
ムンクやキリコに凝る時代がある。(今回はムンクのみ)
わたしは凝ったことないと言う人が多いことは承知の上であえてそう言わせて頂きます。
象徴的にこういう時代、ってどういう時代かは下で述べるとして、を潜った人は多いのでは、と。
それは、あらゆる苦痛(精神・身体)に対して神や仏に縋るのではなく、医者にかかるのでもなく、遊びや部活・勉強に解消したのでもなく、素手で正面から表現ー自己表出によって自分を支えたという経験、というか時期のことをわたしなりに指したものです。
あらゆるインプットに対して過剰なアウトプットをして弾き返さないと、どうにもならない時期を通過した経験を、簡潔に小泉元首相風に言ってみたものです。
ムンクはどう見てもあれらの絵を、趣味で楽しく描いたとは思えません。
明らかに、止むに止まれず切羽詰まって描いたものです。
描かなければ狂ってしまう。
後がない、という場所で。
ムンクはノルウェーの古い家風の厳格で信仰深い医者の父親と母親と一つ上の姉のいる家に生まれます。
しかし5歳で母親を結核で亡くします。
父親はより信仰に深く沈んでゆきます。
ムンク14歳のときに、同じく結核で姉が他界します。
父親はさらに信仰にのめり込んでゆきます。
元々無口な父親は、さらに家庭を暗くしてゆき、病弱で不安定な健康状態に悩むムンクにさらに重荷を背負わせてゆきます。
貧民街の患者を無料で診たりして、経済的にも困窮するようになります。
父親には祈るという行為しか最終的に残っていませんでした。
しかし、ムンクは描くことで突破しようとしました。
彼は神を認めない!
父を認めないのと同様に。
「病める子」
これがその最初の答えです。
彼の原体験の至高の結晶です。
この絵を部屋のどこかに飾りたいなど思いも及びませんが、
時折、そっと確認したい絵です。
ムンクはこの後彼の特徴でもある(本質か)同一テーマの反復・変奏を行ってゆく。
ムンクは印象派を通過し所謂、世紀末美術に共振します。
彼は個展を次々に開催します。
これはそのまま時代に対する挑発行為でもありました。
接吻、情欲、嫉妬、不安、乾き、死、憂鬱、妖婦、、、
これらが影のテーマとして作品に秘められているといったものではなく、
タイトルそのものよりも激しく強烈な画像に表されている作品群です。
その強烈な野心作のパワーはいかほどのものだったか?
スキャンダルにより、展示会の会期を短く打ち切られたり、観客が警察を呼んできて個展を潰そうとしたり、ということが巻き起こります。
やりますねえ。
ここまで行かなくとも、こんな時期は少なからずあるものだと思います。誰にも、とは言いませんが。
ノルウェーと言えばイプセンですね。
革命的な思想のため28年故郷に帰れなかったひとです。
ムンクは個展で貴重な人々の知遇を得ます。
やはり大きく開かれた場での発表というのは大事ですね。
スキャンダラスならなおのこと人を沢山呼び込みます。
そのなかに本物が必ず確率的に混じってきます。
ムンクは「僕を信じたまえ。敵が多ければ多いほど、味方も多いものだ」と激励をイプセンからもらいます。
油絵を版画に変奏した作品や連作はかなり増えていきます。
あの「叫び」も生まれ、「マドンナ」、「生命のダンス」
傑作と呼ばれる作品が生まれ、それらも反復・変奏・連作が後に続きます。
この頃になるとムンクは芸術家として高く評価されますが、これは時間的な問題というより空間的問題です。
客にボイコットされた展覧会はベルリンです。そこでは、印象派さえまだ認知されていません。
これがパリに来るとここはすでにポスト印象派地帯です。
場所によるのです。
まだWebがある訳ではないですから、世界がフラットな認識地平にありません。
しかし、Webがあってもなお、人の認識が同レベルとなる訳では決してありません。
基本パラダイムは均質に時代を覆っていようと。
こればかりはどうにもなりません。
相変わらずアカデミズムや~派(イズム)というのも残りますし(笑
ムンクは自己省察を深めていくかのように「自画像」連作を生涯を通し多く描いています。
神等の超越者に頼ることなく、常に内省的にニンゲンというものの本質を自己において抉り抜いて曝す作業を続けていった作家と言えましょう。
ヒトはあるところで恢復、和解、成功、充足してしまうものです。
ムンクは成功はすれど、他者の評価などとはおよそ異なるところで、少年期の危機をずっとずっと訴え続けた作家であったと思います。
二次大戦の予感が高まる中、ナチスからムンクの作品は退廃芸術の烙印を押され美術館から撤去されます。
生涯独身であったムンクは自分の子供に等しい作品たちの行く末を気遣いながら心臓発作に倒れます。
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