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雪が夜空を真空に置き換える。
声を文字を吸い取って行く。
クラシックがやたらと聴きたくなり。
聴いていくうちに感情だけが溢れ出す。

ヘンデルに取り分け揺さぶられる。
意味も価値もない、驚くべき音にそれは迫ってきた。
わたしは身体だけになっている。
殊の外ひりつく。

雪が音もなく激しく降って積り、たちどころに世界を隠蔽して凍結していた。
そこで魂が丸裸になる。
妙に明るくて明日が見えない。
昨日とも切り離された。


ただめくるめく不透明な白に覆われる。

もうしばらく、この寄る辺ない不安の温度に耐え続けたい。


できれば、世界がもう戻ってこないことを願い、、、。

ドルチェ~Dolce

Dolce.jpg

すでに二週続いて木曜日にブログを休んでいる。
定休日にしたつもりはないが、確かに木は忙しく、疲労も溜まり混迷も極める。
ブログなど手を付ける暇もなかった(毎日休みなく書いていた時期も木は余裕はなかった)。
家族と大喧嘩するのも木が多い。人に言う事ではないが(爆。

やはり一か月休んでから、ブログを書くテンションが明らかに変わった。
レイドバックした。
以前はブログを書くためにいちいち映画を観たりしていた。
当ればそれはそれでよい機会であるが、ハズレだと悲惨な想いになる。
自分に合う合わないではなく、明らかにつまらないものは、つまらない。

しかしいくらつまらなくても、SFは観てしまう(笑。
そういう体質なのだ。
勿論、詩的で神学的なものにも強く惹かれる。
だが、現実の上なぞり的な現状確認レベルの噺はつまらない。
わざわざ作って観てどうするのか。

今日は休んで寝ようと思ったが、ビール呑みながら少しだけ書いてみることにした。

娘が自分のピアノがどのように弾けているのか確認するための実に簡単な録音システムを用意した。
単にピアノ脇にレコーダーとパソコンをセットしただけのものだ。
すぐに弾いた後確かめられるようにした。

フルートでつくづく思ったものだが、ブレスを基本にしてリズムがしっかりとれていないと、思いの外ヨレヨレな演奏で恥ずかしい思いになることがある(吹いている時にはそれ程気づいていない)。
ピアノもまずはリズムができていないと聴けたものではない。
次女はせっかちな性格がそのまま出てしまう。
自分の対象化のひとつのツールともしたい。

長女の楽譜に”Dolce”が付いていた。
わたしはDolceが好きだ。
レストランで料理のコースの終わりにDolce~デザートが出されるとホッとする。
やさしさ~甘さ~柔らかさ、、、最後にとっても癒される。

そんな風に弾くようにという指示である。
もう勢いよく叩きまくっている。
風情がない(笑。
取り敢えず間違いなく弾くぞと言うところであり、まずはそこなのだが、やはり気持ちは最初からもちたい、、、。

わたしも日々を”Dolce”でいきたい。
木曜日は特に、、、(爆。



ゲーム機移動

moonbow002.jpg

いつの間にか育児ブログと化しているこのブログ(笑。
今日ゲーム機をわたしの目の届く場所にあるディスクトップパソコンのパネルに繋いだ。
つまり、居間(ほぼプレールーム化している)のテレビからゲーム機を切り離し、少しストイックな環境にゲームを接続し直そうとした。宿題と分離しない背中合わせの環境だ。
パソコンはHDMIから DVI-Dに代え、スウィッチを優先して接続することにした。

スウィッチはHDMIのみだし、変換などメンドクサイ(出来るかどうかも調べる必要がある)。
ただちょっと驚いたのは、次女がノートにも同じ形状のコネクタがあるのを知っていて、自分がよくやるゲームの入ったノートにも繋げると、何とか自分の領地内にひき込もうとしたことだ。
確かにHDMI端子はどれにも(最近のノートには)ついているが、生憎ノートは会議プレゼンなどで利用する大型ディスプレイへの出力専用である。この端子を知っていただけ、意外であったが。
日々、彼女らにはちょっとだけ驚きと違和を感じる。

結局、わたしの管理下で(これまでは居間でおやつ食べながら適当にやっていた)宿題を自分の机でしっかりやってから、ゲームを30分だけすることとなった。
これで一件落着とまではいかないが、ダラダラやったり、ナガラでやることは防ぐ流れとなる。
宿題はあっけなく終わり、すぐさまゲームとなる(笑。
わたしも彼女らのゲームの手さばきを繁々眺める機会となった。
よくまあ、ここまで身体化したものだ。
わたしの目線を気にしながら自分のテクを披露したり、わざと派手で変化に富んだ面白い場面に迂回して見せたりしていることが分かる。得意になっている(爆。
ゲームもより面白くなれば、それはそれでよい、、、特に何かを期待はしない。


噺はいつものように飛ぶ、、、
今日は日中やたらと水(ストレート)で、モノを清めたくなった。
古い虫かごや水槽など片っ端から水で洗いまくった。
昼間は陽が強い為、干せばすぐに乾く。

本も読み直している。
マルクス関係のモノ。
「価値形態論」

すべてはことばの問題だ。
関係~差異(の戯れ)によって成立する価値。
しかしその起源はすぐに隠蔽されそれ自体で成り立ったように(価値の内在化として)倒錯する。
超越論~形而上学的システムが自明化する。

無意識にもっと迫る必要から、「価値形態論」というテクストが気にかかる。

本質に足を掬われてはならない。
寧ろ移動が肝心だと思われる。
真理をつかみ取るとかいうのではなく、テクストとして読む~関わる、という行為。


”エストリルのクリスマスローズ”のマルクス論を(テクストとして)拝読し、わたしの場所に繋がった部分とも思える。
考えてみれば、読むという行為はテクスト(叉は断片)として読む以外の関わり方があるだろうか、、、。



ストレスフリー

sun001.jpg

ストレスフリーな生活を送ることにした。 何であっても。
まだ、、薬はどっさり飲みながらの休養中であることに変わりない。
これまでブログも毎日更新しようという意識~拘りの元でやって来た部分もある。
これからは、昨日みたいに忙しいからやめておこう、という選択もありにした。

確かに、生活、家事、こどもの面で大変忙しく、「絵」でも迷いがある。
まだ、病休~仕事を辞めてからの新しい生活のスタートは切れていない。
何を置いても、まずは体調である。
そんな折、ポカポカ陽気の散歩が格別であること。

そして全ての障害は隅々まで取り除く。
きれいさっぱり片付けること。
最近、ゴミ出しがとても気持ちよくて癖になる(笑。
そして植物の世話である。カメもやっているが。

生き物に注意深くしなやかに接する。
恐らくこれが健康の秘訣になる気がする。
夢想の時間である。
陽の光の中で。

普通に生活を送りながら瞑想しているような状態に保つこと。
ストレスという言葉を忘れる。
どうでもよいことを片っ端から忘れる。
陽の温かさを吸収すること。

まだ外気は寒いにしても。





n-1の試み

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3学期が始まったかと思うと、明日はピアノだ。
もう毎回、一つずつ上がれるような簡単な曲ではなくなっているが、一応、落ちるなよとは言っておく。
こちらとしては、2回で一つ上がれればよいという心積りではあるが。
しかし、この休み中のダラケぶりでは明日は危ない、、、。

ピアノを新しくしたのに、何故こんなにシラケているのか。
練習の楽しさより辛さが勝るようではそれまでである。
どうも尋常ではない。
何かを変えなくてはならない。

明日の学校の持ち物でも見つからないものが出て来て、大騒ぎである。
勿論、わたしが見つけて渡すと、それどこにあったの?である。
もうそろそろわたしも体力的限界で、面倒見切れない(笑、いやホントに。
いろいろ工夫はしてはみるが、すぐに散らかして不明にしてしまう。

エントロピーは確かに増大する。
物の管理は難しいものか、、、(わたしもよく置き忘れはするが、、、)。


娘は、主体として余りに脆弱なため、それが出来ない点が大きい。
多くのルーチンを(ルーチンであるべきことを)人に依頼している部分が多すぎるのだ。
依頼していることにまだ気付かない。
実際の事柄にしても精神的にも。
それで押さえるところをことごとくやり過ごしてしまう。
その上でアイテムへの依存性が大きすぎる。


実際に、ゲームをやってiPadで何やらずっと見呆けた後で、色々探し物をはじめたりするから夜更かしにもなる。
次の日の目覚めにも影響大である。
親として取り敢えず、iPadは使用禁止とした。
この怠惰な受動性と依存性はマズイ。

何でも使い方の問題である。
しかしそれが制御できない。
一種の麻薬である為、依存性も極めて高い。

依存は精神にとってよくない。
自律にとっても自立にしても。
依存はきっと無意識~身体性を蝕む。
もっとも怖い。
精神を蝕む。


浄化である。
「それ」なしで暮らす。
n-1をすべてに、、、。
今年は、それをテーマにしようか、と思う。

わたし自身にとっても。



O君とバイクと「ひげまんじゅう」

higemanjyuu001.jpg

O君が久しぶりに、猫の縫ぐるみを沢山もって尋ねて来てくれた。
巨大な猫ひとつ。小さな猫5つ。
バイクでの訪問である。
こんなに大きな猫をよく持ってきてくれたものだ。
何と謂うか、大きい猫は、抱いて寝るにはちょっと大きすぎるくらいのサイズだ。
O君は大の猫好きである。
わたしもそうだ。大学の頃までは、常に猫と同居していた。O君は今も途切れなく同居している。

猫たちの名前(総称)は、「ひげまんじゅう」という。(株)アミューズ)
そのひげまんじゅうとは、「くちのまわりのふくふくしたひげの生えているところ」を指すらしい。
それがかれらのかわいらしさを象徴する部分で、呼び名にもなっているようだ。
個々の名前は、またそれぞれあって、「みーさま」、「黒豆」、「ふくにゃん」、「あんこ」、「まるこ」とかついている。
それぞれ顔つき~目つきが異なり、随分表情も個性的だ。
猫の特徴が可愛く抽出され柔らかく造形されている。

リンゴもいただく。
子供がアップルパイが好きだから助かる。
よくこれだけ沢山のモノをバイクで持ってこれたと感心する。

世間話をしながら七草粥と梅干、キムチ、キンピラなど極めて普通の家庭料理を振舞う。
O君が来て30分くらい経ってから娘たちが温泉から帰り、床に並んだ猫たちを見てすぐに飛びついた。
当然の如く、どちらが大きい方をもらうかで、二人の間で真剣な取引が始まった。
どうにか話が付くまでO君はそれを面白そうに見ていた。
二人とも縫ぐるみは大好きで、長女など5,6体の人形からその時々の気分で選んだものといつも一緒に寝ている。
恐らくその大きいのとも寝るのだろう。
布団に入ればよいが。

驚いたのは、それらの猫は全て彼がゲームセンターのUFOキャッチャーで獲得したものだという。
うちの娘も近頃いっちょ前にゲームセンターでお小遣いで遊ぶようになったが、何も獲得できずあっという間に終わってしまう。
ゲーマーの次女は凄いと言って、尊敬の眼でO君を見ていた(笑。
その後ふたりは、直ぐに「ゼルダ伝説」を始める。
もうゲーム中心の世界になっている気がして来る。
わたしだけがゲームをしていないような気もする、、、。

とは言え生きる事全部、ゲームと言えばゲームだ。
とてもエモーショナルなゲームを生きている。
-ハンデで始めたゲームかも知れなかった。

昔の友人と話していると、やはり記憶も呼び覚まされる。
S君の「絵」の噺と共に、その周辺を巡って、、、。

何とO君の会社でS君の絵が25枚くらいデジタルデータ化されているという。
つまりすでに画集になる品質にあるという事だ。
主要作品の四分の一ほど済んでいるというのは、いよいよだな、、、と思った。

しかし、どう出るか(展開するか)はあくまでS君の気持ち次第である。
周りがとやかくいう問題ではない。
わたしは、純粋なアートとして紹介されていけばよいな、と願っている。

O君は、大きいのをまたひとつ持ってくるね、と言い昏い闇の中をバイクで帰っていった。
O君が無類のバイク好きであることをはっきり想い出した。
大学の頃から、よく乗り回していたものだ。
うちの父もバイクを14台乗り継いだバイク好きであったが、バイクは速度をダイレクトに感じることが出来るもっとも身近なアイテムかも知れない。
存在速度を上げる恍惚感。
これはヒトにとって本質的な(郷愁に染まる)快楽のひとつだろう。






”NewOrder”を聴きながら

blue sky

田舎に集まりヘトヘト~

運転だけで本当に疲れる。
とは言え、本家は「サマーウォーズ」みたいな格式高い厳格で威圧的な構図はなく、とてもフランクな緩い関係である。
勿論、どんな場にも権力構造は生じてくるが、二人で会話すれば自然に生じてくるレベルである。
殊更、威張る人はいない。
跡継ぎの叔父はとても気さくで、もの静かな温厚な人である。
何となく中心に座る人は出てくるが、それが別に気になる程とは言えない。
会話の中心を強引に作る人がいないのだ。だから押しつけもない。
ただ、人が美味しそうにビールを呑むと、呑めない立場がひたすら口惜しくなる。
その分、御馳走をたらふくいただいた。
満腹で、何の文句もない(爆。

庭に出るとまた格別である。
空気の新鮮さと木々に触れる空間の響きに張りがある。
音が聴こえてもとてもくっきりして静かで澄んでいる。

空は真っ青で、畑があり(広がりという程ではない(笑)、小さな川を挟み、200mほど先に木の生い茂る山の中腹を自動車道が走っている。
わたしが小学校一年の時、本家の縁側でぼうっとしていると、その道を同じ年頃の少年少女が歩いてきてこちらを向いて話しかけてきたことがある。何を話したか忘れたが、彼らと話を交わした記憶ははっきりと(鮮明に)ある。
蒼い、本当に真っ青な空だった。その時も。

先程家に帰ってみると、娘たちは車の中で眠っていた。
お年玉でバブリーになり、お腹も一杯で、どんな夢を見ているのか、、、。
家の中に運び入れベッドに寝かすのも大変だ。
いつの間にか相当、重くなっている。


”NewOrder”を聴きながらこれを書いている。
記憶を立ち上がらせようとすると(無意識に触れようとすると)このサウンドが必要になる。
サウンドは常に場所を仮構するからだ。
身体という場所の強度を増す。

今夜はもう少し”NewOrder”を聴き込みたい。
"Get Ready"
これで行く。

NewOrder001.jpg

それでは、、、また明日にでも。


面白さとは

buggy.jpg

長女と一緒に作っていたロボットが出来上がった。
キャタピラで前後左右軽快に走行し、ロボットアームでモノを掴んで、任意の場所に持って行ける。
それだけでもう大喜びである。結構大変だったにも関わらず、「面白かった」を連発していた。

やはり自分で作ったものというのは格別である。
協力して作る経験も格別である。
ただしコントロールには、コツがいるため、これから意のままに操る練習は必要となる。
それも含めた過程において、言語だけによる一方的な指示や小遣いやモノを介した安直な関りより、身体的(無意識的)共感や喜びはあると思う。

今度は独りで作ってみる、と言っていたが、それはまだちょっと、、、それ相応のを選んで好きにやらせてみよう、、、。

この間、二台のパソコンの筐体にシールを貼りまくってデコを愉しんでいた次女と来年初めから、わたしが作りかけて1年半放置していたラジコンのスポーツバギーの作製を再開することにした。
これもなかなか骨は折れるが、今回のロボットから見ればずっとお決まりの工程であるから予想外のトラブルには見舞われないで進むはずだ。

兎も角、一緒に作業は続けたい。
(少なくとも一緒に買い物より得るものは大きい、、、買い物は安易すぎるし、逆効果の場合もあり得る)。
そして面白かったという経験をまずは、積ませたい。


それからついでに、、、。
昨日の「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」(宝島社)で昔の友人から電話があったので、いや正確に言えば要件のついでであるが(笑、、もうひとつとても面白い「もし、、、書いたら」があるので、調子に乗ってご紹介。
(あまりやってはまずいので、これっきり、である)。
昨日の続編、、、。

             包装批評宣言

 カップ焼きそばを作るのにはある種の「不自由さ」が付きまとう。それは五分強、調理に従事しなければならないという不自由さで、しかし、調理の実作業じたいは極めて簡易であるという、逆説的で名付けがたい不自由さだ。

 麺を解体させ、乾燥という物語から生なましい食べ物へ回帰させるには、まず、お湯を入れなければならない。だが、お湯を入れてから待たなければならない「五分」という時間。これは一見、自由な時間に思えるが、しかし、「五分後には必ず戻ってこなくてはならない」という不自由さが、ここにはある。この錯覚され、倒錯した自由さは、同時にひどく凡庸な不自由さでもある。

 この不自由さを規定しているのは「作り方」というある種の「制度」であり、それは「装置」とも「物語」とも言い換えられ、このあらかじめパッケージに刷り込まれ、内在化された「作り方」は、無意識的にわれわれの行動を制御し、今まさに生まれようとしする意識を縛り付ける。

 言葉たちによる無意識的な束縛を避けるためには、言葉の「意味」を崩壊させ、脱説話的に「記号」を「記号」として受け取るのを拒否し、「物」を「物」として見ることを、自らに要請せねばならない。

 われわれは、十九世紀的な「物語」から逃れるために、わずかな意味の裂け目から、「カップ焼きそば」という七つの文字のつらなりを解放し、生なましい本来のカップ焼きそば、「物」としてのカップ焼きそばに回帰していかねばならない。


蓮實重彦氏の(思想文体の)簡潔な教科書的な解説的文であり、勿論、パロディであるがリスペクトを感じさせるものだと思った。
全て冗談で書いているのは分かるが、読んでいるうちに自分もここに載っていないひとのものを書いてみたい気にさせる、そんな面白さがここにはある。

そんな噺を昔の友人と電話でした(笑。


面白い物とは、悉く刺激に充ちている。
そう、何かこちらの身を運ばせる~無意識を揺り動かす~ものでなければ面白くない。






今年を振り返って

Susan Sontag

いろいろと新たに面白いものが発見できた年ではあった。
そのうちのひとつばかり、ご紹介。

ともかく、面白い!

           反カップ焼きそば

カップ焼きそばとは、麺であり湯切りである。これがカップ焼きそばの体験の一番初めの形であったにちがいない。

カップ焼きそばとはソースでありかやくである。これがカップ焼きそばの理論のいちばん初めの形、日清の研究者たちの理論であった。

このとき、たちまちカップ焼きそばの作り方という問題が生じてきた。なぜならソースとかやくという本質ということ自体がすでに、湯切りが先という問いをつきつけているからだ。


「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」(宝島社)菊池良・神田桂一著
から、哲学者(作家)スーザン・ソンタグが、もし、、、書いたらのページである。
こんな調子で100人の「文体」でやられると、何回もお気に入りの作家(思想家)のページを見ては、にんまりして暇つぶしも後悔しないものとなる(笑。
スーザン・ソンタグの本も読み返したくなる。

日向ぼっこしながら見るのに最適であった。

これは、今年の象徴的な出逢いのひとつに数えられる。
また来年も面白い出逢いがあれば、ちゃんと前髪をつかまえたい。



枠を超える

complex system

ここのところ度々出演してもらっているS君であるが、もうひとつの彼のエピソードを絡めて、話したい。
彼は大変泳ぎが上手い。
上手と言っても日本泳法である。
わたしはS君が普通の平泳ぎやクロールなどをやっているのは見たことない。
恐らくそんなのは、お手の物だろう。
「この泳ぎは足で扇子を挟むんです」などと実しやかに話して植木等みたいな感じで人を食った泳ぎを披露していた、、、。


彼の開成高校時代の夏の合宿(所謂臨海学校)ではいつも海岸から向こう岸まで数キロに及ぶ遠泳がある。
泳ぎがいまひとつ達者でない者やスタミナが切れて途中で溺れそうになる者は途中で続出する。
その中から、ボートで見守る教員に対し助けを求める生徒も出てくる。もう必死なのだ。
そんな時、教員は鬼のように突き放し、安易にリタイヤはさせない。助けたらそれまでである。
「先生僕死にます」に対し「死ね!」と返されたり(笑。
勿論、十分な安全管理と精神的なケア~配慮の上になされた指導であるにせよ、その生徒の極限状況はもう限界越えでもあろう。実際、ブクブク溺れてから海面にまた浮上し、何とか最後まで泳ぎ切る。
そして、全員泳ぎ切って終わる。

ここでは、何かを得るというより、枠を打ち破る~再生体験と謂える。
これはある意味凄いし、興味深い。

充分な指導理念と安全管理としっかりした精神的ケアなしにやると、どこかのヨットスクール(または例の新新興宗教の教団)になってしまうが、この身体的限界~枠を超える可能性に賭けた指導は、非常に貴重だ。
人間、道徳の授業などで有難い講和などをぼんやり聞いて何かが変わるなどということは、確率的にほとんど期待できない。
それで認識の枠組みが変わる~身体性が改変されるようならこんなに手軽なものはない。
(また、それほどのテーマ~内容で語られているかどうか、もある。ことばの本質力の問題として)。
勿論、自分が抱えている問題に、噺のなかの単語や文節、文脈が絶妙に絡んで劇的反応を起こし、一気に冗長性が破られ相転換に及ぶなんてこともあるとは思う。
それが世の中~複雑系であるところでもあるし、、、。


精神的な問題を扱う書籍をみると、優れたものの多くが「からだに訴えるワークショップ」を取り込んでいる。
運動、訓練、作業など、それが暴力になってしまっては元も子もないが、その人間の限界を破る目的で適切にプログラムされたものであればこの上なく有効に作用するはずだ。
そのためには、有能な指導者~監督が付き添うにこしたことはない。それがないと大変危険な場合もある。
スポーツ選手が道を究める姿は、様々なメディアを通して顕著に窺えるが、、、。大概名コーチと一心同体みたいに取り組んでいるものだ。

所謂、瞑想にしてもそうである。
カルロス・カスタネダが麻薬を使い意識の拡張を図る実験を積み重ねる間、ヤキインディアンの薬物調合の専門家ドンファンがぴったりと付き添い、コントロールを細やかにして万全なサポートをしいていた。
(アンリ・ミショーやアレイスター・クロウリーは実際どのようなプロセスで実験していたか、、、そのうち調べてみたい)。
新新興宗教の吸引力もその辺の(教祖のカリスマ性を含む)魅力からくるところは大きいと思われる。
どのようなかたちでも指導者はいるに越したことはない。

つまりその対象の枠を明確に洞察できる、外部の観察者の存在である。
これが親であれば申し分ないのだが、多くの場合、親はその立場にいない(資質を持たない)。
それが不幸である。
またそれが連鎖し反復してゆく。
ここを切断する他者~指導者の出現にある意味、人間の運命はかかってくるようにも思う。

それがどのような場におけるどのようなヒトであっても。

サンタさんが来た!

santa001.jpg

長女はリアルにサンタさんを信じていた!

20日ごろから次女は、ボクは(欅坂の平手さんの素振りに影響されてか)クッキーの詰め合わせとかよりゲームソフトだからね。
などと斜に構えてそれとなくプレゼントを要求していたのだが、こちらは内心NGを出していた。
かたや長女はサンタが今年も家に来るのかどうか、「スポンジボブ」のTVなど観ながら、かなり気をもんでいる様子だった。
大きな靴下を用意して、一昨日だったかサンタは世界で何人いるの?とか、靴下を吊るす場所を探しながら、サンタは大体身長何センチくらいなの?等と切羽詰まって聞いていた、、、。

そしてクリスマスの日に、靴下に入らないので、玄関にクッキーの詰め合わせの外見はかなりお洒落なクリスマスパッケージの緑・赤の袋が置かれているのを観ると、、、次女は「ぼのぼの」のシマリスのような笑みを浮かべた顔で、長女はパッと目を輝かせて、、、
「今度はゲームにしてね」(次女)、「サンタさん来た!」(長女)である。

かなり成長過程に差が出たというか、個性の差だろうか?
いや、長女も来年には気づいている~現実に目を向けている~はずだが、超越的なモノに夢を託したいという気持ちがさらに強いのだとは思う。

それはわたしも似たようなものだ。
この現実に重ねて、全く超越した他の次元を感得したい。
そもそも、わたしが毎日、植物を気遣って日光や土や水や肥料のことを調整したり、同様にカメの世話をしたり、しているのも、無意識的に、異なる存在の系に触れたい為に行っているところは大きいと感じる。

他の何かを求めている。
その意味での他者を。
無限のパタンを夢想する。
光の中に、、、。
かつていた光の中にだ。
われわれは減速して重み~個性を得たものたちだ。
(いや重みを得て減速したのか、、、)

何かを思い出すために同じことを繰り返しているのかも知れない。
毎日とは、そういうことか、、、。
そうして反復する。
様々なバリエーションを取り込み複雑化しつつ、、、。
畑(極小の)まで耕しているのだ(爆。
反復しながら回帰する。


この現実が平板で固着し、枯渇してゆけばゆく程、われわれは分裂病的に内閉して逝く。
少なくともわれわれが真に健康に生きるためにも、、、
多様性はしっかりと、どういう形でも、保証されなければならない。
存在の本質は多様性であることからも。

掃除の毎日

sun.jpg

今日もアクロバティックな体制をピクピク我慢しつつ日頃手の及ばない場所の掃除・片付け・整理をした。
しかし、ほとんど処分は出来なかった。
昨日は多少なりとも、モノを減らせたのだが、今日は置く場所を変えたくらいで終わった。
そのせいか、いまほとつスッキリ感が持てない。
場所を移動しすぎて何処に置いたか、思い出せないモノもすでに出てきている、、、。

もしかしたら、今日の片付けは、片付け専門家(本を出しているような人)からみると、なってないと一喝されそうだ。
重々承知なのだが、どうにも捨てられないものがある。
わたしの場合、それが多すぎるのだろうが、どうにも捨てられないのだ、、、。

今日は結局、掃除機かけて、雑巾がけして、置く場所を分散したという感じか。
見かけ上は、前よりスッキリして見えるから、取り敢えずよしとしたい。
今日やるはずだった、キッチン周りは、知人に一斉に送る為の料理でずっと占拠され、掃除どころでなかった。
そのため一番煩雑で雑然としているパソコン部屋の掃除となった。

ただの掃除にならず整理・整頓するつもりで、設定も変え始めたりしているうちにそちらの方でエスカレートしてゆく。
しかし、カーテン代えもする時期で、取り外しがこの部屋はちょっと大変であったりして、体を使った(爆。
昨日より、柔軟効果があったかも知れない。

サーバーの電源を節電の為落としていたら、起動しなくなったので、新たに無線ルーターに外付けHDをくっつけてNASにした。
全部起動すると14台になるので、NASがあるに越したことはない。
とは言え、別に家に14台置いておく必然性はない。色々お試しの出来るところは良いが、面倒も多い。
2,3台で済ましていれば、特に余計な事は考える必要もないし、NASも無くても不便ではない。
Win10には、デフォルトのOneDriveで容易にフォルダ共有できるし、それでほとんど足りてしまうところもある。

わたしがモノが多くなるのは、多くなるべくしてそうなっているに過ぎない。
分かってはいるが、「わかっちゃいるけどやめられない」なのだ。
植木先生の至言である。


今後もモノが減ることはないだろう。
しかし、先日お邪魔したS君の家もわたしのところとおっつかっつであった。
何か安心したものである。


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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