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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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ローラーとバイオリン 少年期の記憶に共鳴

КАТОК И СКРИПКА
1960年
ソビエト

アンドレイ・タルコフスキー監督・脚本
アンドレイ・コンチャロフスキー脚本

イーゴリ・フォムチェンコ、、、サーシャ
ウラジーミル・ザマンスキー、、、セルゲイ
ニーナ・アルハンゲリスカヤ、、、少女
マリナ・アドジユベイ、、、サーシャの母


タルコフスキーの学生時代の作品。
映画大学監督科!の卒業制作である。
この手の作品は20分程度が普通らしいが、46分という長さ。
ちょうど良く感じた。

以前、ショート映画作品を幾つも見たことがある。そこではジェーン・カンピオンのもの以外さほど印象に残らなかった。
(イジー・トルンカのようなパペペットものなどはまた別格だが。)
ひとつのテーマが時間に沿って進むまたは引き伸ばされまたは循環するようなものが多かった。
短い映画はそれにふさわしい形式があるのかと思っていた。
ジェーン・カンピオンのものは、短い時間を最大限に生かした形式であった。

この映画は、短編とは言え、形式的には長大な映画と変わらない。
扱うテーマも内容もタルコフスキーの他の大作と基本的には同じだ。
いずれにせよ、
とても学生の作品とは思えない完成度だった。
場面の転換時などの窓の光の効果など。
シンプルに見せてかなりの巧みな技法が使われている。
なかには技法そのものが浮き上がって見えてしまう場面もみられたが。
安定した方法でフラジャイルな世界が煌めいたいた。

タルコフスキーは初めからタルコフスキーだった。
だんだんそれになっていったのではない。
これもロシアの日常がタルコフスキーを通して揺らめき立つ画像だ。

音、水、光、油、破壊音と廃墟、により構成される画面は、ちょっとした鏡の揺らぎで重層する違う世界に瞬時に変わる。
そんな危うさが、さらに故障がちなロード・ローラーと悪童たちに狙われるバイオリンで強調される。
それから少女に食べられたリンゴ、いつ壊れるか分からない赤と黄のロード・ローラー、褐色のパン、打ち壊される青壁、バイオリンの音、、、印象的な色彩と音色。
少年の意識ー目線に沿って場面が柔らかく展開してゆく。
そんななか。
サーシャ少年が心惹かれるロード・ローラーの運転手セルゲイの前で弾く音色。
共鳴状態の良い木漏れ日の綺麗な建物の谷間で響く調べ。「青い空」という楽曲。

実はわたしはこの場面が一番好きだ。
タルコフスキー全映画の中でも、5本の指に入るほど素敵な一時に感じられる。


7歳のサーシャ少年にとってはドキドキの冒険であったセルゲイとの昼食。(昼食前にはローラを運転させてもらった)
その短時間の冒険(初めての悪童との喧嘩や飲めない牛乳をガンガン飲んでみせるなど)の後の
少年音楽家と若い労働者の間の何者も邪魔できない美しくこの上なくセンシティブな空間の描出である。
こちらが少し緊張しつつ見入ってしまうところ。
というより見るべきところではなく、わたしがサーシャかセルゲイになるところだ。
雨水が突然、しかし絶妙なタイミングで屋根から垂れ落ち、バイオリンの音が奏でられる。
2人とも木漏れ日とそよ風を肌に感じつつ。天に響くバイオリンの音。

こんな時間が永遠に続いて欲しい。
わたしもこの少年もそう願う。
恐らく、セルゲイも。

しかしどちらも家に戻らなければならない。
セルゲイは今の仕事が完了しその場所を去る時が来る。
別れる前の晩にサーシャとセルゲイはあすの夜の映画を一緒に見る約束をする。

勿論、油の臭いを嫌う母親が彼を夜外に出すはずがない。
サーシャは窓の下で待つセルゲイに手紙を書いて飛行機を飛ばすが、彼には気づかれない。
一度も視線を交わすこともなく。彼は踵を返して行ってしまった。


こわれものを扱うような繊細な映画でした。

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風邪というモノから

602px-Rhinovirus.png

フラジャイルな存在としてのわたしたちを、事の他感じいるとき、、、。

風邪の正式名称は「風邪症候群」だそうです。
呼吸器系の炎症性の「症状」をさします。
ともかく、全員がその症状です。
家中ダウンしました。

中国では風の邪気いわゆる風邪(ふうじゃ)から風邪は引き起こされると言われています。
この不快な邪気が
次女から回り始め、わたしにまで回り回って行き着きました。

よくウイルスの写真など見ますが、不気味ですね。
邪と言われるのもなるほどです。

未知の物体やUFOなど面白がりますが、
顕微鏡下の世界などほんとうに凄いモノ達の蠢くところです。(昆虫のレベルでも相当なものですから)
こういう形のというより、こういうテクスチュアの何とも言えない異物の取り憑きによって
こんなに息が苦しいのか、鼻が出るのか、咳が止まらないのか、とつくづく思います。


わたしたちの体の中は、実際異物だらけ、もうずっと昔から細胞内に取り憑いているミトコンドリアしかり。
DNAは向こうが主体でこっちは単なる乗り物だと主張しているそうですから、途中から主客が逆転して訳がわからなくなって眩暈を起こしてしまいます。(これも風邪のせいか)
ニュートリノも様々な宇宙線もスカスカにわたしたちの体内を通過してゆきます。
いくら二重螺旋で守られていようと、何らかの影響を受けないとも限りません。

とは言え、われわれは内部情報系より外部情報系の方が遥かによって立つところが大きい生物ですから。
それもDNAとして次世代に伝えることになる、と言われそうですが、遺伝的に獲得しなくても外に蓄積するだけでも成り立つのです。
個々に身体化しなくても。
われわれは既にそうした生物となっています。猿までの流れを断ち切り。
常に未熟に生まれ、文化の揺籃の中にずっと居続け、生後長い時間をかけて進化するのですから。
それでいいんです。
成虫にならなくても、蛹のままでも、幼虫の姿で巨大なモスラとして過ごしても。
そちらに賭けたのですから。(何ものが、主体はだれ?)

不気味かも知れませんが、われわれの内界の方が遥かに不気味です。
この場所に主体を探したら、さぞ大変でしょう。
よくこの広大な極微の世界を指して内宇宙(インナースペース)と言いますが、
確かに混沌とした宇宙です。
自分が「ミクロの決死隊」になった気分です。
でも何も見つからない気がする。
要素の問題ではないでしょう。
関係性ー全体性の問題だと思います。

個々を追えば、、、

皆が皆、自己中です。

プリキュアに怒られます。

今日、娘たちに姉妹ゲンカしないという約束で、プリキュアのお人形を買ってあげました。
風邪を引き、咳をしながらケンカばかりしているので。
邪気のなせる業かも知れませんが。
(それとも根源的な業なのか?)

まあ、取り憑いているモノがああいう受け止め難い異物丸出し、物自体とも云いたいモノなのですから、、、

われわれという宇宙は様々なレベルでの生物や組織体が自分たちのために環境をつくり物質を生成し、その総体としてある訳ですが、危ういタイトロープの上にかろうじて成り立っているな、とこんな時にはつくづく感じるのです。

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ネオテニー

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もともと人間は生理的早産によって未熟な形で生まれ親や共同体の保護下に長く置かれます。
その幼児期から思春期までが、大脳が発達し文化的な素地を吸収するための期間となります。
ヒトはその上、さらに成熟するまでの期間を限りなく遅延させようとする傾向が指摘され始めました。
(これってヒトとして当初からあったものなんでしょうか、最近出現を見たものなんでしょうか?)

所謂、ダーウィンの唱えた適者生存ー自然淘汰の適応進化だけでは人間の進化は説明しきれない。それとは異なるシナリオの発動による自律的ー内在的に起こる遅延による変化がみとめられるというのです。
幼生進化とも言えるその説は、ヒトの成人が猿の子供の形態をとる(大変似ている)ことにも着想を得ているようです。
一段階前の生物の幼体にその(次段階の)成体が似る。
幼形成熟ーネオテニーです。

胎内期間を短くして、成長を故意に出来る限り遅らせ、その間に遊びやコミュニケーションその他の様々な関係性を創出する。謂わば、ヒトは「子供に留まる事」に新たな進化の可能性を見出したと言えましょうか。
ヒトという動物としての戦略でしょうか。
恐らくこうなると、脳はさらに大きく発達することでしょう。

個体差あるいは人種・民族差はあるかもれませんが、その方向性は確かかと感じます。
発育において幼児期の形態的特徴がずっと保持される。

「かわいい」文化であるとか、漫画・アニメもそれが照射されている一例でしょう。
ある意味これらは日本から世界を刺激し自覚を促した形ですが、どの国の童話などにも類例は見られるはずです。
また、勿論先鋭的な芸術作品やRock・小説・映画にも傾向が窺えます。
探せばキリがないほどありますし、そのベクトルが何やら加速されている気もします。
いよいよニュータイプの出現か?
(ハッキリそれと分かる飛躍はあるのか?何となくそうなっているのか?)

ピーターパンはいろいろ文化的な傾向・風潮を語るときによく引き合いに出されてきましたが、
ここでも顕著な例として浮かび上がります。
大人になることを拒んでずっとティンカーベルと軽やかに遊び続けています。
そのままピーターパンは性的な成熟体となるのでしょうか、それとも単に大人の体にならないでいるのでしょうか?
フック船長をワニに食べさせてしまうことは、これまでのヒト(大人)に対する象徴的な決別・超脱でしょうか?
日本の三年寝太郎も面白い形でのネオテニーだと思われます。
発現までの期間をあたかも蛹に成ったかのように寝て過ごします。
起きた後の姿も何処か幼児的な特徴を残していることでしょう。

わたしが最近思うのは、与沢翼というヒトもこの典型のひとりに思えるのです。
あまり存じませんが、Vで時折見る限り。
芦田愛菜はこの後どうなるのかも興味あります。わたしとしては、もう完成形のように見えますので。
大人の芦田愛菜は想像できません。
少しこの手の文献を覗いて見ますと、単に体外胎生期をネオテニーに置き換えているものもあり、それでは元も子もない話になってしまいます。さらに少年期は引き伸ばされた!
わたしとしては、成長遅延に飛躍的に拍車が掛かったと見ています。
エルンスト・マッハのような人たちからも、生の目的は、自分の少年期を努力により再現・奪回することであると語られています。ピカソもそれに生涯をかけていました。

これから多くの人々はピーターパンとして凍結するのでは、と考えています。
「結晶世界」が少しづつ出来てゆくのは、素晴らしい光景です。
雪が降ってもすぐにとけてしまいます。
(こんなことを繰り返していてもどうにもなりません)
単なるまやかしです。
すべてがクリスタル化すれば地球もひとつ上の段階に進化することになります(アーカシャ年代記)。

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アンドレイ・ルブリョフ~タルコフスキー

Андрей Рублёв
1971年
ソビエト

アンドレイ・タルコフスキー監督・脚本
アンドレイ・コンチャロフスキー脚本

アナトリー・ソロニーツィン
イワン・ラピコフ
ニコライ・グリニコ
ニコライ・セルゲーエフ
ニコライ・ブルリャーエフ
イルマ・ラウシュ


1967年製作。カンヌ国際映画祭に出したかと思ったら、送り返されその後6年間タルコフスキーは沈黙を強いられたといいます。カンヌ国際映画祭批評家連盟賞を受賞していますが。

タルコフスキーは数々の弾圧を受けていますから。
大変な時期に悪戦苦闘した芸術家であります。
ここでは歴史解釈で当局に問題視されたようです。

15Cのイコン画家、アンドレイ・ルブリョフを通し創造を巡るタルコフスキーの思想が描かれてゆきます。
「物の本質に迫るには、適切なことばが必要だ」
「畏敬の念から虚飾を廃する単純さが生まれる。」
「知識は悲しみに比例する。」
など、胸に刺さる言葉がたくさん散りばめられながら、この凄まじく重厚で長大な182分の映像が流れてゆきます。
アンドレイ・ルブリョフの苦悩とタルコフスキーの芸術制作の苦悩とが重なって見えてきます。

観終わった後の感動は言葉にならない、とてつもない大作であることは違いありません。
少なくとも、長さでは「アラビアのロレンス」などの名作もありますが、この重みに比較できるものはありません。
ある意味、もっともタルコフスキーらしい作品ではないかと思われます。
背筋に電気の走るような、まさに言葉の真の意味で「畏怖」を覚える映画です。
全編モノクロで撮られています。


作品は10のエピソードに分かれて重奏しつつ進行します。この手法は「鏡」でも見事な成果を見せています。

わたしが一番驚愕したのは、風景です。教会です。
タルコフスキーの映画でも、これだけの土地ー様々な光景を撮っているものは他にはないと思います。
ウラジーミル、スズダリ、ノヴゴロドの古都をロケして編集しているようですが、14Cロシアのイメージを鮮烈に詳細に印象付けられます。

例によってのシャワーのような豪雨、ちらつく雪、まとわりつく泥、粘土、銀、激しく熱い炎、重い鐘、そして鳴り響く鐘の音。
さらにここでは、権力と暴力、異教徒の侵入と迫害、白痴と女性性、圧政と処刑、殺戮に凄まじい労働。ボロ雑巾のような人々、そして飢餓と信仰。腐りゆく林檎。
罪の念に苦しむ、絵筆を折った画家の無言の「修行」はタルコフスキーの内面も同時に痛々しく浮き彫りにしてきます。
全編を通し、遍歴するアンドレイ・ルブリョフの魂の「修行」が描き尽くされてゆきます。
そしてその根底にあるもの、それが「ロシア」です。
何故、これほどまでに「ロシア」なのか。

また、タルコフスキーの作品に登場する俳優には忘れがたい魅力を漂わせる名優が少なくないですが、アナトーリー・ソロニーツィンというアンドレイ・ルブリョフ役の俳優は完全なはまり役だと言えます。
まさにこの映画にはなくてはならない存在であり、この重さを体現出来る俳優がそうはいるはずありません。
主役の抜擢においても見事に成功した映画だと感じます。
音楽も常に過不足なく被さる、共同無意識に訴える原始的な現代音楽。

物語は、大変唐突な農夫たちの作った気球で大空を飛ぶという何故か牧歌的なイントロから始まります。
そして本編と言える、アンドレイとキリールとダニールの3人の僧侶の悪夢のような旅が深く交錯してゆきます。
ロシアの悲劇を巡ってひたすら重く重く展開してゆくのです。
貴族同士の血なまぐさい争いとタタールの侵略、権力者の残虐性、異教徒の暗黒の祝祭と圧政。
そしてタタールから白痴の少女を庇い同じロシア人を殺してしまう主人公の苦悩。
何よりも胸を打つのは、終盤の鐘の鋳造の長い場面ーエピソード。
鐘作りの職人である若者が民衆を巻き込み、激しい情熱をかけて鐘を完成にまで至らせ、それを打ち鳴らした後、泣き崩れる。
それをアンドレが抱き抱え、「よくやった、一緒に行こう、わたしも絵を描く」と最後に誓う。

タルコフスキー=アンドレイ・ルブリョフのロシアとの和解か。
主人公の原郷を見出したかのような穏やかな表情。
後の「ノスタルジア」の本質が垣間見えた。
そう、あそこにも雪が降っていた、、、。


アンドレイ・ルブリョフのイコン画が映し出されてゆく。






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The Juniper Tree~ビョーク20歳の時の映画「ネズの木」

junipertree5.jpg
グリム童話の「ネズの木」から作られたモノクロ映画です。
ビョークも少女のようです。
もっとも彼女は未だに少女みたいですが。
年齢不詳の顔相ですから。
ダンサー・イン・ザ・ダークの前の作品になります。
(あのカンヌ映画祭主演女優賞受賞した作品です)

歌も聴けます。とても控えめな歌ですけど。
20歳1986年といえば”シュガーキューブス”をアイスランドで結成した年です。
時を同じくして映画もデビューしていたのですね。
さらに、長男シンドリも出産してます。
歌手・アーティストとして女優として母親としてのデビューです。
ある意味、現代のカリスマ・ビョークの誕生の年と言えますか。

映画ですが、TSエリオットの詩の朗読で始まる文学的なモノクロ世界です。
この詩は映画の主調を奏でています。
Juniper Treeとは西洋では「霊木」だそうです。
魔除け信仰に使われるという。
グリム童話の「ネズの木」を頭に置きながら観ても良いでしょう。

時代は中世アイスランドです。
その田舎で、魔女裁判によって火炙りにされた母親を持つ姉妹、カトラとマーギット。
ビョークは妹のマーギットを演じます。
2人は砂漠のような荒野を彷徨います。
そうするうち、父子と出会います。

姉は農夫ヨハンを魔法にかけ妻となり姉妹ともども一緒に暮らします。
しかし息子のヨナスはカトラには懐かない。
でもビョーク演じるところのマーギットとは仲良くなります。
母を亡くした者同士で。
でもどうしてもヨナスはカトラをひどく嫌う。
「ここを故郷にはさせない」

どうやらこの姉妹の母親は本当の魔女であり、
姉妹もその血を引き継ぎ、魔法を使えます。
妹は幻視者です。

ある日、海辺でマーギットの前に、死んだ母の霊が現れます。
母親の胸には、、、


ビョークとグリムのようなメルヘンの世界は似合いますね。
少なくともアンデルセンやイソップではない。
「ネズの木の話」です。

音も会話も最小限の暗く殺風景で広い土地。
風が吹きすさびます。
寂寥感充満する茫漠とした空間でのっけから川に突っ伏した屍体
人の動物の。
男の話す寓話。

どこにも現実的な温度が感じられない。
ただ風音がやたらと雄弁でひたすら寒々しい。

そして波音。
影と僅かな光。
光の中に鳥のさえずり。
笛の音。
糸と羽毛。
蒸気の噴出する岩場を歩く2人の姉妹。
滝とコーラス。
Gregorio以前の賛美歌のような音と現代音楽のコーラス。
そしてサードイヤーバンドを思わせる呪術的な音とともに
美しい光景だ。

馬に乗るビョークがたいそう可愛らしく。


グリムには煮て食べたり、焼いて食べるのが多いですね。
終盤はもう霊界です。

エンドロールは牧歌的なメルヘン。
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ヴァネッサ・メイ(ワナコーン) ソチ五輪に選手として出場!?

vanessa-mae001.jpg

ヴァネッサ・メイはデビュー当時から知っており、随分昔ですがCDとDVDも購入しましています。スター性の高いバイオリストでClassicだけでなくコンテンポラリーな領域ともクロスオバーした音楽活動をしており、声楽のシャルロット・チャーチ(天使の歌声)らと共に大変な人気を博しておりました。
いえ今も旺盛に活躍してますが、この方まさかスキーの女子大回転に出場するほどの「スキー選手」とは知りませんでした。そりゃ趣味ではやるでしょうが、まさかそれほどのアスリートでもあるとはついぞ存じませんでした。それにまだ五輪に出場するような年齢でしたか?(勿論葛西選手もいるので文句をつけるつもりなど毛頭ありませんが)ヴァイオリニストとしてすでに20年以上に渡って活躍しているはずです。

最近、彼女の後継者かと思うようなニコラ・ベネデッティがスコットランドから出てきました。もっともニコラは純粋にClassicの範囲で演奏活動を続けるそうです。
スキーしてるかどうかは知りません(笑

荒川静香さんのあのトリノ金メダルのイナバウワーで有名なフリー演技のバイオリンを弾いていたのが彼女でしたね。
プッチーニのオペラ「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」はここから売れに売れました。
これは覚えている人も少なくないはず。

ヴァネッサはバッハのトッカータとフーガをよくコンサートでは演奏していおりました。
面白いのは、それまでのオリジナル曲からこの曲に移るとき、超ミニスカートをロングに履き替えて演奏していました。なんでもバッハに対する敬意からだそうです。
確かこれも日本のシンクロナイズドスウィミングに使われましたね。
オリジナルのムードクラシックとも言えそうな曲やロックとの融合(流行りました)のフュージョンもかなりあります。
レッド・ホットが特に注目されヒットしました。
兎も角、聴きやすいイージーリスニングな曲・アルバムでバックミュージックにも心地よかったです。
4人組のやはりクラシカルフュージョングループの”BOND!"(第一・第二バイオリン、ヴィオラ、チェロ構成)など思い出します。

何とTVの話では、4歳でスキーを始め10歳の時にはプロ級の腕前だったということです。
彼女はイギリス国籍ですが、父親の出身国のタイ代表で出場です。そのため、選手としての名はバネッサ・ワナコーンとなっています。

これからの出場ですが、怪我のないようがんばってもらいたいものです。
何といっても、まずはヴァイオリニストですから。


「バイオリンは人生の情熱。スキーは生涯の趣味」だそうです!


2月18日11:00(日本時間16:00)から予選、14:30(日本時間19:30)から決勝。


おまけ
nicola-benedetti004b.jpgニコラ・ベネデッティ
123.jpgシャルロット・チャーチ


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葛西 紀明選手について

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10歳からジャンプを始めたそうで、それ以来スキージャンプを中心に生活全体を組んでいるという。
人生の極めて早い時点で自分のやるべきことをひとつに絞る。
これ自体なかなか出来ることではないですね。
その競技人生を維持するため、3日間の断食をするなど大変ストイックに身体を管理し、
試合が近づく頃には鬼気迫る表情で周囲を圧倒しているそうです。

瞬発力と技術で勝負する競技では、持久を何より要するスポーツほど年齢は関係ないと思われます。
場合によっては経験が豊富な分、技術に磨きがかかっているはずです。

また葛西 紀明選手は常に慣れ親しんだスタイルを壊し、果敢に新しい改造や工夫を取り入れるという。
恐らくここが最も特筆すべきところでしょう。
絶え間ない練習で確立したスタイルをそれが違うと感じた時点で新たなものを模索し取り込むという姿勢。
これはわたしに最も足りない部分で、大いに見習いたいところです。

そもそも「変わる」、ということがヒトにとって如何に困難を極めることか!?
それがかなりよくできており、相当な努力によって掴んだものであれば、まず変える気にはならないはず。
それを、さらに良い形があると予感すれば直ちに改造に着手するその姿勢。

長く第一線で活躍してこれたのはこれが理由であると思われます。
常にプログレスする。
そのためのdisciplineをけっして怠らない。

ただ、新しい形が完全に正解とは限らない。
現状を維持したほうが無難と感じてしまうこともあったはずです。
彼自身も全く不安なく変更を選択できたかどうか。
しかし変えようとする自分に100%信頼をおいて、出来る確信をもっていた。
と感じるのです。

ここが、普通のヒトと紙一重の違いであると思います。
その一重はしかし超え難い溝である。

通常ヒトの心は不安と疑いに満ちて、停滞してしまう。
そこまでのヒトで終わってしまう。
しかし単に静かに終わるだけではない。
全てのものは常に変転している。良くも悪くも。
自己防衛本能は時として逆説的に皮肉にも自分を環境の変化から取り残し自滅させてしまうことにもなる。


生命にとって変化こそが本質なのだ。


彼は、常にこれではいけないと思い自分を奮い立たせて努力を重ねて来たのか
もともと、こうと決めることに規制を感じない性格・体質の持ち主なのか。
やると決めたら好きなことだしもう夢中になってひたすら進めることが出来たのか。
少年のように。いつまでも。
永遠の少年?
それはわたしには全く分からない。


ただ、葛西 紀明選手は自分の正しさをここではっきり証明してみせたことは明らかな事実です。



*昨日の記事ですが、叔父は亡くなる数日前に緊急入院してそこで息を引き取ったそうです。
しかし最後まで自分の生活(内的にも外的にも)を全うして倒れたことには違いなく、そこにおいて病院(他者)の介在がなかったのは事実です。

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病院で死にたくはない!

Rapid_descent.jpg

哲学を死の練習と定義したのはプラトンか?
魂の永遠性を説くプラトンなら当然のこと。
魂の永遠性を信じて平然と死ねる。ソクラテスのように?
それが哲学だと。

動物と違い?ヒトは自分が死ぬことを知っている。
しかし、死が何であるかは誰も知らない。
だから死は観念以上でも以下でもない。

死は曖昧なぼやっとした不安として付きまとう。
大概そこから思想めいたものが立ち上がってくる。
死を一度考えると不可避的に生が逆照射される。

人生の最初と最後には自分の自由がない。
しかしそれ以外は自分の意思を貫いて生きようともする。
無理やり最期だけは自分で支配しようとするヒトもいる。


しかし

手足の自在性があるものだから、そこからの類推で生が自由だと思っているだけかも知れない。
そもそもヒトに自由などあるものか?

そこも怪しいものだ。
なるようになるではなく、なるようにしかならない。

ヒトは観念の動物であると吉本隆明が言うとおり、徹頭徹尾観念で生きている。
いや幻想の中に。
どのような幻想を生きているか。
それは何に帰属しているかを意味する。
だが不可避的にパラダイムに内属してしまうとしても、
今はそれほどすべてを内包してしまう透明な枠があるとも思えない、、、
それがパラダイムというものだといえばその通りだが。
言語の限界か?


せめてアナキストでありたい。
アナキストとして死にたい。

死んでも医者のスピリチュアルケアなど受けたくない(笑
勿論、延命処置など論外!


昨日、叔父が亡くなった。
わたしの父のすぐ下の弟だ。
家で亡くなった。
脳出血だそうだ。

わたしも家で死にたい。
父は病院で死んだが。
わたしは絶対に嫌だ。

明日、雪をかき分けてお通夜に出席することになる。
わたしは受付を頼まれている。

今年になって叔父に会って話をゆっくりすることはできた。
少し前にあった時と比べ随分衰えを感じた。
突然事故などで死ぬ(生を中断される)より、ゆっくりしかしはっきりと自覚しつつ死にたい。
叔父は確かにそのようにして亡くなったと想える。


墓碑銘にこんなものがある。
「次はお前だ」

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THEME:文明・文化&思想 | GENRE:学問・文化・芸術 |

羽生結弦選手に感銘を受ける。

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以前美としての身体表現 エレーナ・イシンバエワのところで、技を競うスポーツの美について感想を書きました。

今回は、羽生結弦選手に圧倒され、何か書いてみようかとおもいます。
まだ圧倒されたままなので、何がでて来るかは分かりません(笑


エレーナの棒高跳びは大変美しいものでしたが、それにはアーティスティックインプレッションの項目はありません。
勿論、採点になくてもその要素は十分にあり、飛び越すということは必然的にフォルムの美しさが要求されます。
スタートからバーをまたぎ終わるまでの完璧な流れの美がなければクリア・成功しません。
謂わばこの美は、スポーツ全般における優れたアスリートの見事な競技に普遍的に見られる美と括れましょうか。

しかしフィギュアスケートは、スポーツにカテゴライズされてはいますが、上のスポーツ一般とは異質なものを感じます。それはバレー(クラシックバレー、モダンバレー、その他の舞踏)が芸術とされスポーツではないことにおいて。

つまり、フィギュアスケートと同様に新体操、ばあいによってはシンクロナイズドスウィミングにも感じるものですが、これらもすべて演目の主題をいかに表現するかというもの(競技)になっています。
ここにおいては、他の表現芸術と変わるものはありません。
バレーも美を表現するため大変な技術を要求され採点もされます。
フィギュアはそれを氷上で行い、新体操は手具を使って、シンクロは水中で、と方法を変えていますが、いかに主題を的確に美しく身体表現するかの点では形式的には同じではないかと思われるのです。

まずスケートというスポーツがあり、そこに後からスピードを競う他に美しい滑りを磨いたらどれだけのものになるか、というかたちでフィギュアが入ってきたのでしょう。
体操競技を手具を使ってさらに幅広く美しい表現を取り込めないかとか、
シンクロに関しても水泳競技に美を追求する競技として加えられたものではないかと思われます。
これは実際の正しい歴史を述べているのではありません。
構造上そういう形になっていると考えられます。

やっていることは、氷上のバレーと言ってもよく、表現芸術としても充分通用するレベルにありますが、起源がスケート競技であって、スポーツから拡張・派生したものであるから今もスポーツなのかと勝手に想像しています。他についても。もしバレーを氷上でやったらどうなるかというところからフィギュアが生まれたのなら、絶対に表現芸術として行われているのが自然だと思われます。

スポーツか芸術かは見ているわたしのような素人にとってはどうでも良いことですが。
美しければ感動できそれで良いのです。
ただスポーツの方が雰囲気的にも親しみやすいですし、競争があからさまに主となれば見る方も熱中できます。
それについてはサッカーなどが最たる例ですね、まさに熱狂ですから。
フィギュアスケートや新体操を静かな厳粛な会場で鑑賞するのも充分アリだと思います。
プロのアイスショーやエキジビションなどはむしろそちらですからね。
両者の違いは観客側の捉え方の違い、応援の仕方・姿の違いに収斂されそうです。
アーティスト=アスリートのやってること自体に本質的な違いは感じられません。

羽生結弦選手ですが、そう彼について語ろうとしていたのです。
彼の演技が、何か国を背負った代理戦争のような旗振って応援するようなものには感じられず、
ただ観戦でなく鑑賞に値する美しい表現に思えたので、こんな話になったのだと思います。
今日は何書くかまったく考えていないままに書きましたので、この辺にしておきます。
*この時点で羽生結弦選手はSPで1位です。フリーが楽しみです。(久々のスケートTV鑑賞)

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THEME:芸術・心・癒し | GENRE:学問・文化・芸術 |

いないということ

「いないということ」

最近、娘たちが隣に座って「お話」をしてくる。
わたしにとっては、その行為だけでなにかの意味を感じる。
隣に座られることで、彼女らが何か頼りがいのある話し相手のような気がしてくる。
確かに貴重な話し相手だ。
独身の頃は、猫だった。「ホキ」という真っ白なメス猫。

何より確かな話し相手なのだ。
次女とその話に乗った長女が、いろいろ話すのだが、結局「いないということ」はどういうことだ?
であった。
「いない」「ない」とはなにか。「ある」とは。
ハイデッガーか?ちょっと頭をよぎったが今喋れることは何にもない。
哲学的に「いないということ」を一般化して考える気にはなれない。
あくまでもわたしとこの話し相手のふたりの娘との間の話にしたい。

わたしの具体的な身体的場所からはなれず、はなそう。
まず、わたしは遠からず、あなたたちの前から姿を消す。
とは今は言えない。
次女はそういう事態にことさら抵抗を示す。
でも、はっきり確定していることは、それとなく知らせておいたほうが良い。

わたしはそれまでの日々をカウントダウンしながらこれらも書いている。
まだまだ書いたりつくったりしたいものは他にある。
それまでは、いなくなるわけにはいかない。
と、思っているが。

ヒトの生などボヤッとしていれば、あっという間に尽きてしまう。
短くとも効力のある生を送っていたなら、二人にとって意味を残せる。
何らかの価値となる。
わたしにとって重要なのは、生きられる時間を過ごすこと。
ふたりの小さな肩をこんなふうに感じながら過ごすこと。

そしてこの不確かで流動的な生ぬるい冷気のなかで、まったりはしていられない。
二人を老けた女子高生みたいにはしたくない。
とりあえずは、想いとしての存在は彼女らの感覚にときおり触知されるものでありたい。
「いないこと」で出来る場所は、純化した想いの結晶の際立つ空間となる可能性はある。

せめて彼女らの脳裏に浮かぶ想いは彼女らを幸福に向けるものにしたい。
そのための時間を生きたい。
これからも隣に座ってお話をしながら。
これからどのくらい隣に座っていられるだろう?
隣に座っているだけでいい。

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THEME:文明・文化&思想 | GENRE:学問・文化・芸術 |

寝る前の次女との話

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近頃、次女は眠るのが遅いのです。
ベッドに入っても(最近よくわたしのベッドで寝ます)隣でなかなか寝付けない様子。

「何かお話があったらしていいよ」と言うとなかなか答えず
「お話ちゃんと聞くから」と促すと「ヒトはなんで死んじゃうの?」
ずっとそのことについて、ここのところ考えているのだそうです。
なるほど、それでは眠れまい。

長女はなんにも考えてないだろうな。
寝顔を見れば分かります(笑

聞くと年をとることで死に近づくことと病気やケガでも死んでしまうことは承知しているようです。
で、「誰も死んで欲しくない。寂しい。」ということなのです。
なにか最近身近にそういうことがあったかなと思ったのですが、特段思い当たりません。

まあTVもあったり、幼稚園でのお友達か先生とのお話で出たのでしょうか。
でも普段、死は実際そのような具体的・個別的な事例がなければ表沙汰になることはありません。
しかし誰が死んじゃったのよ止まりで、死とは何かという「死」そのものが対象になることはないです。
一般化するにも答えが最終的に出ません。
発達段階においてどう対処するべきかも分かりません。
これまで教育の場において論じられたことはなく、一部の思想家の言説の中に見られる程度です。

とは言え、これほど絶対的で普遍的な事象に対し、考察が普通にもなされていないことは異常ですね。
他の何よりも確実に死は万人に訪れます。
よく見通しをもって生活-行動しなさいと言われます。
わたしも便宜的にそう言うことはあります。
であるなば、死に向けて何をどう進めてゆくか計画的に過ごすことが基本であろうと思います。
最も基本であろうと。

ペットなどを飼っているあなたは、しばしば考えることだと思います。
死んだ後ではなく、ショップで買うときからその予感を基調にして共に過ごしているはずですから。
だから可愛い。たまらなく愛おしい。
ご両親が戦争を体験されたあなたは、少なからず彼らの話の端々に感じることがあると思います。
戦争体験者はえてして語りたがりません。具体的には引き上げ後、一言も語らない親戚の叔父とかいます。
そもため、いやでも沈黙の時間の重さを感じます。

死は容易に語りえないものであり、他者の死について語ったところで何が分かるというものでもありません。
仮に自分の死を語る何かの思いもつかない機会を与えられたとして、そもそも語る言葉を持っているのか?
それを捉える感覚が準備されているのか?

「死とは何か」

実際、類推することも叶いません。
幼虫としてのわたしが終わり、全てを忘れ蛹となって、さらに全く新たに成虫として何処かに羽ばたくのか?
そのような飛躍を孕む非連続的な連続性を自然界を見るに付け想像してみたくなりますが。
実際どのようなものなのか。
昆虫における変態は、次の段階ではいかなる記憶も継承しないそうです。
各器官を動かすことにおいて前の記憶はことごとく邪魔になるからだそうです。
輪廻転生を考えれば、前世の記憶など覚えてはいません。
「われわれはどこからくるのか、そしてどこにいくのか、われわれとはなにか」
ゴーギャンの言葉が普遍性をもって蘇ります。

実際どうなのか、生きている人間には原理的に分かるものではありません。
例えその超越的メカニズムが判明したとしても
それが何であるのかが分かることとは別です。

次女には今はご飯をしっかり食べて、大きくなる時期なんだよと言い、
もう食べる必要がなくなった人は土へと戻ってゆくんだよ、と現象面だけ伝えました。


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THEME:文明・文化&思想 | GENRE:学問・文化・芸術 |

雪に舞いあがっていました

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すべてのことを放り出し、雪と戯れておりました。
世界がいつもより明るいのは雪のせいです。
前半、雪だるまを作り、後半かまくらを作りました。
ご近所がみんな外にいるのが面白い光景です。

ショベルをもって雪かきです。
界隈がとても賑やか。これも雪のせいです。
子供の楽しそうな甲高い声が響きます。
シャベルの雪をさくる音は止みません。

うちだけ、かまくら作りに専念し、前の道路などほったらかし。
申し訳ないけど、かまくらが最優先なので。
ふたりの娘の初かまくら。
小さなかまくらだけど、是非ふたりを入れてあげたい。

かまくら作りにおとなもこどもも興奮気味。
腰が痛くなっても止められない。
こんなときしか作れない。
家でしごとなんかしてられない。

でもいざ作るとなれば結構キツイ。
雪をひたすら集めてまとめる。
大きな球状にして、入り口をつくり中を掘る。
充分にえぐったら床にダンボールを敷く。
頭に大きな目玉をつけるとカエルの顔になってどうにか完成。

ふたりの娘がキャーキャー言って中に入る。
バーバにみかん持って来てと長女が頼む。
みかんを食べながらニコニコしているところを
写真にバシっと。
本当に久しぶりの積雪。

今週の金・土にはまた雪の予定。
このかまくらいつまでもつか?
また雪が降ったらもっと大きくしよう。
わたしも入ろう!

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THEME:スピリチュアル・ライフ | GENRE:ライフ |

スターダスト

確か、近田春夫さんが昔、スターダストブラザーズという映画を出していたように思うのですが。
題ははっきり覚えていないのですが、スターダストブラザーズっていうのが出ていた映画です。
はい、夢ではなくホントに見ました。歌っていました。まだ耳についています。ノリが良いだけでちっとも名曲などではないのですが。早く忘れたい。

デヴィッド・ボウイの5作目のアルバムが「ジギー・スターダスト」でした。
ボウイはやはり凄いです。
何が凄いって、クラフトワークのレコーディングスタジオにただひとり部外者で入ることを許可されたヒトですから。
やはりアルバム”Low"のワルシャワが良かったのかしら?(勿論ワルシャワがポーランドの首都であることは知っています。)

最近物忘れがひどく、そのくせ昔のことはよく思い出す(笑


800px-Stardust_-_Concepcao_artistica.jpg

1999年の今日、米が「スターダスト」を打ち上げました。
NASAディスカバリー計画のひとつ。
彗星、最近とみに話題の彗星から試料を持ち帰る試みです。
所謂、サンプルリターンミッション。
ハヤブサのご先祖の宇宙探査機。

800px-Stardust_Capsule_on_Ground_011506.jpg

宇宙人いや宇宙塵を持ち帰っています。
2006年1月15日にカプセル帰還。
史上最速で大気圏突入を果たします。
火の玉だったが、データは勿論、無事。
持ち帰りが目的なので、クレーターに突っ込め等という追加ミッションはない。
但し、必ず予定より機器が長持ちしたりするため、延長ミッションは避けられません。

スターダストについては、テンペル第一彗星を再度探査。
かのディープ・インパクト(インバクター発射で有名な)の後釜でしょうか?
この探査機については、そのうち書きます。(名前を途中でエポキシ!?に変えられてしまうのです。)
映画もありましたね。そこそこインパクトある人間ドラマでした。これについても近いうち書きます。

660px-Stardust_Dust_Collector_with_aerogel.jpg

持ち帰ったデータは今尚分析中。
これがいつも結構長くかかるため、時折忘れた頃に何か発表されています。
大概地味です。カンラン石が見つかったとか。(マントル上部はカンラン岩で構成されているようです。)
これについては例の地底人に聞いてみたいものです(笑
いまのところ、書く予定はありませんが。

スターダストはまだ打ち上げ機に力がなかったため重力アシスト(スイングバイ)で軌道速度を定めました。
公転運動を利用し燃料を使わず、軌道と速度を調整する方法です。
これでヴィルト第二彗星の尾に入り、コマからの試料の採取に成功しました。
彗星の尾は重要ですね。地球にも根源的なインパクトを与えていますし。

スターダストはまた、彗星に向かう途上で小惑星「アンネフランク」に接近し写真を撮っています。
惑星や彗星の命名って大変なんですね。
天文学者の中には、発見しすぎて死ぬまでに命名しきれずに他の人が命名することもあるといいます。
アンネフランクも困ってつけたような気がします。
四方山話になってしまいましたが、この辺で。

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THEME:テクノロジー・科学ニュース | GENRE:ニュース |

デペイズマン

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一旦夜は夢もろとも初期化される。
漆黒は空以外真っ白に塗りつぶされた。

初期設定はこれで終了。
すべてのリソースは読み込まれた。

コンフリクトは起動を妨げない。
唐突な惑乱が新たな編集ーOSを引き込む。

次々に呼び出される様々な風景。
無限の風景を呑み込むアプリケーション。

それはデペイズマン。
バージョンもリファランスも知られていない。

本質が偶然であるためだ。
予測の彼方の場所にあるからだ。

属性は過剰さの中で剥落し。
カット・アップする中で意味が暴発してゆく。


キャプションをとりあえずでもつけないと。
すべては中空に消失してしまう。

いつしか思考すらもしていない。
呼吸を合わせる。

それだけ。
深く呼吸を合わせる。

これは一種の行かも知れない。
異なる場所ー振動となるための。

それもすぐにジャンプする。
あなたをそそのかすために。

ただ、周到にある予感を残す。
これがひとつの仕事に当たる。

いや手法だ。

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THEME:哲学/倫理学 | GENRE:学問・文化・芸術 |

節分の日に 「福は内、鬼は外」

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確かに季節の変わり目ですから。
こういう時は昔から、邪気が日常にスっと入り込むといいます。
この豆撒きも邪気を追い払う儀式のひとつなのでしょうね。

水木しげるの本を出してきて読もうかと思っていましたが、豆まきだけで終わってしまいました。

娘達が今日幼稚園で作ってきた鬼のお面をして凄い勢いで撒いて回るのです。
家中の窓を開けて。この寒いのに。
長女などハリのある声で叫ぶので、かなり通ります。
夜大丈夫かなと思いましたが、まあ声質から問題はないだろうと思いました。
娘たちはお面が好きで、プリキュアは特に好みますが、鬼も相当な乗りです。

文字通り「変身!」です。

「福は内、鬼は外」

まさにそうです。

「福は内、鬼は外」

私は一度も声は出しませんでしたが
階下から響く長女の掛声に私の思いも知らず乗っていました

「福は内、鬼は外」


後は年齢の数だけ豆を食べて厄除けを行います。

確か、歳よりひとつ多く食べるというのも聞いたことがあり、毎年どっちが正式なんだろうとおもいつつそのままにしてきましたが、今年もそうなりそうです。

どうなんでしょう?
風邪をひかなくなるというのが一番有難い。

私はいつも歳の数だけです。
でも私の歳になるとその数食べるのも大変です。
例えば100歳の人がその数食べるというのもちょっと無理があります。
娘たちは5つどころか25個くらいは食べていました。
もう、適当です。そんなもんです。
それでいいんです。

日本だけの行事ですし。
日付も今ひとつはっきりしないところがあるし。
昔は違う日にやっていた記憶があります。
もうはっきり覚えてませんが。
しかし、天体の運行を元にしている行事というのは大切にしたいと思います。


「福は内、鬼は外」

声が止んだら急に辺りが静かになった。

鬼は何処かに逝ってしまったのだろうか?

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THEME:哲学/倫理学 | GENRE:学問・文化・芸術 |

親戚宅で悪夢を幾つも見る。

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注:ここの猫ではありません(あくまでもイメージです)。

今回私の泊まった東京の親戚宅はうちの妻とふたりの娘がよく遊びに行き、お世話になっているところである。
大きなマンションの11階にあり、駅とほぼ繋がっており、大きなマーケットにも繋がっていると言って良い。共有施設も体育館にキッズルーム、談話室、公園、お店も入っており、便利な居住空間だ。
幾つかの中庭には植樹もされていてちょっとした林を思わせるところもある。

その部屋は、4人暮らしには十分すぎる広さと部屋数があるため、われわれ4人が急に来て泊まることになっても、不都合は全くない。
床暖房が効いていてさしてエアコンをかけなくても結構暖かに過ごせる。
そのため、猫もいる。
そのためではないのだろうけど。

今年から大学生となったお兄ちゃんは、ベランダから富士山が少し前まで見えていたのに見えなくなったとしきりに私に訴えていた。見ると前方に巨大なマンションがまた建とうとしている。
私の持ってるマンションもすぐ前が郵便局だったからすごく見晴らしが良かったけど、まさかと思ったけど、局を潰して14階のマンションが建ってしまったよと答えた。

彼は、そんなもんかあ、と言いつつBSを付けバスケットボールの試合を見始めた。
W大の商学部ではマルクスもやんなくてはならなくて、、、目は画面から離さずこちらに小声で呟く。
おじさんまたそのへんのこと聴くと思うけど、、、とこちらを流し目で伺う。
そう言われてもね、実際ニーチェなんかの方が答えやすいんだけど、クッキーを食べながら話をにごす。

そのうちふたりの狼藉者が抱っこだとか、氷鬼やろうと飛びかかってきて、部屋中を駆け回るハメに。
動きが部屋の中では収まらなくなると、もう仕方なく私はふたりをキッズルームそして中庭へ連れ出した。
強烈な陽が時折おでこに当たる。まだまだ太陽大丈夫じゃないかとおもいつつ。
私は木々の陰に座り込み二人を観察することに。

彼女らは二人で何やら役を割り振りごっこ遊びをしながら走り回る。
そして公園まで足を伸ばして行って私ははじめて二人がブランコの立ち乗りが出来ることを知る。
どうやら、何度か妻に連れられここでブランコをみっちりやるうちに立ちこぎを覚えてしまったようだった。
私は中庭と公園をついて回るうちに疲労が一気に吹き出し、部屋に連れ帰ると、お兄ちゃんの部屋で眠ってしまった。


夢を幾つも見た。

夢で決まってよく行く夜の街だ。
月明かりに照らされた街をその細部まで鮮明に私は知っている。
そして
これほど反復して同じ場所に行くのはどういうことなのだろう、となかば夢の中でさえ思っている。

私は自転車に乗る。
大変しんどい石のごろごろ転がる高い丘へ続く道を必死に漕いでゆく。
夢で疲れは感じないというが、感覚的・視覚的に大変な労力を感じ取っている。
やがて日が昇りイオニア式の柱を思わせる神殿がすぐ前方に現れる。
いや
正確に言えば神殿はかろうじて原型を残すと言って良いほどに崩壊している。
しかし巨大な神殿であることは、はっきり分かる。
何故私はこんなところに自転車できたのか?
毎回毎回来るのか?

そして、薄暗いトイレらしきものが、複雑な回廊の脇、空に面したベランダのような廊下の先にある建物の中を彷徨う。
どうやらトイレをさがしているようだ。いやどうなんだろう?
トイレがいろいろな部屋に見つかる。
しかしどこにも入る気がしない。
大変古い、金で出来たトイレも多い。

バスに乗るのだが、途中で乗り換えなければならない。いつも乗り換え所で座れるわけではないのだが、私はなんとしても座りたい。その座ることにかけて、特に何の策を練るでもないのだが、何日も何日もその乗り換え所でのバス乗車を永久反復していく。

もう一つは、起きる寸前までかなり鮮明に覚えていたにも関わらず、思い出そうにも思い出せない。
片々のイメージが微かに残っているのだが、言葉の網にすんでのところでかからない。


主の帰宅とともに食事に起こされたが、少しビールを飲んでまた寝てしまった。


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”Bon voyage.”

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