも無く些細なものに、こだわってしまうらしい。
ただあるべきものがないということで、不安と動揺が、
こんなにわたしを揺さぶるのか?
しかし、これまでにこんな事で気持ちが揺らぐことはなかった。

もはやあのボールペンの紛失は、単なる筆記用具が一つ足りなくなったという状況ではなくなり、
常に、仕事中は手に握っているか、周辺にある身体性を帯びた何かの喪失であり、
パソコンの端末に向かっていてもなお、自分の1部が不明となって集中できない出来事なのだ。

それが今朝感じた幽かな変化なのか!
それに耐えつつ暮らすことが、今日の宿命となるのか?
いつもの職場が明らかに異なる状況であることは、確かだ。
もう、ボールペンが見つかる当てはない。
この妙な説明出来ない雰囲気はこのまま継続するのか?

これを克明に記述すればカフカだ。
見えない些細に異なる状況が完全に記述出来れば、カフカだ。

恐らく悪しき廃墟の出現である。





純粋ということ

Duf La Fée Électricité

デュフィの記事でコメントをくださった方の文から、カンディンスキーを思い浮かべ、純粋抽象についてふと頭をよぎったことがあるので、メモしておきます。

純粋というのはすでにそれ自体で完全に自足していることを指し、自ら以外の何かに関係することはない状態です。
つまりもう根はない。起源もない。
純粋抽象群が視界に見えたとしても、それらには独自の時間も空間もなく、ただ一様の時空の器に漂っているものに思えます。
クレーが抽象化へと進むなか、なんとしても踏み留まろうとしたところが共通形態の場だったのだと思われます。
われわれの深い無意識層に分け行って創造を進めるにつけ、集合無意識の形象ともとれるシンプルで芳醇な形態は何より重大な意味を持ったものだと考えます。
つまり、徐々に物を単純化してゆき、按配を見てあの辺で止めたとかいう類のものでは全くなく、まさに「あれ」だったのだと強くわたしは確信しています。あの形以外の何物でもないものとしてクレーはそれを描き込んだ。

そもそも、この世で絵を描く上で、そこに根を持ち繋がっていなくては、例え彼岸を描いても意味を成さないと思います。
身体性を失って、固有の時空を失って、描けるものはわれわれにとっては意味を喪失しています。

クレーは場所をしっかり持っています。
カンディンスキーには場所がない。

わたしが、カンディンスキーにさして興味がなく、クレーやマルクに強烈な愛着を持つところの大きな差です。
これを、無調音楽と調性のある音楽の差のようにとれるでしょうか?
どなたか、ご意見をいただきたいところです。
そうもともと、詩から来ていますよね。
意味として読まれることを徹底して拒絶する純粋詩?どう呼ぶのか?現代詩でしたっけ?
別にそういう枠―ジャンルがあるわけではないでしょうが。
ダダなら分かります。フーゴ・パルなどの方法としての詩。
または、重層的で感動的なトリスタン・ツァラの”近似的人間”
シュル・レアリズムの例えば、ジョルジュ・デ・キリコの詩などは結晶的なイメージに煌めいています。

それらの全くない、身体的感覚に僅かでも接合しない創造というものは、でも確かに作られてはいます。
何とも書きにくいことです。
どうなんでしょう?

色と線とが自立性を昂める中、芸術家の格闘として。




真夏の夜の病

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自分を自分として束ねる装置が緩み始める。
いくつかの意識層と無意識的な領域、例えば植物的な生命の層の時間性―身体性が軋んでいる。

普通なら、適応障害とか自立神経失調症とか言われるところか?
心療内科を勧められそうである。
しかし、人間を統合的に診ていくということ自体生半可なものではない。
何となく方向性が朧げに見えてきたとしても、それでどうなるものではない。
眠れない。

多分、社会との関係を心理面で追う程度のものか?
よく人間ドックでも心理チェック?のような白痴的テストを受けさせられることがある。
というか、必ずやらされる。
あれで何がどう分かるとでも言うのか?
バカバカしいの一言。
まずもって、テストの体をなしていない。

だが、統合は肝心だ。
本当の意味での。
そうでないと、まとまったことが考えられない。
存在自体としての。
このへんどうであるのか。
散り散りでは雲丹のようになってしまう。
彼は?それぞれが別々で動いているらしい。
構成体の意思がバラバラでは、雲丹という総体は意味をなさない。
力学的に相殺されつつ全体の動きが結果的に出ているのか?
面白いといえばそうでもあるが。

かつては精神科医でその辺を研究していた弟とメールやり取り出来たのだが、
最近は全く没交渉になってしまった。
お互いの忙しさはある。
が、なんというか、落ち着いたやり取りができない状況というのが一番あたっている。
わたしは自分宛に来たメールの99%は開かずに消去しているし。

このブログに頂いたコメントとメッセージ以外は見ていないことに今気づいた。

暫く、それでいこう。
充分かも知れない。





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観てない映画は観なければならない!~ ”V” を観る!

Natalie Portman00

トマス・ピンチョンに”V”という小説があった。
全く関係はないが。
Vと言われると、身構えるものがある。
やはり、過激さ凄まじさではかなり通じるものはあった。
ただ、この映画では、シェークスピアの言葉が躍る。

近未来だがレトロ調でもある。
とてつもない全体主義・専制主義による圧政下の極端な舞台設定。
そう舞台劇じみてもいる。
イギリスで人気の劇画を実写再現しているようだ。
政治色の強い劇画とされている。
テロリストVと、イヴィー(ナタリー・ポートマン)の社会に対する戦い。
しかしそれは同時に、自分の発見と確立の過程の戦いをも意味する。
気弱で依存的な主人公が極限的な生活の中で、覚醒してゆく。
わたしはそちらの方を重く見たい。

近未来の管理社会の光景、、、と言えば。
細菌兵器の開発と人体実験、情報統制とその操作(医学的にも)、異分子粛清、地下組織、潜伏、復讐、制圧、等等定番設定に新しさはないが、既視感をそれほど感じない。
舞台装置はありきたりだが、何かが新鮮で謎も魅惑的である。
主人公のVのうすら笑いの仮面の出立ちも、特徴的で個性を生んでいる。
爆破とともに夜空に花火もよく上がる。
映画が確かに劇画調であり、堺雅人主演の劇にも通じるカットやテンポを感じる。
撮り方にも劇画のコマ割りの影響もあると思うが。
Vは、民衆に社会を引き渡そうとはしているが、単なる自由主義の革命家ではなく、政府に対する復讐に燃えたテロリストである。
しかしいつしかイヴィーとの間で彼も心を開いてゆく。
成長する彼女とのコミュニケーションを通して。
単なる孤独なテロリストではなくなる。
恐らく彼本来は芸術家肌の、思想的にはアナーキストであろう。

何より死に直結する存在学的な覚醒を目指す姿勢がはっきり窺える。
特にVには。
革命によってみんなの住みよい世界を作りましょうではなく。
イヴィーもVとの接触につれ、共感、理解、愛情の芽生えとともに、自分の核にしっかり触れ自己への信頼に目覚めてゆく。
そしてVの死を前にして、揺るぎない自分の存在を確信する。
外部の又は内部に巣食ういかなる権力-超自我にも屈しない自分をVに促されて見出したと言える。
非常に過酷な試練と多くの血生臭い犠牲(自分から目を背けて封印してしまったヴィジョン)の上に立つことで、ようやく掴んだものであった。

ちょうど彼女はスキンヘッドともなり、雨に打たれ-清められ、逞しい革命家に身も心もなった。
演技としては、激しいアクションがあるわけではなく、身体の酷使という点から言えばブラック・スワンの比ではないが。
これはとても重くある意味、等身大の身体をめいっぱい張った演技であったと思う。
特に髪を切る-削ぐこと自体、女性としての大きな覚悟であったはず。
イヴィー=ナタリー・ポートマンとして。
もはや演技を超えた彼女の現存在そのものである。
この点がこの映画を、既視感を払拭して鮮烈なものにしている。

やはり、観るべき映画であった。










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映画に絡む思い出~やはり昭和か(笑 映像と音楽の理想

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わたしは映画ファンではない。
むしろ映画館に足繁く通う映画ファン(マニア)の対局に位置する人種である。
映画を無性に観たくなるということもない。
ただ、たまにTVなどをボーッと見ている時に、しっかり作りこまれたCM(Appleのものや)などを見るに付け、映画やMTVなどに思いを馳せる。

昔、よくミュージック・ヴィデオを流す番組が幾つもあった。
とても楽しみでよく見ていた。
ピーター・バラカンのやっている番組ではよくわたしの好きなアーティストを特集していて外せないプログラムだった。
彼がアシスタントの女性に日本語の意味を教えているところなど微笑ましい場面?も印象に残っている。
映像と音楽の絶妙な絡みほど美しく衝撃的なものはない、とつくづくその当時思って見入っていた(聴き入っていた)。
また意欲作が本当に多かった。ピーター・ガブリエルやユーリズミクスとか、、、ケイト・ブッシュ、、、。

映画についての意識を持ったのは、わたしの場合、随分遅い。
幼少の頃、親は名作映画に幾つも連れて行ったと言っているが、そのうちのどれひとつとしてほんの僅かな痕跡も脳裏にない。
観たことを覚えているのは、ゴジラとガメラシリーズだけだ。
ゴジラでは、あの青白い平田 昭彦 演じる博士の苦悩する姿は忘れられない。
彼こそゴジラを倒した唯一の人類である。わたしの永遠のヒーローである。
そして音楽は忘れようもない伊福部昭、渾身の大傑作である。
「子供たちに嘘を聴かせてはならない。」(伊福部昭)
ガメラを吊るピアノ線もはっきり脳裏に焼き付いている。
わたしのフィジカル(メタフィジカルか)イメージの起点となったものだ。

当時クラス仲間でゴジラ、ガメラ派があったが、わたしはどちらも好きであった。
同様に、ビートルズ、ストーンズ派があった。これは、ビートルズ派に属してはいたが、何せストーンズ派があからさまな不良軍団であったためで、サティスファクションのリフに電撃的衝撃を受けた隠れストーズ派でもあった(笑
実は少数派としてラズベリーズ派もあった。これは2大派閥から徹底的に馬鹿にされていた(なんという)。だがわたしも同情する気には微塵もなれなかった。
少し遡るが、鉄腕アトムと鉄人28号派もあった。これは迷わず鉄人派であった。鉄人の深い孤独感がとてもダンディだったからだと思う。

TVを考えてみると、わたしが高校に入ったばかりの頃、世界史の先生がドラマなんかよりCMの方が面白いと授業のどこかで漏らしていたのを覚えている。あの頃からあまり変わっていないか。
わたしが必ず見ていた番組は円谷系で、ウルトラQからである。親戚の叔父Tが円谷で特撮監督をずっと続けていた関係もあろうが、欠かさず見ていた。
ウルトラQといい怪奇大作戦、ウルトラマンシリーズセブンまでは、まず飽きることなどなかった。
映像作成の形式が映画そのものだ。自動車のホイールの回転がそのまま観覧車に重なって行ったりする場面にかなり釘付けにされた。作りこまれていることがよく分かる。制作費もかなり掛かっていることが想像できる。
岸田森が私にとって新たなヒーローとなる。後に、天本英世のファンにもなる時期だ。
宝田明の渋さも忘れられない。
今度のハリウッドゴジラに渡辺謙とともに出演。嬉しい限りだ。

わたしが意識して観る映画は数少ない。
監督で言えば、タルコフスキー、ゴダール、テオ・アンゲロプス、ウィム・ヴェンダース、リドリー・スコット、、、大学の後輩の岩井俊二、くらいか、、、。
それも大概、DVDかBlu-ray Discで済ませている。
わたしが出不精なのも原因のひとつだ。
しかしTVモニタで観るというのも、臨場感や見るぞという気迫が弱まることは確かだ。
ポップコーンは食べないが、かき氷は食べてる。
ましてパソコンモニタで見る場合は、ゴダールやレオン・カラックス以外はさすがにキツイ。

さて最近観た、または観なおした映画で、圧倒的なものはやはり”ディーヴァ”と”パリ・テキサス”だ。
このへんのものを観てしまうとさすがに、映画というものに魅了されてしまう。
他に印象深いものとして、2人のベロニカ、トリコロール、サブウェイ、イースタン・プロミス、美しき諍い女、ショコラ、初恋のきた道、北京バイオリン、汚れた血、不思議の国のアリス、トイストーリーズ1,2,3、もののけ姫、真珠の耳飾りの女、あなたのために、、、このへんか?
さすがにピクサーのものは、全てよい。3Dフルアニメのスタンダードを作った。極めて高品質の。
余談であるが、ジョニー・ディップの芸の幅というのもすごい。

またこれらの映画に言えることは、画像に沿う音楽が素晴らしい。又は無音の情景が美しいことこの上ない。
映像と音楽の理想の絡みを実現しているといえよう。
岩井俊二の映画も映像と音楽は実に美しく絡み合って展開する。
あの”ラブレター”!チャイコフスキー。

わたしはもしかしたら超絶的に作りこまれたMusicVideoが観たいのかも知れない。
”ディーヴァ”や”2人のベロニカ”などそれにかなり近い。
しかしわたしなりの映画へのアプローチも始まっている。

仕切りなおしか?


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あなたのために~Where the Heart "ナタリー・ポートマンを観て

Natalie Portman001
Where the Heart Is
2000年
アメリカ

マット・ウィリアムズ監督・製作

ナタリー・ポートマン 、、、ノヴァリー・ネイション(17歳の妊婦)
アシュレイ・ジャッド 、、、レクシー・クープ(病院で働く4人の子持ち)
ストッカード・チャニング 、、、シスター・ハズバンド(アルコール中毒の会の会員)
ジョーン・キューザック  、、、ルース・マイヤーズ
ジェームズ・フレイン  、、、フォーニー(秀才の青年)


相変わらず手短な感想文ですが。
とても後味の良い映画でした。
ハッピーエンドというものは良いものだ。
率直に思った映画です。
なんのひねりもない(笑

そもそも、、、。
ひねる気の起きない映画です。
はじめてナタリー・ポートマンってよい女優だな、と思いました。
ほんの少し前まで、ほとんど興味のない女優でしたもので。

SAKI様のブログ、エストリルのクリスマスローズに”水曜日のエミリア”の映画の記事を見つけ、意識的にそれを観てみたのが始まりと言えます。ナタリー・ポートマン、彼女自身が制作総指揮をとったもので、真摯で思索のゆき届いた思想的に共感できる良い映画でした。
ついでに、SAKI様も忠告されていましたが、原作と映画は別作品と見るということはわたしも頭では分かっていましたが、「嵐が丘」を、ジュリエット・ビノシュの映画で観てしまいました。すみません。映画としてはかなりよくできたものだと思いましたが、やはり原作ですね。別物です。あの時間にあの物語を押し込むのはおそらく誰が試みても無理でしょう。ダイジェストじゃないのですから。せめてあと一時間長ければかなり迫れたとは思いますが。

話を戻します。それ以来、ブラック・スワン、終わりで始まりの4日間、抱きたいカンケイ、などを観ましたが、その間に、レオンに出ていたおしゃまな子だということに気づき、クローサーでも観ていたことを知りました。
わたしは全く映画ファンではなく、作品や役者についての知識もありません。
ですから見る機会を持ったものは、大概観ますが、事前にその映画に対する出来を予想するようなメガネは持ち得ません。
真っ新な気持ちで観ています、とまで言うと嘘っぽくはなりますが、それに近い立場です。
また知らないということが観る快感ともなっています。
”Vフォー・ヴェンデッタ”は手元にあり”宮廷画家ゴヤは見た”にも出ていることだけは知っていますが、まだどちらも観てはいません。
それでもあえて言ってしまいたいのですが、この”あなたのために”が彼女のベストだと。
この映画でナタリー・ポートマンが本当に素敵な女優だと分かりました。
なんでこういう邦題なのかはちょっと解せませんが。

出てくる人々がみな病や足枷、業とでも呼べる所謂弱さを抱えつつも、懸命に生きている姿が爽やかですらありました。
スーパーマンや強かで計算高い人はおらず、何度も何度も懲りずに失敗して苦渋を舐めながらも、不思議に物事に対する信頼と肯定感を持ち続けてゆく人たちが描かれています。
主人公に代表されるポジティブな優しさ。
これは特に近頃流行りのアナ雪に見られるもので、その物語の核にある自己肯定と信頼によって暗い迷路を打ち砕く姿に重なってゆきます。
これはわたしが昨日読み返した、”パニュキス”(山岸凉子)にも通底するものです。
勿論、この物語では、ハッピーエンドとなるまでに失うものが多すぎましたが。
どちらにしても物語ー過程において主人公が無意識的にも自覚的にも叡智(知識ではなく)を身に付け、本当の自分の相手ー場所を得ていくのがこちらにとっても気持ちよく嬉しさーカタストロフを感じさせます。
そう、幸せのカタストロフです。
水曜日のエミリアから、神経質でささくれだった知性を剥ぎ取ると、この物語になるなと思いました。
何もあのように知的にシニカルに攻撃的になることはないのです。
それは少なくとも近道とは言えない。
ナタリー・ポートマン演じる直向きで幼気なノヴァリーの自分と”あなた”を守ろうとした唯一の大きな嘘。
不安と諦め。
しかし双方が求め合う流れは止められない。
なにも遅すぎることはない。
ほんの小さなきっかけがあればよい。
もともと分かっていることを、知るだけのことに。

Natalie Portman







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夏眠の季節〜目眩く陽射しの中で

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いつしか卒倒しそうになりながら
辛うじて意識の闇に引っかかってくることを拾ってみる。

1969年の昨日、アポロ11号が月面着陸した。
モノクロ映画の1シーンのように、今でも蘇ってくる。
静かの海をフワフワと跳ねながら歩く、アームストロング。
アメリカ国旗を刺す姿、これまたモノクロ映画の様な。
小さな自動模型の動く姿。

AppleとIBMが業務提携だと。
企業mobileのセキュリティ関係のソフト、サービス開発が主のようだ。
巨大企業の優秀なサービスとビッグデータの共有だが、一般にはどのような影響、波及が見られるか?
ジョブスとIBMの付き合いは長い。
ところで、Appleの新製品はそれと何らかの関連はあるのか、どうなのか?

山岸凉子のパニュキスに久々に泣く。
わたしは特にこのような小品が好きだ。
ハリーはまるでバナナフィッシュのアッシュの様に優秀。
ギャングのボスではないアッシュ。
死んでしまうが、かけがえのないものを後に残す。
秀でた者とは、とかくそうしたものだ。
しかし、創作というものの意味を改めて確認する。
やはり、自分を知るには創作しかない。
変わるのはまた別のことだとしても。


"ああ、パニュキス ぼくはきみを
好きにならずにはいられない
同じ所に住み同じ年のぼくたち

ぼくは木の実で青いカブト虫を
入れるカゴをつくってあげる

そして、今朝、海辺の水たまりで
きれいな貝をみつけた

ぼくは、きみのために
それに土を入れ花を植えよう" (アンドレ・シェニエ)


あつさのせいではない(笑
この作品の胸を締め付ける切なさはたまらない。
暑いときは、体を冷やすより、
感情の水位を高めた方がよい。
もはや、暑さも寒さもない。

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ラウルデュフィを観て~bunkamura渋谷

Duf La Fée Électricité

「物の輪郭より色を感じとり、色の印象がより長く心にとどまる」
こうラウルデュフィは述べているそうだ。

日本ではありえない言葉だ。
やはりフランスだ。
ニースだ。
海か。
静物画も同様だ。

溢れる色彩というのは本当だ。
色そのものがすでに”もの”になっている。
物質化している。
色が繋がる。色で繋がる。
あらゆるものと、、、。
歓びの色?
確かに苦渋の色はみつからない。歓び以外の色ではない。
些細な線で初めてそこに名前が見つかる。
形がわかる。

輪郭線はとりあえずの役はしているが、いつしかゆらゆら漂い出す。
線が装飾―揺らぎやリズムを生みだす。
描いているデュフィの楽しさも伝わる。
ワクワクと。
海という楽しさ。
そこに自然の恐怖はない。残酷さも。

青が綺麗だ。
様々な青が至る所に氾濫している。
明るく軽快で軟らかな青。
モーツァルトの軽快な調べに確かに合う。

フェルメールのラピスラズリではない、デュフィの青の発見。

彼はマチスの絵に出会い、新しい絵画の探求を始めたという。
それからというもの長い探求の旅が続き、、、。
海の刻々と変化する”青”の多様さを発見した。

そのためデュフィはフランス各地の海辺の絵が多い。
それから、コンサート会場。
ここでは“赤”が溢れる。
海辺とモーツァルト。
または、バッハ。

そして”赤”がある。
しかし、これも軽やかで優しい香に溢れている。
デュフィによれば、残像から自分の色を発見したそうだ。
その色は動きと雰囲気も伝える。
美術史家によれば「色彩を輪郭から解放し生命力と時を与えた」
解放された色は歓びに輝き生命そのものになった。
それは音楽となり、様々な色の煌めきとともに交響楽となる。
というところか。

さらに晩年に発見した”黒”。
黒を発見する画家は少なくない。
それが晩年に多いことも。

すべての色が混ざれば無彩色に行きつく。
勿論、”黒”にまではいたらない。
黒はさらに洗練された精神的な抽象である。
彼の黒も他の色のごとくに色であり、確かな彩度を感じる。


”ゲルニカ”の向こうを張った彼の”電気の精”とは、、、。

その答えは
「わたしの目は醜いものを消し去るように出来ている」
に収斂される。


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新しい朝

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黒い花。長女作。

新しい朝

トワイライトゾーンを過ぎて何時もの朝となる。
果たして何度目の朝か?
ほんとうに何時もの朝か?
はじめての朝であることに気づかないでいたとしたら、途轍もない損失である。


意識は大概リセットしているが、いろいろなものが知らず疼いている。
それがなんであるか判然としない。
その強度、質感、カラーその時々による。
大概重苦しいとまでは言わないが、軽やかなものではない。
多重フィルターがかかっている。

肉体のフィルターと言うか、やはり身体性によるものだ。
これが眠気くらいの一過性のものならともかく、かなり根深い位相の蓄積も感じられる。又は業か?

意味のない緊張、囚われ、既視感いやフラッシュバック、受け継いだ喪失や悪循環。

休養が必要だと思い、実際に休みもしたが、それで何が変わったわけではない。
違う土地で違うことをやる、とか言う気分転換レベルのものでどうにかなるものではない。
どこに行っても、持ち込んでしまうものは律儀に持ち込んしまう。
知らぬうちに。

しかし、ちょっとした転換が軽やかに起きる、そんな可能性はある。
充分に異なる時間流に乗り込む契機はある。
チャンスは2度と来ないが、また異なるチャンスに巡り会える。
未知のエレベーターに乗るチャンスだ。


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多肉植物の恍惚  変奏補遺。

Conophytum ampliatum

サボテンは管理に多少気を遣う。
特に根腐れに対して。
日光が適度に当たり、風通しや水がかからない配慮が日頃から大切である。

しかし、多くの多肉植物の場合、かなり荒れてしまっていても(その多くは徒長などによるものだが)
単に葉のひとつを元からポロっと取るか、伸びた余計な分の茎を切り取ってサラサラな土に挿せばよい。
どのような調整も容易く出来る。
間伸びだけが気になるなら、後者のやり方でたちどころに治る。

であるから、寄せ植えなど自在に出来る。
かなり凝ったことも可能だ。
よくあるのは、プラスチックやブリキの様々な小さなフィギュアと組み合わせて作るものだ。
マニアチックな作品などによく見られる。しかしわたしはその手のものは生理的に受け付けない。
なるべくプラスチックなどとは一緒にしたくない。

彼らは形が多様で愛らしく面白いので、組み合わせると楽しいものが出来ることは間違いない。
ただ、光量や水分の耐性がそれぞれ違うため、薄い葉っぱ状のものと、プクッと膨れたものを同じ環境で管理するのは好ましくない。寄せ植えだと必然的に同じ環境下に置かれてしまう。
あるものは日焼けして爛れ、水分過多で腐るものも出たりする。
似たような形と特徴をもつものでまとめてあげるのが管理上無難だ。

この千切って挿す。
又は1部分1要素から全体を再生させる。
これらがいとも容易い多肉植物のアーティフィシャルなソフトマシーン的なあり方。
特に多肉植物の増殖、再生力には、
驚きと共に、一種の郷愁や恍惚感をも覚える。

Macをはじめ、かつてのプラトーンのようなものから、最近のガジェット群もソフトマシーン化して行く。
生物・モノの双方からのアプローチがかかり、われわれの身体の夢想的な部分から接続が進む。
陽の光の中で、わたしの周辺がざわつきはじめる。

わたしはどちらかと言うと鉢植えが楽しい。
すぐ隣にはMacがおり、時折iTunesで曲をダウンロードし、一緒に聴く。
これからは、娘も加わる。





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多肉植物の恍惚

Conophytum ampliatum

もともとサボテンはとりわけスピリチュアルな植物として注目されていたが(「サボテンが喋った」(工作舎)など)、サボテン、多肉植物の類は一度関わり出すと、いつも頭の片隅に居座り始めるようになる。
見詰めているとその面白い魅惑的な形態に見とれ時間を忘れてしまうことも屡々である。
底知れない魅力で、どんどん深みに引きずり込まれる、というほどのものではないが、その愛らしく特異な形はいつも気になるし、日に当たって元気にしてるかとか(直射日光に当たり過ぎではないかとか)か雨に当たりすぎたかなとか、葉が覆い茂り、風通しが悪くなって虫とか発生してないか、とか心配にもなったりする。
アーティフィシャルで予想外な綺麗な花をいきなりポッカと咲かせもし、その唐突さと意外性が愛嬌とも言え、特別ななくてはならない存在となってゆく理由の一つだ。

とは言え、忙しいとなかなか詳しくは観れない日が思いの他続いたりする。
多肉植物は水や肥料をあげすぎると、根腐れしてコロっと死んでしまう。
その為もあり、なるべく何もしないでいるうちに多忙に塗れてしまって、季節の変わり目の注意なども忘れがちになる。
時折、しっかり確認すると大変な荒れようで、影で徒長しているもの、苦し紛れに茎の途中から根を沢山ヒゲ状に伸ばしているもの、ちょっと虫の兆候が見え、病気がかっているものなどが、見つかる。
中には暴れすぎて、3つも先の鉢のところまで葉を伸ばして絡んでいるのもいたりする。

気づいたところで、すべて速攻で処理するが、いま夏場は彼ら(彼女ら)の夏眠の時期でもあり、出来れば秋にやりたいところだが、冬に気づいてやるよりはマシなので、応急処置でやってしまう。
眠っていても進行して取り返しがつかなくなることもある。
体力は冬よりはあるが、荒療治は出来ない。
秋や春なら芽が出るが、夏は無理の場合も多い。
やるなら環境の調整がまず前提で、半日陰で2週間は休ませたい。
菌の発生も無いように灰を切断面に塗ったり、根切りも適度にしておく必要がある。

昨日、蚊に食われながら、やることはやってしまったが、今日確認したところでは何とかなりそうだ。
多肉・サボテンは何と言っても根腐れしやすい。まずそこを注意することが肝要だ。

それにしても、多肉の形の多様さ、特殊さ、豊満さ、放逸さ、この過剰な個性にはいつも目を奪われる。
あらゆる形を各々で試してみたかのようだ。
何万種類の仲間たちで。
そしていつも彼らはそれに満足しない。やりすぎる。
根っからの過剰な存在なのだ。

模様の王様は蝶かも知れない。
形では多肉植物だろう。
しかし上品でお淑やかな王女様ではない。
とてつもないじゃじゃ馬である。
可愛いがその花も含めて。

われわれはそこからどれだけの想像力をインスパイアされるかだ。
しかし、インスパイアされる前に恍惚としてしまうのがオチだ。
特に夏は。
共に眠ってしまう。
彼らの時間に絡め取られる快感。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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大雨と強烈な日照り ~ その既視感

Typhoons01.jpg
面白いと言えば、面白いのだが。
どうでもよいといえば、全くどうでもよい。
先日も突然のシャワー降雨にやられ、やっとのことで電車に乗り、降りたところで残酷なほどの陽の照りつけよう。
日焼けもかなりのもので、以前10日間ほど滞在した宮古島でのことを思い出す。
そこでは、曇天であっても30分の屋外での活動で腕に水膨れの火傷が出来てしまった。
恐るべきUVパワー!
おまけに、帰りの飛行機では、乗っている最中に両腕の瘡蓋風乾いた皮がサラサラと落ち葉のように落ちてきて座席に積ってしまった。何故か快感だった。客室乗務員も驚いていたが、何食わぬ顔で完全無視した。
そう言えば、スイカや南国フルーツがゴロゴロしていたっけ。
そればかりが脳裏を去来した。

つくづく暑いところへ飛行機で行き来してみると、電磁波と重力で世界は成り立っていることがわたしにも分かる。
そしてわれわれ(わたし)の肉体の脆弱さと、 何気ない日常もタイトロープ上の綱渡りでかろうじて生きているということを実感した。
ホントに僅かなバンドの間だけで揺れ動きつつ。
何処へ行こうが狭い範囲しか知ることは出来ない。
座禅しつつすべてを直覚するヒトもいるのだろう。
ともかく水平的な距離の問題では何かが分かるわけでは全く無い。
内省なしに突っ走ることは同じお地蔵さんのいる道を何周も飽きずに巡り続けることになるのだろう。
山岸凉子の漫画にそんなのあったな。

この場所にすべてがある。
ないとしたら、どこにもない。
それは間違いない。
それにしても天気というのは象徴的だ。
気にする類のことでは全くないことの。




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”光の庭”~The Garden with Holy Light

Wooden hourglass

BANANA FISHを読み終えてしばらく経ち、水面の波紋も静まった後これを読み、始めて涙が出た。
7年後の回想録だ。
”BANANA FISH”
忘れる事の出来ない印象-記憶をはっきりこの物語はわたしの身体に残した。

恐らくこの痕跡は、透明になっても消えることはない。
光の庭にあって。
その時間はループする。
そうだ不思議に昼間の暖かい陽溜りの中が一番なのだ。
間違っても夜のドロドロした時間や悪夢とは縁も由もない世界だ。
ときに優しく清々しい風の吹き抜けてゆく、綺麗な花の咲き誇る庭こそが相応しい。

これ以上のものは背負えない少年の精一杯の生と死の物語であった。
宿命の齎す悲しみと優しさ。
それが距離をもって眺められるこの小さな”光の庭”~The Garden with Holy Light にあって、
はじめて胸が詰まる思いがした。


他の作家の作品にも無論、優れたものは沢山ある。

しかし、残り方が様々だ。
諸星大二郎の残り方。
山岸凉子の残り方。
・・・・・・・・・・・・・・・・
それぞれ違う。

アッシュ。
神の器か。
まるでキリストだ。
そう優れた作品の上に、魅力溢れる圧倒的な主人公が存在すること。
これがこの作品の残り方を決定づける。
いや、息づく。
現実にはまずありえない強烈なリアリティをもつ少年。
その気配がすでにわたしの日向ボッコする休日の庭にすでに感じられる。

それは、いま一歩を踏み出せずにいるわたしの背中をそっと押してくれるなんともいえない優しさとして。
頼もしい影として。
いつだって、頼もしいものは、最も優しい。



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過去25年で最高傑作とは?AppleのNewItem

cakutasu.jpg
上級副社長の何とかいうヒトの言葉だそうだが、今年中には出すそうだ。
メガネや時計はもうすでに後追いだし、まさかiCarなどありえない。
4KモニタTVなどはもはや普通の製品だし。(AppleTVは今ひとつのまま消えてゆくのか、、、)
勿論、今挙げた製品の信憑性は真しやかに噂には載っている。
様々な憶測が流れているが、Webのあちこちにある無理やり作ったうけ狙いの新製品の画像は微笑ましい。
妙な議員のコラ画像等より遥かに。
それだけ期待されているのか不安からか、ともかく話題に事欠かないうちが花だ。
過去最高のプロダクトと言うからには、スティーブ・ジョブスを超えたという宣言か。

にわかに信じられないが。

特に面白かったのは、iHouse
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これから、出てきても可笑しくない風情だ。どの程度統合されたインターフェイスで絡んでくるのか。
GoogleCarと同じようにソフトで家全体を操作管理してしまうか。
これからは、家という建造物ではなく、そこにインストールされたソフトでその住み心地を選ぶ時代か?
その方向性はある。
すべては、OS競争へ。
上部構造は下部構造に優越する。
もうその流れは見えている。

Mac mini Proという極めて地味な少数ご意見もあったが、これは出たら私も買う。
しかし、どう考えても単なる現存ラインナップの延長に過ぎず、インパクトは0に近い。
過去最も地味な製品のひとつに数えられる可能性は高い。
誰も何とも思わない。が、出たら欲しがる人はかなりいるはず。
ニーズはある!

分けのわからぬもの。
iJobs!
何のことだ?
説明読んでも分からない。
画像見ても分からない。ジョブスの顔だけしか載ってないし。
シュールですらない。
単なる言葉遊びの脱線か。
しかし、ジョブスになんとかしてくれという無意識的な神頼みが表出したような、、、。
現代の閉塞感をijobsで払拭しましょうとか、そこまで行くと新興宗教までOSの選択にかかってくる。
どこにインストールするんだ?

わたしにとって分からなくもないものもあった。
New NewtonとかApple Ⅲとか。
まずおふざけで、噺家がタイミングを外してわざとこけるのと同じようなものだが、わたしも実はColorClassicⅢが欲しい。
革新を狙った新しい物ーメインフレームは、Appleが出せなくても必然的-宿命的に登場するものだが、その流れとは別に、ゆるキャラではないが、スローなロハス的というか、多肉植物を愛でるような感覚で付き合えるMacが欲しい。

それというのも、Macはもともとそのような人間の身体性と親和的な関係を持ったソフトマシーンであったからだ。
その血筋-DNAだけは引き継いで行ってもらいたい。
触っているだけでなんとなく幸せ気分に浸れるMacを望みたい。
今こそそれを切望する。

無理かな?


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甕のぞきの色~山岸凉子を読んで

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”甕のぞきの色”
仄かな淡い感覚。しかし鋭くもあり、壊れやすい感性。なによりも確かな、かつてヒトのもつ力。

全くの無色透明にしか見えない水に、かつての日本人は青い色を見ていた。
丁度、風鈴の舌の部分の無い鐸に山の彼方からそよ吹いて来る風の音を感じ、来るものを察知していたように。
エスキモーも我々にとっての白一色に、はっきり7色の色分けをしているという。
そんな例、挙げればきりがない。
勿論、これも言葉と感覚のその時代、その場所固有の身体性であり、ひとつの制限とも捉えられよう。

しかしデジタル機器により身体の機能を拡張、分離し始めてから、言葉についても、身体についても、単に意識、意味のみに偏り過ぎて世界-身体性の硬直の激しいことは言うまでもない。

山岸凉子のこの漫画には、その辺の経緯が豊かな説得力を持って描かれている。
つくづく思うが、良質な自覚的な漫画の、メディアとしての雄弁さは圧倒的だ。
その形式を遺憾無く使い切っている。
そこにこのように深い造詣と洞察が絡むとこういった作品が生まれる。

ここでは、難病を治す薬、万能の水を巡って話が展開する。
担ぎ上げられた年より若く見える超能力少女。
そのか細いボーイッシュな少女が幼い日、庭からその水を湧き出させる。
その水は医者に見放された患者も完治させた。
それを知って、信じてすがる者達の館が生まれる。
館を運営する計算高い母とかつてそれで病が完治したスタッフたち。
よくある霊感商法とのグレーな境界。当局側の水質検査、マスコミたちのエグイ騒ぎ方など。

自分が胃癌末期と信じてその館に転がり込んだ主人公の青年がそこでの体験を通して、そういった事態、構図の本質を科学雑誌の記者の経験も活かして、俯瞰し述懐する。
泉を生んだ少女は確かに、頭頂部分に風が通ったと表現し、時折耐えられないほどそこが熱し、頭の天辺を削いでしまうこともあるということだった。主人公の青年はそれを最後のチャクラが開いた状態だと受け取る。
少女の手かざしで、胃の痛みも消え、青年は次第にこの世界に、少女を媒介に入り込んでゆく。
少女は他の誰よりもその水を信じ切っていた。
青年もその少女を特異な存在としてその力を認めるようになる。
青年はいつしか痛みも消え、胃癌も完治してしまう。
しかし、水の科学的分析結果は「ただの良質な水」であった。
どこで調べても。

かつて”ルルドの泉”もただの良質な水という判定しか出なかったという。
癌が治ると医者は、あれは癌ではなかったと決まって前回の診断結果を撤回する。
無意識-身体の捉えることを、意識上で記号的に処理するために、未知の-引っかかってこない事柄はことごとく否定されることになるのが現状だ。

ただの水に思える水面に色を見て取る感性が、今こそ求められるのではないか?

館はひょんなことから死者を出した為、マスコミを中心とした騒ぎの中で解散となる。
数年後、例の超能力少女は成長して年相応のポッチャリした体格の平凡な女性になっていた。
まるで記憶を喪失してしまったかのように昔のことなどなんとも思っていない様子。
水のことなどはじめからなかったかの如く。
「分析表」は意識による無意識の分析である以上、そこに掬えないものは全て取り零される。
彼女の核-無意識がその頭の松果体-第三の目と共に切り離されたかの如く、身体-容貌が別人のようになり、ただのヒト-今時の娘となっていた。
泉も枯れてしまった。
地震で地下水脈が変わったとかつての取り巻きは言う。
物事は全てその人間のパラダイムの中の論理で語り尽くされ回収され、何もなかったようにおさまる。
この虚無感に主人公の記者は、打ちひしがれる。

ただ、確かな事実は、彼の癌が完治したことだけであった。
勿論、それについても彼の上司は、単に自然治癒力によるものだと力説する。
その自然治癒力を極限にまで活性化させたのは何であったかこそが問題なのだが。
所詮、無意識-人知を超えた何か、を意識-言語・記号レヴェルで解析すること自体が不可能であった。
”水”その象徴でもあるものが証明されることに大きな期待を寄せていた彼女は、その世界から締め出されてしまった。
そのことすら、今や分からない、別人となっている。これはある意味、恐ろしいことだ。
とても危ういことだ。

それにしても恐ろしいのは、山岸凉子だ。



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殺意の夏を観てみた~イザベル・アジャーニとは!

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L'Été meurtrier   ne Deadly Summer
1983年
フランス

ジャン・ベッケル監督
セバスチアン・ジャプリゾ原作・脚本

イザベル・アジャーニ 、、、エリアーヌ(エル)
アラン・スーション 、、、フロルモン(パンポン)
シュザンヌ・フロン 、、、コニャーク
フランソワ・クリュゼ 、、、ミッキー
ジェニー・クレーヴ 、、、パンポンの母
マリア・マチャド 、、、エヴァ・ブラウン


だいぶ以前に観たことがある映画だが、断片的に覚えているだけで、ストーリーは思いだせない。
車の修理シーン、自転車レース、アジャーニの真っ赤なドレス、扉越しの執拗な会話、病院のベッドでのやり取り、ライフル銃、等のシーンは朧げに脳裏に浮かぶ。

見直してみると、しっかりした脚本のサスペンス映画であることが分かる。
記憶の断片は有機的に繋がった。
「殺意の夏」というのは良い邦題だ。
自分のアイデンティティ-心的閾値が保てず、それを脅かし続ける根拠を絶えず殺意の対象として彷徨ううちに、その対象を父の一言で一瞬に失ってしまう。
彼女はホワイトアウトし、不幸にもその寸前に彼女の立てた誤った計画が実行されてしまう。
彼女の狂気は、周囲も制御不能にしてしまった。

前は漠然と、イザベル・アジャーニを魅せるための映画のように感じていた。
「天使とデート」がエマニュエル・ベアールのPV的な荒唐無稽な可愛い映画(悪い意味ではない)であったが、
こちらは、アジャーニの資質と演技力を魅せるための彼女の初期作品と言えるか。

イザベル・アジャーニは大抵の場合、精神的な破綻にひたすら向かってアグレッシブにまたは、フラジャイルに煌きながら綱渡りしてゆくものが大変印象に残る。
確かに特にファンではないため、観ている映画も少ない。
しかし、私の観たものから言えば、彼女の放埒でカオスに呑み込まれる狂気への演技は生半可なものではない。
サブウェイにしても狂気とは言わないが、こだわりについてはファナティックであり、破滅の方向を定めて行くことは確かである。
ある種のアルタード・ステイツである。
”Possession”この資質は強く感じる。
彼女の瞬間に変化する表情。
しかしそこが彼女の本質である。
その動と静。
激しさとガラス細工の危うさ、繊細さ。
しかしそれが確かな意思によるコントロールではなく、制御不能なものとして立ち現れる。

これはあくまでも演技を観ての感想に過ぎない。
しかし、こうした役-姿は明らかにソフィーマルソーではない。
シャルロット・ゲインズブールも違う。
エマニュアル・ベアールも合わない。
ジュリエット・ビノシュもない。
ヴァネッサ・パラディも。
ヴィルジニー・ルドワイヤン、、、、。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしの貧しいフランス女優の知識でだれか思い浮かべたところでまったく意味がない。

その演技-身体が映画に必ず見え隠れ(全面的に吹き出す)からには彼女-女優の本質と捉えて構わないはずだ。
彼女は狂気に破滅して逝く女優である。

この映画でそれが繊細に大胆に示されている。
この映画はやはりイザベル・アジャーニのPVである。
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”レミーのおいしいレストラン”を観て

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Ratatouille
2007年
アメリカ

ブラッド・バード、ヤン・ピンカヴァ監督
ブラッド・バード脚本

『アイアン・ジャイアント』や『Mr.インクレディブル』の監督だ。
ピクサー・アニメーション

レミー
ジャンゴ
グストー
リングイニ
スキナー
コレット


思い切り荒唐無稽だが、わたしには全く気にならない。
「誰もが偉大な芸術家になれるわけではないが、誰が偉大な芸術家になってもおかしくはない」
天才シェフ、グスト―の言葉を借りて評論家イーゴの最後に述べた言葉が素敵だ。
別にねずみが天才料理家であってもよい。文字も読めて、話も分かっても、頭脳明晰であっても、人間臭くても。
何も問題ない。
まさにファンタジーである。

美味しそうな皿が並ぶ、厨房の煌びやかな楽しさ。
食材のまた美味しそうなこと。
レミーとリングイニの超絶コンビによる多彩な料理。
そのスリリングでアクロバティックな調理動作。
ともかくテンポがよい。

特に、よく動くレミーは、リングイニに関する重大な書類を持って、街中を逃げ回る。
実写版で人間がバイクで逃走するより、アニメのねずみの方が迫力もある。小回りは利くし(当たり前か)。
3Dアニメの良いところが余すところなく引き出されている。
ピクサーならでは、でありピクサー以外ではここまで自然にはいかない。

レストラン・グストーを辛辣な批評で突き落としたイーゴが再び批評のためやって来る。
不気味な毒舌料理評論家イーゴの書斎はドラキュラの棺桶に似ていた。
それを迎え撃つレミーたちは、家庭料理で対抗する。
温野菜料理・ラタトゥーユ。
(本物より美味しそうだ。)
それを食べたとたんイーゴは少年期の記憶に出会う。
至福の家庭料理の味。
イーゴの表情が暖かく柔和になる。
料理の力だ。
この一口で、イーゴを変えてしまった。
後にイーゴの批評に関する自己批評が新聞に掲載され、彼は批評家を辞める。
しかし彼らの新しいレストラン、ねずみの看板の”ラタトゥーユ”の常連となる。

料理の質感だけでなくパリの街並みの質感も同様に美しい。
いつものディズニーらしく音楽が映像にしっくりマッチしている。
夜の街灯に映える靄のセーヌ川。
オリジナルのシャンソンが様々な光景に溶け込みいかにもパリの雰囲気を色濃く醸している。
そう音で秀逸だったのは、先輩であるコレット(リングイニの恋人)が良いバケットの選び方をリングイニに教える時のバリバリという音である。
いかにも香ばしい美味しそうなパンが香りとともに夢想される。

これを見た子供たちが、レミーといっしょになって料理を作ることを想像出来たらとても素敵なことだ。
料理好きになる子がきっとたくさん出てくるはずだ。
うちの娘は無理そうだ(苦

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”もののけ姫”を観て

Princess mononoke photos2
1997年

宮崎駿監督・脚本
久石譲音楽
主題歌 米良美一「もののけ姫」

サン
アシタカ
モロの君
エボシ御前
ヤックル
カヤ
ナゴの守
乙事主


宮崎駿の作品は、それほど見てない。
風の谷のナウシカ、天空の城ラピュタ、となりのトトロ、魔女の宅急便、紅の豚、耳をすませば、、、とこれくらいか。
ああ、ハウルの動く城も観た。
でも、だんだん見なくなってきたような気がする。
”ラピュタ”がわたしにはいちばん体質に合っていて、次が”ナウシカ”か。
しかし最も感動したものは、”もののけ姫”だ。
これには圧倒的な重みがあった。

はじめに印象に残る場面(些細な)の断片を羅列する。
大きくまとめようとすると陳腐なものに収まりかねないし。
特に結論などあえて述べるものではないだろう。


カヤという娘に貰ったネックレスのお守りを、サンにここぞという場であげた(届けさせた)が、あれは純粋にサンの身を案じてのことだろうが、この時点でアシタカは、村ーエミシの里には帰れない。あの飾りは結婚の約束も秘めているようだ。
「君は森で、わたしはたたら場で生きよう。」もう彼が村に戻る気はないことがよく分かる。海外のひとになんで用が済んだ、呪いが解けたのに、自分の村に戻らないのか疑問を持つ人が多かったと聞く。

ハンセン病患者とともに生活し、先鋭的な武器を開発し(石火矢自体はエボシが明から持ち帰ったという)、誰の束縛も支配も受けず、自然をも支配下におき平等な共同体を打ち立てようというエボシは当時室町時代の人間としては際立った存在と言える。明らかに日本的な思想の持ち主ではない。

ビーフジャーキーのような乾燥肉をサンがアシタカに噛み砕いて口移しに食べさせるところなど、些細な場面だが非常にセンシティブで宿命的な2人の関係の進展を予告するところだ。勿論、2人の際立った主役と思しき者が現れれば自然とつながりが出来てしまうのを不可避的に予感してしまうものだが、この映画のディテールの精細な作りから必然的に生まれた際立ったシーンだと思われる。アシタカが涙を流すときサンは一瞬驚き、それをすべて受け入れ、また口移す。激しいダイナミックな戦闘場面と繊細な心理描写がより緊張感を増す。

森がダイナマイトで立て続けに爆破されイノシシたちが赤い火柱の中宙高く舞う場面や、アシタカとサン、エボシのそれぞれの熾烈な戦い、特になごの守の呪いを受けたアシタカの腕の怪力ぶり、犬神に乗り森を縦横に駆け回るサン、石火矢を完璧に使いこなす冷静沈着で勇敢なエボシという女性、乙箏主が壮絶な姿の崇り神になりつつ、最期の救いを求めてシシ神のいる湖に向かって来るところ、シシ神の透明になりダイダラボッチへと変幻し夜空高く伸びてゆく、あの吸い込まれるような幽玄で幻想的な姿、頭だけになってもエボシの腕を食いちぎるモロの執念(エボシ自身がよく知っていた運命的な刹那)、サンとアシタカが奪われたシシ神の首を取り戻すまでの息もつかさぬ戦いと最後に2人で共に首を捧げる姿、ここにもアシタカのサンへの気持ちが仕草と表情に表されている。

エボシとサンは両極の存在として屹立する。
エボシは化粧にも余念なく、唇は真っ赤な紅で染められている。
片やサンは頬に赤い模様が染められ。
両者の血塗られた戦いの宿命を象徴するかのようだ。
エボシは最後にみんなで力を合わせ良い村を作ろうというが、思想が変わったわけではあるまい。
アシタカはあくまでも中立の立場を貫くだろう。
共生を願い続け。

印象深いシーンは幾つもある。

しかし、最初にアシタカという青年(まだ少年か?)がいきなり、なごの守という崇り神から呪いを受ける。
サンは村を救うために投げ出された赤子である。モロによって犬神の娘として育てられた。
とてつもないものを彼らは背負わされる。
ここが物語の最大のポイントと言えるかも知れない。
宮崎駿自身も、「祝福されない生を受けた子供が主人公である必要があった」といった内容を述べている。
アシタカは「その呪いはいずれそなたを殺すだろう」と村の老巫女に宣告される。
まず初めに主人公が死を見据えて、呪いの激しい痛みとも戦いつつ旅立つことが、この世に生を受け誕生してくる子供たちに恐らく重ねて描いているものと考えられる。
環境との共生などという前に、命を問うなら死を前提に考えることは不可避である、というところから始まる。
ここに出てくる登場人物たちは皆、死を見据え、自らの中に(モロも含め)死を宿して生きている。

宮崎駿の映画の批評に空想世界の中だけで閉じてしまい自己充足しており、現実との接点を欠いている、という類のものが多く見られたが、この作品は日常現実にしっかり足を踏み下ろすための死が正面から描かれている。
生半可なヒューマニズム映画などより遥かに根源的な場所から生を描き出している。
その重量感がある。

アシタカは宿命であり不条理極まりない死を覚悟して戦うが、シシ神から”生きろ”というメッセージを受け、呪いは解ける。


ヤックルと師匠連のジコ坊、こだま等、魅惑的なキャラクターも多い。
それに何といっても考えられない豪華な声優陣である。
森繁久彌、美輪明宏、森光子、石田ゆり子、上条恒彦、、、。
そして、米良美一の唄。究極の美である。

最初から歴史に残る傑作を作るつもりであったことがよく納得できる。
この映画を最後に宮崎はフィルム撮影を辞めている。
最期のフィルム映画であった。
セルを何十万枚使ったことやら。
これまた命を削る作業だ。

これ以降コンピュータによるデジタル編集になったようだ。


Princess mononoke photos1


カミーユ・クロ―デル ~ Camille Claudel 狂気の美

izabelle adjani
Camille Claudel
1988年
フランス

ブリュノ・ニュイッテン監督・脚本
レーヌ=マリー・パリス(カミーユ・クロ―デルの孫)原作

イザベル・アジャーニ(製作)、、、 カミーユ・クロ―デル
ジェラール・ドパルデュー、、、オーギュスト・ロダン
マドレーヌ・ロバンソン
ロラン・グレヴィル
アラン・キュニー
カトリン・ブアマン


この映画こそ、イザベル・アジャーニ=カミーユ・クローデルの映像をつぶさに見て言葉以前の風景―ドラマをそれぞれで捉える作品だと思う。
捉え方や印象もヒトによりかなり異なるはず。
ただ、ここでイザベル・アジャーニはカミーユ・クローデルに成っていたことは確かだ。
”アラビアのロレンス”のピーター・オトゥールがトマス・エドワード・ロレンスに成っていたように。

やはり彼女はロダンとの関係で発狂してしまったと言えよう。
師弟関係とは言え、才能と才能のぶつかり合いである。
穏やかな生活は到底望めない。嫉妬と疑惑も尋常ではない形で膨らむ。
ここで話の筋書きなどしゃべっても意味もないことは言うまでもない。
だが、あえて言葉に出来そうな瑣末ことをいくつかとりあげてみる。

この映画は彼女の奔放で激しい愛憎と究極の美―造形を求める創造力が狂気へと収斂されてゆく姿が描かれている。
恋愛の試練とともに、
同時に作品を奪われる恐怖。
いや才能を奪われる恐怖か。
愛憎ともども抱いているロダンに対する被害妄想も高まる。
時代的な試練も小さくない。
彼女のような才能をもった女性への社会の偏見。
真っ直ぐな性格の彼女は至る所でぶつかる。
カミーユ・クローデルを演じるのはやはり、イザベル・アジャーニしかいない。
狂気と言ったら、ポゼッションでも圧倒的なものを魅せているが、こちらは徐々に重苦しく内在されていく狂気だ。

”ブラック・スワン”ナタリー・ポートマンの狂気にも近い。
しかし、ナタリーの緻密に練り上げられる迫りくる狂気の表現に対し、イザベルの方は突発的で激しく炸裂する狂気だ。
CG特殊効果の衝撃的サイコスリラー表現に対する重々しい苦悩と孤独を感情のうねりの昇まりで表す描写。
これを2時間半まったく弛むことない時間を成立させるのは、イザベルの演技の質に負うことは言うまでもない。

そして相手の男である。
ロダンも「もうやってられない」と逃げ、中途半端な姿勢を続け、結局とっとと去ってゆく。
「空虚を与えられただけ。3倍にして。」
「虫が中から身体を食べている、キャベツのように」となる、、、。
映画では大概、自閉的に籠って感情を失くした男は、快活で強く行動的な女性に癒され
女性の主役は優柔不断ば男に翻弄され去られ、大きく傷つく。
何故かこのパタンが多い。
カミーユ・クロ―デルも後者のパタンだ。


「天賦の才能は彼女を不幸にしただけだ。」(弟ポール・クロデール)
弟のポール・クロデールの孫娘レーヌ・マリー・パリスがカミーユの詳伝を手掛けそれを読んだイザベル・アジャーニが熱烈に映画化を望み、それを推し進めたという。
「わたしが破滅してゆくヒロインにたちに熱い共感を覚えるからです。カミーユは、美貌と才能に恵まれながら、様々試練に傷つき、やがて何もかも失って自滅してしまうのです。せれはまるで女優の運命のようだと思いました。」
アジャーニ自身こう述べている。
カミーユこそ有り余る才能と美貌に翻弄され自滅した女性の典型なのだろう。



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終わりで始まりの4日間 ~ Garden State

natalie portman
この話が、というよりわたしが急に入り込めたのは、大雨の中、谷底の船にたどり着いてからだ。
そこから、とてもヴィヴィッドな流れに変わった。
それまで前半において、母の死で帰郷した主人公ラージマンの旧友とのちぐはぐなやりとりが淡々と続いており、どこかシニカルでギャグもストレートというより捻ってあり、感情が磨滅したような主人公は終始馴染めない。何処に行っても居心地が悪く、困惑して溶け込めないが何とか愛想笑いですり抜けている日本人のような表情を浮かべている。
特に居た堪れないのは自分の家らしい。
父親とも確執をもっていることがすぐに見て取れる。
9年ぶりに不本意にも帰ってきた、というところだ。
その割に友達が多いのは、彼がとりあえず映画俳優をやっているからか。
子供のころから精神安定剤の類をずっと服用し続けてきて、その病院でひょんなことからサム(ポートマン)という天真爛漫を装った不安をおしゃべりで隠しているような女性に出会う。

船に暮らし発掘現場を管理している魅力的な夫婦を訪ねてから、2人の主人公の波動が広がる。
何というか、ある場所から急に進展速度が変わることがある。
そんな感じだ。
やはり場所だ。
大雨というところがまたよい。
禊、再生、覚醒、、、。
一日であるが、親友の導きで恋人とともに思いもよらぬ旅が出来たと言えよう。

この映画の原題”Garden State”はニュージャージー州の愛称であり、主演・監督を務めるザック・ブラフがニュージャージー出身ということで、その土地への愛着と土地柄・そこならではの風習・ジョークなどもそれとなく感じさせる。
そして何よりフィクションを交えても自分(ブラフ)のことをかなりの質量で描きこんでいることが伝わってくる。
過去の記憶を蘇らせながらの新たな編集。
これは、きっと魅力的な作業だ。
勿論、重大な心の問題を生むこととなった不慮の事故への向き合いなど困難な事柄も俎板に乗せなければならない。

実際80パーセントは実話だと彼も言っていた。
生まれて生活した土地の愛称で映画を作ろうという意思は、自分の身体性を語るという事を予想させる。
単なる体験談とかいうレヴェルでなく、場所付きで彼の(彼女も)身体性の変化が独特の雰囲気で描かれてゆく。
最近ここによく登場するナタリー・ポートマンが脚本に惚れて自ら出演を決めたというだけあって、良い出来の映画だと思った。
ストーリーは小細工(ギャグ)も散りばめられつつ破綻なく作りこまれており、映像には光の加減などかなり含め緻密に撮られていることも分かる。
出てくる人間はどれも平凡でスーパーマンはいない。
実は珍しい類の映画である。
わたしが今一つ映画に入り込めない理由に、スーパーマンの存在がある。
そこで醒めてしまう。
ここには全く一人として超人はおらず、むしろ自らの弱さと懸命に向き合おうとする者たちだけがいる。
そこがよいし、共感できる。
等身大の表現を監督が意識して作っていることが分かるものだ。

終盤にかけかなりシリアスな展開となり、ラージマンが実生活で彼女サムとの語らいの中で思いもかけず涙を流す。
母に対する封印していた思いが解かれてゆく。
その過程で「愛」を改めて認識する。
その力をくれたのは他ならぬサム(ポートマン)であろう。
父との和解を決意する。
最初のころの自閉し籠って仮面顔の彼はそこにはない。あの船から変わったのだ。
薬を辞め、実生活において得た彼女との関わりの中で生きた感情を取り戻してゆく。
もともと恋愛とは、お互いに心に秘めていたシコリや病を解きほぐす装置だった。

ならば、4日で何とかなる。
長く無感動に凍てついていた心も。
ここで故郷ということが殊の外、重要であった。
 ~ Garden State



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言葉を愚弄する世界

Wooden hourglass

割り切ればよいのだろう。
意味のない辻褄合わせだけの時間を過ごすこと。
まさに悪しき廃墟とはこのことだ。
しかし何よりもそこにいる時間が長すぎる。
微細な感覚から死にはじめる。
身体が麻痺する。
わたしの見えない人間でない身体が叫び声を上げる。
このまま立ち腐れする訳にはいかない。


わたしは家族と貴重な時間を過ごしたい。

垂直な時間を経験したい。

何かを作りたい。


もはや限界を超えている。
こちらにも何らかの方法が必要だ。
速度のある方法?
もう猶予はない。

観えないものにこそ、その構造を探っていかないと。
もともと数学―幾何学はそのためにあるのだし。
可視光線は電磁波の中のほんの僅かな部分でしかない。
しかし観えないバンドの部分の恩恵にいかに浴しているか。
(赤外線、電波、X線、、、)
その物質性にこそ拘りたい。
たしかに光は波であると同時に、粒子である。
波長の側面だけでは色の部分が殊更際立つが。
光電効果(光量子仮説―アインシュタイン)の研究成果は光の粒子性を確かなものにした。
日焼けでも粒子性を見なければ説明できない。

観えないもの、触知出来ないもの、世界のほとんどを満たして支えているもの事へ。
どうやらわれわれは限られた視覚に囚われ過ぎている。
だから何も見えない。
観えないもの、感じられないものがほとんどを占めているのに、見えるもの触れるものしか元に考えない。
とは言え、星の王子さまのように、見えないものが大切なんだよ、と言われてもどうにもならない。
そこからあの絵だ。
荒唐無稽な空想―絵空事だ。

やはり理論がないと構造化しない。
当たり前だが。
イメージなど湧きようがない。
ガストンバシュラールのいう物質的想像力だ。
幾何学性をもった思考。

「生活空間」
これこそ厄介なものだ。
それにしてもそれを研究対象とした後期エトムント・フッサールの生活空間とは。
やはり研究室か?
ヴィトゲンシュタインについても。
(わたしは論理哲学論考のころのファンだが)

わたしは少なくとも生活空間の真っ只中にいる。
単なる一般人である。
しかし、割り切れない。
感覚的に。
感性が。
わたしの人間でない身体が。



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大昔のスケッチ(詩画集のための試作)

”Sketch1986 On The Threshold Of A Dream”として他のブログから、一年半くらい前にアップしていた画像ですが、再度こちらのメイン―試作ブログにアップし直します。
なかなか見つかり難いところにあるもので、ちょっと見たいと言う方もおいでのようなので、多少見易いかと思いこちらに再アップします。

スケッチ自体は1986年、丁度わたしが良く観る映画の制作年代です。
そのころは、恐ろしく画材と言うものに無頓着でこれらも、たまたまあったクロッキー帳に拾ったボールペンで描いたものです。
スケッチには必ず詩を書きこんでいました。

こういうものでしたら、無尽蔵(とまでは言いませんが)にありました。
もっと線数の少ないものも探すと出てきます。(出てくるはずです。)
つまり完成に近付いているもの。
しかし、その探すということがひどく億劫で何年先になるかは分かりません。
もし、見たい方がいらっしゃるのなら、この夏休みに書庫の二階の捜索を断行する所存です(笑
大丈夫か?
そこになければ、押入れ、床下収納しかないが。
ともかく。


ここで見てもらえば、それでいいかな?というほどのものですが。
もし、気に入って頂けるものがあれば、ご相談にはのらせていただきます。
(キャンバスに描き起こせとか、、、原画のページとかでも)



当時これらは比較的手元にあり、何を思ったのかスキャンしアップしたものです。
詩画集のための試作スケッチです。
ものによっては、F6号キャンバスにアクリルで描き起こしたものもあります(*です)。

im0.jpg
新たな閾値003



im1.jpg
新たな閾値004



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新たな閾値005



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新たな閾値006



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新たな閾値007



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新たな閾値008*



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新たな閾値009



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新たな閾値010*



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新たな閾値011



im0.jpg
新たな閾値012


すべてサムネール表示です。クリックして開いてご覧ください。解像度は最低レヴェルにしてあります。
001および002は以前、知人へのお祝いに差し上げてしまいました。もうありません。



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午前零時の奇蹟(シュル・レアリスム覚醒の時間)

これです。
torunka.jpg
イジー・トルンカのパペット・アニメーションですか?
と問われれば、ハイそうです。
と、澄まして答えるのだが。

実は、午前零時の居間での出来ごと。
偶然、ハンガーにかけた幼稚園の制服と帽子がこの形となって闇に溶け込んでいたのだった。
もちろん、わたしは呆気にとられた。
何かを喋りかけそうになり、口ごもった。
ややドキドキし、そっとワクワクした。

このとき、わたしが水を飲みに降りてこなければ、そのままこの空間に明日の太陽光が沁み渡っていたはずだ。
形自体が認識される余裕すらなく、解体され、何事もない日常が始まっていたであろう。
我が家のシュル・レアリズム0時である。
素敵な訪問者の記録である。
そう、こういうものは、すべてきっと、こんな風にやってくるものだ。
いや、成っているものに違いない。

こんな写真、もう二度と撮れはしない。
真似ごとは出来ても、それこそ全く意味がない。
この”時間”の”出来ごと”こそがあくまで問題なのである。
二度とないことの重さが。

これを今思うと、、、
これまでその存在に気づくことなく永遠に忘れ去られてしまった出来ごと―その時間の完全な喪失、もしかしたらそこから乗り換えられたかもしれないわたしの時間(その可能性)についても想いを馳せることになる。
それについて、何らかの克明な記述―描写こそできれば。
多分わたしが理解する範囲だが、きっとこれをシュル・レアリスムと呼ぶのだ。
この身体性を。

これは人間において本質的な存在学に関わるものだと思う。
その場を喪失(吉本隆明)と呼ぶか過剰(蓮實重彦)と呼ぶかは別として。
恐らく同じことであろう。

この次は、銀色に煌く広大な砂浜を滑り落ちてくるような”夢”に出逢いたい。
夢は願えば何らかの形で実現するという。
もはや夢も現もない。
あるのは、場所としか呼べない(時空)。
テオ・アンゲロプロス(Theo Angelopoulos)の映画のような、、、。
霧に煙るアンドレイ・タルコフスキーの廃墟でもよい。


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”Bon voyage.”

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