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BASHAR

th (1)


チャネリング
チャネラーを通してオーバーマインドの話を聴く。ここではBASHAR チャネラーはダリル・アンカというひと。



わたしも時折、意識が別の次元に行くことは反省的に確認できます。
とても色濃い幻を見るように
そこではっきりわたしが何かを確かにするのですが、この日常の時間流に戻ると忘れています。
今ひとつチャンネルの切り替え方が分からない。
自在に行ったり来たり出来ない。

名前を忘れてしまった音楽を聴いたときにもスイッチが入ることはあります。
不安に耐え切れないほどの巨大な大河が夕日に7色に煌きながら眼前をゆっくりと流れてゆく。
ふと名前を思い出したと同時に戻っている。
ことばが覆い被さるととたんに夢から覚めるように
否、悪夢に落とされるように。


そんな儚い体験を、チャネラーを通してはっきり伝えようとする試み?
しかし日常の伝達はともかく、このあり方を伝え示すというのには、いささか言葉そのものの限界を感じざるを得ない。言葉がこれほどもどかしいものとは、、、。
この世界に詩や絵や音楽のある意味が、その必要性がつくづく判ります。


チャネリングを通してBASHARの言っていることは、「あなたの経験している人生はすべてあなたが作り出している」に尽きます。
このことをただひたすら形を変えて言っているのみ。
さらに「時間は幻想であり、全ては同時に起きている」確かに!
しかしこれは今のわれわれの言語-ことばの構造では認識が困難な事象である。
時間を現実化してしまったことばでは、BASHARの言うことをそのまま認識できない
というか実感が難しい。


物理的な現実を自分でどのように作っているか。

あなたの意識が。


あなたの現実が困難なものであるのは、あなたが否定的な波動を出しているから

あなたの現実がワクワクして楽しいのは、あなたが本当に好きなことをしているから

わたしは何が好きなのか分かりません。


まずはそこか?

一歩そちらに向くと(どちらであっても)
そう思うこと―その波動を発することで
その現実が引き寄せられる。
どんな現実であってもすべてはあなたの望んだもの。

自分が本当にやりたいことがわかれば
必要な時に必要な情報はやってくる
完璧なタイミングで
宇宙がそれをサポートする
そういうシステムで宇宙はできている。

自分を100%信じられるか


やはりお経(マントラ)を唱える効果はよくわかる
あの速度!波動の調整。
われわれの纏う言語はあまりに重い。
区分、分離ばかりで統合し全体制を感受させるゆらぎがない
ものを押し殺すことば

肝心なものが制御されている。
こころの不自由さ。
そう言ってしまってはそれまで。

ことばの解放!
ことばの浄化!
ことばをまず消滅させたい!



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シリア電子軍

Trojan_horse_Çanakkale

まだ謎の部分の多い軍のようです。シリアのバッシャール・アサド大統領を支持する政府系ハッカー集団「Syrian Electronic Army」と名乗りますが、人によっては政権直属の軍ではなく民間の少数のグループであろうとか、まだ特定はできていない模様です。
「最近のシリアでの反乱についての事実が大幅にわい曲されていることに受け身でいられなかった」ということで西側メディアに対する怒りをもつ集団とみてよいようです。

その「シリア電子軍」という団体のやったこととは、
協定世界時の8月27日午後8時29分、米Twitterの多くの企業のDNSサーバレコードを改ざんしたそうです。それ以前にTwitter.comのドメインを乗っ取っていたのですね。まだ報道機関・企業対象の攻撃で、ユーザーdataには影響は及ばなかったそうですがやろうと思えば、それ以上のことも可能でしょう。ついでに著名人のアカウントもスピアフィッシングという偽装したフィッシング電子メールでハッキングしたそうですし。さらに偽ツイートでホワイトハウスを攻撃しオバマ大統領が負傷したと広め、株価を引き下げています。これなどはある意味、個人レベルのネット上の誹謗・中傷と地続き(形式上同じ)ものと言えます。

古代から戦争は情報戦争でしたが(トロイの木馬など)、戦場がWEB上(SNS)となると、われわれも当然傍観というわけにはいきません。勿論どこが攻撃を受けてもその影響は株価になど出てきますが、今回の件で戦争はかつての国対国(アメリカ、ロシア、中国、イラン、北朝鮮とサイバー攻撃が断続的に見られていますが)というレベルのみならず、国という枠を超え(経済ではとっくにそうですが)個人レベルで様々な層を巻き込み勃発する可能性も容易にかんがえられます。民族問題・宗教・思想レベルにおいては特に。
SEAの今回の攻撃のわれわれにとっての直接の影響としては、TwitterもFaceBookも認証プロセスなどのセキュリティーを上げてきますね。手続きが少し面倒になるはずです。



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自動運転

最近、自動車の安全システムのCMが盛んですね。富士重工のiSightに始まり、拍車がかかっています。Suzukiのように低燃費で押していた会社が急遽、レーザーで車をストップするシステムを追加してきましたね。新しく出したばかりの車に、すごい短いインターバルでの追加機能。自動車業界の全体的方向性が窺えます。
実はもっと先に世界は動いていました。日本も負けてはおりませんが。


GoogleCarという自動運転の車がもうほとんど完成の域に達しているようです。またしてもGoogleです!(GoogleGlassはどうした?)今テスト走行を繰り返しており(何と公道で、でないと意味がない?!)、あと数年で誰もが普通に使えるレベルの製品になる予定だそうです。

カメラ、スキャナー、GPS、地図データ、通信機等の装備で全く全自動で安全に走行が可能とのこと。いま世界的にブームと言うか研究が進められています。日産も試作車を発表しています。ただ行先を設定して、乗ってればよい。
楽でよいです。ぜひ乗りたい。ただ日本でもテスト走行を公道でする必要は絶対ありますが、できるのでしょうか?

人間は健康状態や精神状態に多分に左右されます。特に日本では高齢化社会に本格的に突入します。車がないと生活できない地方もあります。言うまでもなく自動車事故は車の原因ではなくほとんどが人が原因です。最近、バスやトラックなどで悲惨な事故が続いていますし、ぜひ早い実用化を望みます。国の後押し、支援も必要です。原発外交ではなくこの技術を持っていくべきです。自動車の事故死は戦禍の死傷者を遥かに上回ります。

銃とは根本的に違うとは言え、車も立派に人殺しの凶器になっている現状からも、人と言うあやふやで危険なものの関わりをなくすことは理に叶っています。これがしっかり実現したら、本当にテクノロジーの勝利です。

車を運転するのが何より好きな人は沢山います。それはもう専用のサーキットやオフロード地区で趣味でやる。鹿狩りみたいに。もうこれからは人を轢く可能性のあるところにはドライバーという時代遅れの存在は一切乗り出さない。

ところでもし、完成したシステムでなんの異常もなく走らせて事故が起きた場合、誰が責任を負うのか。Googleか?あらゆるケースを考えたテスト走行を行ったとしても、雪崩や落石などの突発的事故はともかく、自然は何があるかわからない。バグだってかなり走らせなければ出現しないこともあり得ます。でなければ、パソコンのアプリケーションのアップデートなど必要ない(勿論、ウイルスなど敵意を持った攻撃要素はあるにしても)、さらにシステム自体に何らかの故障が生じた場合、(飛行機と同じくマニュアル運転に切り替えられるでしょうが)とんでもない事故になる可能性もあります。そこだけは、2重3重の安全対策は施してもらいたいです。


車を人が運転するなんて、ありえない、、、という日が来る。来るべきです。
わたしも車の運転は大好きですが。自分を100%信用できない。人を信用できない。
では、機械は?
いまのところ悩ましい、、、点検・自己修復システムや学習システムが高度になれば期待は大だと思います。



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ほっぺちゃん

41HuNAHHTVL.jpg

”ほっぺちゃん”というものがあるとは知らなかった。
知らぬはわたしだけか?!
今日注文したので、来週来た時に実物を見なければ正確なところが分かりません。
なんでも
水滴のような形、ダイキンのキャラクタ(ぴちょんくん)にあったような、スライムのようにプニュプニュしているらしい。そこに目があり、帽子もかぶったり、ウサギの耳もついてたり。
ともかく形が可愛く手触りがたまらないと、、、

いまや小学生で持っていない娘はモグリだと言われています。
「だれでもひとつはもってるしー」ってホントか?!
「サン宝石」という山梨県にあるアクセサリー店が考案・制作・販売(通販)しています。
(そういえば原宿などのアクセサリー店でサン宝石の小物が売れているというニュースを昔見たことがあります)
ものすごいヒット商品で出荷すればたちまち売り切れで、バリエーションもいまや沢山でき、ゲーム機器(タカラトミー)も大変な売れ行きだそうで。
ほっぺちゃん専門店もできているといいます。

その発案は、パート従業員によるものだそうです。
今もその人はサン宝石にいて、正社員だそうです。
何故、正社員なのか?
パートやめて何故起業しなかったのか?
そこにいるうちにすべての権利は会社に譲渡しているんでしょうね。
と言うか端から会社として出したのか?
今のように売れるなんて、微塵も思わず、あれよあれよと言う間に今日の状況になってしまって、そんなこと考える暇もなかったのか?
多分そんなところでは。

社長やっていたら、もう、、、と思いますけど。
海外だって売れますよきっと。

うちの娘はまだ知らないので、幼稚園で気づくまでに仕入れておこうと思います。
2種類4つ注文しておきました。
(これって教育的には疑問だが)
ただ、触覚的な刺激が魅力ということから、発達段階的には適当であると思われます。
きっと喜ぶはずです。
(それが狙いですが)


アイデアー発想ですね。ちょっとわきの道に逸れてみる程度の。
本人は余った素材をもったいないから、何かに使えないか考えたそうです。
それで、それをホイップクリームみたいにたらしてみたら、、、
とりあえず目をつけてみた。かわいかった、と。
海外でも受けている日本のアニメ・フィギュア・芸能の”かわいい”にあたる?!

奈良 美智が何故受けるのか分かりませんが、あのアイテムもほっぺちゃんと通じる感じがします。
河村目呂二の「猫」だってその系列かと。




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ボッチョーニ ⅱ

Umberto_Boccioni.jpg

古典物理最後の都市イメージ
喧騒。動揺。輪郭。振動。潜伏。入射。流束。胎動。

エドワード・マイブリッジさらにジュール・マレイの先駆者の存在。
連続動態写真にクロノフォトグラフィの成果。

そしてエントロピー理論。すべての存在を時間の矢に向かうエネルギーと捉え。
もはや実体のリアリティは運動力学に求める他なかった。
しかもベルグソンの持続の理論。
すでに霧箱の発明に宇宙線の捕捉。
という背景。

環境は機械のダイナミズムにいち早く気づくミラノ工業都市。

マリネティは「運動力学派」を名乗らんとしたが、結局「未来派」に落ち着いた。

速度の美によっていっそう豊かになる美。

印象派にとっての「馬」はリンゴと基本的には変わらない。しかし未来派にとっては「ある速度で移動する馬」以外の何物でもない。速度の描写という新しい表現方法、美術にとっての新しいパラダイムが必要であった。

「フォルムの中のフォルムすなわち持続をそっくり出すことが出来た。」マリネティ
ボッチョーニが34で死ななければ、「量子力学派」を生んでいたか?

夭逝したことが最も惜しまれる画家・彫刻家



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ブロンズィーノ

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ブロンズィーノの画集を眺めながら、マニエリスム期の画家の鑑賞でもしようか(まとめでもLowでしようか)、と思いつつページをめくっておりますと、彼の絵の中に大変なものを発見してしまいました!ここ暫く、さほど驚くということはなかったものですから、驚いたことがまた新鮮に感じたもんです!

それは「ビア・ディ・コジモ・デ・メディッチ」(1542年 60×45cm)というコジモ・デ・メディッチ1世の庶子であったが大変可愛がられた「娘」の肖像画です。ビアですか、、、この子が、親バカとかでなく客観的に観て、うちの長女に「そっくり!」なのです。この時期の作家ですから顔などは極めて写実的に描きますから、実際描かれた通りの少女だったはずです。(マニエリスムですと身体を長く引き伸ばしたり、不思議に誇張された構図が特徴ですが肖像画はそういうものはほとんどないです)だとすると本当に似ている。残念ながら少女は熱病で幼くして亡くなりますが、コジモ公は大変嘆き悲しんだと言われています。当たり前です。昔は誰の子であっても、幼くして亡くなるケースはとても多く、親はどれほど悲痛な思いをしたことでしょう。想像もできません。

何にしても、そろそろ娘の絵でも描こうかと思っていた矢先なので、ビックリです。これまでもたまにそんな気になることはあるにはありましたが、未来派でも追いつかない運動体なもので、暫くは手につかないなと思っておりました。
それにしても、ブロンズィーノの絵は上にある「愛の勝利の寓意」に代表される冷艶な官能性を打ち出した様式美が特徴ですが、ビアの肖像画は他の時代の肖像画群と比べても、この格式張った様式の内に、これほど少女の生の魅力を湛えたものはないでしょう。彼がとても暖かい目で捉えたであろう優しさに彼女は向き合っています。彼自身、ビアには特別な親愛の情があったのではないかと想われるのです。ここにいるのは本当に果敢なくも可愛らしい血の通った、生きた少女なのです。彼女はこの絵の中で永遠に輝いて生き続けます。もし当時写真機があったとしても、こんなに生きた少女は撮し取れなかったはずです。きっとブロンズィーノと良い関係が作れていたのだと想います。

うちの娘たちには、絵ではなく現実の日常世界において活き活きと遊んでいてもらおうと思いました。
やはり。



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鉱物標本~掃除で見つけた掘り出し物

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実はもう少し大きめの石で、もう少し数の多いものがあるのですが、それは取り外しの効かないところに、くっ付けています。暗いし写真にも撮りにくい。これは多分、高1の頃にしょっちゅう通っていた神保町で買ったものですね。押入れを片つけていたら出てきました。慣れないマニュアルカメラで撮ったので、ぼけてますね。済みません。

斑銅鉱  藍銅鉱  瑪瑙   緑閃石

方解石① 方解石② 方解石③ 胆ぱん

黄銅鉱  緑玉髄  蛍石①  蛍石②

方鉛鉱  赤鉄鉱  碧玉   藍晶石

麟雲母  孔雀石  色雲母  黒曜石

雌黄   珪化木  黄鉄鉱  薔薇石英

石英   透石膏  滑石   黄玉

の順に並んでいます。これだけでも暫くぼんやり過ごせます。
石ほど面白いものはないですね。わたしもこれだけ晶結する時間が欲しいです。
もしかしたら一番大切なものは時間かも、と思えて来ます。



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ボッチョーニ!

Umberto_Boccioni.jpg

マルクス主義のアナキスト!
未来派メンバーには他に、カルロ・カッラ、ルイージ・ルッソロ、ジャコモ・バッラ(師匠)がいる。親しい友達はジーノ・セベリーニ。一緒にマルクスとニーチェを読む。
ボッチョーニも理論家であるが何よりも詩人のマリネッティ(未来派宣言)の影響が大きい。
「戦争は美しい!」
「戦争は世界で唯一の衛生学である」
「唸りを上げるレーシングカーはサモトラケのニケよりも美しい」
「攻撃的でなければ傑作とは言えない」
ボッチョーニの絵は造形的には後期印象派を継承し、スーラの色点に渦巻く運動の概念を加えたものだ。すべてを塗り込めたセザンヌのような絵もある。彫像は壊れたガンダムのように完璧だ。彼は速度と急速な変化そのダイナミズムを追い求めた!(しかしなかなかスタイルは定まらずにいた)
技術は素晴らしく高い。(学生時代は凡庸だったと言われる)

性格は「蘇生したナポレオン」と親友のセベリーニに評され、自己中心的で野心的で激しやすく複雑で気難しかった、そうだ。
「、、、この世は新しい美、つまりスピードの美によって輝きを増した。、、、われわれは戦争を賛美する。、、、」と言うマリナッティのもとボッチョーニ、カルロ・カッラ、ルイージ・ルッソロは未来派画家宣言の草案づくりに没頭する。ボッチョーニは華々しく劇場の舞台で完成したそれを読み上げる。
他に詩人や音楽家を巻き込み、彼はようやく自分のやるべきことと制作上のビジョンが確立する。
「古代ローマの栄光を飽きもせず追いかけている芸術家たちのひどい怠惰にはうんざりする。」
未来派はミラノで大展来会が催され大成功を納める、がパリでキュービズムが起こっていることはまだ知らない。
大慌てでキュービズムも吸収し、パリでも果敢に展覧会を開いてしまう。そこでもまずまずの成功を得る。
クリムトのウイーン分離派やアール・ヌーボーもすでに大きな影響を与え始めており、ボッチョーニもその影響は無視できなかったはず。彼の作品には分離派の影響は見て取れる。また物理的な運動に集中してばかりではなく、精神的な詩情も巧みに造形している。(精神状態1~3など)さらに物体の時空間の移動というより物体そのもののフォルムの運動も表現しようとしている。

彼が彫刻を手がける頃はすでに美術館では未来派が常設されるようになっている。それ以降一人での作品展示会を開き、過激な政治的活動をし投獄されたりもする。そして、従軍を志願しロンバルディア義勇軍自転車人隊に配属される。この時期がボッチョーニにとって最も充実した幸福で実りある時であった。常に危険がつきまとうことに高揚して活き活きとしていた。「戦争は美しく、素敵で、恐ろしいものだ。山の中では、それは無限との戦いに思える。」しかし皮肉にも彼は実際の戦闘中ではなく、軍事教練の場で大好きな乗馬中に馬から落ちて死んだ。

享年33歳。


バルチュス、モロー、ボッチョーニには惹かれる。


(恐ろしい)発見、、、?
遠藤彰子氏の街シリーズの最新作とボッチョーニの傑作「道路は家に入り込む」の近似性。
色彩の点では全く異なるが、運動という点において、フォルムそのものの分子的な振動は遠藤氏にはないが、構図から来る運動・溢れる時空の展開はかなり近いものがある。少なくともエッシャーよりもこちらに近いか。


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ダイアン・アーバスの写真に触れて

Arbus.jpg

アーバスの写真は真正面から撮ることが多いことを除くと、レニ・リーフェンシュタールの「ヌバ」にも似ていると思いました。純粋に他者(異物)の強烈な美の記録という点において。
普遍的な強度をもった。
またアーバスはその対象の異質さにより、リーフェンシュタールはナチに絡んだ過去によりまともに論じられることはなかった点も似ています。

アーバスが狂信的なバッジを付けパレードに参加する青年を撮ったのは、情熱にもえる恍惚とした憑かれた美が、ただ撮りたいからであって、同じ強度で夥しいフリークスも撮っていたのでしょう。そこには政治的・思想的な動機など微塵もなく、自身の生の根源的欲望に従って、まさに生の証として撮りたいものを撮るという一貫した姿勢がありありと窺えます。その点で、リーフェンシュタールはやはり芸術(写真芸術)を意識していたことは疑えません。
アーバスはファッション写真家からの転向のように捉えられますが、ある意味、ファッションにおける虚構美も「それ」と通底するグロテスクさが認められたはずです。少なくとも彼女にとっては等価のものだったかもしれません。アーバスにとってカメラは、嫌悪を抱かずにいられないのにどうしようもなく惹かれてやまない彼らーそれに対峙する唯一の道具だったでしょう。ともかく「それ」を記録しないではいられなかったのです。正面からキッチリと。その点においては、彼女はいかなる枠にも派閥にも属さない単独の記録者であったと言えます。結果的に作品が良識やタブーなどに守られた凡庸な美意識を逆撫でしようが揺さぶろうが、彼女の関心はひたすら「それ」に向けられるばかりでした。いえ、「それ」から逃れられなくなるのです。

しかしそのままいくと必然的に彼岸へ、彼岸のものへとひきずりこまれてしまうのでしょうか?
あの歓喜の群れのなかへと、、、

「略、、、船が火事でゆっくり沈んでゆくのを、わたしは知っていました。みんなもそれを知っているのに、明るく踊り、唄い、キッスして浮かれ騒いでいます。希望はありませんでした。でもわたしは恐ろしいほど興奮していました。撮りたいものがなんでも撮れるのです。」(アート・フォーラム71年3月)
アーバス最後のメモです。数ヵ月後に手首を切ります。

生前に写真集が出版されることはありませんでした。


”An Aperture Monograp”と”Diane Arbus Revelations”さらに”Magazine Work”が現在、アマゾンなどから手に入ります。
わたしも昔、写真雑誌に抜粋されたものしか持っていません。今度買おうかと思っています。

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ケプラー修復不可能

ケプラー宇宙望遠鏡は、太陽に似た恒星のハビタブルゾーン(生命居住可能領域)内の軌道を周回している地球型惑星の探索を行ってきました。
2009年3月に打ち上げられたケプラーは当初の3年半の予定を超えてミッションをおこなってきましたが、4基のリアクション・ホイールのうち相次いで2基が故障し姿勢制御がキッチリできなくなったため、これまでの探索はもう続けられないという判断が下りました。これからは、軌道上での任務は終えて望遠鏡の能力を使った他の仕事を検討中とのことです。でもそれもコストパフォーマンスとの関係で決まります。ケプラーの運命やいかに。(まだはくちょう座の方を向いているのでしょうか)

いまのところケプラーの収集したデータの2年分が解析され、3500の惑星候補が発見されそこから135の太陽系外惑星が絞り込まれているとのことです。しかしそのうち数個が地球型惑星(岩石惑星)ではあるのですが、その軌道の中心にある恒星の温度が低すぎるらしいのです。まだ当分解析待ちデータがあり、今後新発見のニュースが幾つも聞けるかもしれません。しかし地球型惑星はありふれたものではなく、希な存在なのかも、、、。

まだまだこの地球にもわからない事ずくめです。海に目をやっても魚の世界などまだまだ新しい発見が続いていますし、深海に至ってはほんとに暗黒状態です。知的生物のイルカについても彼らが何考えてるかまるで分かってはいない。取り敢えず、芸をやってくれていますが。それはホタルイカについてもそう(あの中枢に対してずば抜けて優秀な目は何を意味するか、、、多分個体をいくら研究してもダメでしょう。有機的な編成体としてのあり方)。

そして何よりヒトでしょう。これについて、いつやるの?
いまでしょう!

誰もが死ぬまでにやっておかなければならない宿題です。
ハイデッガーに任せた、というわけには行きません。自分の問題ですから。
(これは勿論、自分に向けて言っていることでもあります)

それにしてもケプラーどうなるんでしょうね。

 
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「相模原の女性画家展」から遠藤彰子の近作について

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今回のお目当ては、「遠藤彰子さんの絵」です。

相模原市民ギャラリーで遠藤彰子さんの絵を見ました。遠藤彰子さんの名がなければまず行くことはなかったです。

1.美術の教科書で見た絵

少年時代の教科書にとても心に残る絵がありました。その絵は、自転車の影が長く延びてなんとも言えない郷愁を誘うもので、キリコの絵を彷彿させるものでした。その他にエッシャーを想わせる建物の階段やバルコニーにまばらにヒトが佇んでいるものもあり、これも妙に心に残る絵で、同じ作者のものでした。それ以降「遠藤彰子」いう作者の名前が記憶の片隅にずっと残っていました。これまでにテレビでもこの作家の別の絵を見る機会がありましたが、そのうち実物を鑑賞したいと思っていたものです。

2.異なる時間・空間の錯綜とダイナミックな融合、、、でも

今回は女性画家展の中の一人ということなので、残念ながら作品は2点のみでしたが、大画面でかなり満喫できました。絵は当時からみると(数年前テレビで見たものからも)かなりスケールアップした感があり、エッシャーのような一点から確認できる厳密な幾何学性でまとめられているのではなく、多方向からの視点により有機的にうねるちょっと内臓を想わせる街(塀・階段・バルコニー等の建造物)が、沢山のヒトもろともに空間を食い破り、時間を次々に乗り換え、螺旋状に空に向かって接続してゆく力強い運動が大画面を飛び出るように描き込まれていました。
足場に困りながらも、見ることはやめられない力のある絵です。まさに作者の力技を見る思いでした。

以前の作品ではあまりヒトそのものは描き込まれずその空間描写に説得力が込められていたように見えましたが、今回よく見るとヒトも一人ひとり丁寧にに描き込まれ、其々の個性や生活が感じられます。ほとんどのヒトの目が構図上の中心にいる太陽の昇っている上空に向けられ、人々の視線を誘うように鳥たちも太陽のいる空の深みへと飛び立ってゆきます。

その方向性はあるのですが、異なる空間と時間が接続し融合しようとする有機的な街は中央部分の手すりにヘソ(はっきりした繋ぎ目)があり、今にもそこから解けてバラバラに分解してはじけてしまいそうな緊張感(不安)も在りました。あれはどうなんでしょう。あそこが滑らかに繋がっていれば絵としてはもっと安心して観れるとは思うのですが、、、。勿論、視点が360度様々な角度から要請されるため、見る側の足場(頭部)は、揺らぎっぱなしですが、いろいろな意味で、「眩暈」を呼ぶ魅力的な作品です。

今回の展示では2点とも大きな建造物の絵でしたが、もう一方はかなりの上空から建造物を見降ろす空間を描いたスタティックな絵でした。わたしとしては先に述べた動的な、上方に向かってゆく絵がとても気に入りました。また渦中の人々も壁もすべてタッチとマチエールがバルチュスを匂わせる確かな描写です。実は今回この絵を見ることで分かった作者の一番の魅力がこの点です。

3.人物ディテール参照
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4.結局

赤瀬川源平さんが、絵を見るときには、自分がそれを買いたいかどうかという目で見なさいと言っていましたが、買うとなると微妙ですが、このマチュエールで自転車の影の長く延びた絵があれば本気で迷うかもしれません。実際見てみないと分かりませんが。次回作にますます期待してしまう作品展ではありました。



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時間はフレキシブルなメディアだ

The_wheel_of_life,_Trongsa_dzong
時間は出来事や変化を認識するための基礎概念とされています。ひとつのはかり。
身体時間は一様に流れていきます。
しかし心にとっては、空間を変化させるのはたしかに困難ですが、時間系は乗り換えが効きます。時間には自在なかかわりが可能です。切符は買い換えられます。
心とは精神時間、と取り敢えず言ってみれば、生物的システムと精神的システムとに時間をそれぞれ分けて考えてよい。
言うまでもなく生きられる時間とは、この精神時間です。

わたしはwebは時間の重層する巨大な地層だと思っています。この地上にあってわたしは、はじめて不死を獲得します。過去は永遠に死なない。パソコンのディスプレーを見るだけで、娘たちはいつでもわたしに逢える。このことは何よりも大きい。彼女らは遥かにわたしに近づく。わたしの精神時間はこの地層に一条の静脈として畳込まれ、幽かに光を放ちつづけます。いつまでも。いつでも無限に回帰します。

この時代でなければなかったことです。

それにホッとする今日この頃です。




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美としての身体表現 エレーナ・イシンバエワ

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久しぶりにテレビにかじりついて陸上競技に見入ってしまいました。(相変わらず織田裕二は元気でした。)
わたしは日頃ろくにテレビなど見ません。見るとしても娘たちと一緒に「おかあさんといっしょ」くらいです。
最近は特にそうです。

そんな中、エレーナ・イシンバエワの棒高跳びには魅了されました。
改めてロジェ・カイヨワを持ち出すまでもありませんが、遊びの要素の「目眩」をこれほどの強度で華麗に具現している競技はないでしょう。哲学者の池田晶子さんも棒高跳びの選手になりたいとかつて言っていました(彼女の場合、競技がはっきりしていて分かり易いことも大きいようです)

あんな競技場で、観客をみな自分の味方につけて、みんなをハラハラドキドキさせながら自分の思うような競技が次々に出来たら、そりゃあ気持ち良いでしょうね。多分これ以上の快感はないと思います。苦しげに競技をしている選手が少なくない中、喜び・快感を激しいオーラで放出している恒星のような存在には惹きつけられない理由がないです!

思えばわたしは、エレーナ・イシンバエワが10代のころから時折(大会を常に見るには無理です)、気のついた時には必ず見ていました。フギュアスケートや新体操などのアーティスティックな表現要素の大きいスポーツは以前よく見ていた時期がありましたが、この棒高跳びにはアーティスティックインプレッションなる評価ポイントはありません(飛んだ高さだけで勝負が付くところが池田さんが特に気に入った点でもありますが)。

しかし絵を描くときも、というより絵を褒める時にも「大胆かつ繊細な」タッチでとかよく言いますね。それと同様に?棒を抱えた助走の力走からして、グイっと棒をしならせつま先から宙に向け重力に逆らい飛び出すところは、かなりの力技のダイナミックな競技に見えて、宙高く舞い上がりつつ美しく見事な体のしなりでバーをスレスレにに越すあたりの微妙極まりない体操競技の技術を必要とする局面なども含め、芸術をどうしても感じないではいられません。(勿論、選手は助走に出た時から落下までを絶妙なタイミングに沿ったひとつの流れとして競技しているのですが)、あのすべてをやりとげた最も高い時点からの笑顔での自然落下も何とも言えません。まさにfallen angel~目眩の美学です。アーティスティックインプレッションが入る余地はないですが、極限的な状態の身体のとれる美を表出していることは間違いありません。
あの高さと落下は何より大きい魅力かもしれませんね。

フィギュアスケートではカタリナ・ビットをよく見ていましたが、あそこではスピードの緩急と回転・ジャンプの要素ですね。それから決して小さくないのは競技者の表情です。顔や指先における。
新体操では、リリア・イグナトバのファンでしたが、あの競技も目眩の美の極致だったと思いますが、何よりわたしがイグナトバに惹かれたものは、やはり顔の表情です。はっきり言ってイグナトバの魅力はそこにあると思います。勿論、手具を扱う技術、身体能力が極めて高いことは素人でもよく分かりますが、わたしはあのような多様な美の表情を見たことありません。驚きとともに深く印象に残ったものです。

棒高跳びは、表情の審査はありませんから、高く飛びバーを落とさなければ良いわけです。でもわたしが、いえわたしたちが少なからず気にとめていたのは、エレーナ・イシンバエワの表情だったと思います。
そして、89を一回でクリアして降り立ったときの表情は、イグナトバの研究し尽くして作り上げた表情にも劣らない人を惹きつける素晴らしいものでした。久々にワクワクドキドキしながら、テレビ画面のエレーナがバーを越すたび拍手している自分がいましたが、あの会場いっぱいの声援・歓喜の声も競技の成功のみならずあの表情に共振してのものだと思うのです。

優勝した後の彼女の喜びの姿には素直にこちらも嬉しくなりました。
これほどの身体を使った喜びの表現をわたしたちは日頃見ることが出来ません。
ちょっと調子に乗りすぎという人もいるかもしれませんが、わたしにとっては競技以上に貴重な画像であったかもしれないのです。
15年に渡り自分との孤独の戦いを通じて28回も世界記録を塗り替えたてきた事やここ数年不調が続き、母国での開催でなければすでに引退していたという本人の告白はかなりずしりと重く先入観としてもあったことは確かですが、例えそんな事前情報がなくても、あの姿はすべてを語っており、充分に感動に値するものでした。織田裕二が涙が出てきたと言っていましたが、わたしもそうです。

わたしは放送時間が遅いため、録画にとって今朝見ましたが、視聴率ってどうなんですかね。最近は特にお気に入りのドラマなどでも、録画しておいて暇なときにまとめてみる人が多いと聞きますが。かなりの人がそういう見方をしていくと、相当な人気番組も正確には割り出せなくなるのではないでしょうか?番組作りの障害にならなければ良いですが。視聴率が。



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ロバート・フランク

robert.jpg

これはまた静かなインパクトを湛えた写真ばかりなのですが、一番引っかかった写真は「ニューヨーク」です。
ほの暗い残照のなかニューヨークを突っ切りまっすぐに延びる道路。
両端にはビルの下、夥しいシミの様な人影がならんで歩いてゆく。
残照と共に揺らいで消え去ることは分かっている。
ひとつ残る道路に果てはない。
いやすぐ先で突然途切れて虚無をむき出しにしているのかも知れない。
そんな茫洋とした道路。

こんな虚しい道路はなかなか観ることはできないです。
勿論、観るものの精神状態でまたは価値観で見え方などどうにでも変わると言われるかもしれませんが、この道路にはまったく活力に満ち希望に輝くものなど見えない。

すべてが終わった後の未来の記憶の果てに浮かび上がる道路。
すべてそんな想い出を呼び起こすような写真ばかりです。
REMやDinosaurJr.の音でも抒情的過ぎるような荒涼とした。





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写真集を眺める

やっぱりジャック・アンリ・ラルティーグが面白い。まるでアンリ・ルソーを観る思いだ。

本人はずっと画家で写真は趣味だと主張していましたが、純粋に楽しい。個展が催されても作家の説明には確かアマチュア写真家と書かれていたはず。素朴派の絵画に似た味があります。構えて観る必要を感じさせない。プロだろうが、アマチュアだろうがこれは真剣に息を止めて観るような写真ではないですね。
これは紛れもなく生涯自分の好きなことをやり、好きなものだけを誰にも影響されず撮り続けたヒトの作品です。
素朴派と言いたいところですが(特定の流派などに属していません)、趣味という立場はとても強みなのかも、とつくづく思います。
ベル・エポック時代のノスタルジーとよく言われますが、確かにすべての写真が郷愁を纏っています。多分何か自分が幼いころ観ていたとっくに忘れた光景でしょうか。クラシックカーのレースの写真が多いのも嬉しい。
女性に真上に投げられたボール、スケートをやや斜めに傾きながら滑る3人組の男女、今まさに自転車ごと転んだ夫人、なぜか自分から前転する婦人、幅跳びの空中姿勢、疾走するオートバイ、浮き上がったタコ、いままさに離陸する飛行機、、、。運動を捉えた事が楽しくて楽しくてという写真ばかり。多分撮った結果に得意になっていたはずです。それが伝わってくる、少年のような写真家の写真。92歳まで生きること自体(カルティエ・ブレッソンに至っては95歳)、ストレスの少ない人生を生きたのではと、その作品群からはっきり想像できます。

結局、現在彼は「フランスの写真家」としてかのアンリ・カルティエ・ブレッソンと並び称されるほどになっています。
やはり素朴な趣味人は強い。疑問をもったり、無用に悩んでみたり、どこかの流派に属してみたりでブレないことが正解なのです。

きっとそうです。


今日は夏休みと決め込んでいたので、他に観てみた写真家は、ロバート・フランク、アルフレッド・スティーグリッツ、ウィン・バロック、マン・レイ、アンセル・アダムス、ウォーカー・エバンスでした。どれもそれぞれよかったです。明日、他の写真家についてひとこと、ゆるく書こうかなと思います。
では。



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Womb

an00.jpg

3日間だけ、O君の1991年作・演奏による”Womb"がページが開くと同時に鳴り出します。違う形でまたお届けしますので、3日間だけこの形でお願いします。暫く調整させてください。もう一つ”Photon”―― 素粒子の光子ですね、これの方が彼らしいか、もあります。わたしの諸事情でアップが大変遅れております。
なお、彼はその後、アレンジをすこし変え、演奏し直したものを再度、私に送ってくれていますので、そちらの方もご紹介したいと思っています。どちらかというと、今鳴っている方が私は好きなのですが。当時、坂本龍一の番組でとりあげられ、「楽譜送ってくれ」と頼まれたようです。実際に送ったかどうかは、聞き忘れました。

ここのところシステムの不調とデータ保存の不手際などが重なり(見つかり)、想定外の問題が出ておりますが、思いがけない発見もあり(あくまでもわたし的にですが)それはそれで面白いのですが、疲れます。
お約束のお届けがズルズル遅れ誠に済みません。




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創造の基本的なメカニズム

Angel001.jpg
ある意味、一番難しいことかも知れないが、この世の物理的な事象のすべては自分の意識が作っているという件。
現在を自分の生を100%信頼して生きることで、世界は想ったとおりに変わる。
今もすでに自分の想っているまさにその世界に生きている。
もしそれが違うと言うなら、今に完全にフォーカスすること。
必要な情報はすべて向こうからやって来る。

今のあなたが充分にいまのあなたであれば。


久しぶりにバシャールを手に取りました。今がそのタイミングなのか。



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20080807~20130807

erishiho02.jpg

娘たち5歳の誕生日です。
大きな記念日の翌日なんですね。
ちなみに、今日は「バナナの日」だそうです(笑)。
これは、どうにも使えない(苦)。

上の娘は、低体重で生まれたので、NICUに入っていて、暫くの間は私しか彼女には面会できませんでした。母親はまったく会えない。私は何か得意になっていました、特権階級のような。
生まれた日に私が抱くと、見えているのかどうか判りませんが私を正面から見て、こんな小さな手でよくこんなに強い力で握れるなと思うほどの力で私の袖を握ってきました。そして後で腕を見ると、緑色のうんちが付いているのに気づきました。これが私と長女の初日の出来事、今でも鮮明な思い出です。それから毎日、入り口で白衣と帽子、マスクを着け、手をよく洗っての面会が続きます。長女はNICUに入っている子の中で泣き声の大きさは1番だったそうです。おかげでミルクにはしっかりありついていたようで。保育器の中では、泣いたりひたすら手足をばたつかせていました。右足首に点滴の針が刺されていて、鼻にはカテーテルが入っており、何とも切ない気持ちでガラス(プラスチック?)越しに見守っていましたが、本人もそれがうっとおしかったのでしょう、あるとき暫く愚図っているうち、なんと鼻から管をぐいっと引き抜いてしまったのです。長いカテーテルを!これには驚き、直ぐに看護婦さんを呼びましたら「とっても元気がいいんですよお」とにこにこして手際よく対処してくれました。多分、度々やっていたんでしょう。
長女は、次女より1ヶ月遅れで退院し、家にやって来ましたがその後も随所でびっくりするくらいの腕力を見せてくれています。

次女は、母親と並んでベッドに寝ていました。彼女は家族全員、親戚も含めがやがやと入れ替わり立ち替わり人々に取り巻かれていました。話題は誰に似ているとか、他愛のないものばかりです。それを尻目に彼女は一際小さいながらも、かわいいとか言うにはかなり異質な威厳といってもよい雰囲気を漂わせているのです。周りが落ち着かなくても不思議に彼女のいる空間だけは静謐さを保っていました。次女の表情は、まさに老賢者そのもの、この世のすべてを悟った仏像のように受け取れました。特に時折薄目(半眼)を開けてはゆっくり閉じる瞬きには途方もない時間の重みすら感じられました。

ヒトはあらかじめすべてを知っているが、受肉して知っていたことすべてをこの世で新たに学びなおす、ということを何かで読んだことがあります。彼女は後数日間ですべてを一旦リセットして、無邪気なタブラ・ラサの状態で赤ちゃんの役割を引き受けてこの世でのスタートを切るのでしょう。私たちの子供として。このヒトとどんな契約をしていただろう、、、今この時間はもしかしたらかなり大切なときなのではないか、そう思いましたが、あわただしさの中にそう思ったこともすぐに忘れてしまいました。
彼女は5日目くらいに一度、看護婦が体を洗うときに誤って水槽に落としてしまい、危うく溺れそうになりました。それがかなりのショックとして残ったのか(多少なりとも外傷経験となったのか)、3歳位まで頭を洗うのにもとても神経質で水が少しでも顔に付くのをひどく嫌いました。それこそ泣き叫んでいました。上の娘はなんでもないのですが。でも最近、普通に洗えるようになって安心しました。

家に帰った頃にはまったくの赤ちゃんとして収まり、彼女等を文字通り中心にした生活が始まりました。

相変わらず2人ともわけのわからぬところで泣き喚きますが、低体重で生まれた割りに大きくなりました。お喋りで、絵もたくさん描き、ピアノも好きなようで、字が結構遅れているようにも思えますが、これからは勉強に徐々にシフトしていくのかなと思います。姉妹喧嘩だけは何とかならないかと思いますが、そこは大人に成ってもらうしかないです。

何とか曲がりなりにも最初の節目を迎えました。




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1Q450806~20130806

01DIORAMA.jpg
毎日、なんらかの記念日があるそうです。毎日です。
もしかしたら、どんどん記念日は増えてゆくかもしれません。
物の数だけ。
記念日であっても、元のその日は知らない。
知らない。
知らなくても、調べて知った気になれる事柄と、知った気にはとうていなれない事柄がある。
知らない。
ということは、あまりに絶対的なこと。
考えてみれば、知っていると思っていることは、ほとんどメディアを通している。
では、直接的に入った情報とは?
それらもまた、どうとでも取れることばかり。
痛みと不快な感情は残り続けるが、言語化されると違う何かとなって、

心がひりつく。
ものがすべて宙吊りとなってゆく。
手で触れられるものがなく
奥行きも掴めない。

絡まりあった思惑。
そのリゾームが張り巡らす時間
確かなものは染色体への無数の傷か

だんだん味もわからなくなり
文字も擦れて読めない。
その中での幾つもの新しい記念日-発現




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「観察」を観て

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緒川たまきさんの「観察」DVDを久しぶりに観ました。前半、後半をそれぞれ男性側から、緒川さん側からの視点で形式上分けて構成されています。時間を手繰り寄せて最後にブーツストラップする手法は、「ラブレター」(岩井俊二)にも似た感じはしました。

内容において、あのような「関係性」はむしろよくあるモノだと思います。いえ、ほとんどそうだと思います。ただあのような「関係」はちょっと難しい。幾分非現実的で、だから映画になる。特殊であることで成立する。特にあのDMの手法はすごいですね。妙にそこだけが生々しく具体的で、現実に真似するヒトが出たらちょっと怖いと感じました。

あの男性にとって「緒川たまきさん」を見るということは、「月」を見るようなものでしょうね。月は絶対に触れたり、所有できない。それくらい抽象的なものです。でも(だから)現実にあって、どうしても月ー抽象が必要になることが不可避的にあります(起こります)。そんなときあるヒトにとっては宗教でしょう。または芸術だったり。科学だったり。基本そこから文化が発生してきたのでしょうし。しかしあの男性は、他の何かに昇華せず、[観察]することは止められなかった。二次的な行為ではなく、「緒川さんの観察」そのものが目的であった。言うまでもなくその「観察」が他のヒトに理解・承認される分けはありません。もともと望遠鏡はヒトを見るものではなく月を見る道具ですから。

「観察」は他の日常のすべてのもの事、仕事や家庭や息子よりも本質であり還元不可能な事であり、生(性)に於ける絶対的な基盤であった。男性は孤独を深めます。そして見られる緒川さんも、普通の恵まれた生活を送りながらも、敏感に最初からそれを察知し、受け容れつつ次第にそれに支えられて生きてゆく。だから(映画にとって)「観察」は途切れさせてはならない、時間を生成する中心行為でありました。ですから、緒川さんの家のドアベルを鳴らせるのは、緒川さんの生前ではなく亡くなったあとでしかありません。

判ります。とてもよく実感できます。が、ラブレターの時のような感動はなかった。よく判るが泣けない。男性が最後に彼女から送られてきた日記(すべてを知っていた)に泣きすぎていたからか。もう少し淡々としていたらどうだったか?役者に文句をつける気は毛頭ないのですが、緒川たまきさんとその幼年時の子役は、全くはまっていたのですが、他の役者の方々が何か今ひとつ納まりきらず適役ではなかった気がします。役者そのものがどうではなく。男性の妻になった人はとても良い味を出していましたが。

緒川さんが娘の彼氏に撮られた、遺影となってしまった写真の背景のアパートの光る窓へと、すべての時間がストラップされてゆく映画の構造はよかったと思います。
でも何だか、物足りないものを感じるのは私だけでしょうか?

望遠鏡をも少し上に向けると「月」なんですが。緒川さんは月に似てますね、、、。



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北半球の渦は右巻き

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お祭が賑やかである。途切れなく、家の前を次から次へと町会ごとに張り合うように練り歩く。子供御輿だったり、大人の本格御輿だったり、両方一緒に並んできたり、水色のユニホームに揃えた鼓笛隊が来たり、、、大きな団扇を扇ぐ者も汗だくである。日中は行列が絶えない。時折下を眺めるぶんには、まるで白昼のゾンビの行進である。距離をもてば。その中に入れば、ポゼッション。ひとりでは到底得られない力が誰にも宿るというもの。共鳴して共振する。狂信することも。単に狂信の程度か種類の差か?イデオロギーとは。毎日のテレビにもうんざりする。点けなければよい。でもお祭は脅迫的に不断に押し寄せる。とてつもないお囃子と共に。出発地点の公園ではこのリズムを途切れさせないために一体何が行われているのか?ともかく外部からの音の洪水には、Rockで防波堤を作る。音を相殺する。今日はPeter HammillのPH7で。

月か地下に住みたい。
日野敬三の短編「星の流れが聞こえるとき」の少女が全身に包帯を巻いているのもよく判る。
固有時との対話を通し、ヒトは何度か蛹に戻る必要がある。
そのときを逸すると手遅れとなる!

ヒトは器である。

どのような風がそのとき吹き込むか。

もしかしたらそれだけのことかも知れない。
それだけのことでせかいがうごいている。

顔を洗ってみる。
確かにデフォルトでは、右だ。



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日野敬三「夢を走る」に触れて

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「夢を走る」
現実もまた夢のひとつなどと軽々しく言えない、夢(または現?)です。
わたしたちに対していかなる意味でも親和性などひとつもない世界。圧倒的な自然の側に立った物質的な精細かつ速度感のあるディテール描写がもはや夢なのか現なのか判別できないまま展開してゆきます。

わたしもこれは夢であると知りつつ夢を見ていることがあります。大変鮮明です。起きているときよりもディテールが明瞭で深遠な世界です。そんなとき何をもって、夢・現というのかと疑う気持ちも芽生えるのですが、一方でやはりどこかで自分は横になって夢を見ているという意識が保持されてもいます。不思議です。さらに、一刻も早く醒めて欲しい夢もあります。日野敬三の「夢を走る」もまるで夢が入子状となっているかのような構造で大きな輪の中を主人公たちの群れが走り続けます。主人公(語り手)はその途切れることのない走り続ける世界に耐え切れず絶望を感じるたびに世界の淵から奈落の底に落下するようにまた新たな夢に落とされ、ただひたすらに過酷な道程を走り続けてゆきます。醒めない夢というものがあるのでしょうか?わたしたちはそれをもって現と呼んでいるのでしょうか。しかし主人公はただひとり?これが夢であるという意識はもち続けているようです。確かに夢のなかにおいて疲れることはないはずです。この主人公はとことん疲弊します。これもまた夢特有の描写のひとつか?疲れを克明に描写していくが実質(重み)がない夢特有の。ともかく現と夢の縁を彷徨う危うい光景―悪夢です。

作者、日野敬三氏は癌の手術前後に、何気ない日常を異なる世界(次元)がはっきりと侵食している様をありありと見届けています。幻視と呼ぶにはあまりに鮮明に完全に、あるべき世界と交錯してそれが厳然として存在しているのです。

切迫した死に目覚める意識世界(アルタードステイツ)―夢という圧倒的な他者性。これらはある意味、まさしく「自然」そのものと何かの法則で繋がってゆくのではないかでしょうか?ヒトなど一切受け付けない、関係しない世界。通常の意識などの到底及ばぬ世界。本来の「自然」と呼ぶ他ない世界と。

日常世界と自然。
この均衡は保たれていくのか?

その自然は、何かのきっかけで風の谷のナウシカの腐海に棲む蟲としてヒトの世界に侵食してくるものかも知れない。グレゴール・ザムザの悲劇をあなたに(わたしに)突然運ぶかも知れない。そして蟲ー名づけようもないものたちの群れと共に「夢を走る」、永遠に走り続けていくのかも知れない。

もしかしたら遠い銀河の果てで反世界ー反物質との接触が起きていないとは限らない。われわれの時間のストックが加速度的に減少し、人々の時空が歪み次々に眠りに落ちてゆく、全的崩壊が静かに始まっているかも知れない。バラードの描く世界のように、、、。



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AirTime~めまい~を求めて

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夏休みは遊園地でローラーコースターいえジェットコースター!というご家庭も少なくないかと。
うちの親戚は富士急で乗って来たと。
かのリンドバーグもあの有名な(伝説の)ローラーコースター”サイクロン”に乗って、「飛行機よりもスリルがある!」と大絶賛だったようです。(飛行機が常にジェットコースター状態だったら搭乗員はもちませんが。)

まだまだうちでは無理ですが、乗れるころになるとしょっちゅう乗りたいとせがむようになるんでしょうね。
わたしはあのゆるゆる巻き上げられてからの大降下が苦手で、自ら乗りたいとは思ったことないですが。
ひとたび乗ってみると、やっぱりエアタイムが一番の醍醐味でしょうね。
その浮遊感を味わう際、息を吐くことで副交感神経を刺激し心身がリラックス出来るんだそうで。
つまり降りてきたときには、からだがも良くなっているそうです?!ほんとか?
とは言っても、ドドンパなど速度が172Kmです。エアランチで1.8秒で最高速度に達するロケットスタート。Fujiyamaの132Kmでも凄く速く感じ大変なものでしたが、からだに本当に良いものなのかどうか、その前にショックで気を失うヒトなどいないのかが心配になります。エアタイム以前のスリルがありすぎでは。
もしその副交感神経の刺激が有効性の高いものなら、過剰な怖さを抜いた医療装置を開発しても良いでしょうに。療養施設に設置し、乗っているのは皆、病いをかかえたヒトばかりというコースター。

ジェットコースターはここのところ、わたしは全く乗っていなかったのですが、かつてのガタガタヒトを横に激しく振るものから、ヒトを中心に置き、乗り心地のよいタイプに変わってきたそうです。それでもたっぷり、エアタイムはあるそうで。
いっそ夏に乗るなら水上コースターがピッタリではないでしょうか?これはきっと気持ち良さそうです。心身ともに。
いつか娘と乗ってみたいです。間違いなく大喜びでしょう。うちでもしょっちゅう高い所に登っては飛び降りて、母親に叱られる二重のスリルを味わって(楽しんで)いますから。

たびたびとりあげる(ブルトンと同じくらい?)対角線の科学の提唱者、ロジェ・カイヨワは、「遊びと人間」(講談社)で、遊びの体系的分類を行っています。その基本的範疇は、「競争」、「模擬」、[偶然」、「眩暈」です。うちの娘もこのすべてを日々体験していることにおいては正常と言えますか。
ローラーコースターはこのなかの「眩暈」に特化したもので、最初抵抗をもっていても、やってみると病みつきになるような根本動機をもっています。やはり本質的なものであるため廃れないのですね。リンドバーグの乗った”サイクロン”はいまだに稼働中で、根強い人気が衰えることないそうです。

最近では、ジェットコースターの技術が、環境・エコの要請から、省エネ交通手段として応用される見通しだそうです。例の初動における巻き上げ以降動力は不要で、惰性(慣性)で動く「エコライド」という乗り物が都市を市街を多分鉄道のような形式でしょうが、走ることになるようです。巻き上げの動力もソーラーを使えば、外部から化石燃料を給入する必要はありません。二酸化炭素もかなり減らせるはずです。

今日はこのへんで。




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Author:GOMA28
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絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
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