タルコフスキー監督作品史上最も水量の多い映画。
いや、惑星ソラリスの方か?
登場人物が尽く水浸しとなるのは、ストーカーです。
1980年カンヌ国際映画祭特別賞作品です。
わたしが観たタルコフスキー最初の作品でもあります。
重かった。ともかく重かった。
まずは水浸し泥だらけで暗く重いという印象以外なかったですね。
「ストーカー」という単語もこのころは全く日常にないものでしたから、
人を聖地に誘う役を果たす伝道師のようなものなのかと思っていました。
この映画ではタルコフスキーは監督の他は「美術」を担当しており、脚本・原作はしていません。
しかし、如何にもタルコフスキーというセリフばかりが行き交います。
哲学の問いであり、大変重いものばかりです。
彼がてっきり脚本書いてると思って観ていました。
それにこの映画はロシアを大変重苦しく感じさせます。
彼の映画作品の中でもとりわけ感じさせるものです。
前面に文学・哲学が露出します。
1956年製作の「禁断の惑星」というスペース・ファンタジー娯楽ムービーでも、
イドの怪物が文字通り猛威をふるっていましたし、惑星ソラリスもまさにそれが思わぬ形で物質化していましたが、
この映画でも想いを反映すると言う「ゾーン」にある部屋がヒトの無意識を実現する場所としてありました。
ゾーンは巨大隕石の衝突によって出来たある不可知な領域であり、いつしかこの中の「部屋」に入った者は自分の願いが叶えられ幸せになれる、と伝えられるようになります。
ストーカーとは、その部屋までゾーンの罠を掻い潜りヒトを安全に導く案内人ースペシャリストです。
ストーカーは作家と物理学教授のふたりをその「ゾーン」に案内してゆきます。
ストーカーのナビゲーションに従い、細心の注意を払って進みます。それが唯一命を保証します。
途中までは当局の厳しい取り締まりに妨害されジープに向けてしこたま銃弾を浴びせかけられますが、
どうにか逃げおおせてゾーンに入り込みます。
ここからが、少し進むたびにヒトを試すかのごとく罠が”あるように見え”それに怯えつつ進む「ゾーン」です。
世界で最も静かで美しい場所とストーカーは言います。
しかしゾーンの状態はそこに現れるヒトの精神状態に左右されるという事です。
それによってゾーンは様々な罠を仕掛け、ヒトは命を落とすと。
水、風に打たれ、深い草叢に突っ伏し眠り。川の苔むす石の上で寝ながら人生について語る。
深い水を湛えた水路を幾つも渡り、深い草むらを遠回りに横断し、不気味なトンネルをくぐり、砂地を越し。
その度に存在に纏わる哲学談義が生じます。
次第にそれは攻撃的ななじりあいにもなってゆきます。
そして精神と肉体をとことん疲弊させるストーカーの案内の果てに唐突に「部屋」の前にたどり着きます。
ここで部屋に我先に入ろうとするかと思うと、2人は立ち止まり「矛盾」を語り始めます。
お互いに、意識を抉りあい、自己解体を突きつけます。
特に作家はこれまで語ってきたストーカーの話を分析し偽善者呼ばわりします。
ストーカーの言ってきたことはすべて自分の見た話ではなく、「山嵐(先輩)」たちから聞いた話ではないか。
全部、この行程はストーカーのやらせではないのか?
ここに入って、実際に幸せになった人物を見たのか?
わたしたちをダシに、単なる自己満足で面白がっているだけではないか?
もう信じることができないのです。
ストーカーも自分自身も。
ここで、ストーカー当人は作家たちから激しい攻撃に晒され、3人ともある意味、正体を晒すことになります。
作家は全てに懐疑をもち不信に陥り、教授はこの部屋を爆破する目的できたことを明かします。
ストーカーは「何故、信じることができないのか!」これだけを訴えます。
「あなたたちは信じることを知らない。」
さらに彼はこのゾーンがなければ自分は生きることが出来ないことを告白します。
ここを案内してヒトを幸せにすることだけが喜びなんだと尚も主張します。
結局大変な思いをしてたどり着いた「部屋」には誰も入りません。
無意識を恐れて入ることが出来ない。自分の本性など知りたくもない。
無意識はここでも恐れの対象です。
この恐るべき化け物のような無意識は作家にとっては本当の自分という位置にあります。
3人ともひどく疲れて帰り、特に、深く客によって打ちのめされたストーカーの疲れはひどものです。
奥さんに介抱されて、彼は涙ながら横になり無念を語ります。
最後のタバコを吹かしながら嗚咽しつつ話す奥さんの話がまた重い。
これはタルコフスキーのかかえるロシアの重みなのだろうか?
普遍的な問題として、ヒトが根源に抱える願望とは、その意識にも定かに登らない願いとは本当は如何なるものか、という問を発することで内面化ー遅延化がさらに進みヒトはますます観念的になり、幻想に深く囚われ動けなくなることにはなるはずです。
とは言え内面化していないヒトなどいるはずがありませんし、信仰がその病理を救うものとなり得るのでしょうか?
大概、この作家のように自分のインスピレーションを若返らせたい、等と言って来たとしてもその実、小説などより単なる功名心や金・女等への欲望が本質ではないか、というくだりはすぐに思い当たります。部屋に入りたくないのは当然で、自分に改めて絶望し、その腹いせにストーカーに当たっているのが実際のところです。
しかしこの作家は、ゾーンに入り道すがら「ゾーン」の物語による概念化した光景に取り巻かれて、その超越者の支配に畏怖の念をもちやってきたのは確かであり、部屋を前にして忽然と、概念が変容し全く次元の異なる「風景」に取り巻かれてしまったと言えましょう。そこで目が覚めたようにストーカーを攻撃するようになった。そこにもはや神秘は取り払われて自分の望みよりも本質的な欲望が生々しく感じられてしまったと言えましょうか?
何を契機にかは、はっきり分かりません。引き金は誰が先に「部屋」に向かうかという時のストーカーのマッチのクジに対する疑いからでしょうが。疑い。僅かな疑いー理性の積み重ねによるのでしょう。
ある冗長性を破って一気に相転換が起こりました。
その「物語」に必死にしがみつくストーカー。もはや物語は「風景」にとって変わった白けた作家。その物語ー概念空間を物理的に破壊しようとする物理学教授。
ここにおいて信仰とは如何なるものでしょう?
しかしこのような極限体験ツアーはある意味刺激を求める現代人に求められるような気がする。
あくまでもレジャーのような表面的なレベルですが。
これで自己解体してしまったら、富士の樹海みたいになってしまうかも知れません。
山奥の滝行などが、せいぜいのところか。
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