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「労働疎外より人間疎外」によせて

StrawberryMoon002.jpg

、、、、、、、、、

あらゆるものの物象化の時代
人間の個々の価値意識こそに
その解決の糸口が
潜んでいるものありましょう、、、

          「労働疎外より人間疎外」から終盤部分の引用。
        ”エストリルのクリスマスローズ”より。


最近、わたしがつくづく身に染みて感じていることを、いつもながら精緻に論理的に然も詩的にまとめ、指針も示して貰ているので、触発された勢いで、この機にわたしなりに本文に則して反芻しておきたいと感じた、、、。

わたしは、様々な物事に対し距離をもって批評する(俯瞰する)余裕が日頃ないため、いつもじたばたした記事にもあるように生活者として過ごすことが多い(またそれを強いられている)。しかし時には沈潜し遡行し、自分自身の方向性と今後の展望も考える間をもちたい。だがこれに再考の余地があるかどうか、、、。今日は幸か不幸か風邪でずっとベッドにいるので丁度良いところかも知れない。


貨幣(市場)経済によってすべてを平等に測れるものにしてしまったことで、物象化が世に徹底したものだと思う。
その、ものとしての取引や操作、評価は、そのまま人自身~その関係性を支配する構図として定着する。
それが単にシステム上~ことばにより取り決められるやいなや起源は忘却され(透明化され)システム上におけるそのものの価値が内在化し、あたかも本来もっている価値~本質であると信じ込んで疑わない倒錯が自明の状態となる。
共同体の規範(道徳や規律・規則)や認識枠~パラダイムとなる。

自然の流れから、膜構造をもって遅延した段階で自然(エントロピーの方向)から疎外された存在~生命としてわれわれは誕生した。やがてことばを持ちそのことばによって(いや文字をもって)純粋に疎外される(つまり自然を遮断し心的シュミレートを完全に行うことを可能にする)ひとの段階になる。そして記号~貨幣による市場社会において更に(決定的に)疎外される。その関係性によって外傷を受け(リビドーが)内面化することで内面と外界とを現出させる意識が発生し、風景も現れるに至る。
自然というより環界との親和性が極度に低下したことによる風景の現れと物象化~人間関係の希薄化~の極まりは同時(単なる)異なる側面であったか。


引用の最後のところ、「個人の価値意識にこそ解決の糸口が潜んでいる」というくだり、、、。
実際に、そこにしかないとしか言えない。
これまでも、これからも、、、。
そういうものだと思う。
わたしにとっては、個の系をひたすら垂直に伸ばしてゆくイメージでもあり、非常に孤独な闘いである。
(これまでもずっとそうしてきたが)

それに続く結びの「人生とは自己意識の発展プロセスそのもの」というヘーゲル的な一節。
(ヘーゲルの云う自己意識とは他者の承認を要する~前提とする~意識でもある)。
そして自らの価値意識を確認・強固にし拡張するうえでの「制作」~対象化はやはり不可避の行為となろう。
具体的な形態が必要だ。
ヘーゲルは、それを「労働」としていたか。(「主人と奴隷」において)。マルクスもしかり。


具体的な取り組み(労働)を進めよう。計画通りに。
(計画は遅々として進まぬが、、、)。
しかし地塗りは済ませている(爆。




次女と公園に

moon001.jpg

春休みで天気も良い。
3年生も終わる。

ちょうど姉妹の大喧嘩ついでに、次女が家出するというから車で送ろうということで、公園につれて来た。
長女と公園を訪れることはかなりあるが、次女と来るのは久しぶりであった。
勿論、ふたり一緒に連れ立って来ることが、一番多い。
しかし最近は友達との約束などあって、社交的な次女がわたしと来る機会が減ってきたことは確かだ。
(親離れの傾向である)。

長女はわたしと座るとき、ピッタリ横に腰を落とすが、次女は空間を開けて隣に座る。
だから水ボトルを渡すときにも、手を伸ばして差し出す。
この距離感がそのまま、わたしと次女の距離感である。
長女とは明らかに違う。

暫く、あちこちで買い食いをしてから、熱帯植物園のいつもわたしが読書する公園の噴水の見渡せる椅子に座る。
ちょっとコーヒーを飲むのに適したコーナーだ。
そこで、わたしのメモノートを差し出し、彼女に自分の考え、気持ち、興味などを書かせることにした。

するとすんなり集中して書き始めたのだが、その内容は彼女自身の創作した「怪奇譚」なのだ。
小さい文字で普段使い慣れないボールペンで書いたものだが、自分が友達との遊びの中で経験した「怖い噺」が元になる。
実体験という、昔あるところではない、地続き間~臨場感があり、幼いながら面白い噺であった。
(詰まり、不可思議な出来事ではあるが、特に恐怖感はない(笑)。

わたしがかなり興味を示すと、調子に乗って今度は一作目の二倍以上の分量の噺を書き込んでゆく。
これも実際、友達と経験した怖い噺だという。
「怒らないでね」というからどんな内容だろうと思って読んでみると、、、
ああ、こんなことして遊んでるのか、とちょっと強めの炭酸を飲んだときのような気分になる。

呪いとか御呪いとか都市伝説などから彼女らなりに収集した情報~結束をそれによって強めるというような秘密~から恐る恐る取り出したルールを元に、エレベーターのボタンを決まりに従い順に押していき、途中の階で、誰が入ってきたらどうだとか、女の子が最後に入って来ると自分が死ぬこともあるとか、ホントに死んでしまったら困るから、その前にこうしようなどと葛藤する話が拙いながら臨場感をもって伝わって来る。
結構、それなりに面白いのだ。

噺としては、最初に書いた柳田國男の集めた民間伝承みたいな風合いを感じるものの方がよかったが。プリミティブという面でだが(笑。
一話目の方が好きだというと不服そうであった。


彼女らが真剣に(かかりポゼッション的に)、マンション(10階以上でないとダメなそうだ)のエレベータの前で密談している様子が目に浮かぶ、、、。
学校の隣の公園に集合してから、公民館で遊んでいるとばかり思っていたのだが、そんなところを遊び場にしているとは今まで気付かなかった。
彼女ら固有の濃密な空間が恐らく街のあちこちに点在しているのかも知れない。
そう言えば、長女も秘密基地がどうのと喋っていたことがある。

異次元がまだ残っている場に暮らしている彼女らが羨ましい。
一度、等質空間・線状的時間にくくられてしまうとそこを超脱するには、何らかの理論・御呪いを必要とする。
それでじたばたしているところもある。
いやまさにそれで苦労しているのかも知れない。


まあ、それはともかく、喧嘩はいい加減にしてもらえないか、、、それが一番の頭痛の種である。


Pluto moons



乳搾り

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次女がここ最近は、単独行動をとっている。
今日は名前を知らぬ隣のクラス(顔見知りというだけ)の子と待ち合わせて、日中遊んでいた。
(先日、友達5人くらいで遊んでいた時、その子が途中から入って来て一緒に遊ぶうちに意気投合したのだという)。
しかし名前やお家はどのへんなの、とか聞かないものか?
相手の名前を知らぬまま、丸一日遊んでいたのだ。
「ねえ」とかお互いに呼び合って遊んでいて何の不都合もなかったらしい。
とても楽しかったと、、、。

まだ、言語(少なくとも文字言語)が生まれる前の人同士の原初的出逢い~交流みたいだ。
ちょっとその関係性に新鮮味を覚える。
名もない女の子同士の邂逅なんて日常の文脈から遊離していて、まさにうちの娘たちが歓んで見ているオカルト映画や漫画の世界の次元を匂わせる。
きっとその方がワクワクするのだ。
そう黄昏時の出逢いにも似た、、、。或いはハレ。

かえって名前や素性など知らぬ方が神秘的で神話的な活き活きした触れ合いが生じるのでは。
名前と家の場所を知ったとしてそれで何が分かるというものではないうえに、端から平板な文脈のなかでのありふれた付き合いになってしまうことだろう。
同一性による疎外。日常化。
名前が無ければ瑞々しい場所が生じる、、、。
そんな経験はわたしにもあった。


だいぶ以前、部屋に題名の思い出せない音楽が鳴り響いて慄然としたことがある。
聴き馴染んでいたはずの楽曲なのだが、、、いまや全く異なる様相を呈していた。
日常の文脈を喰い破って、崇高で霊妙な音が眼前を五色に煌めく大河となって重厚に流れているのだ。
何とか持ちこたえられるギリギリまで耐えたが、題名を(必死に)思い出したところで、全く普通の音と環境に戻ってしまっていた。
ほんの一瞬のことである。
物凄い快感(認識)なのだが自己保全の危機感(死の恐怖)との同時体験であった。
その時のことをまた思い出してしまった。(まだ幽かに色彩が記憶に残っている)。
何故そんなことが起きたのかは分からない。何らかの身体制御(防衛)機構が一瞬外れたのだと思うのだが。


言語(体制)の取り込みによる転倒(倒錯)が起きる以前の精神状態にふいに立ち戻ることが出来たらきっと異質な、場合によってはアルタードステイツとも謂えるめくるめく体験もできるはず。
われわれ日本人が3つの文字体系を所有している特殊性は様々な局面で露呈している。
外から来たものを際限なく受け容れ、カタカナで表記し、漢字の訓読みによって、その文化体系の去勢~内面化から逃れると同時にデータベース化して所有し、いつでも自在に使用出来る言語~文字システムというのは他にない。
これは驚異的なシステムに違いない。
われわれは主体化(同一性の維持~内面化)する必要がなかったのだ。
こんなことを書く場ではなかった、、、。
これについてはまた後日。
変なことを思い出したせいだ。


次女が遊びに行っている間に長女といつもの公園に遊びに行き、はじめて牛の乳搾り体験をした。
ガールスカウトによる説明が長いのがちょっと鬱陶しかったが、とても大きな牛の乳搾り。
(尻尾が意外と長い事に驚いた)。
草を食みながらの乳の出はとても良かった。
長女にとって、生暖かく特殊な感触が新鮮な体験になったようだ。

一緒にいつも通り「木漏れ日の道」を歩き、熱帯植物園で日向ぼっこして、ポニーに乗り、モルモットを抱っこして、山羊と羊にニンジンを食べさせ、広場で鬼ごっこした後、アスレチックに行こうとしたら生憎の前日の雨で遊具が濡れている為、入場出来なかった。
この次は親子乗馬をする約束をして帰ることにした。


丁度、車が家に着いたところに、次女と郵便物が同時に到着した。
笑ってしまった。



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雪が夜空を真空に置き換える。
声を文字を吸い取って行く。
クラシックがやたらと聴きたくなり。
聴いていくうちに感情だけが溢れ出す。

ヘンデルに取り分け揺さぶられる。
意味も価値もない、驚くべき音にそれは迫ってきた。
わたしは身体だけになっている。
殊の外ひりつく。

雪が音もなく激しく降って積り、たちどころに世界を隠蔽して凍結していた。
そこで魂が丸裸になる。
妙に明るくて明日が見えない。
昨日とも切り離された。


ただめくるめく不透明な白に覆われる。

もうしばらく、この寄る辺ない不安の温度に耐え続けたい。


できれば、世界がもう戻ってこないことを願い、、、。

ドルチェ~Dolce

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すでに二週続いて木曜日にブログを休んでいる。
定休日にしたつもりはないが、確かに木は忙しく、疲労も溜まり混迷も極める。
ブログなど手を付ける暇もなかった(毎日休みなく書いていた時期も木は余裕はなかった)。
家族と大喧嘩するのも木が多い。人に言う事ではないが(爆。

やはり一か月休んでから、ブログを書くテンションが明らかに変わった。
レイドバックした。
以前はブログを書くためにいちいち映画を観たりしていた。
当ればそれはそれでよい機会であるが、ハズレだと悲惨な想いになる。
自分に合う合わないではなく、明らかにつまらないものは、つまらない。

しかしいくらつまらなくても、SFは観てしまう(笑。
そういう体質なのだ。
勿論、詩的で神学的なものにも強く惹かれる。
だが、現実の上なぞり的な現状確認レベルの噺はつまらない。
わざわざ作って観てどうするのか。

今日は休んで寝ようと思ったが、ビール呑みながら少しだけ書いてみることにした。

娘が自分のピアノがどのように弾けているのか確認するための実に簡単な録音システムを用意した。
単にピアノ脇にレコーダーとパソコンをセットしただけのものだ。
すぐに弾いた後確かめられるようにした。

フルートでつくづく思ったものだが、ブレスを基本にしてリズムがしっかりとれていないと、思いの外ヨレヨレな演奏で恥ずかしい思いになることがある(吹いている時にはそれ程気づいていない)。
ピアノもまずはリズムができていないと聴けたものではない。
次女はせっかちな性格がそのまま出てしまう。
自分の対象化のひとつのツールともしたい。

長女の楽譜に”Dolce”が付いていた。
わたしはDolceが好きだ。
レストランで料理のコースの終わりにDolce~デザートが出されるとホッとする。
やさしさ~甘さ~柔らかさ、、、最後にとっても癒される。

そんな風に弾くようにという指示である。
もう勢いよく叩きまくっている。
風情がない(笑。
取り敢えず間違いなく弾くぞと言うところであり、まずはそこなのだが、やはり気持ちは最初からもちたい、、、。

わたしも日々を”Dolce”でいきたい。
木曜日は特に、、、(爆。



ゲーム機移動

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いつの間にか育児ブログと化しているこのブログ(笑。
今日ゲーム機をわたしの目の届く場所にあるディスクトップパソコンのパネルに繋いだ。
つまり、居間(ほぼプレールーム化している)のテレビからゲーム機を切り離し、少しストイックな環境にゲームを接続し直そうとした。宿題と分離しない背中合わせの環境だ。
パソコンはHDMIから DVI-Dに代え、スウィッチを優先して接続することにした。

スウィッチはHDMIのみだし、変換などメンドクサイ(出来るかどうかも調べる必要がある)。
ただちょっと驚いたのは、次女がノートにも同じ形状のコネクタがあるのを知っていて、自分がよくやるゲームの入ったノートにも繋げると、何とか自分の領地内にひき込もうとしたことだ。
確かにHDMI端子はどれにも(最近のノートには)ついているが、生憎ノートは会議プレゼンなどで利用する大型ディスプレイへの出力専用である。この端子を知っていただけ、意外であったが。
日々、彼女らにはちょっとだけ驚きと違和を感じる。

結局、わたしの管理下で(これまでは居間でおやつ食べながら適当にやっていた)宿題を自分の机でしっかりやってから、ゲームを30分だけすることとなった。
これで一件落着とまではいかないが、ダラダラやったり、ナガラでやることは防ぐ流れとなる。
宿題はあっけなく終わり、すぐさまゲームとなる(笑。
わたしも彼女らのゲームの手さばきを繁々眺める機会となった。
よくまあ、ここまで身体化したものだ。
わたしの目線を気にしながら自分のテクを披露したり、わざと派手で変化に富んだ面白い場面に迂回して見せたりしていることが分かる。得意になっている(爆。
ゲームもより面白くなれば、それはそれでよい、、、特に何かを期待はしない。


噺はいつものように飛ぶ、、、
今日は日中やたらと水(ストレート)で、モノを清めたくなった。
古い虫かごや水槽など片っ端から水で洗いまくった。
昼間は陽が強い為、干せばすぐに乾く。

本も読み直している。
マルクス関係のモノ。
「価値形態論」

すべてはことばの問題だ。
関係~差異(の戯れ)によって成立する価値。
しかしその起源はすぐに隠蔽されそれ自体で成り立ったように(価値の内在化として)倒錯する。
超越論~形而上学的システムが自明化する。

無意識にもっと迫る必要から、「価値形態論」というテクストが気にかかる。

本質に足を掬われてはならない。
寧ろ移動が肝心だと思われる。
真理をつかみ取るとかいうのではなく、テクストとして読む~関わる、という行為。


”エストリルのクリスマスローズ”のマルクス論を(テクストとして)拝読し、わたしの場所に繋がった部分とも思える。
考えてみれば、読むという行為はテクスト(叉は断片)として読む以外の関わり方があるだろうか、、、。



ストレスフリー

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ストレスフリーな生活を送ることにした。 何であっても。
まだ、、薬はどっさり飲みながらの休養中であることに変わりない。
これまでブログも毎日更新しようという意識~拘りの元でやって来た部分もある。
これからは、昨日みたいに忙しいからやめておこう、という選択もありにした。

確かに、生活、家事、こどもの面で大変忙しく、「絵」でも迷いがある。
まだ、病休~仕事を辞めてからの新しい生活のスタートは切れていない。
何を置いても、まずは体調である。
そんな折、ポカポカ陽気の散歩が格別であること。

そして全ての障害は隅々まで取り除く。
きれいさっぱり片付けること。
最近、ゴミ出しがとても気持ちよくて癖になる(笑。
そして植物の世話である。カメもやっているが。

生き物に注意深くしなやかに接する。
恐らくこれが健康の秘訣になる気がする。
夢想の時間である。
陽の光の中で。

普通に生活を送りながら瞑想しているような状態に保つこと。
ストレスという言葉を忘れる。
どうでもよいことを片っ端から忘れる。
陽の温かさを吸収すること。

まだ外気は寒いにしても。





n-1の試み

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3学期が始まったかと思うと、明日はピアノだ。
もう毎回、一つずつ上がれるような簡単な曲ではなくなっているが、一応、落ちるなよとは言っておく。
こちらとしては、2回で一つ上がれればよいという心積りではあるが。
しかし、この休み中のダラケぶりでは明日は危ない、、、。

ピアノを新しくしたのに、何故こんなにシラケているのか。
練習の楽しさより辛さが勝るようではそれまでである。
どうも尋常ではない。
何かを変えなくてはならない。

明日の学校の持ち物でも見つからないものが出て来て、大騒ぎである。
勿論、わたしが見つけて渡すと、それどこにあったの?である。
もうそろそろわたしも体力的限界で、面倒見切れない(笑、いやホントに。
いろいろ工夫はしてはみるが、すぐに散らかして不明にしてしまう。

エントロピーは確かに増大する。
物の管理は難しいものか、、、(わたしもよく置き忘れはするが、、、)。


娘は、主体として余りに脆弱なため、それが出来ない点が大きい。
多くのルーチンを(ルーチンであるべきことを)人に依頼している部分が多すぎるのだ。
依頼していることにまだ気付かない。
実際の事柄にしても精神的にも。
それで押さえるところをことごとくやり過ごしてしまう。
その上でアイテムへの依存性が大きすぎる。


実際に、ゲームをやってiPadで何やらずっと見呆けた後で、色々探し物をはじめたりするから夜更かしにもなる。
次の日の目覚めにも影響大である。
親として取り敢えず、iPadは使用禁止とした。
この怠惰な受動性と依存性はマズイ。

何でも使い方の問題である。
しかしそれが制御できない。
一種の麻薬である為、依存性も極めて高い。

依存は精神にとってよくない。
自律にとっても自立にしても。
依存はきっと無意識~身体性を蝕む。
もっとも怖い。
精神を蝕む。


浄化である。
「それ」なしで暮らす。
n-1をすべてに、、、。
今年は、それをテーマにしようか、と思う。

わたし自身にとっても。



O君とバイクと「ひげまんじゅう」

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O君が久しぶりに、猫の縫ぐるみを沢山もって尋ねて来てくれた。
巨大な猫ひとつ。小さな猫5つ。
バイクでの訪問である。
こんなに大きな猫をよく持ってきてくれたものだ。
何と謂うか、大きい猫は、抱いて寝るにはちょっと大きすぎるくらいのサイズだ。
O君は大の猫好きである。
わたしもそうだ。大学の頃までは、常に猫と同居していた。O君は今も途切れなく同居している。

猫たちの名前(総称)は、「ひげまんじゅう」という。(株)アミューズ)
そのひげまんじゅうとは、「くちのまわりのふくふくしたひげの生えているところ」を指すらしい。
それがかれらのかわいらしさを象徴する部分で、呼び名にもなっているようだ。
個々の名前は、またそれぞれあって、「みーさま」、「黒豆」、「ふくにゃん」、「あんこ」、「まるこ」とかついている。
それぞれ顔つき~目つきが異なり、随分表情も個性的だ。
猫の特徴が可愛く抽出され柔らかく造形されている。

リンゴもいただく。
子供がアップルパイが好きだから助かる。
よくこれだけ沢山のモノをバイクで持ってこれたと感心する。

世間話をしながら七草粥と梅干、キムチ、キンピラなど極めて普通の家庭料理を振舞う。
O君が来て30分くらい経ってから娘たちが温泉から帰り、床に並んだ猫たちを見てすぐに飛びついた。
当然の如く、どちらが大きい方をもらうかで、二人の間で真剣な取引が始まった。
どうにか話が付くまでO君はそれを面白そうに見ていた。
二人とも縫ぐるみは大好きで、長女など5,6体の人形からその時々の気分で選んだものといつも一緒に寝ている。
恐らくその大きいのとも寝るのだろう。
布団に入ればよいが。

驚いたのは、それらの猫は全て彼がゲームセンターのUFOキャッチャーで獲得したものだという。
うちの娘も近頃いっちょ前にゲームセンターでお小遣いで遊ぶようになったが、何も獲得できずあっという間に終わってしまう。
ゲーマーの次女は凄いと言って、尊敬の眼でO君を見ていた(笑。
その後ふたりは、直ぐに「ゼルダ伝説」を始める。
もうゲーム中心の世界になっている気がして来る。
わたしだけがゲームをしていないような気もする、、、。

とは言え生きる事全部、ゲームと言えばゲームだ。
とてもエモーショナルなゲームを生きている。
-ハンデで始めたゲームかも知れなかった。

昔の友人と話していると、やはり記憶も呼び覚まされる。
S君の「絵」の噺と共に、その周辺を巡って、、、。

何とO君の会社でS君の絵が25枚くらいデジタルデータ化されているという。
つまりすでに画集になる品質にあるという事だ。
主要作品の四分の一ほど済んでいるというのは、いよいよだな、、、と思った。

しかし、どう出るか(展開するか)はあくまでS君の気持ち次第である。
周りがとやかくいう問題ではない。
わたしは、純粋なアートとして紹介されていけばよいな、と願っている。

O君は、大きいのをまたひとつ持ってくるね、と言い昏い闇の中をバイクで帰っていった。
O君が無類のバイク好きであることをはっきり想い出した。
大学の頃から、よく乗り回していたものだ。
うちの父もバイクを14台乗り継いだバイク好きであったが、バイクは速度をダイレクトに感じることが出来るもっとも身近なアイテムかも知れない。
存在速度を上げる恍惚感。
これはヒトにとって本質的な(郷愁に染まる)快楽のひとつだろう。






”NewOrder”を聴きながら

blue sky

田舎に集まりヘトヘト~

運転だけで本当に疲れる。
とは言え、本家は「サマーウォーズ」みたいな格式高い厳格で威圧的な構図はなく、とてもフランクな緩い関係である。
勿論、どんな場にも権力構造は生じてくるが、二人で会話すれば自然に生じてくるレベルである。
殊更、威張る人はいない。
跡継ぎの叔父はとても気さくで、もの静かな温厚な人である。
何となく中心に座る人は出てくるが、それが別に気になる程とは言えない。
会話の中心を強引に作る人がいないのだ。だから押しつけもない。
ただ、人が美味しそうにビールを呑むと、呑めない立場がひたすら口惜しくなる。
その分、御馳走をたらふくいただいた。
満腹で、何の文句もない(爆。

庭に出るとまた格別である。
空気の新鮮さと木々に触れる空間の響きに張りがある。
音が聴こえてもとてもくっきりして静かで澄んでいる。

空は真っ青で、畑があり(広がりという程ではない(笑)、小さな川を挟み、200mほど先に木の生い茂る山の中腹を自動車道が走っている。
わたしが小学校一年の時、本家の縁側でぼうっとしていると、その道を同じ年頃の少年少女が歩いてきてこちらを向いて話しかけてきたことがある。何を話したか忘れたが、彼らと話を交わした記憶ははっきりと(鮮明に)ある。
蒼い、本当に真っ青な空だった。その時も。

先程家に帰ってみると、娘たちは車の中で眠っていた。
お年玉でバブリーになり、お腹も一杯で、どんな夢を見ているのか、、、。
家の中に運び入れベッドに寝かすのも大変だ。
いつの間にか相当、重くなっている。


”NewOrder”を聴きながらこれを書いている。
記憶を立ち上がらせようとすると(無意識に触れようとすると)このサウンドが必要になる。
サウンドは常に場所を仮構するからだ。
身体という場所の強度を増す。

今夜はもう少し”NewOrder”を聴き込みたい。
"Get Ready"
これで行く。

NewOrder001.jpg

それでは、、、また明日にでも。


面白さとは

buggy.jpg

長女と一緒に作っていたロボットが出来上がった。
キャタピラで前後左右軽快に走行し、ロボットアームでモノを掴んで、任意の場所に持って行ける。
それだけでもう大喜びである。結構大変だったにも関わらず、「面白かった」を連発していた。

やはり自分で作ったものというのは格別である。
協力して作る経験も格別である。
ただしコントロールには、コツがいるため、これから意のままに操る練習は必要となる。
それも含めた過程において、言語だけによる一方的な指示や小遣いやモノを介した安直な関りより、身体的(無意識的)共感や喜びはあると思う。

今度は独りで作ってみる、と言っていたが、それはまだちょっと、、、それ相応のを選んで好きにやらせてみよう、、、。

この間、二台のパソコンの筐体にシールを貼りまくってデコを愉しんでいた次女と来年初めから、わたしが作りかけて1年半放置していたラジコンのスポーツバギーの作製を再開することにした。
これもなかなか骨は折れるが、今回のロボットから見ればずっとお決まりの工程であるから予想外のトラブルには見舞われないで進むはずだ。

兎も角、一緒に作業は続けたい。
(少なくとも一緒に買い物より得るものは大きい、、、買い物は安易すぎるし、逆効果の場合もあり得る)。
そして面白かったという経験をまずは、積ませたい。


それからついでに、、、。
昨日の「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」(宝島社)で昔の友人から電話があったので、いや正確に言えば要件のついでであるが(笑、、もうひとつとても面白い「もし、、、書いたら」があるので、調子に乗ってご紹介。
(あまりやってはまずいので、これっきり、である)。
昨日の続編、、、。

             包装批評宣言

 カップ焼きそばを作るのにはある種の「不自由さ」が付きまとう。それは五分強、調理に従事しなければならないという不自由さで、しかし、調理の実作業じたいは極めて簡易であるという、逆説的で名付けがたい不自由さだ。

 麺を解体させ、乾燥という物語から生なましい食べ物へ回帰させるには、まず、お湯を入れなければならない。だが、お湯を入れてから待たなければならない「五分」という時間。これは一見、自由な時間に思えるが、しかし、「五分後には必ず戻ってこなくてはならない」という不自由さが、ここにはある。この錯覚され、倒錯した自由さは、同時にひどく凡庸な不自由さでもある。

 この不自由さを規定しているのは「作り方」というある種の「制度」であり、それは「装置」とも「物語」とも言い換えられ、このあらかじめパッケージに刷り込まれ、内在化された「作り方」は、無意識的にわれわれの行動を制御し、今まさに生まれようとしする意識を縛り付ける。

 言葉たちによる無意識的な束縛を避けるためには、言葉の「意味」を崩壊させ、脱説話的に「記号」を「記号」として受け取るのを拒否し、「物」を「物」として見ることを、自らに要請せねばならない。

 われわれは、十九世紀的な「物語」から逃れるために、わずかな意味の裂け目から、「カップ焼きそば」という七つの文字のつらなりを解放し、生なましい本来のカップ焼きそば、「物」としてのカップ焼きそばに回帰していかねばならない。


蓮實重彦氏の(思想文体の)簡潔な教科書的な解説的文であり、勿論、パロディであるがリスペクトを感じさせるものだと思った。
全て冗談で書いているのは分かるが、読んでいるうちに自分もここに載っていないひとのものを書いてみたい気にさせる、そんな面白さがここにはある。

そんな噺を昔の友人と電話でした(笑。


面白い物とは、悉く刺激に充ちている。
そう、何かこちらの身を運ばせる~無意識を揺り動かす~ものでなければ面白くない。






今年を振り返って

Susan Sontag

いろいろと新たに面白いものが発見できた年ではあった。
そのうちのひとつばかり、ご紹介。

ともかく、面白い!

           反カップ焼きそば

カップ焼きそばとは、麺であり湯切りである。これがカップ焼きそばの体験の一番初めの形であったにちがいない。

カップ焼きそばとはソースでありかやくである。これがカップ焼きそばの理論のいちばん初めの形、日清の研究者たちの理論であった。

このとき、たちまちカップ焼きそばの作り方という問題が生じてきた。なぜならソースとかやくという本質ということ自体がすでに、湯切りが先という問いをつきつけているからだ。


「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」(宝島社)菊池良・神田桂一著
から、哲学者(作家)スーザン・ソンタグが、もし、、、書いたらのページである。
こんな調子で100人の「文体」でやられると、何回もお気に入りの作家(思想家)のページを見ては、にんまりして暇つぶしも後悔しないものとなる(笑。
スーザン・ソンタグの本も読み返したくなる。

日向ぼっこしながら見るのに最適であった。

これは、今年の象徴的な出逢いのひとつに数えられる。
また来年も面白い出逢いがあれば、ちゃんと前髪をつかまえたい。



プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面でご覧ください。

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