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忙しい一日の終わりに

time.jpg

忙しいと思うのと時間がないと感じることは、ほぼ同じである。

われわれが日々行う作業は何であれ、常に時間に追いまくられ、時間を気にして行う(関わる)ものである。
基本、時計時間の呪縛から離れられない。
人間的な、余りに人間的な日常にいる。

意識から解かれ茫漠とした世界にたゆたっている場所には、はっきりした時間は存在しない。
例えば夢のなかでは。
時間を気にする夢は見たことがない。

基本、時間は人の環界への身体性の関わりが、産む。
何らかの関りを意識したと同時に自己という引き剥がされ~超脱してしまった身体性が時間という振る舞いを要請する。
それが記述され時間として外在化されて、生活空間、いや宇宙空間を測る目盛りとなる。
源意識~前言語的には、生命としての膜構造の生成により、自然の流れからの遅延を始めた時点で、源時間性は自然から立ち上がり始めたと思われる。

環界から切り離された抽象的存在=人間とは、意識であろうが、やはり身体性=無意識も生命体としての乖離ははっきり自覚しているはず。
そう、生命としての必然が時間を分泌始めたと謂ってよいか。
エントロピーに逆らう身体性を意識し死~終末に向けての確認・自覚の目盛り~形式として産んだものが時間である。
われわれは、宇宙を考える時、必ず起源から終末までの時間について考えを巡らす。
われわれは何からも切り離された超越的存在として、常に自らの死~自然の流れ~全体性を意識している。

ここで例えビッグバンが変化のひとつの過程に過ぎず、それが何度でも循環(又は円環構造)的に起きていると仮定しても、生きて=乖離・超脱して死ぬ・一様になることに変わりはない。

そのことを絶えず心配する時間的な存在(存在形式)こそ実存であろう。


とりあえず、寝る前の一時の反省として。




末期の目

Michelangelo Pieta003

>美は緊張のなかにこそ
>拡張され
>鮮烈に受容される


かつてアンドレ・ブルトンは「美は痙攣的である」と述べていた。
まさにそれを想わせる。

緊張。のなかにこそ。拡張され鮮烈に受容される
これはアルタードステイツとも謂えよう。

わたしも「ことば失う」体験として、いまでも記憶に残るものがある。
音楽であるが、、、。
気がついたら鳴っていたものだ。
たちどころにアルタードステイツの状態に入っていた。

その体験は、不安と恍惚に全身の神経がざわめき立つものであった。
ゆったりした全能感と一体感とともに際どくスリリングな極彩色の想いに揺蕩う。
しかしいつまでもその状態には耐え切れない。
頭を巡らしその曲名~ことばを思い出す。
すると嘘のように眼前を七色に輝き煌く波模様を見せていた大河が消え失せてしまう。
色を失った現実が後に残骸となって残る。

そんな体験がこれまでに幾度かあった。
少なくともロックで2回、クラシックでも2回はあった。
しかし、かなり若い頃のことである。

つい先ごろ、亡くなったアラン・ホールズワースの名状しがたい複雑で柔らかな浮遊感をもったギターの音色にそれがあった(事後的に)。
その時は、何の誰の音か全く判別(命名)できず、とても危うい精神状態で身を任せた。
受容体としての自分という枠ギリギリまで薄くなったところでの感受は、その感動もあり得ないレベルに拡張していたことは確かである。
(それにしてもまた、天才と呼ばれる音楽家・演奏家が世を去ってしまった。ここのところ本当に相次ぐ)。
*フランクザッパがもっとも評価していた音楽家であり革命的なギタリストであった。

彼の曲をユーチューブでも聴き直してみたが、自身のソロアルバムより寧ろ他のアーティスト(グループ)のなかでのアンサンブルに、一際彼らしい、言葉の追いつかない美を垣間見た。
まるで人と違う誰にも似ていない奏法とフレーズも特徴である。
そのサウンドは、どこまでも上昇し昇華し溶け入ってゆく、、、。(とくにソフト・マシーン、ゴングがよかった)。
老いてからも円熟味が全てをカヴァーしていた。

それに近い以降の音楽体験は、わたしの日々更新する世界観の造形の方向性を、決定つけたことは確実であった。


そして、、、
今に舞い戻ると、、、。
音楽は余り聴かなくなっており、絵画や小説にもほとんど触れているとは言えない。


>掛軸や、彫刻
>其処に息衝く陽光、幽光。

川端康成の生活環境は、国宝級の調度品で設えられていたと、、、!。

>美とは、日々の生活に根付いてこその
>美なのかもしれません。


全くその通りで、わたしは日々、美が足りないという念を慢性的に持って生きている。
と言うよりそんな病にある。
「美」が足りないのだ。
もっと「美」を!これはまさに「もっと光を!」である。
人間存在は過剰を求める原理をもつが、過剰と欠如は表裏一体で欲動の発現を促す。

国宝級の調度品まで欲しいとは言わぬが、、、。
(鉄人の稀少フィギュアなら持っているが(笑)。
最近、何やら感動から遠のいた場所にいる。
受容体としてのこちらの問題~劣化が次第に大きくなっていることに気づく。
今現在のわたしの抱える最大の課題だ。

美に向かう欲動はとりもなおさず生命力~志向力を源泉とする。
きっかけは、亀の水槽で屈折して投影する虹であっても良い。
それを受け取る生命力の瑞々しさ(鮮度)が、いよいよ問題となってきているように感じる、、、。


死を意識した瑞々しく鋭利な眼と、ただ死に漸近的に近づく身体性にある衰えた眼とでは、、、。
何とか成らぬものか、、、。



          (全て引用は「エストリルのクリスマスローズ」より)


sakura.jpg

朝から雨で桜が心もとない。
今は真っ暗で花びらも見えない。
冷たい。花冷えであろうか。風はふいているのか、、、

風邪を引き込みなかなか治れない。
時折、起きてはパソコンを打つ。
わたしにとってパソコンに向かうのがもっとも自然な姿勢なのだ。
外の雨も冷たさもさくらの花弁の舞い散り具合もわからない
キーを打つ不確かな音だけが夜気に、夜の明かりに、響く。

特に調子が悪くなく、やることもないときは、平均12時間はパソコンの前にいる。
以前は、パソコンは音~音楽を作ったり、3Dや動画を制作するためのツールとして使っていた。
だが最近は、ネットで調べ物をしたり、ブログを書いたりし、時折うたたねをする以外に使うことはなくなってきた。
だから、昔のようにハイエンドパソコンをなにも購入する必然性はなくなった。
特にわたしは3Dゲームはしない。グラボは外付けすることはない。
よく映画を見るため動画再生支援機能はあれば、とてもよい。

ブルーレイを見ている途中で落ちてしまっては、どうにもならない。
今日それで直しに出したノートが帰ってきた。
余りの疲労と睡魔のため、セットはできない。
特にルーターのパスワードを失念している。そこから先には進めまい、、、。
睡眠導入剤を30分前に飲んでいるため、視界も朦朧としてきた。
頭の方も理論的な向きには働かない。
さしずめ自動筆記みたいな感じになっている。
ダリの演出映画を見たためか、視界はやたらとシュールである。
色々なところが剥がれ捲れて見える。

ここでどんな筋書きを考えたにしても、思考力が一歩先にも届かない。
もうわたしの3分の2は眠っている。
真っ暗な雨の窓に外部の何かや音は全く透過しない。

恐らくわたしの神経機関に届かないのだ。
もうヒッチコックは何も見せてはくれない。
ならば、、、
ハンニバルと一緒にあのオペラを、会場の前の方の椅子で観たい。
おおこの曲だ、、、。
この曲だけは聞こえてくる、、、。

「堪能しましたか?」
「ええ、眠ってこのまま続きを聴きます。」
「では、おやすみなさい。」


長女の質問

batoukin002.jpg
「長女の質問」からはじまる話である。

馬頭琴の演奏後何か質問やお写真撮りたい方など、いらっしゃいますかという担当者からの言葉があると、すかさず長女が手を挙げた。
まるで、学校の授業参観気分だ、、、。
おおっ、と思って何を聞くのかと見守ると、すたすた演奏者の真ん前に進み、馬の頭はそのまま使わないのか何でそんなに小さいのか、もっと大きいと思う、というものであった、、、?
楽器が気になっていたのだ。

少なくとも彼女がわたしに話したなかで、楽器を作る際に馬の頭をそのまま使ったというくだりはなかったが、はっきりどの部分にどの器官を当てたという話もなかったはず。
しかし頭は馬のからだから生まれた楽器であるシンボルとして付いている装飾と普通は捉える。
彼女もそういった認識だと思いこんでいたのだが、、、。

まさにその楽器はスーホにとり、また彼に感情移入して物語を読んで来た者にとって、白馬の生まれ変わりであろう。
その馬頭の部分はその象徴的で肝心な部分であるには違いない。
ちょっと面食らって、その対応を窺っていると、馬の頭は最初は大きかったのだけど、だんだん小さくなり形も変わって今のようなものになりました、という答えであった。
何とも差し支えない答え(笑。

そこが気になったのか、と思い後で本人に音楽はどうだったと聞くと、とても良かったと。また聴きたいとも答えていた。
だが、気になったのは馬の頭だったのだ。

馬の頭がそのまま付いているか、実物大の大きさであったら、これは重くてでかくて扱いにくい楽器になるはずだ。
馬の体の各器官全てを使って作ったとは書かれてはいなかったようだが、馬の頭も木彫ではなく、そのものを利用するしか無いと考えていたのか?しかし、やはりそこに少し違和感を感じ確認を改めてして気持ちを整理したかったのか?

恐らく木の部分というのが、違うのでは無いか?という所から来ているのだと思う。
白馬が自分の体で作ってと願ったのだから、全てをそれ〜馬の体で作ってあげないと、、、。
これなら、わたしにも分かる気がする。
実際、彼はその時はどうやって作ったのか?
木彫の技能を持っていたとか、そのような特別な木材が用意されていたとも思えない。
きっと物語上、全部馬で作ったのだろう。そうしたら、最愛の馬の頭も使ったはずだ、と。
(共鳴箱の部分はさすがに木でないと厳しいであろうが、、、実際は上質な白樺の木だそうだが)。
血生臭い想像すれば、グロテスクな感じもするが、実際そうした話である。

その辺の想像力は、映画にも絵画にも表れるもので、プリミティブなもの〜根源的なものはみなグロテスクでもある。
そうした暗い美を湛えている。(ペラペラな綺麗事~美ではない)。
そういう部分を考えさせる言い伝えでは無いはずだが、自ずと考えさせるものは、どんな伝承や民族譚、昔話にもある。

本当にその対象を愛しているのなら、その屍体も最愛のただ美しいだけのものなのだ。
「戸嶋 靖昌 ~ リアリズムとは何か」で戸嶋の語るように。



生のリアリティ

Churyumov Gerasimenko

アリス・ミラーたちによって明かされてきた抑圧を巡る精神構造のメカニズム論は、ずっとわたしの中で木霊のように反響してきた。
大学の心理学の講義でも、教授の何気なく言ったことばに「幼い子供時代に親にされてきたことは、自分が大人になって無意識に反復してしまう。親に扱われたのと同様の扱われ方を他者からされるものだ」という、運命論的決定論としか取れない、また悪無限循環的な呪文としてしか受け取れないものがあった。
が、それが尽く当て嵌めて考えるとその通りに思えてくるものだった。
これが思考(論理)の陥りやすい罠である。

最近わたしは、リアルな身体的な感情の発露を記録・確認(再認)する場として、このような無限定な表出~実験の場を作っている。
決して論理的な思考ではなく、詩的な思考~身体的な思考とでも言うべきものによって。
別に、幼い頃から何故か描いていた「絵」でも良かったのだろうが、、、それが無意識的にも意図的に命を救っていた、、、確認の上で(客観性も担保して)言語によることにした。
得体の知れない化物に形を与える必要があった。(アンリ・ミショーのように)。
そしてそれらを解体する。
更には創造に繋げる。
絵にせよ、音楽にせよ、全ては言語作用(分節化)によるものだ。
せかいはことばでできている。(ノヴァーリスの言う通り)。

これはわたしにとって、絵によるFirst Waveに続くSecond Waveであった。
絵はその創作過程の恍惚な時間性によりわたしを発狂の現実的局面からは度々救ってきたはずだが、現実を生きながらえるなかで感情や感覚、感受性から切り離された偽りの自己形成へと向かわせる事は阻めなかった。それであるため、真の創造的作業にまでは至らなかった。
真の自己が無いのに、何をか作り出せるはずはないではないか。
あの絵の作業は何であったのか、、、。それは今なら分析可能な位置には来ていると思う。
調度、4歳ごろから始まった、ある意味、河原温に似た作業である。(今考えてみれば)。
やはり言語による遡行力と対象化のための本質力いや解体力が必要だった。

今更ながら何事もなかったかの如く?隠蔽された意識~記憶の地平を叩き壊す作業に入った。
(いや勿論、意識的に過去を理想化していようと、外傷経験~抑圧された感情記憶は神経症症状や強迫行為として反復される)。
傷は充分に奇怪に変形して流動しており、瘡蓋のようなスタティックな表層ではなかった。
そして、思った以上に重層を呈している。
と言うより重奏していた。

しかし言語的に過去~記憶を辿る(故意に幼児期を思い出そうというのではなく、何事かについて身体性のうえから表出した言語はそれに替わる質を持ち得る)作業を反復しているうちに、何が変化してきたかというと、自分の身体に直結した感情と感受性が知らず蘇生してきたことだ。
一言でいえばブログは自己治療以外の何者でもなかった。まだその過程である。過去形ではない。
これは、まだ暫し継続する必要がある。

自分の感情をもつ。感受性を解放する。
何もかも解き放ってゆく、、、、、、、
これに尽きるし、そこからはじめて創造行為も可能となる。真に自由な。
(強迫観念に押し出された苦渋に満ちた表出が果たして芸術となり得るか、、、それは恐らく不健康だ。)
今はまず日常生活において、感情はストレートに爆発させるままにしている。
これを増幅させる。
この場をブースターとして。
更に。

自動的に身体が蘇生してくる。


Re:名前のない遊び

aqua.jpg

一部引用を考えたが、やめた。そのままがよい。
名前のない遊び
ハイデッガー的な「遊びと余裕の幅」をこの方らしく詩的に優しく綴られている。

一口に「実存」を前提に、遊びがある。
機械の様々なジョイントにも遊びがある。遊びがないと壊れてしまう。
精神医学(臨床心理学)上においても遊びは病いの予防と治癒におおきな役割を果たしていることが伝えられている。

遊びの古語の意味に、心のままに動きまわる、水中で自由にふるまう、、、澱まず流れる、、、などがある。
水そしてその流れ~イメージがどうやら、遊びの本来の意味に関与していることは分かる。
水~液体は象徴的だ。
水の変幻自在なちから。

全てに染みわたり、、、形骸化を打ち砕く。浄化する。
それは、遊・聖・狂をも行き来する、、、。
いまや宇宙探索において生命(他者)発見の希望そのものでもある。
水に対する畏敬と憧れそして何とも言えない安らぎ、、、。
わたしがはじめて友人と作った同人誌名が”Aqua”であった。
懐かしい。
懐かしい遊びの場であった。


どのような形式の遊びが可能か、、、これを投企と呼んでよいのでは、、、。

才能と狂気(苛烈な感受性)によって作品を制作する遊びは、兎も角スリリングな至高体験となるはずだ。
それが時代の無意識に触れ、言語化(象徴・イメージ化)できたなら、普遍性も帯びよう。
発明と言っても良いものだが、同時に環境との調和も得られる。
既成の宗教に関わらずに、法悦を味わえるのは、やはり芸術という遊びか、、、。
特にだいそれた傑作でなくとも、制作者は癒される。病は解放される。これは、おおきい。
制作によって深みに嵌ってゆくように見られたヒトも、制作に関わらないでいたなら、単に病院に収容されて死んでいただけかもしれない。
確実に豊かで充足した内容の生を生きていたに違いない。


そして

最終的には、、、

  あしひきの岩間をつたふ苔水の
    かすかにわれはすみわたるかも


、、、この境地にいたい、、、。

療養と育児

tDCS001.jpg

痺れが酷くなって、新しい病院を近いところに探した。
ここのところ、自分の療養と育児の両立にかなり困難な状況を感じることもある。
痺れで身体が休まらない。
当初は左半身の痺れであったが、今は四肢と頭部がとても気になる。帽子を被っていなくても被っている感じだ。笑えない。
丁度、車の車幅感覚みたいな感じだが、よくモノにぶつかり、物を落とすことも少なく無い。
身体感覚がブレる。
育児への影響は当然出てくる。と言うより育児の影響をこちらが被るのだが。
周りの環境もよくない。
生活自体がストレスでもある。

ピアノをみる以外は、とてもメンドくさい。
本を読んであげたり、絵を見てあげたりする分にはよいが、、、。
(一緒にでかい絵でもそろそろ描くか、、、それが専門だし。一番の薬となるか)。
兎も角、女の子の場合は殊更、大変だ。
更に双子の育児については厄介なものだ。
何でもないところは本当に何でもないらしい。
信じられないのだが、うちの親戚の双子は、兄妹であることで平和に治まってしまっているらしい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
信じられない。やはり、、、、(笑。

清里の星の綺麗な場所で、サニーレタス畑に囲まれて、飛び切り美味いジャージー乳のソフトクリーム食べてのんびり過ごしたいのはやまやまなのだが、、、。
そうはいかないのが、現実だ。


最近地震速報がよく入る。
これを書き始めてからも、矢継ぎ早に来る。
想定しておかなければならないことか。救急セットはあるにはあるが。
キリスト教関係の勧誘?も度々来る。
ホントにお断りである。

今日行った医者も、もうお断りだ。2度と行くことはない。
MRIを撮った。ただ、撮ったところでどうなるものではない事のよい例であった。
ただ撮っただけ(笑。
後は何もない。何を聞いても、何もない。勉強してんのか!
何のために来たのか、全く意味がない。
藁をもすがる気持ち、、、というほどではないが、体調はすっきりしたいものだ。
医者はもしかしたら薬の副作用かも知れない。
等といって来るが、それはないことが分かった上で出してもらってはいる。
辞書を引きながらわたしの薬手帳を見ないでもらいたいが。
tDCSまたは最近はtACSの効用が理化学研究所のレポートにも書かれていたが、そのへんの質問をしたら、何の薬ですかときた。
これまでかかった医者は少なくともそれが何であるかはちゃんと知っていた。

何の役にも立たない。
バカ医者。ピンからキリまでの、キリであった。

よくつまらない舞台で観客が金返せとブーイングする場面を見たりするが、本当にそうだ。
金返せである!
更に時間も。
時間の方が遥かに貴重だが。

医者は事前に面接してから掛からないとダメだ。
時間と金の無駄!
HPから予め入力して確かめるシステムなど、かなり簡単に出来るはずだが。
もう少し病院もHPをもっとインタラクティブなものとして活用できるものにして欲しい。
更にユーザビリティの工夫と独自性を加えてもらいたい。
事前に判断が出来ない。
(病院評価サイトはあるが、今日行った病院も概ね良いことしか書かれていない。もしかしたら選別して載せてるのか?「とても親切でした、、、」とかどうでもよいものばかり。その医者は、「はい、これで終わりです」。と勝手に診察を打ち切った(爆。2時間待たされて、4分程度でおしまいだと。もっとも、こちらもうんざりであったが)。

治す以上の効果の期待できる機器を探すつもりだ。(すでに手に入れたものもある)。
如何に人に頼らず、独自に探るかに掛かっている。



ヱヴァンゲリヲン

EVA.jpg

汎用人型決戦兵器ヱヴァンゲリヲン
(使徒アダムとリリスをもとに作られた、彼らと同じくATフィールドを発生可能な兵器)。

ヱヴァンゲリヲンを「序」と「破」と「Air」とダイジェスト版のような「使徒新生」と観てみた。(2回目である)。
「ネオンジェネシス」は「使徒新生」と内容が一緒。
「Q」が抜けている。どこかで見ないと。
以前、何となく雰囲気で見ていたEVAの外郭は認識できた。


イエスキリストの高弟12使徒が人類の敵として襲ってくる。(12人より多いようだが、、、)。
その使徒というのがユニークなフィギュアを展開する。
どれも秀逸だ。
物凄い強度だ。

この使徒。
地下にNERV本部が置かれている、第三新東京市をほぼ週一ペースで規則的に襲ってくる。
核攻撃をもものともしないATフィールドを展開する為、通常兵器など全く効かない。
唯一、自らもそのフィールドを作れるヱヴァンゲリヲンのみ彼らのATフィールドを解除侵食できる。
つまり、実質的攻撃―殲滅が可能。
撃退時は、彼らの攻撃の際に実体化して見えるコアを狙う。
ATフィールドの基本原理は人が外部から遅延する「自分」という意識を強くもつ状態であるようだ。


NERV本部最深部のターミナルドグマにリリス(イブの前に作られた最初の女性)が繋がれている。
ロンギヌスの槍に刺されて。
使徒はそのリリスに融合し、第三インパクトを起こして地上の生命を一掃しようとしているという。
ヱヴァンゲリヲンはその使徒排除のための兵器であり、綾波、シンジ、アスカ等のチルドレンは、ヱヴァンゲリヲンに適合するパイロットである。母のいない14歳の子供であることが選定の前提条件となる。A10神経活発時にEVAのコアとの同期がし易いらしい。
シンクロ率の高いパイロット程、優秀のようだ。(だがフィードバックも大きいようだが、、、)。
また、使徒とは、(何で使徒というのか分からないのだが)、外宇宙からやって来たエイリアンとかではなく、人類と遺伝子組成はほとんど同等の地球を起源とする生命体である?形体―機能が途轍もなく隔たっているように見えるが。
たまたま地球に繁栄した人類も使徒のひとつの流れであったと謂える。

シンジは常にへたれながらも何とか褒められたい認められたい甘えたいの一心でがんばる。
しかし、ひとつ何かあれば、すぐにダダをこねて逃げる。
一番支えになっているのは綾波レイである。
すぐに慰めて貰いたがる。
次いで葛城ミサト、そして惣流・アスカ・ラングレーか、、、。
こどもにこういうことをやらせること自体、作戦遂行に問題が出るのは必至だろう。
(寧ろそれを繰り込んだ戦略が必要だ)。
ただでも思春期真っ只中の不安定な時期である。
「実感も沸かない大事なことを何で僕なんだろ」
当然といえば、当然。

相変わらずオタク・レヴェルの兵器関連の専門用語の羅列でリアリティを生んでいる。
こういう畳み掛けは嫌いではない。良い雰囲気を作っている。しかしシンジの携帯しているS-DATはマニアックすぎ。そもそも発売もされていない。(クラシックコンサートのライブレコーディング時などに専門家がマックブックと一緒によく持ち歩いていたが)。
しかし陽電子砲を二度撃つ「ヤシマ作戦」の時など、ちょっと感動ものであった。
その後でのレイとシンジとのやりとりも、恐らくアニメ史上に残る名場面であろう、、、。
メカ画像のディテール描写に関しては、アップルシードなどの方が遥かに分があるが、フィギュアのアイデアの質が高いため問題ない。
兵器のランチャーや内壁などで、漢字がとてもグラフィカルに効果的に使われているのも印象的だった。
L.C.L.などSF映画の宇宙船コクピットに時折使われているアイデアであるが、確かにこの呼吸液体?のおかげで様々な身体調整やここではEVAとの神経接続への説得力は増す。
また、パイロットがパニックに陥った時(シンジはしょっちゅう陥る)、ダミーシステムが稼働し、EVAが本来?の性向でパイロットから離れて闘い出す。こちらの方が遥かに凶暴である。また、ビースト化して暴走したりする。使徒を喰ったりする。
かなりド派手なスプラッターシーンが頻出である。


実は、EVAの本当の狙いは使徒撲滅を超えて、、、ここがまだよく掴めていないのだが、、、
ヒトを群体から単体に進化させる「人類補完計画」のためであるという。

つまり。
それをNERVの他に、いろいろと手の込んだ計画でゼーレという何やら神がかった組織が進めてきた。
最後は人類対使徒ではなく、計画を実行するためのマテリアルを巡る人類同士(NERV対ゼーレ)の殺戮戦と化すが、結局、、、
儀式による強大なアンチA.T.フィールド生成により、あらゆる生命~意識は一体化を辿ろうとする。
「他者の無い単一体として人類を再生」させる計画であったのだ、、、。

しかし、レイの他者を望むこころが、それをさせなかった。
(まるで、ここからまた生命進化を辿りなおす壮大なドラマの幕開けではないか)。


これは凄まじく重い、、、。

よく分からないところは多い。
また、Qが手に入ったところで見直すか。


憑依機械

Mars001.png

生を貶めるものはたくさんある。
様々な道徳、宗教、政治制度、、、
母親、突然現れた昔の友人、、、等々。
他者に憑依する欲動が様々な位相で発動する。
いや、発動し続ける。
ほぼ生きることと同義となって。
マイクロ・ファシストがざわつき、せめぎ合う。

ミラー・ニューロンが告げ知らせる。
これは罠だ、危険だと。
相手が無意識―自動的であることも多い。
機械仕掛けの昆虫を想わせる。
形は色々だ。
しかし少し注意すれば、大概見え透いたものではある。

無意識であったとしても、意図は何なのか?
実は、こちらの方が意識より根本的で強靭であり探りにくい。
単なる利用や虫の良い支配欲、、、
というよりも憑依なのだ。

闇雲な力で憑依しにかかって来るバケモノたち。
彼ら全てに言える特徴は、他者をもたないこと。
自らに疑問がない。
鉄面皮の自己愛。
ことばをこれ以上ないくらいに賎しめている。
ことばの作用に対し驚異的に無自覚である。
法螺を吹き放題吹く。
等々。


常に絶望的に滑稽な風景を引き寄せる。
ここにはユーモアが発生しない。
但し周囲に目つきの悪い監視人がいても気にすることはない。
それらは単なる書き割に過ぎない。
風が吹けばバッタバッタと音もなく倒れて消える。
そんなものだ。


憑かれると疲れる。
体調も乱れる。
思考も感情も感性も、、、
あらぬ熱が身体を蝕む。
あらゆるモノコトが膠着する。
内部から凍結し痛みを生じる、、、。

だが、憑依機械の動きの影をしっかり握っていれば大丈夫だ。
それは繋がっていても作動できない。
寸前で押し留めることが出来る。
後は殺意のコントロールくらいだ。

音楽が最後に助けてくれる。






ドライブ

drive.jpg

最近、早朝とかなり遅い時間に車の送り迎えをする事がある。
よく感じることだが、朝はおっとりしているが、深夜は車が荒れている。

娘が生まれる頃、何度か早朝4時頃走らせたことがあるが、その時間帯は、長距離トラックが多く、ほとんどセダンは見かけない。
道もスッキリしたものである。
今はそれほど早い時間ではないが、長距離トラックが数台、道端に止まっているのでどうしたのかと見ると、山○うどんの朝定なのだ。何か微笑ましい感じがする。
わたしも学生時代、大学まで電車で遠かったので、朝定が摂れるところが途中にあればと、ずっと思っていた時期がある。
ラッシュ時前の車たちは、皆気持ちよさそうに走ってゆく。
道もほとんど混まず、特に早朝のトラックの流れは静かで優しい感じがする。

しかし、深夜の車はどこか殺気走っている。
またどこから集まってきたのかスポーツタイプが多い。
ありえない追い越しや駐車、割り込み等、禍々しい衝動をメタルにギラギラ煌く車たちは秘めている。
クラッシュ覚悟という、何か刹那的で無謀な行為が、とても内向的にも思えた。
(つくづく思うが、内省のない内向は狂気を生む)。


普段行かない遠くの公園に、車で出かけた。(わたしの意思ではない(笑)。
公園によって人に対する優しさが違う。
今日行った公園は、とても厳しい。
古民家が何故かあったりするが、子供たちは関心ない。(惑星探査機などなら触手が向くのだが)。
これといった場所も遊具もなかったが、階段を見つけた。
階段はひとたび登り始めると登りきるしかない。
それでひたすら登ってみたのだが、頂上には何と普通の民家がぎっしり立っているだけで、何の眺望もない。
(これには驚きを禁じ得なかった、、、良い意味ではない(念のため)。
後は、芝生の空き地と冷たい水の流れる川があるだけ。(底がヌルヌルしていて、すっ転びそうで危なかった)。
ベンチも陽が当たり放題。座っただけで強烈に熱い。
恐らくここの売りは、川岸でのバーベキューとかテントを張ってのキャンプ及び川釣りであろう。
うちの家族には全く関係ない。
わざわざ長女が車に強くないのに、はるばる来るほどの公園ではなかった。

やはり、いつも行く近場の公園(3つある)が一番である、という全員の結論となる。
1.亀と白鳥と鯉のいる池のある公園 2.プールが二つあるスポーツ公園 3メタセコイヤと花と噴水が気持ち良い公園、の三つ。
意見がひとつにまとまるのは、我が家にとっては、大変珍しいケースである。
公園は我が家にとっては大変大きな意味を持つ場所であり、わたし的にはホッとした。
(ついでに、イギリスは残念であった、、、。この自閉・内閉する精神が次々に残念な結果を広げてゆくものと思われる。恐らく亀裂は断絶として露呈してゆくはず)。


ドライブには、気持ちの切断と接合の効用がある。
娘が姉妹ゲンカ(これが締める悩み事は大きい)で、どちらかが興奮状態の時、その気分の切断には、車に乗せてまずは走る(爆。
これが朝の場合(月曜にありがち)、そのまま小学校まで運ぶことになる(苦。(そのため、クラスで一番に到着したりする)。
ともかく、気分を文脈から一旦切り、話をさせ、こちらの気持ちも場合によって端的に伝える。
これが環境的にやり易いのが、ドライブ中だ。
小さい音で「セーラー・ムーン」が流れているのも、先ほどの荒れた文脈から掬い上げるのに役立っているように思う。
密閉空間による雑多で過剰な刺激の除去と速度による少なからぬ感覚の異化、お気に入りの曲による和みとマッサージ効果で、その場にいながら強引に文脈転換させるより、効率は良いようだ。
しかも気分が沈静化したところで、問題はほとんど解消している。
元々特に何があった訳でもない事が多い。
何で喧嘩になったのかも忘れている。それはそうだ。

つまり何やら実質的に解決せねばならぬ事柄があったというより、何らかの感情・気分の拗れが発生したというレベルなのだ。
何故そうなったなどと質問すると、事後的に何らかの合理的な理由を捏造してしまう。
小2でも充分反省的意識で自動的にそれをやる。
理論的な解決に拘る必要はない。
何となく話を車内で少し間を置き聴くと、今日の授業のことなど話し出し、気持ちの中に引っかかっていた心配事が、朝妹との接触によって浮かび上がった、などという事は実際、少なくない。
まだ、自分の中で物事を整理しきれるところにまで、行っていないのだ。(わたしもそうだ(爆)。
フッと気分が晴れて、知らず解消している、、、。
後は、今日の学校生活の文脈にそれとなく気持ちを接合する。

「いってらっしゃい。」





遠く高く離れる

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いくらでも、奇怪化していても、そこに不自然さをもたない絵画がある。
無調でないのに、いつも耳に新たに響く音楽がある。
(12音階であれば、紋切り型ではない訳ではない)。
象形からの解放が、如何に可能であるか?

言い換えれば、新たな関係が如何に生まれるのか?
新たなことばが。

生命に、、、
目標などない。
方向もない。
価値もない。
かたちもない。

生命で有り続ける生命。

震え続ける生命。

存続する生命。

生成そのもの。


そうだ、David Bowieが地球に落ちてきて、何故変身をし続けたのか!
絶えず異なる何かに変わり続ける。
(成りきっては、ならない。ただの名付けられる誰かになってしまう)。
顔のないエイリアンに、または頭部という身体しか持たないベーコンの絵に。
そしてもはや、形体ーことばが尽きた時に、天に戻る。
そうだったのか、、、?
いや、最初の一撃以上の何かを示唆して逝ったはずだ。
Lou Reedを見出したのは、David Bowieであった)。
確実に継ぐべき何かを渡して。


確かに時空間とは、受肉の形式だ。
リレーと反復を生む。

西暦何年何月何日と振られて、初めてわたしは何という病名が付され、同時に何層かの社会的な位置づけも更新された。
痺れは一体いつから始まったのかも書類に記されている。
全ての来歴は日付にあり、理解されることはないが何であっても承認される。

いや、予め全ての項目は書き記されてきた。
無限反復帳に。コズミック・レコードに。アーカシア年代記に。
わたしはその一片を、わたしとして体現してみたに過ぎない。

逸そ日付だけを毎日更新しても良い。
河原温みたいに。

それは、しかしいつから起きていたのか?
いつまで続くのか?
(しかし、知ってのとおり傷がその日付を曖昧に滲ませる)。

この身体はどこから来てどこにゆくのか?

時空とはそいういことだ。
何かに似ていると思えば、映画に似ていた、、、。
いや、舞台劇でもよい。
ジギー・スターダストのひとつのステージにも甦てっゆくだろう。


それは眩く灯る遠くの小さな出来事に見える。
認識しなければならない。
見渡すには距離が必要だ。
自分が出ている映画を見なければ。



ニヒリズムの足枷

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ニヒリズムが常に足をすくう。
ニーチェのいう、「肯定」の意味を忘れていた。
ニヒリズムに裏打ちされた感覚は、それだけで思想を不活性にする。

所謂、権力の他に、ニヒリズムの浸透を警戒しなければならない。
全ての「価値」を捨て去ること。
あらゆる概念にルサンチマンは影となってとり憑く。
宇宙の原理であるかの如くに。

それに躓いてはならない。


多肉の「乙女心」の葉の陽に映えた碧い燦きに、それを直覚した。
ことばではない。
生命である。
生命の肯定である。

彼の、生命を無条件に肯定する精神-思想である。
そこには、もはや「人間」などということばは、あらゆる規範とともに、いや象形とともに消え去っている。
人間主義を完全に超克し。
一切に憤りをもたない強靭な精神を彼は超人と呼んだ。
神でも人間でもない、フーコーの予言した人間の終焉とともに現れる存在である。
パラダイムの転換などというレベルでは勿論ない。
それは文化ではない。

生命である。
しかし有機体ではない。
象形から解かれている。
潜在し続け、罠に掛からない。
それは文化ではない。
あらゆる制度を掻い潜る。


常に生命に無意識に根を張る思考である。
そこに有り得る運動は。
あの永劫回帰!
そうだ、差異と反復か。

改めて気づいた。


それは文化ではない。

純粋な生命体であり、強度である。


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
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