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ディーバ Diva  ~ 遥か彼方の幻影のような

diva.jpg
Diva
1981年
フランス

ジャン=ジャック・ベネックス監督・脚本
ウラジミール・コスマ、アルフレード・カタラーニ音楽

ウィルヘルメニア・フェルナンデス 、、、シンシア・ホーキンス(アメリカのソプラノ歌手)
フレデリック・アンドレイ  、、、ジュール(郵便配達員)
リシャール・ボーランジェ 、、、ゴロディッシュ(アルバの恋人)
チュイ・アン・リュー 、、、アルバ(ベトナム人少女)


最初に観たのはいつだったか?
すくなくとも”ベティ・ブルー”よりもずっと前に観て、音楽と情景の美しさに打たれた記憶がある。
が、内容はすっかり忘れていた。
"La Wally"がこれほど感動的な曲だったことを改めて知る。
ウィルヘルメニア・フェルナンデスによるところが大きいのは言うまでも無い。
”アベマリア”も尋常ではない素晴らしさだ。
そのほか、音、画像共に印象に残るシーンの多い映画である。

この物語、常に”2”で進行していくところは面白い。
特に狙われる2本のテープ。それを狙う2人組の2組殺し屋。間の抜けた刑事のコンビ。
謎のベトナム少女と悟りの境地の男、ディーバと郵便配達の青年。
ともいえようが、後の2組は性質が異なる。
悟りの男は黒幕警視と対関係か。
謎のスーパーマンと策をめぐらす巨悪としての両極を担う存在。
ベトナム少女とディーバは悟りのスーパーマンとオペラ好き青年との関係において明らかに対称性にない。
少女と青年は一方的に相手に憧れる立場だ。

物語ー事件はひょんなことからオペラ好き郵便配達青年のバイクのかばんに組織的人身売買を暴露したテープを女が滑り込ませて殺されたことから始まる。
青年は一切の録音を許さないディーバの歌を密かに高音質で録っていたため香港マフィア?からも狙われる。
2本のテープのため2重に狙われる存在となる。
スリルとサスペンスも適度に在り、青年のバイクによる逃走もメリハリにはなっているが、全体としてあくまでも美しい。

トワイライトの中をディーバと青年がデートする場面、シンプルな高揚感のあるピアノ曲(センチメンタル・ウォーク)とともに、映画のシーンとしてもっとも幻想的で美しいもののひとつだと思う。
最後に青年がディーバにコンサートの音源を持っていることを謝るところで、彼女が「私は自分の歌を聴いたことがないの」と言い、その音源を青年と共にホールで聴くところがまた印象深い。

そう、彼女は商業ベースに自分の芸術を乗せることを徹底的に嫌っていたが、その潔癖症から自分の歌声を対象として聴いたことのないことに気付いたのだ。
青年のお陰で自分の歌をはじめて他の声として聴く彼女。
2人の距離はここで限りなく近くなった。
彼女がはじめてレコードを出すかも知れないと感じさせるところで終わる。
"La Wally"アリアが途中で切れる。


イースタン・プロミス ~ デヴィッド・クローネンバーグを見て

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Eastern Promises
2007年
アメリカ・イギリス・カナダ

デヴィッド・クローネンバーグ監督

ヴィゴ・モーテンセン 、、、ニコライ(自称運転手)
ナオミ・ワッツ 、、、アンナ(助産婦)
ヴァンサン・カッセル 、、、キリル
アーミン・ミューラー=スタール 、、、セミオン
イエジー・スコリモフスキ 、、、ステパン
シニード・キューザック 、、、ヘレン



ナオミ・ワッツという女優は、デヴィッド・リンチ監督の”マルホランド・ドライブ”や”ザ・リング”などカルトな映画に積極的に出演しているようだ。デヴィッド・リンチとクローネンバーグ監督を好むというところからして、かなりの芸術家肌の女優か。
何でも父親はピンク・フロイドのサウンド・エンジニアをしていたそうで、彼女の繊細で内省的な演技にもそれが継承されているように思う。イギリスに住むロシア人の血を引く女性の内面を見事に演じていた。彼女のバイクを乗り回す姿と助産婦姿との対比も彼女の動と静の両面にメリハリをつけていた。
何故か日本未公開の映画が多数ある女優でもある。日本にも住んでいたことがあり、仏教に帰依しているとのこと。
大人の女優だ。

ヴィゴ・モーテンセンはアメリカ生まれとは思えない風貌の持ち主だ。ロシアン・マフィアの潜入捜査官役だが、ロシア人と言われれば恐らく誰もが納得する雰囲気を持っている。これを役作りでこなしているとすれば、驚異である。
寡黙だが説得力のある迫真の演技が際立つ。
彼は英語、ロシア語、スペイン語、フランス語、ドイツ語をすべて流暢に話せるそうだ。
知的なマフィアを地で行くような俳優。このイメージは強い。

他にも個性派のヴァンサン・カッセル(ブラック・スワンのバレエ監督役)、燻し銀の演技のアーミン・ミューラー=スタールなどキャストは強力である。
さて、クローネンヴァーグ作品としては、初期のヴィデオドロームなどから見ると、大変スッキリと見られる映画であり、しっかりした重厚な構造をもっている。イギリスのロシアン・マフィアの生態もよくリサーチされていてそれだけでも面白い話になっている。ヴィゴ・モーテンセンの尋常ではない役作りに負うところが大きいのは言うまでもないが。


物語は十代のマフィアの罠に嵌ったロシア出身の歌手志望の女性が身篭り出産後に死ぬ。
助産婦の主人公は自らが取り出したその赤ちゃんの親族を探し出そうとして、マフィアのボスのところにも乗り込んでもゆく。
終始この赤ん坊、クリスティーナを産み落とし死んだ若い女性の綴った日記の語りを基調に進む。
主人公は流産して相手と分かれており、クリスマスに生まれたこの子のことが気にかかって仕方ない。
また日記を読むにつけ哀れな母親のことにも感情移入してゆく。
自分の失われた子供の代わりにこの子を是が非でも守りたい。
自分のルーツであるロシアの血にも自覚してゆく。

この日記をマフィアのボスに読ませてしまったことで、マフィアに潜入捜査中のイワンことモーテンセンとの繋がりが生じ深まってゆく。その過程は、まさに血生臭い、バイオレンス・アクションの連続である。
血が噴き出す殺傷シーン満載である。
だがこの中で、主人公の2人は冷静である。
また、2人に信頼感も生まれてくる。
しかし、お互いに結ばれるような関係ではない。
拐われた赤ん坊を2人で取り戻し、「さよならアンナ・イヴァノバ」と言って分かれる。
もう会うことはない。
よく出来たバード・ボイルド映画である。
音楽もよくマッチしている。

ヴィデオ・ドロームを観たとき、こういう映画を作る監督だとは思わなかった。
まだ、クラッシュ(バラード原作)、裸のランチ(バロウズ原作)とも観ていない。
これらを観ないと話にならない。
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イレイザー・ヘッド ~ デヴィッド・リンチのコメディ

Eraserhead.jpg
Eraserhead
1977年
アメリカ

デヴィッド・リンチ監督・脚本・製作・編集・美術・特殊効果

ジョン・ナンス 、、、ヘンリー・スペンサー
シャーロット・スチュワート 、、、メアリー・エックス
アレン・ジョセフ 、、、ミスター・エックス
ジーン・ベイツ 、、、ミセス・エックス
ローレル・ニア 、、、ラジエーターの中の少女
ジュディス・アンナ・ロバーツ 、、、アパートに住む女
ジェニファー・チェンバース・リンチ 、、、少女
ジャック・フィスク 、、、惑星の男/窓際の男


、、、「イレイザー・ヘッド」である。消しゴム付き鉛筆の消しゴム部分を指す。
尋常でない映画であることは、すぐに察知する。
また、、、
よく、これほどの主役俳優を見つけたものだ。ある意味、エレファント・マンをしのぐインパクトだ。

全体の雰囲気はチャプリン時代の無声コミカル映画のタッチ。
これもコメディのひとつか。
デヴィッド・リンチは妙で不可解な存在にしか創造の起点をもち得ないかのようだ。
資質的な面も小さくないと考えられるが。
何というか死をテーマにしたとしても、心情に訴えるタイプの映画が、日常論理の内で様々に苦悩し、子供と犬等の動物の健気さ健全な可愛らしさを演出に使い話を進めることなど少なくないが、彼は一貫して根本に存在の不可解さ妙な感じグロテスクさを見据えテーマを展開していく。
実際存在はそんなに健全で前向きで単純なものではない。
これを物質的な無意識な性的なレヴェルから機械的に描いていったものか。
そう思う。

絶えまないノイズ。インダストリアルノイズ。
そして嵐。
モノクロになると何か彼岸性が高まる。
性と死のイメージ。
ギリシャ神話のだれかのような(特定できない)男が重そうなレバーを引く。
妙な生物の幼態らしきものー精子のメタファーか?を水中ー羊水に送り出す。
月経、出産の流血のメタファーも同様に溢れる。
干からびた受精卵が割れる。

何故か主人公は妙に幸せそう。
主人公の狭いベッド脇には何時も鉢のない盛り土だけの観葉植物か盆栽がある。

妙な食べ物。妙な料理。妙な現象。
妙な発作。妙なしきたり。
妙なシチュエーション。
妙な連続性。
妙な飛躍。
妙な連結。
妙な歌。
妙なヒト。

そして妙な赤ん坊。
爬虫類か。
絶えまなく泣く。

ゆっくり眠りたい。
よく分かる。
しっかり面倒見て頂戴。
これもよく分かるが、冗談じゃない。
育児ノイローゼで妻は家出。
恐竜の赤ん坊は、病気。
主人公は恐竜の口に体温計を突っ込み変温動物の体温を測る。
加湿器を何故かかけて、ワイシャツ姿で看病。

観音扉を時折開く。
困った時に開けるのか?
何故か日本の神棚のような。
部屋のドアを開けると赤ん坊が泣く。
ラジエターからは頬に大きな瘤のある白痴的な女性歌手が現れ愛想よく踊る。
落ちてくる生物の幼態らしきものを踏みつぶす。
その後、主人公は一緒に寝ている妻が、歌手が踏みつぶしていた妙な生物の幼態らしきものを次々に生んでいることを知る。主人公はどんどんほおり投げ壁にたたきつけて捨てる。
これが例の赤ん坊の元の姿?
27号室の女との浮気。
不毛な性。
あえて解釈する気は起きない。

例の歌手が歌う。ピーター・アイヴァースの”イン・ヘヴン”
天国なら何でもありよ、、、。
飛びきり妙な脳天気なうただ。
主人公の脳みそからイレイザーヘッドが工場でつくられる。

27号室への未練。
ノックをすると留守か
すぐ後に他の男と会っていることを知る。
赤ん坊が老人のように笑う。
まるで主人公をあざ笑うかのように。

主人公は赤ん坊の包帯?をハサミで切り内臓を突き刺し殺す。
あふれ出てくる夥しいイメージ。
増殖する言語にならない速度のことば。
これをある明確な論理でかたどると、構造をもちエレファントマンとなるか。
エレファントマンの外套を剥ぐとこの世界が顕わになるのか。
デビッド・リンチ監督は究極的なもの元言語的なレヴェルから存在を、というかその場所にわれわれを投げ込もうとする。
意味づけはこちらに託すとしても。

面白い冗談。


最近観た映画で。

Natalie Portman01

映画館で観たのは、アナ雪だが、DVDまたは、Blu-ray で観たものでは、「水曜日のエミリア」がじわじわきている。
あれはよい映画だと思う。
こちらを過剰に煽ろうというものがなく、淡々としていてムダもない。
難を言えば、最初の回想シーンくらいか。
特定のあのシーンが蘇るといったものではないが、全体が良い雰囲気として残っている。
とても素敵な香りが余韻を残すように。

ナタリー・ポートマンのドロドロとした”Black Swan”を観てしまってから、なおさらこちらの辛さや拘りを引きずった映画ではあるが、清々しい映像として私の中で際立ってくる。
私としては彼女の女優としての執念と野心がムラムラ襲ってくるブラックスワンより此方の方がよいかも。
あれは、あまりに全身全霊の力技が重い。
ヴィデオドロームのようなおどろおどろしさは、物語がしっかりしているため違和感はないが、話自体が狂気の話だからぴったり合ったイメージで重い。

とは言え、こちらの拘りもかなり狂気に近い。
攻撃性、喜怒哀楽もかなりのものだ。
だが、全体の印象はむしろ静謐なものを感じる。
ノイズがさーっと引けば、死に直結した穏やかな世界が見えてくる、ことが予感される。
3日で突然死で亡くなってしまったということで、人間ドラマがその子を中心に描かれることがなかったのが、ストーリーをひとつ抽象化している。現実に容易に不可避的にその死の真相と解釈による時間流が介入してきてドラマとなる。
これが、あからさまに闘病する姉妹の姉、との関係となり、妹の体も切り刻み姉の延命に使われ、、、などという展開になると、その悲痛な現実は筆舌に尽くせないものだろうが、その時間の流れは分かり易い。ドラマは悲劇であるが、距離がある劇場的なものである。「私の中のあなた」である。勿論、繊細に描き綴られたよく出来た映画であり、登場人物たちの存在もリアルである。しかしそのリアルさは、既視感に包まれている。あの犬と言い。

「水曜日のエミリア」は核となる「娘の死」は最初から死後という空白からはじまっており、観念として中吊りされたままその周囲を何周も巡る形で物語は進行してゆく。
主人公(継母)に心を開いた息子にそれまでと全く違う、自分の娘の魂に関する宗教的で詩的な言葉をかけられ、彼女(ポートマン)は何か安らぎと愛情を感じる。
彼らは、はっきりこれまでと異なる現実ー時間を生き始める、ことが分かる。
義理の息子との初めてのコミュニケーションが成り立った瞬間だ。

新たな生成としては、此方の方がインパクトがある。
どちらが良いとか悪いなどというものではなく、未知に向かう爽やかさという点である。
心に残る。

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ブラック・スワン Black Swan  ~ ナタリー・ポートマンを見て

Natalie Portman02
Black Swan
2010年
アメリカ

ダーレン・アロノフスキー監督

ナタリー・ポートマン、、、ニナ・セイヤーズ(プリマ)
ヴァンサン・カッセル、、、トマ・ルロイ(フランス人演出家)
ミラ・クニス、、、リリー(バレリーナ)
バーバラ・ハーシー、、、エリカ・セイヤーズ(ニナの母)
ウィノナ・ライダー、、、ベス・マッキンタイア


ブラック・スワンは、有り得ない起こり得ないと思っていたことがいったん起こると途轍もないインパクトを及ぼすという理論でもある。

ブラックスワンは血の衝撃の連続であった。
美への野心、底知れぬ情熱、錯乱した陶酔、血まみれの身体。
それから変性意識上の不安、嫉妬、殺意、飛翔または超脱いやここでは解放か。
白・黒・赤の狂気。
「芸術家のエゴとナルシズムの探求の映画である」とポートマンは述べているが、まさにナタリー・ポートマンその人のような才能あふれる優秀な努力家が、崩壊してゆく過程が身の毛もよだつ幻覚や妄想とともに描かれる。
これは、演じ甲斐があったはずだ。バレエの技術も含め心理・内面描写において。
その繊細極まりない鬼気迫る演技には圧倒された。
2011年アカデミー賞主演女優賞を受けるのも充分に納得がいく。


ナタリー・ポートマンは、ロマン・ポランスキーの1969年の映画『ローズマリーの赤ちゃん』と比較できるものとしてこの映画を捉えている。
フランス人バレエ監督役のヴァンサン・カッセルは、ポランスキーの初期作品、さらに、デヴィッド・クローネンバーグの初期作品と本作品を比較している。
全く、その系列の作品だろう。しかし此方の方が存在学的な基盤は重い。
重厚であり、美しい。
芸術に秘められる狂気の説得力は圧倒的だ。

クラシックバレエ「白鳥の湖」を題材に、これほどの迫力のあるサイコスリラーが生成されることに驚愕した。
身体を駆使する表現芸術の過酷さがよく描かれていたが、ここでプリマとして踊るということは、さらなる飛躍・解放が必要とされる。通常のdisciplineだけではない、何かである。ニナは苦闘する。まさに芸術家の苦闘に他ならない。
ここでのニナにとっての飛躍のための課題は、監督ヴァンサン・カッセルに幾度となく指摘されている「コントロールしつつ自らを解放しろ」である。
完璧を目指すが真面目すぎて飛ぶことができないニナは、無意識的にノンコントロール状態で身体を解放してしまった。
ある意味、能力というより資質的な面から、邪悪で甘美で大胆な誘惑を演じることが出来ないニナが自らの身体性の限界を超えてしまっていた。精神を病んでいる徴候は母親は充分に気づいており、ニナを休ませようとするが、彼女はすでに悪魔に魂を売っていたと言えよう。

芸術家にはこのような悲劇に飲み込まれていったヒトも少なくない。
カミーユ・クロデールなども。

しかし終始苦悶と不安に苛まれる神経質な表情から、最後至福の安らかな表情に染め上げられた輝くばかりの彼女に、見ているこちらが救われる思いがした。
それが命と引き換えのものであったとしても。
彼女は完璧をなし終え、解放された。

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サブウェイ リックベンソンを観る

Isabelle Adjani
Subway
1995年
フランス

リュック・ベッソン監督・脚本・製作

イザベル・アジャーニ、、、エレナ
クリストファー・ランバート、、、フレッド
リシャール・ボーランジェ、、、花売り
ミシェル・ガラブリュ、、、ジェズベール警部
ジャン=ユーグ・アングラード、、、ジャン=ルイ(ローラー)
ジャン・ブイーズ、、。駅長
ジャン=ピエール・バクリ、、、バットマン刑事
ジャン=クロード・ルカス、、、ロバン(ロビン)刑事
ジャン・レノ、、、ドラマー


最初は、地上のハイウェイを2台の車のカーチェイスというのか、ロックサウンドに乗り爆走する車が、最後に地下鉄の駅の出入り口に突っ込むところから始まる。
この物語は地下の物語であることを知らせる。
そしてこの話はこのテンポで行くぜ!
ということが了解される。

地下と言えば、黄泉の国か?
大変賑やかで迷路のようで、子供の頃の秘密基地を想い浮かべる場所である。
おまけにカラフルで、妙に綺麗なところである。
タバコをふかしたり、アルコールを飲みまくっているが、不思議に匂いのしない世界である。
そうコーヒーもやたらと飲んでいる。味も香りもしないコーヒーを何杯も飲む。
クリストフ・ランベール演じるフレッドもイザベル・アジャーニの若妻も人形のようにアーティフィシャル。
しかもローラースケートが絶え間なく走っていて、アクションもありスピードもある。
が、登場人物に内面があるのかないのか、感情は感じられない。
そのため、こちらも全く感情的な響きはない。
皆無である。
すべてが滑りさってゆく。

イザベル・アジャーニが盗まれた書類を取り戻しに何度もフレッドに接触してもいつまでも書類は戻らず、ついに書類そのものも忘れ去られ、ストーリーがフレッドたちのバンド作りへと収斂されていく。
アジャーニ自身も書類なんてどうでもよくなってゆく。

地下鉄をひとつの地下世界の住人の住処として描くのは、新鮮だ。
蛍光灯の明るさの元で、絶え間なくひったくりが行われている世界。
何処の場所なのか、朝陽光が射してくるところに彼らは寝ているようだ。
その場所が、地下と地上を繋ぐところか。
ここのところだけヒトが生々しい。
日常界の時間流に乗り替える部屋のようだ。
宇宙船に必ずある部屋。

地下鉄でのコンサート。
主人公のフレッドはバンドの中でのポジションはないのか?
パートがないのか?または、マネージャー?プロデューサーなのか?
ともかくバンドに入っていない。
面白い立ち位置だ。

銃で狙いやすい。
撃たれた後、アジャーニの腕の中で亡くなったかに見えたが、また首を動かしバンドの音に合わせて口ずさむ。
確かに、倒れたあと、彼女にまたあした電話すると言っていた。
そうだ、ここはもともと黄泉の国だった。
それで彼らは、撃たれることにもあんなに無防備だった。
全くどうでも良いことだった。死ぬことなんか。
ここは、異なる時間の支配する世界だ。

この映画では、不思議に独りも死んでいない。

もともと生きていたのならの話だが。



デヴィッド・リンチ エレファントマンを観る

David Lynch
The Elephant Man
1980年
イギリス・アメリカ

デヴィッド・リンチ監督・脚本
クリストファー・デヴォア、エリック・バーグレン脚本
スチュアート・コーンフェルド、メル・ブルックス製作総指揮

ジョン・ハート、、、エレファントマン(ジョン。メリック)
アンソニー・ホプキンス、、、フレデリック・トリーブス
ジョン・ギールグッド、、、カー・ゴム院長
アン・バンクロフト、、、ケンドール婦人
フレディ・ジョーンズ、、、バイツ


デヴィッド・リンチ監督が、エレファントマン-ジョゼフ・メリックの生涯を描いた作品。
「人間は自分の理解できないものを無意識のうちに恐る傾向がある。」(J・メリック)
理解を超えたものー現実を精細に描くことにかけてこの映画はまさにデヴィッド・リンチ監督が撮るべきものであった。
美しい映像世界である。
子供の残酷さもよく捉えられている。
誘拐されて海外で見世物にされ、脱出してやっとのことリヴァプールまで戻ってきた彼を人々に襲わせたのも子供であり、それ以前もことごとく、子供が彼を苛んできた。
子供とはそういうものか。
もともと人間の本質がそうであるからだ。
追い詰められ、
「わたしは像ではない! 動物ではない! 人間だ!」と叫ぶしかない状況とはどういうものか。
最初は、物見高い一般市民の好奇の的となり、保護されてからは、上流階級の好奇の対象となる。
怖いもの見たさは、人間の本質だ。
理解できないものを恐れつつ見に行く。
思惑があり、それを巧みに利用する人間も出てくる。
しかし彼はそれを知りつつも受け容れる。


最近の研究では、メリック氏はプロテウス症候群であった可能性が示唆されている。
彼はその極端な例であり、皮膚は各所で乳頭状の腫瘍を示し、とくに頭部や胴部では皮下組織の増大によって弛んで垂れ下がっていた。右腕・両脚がひどく変形肥大して棍棒のようになっていた。就寝時は大きく重い頭部を支えられず、それを膝に乗せて蹲る形で眠る。


デヴィッド・リンチ監督はまさにシュルレアリストの系譜に入るアーティストである。
全編モノクロで、短めのシーンがそれぞれ克明に完成度高く描き込まれていく。
カフカの変身など、この手法で彼が撮ったら、決して原作を汚すものにはならないはずだ。
デヴィッド・リンチ監督がスターウォーズの監督を引き受けていたら、どんなものに仕上がっていただろうか。
ゾクゾクするものがある。

ここでも、ツインピークス、ダイアン・アーバスの写真に出てくるようなフリークスが多数登場する(双子はいない)。
当時イギリス、ロンドンでは移民が多く流入し治安は悪く、エレファントマンがロンドン病院に入院した時期に切り裂きジャックも出没している。
そんな時代の闇の光景をフィルムはよく表している。


医師で彼の庇護者であるフレデリック・トレヴェスはジョゼフ・メリックをジョン・メリックと表記し記録を克明に残している。
あえてジョンとしたのは、エレファントマンをどこにでもいる普通の人間として扱いたいという彼の意思の現れでもある。
彼との触れ合いを通し、メリック氏も心を開き、ヒトとしての自分の短い生を生きることが出来た。
自己対象化し内省出来たヒトのみ彼と真に対等な関係を築けた。
(トレヴェスは自分が見世物小屋の興行師とどこが違うのかをたと気づき悩んでいた。)
また、ケンドール夫人の励ましや演劇を通しての交流もメリック氏にとって大きいものであったことは間違いない。
(アン・バンクロフトが彼にとってもこちら観る側にとっても、大変綺麗に写っていたことは明らかに映画の意図である)


”私の姿がどこかおかしいのは事実だ
しかし私を咎めることは神を咎めることだ
もし私が自分を創りなおすことが出来たならば
私はあなたを落胆させはしないだろう
もし私が巨大で塔に触れることが出来たとしても
あるいは手のひらで海を掴むことが出来たとしても
私は精神によって測られるべきである
精神こそが、人間のもの差しなのだから”
― ジョセフ・メリック


彼はその姿から白痴と決めつけられ、言葉も障害からまともに喋れなかったため、人々の迫害を受け続けた。
彼はひとり隠れて詩を書き、聖書を愛読し、いつしか暗唱するまでになっていた。
詩編23編。
 
   主は私の羊飼い。
   私は,乏しいことがありません。
   主は私を緑の牧場に伏させ,
   いこいの水のほとりに伴われます。

病室でこれを暗唱しているところ、トレヴェスがそれを聞きとり、彼の本質を垣間見る。
病院長も始めてここで、彼の人生がどれほどのものであったか、恐れの念を抱く。

”彼を見たら、女性や心臓の弱い人は飛び上がってしまった。それ故に、彼は普通にお金を稼ぐ仕事をさせてもらうことは出来なかった。彼が優れた知性を持ち、読み書きの能力もあり、物静かで、優しい性格であったにもかかわらずなのだ。” カー・ゴム(メリックの友人)


付け加えるなら、それでも彼は誰も恨まず、愛することすらできる、強靭な精神をもつヒトである。
merrick bone1



基金が出来たことにより自分の部屋として認められた病室の窓から覗ける範囲で、彼はセント・フィリップス・カテドラルの全体像の模型を緻密に作り上げた。
「終わった。」
出来上がったところで彼は作品に自分のサインを入れる。
母とケンドール婦人(彼を上流階級の人たちに結びつけたアン・バンクロフト演じる舞台女優)の写真を見詰め、
病室に飾られたベッドに普通に横たわって眠る人の素描を眺め、
クッションを幾つも外し、自らもその体制で始めて寝る。

最期に「命は永遠よ。果てることはないわ。」
母の言葉が聞こえてくる。
自分が天使のように綺麗だ、と言っていた母親の言葉が。

merrick craft


私の中のあなた

wna sb1
My Sister's Keeper
2009年
アメリカ

ニック・カサヴェテス監督・脚本
ジョディ・ピコー『わたしのなかのあなた』原作


キャメロン・ディアス、、、サラ・フィッツジェラルド(母)
アビゲイル・ブレスリン、、、アナ・フィッツジェラルド(サラのためのデザイナーベビーとして生まれる)
アレック・ボールドウィン、、、キャンベル・アレクサンダー(アナの弁護士)
ジェイソン・パトリック、、、ブライアン・フィッツジェラルド(父)
ソフィア・ヴァジリーヴァ、、、ケイト・フィッツジェラルド(アナの姉、急性前骨髄球性白血病を患う)

*デザイナーベビー、、、、受精卵の段階で遺伝子操作を行なって生まれた子供。(ここでは、ケイトのドナーとして生まれた)。


このような境遇の家族のだれの立場にたっても、悲痛だ。
それは違いない。
だが、どうやらわたしは人間的なドラマに回収できない人間の人間でない部分にこそ過剰な思い入れがある。
死とは、その人間が産まれて育んできたあらゆる人間関係の外部に出てしまうものだ。
言葉の届かない場所に。
その境界を描くとしたら、あらゆる悪魔的な光景こそを見たい。
勿論、日常的であっけらかんとしていてよい。
お天気で、気持ちの良い風が吹く浜辺でよい。
そこでの語らい、表情、動作、思考、感情、想像、、、なんでもよい。
わたしは、何かを突き破るものを期待している。
驚愕する気配や異質な覚醒や。
監視カメラのvideoを観るように。
しかし隠されたものは何もなく、謎めいたものも、不確かさも、不自然さも、曖昧さもなく。

むしろ謎そのものとして、
死はいつでも静かにやってくる。
それは夜が多い。
ここでは、最期を迎える白血病の娘に子供のように嗚咽する母親が抱かれて寝る。
病院のベッドで。
その夜に娘は逝く。
もはや何が語られるでもない。
しかし最期に寄り添いたいのは母親なのか。

死は存在にとって何であるのかついに明かされず、だれもの予期する通りに。
そこには何ら個的なものはない。
絶対的に。
普遍的な透明色で訪れる。
如何なる痕跡も残さず。

周辺をそのときどきのドラマとBGMが
ただ個々の思いを生成しつつ、交錯する。
共有されつつ編集されてゆく。
その身体性を持った時間が。
歴史として。
間延びしてゆく。
死者とは何か?


死の受け取り方は人様々であろう。

しかし死は人間のものにはならない。
人の死も自分の死でさえも。
当たり前だが。
ただ、死者はヒトでなくなる。
完全な他者となり見えなくなる。
見えない存在としてインパクトを与え続ける。
共同体内に墓地は作ったが、死者の場所は何処にあるのか。
この映画では、モンタナ。

このような場所を持っておくことは、死者の物語の更新にはよいと思う。
しかし、個人の死というものは、何であるのか?
自らも死ぬ思いをしてきた妹はかなりそこに迫る場所にいたと思うが。
それを語るには若すぎるか。


水曜日のエミリア

natalie portman
LOVE AND OTHER IMPOSSIBLE PURSUITS THE OTHER WOMAN
2009年
アメリカ

ドン・ルース監督・監督
アイアレット・ウォルドマン小説「偶然の恋人」原作


ナタリー・ポートマン(製作総指揮) 、、、エミリア(新人弁護士)
スコット・コーエン 、、、ジャック(エミリアの弁護士の夫)
チャーリー・ターハン 、、、ウィリアム(キャロリンの子)
リサ・クドロー 、、、キャロリン(小児科医、ジャックの前妻)


この映画は、ナタリー・ポートマンの表出したいものであるのか、訴えたいものであるのか。
登場人物たちは、みな悩みや問題を抱えている。
かなり健気に、一生懸命生きている。
特に、エミリア(ポートマン)の母親は、悟った大人という境地にあり、義理の息子は生意気に魅力的な人間に成長していきそうである。エミリア自身も自分に誠実に真っ直ぐに生きようともがいているところは、よく分かる。
しかし、これといって共感できたり感情移入できるひとはいない。
感情では観れない映画であった。
特別変わった問題や人を扱ったものではなく、日常的で普遍性のある問題を描いた、しかもかなりしっかりつくられたものであり好感の持てるものであることは言うまでもないが。
アメリカ的と言えば、そうであるがハリウッドではない。繊細ではあるが染み込むタイプの表現ではない。

ここでもやはりというか、男たち(大人の)は、基本受身で、衝動的で、逃げ腰である。
特に男女間においては、そうである。
元妻の終盤の頼りがいのある男らしさなど、女性の方がやはりしっかりしている。
ナタリー自身、製作・総指揮をとったこの映画で特に顕にしたかった部分か?
男女間を問わず、人生や人間関係の機微をよく表した話にもなっている。

自分の実子が3日で突然死したことに対しずっと心を苛まれていたように見えたが、自分が窒息死させたのではという疑惑に耐えられぬ思いをしていたことが、元妻の計らいで、思いもかけずだが、こちらがわには分かってしまう。
愛娘の死に対してではなく自分が殺してしまったのではないかという可能性に怯えていたと言ったほうがよいか。
ここでの彼女にとっての死の重みは人間関係上のものであり、存在に対する重みではない。

しかし、優柔不断でエミリアとの子供が出来たきっかけで再婚となり、元妻の教育上の横槍や家族間の不和に耐えられず「もういやだ」とエミリアを追い出し、またしばらく後には彼女に対しディナーに誘う、なんとかならないかという、ある意味この物語の基調において混乱の円環を生成している旦那という装置に対し、息子はエミリアに対し心を開き、「ぼくは仏教徒になる。妹の生まれ変わりをこの世で見つけたら必ずエミリアに教えるよ。」と言う。
この息子のおかげで、物語自体、円環構造から抜け出る。
人間関係から魂の場所へと身体が開ける(延びる)。
死を見据えた存在学が垣間見える。

旦那とも元の鞘に収まることとなるだろうが、以前の反復はしないと思われる。
ナタリー・ポートマン自身の身体性の表出と見てよいか。
演技も含めてかなりの人であることは分かる。
もう一作、彼女の作品を観てみたい。

さらに速度を!

Gamera.jpg


ほぼ20分勝負となります。
まとめはいずれ行います。
ともかく、書きます。
現状を。
走っております。
気持ちだけ(笑

引っかかって来るものは、すべて捕食するつもりですが、ここのところは、新作スウィーツやアイス・スムージーなどばかり。
情報はほぼ外から入ってくるもののみ。
自分から見に行ける状況にありません(苦

映画も見たいのですが、ソースが探し出せず。
VHSも含めて。
本は読み始めると中断続きで、、、。
これは、このブログ記事にも関わりますし。

ただ、絵も見たい。いやそろそろ描かなければ。
音楽は買っていない。もう何年間も。
以前は毎日CDを買っていた時期もありました。(週に3回LPレコードを買っていたことも)
Lowもここのところさっぱり手につきません。
まとめにならず。

気になる方のブログもほとんど見に行けていない。
リンクの方々、またじっくり拝読させて頂きます。
これは困った、状況です。


ちなみに今、見たい映画、この中にはすでにずいぶん前に見ているにも関わらず、内容を思い出せないものもありますが、以下のとおりです。

①水曜日のエミリア、②ディーヴァ、③サブウェイ、ですが、恐らく見る順番は、③、②、①となりそうです。

②は見ているはずです。
勿論、ゴジラもポンペイも観るつもりです。
実は、ガメラも観直したい。
鉄人28号実写版も。何と蒼井優が出ています。

どうやら暫くはこの調子でいくことになりそうです。

軌道を定め、気流にしなやかに乗りたいです。



鉄人とガメラか、、、。
やはり、1度戻るか。
ルーツに。
自分を型作る核が取り敢えず必要。

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汚れた血 ~ ネオ・ヌーヴェルヴァーグの傑作を観て

fewKgefL.jpg
Mauvais Sang
1986年
フランス

レオス・カラックス監督・脚本

ベンジャミン・ブリテン音楽
主題歌 デヴィッド・ボウイ『Modern Love』

ドニ・ラヴァン、、、アレックス
ジュリエット・ビノシュ、、、アンナ
ジュリー・デルピー、、、リーズ
ミシェル・ピッコリ、、、マルク


夜の光景が多かった。とてもクリアーな夜であった。
暗くてよく分からないという部分はなかった。
細部がくっきりと描かれていた。
特に赤、青、黄色などの鮮明な色が黒の中に際立っていた。
街角、建物、車、バイク、様々なものが模型的(様式美?)で、隅々までアーティフィシャルな空間が広がっていた。
これは人物にも言える。特にアメリカ女。そして主人公。ヴィノシュもそうだ。あまり人間らしくない。人形的だ。
動きもセリフもおまけに主人公の青年は腹話術をやる。
ヴィノシュはボブカットの前髪を息で吹きあげていた。

デヴィッド・ボウイの”Modan Love"に乗って主人公の青年が疾走していた。
これだけで彼がどんなヒトだか分かるような疾走ぶりだ。
青年の元恋人ジュリー・デルヴィーも走っている。バイクでも走りまわる。
ジュリエット・ヴィノシュも最後に走る。
何のために走るではなく、何処に行くでもなく、好きなように走ってみる以外にないのである。
ただ、ここに留まることが出来ないから。
走ることが自己目的なのである。
もっと言えば、現在ー現実そのものに耐えられない。
不可能性(必然的に死)に向けてひたすら逃れようとする。
驚愕するような深遠や刺激はないが、自分をこれほど大事に想ってくれる恋人ジュリー・デルヴィーを振り切り、父親の親友の情婦であるジュリエット・ヴィノシュに入れ込むというのもこの青年の象徴的な資質だ。(ある意味普遍的だが)

その感覚が共感できる。
この映画に身を添わせる快感と言うか。
文学的な香りの青春映画。
しかし徹頭徹尾、映画である。
やはりゴダールを想い浮かべるヒトは多いのではないか?
ストーリーとしては犯罪サスペンスとしての展開は特になく、ハレー彗星の異常接近や愛の無いセックスで感染する奇病STBOや青年のアヘンで痛みを胡麻化している腹痛も内容的に何らかの意味はない。彼らの疾走する書き割りー光景のひとつに過ぎない。

レオス・カラックス監督。「ポンヌフの恋人」の(ここでもジュリエット・ビノシュ)。
ルイ・デリュック賞、87年ベルリン映画祭アルフレッド・バウワー賞を受賞。フランスのアカデミー賞であるセザール賞でも2年連続のジュリエット・ビノシュを始め、ほとんどの部門にノミネートされた。
ネオ・ヌーヴェルヴァーグの巨匠の若き頃の第二弾目作品。
ジャン=ジャック・ベネックスやリュック・ベンソンも観てみないと。
どこかで(TV)観ていたはずだが、忘れている。
今度は、”サブウェイ”でも観てみようか。


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宇宙(そら)へ

Apollo1 Crew

宇宙へ行ってわたしが見たものは地球である。
これほど重いことばはないと思った。
このBBCフィルムを観て。

いくつかの記憶が呼び覚まされる。
アポロ11号のことは朧げに覚えていただけであったが、あのアームストロング機長の偉大さに感じ入った。

そして何故か一号の縁起の悪さ。
大惨事に見舞われる。

アポロ1号。あのガス・グリソム船長(マーキュリー・レッドストーン4号、ジェミニ3号の初の2回連続有人飛行成功)、エドワード・ホワイト(アメリカ初の宇宙遊泳成功)、ロジャー・チャフィーの3人が訓練中に爆発炎上。三人とも即死と言われていたが、ガス・グリソムは炎上後も15分生存していたことが分かっている。今や英雄として数々の勲章や記念碑や建造物に名を残し、映画にもその名は使われている彼だが、当時NASAに対して批判的言動をとっていたため身辺は危険に晒されていたらしい。事故機に細工されたスイッチの跡も見つかり、遺族は調査を進めている。月面着陸の最有力候補であった。

ベトナム戦争の泥沼化の影響から宇宙開発資金も一時途絶える。


Challenger flight crew

記憶にまだ新しい、ディスカヴァリー1号。発射から73秒後に空中分解し、乗員7名が死亡。固体燃料補助ロケットから高温のガスが漏出したことが事故原因だと判明している。作家、詩人、教師、確か一般人を乗せ始めた最初だったか?鬼塚さんも搭乗した。女性も2人乗っていた。明らかにストイックな宇宙探索から商業的な宇宙旅行も視野に入れ始めたところの事故か。
レーガン大統領の、中継を見ていた子供達への言葉は深刻なものだった。「未来は臆病者ではなく勇者のためにある」といかにもアメリカらしく括ってはいたが、スペースシャトル計画は32ヶ月に渡り中断する。
事故原因は明らかな人災であった。
NASAと技術提携企業の管理体質からくるものであった。

ハッブル宇宙望遠鏡が宇宙空間に放出される。
ここで、何億光年前の天体の姿がありありと見られるようになる。

量り知れない悲痛な思いしかないのは、コロンビア号である。
スペースシャトル・コロンビアは、2週間のミッションSTS-107を終え、大気圏に再突入した際に空中分解した。この事故により7名の宇宙飛行士が死亡。打ち上げ時に外部燃料タンクから断熱フォームが落下して翼前縁の耐熱材を損傷させたことが事故原因である。
BBCのフィルムはこの時の管制官たちの表情を見るためにある。
と言ってよい程のものだ。

NASA関係者はプレスには、このようなケースは通常レベルで起こること(不可避なこと)であり、直接的な事故原因に当たらないようなことを述べているが、映像を見る限り明らかに違う。
まるで、葬儀で友人を見送るような雰囲気と表情ではないか。
もうすぐ帰って来る英雄を迎えるような顔など一つもない静まり返った場。
悲痛なすべてを覚悟した目と表情。
コロンビア船内のクルーの仕事に生き生き励み、ジョークを言って楽しむ姿が映し出されるその画像との対比。
その二週間すべての研究を済ませ、データを取り、数々の美しい画像を送り続け、なによりも美しい地球を見て、
彼らが帰路につこうとするとき。

コロンビア号が帰還12分ほど前に送ってきた、左翼の温度センサーが4箇所で異常という通信。乗組員はそこでことの次第を知る。そして管制「追跡が可能になるのは?」船長「一分前の予定でした。」管制「OK」消え入りそうなか細い声。これが最後。手で顔を覆う。

Crew STS 107official


大気圏突入後、火で包まれながら機体がバラバラになって落ちてゆく姿がモニタに。
だれも驚きもしない。
NASAの職員は皆、高解像度カメラによる発射直後の映像から、彼らが二度と地球に生きてもどるのが叶わぬことと知っていたのだ。

この内部映像は報道で述べている(活字となっている)、ことと全く違う。

BBCの記録フィルムの価値である。
しかし、人の生とはみなこのようなもの。
死に向かって、自分のやるべきことを、又はいい加減な無駄なことを無邪気にやって時間を過ごしてるだけ。
それを映画的に見せられると、感慨は一際大きい。
常にこんな死を覚悟で意識的に生きていたのはハイデッガーなど一部の哲学者や宗教家や名もない覚者だけだろう。

もっともこのフィルムでは、人類のあくなきチャレンジ精神と未知なるのものへの探究心がどんな障害があろうと潰えないように煽るメッセージが込められており、そこはレーガンと同じである。

しかし、コロンビア号の乗員が自分の命と引き換えに見た至上の地球の光景。
これを何故われわれは見ようとしないのか。
何故、自分を見ようとしないのか。

引き継ぐとしたらこちらの方だろう。


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夢の中から

chirico2.jpg

昨夜のことだ。
夢のなかでわたしは、いくつもの乗換をした。
空間は菫色に染まっており、ポール・デルボーの駅構内の雰囲気があった。
恐らくそれは色ではなくむしろ空間の密度ー硬さの度合いであったのだが、さしたる問題ではない。

そこでは無意識とか身体の自動運動とかいう概念はなく、意識はそのまま時間であった。
変性された意識つまり固有時によれば、駅から駅の繋がりは数える気が失せるほど沢山有り、しかも確実に自分が欲している駅で下りることができた。
正しくこの駅なのだ。
こんな確実な事象はなかった。
しかし何故、こんな駅に来たのかは全く理解できない。
それはそうだ。
最初から何処かへ行く気など毛頭なかったのだから。

何故わたしは動くのか?
いや、動くのを前提とするのか?
その無意識自体が幻想であった。
動くー移動自体が。
そんな古風な観念では、何処へ行くとか言う前に何も知ることは出来ない。

少し周りを確認するとそこは別に駅でも何でもないことに気づく。
駅と思いたいのなら駅だが、キリコの広場でも良いし、立派な劇場前でもあった。
しかしすべてが少しばかり古風な出で立ちである。
実際、犬連れの婦人も歩いている。
これには特に時代感はないが。
何の意味もなかった。

ただ、何より明白なのは、起点も終点もないただ次への乗換が素晴らしく爽やかで気持ち良いこと。
正に全く異質の新たな”駅”に出ること。というか、正にその場所に現れること。
ここと次が全く関連を持たない線で繋がっていること。
これが何より肝心なことであった。

何より肝心なのだが、しっかり知っていることを違う場所、いや違う次元に連結して述べる言葉がまだ整備されていないことを、降りたばかりの駅で確認した。


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固有時に関して

Wooden hourglass
通勤電車の中で漫画を読むのは、覚悟が必要だ。
ということを数日前に知った。
身を持って。

その日は朝の支度が早く済み、いつもより10分は早く家を出た。
駅まで確実に10分早く着いた。
その余裕も手伝ってか、電車を待って座ったところで、すぐにバッグに入れていた漫画を読みだした。
実は、わたしは電車で小説や文芸評論、哲学書は読んだことはあるが、漫画ははじめてである。

これまで諸星 大二郎と山岸 涼子は家で夢中になって読んだことはある。
勤め先の図書館で長 新太の面白さを味わったことはある。(絵本か?)

が、電車で読んだことはない。
それを今回やってしまった。
吉田 秋生著”バナナフィッシュ”だ。
いざ、読み始めると自分のいるべき日常の時間流をはっきり外れてしまう。

つまり、駅など関係なく、電車も自分の中から消える。
そう、自分の中から余計なものが消えて、その世界がある。

周囲の明かりの色によって、自分が”その駅”に着いたのを朧げに知る。
これは、アラームセットをしないで、5時半に起きることにして寝た時に似ている。

その時間プラスマイナス2分には確実に起きるが、その起きる時の状態に似ている。
何故か日常の時間流に自分を繋ぎ留めるメカニズムが起動する。

わたしとしては、そんなもの起動しようがいまいが、関係ないのだが、結構根深い部分にそれが埋まっているらしい。
しかし、今回車内が混みすぎていたため、出るに出られず急行で一駅乗り過ごしてしまった。
さらに乗り越した駅からまた読み始めたために、戻る駅を一駅早く降りてしまい、大変な時間ロスをした。
迷ったのではなく、通常の時間流を脱線して彷徨いだした感がある。

勤めには半ば自動的にギリギリ遅れずに着いたが、この漫画に入り込む強烈さは生半可ではなかった。
BANANA FISH Engineのおかげで随分降りたことのないホームをあちこち歩き4倍は階段を登り降りして体も使った。
これは、最近見た映画で言えば”So Close”に似て、絶えず銃撃・暴力アクションで主人公たちが常に命を狙われている、その死に直結する感覚刺激が言葉の速度を加速させたようだ。

自分の特に好むタイプの漫画ではないが、この固有時の生成力、というよりその入口をこじ開ける、いや接合する波動をもった類いの漫画ー装置であることは確かだ。
よく言う、夢中になって漫画見てたら電車乗り過ごしちゃった。
というのに結果似ているが、まったくそれと同じはずである。

改めて思うが、このような時間の乗換という事件はたびたび起こっており、その頻度は通り魔殺人事件より多いと思われる。SFショートなどで面白く膨らめてみても良いと思う。


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この時期に思い出すこと~レンゲ紐の思いで。

Citrullus lanatus

もう15,6年前の話であるが、梅雨の晴れ間の日のことで、いまだに覚えている光景がある。
電車を降りて、駅出口を上ってゆく階段で、左手にスイカまるごと一個、右手にMacintoshのColorClassicⅡをそのどちらも白いレンゲ紐でいわいて持って上がって行く、派手な柄もの半ズボンに白い半そでシャツの大柄の男がいるではないか!

何と風流なことよ、とは思わなかったが、二つの素敵だが異質な取り合わせと、粋でその身軽な動きとかなりの危うさに、大変興味をそそられた。
まず、2つ素敵な物に目が行く。
どちらも大好きだ。
さらにそれらをこともあろうにちょちょいとレンゲ紐で括ったと解る結びでホントに軽々しく持って階段を上ってゆくのだ。
スイカはともかく、ColorClassicⅡはあまりにも怖い。
勿論、スイカだってうっかり落とせば、スイカ割りどころではない悲惨な状況が見えている。

どういうおじさんが、と隣に並び顔を見てみたいとも思ったが、わたしもその時、荷物が多く(重く)階段をトントンと登れる状況になかった。

多分、スイカを冷やして、というのもスイカは冷やしたほうが断然美味い、その後おもむろにColorClassicⅡの動きをじっくり見て(果たして起動する代物か?)、もしかしたら改造を行うのかも知れない。
改造するなら、冷えたスイカを食べて心身ともにレフレッシュしてからがよい!

後姿だけだが、スイカとMacの通(達人)に思えた。
スイカも軽く手の甲で叩くだけでこいつは美味いとチョイスしたのでは。
丸ごと買って失敗した時の情けなさと言ったらない。
見るからに美味そうなスイカだ。
Macの方も、あの頃はアキバもAKBとか何とかも生じておらず、実に奇っ怪で、狂気に満ちていて、アスファルトの路上に1980円の正札で、かつて100万近くしたMacが山積みで売られていたこともあった。
ColorClassicⅡはもともとそれほどの値段ではなかったが、歴代のMacの中で間違いなく可愛らしさはトップでありMacの花形センターである。多分そのおじさんも沢山ある中古の中から目利きでこれだというものをチョイスしてきたのかも知れない。しかし、いくらなんでも、あの紐はない。たとえ路上で売っていたとしても。

誰かその道の人のお宅から、そのスイカとカラクラ2を貰い受けてきたところなのかも知れない。
もしくは、スイカとMacをこよなく愛する(まるでわたしか?)友人のところにお土産として持って行くところかも。
だったら、嬉しいだろうな!
それが、一番それらしい気もするが、そうだとすると独身の気の置けない仲間のところだろう。
あまりに衣服がテキトー過ぎる。弟の部屋を訪ねるとかならぴったりだ。
多分そんなところだと思う。

しかしColorClassicⅡをがりがり使うのなら、その時期の標準スペックで駆動する(流石に今ではもう無理があるが)中身総とっかえがある。但し、これについてはノートからカラクラに基盤を上手く切り出して接合することと、何よりモニターの件が有り、素人の技術と装備ではどうにも覚束無い。
そういう時は、今は知らないが当時は、筐体持って五州貿易に持ち込み、相当のお金を支払えば、改造してもらえたものだ。カラクラの改造はかなりやっていたはず。全面をとても綺麗にカラーリングしたカラクラ2を何度も見た覚えがある。
いまだにあれほど可愛らしいパソコンは見たことがない。
家のマスコットに一台置いておいても悪くはないだろう。
そう言えば改造して、金魚の水槽にしているユーザーによる写真を以前、Web上に見たことがあった。

もしかしたら、そのおじさんの改造ColorClassicⅡだったのかも知れない。
うーん、何とも言えないが、、、。
金魚とスイカもこれまたよく合う。

*最近OldMacをiPadケースにする罰当たりも結構見られるとのこと。

CaptureWiz054.jpg





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ヘンリー・ムーア~彫刻に見る普遍性

Henry Moore Three Piece Reclining Figure Draped

ひところ廃墟についてその周辺を見て回って、絵画や映画にもその感覚をさぐってみた。
何というか、そこに感じられてならないものは、時間という普遍性である。
同時に時間の多様性である。
しかし時間のひとつの表現が廃墟だとすれば、確かにヒトが殊更廃墟に感じ入ってしまうのも頷ける。
時の前では全てが諸行無常。
そう言ってしまえばそれまでだが、、、

廃墟に迫れたかどうかでなく、まだ見足りないものが多いという気持ちが多く、まだまとめたり論じるところまで到底行かないという気持ちは残ったままだ。

彫刻を考えてみなかった。
彫刻はすべて廃墟にある作品ーアイテムのひとつとして見てきた。
レリーフ模様と同じく付属する装飾として。
彫刻自体を見ていない。

といってもわたしは彫刻にはあまり詳しくない。
そこでもっともポプラーな彫刻家の一人、イギリスのヘンリー・ムーアを観てみたいと思った。
過去、何度か彫刻の森美術館で見ていることもあり、図録もあるので、それらを元に。(てがかりになるかどうか)


家族のシリーズはとても馴染みがある。
テーマは勿論この造形そのものにも普遍性を感じるところだ。
これについては単純化された量感が何より力強い安定感を生んでいると言ってよい。
原始彫刻を研究してきただけあり、生命力と存在感に満ちている。
確かにムーア自身の言う、内部から発する力と言うものがかなり感じられる。

それから「横たわる像」シリーズの反復と変遷。
テーマはともかくとして、木の一本彫や大理石の彫り物、大きな造形にしろ、
これらにも見られる特徴として、形態の「分割」と「穴」がある。

どうやらこの特徴がムーアの核心ではないかと思えてくる。

ムーア自身、彫刻は野外に置かれなければならない。
日の光に照らされて見られる必要がある、といったことを述べている。
穴を通して風景が見れる。切り取れる。フォルムとのコラボ。一体化。
風も通り抜けてゆく。
ときに後光に包まれもする光景。
穴の形が、何だろう、有機的で絶妙に自然だ。
形ー量と同様に充実した形ー造形に思えてくる。

ムーアはよく海辺を家族と散策し、貝殻オブジェなどを娘と拾い集めていたという。
工房にはそれらの戦利品が所狭しと並んでいたそうだ。
さらに、散策中の浜辺に発見される自然の洞窟にも大変な興味を示していたらしい。

貝殻オブジェは何工程もの抽象化を経て多様なイメージによる「横たわる像」に昇華され、洞窟は充実した「穴」へと深化したのだろう。
「分割・切断」は、形の連続性を断ち切るもの。
それは空間に対する時間性の要請によるものか。
つまり切断とは節理か。


自然を改めて自然の中に配すること。
廃墟も意図的ではなくても、ある時からはっきりと自然の中に配置される。

彫刻とは、少なくともヘンリー・ムーアにとって、その置かれた風土に溶け込みつつも、存在の普遍的な意味を無言で示しわれわれを勾引するものに他ならない。
これって、極めて廃墟的だ。廃墟が示す(魅了する)普遍性だ。


われわれの感ずる美の根源がここに見られる気がする。
生と自然(死)の硲に。
(あくまでも廃墟とかムーアとかは契機に過ぎず、気になっていたものは、神韻縹渺たる、、、)





ジョルジュ・ド・ラ・トゥール~突如現れた崇高な光

La Tour

1593年3月19日 - 1652年1月30日(ロレーヌ公国)
ラ・トゥールの絵といえば、闇の中の光か。
300年忘れられていた光が再び見出された。
その光源は絵の中に灯っていた。

闇の中に祈るヒト。
夢想し、沈思し、子ヤギに餌をやるヒト。

白昼は破壊と殺戮と略奪と恐怖に閉塞する世界であった。
そこで生涯を送ったジョルジュ・ド・ラ・トゥール。
デカルト~魔女狩り~ペスト~30年戦争、、、
その真っ只中のロレーヌ公国。
小さな価値は吸収され、大きなひとつの価値に、やがてパリにすべてが統合されてゆく。
絢爛豪華なベルサイユの世界へ。

そこにあって、同郷の画家ジャック・カロは「戦争の惨禍」という銅版画を制作し、一連の作品はゴヤに並ぶ「戦争の非人間性に対する芸術による告発」として世に広く知られる。
ラ・トゥールはといえば、全くそのようなテーマは掲げない。
恐らく彼の傷は遥かに深く、それをそのままに身体化していた。
そこから生まれた絵。
柔らかな闇の中のひとつの光源は、神に他ならない。

写真家がどのようにしても単一光源からあのような画像は作れない。
しかしラ・トゥールの絵はその中の存在が自ら発光したかと思えるような光も伴う絵となっている。
絵の中に灯る一条の蝋燭または、松明の光。
そして存在自体の発光する光。
それらの光によって、明らかにカラヴァッジオのような外光による劇的な激しい明暗効果とは対極にある精細な内面世界ー宗教性を厳然と浮かび上がらせている。
300年ぶりに突如として見出された崇高な光。

ヒトによっては、この画面に内在する光源により、光を中心とした緊密な効果が生まれ、シンプルで秩序だった造形が可能となる、と言う。それは確かにその通りだ。
単純な面と線の発見、闇に周囲が消えてゆく構成がキュービズムを知った人々の目により再発見されたのだともよく言われる。果たしてそうか?
キュービズムの絵に似ていると言われて、はじめてそうか?とは思ったが、立体の単純化された面において同等の表現は見えるにしても、キュービズムは遠近法の否定から生じた、複数の視点による空間の再構成がその大きな属性である。「アビニヨンの娘たち」がまずその代表例であろう。
人々の見る目が豊かになったかも知れぬが、むしろヒトの時代に対する逼迫感が同様の感受性で描かれた絵に敏感に反応したのではないか。

放射状に照らす光で、細かい陰影は消えて、周囲は闇に弱く消えてゆく。これは恐らくラ・トゥールの発明した技法であろう。しかし、この技法は彼の世界を表出させるために要請されたものに他ならない。
「マグダラのマリア」の骸骨に右手を添えた神々しくも質素極まりない瞑想するひとりの女性の姿。
「鑿をとる女」「ランプを灯す少年」に一片の虚飾も無い。ドラマを否定している。ごく日常の些細な行為、ディテールにこそ真実が見いだせる、と言わんばかりだ。そして神性も。
蝋燭のもはや見えない絵についても、ほとんど同様の画像である。
そう、同様の瞑想の出来る光を秘めた絵である。
「犬を連れたヴィエル弾き」など盲目の楽士が本当に素朴に貧しく孤独に描かれているが、内面的な威厳に満ち満ちており、卑屈さや愚かさなど微塵もない。
「聖トマス」にしても光源は描かれていないが、虚飾のない揺るぎのない意志を強く感じさせるものである。


写真家の藤原新也はラ・トゥールの絵についてこう述べる。
「カロの版画が現実に向き合った作品だとよく言われるが、それは劇場として距離を描いたものであり、痛感はむしろ抜け落ちている。現実の痛みを強く感じているのはラ・トゥールの方であり、彼は籠もってひたすら死を見詰めつつ描いた。」
そして、最晩年の絵「洗礼者ヨハネ」に対し「挫折と憔悴に打ちひしがれながらも、目の前の子ヒツジに葉を与える事が出来る。それがこの存在自体が光っている理由であり僅かなしかし確かな希望である。彼は大きな状況は変えることが叶わなくても、小さな祈りを発見したのだ。」

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール~現れるべくして現れた終焉の画家。


latour vielleur00

latour madeleinea00

latour nouveau00



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So Close ~クローサーを観る

20071115.jpg
2002年
香港・アメリカ

コーリー・ユン監督

スー・チー、、、リン(電脳天使の姉)
ヴィッキー・チャオ、、、クワン(電脳天使の妹)
カレン・モク、、、コン(女性刑事)
倉田保昭、、、マスター(用心棒)


クローサーはナタリー・ポートマンの出るクローサーがある。
ちょっと紛らわしいが、こちらの原題は、So Close である。
というより、わたにとっては”Closer”は”Joy Division”である。
わたしは未だにそこにいる。

チャーリーズ・エンジェルズかと思うようなDVDジャケのクローサー”So Close”が何故か家にあったので観てみた。
もしかしたらクローサー絡みで昔買ったのだと思う。2002年のものだ。
カーペンターズの”Close to You”がのっけから流れたので、その勢いで観たら、途中の恋愛話で少し弛んだが、一気に引き込まれてしまった。そのアクションで。

近づく。確かに、人工衛星を介してものすごい精度と解像度でポイントに迫ってしまうシステムを駆使して、悪をやっつける姉妹。それに絡む敏腕女性刑事のアクション映画。ワイヤーアクションもお約束。
このシステムならGoogleも後二歩くらいまで届いているかもしれないが、それ見て闘う女子はあと100年経っても無理だ。女子でなくとも男でもダメだ。人間業ではない。虚構のための虚構世界だ。
あんな凄い戦いは、ちょっとしたアクション映画では見れない。ましてやコメディアクションなんぞ比べ物にならない。
やはりハードなアクション映画ならではの世界であり、映画以外で観る事はまずない。
現実にこんな苦労して敵を倒すぐらいなら、上から爆弾でもミサイルでも落としたほうが効率が良い。
アメリカは実証済みだ。とは言えうまくいったとは言えないが。

中国のヴィッキー・チャオ、香港のカレン・モク、台湾のスー・チー、(他にアメリカ、日本は倉田さん)という多国籍キャストで臨んでいる。
内容は単純な上にシリアスで、絵も色にも細心の注意を払っており、基本的な流れがスピーディでしっかりしているため尚更、一瞬も目を離せない緊張をこちらに強いる。
主演の三人は特に綺麗に撮らなければならないというところもあってか、これまで観たアクションものの中で最も明るく鮮明に綺麗に撮られていたことがまず一番の印象である。
ここはこの映画の最も肝心なところで、主演の女性が皆、黒か白一色のスーツで常に決めていること、ともかく明度を重視し、彩度については、余計なものとして削ぎ落とされている。
そこが、ストイックな内容とともに映像の流れを引き締めている。
とかくアクションものの映画は暗くて何が起きているのか見当がつかないものが多い。
はっきり言って汚い。
この映画はその対極を行く。
だからこの三人を主演に選んだのか。

この映画の主題はいかにすごいアクションを美しく魅せるかである。
そして動きに誤魔化しがない。
ITによる仕掛けもCGや撮影技術で上手くこなしている。
三人の主演女優も実に活き活き演じている。
こういう映画ならではの虚構世界もたまには見てみるのもよい。

しかし、ちょっと刺激が強い。
後でかなり重いものが残る。
美しさと、暴力・残忍さ・血生臭さは、ある意味、古くから絵画にも主題として描かれており、身近なものと言えばそうだが、やはりこのようなアクションの中で生々しく写されるとキツイ面は否定できない。
間違っても子供には見せられない。
ホロフェルネスの首を切るユディトを主題にした絵画も、ジョルジョーネやクラナッハやクリムトのように文学的で象徴的なものもあれば、カラヴァッジオなどはかなり強烈で少なからず衝撃を受ける。だが、それが実写となると、モーションキャプチャで描かれた3Dアニメより、はるかにナマナマしい。こちらがその主人公に感情移入してしまっている分もあるが。

結局、この映画ははっきり続編はありません、という話の構造で終わっているが、後味は尚更悪い。
せめて主人公は生かしておいて欲しかった。
と思ってしまう。




小さな泥棒

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LA PETITE VOLEUSE   THE LITTLE THIEF
1988年
フランス

クロード・ミレール監督
フランソワ・トリュフォー、クロード・ド・ジヴレー原作

シャルロット・ゲンズブール 、、、ジャニーヌ・カスタン
ドミニク・ブラン
シモン・ド・ラ・ブロス


16歳の少女。彼女の心の支えはこれといってなく、5年前に彼女を残して去ってしまった母親からの手紙をあてもなく待っている。
伯父さん夫婦と一緒に暮らしているが、市場で商売をしている伯父は彼女を心配してくれ何かと優しいが、伯母は働きがなく盗みばかりして問題を起こしてくる彼女にはことさら冷たい。
彼女のリビドーはただひたすら安易で刹那的で自堕落な方向にしか向かわない。
何かを生み出すための時間性を身体化しない。
想像性がないことがある意味致命的だ。
彼女に子供を育てることなど不可能だ。
母親とおなじことを遺伝的に反復するであろうことは想像に難くない。

煌くサラブレッド女優(フレンチロリータで名高い)シャルロット・ゲインズブールのどうにもならない自分の業に振り回される少女を描いた作品。
あっけらかんとしてではなく、そのようにしか生きれない悲しさと辛さを淡々と演じているところは並の女優ではない。
いわゆる、現実とか社会とは関係なく自分が選択し引き寄せてしまう、それもまた宿命といえるその流れに逆らえず、これでもかというところまで堕ちてゆく少女の姿が痛ましい。
何度となく同じ過ちを反復してゆく。
自分を大切にしてくれるはずの人間が周囲から一人また一人と消えてゆく。
叔父ももはや匿えない。
母親に対する幻想も潰えた。
幻想が洗い流され、自分ひとり、依存できるものはなにもない。
そこに自分を捨てた男の子供を身籠ったことを知る。
彼女は決意をする。
「落ち着きのない子」をひとりで生もう。
そうしたものだろう、と思う。

だが、大きな泥棒になるのがオチだろう、、、。

この暗さは、ニューヨークには通じる。
ルーリードの「キャロラインの話」、暗黒の幕引き。
しかしそれに比べるとはっきり結末は示さず、万が一の僅かな希望の光は灯している。
その牧歌性。何かブリューゲルのような。
そこが違う。

監督クロード・ミレール。確か「生意気シャルロット」もそうだ。
フランソワ・トリュフォーの流れを見事に引き継いでいる見事なこれぞ”フランス映画”というものだ。
冒頭から音楽、絵ともどもフランス=トリュフォーの雰囲気たっぷりでハリウッド映画との違いがこれほど顕なかたちで見られる映画はない。
お洒落とかセンスとか文化、伝統などで語りきれない、”フランス”としか言い様のない映像世界。


ハリウッドではない、フランス映画を味わいたい。
というときに見る映画のひとつか?
また、このようなアンニュイな女優もハリウッドにはなかなか見つからない。

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パリ テキサス

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Paris,Texas
1984年
西ドイツ・フランス

ヴィム・ヴェンダース監督
ライ・クーダー音楽
サム・シェパード、L・M・キット・カーソン脚本

ハリー・ディーン・スタントン 、、、トラヴィス(4年前に失踪した男)
ナスターシャ・キンスキー 、、、ジェーン(トラヴィスの妻)
ハンター・カーソン 、、、ハンター(トラヴィスの息子)
ディーン・ストックウェル 、、、ウォルト(トラヴィスの弟)
オーロール・クレマン 、、、アン(ウォルトの妻)

「テキサス州パリス」である。
このシーン、振り向きざまの間と表情が日本美学にも深く通じる気がする。

何と”ショコラ”監督のクレール・ドニが助監督。
この荒涼感。こちらはカラカラだけど。それは仕方ない。砂漠だし。
廃墟感は同等の物がある。
やはり。と思った。
廃墟映画監督の双璧だ。
ヴィム・ヴェンダースとタルコフスキー!
全くタイプは違うが。

ライ・クーダーは音楽をわざわざ買って聴くようなことはなかったが、この映像、環境音や語り(アジテーション含め)に完璧にマッチしており、はっきり言ってボブ・ディランよりずっと良かったはずで、曲を聴いてみたくなった。
ライ・クーダーの弾くボトルネックギター(スライドギター)は、エリッククラプトン言う所によるとジョージハリスンから始まったそうだが、これほど東洋的な深遠な響きをもっていたのかと、最高の環境ヴィデオを堪能する感覚であった。
砂漠に合う、勿論大都会にもぴったりな響きだ。
乾いた津軽三味線か?
特にアジテーションしている狂人のことばと、ライ・クーダーのギター、環境音による音響はいかにもだったが、圧倒的でゾクゾクした。
音と映像だけでこの時間十分楽しめるものである。

ハリー・ディーン・スタントンという俳優は何というか、タルコフスキーの映画に出ても全く違和感ない。
アンドレイ・ルブリョフをやってもサマになる。
ストーカーもいい。
前半は言葉を捨てて唖状態で、子どもと遭い心を開いてからナスターシャキンスキーとミラー越しにしゃべる頃は、詩人のような饒舌な男になっている。(勿論、ミラー越しでなければ、詩人として籠れない。生身で面と向かったら真面に喋れるものではない。そう言えば、息子にもトランシーバーに饒舌で詩的なメッセージを残している籠った男だ。)
前半の彼の、言葉は発しないが、内言語が身体内でゴツゴツぶつかり合ってその痛みを懸命に耐えているような表情など相当なものだ。
この映画にはこの役者しかいない。

また子役が、素晴らしい。
この役者が大人になってどれほどの魅力を発揮するかは分からないが、少なくともこの映画ではなくてはならない存在だ。この子役次第でどうにでもなってしまう部分が多い。
彼は演技にしてもただの存在感だけでも際立つ魅力を十二分に発揮していた。
当然、トラヴィスとのやり取りは秀逸であるが、育ての親(トラヴィスの弟夫婦)とのやり取り、ナスターシャとのホテルでの出逢い、どれをとっても彼ならではのシーンとなっている。
素敵だ。
弟夫婦もこの映画の基調をしっかり支え豊かで優しい厚みを加えていた。

ナスターシャキンスキーは、彼女の役の中でも一番良いのでは、と思われた。
ハリー・ディーン・スタントンとのミラー越しの語りは、彼女の魅力も充分に引き出されていた。
こういう知的で素直な美しさは、だれでも表現できるかというとそうでもない。

ハリーは、ではなく、トラヴィスは息子と妻を引き合わせてまた旅に出る。
結局妻には直接一度も逢わない。
趣深い。御簾を間にはなして去るような。
いいなあ。
自分と究極的な折り合いを付けるための旅か?
わたしは全くその手の旅に興味のない者であるが、この映画で考える限り、それが必然であることは解る。



アール・ヌーボーとアール・デコ展 (横須賀美術館「明るい夢」)

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「明るい夢」だそうだ。
うーん明るい夢か、、、。微妙だ。アルフォンス・ミュシャとかがたくさん来てそうだ。
横須賀美術館で開催されているらしい。
ちょっと行くのはどうも、と思っており多分行かない可能性が高い。
だが、アール・ヌーボーには興味はある。

オーブリー・ビアズレーである!何と言ってもわたしにとって。アール・ヌーボーとは。
他はあんまり興味はない。

ウイリアム・ブレイクが祖先にあり、ジャポネスクがやはり根底に流れ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティがプレラファエル派に統合するのを横目で眺め、ホイッスラーの画業とバーンジョーンズの存在が加わり、我らがギュスターヴ・モロー、ユイスマンスの至高のサロメを経て、オスカー・ワイルドとの仕事で思う存分爆発(ワイルドとはちっとも仲は良くなかった)するオーブリー・ビアズレーの歩がアールヌーボー。
彼はとりあえず全てを吸収するが、別にそれらの影響下に留まることは一切なく、それらの人たちとの関係で仕事をするとき、すでにそれが足枷となっていた。
文句をブーブー言いながらも取り敢えず仕事はした。
「アーサー王の死」バーンジョーンズの足枷に悩みつつ、「名言集」果は「サロメ」
彼は直ぐに自ら独自のビアズレー形式を生んでいる。

サロメ!ファンファタルの最終形を世に残し25歳でさっさと逝ってしまう潔さ。

オーブリー・ビアズレー。これほどかっこいいアーティストはいない。
「洗礼者ヨハネの首が欲しい」
写真を見てもいかにも。誰かに似ているが思い出せない。
ともかく細い。細身である。
ビアズレーが肥えていたりしたら、もうすべてが終わりである。
サロメもモロー+ユイスマンスで終わりであった。
審美的で典雅で神々しく、、、しかし
さらなる猛毒と退廃と倒錯は加わらず仕舞いであったはず。

さらに爛熟した甘い腐臭を纏って奈落の底へ落ち続けることのできるものは幸せ。
終末の彼方へ。すでにこの世なんてものは何100回も終わっている。
まだまだ落ちる先はあるのか。
そこは「明るい夢」の場か?
どうだろう。
覗いてみろよ。

ワイルドの逮捕の原因ともなった、ジョン・レイン発刊のYellow Bookであるが、ビアズレーが責任編集者である。
彼は文学の素養と造詣はワイルド以上と言われており、本についても編集者(エディトリアル・デザイナー)の位置にいた。
「サヴォイ」それから。
書物への徹底したこだわり。愛情。
おまけにピアノの腕も生半可ではない。衆目の認めるところ。
単なる挿絵画家ではない。
ウィリアム・ブレイク~ダンテ・ゲイブリエル・ロゼティの流れを汲み。
その集結点がオーブリー・ビアズレーという天才。
アール・ヌーボー。
他のことは知らない。



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hikariを超えて

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「いとこ」か「はとこ」はともかくとして。
500~560光年離れたところに新たにふたつ地球型惑星の存在がケプラー宇宙望遠鏡から送られたデーターから解析された。
ひとつは1.1倍の大きさ。岩石で出来ており、この惑星の温度と恒星からの距離からして、地球のように水を蓄えていることは大いに考えられるようだ。ケプラー186fと呼ばれる。地球から500光年先にある。

もうひとつは、ケプラー10Cと命名され、地球の2.3倍の直径を持ち質量は何と17倍で、とても硬い岩石で出来ているという。
これまでの地球型惑星で一番大きいものは地球の1.4倍であった。
この大きさに成ると、大概木星や海王星のようにガス状の惑星に成るものだが、しっかり岩石で出来ているという。
惑星の生成に関わる新たな説が要請されることだろう。
新発見により従来の理論は次々に更新又は訂正、又は包含されていく。
この惑星は地球から560光年にある。

いつも思うが、例え何かを発見したとしても、光の速度が上限ではとてもその間の交通が実現しない。
光の速度を超える速度を操れなければ、とても現実的ではない。
今現在が分からなければ実際どうにもならない。
もっとも良くて数世代前の死人同士の伝言だ。
意味が喪失している可能性も高い。

宇宙は広い。
無限の速度の伝達・移動手段を手に入れることは必須である。
ある意味、空間の移動とは全く別な感知方法なども視野に入れ、交信の研究も同時に進めないと。
恐らくそんな研究は以前からなされているはずだが、あまりニュースとしては伝えられない。
どちらかというと、向こう側から一方的にお声がかかるのを待つという態勢を基本としているようだ。
一生懸命相手を探している割には。


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外気はいらない

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最近、帰宅後に部屋の窓が空いていると、怒りと焦りを覚えしっかり戸を閉める。
かつては外の空気に入れ替えて部屋の空気をリフレッシュしようというような
外に対する信頼感を漠然ともっていたが、いまはまったくない。

外とは、外気とは害悪であって有害であって空気洗浄機を通さない空気は身体を蝕むという感覚が無意識に浸透している。
そとはことごとく生命にとって、精神にとって害であり死期を異常に早めるものである。
やむなく外に出るならマスクは必需品となる。
うちに籠るつもりもない。

この構えはもう崩せない。
外の車庫にある車が一日でどれだけ汚れているか、黄砂のようなものは以前からあった。
しかしその汚れ方から、それだけではないような気がしている。
それからというもの、屋外に洗濯物は干さなくなった。

外が汚物のように汚いというのはまだやさしい。
動物の糞尿とかを連想するだけ。
汚染されていると言われると、とても危険な状況を感じる。
まず、何に汚染されているのか?
放射能と言われ、呼吸器に癌を齎す有害な汚染物質とか言われ、内界には極めて行き場のない怒りが渦巻きはじめる。

空気、風が何故誰の権限で汚染物質の塊とされるのか。
今風邪を引き込み、咳に喉の鋭い痛みに苛まれていると、われわれにとっての外とは何かを
改めて落ち着いて考えてみたくなる。
頭がぼんやりとしてくる。
そんななかで、意味を変えた、ただ単に危険で害悪なだけの外とは、何であるのか。

実り多い他者ではなく、外部である。
ただ人類にとって不要なもの害毒であるもの、つまりは真当な形でなく捨てられたものたちの息吹が場所を求めて吹き叫んでいる。
そんな禍々しい菫色の空からこれまた禍々しい黄色すぎる月が煌々と照り、あらゆる窓という窓に、致死量を超える毒風をおもいっきり吹き込んでくる。
黒猫は背をしなやかに反らせて飛び退いた。
わたしは窓という窓を閉めて歩いた。小走りに。

しかし間に合うはずがない。
追いつくはずがない。
フィルタは何時までもつのか?
もうすでにそのフィルタではだめなのか?
Gimme Shelter!

この事態には極めて超越的な存在による劇薬が期待される。
もはやそれなしにわれわれにとっての外部はありえない。
つまり、世界の存続はない。

ボスの「最後の審判」を控るのみ。




”花とアリス”~記憶と他者

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2004年

岩井俊二監督・脚本・製作・音楽・編集

鈴木杏 、、、荒井花(ハナ)
蒼井優 、、、有栖川徹子(アリス)
郭智博 、、、宮本雅志
相田翔子 、、、有栖川加代(アリスの母)
阿部寛 、、、アリス母の連れの男
平泉成 、、、黒柳健次(アリスの父)
木村多江 、、、堤ユキ(バレエの先生)
坂本真 、、、猛烈亭ア太郎
大沢たかお 、、、リョウ・タグチ
広末涼子 、、、編集者現場担当


まるで少女漫画を見ているような映画だ。
しかもとてもよく出来た魅力溢れるリリカルな映像だ。勿論、ストーリーも流れも。
2人の空気感が桜舞う季節にぴったりで、淡々と流れる時間にこちらも夢見心地になってくる。
自分がこういう時を過ごした記憶がある訳ではないが、いつしかこちらの気持ちが、ある種の既視感や郷愁に彷徨い出していることに気づく。
音楽も情景に溶け込む相変わらずのリリカルさを醸し出している。
アンビエントムービーとしてもブライアンイーノのもののような心地よさがある。

岩井作品では、LOVE LETTERでも図書館カードで一気にブーツストラップしていたが、ここでもトランプのハートのエースがキラーアイテムとして流れを引き締めていた。
岩井の得意とするところだろう。そのカードもご丁寧に「不思議の国のアリス」とうさぎの絵柄のものだ。
他にもちょっとした言葉がそれに近い役目を果たしている。
大泉さん(お父さん)の中国語とか。
駅名、学校名、、、。
さらにカメラ、雨そしてバレエ。
おむすびサンド、ところてんアレルギー。

記憶喪失をちょっとした事故にかこつけて相手に押し付ける(暗示にかける)という強引なドラマの始め方が面白い。
この2人と彼氏を巡る物語は漫画表現でとても活きるタイプに感じる。
少女漫画である。基本外部がない。
彼女ら2人と彼氏との3角関係が各々の時間を繋いでゆく。
だがあくまで中心は、アリスー蒼井優と花ー鈴木杏だ。
2人は各々の生活環境が明かされていて、その時間性ー意識の動きもよく解る。
彼氏はその時間流の中にその都度、常にその対象として現れる。
しかも他者という脅威性はなく親和的な、彼女らの分身に近い存在としてである。(であるから暗示にも容易く引っかかる)
彼の印象は生活感もなく薄い。花の記憶喪失の物語の王子様としてぼやっとして登場してくる。

彼氏もあやふやな雰囲気でいるときも、自分という身体性ははっきりもっており、それに誠実に生きている。
だからこそ、常に自分の記憶喪失を疑っている。そしてアリスー元カノ設定に昔のことを聞きたがる。
間違いは、頭をぶつけたくらいで最初にあっさり花の口車に乗ってしまったことである。

しかし彼もアリスに対し恋愛の情を芽生えてゆくに従い実在感を徐々に上げてゆく。
2人の抵抗となってゆき存在感ー主体性が宿ってゆくのだ。
特に浜辺での彼を巡る2人のやり取りと交錯。2人の取っ組み合い。
ここになまなましい2人の感情が立ち現れ彼を仲立ちとして衝突する。
ハートのエースを探すゲームで彼がそれを拾うがそれをその場では明かさない。
始めて彼が彼女らと同等の内面性ー存在感を色濃く見せるところだ。
この辺のやりとりはリアリティーと繊細さを感じる。

しかし物語においての実質的な主体は、あくまでも2人である。
彼は2人の関係にとって触媒のような役割か。
とは言え、アリスが彼氏に騙していたことをところてんを前に打ち明ける場面は瑞々しい恋愛ドラマの一節であった。
充分に感情移入してしまった。
ここでアリスと彼氏の心は限りなく接近する。

文化祭、部活の発表を前にし。
ハートのエースを彼が密かに持っていることを知り、それを破るように花は彼氏に詰め寄る。
そのカードはアリスにとってとても大事な父との想い出のカードであり、彼はそれを破ることなどできない。
花は怒り彼を残して教室を飛び出す。(窓の外には巨大な鉄腕アトムの顔が浮かぶ)

記憶というものはこんなにも、ある種曖昧でfragileで大切なものか。
そして存在とは記憶如何で構築されるもの、その他者性である。

写真部の友達(バレエ教室で一緒の女子)が、かつてひき篭りであった花をアリスがバレエに誘うことで外の世界に連れ出してくれたことを花に思い起こさせる。
花自身こそが実はアリスに対して重大な記憶を喪失していたことに気づく。
そして花は彼氏がアリスに心が傾いていることを知り、彼にすべてのことを打ち明け、身を引くことを伝える。
しかし彼氏は花を受け容れる。
「君の悪行の数々の責任をとってもらわないとな。」ここで3人同等の存在感ー他者である。
彼氏がいよいよ3人目の主人公になってきた。

文化祭での部活発表で花はアリスしか客のいない高座ですっきりした表情で芸を披露する。
ここでニュートラルな花とアリスの関係が再構築される。

アリスはバレエを踊ることによってオーディションに受かる。
アングルの位置も決まった全編スローで映される美しいシーンだ。
最後に2人でアリスが表紙を飾った雑誌を手にして喜び合う。

結局、よくできた少女漫画の実写版を見ているような心地であった。
彼氏はこの先も花とやっていけるのか、という一抹の不安も余韻として残し、よくできている。
何よりキャストが良かった。
今更ではないが、鈴木杏と蒼井優であったからこその映画である。
他では考えられない。
やはり、花とアリスの間の話であった。


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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