
ジナ・リュック・ポーケ原作
エルナ・フォイクト絵
昭和57年集英社発行
楠田枝里子訳
訳者曰く、「まどろんでいる寝入りばな」の不思議体験が語られている噺だそうである。
長女と一緒に観た。
ずっと眠っていた絵本である。
昨日から、あれこれ絵本を出しては見ている。
ちょうど、学校で絵本の読み聞かせ授業を受けてきたところだ。
これは、長女が読むのにちょうど手頃な長さだったので、彼女にわたしが読み聞かせしてもらった(笑。
(初めての試みである)。
娘に本を読んでもらえる身分になったか、、、と感慨に更けながら、、、。
(でもお小遣い(袖の下)は、払っている)。
、、、途中何度も睡魔に襲われる。
「奇妙な墜落感、つんと体を突き抜けてゆく硬直感、あまやかな流動感覚、、、」
う~ん。どうだろう、、、。この楠田さんのことば自体は魅惑的であるが。
絵はいたって地味である。
昨日の「イバラート」みたいなビビットな「ボナール光線」を発する類の絵ではなく、マットで素朴で特徴に欠けた鈍い感じの絵である。夢に出てくるかといえば、、、別に出てきて欲しいと思う絵でも世界でもない。
夢にしては解像度が低い。キリコの絵みたいな圧倒的な解像度で迫るものからは程遠い、、、。
微妙な距離感の絵である。特に平面的とも言えないが奥行もない。(素人的な)線のうるさい絵もある。
「花売りのおばさんの話」
「泳げたい焼きくん」みたいな出だしであったが、、、。
冬を過ぎても雪がなかなか消えない町に突然現れたおばあさんが、色々な花を人々に売り始める。
買った人には漏れなく、ひとつお話を聞かせてくれる、、、というもの。
ふ~んっと思った。
その話というのが、この後に載っているそれぞれの噺となってゆく、、、。
ありがちな展開であり、その導入部である。
微妙なおばあちゃんの表情。このイラストレーターは、素朴派のヒトか?
長女の読みの速度がわたしの呼吸のリズムに合ってきた、、、そのまま次に、、、。
「ピエロの話」
ピエロがTVのせいで全く町の人々に相手にされなくなり、手廻しオルガンを乳母車に乗せ町を出てゆくことになる。
途中でブタに出逢って仲良くなり、「ねずみの耳」と名付け、一緒に泉の水を飲み、野いちごやきのこを食べながら旅をする。
これから先の冬のことなど一切気にせず、樅の木の下でいま、ふたりですやすや眠っている。
噺はなかなかよい。
何ということもない噺に思えるが、ここまで何ということのなさを保ち、最後は眠りほうけて突き放す。
夢の不安を表出させている。
かつてピエロを見てみんなが笑ったというが、絵を見ると笑える類のピエロには見えない。
サーカスで芸を観せるなどしなければ、まず見向きもされまいという感じ。
作者は冬の心配を匂わせていたが、取り敢えずブタが一頭いることがピエロのこころの余裕となっていよう。
「方舟の話」
雨がずっと降り続くものだから、ザムエルという男は、聖書のノアの話を思い出し、一生懸命舟を作った。
雨が降り出してから作り出したので、大変である。しかし洪水となればもっと大変である。
そして、食料と飼っていた動物や野生の動物まで乗せられるだけ乗せ、いざ海に向かおうとするところで雨はピタッと止んでしまう。
2日目には雲は流れ、太陽が輝きだした。
でも、みんなにとって楽しい旅行になった、、、という。
これは起承転結のある物語になっている。
というより、最初長女が読み出したところで、結果が読める安直さがありどうにも期待感がもてない。
期待感なしの絵本の読み聞かせは、はっきりキツイことがその身になってみて分かった。
(それだけで、今回の試みの意味はある)。
絵ももっと線を整理して単純化した方がすっきりして見易い。
噺も絵も、もうひと捻り加えた抽象性~単純化がほしいものだ。
「おんどりと卵の話」
おんどりが広い丘に住んでいて、朝昼晩と鳴いて過ごしていた。
自分を見てくれる相手がいないので淋しくなってきたとき、卵をひとつ発見する。
おんどりはどんなやつが出てくるだろうと色々想像し、期待に胸をときめかせる。
すると、出てきたのは花を嘴に咥えたひよこであった。
彼はひよこに自分の姿を「りっぱだぞ」と自慢すると、ひよこは「そうだね」と答える。
最後の「そうだね」がブラックでよい。
おんどりは、すぐひよこにも愛想つかれることが分かる。
おんどりは他者を期待していたのではなく、単に自分の鏡が欲しかっただけである。
彼は広い世界にひとり住んでいたというより、他者に対する感覚がなかっただけかも知れない。
ここで、長女は疲れてまた明日ね、ということになった。
よく、こんなにたくさん読めたものだと、感心した。
この後は、一緒に「雪見大福」食べて、わたしはお昼寝、長女は遊びに行ったらしい。
明日この続編となる可能性は40%と踏んでいる、、、。