ハンス・ベルメールとは?

”Low”でたまたま書棚にあった、ハンス・ベルメールのことを書いてしまい、今焦っている。
そこには、ベルメールの芸術自体については何も書いてはおらず、彼の政治姿勢について限定的に書いたものである。
が、その後、ベルメールの人形写真を眺めるにつけ、その強烈なオブジェに呪縛され始めた。
しかし、彼の芸術について語るなど、難儀極まりない。
絶句するばかりだ。
そもそも「人形」とは何か?
確かにわたしも「鉄人28号」のフィギュアなら結構な数を持っている。
しかしやはり、ベルメールの「人形」とは何か?
これは明らかに「鉄人」の人形とは異なる。
また、何故、「人形」なのか?
である。
しかも、ベルメールの人形に激しく触発された、舞踏(暗黒舞踏)や勿論、ドールの世界、フィギュア、漫画・アニメ、マネキンに至るまで、もはやベルメール人形は、人形制作において無意識的な身体性を深く広げている。その地平から数々と優れた作家や作品が生まれてきているように思われる。
土方巽や四谷シモンのようなビッグネームに限らず、多くの芸術家を輩出している。
そうか、「人形」とはそもそも何か?とここに数回書くうちに思い当たった。
「人形」とは「人形」のことだ!
人形が何故何かの似姿である必要がある?
確かに二次的に表現された人形や伝統工芸として分業生産され市場に出回る人形がほとんどだ。
縫いぐるみも人形に入るのか?裾野は広い。
勿論、高度な技術によりはじめて可能となる希少な芸術作品としての人形もあることは分かる。
しかし何の人形である必要などない。
「人形」そのものである「人形」
イデアそのものの”人形”!
ベルメールの人形とは、その出現ではなかったか?
それに先鋭的感性を備えた人々が驚愕し、思わず舞踏や人形制作にとり込んだのではないか?
今、はじめて分かった。
何を作ろう、ではなく人形そのものを作ろう、である。
造物主として。
人形そのものが問題(一義)なら、何故人形でなければダメなのか、絵ではいけないのか、という問も無い。
人形は何かの表現ではなく主題なのだ。
さらにベルメールは人形を写真に撮り、まさにイデア界の「人形世界」を現出している。
恐ろしい人形世界だ。
ベルメール自身、球体関節人形は数体しか作っていない。
球体関節により可動し、パーツ組換えが起こり、挑発的なバリエーションは幾つでも揃う。
バラバラ分解されたパーツ並び写真もある。
そこではじめて出現する人形。
それらを目の当たりにして、多くの作家が日本に目覚めたのだ。
写真を前提とした人形なのだ。
人形そのものは写真世界にあってはじめてイデア性を発揮するのか。
その周到に用意された背景、環境において。(時折そこにベルメール自身が亡霊のように写りこんでいる。)
さらに、彼の優美なドローイング(銅版画)の線ではじめて描かれる「人形」。
球体関節の増殖によるもはや名状し難いグロテスクな肉塊にまで成長した少女人形も出現する。
確かに鮮烈だ。
これは少女の人形ではなく、少女人形自体のドローイングだ。
素晴らしい線で確信を持って描かれた至高の少女人形。
甲殻機動隊(イノセンス)などで、人形が微妙に痙攣する。
これは紛れもなくハンス・ベルメールの呼び込んだ人形の末裔である徴だ。

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