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贅沢な時間

今夜は、「消滅した時間」奈良原一高/1975朝日新聞社刊をゆっくり味わいました。
写真というより光画と言う方が当たっているように感じます。

ニューヨークのゴールドラッシュのゴーストタウンやインディアン居住区などを撮ったモノクロ写真群は作者も言うように「別のプラネットの光景」のようです。

まず来るのは、これほど美しい光と影のコントラストを観たことない、という感動です。

フォトショップで加工された写真や特別フィルタを通した写真、特別変わった場所や物を切り取った写真はよく見かけるものですが、これは言わば、奈良原一高というフィルタを通し見られ切り取られた時間の断面と言えるでしょう。どれも見事に時間が結晶化し、消滅しています。時間の重層された鉱物の断面を見るような眼の奥の疼くような恍惚感に酔います。それでいて常温で醒めている。透徹した光景ばかり。浮遊感すらあります。そうかれの写真は何を撮っても重くならない。

これを見ると時間と言うものは単純なものさしではない、幅のある固有のものだということが想い起されてきます。

本当に贅沢な時間を過ごしました。

わたしが言うまでもありませんが、優れた画集、写真集は本を読むのと同様の特有の時間の流れがはっきり存在しますね。


以前エルンストのコラージュ画集でお伝えしましたが。
また、これはと言う写真集・画集のご紹介をしていきたいと思っています。




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今後の予定

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妙に殺風景になってしまったブログについてですが、(まるでのっぺらぼうです)これを機に大幅に変えようと思っています。

1)フォントの美しいもの
2)はてブのボタンを入れる
3)拍手ボタンは取る(最近取り除いている方が多いですね)The Riverでもらった5拍手も無くなってしまったし?!
何というか、ランキング的なものに一切拘らず、一見さんよりも濃い読者様にいつも来て頂けるよう頑張りたいと思っています。


と言う事で、近いうちに変えるつもりですが、これまでと変わりないご支援、宜しくお願いします。



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ELKE

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3.The River

Part1
つたない筆跡で描きつけられた樹木に触れまいとして
倒れかかる
樹木は腐ったボール紙特有の腰のないしなりを見せ
音もなく砕ける
いまだにわたしたちは樹木から作ったと言われるやましい舟に乗り
河を下る
ペンキだらけの舟は白いよそ行きシャツをたちどころにアロハシャツに
してしまうとは言えオレンジ色の光の下ですべてはモノクロでしか
判断できない
赤いテールランプは別として
甘い味のペンキだ
しかしいっこうに肌は焼けないから原住民にはなれない
わたしたちの流れと無関係に緑の藻が水面を覆っているのに
7日かけて気づき
はじめて唾を吐く

ここ3カ月胃をこわし続け朝起きるといつも口に唾がたまっている
こんな舟にビニルの波頭のそよぐ河なら
酔う事はないが
泳ぐまでもない河なら何故舟に乗るのかあえて

空の一枚ビニルがいまにも破れようとして黒い鳥が太って震える
オールを漕ぐふりをしながら本気で欠伸をする
涙が一筋頬をつたう
木々の上では女たちが笑っている
攻撃的なせせら笑い
果実たちはセルロイドの瞳を開けたまま眠り続け

何ものも舐めることのない一条の光が
今日はことの他
神々しい
煤けたミラーボールのせいか?
いつもながらのオレンジ色の世界で
~イズム ~トロニクス
トランペットの鳴り響く中
看板の立ち並ぶアマゾン川流域

えげつない熱帯植物に鼻を近づけると
それは安煙草の匂いだ
蚊が刺す
ボウフラがこんな河にもいるのだ
こんなところにも永遠のそして唯一の敵が
わたしたちにとって殺虫スプレー否ガソリンはパンを捨ててでも
手に入れなければならない
しかし
それもどうでもよいこと
すぐに忘れてしまうから
隣の奴の顔さえも
わたしたちはこれといった顔はもともとない

何故乗りかかってしまうのか
こんなにも雑作なく
風も吹かない
巨大樹木の書割
しかし伐採でダメ―ジも受けない森林なら
二酸化炭素の放出源にすらならない

レコードが何処かで100枚以上回り続けている
すべての音はいつだって理由もなく鳴る
いつの間にか耳にこびりつき
鼻歌を歌っているのは誰だ

受け容れるまでもなく身体化している
わたしの声です
わたしのことばです
わたしの顔です

レコーディングされないものは
写真に撮れないものと同じくあり得ない
知らぬ間につまみあげられ
パッケージされ
整理され捨てられ助けられ眠らされ夢の途上で
たたき起こされ
バラバラのままこんな舟にゆられている

或る者はこれを指して
運命と呼ぶ
何故ならすべてが無意識の取引だから

照明ばかりが暑く明るく
クーラーだけが何故か効いていない

Part2

Instrumental


Part3

わたしたちが河に出たのは奇妙な気紛れからだった
というのが大方の見方のようだ

本当のわたしたちは血液とかその他の体液それから骨や筋肉に
あのグチャグチャした内臓なんて欲しくない
同じようにグチャグチャした排泄物も
食ったり眠ったりもしたくない
それは舟の上では面倒なこと

わたしたちは有機的なものなどいらない
切って血の出るからだなんて欲しくない
内燃機関も好きじゃない

本当のわたしたちは内面も内部すら無い稠密なダイヤモンドの身体で
踊りたいのだ
戦いたいのだ
そして勿論、飛翔のだ
昆虫のように
あの偉大な拳法家たちのように
あのギリシャの神々のように
外部だけで、そうピカソのきれいなデッサンの線で
変身したいのだ

流れるように
嘘のような流れのなかで
善と悪の彼岸で
ギリシャ時代の雷の轟く
音楽となって

わたしたちはいまだ飛翔できないから
きっと河に出てきたのだ
ものを何処かに向けて運ぶというだけの力を備えた河に
「太陽と大海の煌く果て」というゲートは幾つも潜るが
気にすることはない

も一度しっかり船員に戻って
この白い帽子を深く被り直し
この流れ
重さ自体である重さとなって流れに従い
孵化を待つのかも知れない
孵化を待つのだ

ちがうわたしたちが

わたしたちの知らない内界で
ナイフやゾンデやX線で探れぬ場所で
その巨大な宇宙から

この流れ自体を食い破って出てくるのかも知れない
この流れ自体を食い破って出てくるのかも
この流れ自体を食い破って出てくる
この流れ自体を食い破って
この流れ自体を
この流れ

それは飛び越える
太陽に向かって
あらゆる照明を突き破り
廃園のなかを群れなして

外へ
外へ
外へ



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ELKE

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2.in the morning

記憶の亡霊がわたしの生きた時間を侵す重い鈍痛となって
わたしは眠れない生きながらえるために眠るのならもう眠る必要などない
わたしの生きた時間が記憶の亡霊に侵しつくされる
わたしは何によって癒されるのか出口のない朝
永遠という狂気に浸されながら
わたしは何にも触れることができない

水が飲みたい
水が飲みたい
本当の水がのみたい

これはわたしの想いなのか亡霊のいまだ尽きぬ欲望なのか
ただ確実なのはわたしは苦痛をそのままでいつまでも苦痛としか
感じられないことわたしはすべてに耐えられないすべては苦痛でしかない
これまで何匹の亡霊を葬ってきたことかしかしそれらはいつまでも
重力と電磁波の業の中で禍々しい信仰を幾重にも纏い
熱い死臭をはっきり漂わせ幾度となく蘇ってくる

水が欲しい
水が欲しい
純粋な水がほしい

瑪瑙の中に閉じ込められた太古の水それは夢すら無かったころのこころ
低く低く基調をなす調べに深く深く沈みこみうずくまる
水に浸かるにはもはや固く固く殻を纏いもうひとつの夢
完全に造りあげられたもうひとつの夢のなかに身を沈めることしかない
昼でもなく夜でもなく記憶の亡霊の入り込む余地のない
人工の律動を全く新たにここに造りあげなくてはならない

こんな朝に




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ELKE

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1.Echoes

あなたはあなた
わたしはわたしの言葉でしゃべり
あなたとわたしは、はなればなれになっていった
きっとおなじ悲しみに、おなじ微笑みをかえしていたのに

もはやどんなに走っても、面影すら浮かばぬ風景に
取り巻かれてしまった。
(風景はコード化されている)

そしてこのようにわたしは年老い
顔を想いだせぬあなたに似たヒトをさがしていることをふいに知る
無力で無意識な欲望は虚空をかきむしる
それは青空、雲ひとつなく

イマージュの剥落した想いと思考はいつも
虚無の底に重みを落とす

鏡の表面に蓄積されるエネルギーは
疲労だけが抜け落ちた声となり何かの法に従って
還ってくる、幾重にも幾重にも

その声には一切の意味が響かない
だれの声でもない声が
あなたはあなた
わたしはわたしの言葉となり

あなたとわたしは、はなればなれになっていった
わたしは気づいた時、あなたという
言葉しか知らなかった。

声よ。

視線のない声よ。




*これはオペラのつもりで書いていました(笑)。随分前のノートからです。でも大学は卒業してました。
まだ数点拾ってみます。"NOSTALGHIA"の少し後の作品です。



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絵本のために 最終回

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j.描くための前提

すべての眼で被造物は開かれた世界を見ている。われわれの眼だけが、いわば逆転されている。

ライナー・マリア・リルケ

われわれは見ているときにある事柄が不可解であることを見出す。なぜなら見ていることの全体がわれわれにとってあますところなく不可解というわけではないからである。

ルードウィッヒ・ビィトゲンシュタイン

見るとは、線や形や色が視覚的に捉えられるその仕方であり、言語―文法を不可分な成分とした有機的体制によるものと説くノーウッド・ハンソンらを引くまでもなく、「わたしたちは知ってるものを見ている」のです。

言葉の数だけ世界は広がる。地の中に図が何らかのパラダイム―体制により浮き出てくれば、すぐさまそれをもともと知っていたかのような自明化が起こります。その起源、発端の瞬間はたちまち忘れ去られて。所謂、外部―差異性により内部―意味が生じたのに、はじめからそのものが、そのものとして存在していたかのような倒錯が起きます。至る所に起源の物語―歴史が作られ積み上げられてきました。意味の内在化―すべての物には意味がある、と。

時として、極めて異様なものが眼前に立ちはだかったり、不安で焦燥にかられるようなものに出逢うこともあります。寝ぼけているとき?トワイライトゾーンで。またはアルタード・ステイツにおいて。マックス・エルンストのコラージュなどに。ピカソの”アビニョンの娘たち”のように。ウンベルト・ボッチョーニの彫刻に。”それ”が現れた時、言語―有機的体制が希薄なときか、過剰で形態―意味がひしめき合い、打ち消し合って、宙吊りになってしまい眼がうずいてしまって見ようにも見れない。
しかし、その状態も一度或る対象として認知され構造的に把握されると、いつもの認識枠に回収されています。何もなかったかのように。夢から覚めた時と同様に。

わたしたちは何の疑問もなく線遠近法で整序された世界を見渡しています。15Cに作られたカメラ・オブスキュラによって始めて可能になる視界です。ルネサンス期に始めて成立した、自分が世界の中心―自我として世界を捉える視座です。
それは内面領域です。そう、キリスト教の告白の制度の当てはまる場所。フィジカルには内燃機関の発明によりさらに強化される。
では、外界とは、その問いは客観とは、と同様に意味をなしません。

人が言語体制により構造化されたものを認知する生理的必然として、眼球が高速度で微動し続けていることは忘れることはできません。そのような機能から継起的記憶の累積と抽象過程を不可避的に経ることになります。イデオロギーの介在する余地です。時空間の生じる余地です。わたしたちにとって“いま”は情報ではない。常に遅延している。存在学の生じる余地です。

わたしたちは存在に追いつかない。恐らくすべての生物のなかでもっとも大きく遅延している。膜構造をもった時点で生物としての遅延は始まり、、、。
すべての生物は固有の身体原理に基づき固有の幻想世界を成立させています。

誰もが違う場所に生きています。


この物語は回帰します。はじまりへ。




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絵本のために

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i.ナルシス

意識に注目することとはどうしたことだろう。
~についての、という概念の発明から
こころについてのこころ。意識についての意識。精神についての精神。

それはいつでも実体化しフェティシズムに凝固する。

意識を意識することの言語矛盾。
「意識」が存在するのではなく、われわれは常に何をか外部を根拠とした内容を告げ知らされたとき、はじめてそれをそれとして意識しているに過ぎません。
そのような在り方でしか在りえない。

目を開くと同時に――光の速度で――われわれは表象に取り巻かれています。
(それらをそれらとして知るには眼球微動――>言語的編成を経ます。当然遅延はあります)
そして非視覚的表象(感情)に至るまで様々なレベルの表象を知覚しますが、すべて受け身です。
無意識(身体)的原理に基づく外界の対象化といえましょう。

「意識」の裏側には回り込めない。

表象の由来は反省的思考により事後的に解釈されたものに過ぎない。
諸表象を前にわれわれの受ける快・不快はわれわれが形作る表象の価値・意味の審級により生じています。

意識に注目するとはどうしたことだろう。
対象化出来ないモノを対象として扱う事。
ロボット。人工知能の問題。

意識は別世界に通じる水面――鏡に似ている。(タルコフスキーの「鏡」)
それは非現実的な表面です。
近づくには狂気をもってするしかない。
恐るべき虚空間がわれわれの現実の根拠となっている。
その水面――鏡には様々なイマージュが去来しています。

自分の顔などどこにもない。
ただ単に、絶対的な距離と非人称的な自分というモノがその都度、認知されるだけ。




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絵本のために

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e.恋

ゾウリムシは普通、分裂によって繁殖するが、時に2匹が1匹に接合し細胞組織を互いに交換し、一種の浄化作用を行い、再び分裂すると渋澤龍彦は生物学者のジャン・ロスタンの説を引いて言う。

生物は明らかに生殖活動よりエロス的衝動を普遍的なものとしてもっていることが分かります。

単細胞動物には、性がないうえに繁殖の必要でなされる分けでもないその行動を、他に何と呼べばよいのか、、、。

恋。

ちなみに、彼らには死は存在しません。

f.挿入

スローモーションで動く小さな模型世界。キラキラまばゆく光るイルミネーションの散りばめられた甘く爽やかなお菓子のような。

g.現=存在

私たちにはもともと生も死も未来もない―――ある分裂病患者の手記より

h.たたかい

内部対外部の情報によるたたかいが続いてきました。
人類500万年の歴史のなかで、現在の人類5万年くらいから徐々に。

文明の歴史51千年前からはっきりと。
DNA―内部生命情報VS言語・図象―外部文化情報
DNAに対する中枢神経系のたたかいでありました。

自分という朦朧とした総体―運命に対して勝つとは、意識―意志の勝利ということ。
しかし戦術も何もわれわれはもたないのです。

個体としての勝利の記録はみつかっても、普遍的なテクストはありません。
多くの秘書。

内部・内界の錯綜を極めた諸表象のなかで知性―意志は次々に敵を見失う。
身体性―無意識というぼやけた線上でわれわれは盲てしまうでしょう。
さらに敵も知らぬ間にエイズのようなレトロウイルスに捉えられており
共に滅ぶこともあるのです。

われわれは知らぬうちに幾重にも舟に乗っていることを知ります。
そしてわれわれ自身もまた巨大な舟でもあったのでした。

戦術もなければ、相手もはっきり定まらないたたかい。あたかも素粒子を相手にするような。
いえ、位置と運動を同時に捉えられない観測の問題のような、まさに素粒子レベルのたたかい。

5千年。
エゴがはっきりせず。
たたかいであるのかどうかも掴めない、言葉の問題。
飛躍の連続。

その間、地球はほんの少しずつ月を手放しながら
宇宙のなかでピアノ曲線よりも複雑な軌道を巡ってきました。
これもまた素粒子のごとく。



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号外:BABAR

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BABARのご紹介しております。古いものの一部です。オリジナルデータが無くなり、サムネールのみで、しかもほとんどデリートしていました。残っているものだけですが、雰囲気は伝わると思います。LINKにもありますSEASONGで公開中です。お立ち寄りください。まだできたばかりのサイトです。ほとんど誰も知りません(笑)そのうちかなりのレアな情報も載せていく予定ですので。時折、思い出して下さい。
SeaSong
宜しくお願いします。

日本、イギリス、ドイツ、オランダものがあります。スペインも少々。
数回に分けてご覧いただきます。



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絵本のために

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d.かすれた瞬間ー時間への流出
、、、あらゆる生体の蛋白質の鎖をつくるリボ核酸が摩滅しかけ原形質の署名を刻みこむ型が崩れてきたのだ。(ホイトビー博士(JGバラード))
永遠不滅の自己複製過程も宇宙の終焉を待たずしてヒビが入ってしまうのでしょうか?

確かに、もはやわたしたちにはカラーラのミケランジェロほどのパワーは誰も持ってないし、レオナルド・ダ・ヴィンチのような抽象性をもった観察者はいない。

あの石切り場と風の作る渦!

いまあるのは死に寸断された時空の国の人間のみ
あるのは、沈黙の遺伝子の目覚めとともに生じる反対称性のみ

それも急激に坂を転げ落ちてゆくだけの

いつしか
印刷のインクが薄れ

あなたのおもかげすら浮かばない、、、。




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絵本のために

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c.いつか逢った事のあるような
持続とはベルグソンが信じたように、意識の直接与件などではないのだ。われわれに与えられているのは時間ではなく瞬間である。この与えられた瞬間から時間を作り出す事は、われわれ自身にかかっている (ジョルジュ・プーレ)

いまある時間体系を極度に遅らせていったならば、星の生成、消滅は素粒子のような振る舞いだろうか?

そして時間は意味を失い空間と化してしまう。

因果律の解けた場。しかしそこで我慢が出来るだろうか?神に。わたしたちに。

生成が起きる

宇宙は何度こういう事を繰り返した事だろう。呼吸のように。しかしその都度始まるのであってみれば、これを数える者もない。

でも、この白猫ホキはずっと前からわたしの事を知っていたかのように、わたしの膝の上で転寝している。

そう、ずっと、ずっと前から、、、



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絵本のために

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b.旅
数千光年の軌道を巡る彗星の胎内に育まれ、その星々すら呑み込みかねない洪水の尻尾からから振り蒔かれる夥しい孤児、いえ選ばれた種子たちの旅が始まる。

ときに彼らの小さな意志は彼方の故郷となるはずの遊星よりも早く目覚め、薄明るく冷ややかな光の渦の中で夢の熱にあたたまり待ち続けてきたことでしょう。

もしかしたら宇宙にはすでに彼らより後に生まれる遊星はもうないのかも知れない。でも、彼らを受け容れるべくして待っている遊星はきっとどこかの時空・場所にあるはず。

彼らはわたしたちが偶然と呼ぶところのあるプランの下、音の存在しない恐ろしい風の中を翻って飛んで逝く。

彼らは、煤けた果敢ない者たち。兄弟・姉妹のいくつもの死に包まれた不滅の生命。彼らにはまだ時間も空間もない。
しかし、彼らはすべてを知っている。何一つ知らない知らないのと同じくらい確かに。彼らこそ夢の結晶。

とある遊星で始めて膜に包まれた眠りを覚え、湿った粘土に自らの鋳型を作り、多くの同胞を生んで無数の果実を実らせる。その過程で彼らは、生暖かく濁った大気のスクリーンに、自分の知っていたことを映し出し、それを始めて知ってゆく。

しかしこともあろうに、ある者は浅く振りまかれた砂地に落ち、焔も上げずに燃え尽きる。かつての彼らの兄弟・姉妹のように。その束の間に彼らは知っていたことのすべてを知ったのだろうか?

いいえ、夢の結晶のままに、彼らの後の同輩たちの眠りの内に、幾度も蘇ることにしたのです。
彼らの大地となり、血となり風となることで。

いま名前も付けられていない地殻の中で、数十億年の眠りから目覚める機を見出した者もいることでしょう。また、わたしたちの呼吸の中に飛び込み、わたしたちを知らぬ間に捉えてしまう者もいるのです。すでにどれだけの者たちがわたしたちの身体を生活の場としていることでしょう。いえ、乗り換えの場としていることか

そして、いまも瞬時に死んで逝く者たち。光とともに通過していく者たち。何処までも平行に。あまりに高く。あまりに低く。しかし宇宙は閉じている限り、彼らはなくなるということはない。彼らは何処でどのような果実の夢を見ていることか。

わたしはわたしの内部に、再度耳を澄ます。



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絵本のために

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a.世界
わたしはテーブルの上にひとつのリンゴを置く。ついでわたしはリンゴの中に入る。なんという静謐さであろう。
(アンリ・ミショー)
アリになれば、ウシにも少女の手にとっても「まったく存在しない花茎の上を歩いてゆくときに触れる敷石」(フォン・ユクスキュル)を知ることができる。
ハエはわたしたちを焼き、わたしたちの見ることのかなわぬ「紫外線のかくも多い平行線」(トリスタン・ツァラ)を白壁にはりつきじっととらえている。

存在の数だけある環界。

わたしの身体にも無数の世界が開けており、ATPの発電工場であるミトコンドリアの社会もそのひとつ。
そんな内部世界=外界---決して内面ではない---稠密で重層的な表層世界を駆け抜けて遊べたら楽しいでしょうね。
エルンストのミクローブの飛び交い、ミリメートルのツァラが散策するねじれた道々。青い空やピンクの空を振り仰ぎ、なんと小さな世界で、なんと深い呼吸のできることか。

                     わたしはわたしの内部に耳を澄ます。



*b~jまで連日掲載します。どなたか挿絵描いていただける方、、、いらっしゃいましたらご連絡ください。





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Media

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そもそも実在を確認しようなど思わぬ方が良い、という絶望が礎となって「メディア」というからくりめいた発想が出てきた。メディアは兆候でもアドレスでも器でも形式でもない。われわれは現在、メディアを見つめる以外の見るべき何ものも持とうとするべきではないし、持てる現実でもないのだ。われわれの眼に映るものは、実体ではなくすべて画像とすればよい。


松岡正剛

達観です。何をか付け加えることあるでしょうか?
すべて画像です。
くくるということが大事ですね。
いろいろな言葉・概念を沢山繰り出してものごとを霞ませ不確かにふやけさせず

ひとつのことばに収斂させる。

それがはっきり今後ずっと使えるものならば、ある意味発明です。

ジル・ドゥルーズの言う意味で。(哲学の使命は概念の発明である)



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フェティシズムー窒息状態からの

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私たちは本物志向という誘惑からなかなか逃れられない。その結果、いわゆる偽物のブランド商品に騙される以上に、本物と信じているブランド価値に踊らされ、贋金に騙される以上に、本物と信じている貨幣に操作されて金権政治に加担してしまう。テレビがでっちあげる疑似イベントが偽物である以上に、テレビの画面そのものが、実は光の点の点滅と連続に過ぎず、スクリーンの上に現れる映像は、においも暖かみもない人間の偽物であることに気づかない。


丸山圭三郎 「文化のフェティシズム」より


、、、だが、わたしたちの経験的現実の「前提」を形づくるこうした「自明性」は本質的に、一つの「制度」に外ならない。真に問題となるのは、「制度」としての「自明性」へと経験的現実が昇華してゆくことの根拠であり、その過程に働いている「自明化」のメカニズムの謎なのである。「自明性」としての世界を問うのではなく、世界の「自明化」を問うことが求められるのである。
「自明性」を前提としてしまうことの根拠には、わたしたちの日常的経験の「弱さ」が、そしてそこに表象される生の「浅薄さ」が秘んでいる。安っぽい舞台の「書割」のような「風景」を、あたかも世界であるかのように後生大事に抱え込んでしまっているわたしたちの感性や意識の鈍磨に、「自明性」の現存的基底が在るといわなければならない。「自明性」を逆説的に一個の「謎」として見据える強靭な問題意識が、わたしたちの経験を、生を、本当の意味で豊饒のものにしてゆく為に、要請されるのである。


高橋順一 「現代思想の境位」より

私は感覚的に全く興味が持てないのですが、今大変な人気グループといわれるAKB48(本当は100人くらいなんですか?)など、とても虚ろで、たまたま見るパネルごしでも例えそうでなくてもおよそ身体性が認められない。かと言って一つのアートまたはエンターテーメントとして画像を楽しむ感性も私は持ち合わせていないようです。単に醒めているのか、歳の問題か?外に本物志向を持っているからか?異なる幻想に価値を抱いているからか?


私の生の空疎さはしかし、、、フェティシズムによるものだと思われます。世界を世界として信じている。その地盤を自明なものとして生活空間を構成していないか、再度その枠を「強靭な問題意識」で確認する作業が必至です。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「世界がどうあるかではなく、世界が在ることの不思議」から捉えかえすこと。

そして詩的世界、絶えざる受難と情熱によって維持される、その世界に身を晒し続けることに耐える精神こそ、、、私に欲しい。
何故なら、

「生きるという事は、生きながらえることではない。」のだから。


詩的散文 Ⅸ~プルースト/失われた時を求めて~ボードレール/オーラ
エストリルのクリスマスローズ/SAKI様の珠玉のエッセイにインスパイヤされて。



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AQUA

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程よい大きさの瑪瑙の団塊を手で持ち上げてみると、時に異常に軽く思われることがある。それで、その内部が中空になっていて、水が入っていることが分かる。耳の近くで振ってみると、ごく稀にではあるが、内壁にぶつかる液体の音が聞こえる。たしかに、そこには水が棲んでいるのであり、水は地球の揺籃期からずっと、石の牢獄に閉じ込められたままでいるわけなのだ。この大昔の水を観たいと思う気持ちが生ずる。


ロジェ・カイヨワ 「石が書く」(岡谷公二訳)より


その水を見るためには、ざらざらした瑪瑙の原石をゆっくり用心深く磨き、やがて薄い半透明の隔壁を通して、内部で黒っぽい水が動いているのが分かるまでにしなければならぬであろう。それでも、その水を見たとはいえないかもしれない。カイヨワはこれを「水以前の液体」といっているが、たしかに、その水は地球の発達の歴史を知らず、天水を通じて循環することを知らず、溶けた鉱物が固結する過程に、ふと落ち込んだ空洞のなかに捕えられたまま、二度とふたたび出ることが出来なくなってしまったという、いわば童話の「塔に閉じ込められた姫君」のような処女の水ではないだろうか。ただ異常な圧力のみが、この水を液体の状態にしているので、もし少しでも瑪瑙に亀裂が入るならば、それはたちまち蒸発してしまわなければならない運命なのだ。


渋澤龍彦 「胡桃の中の世界」より

黒い水の揺れは誰もの心に潜んでいるかも知れません。決して表出できない。口を開けた途端に消えてなくなり、自分も人も誰もその存在を知るよしはない。もともと在ったことさえ知る人もなく、その痕跡も全く失われてしまった。どんな歴史からもすべりおちて。

しかし何かが在った。何の根拠もなく、根源的な郷愁と焦慮の念にこころがひりつく。絶えず。単なるロマンティズムではないかと自問しつつも。

人知ではどうにもならない事情。神等の抽象をどうしても要請せずに負えない場があります。

神の水。否、失われてあるものへの憧憬。



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情報について

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与沢翼という方(今大変な有名人だそうです)が、ネット上のTVで、「持っている情報は出し惜しみせず、すべて発信しなさい」と言ったことを述べられていました。
その姿勢(方法論でもあるか)、には率直に感銘を受けました。

私は以前から、情報と所謂、「物」がまったく同じように著作権で守られていることに違和感を抱いてきていました。
何らかの機械等が例えば中国で真似され同等の品質で安く売られたりしたら当然損害につながります。
物においては著作権(特許)に保護されるのは当然です。
しかし、情報はそもそも共有されなければ情報化されません。
ノイズにもならない。「情報」と認識されてはじめて価値を生みます。
情報は多くの人間に共有される事が前提なもののはずです。

情報をどう扱えばよいのか、という事はまだしっかり押さえられていないと思います。私の職場でもしょっちゅう情報セキュリティーの研修が組まれますが、個人情報が法的にどう守られているかの確認及びその重要性は認識出来ますが、「情報」そのものはまだ十分に考察の対象になっていないのが現状ではないでしょうか?
保護されるべき情報と活かすべき情報。
特に後者については、何故か特定の人間だけで保有されていたり、課金情報であったりすることが圧倒的に多いです。
表に出てこない。

情報の本質に対し鋭い臭覚をお持ちの与沢さんのような方だとそれをお金につなぐ感覚も鋭いでしょうね。
お金自体、物ではないモノですし。
物体でありながら、すべての物を平等に計る他のすべての物から疎外された抽象的な、次元を異にするモノですから。
もう少し詳しくお話をうかがってみたいという気持ちになりました。

もう一つ与沢さんの言われていたことで、共感したことは、「無料サービスこそ、そこで出せる最上の物をお客さんに提供しなさい」ということです。
これを聞いてすぐに想い浮かべたのは、坂本龍一氏が以前、音質を落としたサンプル音楽を視聴者に聴かせるのはおかしい、サンプル音源こそ最高の音で視聴者に送るべきだと言っていたことです。
全く同じことを訴えています。

これは当然と言えば当然の事で、客はサンプルでその情報の質を知ろうとしている分けですから、それがお粗末だったら、もうその情報には見向きもしません。
つまりその情報はその時点で死にます。
しかし、サンプルは制限付きがいまだに多いですし、無料の物は正に無料と感じさせるガッカリ物だったりします。

もう一つありましたが、「太っ腹」大事ですね。
それによってファンがつく。
そこからつながっていく。
以前のiTunes Storeの今月の1曲はよかったです。
とてもお得感があった。それもAppleが大きくなった一因かもしれません。
何においてもせこさが露出したらお仕舞いでしょうね。
折角の情報が情報でなくなる。

サービスの在り方まで入れると、広くなりすぎますが(とは言え切り離して考えられるものでもない)、「情報」に関しては「物」との切り離しも含め考えなければならない問題があります。
法的な整備も含め課題です。



*情報の操作についても確認はする必要がありますね。
特に今はテクノロジーと一体化していますから。
情報の歴史は常に権力がらみです。



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眠る前に

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夜の暗い吐息が濃くなり
血脈に沿って さまざまな存在の層の
音階に移調されて 海のフリュートが歌う
もろもろの生は原子の微細にいたるまで無限にそして高く
無限に高く繰り返され それゆえにわれわれは見ることができないのだ
これらの生を傍らにしながら われわれは見ないのだ
紫外線のかくも多くの平行な道を
われわれが通ることができたかも知れぬ道を
われわれをこの世界に導かなかったかも知れぬ道を
あるいは 遥か昔に発ったゆえに
時代も土地も忘れ去られ 土地がわれわれの肉を吸いつくし
塩と金属と井戸の底の透明な液体だけを残し去ったかも知れぬ道を

私はいま 言葉がその核のまわりに織りなす熱のことを
われわれの名である夢のことを 考えるのだ



寝る前に読んだトリスタン・ツァラの「近似的人間」(ツァラ詩集 浜田明訳)の一番終わりの部分です。
もう寝るのでここまでです。

私がシュル・レアリスムの詩の中で一番好きなものです。
もしツァラのこの作品お読みでなかったなら、是非、1度はじめからお読みください



では、お休みなさい。



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スヌーズレン004

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8.スヌーズレンの応用に向けて

1)理念の再確認

 スヌーズレンとは、障害を持つ人が、心地よい照明、音楽、香りなどを醸し出す器具やそれらによって構成された環境を利用することで視覚、聴覚、触覚、嗅覚などへの様々な刺激を感じ取り、自発的に探索を始めたり、介護者とも刺激を分かち合い楽しみ、充分にくつろぎ合う活動です。介護者は、障害を持つ人の反応をありのままに受け止め、共有し合い、感覚の違いを認め、平等であることが重視されます。一方的な治療方法や教育プログラムではありません。このスヌーズレンの活動を通して、お互いを「受容」し、「共感」することが実感を伴い感じられるようになり、その精神が、ノーマライゼーションやインテグレーション等の構想とともに生活全般へと広まって行くことが期待されます。

2)補足修正と整理

 前回の内容で記述・表現が不十分であったと感じるところの補足・強調をしておきます。 

単なるリラクゼーションではなく

 スヌーズレンについて知識を持っている人でもそれをリラクゼーションの側面でしか捉えていないことが多く、もっとダイナミックな全体像を整理して示す必要性を覚えます。

探索行動を生むもの

 サイドグロウのように体に巻きつけてひたすら恍惚感を得るようなアイテムばかりでなく、白い壁や天井に映りこむ反射板を使ったモビールなどの、色や光のモザイクはとても利用者の目を引きつけ、そのランダムで動的な形態変化から探索行動を誘発するアイテムが多いことを再度強調します。

覚醒か鎮静か

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 「脳の覚醒状態と発揮できる能力の関係」を示す上の図(図と括弧の文は日本スヌーズレン協会HPより引用)を見ると脳の覚醒が低くても高すぎても高い能力は発揮できないことがわかります。利用者が雑然とした刺激の中にいるなどして過度に覚醒の高まった状態なのか、眠りに近い状態なのかをみて、適切なスヌーズレン環境を選び、覚醒状態を変化させることは可能だと思われます。脳を鎮静させる必要のある利用者にはリラックスを呼ぶスヌーズレン器機を中心に構成した環境が適切であろうし、かなり低い覚醒状態にあるように窺える利用者でも「器機に手を伸ばす」、「視線を向ける」等の探索行為が見られれば、覚醒が促されたことが確認できます。

 スヌーズレンにはリラックス系とアクティブ系があることはすでにで述べましたが、利用者の現在の状態を配慮した使用法が必要であるということです。

手作りの可能なもの

 手作りの必要なものと可能なものですが、まず専用のスヌーズレン製品はボールプール198,000円、ビーズクッション(大)83,000円、ビーズクッション(小)48,000円、クッションブロックセット98,000円、ソフトルーム設計施工
要相談(笑)、、、代替品で「間に合わせる」ことが、古くからの日本の伝統文化にあります。その方が「粋」かもしれません。「見立て」等。
 介護者・教師が事前に作っておくものばかりではなく、モビールなどは、十分簡単な工作として利用者と一緒に片手間に制作することの出来るようなアイテムです。風を要素として使用するスヌーズレンでは、可動性と光の反射で感覚刺激を与えることが出来るモビールは利用価値も高いものでしょう。また自ら作ればさらにそれらに対する愛着も生まれ、スヌーズレン環境に対する親和性も高まると思われます。そう考えると、作れるものは利用しながら作っていくでもよいはずです。その方が環境、利用者の実情にマッチしたものとなり得ます。

拘束されないこと

 場所・時間・職員の限られた場所でのスヌーズレンを考えたとき、その部屋の使用をめぐってのスケジュールなどに関して前回触れておきましたが、スヌーズレンの思想から考えると、介護者・教員はいつまでに担当した利用者が何が出来るようにならなければならない等というノルマから、また利用者は介護者・教師からの介入から、そしてその部屋自体も特定の意味や目的から、すべて開放されたものであるはずです。であるのならそこに入る時間も当然自由であるべきであり、利用者が使いたいと感じたときにいつでも使えることが前提となります。実際の運営上では困難であっても理念上は確認しておくべきことです。出来る限り時間枠からははずして使用できる場にしたいものです。また、所謂保健室にそのような工夫を施したコーナーがあってもよいでしょう。

3)日常空間への展開

 スヌーズレンの安価な作成法とiPod(iPhone)等のガジェットの可能性について少し触れましたが、機器に頼らずスヌーズレンをその思想的にもっと展開出来ないかも押さえておきたいです。

 子供・障害者が特に反応を示さない場合は、錯綜するノイズから身を守るために閉じこもってしまっているだけで、それらを制御し、適切な刺激を与えれば(刺激を整理すれば)はっきりした応答を示すことが見られるという報告は多いです。普段窺うことのできないその子の探索する姿や興味を示すものが始めて分かり、その子の本来の姿が見えてくるかもしれません。介護者も障害者の感じる力の邪魔をしないようにすることが肝心です。そのことを基調にした上で、実際にスヌーズレンの環境を常設することは困難であっても、日常生活の中で好きなことに含まれる要素を分析して、その抽出により、精神を安定させたり、自ずと探索行動に出られるような場を作ることは工夫次第で可能であると考えられます。

 日々の生活でも感覚的に妨げとなりそうな外光や景色、様々な音や声を遮断するためにドアや窓を閉めるなどして対応するはずですが、外光や窓を逆に利用し、窓上部をステンドグラスにするだけでも雰囲気が随分変わります。実際にプレイルームを随時スヌーズレンルームとして使っている療育園があり、窓にステンドグラスの加工を施しているという報告があります。効果音と香りなどをたくことでさらによい雰囲気が作れるということです。雑多なノイズがなるべくは入り込まないように出来れば、利用者の探索行動が自ずと出るような環境になり得ます。好きなものも確認しやすくなるでしょう。

 幼い子供は特にそうですが、障害者も触覚に特別なこだわりや愛着を持つ人が多いです。そこからひとが精神的な安定を得ることはよく知られています。そのためスヌーズレンにおいてはもとより、日常においても汚れを気にしてビニールシートばかりを使うのではなく、触覚の上でも落ち着きを得られる手触りの質の良い布や織物などの使用は大切な心使いでしょう。

 前庭刺激はひとの幼いときに誰もが必要な刺激ですが、自閉症の人にとってはとても重要な刺激であるといわれます。つまり場合によってはトランポリンやブランコも立派なスヌーズレン器具となりえます。ただ空いた時間があるのでやらせるのではなく、本人の脳の覚醒状態のコントロールの場として位置づけて行う必要があります。

 車椅子のひとや幼い子供がゆったりできる環境は、日常環境に思いの他少ないです。店などにおいて買い物中、うちの娘の待つところはまだまだ少ない現状です(親の買い物中子供はとても大変です)。スヌーズレンアイテムの配置と、ここに充分にコントロールされた光や色の感覚刺激が与えられればかなり心身共に安らぐ(落ち着く)環境となるはずです。例え部屋の片隅にでもそれに近い機能のものが置かれていればと思います。余地の活かし方として最も優先して考えて欲しいことです。特に、携帯売り場の待合コーナー等。

4)結び

 スヌーズレンの場は、障害の有無や年齢もちろん性別にも関係なく利用者を選ばない場であり近頃では、子供の発達支援にも利用されているといいます。特に情動の開示に見るべきものがあるようです。またその際付き添っている家族も共に楽しみを共有することで、家族関係の改善にも繋がっているとのことです。認知症の多くの人の服用している鎮静薬の投与が激減したり自傷行為が見られなくなった等の報告もウェブ上にかなりのせられています。介護者・教師の心身の健康にとっても大変有用であり、何らかの形で利用できるものにしてよいと思われます。スヌーズレンは施設などを対象にしたシステムとして販売されているだけでなく、個人レベルで様々なものを手に入れることが出来るので。



9.インクルージョンと気づき 断片補遺

 スヌーズレンは重い障害を持つ人々のためだけでなく、今やさまざまなケアの領域に広がっています。普通の自然のなかではなかなか快適な刺激を享受出来ない人でも深く感覚刺激を得ることが可能な場として、子供の発育支援等でも利用されていることは前にも少し述べたとおりです。

 スヌーズレンでもっとも基本的なことは、「受け容れやすい刺激を自分のペースで受け容れていく」ことです。決して指導されず、介護者や教員はあらゆるノルマも無い、Inclusive(包括的)な場は、リラックスできたり、覚醒が高まったりする場です。それは問題行動や興奮の鎮静または発声を伴う笑顔や追視活動が起こり、発育・認知行動の支援に役立つものであるが、何より両者にとって「気づき」を生む場であることを指摘しておきます。

 障害を持つ人に限らずわれわれにとってもその場は、有効な[覚醒]の場であり、「人間の存在価値って何だろうとか、人間の関係とは何だろうとか、障害って一体何だろうとか、障害の有無にかかわらず人生って何だろうとかというようなこと」(新しい遊びの空間デザイン スヌーズレン紹介(山中 裕子))に想いを巡らせる機会となるという報告がWeb上(日本スヌーズレン協会HP)にも多く確認出来るものです。

10.スヌーズレンに使える小物その他 補足

 「野田屋電気」ご存知ですか?そこから私はかなりのスヌーズレングッズを購入しました。勿論、そこでスヌーズレングッズとして販売しているのではありません。しかし充分それとして使える物がかなり揃っています。ここに手持ちの物を写真でお見せしようかとも思いましたが、実際にお店の品揃えをご覧になってください。
 かなりの物が、ここだけで揃います。
 私は野坂オートマタ美術館(伊豆) 気球オルゴール 5000円ほど(レシートを紛失)で、やはり内臓LEDがオルゴールの鳴る間、回転とともに七色に変わりながら点る物を使ってみました。今、これを打っている机上にあります。
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 この他オブジェ的に観れば、さまざまな形をした多肉植物、さらに人形やオルゴール類等精神を集中させストレスを解きほぐし鎮静効果を持つもの(オブジェ)も見渡せば少なくないです。
 光や音を充分コントロールした環境下において、コレクションなどの趣味に浸ることもスヌーズレンに接続してきます。
 その他に、扇風機、適当なフレグランス装置、LEDライト、マット、柔らかなブロック、クリスマスの電飾、タッチセンサー、シーケンサー等探せば、大変高額な専用アイテムでなくても役を演じる物はいくらでも見つかります。余裕があれば、サイドグロウとバブルジェット、さらにボールプールがあればいうことありません。手作りできるものも沢山あるので、遊べる立体芸術作品として作ってはいかがでしょう。創作好きにはたまりませんよ。

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NEO BRIGHTLED LAMP CRYSTAL 光がレインボーカラーに変わるもので、白い壁や天井などに映りこみ、変幻する光の色と模様に空間が満たされる。のだや電気にて購入。4704円
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バイブラランプ レッド カーボン線の柔らかい炎が絶えず揺らめき、心地よいリズムを放つ。のだや電気にて購入。2289円
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エッグライト(3個セット) 2079円は内臓LEDが点灯し、七色に変化する。のだや電気にて購入。しかし現在家にはありません。
その他、ダイソーで星座を象ったセミクリスタル製3Dアートグラスがあります。 315円の同じ値段で別途販売しているLEDライトの台の上に乗せると光が七色に変化します。

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今回2回分を書いたつもりです。今回をもってこのテーマは終わります。次回からは文学に浸りたいと思っています。
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スヌーズレン003

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6.スヌーズレンの実施に向けて"その効用を考えて"

 スヌーズレンは部屋と様々な機器とにより構成されます。機材・器具についてはサイドグロウとバブルユニット、ボールプールは必需品でしょうが、私なら是非プロジェクターを中心的なものとして使いたいです。また、感覚をいろいろな面から刺激する事が狙いであるため、数種類の香りやそれを運ぶ風、触感や変化する色も、光や水の動きや音響だけでなく、うまく活かしたいです。

 プロジェクターの果たす役割としては、様々な光がともすると無軌道に交錯しイメージを撹乱してしまう可能性のある部屋の中で、特定の時間と空間の方向性を持ったコンテクストを作ったり、場のめりはりと物語の飛躍なども考えた、確かな輪郭のある意味を変える装置として考えられます。テーマを設定した場合はもっとも有効な表現を可能にする装置でしょう。逆にミラーボールやその他のライティングを徒に使い、効果を打ち消しあったり、うるさくなり神経を苛立たせるようなことにならないようにしたいですね。

 同時に色彩は心に与える影響の大きな要素であり、よく考慮する必要があります。色彩の精神を安定させる効用などは、昔から研究されており、それを無視した演出は論外でしょう。

 また利用者(ここでは最もコアなユーザーとして障害者・老齢痴呆者を考えます)の動きに従い、光や水が変化することは行為に意味があることに気づくことに繋がるため、スイッチの工夫はしたいものです。さらに電気系統や機器の操作は極力単純にし、スタッフが繰り返し使う際に支障のないようにします。扱いが複雑であると早く壊してしまう可能性が高く、メンテナンスで時間を取られるようなことは何であっても極力避けたいです(私のこれまで関ってきた仕事は、ほぼこればかり!)。

 介助者にとってもっとも大切なことは、利用者とともに同じ空間を体験しながら、利用者の変化を発見し、深くコミュニケーションをとっていく姿勢であると考えられます。そのために評価基準をあらかじめスタッフで話しあい立てておくことが有効でしょうし、その際、評価はそれぞれの障害レベルによって基準の枠を作っておくことは必須です。(評価表をきちんと作る)

 障害児の場合、通常表情の変化を捉えることがほぼ唯一の心の変化を観る方法となるでしょう。特に重度重複の障害児に対しては、自分の行っている教育訓練が彼らにとって何らかの意味を持っているのか、という疑問に常に差し戻されるはずです。此迄の関り(毎日の授業カリキュラム)ではっきり成果の伺えない場合、教師は焦り、むやみにいろいろなことに手を出し、疲れ切ってしまうに違いありません。
 
 スヌーズレンは、スウェーデンなどでの報告例を観るかぎり言葉の無い彼らが楽しさの表情を確かに示し、部屋を出るときにいやがる様子を見せる、といったものがいくつもあります。さらに緊張の緩和、自傷行為の減少、積極性の高まり、集中力が出る、バランス感覚が身に付く、笑顔が増えるなどが伝えられています。これらの評価・観察も非指導的介助であり、時間的余裕を持って利用者と信頼関係を深めながら行えるところから伺えることでもあります。

 重度重複障害の場合と、体がある程度自由に動く脳性麻痺または自閉症児に対してはそれぞれ異なるアプローチは必要であると言われています。スウェーデンでも、静かに落ち着いて感覚を磨いていく「ホワイトルーム」と多動障害などの活発に動き回ってしまう利用者向けに「アクティビティルーム」が用意されているそうです。もともとスヌーズレンの基本理念のひとつとして「一部の人だけが利用できるといった特別なものではなく、必要とする誰でもが気軽に体験できる場所」とあります。しかし異なる障害を持つ人を同一環境で同時に体験させることは効果を削ぐことになるため、利用者の時間割を組むことも必要になります。

7.スヌーズレンの実施に向けて"その課題"

 スヌーズレンを構成するどの機材・器具もかなりの高額であること。これがまず最大のネックと言えます。どのような場所で行うにしても、予算をどこから獲得できるのかが最大の問題です。またそれをどうにか獲得したにせよ、スヌーズレンの構成・設置にはかなりの労力と時間を必要とすることが予想されます。場合によっては器具の自作も必要です。その時間をどのようにして捻出するか。此迄の例では、ほとんどが特定の人が勤務時間外に多大な自己犠牲を払って作り上げているようです(苦)。

 さらに、出来あがった環境を使うためのレクチャーを介護者全員に行う時間の確保。スヌーズレンの基本理念から実際の障害者との同伴姿勢を認識しておくことがもっとも肝心なことだからです。考えられる危惧として、何かの「療法」として受け取り効果を過度に性急に期待したり、利用者に指示・指導してしまったり、介護者同士が利用者の頭越しにその場と全く関係のない話しをしてしまう、さらに利用者を単に放置してしまい、肝心の観察を怠ってしまう事などでしょう。これでは環境だけ整えていてもスヌーズレンにはなりません。ひどい場合は娯楽室と化してしまうケースも見られるそうです。

 また、その組織で最初からスヌーズレンが組みこまれていたならともかく、途中から始める場合、限られた部屋でスヌーズレンを行うに当たって、利用者の人数と利用時間の割り振りは、次第にその成果(あくまで過程の評価)の上がるに従い困難になってくるはずです。どのようなグループ分けをし、どのように介護者をつけ、時間をどう配分するかは当初から見込んで計画しておく必要がありましょう。


*後、2回ほどやらないと納まりが悪いので、明日、明後日で終了とします。
 私が体験と構想・制作に僅かに関った経験しかないためか、スヌーズレンそのものについての記述が弱いのと、実際の制作に関して利用できる物、使えるアイテム(プラトーンはちょっと、、、)などまだ若干書くべきことがあります。



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スヌーズレン002

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4.デザインとは ”生活形態の無意識”

 ある空間に自分が選択した物を自由に配して自分の好みに合った場所を作るという行為は歴史的に可能になったものであり、かつては生活空間に物は分かちがたく据えられており、物は独立して存在しませんでした。近代以降生活から「物」が抽象され、純粋に「物」が形作られるようになったことで、「デザイン」が始まりました。

 デザインされた物が、部屋を自由に構成する(デザインする)という転倒が自明化したのです。

 いったんそうなるとたちまち「デザインという仕事の目標は、人間の環境と人間の使う道具、さらに人間自身をも変革すること」(現実世界のためのデザイン)となり、われわれの生活の中に、ある思想によってデザインされた物たちが意図的に浸透していくこととなりました。要するに、物との関係で人を変えて行こうというものはすべて「デザイン」として括られるようになります。

 ウイリアム・モリスの「アーツ&クラフツ」運動はそれに対するもっとも意識的で先駆的な運動でしょう。現在でもその手作業の系譜はエコロジーやATに受け継がれています。「製品がよりよい生活様式を実現するための道具として、どういう、またどれだけの価値を担っているかを見つけ出すのが、デザイナーの責任であり、またこのことの吟味が、一般にデザイン教育の基礎になるのでなければならない。」(生活とデザイン)という、物によって人の生活様式を変革しようという姿勢はやがて「規格化」につながり、合理化・大量生産をよび、個人というものを疎外してゆきます。
 
 しかしやがてそのデザインは多様化・透明化し、個人主義的な思想・経済に伴ってわれわれの感性・感覚を深く支配してゆき、物によって自分を主張したり、持ち物によって人物が推し量られたりすることも自然となっていきました。(かつての体制的な階級を表す象徴としての物から完全に解かれ)
 
 現在、その「デザイン」も過剰生産・過剰消費の市場経済システムの中で次第に変質し、思想的バックボーンを持たず単に差異を価値化したつかみ所の無いイメージを纏った物がいたるところに溢れ出ています。いろいろな場面で庶民を見ない政策などが批判されている昨今ですが、「日産はトヨタばかりを見てユーザーを見てこなかった」(カルロス・ゴーン)などに象徴されるように、ひたすら先行する商品の差異的バリエーションをコンピュータに蓄積された膨大なデータをもとに作り出していくことが主流となっていきました。
 
 それに相まってデザインに対するイメージは錯綜し、感覚も麻痺してきています。どれも皆同じものだ。少し違うと思っても結局は皆同じものだ。小さな期待と失望の繰り返しの中に閉塞し人はニヒリスティックな感覚に取り込まれながら記号的レベルでの消費・所有欲をかきたてられています。そんな中、確かなデザイン思想を持った(新しい行為の発案にデザインが過不足なく結び付いている)商品として、出色の例はAppleのiPodに始まる製品でしょう。人びとの音楽の楽しみ方や行動様式に新たな自然なスタイルを与えてしまう力を持ったヒット作でした。これは先行するウォークマン・MDプレーヤーの提供してきた音楽消費スタイルを確実に変質させ、CDなどのアルバム概念を破壊し、音楽配信に新たなrootを設け、さらに自由と広がりを人びとに与えるものでした。(webから好きな音楽をダウンロードして自分だけの曲構成がつくれ、どこにいても数万曲のなかから自由に構成したライブラリをTPOに合わせ瞬時に開いて自分の世界に浸ることが出来る余裕。場所を特定しない癒しの場の生成。さらに他人のiPodのジャックに自分のイヤホンを挿し、曲を聴き合うような新しい人とのコミュニケーションスタイルも生まれ)言うまでもなく操作性の高さとシンプルさに調和した見事に美しいフォルムとあいまって、ある意味携帯スヌーズレンとも言えるものでしょうか。

 現在、物の送り手としては差異・デザインを価値として送り続けることが最大の課題となっていますが、受け手である個人レベルでは無限にある商品・デザインの渦の中から、単なる差異としての価値ではない自分にとって確かな物・デザインを選択する必要に迫られています。アフリカの手工芸品売り場で心の和むグッズに出会って部屋に思いつきで飾ることが、無意識的ではあっても自分の安らぎのための部屋デザインの第一歩でしょう。これを個人的に行うか、組織的に行うか、またどのような目的で構想を立てて行うのかでデザインの意味・価値も決ってくるはずです。個人的な癒し空間の工夫、企業としての営利を目的とした物(環境)の展開、組織としてのスヌーズレンの設置、芸術家個人の思想によるインスタレーションの作成、など、様々なレベルでの数えきれないデザインが発生している現状。そこにあって重要な点は、デザインは物・環境にとって自明なものでも自然発生的なものでもなく、近代以降、生活空間から物が物として初めて見出されたとき、同時に発明され、全く自由自在に形を作ることができる可能性をもちながら、様々な体制・思想の下で人を変える無意識的な形体を作り出し、現在、市場経済のロジックの下で半ば自動的に作動を続けているという過程の意識化です。

 このことに対する無意識は、知らず消費に突き動かされ続けたり、生活様式や身体をあるスタイルにからめとられたり、それによるストレスに嘖まれたり、精神の分裂を呼ぶものとなっています。誰もが自分の場所からすでにある、自分を捉えてしまっているデザインを自ら捉えなおし、デザインをし直すことの重要性を何より確認したいです。スヌーズレンのように、柔らかな組織でその思想の元に構成要素ひとつひとつ吟味して時には自作しながらデザインする作業は制作側にとっても創造的かつ健康的な仕事となるに違いないでしょう。

5.デザインとしての覚醒 ”インスタレーションを超えて”

 すでに引き合いに出している「インスタレーション」も、人が行き来する空間を作家自身が探してきた素材やコンピュータ等を利用したオブジェの設置により「異化」するもので、ある種のメッセージ内容をそこを通過する人びとに一方的に伝えようとするものではなく、いつの間にか作られていた非日常的な空間から人びとが自分なりのメッセージをくみ取ったり、自分の日常空間(枠)が逆照射され、意識が内省に向けられるようなシステムでもあります。期間限定の一回的デザインと言うべきか。デザインという枠を意識化するシステムとも言えましょう。しかしすでにインスタレーションはそれ自体の方法論がすでに目新しさ(革新性)を失い、単に「流行りやすい美術の方法となったと言える、、、あとは、それを、なんのための方法とするかであろう。」(現代美術) と言う状況です。ある思想・目的を持った組織によるスヌーズレンのようなしなやかな方法論がもとになり生活環境に再度そのような試みが広く展開していけば、少なくともわれわれにとっての健康的な環境が考えられる契機となるはずです。

 日々慢性的なストレスに嘖まれ生活を続けなければならないわたしたちにとって、スヌーズレンを障害者や老齢痴呆者だけではなく、もっと広く展望を持ったものとして、開放・一般化する方向性をさぐる必要性を覚えます。

スヌーズレン003を明日お届けします。



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スヌーズレン001

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*とても短くまとめて書きます。スヌーズレンをよくご存じで、定期的に利用されている方、当方新しい知識や動向を全く持っていませんので、付け加えるべきことや、もうすでに古いことなどお教え下さい。

1.はじめに ”光と水からの気づき”

 わたしがはじめてスヌーズレンを経験したのは、11年前になります。11年前にタイムスリップします。よろしいでしょうか(笑)?

 私は促され、小ぶりの会議室といった部屋に入りました。真っ先に強い印象を受けたものは、明りを落とした空間に、細く長く延びる柔らかそうなケーブルの束のなかできらきらきらめく光でした。透明の円筒の中で沸き上がる水泡と光にも目を奪われました。

 光と水というものは人の感覚にとって基本的・原初的な要素であり、芸術作品においてもそれらを利用したものは心に深い憧憬と焦慮の念を抱かせるものが少なくありません。他のものもすべて何らかの光をそれぞれのリズムをともなって放っており、部屋全体が大小様々な光の吐息と水の呟きに満ちているという感でした。その空間はひっそりと静まり返っており、人が多かった割にすがすがしいものでした。われわれが中を進むと踏んだマットの星が音とともに光ったり、突然天井に星座が瞬きながらゆるく回転し始めたり、さらに柔らかいマット状の階段を上ってみるとそこにとても芳しい香りを運ぶ風を感じ、降りたところにはボールプールが控えていて、ドボンと入るとなんとボールからバイブレーションが感じられ、底から音楽がリズムと一緒に聴こえ体を心地よく包みます。サイドグロウというとても細長い至る所で光が明滅するグラスファイバーを体に巻きつけてうっとりする人もいます。私も試しましたが、円筒状のバブルジェットの泡を打ち眺めながらメドーサの髪みたいなファイバーに巻かれていると恍惚としてきます。イボイボのあるトンネル状の筒を抜けるととりあえずは終点でしたが、中でどのようにもコースは自分で決められ、一か所から決して全体は見渡せないため、様々な探索が可能となっていました。広くない空間でありながら暗く色々なレベルの刺激に満ちているためか、奥行きのある探索空間を静かに愉しむことができました。その後、講師の話をビデオを観ながら聞くうちに、その部屋が障害者に人工的に刺激を与え、麻痺している感覚を自分のペースでたのしみながら覚醒させるための場であることを認識しました。

 置いてあるいろいろな小物類も色形や触り心地は独特のものですが、不安を煽るようなものはなく、好奇心を刺激し、子供にとっては探求心を芽生えさせるものに思われます。それらのグッズのいくつかはかつて自分が大事に持っていた物と同じ類いのものであり、くつろごうと思って店を捜して購入した懐かしい想いを呼ぶものでした。入ってほっとする環境を作ろうとして、無意識にしかし意図的にスヌーズレンと同質の部屋作りをしていたものと言えるかも知れません。ただその時々の気分で買い、統一したコンセプトやテーマがあった分けではないため、結果的に雑多な物でごった返してしまいましたが。しかしそれらを買おうとした心的状況はある種切実であり、おろそかには出来ないものでしょう。そうしたところからスヌーズレンは知的・精神障害者だけでなく、子供から大人の健常者まで様々なレベルで広く有効な使い方や関わり方が検討できると思われました。


2.スヌーズレンの思想 ”感覚の統合”

 書物によると、スヌーズレンとは「人間のもつすべての基本感覚を刺激し、統合させ、機能させるための環境設定法」(スウェーデンのスヌーズレン)とあります。さらに詳しく述べているところでは、「人間が生まれ持つ基本的な能力、すなわち、視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚、それらとともに携わる運動感覚や認知感覚を鋭敏にするために、いろいろな方法によって設定した環境で適度の刺激を与える空間。また、受け入れる側は、それら一つ一つを楽しみながら関知し、体感し、学習し、自分のペースで自分にあった刺激を自発的に選択して受け入れ、自然な形で感覚を磨いていく空間」ということです。

 その実現のために、日常空間の一角や一般の施設・学校・病院・企業に空いた一室を用意し、そこへプロジェクターやサイドグロウ、バブルユニットなどを使った光と水を様々な形で演出していく機器とボールや布などの触感を試せるもの、バブルベッドやサウンドソファなどの振動とともに体を包むように音楽を伝えるもの、火を使わない安全なフレグランス発生機器など、五官すべてに訴えかける機器・器具を持ち込みテーマにそって設置することで、部屋がスヌーズレンを展開できる場となります。多くは利用者と介護者がペアで訪れ、あくまでも利用者の意志を尊重して、ともに体験していきます。

 感覚を統合するという意味では他にADLなどがありますが、療法士主導の療法士による療法であることに違いありません。しかし「スヌーズレンは患者自身が設置されている環境の中で自らが学習して必要とする感覚を獲得していくというもの」(スウェーデンのスヌーズレン)であり医療的な意味での結果を期待せずそのプロセスを大切にするものです。

3.デザインとしての一般化へ ”インスタレーションの文脈で”

スヌーズレンという空間について説明を受け、ある程度の概略を掴めたとき、美術とくにインスタレーションを連想し、デザインの文脈でこれを改めて捉えなおしたい要求を覚えました。現在オブジェや色などで空間を装飾し、その場の内容に相応しいものにすることはごく普通に行われていることです。美術館・博物館はもちろん図書館・公民館・病院・駅・公園・レストラン・デパートなど多くの公共の場にそれを見ることは容易であり、明確な意図と高度な構想力によって創作されているか、おざなりなものであるかレベルの差こそあれ、逆にそれが見られないところはほとんど思い当たりません。
 
 であるから一般の人が身の回りの環境を少し変えたいと思ってもさまざまなアプローチは可能です。癒しを求めるのなら、たくさんの癒し系グッズが販売されているし、部屋から外に目を向ければガーデニングなどもあり、それもかなり長期的に流行っておりノウハウも完備されています。また風水の思想により、部屋の配置、装飾をしたり間取りを考えたり都市計画を練ったりも実際に行われている例は少なくないです。歴史的にも日本では陰陽道や神仙思想をもとに平安京などの都の方角配置をしてきていることはあまりに有名です。日本特有の高度な風景のオーガニゼーションとして、寺院の石庭に限らず遠方の景色を自分の庭に借景として取り込みじっくりそれを味わい感覚を研ぎ澄ますような文化は脈々と息づいてきています。風鈴(鐸)もそのための装置の一つと言えます(彼方の山の向こうから音連れる魂を受信する器として)。
 
 これらも含めデザイン(環境デザイン)と呼べば、スヌーズレンも明らかにデザインのひとつと考えられます。特に最近の傾向では、スヌーズレンも屋外に目を向け、「舗装に変化を持たせて歩くだけで石や草や砂などの感触が楽しめるようにしたり、地面にレンガの色を変えて迷路を造ったり、壁伝いに手で触れるモザイクの絵を組み込んだり、日本庭園の要素も取り入れたりしている」(スウェーデンのスヌーズレン)といいます。これはまさに最初に直感したインスタレーションに接合して考えることが出来ます。

”スヌーズレン002”を明日、お届けします。
デザインと言ってしまっている手前、デザインとは、に遡りこちらに繋げる必要が出てきました。”インスタレーション”も含め。
明日、娘達がどれだけ早く寝てくれるかにかかってきました、、、。



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プラトーン

plantone.jpg
プラトンではありません(笑)。
コンシンネの脇にいるのがそれです。
「プラトーン」です。
「よろしく、ぼくプラトーン!げんきー?」なんて喋りませんけど(笑)。
それだったら、別にこれといって面白くもなんとも無い、ですよね。
おもちゃのようでおもちゃではない?!

実はもうひとつブログを開設しようかと考えているのは、「多肉植物」のことを毎日少しずつ綴っていこうかな、と思っているためです。ここにとびとびで多肉は無いな、と感じているので。考えてます。
すでにとびとびで「育児日記」やってるではないか、と問われればその通りですが(苦)。

ブログで一番大切なことはテーマを絞ることと、よく言われるそうです。
私はほとんど分裂症です。

このプラトーンご存知の方、いらっしゃいますか?
いらしたら是非、ご連絡ください。これは真面目に、です。
プラトーン友の会を作りたいと思っています。
真面目にです。

これ、恐ろしく古いものなので、多分以前お持ちだった方も、まだ手元に残している率は相当低いのでは、と思っています。

わたしは妙に物持ちがよい方なので、古いガメラ(すごく弱そうな)のフィギュアなどと一緒にこういうのも持っています。一体何か、と申しますと、植物感情センサーです。

生体のもつとても微弱な生体電気を検知し、それを音と光に変換する装置です。特に植物は我々のもつ神経組織の働きにあたるものが生体電位の変化だそうです。

解説によると『植物の周りの環境に何か変化が起こると、植物の中でとても小さな電気的な変化が起こります。それを観たり聞いたりできるようにしたものが、「PLANTONE」です。』

いま観葉植物の「コンシンネ」のはっぱをクリップではさんで、MacBookAirたちの近くに置いていますが、私が近づいたり、手をかざしたり、葉っぱに触れたりするたびに赤.オレンジ.緑の植物用の心電図を表すようなランプが微妙に軽やかに点灯し、そのつど変わるとてもかわいらしい歌-メロディーを奏でます。長さもまちまちです。その時々の植物の気分が伝わってくるようで、何か本当に植物と会話を交わしている-交感しているような気もちにさせられるのです。

離れた部屋で一人でユニークなメロディを歌っているのを耳を澄まして聞いていると、とても植物が身近に感じられるようになります。まるでペットのように。またなんというか、世界というものが有機的に感じられる。いろいろな層におけるつながりを思い起させる。全体性とは何か。これはとても高度な双方向性アートとも言えましょうか。そして癒されます。
そして「こころ」の繋がりを想わせまるのです。
夢のような繋がりを。


方法論としては、よくある現代美術の「インスタレーション」を想い起す方も少なくないと思います。
でも私はむしろスヌーズレンです。
きっとスヌーズレンを構成するにもよいアイテムになりますね。

そうだ、明日は「スヌーズレン」について述べさせて頂きます。
では、よい夢を。



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慈善週間

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意想外の組み合わせとしてのコラージュ。
Max Ernstが作成したコラージュ画集を今日久しぶりに見ました。
どうやら、横浜美術館のMax Ernst展には行けそうもないな、と思ったので書庫で見ました。
コラージュ画集を中心に。

私の本はそのほとんどが大学時代に買ったものです。
それ以降も特別な作家のものは買いましたが、冒険的な本の購入は大学時代です。
オカルト系、神智学系などかなり買いましたが、画集もシュルレアリストのものを大量に買いました。

その中で、最も面白かったものの5本の指に入るものが、エルンストのコラージュ画集です。
「慈善週間」「百頭女」「カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢」「絵画の彼岸」を持っています。
この中では「百頭女」が特異な浮遊感で重力感覚を刺激しキャッチーで特に面白かったのですが、七大元素小説の「慈善週間」では鳥の出てくる水曜日第4のノートが好きです。面白い。元素が血、例としてオイディプースだからか。鳥が歩いて行くのを、ドアの陰から二人の女が恐々と見守る画は暫く眺め入ってしまいました。それぞれに自分で言葉をつけてもシュールな遊びになりますね。

時折、こういう画集を見て過ごしたいものです。


S君の点描画の更新を裏で行いました(笑)。宜しくお願いします。暫くお休みとなりますもので。
どうもあのキッチュな”SeaSong"ですが、以前S君に連れて行ってもらった浅草の変わった小物を売る小さな店の雰囲気に似ています。今もまだあるのか分かりませんが。懐かしいです。
当分、画像と音楽はあちらにしておきます。でも最近気付いたのですが、ここでも複数のブログが作れるのですね。そのうち無理が無ければ、ようやく慣れてきたところですし、もうひとつ違う傾向のものを作ってみたいです。



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S君のこと

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S君とは大学で知り合い、時を同じくして彼は絵を(自分の絵を)描き出しました。
S君といえば、点描です。(最初期、ボードに時折描く絵は彼にとって特殊なものなのか、例外的に点描でないのもあります)
彼の点描の密度は年々濃くなり、継続によるテクニックは格段に増していきますが、基本的なテーマは一貫して幼年期の夢のような快楽の封じ込めです。胎内のような異物は全く混入しない、護られ完結した世界を何の気兼ねなく描ききってゆきます。
S君の事を一言で紹介しますと、不変の人です。そんな言葉あったか?ボルヘスにそんなのがあった(「不死の人」です)。
何が起きようが、なんて頼まれようが周りに合わせて自分を変えるということはまずありません。
一つ決めた事は自分の中で考えが変わらぬ限り、変更はしません。しかし変わった形跡はありません。
やはり「不変のひと」です。描く絵も今や普遍性を持ち得たかと思われます。
変わらないこと。普通のように見えて、これは普通ではありません。
開成中、開成高のスパルタ教育*(例えば、夏期水泳教室でははるか遠方の島まで泳ぎつくコースがあり、途中で溺れそうになると、先生が死ねと言ってオールで頭を叩くそうです、すると当人は水面下深く、溺れて沈んでから慌てて浮かび上がり結局皆泳ぎ切るそうです)等を経てある意味かなり心身共に強い人になっています。テスト前になると本領発揮です。尋常でない集中力を発揮し、いかなる問題にも対処します。自分のまとめたレポート類ならいくら見ても良いといったテストなら万全のまとめを用意して来ます。勿論、私は隣に座って共に閲覧し、なんの問題なく単位をとりました。出てない講義でも。

さらに強さと言うか、したたかさを感じたのは、大学の絵画の教授の**氏(埴谷雄高に高い評価を受けていた砂丘ばかり描くひと)がS君の絵を気に入り、僕の絵と交換しようと言って先にS君の絵を持って行ってしまい結局、向こうは絵をくれなかった一件です。S君は通常、絶対に人に絵を売ったりあげたりはしません。そういう形で自分の絵が1枚無くなってしまったことに最初はかなり文句を言っていました。が、しばらくするとその絵が彼の部屋に戻っているではありませんか。「返してもらってよかったじゃん」と言うと、耳を疑う言葉が返ってきたのです。普通絵を描く人間にはありえないことです。「仕方ないからまた描いた」と、寸分違わぬ絵をまた描いてしまったと言うのです。まずそもそも描く気になりません。コンテクストを外れてその絵を描くなんて必然性が失われます。同じ絵など、そんな気持ちにならない。同じ絵がもう一度描けるというのは,彼にとって絵を描く行為とはどういうものなのか?手法的には芸術を職人芸と融合し質のよい生活環境を提供しようとした(手作業と普遍化を目指した)工業運動、アーツアンドクラフツ(ラスキン-モリス)のモダン装飾の制作と基本的に同次元のものなのかもしれません。ただ家の中、身の回りを自分が住みやすい質の高い心地よい環境にしたい。否、ある意味、一回性などと言う啓示やら深淵やら苦悩にはそわない趣味的、効率的な職人的技量により機械的に遂行されるように感じられる面はありますが、根源的なリビドー・動機はと言うと快楽原理に裏打ちされた、自分の分身-点描画を増殖し(場合よっては補填、分裂させ)ひたすら遍在させてゆこうとする、全能的な胎内環境を外界と同等の大きさにまで膨らめ重ね合わせたいという意欲なのかも知れません。それはほとんど生きるということと同義な。ちょっと言い過ぎかもしれませんが、そんな一途な生粋の職人画家です?多分、彼の尊敬するアンリ・ルソーもそんな職人画家だと想われます。
ARTIと言うよりMESTIERI、少年のように素直な職人絵描き。そう思うと腑に落ちます。エミール・ボンボワよりずっとアカデミックなアーティストですから趣味的な素朴派とは言えませんしね。

そう音楽ではジャズとサティを教わりました。ジャズは50年代ものが大好きで、高級ワインのように芳醇でひたすら快感に身をよじるような音がたまらないとよく言っていました。同じジャズとは言えコルトレーンとかストイックな音は大嫌いで、ジャズであんな音を出すのはゆるさない、と大変立腹していました。(コルトレーンファンの皆様すみません)では私が当時しきりに聴いていたポストパンクなど到底聴けないだろうと思うと、これは「あなたの音ですねえ」と言い聴いてくれるのです。最後まで一緒に聴いてくれました。クラシックについては2人ともめいめいに好きなものを聴いていました。われわれ2人がどうしてもいたたまれない共通の音は、ロックンロールです。部屋に流れでもすれば2分持たないです。ウルトラマンのカラータイマーより持たない。すぐに逃げ出します。それは私にとっては当然です。Rockはロックンロールの全否定から生じています。S君にとっても単なる騒音で意味を成さないそうです。

とりとめの無い話になりました。
彼の実家は江ノ電の*****で降り、(あのかつての江ノ電の駅では、電車が行ってしまうと砂浜にただ一人取り残された寄る辺ない気持ちになってしまう、あの駅で降り)、後はひたすら高台を登って行き白樺に囲まれた家が彼の家で、部屋の小窓からはあの海辺が音も無く眺められます。いつも朝5時には若い男女のサーファーがボードを担いで波を求めてやって来るのを見るでもなく眺めていたそうですが、彼は一度たりともその浜辺に実際に足を運んだことが無いそうです。でもその浜辺の絵などは何度も描いています。まるで、「アフリカの印象」を書いたレーモン・ルーセルみたいに。

連絡を久しぶりにとり、夥しい絵のその後の動向を確認しまたアップしていきます。

*あくまでも当時のことです。今現在行われている教育ではありません。戸塚ヨットスクールか(笑)?



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レンズ山にはじまる

lake3.jpg
これは本来、seasongの方にアップすべきものなのですが、文字だけですので、こちらのブログに書きこみます。

小学生の頃、家の近くにレンズ山と言う、レンズがあちこちで見つかる小さな山がありました。友達3人でよく拾いに行ったものです。山に何か取りに行くというのは、この後、大学に入ってから地学の授業で化石掘り出しに行くまでありません。結構、色々な凹凸レンズを拾いました。丸いものから、ほとんど破片に近いものまで。鈍く秘められた怪しい光をジックリと観察した時期でした。
こっちは全く意識的ではなかったのですが、振り返れば第三項排除と言えるような、暴力のオントロジーとも呼べるような人間的な事態も生じていたような気もします。が、その分析をしようなどと言う気は毛頭ありません。単に何処にでもいそうな三人の少年のお話を少しばかりさせてもらうだけです。

”レンズ”と言うスケッチがあります。”新たな閾値005”です。あれは、忘れもしない私が小学校一年生の時、よく一緒に遊んだ(いた)友達が、ある時俺、押入れの中でロボット作ってんだ。と内訳ばなしのように私にもちかけてきていたのです。私もけっこう気になっておりしばらく後、彼の家に訪問する事にしました。もう一人のともただちと二人で家の門をくぐると彼は待ち構えていたかのようにすぐに玄関に現れました。彼の顔を見るや否やすかさずロボット見せてよ、私が切り出すと、彼は一瞬納戸の方に目をやってから、俺の作ったロボットは今東京の電線にぶら下がって移動してんだ、とまことしやかに返すのです。えっ、と息を飲んで呆気に取られていると一緒についてきた友達が、私の腕をグイッと引いて玄関の外に連れ出し、あいつ大嘘つきだからゆうこと聞いたらダメだぞ。ロボットなんか作れるわけないじゃん。そんなもんもともとないんだから、ともっともらしい忠告をくれるのです。
ロボットはいつ戻ってくるのと尋ねると、一週間後ということでした。
わたしはロボット博士の悪口を帰り道、散々御付きの友達から聞かされながらそのまま家に戻りました。その晩、ずっと私はロボットが東京の電線を健気に移動している様を想い描きつつ、ロボットが無理をしなければよいが、とか電池が切れても電線からうまく電気を補充出来るか、昨晩はかなりの大雨だったなど、ロボットの心配をしてなかなか寝付けませんでした。一緒に行った友達が何しにわざわざ東京に行くのか、電線にぶら下がって危ねえだろ、お母さんに怒られる。ロボットなんかあいつに作れるか、作ってる途中を見たことないなどと真顔で説得力ある文句を言っていましたが、私は今でもそういう傾向はあるのですが、基本疑問より、面白い話にはともかく興味をそそられ、のめりこむ方なのです。今も変わりません。それがロボットの話ならなおさら。
わたしの眼前に現れた東京の電線を移動するロボットの光景です。
あの日以来、3人の間で、ロボットの話題が出ることは、ありませんでした、、、。

seasongのスケッチに書きこまれた文字が読めねえ、と昔の友人からメールが届いたので、書きます。わたしも原画はすでにないので、分かるのだけ書きます。つまりリキテックスで描き起こしたもののみとなります。いいねくらい押してほしいけど、見てくれてるだけありがたい友人です。

新たな閾値003

その日に

丘の上 ぼくたちの誕生日に
ふいに消えたカラビンカ

大海原にはまだ
ガラスの花さえ咲いていたのに

きらびやかな光に満ち満ちた
ぼくたちの歓びが
星星や少女たちの胸を粉みじんにすると
人々が信じ込まされたのはいつだったのか
あの青い空もいつかは破れ散ると思っていたのに

いつだってぼくたちは叫んできたんだ
脚も胸もなく
どうして見詰め合うことが出来るのかと

眼差しだけが銀色の宙を掻き毟る

月曜日
青空
死の光からさえぎられ
眠りをむさぼる街底に寝転び

カラビンカが空に張られた幕を落とすのを
待っている ぼくたちの死のために



新たな閾値004

知るより確かに
感じる
けっして見えなかったもの
その痕跡
あるいはもうひとつの
黎明

わたしは黙り
あなたは眠る

いつもいっしょにすべりこみながらも

こわれた夜
こわされない夢

新たな閾値005

レンズ

月が
濡れて
燃えさかる


上で
波紋
落とす

ひら
ひら
ひら
ひら
ひれ

ゆらめかす






新たな閾値008

雪白の絹のクロスを
蒼いヒンデンブルクが
横断する

ゆっくりと
すべてを語る時を
残しながら

それは
56億7千万光年果てに
沈んで逝く

"It Will Come"


新たな閾値010

夜の戦慄のなかから
浮かび上がるものたち
睡面下でほほえむものたちより
彼女らははるかに重く
幽かに踊りつづける


なお、あくまでも詩画集のつもりで原案を描いたものなので、再度seasongをご覧頂ければ幸いです。本当は各絵の下に書けば、気の利いた処理となったはずですが、すみません。




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物語のかなたへ

dainaso.jpg
検索エンジン。Google. 物語。インターフェイスを巡り
 
風邪を引いて寝込みました。
起きる気がしません。どうにもならない疲労が吹き上げてきました。同時に、
大変鈍い思考がじんわりと働きつつあります。
何もしていなくても、どんな状況にあっても、そんなことお構いなくニュートリノは地球を通過して逝きます。
そのとき実際何かが起きているか、いないか分かりません。
ちょっと起きてそれを記します。

悟性形式ー言語の網目により整序された世界を私たちは生きています。
この世界は言葉で成り立っています。

そこにさなざまなコミュニケーションが生じますが、利用される最も大きなツールはインターネットだと言えます。
ウェブ上はフローな情報やデータベース化された検索可能な情報に溢れています。
そこから情報の流れ込む日常は、まさに情報の渦です。
誰もが呑み込まれている。

通りがかりに不意に関心のないデパートに入ってしまい、とても寄る辺ない虚ろな気持ちに陥ることがありました。自分の持続した意識のコンテクストにそぐわない、と言うか自分の意思にほとんど絡んでこない情報の中をただ通過している感じなんですね。日常生活で多分誰もが少なからず体験することでしょう。わたしは省みると頻繁にそんなことがあります。

わたしはすでにどこかで、物語化を体制化という構図で語ってしまった記憶があります、恐らくバラードなどを引き合いに出して、でもヒトはどうしたって物語化をしないと、何も語れないのですね。あたりまえですが、言語-言説がこのように線状構造を持つのですから。それ以外の方法で物事の理解や認識、記憶は出来ない。ですからもちろん語ってしまう、理解してしまうことで特定の体制に呑み込まれる危険性はある。
とはいえ、ここで語りたいのは、物語化する以外に思想を語る術がないということで、その点では時間性のからくりを看破したバラードもこの言説システムに沿ってそれを語っています。でないと、われわれは理解できない。だいたい彼はそれを壮大な小説ー物語で感動的に描いているのですから。

結局立ち戻って述べますと、寄る辺なく虚ろな感覚に陥ると言うことは、周囲に渦巻く情報が単なるノイズ、物語化出来ない情報でしかない、と言うことなんですね。幸運にもあることが心の琴線に触れるなんていうときは強く自分の物語にその出来事が接続し連動したと言うことで、それにより物語が新たに編成されこれまでと異なる生を生きる契機になったりする事もありましょう。

要は現在、情報過多の状況ですが、普通に生きていく上でその情報の扱い方が全く開発されていないと言うことです。先ほど述べましたが、ストック情報のデータベースはたくさん出来、検索は出来ます。しかし探すものがはっきり決まっていて、それを調べればそれで終わりと言う類の事柄(とある駅の周辺に何軒電源が使えるカフェがあるか等)ならともかく、わたしたちが抱えている生の物語に深く関わる情報、それが何であるか分からない、しかし何よりも必要な情報をどうやって探り当て採り込んだらよいのか、その編集作業に関わる作業にどう連動出来るか。肝心なことは、です。

今情報は大変貧しい形でしか活用が出来ていないように思われます。自己の枠組みをさらに固着するだけの有用な情報はすぐにヒットするでしょう。今流行の単に金儲けの方法をかき集める(狭いところではSEO対策)とかマニアックな専門知識の収集等。実は情報量だけでもその使われる情報は返って限定化されているように感じられます。オンデマンドで番組がまとめて見れるからそれを見るとか。自分が求める前にコンテンツがあり何気なくそれに従い時間を使ってしまうとか。これも情報の洪水の中での一種の疎外。便利と言えば便利でしょう。でもそこには便利を追求した発想しかない。

わたしたちが本当に欲しいものは、データーベース検索ソフト上に設定される項目・キーワード・リンクの外にこそあるのではないか。既存の枠組み(現体制)によって分類された情報を提示するだけではなく、手段としての情報ではなく、新たな問いを促すもの、何を知りたいのかを私たちに知らせてくれるもの。よい図書館のなかの雰囲気、まさに発見や覚醒を呼ぶもの。深く私たちの実存の根に触れるもの。生を取り戻すもの。

そう、今思い出しましたが何かの本で、物語を世界と自己との間のインターフェイスと呼んでいた記事がありました。まさにそうです。私たちの生の物語に創発的意味を加える運動。全体性との連動。世界との生き生きした関係。インターフェイスが新たな創造的リンクをわたしたちの内に生成するようなエンジンを開発する余地が残っているはずです。プラットフォーマーとしてのGoogleの未来はそれにかかってくるのではないか?ロジェ・カイヨワの対角線の科学。アーサー・ケストラー、ライアル・ワトソンらのすべての領域を横断する科学。いえ、物語をさらに推し進め動的に連結していくエンジン。
何といったらよいか?



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Dionȳsos

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Dionȳsosはローマ神話では、Bacchusでしたね。先ほど、ビールを飲んだら眠くなりうとうとしてしまいました。
Dionȳsosの父はゼウスです。
ゼウスは至る所で浮気をしていましたが、Dionȳsosも例にもれず浮気相手(名前は今、思い出せません)との子供でした。当然、嫉妬深いヘラ(正妻)に憎まれて何処までも追われました。ギリシャ、エジプト、今話題のシリア各地を遍歴し逃亡先でブドウ栽培を覚え、ワインの作り方を人々に教え広め、皆から称えられたそうです。だからBacchusでもあります。Dionȳsosのような農耕神は特に”死と再生の神”ともいわれ、ギリシャ神話の中だけでもアドニス、ペルセポネ、クロノス他何人もいます。他の神話にも必ずいます。有名どころではキリスト教(神話とは言えないが)のイエス、、、。

狂乱と陶酔、放蕩と死、芳醇と再生、このダイナミックさにアポロン的な知を内包した”力への意志”をニーチェは標榜したのですね。酔っぱらったときに何となくそう思いました。

これまでの硬直した価値定立の仕方がすべて生の抑圧につながる。超越的価値体系のもと、ありもしない価値を目指して営々と文化形成してきた歴史を転倒する。今がまた何かニーチェ的Dionȳsosの出番のような気がします。
まず、感性的世界に意味・価値を与えてきた超感性的最高諸価値を否定し(例えばキリスト教)、すべてのモノを無価値、無意味にする。ニヒリズムを徹底し、プラトニズムの逆転・形而上学の超克を図る。感性的世界・自然を蘇らせる。
力への意志とは生の復権とも言えます。

プラトンの唱えたイデア界、その完全で絶対の抽象界はそのままの形でキリスト教の根拠となる精神構造を形成してしまいました。プラトニズム・イデア界の場所にキリスト教がすっぽり入り、以後ダダイストたちの闘争までほとんど揺らぐことなく、人々の内面の抑圧装置として機能してきました。特にヨーロッパ。やはりここからしかロックは出てこない。

そのような落ちで。寝ます。

”NewOrder”の更新が無い時は、どうか”SeaSong”をご覧ください。多分そっちに浮気をしております。
姉妹ブログです。宜しくお願いします。



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アドセンスではなく(笑)

snowman.jpg
雪だるまが恋しい季節になりました(?)。

娘を随分、冷しました。発熱した場合、熱を薬で強制的に下げることはよくないと言われます。体内に入った病原菌を殺すために熱発しているのだから、かえって病気を重篤にすると。とは言え、あまりに暑くて眠れない、となると頭や脇など、脚の付け根もそうですが、冷してあげてどうにか眠らせる。眠れないとやはり治れない。解熱剤は一回だけ座薬を使いました。何とか昼間は調子の悪さより遊びたい気持ちが勝って、動き回るのですが、夜になると今一つ元気がなくなる日が続いています。だんだん良くはなっていますが、、、。

「情報とは」で極めて荒いスケッチをしてみましたが(本腰入れて書いたらとんでもないボリュームになります)、外部情報系の発達とその個人的とり込みに絶対必要な時間があります。思春期です。これがヒトと他の動物を分けるところでしょう。今、じわじわ話題の”アドセンス”ではなく、”アドレッサンス”です(笑)。体外胎生期ではまだ性の問題は発現しませんが、ここはまさに性的空白期です。ある意味、社会に参加出来ずひたすら知の吸収を強制的に行わせる時間になります。ここで大脳の発達・外部情報系の拡張が行われる。そして、成人式、イニシエーション、これに当たる儀式は世界中何処にもあるようですが、それによりはじめて社会の構成員になり、社会システムの維持へ。

動物にもこれに似た儀式的な局面(システム)は見られると言いますが、(カニ同士の喧嘩、オオカミ同士の争い等ですが、ヒトと同等のものとは考え難い)何をおいても、このアドレッサンスの前に、ヒトには直立二足歩行があります。何故前回、これを書かなかったのか?立ち上がれば移動速度は遅くなり、安定を保つことも困難になります。身の危険は高まります。でも、はじめて”地平線を獲得する。””世界という思想”が可能となる契機です。ゆっくり周囲を見渡す(自然界からの遅延化・疎外)。さらに両腕の自在性と手指の分節化(親指と他の指の対向・指間接の自在性)、これは前回書きました、によりここと彼岸(自分と他者)の思想の芽生え。何しろ眼前の事物・景観が自分の手や指でどのようにも隠せ、また指示することが可能になった。視覚の優位化。同時に声帯ですね。声の分節化です。言霊。ものという対象化。命名。数の概念の成立へ。情報の記録への要請。これを尖った楔で文様・絵文字・文字を壁面に記録・保存・伝達することで文化(外部情報系)が生成され、その発展・維持にアドレッサンスはなくてはならない時間となったはずです。

ちなみに、最も劣化の少ない記録メディアは壁面に書き付けた記録のようです。

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プロフィール

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Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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