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夜風

escape.jpg


反復運動の切断
そして意味から解かれること
疾走すること
この快感のうちにいること

長女と手をつないで夜の散策に出る
昼の熱風は死に心地よい風が吹き外という過酷さは微塵もない
公園を横切り猫が逃げ出す
猫の走る先に雲に包まれた月が灯る

自分の歴史を描くこと
「心の経路を有りの儘に現はすこと」(夏目漱石)
そしてつまり創作すること
清められるために

不透明な事象~身体それ自体をそれとして描くこと
不可能な物語を
出来る限り克明に
有りの儘に

複雑極まりない塊にもそれなりのパタンも見つかる
メスをいれる
対象化して
証明を作る

沈黙を
暗号を
徴を
言いようのないフィギュアで


清められ
安らかに
新たに
加速するために

自分を心地よく捨てるために
ひとことも喋ることなく長女と帰った



リアルであるとは

yaki.jpg

映画を観ても造形に関わっても肝心なことであるが。
リアルとはどんな状態であるか。

少なくともリアルと所謂現実とは異なるものととらえている。
端的に謂って、現実とは距離をもって意味付けすることで全てを曖昧にしてしまう形式である。
解釈が不可避的に入って来る世界。

それは籠って見る世界に他ならない。
内面化とは意味による混濁に過ぎない。

夢には自意識の入る余地はない。
夢という場に対象化する距離はない。
了解のみの世界が脈絡なく展開する。

その余りの鮮明さ、稠密さに圧倒される。
遠近法~統語法がない。
リアルという感覚はそれかも知れない。

時折、映画にそれを見る。
小説にそれを見る。
夢のようにリアルな現実描写という、、、。


われわれは(わたしは)意味の剥ぎ取られた現実に触れたいのだ。
音楽はそれにとても近いピュアな力を形式上保持していると思われる。

しかしやはりいつもは言葉~意味に絡めとられている。
音楽が本来の力~流れと輝きを見せることは稀である。


距離があるところには必ず(時間の)遅延がある。
そこに記憶による構成~物語化が不可避的に起こる。


恐らくその解体・編集が鍵となってくるか、、、。



まとまりのないメモである。


現実の希薄さから謂えること

Kafka.jpg

閉塞的で薄い現実が日常的であると、ひとは(わたしは、と謂うべきか)内面化する。
すると以前は、そうシュルレアリスムに興味を持った学生の頃など、「夢」、「狂気」、「未開」に憧れてしまう時期があった。
単なるナイーブなロマンに過ぎないのだが。

狂気や未開に縋るにも接点が見いだせないため取り敢えず、夢に頼ってみた。
(シュルレアリスムにはこの手法が多く使われている)。
夢日記をつけ出すと妙に夢を起きた後も記憶しているようになる。だがすぐ分かることだが、それを思い返しながら書いてゆくと、そこには曖昧なディテールなど一切ない。
荒唐無稽なオドロオドロしい幻想などもっての外。余りに整然とした精緻な世界しかないのだ。
まさにカフカの小説そのものであった。
残酷な程、似ていた。

夢とは、軟弱なロマンなど決然として受け付けない稠密なディテールのみの世界である。
そこには付け入る隙もない。
自由がないからだ。
これが決定的である。
だからカフカの小説が絶対的価値を持つのだ。

恐らく、狂気や未開も同様に表現などで迫れる世界ではない。
距離を持って憧れても詰まらぬロマン主義の垂れ流しにしかならない(その手のものは少なくない)。
詩人のアントナン・アルトー(劇作家、思想家でもある)や薬を使ってその状態を探ったアンリ・ミショー、何人かの神秘主義者(アレイスター・クローリー等)、人類学者カルロス・カスタネダが極めて実験的にその世界に迫ってはいるが、何れにせよ対象化して理知的にそれを捉えられるはずはない。
ギリギリ高度な詩的世界に定着するか幻覚時のやはり詩的な記述等になる。
(これらは大変魅力的で啓発的なものであるが、それを読んでこちらが追体験出来るような代物ではない)。

未開~叉は初期についても、モネの強烈な希いが印象に残る。
睡蓮の連作を始めて「ずっと盲目でいて今初めて目が見えたらどれだけよいか」(正確ではないが、こんなことを漏らしていたという)。
以前のパラダイムには絶対に(原理的に)戻れない。また身体的~生理的獲得においても同様に。
知ってしまってから、知らなかった状態を体験することは不可能だ。
言語を獲得してからそれを忘れることは出来ない。
ことばは身体化して保存されるものである。
「盟神探湯」(くがたち)なども恐らくその時代であれば、有効であったのではないか。
だが今やったら皆、どうあがいても大火傷に終わるだけである。
大火傷を負ってしまう人間は最早、未開を知ることは出来ない。
(もし何かの間違いで未開を知ってしまったなら、すでにそれをわれわれに知らせる術はない状況であることを意味する)。


何をグダグダ言っているのか、、、。
要するに、内面化して良いことは全くない、という事である。
いや、内面化してもカフカのような筆力で徹底したリアリズムにより現実界を遥かに凌ぐ現実界を描き出せれば、それは救われるはずだが。そう、きっと彼はその行為によって救われていたのだと思われる。
彼は出来上がった小説をマックス・ブロートらの前で大笑いしながら読んで聴かせたという。
内容はもうあっけらかんとした絶望しかない精緻な世界ではあるが。
ただし、強力なガジェットなしで内面化の中に沈み込んでしまうと、もうアリ地獄以外に言いようのない状況となる。

結局人は健康が一番、と言う訳ではないが(笑、現実の中に確かな手応えのひとつもなくなると極めて危なくなる。
それを創作の根拠にしようなどと想うと、詰まらぬイメージの垂れ流しにもなりかねない。
確かな他者が現実に必要である。
カルロス・カスタネダにおける(ヤキ・インディアンの)ドンファンのような導き手なら言うことないが、、、。




終わりのあるドラマ

web.png
やはりWebから暫く出るか。

WWWとは謂っても、自分の世界なのだ。
Googleの取り仕切る自分の世界に他ならない。
Amazonがお薦めする自分の世界の範疇に過ぎない。
endlessに自意識を強化する世界がどこまでも広がる。
基本、全てが自分の世界の延長でしかないことからくる。
他者は何処にもいない。いないから他者なのか。

何と謂うか、本であれば、、、最近カズオイシグロの小説を読んで思ったが、、、一冊読めばずっしりしたものが得られて一区切りがつく。
その後、暫くは心の中で反芻して余韻を味わう日々が続く。
充分に「終了」後の成就感に浸れる。

その作家の他の本に興味が沸けば、また数日間濃密な(贅沢な)時間を過ごせもしよう。
とは言え、作家の本全て読まなければならないという強迫観念に囚われることはない。
一冊、重い本を読み終えれば、充分満足して安らかな心境が得られるものだ。

ウェブ上では、どうやらそうはいかない。
一度、観始めると、、、情報を収集し始めると、、、
いつまでも続く情報の更新に付き合うことに(多くの場合)なり兼ねない。
自分の方も情報を途切れさせることは不安になって来る。

それは性質上いや構造上、もとより終了に向けた物語の外にあるからだ。
物語~ドラマでさえもない。
そして、、、
きりのない記号論的フェティシズムの疼く欲望世界に惹き込まれてしまう(場合もある)。
画像、音楽などその要素~誘惑は強い。

基本的に、毎日情報更新~というよりも付加してゆくことから、日毎に追ってゆかなければならない。
そして書き手~作者も、それはもう強迫的に更新してゆく。
その際限の無さに眩暈を覚える。
いや鈍痛として身体を重く拘束し始める。
わたしは昔から収集癖もあることから尚更困る(笑。

このエンドレスに広がる閉じた鏡面世界。


恐らくウェブ上では基本的に全てがこの構造となっている。
パッケージ概念がない。
ただ連打されてゆく。
そう”ささやき”が流行り出して更に加速し構造が強固になってきている。

勿論わたしもそのなかに混ざって動いてしまっている。
つまり日常を縛られ縛るシステムの内にいる。
解放されたいが為、やり始めたことなのに、その形式が逆の作用を及ぼしている。

やはり実際の本屋に足を運ぶことは、「違う本」に偶然出合う為なのだ。
そして違うドラマに突然出逢い自分自身を更新する為なのだ。


GoogleやAmazonはわたしを解体・更新してくれる為の「おすすめ」はしない。
統計的に「その線」を出してくれるだけだ。
そして何より、継続する一連の流れの(休止~中断ではなく)終了がない。
ドラマチックなエンディングがない。
乗り換えが無い。
だからいつまでも似たような現実が永遠に続く。
エンディングと他者のない世界は自意識にやがて圧し潰されるしかない。






「労働疎外より人間疎外」によせて

StrawberryMoon002.jpg

、、、、、、、、、

あらゆるものの物象化の時代
人間の個々の価値意識こそに
その解決の糸口が
潜んでいるものありましょう、、、

          「労働疎外より人間疎外」から終盤部分の引用。
        ”エストリルのクリスマスローズ”より。


最近、わたしがつくづく身に染みて感じていることを、いつもながら精緻に論理的に然も詩的にまとめ、指針も示して貰ているので、触発された勢いで、この機にわたしなりに本文に則して反芻しておきたいと感じた、、、。

わたしは、様々な物事に対し距離をもって批評する(俯瞰する)余裕が日頃ないため、いつもじたばたした記事にもあるように生活者として過ごすことが多い(またそれを強いられている)。しかし時には沈潜し遡行し、自分自身の方向性と今後の展望も考える間をもちたい。だがこれに再考の余地があるかどうか、、、。今日は幸か不幸か風邪でずっとベッドにいるので丁度良いところかも知れない。


貨幣(市場)経済によってすべてを平等に測れるものにしてしまったことで、物象化が世に徹底したものだと思う。
その、ものとしての取引や操作、評価は、そのまま人自身~その関係性を支配する構図として定着する。
それが単にシステム上~ことばにより取り決められるやいなや起源は忘却され(透明化され)システム上におけるそのものの価値が内在化し、あたかも本来もっている価値~本質であると信じ込んで疑わない倒錯が自明の状態となる。
共同体の規範(道徳や規律・規則)や認識枠~パラダイムとなる。

自然の流れから、膜構造をもって遅延した段階で自然(エントロピーの方向)から疎外された存在~生命としてわれわれは誕生した。やがてことばを持ちそのことばによって(いや文字をもって)純粋に疎外される(つまり自然を遮断し心的シュミレートを完全に行うことを可能にする)ひとの段階になる。そして記号~貨幣による市場社会において更に(決定的に)疎外される。その関係性によって外傷を受け(リビドーが)内面化することで内面と外界とを現出させる意識が発生し、風景も現れるに至る。
自然というより環界との親和性が極度に低下したことによる風景の現れと物象化~人間関係の希薄化~の極まりは同時(単なる)異なる側面であったか。


引用の最後のところ、「個人の価値意識にこそ解決の糸口が潜んでいる」というくだり、、、。
実際に、そこにしかないとしか言えない。
これまでも、これからも、、、。
そういうものだと思う。
わたしにとっては、個の系をひたすら垂直に伸ばしてゆくイメージでもあり、非常に孤独な闘いである。
(これまでもずっとそうしてきたが)

それに続く結びの「人生とは自己意識の発展プロセスそのもの」というヘーゲル的な一節。
(ヘーゲルの云う自己意識とは他者の承認を要する~前提とする~意識でもある)。
そして自らの価値意識を確認・強固にし拡張するうえでの「制作」~対象化はやはり不可避の行為となろう。
具体的な形態が必要だ。
ヘーゲルは、それを「労働」としていたか。(「主人と奴隷」において)。マルクスもしかり。


具体的な取り組み(労働)を進めよう。計画通りに。
(計画は遅々として進まぬが、、、)。
しかし地塗りは済ませている(爆。




次女と公園に

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春休みで天気も良い。
3年生も終わる。

ちょうど姉妹の大喧嘩ついでに、次女が家出するというから車で送ろうということで、公園につれて来た。
長女と公園を訪れることはかなりあるが、次女と来るのは久しぶりであった。
勿論、ふたり一緒に連れ立って来ることが、一番多い。
しかし最近は友達との約束などあって、社交的な次女がわたしと来る機会が減ってきたことは確かだ。
(親離れの傾向である)。

長女はわたしと座るとき、ピッタリ横に腰を落とすが、次女は空間を開けて隣に座る。
だから水ボトルを渡すときにも、手を伸ばして差し出す。
この距離感がそのまま、わたしと次女の距離感である。
長女とは明らかに違う。

暫く、あちこちで買い食いをしてから、熱帯植物園のいつもわたしが読書する公園の噴水の見渡せる椅子に座る。
ちょっとコーヒーを飲むのに適したコーナーだ。
そこで、わたしのメモノートを差し出し、彼女に自分の考え、気持ち、興味などを書かせることにした。

するとすんなり集中して書き始めたのだが、その内容は彼女自身の創作した「怪奇譚」なのだ。
小さい文字で普段使い慣れないボールペンで書いたものだが、自分が友達との遊びの中で経験した「怖い噺」が元になる。
実体験という、昔あるところではない、地続き間~臨場感があり、幼いながら面白い噺であった。
(詰まり、不可思議な出来事ではあるが、特に恐怖感はない(笑)。

わたしがかなり興味を示すと、調子に乗って今度は一作目の二倍以上の分量の噺を書き込んでゆく。
これも実際、友達と経験した怖い噺だという。
「怒らないでね」というからどんな内容だろうと思って読んでみると、、、
ああ、こんなことして遊んでるのか、とちょっと強めの炭酸を飲んだときのような気分になる。

呪いとか御呪いとか都市伝説などから彼女らなりに収集した情報~結束をそれによって強めるというような秘密~から恐る恐る取り出したルールを元に、エレベーターのボタンを決まりに従い順に押していき、途中の階で、誰が入ってきたらどうだとか、女の子が最後に入って来ると自分が死ぬこともあるとか、ホントに死んでしまったら困るから、その前にこうしようなどと葛藤する話が拙いながら臨場感をもって伝わって来る。
結構、それなりに面白いのだ。

噺としては、最初に書いた柳田國男の集めた民間伝承みたいな風合いを感じるものの方がよかったが。プリミティブという面でだが(笑。
一話目の方が好きだというと不服そうであった。


彼女らが真剣に(かかりポゼッション的に)、マンション(10階以上でないとダメなそうだ)のエレベータの前で密談している様子が目に浮かぶ、、、。
学校の隣の公園に集合してから、公民館で遊んでいるとばかり思っていたのだが、そんなところを遊び場にしているとは今まで気付かなかった。
彼女ら固有の濃密な空間が恐らく街のあちこちに点在しているのかも知れない。
そう言えば、長女も秘密基地がどうのと喋っていたことがある。

異次元がまだ残っている場に暮らしている彼女らが羨ましい。
一度、等質空間・線状的時間にくくられてしまうとそこを超脱するには、何らかの理論・御呪いを必要とする。
それでじたばたしているところもある。
いやまさにそれで苦労しているのかも知れない。


まあ、それはともかく、喧嘩はいい加減にしてもらえないか、、、それが一番の頭痛の種である。


Pluto moons



乳搾り

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次女がここ最近は、単独行動をとっている。
今日は名前を知らぬ隣のクラス(顔見知りというだけ)の子と待ち合わせて、日中遊んでいた。
(先日、友達5人くらいで遊んでいた時、その子が途中から入って来て一緒に遊ぶうちに意気投合したのだという)。
しかし名前やお家はどのへんなの、とか聞かないものか?
相手の名前を知らぬまま、丸一日遊んでいたのだ。
「ねえ」とかお互いに呼び合って遊んでいて何の不都合もなかったらしい。
とても楽しかったと、、、。

まだ、言語(少なくとも文字言語)が生まれる前の人同士の原初的出逢い~交流みたいだ。
ちょっとその関係性に新鮮味を覚える。
名もない女の子同士の邂逅なんて日常の文脈から遊離していて、まさにうちの娘たちが歓んで見ているオカルト映画や漫画の世界の次元を匂わせる。
きっとその方がワクワクするのだ。
そう黄昏時の出逢いにも似た、、、。或いはハレ。

かえって名前や素性など知らぬ方が神秘的で神話的な活き活きした触れ合いが生じるのでは。
名前と家の場所を知ったとしてそれで何が分かるというものではないうえに、端から平板な文脈のなかでのありふれた付き合いになってしまうことだろう。
同一性による疎外。日常化。
名前が無ければ瑞々しい場所が生じる、、、。
そんな経験はわたしにもあった。


だいぶ以前、部屋に題名の思い出せない音楽が鳴り響いて慄然としたことがある。
聴き馴染んでいたはずの楽曲なのだが、、、いまや全く異なる様相を呈していた。
日常の文脈を喰い破って、崇高で霊妙な音が眼前を五色に煌めく大河となって重厚に流れているのだ。
何とか持ちこたえられるギリギリまで耐えたが、題名を(必死に)思い出したところで、全く普通の音と環境に戻ってしまっていた。
ほんの一瞬のことである。
物凄い快感(認識)なのだが自己保全の危機感(死の恐怖)との同時体験であった。
その時のことをまた思い出してしまった。(まだ幽かに色彩が記憶に残っている)。
何故そんなことが起きたのかは分からない。何らかの身体制御(防衛)機構が一瞬外れたのだと思うのだが。


言語(体制)の取り込みによる転倒(倒錯)が起きる以前の精神状態にふいに立ち戻ることが出来たらきっと異質な、場合によってはアルタードステイツとも謂えるめくるめく体験もできるはず。
われわれ日本人が3つの文字体系を所有している特殊性は様々な局面で露呈している。
外から来たものを際限なく受け容れ、カタカナで表記し、漢字の訓読みによって、その文化体系の去勢~内面化から逃れると同時にデータベース化して所有し、いつでも自在に使用出来る言語~文字システムというのは他にない。
これは驚異的なシステムに違いない。
われわれは主体化(同一性の維持~内面化)する必要がなかったのだ。
こんなことを書く場ではなかった、、、。
これについてはまた後日。
変なことを思い出したせいだ。


次女が遊びに行っている間に長女といつもの公園に遊びに行き、はじめて牛の乳搾り体験をした。
ガールスカウトによる説明が長いのがちょっと鬱陶しかったが、とても大きな牛の乳搾り。
(尻尾が意外と長い事に驚いた)。
草を食みながらの乳の出はとても良かった。
長女にとって、生暖かく特殊な感触が新鮮な体験になったようだ。

一緒にいつも通り「木漏れ日の道」を歩き、熱帯植物園で日向ぼっこして、ポニーに乗り、モルモットを抱っこして、山羊と羊にニンジンを食べさせ、広場で鬼ごっこした後、アスレチックに行こうとしたら生憎の前日の雨で遊具が濡れている為、入場出来なかった。
この次は親子乗馬をする約束をして帰ることにした。


丁度、車が家に着いたところに、次女と郵便物が同時に到着した。
笑ってしまった。



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雪が夜空を真空に置き換える。
声を文字を吸い取って行く。
クラシックがやたらと聴きたくなり。
聴いていくうちに感情だけが溢れ出す。

ヘンデルに取り分け揺さぶられる。
意味も価値もない、驚くべき音にそれは迫ってきた。
わたしは身体だけになっている。
殊の外ひりつく。

雪が音もなく激しく降って積り、たちどころに世界を隠蔽して凍結していた。
そこで魂が丸裸になる。
妙に明るくて明日が見えない。
昨日とも切り離された。


ただめくるめく不透明な白に覆われる。

もうしばらく、この寄る辺ない不安の温度に耐え続けたい。


できれば、世界がもう戻ってこないことを願い、、、。

ドルチェ~Dolce

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すでに二週続いて木曜日にブログを休んでいる。
定休日にしたつもりはないが、確かに木は忙しく、疲労も溜まり混迷も極める。
ブログなど手を付ける暇もなかった(毎日休みなく書いていた時期も木は余裕はなかった)。
家族と大喧嘩するのも木が多い。人に言う事ではないが(爆。

やはり一か月休んでから、ブログを書くテンションが明らかに変わった。
レイドバックした。
以前はブログを書くためにいちいち映画を観たりしていた。
当ればそれはそれでよい機会であるが、ハズレだと悲惨な想いになる。
自分に合う合わないではなく、明らかにつまらないものは、つまらない。

しかしいくらつまらなくても、SFは観てしまう(笑。
そういう体質なのだ。
勿論、詩的で神学的なものにも強く惹かれる。
だが、現実の上なぞり的な現状確認レベルの噺はつまらない。
わざわざ作って観てどうするのか。

今日は休んで寝ようと思ったが、ビール呑みながら少しだけ書いてみることにした。

娘が自分のピアノがどのように弾けているのか確認するための実に簡単な録音システムを用意した。
単にピアノ脇にレコーダーとパソコンをセットしただけのものだ。
すぐに弾いた後確かめられるようにした。

フルートでつくづく思ったものだが、ブレスを基本にしてリズムがしっかりとれていないと、思いの外ヨレヨレな演奏で恥ずかしい思いになることがある(吹いている時にはそれ程気づいていない)。
ピアノもまずはリズムができていないと聴けたものではない。
次女はせっかちな性格がそのまま出てしまう。
自分の対象化のひとつのツールともしたい。

長女の楽譜に”Dolce”が付いていた。
わたしはDolceが好きだ。
レストランで料理のコースの終わりにDolce~デザートが出されるとホッとする。
やさしさ~甘さ~柔らかさ、、、最後にとっても癒される。

そんな風に弾くようにという指示である。
もう勢いよく叩きまくっている。
風情がない(笑。
取り敢えず間違いなく弾くぞと言うところであり、まずはそこなのだが、やはり気持ちは最初からもちたい、、、。

わたしも日々を”Dolce”でいきたい。
木曜日は特に、、、(爆。



ゲーム機移動

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いつの間にか育児ブログと化しているこのブログ(笑。
今日ゲーム機をわたしの目の届く場所にあるディスクトップパソコンのパネルに繋いだ。
つまり、居間(ほぼプレールーム化している)のテレビからゲーム機を切り離し、少しストイックな環境にゲームを接続し直そうとした。宿題と分離しない背中合わせの環境だ。
パソコンはHDMIから DVI-Dに代え、スウィッチを優先して接続することにした。

スウィッチはHDMIのみだし、変換などメンドクサイ(出来るかどうかも調べる必要がある)。
ただちょっと驚いたのは、次女がノートにも同じ形状のコネクタがあるのを知っていて、自分がよくやるゲームの入ったノートにも繋げると、何とか自分の領地内にひき込もうとしたことだ。
確かにHDMI端子はどれにも(最近のノートには)ついているが、生憎ノートは会議プレゼンなどで利用する大型ディスプレイへの出力専用である。この端子を知っていただけ、意外であったが。
日々、彼女らにはちょっとだけ驚きと違和を感じる。

結局、わたしの管理下で(これまでは居間でおやつ食べながら適当にやっていた)宿題を自分の机でしっかりやってから、ゲームを30分だけすることとなった。
これで一件落着とまではいかないが、ダラダラやったり、ナガラでやることは防ぐ流れとなる。
宿題はあっけなく終わり、すぐさまゲームとなる(笑。
わたしも彼女らのゲームの手さばきを繁々眺める機会となった。
よくまあ、ここまで身体化したものだ。
わたしの目線を気にしながら自分のテクを披露したり、わざと派手で変化に富んだ面白い場面に迂回して見せたりしていることが分かる。得意になっている(爆。
ゲームもより面白くなれば、それはそれでよい、、、特に何かを期待はしない。


噺はいつものように飛ぶ、、、
今日は日中やたらと水(ストレート)で、モノを清めたくなった。
古い虫かごや水槽など片っ端から水で洗いまくった。
昼間は陽が強い為、干せばすぐに乾く。

本も読み直している。
マルクス関係のモノ。
「価値形態論」

すべてはことばの問題だ。
関係~差異(の戯れ)によって成立する価値。
しかしその起源はすぐに隠蔽されそれ自体で成り立ったように(価値の内在化として)倒錯する。
超越論~形而上学的システムが自明化する。

無意識にもっと迫る必要から、「価値形態論」というテクストが気にかかる。

本質に足を掬われてはならない。
寧ろ移動が肝心だと思われる。
真理をつかみ取るとかいうのではなく、テクストとして読む~関わる、という行為。


”エストリルのクリスマスローズ”のマルクス論を(テクストとして)拝読し、わたしの場所に繋がった部分とも思える。
考えてみれば、読むという行為はテクスト(叉は断片)として読む以外の関わり方があるだろうか、、、。



ストレスフリー

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ストレスフリーな生活を送ることにした。 何であっても。
まだ、、薬はどっさり飲みながらの休養中であることに変わりない。
これまでブログも毎日更新しようという意識~拘りの元でやって来た部分もある。
これからは、昨日みたいに忙しいからやめておこう、という選択もありにした。

確かに、生活、家事、こどもの面で大変忙しく、「絵」でも迷いがある。
まだ、病休~仕事を辞めてからの新しい生活のスタートは切れていない。
何を置いても、まずは体調である。
そんな折、ポカポカ陽気の散歩が格別であること。

そして全ての障害は隅々まで取り除く。
きれいさっぱり片付けること。
最近、ゴミ出しがとても気持ちよくて癖になる(笑。
そして植物の世話である。カメもやっているが。

生き物に注意深くしなやかに接する。
恐らくこれが健康の秘訣になる気がする。
夢想の時間である。
陽の光の中で。

普通に生活を送りながら瞑想しているような状態に保つこと。
ストレスという言葉を忘れる。
どうでもよいことを片っ端から忘れる。
陽の温かさを吸収すること。

まだ外気は寒いにしても。





n-1の試み

sun001.jpg

3学期が始まったかと思うと、明日はピアノだ。
もう毎回、一つずつ上がれるような簡単な曲ではなくなっているが、一応、落ちるなよとは言っておく。
こちらとしては、2回で一つ上がれればよいという心積りではあるが。
しかし、この休み中のダラケぶりでは明日は危ない、、、。

ピアノを新しくしたのに、何故こんなにシラケているのか。
練習の楽しさより辛さが勝るようではそれまでである。
どうも尋常ではない。
何かを変えなくてはならない。

明日の学校の持ち物でも見つからないものが出て来て、大騒ぎである。
勿論、わたしが見つけて渡すと、それどこにあったの?である。
もうそろそろわたしも体力的限界で、面倒見切れない(笑、いやホントに。
いろいろ工夫はしてはみるが、すぐに散らかして不明にしてしまう。

エントロピーは確かに増大する。
物の管理は難しいものか、、、(わたしもよく置き忘れはするが、、、)。


娘は、主体として余りに脆弱なため、それが出来ない点が大きい。
多くのルーチンを(ルーチンであるべきことを)人に依頼している部分が多すぎるのだ。
依頼していることにまだ気付かない。
実際の事柄にしても精神的にも。
それで押さえるところをことごとくやり過ごしてしまう。
その上でアイテムへの依存性が大きすぎる。


実際に、ゲームをやってiPadで何やらずっと見呆けた後で、色々探し物をはじめたりするから夜更かしにもなる。
次の日の目覚めにも影響大である。
親として取り敢えず、iPadは使用禁止とした。
この怠惰な受動性と依存性はマズイ。

何でも使い方の問題である。
しかしそれが制御できない。
一種の麻薬である為、依存性も極めて高い。

依存は精神にとってよくない。
自律にとっても自立にしても。
依存はきっと無意識~身体性を蝕む。
もっとも怖い。
精神を蝕む。


浄化である。
「それ」なしで暮らす。
n-1をすべてに、、、。
今年は、それをテーマにしようか、と思う。

わたし自身にとっても。



プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

*当サイトはリンクフリーです。

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