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春なのに、寒い。 ~「嵐が丘」と「壁」

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こういう季節は、やはり読書ですね。
読書は秋だろう、という声が聞こえてきますが、春の方が読書に向いている気がわたしはします。
何故なら、秋は、食べ物がおいしい。
気づくと食べている。
食べたら、眠い。
胸にでかくて重い「ヘーゲル」抱いて昼寝していても仕方ない。
大概、こんなときに見る夢もろくなものではない。
胸を圧迫された関係で見る夢だ。
多分苦しい夢だ。


今、読まなければと思っている本がまず、二冊あります。

師匠からのおすすめもあり。
ひとつは、阿部公房の「壁」、ちょっと、書庫を探してみます。
もうひとつは、わたしに読み切ることが出来るか?!「嵐が丘」です。歴史に残る圧倒的な恋愛小説であると言うだけでたじろいでいましたが、ここらへんで読んでおかないと、読む機会を永遠に逸するかも知れませんので、何とか読みたいと思います。

そう言えば、大学の英語の授業で、シャーリーかエミリーかどっちだったかのテクストをもとに授業をやったことをたった今、思い出しました。違ってるかも知れません!?
なんで、題名を覚えていないのか不思議でならないのですが。作者を覚えてなくとも。
それだけいい加減な学生だったのです。
教授から渡されたセリフをすべて暗記しておいて、前に出て男女でセリフのやり取りを(暗唱で)一場面やることを順番で進めていたものです。
ちなみに、わたしの番が回ってきたのは、長い夏休み明けの最初の日でした。
しかしその場面のセリフはすべて覚えていました。
覚えていることすら忘れていたのですが。
相手の女子もそうです。
掛け合いが結構気持ちよかったです。ふりも適当につけてしゃべってましたので(笑

普段から楽しくお気楽なリズムでやっていたからか。
前日に緊張しながら覚えていくより良い場合があることを知りました。
でも、それが何の物語であったか、その肝心なところが今定かでない。
その時使っていたテクストなどもうあるがずないですし。
一体何だったのでしょう?

勉強ってこんなものなんでしょうね。
身になって残ってるものなど、ほとんど何もない。(わたしの場合です。)


ケイトブッシュがデビュー曲で思い切り熱唱していた「嵐が丘」です。
それで終わらせず、ここはしっかりもとの「本」を読んでしめくくっておきたいです。
映画も見てみたい。ローレンスオリビエ。
と、ここでまた新たに思い当たることが、、、。
もしかしたら、この本、家にある可能性があります。
なんだか、だんだんじぶんが怪しくなってきた。
明日、探してみます。

読めたら、いつの日にか、感想を書きます(爆
いえ、多分。


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THEME:文明・文化&思想 | GENRE:学問・文化・芸術 |

キヌアがブレイクです!

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今大変巷を騒がせている、「完全食品」キヌア。
日本では、受給率0でしたが、最近上野原でメイドインジャパンに着手した模様です。
腹もちもよく、NASAも宇宙食に利用するとか。

かのビヨンセも食べています。
健康的なダイエットや体調管理に適する、栄養バランスに優れた南米産の食材です。
必須アミノ酸をすべて含むということで、女性の注目度は大変高い。
必須アミノ酸は体内では、合成できませんし、それが理想的バランスで配合されていれば言うことなし。
すでに、美容と健康に、ということで盛んに広告が出ていますね。

鉄分、カルシウム、食物繊維だけ比べてみても、白米、玄米とは比べ物にならないくらい豊富です。
しかし、他の穀物と比べ澱粉は少ない。
その詳しい栄養に関しては、こちらのサイトに非常に詳しく掲載されています。
ここから ↓  どうぞ。

キヌアの栄養

レシピにも飛べます。

この先、キヌアを主食とする人が増えていきそうです。
ただ、これで先進国が猛烈に輸入などをはじめると生産国への悪影響が出ますので、そこもよく考えた普及を目指してもらいたいものです。

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THEME:健康食品、自然食品、サプリメント | GENRE:ヘルス・ダイエット |

プレゼントの愉しみ ~ 身体の拡張と変質

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わたしは物を貰うのがとても好きだ。
物を買うのはもともと好きだが、貰うのはまた違う楽しさがある。
まず絶対自分では買わない類のものがわたしの居住空間に置かれるということ。
これが時折、面白い。


まず、貰うことの効用として、
ひとつに人との繋がりが出来る。

それに物それ自体がとても好き。
なんにでも魅力が生まれてくる。

ともかく面白い形が好き。
そして

「解剖台の上でのミシンとこうもりがさの不意の出会いのように美しい。」
ロートレアモン伯爵のマルドロールの詩にあるような、「デペイズマン」が自然に起こることもある。


というところである。

ちなみに妻は、そのようなデペイズマンを好まず、気が付いたら片っ端、捨てられていたことに気づくことも時折ある。
わたしの亡き父がそうであった。
妻と父が似ているというのも考えてみれば妙である。

物を貰うというのも、ある種の冒険である(危険をはらんだ)。
それがとてつもない物である場合の自分自身との折り合いを付けなければならない事。貰ったからには大切にしたい。
妻ー権力からの視線を如何に逸らすか。其の攻防。

一筋縄ではいかない作業は不可避的に起こる。
わたしが常に忙しくなってしまうのも分かる気がする。
本も読みたいし、フルートも吹きたい、
いや第一、全然絵を描いていないではないか。

以前、知人から大変持って帰るのに重い物を貰った。
とある高校の名前が大きくピカピカ光る文字で深く刻み込まれたものものしい文鎮である!
ちなみにわたしとその高校は何の関係もない。
桐箱に紫の布にくるまれ何が入っているか期待に胸を膨らませていた分、
その殊更重い文鎮を手にし、わたしは危うく卒倒するところであった。
知人はその手の悪戯をするタイプの人間ではない。少なくともわたしより真面目な人物である。
訳がわからぬまま、ありがたく頂戴した。

しかし持ち帰り、書類押さえに使ってみると(本来の用途だ)思いのほか重宝する。
○○高校という文字も大げさすぎて、過剰なメッセージとなりわたしの中でその絵柄は宙吊りとなる。
シュールなオブジェへとそれは変態してゆくのである。

ガラス作家の卵に貰った(それ以前にかなりの高額で作品は購入していた)林檎型ランプもそれとともに環境の異化作用に一役買っていた。


わたしの身体ー想いの拡張や変質は絶えず起きている。


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THEME:スピリチュアル・ライフ | GENRE:ライフ |

MacBook Airが直ったこと~Mac miniのおかげ?

MacBook Air

MacBook Airが直ったこと。不思議なんです!
例のMac miniの設定が想定外にすいすい進み、さすがMacとか言いながらとりあえずの必要な設定が済み、safariにうつっているとき、Mac miniが急にバチンと消えました。見ると電源が落ちたのではなく、AVGの問題のようで、ヴィデオ信号がモニタに送られていません。しかし、真っ暗なので、電源が落ちてなくても、OSもろとも落ちている可能性もあります。要はSafariの操作中です。急に切れました。
何故でしょう。

Bluetoothもすぐにペアリングでき、キーボードもマウスもなんの問題もなく繋がっていました。これは調子が良いぞと思っていた矢先にいきなりです。
これから外付けハードディスクを設置するところでした。

アー!わたしはここのところ、すべてこの調子だ!
と嘆きつつ、MacBook Airを梱包する前にもう一回電源アダプタを違うところに刺して確認してみようと思い、壁のコンセントに直接つなぐと、バンといって何事もなかったかの如くそれは起動するではないですか?

そういうことなのか?
でも思い返すと、起動しなくなった当初もそういうテストは真っ先にしました。
なんでいまさら?どういうこと?
という感じでいましたら、、、。

Mac miniのおかげかしら、という不条理な思いがこみ上げてきました。
分かりませんけど。
そんなアニミズムめいたことを言い出すと眉を傾げられてしまいますけど。
miniが来たら急にAirが目覚めたのです。
関連付けたい衝動にかられます。

機械の人間化と言うことも逆からみるとありそうなことです。
特にMacからは、何かありそうです。
昔の友人が、ひとりのマックばかり大事にすると、他のマックがへそを曲げて困る、とかいうことを真顔で言っていたのをいまでも印象に残っていて、よく覚えています!?


今後のうちのパソコン環境の流れとしては、
WINの8は買っておこうと思います。これから使うソフトとデータは全て入れておく必要あります。
XPから早く移籍します。仕方ないですから。

Mac miniももちろん、何とか蘇らせたい。
せっかくのMac環境の復活の口火でしたので。

どうやら、パソコンの調子が悪いということは、自分の歯が虫歯で痛いとか、眼鏡が合わない等ということと同義で、自分の身体性に関わる状況です。


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THEME:テクノロジー・科学ニュース | GENRE:ニュース |

初代マックミニ導入~その名は”BigMac!”

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元同僚のSさんから、彼が高校生の時買ったというマックミニを譲ってもらった。
どれだけ活躍してくれるか、期待です。
早速、これから初期設定をしようと思うのだが、パソコン名は最初から決まっている。
”BigMac”これほどでかいマックミニは最近、見たことない。
ここまででかいと、むしろ新鮮だ。

技術が進むと物は、どんどん小さくなる。
これに例外はない。
電気自動車やアシスト自転車のバッテリーも随分小さくなった。
すべて高性能・コンパクト軽量・低価格となるのが常だ。
またこの点は常にではないが、ユーザビリティも高くなる。
結果、技術が透明化してゆく。
つまりは、身体化が進む。
人間が機械化してゆく。
加速度的にそれは進んでいると思われる。
それに対し常に自覚的ではいたい。

しかしでかいマックミニだ。

ここのところ、4台もパソコンがまとめて起動しなくなる。
そのうち3台(うち2台はテレパソ)は諦めたが、MacBookAirは修理して使わなければならない。
データも全くバックアップ取っていない膨大なものがある。SSDの中身は消すわけにはいかない。
通電しないので電源周り、基盤の交換までで済むはずなのだが。
Apple紹介の一般のお店で修理することにする。(Appleだと、確か5万以内の定額だが必ずHD/SSDは初期化されてしまう)

この一枚アルミの切り出し筺体は相変わらず奇麗だ。
ここ3か月何もせず放っていたのでアップデートはしていないが
OS10.7.3
1.8GHzCore i7
4GB 1333MHz DDR3
なので、スペック的にまだまだ使えるし、iPadとiPhoneの母艦なので、ないでは済まされない。

さらに、4台はXP関係でネット接続不可に。
XPでないと動かないソフトもあり、今後どうするかである。
スタンドアローンパソコンも増えるばかり。(Win5台、Mac2台)
普通に使えるパソコンは、3台のみになっていた。
ともかくうちのパソコン環境はかつてない窮地に立っている。

というなか、困っていたら初代マックミニがお仲間に加わってきた。
2003サーバーを無停電電源装置のバッテリー切れで、ずっととめていたので代わりにこの”BigMac”をサーバーで使おうかとも考えている。
消費電力も小さいし。


まだ本体内のチェックもしてません。とりあえず埃をとってセットアップします。
Sさん。大事に使います。

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言葉に付着した汚れについて

いよいよ「君自身に還れ」の3分の1にさしかかると、池田氏との対談相手の大峰氏が仏教学者であることから、宗教の土俵で話すことが中心になります。池田氏も宗教の話を突っ込んでしたい、という姿勢です。
わたしは、このへんになるとかなりポカンとしてきます(笑
もう理解が成るの世界ですから。
仏教こそ言葉の意味を単に頭で理解したり記憶したりしても全く意味のない世界です。
しかし本来すべてがそういうものです。
認識とは。そういうものです。
言葉とはそういうものです。
仏教も何も関係ないです。


ここで大峰氏も言葉そのものに抵抗を示す人がいるが、それはその言葉に付いた垢や埃のせいだというようなことを指摘しています。「神」と聞いて大概の人はうんざりするはずです。かく言うわたしもそうです。
「神」に本来の「神」を取り戻すのは、しかしかなりの修行が必要でしょう。
これはどうしたって個々の問題になってゆきます。
ある意味、個々のやるべきことは、言葉を奇麗に磨くことでしょう。

自分でものを根本的に考え直す作業がひとつ、必要なんですね。
それ以外に考えられない。
すべての言葉がおかしくなっていますから。
本当にそれは、ひどいものです。

そして、必要のない言葉からは逃れてゆき、シンプルな場に身を置きたいと思います。
例えば大峰氏も挙げています、「格差社会」なんですか、というところですね。
何においての格差なのか?
経済においてですか?
ならそう言えばよいだけの話です。
「格差」という言葉で「格差」が実体化する面は大きいはずです。
そんなもの無い人には無い。


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科学技術の支配とは ~ この不気味な機械

今回も池田・大峰両氏の刺激的な対談から触発されることを綴ってゆきます。
科学技術に対し人間はどのような立ち位置があるのか。
とはいえわたしの感覚から言えば、すでにかなりの深層まで「科学技術」は降りて透明化してしまっている現実かと思われます。


科学技術は人間のあらゆる局面に浸透しています。
取り巻く環境はもちろんですが、
身体の中にも組み込まれて来る度合も高まっています。
再生医療についてもまさに科学の成果という形です。

話す聴くもすべて科学技術が仲立ちしています。
もちろん調べる。探すも。

機械がもう身体に分かち難い機能として入ってきています。
それが前提です。
するとどうなるか。
コンピュータが身体化していると、何でも検索で「答えが得られる」という前提が出来ます。
ただ速く反射・処理することが自然となり、効率的で良いこととされます。

しかし物事には答えのないもの、問いのないものも、あります。
価値に関してもそうです。
しかも機械は全く価値には関与しません。
人間側から言うと、すべての価値(であったものこと)が相対化している地平に作動しています。
それが透明化した現実が科学技術の支配する世界と呼べます。

池田・大峰両氏はヤスパースとハイデッガーを引いて科学技術に対する人間のあり方、現状について話を進めます。
(答えがあるとはおもえないテーマを対談してゆきます)

まず、どのような状況が訪れるか?
極端な例では、「おれは死ぬことに何の恐れもない。人が死ぬことが怖いなど全く理解できない。おれは人を何人も殺した。死刑にしろ。」という最近の殺人犯に窺える自分が犯した犯罪に対する認識のパタンです。
これは、すでに人間の範疇を逸していると。しかしこのような感受性は特異なものではなくなっている。

死に対する恐怖を持たない生命は、少なくとも人間の言語体系には入らない。

これは機械のもつ善・悪に代表される価値感覚の全くないニュートラルな論理形態です。
人そのものが機械化しています。

ヤスパースは、「人間が支配するはずの技術が人間を支配するという逆転が起こった。その技術を、なんとかしてもう一度人間の手中に取り戻すことが大事だ」(技術の管理)ということですが、そのような考えに対しハイデッガーは「その考えの中にすでに技術が入ってきている」ではないか、ということです。
確かに、そうです。
もはや、われわれは科学技術の外には出ることが出来ない。技術はこの先どのように展開するのか?

「ハイデッガーは、技術は既成の人間の理念をそっくり無効にしてしまう危険をはらんでいるという警告」を発しています。しかし「技術の本質そのものの運動によって転回が起こる」のを待つということも述べています。(そのときが救いの契機となるのでしょうか?)

「そして何より言葉が危うくなっている」という大峰氏、池田氏の警告です。


「すぐに答えは何ですか」と聞いてくる感性。「ほんとうのことばを求める」価値観は全く欠如。

今話題にもなっている、コピぺについては「詩歌の世界でもコピーが氾濫していて、、、その中には現代俳句史の有名な俳人の句を自分の作品として堂々と投稿してくる人たちがあるんです」と大峰氏。
池田氏も「絵画の模写も問題になっていましたね。まったく同じなのに、違うって言い張っていました。」「自己顕示欲だけは凄い。」という点もあわせて指摘。

結局、「神も悪魔もいない」地平に在って、激しい自己顕示欲に駆られて生きる生命体の出現が見られるようになった。
法にのっとり俺は殺人を犯したから死刑にしろという理屈。しかし罪悪感などは全く持ち合わせてはいない。
法に対しての責任のみで、他者に対する想像力は皆無。

言葉の問題以外のなにものでもない。


この不気味な機械たち。


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「君自身に還れ」から No.3

今日も池田晶子氏の本から、触発された言葉をもとに勝手に考えてみます。
ほとんど考える糸口に使わせてもらっているので、内容的にかなり違うことを述べる可能性は高いです(笑

ここで
どうやら問題にされているのは、徹頭徹尾、言葉です。
ノヴァーリスの言う通り世界は言葉でできてますから、何にしても言葉を問題にせざる負えないですよね。
そしてわたしも常に言葉にひっかかる。
考えてみれば生きていて問題に値するのは「言葉」のみです。
他になにがあります?

さて、今日見た数ページです。(本来は全部読んでからやるべきなのですが、、、汗)
やはり、ストレートであまりに本質的な真っ当な対談です。
しかしながら、シンプルなその話題そのものの理解となると、全身体的理解を要します。
薄っぺらな言語で整理回収出来るようなしろものではありません。(意味ありません)

人間は「死」に触れて、はじめて生を考え始める。「死」は知ることはできないから、恐れの対象になります。その恐れから「生」とは何かを考え始めます。(確かに壮大な文化もこれから開闢しています)「死」から逆照射される「生」、人間とはことごとく「死に向かう存在」(ハイデッガー)です。さらに「宇宙」という謎にも触れます。その中に存在する、「ある」という不思議に直面します(ヴィトゲンシュタインの常に強調していたこと)。「無」または「空」とは。そして神とは。これらは考えれば考えるほど、とてつもなく虚無であり恐怖をともない、畏れを感じます。
はじめて、この時点から思考が生じ、そのための言葉が生成されてゆきます。
そして、これは、日常の市場社会で使われる、手段としての言葉では何も語れないことは明白です。
単なる反射レヴェルの思考で対応できる事柄ではないのです。


「存在」自体を考えるとは「詩」を書くときのように、自分の頭ー自我で考えるというよりロゴスー言葉が考える形をとるものだ。
つまり主格ー主体が対象に関して考えるというものではなく、単にロゴスー論理自体の自己運動として展開する、そのような思考によるものである。
死ほど普遍的で絶対的なものはない。
「死せる者」を考えるに当たって、普遍的で絶対的ロゴスによるほかない。
所謂、「ほんとうの言葉」が必要になる。
(芭蕉が死んでも彼の言葉は残り続ける)


もしあなたが死を直前に控えた身であったとして、最後に何がほしいか。ここにおいて言葉以外に受け取れるものなんて何一つないことも明白です。

存在が時空・歴史をはみ出す何かであることは音楽の形式において最も雄弁に表出されています。
芸術が音楽の状態に憧れるのは当然です。
あの感動、その元にあるのは
死へとおおきくはみ出してゆきます。
藤原新也の写真などには普通に死がごろごろしていて何故かとても綺麗です。
絵画、写真などの芸術にもメメントモリが表出されていることが分かります。(クレーは死が基盤)
これらもすべて詩的言語です。ロゴスです。

「死」を受け止めるロゴスとしか言えない言葉を最期には必死に探すはずです。
使い捨ての言葉の群れの中から。


生きることは「死の練習」(プラトン)

自分が常に「死せる存在」であること、自分がこうして世界に「あること」の不思議を忘れてはならない。
これが基本です。


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言葉(沈黙)と詩人

池田晶子氏の書籍「君自身に還れ」から、また数ページ分ばかり、内容とその感想を、、、。
というより、触発された言葉をもとに、ほとんどわたしの勝手な見解を述べていきます(笑。
あまりにわたしのテーマに近いので、一冊まるごとこの調子で関わります。
*「」は、すべて池田氏・大峰氏の言葉です。


そう言えば、大学の頃聞いたことがあります。
ブッダのこの話です。「弟子に『霊魂はあるかないか、来生はあるかないか』訊ねられたとき、沈黙で答えた。」
これについて「(ブッダは)相手が本当の問いに返らないから、黙っておく。」という沈黙による回答をした。
わたしははっきり言って仏教は苦手で、禅につてもよく分からない。
しかし内省のない問いが問のていをなさないのは分かります。
それのない問いなど、下らないお喋りのレヴェルでしょうから。
沈黙で答える。
沈黙は「有力な言語」に他ありません。

沈黙という言葉こそが必要なんです。
今は特に。
そして言葉に対するセンスですね。


さて、この本は僅か数ページで、「君自身へ還れ」の核心に到達します!(その先がどう展開していくのか今現在確認しておりませんが)

この世は、「イデアリスムスとマテリアリスムスの二つしかない」
「(フィヒテの要請は)、君の外にあるもの全てから目を向け変えて、自分の中へ還れ。」というものでした。「自分は物質だ、自分とは肉体だと思っている人は、唯物論しか選べない。」、が「自分は時空をはみ出している存在だという感受性をもっている」人は、イデアリスムスを選ぶことになる。
つまり、「詩人でない」か「詩人である」かの違いです。

ついでヘルダーリンは、誰もが、世の中に対し、「功績」を立てることで存在意義を築いていますが、功績以外の「実用性や有効性とは違う次元の生の次元」にも触れていると説きます。つまり詩人としても生きている、ということです。ヘルダーリンは勿論、詩人ですが、人間は全てそうだということです。つまり詩人としての度合いがそれぞれで異なるということでしょう。
そして、功績は水平方向の広がりであり、詩人としての次元は「垂直的精神性」と呼べる精神運動である。確かにショーペンハウエルもそう言っています。

一番ここで重要なことは「人間が自分の力で支配できない次元、詩はそういう次元に人間をつれていく。」ということです。
時間的存在を超脱する場へと。
ハイデッガーに言わせれば、「詩人とは人間と神の間に投げ出された者である。」となります。

それが仏教においては、菩薩こそ詩人であると。菩薩とは仏に向かおうとする人間の姿であるということ。
この点とても納得しました。


この調子で進めると、後10回ではとうてい足りませんね(笑
まだ数ページなので。


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「言葉」に関して~池田晶子氏の書から

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最近、そこそこ古い映画のDVDを引っ張り出しては、観ていることが多く、本をまるで読んでいない。
大判写真集は少しずつ見ているが。
書庫に入ってぼうぜんとしつつ、、、。
たまたま目にとまった池田晶子氏の本を手にとった。
「君自身に還れ」
これは池田氏と宗教家で俳人の大峯氏との対談だ。
対談って形式、面白いんですよね。

パッと見で大変美しい内容だ。
とわかるが、これは買ったは良いが、読んでいなかった。
もったいなかったのかも。
しかしそんな本は5マンとある(笑

のっけから本質的な「言葉」についてのおはなし。

”言葉は、手段ではなくそれ自体が目的だ。”
こんなふうにまとめました(笑
(まだ2ページしか読んでいないのだが。)

自動的にその言葉は詩になりますね。
素敵です。
だれもが詩で交わうなんて。
そんな世界に棲みたい。


以前から私も思っていることですが、言葉が時間とともに自然に変化していくことはよいのですが、
池田氏のいわれるとおり、使われ方により価値は下落しています。
どのように?
まず空間の隙間を埋め尽くそうとするかの如く、しゃべりまくる。
主に携帯で。喋ったほうが得だから。値段が一緒だし。
また、ことばをただの伝達手段としか使っていない。
まさにその「言葉」を伝えたい、という言葉がなくなってきた。
大峯氏も恋文を書かなくなった事を例にとり、携帯で「目的を実現するため」だけにしか言葉を使わなくなったことを指摘されています。
効果だけを狙った薄汚い下劣な言葉ですね。
結果など全く期待しない「言葉」そのもの、、、これは分からない人には全くピンと来ないでしょう。

言葉が安くなってゆく。価値がなくなってゆく。
3ページ目には、「人間とは彼が言っているところのものである」と大峯氏。
この本はこの先さらにどう進むのか?
端からこれですから。
はやくも締めです。

まったく、確かに、話しているその言葉が、その人間です。それ以上でもそれ以下でもない。


3ページしか読んでいないところで、取り敢えず以上です(笑
これからこの本をベースに、しばらくわたしが好き勝手に膨らめつつお話してゆきますので。

「引鶴の空蒼ければ湧く涙」(大嶺顯)

池田氏に送ったうたですね。
46歳とは、あまりに早い。



続きます。

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ある公爵夫人の生涯

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2008年
イギリス

ソウル・ディブ監督・脚本
アマンダ・フォアマン「デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ・キャヴェンディッシュ」小説原作

キーラ・ナイトレイ、、、デヴォンシャー公爵夫人(ジョージアナ)
レイフ・ファインズ、、、デヴォンシャー公爵
シャーロット・ランプリング、、、レディ・スペンサー
ドミニク・クーパー、、、チャールズ・グレイ
ヘイリー・アトウェル、、、レディ・エリザベス・フォスター


テーマ音楽が絢爛で空虚な空間を流れとても綺麗でした。
ちょっとプロコルハルムの”グランドホテル”も彷彿させるところでもあり。

このストーリーに人権などの概念を導入するのは、お門違いというものだ。
苦しんでるという観点からは、公爵も婦人も同じだ。
何において?
パラダイムにおいて。

公爵の孤独のうちにじっと耐え続ける苦悩も計り知れないものがある。
世継ぎを(男子)を是が非でももうけなければならない運命。
その地位に縛られた生活。

勿論婦人の苦悩も十分共感できるものだ。
かのダイアナ妃を重ねてしまうところでもある。

しかし、彼らが不幸かと言えば、いつどこでどのような地位で暮らそうが、人に困難はつきものである。
いまと比べ女性の権利がああまりに低いなどというレヴェルの話ではない。

人が最終的に何を選ぶか?
すでに生まれている自分の子供だ。
これは倫理の問題ではなく。
これまで時を共にしてきた自分のこどもといることを選ぶ。
という、単なる普遍的な事実だ。

それを基盤に生活を組織する。
そういうものである。

婦人は夫の不実にも耐え賢い選択をして生きたと思う。
自由に憧れつつも、二人とも耐えて生きた。
一生を振り返れば結構充実した生を送ることができたはず。
さて今のわれわれとどれほど、ちがうだろう?

表面上権利をもっていて、自由に生きているように思えていても運命からはまったく自由ではない。
不可避的に現在を選択してこなかったか?

結局今も昔も同じである。
ただ、彼女ジョージアナがある公爵夫人であったというだけ。
ドラマチックでよい人生だったと思われます。


公爵役のレイフ・ファインズの押さえた燻し銀の演技が光った。
キーラ・ナイトレイは明朗快活で感情の起伏を耐えながらもはっきり示すジョージアナを見事に演じていた。
シャーロット・ランプリングは相変わらずかっこいい、としか言えない。
ロケーションや衣装には充分配慮が感じられた丁寧に作られた映画だと思う。

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砂と霧の家 

fog.jpg

悲劇は、終盤のあの警官の仕組んだ、どうにも分かりにくい発泡の件で一気にカタストロフに向かった。
この分かりにくさは監督のミスである。
あの変な流れに行かなければ、その数時間前までは、問題は何とか解消しそうに見えていた。
あのシーンの説明的場面があれば、映画ももっと良いものになっていた。

最初から、偽善的で独善的な利己主義の権力を傘にきた警官がすべてを狂わせる装置となって作動している。
「家」に対する主張はイラン家族もキャシー(J・コネリー)も双方ともが正しい。
家をこころの拠り所とするキャシー、この家を元に一家の再建を夢見る苦境を強いられている元大佐。
共に何の悪意もない者同士。
単に行政側のミスでその家が競売にかけられたのだから、行政側が責任をもってこの一件を回収しなければならない。
家は高価な買い物である以上、双方が固執するのは当たり前で、解決は間に立つ存在次第だ。
しかし、それを働きかけるべき弁護士がまともに機能していない。

さらに、この物語を強引に悲劇へと差し向けていくのが、自分の欲に突き動かされ、正義や法を振りかざし、誇り高いイラン人家族を追い詰める警官だ。彼はキャシーを自分のものとするためキャシーに肩入れいているつもりで、彼女をも不幸に突き落としてゆく。キャシー自身もあまりに自制心に欠ける弱さが共に不幸を呼び寄せる機能を果たしている。

やがて物語は警官の企みも越えて最悪の悲劇へ向け、連動を重ね大きく動いてゆく。
ここの動きがもっと上手く描けるはずだが、というもどかしい想いを引きずりながら終盤へ。
確かにイントロとエンディングは良いのだが、いまひとつ流れがまとめきれていない印象が残った。

ベン・キングズレーの圧巻の演技。ジェニファー・コネリーの汚れ役の好演。
イラン人家族を演じた母、息子役も純朴で優しい、薄幸な運命に耐える役を見事にこなしていた。
憎ったらしい馬鹿警官も役者はそれを好演していた。役者自体は素晴らしい。

監督は誰だったか、今ひとつ肝心な所が描けていないと思う。
役者、特にベン・キングズレーは映画自体の出来がどうだろうと、その圧倒的な存在感で重厚な名作にしてしまうが、これについても、ジェニファー・コネリーとともに悲劇の感動映画にしてしまった。
ストリー自体よく出来ていて、役者も大変素晴らしいので、ちょっと惜しい気がした。

2003年度アカデミー賞3部門ノミネート作品。アメリカ制作。


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コンタクトレンズ

alien01.jpg

GoogleからGlassの次が早くも出ました。
コンタクトレンズです。
特許は取得済。
チップが埋め込まれたコンタクトレンズですね。

今見ているものを拡大したり、写真に撮ったり、なんと瞬きでプリントアウトしてしまうとか?!
スマフォと連動し、車が来るのを察知し知らせたりも出来るそう。

人ごみの中から特定のヒトを識別したり。
は、ミッションインポシブルか?
でもこの機能も加わるのは時間の問題でしょう。

これはGlassみたいに柄がないし、瞬きで操作するとなると、大変そうだ。
下手に瞬きして、次々に意味ないプリントアウトしてしまったり。
誤操作結構でるはず。
それで必死に顔歪めて目をぱちぱち、、、。

そうでなくとも、いま公園や街角でひとりで延々としゃべっているヒトをよく見かけるようになっている。
Bluetoothのガジェットが流行ってきているのがよくわかる。
これに加え、Glassにコンタクトレンズまでくると、みんなでそれぞれ奇妙な挙動を勝手にとる。
そんな面白い光景が広がってゆく。
子供ではなくみんな大人だ。
子供の代では、さらにどう進んでゆくのか?
つまり身体性はどう変化するのか。


でもかろうじてGoogleガジェット系は目で耳でつながっている、ように見える。
だがすでにメール、FaceBookやブログの深く浸透した日常関係を経て。
人同士直接的なつながりは、もうなくなり、すべてフィルタ越しになってしまっている。
自分のアバターを作り上げ、それを差し出す。
相手もそれに対し自分のアバターで返す。
実態はどこにもない関係が通常である。
謂わばそれで世界が出来ている。
幾重にも遅延した濃い幻想関係だ。

そして実際の身体もアバターから逆照射され変態する。
そんな存在様式が生まれる。

だからGlassかけて外に出るといっても、意識はすでにそのレヴェルだから、見ているヒトも生身同士などという感覚・概念はなく一種の擬態としてある。
生身自体はすでに死んでいたりもするだろう。
誰もが相手をエイリアンとして見ている。
これは、間違いない事実だ。

ある意味、UFOどころの問題ではない。
われわれ誰もが互いに異星人であり、無責任に幻想を投影し合って生きていたりすでに死んでいたりしている。

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バルティス礼賛

works-10.jpg

わたしはこれまでに、かなり好きな画家であっても、展覧会初日にわざわざ見に行くようなことはなかった。
WinのOS発売日でも、初日に前日から並ぶような人々を見ていると、初日というものが、はっきり怖い。
何で人は初日にこだわるのか?
しかも一番先頭に並ぶとか?!

よく初めて開店するラーメン屋やステーキ屋が開店記念価格でキャンペーンをする。
それであれば、行くのも解る。わたしも行った。
しかし、初日に、しかも先頭で待ってもなんのメリットもないのに。
二日目じゃダメなんですか?(2位ではダメなのですか?どこかで聞いた)
そう言えば、本も初版にこだわる人が多い。
第二版だとおまけがない、あとがきがない、という訳でもないし、前に買った本が読み終えていないのに、次を買ってもなかなか手につかない。結局読めない時もある。例外的にたちまち売り切れる本なら確保しておくものだが。村上春樹とか。

後になると図録がなくなるというケースはあるのだろうか。
そうも思えない。
と、思いこれまで一度も初日の展覧会に行ったことがなかった。
それは、混むに決まってる、という初日・一番好きの人たちの押し寄せて溢れかえるイメージもあったからだ。
肝心の絵がまともに見られるとはとうてい思えない、という。

では、何故そんなリスクも顧みず、嫌いな「初日・一番目」を採択したのか?
それは、恐らくここに何度か訪問してくださっている方は、ご存知かと思われますが、姉妹ブログの”Low”でいつも絵画・写真・音楽の僅かばかりのご紹介をしているのですが、そこで何を思ったのか、”バルティス好きです。”ここまでは良いが、”初日に行ってきます”などとぬけぬけと書いてしまったからだ。

言ったからには、行くしかない。


そういうことです。


その後また行くところがあったりで、、、タイトな一日でした。
それで、いつ本題に入るのか?

ピカソ曰く、「20世紀最後の巨匠」がきれいなドイツ語で暗唱していた詩を(多分リルケの関係か)本日の図録より引用します。

雨がざあざあ降ってるときや
嵐が野原でびゅうびゅう吹いてるときは
お嬢ちゃんやお坊ちゃんは
ちゃんとお家のお部屋にいました
ところが、ロベルトは考えました。いいや!
お外はすごいにちがいない!
そしてロベルトは、野原の中を
傘を差してびちゃびちゃと歩き回りました


いつでも、完璧に暗唱できた、ということは、これは完全に身体化されているということだ。
思考や判断以前にバルティスの行動原理を決定付けている詩と言えるかも。
バルティスの絵とは、お外で夢中になってびちゃびちゃと歩き回ることの延長線上にあるのだろうか?
延長上にあってもおかしくはない。敬虔なカトリック教徒であり生涯、静謐な光のなかで仕事をしてきた彼だが、絵筆を握るとそんな冒険と喜びが波打ってくるのだろうか?

後は、こちらをぜひご覧ください。


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ケプラーの送ってきたデータ解析その後

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地球は、いや地球のヒトは寂しいのだろうか?
太陽系の惑星にはどうやら、お仲間がいないようなので、太陽系の外にそれをどうしても求めたいみたいだ。


ケプラー宇宙望遠鏡のおかげで、知っている惑星の数が増えたことにとても喜んでいるヒトたちがいるが、そんなに嬉しいか?
なんでも、1700個にまでなったという。
勿論、他の恒星を公転しているのだが。何光年も先の。近くとも500光年とかである。

子供の頃「おれ知ってるんだぜ」といって仲間の数を自慢している少年がいたが、やはり知ってるヒトー仲間が多いことはよいことなのだろう。大人でも自慢しているヒトは思いの他多い。
Twitterしかり、Facebookしかり、Lineしかり、、、あまり詳しくないので、、、。
友達申請で飛び込んできたヒトがしょっちゅう友達何人達成!祝1000人越え、祝2000人越え、とかばかりで煩いので、友達を切った。
ここでの友達とは、単なる数に過ぎない。操作対象の記号か?でもそれらが適当な物などほいほい買ってくれるというのが不思議だ。とうてい信じられない。
ちなみに、わたしはほとんどいない(笑

ケプラーデータのなかのハビタブル・ゾーン(生命居住可能領域)にあると見做された惑星は4つを数えるという。
鉱脈だとかしきりに言っているが、オタク行くつもりなのか?
まあ、いまの移動方法では到底無理だが、それらを何とかしたいのか?
データは取れるのかも知れないが。
儲かるのか?
まあ、新種のビジネスはどんどん増えていくから、儲けに繋げていくヒトも当然出るはず。
何を売るのかちょっと楽しみだが。

地球外生命体というのは確かに魅惑的である。
そして、その星が水の星なら、やはりわたしも何らかの形で観てみたい。
殆どが地球より大きく、だいたい4倍くらいの大きさだそうだ。
その星が、深い水に覆われた青い星だったら、嬉しくもあり、怖くもある。
もしそんな星を包むとてつもない海を探索できたら、その神秘に耐えられず気絶してしまうかも知れない。
さかなクンなら喜んで行くはずだ。名前もつけるだろう。いたらの話だが。

天の川には、たっぷりと発見の余地があり、今後まだまだケプラーデータの解析により新しい鉱脈が見つかるのだろう。
それはそれで良いとして、かのテイヤール・ド・シャルダン牧師のとなえたΩ点目指してわたしたちは真の進化をはたさなければならない。


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僅かな時間

眠る前の僅かな時間に
わたしはとりあえず確認してみる。
「ネットで稼ぐことができるんですよ。やってみてください!」
と、言う人たちの、お話では、、、
自分にとっての理想とは何か。
夢とは。
目標とは。
これをしっかりもったうえでの戦略を立てていくとのこと。
何とそれが「思考法」であると。
「思考法」など押し付けられて、たまるか!
ではあるが、とりあえず、目をつぶって、、、。


しかしわたしのもっとも忌み嫌う類の概念だ。
いちいち気に障る言葉の端々。

というのも、わたしはかつて、そのようなものを全て蔑視してきた経緯がある。
生理的にも、思想的にも、そのような小市民的なものに拘る気がしなかった。

しかし不可避的に他者と市場社会の上で生活することにおいては、それが信頼関係を結ぶ前提になるという。
上記の理想ー夢ー目標モデルの提示とそれから降りるイメージ作りや行動原理が要請されるらしい。
それが信頼を作り、信頼関係がなければ何もできないと。
(半分当たっているが)


わたしは、全てのものはかつては一つであったことから、細分されたどれかのみに関わってゆくことがとても窮屈で、何か語るに全てを動員したい、そんな衝動に駆られるのだが、発信の際は極力範囲をできる限り絞って行うべきだと。それによって此方の立ち位置も明瞭になり、属性が確定し他者との安定した関係が作れる。

一貫したセルフイメージで軸を持つことが大切だということだ。
わたしは度々変身したいのだが。
基本は「なんでもないもの」でいるつもりだが。
誰にもポジションを示し
分かり易いセルフイメージを与えることが肝要であると。

一貫した発信とメッセージが大切だということだ。

無理だ!

わたしは他者を前提とした関係性を作るつもりはない。
言うまでもないことが、わたしが唯一であり絶対であるという事実から。
そしてわたしは刻々と変わる。
瞬時も同じ存在ではいない。
わたしは信頼関係などより、自分に対して誠実でいる。
これは絶対だ!
0対100の関係だ。
これをないがしろにしたら、そもそも生きる意味を失うであろう。

実にくだらなく馬鹿らしい。
反吐が出る!
奴隷の思想にほかならない!

そもそも存在学というものを彼らはどう捉えているのか?


確認するだけの時間がもったいなかった。
もう二度と関わるまい。


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多肉植物もぷくぷく!おはようございます♡

太陽
やはり、温暖化がどうとは言え、太陽がポカポカしてくると、多肉は元気になってきます。
しおれかけていた葉がもうぷっくぷっく♡
やはり、ふわっとしてたり、ぷくっとしているものは、幸福感をもたらす。
ペラっとしてしおれていると、寂寞感にうたれる。
そういうものだ。

植物とは永い付き合いだ。
葉っぱひとつ眺めていても、
もう像も結ばぬ薄らいだ感覚しか呼び覚まさないが、それでいて焦慮の念にかき乱されるものがある。
薄明のなかにざわつく群れ。

ふいに心地よい風が吹き抜ける。
花だ。
気づかなかったが、冬のあいだに球から柱っぽくなっていたサボテンに真っ白な花が咲いている。
ポコッとひとつばかり。
最近外に出したサボテンだ。

いろいろな植物に様々なつぼみが出ている。
高く低く揺れている。
新鮮なデジャヴ。
愛おしい。


その近くには枯れた木が幾つか。
もう10年前に亡くなった父親の植えた山椒の木も枯れている。
身近に死はいつでも潜んでいる。
時間が凍てついている。
陽の射す空間と静まり返った暗黒の空間がある。

父が生きていた頃にはご近所さんがカメラを持ってわざわざ撮りにきたクレマチスの蕾も見られる。
今はあの頃の10分の1にも満たない。
クリスマスローズもその傍らにひっそりと咲いて。

今年はいくつさくらんぼが取れるだろうか?



枯れた木は抜いて、新しい木に植え替えた。
あるところにはミツバを植えた。
苺とトマトに水をやった。

思いの他、骨が折れた(笑
今朝は朝早くから野良仕事をしてしまった。
でも
気持ちよい。

cuctas.jpg

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ダニエラという女

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COMBIEN TU M'AIMES?  HOW MUCH DO YOU LOVE ME?
2005年
フランス

ベルトラン・ブリエ監督・脚本

モニカ・ベルッチ ダニエラ(娼婦)
ベルナール・カンパン フランソワ(心臓の悪い男)
ジェラール・ドパルデュー シャルリー(ダニエラの腐れ縁の愛人)
ジャン=ピエール・ダルッサン アンドレ(フランソワの主治医)


この映画をDVDで観たとき、まずはこりゃダメだ!わたしは受けつけない類いのものだ。
と感じた。
話もそうだが、主演女優も全く共感できないタイプの女優であったからだ。
しかし、うんと距離をもって観てみると、これはルーリードの「キャロラインの話」でもあるのでは?
と、感じられるところはあった。
もちろん、あれほど退廃的(文学的)で悲劇的ではないにしろ、ぼんやり・あっけらかんとしたプチ・キャロラインの話だと気づく。

なんというか、あの主演女優演じるところの娼婦が、いわゆるお金と元締めに束縛された娼婦であることと、尊ばれ自立した女性として解放されてあることとの間で、おおきく揺れている存在である点において。
もっと言えば、身体的にどうしても娼婦なのだが、精神的に愛される女でありたいとも強く願っていてその葛藤する自分のコントロールが出来ないで麻痺状態にいること。
自分を冷静に分析したり、真摯に悩むのではなく、漠然と問題は把握しつつタバコと酒の助けも借り、荒涼とした気分のうちにいつづけること。
それらにおいて、プチ・キャロラインだ。


スピードをやり、真っ逆さまに落ちてゆくキャロラインまではいかず。

しかしその相手役の男性は、あれほど心臓が弱く頼りなかったのに、何故見違えるように逞しくなっていったのか分からない。男としてあのジェラール・ドパルデュー演じるマフィアのボス?にも対等以上に余裕を持って渡り合っている。
普通なら相手にされない娼婦の彼女と暮らしたくらいのことで、何故あんなに自信をつけるのかが全く不明である。
おまけに心臓も文字通り強くなっている。友達の医者は娼婦の彼女の診察をしただけで心臓麻痺で死んでいる。彼も心臓は弱かったのか。単にそういうこともある、といった意味もない運びに過ぎないだろう。



キャロラインの相手、ルーリードはもう尽くしてもどうにもならない、ということで、諦めてしまう。
心身ともども疲弊し尽くして。
そうだろう。
もう彼女のために時間を費やすことは止めた。
彼女がリストカットしたのは、他の誰かのせいかも知れない。
カタストロフ。
そして余韻。

アラスカはあまりに寒い。 アラスカはあまりに寒い。  アラスカはあまりに寒い。

もはや次の日は、ない。



しかし。


彼らは友達との大騒ぎのパーティーの翌朝、生暖かな陽の射す部屋で、またぼんやりした朝食を摂るのである。
考えてみれば、此方の方が普遍的・現代的に麻痺した光景だ。
当分このカップルはこのような朝食を来る日も来る日も摂り続けるのだろう。
その光景はわれわれの食卓での姿に重なってゆく。
ひとつ。
またひとつ。と。
偏在する光景。
しかしひたひたとエントロピーは増大してゆく。

やがて忽然と立ち枯れするように、どちらも椅子から崩れ落ち。
あとには、、、。
生暖かな黄色く差し込む光だけが微細なチリの舞う姿を映している。


そんなもんだ。


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天使の肌

the dark morning
PEAU D'ANGE
ONCE UPON AN ANGEL
2002年
フランス

ヴァンサン・ペレーズ監督・脚本

モルガーヌ・モレ 、、、アンジェル(家政婦の少女)
ギョーム・ドパルデュー グ、、、レゴワール(帰郷した青年)


一口に言って、崇高な映画でした。
モルガン・モレの涼やかで凛とした、自然な演技は素晴らしい。
そしてこのような切ない物語には適役であったと思います。


モレ演じるまだ少女のような若い女性は、貧しい実家から口減らしのような形で、離れた町へ住み込みのメイドに出されます。
真面目だが不器用で素直な彼女は、その町で母親の葬儀に戻った青年と偶然出遭います。
青年は癒えない蟠りを抱えており、愛情を素直に受け入れることができません。
豪雨の夜、運命的に二人は結ばれます。
一夜限りでの別れになりますが、彼女はその後も一途に彼のことを思い続けます。
彼女もその家を飛び出し洗濯の仕事などをしつつ、紆余曲折しながらも彼が製薬会社に勤めていることを知り、
身近な場所に身を寄せようとします。

そんな中で、彼女は殺人事件の共犯者扱いされて投獄されることとなります。
そこで彼に助けを求め、やっと面会が叶いますが、彼はすでに会社での地位を築き社長の娘と結婚を果たしていました。
彼女はそれをやさしく許し、将来を気にする彼に、「いまを生きること」を諭すのです。
刑務所で知り合った教会の尼僧たちと花を植えるしごとを一心に続け、やがて冤罪から解け彼女は釈放されます。
神を嫌う彼女ですが、自由の身になった後も自ら教会に残り、花を育てる奉仕を続けます。
自分が植えた花は見事に満開になりますが。彼女はまだ若くして不慮の事故で帰らぬ人となります。



豪雨、雷、爆音のポップミュージック等も鳴りますが、
過剰に煽るような刺激的演出は一切なく、物語は淡々と静謐のうちに展開してゆきます。
荒涼感と寂寞感はあっても一種宗教的な希望の光が穏やかに射しており全体のトーンが統一されています。
それに絡む音楽も効果的で破れ目が見られません。

主人公の女性は、文字通り「野の花」のような目立たぬ清楚な女性でした。
しかし慎み深く高貴で忘れがたい魅力をもった女性であったことがつくづく思い知らされます。

結局彼も彼女のことを忘れることはできませんでした。
「強い林檎の香りは記憶の底に残る。」
彼女のなにも求めない無償の愛に触れ
愛を受け入れることの出来ない彼の心が癒されていたのでしょう。
いもじくも彼が彼女に遭ったときに放った「君は尼僧のようだね」という言葉のごとく彼女は聖母のような女性だった。

彼は母からの愛を素直に受け入れることができ、母の墓に花を手向ける。
そしてエンドロール、、、。


彼の名前を小声で呼び、亡くなるときの彼女の笑顔があまりに切ない。


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風が強い

風の音が絶えない。
そとで大声で子供が何やら歌を唱っている。
なんフレーズ目かで共振を起こす。
窓をすべて閉める。
音をすべて締め出す。
弱く明かりを灯す。

以前はうちになにかこもってきたな、と思うとき窓を開け放っていたが、今は悪い物質が入り込んでくる危険性に慄いている。
青空のもとで、ひりつくことが増えてきた。
TVは益々気持ちを落ち込ませる消化不能の情報を吐き続ける。
録画予約もすべてとっくに切っている。
何も知らない方がよい、と時折思う。

ここのところうちのパソコンが次々に通電しなくなり、まともに働くモノがなくなっている。
そろそろ考えなくては。と思いつつ何もする気になれない。
それは、面倒だからだ。
パソコンが新しくなったとしても、それでやることは何も新たなことをするわけでもない。
何とかしようという動機がそもそもない、に等しい。

XP3台はいま、フォトレタッチと写真管理、書類のプリントアウト専用機として使っているが、ネットワーク上でフルに使えるマシンは現在のところ2台までになっている。
昨夜、Win7がどうにも起動しなくなった。
昨日の午後まで、「ダニエラという女」をそれで観ていたが、終了してしばらくあと起動しようとしたら、モニタには何も映らない。

「ダニエラという女」、ジェラール・ドパルデュー以外の俳優は誰も分からなかった。
主演のイタリア女優はどうも生理的に受けつけない。
物語はすべて異界の出来事のようでそれなりに面白くはあった。
だが見終わったあと、ほとんど何も思い出せない。

”Heartbleed”問題が出ているが、これはどのくらいの広がりがあるだろう?
僅か1行のコーディングミスに2年間誰も気づかなかったそうだ。
それがオープンソースであれば、気づいたハッカーがどうにでもできる。
Open SSLであれば、オンライン・サービスへの影響は避けられないはず。


風が強い。
この風はどこからどのような悪質なものを運んでくるのか?
外部にあるもの全ては毒だ!



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2人のベロニカ ~ 絵と音の素晴らしさ!

この映画を観てつくづく感じることは、映画は絵と音で見せるものだということ。
それに尽きる。

そしてひたすら美しい!

わたしは、ポーランドの音楽は大好きで、その荘厳さと哀愁というべきか、天上から降ってくる金色光を想わせる音が堪らない。ここで使われている音楽は、ズビグニエフ・プレイスネルという作曲家のものだが、文句なしに気に入った。
さすがヘンリク・ミコワイ・グレツキの音の生まれる土壌だ。勿論、ポーランドには調性のない音楽もたくさんあるが。
わたしはこちらが好きだ。

それにしても、クシシュトフ・キェシロフスキ監督とはなんだ?
この映画はこれまで私が見た映画の中でも、、、タルコフスキーのものと同等の重さをもつ。
驚いた。

トーンが全体にわたり管理されていて、静かに美しく物語が流れる。
光の扱いの見事さ。
音楽が流れるべきところで鳴る。
モノや音楽の暗示的な使い方が物語を深めている。
物質的な想像力を触発する。

アイデア・ストーリーがよい。
発想とその具体化がここまでできているものはそう見られないとおもう。
ドッペルゲンガーという数奇な運命をとてもうまい手腕で利用した。
音楽の才能。心臓病。そして名前が同じ。

バスの中にいるフランスベロニカも私はその時点で相手に気づいたように思っていたが、実は写真に撮られたポーランドベロニカだけだった、という大変微妙な距離感。
運命の儚さ。
すべての描写が細心の注意を払ってなされている。
モノによる重層的な演出も的確だ。

特に、何気なく撮った写真から、恋人に促され、フランスのベロニカが、ポーランドのベロニカの死に気づく場面。
作業テーブルにころがるベロニカといま動いている(操れれている)ベロニカの人形の対比など。
なぜ、急に恋する人が現れたのか、、、暗示している。
ディテールに小物に、言葉以上に想いを膨らめる場面がいくつも見られる。
そして極めつけは音楽の素晴らしさ。
ポーランドでもフランスでも同じその楽曲がふたりを繋ぐ。

このような映画はあまり見た覚えがない。
夢と現、彼岸と此岸の堺の曖昧さと乗換の可能性も示唆している映画である。
やはりタルコフスキー以外に見たことがない。

イレーヌ・ジャコブはこの絵の美しさを完璧に支えていた。
カンヌ映画祭主演女優賞を受賞している。



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Date with an Angel ~ これぞファンタジーか?

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これは天使役ではありません。


この映画は、ダリル・ハンナのスプラッシュと双璧をなす人間の創造物を主人公とした名作だと思います。
片や「天使」、片や「人魚」。(神はここでは対象外とします)
しかもやたらと可憐で美しい。
神々しくもある。特に天使は言葉を発しない分、神秘性を高める。
「河童」では恐らくこうはならない。(多分ゲロゲロとか鳴きそうだし)

可愛いけど、チョッと人間離れした雰囲気・仕草も見せたり、片やフライド・ポテトをものすごい勢いで口に詰め込んだり、片やロブスターを殻ごと食ってしまったりなどもあり、種が違うことも見せつける。しかし、最後は異様なほどのハッピーエンド。
素直にこちらも嬉しくなるものだ。


さて、天使の話だが、宇宙空間からやってくるものらしい。太陽系の中のようでもある。しかもわれわれと同じ次元の物質性をもち、人工衛星にうっかりぶつかり、羽を怪我して主人公のいる館のプールに墜落してしまう。大気圏突入時の衝撃などはものともしないようだ。
彼女は、主人公が「脳腫瘍」で亡くなるため、彼を天上に連れてゆく役目で地球上に来臨した。
ここでは、天使は宇宙人である。船を使わずダイレクトにやってくるかなり強靭で凄い存在と言える。

しかし怪我のため暫く滞在する。
その間のドタバタ劇である。

悪友や婚約者の父親までもが、彼女を金儲けに利用しようとする。
主人公は必死にそれを阻止しようと奮闘する。
天使を悪の手から守ろうとすれば、するほど、、、
怒った婚約者(フィービー・ケイツ)が銃などまで持ち出し、居場所を探り当てて襲いかかってくる。
ここまでやると、フィービー・ケイツのおかしさが増幅されるが、彼女の身になれば怒るのは当然だ。
よりによって結婚前にエマニュエル・ベアールと付き合いはじめたのである。
頭に来ない方がおかしい。

主人公も普通なら(もともと普通の状況ではないが)天使を警察に届けて、婚約者と結婚式というながれだろうが、一目エマニュエル・ベアールを見てしまったことで、これは最後まで自分が面倒見なくちゃ、という気持ちになったのだ。それ以外にこんな面倒な、立場上極めてリスキーなことするはずもない!
つまり主人公は、天使に遭ったその瞬間、婚約者を裏切っていたのだ。
これは弁解の余地はない。
しかし、仕方ない。
この映画を観ている誰もが、天使に心奪われているのだから、フィービー・ケイツには申し訳ないが身を引いてもらうしかない。

そして最後にはハッピーエンド。
天使のおかげで主人公の末期の病気まで治ってしまい、、、
もうお分かりのパタンとは言え、観ていて自然に嬉しくなる。
これほどとてつもないハッピーに遭遇した人はまずいないでしょう。
普通なら、フィービー・ケイツでもすごいのに、
ってそういう映画なのか?


どうもそれ以外に受け取りようがありません。
エマニュエル・ベアールの美が犯罪的です。
悪いのはすべて彼女です。


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インナー・スペース ~ ハチャメチャなカウボーイ映画

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ここまでやるかというハチャメチャなカウボーイが暴れまくるような映画。
一応、小さくなって、生体の体内に入り医療技術のための試験という形なんでしょうが、軍事技術にもそのまま使えるのでしょう。変なタイミングで、その関係の敵?のスパイが研究の横取りを企てます。
注射器に入ったままの主人公の乗るマイクロマシンが、デパートの中で敵に奪われる前に、たまたま出くわしたスーパーの店員に注射され、うさぎに入るはずの主人公はマシンもろとも店員の体内に入ってしまいます。
そこからというもの、、、

自転車での逃走あり、カーチェイスあり、乱闘アリ、酒に酔って踊り狂ったり、体内でもマイクロマシンで戦い相手を胃酸に落として勝利したりと、一応SFの装いはしているつもりでしょうが、単にハチャメチャに暴れているだけです。
しかも登場人物たちがことごとく危険認識がない。そんなことしてたらもう何回殺されてるか、という場面でも酒飲んでいたり、アバンチュールであったり、何か動きに隙だらけ、しかも体内のマシンの操縦のあまりの安直さや潜入した人間の顔まで変えてしまうところなど、奇想天外という以外にない、少なくとも科学的根拠など、知ったものかという乱暴な展開。

そう展開が早く、主人公の彼女の新聞記者?も加わり、次々に主人公たち3人が危機に見舞われる。
絶対絶命に陥りながらも、何故か敵の攻撃もスカスカですり抜けることができてしまう。
見ている間は、息もつかせぬというのはオーバーだが、展開リズムが畳み掛けるように来るため、見入ってしまうが、エンドロールまで来ると一体何だったのか?と。

おまけにラブストーリーも絡み合って流れており、主人公の恋人(メグライアン)を主人公が体内に入ってしまった店員も一目惚れしてしまい、同じ視界で違う(2人の)意識が同時に同じ対象を見るといった、深く考えないようにしたほうが映画を見る為にはよいところなど、盛り沢山である。
その他にもあっさり、店員とメグライアンとのキッスでつまり唾液によってそのマイクロマシンがメグの方へ移動してしまうとか、くしゃみで最後は脱出成功など、少年向け漫画でも控える子供騙しだ。店員の動きは血流の速さ、胃酸の影響は中にいる主人公に与えているが、他の影響は今ひとつ連動表現に薄い。もっと生理現象に連動した表現ができれば笑いはさらに取れていたはず。

とは言え、そのへんをそのまま受け取るお約束で観れば、結構楽しい娯楽映画だ。
しかし道具立てなどそれなりに科学風な仕立ててあるが、これはSFではなく、スリルに富んだ冒険映画といったものだ。
メグライアンがホントに楽しそうに活き活き演じている。
こういうのが好きなのだろうか?
お気楽極楽なお話でした♡

Meg Ryan1200


そうそう、精神科常連で心を病んでいた店員が物語の展開に従い、どんどん元気になってゆく様はどうなんでしょうね。
あまり同調できなかったのですが、ショック療法になった可能性はあります。
日常生活であそこまで、アドレナリンの過剰分泌されることはないでしょう。
派手な事件やカーチェイス、トラックの扉にぶら下がって後ろのスポーツカーに飛び乗るとか、メグライアンと恋に落ち(一方的にか)キスをするなど、大変な刺激が良い影響を及ぼしたのでしょう?!


スピルバーグ監督の「ミクロの決死隊」のコメディ版だそうです。
確かに面白いコメディですが、もう少しサイエンティフィックに作って欲しかった。
その要素があまりに希薄でした。



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8人の女たち

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戯曲であったことがよくわかる映画です。
日本でも舞台劇が過去2度ほど上演されています。
映画もほぼ似たような形式で、基本ワンフロアー中心で展開しています。
女優8人のみの芝居で進んでいますが、全く最後まで飽きさせない。
よくできた映画です。

話はご主人が背中を何者かに刺されて死んでいることからはじまります(主人は死体、他一瞬後ろ姿でしか登場しない)。
その犯人を8人の女たちが互いに互いを疑いながら探り暴いてゆくものです。
次々にこれでもかという争いいがみ合いの種が顕になってゆきますが、一向に謎だけは解けない。
それ以外のゴシップ話は噴出するばかり。
よくもこれだけと呆れるばかりに。
しかしそれで画面が陰惨になるようなことはありません。


まずとても華やかで、豪奢です。個性豊かな華のある女優陣ですから。
芸達者は出演者の面々から言うまでもないところです。
(若手の星だったリュディヴィーヌ・サニエが「SwemmingPool」に出演する1年前とは。驚きの幼さ!)
(「美しき諍女」からエマニュエル・ベアールはもう11年経っていますが、まだまだ健在?です。)
カトリーヌ・ドヌーブの存在感はさすがとしか言いようがありません。

次から次へ謎が謎を呼び、過去や現在の各自の秘密が暴かれ、揺れ動く様は大変アグレッシブでエキセントリックです。

ちょっと控えめなミュージカル・テイストもあり、素敵な歌と小ぢんまりとした踊りも少し見れてたのしいものですが、
若干中途半端な感じは否めません。もう少しミュージカルを派手目にしても良かったと感じます。
ひところ流行った?インド映画ほどの大げさ(おバカ)なものではありません。


しかしこれだけ盛り沢山で大変なことがたった一日間の出来事とは、この映画で唯一黑一点出演のご主人も生きた心地はしないはず。

実際にホントに死んでしまいます。
たまったもんじゃない、というのが恐らく本音でしょう。
過剰なストレスが生命を奪う例は幾つもあります。

女と過ごすことは大変です。年齢はいくつであれ。
それが8人というのは、自然界において、ありえない状況です。
これが大雪で屋敷に軟禁状態となり、みんなで閉じこもっての殺人事件の謎解きとなるのですから、恐ろしいものです。


「1日で10年、歳とったわ」というヴィルジニー・ルドワイヤン(「レ・ミゼラブル」の)の台詞がありますが、こちらも同感です。

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Swimming Poolを観る。

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「イノセント」を観ようと思ったら、DVDが見つからない。
きのうまでの方向だと、うちにあるDVDの中では、「イノセント」しかないのだが。

ほとんど無作為チョイス。
そこで”SwimmingPool"にした。
が、結果的に良いものを選んだといえる。


この映画はみてみると、シャーロット・ランブリングともうひとりの若い女優リュディヴィーヌ・サニエだけで実質成り立っている。ほかの役者は脇役というより、ほとんど書割くらいの役目だ。

実に心地よい映画といえる。
大層なテーマがないところが良い意味で大人でこなれた映画になっている。
映画はこうでなければ、という意味での映画であった。

シャーロット・ランブリング演じる女流作家と出版社社長の娘と本人が名乗るリュディヴィーヌ・サニエ演じるところの自由奔放な娘が何故か一緒に社長の別荘で過ごすことになれば当然こうなるだろうというような、生活を繰り広げることになる。物語はプールを中心に描かれてゆく。

太陽がさんさんと降り注ぐプールで娘は全裸で泳いだり、ほとんど裸で歩き回ったり、男を次々に連れ込んで夜中に騒いでみたり、静かな場所でゆっくり次の本を執筆したいという願いが打ち砕かれる。

空想や夢が交錯しあいつつ白昼夢のような生活が続く中、いつしか作家は娘に興味を持ち始める。
自分とは対照的なその娘の刹那的で退廃的な生き様と生命感みなぎる若い肉体の強度。
やがて作家は、娘の日記を写したり、食事に誘って娘のことについて話を聴いたりする。
これは単なる興味を覚えた相手への取材というに留まらないものだ。
これまでの自分の推理小説とは違うスタイルのものを生み出すつもりだ。

こういう流れの予測は十分につく。

しかし、作家が外食の際に知り合っていた男を娘が夜に連れ込み、深夜のプールで泳ぐ。
この際に、娘はその男と争いになり石で殺してしまう。
あくる朝、作家は異変に気づき、男の死を突き止める。
娘は錯乱しているが、殺人を認め、二人で死体の始末をする。
その共同作業を通しお互いの距離はこれまでより遥かに縮まる。
娘はすべてが収まり、別荘を出る際に作家に母親が書いていたという小説を手渡す。

作家はそれを元にした小説を書き、出版社の社長に渡す。
いつもの作風でないことに難色を示すが、すでにそれは製本されている。
驚く社長に、サインを入れてあるから娘さんにどうぞと、渡す。

彼女が社長オフィスを出るとき入れ違いに社長の娘が入ってくる。
しかしそれは同じ名前ジュリーであるが全くの別人なのだ。


そこで劇中、作家が娘の素行に怒り、何度もその父親である出版社社長に電話をかけるが、一度たりとも繋がらなかったことが思い出される。電話が繋がったかに見えたときは娘が父親に、作家にわざと聞こえるようにかけたときだけである。
この若い娘は何ものであったのか?
わざと最初からこの作家に母親の作品を手渡すつもりで計画的に別荘に乗り込んできたのか?

最後に、作家と娘が別荘の窓とプールからお互いに手を振り合っているところで終わる。


ここでポイントなのは、主人公が作家ということだ。
この別荘滞在中のことはすべて作家一人の想像だとしてもしっかり成り立つ話である。
また、これらのことは殺人も含めすべてのことが本当に起きたとしても辻褄が合う。

まさに世界の様相を示している。
世界とはもともとそういうものだ。
「世界」=「私の世界」であるから、無数にパラレルに存在し得る。
この話の時空は作家の目から捉えられており、夢や妄想などの時間のいくつもの流れがあやふやに絡まって最後まで流れており亜時間への流れがいくつもあった。


ここでのシャーロット・ランブリングの魅力はさすがであった。知的で厭世的な女流作家などあまりに合っているが、恐らく何の役であってもこのレヴェルに演じてしまうことだろう。存在感だけで誰をも説得してしまうものがある。
リュディヴィーヌ・サニエは前半の肉体美だけで押し切るだけではなく、何かを抱え持った存在であることも後半にかなり滲ませる演技が際立った。しかし、シャルロット・ゲンスブールのような女優ならどうだっただろうか、と思わせる。わたしはシャルロット・ゲンスブールがその年なら彼女のほうが適役に思えた。
リュディヴィーヌ・サニエという女優は健康的すぎる感じがした。
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appleseedを観る

電子戦隊デンジマンを観たばかりだったので、かなりのインパクトだった。
ただ、デンジマンならではの面白さも残った。
これは、多分、最近流行っている、ユルキャラだ。
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3Dモーショングラフィクスで全編作成しており、それまでの2Dとは情報量が違った。
情報量がものすごいことからくる迫力は圧倒的であった。
もちろん、実写より豊かで濃い的確な表現であることは言うまでもない。
ただリアリティは、その作品がもつ理念によるもので、それが希薄であれば物質的想像力も働かない。

動きと質感、ディテールの描写はこれ以上望むべくもない。
ストーリーの流れやテンポもよく、登場人物たちのそれぞれの立場も考えも受容できる。

問題はこの大変壮大なテーマだ。
これについては、わたしはどうも絡めない。
ここで示される前提に感覚的にピンとこないためだ。
人類がお互いに潰し合い地球環境の崩壊を早めていることは事実として、作りだされた新人類との共存とか何とかは、想像上でも仮定の上でも考えにくい。

ただ、そこに生じる対幻想に関しては共感でき、そのレヴェルのドラマなら追える。
主人公と母との関係とか、描写的にも身体感覚で入れる美しい場面だ。

大局的にどうであれ、存在の凛々しさが描かれていてそれはそれで見応えはあるのだが、そろそろスーパースターなど何処にもいない、淡々と沈んでゆくリアルなドラマをこのレヴェルの技法で観てみたい。
何がこの先どう進化していっても「世界」は、「個々の世界」であることは止めない。
これは確かである。
誰もが「自分の世界」に立ち枯れしてゆく中で、他者とは何であり得るのか、などを突っ込んでいって欲しい。



それにしてもTVドラマに辟易し、日常には疲労困憊し、その上に何をか表現を欲する我々とは何なのか?
とも思う。

ともかく、疲れた。

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攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEXを観る。

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公安9課。攻殻機動隊。

「攻殻機動隊」と「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」とは時代設定と登場人物、ストーリーも異なる点が多く、「第三の攻殻機動隊」と言われる。

神山健治監督、士郎正宗原作、菅野よう子音楽

2003年「東京国際アニメフェア2003 公募・アニメ作品部門優秀作品賞」受賞。

わたしは何故かまだこれひとつしか見ていない。
これだけ見た範囲で感想を少しばかり。

SFものであると、存在学的な考察が深くなされたものでないと、10年も経てば単に陳腐なものになる。
テクノロジーは確実に当時の科学技術や想像を追い抜いている。
その多くのものは面白くない。

しかしこの映画は今が旬の内容だと思う。
さらっと見ただけだが、世界観と身体感覚がとてもしっくりする。
だからアイスクリーム食って、ポーズもしないで途中トイレに行っていても何ら問題ない。
同時代性がある。
そして普遍性がある。
日常的だから、面白い。
実は少し前に、韓国映画の”Yesterday”を見たのだが、実写と比べアニメ映画は圧倒的に自由度が高い。
思うように描けるのはアニメであることに間違いない。
思うようにと言うのは、正確にという意味だ。

集合無意識下で横断的に相互作用しあうリゾーム空間の広がりにハブ電脳を据え、総体としてある方向性を持たせるという発想はこれまでの識閾(下)を扱ったSF映画のなかでもはっきり現実味がある。
そんなこと既に行われていてもちっともおかしくない。
情報が技術的に一瞬にしてどこにも拡散出来る基盤があっても、国家があれば情報は管理される。
そのハッキング技術との鼬ごっこは現在も日常のことである。

ネットを介さずとも様々なメディアが重層的に絡み合い、情報が時空に横溢している。
様々な方向からの無意識への圧力・攻撃は絶え間なく加わっており、意識レヴェルのそれよりも遥かに深刻なのは言うまでもない。
それがわれわれの身体の現実である!

人間は加速度的に変わっている。10年前の人間と今の人間が同じ種と見て良いかどうか、無意識レヴェルの身体性を見てみないと分からない。と言うより、10年前の自分と今現在の自分は、はたして連続した存在なのか?
自分の名前を単に記憶している程度のアイデンティティの保証に、何を持ってわたしはわたしだなんて確信していられるのか?

私自身、最近頻繁に記憶が飛ぶ。
全く原因も分からないのだが、ある朝、突然腱鞘炎になっていて指の痛みが続いている。
これは何であるのか?単なる肉体的障害だけを見ればそれまでのことだ。
こんなことは誰にでもいつでも起こりうることだろう。
しかしその根拠が足りない。しっくりこない。

この映画で「精神」をほぼ同等の意味で「ゴースト」と呼んでいたと思うが、これに限らず、ネーミングが面白い。
ソリッドステイツしかり。
STAND ALONE COMPLEXしかり。
このへんでも、このアニメ映画には親近感を持つ。


それはそうとわたしが今まだ持っている3台のパソコンがXPのままなため、明日からSTAND ALONEとなる。
NETWORKから孤立し、まだパソコンとしてなんらかの意味があるか?
これは、そのまま人間にも当てはめられる。




このなんだかわからないロボット(乗り物)が面白い。
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湖のほとりで ~ 

イタリア北部で撮られたノルウェー原作の映画。

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原作はガラスの鍵賞受賞。北欧5カ国(アイスランド・スウェーデン・デンマーク・フィンランド・ノルウェー)の最も優れた推理小説に贈られる文学賞である。賞の名は、アメリカのミステリ作家、ダシール・ハメットの小説『ガラスの鍵』に因んで付けられたという。
その原作小説を映画化したものが本作である。
イタリアのアカデミー賞と呼ばれるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞で史上最多となる10部門を独占した。

大変評価の高い作品である。
しかし上記の件は見終わってから知った。

人間存在についての深い洞察と哀れみを呼び覚ます映画である。
小さな美しい村で起こった殺人事件を温厚で思慮深い刑事の眼を通し静かに謎を解いてゆく物語。
まずは湖のほとりに美しい女性の全裸死体が発見されるところから始まる。
聞き取りをすると大変評判のよい明るくしっかりした娘である。
こんな娘をいったい誰が、、、物静かな狭い村を聞いて回るうちに人の抱える問題が色濃く淡々と浮き彫りにされてゆく。


しかし謎を解くといっても特異なことなど何もない、ごく普通の人間が集う普通の空間で起きたことであり、
その意味で普遍性の高い何処にでも起こりうる悲しい出来事にほかならない。
そして一度犯罪が起きると、普通の人間の中の一種の性向や気質、こだわりがレンズで拡大されるように晒され、誰もが疑心暗鬼にもなる。


人間の生活において、常に障害としてコミュニケーションの問題は立ちはだかる。
特に親子関係はどのような年齢になっても当事者でなければその苦痛は理解しがたい。
さらにその解決など当事者においてはさらに困難になる。
超越的な他者の手を借りて何とか危機状態を回避することは可能なこともある。
しかし解決ではない。解決ではなく解消が図られることはある。
もともと解決という概念などはそこには相容れない。


親子関係を基盤に置いた存在学は根源的であり普遍的テーマとなる。
この映画作品は、一貫して親が子と、子が親とどう関わってゆくかが基調に流れている。
勿論、答えはない。
親子という他者関係は最も困難な関係性をいつも孕む。
この映画では、血縁の無い他者との困難な関係も同様に描かれている。

ここで特に悲劇であるのは、殺人事件を引き起こすきっかけとなった5歳の子供と親との関係である。
大変共感できる心理であるため、そこでのほんの僅かな親の強さがあればと悔やまれることだ。
だが事件は大概そういう場に起きるものである。
わたしの家庭に起きても不思議ではないことである。
そこに善意で介入した娘が湖のほとりで帰らぬ人となる。

ここでは、誰ひとりとして異常な人間や悪意の人間はいない。
普通の人間の起こすことであるため事件と呼ぶ。
特にその娘は不幸ではあったが、恵まれた優れた人格をもった存在であった。
異常な人間の理解しがたい犯行ならそれは天災のようなものだ。
怒り以外の感情はそこには生じない。
だがこの映画の犯罪には、共感と哀れみ、悲しさしか感じ得ない。
人間の本源的な弱さからすべて生まれるものであり、その事実をよく実感として認識している老刑事の容疑者たちとの語り合いもとても深い。
そして見事に犯人を暴くが、誰もがあまりに悲劇的な存在であることが照らし出される。
既視感のような映像に幾つも出会う。

老刑事も深刻な家庭の問題を抱えている。
妻と娘と自分。
修復不可能な事態にあって当惑して佇んでいても、空虚で無邪気な微笑みが、深い悲しみと当惑を嘘のように引き取ってくれる光景で終わる。何かカフカの「変身」の最後の光景のような。
「かあさん笑ったよ」父が娘に。


それにしても
あんな綺麗な湖のほとりでひとり死ねるのも悪くない。

Lake.png


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ダイアルM

Gwyneth Paltrow

久々にヒッチコックの”ダイアルMを回せ”のリメイク版アンドリュー・デイヴィス監督の”ダイアルM”を見た。
わたしは巧妙に筋の練られた映画より、空間的な重層構造を持った映画、なんというか絵画的で詩的な物質的深みを持つ映画を見ることが多いのだが、このようにあれよあれよといううちにグイグイ持っていかれるのも、ただもう面白い。

プロットの力だけで見せてしまう。
味わうというよりサクサク読むような映画だ。
しかし下手をすると行間まで読まされてしまう一筋縄ではいかないものだ。
速度とスリルがありよそ見をする余裕もない。
オリジナルのヒッチコックも良かったが(もうほとんど覚えてないが)、こちらの方の出来は素晴らしい。


この映画は、三角関係のつくる緊張感ー嫉妬・不貞による背徳感・発覚への恐れなどで揺れ動きつつ閉じている状態にあって、どうにもならない絶望感(ニヒリズム)と裏切りに対するストレスが基調になっている。そこに金の動機で殺人計画が綿密に練られる。鍵・携帯電話ヴォイスレコーダーなどによるトリックも決定的な要素として加わり物語を加速してゆく。
ガジェットとして最も大きく物語をカタストロフに導いたのは、ヴォイスレコーダーで、これの登場によりニヒリスティックな円環に閉じ込んでいた世界の色調が忽然と怒りの色に染め上げられる。急激にテンションが上がり列車でのナイフ殺人。主人公邸での夜の静寂に起きる拳銃殺人へと必然的に流れた。(その前に鍵のトリック(しくじり)を知った若妻がその流れの構造は作っている。)
これによって物語は内側に崩壊する。3人の構成人物だけで3人中2人が殺される。ひとり残ったグウィネス・パルトロウ演じる若妻は直接的に自分を抹殺して莫大な遺産を相続し会社を立て直そうとした夫を殺し、間接的に自分を裏切った(売った)浮気相手である画家を殺したことになる。何れも「怒り」による終局だ。
一つ大事な鍵は、デヴィッド・スーシェ演じる刑事とパルトロウが彼らだけのことばで意思疎通が出来たこと。この人間関係によって妻は問題なく正当防衛と断定される。映画の原題「完全殺人」確定である。
僅かな時間に培われた人間関係、しかしそれが信頼に繋がれば決定的な強度をもつ。
ことばの身体性の大きさを実感するところだ。
この物語の登場人物たちにもっとも欠けていたものはこの信頼関係であったためなおさらである。


少しだけ登場人物の心理レベルについて言及しておけば、マイケル・ダグラス演じる夫は、図らずも画家に心情を吐露しているが、妻とその男の親密な恋愛関係に対する嫉妬が彼を一番打ちのめしていることは間違いない。さらに自分の会社の破産を目前に資金繰りのできない無力感がこころを苛む。彼はすべてのレヴェルでの幻想が粉々に打ち砕かれ極めてニヒリスティックな状況におちている。妻を殺害させ相続金を会社立て直しに使おうという発想も、自分が宝石のように大切に扱っていた妻が自分を遠ざけようとしていることから生じたものだと言える。やがて詐欺師の画家がヴォイスレコーダーで金をゆすってきたことから、画家に対する激しい怒りが吹き上がる。しかしこの夫の殺意は、画家と妻に対してというより、2人の関係性に対する怒りであり、自分にないその安定した信頼関係を完全に打ち壊すことこそが目的であったであろう。殺した画家の電車内に飾っていたそれを具現化したカードサイズの作品が象徴である。彼はそれをポケットにしまう。

画家においては、最初の殺害依頼を金目当てで受けたはよいが、実際に自分で手は下せないで失敗する。替え玉にやらせたことについて「自分の手を汚すのは嫌でね」と夫には返すが、金目当てで接したとは言え若妻に対しすでに恋愛の情は生じており、到底自分で殺すなど出来ない心境に至っている。実際暗殺が失敗したことを知って心底ホッとしていた。
さて、彼にとって自分で殺さず、夫から金だけせしめられないかが問題である。ここはダグラスよりモーテンセン演じる詐欺画家の方が犯罪に関しては一枚上手である。伊達にこれまで長い詐欺人生を送ってきたわけではない。最初の殺害打ち合わせをヴォイスレコーダーに録っていたのだ(さらにコピーを妻あてにも郵送していたのだ)。これが夫の怒りを極限にまで高めることとなる。明らかにやりすぎた。相手は崖っぷちにいて、もはや冷静に損得を分析出来る状態ではないのだ。知略に溺れて身を滅ぼすこととなった。

グウィネス・パルトロウは浮気による背徳感で過敏になっており夫の存在に怯える可憐な若妻である。彼女は知的で勘も冴えており、いろいろなことに気がつく。鍵の件から調べていって夫の会社がすでに終わっていることを突き止め、夫が殺人未遂に大きく加担していることまでわかってしまう。しかし知的である分、夫の屁理屈に丸め込まれる傾向もあった。
少なくともこのドラマの中でグウィネス・パルトロウは徐々に逞しくなっている。または本性が出てきているのか?
やはりヴォイスレコーダーが決定打となり彼女の2人に対する怒りも静かに爆発する。
「やはりお前が死ぬしかない」と向かってくる夫を銃殺する。
最後の殺しっぷり、これは相当な悪意が窺えた。
これは確かに正当防衛には違いない。
が、最初から彼女は銃を隠し持っていた。


この映画、役者も見事にハマっている。
こういう役をやらせたら右に出るものはいないマイケル・ダグラス。
知的で清楚でフラジャイルな魅力を持つ、発音しにくいグウィネス・パルトロウ。揺れ動く若妻を繊細に演じている。
ロード・オブ・ザ・リングでお馴染みヴィゴ・モーテンセン。この人は詩人でもあるという。なお、映画に出てくる絵はこの人の作品だそうだ。
デヴィッド・スーシェという刑事役の人がまた大変インパクトがある。名探偵ポワロシリーズの主役で有名な役者だそうだが、わたしは見ていない。2002に大英帝国勲章を授与されている。


感想を言えば、一言、マイケル・ダグラスいえあの夫には本当に哀れみを感じる。
彼は、端から悪丸出しで細かい計算ばかりして追い込まれていく人間に見えるが、自分がもっとも大切にしているものに排除されて生きる深い孤独を抱えている。自分が本来望んでいる関係性が決して望めないと認識するや、深いニヒリズムに陥る。自棄っぱちである。せめて最後は妻に撃たれて殺されたかったのかも知れない。そんな気がする。
わたしも結局のところコミュニケーションの問題なのか、この夫のような立場に立つことが幾度となくあった。
しかしだから共感できるかと言えばそうではなく、彼のような人がいたらやりにくいだろうなとつくづく思ってしまう。
自分に似ている分とてもキツイ。
そんな人だ。もしかしてマイケル・ダグラスその人もこんな人なのだろうか!?
そんな気がする。

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rain.jpg
雨が降ると公園には行けない。
次の日もまだ全てのものは濡れている。
でも2日経てば、芝生に寝っ転がれる。
大きな空に浮かんで形を変えてゆく
雲の動きを楽しめる。


しかし、雨そのものも趣があって良い。
放射能の雨や酸性雨ではそんなこと言っていられないが。
雨宿りして見るならよいか。


狐の嫁入り雨などたまに体験するが、こまやかな雨つぶが日に煌きとても綺麗だ。

同様に綺麗な雨に小糠雨がある。ほとんど霧状の音のしない静謐な雰囲気をあたり一面につくる。
春先、何かがやってくるピンとした気配とともに。
その後に降るのは五月雨。

もう夜も更けてきた。
晩秋なら小夜しぐれでよいが、今は春雨か。しかしただの春雨では物足りない。
調べればこの雨ー今の気持ちに沿う雨が見つかるだろう。


日本語には、雨ひとつとっても、様々なニュアンスがそこに畳み込まれている。
辞書で引けばいくら出てくるか分からない。
ほかの国に雨についてこれほどの豊かな呼び名があるだろうか、と思う。

考えてみれば、日本語の文字、平仮名・カタカナ・漢字(音・訓)は本当に優れた装置だと思う。
諸外国から流れてきた全ての思想のデータベースとして機能し、保存、引き出し、編成が何時でも可能となるし、何よりも日本の歴史ー思想の保護も同時に果たした。これが大きい。
もし日本に単一の文字体系しかなければ、外部の強大な権力ー言語体系にその都度上書きされてしまい、日本の文化ー歴史そのものが消失していたはずだ。


遣らずの雨というのも思い出した。

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GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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