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安全基地

piano.jpg

安全基地は生を受けた時にすでに用意されていない場合、ある年齢になって(物心ついてから)意識的に探そうにも容易に見つかるものではない。自力で容易く手に入る類のものではない。
余程、幸運に恵まれないと不可能である。

「安全基地」は、仮想空間には見出せない。
「安全基地」は、身体という現実~歴史全体が格納される広さを持つ。
「安全基地」は、こちらの身体性の全てを受け容れる他者という身体性を要請する。
「安全基地」は、独りでは実現しない。鋳型の片側に過ぎない。
「安全基地」は、表現では創造できない。
「安全基地」は、極めて原初的な生物学的な構造~時間に属する。

「安全基地」を探すタイムリミットはせいぜい学生時代までか。
それ以降は、困難。
医者はまずほとんど頼れない。

他者という不可能性を要請しない汎用的「安全基地」が、創作出来たら、救済される人は多い。



健康

sun001.jpg

わたしにとって今一番のテーマは「健康」である。
自分を苛む「あやふやなもの」はなくなったところで、全てに的確な対応がとれる。
地図は明瞭になり見通しは明るい。
自分の作ったシステムに乗っかり愉しんでゆけばよい。

無自覚な「病」の連鎖は、はっきりと断ち切らねばならない。
引き継がれてしまった歴史は葬り去る。
わたしの場所で全て清算する。

まずは焼き潰す。


後には残さない。
特に娘たちには。


青い空だけ残る。

blue sky




一言

blue sky

わたしの場所で絶つ。








回復プロセス

StrawberryMoon002.jpg

プロセスに入るにあたり、親との関係をまず断絶するする必要がある。
勿論、言葉の通じない者や邪悪な輩とも如何なる関係も断ち切る。

すべてをニュートラルに、中庸に保つ。
身体の深く、より深くへと言葉の境界にまで沈潜しなければならない。

余計なノイズはカットする。
純粋領域を掘り返す。

新たなことばを見出す。

これは科学だ。
実験でもあり観測でもある。

永遠に拒絶された愛の果てに延びる路を探るための。
新たな可能性にかける意味でも。

このプロセスは機械的に自動的に始まる。
冷徹に進行する。

可能性としての文化

sun.jpg

今日は長女と一緒に公園の並木道をたっぷり歩いた。
芝生にひっくり返って空を見た。
光っていた。

われわれは、奇跡的にとても親和的で共感的な関係が結べている。
これはとても貴重なことに思える。
他の様々な事態から推し量っても、、、。


理想世界としての創造を果たさずにはいられない人間は、基本的に愛着障害と呼ばれる人たちに圧倒的に多い。
最近知った「愛着障害」という概念の元に謂えば。
基本、彼らは現実に自分を安らかに繫ぎ止めるものがないために不可避的に自前で創るしかないのだ。
自分が安堵し安らげる場所=作品を。
(繫ぎ止めるものがないと謂うより、その過剰または欠如からくる異和、不全感や不安や不快感、怒りなどが動因となるが)。
その特殊で根源性(本質力)を湛えた生成物は実際、文化のコアな部分に浸透している。


ただし、それらの文化(美術、音楽等の文芸作品)を享受するのは、同様の「愛着障害」を持った人がほとんどかも知れない。
それではじめて、作品に共感でき感動も生まれるはず。
作品に共振し吸い込まれる契機が彼らにあるのだ。
同様の不全感~異和を抱えていなければ、その作品自体を見つけられないと思う。
そういうものだ。

文化を組み込む社会の総体は様々な人によって重層されるが、そこに逆投影した姿をそれぞれが認知している。
文化の襞のその部分を深く享受している人間は、おそらく「愛着障害」の人間ばかりかも知れない。

「愛着障害」という言葉は嫌いだが、その概念により本質的な支配力が明瞭になる。
それに対抗し解放を図るには、芸術(文芸)が最も有効なものだが、必然的に終わりがない、ともいえよう。
あくまで代用なのだ。
偉大な大作家の作品であろうと。
(大作家に如何に愛着障害者が多いことか、、、いやそうでない作家を探す方が困難であろう)。


人間という本質的不全。
(全体ではないという意味での)。
必然的に終わりなき戦いへと、、、引きずりこまれてゆく。



暫く沈潜

Pluto moons

  前回からの続き、、、

ゾンデを幾つも垂らしている。
狙いはほぼ定まった。
存在の根っこの部分にいよいよ向かい始める、、、
冗長性やノイズもあるし、ブレもあるだろうが、見当違いはない。
まだ根っこに達するまでには、聊か時間はかかるが。


重度の回避性愛着障害である場合、いや不安性であっても同様に、必要な時期にそれに相応しいものが与えられなかった結果であることから、もう取り返しはつかない。

無意識~身体性の反復パタンを収めるには、単に過去の愛着関係の疑似的想起・再体験とその修復というレベルでは、構が弱い。
過去を想起して、と言っても必然的に(自らによって)編集された物語である。
勿論、それに付随する感情に焦点を当てるにしても、それで水に流せるのか。
そういった個別的(局所的)レベルなのか。


それは、恐ろしく個人的な場所で密やかに発生しているように見えながら、普遍的な社会問題としても成り立ってしまう。
そもそも幼児期を欠如でもなく過剰でもない生を送った者がいるだろうか。
何れにせよ、社会~文化そのものが様々なパタンの愛着障害を原動力に出来上がっていると言える。

その社会とは、自らの自我が無意識的に拒絶した影の投影であった。
これはイコールと捉えられる。

すると、幼少年期の気分的な手直しで埒のあくものではなく、現在の自我の解体自体が必要となる、恐ろしい作業が控えていることが分かって来る。
何れにせよ、母との和解などという事が出来ようはずもない。
これほどあり得ない絵空事はない。
機械状に無意識的に母親は自分の抱え持ったトラウマを埋める為に、生の尽きるまで子供を貪り続ける。
であるからこそ、われわれ(わたし)は、このような事態に(およそ不可避的に)陥ったのだ。

単に分かれる~断絶するとかしても何の変化もあるまい。
消費されないレベルにまで自我解体すること。
違う者になること。
(空間的に離れたところで、何の意味もない)。
社会が違って見えるところまで。
解体を果たす。
異なるモノへと再組織化を図る。


ではないか。

今を生きること

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本を読んで煮詰まる。
そんななか、、、
抑圧されてきたことば~考えが集う。
ゆらゆら混ぜると、濃厚なスープになってくる。

だが、まだ食べられるところまでいかない。
まとまった味になり、ある程度冷めてからでないと、、、。
口にはできない。

わたしの探る真相が揺らめく煙のなかから、形を伴って現れてくるのは不安な喜びである。
そう、ここのところずっと、わたしは不安で居心地が悪かった。
体調もおかしく。
わくわくするところまでは、到達していない。

当分、それは無理な気がする。
宙吊になりながら続けてゆく作業というものがあるのだ。
きっと。

緊張と不安を抱えて。
定めたルーチンをこなす。
必要な本が届くべき時に届かない。
予定通りに事は運ばない。

こういう時に大事なのは、体力である。
明日は緑と噴水のなかを歩こう。
そして盆栽を眺めて。
また、ゆっくり読もう、、、


Moonwalker002.jpg




日向ぼっこ

sun001.jpg

久しぶりに公園に行き、植物園の一階のテーブルで本を読んだ。
図書館が嫌いなので、必ず公園に行く時には、本を持ってそこで読むことにしている。
今日は殊の外、日差しが強くポカポカ暖かかった。

気持ちの良い光に包まれた読書は最高である。
だが、近くに入れ代わり立ち代わり、老人会の人々がやって来る。
恐らく、耳もちょっと遠くなっているのだろう。皆話す声が大きい。
よても大きいのだ。
だが暫くその声のトーンに対する調整をするとそのレベルだけ気にならなくなってくる。
ほとんど読書の妨げにはならなかった。

活字が身体に浸み込むように水も飲む。
今日はそのペースがはやくなって、量も必要になる。
いつも水(500ml)を携えてゆくのだが、今日は一本では足りなくなった。
明日はもう一本持ってゆこう。
今日よりたくさん読む必要が出た。

わたしにとって、読める本というのは、自分の幼少期の深く潜在しつつ常に自分を突き動かす源となっている域を刺激し、それにことばを与えてくれる類のものである。
哲学書でも自然科学でも小説でもエッセイでも何でもよい。

浮上してきた新鮮なことばを今度は、統合して行く。
躓きのことば、疎かにされた肝心なことばを、逃がさず、、、
この作業を当分続けてゆくことになる。
わたしには、自分を救う方法がこれ以外には、ないのだ。
ブログはその確認の場でもある。


だから、聖域である。
安全地帯は維持しなければならない。


道程はまだまだあるが、道を見出したことだけでも、ましかと思う。
こころの空洞は、幾ら書いても~描いても癒し尽くされないにしても、それを続けることが救いとなる。

きっと。


moonbow002.jpg



散歩

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最近、うちの周りを散歩をしている。
勿論、時間帯はトワイライト・ゾーンにセットする。
これが微妙で、何時何分ではない。
常に前日より数分早かったり遅かったり、、、になる。

今日は風が激しいので愉しみにしていた。
外に出て暫く歩くうちに霧雨がサーっと降って来た。
上空に月を探すが流石に出ていない。
これはまずいなと思い家に踵を返す。
が、それも束の間小降りになったので、取り敢えず文房具屋で付箋を買っておくことにした。
その途中でふいに激しい大雨に見舞われる。

一瞬にして全身ぐしょぐしょである。
面白い。
典型的な台風接近間際の天候だ。
雨宿りするところもなくそのまま小走りに走り店に駆けこむ。
これがつげ義春描くような店なら素敵なのだが、普通の殺伐とした店の光景だ。
付箋ひとつだけ買って足早に帰る。

わたしが一番たくさん使う物は恐らく付箋である。
それからBlu-rayとDVDメディア、、、くらいか。
昔はオーディオテープ、ビデオテープであった。
いやその頃は、ノートとクロッキー帳だったか。
時折、付箋を夕刻に買いに走る。


だが、散歩では基本的に買い物などしないことにしている。
散歩は、空っぽでいたいのだ。
何の目的もなく。
何も考えず、何も思わない。
歩いてることも気にならないくらいの速度で歩く。
(これがわたしの場合、割と速い)。
これに限る。

住宅街にあっては、ほとんど人のいない時刻に歩いているが、犬の散歩の人には出逢う。
時刻とコースがほぼ同じであると同じ人と犬に何処かの地点で逢うものだ。
今日はここですか、、、
すれ違う際に互いにほんの少し気にし合う。

しかしそれはいつしか途切れる。

こんな関係が一番ここち良い。

だれとの邂逅もこんな風なものである。



夜風

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反復運動の切断
そして意味から解かれること
疾走すること
この快感のうちにいること

長女と手をつないで夜の散策に出る
昼の熱風は死に心地よい風が吹き外という過酷さは微塵もない
公園を横切り猫が逃げ出す
猫の走る先に雲に包まれた月が灯る

自分の歴史を描くこと
「心の経路を有りの儘に現はすこと」(夏目漱石)
そしてつまり創作すること
清められるために

不透明な事象~身体それ自体をそれとして描くこと
不可能な物語を
出来る限り克明に
有りの儘に

複雑極まりない塊にもそれなりのパタンも見つかる
メスをいれる
対象化して
証明を作る

沈黙を
暗号を
徴を
言いようのないフィギュアで


清められ
安らかに
新たに
加速するために

自分を心地よく捨てるために
ひとことも喋ることなく長女と帰った



リアルであるとは

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映画を観ても造形に関わっても肝心なことであるが。
リアルとはどんな状態であるか。

少なくともリアルと所謂現実とは異なるものととらえている。
端的に謂って、現実とは距離をもって意味付けすることで全てを曖昧にしてしまう形式である。
解釈が不可避的に入って来る世界。

それは籠って見る世界に他ならない。
内面化とは意味による混濁に過ぎない。

夢には自意識の入る余地はない。
夢という場に対象化する距離はない。
了解のみの世界が脈絡なく展開する。

その余りの鮮明さ、稠密さに圧倒される。
遠近法~統語法がない。
リアルという感覚はそれかも知れない。

時折、映画にそれを見る。
小説にそれを見る。
夢のようにリアルな現実描写という、、、。


われわれは(わたしは)意味の剥ぎ取られた現実に触れたいのだ。
音楽はそれにとても近いピュアな力を形式上保持していると思われる。

しかしやはりいつもは言葉~意味に絡めとられている。
音楽が本来の力~流れと輝きを見せることは稀である。


距離があるところには必ず(時間の)遅延がある。
そこに記憶による構成~物語化が不可避的に起こる。


恐らくその解体・編集が鍵となってくるか、、、。



まとまりのないメモである。


現実の希薄さから謂えること

Kafka.jpg

閉塞的で薄い現実が日常的であると、ひとは(わたしは、と謂うべきか)内面化する。
すると以前は、そうシュルレアリスムに興味を持った学生の頃など、「夢」、「狂気」、「未開」に憧れてしまう時期があった。
単なるナイーブなロマンに過ぎないのだが。

狂気や未開に縋るにも接点が見いだせないため取り敢えず、夢に頼ってみた。
(シュルレアリスムにはこの手法が多く使われている)。
夢日記をつけ出すと妙に夢を起きた後も記憶しているようになる。だがすぐ分かることだが、それを思い返しながら書いてゆくと、そこには曖昧なディテールなど一切ない。
荒唐無稽なオドロオドロしい幻想などもっての外。余りに整然とした精緻な世界しかないのだ。
まさにカフカの小説そのものであった。
残酷な程、似ていた。

夢とは、軟弱なロマンなど決然として受け付けない稠密なディテールのみの世界である。
そこには付け入る隙もない。
自由がないからだ。
これが決定的である。
だからカフカの小説が絶対的価値を持つのだ。

恐らく、狂気や未開も同様に表現などで迫れる世界ではない。
距離を持って憧れても詰まらぬロマン主義の垂れ流しにしかならない(その手のものは少なくない)。
詩人のアントナン・アルトー(劇作家、思想家でもある)や薬を使ってその状態を探ったアンリ・ミショー、何人かの神秘主義者(アレイスター・クローリー等)、人類学者カルロス・カスタネダが極めて実験的にその世界に迫ってはいるが、何れにせよ対象化して理知的にそれを捉えられるはずはない。
ギリギリ高度な詩的世界に定着するか幻覚時のやはり詩的な記述等になる。
(これらは大変魅力的で啓発的なものであるが、それを読んでこちらが追体験出来るような代物ではない)。

未開~叉は初期についても、モネの強烈な希いが印象に残る。
睡蓮の連作を始めて「ずっと盲目でいて今初めて目が見えたらどれだけよいか」(正確ではないが、こんなことを漏らしていたという)。
以前のパラダイムには絶対に(原理的に)戻れない。また身体的~生理的獲得においても同様に。
知ってしまってから、知らなかった状態を体験することは不可能だ。
言語を獲得してからそれを忘れることは出来ない。
ことばは身体化して保存されるものである。
「盟神探湯」(くがたち)なども恐らくその時代であれば、有効であったのではないか。
だが今やったら皆、どうあがいても大火傷に終わるだけである。
大火傷を負ってしまう人間は最早、未開を知ることは出来ない。
(もし何かの間違いで未開を知ってしまったなら、すでにそれをわれわれに知らせる術はない状況であることを意味する)。


何をグダグダ言っているのか、、、。
要するに、内面化して良いことは全くない、という事である。
いや、内面化してもカフカのような筆力で徹底したリアリズムにより現実界を遥かに凌ぐ現実界を描き出せれば、それは救われるはずだが。そう、きっと彼はその行為によって救われていたのだと思われる。
彼は出来上がった小説をマックス・ブロートらの前で大笑いしながら読んで聴かせたという。
内容はもうあっけらかんとした絶望しかない精緻な世界ではあるが。
ただし、強力なガジェットなしで内面化の中に沈み込んでしまうと、もうアリ地獄以外に言いようのない状況となる。

結局人は健康が一番、と言う訳ではないが(笑、現実の中に確かな手応えのひとつもなくなると極めて危なくなる。
それを創作の根拠にしようなどと想うと、詰まらぬイメージの垂れ流しにもなりかねない。
確かな他者が現実に必要である。
カルロス・カスタネダにおける(ヤキ・インディアンの)ドンファンのような導き手なら言うことないが、、、。




プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

*当サイトはリンクフリーです。

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