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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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”かげろう”を観て

CaptureWiz052.jpg
LES EGARES STRAYED
2003年
フランス

アンドレ・テシネ監督
ジル・ペロー原作

エマニュエル・ベアール 、、、オディール
ギャスパー・ウリエル 、、、イヴァン
グレゴワール・ルプランス=ランゲ 、、、フィリップ
クレメンス・メイヤー 、、、カティ


あの館は廃墟だった。
感化院を脱走し人目を避けて逃げていた青年がそれを見つけてきたというのも肯ける。
間違っても廃屋ではない。
奇麗ないつでも使える立派な家だ。
ただ、持ち主が戦争のためにいなくなっている、というだけのこと。

青年は(17歳だったか?これまた微妙な年齢だ)生きる力は飛び抜けているが、知的な素養がない。
ある意味、野生児とも言える。
その彼だからこそ、戦時中に楽園ー廃墟とも言える館を用意できた。
と言うより、館自体も彼らを待っていた。

とりわけ知的な母子の家族よりその脱走青年はずっと自然の側にいる。
危険な国道に逃れたり無人の村から村をひたすら歩き続ける疲弊するだけの行動を回避できた。
廃墟は自然の時間に属する。

ピクチャレスクな館はそのまま廃墟ー楽園の感をその新しい住人の精神的な動きとともに深めてゆく。
きっとそういうものだ。
エマニュエル・ベアールとその野生児は相互の微妙で繊細な揺れ動きを通し、お互いの境界を熔かしてゆく。
それぞれの時間が解放され拡張されてゆく。
廃墟という楽園の時間に染まってゆく。

そのさなか、戦争と言う大きな時間の終わりを告げる兵士2人が楽園に侵入する。
彼は彼らの排除を企てるも彼女の優等生の息子に抑止される。
勿論、逃亡野生児は、兵士の前には出られない。すぐに密告されてしまう立場である。
彼はしばし身を隠す。

その間に、野生児もエマニュエル・ベアールもお互いに対する気持ちが熟成されていく。
これも時間のなせる技だ。
お互いが見えない間(不在であるため)に時間だけは純化されてゆく。
待てよ、こんな話を何処かですでに知っていた気がする。
そうだ、「嵐が丘」だ。

恋愛とは恐らくこのようなものだ。
すべてが「嵐が丘」なのだ。

そして、2人の兵士が2人の楽園から去る前夜、2人は恋人として出遭う。
しかし、それが最後となった。
愛に目覚めた野生児は、同時に戦争と言う坂口安吾も定義するような特殊な時間性からも追い払われ、もはや野生児ではなく、法によって拘束される(感化院に連れ戻される)存在へと戻らねばばらない。

彼の予言(たった一人の友達のことと嘯く話)の通り、彼は独房で自殺する。
この世に彼の生きる時間はすでに残されていないことは、野生の本能で彼が一番よく知っていた。
そして彼女も分かっていた。
彼女の優秀な長男も母の様子から全てを汲み取ってしまうが、ことばを呑み込んでしまう。
戦争と言う時間の終結の意味と、、、。

廃墟には持ち主の時間が戻り、普通の家として何もなかったのごとく時を刻みはじめるだろう。
もはや後には廃墟はなく、夥しい廃屋だけが残っているだけだろう。


CaptureWiz053.jpg


ハンドル・ブレーキ・アクセル無!Google自動運転車の試作車公開


素晴らしいというよりちょっとひょうきんで可愛らしい車だ。
これまでのテスト走行車を見る限り、如何にもまだ研究中です、と言った外観であったが、これは完全に市販車のプロトタイプと言った感で、実用性はともかく洗練されている。
これまではベースの車はトヨタ車であったし。
今回は、ゴルフっぽいかたちの完全オリジナルタイプだ。
実に可愛らしい形をしていて、取りあえず40kmの速度でヒトを乗せて試験走行をしている。
なんとヒトは文字通り乗っているだけで、ハンドル・ブレーキ・アクセル無しなのだ。

車に乗るということは、われわれドライバー(わたしは休日ドライバーだが)にとって、イコール運転を意味していた。
運転の楽しさ醍醐味を謳い各メーカーは車を開発し販売してきた。
勿論、他の販売要素として、安全性・居住性・経済性(燃費)・スタイル(用途)などがある。
これら各要素の内、安全性に最大のウェイトをかけてみたら、自動走行に行きついた。
そして、われわれがちょっとした暇に或いは休日に楽しみにしていたドライブが実質なくなる時が来た。

特に今ギヤはマニュアルシフトで山の坂道走行を楽しんでいるお父さんたちはこれをどう思うか、微妙である。
オフロード走破を楽しむアウトドア派もそうである。
恐らくこの世からもう車は無くなる、と言った感であることに同情したい。
つまり、車の運転をスポーツとみて楽しんでいる人たちに。
プロのレーサーたちの舞台はひとつのモータースポーツとして残されると思うが、一般道における交通事故ゼロの実現を考えれば、当然そちらにシフトすることを留める理由などあろうはずもない。
その経済効果の大きさはとてつもない。
自動車事故による医療費等を考えなくてもよいのだから。

これは大変革である。
Googleの一人勝ちか!
この企業の地図情報はあまりに大きい。
そして自動運転のOSの標準化へと進めたいはず、かつてのMicrosoftのように。
当然車体制作メーカーはパソコン本体(Win互換機)製作メーカーと同じかそれ以下の立場か。
ま、どこが大儲けするにせよ、、、。

考えてみれば、この事態はヒトから銃を取り上げるのと同様に必要なことかも知れない。
不完全な人間というものから凶器を取り上げるという意味では。
わたしはこの方向性は正しいと考える。
特に昨今の大型トラックやバスの悲惨な事故を見ても。
「人間は車の運転には向いていない」(Google)
説得力がある。

自動車は完全自動車に変わる。
そして、われわれはその箱に入るだけ。
乗るですらもはやない。
行先を入力すれば、後は中で何をしていようが、安全に目的地に最短距離と時間で着いてしまう。
いや、すべてを見込んだ最適な経路を計算してしまう。
仕事をしたいヒトはその時間中100%それに専念できる。
読書したいヒト、歌を唄いたいヒト、眠りたいヒト、何でも出来る。
STAP細胞の研究も出来る!?
これは、われわれにとっての最も重要な「時間」が大きく質を変えてくることになる。

退屈ではなく、むしろスリリングであり、創造的ですらある。
様々な可能性に期待したい。
自分の部屋が勝手に何処にでも移動すると考えてみたら。

車の運転という歴史的事実を奇異な目で見る人たちが現れる世界になるはず。
「昔の人たちって無鉄砲で危ないことしてたのねー」
「こんなに事故死を出しながら運転を続けていたなんて、野蛮だわ」

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ブリューゲルとは何者か?

Petro Bruegel

ピーテル・ブリューゲル
1525-1530 (フランドル)
最近スペインで新たなブリューゲルの絵が発見されたという。


ブリューゲルのワンダーランド!
これは不思議の国のアリスどころの話ではない。

人間の繰り広げる、中心のない放埓さのすべて。
常に最期の勝者におさまる「死」。

これをあらん限りの知見と技量を用いて表現しつくしている。
次から次へと出てくる突拍子もないもの、とその行い。
細部への徹底したこだわりと、全体性。
未知の物も、想像上の物も、希少な物もそこいらをほっつき歩いている物も全て分類せず織り交ぜて作られた世界。
言葉、含蓄のある諺を使ったとてつもない遊び。
そして子供たちの魅惑的なごっこ遊び。
とても活気のある群がる元気な人々。

しかしこれはつぶさに見れば、
ブリューゲルのワンダーランドではなく。
われわれの意識にとって極めて自然で健全な状態の世界だ。
想像上の物と現実にある物とを分けたところで、希薄な現実と濃密な想像(創造)物とで、どちらがリアルであるか。

「反逆天使の転落」では目の覚めるような、奇想天外な組み合わせによる、Creatureたちの宙を乱舞する姿が圧巻。
ヒトと昆虫が合わさるところなど、既視感があってもなおも新鮮なである。
心震わす不思議で懐かしいものたち。
彼の絵の中にいる子供たちと一緒になってめくるめく遊ぶ感覚。
ブリューゲルのイメージはあらゆるところで引用され消費されているがまだまだ尽きることはない。
ブリューゲルの混沌としたワンダーランドからは無尽蔵に溢れ出る。
一角獣やフェニックスやサイやゆるキャラも網羅して飛び出てくる。
科学もフィクションもファンタジーも一緒くた。


「ネーデルランドの諺」には、85もの諺が絵で表されている、これも楽しいものだ。
見るとだれもがみな、他人には関心がなく、自分のやっていることに閉籠っている。
ブリューゲルの洞察力に基づく、寓話、風刺、諧謔が利いた、この当時盛んに言われた「世界劇場」ととれる。
勿論、今に通じる。

「バベルの塔」は丁度、キャンバスの上限まで描いてしまったもので、永遠に中断してしまった。
確かに共通の言語を奪われれば、天にまで達しようとする塔など作れるはずはない。
大変な上空から見た建設途上の塔の姿だ。
作業員ひとりひとりの様子が良く分かるが、建設材を持ち上げ組んでゆくテクノロジーが大変精確に描かれており、極めて理にかなった建築現場であることもはっきりしている。と同時に、鍋で何やら料理をしていたり、洗濯までして干し物を干している者もいる。
この塔ひとつだけでも人間の全ての営みを理知的に描ききろうとする彼の姿勢が窺える。

しかし後期になると、「農民の踊り」のような画家の視座と同じ高さで描かれる対象が描かれる。
知的な俯瞰を辞めている。
それは、彼がさらに事象のありのままに迫ろうとしたためか。
ここでは農民のありのままのエネルギーをそのまま描こうとした。
これまでも、単に奇想天外を狙おうとして描いたものはなく、意識(無意識)にとってのありのままを追求して描いてきた過程であるが、それは「農民の婚宴」に如実に現れる。
もう食欲丸出しで食って食いまくる農民たちの迫力漲る姿が活き活きと描かれる。
ルネサンスの上品な伝統的絵画にはヒトが大口開いてものを食っている姿など有り得ない。
彼の人間に対する基本的な愛情が素直に見て取れるものである。

わたしの大好きな「雪中の狩人」
見れば14匹の猟犬を引き連れて、獲物はたったの一匹の狐である。
お目当ての鹿はダメだった。それが彼らの足取りに現れている。
しかし彼らが向かう村の情景はとても楽しい。
煙突に登って火を消そうというのか屋根まで登ってゆく人たちの姿。
子供たちのスケート、コマ回し、カーリング遊び。
活動的で元気な人々の日常が広がっている。

これらを見ると、ルネサンスのわざとらしい、気取った、偽善性をもった一面が逆照射される。

そして「死の勝利」
異教徒たちの絞首台。彼の絵には異教徒のぶら下がる絞首台が多く描かれる。
ファンファーレを奏でる骸骨たち。
そう、溢れ出す夥しい骸骨。
この人間的な骸骨たちを見よ。
あらゆる争いの最終的な勝者は「死」である。

しかしブリューゲルはこれでわれわれを突き放したまま終わらない。
有名な「絞首台の上のかささぎ」である。
ここではもう誰も絞首台にぶら下がってはいない。
大変長閑で美しい農園が広がる。
牧歌的な農村の優しい風景である。
その絞首台の下で屈託なく踊りを楽しむ村人たちの無垢な姿。
よく言われるように、絞首台の上に一羽泊まるカラスはブリューゲルか?
妻に残したその最期の絵がブリューゲルの ワンダーランドの行き着いた果なのか。


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犬塚勉~リアルとは何か?

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それは、一片の欺瞞もないこと。
虚飾のないこと。
描ききること。
妥協を許さぬこと。
謙虚であること。
ストイックであること。

犬塚勉のように。
犬塚勉ーリアルの代名詞である。

犬塚は、「永遠に見続けたい風景」を描こうとした。
誰もが何と思うことも無い「梅雨の晴れ間」の原っぱをこれほど神聖な宇宙として描ききった画家が他にいるだろうか!
湿気と日差しによる柔らかさ、ちょっとこそばゆ気で愛しげな雑草のタッチ。
長靴で踏みつけられ折れ曲がった草も優しく折れて美しい。
彼はこの景色を描く頃から、面相筆を主に使い始めている。
スーパーリアリズムと呼ばれることもある彼の絵であるが、ただ細かく描けばこうなるというものではない。
写真みたいという、必ず声が聞こえるが、写真はこんなに鮮烈ではない。
自然の密度と重みが違う。
土の匂いが違う。
無数の生命の蠢きが聴こえる。
ルドルフ・シュタイナーがこの絵を観たら何というだろう?

まずは、精緻な観察があった。
表現と言う距離すら失くしてしまいそうになる近接があった。
犬塚は、独学で登山の技術をを身に付け、地に草の中を這いつくばって「自然」を知ろうとした。
風景を漠然と描きたいという幼いころの夢はいつしか「自然」そのものに深く分け入る気迫とともに、宗教的な畏怖の念をもって「自然」に向きあうようになっていた。
登山を繰り返すたびに、五感の研ぎ澄まされていくことが解る。
彼はさらに感覚が解放されてゆくのを知る。

「わたしは自然になりたい」
ブナの木となり、河原のひとつの石となる。
リアルとは何か?
その精緻な雑草の生い茂る原っぱの絵から無数の生命の営みの囁きが聴こえる。
この垂直的な描画が生命ー自然ー他者との出遭いを可能とした
つまり、自分の自我ではなく、他者としてのリアルを観たのである。
描きとめるのである。

1947~1988の画家の人生。
バブル期の浮ついた時代に、犬塚は短い生を行者のようなストイックな道をたったひとりで極めることに使いきった。
宮沢賢治も思い起こす。
稀有なしかし絶対的な重みをもって存在するヒトのひとりだ。

犬塚の鋭い感覚が立ち上る香りや押し寄せる濃厚な色彩を次第に鮮烈に受け止めてゆく。
彼はその度に大発見したと叫び、間髪を入れずスケッチをする。
それによって描かれた「ブナの森から」
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これは、ジェッソで下地を幾重にも塗ってから櫛で引っかき傷を作り絵筆で仕上げている。
風雪に耐えつつ、自然の流れを押し返して来た傷だらけのブナの質感と量感が極限的に捉えられている。

犬塚は油絵の他に細密画を描くに適したアクリルも多く描いている。
乾燥が早く的確でシャープな表現が素早くできる。
自分が捉えたイメージを直ぐに具現化するに最も適した画材である。
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ますます、神秘なる自然に対する姿勢は厳しいものとなり、死に限りなく近接する限りにおいて得られる自然の姿を描き取ろうとする。
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「暗く深き渓谷の入り口Ⅰ」絶筆。

彼は「どうしても川の水がうまく描けない、もう一度水を見てくる」と言って谷川岳に出かけたのを最後に帰らぬ人となった。

享年38歳。

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Alice in Wanderland を観て

alice.jpg
2010年
アメリカ

ティム・バートン監督
ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』原作
実写とモーションキャプチャによる。

ジョニー・デップ、、、マッドハッター
アン・ハサウェイ、、、白の女王(ミラーナ)
ミア・ワシコウスカ、、、アリス・キングスレー
リス・エバンス、、、ザニック・ハイトップ
ヘレナ・ボナム・カーター、、、赤の女王(イラスベス)


ジョニー・ディップ繋がりで、こっちも観てみた。
いつものジョニーだ。相変わらずの芸達者。ここでは、マッドハッター。
ゴジラ好きで広く知られるティム・バートン監督。
アリスはミア・ワシコウスカ。多くの有名女優が志願するなか、役を射止めただけのことはある、確かな個性のある女優だ。似たようなヒトが思いつかない新鮮さがある。
白の女王が、アン・ハサウェイ、最近だとレ・ミゼラブルであらゆる賞の助演女優賞を総めしていたのが記憶に新しい。大変お茶目な役作りをしている。
赤の女王は頭がデカすぎて特殊メイクもすごく、もはや誰だか分からない。が、経歴の華々しい英国での知名度は極めて高い、大英帝国勲章も受けているヘレナ・ボナム・カーター。
後のCGキャラもよく出来ている。チャシャ猫、双子、青虫、、、。

そして何よりなのが、子供に見せられる内容。
それなりに分かって楽しめる映像。
であること。
これはすごく大きい。
これは貴重な映画だ!

二つのアリス、不思議の国、鏡の国の続編のアリスの冒険を描くという設定である。
このアリスは、預言書に「救世主」と記されていて、ワンダーランドを赤の女王の支配から救う役になっている。
アリス特有の知的遊びはなく、言葉遊びもあるが瑣末なもので、モーションキャプチャ・3Dによる画像の楽しさを見せる映画である。
アリスは監督の言うように「一つのカルチャーである」から、もう自由に作ってよいという捉え方がある。
確かに、映画だけでも「何とかアリス」は沢山ある。
名前だけアリスだが、どこがアリスだか分からないものもある。

この映画はこれまでのアリスから見ても少し成長したアリスの姿を綺麗にそれらしく楽しく見せてくれている。

絶えずアリスは、ここに居ることを夢だと思おうとするが、実際に13年前に訪れた記憶が、夢として残っていただけであった。13年ぶりに実際にワンダーランドに戻り、大きくなったり小さく縮んだりを繰り返しながら、スリリングな冒険をする。
やがて預言書を受け容れ、赤の女王の支配を終わらせるため、敵の怪獣と闘う。
戦闘シーンもよく出来ている。
ミア・ワシコウスカもほぼ新人ながらテンションの高い彼女ならではの絵を作っている。
続編があるとか聞くが大いに期待できる。
Mia Wasikowska 025

このワンダーランドは赤の女王の支配の元、異形の者たちの謀略や動物の虐待など暴力的な場面も描かれているが、それらの話が圧倒的な画像処理で、昇華されている。
新しい情報量に達した画像世界は、観念・価値観も変質させる次元をもつことが分かる映画だ。
所謂、ストーリーだけを読んでも掴めない世界である。
現実に戻った、いや、穴から這い出た二の腕に相変わらず、引っかき傷のあるアリスは、極東貿易を提唱し意気揚々と商船に乗り込む。ある意味、奴隷制といい植民地支配といい、イデオロギー的見方に落ち込めばそれまでだが、映像作品としての強度がそれを救っている。

異形の世界であったが、その中に親和的に溶け込み、ヒロインとしての華を打ち出せるミア・ワシコウスカには未知の魅力を感じた。
ヘレナ・ボナム・カーターとジョニー・ディップについては、もはや何も言うことなどない。

chocolat やはりショコラは最強♡ 

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Chocolat
2000年
アメリカ

ラッセ・ハルストレム監督
ジョアン・ハリス小説『ショコラ』原作

ジュリエット・ビノシュ 、、、ヴィアンヌ
ヴィクトワール・ティヴィソル 、、、アヌーク
ジョニー・デップ 、、、ルー
アルフレッド・モリナ 、、、レノ伯爵
ヒュー・オコナー 、、、アンリ神父
レナ・オリン 、、、ジョゼフィーヌ
キャリー=アン・モス、、、カロリーヌ
ジュディ・デンチ、、、アルマンド



やはり、”チョコレート”という映画が悪いものであるはずがない。
大変綺麗な素晴らしい映画であった!

お伽話風で、時代設定がよく分からず、箱庭的な村に人形のような登場人物がそろう。
そこは北風が吹きすさび、船着場もある。
模型のような街に、他所者もやって来るのだ。

しかし排他的で厳格な風習を持つ村長や村人はそれを受け入れたがらない。
特に村長は村をまとめることに何より躍起になっている。
まとめるための排他的な掟とくに教会をコントロールして。

そこへ北風に乗って南米にルーツを持つ本格的なチョコレートを作る母娘がやって来る。
彼女らはchocolatを広めるために宿命的に北風と共に放浪する。
海賊(ジプシーか)もやって来る。音楽というこれまた伝染性の高いメディアも引っさげ。
スウィーツも音楽も、どちらも秩序の外への誘惑(魅惑)者の象徴として。
秩序は他者を何より恐れる。

しかし、いかに教会ー宗教の力(超自我)を利用しても、チョコの美味と音楽の魅力の次元に勝てる訳はない。
chocolat店を開いた母娘に辛く当たっていた村人も、彼女がその人にぴったり合ったチョコを出すことに惹かれてゆく。
やがて村人は、身を解放する正しさを知る。
そして自分らしく(自律的になり)自らの強さを発揮していく。
I know What I like.
それを押し止めることは出来ない。
チョコの美味しさは普遍的なのである。
ついに村長もチョコの美味しさに平伏す。
美味しさに感動して泣く。当たり前だ。断食なんぞしているから、なおさらだ。(しかし悪気はなく憎めない)

そして若い神父は目覚める。
「わたしは神の奇跡的な復活を語れば良いのでしょうか?違います。神のそのような神性について語るよりも、人間性について語りましょう。彼がどのように地上で暮らしたか、その優しさや寛容についてを。わたしはこう思います。人間の価値とは何を禁じるかでは決まらない、何を否定し、拒み排除するかではありません。むしろ何を受け入れるかで決まるのでは?何を創造し、誰を歓迎するかで、、、。」
彼ももうお決まりの教会の脅し文句や村長の口パクオウムをやめて自分の言葉で語り始め、村人たちを感動させている。
ホットチョコを飲んだからだ。
村長は祭りでジュリエット・ビノシュにとても晴れやかな笑顔を送る。
ビノシュも暖かい笑顔で返す。
これがホットチョコの力だ。

また、北風が吹くが、風はまだそのときではないことをビノシュに告げる。
母娘はこの村を離れようとしたが、この村人たちの暖かさでここに留まることを選ぶ。
ジョニー・ディップも何故かまた帰って来る。
彼らもまた放浪・遍歴から解放される。
(放浪に縛られなくなる)
チョコは何者をも解放する!!
甘く溶かしてしまう。
なんという素晴らしい♡

ジュリエット・ビノシュがあまりに適役で、他の女優が思い当たらない。
まさにチョコレート映画にぴったり、の笑顔である。

村長の憎めない伯爵も若い神父も絵を描く少年もそのママもおばあちゃんも、DVに遭って転がり込んで来た女性も皆、素敵だった。
そうあの犬連れのおじいちゃんも。
言うまでもなく、素顔風のジョニー・ディップも、他の映画の彼よりよかった。
ただ、一人だけあの特異な(グリューネヴァルト風な)絵を描く少年の存在は、特別他から浮き立っていた。
温厚だが強烈な個性を秘めた彼は誰なのか?
まさか監督(子供の頃の)?

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appleブランド力低下

mac pro

当然だろう。
appleは、スティーブ・ジョブス亡きあと、何もしてない。
何もしないということは、衰退・没落を意味する。
本当にappleは魅力がなくなった。
つまらない企業になった。
と、心底思う。

これまでappleのファンであったが、そんなこと遠い昔のことだったような気もする。
それに引き換え、Googleは話題にも事欠かない。
躍進目覚しいものがある。
常に斬新な試みを果敢にやり、その領域でのイニシアティブをとってきた。
自動運転、Google Glass、、、には少年期のワクワクどきどきを感じることができる。
最近のappleにそんなもの微塵も窺えない。
これは、はっきり言ってとても悲しい。

唯一、MacProで単なるフルモデルチェンジを超える0からの見直しをしたが、そのようなディスクトップのフラッグシップモデルが企業イメージを左右することはない。
単なるスタンド・アローンではなく、そこから他の製品への流れとかが生じれば新たな可能性も見られたかも知れぬが。
今、巷の人々が一時も手放さずに使っているのは、appleージョブスがかつて開発したiPhoneースマートフォンである。
MacProに自然に人々の目が向けられることはない。
なのに特別なイメージ戦略ー広告も打たない。
それだけでもすれば、多少なりとも企業の先進的なイメージを更新することが出来たかも。
だが、巷の専門クリエーターたちからもこれといった反応が起きていないのも気になる。
根本的なアーキテクチュアの変革であったはずなのに、、、。

だが所詮それすらもGoogleの新たな一連のチャレンジから見たら、あまりにも規模は小さく保守的であった。
10年前なら少しは話題となる程度のブラッシュアップに過ぎないものだ。
かつてジョブスが大変積極的だった、教育現場への進出も今は見る影もない。
わたしの同僚の話でも、展示場にWin関係の教育タブレットがズラリと所狭しに並ぶ中、ごく狭いブースにiPadのまだ製品化しないようなソフトのコーナーが設えてあるくらいだったと驚いている。ちなみに彼は一度も浮気をしたことのない根っからのWin派である。その彼がappleを心配しているのである。

何をやっているのか?
ジョブズをかつて追い出した後のappleに逆戻りだ。
これは相当な重症だ。
appleは2度ジョブズを追い出した。
しかも今度はジョブズは戻ってこない。
どうするつもりだ?apple!

今、大変な勢いに乗る、自動運転関連にもappleは完全に乗り遅れている。
車内装備においても遅れをとっている。
かと言って他に何かを進めている訳ではない。
何もしていない。
これまでのappleの維持をしているだけ。
しかしそれは衰退以外の何者でもない。
どうなってしまうのか?
apple!


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ハンス・ベルメールとは?

201202202353336ec.jpg

”Low”でたまたま書棚にあった、ハンス・ベルメールのことを書いてしまい、今焦っている。
そこには、ベルメールの芸術自体については何も書いてはおらず、彼の政治姿勢について限定的に書いたものである。
が、その後、ベルメールの人形写真を眺めるにつけ、その強烈なオブジェに呪縛され始めた。
しかし、彼の芸術について語るなど、難儀極まりない。
絶句するばかりだ。

そもそも「人形」とは何か?
確かにわたしも「鉄人28号」のフィギュアなら結構な数を持っている。
しかしやはり、ベルメールの「人形」とは何か?
これは明らかに「鉄人」の人形とは異なる。
また、何故、「人形」なのか?
である。

しかも、ベルメールの人形に激しく触発された、舞踏(暗黒舞踏)や勿論、ドールの世界、フィギュア、漫画・アニメ、マネキンに至るまで、もはやベルメール人形は、人形制作において無意識的な身体性を深く広げている。その地平から数々と優れた作家や作品が生まれてきているように思われる。
土方巽や四谷シモンのようなビッグネームに限らず、多くの芸術家を輩出している。

そうか、「人形」とはそもそも何か?とここに数回書くうちに思い当たった。
「人形」とは「人形」のことだ!
人形が何故何かの似姿である必要がある?
確かに二次的に表現された人形や伝統工芸として分業生産され市場に出回る人形がほとんどだ。
縫いぐるみも人形に入るのか?裾野は広い。
勿論、高度な技術によりはじめて可能となる希少な芸術作品としての人形もあることは分かる。
しかし何の人形である必要などない。
「人形」そのものである「人形」
イデアそのものの”人形”!
ベルメールの人形とは、その出現ではなかったか?
それに先鋭的感性を備えた人々が驚愕し、思わず舞踏や人形制作にとり込んだのではないか?

今、はじめて分かった。
何を作ろう、ではなく人形そのものを作ろう、である。
造物主として。
人形そのものが問題(一義)なら、何故人形でなければダメなのか、絵ではいけないのか、という問も無い。
人形は何かの表現ではなく主題なのだ。
さらにベルメールは人形を写真に撮り、まさにイデア界の「人形世界」を現出している。
恐ろしい人形世界だ。

ベルメール自身、球体関節人形は数体しか作っていない。
球体関節により可動し、パーツ組換えが起こり、挑発的なバリエーションは幾つでも揃う。
バラバラ分解されたパーツ並び写真もある。
そこではじめて出現する人形。
それらを目の当たりにして、多くの作家が日本に目覚めたのだ。
写真を前提とした人形なのだ。
人形そのものは写真世界にあってはじめてイデア性を発揮するのか。
その周到に用意された背景、環境において。(時折そこにベルメール自身が亡霊のように写りこんでいる。)

さらに、彼の優美なドローイング(銅版画)の線ではじめて描かれる「人形」。
球体関節の増殖によるもはや名状し難いグロテスクな肉塊にまで成長した少女人形も出現する。
確かに鮮烈だ。
これは少女の人形ではなく、少女人形自体のドローイングだ。
素晴らしい線で確信を持って描かれた至高の少女人形。

甲殻機動隊(イノセンス)などで、人形が微妙に痙攣する。
これは紛れもなくハンス・ベルメールの呼び込んだ人形の末裔である徴だ。


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圧倒的な廃墟論

Broadway tower edit

愛しの“Folly”~廃墟論その美学的見地 Ⅱ

”Folly”というものは、確かロックの歌詞でかつて見ましたが、(ジェネシスとかで)それがなんであるか知りませんでした。
なんというお洒落なものでしょう?!
そう言えば、ほど近い公園にそのような”Folly”がありました。
わたしは苦し紛れにトマソンとか呼んでいましたが、意図的な建造物か、ただ打ち捨てられ本来の用途を失ったものかの違いは明白です。

上に貼らせていただいた「廃墟論」まさに圧倒的なものです!
数行引用させてもらい、それについて語ろうと思っていたのですが、それ自体無意味と知り、まるごと引かせて頂きました。

ここに書かれていることは、すべてまさにその通り、よく言ってくださった。
というものです。

ということで、めでたくわたしの舌足らずな廃墟に関する覚書も終了させてもらいます。
と、言いたいところなのですが、上のエッセイの説得力に溢れるイディオムにやはり時間性と自然があります。
わたしが、しまったと思ったのは、時間と絡めた「自然」という概念をしっかり採り上げなかったことです。
まさにこの「自然」こそが、廃墟を知るになくてはならない概念です。
単なる自然ではなくはっきり概念として摂りだした「自然」です。
「時間」もそうですが。
自然について書いていても「自然」として抽象しなければなりません。

特に圧巻なのは、「人為が自然に同化し
得も言われぬ一体感が醸し出される場所は
その深意を増すように思います

果てしのないような虚無感が呼び覚まされ
支配するのは時間だけという世界」

このくだり。
さすがとしか言い様がありません!
「廃墟」に関してはこれだけで十分に言い得ています。

そして

「空間上の建築というよりも
時間軸上の建築といった色彩を帯びるもの 」
そこだと考えます。
まったくです!



また、重要なことは、廃墟を観察する当事者の問題。それを含んでの廃墟現象。または、事象です。「場所」です。これもしっかり記されています。量子力学的な考察です。


そのうち余裕があれば、改めてわたしの書いたものをまとめて載せるつもりです。
明らかに、書くごとに整理していった部分はあります。
1について、明確になっていなかったイデオムを、2で訂正していますので、そのへんをまとめたい気持ちはあります。
が、当分は違うことを伸び伸び書けそうです。
ありがとうございます。

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忘れるということ いや、なくすということ~喪失とは

Restless flycatcher04

わたしはたびたび記憶が飛ぶ。

それで大事なものを置き忘れたり、失くしたりする。
忘れた、失くした、と気づいたときの無念さ。文字通りの喪失感。
これから、もっと大きな忘れ物をしはしないかと心配にもなる。
ある種の不安と恐怖。

病気か?しかし病院は嫌いだがすでに、
頭のMRIは撮っている。何の問題も無かった。
だが、生活や仕事に支障をたびたびきたす。
個人情報だけは持ち歩かないようにしている。
自分の物もヒトの物も。

これは、SFの子供モノTV番組でも見られる、時間を止めてその間にトンデモナイことを仕掛けておいて、時間を流す。
止められていた間の認識はないため、突然の敵の攻撃に手も足も出ずにやられてしまう、という主人公の訳の分らぬ無念さに似ている。

「おのれーっ」と敵の怪人でもいるのなら言ってやりたいものだが、怪人が見当たらないと言うのであればこの行き場のない怒りは自分の胸の内に鎮火させるしかない。
雨の日に途中でカフェに行き、電車で帰った駅前の雨の景色に、はじめて店に傘を置き忘れたことを思い出した時の虚無感、奈落の底に突き落とされる無念。
忘れ物をしないヒトにこの気持ちは分かるまい!

直ぐに取りに行ってもない時はない。

いかにもBluetoothでもしてます、といった風を装い、電車の車掌さんのような点検をいちいちやってみようかとか本気で考える今日この頃。

以前、同僚から美味しいラーメン屋さんを勧められ、休日に雨の中、電車でわざわざ食べに行ったときのこと。
店は混んでいたが待つことはなく座ることができ、確かにおいしい店ではあった。
ただ、量が多めでそれに手こずっていた。わたしは余程のことがないと残すことが出来ない。
私が入ってから男性客が3組出てゆき、そろそろわたしも食べ終わる頃、女子校生3人組が店を出てゆこうとする。
それにわたしは何とも言えぬ胸騒ぎを覚えた。
何というか、先に書いた怪人の影を感じたのである。
ラーメンをラストスパートで食べ終わり、水も飲まずに会計を済まして外の傘立てを確認して、思わず「やられたー!」と無念にも予感が当たっていたことを知る。
わたしの傘と同じ模様の一回り小さい、ひどく傷んだ傘が置いてあり、まだ新しく綺麗なわたしの傘は、なかった。

わたしは、直ぐに店主に訴えると、主人はずいぶん前の置き忘れだけど、と親切に傘を貸してくれたが、その頃にはほとんど雨は上がっており、今更傘を借りたところで意味もないので、もし間違って傘を持っていったヒトが届けに来たら受け取っておいて欲しい、とだけ言って店を出た。お気に入りの傘で、女性がさしても抵抗のないものであった。
わたしも余程その傘に未練があったのか、翌週その店にまた食べにゆき、傘の件を確認してみたが、やはり届けはなかった。あのぼろ傘はずっと残っていただろうが、それを取りざたする気はなかった。傘は広げずに家に持って帰ってしまったろう。2日程前の雨にその傘を開いてみると、何故か一回り大きく新しくなっているではありませんか!わたしの日頃の行いが良いせいだわ♡
と、思ったかどうか知らないが、良くなっていたら普通届けに行ったりはすまい。

何を言いたいでもないが、どういうかたちであっても、モノが忽然と姿を消すことは、腑に落ちないことであり、わたしの時間を狂わせ、身体性に支障をきたす。

雨の日にはもっていた傘。それが微妙に違えば、何かが狂ってくる。良い方にシフトすればご機嫌にもなろうが、そうならないことのほうが多い。付き合いが長い、苦労して作ったものはその強度もさらに高く、比重が重い。
だが、親密さにおいてそれとは、比べ物にならない大きな身近なものが突然いなくなったらどうだろう?想像でなにかが掴めるものではない。だがその場合、著しく身体性が損なわれ、時間性が狂ってくるはずだ。
離れて戻ることの出来ないでいる双方にとって。
子供がいなくなるなど、その究極で、まさに想像を絶する。
あってはならないこと、としか言いようがない。
必ず見つかるように再開できることを祈るばかりだ。


森永 正男様SNSより  (現状です 拡散宜しくお願いします

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善・悪の分かる自律系ロボットだと?

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善悪ロボット?どの程度のものにするつもりなのか?自律型だそうだが。米海軍が資金援助を行ってタフツ大学とブラウン大学、ならびにレンセラー工科大学からなる学際的研究チームで開発しているとの事。何かについて判断が下せるロボット兵を生産するつもりか。確かに人を戦場で使うのは益々困難も大きくなる。作れるものならロボットで済ませたい。

単なるゲーム感覚で、常識的なYes/Noを答えるくらいなら、子供のおもちゃで事足りる。余計なこと考えられては困るという類のお掃除ロボットに毛が生えた程度のものなら、それはそれで道具として役立つか?兵隊としては。人型ロボットも体の機能としては随分開発も進んで来ている。運動能力で人を追い越すのは時間の問題だろう。
今回の米の開発チームもこの自律系善悪判断ロボット、「ヒトが考えるより実現は難しいものではない」そうな。どうせその程度のものだろう。

善・悪は機械のデフォルトにとっては全くどうでも良い余計なものー価値である。
しかし、善・悪は本来考えれば、考えるほど大変難しいものである。
何が膳であり、何が悪であるか、善悪の彼岸とは、、、。

まだニンゲンを作ろうという方向性が見え隠れしている状況には驚く。いや、そういう方向性がまだはっきりあるのか?
ニンゲンレベルの世界認識を持つ知性・価値観・判断力を期待する場合、つまりニンゲンを作ろうというのは、ニンゲンそのものを原理的に把握出来ないため、不可能である。表象を表象足らしめる当のものの背景にどうやって回り込むのか?という問題。対象化出来ないものをどうやって作るのか?初めから問題化出来ない。

元々ニンゲンが機械になる方向しか残されてはいない。選択の問題ではなく。
ニンゲンは日に日に機械化が進んでいる。無理やりチップとか埋め込んで、意気込んでみるのも勝手であるし、流行るかも知れない。タトゥーとか、ヘソや口元や鼻ピアス感覚で自己主張のアイテムになるとは思うが、自然の流れでニンゲンは機械化している。攻殻機動隊の世界になっていくのはそう遠くない。われわれには、その方向性しか残されていないのだし。

ロボットは、今後も大変限定された、機能を特化した軍事ロボットや災害対策、工業用で活躍するものが中心に提供されていくと考えられる。勿論、簡単な学習支援用もあって良い。常識の範囲内の善悪くらいなら判断してもらって構わない。さして難しいプログラムとは思えない。
精神分析ロボットが随分前に流行った。基本的なやり取りのパターンを単にブログラムしたものであったが、本物の先生より好まれたりして、面白い現象であった。ヒトは何故か他人を信用したがらないが、機械やロボットには驚くほど無防備に気を許すところがある。



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速度と断片~サイボーグ化

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電車に乗っていても、隣近所は皆ゲームに夢中になっている。
ゲーム自体否定するつもりは全くない。だがゲームはやる気ない。
昔、Macにあった大変趣深いものやディスクトップアクセサリーなら付き合うが、わざわざ今流行りのゲームに使う時間はない。
わたしに最も 必要なものは時間だ。
多分時間に余裕があればやりたいことは読書だ。
絵を描く。
音楽をやる。
基本そんな所だ。
後は何もやる気はない。
睡眠時間も充分確保したいし。
お風呂にも長ーく入っていたい。

しかし、やりたいことが出来ない。
時間がない、と言っていること自体、それをやるべき身体性が整っていないということだ。組織化されていない。
それらの時間性がまさにサイボーグのように身体化されていれば、組み込まれたプログラムが機械的にやってくれるだろう。
もっと自分の機械化、自動化を推し図らなければならない。
それと速度。
その内容と直接関係しない文全体の整序に囚われず、失速しないで進める事が出来る。

今とても気に入っている書き出し手法に断片的な表出がある。
大きな文として辻褄合わせが必要ない。
思いっきりザックリ捨てて、言いたい事だけ突っ込んで書く。
自分の事もかなり書ける。
体系化は素晴らしいが、自分は抜け落ちる。
断片補遺がよい。

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トーク・トゥ・ハー”Talk to Her ”を観る

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Hable con ella(Talk to Her)
2002年
スペイン

ペドロ・アルモドバル監督・脚本

ハビエル・カマラ 、、、ベニグノ(看護士)
ダリオ・グランディネッティ 、、、マルコ(リディアの取材にきて恋人となる)
レオノール・ワトリング 、、、アリシア(昏睡状態のバレリーナ)
ロサリオ・フローレス 、、、リディア(昏睡状態の女性闘牛士)


初っ端のバレエが良かった。勿論、エンディングのバレエも。
途中の無声映画も腑に落ちた。
特に最初のバレエから惹きつけられる。
絶望に打ちひしがれた女が2人思い思いに躍る。
信じられないほど悲しい表情の男が彼女らの踊りを妨げるであろう舞台上の椅子をぶつかる直前で次々に退けていく。

音楽は全般に良い。
ラテンとクラシックともに染み入るように調和している。
絵も綺麗だ。

美しい映画だ。
珍しく愛を感じられる映画だ。

とは言え、自分が常識を弁えた大人であり、健康・健全な社会人を自負しているような人間には全く面白味などない映画だ。見ないほうがよい。
大きな喪失感、自分の中に修復不可能なものを抱えつつ、取り返しのつかないところまでズレてしまいながら、過剰に究極を求め、至高を追求したい体質の人間には、ほっとする世界である。違和感などこれっぽちも感じない。

愛の形で究極的なものは、動物、人形、子どもに対する愛だ。
中途半端な、節度のある愛とか、常識的な愛とか、、、そんなものは所詮自己保身が先にあるもの。
愛はその言葉の本質から必然的に究極を目指す。
無私の一方的に与えるだけの愛。
マザーテレサやガンジーがどうであったかほともかくとして。
狂気や常軌を逸した形になるもの。

この人形ー植物状態の人間に対する愛は、単なる自己の欲望の捌け口レヴェルで始末されるものではない。
犯罪で片付ければそれまでだ。

自殺した主人公は、普通に生活していた彼女とは絶対に指一本触れることは出来ない。
全く固有の時間が交わることはない。これは確かだ。
だから彼が、彼女が植物状態になっても変わらず愛した、ということではなく、彼女がそのような人間人形の状態になって初めて彼女は彼と同次元の存在となり、同じ場所、生きられる時間が一緒になり、語りかけられ触れられる身体性をもつことになった。
彼女が人間としての機能不全となったところで、もともと人間としての機能不全である彼の時間流と合流したまでで、これは一方的とかなんとかいうものではなく対称性を保つ関係性によって成り立っている。当たり前な関係である。
彼は見返りなど全く求めず献身的に彼女に彼女の好きであったことについて語り続け、介護献身を怠らない。
それは当然であって、人形を愛する人はみなそんなものだ。
彼は無意識的に生理的にも人形しか愛せない体質だ。
何故、ではなくそうなのだ。それが前提なのだ。

彼は普通に五体満足に生きているように見えるため、その欠如・過剰性に気づかれにくいが(感覚的に匂わせているが)、人間としての喪失・破壊は極限的に進んでいる。そういう存在はこれからますます増えて行くはずだ。
その彼のある意味機械的な思いが一歩を踏み出し(無声映画にも連動し)結果的に彼女を妊娠させたことが、彼を社会的にも肉体的にも葬り去ることとなり、彼女を日常生活に活き活きと蘇らせることとなるのは、皮肉に感じるが、まさにその通りであると納得させるものである。
これが真理である。
カフカの「変身」のラストもまさにこの通りであった。
何とも言えない清々しさも。


イノセンスを観る

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2004年
押井守監督・脚本

主題歌、、、伊藤君子 『Follow Me』

声:
大塚明夫、、、バトー
山寺宏一、、、ドクサ
田中敦子、、、草薙素子
大木民夫、、、荒巻大輔


今、Cloudが流行りだが、それを徹底すると終始ハッキングの危険に晒される身になるだろうな、と実感する。
外部情報系への接続がデフォルトとなると、どうやって個を守るのか。
「個」が無くなれば同時に「世界」も無い。

主体として必要に応じ外部情報系のデータバンクに素早く検索をかける。
それは同時にハッキングされる瞬間でもあり。
のっとられる契機である。

どうやって逃れるか?
人類が存続できるかどうかの瀬戸際だ。

ネットワークの無限平板の広がりの中に垂直的に接合するhubが仕掛けられていたら。
そのhubが何かの指向性を持つ統合制御システムに伸びていたら。

自分はすでに、これといって固有の時間性も持ち得ないリゾームのひとつとなる。
この言い方自体が矛盾である。
生身の肉体とか、個人とか言う前に、それでもその個体に「わたしは、、、」という言説が成立するか?

地上にはイミのないお喋りだけが渦巻く。
誰もが人形である。
この頃になれば、自覚した傀儡もいなくなる。
人形のお喋りがいつまでも続く。

そうすでに都市はみな廃墟である。
この映画の都市のような。
そして人形は廃墟の住人。
それなりに魅惑的か?
しかしそれを誰が賛美する?

何かを仕掛けた存在自体も早晩破滅する。
関係性が死滅している。
他者がいない。
鏡だけの世界に発狂しない者はない。

果たして肉体を完全に捨てた素子の存在スタイルは成り立つのか?
純粋な意識と思考はいくら膨大な記憶があっても存続できない。
未知に向けての生の意志ー意欲がなければ。
その根拠は肉体的な現実が前提となるはず。

電脳の中に生き残れるものなどいない。



美味しいバニラアイスに渋めのコーヒー~嵐が丘

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確かに、バルサミコヴィネガーをかけたら美味しい!だが、濃い渋めのコーヒーも十分美味しい。


生乳たっぷりの美味しいバニラアイスに渋いコーヒーをかけて食べるのがわたしの夏場の趣味である。
間違っても、コーヒーフロートではない。
アイスクリームに少しづつコーヒー入れながら食べるのだ。
これを食べていると、食べていること自体を忘れ、本などを読んでいても集中する。
「嵐が丘」が読めている。

最初、構えてしまい、入りがきつかったが今はスムーズに入っていける。
長時間はとても読むことが許されないため、(3分置きにわが家の双子キャシーが超絶的なお話をしに来るからだ)電車に乗っている間と、娘がベッドに入って寝た後の少しの間だけである。
今、丁度一日の中の唯一ほっと一息出来る時である。

最近、バッグに入れた本が変に押しつぶされ、かなり傷んでしまった。
(弁当箱やジャーががさばるので、ビニール袋に御握りにしているが、御握りが煎餅くらいに平たくなっていたことがある)
座れた時は膝の上でゆっくり読めるが、立って読む場合、本がかなり分厚いため、重い。
しかし早朝本を読むということは、頭にすっきり入り、良い読書であることは間違いない。
本当に気持ちの良い時間の気持ちよい読書となる。

イギリスのヨークシャーの荒野に建つ荒れ果てた館が舞台であるが、ここも廃墟性のある、魅力的な場所だ。
見える廃墟である。勿論、キャシーもヒースクリフも辛い目にあうが、館内の描写からイメージすると、たまらない物がある。
特にジョーゼフ爺さんは渋いしこの館になくてはならない存在だ。まるで暖炉か何かから湧いて出てきた精のような爺さんだ。実際に会いたくはないが、本の登場人物としては実に楽しめる廃墟にふさわしい登場人物だ。

いや、この物語について話すのはあまりに早すぎるし、性急に話すものではない。
まず、読み終わってからじっくり咀嚼したい。
今は、ハーゲンダッツ・コーヒーかけに心を没入しているところだ。
そして本を読む。
一口食べる。
どちらも心地よい。

後、30分読んだら、寝よう。
夢で何処かの場面が反芻されるかも知れない。
わたしの中の「嵐が丘」が少しづつ荒野に出来つつある。
少し甘めの「嵐が丘」かも知れない。
このコーヒートッピングアイスを食べながらだと。


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遺跡とは 廃墟に関するメモ

Destruction_of_Pompeii_and_Herculaneum.jpg


廃墟のもっとも極端な例は、「遺跡」か。
遺跡で考えると、よくわかる。
ギリシャではなく
特に、ポンペイ。

守護神は美と恋愛の女神ウェヌスでポンペイは快楽の都市と呼ばれたという。
海洋都市であり、ワイン作りも盛んであった。火山灰による窒素、リン酸、カリウムが豊富であったため、果物は良く採れた。
街は碁盤の目状に舗装された街路に上下水道、商店や居酒屋、共同浴場、共同トイレなども完備され、ホテルなどの建造物の壁面にはポンペイ・レッドと呼ばれる赤の鮮やかなフレスコ画の壁画が良い状態で残されているという。見事な円形劇場もあり、古代ローマ帝国の文化が極めて良い保存状態で残されている。それは、一瞬にして覆われた火山灰にシリカゲルに似た成分が含まれていたことが幸いしたものであったらしい。これは特に美術品に効果を表した。
古代ローマ帝国の極めて高い芸術性と造形力が、ディオニュソス像などにも遺憾なく発揮されている。


発掘当初、積った小さな軽石や灰塵を取り除いていたら、どうやら中に空洞がある。
そこに石膏を流し込んでみたら、何と鮮明に精細にヒト型が現れた!
空洞は、ヒトの鋳型であった。
ヴェスヴィオ火山の噴火によって突風となって吹き込んだ「火災サージ」に一瞬にして呑み込まれ絶命したヒトの姿(思い)が透明のまま純粋に封印されていたのだ。
ただの肉体的な外形が残ったというに留まらない、300度を超える熱風に晒されたのに衣服の細やかな皺まで残っている。
頭部など精密に3Dスキャンされ3Dプリンタで個性も表情も生々しい男性が再現された。

火事場泥棒が気になり、つい先ほど、家のお金を取りに戻ったところ、一瞬の火災サージに遭遇してしまった。高温熱風による筋肉の収縮が体の捩れ一瞬の記憶にも残らぬような身体的苦悶を表している。
優れた上下水道の設備。浴場、トイレ。安全で衛生的な都市計画。行き渡った高度な技術。分業の発達。商業の繁栄。
まさに人間の思いが形としてそのまま残された、遺跡。

ヴェスヴィオ火山がすぐ間近で大爆発を起こしているのに、この2000人あまりは何故、逃げなかったのか。
又は戻って来たのか?
家の財産を守りたかったというのが大きな理由のようである。
家族・友人とのいつもの生活。
西暦79年。日本は弥生時代。
極めて人間的である。
そして人間は変わらない。
快楽、テクノロジー、芸術の追及。

この人間の不滅の営み。


この永遠性。
これが「廃墟」の属性であり、その究極が「遺跡」である。
生々しい場所の記憶だ。
これほどのものは他の何処にもない。




富士山も噴火間近。何故か300年眠っているが。(かつては30年に一度噴火していた)
山体崩壊して跡形なくなるかも。(富士山消滅)
レッドゾーンの人たち避難方法(防災マップ)は押さえているか?
ポンペイレヴェルの被害は十分に考えられると専門家も口をそろえる。
火山灰被害はもう半端ではなかろう。あのガラスの破片群。放射能もまったくの状態なのに。
ライフラインは必ず止まる。
静岡・山梨・神奈川、、、東京だって、、、。
次の廃墟・遺跡候補は、、、。

MtFuji_FujiCity.jpg

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Win 8 ノート届く 待ったぞ!

8bd3cbe3.jpg
*これは、単なる画像です。動きません(笑。

別にそれがどうした、ということは重々承知の上で、取りあえずご報告まで。
わたしがここ数カ月間、次々滅びる家のパソコン群の瓦礫に押しつぶされそうになっている状況はご存知かと。
さらにXPの終焉。
Mac環境の衰退。
外からお招きしたMiniは、眠りの森の”BigMac”状態で、外付けHDとキーボードがお目覚めをひたすら待っているところ。

いまこれを打っているノートは自分の気分で好きな時に落ちる。
グーグルクロームも機嫌が良ければデータを復旧してくれるが、何故かしてくれない時の痛手はすこぶる大きい。
スリリングなパソ生活を強いられる日々(泣。

そこで、今日お目見えの富士通としては3台目ノートは、まあなかなか良い感じである。
最初からガーンでは勿論困る。
タッチパネルは感度がとても良い。これは、フルに使おう。
勿論自分用にカスタマイズが不可欠だ。

いらないソフトを片っ端、デリート!
1TBあるので、使えそうな感じの少しでもあるものは残してもよいか。

システムの起動時間は、ハイブリッドHDのためか速い。SSDのお陰か体感速度にも感じる。
もっとも、体感速度にかかってこない速いは全く意味ない。
使うのはわたしだ。

16GBの純正メモリこれは、あてにしますぞ!
複数ソフトを立ち上げてもさくさく来てほしい。
急に遅くなったりフリーズしたりで、焦るのは嫌だ。
ロウデータの処理も素早くしたい。

パソコンは、結構、メモリがネックになることが少なくない。
特に、バルクメモリは。
メモリーエラーは困る。
だから、ワークステーションは、メモリについては、レジストレイティッドメモリ以外は使えない。

Core i 7も第3世代まで来て省エネ(発熱)も含め熟していた上、コア内のグラフィック能力も随分伸びてきている。
独立グラボがあるに越したことはないが、中途半端なグラボが付いてるくらいなら、なくても用途的には問題ない。
なぜなら、わたしは3Dゲームは一切、しないからだ。全く興味なし。
また、3D画像の制作は、別のパソコンでする。
しかし、いまのところする気一切なし。暇がないため。
最近あまり見ないが、3Dを作成するとしてもノートパソコンがよい。
エルザのグラボが入っていればMayaは動く。
3Dソフトはグラボを選ぶから、少なくともゲーム用グラボでは使い物にならない。
オープンGL系でないとだめである。

フルHDノングレアパネルは今や当たり前スペックであるが、やけに見易い。アイパッドと同様に。
そしてタッチなのだから少し得した気分だ。逆にタッチパネルでなければWin8の意味ない。
Macから流行り出した光学ドライヴの削除であるが、あれは付いていてもらった方がよい。
これは、今のところ出ているあらゆるブルーレイの規格に対応していて読み書きが出来る。
奇麗なパネルで映画を観たい。
書くのが出来るのなら、TVをとも思ったが、録画書き出ししたいようなTV番組もないのでそれはやめた。
娘のビデオ編集して書き出せば良い。使える。

ということで、つい先ほど箱から出して電源入れて少しばかり触った感想です。
タッチパネルが今後どのように活かせるか、ですね。
スペック的に問題はなさそうです。
勝手に落ちるようなことがないノートであることを祈る。


ゴジラ 動く廃墟

ハリウッドゴジラ出ますね 60周年を迎え今度は?
という実に呑気な記事をお気楽に書いていたが、随分昔に書いた気がする。

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”3Dフル実写”というのが何とも言えない。
ここが、すでにわれわれの世界が、仮想と現実などと言う整然とした分離線など引きようのないところにあることが分かる。
しかしもともと世界とはこういう在り方だ。

昔、「ゴジラそっくりだった」というのを笑っているヒトがいたが、「ゴジラ」のイデアがはっきりある以上、巷にそれに似たものがあってもおかしくない。
勿論、ゴジラはいる。

ゴジラのリアリティは圧倒的だ。
どれほどのものか?
西之島の噴火により日々成長を続ける新島と同質の。
放射能により「在り得る怪獣」と噴火による「在り得ない島」。
今ふたつの時間流が交錯する。
60年間、海から海に移動してきたゴジラ。
40年ぶりに噴出する島。
それぞれの固有時に従い存在する。

そもそも
ヒトが作ろうが
マントルから吹き上げるマグマによって出来ようが
精神単位で観ればどちらも同じ生成である。
物質か光の集積による3D映像であろうが。
実在である。
それを見るときは多くはいつだって映像を通してだ。

仮に物質性を纏っていようと、実在感のないものは多い。
地図に記されていようと、脳裏に全く残らぬ建物など沢山ある。と言うか、それがほとんどだ。

この巨大な異物ふたつだけではない。
もっとたくさんの時間流が絡んでゆく。
もっともっと。


ゴジラはミッキーマウスと同じくらい著作権に守られているという。
島は日本の領有権にある。(近海にレアメタル等の資源でも見つかればどうなるか)

どちらも見守られ注目を浴びている。多くの網の目にかかりつつ。

しかし近づけない。
ヒトを撥ね除ける。
こころを惹く。
自然の(観念の)荘厳さを見る。


写真に見る限り、どちらも動く(生成する)廃墟である。
それは言うまでもなくどちらも廃墟にわれわれが惹きつけられる最大の理由である、「死」を色濃く纏っている。


つい今しがた、生長した島がおもむろに立ち上がる、、、。


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THEME:文明・文化&思想 | GENRE:学問・文化・芸術 |

西之島の噴火はいつまで続くのか? 新たな幻想

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以前、西之島の噴火にワクワクした記事を書いた。
やはり幼いころの「ひょっこりひょうたん島」の影響か、「新しい島」と聞いただけで嬉しくなってしまった。
それが何と、ここまで大きく育つとは、すでにひょうたん島の面影もない。
というか、最初からなかったような、、、。

もう笑えないレヴェルである。
この噴火はいつ終了するのか?
実は、もう結構な広さになっており、ヒトは住まないのか気になる。
まあ、火山岩の上に住むのだから、それなりの覚悟は必要だ。

それに火山活動が休止したからと言って、あくまでもそれは休止であるからいつまた噴火するか分からない。
無人島が正解だ。
そうか。
まるで、地球上にある月のような。
(勿論、組成は違うが)
完全に異なる「場所」である。

しかし、それでも、それだからこそ住んでみたいヒトはいないのか?
まだまだ、もっと広くなるのか?
マグマがあと、どれくらい供給されるのか?
生長が止まった先、どんな島として実際、落ち着くのか?

ヒトが住むのは不可能か?
テクノロジーを導入し、発電機能さえあればなんとでもなる気はするが?
次の噴火がやはりネックか?
不動産ととらえれば巨大トマソンか?

火山噴火予知連絡会会長の藤井敏嗣東大名誉教授にこの新島について記者が、噴火がいつまで続くか等聞いたところ「、、、さらに観測が必要だ。」そうだ。

ありそうで、ない現象のようだ。
稀なこと。


明らかな固有の時間流に乗った異物の広がり。
われわれの時間をあからさまに浸食し。
これが止まってある形を定めたとしても。

やはり絶対ヒトとは一定の距離を持った聖地とすべきだ。
この炎に守られた「聖地」
恐らく、「廃墟」の究極だ。
(円盤の新たな出入り口かも知れない!となると極限的なポイント0だ)


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お知らせ

IMG_0303.jpg

当ブログは基本は、備忘録です。
わたしにとって、最も大切なことは、あっと思ったことをまず記録することです。
これをもとに考えます。
最近とくに考えるテーマ置き場のような様相を呈してきました。

ここで考えたことをLowで整理して書いているものもあります。
ですので、古くからの(ようやく一年目ですが)読者様は最近いきなりLowにご訪問くださっているようです。
これも大変嬉しい限りです。
が、こちらもどうかお見捨てならぬよう切におねがいいたします(願

整理した祭、こぼれたものが結構大切だったりすることによく気がつきます。
大概無理やり体系化をしようとすると、ボロボロ溢れ出しますよね。
(別にわたしがしょっちゅう体系化などしているわけではありませんが)。

個に関することは概ねそうです。
こちらはそれらを残しておく場所にもしています。
勢いも大切なので、基本30分以内としています。
箇条書きが最も適当と考える場合はそうしていくつもりです。

なお、Vineの女子高生のような勢いで綴った、「廃墟に関して」はLowの方にまとめました。
とは言え、先に進んだ訳ではありません。
自分の言ったことを整理して課題を確認したところです。
この先をどう進めるかは、現在本人は全く分かっていません。

暫くこのような調子で進めます。
最近更新が早いなと思われている方、単にあまりにも早く書いているためです。
体調も絡んでおります。
勿論日に3記事アップする方から見れば、ノンビリに映ることでしょう。

誤字・脱字などありました際はご容赦ください。
1度必ず見直してアップしますが。



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Vineの女子高生についてひとこと

10.jpg

Vineの女子高生、名前は忘れたが調べる余裕はないので、その女子高生の6秒ムービーで気のついたこと。
忘れないうちに。

まず二ついいね!と思った作品は、テスト前勉強の様子を小・中・高校生の順で畳みかけたもの。(全て畳みかけているが)
最後高校生の、おわた?の入れ方その、尺に斜めに刺さってきた感のある入れ方は神業だった。

もうひとつは、このヒトのよくやる彼氏/友達と一緒のときのそれぞれのパタンから。
遊園地でジェットコースターに乗っているとき。
これは、通常なら(このヒトの場合でも)正面から表情を撮り分け違いを劇画的に誇張して表現することが多い。
しかしジェットコースターのパタンでは、横顔のスナップの比較というアイディアをとった。
ポイントが明確で洗練された、見に来たヒトとの距離もしっかりとれた作品となっている。
これは表現として正面モノと比べ明らかに一歩進んだものであり、このヒトの可能性を感じる。

ただザワザワした仲間内だけ的なものも多いが、迫力は同等にあってもスッキリ楽しめたり、驚くべき瞬間にあっけにとられたり、思わずうまい!と膝を叩いてしまうものもある。Web上に流すのであるし、言葉を超え習慣を越えて届けるには表出衝動に一枚彼女なりのフィルタで普遍性を持たせる必要は生じるだろう。

6秒ムービーでいろいろ言っていることを聞いていると、このヒトは特に何らかの作品を作ろうとかいう意思は実はあまりなく、自分の生活空間というより身体性すべてをこの6秒ムービーに封じ込めようとしているかのようにも思われる。

彼女たちはわれわれよりも自覚しているはずだが、これらの断面は永久に回収不能で、無限ループ再生を至るところで繰り返す。リツイートによる拡散で世の果てまで飛び散ってゆく。
正直言ってわたしにはとても出来ない。
人類はいよいよそういう段階に入ったか。しかも6秒という速射砲に自身の断片を全て込める。
そして全ての地平に向けて乱れ撃ち。人種が違っても意味は、きっと上の二つなどは正確に伝わるだろう。

しかし全ての自分の場面を撮ろうとする衝動とは、またそれを他者と共有したいという思いとは。
自分の存在確認として。(何を書いてもわたしは死に吸い込まれてしまう)
これについて傍からとやかく詮索することでは、ないように思う。

「朝青龍に似ているっていつも言われます。」と語っていたが、朝青龍の人気の元はあのエビス顔にある。
それに似ているということは、人気に関しては大変なアドバンテージを最初から持っているということだ。
彼は相撲は滅法強いが土俵際で相手に対する非常な仕打ちや日頃の乱暴者の立ち振る舞いなどから普通人気など最も出ないタイプである。それが、相撲界1の人気力士でいられたのは、あのエビス顔による。それ以外に考えられない。
しかし、朝青龍に自らなってしまうともう広がりがない。あくまで朝青龍に軸足を置きながら前田敦子になってみる。
tweetで最近あの子、前田敦子に似ていると拡散が起きれば、これまたひとつ面白くなる。
すぐに朝青龍にもどりこんどは違うものになりつつ、先に挙げたジェットコースターでの横顔スナップ(まさにあれが前田敦子に他ならない)的な普遍性ある表現を打ち出していけば、アフリカやアラブなどでも人気に火がつくかも?


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自動運転ー2

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Googleが何やら自動で走る車をテストしていたときは、その社員たちの楽しそうな様子やわりとあっさりした試作車を見て、まだうんと先の技術を今からワクワクして試しているという感触と、何もないところに道を作るぞ、という開拓者精神を活き活きと感じたものだった。しかし政府に後押しされて公道実験を意気揚々とやっていたところをみると本気だぞ、と思った。

それが、ここ最近2020年までには「自動運転を実用化」するということで、事態は一気に深刻味を増し、世界の各自動車、Intel等の半導体、GoogleをはじめとするIT、そのほか、各機能をより正確・スムーズに連携する技術を提示しているベンチャー各企業がギスギスした感じで一斉にこれに参画している。
日本のベンチャー企業「ZMP」は、車に搭載されたセンサーやカメラの情報を解析し、ハンドルやアクセルなどを最適に制御する技術を独自に開発して注目を集め、すでにIntel下に入っている。

少し前に、Googleが学生の部活のような感じで行っていた(九州工業大、北九州市立大、早稲田大の3大学が丁度そのころのGoogleを思わせるような感じで開発を進めているが)、自動運転がここまで現実味を帯びてくると、流石に雰囲気も重いし暗い。関係者は皆目つきも悪い。無事故の夢を現実に、とか言うものではなく、うちが主導権を握らねば一大事とばかりに激しい火花を散らしている。

どういう形で主導権をとるかの駆け引きがいよいよ激化しているが、Googleの先駆性は否めない。ヒトの生涯運転距離50万キロ走って無事故の実績は大きい。自動車事故0となれば、それにかかってきた医療費も0。その経済効果は凄まじい。「人は自動車運転に向かない」と以前からGoogleは言ってきた。確かにそとおりだ。しかし、各自動車会社はGoogleとの連携・共同開発に対し大変慎重である。主導権を握られることを大変恐れていることが分かる。単なる駆動部分だけつくり頭脳はGoogle(AI)では、もう乗っ取られたも同じ。これまでも車載情報システムではGoogleはスマフォと車の連携を達成してきた。が、それはエンターテイメント部分である。Appleも参入を表明していたものだが、ジョブズ亡き後、生彩が全く無い。車すべてのコントロールを任せるAI搭載はホンダ、日産はきっぱりNoと言っている。どこまで自社開発を推し進められるかがポイントともなる。Toyotaとホンダはロボット技術の蓄積がある。いよいよアシモの活きる時だ。しかしGoogleとノータッチですべて実現できるものとは思えない。熾烈な駆け引きは、実現に向かうに従い激しさを増すはず。

今回の技術開発は、もうかなりのレヴェルまで、Googleが進めてきたとは言え、やはり自動車の駆動ベース、半導体、情報提供のIT、それらの連携をいかに効率的・正確に行うかの制御系技術をもつベンチャー等の優れた技術力を結集する必要がある。完全な自動運転の場合は勿論。だが、交通渋滞、縦列駐車などでは、特殊なITなど用いずベンツはそれをすでに自動化している。まずどの程度の自動化にするかその段階も当面複合的に並列的に実施されていくことになるはずだ。しかし流れは最終的に完全自動化となる。事故時の対応などにおいては、“誰がどのように運転していたか”を記録するイベントデータレコーダが不可欠になるし、その統一規格はどこがつくるかも問題になるだろう。一般の交通法規の適用はあくまでも運転者が主導を取るときだけだ。

今これだけ様々な企業が参集しているが、上に乗る頭脳も幾つかの派閥になるのか?iOSとAndroidみたいに。そうなっていくとこれからの車の価値はそれで決まる。乗るソフトで選ばれる。産業界に根本的な変革が起きる。車のハードは二次的な価値しかもたない。

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6秒ルール Vineとは?

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Vineとは、6秒ショートムービーサービスで、主に女子中高生に人気がある。
見ると、面白いものが流行っている。
人気者も出ている。
大変な人の集まりようだ。
おや、企業ものもあるぞ。
流石に森永ものは丁寧な作り込みだ。
しかし女子高生のも勢いは圧倒的だ。すごい覇気だ。生きる力だ!
何と、米Twitterが新興企業のVineを買収し、2013年1月に提供開始したショートムービーサービスだそうである。
すでにユーザー4000万人だとか。
これでは情報弱者と呼ばれても仕方ない。

そういうところからやってきたのか?
と言っても、われわれにとっては、Web上に忽然と現れるものであるから、どこのどういうものということもあまり関係ないことが多い。
気がついたら女子高生が猛烈に使いこなし17万人をファンにしていた。
ブランディングできましたな、オネーサン。
売り込めますぞーっというところか?本人にその気があれば。
しかし、無限ループ再生しているではないか!
確かに広告には良い!
イメージを植え付ける力は確かに。

すでにYoutubeやニコニコ動画がこれだけのシェアを誇る中、Vineの売り物は、その6秒反復にあるようだ。
何か無意識に訴えるに効率的な尺なのか?
それよりまずインターフェイスによるところだ。
イン&アウトのし易さが尋常でない。
アプリを撮影モードにして画面をタッチしている間だけ録画が行われるというシンプルさ。
アップもその状態から出来るというもの。
6秒であるから授業中に作成・アップという猛者もいるはずだ。
出来栄えを再度チェックして、次作にしばし思いを馳せる。
さらにもう一本。うんなかなか食付きが良い1
先生は一切気づかない。いつだって先生の反応は一番遅いもの。だから平和なのだ(場合によっては)。
見るのも作成・アップもほとんど無意識で出来てしまう。
女子校生たちの携帯に特化した指使いを一度でも見たことがあれば、Vineなど無意識レヴェルの操作であることは疑えない。

そして、先にどういう類のものかで、米Twitterが新興企業のVineを買収という経緯を述べたが、まさにそのため、この
Vine、Web上からツイートする事も出来る。
しかもTwitter経由であるから拡散力も凄い。

女子高生が面白いことすれば間違いなく受けて、拡散する。
その何か面白いことする時間が6秒が丁度良いようだ。
感情の動く時間、発想の組まれる時間もそのくらいらしい。
よく考えたものだ。6秒ルールだ。
ちなみにわれわれの給食で、床に誤ってパンを落っことしたとき、食べられる間が5秒だった。
われわれはそれを5秒ルールとよんだ!

わたしは落ちたものは一切食べなかった。お腹が弱かったからだ。それで死んだらあまりに可笑しすぎると思ったからだ。5秒でコッペパンが食えるか?!しかし食っていた猛者はいた。

6秒というのを少し考えてみると、ヒトの感覚を開放し工夫を凝らした一発芸をするのにこの時間が最適ということだ。間違いない!
これからそのうち、相当工夫された思わず唸ってしまうようなVine作品が次から次へと女子校生たちから生産されていくに違いない。
何でも時間こそが基本だ!時間を意識しないものには、「見えない廃墟」化が進行する。
時間を緻密にディテールまで使い切るような創作、これをいろいろなところで観てみたい。
また思いつくことがあるはずだ。


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3Dプリンターますます流行りそう

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昔々にMAYAで作った3D”鉄人”です(笑


まず、パソコン上で設計図さえ引いてしまえば、形はいかようにでも作れてしまう。今のところ素材は限定されているが、試作までが正確に出来れば問題ない。いずれは、プリンタで扱える素材自体も増えることだろう。
これまでは自動車製造におけるプロトタイプ制作に使用されてきたことは記憶にある。
現在3Dプリンタそのものも小型は16万円台(普及版)から購入出来てしまう。資金がほとんどかからず、安価で出来るところが急速な普及に拍車をかけるか?

一回の実行で相当緻密な例えば、チャイルド・シートなどが見事に出来ている写真を見た。
出来たものを実際に検討し、もう少しここを、と言うところがあれば、プログラム上のそのポイントを直せばすぐに改良版が出来る。または、全く違うアプローチものもすぐさま作れる。

銃もスポーツカーも家も出来てしまうと、ここのところニュースにも事欠かない3Dプリンター。
使用法によっては、これからの物作りの奥行きが非常に広がることは間違いない。
銃については、作った当人が逮捕され、家については作った中国企業は大変得意になっているが、強度面での不安がささやかれている。しかし一軒に50万かからないというのは、お金持ちの犬小屋より安いではないか。
使い方(目的)がもっと洗練されて来ると気の利いたものがどんどん出てくるはずだ。

いずれにせよ、資金力のない小さな企業がアイデア次第で伸びる可能性がもてることは大変よい。
反面、外注を受けて金型作りを引き受けてきた企業は、発想ー試作までが安価に直結していく流れの中では根本的にその技術が他にどう応用できるか考え直さなければならないところに立たされた。いろいろな問題は出てきそうだが、精確に効率よく素早く安く作るという流れは加速する以外にない。われわれが乗っかってきたテクノロジーは今すべてパソコンと繋がり、まだまだ大きく拡張していく。

すると、パソコンープログラムがらみで精確さ・効率・速さ・ローコストを実現してゆく方向性をつきつめてゆく流れに対しその方向性から不可避的に生じてくる人間への様々な(ヒトと機械の関係に生じる)問題に取り組む仕事がとても有用になってくるはずだ。後者は勿論、教育にも組み込まれ、さらに大きな広がりももつ。
ここにも注目していきたい。

わたしがこの3Dプリンターにおいて、特筆すべきところは、やはりプログラムによる自在性だ。つまり速度もそうだが、何より効率性だ。
先ほどの金型の例で言えば、金型の試作品を外注に高額で出したとしても、一回では製品化出来ることはまずない。
何度も試作品は作り直される必要がる。さらに異なるアプローチでタイプの違うものもテストしたい。
このような必ず起きるパタンに対して、安価に導入できる機材をもとに、パソコン・プログラムの書き換え(またはパタン変換)で幾つもの精確な試作品を直接、何パタンもすぐに作れることが、どれ程合理的で経済的であるか?!

というレヴェルではなく、あきらかにこの「想い描くこと」を「想い描いたもの」へ、の実現の直接性と速度は、われわれの世界に対する感性を間違いなく、変革する。これまでのテクノロジーの、工程を経た重苦しい手続きがここまで最小化されると、まるで「思ったもの」はすぐに「実体化」するんだという感覚になる。それが「共通観念」になる。テクノロジーという手続きそのものがいずれ不可視化するだろう。誰もが、”のび太”化する。「人間」より遥かにマシだが。

これも先に述べたが、拳銃の制作プログラムが無料でダウンロード出来るようになっている。
今回、youtubeなどに自慢して投稿したから、たまたまひとり見つかったが、実際制作している人間はそんなものではなかろう、3日前のニュースですでに6万件以上のダウンロードが日本だけであったという。
これに似たことはこの先いくらでも起きてくるはずだ。(今でも想像できることはある)


テクノロジーの本性はニュートラルである。
テクノロジーに価値は全くそぐわない。
価値意識は、意識を持つテクノロジーを使う主体がもつものである。
とりあえずヒトがそれを負わなければならない。
テクノロジーがことごとく身体化されていこうと。
内省意識を最後のヒトの砦として。
イルカたちは賢くもそれを見越して海に戻ってしまっているが。
ヒトにはこの流れから逃れる術はすでにない。


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何故か自転車を急に買い換える

Ordinary_bicycle01.jpg

昨日のことだが、既視感にも似た経験を味わう事となった。

自転車に乗り、医者の予約取りをしにいく途中であった。
家に帰り、そのまま着替えもせず急いで出掛けた。娘の風邪の診察であるが、その病院は何故か予約制がない。私の帰宅がすでに、病院の夕方の診療始めに食い込んでいた。早めに行って診察券を出しておく必要がある。子供は待てる時間に限りがある。そこの待合室はいつも阿鼻叫喚なのだ。

もう一年乗ったが全く愛着の湧かない自転車をそこそこ飛ばし、郵便局前に差し掛かったとき、わたしの子供の頃の悪夢は突然、蘇った。

すぐ全方右側を走っていた初老の男が何の確認・前触れもなく、いきなり、左に直角に左折したのだ。わたしはこれで子供時代三回かなりの怪我をした。今でもその連中については殺意を覚える。(いづれも50~60の男)

それ以来、随分なかったことだが、何十年振りに、全く同じ目に遭ったのだ。

まず至近距離での左折は回避不可能である。もしその気配を漂わせていたら(速度を緩める。後ろを窺うなど)、こちらは前持って右側に車輌を移している。しかしそれが全くなかった。
急ブレーキを掛けつつ、左にハンドルを切り、郵便局の何故か激しいトゲトゲのあるコンクリの塀に体と車体を押し付けてどうにか倒れずに停車した。ちなみに奴はこちらにもたれ、何の衝撃も食らってない。

わたしは左手小指、左膝打撲と創傷、及びスラックスの膝部分が裂け、腕時計のガラスに一本傷がさっと、入っていた。

わたしはすかさずその男を睨みつけた。
咄嗟に、立ち去れないように道を遮って自転車を横向きに止めた。

すると思いも掛けない、と言うか思った通りの言葉がその者から発せられのだ。
「大丈夫ですか?」黙って睨んでいると、「平気ですか?」と続ける。
これだけは言ってはならない、まさにその言葉がぬけぬけと放たれた。
ニヤニヤしている。
何なんだ?これは?

「大丈夫なわけないだろ!」
「急な進路変更は大変危険だ。」
これだけは声を大にして言った。
普通に声で。
「最低限の注意義務を怠ってる。」
ニヤニヤして、思考停している。
「どうする?」とスラックスを見せつつ言うと、「あーズボン破れてますね。」
「やぶれてると言うことは、どう言うことなの?」
ニヤニヤ。
「医者にこれから行くから。」
「医者に行くんですか?」
ニヤニヤ が貼り付いたままでいる。

「もういい。行かなければならない。」
実際こんな所で時間を潰していられない。
第一顔を見たくない。
膝と小指がかなり痛い。

走りながら思ったが、まさか「近頃の若いのは、、、」なんて御託をならべて日頃酒飲んでるわけじゃないだろうな?お前にそんな資格は一切ない。
65前後に見える。
その年までどんな風に生きて来たのか?

一言ちゃんと謝れば、それで済むことなのに、それが言えず、死んでも言うべきではない、「大丈夫ですか」、を言いニヤニヤ笑って思考停止して突っ立っているだけ。

こちらは、スーツ代と治療費の請求をしてもよい。名前、住所、電話番号を聞いておいて。しかしそんな暇が第一ない。暇があれば着替えくらいはしていた。それに関わり自体持ちたくはない。

そもそも自分から何もするつもりもない。あの物体は。

どうするつもりも何もない。
何もない。
畜生以下の存在だ。
情けない。

この時、兼ねてからのわたしの自転車に対する踏ん切りも付けられた。
医者の後にそのまま自転車屋に行き、その自転車を処分し、ずっとマシな自転車に買い換えた。
実際安物だったため、ブレーキが心もとない。よい機会になった。

今回のデジャヴは自転車買い替えの契機であったか?
それにしても、自転車は惜しくないが、スーツは痛い。結構気に入っていた上に、自転車より遙かに高額だった。

が、スペアには困らないし、どうでもよい。

実質上のよいお買い物の日となった。

自分から何らかの効力ある言葉がああ言う場合でも出ない、と言うのはどう言うことか?どういう場面で他者に対しまともな言葉が発せられるのか?おまえは後何年生きるのか?現時点でこんな体たらくで「大丈夫なのか?」これで日頃偉そうな事を言ってるのならもう、どうしてくれよう!と思うが、もうどうでもよい。

わたしは、その老人が廃屋のなかに、こちこちに固まり白んでゆく幻想を見た。



とりあえず愛着の湧きそうな、良い自転車が手に入った。よかった(笑



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われわれは、どこへゆくのか?

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私はしょっ中、電車を乗り間違える。今日もだ。通勤で普通乗り間違えるか?だが、見事に乗り間違えた。
少しでも時間が違うと、当然の如く同じホームに違う行く先の電車が止まっている。調べて乗らない時は、大概とんでも無い所まで連れて行かれてしまう。ひどい時は、気づいて降りた所から、違う方面に不本意ながら旅にでてしまうこともある。
わたしがこの世で1番苦手な物は、恐らく電車だ。

良く全路線の駅を諳んじられる人がいるが、尊敬はしないが、凄いとは思う。これまでにその人に聞いて、電車にスムーズに乗れなかった事は無い。その人と話すことは電車以外の事はないが、乗り換え案内より的確である。多分こちら経由で行くと今は混んでいるとか、途中で腹が減った時、ホーム上で駅蕎麦が食べられるのはこのコース、まで教えてくれる。そこは大変嬉しい。

何故嬉しいか?
わたしは大学時代、良く駅蕎麦を食べていた。3年の時に始めてお腹が空き過ぎて、えいっというかんじで蕎麦屋に入って山かけ蕎麦を食べてからというもの、学校帰りには食べないと気が済まなくなってしまった。
挙句の果てには、電車に乗るとすぐに山かけ蕎麦の事が頭に浮かぶパブロフスドッグ状態になってしまった。美味しいといえば美味しいと答えるのだが、それはある種、幼児的なこだわりかもしれない。

帰る途中、二つの駅で箱根蕎麦を食べてしまったこともある。一杯食べてはみたものの、電車に乗ったらまた食べたくなったのだ。
恐るべし。ここまで行くと重傷だ。

しかし、わたしが二杯目に臨んだ蕎麦屋で、ハイお代わり、と言ってその場で2杯食べたお父さんがいた。予め券を2枚買っているのだ。しかも、2枚目はポケットにしまっておいて、おもむろに出して2杯目を注文するのだ。そこが何か上級者ぽかった。

話は電車に乗り間違える事だった。では、道には迷わないのか?
と聞かれると、迷う、としか答えない。
実に豪快な方向音痴だ。
威張ることではないが、尋常ではない。
iPhoneはいま4台目だが、最初のiPhoneから道案内は常に使っていた。特に出張にそれがなければ、一日中彷徨ってしまいかねない。
今でも使う機能はそれがほとんどと言ってよいほどである。

しかし基本的に散歩は好きで、その速度でないと見えてこない景色もある。その時しかないdetailもある。散歩は、何処に行かなくてはならないと言う決まりはない。と言うか行く先や道の決まった散歩など始めからしない。

だから徒歩で何処かに何となく行ってしまうのは大好きだ。途中、おなかが減れば、食堂などで食べて、決してお洒落なレストランではない、喉が乾けば、自販機のジュースか水だ。これは結構、快感である。

こういう行程でトマソンにも出逢う。ブロックの隙間から思いの外綺麗な花が咲いている。秘密の贈り物のように。
それが嬉しいし、面白い。本来のわたしたちの生のありかたを思い出のように思い出す。
幼い頃の出来事の片べんに不意にこそばゆく触れる。
心地よい風に当たりながら。
タンポポのタネが飛んでゆくよ。

だが電車はそれがない。あっていようが、間違っていようが、必ずはっきり何処かに強引につれていかれる。当たり前だ。が、面白くない。


面白くない。
また乗ってゆくのだが。

間違っている。
正しい行く先に行ってしまうのは。

間違っている。


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廃墟に関してー2

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最近、パソコンの廃墟化(悪い意味で)が進み、FC2ブログを書いている最中、急にパソコン自体が落ちることが頻出している。昨日、「廃墟に関して」を9時に書き始め95%行ったところで落ちた。起動しなおしてブラウザ上で復元させようとしたが、データは戻らなかった。FC2がBloggerみたいに1字づつ自動でサーバー保存してくれたら、落ちても何の支障もないのだが。FC2は保存してしまったら、そのままアップされてしまう。だからワードに書いてそれをアップ時にペーストする以外にない。が、めんどくさくてそれをやらなかったときに、昨日二度目のダウンが起き、15時から書いたものがすっ飛んだ。やはり復元も出来なかった。
であるから、昨日アップしたものは22時半から書いたものだ。0から書き直したので。もう朝に何を考えて書いたか忘れてしまっていた。最初書いた分量の75%くらいだったので、だいぶ書き漏らしたはずだ。全部で2時間以上は空費した。
だが、その分はまた改めて書けばよいと思う。
肝心なのは、時間だ。

それ(建造物)が本来の役目を遂行出来なくなり、放置されるようになったとしても、それで「廃墟」になれるわけではない。「廃墟」としての品格に欠けたものは、最初からこの世に存在しなかった物として、完全にその痕跡もろともその名とともに永久に抹消されるだけのものである。記憶も消去される。
わたしがかつて入院したことのある病院は廃墟と言うより、単なるお化けスポットとなり、中に落書きをしこたまされた後、完全に解体され今は跡形も残っていない。そこにはずっと以前からあったかのように違うものが建っている。何が建っているかは、記憶にない。その付近に住んでいる人々も、かつての病院の名前を知っている人はいない。わたしも勿論、覚えていない。いつだったかそこに病院があったと知っている人が数人は残っているくらいの現状である。ヒトの延命のために存在した空間であったはずだが、自らは短命に終わった。もう誰にも思い出されることは無い。
「廃墟」と暗黙に認定され、廃墟として新たな時間を湛えて超然と存在するものは、いったいどこが違うのか?

昨日書いた、診察室も悪い意味での廃墟(他に何と名付けるか)であり、その中ですべてが間延びして逝く時間が支配する空間であり、あの部屋から何かが消失していく思いがした。いや、はじめから何もない、時間の締め出された耐えがたい空間であったのだ。例え毎日使われている部屋であっても、何らかの大変な欠落がある、何かの浸食が起きていることが分かる。空間の立ち腐れだ。そんな空間が都会のビルでは夥しい数に膨れ上がっているはずだ。わたしもかつてその一室にいた。

以前、ここで植物の無意識的な生長の話を書いたときに、高齢者のかつて一人住まいしていた空家のことも併せて述べた。これは植物に浸食されてつつ廃屋になっていくが、「廃墟」とはならない。
何というか、固有の時間性を宿す事が出来ず、ゴミ溜めに置かれたゴミ同様にそれは内側の細部からひたすら朽ちてゆくのだ。湿気や日照り、微生物や虫たちの活動も相まって。外部のエントロピーの流れに乗って逝く。

「廃墟」として屹立するものは、違う時間を保有する。
空間的にも何か圧倒する威厳を放つ。コンクリートでできていれば残るというものではない。病院もコンクリートだ。しかも、あの病院は単に経営者の問題で長く破綻後も長くほっぽっておかれた。
が、いっこうに廃墟になる気配はなかった。

ここで言葉の混乱と明らかな不足がある。急に廃墟について語りだしたため、所謂、「廃墟」と廃墟になりそこなった廃屋のようなもの、さらに日常使われているのに、すでに悪質な空間性を宿してしまっている場。そのへんを明瞭に分別する概念。それからこれらの関係やもっと一般化するための概念の導入がないと、この話自体が先に進まない。
要するに項が足りない。

そもそも何でわたしは、廃墟の話をし始めたのだろう?
それすらも、忘れている。
良いことだが(笑


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廃墟に関して

廃墟は、それ自体の独自の美を纏っている。
恐らくそれが廃墟となり新たな固有時を宿してから。
それはなにも風化を待つばかりではなく、
いつもの日常にもワームホールのごとくに思わぬ場所に存在する。

yuen35.jpg
あからさまな廃墟にも、自分が以前それに関与していた――子供時代遊んだなどの記憶の沁み付いた――記憶(ノスタルジー)のある様相のはっきり変化したことを知っているもの。ただただ歴史の見えない暗黒の恐怖を覚えるものなどがある。
enhanced-buzz-2143-1364331165-9.jpg(大きくするとその不気味さが窺えるはずです。)
追憶と物悲しさや恐怖さえ感じる畏れの感情を呼ぶ廃墟。
これらは、時間のありかたの問題と言える。その永遠性と凍結。

1bdafd3d.jpg
廃墟は、その多くが写真でしか観ることがかなわない。
もはや近づけない。
入ることが出来ない。
危険である。
写真に撮るとなると、様々な技法の介入する余地がある。
それをあまりに華麗に撮ることはかえって危険である。
廃墟自体の時間性その美を隠蔽してしまわないか?
ファンタジーにしてしまってはせっかくの廃墟がもったいない。

廃墟とは面白い。
われわれのなかに廃墟を希求する意識は確かに存在するようだ。
何気ない写真にもそれを感じとり、絵にも廃墟を描いている訳ではないのにそれをはっきり嗅ぎ取る。
03Delvaux0713.jpg
ポール・デルボーは何処に行っても廃墟だ。骸骨も一緒だし。

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キリコについても、ヒトすら廃墟――形而上学的人形だ。

Friedrich7.jpg
フリードリヒこそ最高の廃墟画家だ。彼は廃墟など描いてはいないが、描く絵すべてが廃墟だ。

その時間性からか。つまりその永遠性から。
映画においても、タルコフスキー映画には廃墟しか出てこない。
民家や教会、城ばかりではない。
宇宙船や惑星までも。
タルコフスキーこそ廃墟映画作家だ。
彼の時間の扱い方こそ、恐らく廃墟制作の鍵となっている。
廃墟とは何か。廃墟の何にわれわれは惹かれるのか。

先に述べた何気ない日常に潜む廃墟とは、わたしが最近休日の歯科治療に行ったところがまさにそれであった。
そのメディカルセンターの歯科治療室がはっきりと廃墟に思えた。
待合室からして、何か異様な雰囲気であり、休日という特殊性、椅子等の物に対して広すぎる空間。
当日、10人程度がわたしの前に待っていた。

これは待つぞと覚悟を決めていたら、思いのほか早く通され、診察室はというと、さらに広くガランとしていた。
6つの診療シートが無駄に広すぎる間隔をおいて設置されており、そのならびに手洗い場や血圧を測る場所まで組まれていた。その上、実際に使われているのはどうやら2席で、後の4つは使われた形跡のない、ビニルが部分的に巻かれたピカピカの新品機器のある席である。
つまり、殺風景な広すぎる部屋のほんの一部のみを使い休日治療が繰り返されているようだ。

しかも、輪番で土曜日に回ってきた医者2人と看護婦1人。
わたしがその部屋にいる間中、誰もほとんど口もきかなかった。最低限の指示をボッソっと。
恐らく週日の自分の病院では、和気あいあいに冗談なども言い合いながら仕事をしているのではないか。
ここでは、たまたま初対面同士であり、休日のため話す気にもならない、そしてこの奇妙な空間。
そんなせいもあるだろう。何かに耐えるように医者たちは秘密の任務を果たしているように見えた。

もちろん、わたしも大学病院の歯科でワンフロア50も席のある治療室に通っていたことがあるが、部屋に妙な隙間もなく、シートや機材に対しての相対的広さは微塵も感じられず、第一大変部屋中が喧しかった。
活気があり、日常空間以外の何でもなかった。

終わってから、ふとたまたまもっていたコンデジでこの異様な空気漂う空間、このエントロピーの行きついた果ての空間を撮りたい衝動を覚えた。しかし診察室をカシャカシャ撮るのはさすがに出来ないと諦め、挨拶して部屋を出た。
背中に何の声も返らなかった。

多分、空間配置の偏奇と時間性の緩みが心理的・精神的な廃墟への契機となってゆくのでは、
あの部屋が 何というか廃墟の初期の断面を見せていたのでは、と思う。
帰路につき漠然と気づくが、恐らくあそこのだれもが、すでに動かなくなっていたように思われた。写真はやはり撮るべきだった。Seasongわたしの”トマソン”専門ブログに是非投稿したかった。その光景を。廃墟の内面を。
これに関してはもう少し関わってみたい。生(なま)の時間性に出逢う廃墟、それに通底する日常性のズレに潜む廃墟性。


最後に外せないのが、ジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージの廃墟の版画。
まさに極め付けである。
0025600001MM.jpg
廃墟こそわれわれにとって重要な言葉である「時間」への感覚・認識を深める場所となるはずである。


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言葉について

まず、あまりに美しい写真を一枚ご紹介させて頂きます。
ここからどうぞ  
”色彩のメロディ~妖精に会える場所 終章~イェイツ” エストリルのクリスマスローズ より

ここにダイレクトに貼ってしまうと、そぐわないので、こういう形にしました。

”Low”という絵画・写真・音楽ブログで最近、写真についてひとこと書いていますが、写真は力のあるものは違いますね。
ことばが同じことばのように見えてまったく力が違うように。
次元が違います。
写真も。
そう、わたしの言いたいことは、まさにそこです!
次元が異なる。
隔絶しているということ。
この先、何万年が過ぎようとその溝は全く埋まらない。
埋まる溝などもともとなく、単に次元が異なるのであるから。
水平に移動しているものと、垂直に直行するものとはいかなるもの(意味)の共有もありえない。


日々垂れ流されて行く、くだらないことばの羅列。
悍ましい限り。
見たくないのだが、数が多すぎてつい目に入ってしまう。
そこになんでこんなに人が集まっているのかとまた驚く。
類は友を呼ぶのだから仕方ない。
しかし世界はことごとく言葉で出来ている。
これでは単なるゴミ溜めの量産だ。

特にわたしが許しがたいのは、なにやら感動の名言染みたフレーズで語尾を揃え、口当たりよく並び立てて垂れ流しているサイト。
内容は実にくだらないの一言!

例えば、「本を読むと、知識が増える  節約をすると、残高が増える  ポジティブ思考だと、笑顔が増える  相手を大切にすると、仲間が増える  ~省略~  色んな努力をしてそれが報われると、自信が増える  これ、人間力の増やし方。」(省略は同様のことがつらつら述べられているだけなので。)

これをありがたがるセンスがまずもって信じ難い。

暗澹たる気分になる。

まずここに思考の一片でも見出せるか?!

本を読むと、知識が増えるのか?おたくは、知識とやらを増やしてクイズ番組に出て大金でもせしめるつもりなのか?
何に使う知識だ?
そうか、生活に役立てるハウツーを増やそうということか?
取扱説明書を読もう程度のことをいちいち得意げに標語めいたものにするな。

本を読むことは、私にとっては生まれてしまったがために不可避的に纏ってしまった言葉の数々をすべて相対化して洗い清める行に似ている。身体を身軽にするための、魂を浄化するための精神運動を活性化するための行為である。
それ以外の「本を読む」などありえない。
わたしは取扱説明書を読む程度のことを「本を読む」とは呼ばない。(まさか字面通り取説と取っていないよな)

節約をすると、残高が増える。笑える。草野心平風に語尾を揃えてリズミカルに行きたいのね。
気持ちは分かるよ。増える、で連想できるものを機械的に次々に加えていく。
そう、ここに一片の思考も含まれてはいない。
自堕落なことばの垂れ流しが始まる。わたしの殺意が高まる!

ポジティブ思考だと、笑顔が増える。ポジティブ思考って何?そもそも、思考なの?ここが全く分かっていない!
思考は、思考でしかない!思考は純粋に中立したそれ自体の運動であって、そこにはいかなる形容や主格があってはならない。
そうでないと、思考にならない。
思考している時にそもそも、「わたし」はいない。消滅している。
おたくが指しているのは、気分だろ。しかしこれはウヤムヤには出来ないな!

相手を大切にすると、仲間が増える。よかったね。お仲間を大切にしてください。
同じ言葉を持つ者は、同じ現実を見る。
それで完結する。
世界は鏡である。

色んな努力をしてそれが報われると、自信が増える。ここで思わず吹き出してしまった。
随分自信家なんだな。人にこういうことをぬけぬけと言えるんだから。
さぞ、努力を重ね大変な自信をつけてきた人なんでしょうね。
わたしは努力で何かをしたことが一度もないから、確かに自信はない。が、確信はある。それも絶大な!

これ、人間力の増やし方。呆れてものも言えない。が、一応言っておく。
何が人間力だ!バカも休み休み言え!
人間は単なる前提に過ぎない。
いかに人間を脱却するかに生きる価値が生まれる!

以上。



本当の言葉があるところに本当の安らぎがあります。
美しい写真も生まれ、絵もそうです。勿論、音楽も。
しかし状況は悪化の一途を辿っています。


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祝、一周年♡ ~数少ない貴重な読者様のおかげです!

本当にありがとうございます。
本日で当ブログも丁度一年目を迎えました。
振り返ると、毎日の更新などとてもとても、二日に一篇が精一杯。
先月になって、おう!もうすぐ一年経つではないか!と気づき、月30記事は何とか書きました(笑
これもみな、一重に読んでくださる皆様のおかげです。
また応援くださる方のおかげです。
感謝しております。

LowとMooonBreakは2ヶ月遅れで始めました。これまた、連日更新はハードルが高く、戸惑いました。
SeaSongはほとんど休業状態です。ここの更新はあくまでも偶然の出来事にかかっています。
ミモリスウェーツは、不定期にわたしの大好きなスウェーツのご紹介。
月に5回更新を基本としています。
ただし、わたしの持つブログの中では、最大のアクセス数を誇ります。曲がりなりにもトレンドものを扱っているので(爆 ホントか?


このブログで一番読まれた記事は”スヌーズレン”の4記事連載です。
やはり何らかの「情報を一義的に伝える」ものがアクセスを集めるようです。
実は思想を語ってもいますが。現実的に役立つことを建前に具体的な紹介を前面に打ち出しました。

わたしとしては、身近な場所から地味に死想、、、思想を語ったものを読んでいただけると一番嬉しいところです。元々不可避的に何からも思想は読み取られてしまうものですが、ハウツーものやトレンドものなど世に溢れかえっているものより、ある意味、価値のあるものが書けたらと思います。

これからも、わたしはわたしの身体が受け取ったことから、書くべきものを書いていく所存です。
当ブログでは思考の介在しない愚にもつかない言葉の垂れ流しだけは断じてしません!
それがわたしのモットーです。


今後とも宜しくお願いいたします。

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