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好きなことをやる

gravitational wave

理論物理学者で理学博士の佐治晴夫氏の最近の本を読んでいたら、その文脈で大変納得出来るところであった。
(「ぼくたちは今日も宇宙を旅している」PHP出版)

「好きなことをやる。特に、芸術。」
「自然体で、、力を抜いて、ポジティブに楽しく。
自分の気持ちに無理をさせない。」
という箇所が特にこころに残った(笑。

勿論、本全体が魅惑的で示唆的なセンテンスで一杯なのだが、今日はこれが一番ひっかかった。
この本は先生の必ず数式の一杯出てくる他の書とは異なり、優しい詩集のような雰囲気のエッセイである。
(絵本でさえ数式だらけである。それが魅力のひとつではあるが)。
何でも身近な自然現象から138億光年先の宇宙の事件まで全て数学で語ってしまう人だが、その間の言葉も面白くて、そのコンテクストで妙に光って引っかかり気になる言葉があったりする。

最近、わたし自身、運動不足から体調が気になっていることもあってか?
体重増加は問題である。(以前は細すぎてひとから心配されてきたのだが、、、その頃が懐かしい(爆)。
そして「好きなことをやる」ことが、元気で長生きの秘訣と結ばれる。
全く道理であるが、こういう方から謂われると深く納得してしまうものだ。
親から謂われても何も感じないだろうし、第一そんなことは言われた試しもない。
真逆なことはしょっちゅう言われてきたものだが。

やはり覚醒と自覚の問題である。
それ以外に、ない。

ぼくたちは今日も宇宙を旅している、のである。

中性子星の合体による重力波の初観測に成功 のニュースで天体好きは色めきだっている。
これまで4回はブラックホール合体の重力波検出であった。
しかし今回は重力波望遠鏡だけでなく、電磁波観測でもその現場をピンポイントで確認した。
(「マルチメッセンジャー天文学」と謂うそうだが)。
光で捉えたのは初めてである。
美であるとしか謂えない。
未来派の画家たちであったらそれをどう消化~昇華するだろうか。
そこなのだ。
われわれがこのような素晴らしい成果がありながら、日常ルーチンの中に埋没してただ線状的生活を送っているだけだとしたら、何と勿体ない事か、、、。

自分なりに引き付けた(自分の生活史に関連付けた)形に接続~生成してみるドキドキ感はもってゆきたいものだ。
恐らく絵はその方法のひとつだろう。
作曲の好きな人は、音楽づくりに、、、。
詩も勿論、、、リルケなんてまさにそれ。
日本でも沢山いるが、その極北は、稲垣足穂かも知れない。
あの「一千一秒物語」
あの書物は、宇宙のゆらぎや素粒子の振る舞いの文学における実験の香りがする。
それはきっと重金属の生成の時に発するものだ。

何と今回の発見で、鉄よりも重い金やプラチナ、レアアースなどの、重元素の誕生シーンもとらえられたという。
Advanced LIGO(アメリカ)とAdvanced Virgo(ヨーロッパ)の共同観測でこれが中性子星の合体であることを知り、世界中の電磁波観測チームに連絡をしたらしい。(スバルとか、、、)
それで可視光やガンマ線、X線や赤外線、、、による観測も可能となった。
(やたらと出来過ぎの劇的な画像が一杯目に付くが、、、確かに劇的なシーンには違いない)。


1億3000万光年の距離にある出来事である。

今夜の夢に出そうだ。


地図にない場所

アーススキャナーというNHK番組(ここのところ連続)が録画されていたためディスクに移してそれを見ていたら、半分ほどで切れた。丁度、その頃デッキが一杯になって途中で録画出来なくなっていたのだ。
これは、ちょっと惜しい。だから、わたしが観たのは、マココの水上集落と、シーランド公国の途中まで(トホホ、である。

makoko.jpg

上空から見た映像ではしっかり猥雑な風景が映っているのに、地図では真っ白という地帯がナイジェリアの「マココ」という場所だ。
ナイジェリアのラゴスの普通の商店街を歩いていて、道路脇の狭い路地を入ってゆくと急に小さな船着き場があり、そこから岸を離れるとすぐに海上集落へと迷い込む形となる。

水に囲まれて(包まれて)住むというのは、どんな感覚なのだろう。
ゲストに呼ばれた、ボビーオロゴンもここの事は知らなかったそうだ。
いちいちびっくりしていた(笑。彼は彼らから魚を買うだけの立場のヨルバ族ということ。
(しかし、ボビーの話し方、独特の話術は癖になる面白さがある)。

水上に夥しい手作り家屋が柱で組まれて建っており、その間を縫うように沢山の荷物の積まれた小舟が走る。
家には子供たちが燥いでいたり、活き活きした生活臭が漂っている。舟の荷を見ると、それぞれ異なり興味が尽きない。
謂わば、生活に必要な衣食関係のモノは全てその移動マーケットで賄えるようになっているようだ。
何と砂土で埋め立てられた学校まである。小さな校庭が微笑ましい。
総勢で10万人がいるという。
凄い広がりだ。

漁に出る父子、水に潜って泳いで遊ぶ幼い子供たち。
家族の結びつきも親密で一見、楽園的な光景にも見える。
だが、そこにいる住民たちは選択の余地なく、そこに暮らしているのだった。
彼らは漁師であり、魚を採って暮らす以外に術がない。

ナイジェリアのベニスとか司会者は言っていたが、水は濁っていて汚い。上下水道などのインフラなどあるはずもなく、衛生状態は悪い。医療関係も如何にも厳しそうだ。電気も内陸から住民が個々に電線を引いてきている状況である。
ここに住むエグン族は漁労民族で、昔から先祖代々ずっと魚の採れる水域を見つけるとその近辺に移住し漁師として生活を続けて来た。
フランス・イギリスの占領下に入ってから後、その海上に住むこと自体が違法となっている。
過去に政府側から一方的な強制撤去が強行され、建物を壊され住民が放り出されたことがあったという。
それで子供たちを病気でかなり失ったそうだ。

彼らが他の形で漁業が出来るようにする工夫とか、雇用の創出をするなどが同時に図られないと、単に元に戻るだけである。
逞しくまた水上集落は更に膨らみ続けているようだ。


sealand001.jpegsealand002.jpg

北海の南端、イギリス南東部のサフォーク州の10km沖合いに浮かぶ放棄された構造物を領土と主張するシーランド公国である。
かつて海軍の海上要塞で対ドイツ軍のレーダーや高射砲を備えた物騒な海上の建築物であった。
それに住み着いた人々の国で現在187人の国民を抱えているという。
国旗もある。
何とも実に趣味的で大人の秘密基地そのものだ。
見張りも随時独りたてているという(笑。


場所と建造物的にはワクワクするが、国となっていては余り行く気もしない。
法もあり、面倒な人間(上下)関係があれば、陸地から船で40分の謂わば孤絶した海の中に閉ざされた場所である。
わたしは普通の陸地の国家にいた方が気楽でよい、とかまず思った。
しかし、デッキから海と月を眺めてワインなど飲んでみたら、それは不満など薄れてしまうかも、、、。

塩で老朽化(確かに70年経過)しているが、北海の強い風を利用した風力発電や頻繁に降る雨水を濾過した水回りなどは、しっかり設備が整えられていた。地下7階くらいあり、高級ホテル並みのベッドルームもあって、大人の仲間と暮らす趣味の共同生活にはよさそうであったが、何と一番下の方には礼拝堂、首脳陣の会議室、その下には刑務所まであった。
多分ジョークであろうが。

今のシーランド公の父に当たるパディ・ロイ・ベーツという人が、放送法違反で訴えられた「海賊ラジオ」の拠点として占拠したのが発端であったが、イギリス政府が何とかそこを立ち退かせようと裁判に持ち込んだ。しかしその場所がイギリス領海外であったためにイギリス司法の管轄外ということになり決着した。
切手やコイン(メダルか)や金で買える伯爵の爵位(証明書)などを発行(販売)して財源を確保する等なかなかぬかりはない。
現在、世界中から国民となるための問い合わせが相次いでいるという。
世界情勢からみれば、頷けるものである。
(但し、人口から謂ってもうギリギリだと思うが)。


ただの大人の趣味の遊びではなくなっているのかも。
(最初から切実な行為であったことは分かる)。
個人があらゆるものから自由になるための場所として確保されたのだ。
問い合わせをして来る人々にとっても最後の砦的な場所なのかも知れない。


地図にない(認められていない)地帯、というロマンチックでアナーキーな場所であるが、実際に住むとなれば、どうなのだろうか。
インフラも含めて、不自由を感じ出したら厳しい現実の方が頭を擡げるように思われる。

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途中下車の快楽

escape.jpg

最近、電車にほとんど乗らない為、途中下車に縁が無くなった。だが懐かしい。
はじめて途中下車したのは、大学時代で、とてもワクワクした。
毎日、電車の車窓から眺めるタマガワの川面の煌きにともかく魅せられたのだ。

その距離と速度の作る幻想美と、ルーチンの流れを切断する快感!からのウズウズした果ての行動である。
「美」とまで行かなくとも、何か新しい事、別な事をやるときには、決まって「もうや~めた!」という逃避の快感が伴う。
「けつをまくる」というやつだ。
以来、何度けつをまくって来たことか(爆。

ゾンネンシュターン(色鉛筆のシュルレアリストの画家フリードリヒ・シュレーダー・ゾンネンシュターン)の描いた「女からの逃走」という絵を観てほとほと、いやつくづく感心した覚えがあるが、追いすがる女性(らしき鬼のような者)から馬に跨りこれまた必死の形相(なのか歓喜に沸く表情なのか?)で逃走を図る男の絵であった。
関係性からの離脱・解放の欲望は誰にでも生じる。
(潜在する欲動があるとき忽然と横溢する)。

新たな関係性と切り結ぼうとしたときに限らず、まずは辞めちまおう、とするような衝動だ。
そんな時は、身の危険すら伴う場合もあろうが、それで更にスリリングになりワクワク感も昇まる。
サスペンス映画タッチにもなるかも。
丁度、今日マイケル・ダグラスの「サウンド・オブ・サイレンス」を観たのだが、これは典型的巻き込まれ型サスペンスであり、電車では車両事故か人身事故で途中降車させられた乗客みたいになってしまうので、それは困る。
受動的で無意識的でありながら思い切った賭け事に出るような主体性のある自動的な感覚が肝心なのだ。
(しかも集団でぞろぞろ先導されてとかあり得ない(笑)。

先程のゾンネンシュターンの絵をわたしに教えてくれたのは、やはり学生時代にジャズの魅力を伝授してくれた点描画家のS君であるが、ジャズは快感そのものであり、絶対に自分の空間~中に流しておきたいミュージックなのだと常々謂っていた。
その絵は確かに彼の説もあるが、常に快楽を求めて突っ走る人に見えたものだ。
(今思い返しても、そう感じる)。

何かを辞めようと思い立った時、それはもうプライドとか意地や見栄や外聞ではなく、自分の本能的で自己防衛的な純粋な欲動に従った時、であろう。
その、ある意味原始的な快感を求める力がなくなったら、人は狂うか死ぬしかなくなる場合もある。
何だろう、、、過労死なども自ら始めた責任ある仕事を途中放棄するなど恥である、というような理性~信念から突っ走っているうちに、もう脇見や飛躍の感覚が麻痺してきてしまうのか。身が重くなってきてしまうのか。
これも快感の裏返しの感覚なのだろうか、、、。

ともあれ、快感~快楽を求めるリビドーが身体性から枯渇すると、人は間違うと思う。
ズレ、切断し、逃避し、横断する。
リゾームからリゾームへと移動し続ける。
これがなければ、生きることはとてもしんどくなるはず。


然しながら、距離と速度の作る魅惑的な幻想は、今いる系にいてこそ、そう映るものである。
タマガワべりに降りた大学生のわたしは、目前に見るその川の即物性と汚濁に痛く幻滅した。
光は何処にもない、、、。
これも一種の観測の問題である(笑。


救われない映画のようなエンディングで、、、。
今日の所は。



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忙しい一日の終わりに

time.jpg

忙しいと思うのと時間がないと感じることは、ほぼ同じである。

われわれが日々行う作業は何であれ、常に時間に追いまくられ、時間を気にして行う(関わる)ものである。
基本、時計時間の呪縛から離れられない。
人間的な、余りに人間的な日常にいる。

意識から解かれ茫漠とした世界にたゆたっている場所には、はっきりした時間は存在しない。
例えば夢のなかでは。
時間を気にする夢は見たことがない。

基本、時間は人の環界への身体性の関わりが、産む。
何らかの関りを意識したと同時に自己という引き剥がされ~超脱してしまった身体性が時間という振る舞いを要請する。
それが記述され時間として外在化されて、生活空間、いや宇宙空間を測る目盛りとなる。
源意識~前言語的には、生命としての膜構造の生成により、自然の流れからの遅延を始めた時点で、源時間性は自然から立ち上がり始めたと思われる。

環界から切り離された抽象的存在=人間とは、意識であろうが、やはり身体性=無意識も生命体としての乖離ははっきり自覚しているはず。
そう、生命としての必然が時間を分泌始めたと謂ってよいか。
エントロピーに逆らう身体性を意識し死~終末に向けての確認・自覚の目盛り~形式として産んだものが時間である。
われわれは、宇宙を考える時、必ず起源から終末までの時間について考えを巡らす。
われわれは何からも切り離された超越的存在として、常に自らの死~自然の流れ~全体性を意識している。

ここで例えビッグバンが変化のひとつの過程に過ぎず、それが何度でも循環(又は円環構造)的に起きていると仮定しても、生きて=乖離・超脱して死ぬ・一様になることに変わりはない。

そのことを絶えず心配する時間的な存在(存在形式)こそ実存であろう。


とりあえず、寝る前の一時の反省として。




末期の目

Michelangelo Pieta003

>美は緊張のなかにこそ
>拡張され
>鮮烈に受容される


かつてアンドレ・ブルトンは「美は痙攣的である」と述べていた。
まさにそれを想わせる。

緊張。のなかにこそ。拡張され鮮烈に受容される
これはアルタードステイツとも謂えよう。

わたしも「ことば失う」体験として、いまでも記憶に残るものがある。
音楽であるが、、、。
気がついたら鳴っていたものだ。
たちどころにアルタードステイツの状態に入っていた。

その体験は、不安と恍惚に全身の神経がざわめき立つものであった。
ゆったりした全能感と一体感とともに際どくスリリングな極彩色の想いに揺蕩う。
しかしいつまでもその状態には耐え切れない。
頭を巡らしその曲名~ことばを思い出す。
すると嘘のように眼前を七色に輝き煌く波模様を見せていた大河が消え失せてしまう。
色を失った現実が後に残骸となって残る。

そんな体験がこれまでに幾度かあった。
少なくともロックで2回、クラシックでも2回はあった。
しかし、かなり若い頃のことである。

つい先ごろ、亡くなったアラン・ホールズワースの名状しがたい複雑で柔らかな浮遊感をもったギターの音色にそれがあった(事後的に)。
その時は、何の誰の音か全く判別(命名)できず、とても危うい精神状態で身を任せた。
受容体としての自分という枠ギリギリまで薄くなったところでの感受は、その感動もあり得ないレベルに拡張していたことは確かである。
(それにしてもまた、天才と呼ばれる音楽家・演奏家が世を去ってしまった。ここのところ本当に相次ぐ)。
*フランクザッパがもっとも評価していた音楽家であり革命的なギタリストであった。

彼の曲をユーチューブでも聴き直してみたが、自身のソロアルバムより寧ろ他のアーティスト(グループ)のなかでのアンサンブルに、一際彼らしい、言葉の追いつかない美を垣間見た。
まるで人と違う誰にも似ていない奏法とフレーズも特徴である。
そのサウンドは、どこまでも上昇し昇華し溶け入ってゆく、、、。(とくにソフト・マシーン、ゴングがよかった)。
老いてからも円熟味が全てをカヴァーしていた。

それに近い以降の音楽体験は、わたしの日々更新する世界観の造形の方向性を、決定つけたことは確実であった。


そして、、、
今に舞い戻ると、、、。
音楽は余り聴かなくなっており、絵画や小説にもほとんど触れているとは言えない。


>掛軸や、彫刻
>其処に息衝く陽光、幽光。

川端康成の生活環境は、国宝級の調度品で設えられていたと、、、!。

>美とは、日々の生活に根付いてこその
>美なのかもしれません。


全くその通りで、わたしは日々、美が足りないという念を慢性的に持って生きている。
と言うよりそんな病にある。
「美」が足りないのだ。
もっと「美」を!これはまさに「もっと光を!」である。
人間存在は過剰を求める原理をもつが、過剰と欠如は表裏一体で欲動の発現を促す。

国宝級の調度品まで欲しいとは言わぬが、、、。
(鉄人の稀少フィギュアなら持っているが(笑)。
最近、何やら感動から遠のいた場所にいる。
受容体としてのこちらの問題~劣化が次第に大きくなっていることに気づく。
今現在のわたしの抱える最大の課題だ。

美に向かう欲動はとりもなおさず生命力~志向力を源泉とする。
きっかけは、亀の水槽で屈折して投影する虹であっても良い。
それを受け取る生命力の瑞々しさ(鮮度)が、いよいよ問題となってきているように感じる、、、。


死を意識した瑞々しく鋭利な眼と、ただ死に漸近的に近づく身体性にある衰えた眼とでは、、、。
何とか成らぬものか、、、。



          (全て引用は「エストリルのクリスマスローズ」より)


sakura.jpg

朝から雨で桜が心もとない。
今は真っ暗で花びらも見えない。
冷たい。花冷えであろうか。風はふいているのか、、、

風邪を引き込みなかなか治れない。
時折、起きてはパソコンを打つ。
わたしにとってパソコンに向かうのがもっとも自然な姿勢なのだ。
外の雨も冷たさもさくらの花弁の舞い散り具合もわからない
キーを打つ不確かな音だけが夜気に、夜の明かりに、響く。

特に調子が悪くなく、やることもないときは、平均12時間はパソコンの前にいる。
以前は、パソコンは音~音楽を作ったり、3Dや動画を制作するためのツールとして使っていた。
だが最近は、ネットで調べ物をしたり、ブログを書いたりし、時折うたたねをする以外に使うことはなくなってきた。
だから、昔のようにハイエンドパソコンをなにも購入する必然性はなくなった。
特にわたしは3Dゲームはしない。グラボは外付けすることはない。
よく映画を見るため動画再生支援機能はあれば、とてもよい。

ブルーレイを見ている途中で落ちてしまっては、どうにもならない。
今日それで直しに出したノートが帰ってきた。
余りの疲労と睡魔のため、セットはできない。
特にルーターのパスワードを失念している。そこから先には進めまい、、、。
睡眠導入剤を30分前に飲んでいるため、視界も朦朧としてきた。
頭の方も理論的な向きには働かない。
さしずめ自動筆記みたいな感じになっている。
ダリの演出映画を見たためか、視界はやたらとシュールである。
色々なところが剥がれ捲れて見える。

ここでどんな筋書きを考えたにしても、思考力が一歩先にも届かない。
もうわたしの3分の2は眠っている。
真っ暗な雨の窓に外部の何かや音は全く透過しない。

恐らくわたしの神経機関に届かないのだ。
もうヒッチコックは何も見せてはくれない。
ならば、、、
ハンニバルと一緒にあのオペラを、会場の前の方の椅子で観たい。
おおこの曲だ、、、。
この曲だけは聞こえてくる、、、。

「堪能しましたか?」
「ええ、眠ってこのまま続きを聴きます。」
「では、おやすみなさい。」


長女の質問

batoukin002.jpg
「長女の質問」からはじまる話である。
憧れの馬頭琴 そして”フォーミー”の続き)。

馬頭琴の演奏後何か質問やお写真撮りたい方など、いらっしゃいますかという担当者からの言葉があると、すかさず長女が手を挙げた。
まるで、学校の授業参観気分だ、、、。
おおっ、と思って何を聞くのかと見守ると、すたすた演奏者の真ん前に進み、馬の頭はそのまま使わないのか何でそんなに小さいのか、もっと大きいと思う、というものであった、、、?
楽器が気になっていたのだ。

少なくとも彼女がわたしに話したなかで、楽器を作る際に馬の頭をそのまま使ったというくだりはなかったが、はっきりどの部分にどの器官を当てたという話もなかったはず。
しかし頭は馬のからだから生まれた楽器であるシンボルとして付いている装飾と普通は捉える。
彼女もそういった認識だと思いこんでいたのだが、、、。

まさにその楽器はスーホにとり、また彼に感情移入して物語を読んで来た者にとって、白馬の生まれ変わりであろう。
その馬頭の部分はその象徴的で肝心な部分であるには違いない。
ちょっと面食らって、その対応を窺っていると、馬の頭は最初は大きかったのだけど、だんだん小さくなり形も変わって今のようなものになりました、という答えであった。
何とも差し支えない答え(笑。

そこが気になったのか、と思い後で本人に音楽はどうだったと聞くと、とても良かったと。また聴きたいとも答えていた。
だが、気になったのは馬の頭だったのだ。

馬の頭がそのまま付いているか、実物大の大きさであったら、これは重くてでかくて扱いにくい楽器になるはずだ。
馬の体の各器官全てを使って作ったとは書かれてはいなかったようだが、馬の頭も木彫ではなく、そのものを利用するしか無いと考えていたのか?しかし、やはりそこに少し違和感を感じ確認を改めてして気持ちを整理したかったのか?

恐らく木の部分というのが、違うのでは無いか?という所から来ているのだと思う。
白馬が自分の体で作ってと願ったのだから、全てをそれ〜馬の体で作ってあげないと、、、。
これなら、わたしにも分かる気がする。
実際、彼はその時はどうやって作ったのか?
木彫の技能を持っていたとか、そのような特別な木材が用意されていたとも思えない。
きっと物語上、全部馬で作ったのだろう。そうしたら、最愛の馬の頭も使ったはずだ、と。
(共鳴箱の部分はさすがに木でないと厳しいであろうが、、、実際は上質な白樺の木だそうだが)。
血生臭い想像すれば、グロテスクな感じもするが、実際そうした話である。

その辺の想像力は、映画にも絵画にも表れるもので、プリミティブなもの〜根源的なものはみなグロテスクでもある。
そうした暗い美を湛えている。(ペラペラな綺麗事~美ではない)。
そういう部分を考えさせる言い伝えでは無いはずだが、自ずと考えさせるものは、どんな伝承や民族譚、昔話にもある。

本当にその対象を愛しているのなら、その屍体も最愛のただ美しいだけのものなのだ。
「戸嶋 靖昌 ~ リアリズムとは何か」で戸嶋の語るように。



生のリアリティ

Churyumov Gerasimenko

アリス・ミラーたちによって明かされてきた抑圧を巡る精神構造のメカニズム論は、ずっとわたしの中で木霊のように反響してきた。
大学の心理学の講義でも、教授の何気なく言ったことばに「幼い子供時代に親にされてきたことは、自分が大人になって無意識に反復してしまう。親に扱われたのと同様の扱われ方を他者からされるものだ」という、運命論的決定論としか取れない、また悪無限循環的な呪文としてしか受け取れないものがあった。
が、それが尽く当て嵌めて考えるとその通りに思えてくるものだった。
これが思考(論理)の陥りやすい罠である。

最近わたしは、リアルな身体的な感情の発露を記録・確認(再認)する場として、このような無限定な表出~実験の場を作っている。
決して論理的な思考ではなく、詩的な思考~身体的な思考とでも言うべきものによって。
別に、幼い頃から何故か描いていた「絵」でも良かったのだろうが、、、それが無意識的にも意図的に命を救っていた、、、確認の上で(客観性も担保して)言語によることにした。
得体の知れない化物に形を与える必要があった。(アンリ・ミショーのように)。
そしてそれらを解体する。
更には創造に繋げる。
絵にせよ、音楽にせよ、全ては言語作用(分節化)によるものだ。
せかいはことばでできている。(ノヴァーリスの言う通り)。

これはわたしにとって、絵によるFirst Waveに続くSecond Waveであった。
絵はその創作過程の恍惚な時間性によりわたしを発狂の現実的局面からは度々救ってきたはずだが、現実を生きながらえるなかで感情や感覚、感受性から切り離された偽りの自己形成へと向かわせる事は阻めなかった。それであるため、真の創造的作業にまでは至らなかった。
真の自己が無いのに、何をか作り出せるはずはないではないか。
あの絵の作業は何であったのか、、、。それは今なら分析可能な位置には来ていると思う。
調度、4歳ごろから始まった、ある意味、河原温に似た作業である。(今考えてみれば)。
やはり言語による遡行力と対象化のための本質力いや解体力が必要だった。

今更ながら何事もなかったかの如く?隠蔽された意識~記憶の地平を叩き壊す作業に入った。
(いや勿論、意識的に過去を理想化していようと、外傷経験~抑圧された感情記憶は神経症症状や強迫行為として反復される)。
傷は充分に奇怪に変形して流動しており、瘡蓋のようなスタティックな表層ではなかった。
そして、思った以上に重層を呈している。
と言うより重奏していた。

しかし言語的に過去~記憶を辿る(故意に幼児期を思い出そうというのではなく、何事かについて身体性のうえから表出した言語はそれに替わる質を持ち得る)作業を反復しているうちに、何が変化してきたかというと、自分の身体に直結した感情と感受性が知らず蘇生してきたことだ。
一言でいえばブログは自己治療以外の何者でもなかった。まだその過程である。過去形ではない。
これは、まだ暫し継続する必要がある。

自分の感情をもつ。感受性を解放する。
何もかも解き放ってゆく、、、、、、、
これに尽きるし、そこからはじめて創造行為も可能となる。真に自由な。
(強迫観念に押し出された苦渋に満ちた表出が果たして芸術となり得るか、、、それは恐らく不健康だ。)
今はまず日常生活において、感情はストレートに爆発させるままにしている。
これを増幅させる。
この場をブースターとして。
更に。

自動的に身体が蘇生してくる。


Re:名前のない遊び

aqua.jpg

一部引用を考えたが、やめた。そのままがよい。
名前のない遊び
ハイデッガー的な「遊びと余裕の幅」をこの方らしく詩的に優しく綴られている。

一口に「実存」を前提に、遊びがある。
機械の様々なジョイントにも遊びがある。遊びがないと壊れてしまう。
精神医学(臨床心理学)上においても遊びは病いの予防と治癒におおきな役割を果たしていることが伝えられている。

遊びの古語の意味に、心のままに動きまわる、水中で自由にふるまう、、、澱まず流れる、、、などがある。
水そしてその流れ~イメージがどうやら、遊びの本来の意味に関与していることは分かる。
水~液体は象徴的だ。
水の変幻自在なちから。

全てに染みわたり、、、形骸化を打ち砕く。浄化する。
それは、遊・聖・狂をも行き来する、、、。
いまや宇宙探索において生命(他者)発見の希望そのものでもある。
水に対する畏敬と憧れそして何とも言えない安らぎ、、、。
わたしがはじめて友人と作った同人誌名が”Aqua”であった。
懐かしい。
懐かしい遊びの場であった。


どのような形式の遊びが可能か、、、これを投企と呼んでよいのでは、、、。

才能と狂気(苛烈な感受性)によって作品を制作する遊びは、兎も角スリリングな至高体験となるはずだ。
それが時代の無意識に触れ、言語化(象徴・イメージ化)できたなら、普遍性も帯びよう。
発明と言っても良いものだが、同時に環境との調和も得られる。
既成の宗教に関わらずに、法悦を味わえるのは、やはり芸術という遊びか、、、。
特にだいそれた傑作でなくとも、制作者は癒される。病は解放される。これは、おおきい。
制作によって深みに嵌ってゆくように見られたヒトも、制作に関わらないでいたなら、単に病院に収容されて死んでいただけかもしれない。
確実に豊かで充足した内容の生を生きていたに違いない。


そして

最終的には、、、

  あしひきの岩間をつたふ苔水の
    かすかにわれはすみわたるかも


、、、この境地にいたい、、、。

療養と育児

tDCS001.jpg

痺れが酷くなって、新しい病院を近いところに探した。
ここのところ、自分の療養と育児の両立にかなり困難な状況を感じることもある。
痺れで身体が休まらない。
当初は左半身の痺れであったが、今は四肢と頭部がとても気になる。帽子を被っていなくても被っている感じだ。笑えない。
丁度、車の車幅感覚みたいな感じだが、よくモノにぶつかり、物を落とすことも少なく無い。
身体感覚がブレる。
育児への影響は当然出てくる。と言うより育児の影響をこちらが被るのだが。
周りの環境もよくない。
生活自体がストレスでもある。

ピアノをみる以外は、とてもメンドくさい。
本を読んであげたり、絵を見てあげたりする分にはよいが、、、。
(一緒にでかい絵でもそろそろ描くか、、、それが専門だし。一番の薬となるか)。
兎も角、女の子の場合は殊更、大変だ。
更に双子の育児については厄介なものだ。
何でもないところは本当に何でもないらしい。
信じられないのだが、うちの親戚の双子は、兄妹であることで平和に治まってしまっているらしい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
信じられない。やはり、、、、(笑。

清里の星の綺麗な場所で、サニーレタス畑に囲まれて、飛び切り美味いジャージー乳のソフトクリーム食べてのんびり過ごしたいのはやまやまなのだが、、、。
そうはいかないのが、現実だ。


最近地震速報がよく入る。
これを書き始めてからも、矢継ぎ早に来る。
想定しておかなければならないことか。救急セットはあるにはあるが。
キリスト教関係の勧誘?も度々来る。
ホントにお断りである。

今日行った医者も、もうお断りだ。2度と行くことはない。
MRIを撮った。ただ、撮ったところでどうなるものではない事のよい例であった。
ただ撮っただけ(笑。
後は何もない。何を聞いても、何もない。勉強してんのか!
何のために来たのか、全く意味がない。
藁をもすがる気持ち、、、というほどではないが、体調はすっきりしたいものだ。
医者はもしかしたら薬の副作用かも知れない。
等といって来るが、それはないことが分かった上で出してもらってはいる。
辞書を引きながらわたしの薬手帳を見ないでもらいたいが。
tDCSまたは最近はtACSの効用が理化学研究所のレポートにも書かれていたが、そのへんの質問をしたら、何の薬ですかときた。
これまでかかった医者は少なくともそれが何であるかはちゃんと知っていた。

何の役にも立たない。
バカ医者。ピンからキリまでの、キリであった。

よくつまらない舞台で観客が金返せとブーイングする場面を見たりするが、本当にそうだ。
金返せである!
更に時間も。
時間の方が遥かに貴重だが。

医者は事前に面接してから掛からないとダメだ。
時間と金の無駄!
HPから予め入力して確かめるシステムなど、かなり簡単に出来るはずだが。
もう少し病院もHPをもっとインタラクティブなものとして活用できるものにして欲しい。
更にユーザビリティの工夫と独自性を加えてもらいたい。
事前に判断が出来ない。
(病院評価サイトはあるが、今日行った病院も概ね良いことしか書かれていない。もしかしたら選別して載せてるのか?「とても親切でした、、、」とかどうでもよいものばかり。その医者は、「はい、これで終わりです」。と勝手に診察を打ち切った(爆。2時間待たされて、4分程度でおしまいだと。もっとも、こちらもうんざりであったが)。

治す以上の効果の期待できる機器を探すつもりだ。(すでに手に入れたものもある)。
如何に人に頼らず、独自に探るかに掛かっている。



ヱヴァンゲリヲン

EVA.jpg

汎用人型決戦兵器ヱヴァンゲリヲン
(使徒アダムとリリスをもとに作られた、彼らと同じくATフィールドを発生可能な兵器)。

ヱヴァンゲリヲンを「序」と「破」と「Air」とダイジェスト版のような「使徒新生」と観てみた。(2回目である)。
「ネオンジェネシス」は「使徒新生」と内容が一緒。
「Q」が抜けている。どこかで見ないと。
以前、何となく雰囲気で見ていたEVAの外郭は認識できた。


イエスキリストの高弟12使徒が人類の敵として襲ってくる。(12人より多いようだが、、、)。
その使徒というのがユニークなフィギュアを展開する。
どれも秀逸だ。
物凄い強度だ。

この使徒。
地下にNERV本部が置かれている、第三新東京市をほぼ週一ペースで規則的に襲ってくる。
核攻撃をもものともしないATフィールドを展開する為、通常兵器など全く効かない。
唯一、自らもそのフィールドを作れるヱヴァンゲリヲンのみ彼らのATフィールドを解除侵食できる。
つまり、実質的攻撃―殲滅が可能。
撃退時は、彼らの攻撃の際に実体化して見えるコアを狙う。
ATフィールドの基本原理は人が外部から遅延する「自分」という意識を強くもつ状態であるようだ。


NERV本部最深部のターミナルドグマにリリス(イブの前に作られた最初の女性)が繋がれている。
ロンギヌスの槍に刺されて。
使徒はそのリリスに融合し、第三インパクトを起こして地上の生命を一掃しようとしているという。
ヱヴァンゲリヲンはその使徒排除のための兵器であり、綾波、シンジ、アスカ等のチルドレンは、ヱヴァンゲリヲンに適合するパイロットである。母のいない14歳の子供であることが選定の前提条件となる。A10神経活発時にEVAのコアとの同期がし易いらしい。
シンクロ率の高いパイロット程、優秀のようだ。(だがフィードバックも大きいようだが、、、)。
また、使徒とは、(何で使徒というのか分からないのだが)、外宇宙からやって来たエイリアンとかではなく、人類と遺伝子組成はほとんど同等の地球を起源とする生命体である?形体―機能が途轍もなく隔たっているように見えるが。
たまたま地球に繁栄した人類も使徒のひとつの流れであったと謂える。

シンジは常にへたれながらも何とか褒められたい認められたい甘えたいの一心でがんばる。
しかし、ひとつ何かあれば、すぐにダダをこねて逃げる。
一番支えになっているのは綾波レイである。
すぐに慰めて貰いたがる。
次いで葛城ミサト、そして惣流・アスカ・ラングレーか、、、。
こどもにこういうことをやらせること自体、作戦遂行に問題が出るのは必至だろう。
(寧ろそれを繰り込んだ戦略が必要だ)。
ただでも思春期真っ只中の不安定な時期である。
「実感も沸かない大事なことを何で僕なんだろ」
当然といえば、当然。

相変わらずオタク・レヴェルの兵器関連の専門用語の羅列でリアリティを生んでいる。
こういう畳み掛けは嫌いではない。良い雰囲気を作っている。しかしシンジの携帯しているS-DATはマニアックすぎ。そもそも発売もされていない。(クラシックコンサートのライブレコーディング時などに専門家がマックブックと一緒によく持ち歩いていたが)。
しかし陽電子砲を二度撃つ「ヤシマ作戦」の時など、ちょっと感動ものであった。
その後でのレイとシンジとのやりとりも、恐らくアニメ史上に残る名場面であろう、、、。
メカ画像のディテール描写に関しては、アップルシードなどの方が遥かに分があるが、フィギュアのアイデアの質が高いため問題ない。
兵器のランチャーや内壁などで、漢字がとてもグラフィカルに効果的に使われているのも印象的だった。
L.C.L.などSF映画の宇宙船コクピットに時折使われているアイデアであるが、確かにこの呼吸液体?のおかげで様々な身体調整やここではEVAとの神経接続への説得力は増す。
また、パイロットがパニックに陥った時(シンジはしょっちゅう陥る)、ダミーシステムが稼働し、EVAが本来?の性向でパイロットから離れて闘い出す。こちらの方が遥かに凶暴である。また、ビースト化して暴走したりする。使徒を喰ったりする。
かなりド派手なスプラッターシーンが頻出である。


実は、EVAの本当の狙いは使徒撲滅を超えて、、、ここがまだよく掴めていないのだが、、、
ヒトを群体から単体に進化させる「人類補完計画」のためであるという。

つまり。
それをNERVの他に、いろいろと手の込んだ計画でゼーレという何やら神がかった組織が進めてきた。
最後は人類対使徒ではなく、計画を実行するためのマテリアルを巡る人類同士(NERV対ゼーレ)の殺戮戦と化すが、結局、、、
儀式による強大なアンチA.T.フィールド生成により、あらゆる生命~意識は一体化を辿ろうとする。
「他者の無い単一体として人類を再生」させる計画であったのだ、、、。

しかし、レイの他者を望むこころが、それをさせなかった。
(まるで、ここからまた生命進化を辿りなおす壮大なドラマの幕開けではないか)。


これは凄まじく重い、、、。

よく分からないところは多い。
また、Qが手に入ったところで見直すか。


憑依機械

Mars001.png

生を貶めるものはたくさんある。
様々な道徳、宗教、政治制度、、、
母親、突然現れた昔の友人、、、等々。
他者に憑依する欲動が様々な位相で発動する。
いや、発動し続ける。
ほぼ生きることと同義となって。
マイクロ・ファシストがざわつき、せめぎ合う。

ミラー・ニューロンが告げ知らせる。
これは罠だ、危険だと。
相手が無意識―自動的であることも多い。
機械仕掛けの昆虫を想わせる。
形は色々だ。
しかし少し注意すれば、大概見え透いたものではある。

無意識であったとしても、意図は何なのか?
実は、こちらの方が意識より根本的で強靭であり探りにくい。
単なる利用や虫の良い支配欲、、、
というよりも憑依なのだ。

闇雲な力で憑依しにかかって来るバケモノたち。
彼ら全てに言える特徴は、他者をもたないこと。
自らに疑問がない。
鉄面皮の自己愛。
ことばをこれ以上ないくらいに賎しめている。
ことばの作用に対し驚異的に無自覚である。
法螺を吹き放題吹く。
等々。


常に絶望的に滑稽な風景を引き寄せる。
ここにはユーモアが発生しない。
但し周囲に目つきの悪い監視人がいても気にすることはない。
それらは単なる書き割に過ぎない。
風が吹けばバッタバッタと音もなく倒れて消える。
そんなものだ。


憑かれると疲れる。
体調も乱れる。
思考も感情も感性も、、、
あらぬ熱が身体を蝕む。
あらゆるモノコトが膠着する。
内部から凍結し痛みを生じる、、、。

だが、憑依機械の動きの影をしっかり握っていれば大丈夫だ。
それは繋がっていても作動できない。
寸前で押し留めることが出来る。
後は殺意のコントロールくらいだ。

音楽が最後に助けてくれる。






プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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