プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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インドの旅を巡って

ganjis.jpg

<ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。>

メメントモリ~死を想え~ 藤原新也(情報センター出版局)より
この写真集は必需品です。

最近中谷美紀さんの「インド旅行記」を買い込み、読み始まています。文章が癖なく、とてもこなれており、スイスイと読めます。やはり女優で流麗な文章を書く人に緒川たまきさんがいますが、こちらは泉鏡花の専門家でもあり、少し文学的過ぎる面もあります。大変見事な文章なのですが、中谷さんの方がノーマルに読むことが出来ます。

切羽詰った状況から意を決して、ガイドブックには載っていないインドを旅すると言うだけあって、悪戦苦闘する筆者の様子が生き生きと伝わってきます。

もう何もできない、したくないそんな思いを振り切るように飛行機に乗ったのも、他人に自分の運命を定められたくない、自ら運命を選びとるのだという決意あってのことだそうです。それでインドに飛んでしまう。行動力のある人です。それに文のどの行を読んでも確かな効力意識をもった人だなと、つくづく思います。何かのレビューで専任ガイドをつけて旅をしていることへの揶揄がありましたが、はじめての旅でそれがなければ自由な現地での接触や体験が困難となり、やたら非効率で制限の多い貧しい旅となったはずです。これに関しては適切で当然な選択だったでしょう。旅が進むにつれ逞しくなってゆくのもよく分かります。ときに文句を言ったりユーモアをもってすり抜けたりしながら、常に何かを見出そう或いは余計なものを捨て去ろうとしているのは実感できます。そして「価値」の相対性と絶対性についての身をもっての検証が地に足をつけて行われています。あくまで等身大に内省的に。まだ3分の1のところなのでゆっくり読み込み味わいたいです。

ただ今の時点で、私だったら行かない。
どこに行っても自分がついてきてしまうだろうから。
私は旅行で何かが変わるという考えを基本的にもてないのです。
稲垣足穂の月の話のように、自分のポケットからコロコロ自分が転げ落ち、そのまま霞の中に見失ってしまうのならよいですが、多分私の場合、しっかりポケットに入ったままで帰ってくると思われます。
それでは意味がない。

私はここにいながら、ここから入ってここに出たい。
できることなら。

藤原新也のようなとてつもないヘビーなインド放浪だったら極限的な状況での変容もあるかもしれない。
でも彼の「メメントモリ」こそ出れない人のためのバイブルだと思います。
極めて鋭い写真とコピーのこの上ない融合による奇書。

中谷さんもインド旅行記の写真集を出していますが、優れた文を書き、確かな価値のある旅をする人は、カメラ―写真にも一家言ありこだわる人が少なくないですね。緒川さんもブルガリア紀行などの旅を通しカメラ―写真マニアであることも知らしめています。私のブログのお師匠も常に旅行先の大変見事な写真をブログに毎回掲載されています。

今回、言葉と写真の融合の力というものも改めて考えさせられました。
こちらも見習う必要があります。
SIGMA DP3 Merrillはやっぱりほしい。

あとは覚悟。


「つかみどころのない華鬘な日々を送っている正常なひとよりも、それなりの効力意識に目覚めている痴呆者の方が、この世の生命存在としてはずっと美しい。」藤原新也

「、、、いや、むしろどこにも答えは見つけられないような気がする。」中谷美紀


私は自分の資質において、地下世界からの展出を図りたいと思います。



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同時性~シンクロ二シティ~について

saru.jpg
今でも時折思い出す物に、中学時代の班ノートがあります。
年取ると昔のことがよく頭をよぎるようになるといったものでは、ありません。
わたしは昔のことは、ほとんど忘れる質です。

この件は特に日常では気にかけずに意識に残らないことが多いが、潜在的によくありうる事象です。いえ事態か。
夏ですからお話します。世にも不思議な物語(笑)?

中学時代わたしは知る人ぞ知る「自動車博士」でした。
車に夢中でした。それとビートルズ!(今回はそれには触れません)
車のことは何でも、大抵のことは知っていました。少なくとも、その当時生産されている日本のみならず海外の車についてはその一部を見ただけでその車名は間違いなく答えられ、性能、ほぼ主要諸元に至るまで正確に言えました。その日本車が輸出先の国ではなんという名前で売られているかも全て知っていました。親に買ってもらっていた世界の画家全集もとりあえず見ていて、絵を見れば誰の絵かくらいはすぐ分かりましたが、少なくとも何倍も車に詳しかったのは事実です。なんという無駄な知識、とは希に内省的になった時に少しだけ脳裏をかすめることもありましたが、車が好きなんだから仕方がないです、好きなものは好き、気にしません。無論、部屋の壁も車のポスターで埋め尽くされていましたし、貼りきれないポスターをどこに貼るかが唯一の悩みでした。念を押すまでもなく、悩みは実質何もないお気楽少年でした。

そんな少年ですから、車のことを何かにかこつけて話したり、書いたりもしたいのです。特に共有できなくても。その頃、東洋工業・マツダが世界最高峰のロータリーエンジンを作っていました。(ロータリーエンジンは今どこいったんだ!?)そのことを、前の女子から順番で回ってきた班ノートに、班員の話題の流れなどにお構いなく、ロータリーエンジンの素晴らしさ、マツダの技術とそれを搭載したコスモやカペラ(馭者座のα星ではなく)のことなどを綿々と書き連ねたのです。さて、女子がその暴挙に怒ったのかと言えば、特にコメントなどありません。その時期は圧倒的に女子の方が精神年齢が高い時期であり、頭を撫でられておしまいです。班ノートの話題は、授業中落ち着かない男子をどう注意するかに必然的に何事もなく戻ってゆくのです。

今でもよく覚えている事件が起きたのは、次の日の朝のことです。わたしの後ろに座っている少し鼻につく生意気な少年が、何と私が昨日ノートに書いて班の女子が家に持ち帰っていた内容とほぼ寸分違わぬ事を滔々と述べているのです。確かに彼も車のことはよく知っている少年でしたが、そこまで詳しいという事実は意外でした。しかも全く同じテーマの話題を同じポイントをついて同様の言い回しで述べるなど。ただわたしは驚くというよりまず呆気にとられました。その不思議さに、です。そんなに誰もが話題にするような内容のものではなく、かなりマニアックな突っ込んだものです。偶然というレベルのものではありません。彼が私の書いた文章を読む機会は女子以外にまずありえませんし、次の男子に渡るのは少なくとも翌日の午後になります。わたしは特に驚愕とか不快とかいう感情はなく、そう感情的なものは不思議に込み上げては来ませんでした。そしてとても静かな気持ちで受け容れているのです。こういうことがあるんだ、という意識で。
その日の帰りの会の前に、例のノートが私の前の女子から彼に渡され、その驚愕すべき内容を彼は一気に読みました。その反応は、あいつ俺の言ったことそのまま真似して書いてやがる、でした。内容だけ見れば恐らく誰でもそう感じることでしょう。でも彼は肝心のことを見落としています。日付です。あまりに内容にびっくりし不快に感じ、それを見落としていました。それに気づけば、静かに不思議を感じる、共有することもできたでしょうに。

こんなことは、大学時代にもありました。わたしがお風呂の中でひとり、ある同学年の学生Aに対して思うことをぶつぶつ呟いていた事を、以前ここで紹介しましたSくんがそっくりそのまま翌日学生Aに対し喋っていたのです。別に前日電話でSくんにその話をした分けではありません。しかもかなり特異な、ある意味わたしの造語とも言える言い回しをそのまま喋っているのですから、やはり呆気にとられます。でも不思議にそういうものだと受け容れられるのでした。

そんな経験誰でも2、3度はあると思います。それをどう考えるかで重要度が異なり、忘却の彼方に消えてしまう場合もあるはずです。後にこれがカール・グスタフ・ユングとボルフガング・パウリの共同研究で出版された、「同時性」で取り上げられていることだと分かりました。パウリの唱える物理学の「排他律」と無意識の世界が絡み合うその研究書には目眩がしました。
その後、スティングでお馴染みのロックグループのポリスがアルバム「シンクロニシティー」を出しました。



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電子書籍についてひとこと

Plato-Alcibiades.jpg
最近電子書籍を自ら出す人が増えているそうです。Web上でひっかかり、ちょっと気になったのでそれについての若干の私見を述べるつもりです。

電子書籍というと、私は昔から青空文庫などで版権フリーとなった文豪の本を、携帯やモバイルノートで読んでいました。有島武郎や田山花袋や島崎藤村に菊池寛それから国木田独歩、梶井基次郎、横光利一、坂口安吾、芥川龍之介などなど、通勤の行き帰りに時間の無駄はなかったと思います。身になったかどうかは分かりませんが、本当に濃密で圧倒的な世界を堪能しました。お陰で何本も電車に傘を忘れたものです。それはさておき。

これからはどんどん個人レベルで電子書籍を出すべきです!という内容の話をWeb上で力説している方々のビデオによると、紙媒体(書籍)のように枚数書かなくても、素人でも、本になるそうです。どういうメカニズムでできるのか分からなかったのですが、競合相手がほとんどない市場なので、本にすればたちまち売れると言います。

コンサルティングをしている方のようで、詳しい話はそれに参加した人にのみ教えるということらしく、概要を述べていただけのようですが、なんでも書籍の一般的な値段に比べ、電子書籍は缶ジュース一本分の値段で購入でき、在庫も存在しない。スマートフォンで読めるため書籍より手軽でこれからの需要が大いに見込める。3年間くらい経験した事柄があればすぐにそれを元に、ほとんど書けなくても本はできてしまう。自分のブランディングに役立つ。はじめる人は出てきたが、まだまだ参入者が少ない。やるのなら今のうち、ということです。

感想を絡めてわかる範囲で確認だけしておきます。自分にとっての確認でもあります(笑)。

やはりじっくり沈思しながら読み進める本については、ずっしりとした書籍を机上において読みたいです。それ以外の読み方はあまり想像できません。大判の写真集もそうです。あの大きさが絶対必要となります。(写真となりますと光点か網目印刷か銀粒子そのものかの問題も出てきます)
やはり、電子書籍となると、小説・物語の類とハウツー物と旅や観光に役立つ特集物や芸能関係等ムック本として出回っているものならそのまま移行してもほぼ成り立つ気がします。ですから、例えば、温泉マニアでその筋の大家の書いた大きな出版社から出ている書籍が2000~4000円位の間で販売されていたとすれば、200円でそこそこの情報が得られれば、それで用を足そうという人がいても可笑しくはないです。その市場に需要の目が一般的に向いてくれば活性化していくはずです。買う人も、名もない、しかし名を売ろうとしている人の書いた温泉旅の案内であっても、端から専門家の書籍のような充実した内容は、その価格からも期待はせず割り切っています。
その点は問題ないのですが、スマートフォン上で読むからには、当然同じ画面でWeb情報も確認できます。最近大変充実してきたキュレーションサイトとの競合はどうなんでしょう?200円とは言え購入したものには、伊香保温泉の近くのこの価格帯で泊まれるホテルが3つしか載っていなかったが、キュレーションサイトには12も載っており情報もずっと濃かったとか十分にありそうなことです。また、それを簡単に比較検討できるユーザーインターフェイスがその電子書籍に搭載されているか、調べ物の本であればその機能は必須です。Webサイトはその点内部リンクが充実しており、まとめて表示も簡単にできるようになっています。もしそれがなければムック本の方がローテックであるがために、指でページをまたいで押さえつつ何ページにもわたり確認できるなど、大変使いやすいです。それがあるため私はどんな類のジャンルであっても「本」はなくならないと思っています。紙は偉大なメディアです。そのフェティッシュな魅力から言っても、、、。

これはあくまでもユーザー側から見たことです。電子書籍を出す側から言えば、今更ブログ等で記事を書いても検索上位に表示されるようなサイトは到底できない。ならば、競合の薄い場所で兎も角、名前だけでも売っておきたい、となるのでしょうか?そこでブランディングして集客に結びつけたいと。内容は兎も角として。
競合のないうちは、ある程度それはできるかと思いますが、市場が活性化してくれば、大手企業や大手出版社が圧倒的なコンテンツを引っさげて参入してくるのは目に見えています。そうなると素人本等一瞬にして吹き飛んでしまうはずです。その道のライターを使い同価格で来ますから。
ひとつ、例のコンサルティングの方が言っていた秘密の方法、書けなくても身近な経験さえあれば本が、たしか3万字ほどの本が、できてしまう!ということの具体的な内容が分からないので興味は覚えるのですが、やはりわたしたちが「もの」に求めるのはあくまでも、コンテンツの質です。それ以外にはない。

本当に良いものなら買いますが、そうでなければ買いません。これははっきりしています。良いコンテンツをくれた人のことは忘れませんが、そうでなければすぐに忘れ思い出しもしません。すべては価値の問題です。どうなんだろう?どういう内容のものができるのだろう?まさか自動ツールで書くわけではないでしょうし。ブランディング?ありえない。

なんであっても、すべてはコンテンツの質で決まると思います。



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O君の音

an00.jpg
O君の音をご紹介します。本当は1か月前に姉妹ブログでご紹介するはずだったのですが、本当にやりにくく、通常のアップもTextだけならなんでもないのですが、音と画像の紹介となると、片手間にはできない作業なので、諦めて他の物も全部お引っ越しすることにしました。また、画像データの質も悪く、この際元データのレベルから作り直すつもりです。
では、O君1991年作”Womb”です。

鳴らないぞ

少々お待ちください、、、。

代わりに今回はこれを(前フリで)

年に一度くらいしか逢わない友人のひとりで、現代音楽の作曲家であり、教科書会社の編集長をやっているO君の音楽をweb上で紹介したいとおもいます。彼の作品で以前、坂本 龍一のラジオ番組でも取り上げられていましたWombを今回紹介します。これは彼が1991年に自分の部屋でDX7の多重録音によりつくつたものを普通のオーディオテープに入れて、なんとなくわたしにくれたものです。他にもいくつかの曲の音源から取ったテープをもらっていますので、一曲ずつでも紹介していくつもりです。彼自身はバイオリニストですが、ヤマハDX7の多重録音ものが短かめなのでそのへんからいきます。 

"Womb"について:「バイクの速度で初めて見えてくる光が在る。時に夕刻の街の虚空に浮遊し揺らめくガラスの片々に。緩やかに、心地よいリズムで、めくるめく。」私が最初の勤めでよく出張した新宿センタービルの35階あたりでは、窓の外をキラキラ光って舞い上がり、いつまでも宙を漂うものがふいに表れます。はらはらと。本当に、ものなのか。何なのか。時空間と言う場所のある特異な表情なのか。まあ、それをものと呼ぶのか。なんであるかは分からないのですが、我知らず恍惚としてその複雑きわまりない振る舞いに捕われているのです。しかし逆らいがたいその光景になにか過飽和状態になって耐えきれない気持ちが同時に膨れ上がり、ちょっと目を離した隙に、最初からなかったかのように、ふっとそれは消え失せているのです。こちらの意識が一枚布のように全体を識ってしまうしまう一瞬。と、そしてなんとも言えない喪失。すべてが終わってしまった後の光景。あるいは始まる前の、、、。痕跡。片々。めくるめく外傷経験の反復。想い出。色褪せたほろ苦い誕生。または覚醒。そんな体験をどこか頭に置きながら、彼と作った短文が上のものです。CDのライナーにも載せました。彼は何処へでもバイクを飛ばして行ったものです。ときにはバイオリンを担いで。たぶん目的地は口実で、ただ光を追って。




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バルチュス ~Balthasar Michel Klossowski de Rola~

Balthasar Michel Klossowski de Rola
わたしの好きな画家です。他にフリードリヒやウンベルト・ボッチョーニがいますが、多分これらが気になる画家ベスト3です。その後、ブラウエライターのフランツ・マルク。

体質に合うのです。わたしは基本的にマックス・エルンストやポール・デルボー他、ルネ・マグリット、レオノール・フィニ、トワイエン、クロビス・トルイユ等の所謂シュル・レアリストとよばれる(よばれてしまっている)画家たちも気になり、そこそこ好きではありますが、(エルンストは好きです!)一般に(党派的な)シュル・レアリストたちにはあまり興味ありません。

このバルチュスもかのアンドレ・ブルトンにシュル・レアリストだと認定され、誘いをしきりに受けたとかどうとか。当のバルチュスはシュル・レアリズムなど全く興味はなく、相手にしなかったそうですが。

幻想を狙って制作したような作品と、完成した作品が否応なしに幻想を醸すのでは、全く異なる物のはずです。
勿論、上に挙げた画家たちには何の文句もありません。
アンドレ・ブルトン氏にしても、確かに頭の良い人だとつくづく思いますが、何よりアンテナの鋭さでしょうね。この辺は、坂本龍一氏を彷彿させます。

バルチュスがもっとも関心を払い影響を受け、熱心に勉強したのは、ピエロ・デッラ・フランチェスカをはじめとする宗教画家とギュスターヴ・クールベ(ちょっと意外)だったようです。
ピエロ・デッラ・フランチェスカと言われると本当になるほどと、分かります。
技法を徹底的に研究したようですね。表面的な題材は「宗教」を扱ってはおらず、日常的なものに向けられています。
わたしは東京ステーションギャラリーで実際の作品をつぶさに鑑賞しましたが、画集では到底分からない、テクスチュアに圧倒された記憶が鮮明に残っています。特に「横顔のコレット」だったはずですが、透明色で幾重にも部厚く塗り込められたその画面は、その厚みの内に光が乱反射して閉じ込められ、宝石のごとくそれ自体で輝いていました。ライティングもバルチュス自らが来日して行ったそうです。確かにあの絵画は、光の当り方に対し大変ナイーブなはずです。自身のアトリエでも絵画の完成を確かめるときは、必ず陽のある時間帯に庭に出して外光の下で確かめるようです。
その展示会では、風景画が多かった記憶があります。人物画、静物画ともに同じ描き方・マチュエールです。というのも変ですが、よく人物画と風景画が異なる技法・タッチで描かれる場合がありますが、それはなく本当に統一した作風でした。やはり、ピエロ・デッラ・フランチェスカ等の技法を徹底的に学んで自分のものにしているからだと感じられます。「白い部屋着の少女」も印象深かったですね。端正で静謐な古典的な佇まいで。それが確か「樹木のある大きな風景」とも同様なものでした。まさに同じ画家の同じ光景として。対象は異なりますが、世界は同じ。いえ、同じ視力で描かれたものとして。まさにそうです。ギュスターヴ・クールベに傾倒したのもただ徹底して対象をレアリスティカルに描ききろうというところにあったのでしょう。他の意図が感じられない「絵画」でした。

あまり興味はないですが、バルチュスについてよく言われる中で、フロイトをもちだした快楽原則―少年期への性的固着や病理学的なアプローチ、過剰に「運動の欠如」にこだわったもの、兄のピエール・クロソウスキーが宗教学者・作家であることからくるのか反宗教的な異端的思想を内容的にうかがうものなどが多いように思われます。しかし実際に観ると、これらは宗教画がまさにそうであるような宗教的な絵の佇まいに感じられます。その厳かさが何よりわたしを引きつけてやまないところです。

彼は古典的な精神をもった画家だと思います。

そしてその視力も。




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無意識という言葉

abstract_angel.jpg
「無意識」
一番都合よく使われる言葉かも知れません。
危険な言葉です。
無意識と言ってしまったところで、「意識」が構造化している。
免罪符をもらって、正当化している。

先程、昔の読書ノートを見ていて、引用に使おうと思って書いたものには作者名と書籍名を書いているのですが、ただの重要な一文を走り書きしたものは、誰のものか分からないモノが結構あります。
しかし、これはすぐに誰が言っているかは、分かります。

「心理学は精神の不在証明に使われる。」
小林秀雄さんです。

無意識に関する知識がヒトに、自分と戦う力を喪失させてしまうというような下りにあったもののはずです。
自分と戦わずに他人とばかり戦うようになる。
まさに現代の様相です。

「無意識が個人を取り巻く社会環境にとって変わった。
社会の階層構造を考えるように、無意識界の合理的構造を考えるようになった。」

芸術作品の分析などにおいてもことごとく無意識の分析がおこなわれ、作品(さらに作者)の精神には触れられないことは少なくありません。
心理と精神が混同されることへの危惧は、小林氏は何処においても基調として論じていたように思えます。

ここが極め付けです。今回、これだけが書きたかったことです。
「もし芸術作品の個性というものを言うのなら、それは個人として生まれたが故に背負わなければならなかった制約が征服された結果を指さなければならない。与えられた個人的なもの、偶然的なものを越えて、創造しようとする作者の精神だ。」

個性とは外化された無意識などではなく、「精神」であると。

われわれは「個性」という言葉も随分貶めている。ヒトが環境=無意識=運命によって形作られた結果を個性と呼ぶことがなんと多いか!とんでもない。そこには、いささかも創造的な運動が見られない。それによる生成過程こそが個性=精神と呼ばれなくてはならない。

わたしも「無意識」を都合よく使ってきたきらいがある。
自分と戦えない人間ほどそうだ。



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アッジェのパリ

Atget_organ_grinder01.jpg
「アッジェのパリ」写真集を観て。
昭和54年に朝日新聞社から出たものです。
1932年に日本でも紹介され始めた写真家です。
日本の写真家では特にあのライカを使いこなし自然な街頭スナップ写真では神のような存在である木村伊兵衛が高く評価し自分の先駆者と考えていたそうです。木村もパリをよく撮っていましたね。昨年でしたかNHKの日曜美術館で実際に木村伊兵衛が撮った場所で、文化人緒川たまきさんが写真を撮って楽しんでいました。贅沢というか、、、。兎も角、木村になんであんなに良い写真が撮れるのか、不思議だと言わしめる写真家です。

ウジェーヌ・アッジェのパリの街頭の黄ばんだ写真を観たのは大学生の時がはじめてでした。

わたしは記録写真家だ、と言うのにやたらとアンテナ感度の良いアンドレ・ブルトンに、こともあろうに芸術家を通り越してシュルレアリストにされそうになったとかいう噂は聞いていました。彼自身は「資料」を残している、と言う意識だったようです。

確かに当時は題材が人物でも風景であっても絵画的形式に準じて撮影されていました。それから観ると彼はパリに住む庶民が普通に記憶に留める光景ばかりを選んで撮っていることが分かります。それは彼が留めなければ永久に失われてしまうはずの光景ばかりです。

当時、写真館はあってもまだ持ち運べる写真機はあまりなかったようで、アッジェは六つ切の組立暗箱と乾板にごつい三脚とで、手回しオルガンを奏でる老人や、娼婦、屑屋の家族や路地裏の建物、曲がりくねった舗道の敷石、ショーウインドウ、街角の物売り等、を撮り続けました。
しかし彼の「資料」は高値では取引されていなかったようです。文字どうり資料として買い上げられたり、画家の絵の資料に使われたり。

アッジェはいつも毎朝夜明けに起き、路地や建物に光がよおく回りこんだところを撮っていたそうです。1927年8月彼は70歳で亡くなりますが、死ぬまでの20年間、パンとミルクと少しの砂糖だけで食事をしていました。



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メディアについてひとこと

media.jpg

マスメディアにソーシャルメディアが取って替わりましたね。

いまや誰もが個人レベルで情報の送受信者です。
小さなコミュニティ・ネットワークが無数に生まれ、その力が無視できないような局面も窺わせるようになりました。
マスの言う事をそのまま真に受け取る人も少なくなりましたし、
誰にとっても、自己表出の敷居がとても低くなりました。
自分の考えを発表できる。アーカイブ化できる。流通もときに尋常でない。
多くのヒトの中から賛同者・理解者が見つかる。
自分の環境では解決できなかったことが解決される可能性が高まる。

とてもよいことで、わたしはわたしで平安時代の歌よみになった気分でいつもこれを、うっています(笑)。


ただ問題と感じることはあります。
あまりに情報の発信が容易になったため、せっかちになり熟慮せずに言葉を発してしまう。
便せんに万年筆というときは、多少考えて書きますよね。必要に迫られて書いていたし。書いたことは残るという意識も強かったし。
軽便さは、いつしか軽薄さを呼び込み、あえて必要もない発信や、匿名性をよいことに誹謗・中傷など手に負えない状況も引き起こす余地を生みます。
籠って見るという、人間ならではの分裂症的特性がそのまま助長された結果でしょう。
しかし今回それについてではなく、悪意なく早く、思慮の浅いことを書いてしまうことについてです。
単にわたしがおっちょこちょいなだけか?

これも或る意味、現代的な病理かも知れませんが、わたし自身も勿論含めて情報発信過多に陥り、言いたい事ばかりが多く、他者の観念が充分に咀嚼できていないうちに、発信してしまう。そんな傾向が強く見受けられます。
いえ、言いたいことがまずあるのではなく、発信したいから書くことを考えるという、物事の成り立ちがここでも窺えます。

もはや習慣・体癖として過剰に手軽な発信が身についてしまっている。
さらに、これを打っているときに他者の顔は見えない。
快便さの中に、迅速さ・効率が無意識的に滑り込み、兎も角何でも早く返すという強迫観念めいたものがいつしか身体化してきたことなども。

わたしも先日、自分の興味のある事柄がある方の文の一部に見られたため、そこだけにフォーカスした自分の考えをそそくさと送ってしまい、その後よくよく元になった文を読んでみると狙いのずれに気づき、お詫びのメールをする始末。便せんにペンのころはまずなかったことです。ゆっくり注意深く書きますから。もっともっと送受信に時間を使い、気を配っていました。なにしろ書くべきこと以外書かなかったですよね。大変だし。

わたし自身も何度も、わたしの書いた文をはたして読んでくれたのか?と不思議になるような返信に戸惑ったことがあります。この傾向、はっきり高まっていると感じるのですが、わたしの思いすごしでしょうか?

結局もっとも本質的なことは「ヒトの観念が食えないヒトが多くなっている」という事ではないか、と思うのです。すばやく返してしまうのも、じっくり咀嚼するだけのポテンシャルがいろいろな意味で無くなっているから。そのためか形だけは聞くそぶりはしますが、端から聞く気がない場合も含め、ディスコミュニケーションの輪は広がっているように思います。

発信だけしまくっているヒトが多くなった。だれもが演説家で情報商材などを売るヒトのメルマガに接するにつけもう多くのヒトがアジテーター化していることが分かります。「お前何にも分かっていないな?今のご時勢、これを買って実践しないと、地獄に落ちるぞ!」の乗りです。非常に怖い世界です。他者がいない。他者に対して発信しまくっているのに。そこにあるのは、自動ツールに支えられた、スピードと効率。コミュニケーションではなく、収益の記号としての他者があるのみ。他者がメディアの特性からも現代のヒトを取り囲む構造からも、ヒト自身の本質からも希薄となり他者という観念自体が希薄化している面も拭えないかも知れません。もはや異質な観念までもなく。


こういうときにブログをとおし、こちらの言う事を深く聴きとってくれるヒトに出逢うと本当にほっとします。そして強く印象に残ります。信頼関係も自然に築けます。わたしは今のように手軽に情報発信でき、自然発生的なコミュニティがそれを元にしてできていくこと自体とてもよいことだと思います。とくにわたしは平安時代の歌詠みに憧れていますので、それに近い?感覚で書けるブログは大変嬉しいツールに違いありません。なんにしても物は使いようですから。
わたしのスタンスです。




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THEME:日々出来事 | GENRE:ライフ |

久しぶりの散策

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いつもより涼しくなっているので、娘2人とお散歩に出た。どこへ行くでもなく、町並みを眺めて帰りにコンビニでアイスクリームを買って帰る。娘たちも健脚になり、かなり速いペースで長距離を歩行出来るようになった。にしても、落ち着かない。車が来ると冷やりとする。縁石や手すりに直ぐに飛び乗る。お猿さんか?とたしなめる。本当に今は幼い娘であるが、生まれたばかりの頃はまったく異質のなにかであった。猿ともほとんど見分けのつかない。

動植物は進化の過程で自分の体の形態や器官をはっきりと変化させてきた。しかしヒトに至っては、猿との差はほとんど「亜目」程度の差で、ほとんど変わりはない。すましていても尻尾の痕跡すら残っているのだから。

ある意味、人間はまったく新しい生物だった。

体のかたちはほとんど変えることなく進化する始めての生物だった。
道具という物を自分の「外」に生産し、それを爆発的に進化させる。
そしてそれまでとはまったく異質の生活環境を形成・拡大して行く。

蝶は美しい模様を自らの体に描く。ヒトはそれを絵筆と絵の具をもってする。
これが基本原理。

生物として、地表を体表感覚をもって覆う植物層。植物の生成する酸素と有機物を摂取して動き回る外骨格と内骨格の動物層。それらに対する言語・道具をもったヒトの作る精神層。構築した巨大ビルディングの並ぶ都市とセットで。これらが重層的に地球を覆っている。

ここの所の幻想的地球温暖化論に乗じ、植物の伸び広がろうとする成長衝動が抑えられなくなっている夢想に浸り込んでみる。そういえば、アンコール・ワットなどの遺跡もかつて植物に押し潰された格好だった。
勿論、伐採も依然衰えないペースでおこなわれているが。

ブライアン・オールディズの描く植物の逆襲を前に、高齢化の進む郊外の過疎区などに緑の廃園が静かに波紋のように増えてゆく。その光景にいつの間にか慣れている。あたりまえのように。植物はやはり思考を麻痺させる。

三つの層はやはり白昼夢の中でせめぎあっている。




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不眠症

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不眠、極度に眠りの浅い日が続く。

夜中に書庫に行き、本をぼーっと眺める。
たまたま手に取った詩集が、アンリ・ミショーのものだった。

開いたページがなんと、「おれはやすむことができない」
「昔のおれ」という詩集から(小島俊明訳)

こんな詩です。

おれは休むことができない。おれの人生は不眠症にかかっていて、
おれは仕事もせず、眠りもせず、ひたすら目をさましている。よこ
に寝た肉体のうえに魂が立っているかと思えば、立っている肉体の
うえに魂が寝てたりするけれども、おれは一睡もせず、背骨はほの暗
い灯をともしつづけ、それを消すことができない。おれをそのよう
に眠らせてくれないのが、慎重さというものではなかろう。という
のは、探し、探しあぐねているとき、まったくふいに自分の探して
いるものが見つかることがあるからだ。自分が探しているものが何
であるかもわからないためである。



メスカリン実験によって詩を書くことで旋風を巻き起こしたミショーですが、画家としても注目されていました。ちょうど、シェーン・ベルクが絵を描いたのと同様な位置かと思われます。作風も表現主義的なものでしたね。

深く印象に残る詩やフレーズが他にもあり、探したのですが何故か今見つかりません。必ず一遍の詩の中に驚くべき思考がみれられ、しばらくイマージュも結ばず唖然とすることが多いものです。

新たな言語の要請から象形文字のような奇妙なアルファベットを発明して詩を書いていましたが、それは日本語訳は不可能のようです。絵画・グラフィックの領域です。音楽でもある?
アンドレ・ブルトンは、本当の詩はどんな言語に訳されてもその価値を損なう事はない、といったことを述べています。でもこれは別の鑑賞の仕方があるか?

わたしにとって、一度読むと、ずっとひっかかり気になり、また読んでしまうそんな詩人です。神秘的とか無意識を構造化してとか言うものよりもっと物質的な何か。
かつてモーリス・ブランショがミショーの詩についてこんなことを言っていました。「、、、自分のいない世界をもし考えることができたら人間が襲われるにちがいない混乱と不快についての奥深いイマージュを人々に与えることができる。」

こんな詩が気にならないはずはない。






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夏になると想い出す

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夏を心底味わおうと言うことで、と言うのは言い訳で、娘2人を連れていつもの公園にきたはよいが、大噴水の近くにそう長くいすわることも出来ず、遊具も焼け付く暑さで、いたたまれず、熱帯植物園に逃げ込んだ。娘もへーへー言っている。でも公園で遊びたいのだ。なぜか?広いから。大きな木や綺麗なお花がたくさんあるから。アイスクリームが食べられるから。池や噴水があって、鴨もかわいいから。ハーブティーが飲めるから、これはわたしか。

植物園に入ると、もわっと例の植物の吐き出している質量の重い吐息に包まれる。巨大なバナナの葉っぱ。多肉類の様々な巨大で分厚い造形。アーティフィシャルでこれまた大きすぎる花と棘そして実。垂直に上昇しては重さで垂れ下がるオブジェ。そして植物園にはお決まりのようにある滝。バシャバシャ落ち続ける水。それにきまってはしゃぐ娘たち、、、をみながら浮かび上がる光景がある、、、。

植物についての思想・感覚を自身の研究や文学の根幹に据えた学者・思想家は少なくないと思うが、ゲーテやルドルフ・シュタイナーは特に深い思索をもって作品に昇華し、言及される機も多い。しかし今の私の眼前に凄まじく不気味な生命力をもって喚起される物ー世界は、ブライアン・オールディズ、「温室」です。勿論、「地球の長い午後」が邦題。静謐な思考をもってではなく、ほぼ無思考的に喚起される噎せ返るようなグロテスクな生命そのもの。

自分の体調から事の他そう感じるのかも知れない、一種のアルタードステイツ、いつもよりまわりのものの異物感が際立つ。何にしても、それが契機となり、あの「緑色の光の柱」がジャングルからすべての生命を吸い取っていき、熱がさらに加わるにつれ、退化の過程が加速されていく、未来の記憶を喚起させた?

そこではすでに地球は自転を止めていた。相対的に動きの止まった月とのあいだを植物の蔓がはりめぐらされ、ヒトの希望は天にのぼって行くことだけが残された。植物の蔓の間をつたい天へと。様々な植物に襲われながら重い世界ー地球から子供をさらって逃げる主人公たち。恐ろしく説得力のある奇想天外な冒険譚。そう、あれらはみな、植物の体表感覚から見て(感じて)書かれたものなのだ。

「植物に再吸収されることの幸福と恐怖」エントロピーという大局的な流れに呑まれつつ、ヒトはみな植物に吸収されることを想い出す。植物だけが最後の生命ーネゲントロピーとして残る。圧倒的な巨大な生命として。しかしここでブライアン・オールディズの提示するヒトの生き残りの僅かな可能性には瞠目する。寄生植物がヒトの頭蓋に内在して共生進化(同化)した新生物としての存続である。この方向ー形態でのわたしたち?の生存の示唆は興味深い。確か、、、アミガサダケとの共生だった。

ヒトは内骨格をもって運動し、植物は体表感覚をもって導く。その相利共生体。どんな形をしているのやら。







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瑠璃 ラピスラズリ~lapis lazuli~

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瑠璃色、とかいただけで、何か詩でもかきたくなる、そんなイメージの原質を重層した文字・ことば。
でもついうっかり、軽い気持ちでえがきだすものではないと踏みとどまり、しばらく夢想に沈みこむ。

すると、もっともこの色を見事に形象化したものが眼裏に浮かぶ、、、。
フェルメールのウルトラマリン。瑠璃色。

かの奇才ダリがベラスケスとともにもっとも高く評価した画家。
デルフトを生涯出ることのなかった画家。30点あまりの数少ない作品群。
カメラオブスキュラを使用した構図の妙。これについての専門的な言及は多い。

しかし、わたしにとってのフェルメールはこころを一瞬に浄めるべく鎮静させるあのウルトラマリン。
かつて、わたしの絵の師匠は絵は色だ、と常々言ってたが、色であろうとフォルムであろうとムーブマンであろうが、かの色の収まるべくして収まった場所がフェルメールの絵画である、としか言いようがない。
本当のウルトラマリンの息づく場所。

”イデア界のLapisLazuli”現実が影の様に想える。
圧倒的に浄められたウルトラマリン。イデアの光に満ちた。
彼の絵を見ると、絵画とは現実を模倣するだけの二次的な低次元の制作ではなく、
真理を啓示するもっとも敬虔な作業であったとはっきりと気づく。

風俗画がこれだけの柔らかく敬虔な光に満ち満ちたものとは、
デルフトの光景のディテールを見ると、画布上には小さな光点が散りばめられていた、と言う報告が今思い出される。あの輝ける光景の秘密。フェルメールは今だ語りつくされてはいない。

「われわれにとっての日常とは、取るに足らないものなのか?」
オランダの風景を見ると、なるほどわれわれとは風景に対する概念が異なることは直ぐ合点する。
だが、現在、われわれは日常を語るに、経済ばかりを語りすぎてはいないか?
それだけで光景を汚してはいないか?
わたしたちの光景、そのこどもたちの光景、さらに引き継がれてゆく光景。

そう、それらをすべて、「画像とすればよい」
であった。

それが世界となる。

高校の頃小遣いをはたいて買った鉱石標本を、もう一度押入れからとり出して、
一日に一度は眺め入りたい。
LapisLazuli
本当に柔らかく輝く。






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荒海で漁に出れない漁師の仕事

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無理に海に出ることは、プロであればやらない。
家に篭って網を直す作業に明け暮れる。
まさに使うべき時に道具が傷んでいたら大きなチャンスを逃がすことになる。
やることが決まっているのなら、どんな環境下でもやるべきことは確かにある。
病であれば、ベッドの上でも。
置かれたその環境を最大限に利用すること。
目論見こそしっかりしていれば、目の前にあることから確実に手をつけていくだけ。
それ以外に無い、という行動に自身同化する。自己目的化する。
そしてそこここで組まれた幾つかのシステムがモジュールとして成立し、時を隔てて組み終わったモジュールも姿を現し、その人間のひとつの意思に吸い込まれるようにしてそれぞれ連結していくと、確かな地図に従って連動する、その人間固有のシステムが新たに組みあがる。そこまでくれば後はそのシステムを稼動させるのみ。
土台を常にしっかり補強しながら、継続を維持する。
この際、支払うものは潔く支払う。
動き始めたのなら、けっして止めてはならないのだから。
ネゲントロピーとして固有時=エネルギーを生成し循環し続ける。

すべては完全な自立のため。






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完全にダウン(環境について)

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カブトムシに餌を与えていなかったら、土がだいぶ減っていた。
雄同士の2匹だし、スペースも土をケースの高さ9分目まで入れていたため、広い空間に移さないといけない。
、、、とおもいつつ、何もする気になれないでいる。
わたしは起き上がれなくなるほど、体調を崩してしまった。
喉がひどく痛み、寒気がする。腰も痛い。
今は家のなかは歩いているが、階段の上り下りはきつい。

プリキュアで無理をしたため、ひどくなってしまった。
調子の悪いときは無理をせず、断る・参加しないことが大切。

やはりプリキュアはテレビで見るのが一番。7:30から3つ続けてやっているなかでは、一番面白い。
家の娘たちも同じ意見だ。一つ前の「仮面ライダー」に出てくる敵の怪人には本気で怖がっている。
親としてもあまり見せたくない。

2階の窓から家の垣根を見て驚く。葉っぱがほとんどなくスケスケ状態。他の丈高い木々も3分の2くらいの高さに。
これでは、道路と庭を隔てる「壁」がなくなったも同然、、、。
聞くと、頼んで全部切って貰ったそうな。夏はこの方がすっきりする。木にとってもよいとか。開放的になった。
そうなのかもしれないが、ずいぶん殺風景になったものだ。物悲しいほどに。と言うより情けない気がしてくる。

さっぱりした、と元気になれればよいが、わたしは隔絶され何でも揃った小部屋を好み、今よく見られる壁の無いオープンオフィスなど大嫌いなタイプなので、仕切りが無いとどうしても落ち着かない。今のマンションや別荘もつくりが基本としてオープンなものが多い。以前何かの報告で読んだが、作業効率や仕事への定着率において、オープンな環境は悪影響を多分に及ぼすという統計があった。

今思うと、これまで随分長い年月、1日の大部分を自分の意に沿わない環境で無理やり仕事をしてきたものだとつくづく思う。考え直す時が来たな、と思う。


自分にとって好ましい環境で自由に時間を過ごす。

ものすごく大切で肝心なことだ。

そして当たり前のことだ。






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プリキュアを見る

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体調の悪い中、プリキュアを見に行く日がやってきた。
娘たちはスマイルプリキュアがまだ好きなのだが、ドキドキプリキュアにも馴染んできている。
テレビで毎週見ているし、ビデオに撮ったものも何度も見ているのに、舞台でも見たいと。

確かに舞台は形式が違う。映画は時間枠は広がっても基本的にテレビと同じだ。
『美少女戦士セーラームーン』は舞台は普通の少女(女優)がそのまま、めいめいのコスチュームを着て演じていたが、プリキュアはみな被り物というかマスクを着けていた。プロレスラーのマスクマンのような。多分、セーラームーンには実写版があり素顔のイメージができているが、プリキュアはアニメしかないため素顔で出られたら、子供(幼児)が混乱してしまうかもしれない。極力アニメに近い形でやろうというものだとおもわれる。しかしその面も誰が誰だかよく分からない。単にわたしが詳しくないというだけだなく、マスクではアニメ顔一般という雰囲気をつくるのがせいぜいだ。わたしとしては、女優に素顔で出てもらい表情でも演じてもらいたかった。アニメならしっかり表情がつくが、お面の舞台では形式美を誇る古典芸能でもあるまいし、中途半端な感は否めない。わたしは、この舞台でも女優が素顔で演じたほうが自然でよかったと思う。それでイメージが壊れた!と文句をつける4歳児は多分いないと思う。お父さんお母さんも一緒に(子供だけで来ている子はいない)見ているのだし。

話の内容は、人助け(ここでは動物助け)、友情、過剰な元気、ピンチ、ライブでは当然の客席を巻き込む(煽る)形での応援、みんなの力を集めての勝利、お別れとお礼
暑苦しさを感じたのはわたしだけか?娘は結構乗っていたが、どうなんだろう。家の娘は何にでもすぐに乗るのでよく分からない。

同じホールで「おかあさんといっしょ」が少し前にあったが、それは都合がつかずいけなかった。多分そちらのほうが私も楽しめたと思う。娘にしても、「わたし、たくみおねえさんになる」と言ってるくらいだし。でも、そこにも、被り物が出てくる。わたしは被り物が苦手だ。テレビの「おかあさんといっしょ」でも、たくみおねえさんたちのうたはほんの少しで、被り物劇が大半を占めている。最後の体操はよいが、もっとお歌の時間が多くてもよいのでは、と思う。出来れば被り物劇は止めてもらいたい。家の娘もそこをスキップして見ている。

伊勢丹でソフトクリームをみんなで食べ、スイーツを買い込んで帰ることにした。
それにしても、プリキュアに限らずだが、お祭グッズの高いこと。ホームセンターでもその手のキャラクターグッズは似たような他のものより高いが、そのさらに2倍から3倍はする。ピカピカ光るLEDの星がひとつで1500円はないと思う。100円ショップでも、その小さいものなら売っている。

いよいよ体調がひどくなった。
寝ます。






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沈黙という気配

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家のカブトムシが昼間は全く気配を見せず、地下に潜り込んでいます。
もともとなにもいなかったかのように、というのはいささか無理で、餌のゼリーの器が空になって転がっています。
食べる物だけ夜間にしっかり食べて、気配は完全に隠しています。
何かが終わってしまったかのように、うら寂しく。

夜中はずっと煩く運動会をやっていたのに、このメリハリは見事としか言いようがありません。

ちっぽけな場所を確かな「沈黙」が支配しています。

「沈黙」という言葉は無言等と違い、わたしたちに何か秘められた企てや静かに進行する予想外の出来事を想わせる(又は期待させる)ものが少なからずあります。

すぐ浮かぶのが、潜水艦戦を描いた漫画「沈黙の艦隊」があります。”Silent Service!”確かラジオドラマにもなっていたはず。わたしは聞けませんでしたが。核の問題や国会で話題にされたことでも有名ですね。湾岸戦争の頃です。
それと同時にすぐピンと来るのが例の「沈黙の戦艦」邦題が似ていて間違えそうです。スティーヴン・セガールものです(笑)、、、寅さん的な定番!スティーヴン・セガールの出発点と言うか、これ以降のセガール作品は、沈黙の~ですよね(笑)、凄い。沈黙シリーズ物です。最初にヒットを飛ばすとこうなります。スティーヴン・セガールのイメージも固まってしまいます。よくも悪くも。ハリソン・フォードはもう少し幅が見られますけれど。

あと沈黙で思い浮かべるのは「沈黙の春」ですね。「環境か経済か」の問題は依然棚上げされていますね。レイチェル・カーソンの考察は、年を経て評価にも変化が出ていますが、(私もこの本自体は読んでいませんが、言及はかなり触れました)、よく言われる「DDTを始めとする農薬などの化学物質の危険性を、鳥達が鳴かなくなった春という出来事を通し訴えた作品。」として、環境運動への嚆矢となったことに違いありません。

そして最後に、”沈黙の遺伝子”(silent gene)です。
そもそも遺伝子の発現と沈黙とは。
iPS細胞への絡み。
一般に知りたい人は、沢山いるはずです。
お題を出したところで


「カブトムシの沈黙」からはじまり、
今日はここまで。

また宜しくお願いします。





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風光明媚

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旅行シーズンですね。色々舞いこんできます。
「風光明媚」が宣伝文句にはよくみられます。

これも酸素があるからですね。

酸素の存在する領域は、音も光景も存在し、私たちにとって美しく癒される環境です。
感性の生きる世界です。
勿論、酸素がなければ、当の私たち自身存在できませんから、断る必要ありませんが。

酸素のない暗黒の宇宙のなかでは、光は凶暴な殺人光線でしかありません!

宇宙ものの漫画(特撮含め)ではその辺の捉え方が、あまりに弱いです。

枠についてはしっかりわきまえている必要があります。
この世界内に生きていても。
枠も変化は刻々としています。
月は年に3センチづつ地球から遠ざかっていきますし、、、。

では、また。





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イメージの追いつかないことば

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"月"にちなんだ詩をご紹介してきましたが、「詩」といえば、岩成達也の詩をどうしても入れたい。

今回は岩成達也の初期の詩を少しだけご紹介します。

レオナルドの船に関する断片補足

海の想い出

1 マリア手を焚くこと
あたしはそのとき浄められる必要があると思った  それであたしはいつものようにあたしが安息所と呼んでいる穴のなかへ入っていった  それからそこであたしは役にたたなくなったいろんなものから長い間かかって火をつくった  そしてその火が相当の高さにまで達したときあたしは面から布をはずしてあたしの手をその高みのなかにさしいれた  するとたちまちあたしの手はぼきぼきと音をたてみるみるうちにそれはもえている桑の木のように節くれだった  それからその節々は固く醜くなり一方あたしの手はそのときそれらのなかでおそろしく繊細なものに細まっていた  それからまもなくそれは膝だけになった。



最も初期の作品から、氏の個性(構造感覚)は固まり、次のような「半開復々環構造」の詩が生成されてゆきます。

続海の想い出

樽切れの想い出
それは大部分が平っべたく灰質状でざらざらしていた。そしてどの部分もみな同じようにかたくわずかに反りそして継ぎ目のところがきまって幾分かづつ部厚かった。それからそれは外側にいくにしたがって少しづつ狭く上向きになり、その上向きになってくる狭い部分は一番外側のところで二重のくびれた環のようなものに連なって了っていた。そのためにそれはあたしにとってみるたびにいつもあの外側にあるなにか一種の平たい背骨のような気持がした。ただこの場合その背骨の丁度中央に当る部分、そこだけはこころもちこみいっていた。そしてそのこみいったところにはいくつかのすりへった穴状のものがあらわれていて、その穴状のものは内側で更にいくつかの痩せた棚状の拡がりに分岐れていた。それからその痩せた棚状の仕切りのなかにはところどころばらばらになった細部の破片のようなものが付着していて、それらのものはそこでひからびたすきまの多い繊維質のものに変わっていた。だからそんなとき、その平たいざらざらしたものはあたしにとって背骨というよりはむしろあるはずれた関節に、あるいは関節のなかに埋まっているくぼみや高まりに、はるかに似ているような気持ちがした。そして関節や関節のなかのくぼみはかつてはその周囲にびっしりとまきついていた軟らかい体からはおそろしくはみだしていて、そしてそのはみだしている先の方はおおきな折れた粗布の想い出のようなものによって優しく酷く包まれていたにちがいなかった。


私の持っている氏の詩集(エッセイ)は、[徐々に外へ ほか]、[擬場とその周辺]、[岩成達也詩集]、[マイクロ・コズモグラフィのための13の小実験]、[中型製氷器についての連続するメモ]までです。これ以降、かなりの詩集、エッセイが出版されていますが、日常生活に埋もれてさらに加速する「半開復々環構造」を追えなくなりました。ファンの風上にも置けません。でも氏の詩が時折、どうしても気になり、読みたくなる。読むことが自動的に存在の基盤(空)に触れる作業となる。また本を買いにゆきます。氏は「萩原朔太郎賞」他多くの賞を受賞しています。同時代の人々に評価されている詩人です。この複雑極まりない構造で、です。今の時代は本当に良いものは評価されますね。わたしたちの無意識(幼児期の記憶)を構造的に静かにかき乱す言葉の運動。視線では追えないディテールの渦に巻き込まれるうちに何故か強烈な郷愁と焦慮の念が込み上げてきます。この詩を読むのはマンデルブロートの無限に細部に降りてゆく形態否、むしろ曼荼羅を観るような感覚になります。
最後に、氏が極めて高く評価する、昭和10年に7つの作品を発表し夭逝した詩人千田光の「足」をご紹介。

私の両肩には不可解な水死人の柩が、大磐石とのしかかっている。柩から滴る水は私の全身で汗にかはり、汗は全身をきりきり締め付ける。火のないランプのやうな町のはづれだ。水死人の柩には私の他に、数人の亡者のやうな男が、取巻き或いは担ぎ又は足を搦めてぶらさがり、何かボソボソ呟き合っては嬉しげにからから笑いを散らした。それから祭のような騒ぎがその間に勃った。柩の重量が急激に私の一端にかかって来た。私は危うく身を建て直すと力いっぱいに足を張った。その時図らずも私は私の足が空間に浮きあがるのを覚えた。それと同時に私の水理のやうな秩序は失はれた。私は確に前進している。しかるに私の足は後退しているのだ。後退しているにも拘わらず私の位置は矢張り前進しているのだ。私はこの奇怪な行動をいかに撃破すればいいか、私が突然水死人の柩を投げ出すと、堕力が死のやうな苦悩と共に私を転倒せしめた。起きあがると私は一散に逃げはじめた。その時頭上で燃えあがる雲が再び私を転倒せしめた。


氏によると現代詩人の多くが、言葉:抽象的 文体:非日常的 図柄:非日常における日常性 発想:はめこみへ 帰結:完結・遠隔 であるのに対し、千田氏の作品は、言葉:具体的 文体:日常的 図柄:日常における非日常 発想:はみだしへ 帰結:断片・近接であると。まさに岩成氏の詩の側のヒトであることは間違いありません。

ではまた。




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月~もう少しお付き合いください

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"月"のつづき

「ある晩、四辻を歩いていると お月さんが横合からピカピカした短刀をさしむけて 『金を出せ!』
と云うので ポケットにあった金貨を一枚渡した その金貨は 夕方 デパートメントストアーの塔の上にひっついていたのを 梯子をかけて取ったのである 夕方に塔にひっついていた金貨とは勿論お月さんであった」

稲垣足穂



「へんてこの月夜の晩に
ゆがんだ建築の夢と
酔っぱらいの円筒帽子。」

萩原朔太郎



「わたしの足は月かげのたむろである
、、、、、、」

「、、、ひとつの言葉を釣らんとするには、まず倦怠の餌を月光のなかに投じ、ひとすぢの糸のうへをわたってゆかなければならぬ。そのあやふさは祈りである。永遠の窓はそこにひらかれる。、、、」

大手拓次



「月蝕を病む薄明の花
(ああ傷心の薔薇)
おちた果実の腐ってゆく匂い、、、
晩課書を誦す噴水の反復
蛭きは護摩を焚く
園丁の口笛
温室の屋根硝子は曇る
掌に描く冬眠の虫の形而上学
密鉢は蘭の透明な夢を花ひらかせる
おぼろな指さすに環る月暈
夢遊病の月下香
礼拝堂の鐘が鳴る釣鐘草」

吉田一穂



「月の光が照っていた
月の光が照っていた

お庭の隅の草叢に
隠れているのは死んだ兜だ

月の光が照っていた
月の光が照っていた

おや、チルシスとアマントが
芝生の上に出て来てる

ギタアを持って来ているが
おっぽり出してあるばかり

月の光が照っていた
月の光が照っていた」

中原中也


「半欠けの日本の月の下を、
一寸法師の夫婦が急ぐ。

二人ながらに思いつめたる前かがみ、
さてもどくどくしい二つの鼻のシルエット。

生白い河岸をまだらに染め抜いた、
柳並木の影を踏んで
せかせかと――何に追われる、
揃はぬがちのその足どりは?

手をひきあった影の道化は
あれもそこな遠見の橋の
黒い擬宝珠の下を通る。
冷飯草履の地を掃く音は
もはや聞えぬ。

半欠けの月は、今宵、柳との
逢引の時を忘れている。」

冨永太郎


「マンドリンオーケストラで幕が開くと、舞台は一面に真っ青で、そのまんなかにまん円い月がぶら下がっている。三角帽子のピエロがゼンマイ仕掛の人形のような足取りで出てくる。
ピエロの独唱
『昔私は月を見た
今晩私は月を見た
それは昔と同じ月
今も昔も同じ月
これから先も同じ月』
月の独唱
『それから先はどうなった』
ピエロの独唱
『それから先もそれだけさ』
歌が終わると同時に月からシューと赤と青の花火が噴出して、そのまま矢車になって廻り出す、、、、、、黒い幕が急に落ちる。」

稲垣足穂





こんかいはこれにて終了!
まだストックは山ほどありますゆえ。
また、次の機会に、、、。




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月~ほんの一時、月のことを想いましょう

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さまざまな"月”の紹介

月はかつては観念の場所でした。いえ、自然と密着して生きていた頃の人々にとっては、月の満ち欠けや距離、合衝などのサイクルが生の様々なサイクルと連動している事は当たり前でした。そのため月は崇拝され、怖れられ、相談を持ちかけられてもいました。
今やアポロ宇宙飛行士が着陸して重力の弱い空間を跳ねて歩いてみせてから、金を払えば行くことの可能な高級リゾート地のような現実の場所になったかのようです。

とは言え(これって私の口癖ですね)、まだまだ月に軍事基地を建設した国とか、私有地を購入した(何処から購入するのか?)大金持ちの話は聞いていませんので、数歩人類が足跡を残したくらいで、月のもつ意味や魅力が薄れた分けではありません。

文学においてもジュール・ベルヌ的草創期の荒唐無稽なファンタジーは色褪せても、いまだ月はイマジネイティブな地下世界の探検譚と同質なイコンの場を守っています。相変わらず夢想の場であり続けています。ありえない場所を提供し続けています。

何をおいても月は昼間はほとんど見えない。トワイライトゾーンに朧気に現れて、夜にこそ力を発するところが良い。太陽の灼熱の光ではなく、冷光であること。現の領域にはなく、夢の領域に現れる。

これから月を巡って、月がどのように想われ、語られてきたか、文学書などから少しばかりご紹介していきます。この際、夥しくあるアロマと絡めたヒーリングものと占い関係は割愛します。




「魔物に憑かれて生ずる精神錯乱、おうおうとして楽しまない鬱病、月にうたれて生ずる。」
ミルトン

「月の軌道が狂ったのだ、いつもよりずっと地球に近づいたので、人間どもが狂いだしたのさ、」
シェイクスピア

「果てもなき 波の下
真珠産む わたつみの
洞穴より
生命生まれ 育ちぬ」
エラズマス・ダーウィン

「五億年前、月は、生命をその最初の住処である海より呼び出し、まだ誰もいない陸地へと導いた。月は原始の地球で、荒涼たる大陸から大陸へと潮を移動させたため、浅みにあった生物は、周期的に太陽と大気に晒される事になった。ほとんどの生物は滅びたが、あるものはこの厳しい環境の新変化に適応した、、、月ロケット発射のドラマがわれわれの心をつかんで離さないのも無理はない。上昇するロケットに魅せられるのは、理性というより、太古からの本能なのである。」
アーサー・C・クラーク

「月は太陽の夢なり」
ノヴァーリス

「カフェの開いた途端に月が出た。」
マリネッティ

「月よりも目が痛い」
ハンス・アルプ

「月は5°7′48″をのみこんでいる。」
まりの るうにい

「女は破れ窓の障子を開きて外面を見渡せば、向かいの軒端に月のぼりて、此処にさし入る影はいと白く、霜や添ひ来し身内もふるへて、寒気は肌にさすやうなるを、しばし何事も打わすれたる如く眺め入て、ほと長くつく息、月かげに煙をえがきぬ。」
樋口 一葉

「油絵のローデンバッハの夜に 黄色い窓から洩れるギターを聞いていると 時計の螺旋のもどける音がして チーンと鳴るかと思っていると
 これは又! キネオラマの大きいお月さんが昇り出した 、、、」

「ある晩、お月さんがポケットへ自分を入れて歩いていた 坂路で靴の緒がほどけたので 結ぼうとうつむいたハズミに ポケットからお月さんが転げ出て 急雨に濡れたアスファルトの上をコロコロコロと転げ出した しまったと思ってお月さんは一生懸命に追っかけたが お月さんは加速度を増して転んで行くので お月さんとお月さんとの距離が次第に遠くなって行った そしてお月さんはとうとう ズーと下の青い霞の中へ自分を見失ってしまった」
稲垣足穂

「今宵 月は ひとしおものうげに夢みている 積み重ねた数々のクッションの上に横たわり 眠りに入る前に 放心の軽やかな手で 二つの乳房のふくらみを愛撫している美人のように 
やわらかいなだれと見紛う繻子の肌の背を下にして 仰向けになり 月は息も絶え絶えに 咲きほこる花々のように蒼空の中に昇ってくる 真白い幻影を うっとりと眺めている
やるせない手持ちぶたさのつれづれに 時おりは 地球の上にひとしずく涙の露をひそかにこぼすと 睡眠を敵とみなす敬虔なひとりの詩人は
その手のくぼみに 猫目石のかけらのように虹色に きらめきわたる青白い月のかけらのように虹色に きらめきわたる青白い月の涙を受けとめて 太陽の目の届かない胸の底にしまいこむのだ」
ボードレール

「月が黒檀の櫛で髪を梳いていた。
丘を、野原を、木々を、蛍の雨で銀色にしていた。
、、、、、、」
アロイジウス・ベルトラン


「リュイザルト、ムーシャルド、ルリュイ・ド・ブリュヌ、カファルド、カルディナル、狼の太陽、大きい金貨、大きいレンズ豆、螢、的、時計の文字盤、移り気な女、シンバル、これらはいずれも隠語において月を指す言葉である。イギリスの泥棒は月をオリヴァーと呼ぶ。」
P・ボウスィエール







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Heart Death

20080819233713.jpg

夏は冷房を切ったとたん、室内温度が急激に外界の温度まで上昇し、平衡状態に落ち着いてしまいます。

トマス・ピンチョンの「エントロピー」のカリストの部屋を思い起こします。

熱力学第一法則はエネルギー保存則なのに対して、第二法則は孤立系においてエントロピーはひたすら増大する、という原理です。第一法則のみなら、永久機関も制作可能でしょうが、ほぼ相容れない第二があっては、すべてのものはエネルギー均衡状態に向かい不可逆的に熱死―Heart Death―に至るということです。局所的に有機物が負のエントロピーを食らい、生殖活動を通して同じ形態・形質の種を累々と残そうとも、そのような歴史など特異点として明滅しながら全体としては無秩序へとすべてのものがほどけて終息して逝きます。ましてや、個々の人の想いなど、、、

夏は部屋を出ようと冷房を切ったとたん、なにか死を想わせる気配が押し寄せてきます。
それは静かに厳かに。すべてを知らず包み込みます。
絶対的な温度で。
誰も逃れることはできない。

そして
宇宙の最終的な終焉に向けて静謐に透明に流れる大河の中を
果敢ない夢が一瞬だけ煌くこともあるかも知れません。


夏はそれを私たちに思い起こさせるのです。





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もう一つ、荒俣氏の「図鑑の植物誌」から、”露”のイコンの章を思い出しました。
これはすぐに探せました。「露置く葉」の章です。

確かにオランダ静物画には、本当にリアルな露がよく葉に描き込まれています。
まさに玉のような露です。
私も静物画で描き込んだことがあります。
とても楽しいものです。そちらが主になるほど打ち込みます(笑)。
(ここでは脱線になりますが、この水滴を描く最高の名手はかのドラクロワです。こちらは躍動する馬の体につく水滴ですが、あの両眼視差を計算し尽くした色の並置による効果は凄まじいものです。)

「この美しいオブジェは、言うまでもなく、生命のはかなさをいやが上にも強調するシンボルだったのである。」

その他にも貝殻や昆虫も玉露と同じく寓意を持って植物にさり気なく(結構目立つのも多いですが)添えられていきます。ちなみに、貝殻は「永遠の死」、虫一般は「老い」、トカゲは「時の監視」ということだそうで、花そのものが生命の象徴であることから、そのアンチテーゼとしての重要な脇役・装飾ということでしょう。

程なくそれら引き立て役たちの寓意性は薄れていくのですが、形式的には残り、装飾的効果からさらに盛んに描き込まれるようになり、何と「露置く葉」スクールという植物画の一学派が形成されるほどになったのです。

「あらゆる花譜には玉露が滴るという騒ぎになった」ことで、例の植物画の名手ルドーテも描き込むに至り、ブームは隆盛を極めます。彼が描いた玉露を見に来た観客が、本物と間違いそれを拭ったという有名な逸話も残っています。

それもやがて、「1840年代を迎え、植物画譜が科学的正確さをより大きく要求するに従って、これら無用のオブジェは消えていく運命を辿った。」そうです。

今でも時折、美術館でそのようなものを見かけたりしますが。勿論、昔のオランダ・フランスの名作ではなく。
実は誰でも描き込みたいのです。ある意味、普遍的に。でも描き込む定番(寓意)が無い今、文学的・日常的関連のないものを描き込むのは、絵その物が豊かになるより異化されてしまう恐れが生じます。

私の初めて描いた模写が大好きなギュスターブ・モローの「オルフェウスの首をかかえるトラキアの娘」でしたが、背景のなんとも禍々しい空にどうしても現在のイコンであるUFOを飛ばしたくなり、非常に小さく細密なUFOを違和感なく描き込んでみると、見る人はやはり気づきます。その絵画展で余興のつもりで描いたものが一番よく見られた絵となってしまいました。あとから勿論消すように言われました(コラージュではなく模写なのですから)。私も虫のように小さいUFOばかり注目されて、私のモローが正当に見てもらえないのでは残念です。特に主題を混乱させるつもりで描いた分けではなかったのですが、遊び心(気紛れ)から飛んだUFOがロートレアモンかシュルレアリズム(コラージュ)の方に行ってしまう危うさがありました。主題に密着した玉露のような定番とは程遠い一瞬の中途半端なお遊びで終わりました。その絵はクローゼットの奥にまだ眠っています。勿論、UFOは飛び去っています。明日辺りまた出してみようかと思っています。

とんだ話に流れました。





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図鑑の博物誌より

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わざわざ、そこそこの書物を書店に見に行くより、この時期は昔の名著を振り返りたいと思います。少なくとも昼間の屋外は人類の生存できる環境とは言い難いですし。

また荒俣宏氏の博物誌関連の書籍からです。氏は動物の他に植物にも並々ならぬ深い造詣をお持ちで、この「図鑑の植物誌」も当時(85年頃)暫く眺めていた本の一つです。今でも印象に強く残っているところがあり、それを探し出すのに少し時間がかかりました。ただそのページがすぐに思い出せないというばかりでなく、見るページ見るページが面白いため、その近辺を読み読み進むと何を探していたか定かでなくなってくるのです(笑)。

その目当てのページはⅡ-09の「押し花でできた本」です。

花の詩画集で、1848年にイギリスで出版されたものです。
何と、この本は花にまつわる詩を集めた「文集」なのですが、併載する花が「絵」ではなく、つまり「描かれた花」ではなく、「本ものの花を押し花にして台紙に貼り付けた」ものなのです!当時500部限定のものです。よく荒俣氏は手に入れましたね。それもコレクターとしていつも感心するところです。

この本の巻末には、制作に当たり「述べ100人の村娘を動員して英国の郊外から多数の野草を採取させた」ということが記されており、さらに「この本の”図版”は一冊ずつ中身の質に違いがあって、良い図版を手にしたいならば、誰よりも早く書店に出かけていって、最も良好な標本を収めるものを選び出すことをお推めしたい」という忠告も添えられているとあります!

博物学全盛時にはこういう途轍もないものが結構出回っているんですね。私は荒俣氏の著作を通してこの辺の事情を知りました。何といっても驚きは、今日なおその花々が綺麗に色彩を留めているということです。

こんな本を何時でも眺めて楽しめるなんて、本当に贅沢ですね。羨ましい。労力と投資は前提としても(私は以前読んだときには、ただ当時は商業的なものを度外視したすごいものが制作されていたものだ、という驚きと憧れのようなものを感じるくらいでしたが)時間はそういうことにこそ使いたい!そうは思いませんか?われわれにとって生は何のためにあるのかを留まって考えない訳にはいきません。

真に価値を見い出せる時間を生きたいものです。

また、荒俣氏のように自分のやるべきことをひたすら進め実現していくヒトがいるということ、念頭に入れておく必要を感じました。




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Summer Was Hard

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Kronos QuartetにWinter Was Hard!名作がありますね。しかし夏も辛いです。冬は確かに厳しいものですが、夏ははっきり嫌いだ!私の季節ではない!

少しでも気持ちを安らかに、ということから毎日モーツァルトばかり聴いていますが?やはり違いますね、聴かないより聴いていたほうが、不快指数はかなり低くなります(断言)ただモーツァルトといっても、レクイエムあたりはちょっと違いますね、今はきつい。ピアノ協奏曲20番、23番あたりはよいです。私も娘も大好きだし。
交響曲21番も良いなとこの時期感じました。ジュピター(41番)は彼女らが寝る前にお絵かきする時間帯に。
いろいろこの期に聴いてみて、スローなテンポの厳かなタッチのものよりある程度躍動感のある軽やかなものが心地よく感じますね。前者の代表のような楽曲ではありますが弦楽4重奏15番も良かった、お昼寝に。それから短調のものは特に体の心に馴染む。私は以前からモーツァルトは短調の曲が好きでして。
一番好きなのは、最初聴いたときクリムゾンじゃないかと思ったレクイエムですが、重厚なものはさすがに夏はついていけません、体力的に。

それから、他に聴いているのは私にとって神のような存在、Peter-Lukasu Grafのヘンデルのフルートソナタ。昔むかし、と言うか大昔フルートを某音楽教室で習っていた頃、砂を噛むような練習曲と併用で先生が美しい良い曲も吹かないとフルートに懲りてしまうということで取り寄せてくれたのがヘンデルのフルートソナタの楽譜でした。
練習曲はほとんど練習していきませんでしたが、ヘンデルの方は神々しいいかにもバロックという旋律の魅力に惹かれ、私にしてはかなり真面目に練習していったものです。それからかなりたってのことでしたが、グラーフ氏のフルートソナタをCDで聴いてそれはもう言葉が出ませんでした。その圧倒的な神々しさに。
それまでに巨匠Jean-Pierre Rampalのヘンデルは結構聴いていたのですが(家の近所でコンサートしていたのに気づかず行きませんでした)、煌びやかで華麗かつお洒落な演奏とは言え、グラーフのそれには次元の違う世界が存在していました!少し前にもうだいぶお年を召してしまった氏が「題名のない音楽会」に出演していましたが、そこでも吹く人によってフルートはこうまで違うかという音を期待を裏切らず聴かせてもらいました。
私がヘンデルのフルートソナタで特に好きな楽章は、以前NHKの「日曜美術館」でバイオリンソナタにそのまま編曲されたものが流れていてその驚くべき美しさを再認識した曲ですが、「フルートと通奏低音のためのソナタロ短調 HWV367b」です。作品1の9。珠玉の名品と言えるものだと思います。実はこれとソナタ ハ長調Op.1No.7を本当にたまに娘たちの前で吹いて聴かせます。勿論、グラーフを聴いた後で吹く気にはさすがになりませんが(笑)
他の場面ではADHDではないかと思う行動が目に付くばかりの娘たちなのですが、この時ばかりは私のフルートをもぎ取って口に突っ込むような真似は一切せず、神妙な面持ちで楽譜を小さな手で私が見やすいように支えながら静かに最後まで聴いているのです。聴き終わった後も少しの間、余韻を感じているようです。
その後はいつも通りの娘たちに戻って二人で2台あるフルートに思いっきり唾を吹き込んで音が出ないと力んでおりますが。

フルートの楽曲といえば、Charles Koechlinの”Music For Flute”がお勧めです。もう19世紀から20世紀に活躍したフランスの作曲家でマスネやフォーレに学んだ人です。ピアノ曲や歌曲が多いのですが、管弦楽曲に優れた曲を残しています。このCDはかなり美しい小品による構成になっています。それはもう美しい音色にホッとします。



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七夕

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この時期、プラネタリウムに行くと、デネブ・アルタイル・ベガを頂点とした夏の大三角形が天空をゆっくり移動してゆきます。家の娘もようやくこういう時はお喋りしてはいけない、ということは何とか分かってきました。

彦星と織姫星、天の川の説明もとりあえず聞いています。幼稚園で先生から同様の話は聞いています。

彦星が「わし座の1等星アルタイル」,織姫星が「こと座の1等星ベガ」、こと座が今ひとつピンと来ないようです。わしは図鑑で見て知っています。1等星は一番明るい星だよ位は伝えておいたので、特に問題はなかったようです。まあ、それを理解してるかしてないかより、どれだけの時間座っていられるか、ですが、星座が見れる間はよく見ていますが、夜空を利用した宇宙の成り立ちめいた教育ビデオが始まるとさすがにもちません。

私も退屈して、みんなで外に脱出しました。
外で美味しいジュースを飲んで帰ることにしました。

家の娘たちもようやく4歳11ヶ月をこの日に迎えました。あと丁度一ヶ月で5歳です。私たち親はやるべきことをして来たのか、反省してみなければなりません。




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ブログを作りなおすようなことを言っていましたが、結局元に戻しました。改良で対応していく予定です。
今後とも、宜しくお願いします。
THEME:日々出来事 | GENRE:ライフ |

neutralに向けて

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昨日と今日二日続けて病院に行きました。
結局、ヒトがいろいろ試行錯誤しながら身につけていくものとは、
N+1ではなくN-1により、neutralの状態に近づけていこうというものだと考えます。
中庸です。

普通に暮らしていると、どこかが歪みます。
その場にマネージメント出来る存在がいないと、それぞれのデコボコが修復不可能となってゆきます。

基本、集団は締めつけでよくなることはありません。
監視・管理・密告の体制で、何かが良くなるということはないです。
Googleの社内など個人にとって、とても開放的な作りだそうです。

ある意味、すべてはコミュニケーションの問題です。
そこに収束します。




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THEME:メンタルヘルス | GENRE:心と身体 |

記憶の連続性

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最近私は恐ろしく記憶が剥落する。次々に違う自分に乗り換えていくようなめまぐるしい、それでいて残酷なほどの睡魔にも襲われ続けている毎日です。疲労混迷しております。
そんななかで、私の学生時代の知のアイドル荒俣宏氏の懐かしい本を思い出しました。大博物時代という、他の本なら100ページに渡って書かれる内容が1ページに凝縮されており、面白くて読み始めると本が置けない、こんな本は他にはライアル・ワトソンとカルロス・カスタネダなどでしょうかね。すごい本です。
ちょっと手に取ります。やけに日に焼けているではないですか

魚は最近になって稚魚と成体が繋がる例がいくつも出ているようです。
つまり、幼虫(芋虫)、蛹、成体がそれぞれ別の種扱いされている魚類がまだかなりいるようなのです。最初に芋虫が蛹の形になりそれが蝶に変身するその飛躍的連続性を掴んだ学者?はどう思ったことでしょう。このような生命の神秘は勿論、魚類にも見られ、博物学者で作家でもある荒俣宏氏は、1980年ごろの夏の八丈島の海に潜って、コノハベラの成体がススキベラであることを突きとめました。それまではコノハベラとススキベラはその特性と形態の違いから、別種のモノと考えられていたのです。荒俣宏氏は海の中でコノハベラが今まさにススキベラに変身する場面を押さえたのです。

この歴史的発見から氏は、ひとつの個体は成長の段階で複数の種を体験するのではないか、という示唆にとむ仮説を提示しています。しかも、それぞれの変身において、新しい自意識と感覚と記憶をセットで交換するはずだと。つまり、芋虫であった時と蝶になってからの時の間に何らかの関係は一切ない。

この後、氏は、エラズマス・ダーウィンやビュフォン、キュヴィエ、ラマルクをタップリひいて進化をいえ、博物学を縦横無尽に論じています(なかでもマリー・アントワネットと植物画家PJ・ルドゥーテの出逢い、そして彼がそれまで忌み嫌っていたジャン・ジャック・ルソーの植物研究書の挿絵を描く事になるくだりなど、涙を誘わずにはいない感動の挿話もあります。)勿論、ロマン派(ロマン派的思考)は博物学には欠かせません。

さて、話はかなり無理な飛躍をしますが、魚の性転換もある意味ダイナミックな変身ですが、最近盛んに取り上げられ巷で話題の人アンソニーロビンズをメンターと仰ぎ、メソッドを受けたとたん、まさに別人の様に急に変わって億万長者になってしまった、などどう解釈出来ましょうか?取り敢えず記憶の連続性をもってして、昔の私はなどとのべてはいるが、結構怪しい連続性を偽装してはいないか?ここらへんからSFノベル作ってもよいのかも、と思います。われわれの体内などいつだって遠い宇宙の果てから来る無数の宇宙線が通過しています。何があってもおかしくない。

そこの急にアフィリエイトで儲けだしたお兄さんだけでなく、わたしたちも人生の何処かの過程で大きく変身しているかも知れません。わたしは少年期など覚えていることなどほとんどない、です。最近のわたしはかなり入れ替わりが激しく飛んでいるのか、単なる痴呆症なのか、、、。何にせよSFホラーです。

これは完全に逸脱した連想かもですが。




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世界の海を泳ぐ金魚たち・・

goldfish-oranda.jpg

round the world trip

申し訳ありません。二回続いて、エストリルのクリスマスローズから引かせて頂きます。
何故ならすごいものを、ヘーゲルの次に見てしまったものですから。
それは、、、

実は、私は以前プラトーンをご紹介した際に(プラトンではないです)、かなり面白い物をテーマにできたと自分でも内心思っていたのです。ところが、見栄えやセンスで言えば遥かに上で、面白さで言うと、まあタイプが違うかな?!と言うアイテムなのです。

そもそも金魚に世界の海を泳がせようと言う発想がすごいですし、確かに綺麗で見ていて飽きないでしょう。
写真に見るところサイズはかなり大きそうで、複雑なディテールも当然あり、お手入れはかなり大変でしょうし、与える餌にも気をつけたいものです。

とは言え赤い金魚でも、黒い金魚でもきっと楽しめることでしょうね。
金魚自身にとってもかなり動き回れる海の道があり、冒険的で楽しめる物かもしれません。
彼らに聞いてみたいものです。

照明の工夫もするとさらに効果的だと思われました。
スヌーズレンでもとりあげましたが、水と光が絡むだけでも精神に与えるかなりの効果がありますが、そこに探索運動などを誘発する余地のあるものは、さらに様々な可能性を孕んできます。
金魚の尾ひれの細やかで繊細な動きに幾重にも交錯する水面の光が彩りを加えてゆくのを見るともなく眺めていたら、時が経つのも忘れてしまうかもです。


これも癒しのアイテムですね。

とりわけゴージャスな。



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強靭な爽やかさ

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ヘーゲル Ⅱ~精神現象学~シラー/友情 エストリルのクリスマスローズ を拝読して

「他者不在の哲学に対し
徹底的に他者を取り込み
一般”精神”にアウフヘーベンしてゆく・・」

(コメントにしようと思いつつ少し長くなりそうなので、メインカラムに述べさせて頂きます。)

柔らかな語り口で、これほどすんなり入り込めるヘーゲルはないです。もっと長編も読んでみたいという気持ちになるのは私だけでしょうか?ヘーゲルを語ってこの爽やかさ、軽みは何でしょう?学生時代の哲学講義はぜひ、SAKI様にして頂きたかったものです。

何でもそうですが、軽みはとても大事です。どんなに難解で深刻な問題を論じていても、軽みがあり、聴き易い、読み易い事はある意味大変有難い事だと思います。しかし、この辺りの思想をこんなに爽やかに述べられるには途轍もないバックボーンの存在が容易に想像されます。しなやかな完成された文体は、つい心地良くさらっと読めてしまうのですが、かなり骨太でダイナミックな思考運動により生成されていることが触知されます。才能と蓄積があっての事と言ってしまえば簡単ですが、なかなか稀有なものです。

先ほど述べました軽みですが、言い換えれば普遍性です。まさにアウフヘーベンの螺旋的運動を経て獲得された知でありましょう。このレベルが実現できてはじめて、圧倒的な読者の獲得も可能となるのですね。難しい内容は敬遠されるとかいうレベルではないのです。難しかろうが何であろうが、それが真理に繋がっているとひとが直覚出来るものであれば何であってもひとはそれを求めるものです。私もそれを触知した際にはいかに理解が大変でもまず読んでみます。それが本質力を持っているのなら。そうでなければそもそもヘーゲルなぞ誰がわざわざ読むもんですか!

そして、此処を目指すのかもしれません。いえ、此処に至るのかも知れません。

「如何なる時も見失わない幸せとは
あらゆる哀しみをもってしても
マイナスとは受け止めない
熟成された確かな精神の中に
見出す感覚なのかもしれません・・。」



 「ーー最終的に得る精神の王国の盃から精神の無限の力が沸き立つーー」



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無意識の誤操作

im1.jpg

改めまして、先日の問題点です。

あの対応の仕方では甘い、と見られた方は当然いるはずです。何故なら、原因を究明してないからです。私も直れば良いというもんではない事は充分承知しております。そこで少し調べてみました。

まず、あの症状は明らかに全体の問題ではなく、「個別の記事」の問題でした。スタイルシートに手を付けるような作業はそもそもしてません。単に通常通り記事を書いただけですから。
では、どこでそうなったかということですが、どうやら「記事内で使ったタグ」がしっかり閉じていない場合にもあのような症状が現れてしまうそうです。余計なタグをいれてしまった場合にも。その日、何か引っ掛けて消してしまった気がしないでもないのです。一部を。それによって引き起こされたズレが右サイドバーの押し出しをしたのだと考えられます。
一瞬のほとんど無意識に近い誤操作によるものでした。

何かのお役に立てばと思います。皆様も疲れているときは特にお気を付けください。
この件で引っ張るのは止めます。今回で終了です。次回からは文学的な世界に浸りたい。



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”Bon voyage.”



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