瑠璃 ラピスラズリ~lapis lazuli~

瑠璃色、とかいただけで、何か詩でもかきたくなる、そんなイメージの原質を重層した文字・ことば。
でもついうっかり、軽い気持ちでえがきだすものではないと踏みとどまり、しばらく夢想に沈みこむ。
すると、もっともこの色を見事に形象化したものが眼裏に浮かぶ、、、。
フェルメールのウルトラマリン。瑠璃色。
かの奇才ダリがベラスケスとともにもっとも高く評価した画家。
デルフトを生涯出ることのなかった画家。30点あまりの数少ない作品群。
カメラオブスキュラを使用した構図の妙。これについての専門的な言及は多い。
しかし、わたしにとってのフェルメールはこころを一瞬に浄めるべく鎮静させるあのウルトラマリン。
かつて、わたしの絵の師匠は絵は色だ、と常々言ってたが、色であろうとフォルムであろうとムーブマンであろうが、かの色の収まるべくして収まった場所がフェルメールの絵画である、としか言いようがない。
本当のウルトラマリンの息づく場所。
”イデア界のLapisLazuli”現実が影の様に想える。
圧倒的に浄められたウルトラマリン。イデアの光に満ちた。
彼の絵を見ると、絵画とは現実を模倣するだけの二次的な低次元の制作ではなく、
真理を啓示するもっとも敬虔な作業であったとはっきりと気づく。
風俗画がこれだけの柔らかく敬虔な光に満ち満ちたものとは、
デルフトの光景のディテールを見ると、画布上には小さな光点が散りばめられていた、と言う報告が今思い出される。あの輝ける光景の秘密。フェルメールは今だ語りつくされてはいない。
「われわれにとっての日常とは、取るに足らないものなのか?」
オランダの風景を見ると、なるほどわれわれとは風景に対する概念が異なることは直ぐ合点する。
だが、現在、われわれは日常を語るに、経済ばかりを語りすぎてはいないか?
それだけで光景を汚してはいないか?
わたしたちの光景、そのこどもたちの光景、さらに引き継がれてゆく光景。
そう、それらをすべて、「画像とすればよい」
であった。
それが世界となる。
高校の頃小遣いをはたいて買った鉱石標本を、もう一度押入れからとり出して、
一日に一度は眺め入りたい。
LapisLazuli
本当に柔らかく輝く。

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