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始まりと終わりの物語へ

blue sky
4日間やらないでいたが、、、

BLOGやFacebook、Twitterをやっていると、ただひたすら流すという方向に乗るだけとなる。
このWeb上においては、ホストレス環境で、パッケージ化もない。
あるのはひたすら(毎日の)更新のみ。

しかも妙な(気色悪い)直接性にヒリツクこともある。
ひと同士の邂逅とは明らかに違う。
身体性がない。
抽象的でエンドレスな(しかも始まりもない)流れ。
その流れがどこまでも巨大で均一化して見えてくる。
しかもその背景が(こういったシステムの特性上からか)、不気味な背景が時折、意識される。

それはGoogleとかプリズムとかいうものではなく、(事実Googleはある意味すでに神格化されているが)何か無意識的な不安が立ち上がる感覚だ。
実体ではなく何かの転倒した意識~言葉からくるものであろうが。

所謂、本であればこんなことはない。
絵であっても音楽であっても映画であっても、、、
ファイナルカットはある。
「作品」であれば。
または、リアルな実生活上であるならば。



しかし、この始まりと終わりのない恐怖。
更に、こんなことを強いられる苦痛を生活~生そのものにも感じる今日この頃。



外で読書~ウイーン幻想派

DADO.jpg
「嬰児虐殺」ダド

日中はとても日差しが強い。
気温もまだ寒いというほどではない。
そんな時には外で読書が一番。
ということで、まずは今何かと話題となっている「重力」関係の本を幾つか持ち出しみてみた。
やはり興味は尽きないが、細かい字を追うのが億劫になる、、、。

同時に持ち出した画集を眺めはじめた。
でかい画集を外で観るのは初めての経験である。
でも、はまった。こういうのも面白い。(おすすめ!)
画集のページが温まるほどの日差しで驚く。

ゆっくり堪能する。
主にウイーン幻想派の絵だ。
ダド、レームデン、タンギー、ブラウアーたちの絵を観た。


精妙な原風景をそこに観た。
恐らく無音である。(他の画家もそうだ。夢のように)。
ここで、わたしが一番好きな画家がレームデンだ。
冷たい雪原の死のイメージがとても分かる気がする。
雪の白さと鋭く引き裂かれた雲との痙攣してヒリツク不安な美である。
わたしも何処かで観たような、そんな気持ちが呼び覚まされる。
雪原も亀裂が入り大きくズレた地層も切れ切れに広がり伸びる雲も全て危うく不安という他ない。
この画家に常にみられる鋭く繊細に伸びる描線が引き攣った神経を刺激してやまない。
琴線に触れるというのとはまた違う。
とても痛々しい神経~生理感覚に共振するのだ。
特に彼の作品では、「戦車戦」である。とてもヒリツク。
Lehmden.jpgLehmden002.jpg

ブラウアーは、フッターにも通じる鮮やかで強烈な原色が目を引く。
特にビビッドな赤と青。
「赤い花弁」、「天に上る凧」、「海辺の空高く」など、燃えるような色彩(ビビッドな原色)が宙に浮かび上昇してゆくものが多い。
色が活き活きとして輪郭させも浸食して打ち震え広がりながら、何処までも上昇する。
地面も黄金色に鈍く輝いている。
この過剰さを前に、その世界に入り込むことは、全く人類の生存不可能な星に生身で降り立つくらい厳しさがあるが、モニタ越しに眺めるとしても違和感がある。
だが、その違和感に魅了されている。
非常に危ない感覚に誘われてゆく。
薬物的~麻酔的な、、、。
Brauer.jpg

タンギーには、ずっと前から惹かれるものがあり、特に広大な海の干上がった後の砂底に残された名状しがたいオブジェたちの恐ろしい異物感、、、その見てはならない物を見てしまった、出来れば目を隠したい衝動を覚えるそのオブジェ群は、どうにも未だに見慣れることが出来ない。
そこには異様に永い時間が潜んでいる。
それを確かめる不安と畏怖と好奇心、、、。

つまり今も惹かれ続けている。
隠れてヒッソリ小箱の蓋を開けて観るような感覚である。
時折、想い出したように確かめたくなる、そんなオブジェ群だ。
Tanguy.jpg

ダドには「大きな青い磯」という記憶に残る絵がある。
寒色~青主体で、海の水の完全に干からびた海底に同様に干からびた人や胎児のような物体が露呈している光景だ。
タンギーのように抽象的なオブジェにまで研磨されてはおらず、かつての姿~原型を残している。
その分、残酷で生々しさは残存するのだが、観ること自体に抵抗を感じない。
タンギーと比べて、時間の浸透がまだ浅い分、超然とした異物感~即物性は薄い。
鉱物のもつ抽象性には、至っていないのだ。
その分、観易い。タンギーより意識レベルで観られる絵だ。
だが子供のころ観てから今でもずっと覚えている。
やはりダドの絵も原風景に繋がっていたのだ。
そこをもっと降りてゆくとタンギーの世界に遭遇する、、、。

上昇するものと下降するもの。
どちらにせよ足場は覚束ない。
と謂うより宙吊り感覚である。
そこは闇ではなく研ぎ澄まされた青空であることが多い。
とても冴えて覚めた場所。
しかも乾ききって光を滲ませ。
幻想はそういうところにこそある。


幻想画の持つ象徴の浸透力、その秘められた物語性。
そこには観る者に原風景を感得させる確かな物質性がある。

夜のしじま

night01.jpg

今夜は、昨夜に続き、佐治晴夫博士の例のエッセイで、はじめて知った詩人の詩を読んで眠るつもり、、、


そう、昨夜書くのを忘れたのだが、「考えることを省略する方向に向かっているこの社会は、恐ろしいですね。」
とあった。
考えなくても流されていけば何とかなるという風潮に対しての結びである。


自分にとって自明であること。
いや、意識が対象化すらしない事柄。
それらがかなり肝心な(実に不安定な)下部構造~基盤であったりする。

人の身体は何故、このような形体をとっているのか、、、。
佐治先生の本では、、、
1.太陽と地球との距離が1億5000万㎞だったこと。
2.地球の大きさが、直径1万mだったこと。
3.地球の重さが6の24乗㎏だったこと。
この3つから、いまあるこの形でなければならなかったことが物理学的に導かれることがさらっと記されていた。
パラダイム(思考の枠)について考える以前に、こんな疑問と解明があって然るべき。
(この辺から思考し想像してゆくSF映画が作られないといけない)。


更に、自分とは何かと考える前に、「自分で自分の顔を見ることは、一生ない、、、」という現実~生理を受け止めておく必要があった。
謂うに及ばず、「写真や鏡で見る自分の顔。」しか観ることは叶わない。
それは、左右反対であったり、極小の点~銀粒子や光点や編み目の集合体であったりする。
自分の顔を自分で観ることは一生ない。(この顔から目を引き離せない身体性の特性)。
純粋に関係性から思考と想像によって考えるしかない必然の大元なのかも知れない。
つまり「あなたは、あなたでないものからあなたになっている、、」事実の重さである。
自意識と哲学の生じる間~場であろう。

ほんとうにさらっとした、優しいエッセイであるが、汲出そうとすれば底知れないものが浮かび上がりそうだ。
自己解体の契機ともなる刺激に充ちている。
(この本には彼のお得意な数式や計算、グラフなどは一切ない)。


ここで初めて読んだ詩人の「しずかにしてね」(こわせたまみ)

しずかにしてね

しずかにしてね
ふうりんさん
ならないでね
いま
あかちゃんがねんねしました

しずかにしてね
カーテンさん
ゆれないでね
いま
あかちゃんがねんねしてます


今宵はいつになく外が静まっている、、、。
鳥は寝静まり物音ひとつしない。
こんななか、、、

(重力波はしっかり人の耳に聴こえる。その音はTVで流されていた。これ程録画しておいてよかったと思ったことはない)。


お休みなさい、、、、。


冷光

moon05.jpg

>そして
>あとは、だいじょうぶ

>月の光が
>すべてを優しく包んでくれましょう。


今、次女からの子守歌のリクエストで、わたしがチョイスして作った遊佐未森コレクションをかけている。
もう眠っている様子だ。
彼女の曲に身を任せ微睡み漂ううちにわたしの身は月の冷光を感じている。
いつしか励起してゆく魂、、、。

ディテールが泡立つ。
とても小さな密かな世界で
キラキラと蛍が舞う。


>朔月に向かう日々
>満月に向かう日々

>満ちれば欠ける

>されど欠ければ
>また充ちゆく


反復と差異がこれ程に心地よい。
音楽というものはいつもこのように、、、微分的に。
呼吸とすべての流れを浄めようとするものなのだ。

音楽があれば、信じてゆける。
どこまでも。
眠りの奥底。
その向こう側にまた生まれたとしても。

決して熱を放たない
冷光を滲ませる月が灯る。
それを信じることが出来る。


そして
あとは、だいじょうぶ

月の光が
すべてを優しく包んでくれましょう。


       引用はすべて「エストリルのクリスマスローズ」より。

映画がとても苦痛なワケ

Gibeon meteorite002

映画の観客になるのがとってもシンドい。
これだろう。

だからなるべく映画から遠ざかりたい。

普通こんな感じに世界を見通す~見渡すことは出来ない。
あたりまえだが。
歴史的に俯瞰的に物語化された多くの視座(ポジション)の編集による洪水が誠に息苦しく気が重い。
潜水していてたまらなくなり水面に浮かび上がるようにビデオを途中で止めることが多くなった。
もう、息絶え絶えなのだ、、、。

どんなに過酷で数奇な目に遭ったとしても、そのときこんなドラマチックな体験や他者との有り得ない共感など断じて持つはずはない。
それを、ぬけぬけと商業ベースのエンターテイメントに設えているのを見ると、胸糞が悪くなる。
これが、実際のところだ。
実際に、現実に、本当に、、、そこにいたとすれば、つまり現実らしさ(虚構の物語)を見るのではなく、現実の只中にいたら。

実際に、われわれは、何も見れないだろう。
きっと、われわれは当事者として、何も見れないだろう。
どれほどの当事者であったとしても、何も見れずに終わるだろう。
それが「生の実存」である。
何も見ることなく死ぬのが、人生だ。
そこにドラマなどない。
(われわれは淡々とした生をいきている)。

この猿芝居~montageは何なのだ、、、と時折耐え切れなくなる。
長回しがその回避となるか、、、どうか、、、場合によってはそうであろうが、それはあくまでも手法であり、監督次第である。

だから深刻なドキュメンタリーものなどは、極力見たくない。
とは言え、Mr.ビーンを見たいわけでもない。
それを見るなら、姿勢を正してチャップリンを観たい。


余りに映画の文法が生理的に鼻につく。
いつしか、自分を殺して鼻をつまんで映画を観ていた。
別にここまでして無理に映画見てどうするのか、、、と、自分に問いたい(爆。

わたしは、ただそのままの貧しい一個のリアルが欲しいのだと思う。
もうよく分からないのだが。
少なくともハリウッド的なコテコテに計算・演出・脚色・編集された感動リアリティにはもう辟易した。



Gibeon meteorite003


今日は映画を見る気になれず、本の整理とあちこち読み飛ばす。
そのなかで、懐かしいものを見つける。
解説ではなく、ちょっとした紹介になれば、、、。


1969に出版された岩成達也の「レオナルドの船に関する断片補足」より、、、


海の想い出

 i マリア手を焚くこと

あたしはそのとき洗められる必要があると思った それであたしはいつものようにあたしが安息所と呼んでいる穴のなかへ入っていった それからそこであたしは役にたたなくなったいろんなものから長い間かかって火をつくった そしてその火が相当の高さにまで達したときあたしは面から布をはずしてあたしの手をその高みのなかにさしいれた するとたちまちあたしの手はぼきぼきと音をたてみるみるうちにそれはもえている桑の木のように節くれだった それからその節々は固く醜くなり一方あたしの手はそのときのそれらのなかでおそろしく繊細なものに細まっていった それからまもなくそれは膝だけになった


クリムゾンのファーストなどより衝撃的であった。
特にこれは最初期の作品群のなかで、際立ってイメージがもちやすい詩であり、とても脳裏にこびりついているもの。
わたしにとって、この詩集の導入になった。
この時期、最も彼らしい作品は、「樽切れの想い出」、「続鳥に関する断片」、「マリア・船粒・その他に関する手紙のための断片」などかと思われるが。
ディテールを追い始めたらわれわれ自身が自分のことばを追いきれなくなったミクロの宇宙~多元世界を想わせる。
余剰次元の重力下における表象だ。
そこに紛れ込む静謐で狂気の熱を秘めた詩的運動は彼の独壇場である。
このテーマは更に加速し深められ「燃焼に関する三つの断片」に引き継がれる。
この詩世界を発狂する胎児に絡めた(例えた?)評論があったが、実にいいえていると思う。
発狂した胎児の表象であろうか。
とても分かる。

少なくとも通常の(日常の)物理の有効範囲を超えたより本質的な場から立ち上がる論理~詩である。
その硬質で無味乾燥な垂直する運動。
いや全く妥協のないどこまでもディテールに迫り続ける永久(発狂)運動。


同じく最初期の「樽切れの思い出」を、、、いささか長いが大サービスで、、、(笑。

それは大部分が平べったく灰質状でざらざらしていた。そしてどの部分もみな同じようにかたくわずかに反りそして繋ぎ目のところがきまって幾分かづつ分厚かった。それからそれは外側にいくにしたがって少しずつ狭く上向きになり、その上向きになってくる狭い部分は一番外側のところで二重のくびれた環のようなものに連なって了っていた。そのためにそれはあたしにとってみるたびにいつのあの外側にあるなにか一種の平たい背骨のような気がした。ただこの場合その背骨の丁度中央に当たる部分、そこだけはこころもちこみいっていた。そしてそのこみいったところにはいくつかのすりへった穴状のものがあらわれていて、その穴状のものは内側で更にいくつかの痩せた棚状の拡がりに分岐れていた。それからその痩せた棚状の仕切りのなかにはところどころばらばらになった細部の破片のようなものが付着していて、それらのものはそこでひからびたすきまの多い繊維質のものに変わっていた。だからそんなとき、その平たいざらざらしたものはあたしにとって背骨というよりはむしろあるはずれた関節に、あるいは関節のなかに埋まっているくぼみや高まりに、はるかに似ているような気持ちがした。そして関節や関節のなかのくぼみやかつてはその周囲にびっしりとまきついていた軟らかい体からはおそろしくはみだしていて、そしてそのはみだしている先の方はおおきな折れた粗布の想い出のようなものによって優しく酷く包まれていたにちがいなかった。


岩成達也の精緻な理論的な解説によるふたつの「アリス論」や「エッシャー」の絵(版画)の分類相関表と更に数学的解説も鮮烈であったことを思い出す。(彼の趣味は数学である)。その後の詩集も何冊か持っているが、これを期に読み直してみたい。
ともかく、最初に静かな衝撃を受けた最初の詩集は思い出したときにとりあえず手に取ってみる。
そんな本がいくつかある。


さて、村上春樹をこれから読もう(笑。









騎士団長殺しを買う

murakami001.jpgmurakami002.gif


とある書店で、今なら(この今ならに弱い)○カード10倍とあったため、早く買わなければと思っていた村上春樹の「騎士団長殺し」を1部2部共に買った。
しかし、レシートと一緒にもらったのは、次回の書籍購入でポイントが10倍になるカードであった(爆!

つくづくわたしらしい、と笑ってしまった。
こういうトリックに面白いように引っかかるのだ。
(ちっとも、面白くないが)
もう当分、わたしに本を買う予定はない。
(読んでない本が山ほど貯まっているからだ)。
娘には怖い話の本を、この前買ってあげたばかりだ。
(なかなか文学作品には向かわない、、、。これが目下、悩みの種その4くらいに位置する)。

このカードは無駄になるだろう。
だが、未練がましく、マグネットで取り敢えず留めてある。
「旋回する物語 そして変装する言葉」
「渇望する幻想 そして反転する眺望」
魅惑的。ウズウズする、、、。
いつから読むか?

わたしは村上春樹を読み始めると、途中でやめられなくなる。
「1Q84」のときもそうだった、、、もうあれから7年も経つのか、、、。
その間、本らしい本を読んでこなかったことに愕然とする。
大学時代に読んだ本の記憶に頼ってきていることに改めて唖然とする。
いや、その前に体力的に落ちている。
徹夜で読めない、、、。

とは言え、この辺で思いっきり面白いものを読みたい。
そんな気分なのだ。
であるため、どこか全く日を空けて、朝から読み始めたいと思う。
このところ、健康上の問題もあり、夜はすぐ寝てしまう。
起きてると自分では思っていながら寝ていたりする。
(いや待て、寝ていると思っていながら起きていることもあったか、、、いやこれはない。あってはならない)。

ハッと飛び起きたら、椅子に座って眠っていたことに気づく。
時計を見たら2時を回っていた。
パソコンに向かってネットを見て回っていたのを9時半頃までは、知っている(笑。
かなり疲れが溜まっているのだ。

単に、これまで生きてきた疲れであり、これといって何をかやった疲れではない。
こうした疲れはひたすらよく眠ることが一番良いことは分かっているが、、、
それに加え、やはり強烈な刺激である。
それも美しく、意識を思い切り拡張する類のものが薬となる。

美を求めて、、、昨日観た映画もそれであった気がする。
何故か今日いろいろあり過ぎたせいか、かなり前のことのようにも思えるのだが、、、
それこそが、時間の本質でもある。いや属性というべきか、、、。

そうだ、思い出した。
どこかで、、、
本を読む時間を作らなければならないのだ。
(忘れている場合ではない)。


「騎士団長殺し」
久しぶりの村上春樹。
ただ、楽しみである。



夢旅行 Ⅱ

kusuda002.jpg

今日は長女は飽きたと言うので、昨日の絵本の続きを次女に読んでもらった。
(勿論、小遣いは渡して)。

次女の方が読みはうまい。
しかも妙に感情を込めて読む。
だが、別に気持ちを込めるところもないのだが、、、任せる。


「ふくろうの話」
急に「忘れな草のように青く、冬のスリッパのように暖かな、ある夜のこと」などという表現がみられる。
噺はとても良い。
急に良くなった。
何故なのか?
ここのページの絵も急に良くなる。
何故か?
描き慣れてきたのか、、、。

ねことふくろうがほんのひとときをともに過ごす。
どちらもねずみを食べるが、ねこはとりも食べる。
ちょっと緊張の走る関係だが、少しのあいだなら、なかよくできる、、、。
つりがねそうの鐘の音をきき、きのこが、かさをひろげるのを、いっしょにながめて散策する、、、。
雲が月をよぎった瞬間、、、ふとねこは姿をくらます。
おなかがすいてたまらなくなったから、、、。


「つるの話」
つるが2羽沼地にやってきて3日間、そこの所有権を主張して喧嘩をし、うんざり疲れて両者とも去ってゆく噺。
その間、煩かった沼地であったが、静けさをとりもどし、かえるの鳴き声が響いている。
なかなか風情を感じる噺だ。

淡白で平面的な絵だが、ふくろう以前の絵よりかなり良いものになっている。
タッチに無駄がない。


「幸福の山の話」
山の時間に平地(街)の時間が(それを象徴とする)道路とともに迫ってくるため、庭師が山に花をたくさん植えて育てて、山を道路から守ろうとする噺。
ゆっくりした自然の時間を残そうとする庭師の企み。
そういう場所は大切である。
わたしも花時間をゆったり過ごしたい。

導入部のおばあさんの夫みたいな雰囲気のおじいさんが木の上から水を撒く。
しかし、絵は最初の頃から見ると良い。
あのおばあさんに似たおじいさんだが、、、。


「夢旅行の話」
噺は面白い。
少女がひとり夢をみている。
音が一切聴こえない生気のない世界。
時間も止まっているに等しい青ざめた夢時間。

薄ぼやけた絵は内容だけでなく印刷の関係もあるのか?
(印刷の問題だとすれば、これは不良品である)。
このような汽車の見られる牧歌的光景の絵なら、わたしの友人のSくんのモノの方が100倍良いが。
だが牧歌的な話ではない。
とは言え、汽車は少女が目覚めてからやってきた現実時間のものである。
まだ音のないぼんやり霞んだ絵でよいのだろうか、、、絵の解像度が低いのが気に障る。


「音楽家の話」
まるで、どこかの地域伝承風の噺でもあるが、余りしっくりこない。
旅をするバイオリン弾きを追っ払った村人というのは、いかにもどこにもありそうである。
その音楽家がバイオリンを弾くと、動物たちが蓄えを分けてくれる、というのもよい。
しかし、音楽家が登った山のてっぺんの城から大木が育ち、その枝にはリボンと花と、色々な楽器が実のようになっていたというのは、絵を見たところで空々しく、イメージ的にも稚拙で無理がある。
絵自体がとても貧困である。

村人たちが実際に山に登ってみると、バイオリン弾きの姿はなく、曲だけは流れていたという。
あまく、悲しいしらべが、、、って噺も絵もつまらない。

、、、ここで次女はリタイア。おつかれさま(笑。アイスは冷蔵庫にあるから、、、。

残りは、、、黙読(爆、


「12匹めの犬の話」
ひまわりの国に、婦人がひとり住んでいた。
彼女は土地も財産もみな、かわいそうな犬たちのために使い果たしてしまった。
肘掛け椅子と望遠鏡だけ残し。
ここまではよい。絵が一番、イケている。

彼女は犬たちと旅に出る計画なのだが、12匹目が集まるまで待つそうだ。
何故なのか、その理由は明らかにされない。
望遠鏡はその最後の犬を探すための道具らしい。

肘掛け椅子に座り、望遠鏡で遠くを眺める姿はなかなか印象深いものだ。
この絵は絵本中の最高傑作と言えるだろう。
丈高いひまわりと望遠鏡婦人と様々な種類の飼い慣らされた犬たちとの構図関係も良い。

婦人は、白い魚のような雲が流れる時にそれを見つける。
「みえたわ!」

犬は望遠鏡にすでに捉えられているうえに、その犬の到着を待って出発するのである。
何故、ひまわりたちが12匹目の犬が何であったのか知らず、その後風が吹くたびにひそひそ語り合う必要があるのか、、、。
話が最後で破綻する。

絵が良かったのに残念。


「ヴァルパーティンガーの話」
ヴァルパーティンガー、これは噂に聞く怪物のことらしい。
5月のお祝いにカエデの下で大人たちが集まり、ご馳走を食べ、酒を呑んで宴会をしているとき、こどもたちは家の仕事を任されていた。彼らは大人たちがうらやましくてたまらない。

突然の大きな叫び声と、蠢く何者かの気配。
酒の回った大人たちは、びっくりしてみな木に飛び乗った。
どうやらこどもたちが、怪物の噂を利用したようだ。
その隙に、、、彼らは残ったご馳走を残らず平らげてしまう。

翌朝、戻るとこどもたちは、手をおなかにのせ、ここちよさそうに眠っていたという。
そんな、ちょっと無理のある噺が最後。


色彩、配色が実に凡庸であった。
所謂、ナイーブ派(素朴派)も、もっとビビットな色使いをするひとは結構いる。
フォルム的にもヘタウマというわけでもないし、微妙なイラストレーションである。

噺も特にこれといったものはなかった。
読みの勉強に多少でもなれば、それで目的は達せられた、と思おう。


ただこの企画は、またやりたい。
絵本ならたくさん眠っている。
わたしもよいお昼寝になる。


夢旅行

kusuda.jpg

ジナ・リュック・ポーケ原作
エルナ・フォイクト絵
昭和57年集英社発行
楠田枝里子訳

訳者曰く、「まどろんでいる寝入りばな」の不思議体験が語られている噺だそうである。

長女と一緒に観た。
ずっと眠っていた絵本である。
昨日から、あれこれ絵本を出しては見ている。
ちょうど、学校で絵本の読み聞かせ授業を受けてきたところだ。
これは、長女が読むのにちょうど手頃な長さだったので、彼女にわたしが読み聞かせしてもらった(笑。
(初めての試みである)。
娘に本を読んでもらえる身分になったか、、、と感慨に更けながら、、、。
(でもお小遣い(袖の下)は、払っている)。

、、、途中何度も睡魔に襲われる。


「奇妙な墜落感、つんと体を突き抜けてゆく硬直感、あまやかな流動感覚、、、」
う~ん。どうだろう、、、。この楠田さんのことば自体は魅惑的であるが。
絵はいたって地味である。
昨日の「イバラート」みたいなビビットな「ボナール光線」を発する類の絵ではなく、マットで素朴で特徴に欠けた鈍い感じの絵である。夢に出てくるかといえば、、、別に出てきて欲しいと思う絵でも世界でもない。
夢にしては解像度が低い。キリコの絵みたいな圧倒的な解像度で迫るものからは程遠い、、、。
微妙な距離感の絵である。特に平面的とも言えないが奥行もない。(素人的な)線のうるさい絵もある。


「花売りのおばさんの話」

「泳げたい焼きくん」みたいな出だしであったが、、、。
冬を過ぎても雪がなかなか消えない町に突然現れたおばあさんが、色々な花を人々に売り始める。
買った人には漏れなく、ひとつお話を聞かせてくれる、、、というもの。

ふ~んっと思った。
その話というのが、この後に載っているそれぞれの噺となってゆく、、、。
ありがちな展開であり、その導入部である。
微妙なおばあちゃんの表情。このイラストレーターは、素朴派のヒトか?
長女の読みの速度がわたしの呼吸のリズムに合ってきた、、、そのまま次に、、、。


「ピエロの話」

ピエロがTVのせいで全く町の人々に相手にされなくなり、手廻しオルガンを乳母車に乗せ町を出てゆくことになる。
途中でブタに出逢って仲良くなり、「ねずみの耳」と名付け、一緒に泉の水を飲み、野いちごやきのこを食べながら旅をする。
これから先の冬のことなど一切気にせず、樅の木の下でいま、ふたりですやすや眠っている。

噺はなかなかよい。
何ということもない噺に思えるが、ここまで何ということのなさを保ち、最後は眠りほうけて突き放す。
夢の不安を表出させている。
かつてピエロを見てみんなが笑ったというが、絵を見ると笑える類のピエロには見えない。
サーカスで芸を観せるなどしなければ、まず見向きもされまいという感じ。
作者は冬の心配を匂わせていたが、取り敢えずブタが一頭いることがピエロのこころの余裕となっていよう。


「方舟の話」

雨がずっと降り続くものだから、ザムエルという男は、聖書のノアの話を思い出し、一生懸命舟を作った。
雨が降り出してから作り出したので、大変である。しかし洪水となればもっと大変である。
そして、食料と飼っていた動物や野生の動物まで乗せられるだけ乗せ、いざ海に向かおうとするところで雨はピタッと止んでしまう。
2日目には雲は流れ、太陽が輝きだした。
でも、みんなにとって楽しい旅行になった、、、という。

これは起承転結のある物語になっている。
というより、最初長女が読み出したところで、結果が読める安直さがありどうにも期待感がもてない。
期待感なしの絵本の読み聞かせは、はっきりキツイことがその身になってみて分かった。
(それだけで、今回の試みの意味はある)。
絵ももっと線を整理して単純化した方がすっきりして見易い。
噺も絵も、もうひと捻り加えた抽象性~単純化がほしいものだ。


「おんどりと卵の話」

おんどりが広い丘に住んでいて、朝昼晩と鳴いて過ごしていた。
自分を見てくれる相手がいないので淋しくなってきたとき、卵をひとつ発見する。
おんどりはどんなやつが出てくるだろうと色々想像し、期待に胸をときめかせる。
すると、出てきたのは花を嘴に咥えたひよこであった。
彼はひよこに自分の姿を「りっぱだぞ」と自慢すると、ひよこは「そうだね」と答える。

最後の「そうだね」がブラックでよい。
おんどりは、すぐひよこにも愛想つかれることが分かる。
おんどりは他者を期待していたのではなく、単に自分の鏡が欲しかっただけである。
彼は広い世界にひとり住んでいたというより、他者に対する感覚がなかっただけかも知れない。


ここで、長女は疲れてまた明日ね、ということになった。
よく、こんなにたくさん読めたものだと、感心した。
この後は、一緒に「雪見大福」食べて、わたしはお昼寝、長女は遊びに行ったらしい。


明日この続編となる可能性は40%と踏んでいる、、、。


マシュー・フィッシャーに捧ぐ Ⅱ

moon04.jpg


11/20の「マシュー・フィッシャーに捧ぐ」
に対して頂いた「返歌」の最後の一部をここに転載したい。
エストリルのクリスマスローズ様から

少し疲れたこころに
そっと寄り添ってくれる
そんな
不思議な包容力があるみたい

小さな痛みは
いつのまにか
彼のサウンドに溶けて

優しく照らす
月光の下に
消えていくよう…。



これはことばでまさに彼の音楽を表している。
こんなことばがライナーノーツに書いてあれば、わたしも読む。
より曲がピュアになる。
より心が聴こえてくる。

わたしは、レコードについてくるライナーノーツは、9割がた読んだことがない。
勿論、マシュー・フィッシャーのものは、100パーセント読んでいない。
余計なものが被さって、音を聴くための障害になるのが嫌なのだ。
蘊蓄や楽理的な分析や果てはどうでもよいエピソードなど、、、邪魔である。
(というわたしもついついその手のものを書きそうになるのだが、、、すでに少し書いてるか?)

この方のブログにいつも驚く事は、膨大な造詣よりも、文体~ことばの美しさである。
その散文詩的な律動がまず、琴線に触れてくるのだ。
心地よいそよ風の如くに、、、。

では、そのことばは何処から来るかというと、恐らく稠密に畳み込まれた智の地層からおいしい水のように溢れてくるのだ。
それが無味乾燥な論文調にならず、詩情溢れるものとして結晶するのは、ご本人の芸術的資質によるところがおおきいはず。
特に音楽性が深く響いていると感じられる。

わたしは、単なる論文を読みたい気分でなく、かと言って認識のキラメキのないものに関わりたくない時、この方の記事が実に心地よい。まさに真善美を満たす清らかな楽曲である。

やはり芸術性に裏打ちされた智~哲学こそが、身体的なレベルからの覚醒を呼ぶものであると想う。

この方と音楽を語りたいものだ。
いや語るべきものでもないか。絵も語るものではないことを、先だっての某ギャラリートークで嫌というほど悟った。
しかし、それを知った上で、何かが語れるはずである。




西風号の遭難~急行「北極号」

Chris Van Allsburg002
村上春樹の翻訳本から、、、その2
急行「北極号」

CVオールズバーグ
絵・文

まずはその前に、昨日の「西風号の遭難」から、、、

読んでみると、まさに少年が嵐で船ごと吹き飛ばされ、気を失っているうちに観た、浮遊する夢が余りに美しく万能感を満たすものであった、、、。
目覚めた後もその衝撃の夢に取り憑かれ、現実にはどうしても充足できぬまま、かの浮遊する夢を追い一生を過ごした、、、という話と受け取れたが。

重力と電磁波に囚われた存在であるわれわれにとって、このような重力から解かれた世界はやはり、根源的な魅惑がある。
この世のあらゆる法則の源こそが重力だ。
そこから放たれれば、、、
恐らく自由と全体性を獲得することが出来る。
(そこにおいて自分が存在しうるかどうかなど知らないが、、、)。

長女に感想を聞くと、、、
「お船が飛ぶんだね。」
「面白い。」
という。

ホントにあったのかな。
「ホントの話だよ。だって、ラピュタも飛んでた。お船も飛ぶ。」
これって夢じゃないんだ。
「夢じゃない!」
これは、断言してきた、、、。

現実に船が空を飛び、飛行石が宙に浮かぶ。
そう、この話を夢と現に区切る必然性は、まったくない。
絵本に区切りなど何処にもなかった。
そのまま受け取る方が理に叶っているかも知れない。
「おじいさんだね。その子が。」
その丘(または世界の縁)で、おじいさんの話をただ聴けば良い。それが、正しかった。
そこに発見の可能性、新たな認識の場が隠されている。
(想像力でもよい)。


急行「北極号」
僕が主人公だ。

サンタは本当にいる。
これは何の問題もない。
実際に、どこの家の親もサンタだろうし。
サンタは何処にもいる。そもそもいない(否定する)必要はない。

わたしは、殊更子供の頃を貴重なものとか、美化する気などは毛頭ないが、、、
(未だに思い出し反復する不快で孤独な想いの方が多い)。
確かにその時期、フワッとどこかに行けた。
これは事実だ。


この僕は家の前にとまった急行に乗り込み「北極点」に行ってしまう。
バスローブ姿というのも良い。
いつも、こんな服装の時のこんなタイミングだ。
チャンスの前髪を上手く掴めば難なく飛べる。
この急行も走るというより飛ぶに近い。
物理法則は端から超えている。

「北極点」の町で世界中のクリスマスプレゼントが作られている。
サンタの手伝いをする小人もたくさんいた。
僕は、プレゼントを受け取る第一番目のこどもに選ばれた。
僕はサンタの橇に付く銀の鈴をねだって、貰った。

非常にmonumentalで静的なパステル画だ。
「去年マリエンバートで」の庭園の彫像にも似ている。
時間の刻み方の違いが絵に析出している。

そして、やはりトナカイの橇は飛ぶ。
日頃UFOが飛んでいるのだから、当然サンタも飛んでゆく。

しかし、僕はポケットに穴が空いていたため、鈴を亡くしてしまう。
ガッカリ沈むが、クリスマスの朝に箱に入った鈴が届けられる。
この一度失って改めて手に入るというのも、民俗学にも見られる贈与の醍醐味か?
これは嬉しさ倍増かも。

ベルを振るとそれは美しい音が。
次女はここに凄く興味を抱き、「どんな音かなあ」としきりに問いただす。
これは、音というより、、、何だろう、、、。

じっくり思い巡らせてみたい。
その音。






西風号の遭難

Chris Van Allsburg

村上春樹の翻訳本から、、、
CVオールズバーグ
絵・文

アメリカの絵本作家
なかなか良い作家を紹介してくれたものだ。これも村上春樹の功績のひとつか、、、。


今日、次女ではなく長女に読み聞かせた
(先日読み聞かせをしてくれた次女は、今日は忙しくてそれどころではないようなので、暇そうな長女に)

モーリス・センダック同様、広く人々に親しまれているアメリカ絵本作家であり、こちらも批評家受けがやたらと良い。


パステルの柔らかい粒子がマットな独特の光と物質感を生んでいる。
どこか地球上ではない空気感のパステル画だ。
そうか、夢の中か!
長女はよく起きがけに、「今日はいい夢見れた」ということがある。
まだ、現実と想念―例えばお化けの世界が、不可分な状況でもあることだし。
(サンタはどうだったか、、、)
すんなり実感・理解出来る部分もあると思われる。


まず彼女に絵だけ見せて、物語を想像させてみた。
優れて平面的であり、単純化され抽象化された絵は特別なものは一切描かれていないが神秘性が濃い。


彼女は一応、目を開けて見ていたが、「お船が海にいたり、お空に飛んでいた」。
「ちょっと面白かったけど」と、、、
次のことばが浮かんでこないようだった。
わたしも、文を読まないで絵だけ見せられたらこんなものか。
しかし、決してつまらないという表情ではなく、その不思議な魅力に興味は覚えたようだ。

明日、文と一緒にまた鑑賞しようと思っている。(今夜はもう遅いので)。
はっきり言って、文を読めばよく分かるというより、より夢の中に押しやられるような噺だ。
(この船、夢に出そう?と聞くとすぐに「うん」と応えた)。

最後に、難破船ともども、ぽつんとひとり取り残されるような感じで終わる。
そこが大変絵とマッチしているところか。
超然とした世界だ。
一種の冷ややかさと不安が漂う。
気温や気圧(重力)、空気の組成、更に海の水の組成も異なる世界に思える。
(最近、話題に事欠かない、地球外天体の海を夢想させる。タイタン、エウロパ、エンケラドス、、、)

とは言え、、、文の内容は、人生を顧みるものでもある。
それは、概念としてもっていない。
少年期特有の自分の力を誇示したい気持ちも、まだ少し先にある。
が、こちらの方は理解出来る範囲だ。
自分でそれはもう出来ると思ってやってみた結果、上手く出来た喜びと自信の経験。
失敗してガッカリした経験はすでに持っている。
(この少年の全能感は、漸く自分ひとりで立ち上がれたころの全能感に寧ろ近い気もするが)。


また、もし面白い事があれば、続きを載せたい。

どうでもよいことだが、わたしはこれまで、一ヶ月に40記事書いたことがない。
今月、初めての40記事となった(祝?

毎日惰性で、書かないと気持ち悪いため書いているに過ぎないが、まとまった大きなものを作ることをずっと長いことしていないのが気になりだした。
少し考えてみたい。
やはり、絵を描くか、、、。

プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

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