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映画がとても苦痛なワケ

Gibeon meteorite002

映画の観客になるのがとってもシンドい。
これだろう。

だからなるべく映画から遠ざかりたい。

普通こんな感じに世界を見通す~見渡すことは出来ない。
あたりまえだが。
歴史的に俯瞰的に物語化された多くの視座(ポジション)の編集による洪水が誠に息苦しく気が重い。
潜水していてたまらなくなり水面に浮かび上がるようにビデオを途中で止めることが多くなった。
もう、息絶え絶えなのだ、、、。

どんなに過酷で数奇な目に遭ったとしても、そのときこんなドラマチックな体験や他者との有り得ない共感など断じて持つはずはない。
それを、ぬけぬけと商業ベースのエンターテイメントに設えているのを見ると、胸糞が悪くなる。
これが、実際のところだ。
実際に、現実に、本当に、、、そこにいたとすれば、つまり現実らしさ(虚構の物語)を見るのではなく、現実の只中にいたら。

実際に、われわれは、何も見れないだろう。
きっと、われわれは当事者として、何も見れないだろう。
どれほどの当事者であったとしても、何も見れずに終わるだろう。
それが「生の実存」である。
何も見ることなく死ぬのが、人生だ。
そこにドラマなどない。
(われわれは淡々とした生をいきている)。

この猿芝居~montageは何なのだ、、、と時折耐え切れなくなる。
長回しがその回避となるか、、、どうか、、、場合によってはそうであろうが、それはあくまでも手法であり、監督次第である。

だから深刻なドキュメンタリーものなどは、極力見たくない。
とは言え、Mr.ビーンを見たいわけでもない。
それを見るなら、姿勢を正してチャップリンを観たい。


余りに映画の文法が生理的に鼻につく。
いつしか、自分を殺して鼻をつまんで映画を観ていた。
別にここまでして無理に映画見てどうするのか、、、と、自分に問いたい(爆。

わたしは、ただそのままの貧しい一個のリアルが欲しいのだと思う。
もうよく分からないのだが。
少なくともハリウッド的なコテコテに計算・演出・脚色・編集された感動リアリティにはもう辟易した。



Gibeon meteorite003


今日は映画を見る気になれず、本の整理とあちこち読み飛ばす。
そのなかで、懐かしいものを見つける。
解説ではなく、ちょっとした紹介になれば、、、。


1969に出版された岩成達也の「レオナルドの船に関する断片補足」より、、、


海の想い出

 i マリア手を焚くこと

あたしはそのとき洗められる必要があると思った それであたしはいつものようにあたしが安息所と呼んでいる穴のなかへ入っていった それからそこであたしは役にたたなくなったいろんなものから長い間かかって火をつくった そしてその火が相当の高さにまで達したときあたしは面から布をはずしてあたしの手をその高みのなかにさしいれた するとたちまちあたしの手はぼきぼきと音をたてみるみるうちにそれはもえている桑の木のように節くれだった それからその節々は固く醜くなり一方あたしの手はそのときのそれらのなかでおそろしく繊細なものに細まっていった それからまもなくそれは膝だけになった


クリムゾンのファーストなどより衝撃的であった。
特にこれは最初期の作品群のなかで、際立ってイメージがもちやすい詩であり、とても脳裏にこびりついているもの。
わたしにとって、この詩集の導入になった。
この時期、最も彼らしい作品は、「樽切れの想い出」、「続鳥に関する断片」、「マリア・船粒・その他に関する手紙のための断片」などかと思われるが。
ディテールを追い始めたらわれわれ自身が自分のことばを追いきれなくなったミクロの宇宙~多元世界を想わせる。
余剰次元の重力下における表象だ。
そこに紛れ込む静謐で狂気の熱を秘めた詩的運動は彼の独壇場である。
このテーマは更に加速し深められ「燃焼に関する三つの断片」に引き継がれる。
この詩世界を発狂する胎児に絡めた(例えた?)評論があったが、実にいいえていると思う。
発狂した胎児の表象であろうか。
とても分かる。

少なくとも通常の(日常の)物理の有効範囲を超えたより本質的な場から立ち上がる論理~詩である。
その硬質で無味乾燥な垂直する運動。
いや全く妥協のないどこまでもディテールに迫り続ける永久(発狂)運動。


同じく最初期の「樽切れの思い出」を、、、いささか長いが大サービスで、、、(笑。

それは大部分が平べったく灰質状でざらざらしていた。そしてどの部分もみな同じようにかたくわずかに反りそして繋ぎ目のところがきまって幾分かづつ分厚かった。それからそれは外側にいくにしたがって少しずつ狭く上向きになり、その上向きになってくる狭い部分は一番外側のところで二重のくびれた環のようなものに連なって了っていた。そのためにそれはあたしにとってみるたびにいつのあの外側にあるなにか一種の平たい背骨のような気がした。ただこの場合その背骨の丁度中央に当たる部分、そこだけはこころもちこみいっていた。そしてそのこみいったところにはいくつかのすりへった穴状のものがあらわれていて、その穴状のものは内側で更にいくつかの痩せた棚状の拡がりに分岐れていた。それからその痩せた棚状の仕切りのなかにはところどころばらばらになった細部の破片のようなものが付着していて、それらのものはそこでひからびたすきまの多い繊維質のものに変わっていた。だからそんなとき、その平たいざらざらしたものはあたしにとって背骨というよりはむしろあるはずれた関節に、あるいは関節のなかに埋まっているくぼみや高まりに、はるかに似ているような気持ちがした。そして関節や関節のなかのくぼみやかつてはその周囲にびっしりとまきついていた軟らかい体からはおそろしくはみだしていて、そしてそのはみだしている先の方はおおきな折れた粗布の想い出のようなものによって優しく酷く包まれていたにちがいなかった。


岩成達也の精緻な理論的な解説によるふたつの「アリス論」や「エッシャー」の絵(版画)の分類相関表と更に数学的解説も鮮烈であったことを思い出す。(彼の趣味は数学である)。その後の詩集も何冊か持っているが、これを期に読み直してみたい。
ともかく、最初に静かな衝撃を受けた最初の詩集は思い出したときにとりあえず手に取ってみる。
そんな本がいくつかある。


さて、村上春樹をこれから読もう(笑。









騎士団長殺しを買う

murakami001.jpgmurakami002.gif


とある書店で、今なら(この今ならに弱い)○カード10倍とあったため、早く買わなければと思っていた村上春樹の「騎士団長殺し」を1部2部共に買った。
しかし、レシートと一緒にもらったのは、次回の書籍購入でポイントが10倍になるカードであった(爆!

つくづくわたしらしい、と笑ってしまった。
こういうトリックに面白いように引っかかるのだ。
(ちっとも、面白くないが)
もう当分、わたしに本を買う予定はない。
(読んでない本が山ほど貯まっているからだ)。
娘には怖い話の本を、この前買ってあげたばかりだ。
(なかなか文学作品には向かわない、、、。これが目下、悩みの種その4くらいに位置する)。

このカードは無駄になるだろう。
だが、未練がましく、マグネットで取り敢えず留めてある。
「旋回する物語 そして変装する言葉」
「渇望する幻想 そして反転する眺望」
魅惑的。ウズウズする、、、。
いつから読むか?

わたしは村上春樹を読み始めると、途中でやめられなくなる。
「1Q84」のときもそうだった、、、もうあれから7年も経つのか、、、。
その間、本らしい本を読んでこなかったことに愕然とする。
大学時代に読んだ本の記憶に頼ってきていることに改めて唖然とする。
いや、その前に体力的に落ちている。
徹夜で読めない、、、。

とは言え、この辺で思いっきり面白いものを読みたい。
そんな気分なのだ。
であるため、どこか全く日を空けて、朝から読み始めたいと思う。
このところ、健康上の問題もあり、夜はすぐ寝てしまう。
起きてると自分では思っていながら寝ていたりする。
(いや待て、寝ていると思っていながら起きていることもあったか、、、いやこれはない。あってはならない)。

ハッと飛び起きたら、椅子に座って眠っていたことに気づく。
時計を見たら2時を回っていた。
パソコンに向かってネットを見て回っていたのを9時半頃までは、知っている(笑。
かなり疲れが溜まっているのだ。

単に、これまで生きてきた疲れであり、これといって何をかやった疲れではない。
こうした疲れはひたすらよく眠ることが一番良いことは分かっているが、、、
それに加え、やはり強烈な刺激である。
それも美しく、意識を思い切り拡張する類のものが薬となる。

美を求めて、、、昨日観た映画もそれであった気がする。
何故か今日いろいろあり過ぎたせいか、かなり前のことのようにも思えるのだが、、、
それこそが、時間の本質でもある。いや属性というべきか、、、。

そうだ、思い出した。
どこかで、、、
本を読む時間を作らなければならないのだ。
(忘れている場合ではない)。


「騎士団長殺し」
久しぶりの村上春樹。
ただ、楽しみである。



夢旅行 Ⅱ

kusuda002.jpg

今日は長女は飽きたと言うので、昨日の絵本の続きを次女に読んでもらった。
(勿論、小遣いは渡して)。

次女の方が読みはうまい。
しかも妙に感情を込めて読む。
だが、別に気持ちを込めるところもないのだが、、、任せる。


「ふくろうの話」
急に「忘れな草のように青く、冬のスリッパのように暖かな、ある夜のこと」などという表現がみられる。
噺はとても良い。
急に良くなった。
何故なのか?
ここのページの絵も急に良くなる。
何故か?
描き慣れてきたのか、、、。

ねことふくろうがほんのひとときをともに過ごす。
どちらもねずみを食べるが、ねこはとりも食べる。
ちょっと緊張の走る関係だが、少しのあいだなら、なかよくできる、、、。
つりがねそうの鐘の音をきき、きのこが、かさをひろげるのを、いっしょにながめて散策する、、、。
雲が月をよぎった瞬間、、、ふとねこは姿をくらます。
おなかがすいてたまらなくなったから、、、。


「つるの話」
つるが2羽沼地にやってきて3日間、そこの所有権を主張して喧嘩をし、うんざり疲れて両者とも去ってゆく噺。
その間、煩かった沼地であったが、静けさをとりもどし、かえるの鳴き声が響いている。
なかなか風情を感じる噺だ。

淡白で平面的な絵だが、ふくろう以前の絵よりかなり良いものになっている。
タッチに無駄がない。


「幸福の山の話」
山の時間に平地(街)の時間が(それを象徴とする)道路とともに迫ってくるため、庭師が山に花をたくさん植えて育てて、山を道路から守ろうとする噺。
ゆっくりした自然の時間を残そうとする庭師の企み。
そういう場所は大切である。
わたしも花時間をゆったり過ごしたい。

導入部のおばあさんの夫みたいな雰囲気のおじいさんが木の上から水を撒く。
しかし、絵は最初の頃から見ると良い。
あのおばあさんに似たおじいさんだが、、、。


「夢旅行の話」
噺は面白い。
少女がひとり夢をみている。
音が一切聴こえない生気のない世界。
時間も止まっているに等しい青ざめた夢時間。

薄ぼやけた絵は内容だけでなく印刷の関係もあるのか?
(印刷の問題だとすれば、これは不良品である)。
このような汽車の見られる牧歌的光景の絵なら、わたしの友人のSくんのモノの方が100倍良いが。
だが牧歌的な話ではない。
とは言え、汽車は少女が目覚めてからやってきた現実時間のものである。
まだ音のないぼんやり霞んだ絵でよいのだろうか、、、絵の解像度が低いのが気に障る。


「音楽家の話」
まるで、どこかの地域伝承風の噺でもあるが、余りしっくりこない。
旅をするバイオリン弾きを追っ払った村人というのは、いかにもどこにもありそうである。
その音楽家がバイオリンを弾くと、動物たちが蓄えを分けてくれる、というのもよい。
しかし、音楽家が登った山のてっぺんの城から大木が育ち、その枝にはリボンと花と、色々な楽器が実のようになっていたというのは、絵を見たところで空々しく、イメージ的にも稚拙で無理がある。
絵自体がとても貧困である。

村人たちが実際に山に登ってみると、バイオリン弾きの姿はなく、曲だけは流れていたという。
あまく、悲しいしらべが、、、って噺も絵もつまらない。

、、、ここで次女はリタイア。おつかれさま(笑。アイスは冷蔵庫にあるから、、、。

残りは、、、黙読(爆、


「12匹めの犬の話」
ひまわりの国に、婦人がひとり住んでいた。
彼女は土地も財産もみな、かわいそうな犬たちのために使い果たしてしまった。
肘掛け椅子と望遠鏡だけ残し。
ここまではよい。絵が一番、イケている。

彼女は犬たちと旅に出る計画なのだが、12匹目が集まるまで待つそうだ。
何故なのか、その理由は明らかにされない。
望遠鏡はその最後の犬を探すための道具らしい。

肘掛け椅子に座り、望遠鏡で遠くを眺める姿はなかなか印象深いものだ。
この絵は絵本中の最高傑作と言えるだろう。
丈高いひまわりと望遠鏡婦人と様々な種類の飼い慣らされた犬たちとの構図関係も良い。

婦人は、白い魚のような雲が流れる時にそれを見つける。
「みえたわ!」

犬は望遠鏡にすでに捉えられているうえに、その犬の到着を待って出発するのである。
何故、ひまわりたちが12匹目の犬が何であったのか知らず、その後風が吹くたびにひそひそ語り合う必要があるのか、、、。
話が最後で破綻する。

絵が良かったのに残念。


「ヴァルパーティンガーの話」
ヴァルパーティンガー、これは噂に聞く怪物のことらしい。
5月のお祝いにカエデの下で大人たちが集まり、ご馳走を食べ、酒を呑んで宴会をしているとき、こどもたちは家の仕事を任されていた。彼らは大人たちがうらやましくてたまらない。

突然の大きな叫び声と、蠢く何者かの気配。
酒の回った大人たちは、びっくりしてみな木に飛び乗った。
どうやらこどもたちが、怪物の噂を利用したようだ。
その隙に、、、彼らは残ったご馳走を残らず平らげてしまう。

翌朝、戻るとこどもたちは、手をおなかにのせ、ここちよさそうに眠っていたという。
そんな、ちょっと無理のある噺が最後。


色彩、配色が実に凡庸であった。
所謂、ナイーブ派(素朴派)も、もっとビビットな色使いをするひとは結構いる。
フォルム的にもヘタウマというわけでもないし、微妙なイラストレーションである。

噺も特にこれといったものはなかった。
読みの勉強に多少でもなれば、それで目的は達せられた、と思おう。


ただこの企画は、またやりたい。
絵本ならたくさん眠っている。
わたしもよいお昼寝になる。


夢旅行

kusuda.jpg

ジナ・リュック・ポーケ原作
エルナ・フォイクト絵
昭和57年集英社発行
楠田枝里子訳

訳者曰く、「まどろんでいる寝入りばな」の不思議体験が語られている噺だそうである。

長女と一緒に観た。
ずっと眠っていた絵本である。
昨日から、あれこれ絵本を出しては見ている。
ちょうど、学校で絵本の読み聞かせ授業を受けてきたところだ。
これは、長女が読むのにちょうど手頃な長さだったので、彼女にわたしが読み聞かせしてもらった(笑。
(初めての試みである)。
娘に本を読んでもらえる身分になったか、、、と感慨に更けながら、、、。
(でもお小遣い(袖の下)は、払っている)。

、、、途中何度も睡魔に襲われる。


「奇妙な墜落感、つんと体を突き抜けてゆく硬直感、あまやかな流動感覚、、、」
う~ん。どうだろう、、、。この楠田さんのことば自体は魅惑的であるが。
絵はいたって地味である。
昨日の「イバラート」みたいなビビットな「ボナール光線」を発する類の絵ではなく、マットで素朴で特徴に欠けた鈍い感じの絵である。夢に出てくるかといえば、、、別に出てきて欲しいと思う絵でも世界でもない。
夢にしては解像度が低い。キリコの絵みたいな圧倒的な解像度で迫るものからは程遠い、、、。
微妙な距離感の絵である。特に平面的とも言えないが奥行もない。(素人的な)線のうるさい絵もある。


「花売りのおばさんの話」

「泳げたい焼きくん」みたいな出だしであったが、、、。
冬を過ぎても雪がなかなか消えない町に突然現れたおばあさんが、色々な花を人々に売り始める。
買った人には漏れなく、ひとつお話を聞かせてくれる、、、というもの。

ふ~んっと思った。
その話というのが、この後に載っているそれぞれの噺となってゆく、、、。
ありがちな展開であり、その導入部である。
微妙なおばあちゃんの表情。このイラストレーターは、素朴派のヒトか?
長女の読みの速度がわたしの呼吸のリズムに合ってきた、、、そのまま次に、、、。


「ピエロの話」

ピエロがTVのせいで全く町の人々に相手にされなくなり、手廻しオルガンを乳母車に乗せ町を出てゆくことになる。
途中でブタに出逢って仲良くなり、「ねずみの耳」と名付け、一緒に泉の水を飲み、野いちごやきのこを食べながら旅をする。
これから先の冬のことなど一切気にせず、樅の木の下でいま、ふたりですやすや眠っている。

噺はなかなかよい。
何ということもない噺に思えるが、ここまで何ということのなさを保ち、最後は眠りほうけて突き放す。
夢の不安を表出させている。
かつてピエロを見てみんなが笑ったというが、絵を見ると笑える類のピエロには見えない。
サーカスで芸を観せるなどしなければ、まず見向きもされまいという感じ。
作者は冬の心配を匂わせていたが、取り敢えずブタが一頭いることがピエロのこころの余裕となっていよう。


「方舟の話」

雨がずっと降り続くものだから、ザムエルという男は、聖書のノアの話を思い出し、一生懸命舟を作った。
雨が降り出してから作り出したので、大変である。しかし洪水となればもっと大変である。
そして、食料と飼っていた動物や野生の動物まで乗せられるだけ乗せ、いざ海に向かおうとするところで雨はピタッと止んでしまう。
2日目には雲は流れ、太陽が輝きだした。
でも、みんなにとって楽しい旅行になった、、、という。

これは起承転結のある物語になっている。
というより、最初長女が読み出したところで、結果が読める安直さがありどうにも期待感がもてない。
期待感なしの絵本の読み聞かせは、はっきりキツイことがその身になってみて分かった。
(それだけで、今回の試みの意味はある)。
絵ももっと線を整理して単純化した方がすっきりして見易い。
噺も絵も、もうひと捻り加えた抽象性~単純化がほしいものだ。


「おんどりと卵の話」

おんどりが広い丘に住んでいて、朝昼晩と鳴いて過ごしていた。
自分を見てくれる相手がいないので淋しくなってきたとき、卵をひとつ発見する。
おんどりはどんなやつが出てくるだろうと色々想像し、期待に胸をときめかせる。
すると、出てきたのは花を嘴に咥えたひよこであった。
彼はひよこに自分の姿を「りっぱだぞ」と自慢すると、ひよこは「そうだね」と答える。

最後の「そうだね」がブラックでよい。
おんどりは、すぐひよこにも愛想つかれることが分かる。
おんどりは他者を期待していたのではなく、単に自分の鏡が欲しかっただけである。
彼は広い世界にひとり住んでいたというより、他者に対する感覚がなかっただけかも知れない。


ここで、長女は疲れてまた明日ね、ということになった。
よく、こんなにたくさん読めたものだと、感心した。
この後は、一緒に「雪見大福」食べて、わたしはお昼寝、長女は遊びに行ったらしい。


明日この続編となる可能性は40%と踏んでいる、、、。


マシュー・フィッシャーに捧ぐ Ⅱ

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11/20の「マシュー・フィッシャーに捧ぐ」
に対して頂いた「返歌」の最後の一部をここに転載したい。
エストリルのクリスマスローズ様から

少し疲れたこころに
そっと寄り添ってくれる
そんな
不思議な包容力があるみたい

小さな痛みは
いつのまにか
彼のサウンドに溶けて

優しく照らす
月光の下に
消えていくよう…。



これはことばでまさに彼の音楽を表している。
こんなことばがライナーノーツに書いてあれば、わたしも読む。
より曲がピュアになる。
より心が聴こえてくる。

わたしは、レコードについてくるライナーノーツは、9割がた読んだことがない。
勿論、マシュー・フィッシャーのものは、100パーセント読んでいない。
余計なものが被さって、音を聴くための障害になるのが嫌なのだ。
蘊蓄や楽理的な分析や果てはどうでもよいエピソードなど、、、邪魔である。
(というわたしもついついその手のものを書きそうになるのだが、、、すでに少し書いてるか?)

この方のブログにいつも驚く事は、膨大な造詣よりも、文体~ことばの美しさである。
その散文詩的な律動がまず、琴線に触れてくるのだ。
心地よいそよ風の如くに、、、。

では、そのことばは何処から来るかというと、恐らく稠密に畳み込まれた智の地層からおいしい水のように溢れてくるのだ。
それが無味乾燥な論文調にならず、詩情溢れるものとして結晶するのは、ご本人の芸術的資質によるところがおおきいはず。
特に音楽性が深く響いていると感じられる。

わたしは、単なる論文を読みたい気分でなく、かと言って認識のキラメキのないものに関わりたくない時、この方の記事が実に心地よい。まさに真善美を満たす清らかな楽曲である。

やはり芸術性に裏打ちされた智~哲学こそが、身体的なレベルからの覚醒を呼ぶものであると想う。

この方と音楽を語りたいものだ。
いや語るべきものでもないか。絵も語るものではないことを、先だっての某ギャラリートークで嫌というほど悟った。
しかし、それを知った上で、何かが語れるはずである。




西風号の遭難~急行「北極号」

Chris Van Allsburg002
村上春樹の翻訳本から、、、その2
急行「北極号」

CVオールズバーグ
絵・文

まずはその前に、昨日の「西風号の遭難」から、、、

読んでみると、まさに少年が嵐で船ごと吹き飛ばされ、気を失っているうちに観た、浮遊する夢が余りに美しく万能感を満たすものであった、、、。
目覚めた後もその衝撃の夢に取り憑かれ、現実にはどうしても充足できぬまま、かの浮遊する夢を追い一生を過ごした、、、という話と受け取れたが。

重力と電磁波に囚われた存在であるわれわれにとって、このような重力から解かれた世界はやはり、根源的な魅惑がある。
この世のあらゆる法則の源こそが重力だ。
そこから放たれれば、、、
恐らく自由と全体性を獲得することが出来る。
(そこにおいて自分が存在しうるかどうかなど知らないが、、、)。

長女に感想を聞くと、、、
「お船が飛ぶんだね。」
「面白い。」
という。

ホントにあったのかな。
「ホントの話だよ。だって、ラピュタも飛んでた。お船も飛ぶ。」
これって夢じゃないんだ。
「夢じゃない!」
これは、断言してきた、、、。

現実に船が空を飛び、飛行石が宙に浮かぶ。
そう、この話を夢と現に区切る必然性は、まったくない。
絵本に区切りなど何処にもなかった。
そのまま受け取る方が理に叶っているかも知れない。
「おじいさんだね。その子が。」
その丘(または世界の縁)で、おじいさんの話をただ聴けば良い。それが、正しかった。
そこに発見の可能性、新たな認識の場が隠されている。
(想像力でもよい)。


急行「北極号」
僕が主人公だ。

サンタは本当にいる。
これは何の問題もない。
実際に、どこの家の親もサンタだろうし。
サンタは何処にもいる。そもそもいない(否定する)必要はない。

わたしは、殊更子供の頃を貴重なものとか、美化する気などは毛頭ないが、、、
(未だに思い出し反復する不快で孤独な想いの方が多い)。
確かにその時期、フワッとどこかに行けた。
これは事実だ。


この僕は家の前にとまった急行に乗り込み「北極点」に行ってしまう。
バスローブ姿というのも良い。
いつも、こんな服装の時のこんなタイミングだ。
チャンスの前髪を上手く掴めば難なく飛べる。
この急行も走るというより飛ぶに近い。
物理法則は端から超えている。

「北極点」の町で世界中のクリスマスプレゼントが作られている。
サンタの手伝いをする小人もたくさんいた。
僕は、プレゼントを受け取る第一番目のこどもに選ばれた。
僕はサンタの橇に付く銀の鈴をねだって、貰った。

非常にmonumentalで静的なパステル画だ。
「去年マリエンバートで」の庭園の彫像にも似ている。
時間の刻み方の違いが絵に析出している。

そして、やはりトナカイの橇は飛ぶ。
日頃UFOが飛んでいるのだから、当然サンタも飛んでゆく。

しかし、僕はポケットに穴が空いていたため、鈴を亡くしてしまう。
ガッカリ沈むが、クリスマスの朝に箱に入った鈴が届けられる。
この一度失って改めて手に入るというのも、民俗学にも見られる贈与の醍醐味か?
これは嬉しさ倍増かも。

ベルを振るとそれは美しい音が。
次女はここに凄く興味を抱き、「どんな音かなあ」としきりに問いただす。
これは、音というより、、、何だろう、、、。

じっくり思い巡らせてみたい。
その音。






西風号の遭難

Chris Van Allsburg

村上春樹の翻訳本から、、、
CVオールズバーグ
絵・文

アメリカの絵本作家
なかなか良い作家を紹介してくれたものだ。これも村上春樹の功績のひとつか、、、。


今日、次女ではなく長女に読み聞かせた
(先日読み聞かせをしてくれた次女は、今日は忙しくてそれどころではないようなので、暇そうな長女に)

モーリス・センダック同様、広く人々に親しまれているアメリカ絵本作家であり、こちらも批評家受けがやたらと良い。


パステルの柔らかい粒子がマットな独特の光と物質感を生んでいる。
どこか地球上ではない空気感のパステル画だ。
そうか、夢の中か!
長女はよく起きがけに、「今日はいい夢見れた」ということがある。
まだ、現実と想念―例えばお化けの世界が、不可分な状況でもあることだし。
(サンタはどうだったか、、、)
すんなり実感・理解出来る部分もあると思われる。


まず彼女に絵だけ見せて、物語を想像させてみた。
優れて平面的であり、単純化され抽象化された絵は特別なものは一切描かれていないが神秘性が濃い。


彼女は一応、目を開けて見ていたが、「お船が海にいたり、お空に飛んでいた」。
「ちょっと面白かったけど」と、、、
次のことばが浮かんでこないようだった。
わたしも、文を読まないで絵だけ見せられたらこんなものか。
しかし、決してつまらないという表情ではなく、その不思議な魅力に興味は覚えたようだ。

明日、文と一緒にまた鑑賞しようと思っている。(今夜はもう遅いので)。
はっきり言って、文を読めばよく分かるというより、より夢の中に押しやられるような噺だ。
(この船、夢に出そう?と聞くとすぐに「うん」と応えた)。

最後に、難破船ともども、ぽつんとひとり取り残されるような感じで終わる。
そこが大変絵とマッチしているところか。
超然とした世界だ。
一種の冷ややかさと不安が漂う。
気温や気圧(重力)、空気の組成、更に海の水の組成も異なる世界に思える。
(最近、話題に事欠かない、地球外天体の海を夢想させる。タイタン、エウロパ、エンケラドス、、、)

とは言え、、、文の内容は、人生を顧みるものでもある。
それは、概念としてもっていない。
少年期特有の自分の力を誇示したい気持ちも、まだ少し先にある。
が、こちらの方は理解出来る範囲だ。
自分でそれはもう出来ると思ってやってみた結果、上手く出来た喜びと自信の経験。
失敗してガッカリした経験はすでに持っている。
(この少年の全能感は、漸く自分ひとりで立ち上がれたころの全能感に寧ろ近い気もするが)。


また、もし面白い事があれば、続きを載せたい。

どうでもよいことだが、わたしはこれまで、一ヶ月に40記事書いたことがない。
今月、初めての40記事となった(祝?

毎日惰性で、書かないと気持ち悪いため書いているに過ぎないが、まとまった大きなものを作ることをずっと長いことしていないのが気になりだした。
少し考えてみたい。
やはり、絵を描くか、、、。

お化けの話~PPAP

obake.jpg

次女にお化けの本の読み聞かせをして貰った。
(わたしに何か読んで聞かせたいというのだ。この際、何であっても聞いてみよう)。
今、彼女が一番夢中なのが怖い話であり、肝試しである。
友達とは、その手の都市伝説のネタで大盛り上がりのよう。

読んでくれたのは、怖い話特集本「本当に怖い話」(西東社)から「格安物件の12階」というもの。
わたしが聞いて覚えている範囲(わたしの独自の要約?)で、、、。

主人公はまだほとんど売れていないアルバイトに精を出すお笑い芸人。
彼は今のアパートより安くて広い部屋を探し出し、その201号室に引っ越してくる。
PPAPみたいなのがヒットしたら、きっとじっくり本業に専念できるのだろうが。
(ちなみに、娘たちのクラスでは、必ず誰かが休み時間になるとPPAPを緩く唱い出すらしい。これもある意味恐ろしい)。
新しいアパート初日も彼は夜遅く帰ると、ぐったり疲れて直ぐに寝入ってしまう。
するとその夜見た夢に、、、綺麗なドレスを着たかわいい人形が現れた!
お笑い芸人の彼は、暫しその人形に見蕩れてしまうのだが、、、。
(この辺で次女が思い入れタップリ読むので、笑いを堪えるのに一苦労)。
その人形は大きな鎌を持っていて、口のはしをつり上げて笑って言う。
「ねえ、わたし、一段のぼったわ」と、、、。
(ここで、最後のオチの察しはついてしまうが、堪えて聞いてゆく)。

それから、毎晩夢に現れる綺麗な人形の白いドレスには、赤いシミが広がってゆき、鎌の刃の部分の血ノリも目立ち始める。
その度に登ったという段は一つずつ増えてゆく。
おまけに彼女の表情まで怖くなってきている。(口が裂けてくるとか、、、口裂け女を混ぜたか?)

お笑い芸人はハッと気づき、次の日アパートの階段を数えてみた。
12段であった。
昨夜の夢で、もう7段目まで登ってきているではないか!
彼は全身から血の引くのを感じ、直ぐに引越しを決め、大家にそのことを告げる。
すると彼は、「誰も皆12日経つ前に引っ越して行ってしまうんですよ。やはり、あなたもですか」、、、だと。

今もこのアパートはホントにあるんですよ、、、この現実に繋げてくる手法はTVの「世にも不思議な物語」でも同様だ。

「面白い!いや、怖い!」
・・・・・・・・・・ということで(笑。


非常にショートなお話であった。
星新一にもとっても短い噺はいくらでもある。
別に怖くなくても面白く興味深い噺は幾らでもあることは、彼女らに教えておきたいものだ。

親にしてみれば、初めて娘に本を読んでもらって、感慨に浸りたいところでもあるが、、、。

後でこの本借りて幾つか拾ってみてみたが、ほとんど似たタイプの作りであった。
そのなかでは、先の話は構造がしっかり出来ているものだ。
しかも、直接的な描写でなく想像を要請するところが噺の肝になっていて、良いと思う。
だが、単に怖がらせようとして(その目的に絞って)書かれている事自体はやはり限界である。

う~ん。でも長いのはダメだから今度、星新一の短く読みやすいものを読み聞かせのお返しにしてみたい。
探してみよう。

日頃娘たちの好みをみても、尺の長いものは、素晴らしい出来の作品でも見せる(読ませる)のは、キツイ。
今回、ビルボード77位ランクインで、二週連続再生回数世界1位という、PPAPも実に短い。
真似できそう。易しい(単語3つだし)。キッチュで話題にしやすい(キモカワの部類か?)。つまり共有しやすく拡散しやすい。
短さ、、、一時、軽薄短小は何かに付け批判されてきたが、ナンセンスなリズムがヒトを惹きつけることは確かだ。
先の話も単純な、反復構造をもった話で、馴染みやすく解りやすい。


今回のPPAPのついつい気になってしまう要素は、意識においておきたい。




ノーベル文学賞に関して

king crimson03


びっくりした。
ボブ・ディラン?
なんでまた、、、。
である。
恐らく詩人としてだとすれば優れた詩人は世界には他にいくらでもいる。
あくまでもシンガーソングライターとしての評価かと思われる、、、。

詩は音楽に乗るとまたどのようにも意味と価値を変えてゆく。
セックス・ピストルズの「マイ・ウェイ」が極端な例だが、そういった楽曲の傑作は幾つもある。
「詩」と「旋律・サウンド」との調和・違和・歪みをアーティストは効果的に利用するものだ。
歌詞のある曲は不可避的に重層するメッセージの束となる。
言葉で書かれた詩を読む(聴く)ことと、歌の歌詞を聴く(唄う)こととは、表現の次元が異なる。


学校でビートルズかローリングストーンズかで勢力二分して大騒ぎしていたころ、たまにディランとか聴いてる同級生もいた。
わたしが、ビートルズにひたすら心酔しつつも、ストーンズに鳥肌を立てて感激していた時期である。
ヤードバーズ、クリームの話などそのなかでしてみると、ちょっと尊敬の眼で見られたりもした。
マーク・ボランも人気が高かった。が、わたしは密かにデヴィッド・ボウイに惹かれていた。
まだ、そのころは人生を塗りつぶす影響を受ける、プロコル・ハルムとキング・クリムゾンには出逢っていない。
そういえばラズベリーズだとかバッドフィンガー(バッドカンパニーではない)とか言ったりするとみんなから袋叩きにあっていた、そんなころ。
試しにディランも聴いてみたことは、ある。
正直言って、全く引っかかりがなかった。
ともかく音楽としてサウンドとしてこれほどつまらないのはないな、、、と思いそれ以降聴くことがなかった。
元々わたしが、フォークとロックンロールは雑音にしか聴こえないところからくるのだろうが。
詩もいろいろ言われていたのは知っていたので、いくつか翻訳ものだが読んではみた。
社会派の詩だな、ということで関心はゼロになった。

その後、ロックはずっと聴き続けてきたが、「詩」を強く意識したのは、ルー・リードとピーター・ハミルだ。
勿論、ピート・シンフィールド、キース・リード、ベティー・サッチャー、リチャード・パーマー・ジェイムスによるキング・クリムゾン、プロコル・ハルム、ルネサンスの詩はとても心に響き、瑞々しく身体に残っている。しかし彼らは作詩専門のメンバーである。(ピートシンフィールドはソロアルバムを出しているが)。

しかし詩の提供ではなく、音楽と詩の両方を作っているという点において。
そして演奏し唱っている点において、、、。
サウンドとリリックの極めて重層的で高密度の融合という点では、上記のふたりだ。
所謂、孤高の才能と独創性と過激さ、稀有な美しさという点で。
特に、詩を詠うボーカル―声の底知れない表現力!(ここまで書くとロバート・ワイアットも入ってくる)。


ボブ・ディランと基本的に同じ立場・スタイルでもある。
しかしわたしは圧倒的に、ルー・リード、ピーター・ハミルに共振・感動する。
片や夜のニューヨークの帝王、片やマサチューセッツ工科大学の過激なナルシスト(失礼!
聴くたびに、どちらにも激しく魂が揺すぶられる。
だがボブ・ディランには無感覚である。時折耳にはしたが、何も残らない。
(フォーク、、、フォークロック特有のあのサウンドの雰囲気からしてキツイのではあるが)。
恐らく、ディランが彼らに勝っているのは、認知度くらいだ。
知名度ならジャスティン・ビーバーでも別にAKBでもよかろうが。(関係ないか(笑)



ノーベル平和賞は昔から、あれだが、文学賞もそんなものなのか、、、と思った。
村上春樹が今回も受賞を逃した上にボブディランということで、酷く落胆した。
いつまで村上春樹を待たせる気か?
(でも、これではボイコットしたくなるかな、、、)

ただ、今思い出したが、彼の小説にディランが出てきていたはず。彼はディランが好きなような、、、
スティーブ・ジョブスもそうだったが、、、。う~ん、、、微妙。


久々に”The ConstruKction Of Light  Millennium KING CRIMSON”あたりを聴いて爽快な気分に浸りたくなった。

少年期

yoshimoto.jpg

今日は書いたものを全て破棄して、引用したい詩がある。
というか詩を読み始めたら、これを書き写したくなった。
今日観た2本の映画の感想は、そのうち載せたい。
(というより、もうどうでもよい)。
「固有時との対話」や「その秋のために」や「ちいさな群への挨拶」は特に好きだが、、、
先ほどこの詩を読んでいて、書きたくなった。
吉本隆明氏の「少年期」。
最近の自分に引っかかってきた。

くろい地下道へはいってゆくように
少年の日の挿話へはいってゆくと
語りかけるのは
見しらぬ駄菓子屋のおかみであり
三銭の屑せんべいに固着した
記憶である
幼友達は盗みをはたらき
橋のたもとでもの思いにふけり
びいどろの石あてに賭けた
明日の約束をわすれた
世界は異常な掟があり 私刑があり
仲間外れにされたものは風にふきさらされた
かれらはやがて
団結し 首長をえらび 利権をまもり
近親をいつくしむ
仲間外れにされたものは
そむき 愛と憎しみをおぼえ
魂の惨劇にたえる
みえない関係が
みえはじめたとき
かれらは深く決別している
不服従こそは少年の日を解放すると
語りかけるとき
ぼくは掟にしたがって追放されるのである



今日見た映画のレベルが取り上げるようなものではなかった。
サム・ペキンパーのように形式自体が内容である稠密な映画ではなく、脚本、演出、構想など幻想の骨格に気が自ずと向いてしまう、描いている物自体がうやむやな作品であった。妙に演出だけが大げさでスタイルに拘わり濃かった。
無理やり書いては見たが、吉本氏の詩を読み始めて、バカらしくなった。

「海洋天堂」のような名作には、なかなか当たらない。
映画は難しい。探すのが、、、。そう「空気人形」も素晴らしかったが。


友へ

For You001

君は彷徨える亡者か
判読不能の遠い昔の物語にすがり
突然黄泉の国から舞い戻った
それも恐らく自らの意思ではなく
誰かにそそのかされて
この世は亡者の手先で一杯だ
(知っての通り、自らの意思で生きている者がどれだけいる?)

今がいつなのか君は知っているか?
わたしに暦を訪ねに来たわけでもなかろう
君のことばはことごとくわたしには届かない
メールにも乗らない
君のことばにもう意味はない
いや思い返すと
はじめからなかった


情報が存在を作ってきた
われわれは全て情報系に属する
わたしはたくさんの乗り換えをしてきた
おかげでじぶんがどこから来たかも忘れられた
君は一体何処にいたんだ?
一体何処の風に乗っていたのか?


それとも自ら進んで何処かで囚われの身になっていたと言うのか?
何処にいても情報は染み込んでくる
凍結していない限り
忍び込んでくる
凍結していたのか?

君はその間にことばから何もかもうしなってしまったのか
事実君は何も見る事がない
(瞳が裏返ってるではないか)
表象をうしない、闇雲に何でも転がってるものを拾い集めてみたと言うのか?
そこにわたしのなまえがたまたまあった
何も覚えてはいないが、自分に取り込める何かの色に思えた
そうなのか


はたしてそうなのか?
君は腹が減っているのか?
それならアイスクリームくらいはおごってやろう
でも何を狙ってる?
わたしから何かを掠め取り、継接ぎの服を直すのはやめた方が良い
服が見る見る崩れてゆく

何かを吐きたいのなら、上を向いて吐けば良い
わたしは君の鏡にはならない
わたしは全ての投影を拒絶する!
全ての視線を抉り取る


憑依してわたしを通して生きようなど思わない方が良い
わたしだって息も絶え絶えなのだ
どちらが居心地良いか
それすらも見えないのか?


今われわれは出会う事のない平行線を生きている
君の探すわたしは何処にもいない
そう
はじめからいなかった


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プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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