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娘の写真の整理

CIMG0872.jpg今回、使えない写真

実は、これに2日タップリかけている。
学校の生活の授業で、これまで撮った写真から5枚くらいをチョイスして休み明けに持っていくそうだ。
やり始めたはよいが正直、これはわたしにとって、大変な作業となっている。
(ブログを書いている暇もない(笑)。
娘たちの写真は、3歳頃は特に、ほぼ毎日ペースで撮っていたことが分かった(疲。
娘たちの写真専用サーバーから一枚一枚見ていくと、面白いことこの上ないが、終わりの全く見えない作業に巻き込まれたことに気づく。

その彼女らの動きがどういう情景~要因でなされたかも収めたいため、少し引き気味の写真が多めである。
動きの顛末がしっかり捉えられたものは、それなりに楽しいものになる。
それは良いのだが時折、親戚がわたしのカメラで彼女らを撮った顔のアップを見たとき、衝撃的な印象を受けたのも事実であった。
顔だけで微細に強度に訴えかけてくる精神的な動きが、確かに見えた。
外面的~運動原理における関係性を超えた微分的表情である。
別に全体を追うことなどないのだ。(これはこれでよいのだが)。
表情一つに雄弁に語られている事柄~事情がある。

この時期は、ひとにとって何もかもが発見である。
目の輝きが違う、、、われわれ大人とは、、、。
目の輝くのは、周りの様々なものがやはりキラキラ輝いているからだ。
(輝けるものがあって、輝ける。輝けるから、輝くものがある。これは同時の関係性にある)。

本当に活き活きしている。
瑞々しい歓びが暖かい波となって伝わってくる。
スタジオアリスで撮った、着物、ドレス、縫いぐるみと一緒に撮った幼い頃のものから、最近のピアノ発表会でのもの、、ホームセンターで鯛焼を頬張るもの公園で豪快に転げ回るもの、何故か川に入ってビチョビチョのもの、顔中ソフトクリームのもの、、、まで様々だ。
普段、直ぐに喧嘩になるが、ふたりで仲良く遊んでいる場面も少なくなかった。
それだけみると、小さなふたりで果敢に旅に出ているような光景に実際、見えてくる。
物語が生成される。
写真とはそういうものだ。
尽く、あらゆる意味を取り込んで物語を生産し続ける表面である。

赤ん坊の時の写真は、また殊の他、感慨深い、、、。
今でもよく覚えているが、次女は生まれたばかりの時は老賢者の顔をしていた。
まさにそういう風格であった。
その後、三日後くらいの間に、全てを最初からやり始めるといった赤ん坊の顔に魔法のようになっていた。
今でも忘れない、とても神秘的な体験である。
ちなみに長女は低出生体重児であったためNICUに入っており、わたしだけが白衣帽子マスクを付けて面会できた。
それは実に特権的立場に思えた。
長女はとても元気に暴れてなき声を精一杯あげていた。
看護師との日記で毎日のやり取りができた。
昨日のことのように覚えている。
今では、長女の方が次女より大きい。

ひとつひとつ丁寧に観てゆくと、こちらもその時の情景が浮かんでくるものが多い。
圧倒的に楽しいことが思い浮かび、吹き出すことも少なくなかったが、妙な事態についても思い出した。
お祭りで、うち(わたしは関与してない)が役員をしているとき、子供神輿をはじめて担ぐ娘たちの勇姿をここぞとばかりに写真に収めようとしていた際、背後で何やら声がする。動いている大事な被写体を追って集中しているさなかの事である。
それどころではない。わたしはやるべきことに集中した。子供神輿の移動距離などほんの僅かなものだ。
今回写真を確認してみると結構良く撮れている。これについては、満足だ。
後で思い返すと、わたしに何者かがしきりに呼びかけているみたいであった。
普通、まさに今真剣にピアノを弾いているひとに向かって話しかけたりするか、、、?
何か用があるなら、こちらの仕事がキッチリ終わってからにしてもらおう。
異常な経験であったが、撮り終えた時には何も見当たらなかった。
下手をすると振り向いているうちに大事なシャッターチャンスを逸するところであるが、わたしはそんなヘマはしない。
(きっとタヌキか何か物怪の間の抜けた仕業であろう)。

写真は音楽と同じように、時間の芸術である。
まさにそう思う。
同じ光景と思っていても、一秒のズレでどれだけ変化したか分からない。
まだ「場」について本質的には解明されていないことが多すぎる。


写真というものは、きっと場とのせめぎあいに、身を置くことなのだ、、、。



昭和記念公園に行く

syouwa001.jpg
娘ふたりが歌を唱っていたら横にやって来たので長女が撮る。通り過ぎた後、グエグエ鳴いていた。音痴だから笑われたんだ、と言うとふたりとも真に受けていた。

セグウェイにトロトロ乗って移動している人が楽しそうであった。
自転車で敢えてここを走るのは何とも言えない。
娘たちとしょっ中、自主的に自転車教室をやっている。
似たようなコースだ。
銀杏並樹は色が黄金色にキラキラしていた。
その先には噴水もあり、そこそこ和めそうだ。

バスと電車でわざわざ来た。(最近わたしの事情で遠出は公共交通機関を使用する)。
殿様仕事の神奈中は、今日も25分予定時間を遅れた。
もはや日本とも思えないが、走らせたい時に自由に走らせているとも聞く。
それくらいのリズムで生きましょう、というキャンペーンなのかも知れないが、真意は掴めていない、、、。


大きな広場に売店、沢山の子供がまとまって遊べる大きな遊具。
確かにいつも行く公園より規模が大きい。
しかし、それくらいなら入場料払って入る程でもない。
やはり、ここはボートだ。
いつも行く公園にボートの池までは無い。
綺麗な池ではないし、広い訳でもないが、ボートに乗ること自体が日常的ではないのだ。
そこに意味が有る。

思いっきり漕いでボートを走らせた。
かなり風が強かった為、流されないよう気をつけて下さいね、と言われワクワクするものがあった。
陸と違って、ハンドルの反応が少し遅れる。
特性は次第に掴めてくるが、まず、漕がなければならない。少し嫌になる。
時折、わたしが疲れた頃を見計らって、最近走るのが速くなった次女が漕ぐ。
面白そうに漕ぐ。それを長女が羨ましそうに眺めている。
syouwa003.jpg
長女が来い来いと呼びかけていたら何故か一匹やってきたので、長女が撮る。

長女は、池から飛び立つ瞬間の鴨を狙って写真に撮る。これは流石に難しい。鯉が勢いよく近づいてくるところを撮る。これは彼らの表情も窺えた。
だが、本当はボート漕ぎをやりたかったらしく、しきりに次女とポジションを代わりたがってきた。
だが、こんな小舟で立ち上がったらたまらない。
もう水は随分冷たい。その前に深緑の水である。
間違っても落ちてこの水を飲む気などしない。
あちこちコーナーを回っていたが、わたしが途中でスマホをやって、自然の流れに任せていた時、岸沿いのモウモウとした枯れ草にボートが捕まってしまった。
ありゃ、動かない(爆。
必死に2人で漕いで脱出したが、ちょっときた冒険気分が味わえまずまずだった。
ハンドル操作に慣れてきたらもう30分経っている。(ちょっと残念だったが、ちょうどよい時間でもあった)。

ソフトクリームのプレミアバニラが、美味しかった。

知り合いのご夫婦とその息子4歳に出逢い、後半一緒に行動したが、その息子がやんちゃでかなりの重量級。
凄いキャラクター(体重無差別級のクレヨンしんちゃん)で、やることなすこと面白かった為、退屈はしなかった。
最後はシャボン玉を飛ばしまくってケラケラ笑いっぱなしで、おわかれした。

広い公園を歩くうちに、銀杏、紅葉、ケヤキと並ぶが、日頃馴染んでいるメタセコイヤもあった。
紅葉のグラデーションが特に見事というほどではなかったが、その先の噴水がちょうど強烈な逆光に映えてほとんど光線の束しか観えないほどのタイミングであったため、これはという瞬間に、娘たちも入れて写真に撮った。

その前に長女の撮ったもの。誰も映っていなくてよかった。
syouwa004.jpg

おやつを買い溜めておいた為、小出しに渡すとかなり喜ばれた。
やはり遠足はおやついかんだな、と思った。









写真についてーⅡ

jyosibinotonari001.jpg
このメタセコイヤたちは愛情たっぷりに撮られている、メタセコイヤの肖像写真みたいだ。
わたしの身体性に地続きの優しいフレーミングでもある。
この向こう側に、メタセコイヤの吐息が聴こえてきそうな彼らに密着したメタセコイヤの道がある。
常に木漏れ日とそよ風が絶えることのない、時折噴水の水しぶきが虹とともにかかるお気に入りの一本径が控える。
事後承諾であるが、この写真と後の写真の二枚、エストリルのクリスマスローズより、転載させて頂いた。

以前、「写真について」の記事で、写真の感情喚起する作用に少し触れた。
写真が説明的、資料的な機能を引き受けたので、絵画はその機能を放棄したという解説が一般的であるが、写真はいつも説明的、資料的以上の何かを語ってきた。
資料的役割に徹しようとしたアッジェが最もその機能を激しく逸脱しているとも言える。
アンドレブルトンもそこに注目した。(流石である)。

恐らく禁欲的な写真ほどリアルな幻想を孕むのかも知れない。
リアルなほど幻想性を増すのは、カフカの小説に如実に見ることができる。
余計な(お節介な)エフェクトがかけられている方が写真の意味が限定され、つまらないものになることは多い。
ただ、その時空を切り取っただけ、と言ってもその人の深い身体性ー現存在が如実に現れてしまうものだ。


jyosibinotonari002.jpg
ところで、自分がよく娘たちとほっつき歩いている日常的な場所が、写真によって一体ここはどこなんだという光景になっている好例である。

透徹した文学的写真である。
青空とメタセコイヤの圧倒的な重みが実に鮮やかだ。

まさか、このなかをわたしが、時折娘たちを叱りつけたりしながら歩いているとは思えない。
普段、周りは知らぬ人ばかりだという前提で歩いているのだが、もし知っている人にそこを見られたら、モグラの穴にでも入りたい気分になるはず。
この写真の部分がクローズアップされると、少しばかり人間的なドラマも見えてくるだろうか。

しかし写真は距離を切り取るものでもある。(それは同時にフレーミングを決めるもの)。
宇宙空間から観た地球にもある意味、これは似ているかもしれない。

この視点から自分の日常を見直してみなさい、と提示されているかのよう。
それは大切なことだ。

わたしにあれこれ言われながら歩く娘たちは、寧ろ微視的な視座をもっているようだ。
芝草の中の細かい虫などをよく見分ける。
その虫の顔をわたしからくすねたルーペで、しげしげ見ていたりする。
娘たちは、漠然と隣にある女子大に行くの、と言っているが、理由を聞くとこの公園で遊べるからと答える。
最初は、子供の考えていることは、、、と思ったが、満更でもない。
大学院を卒業したばかりの作家の展覧会をアートミュージアムで見たら、その人も授業中抜け出してここで虫採りをしていたそうだ。そのためたくさんの作品をものにしている。娘も見習ってもよいのかも?

わたしが一番つまらぬ距離感でものを見ている恐れもある。
写真がよく気になるのもそのためかも知れない。
多様性と言いながらも自分がどれだけ多様な時間を生きられているか、、、。

自分がそのなかを幾度となく行き来している場所の写真を見ることは、とても興味深い。
しみじみ魅入ってしまう。
自分にとっては素敵な資料である。
(地球をまるまる見てみるのもよいが、この距離感も必要である)。



写真について

Gibeon meteorite
4億5千年前に地球に落下した隕石。


片付け仕事は、とりあえず一区切りしたのだが、どうしても見つからないものがある。
古い写真が見つかったのは良いとして、それより新しい写真群が見つからない。
ちゃんとしたカメラで撮り始めた頃のものである。
それらは、敢えてアルバムに入れず、桐箱に入れて何処かに大切に保管したことまでは覚えているのだが、、、。
仕舞い場所が何処なのかが、どうにもはっきりしない。
地中に埋めてないことだけは確かなのだが(笑、一時期の写真群だけスッポリ抜けているのだ。
それが、昨日夕刻から気になり続けて、、、どうにもならない。
薬は飲んでいるため、眠ることは眠れたが、気がかりができてすっきりしない。

やはりこれは、深刻な物忘れなのだろうか。
生活を脅かし始めたら、誰が何を言おうが深刻な事態となる。
今のところ、次女の保険証を失くしたくらいであるから、楽観視はできないが、慌てる程のことでもないような気がしているが、、、。
物忘れは、バカにはできない。
重大な事をごっそり忘れていて、そのこと自体に気づかないで何の問題も感じずいることもあるかも知れない。
コンテクストの片鱗を握っているから、忘れたという意識がまだある。
気になってしょうがない、気持ちがある。
だが最初から最後まできれいに失くしていたら、無い事すら知らない。
無かったことで、良ければ良いような気もしてくるが。

そんな事も実は幾つかあったのではないか、と思う。
それで、支障なく生活できていたなら、それでよい。
家の母親を見れば、忘れることが如何に逞しく生きることに繋がるかがよく分かる。
基本、自分に都合の悪いことを全て海馬や大脳皮質から消去できれば、きっと長生きに繋がるだろう。

しかし、忘れてはいけない事がある。
今の自分を少なからず形成するに至った、暗黒期である少年時代の記憶である。
少年時代とは、ロマンチックに美化されるに値するものとは言い難く、体力、知識、経済においても圧倒的に弱く依存的で抽象的な存在の時期であり、言い換えれば奴隷の時代の記憶に他ならない。
それがよく淡い郷愁に彩られた何か帰るべき世界のように描かかれた作品などを目にすることは多いものだ。
しかし実態としては不可避の暴力に晒され続け、その認識に形を与える言葉を欠如した暗黒時代であり未開の時である。
ここに言葉をあてなおす作業は、ことに触れてしてゆく必要がある。
内省的な(反省的な)知である。
知により、光を当て直さなければならない。
解放のためであり。
反復のために。

写真は大脳に替わる記憶装置としての役目も果たす。
勿論、それは芸術にも展開する路も秘めている上、何より感情を導き出す作用がある。
感情が沸き立たなければ、初めてのことばが生成されない。
差異が生成されない。
新たな反復が望めない。
写真は、その点で優れた装置なのである。
思い出すより遥かに大きな覚醒に路を開く。
その過程で作品も生まれてゆくかも知れない。
(自分だけのものでも良い)。


それが、無性に気になり始めていたのか。



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原風景Ⅱ ~All is lost

昨日の続きで、かなり違う傾向のものを。
いや基本的に全く同じであるが。
これらは皆ソースに過ぎないものであった。
(もう方付けようと思う)。


008.jpg
ただ、闇を撮りたかっただけか。
闇にも目印は必要だ。
この徴が十字架ならば、カラヴァッジョの救いのない闇だ。

009.jpg
どこの扉だろう。勿論、もうあるわけもない。中にあったものも諸共、、、まだあったとしても知りようもない。
仕舞い込まれて、明かされることのない無意識下に沈み込むもの、、、
または、ただの厚みも奥行もない書割であったか。


010.jpg
最近はとくに、こういう剥きだしのモノは見なくなった。災害とか事故のときなどにふと顔を見せるが。
ある戦いの秘められた名残にも思える。
そう残骸だ。


011.jpg
ほんとうに宇宙の隅っこ感が半端ではない。稲垣足穂に見せたい(笑。
この写真、好きだ。
こんな一角があった。


012.jpg
当時のわたしの心象風景か。
底知れぬ不気味な淋しさ。
絶対零度の光景があるなら、、、。


わたしのルーツであることは間違いない。





原風景 ~鉄

子供のおもちゃの片付けをしていたのだが、しまう場所がなくなった。
余りに多いのだ。
それでわたしの物品を少し整理し、その場所に取りあえずは置くことにした。

その時に、古い写真が掘り出された。
文字通り、そのように発見されたのだ。
1979年と書かれている。
多分、当時自転車に小さなカメラを装着して、うら寂しい光景を撮っていた頃のものである。
かなり夥しい数があった。

10%の画質でスキャンしたものを幾つか、、、。
紛れもなくわたしの原風景である。
これらのメモをもとに絵を描いていた。(写真作品としての価値は全くない)。
絵は、ほとんど抽象である。

ボードにリキテックスで描いていた。
リキテックスは性に合う。
わたしはせっかちであり、瞬時にものを仕上げてしまいたいからだ。
油絵はいつまで経っても乾かないため基本的には選ばなかった。

001.jpg
あらぬ彼方をうち眺めるダイナソーである。

002.jpg
ダイナソーが方向性をもって移動してゆく。

003.jpg
いつも自転車で通る道すがら、米軍の施設(設備)は常に肥やし臭い畑を挟んであった。

004.jpg
よく出逢った、電動車椅子の紳士である。今日はどちらの路にするか、というところか。

005.jpg
このようなカップルの写真はいくつ撮ったことか。かなりこの手のものはある。

006.jpg
独り者であるが、そこそこ楽しそうである。

007.jpg
わたしの写真の最も典型的なもの。実際、こういったところが結構有り、自転車でこの中を走ったこともある。
クモの巣に巻き付かれることもあり、充分先を確認しつつ走らなければならない。


大概、鉄との出逢いである。
鉄は最も安定した元素であり、地上のどこにでも見つけることのできる身近なモノである。
恒星の核分裂も鉄どまりである。

何というか、、、確かなものとの接続であった、と思う。



今夜は出てきた写真をしみじみ見ながらワインでも呑んで過ごしたい。


続きを読む

ジャック・アンリ・ラルティーグ

lartigue.jpg

日中、ポカポカ陽気であったため、ベランダのいちごプランターの前で、思い切り寛いで本を見たいと思った。
文字を追うと、すぐにちょっとした単語に過剰反応して興奮し、落ち着いていられないのでドゥルーズとかは、やめる。
ロラン・バルトもダメ。モーリス・ブランショは多分眠る。ここで寝るのは危険である。

ということで、写真集を眺めることにした。
取り敢えず持ってきたのは、マン・レイアルフレッド・スティーグリッツロバート・フランク、ウォーカー・エバンス、アンセル・アダムス、ジャック・アンリ・ラルティーグ。
その他、リチャード・アヴェドンとか、アンリ・カルティエ・ブレッソン、ダイアン・アーバス、そしてウジェーヌ・アッジェなどなど、、、大物が控えているのだが大判で重た過ぎるので、無理である。膝に置くと痛い。

選ぶまでもなく、ジャック・アンリ・ラルティーグにした。
書庫から運ぶ時点で決めていた。
思いっきりボケっとできる。

久々に見るラルティーグ。
純粋に、面白い。

大写真家アンリ・カルティエ・ブレッソンとはかなり違う(笑。
勿論、ジャック・アンリ・ラルティーグにも「決定的瞬間」写真は数多い。
というか、それ狙いの写真ばかりが目立つ。
だが、ブレッソンに比べると、ギャグみたいな光景だ。
本人もそんなつもりで撮っているに違いない。
やはりアンリ・ルソーを想わせる。
だが、ルソーは素朴ではあるが、結構技法的な工夫を見出して描いているのだ。
ラルティーグは興味と好奇心に満ちているが、探求は感じられない。
少なくとも芸術家の苦悩など、どこ吹く風だ。
面白いシーンを切り取りたい、童心に近い「一心」が窺える。

単に”アンリ”つながりの連想をしてしまった(笑。
しかし、ルソーと比べると面白い。
彼には実にルソー的な、スポーツ写真がいくつもある。
ルソーの絵の下写真に思えるほどのものだ。
だが、ルソーはかなりの時間と試行錯誤を経てその絵を完成させる。
それは勿論、「絵」という形式であるための制作方法的な要請としてでもあるが、それだけではない。
構成・構図・技法などを考え、構想して制作している。(所謂素人絵描きのボンボワ達の素朴派とは、一線を画する。しかし紙一重的な部分が無いとはこれまた言い切れない、、、)。
ラルティーグは、動くものを見据えて、ここぞという時の運動神経勝負である。
釣りのようなものか?
構成的な静物・風景・肖像写真家の要素はない。
マン・レイなどのカメラレスの熟考された芸術写真からは、程遠い。

しかし、ではプロの大作家の写真で、これ程軽妙洒脱な楽しい絵を撮れる人がどれだけいるか?
と思うと、多くは重厚で壮麗な方向に洗練を重ねて向かって行ってしまう傾向が強い。
そう、重くなり、それに従い、ノイズも無くなる。

ラルティーグは、重力を自我で調整しない。
それを強靭なディレッタント精神で許さない。
微細な存在-有り様を全てそのまま、活かす(解放する)。
単に細かいことは、気にしないのかもしれないが。
しかし大雑把な性格で撮れる写真ではないのは明白だ。

この際、作家はひとまず置き。
作品は、必然的に(物理的に)色褪せるが、この写真のイデアは瑞々しさを失わないことが判る。
いや、はっきりイデアの存在する何かであると言えよう。
今これ以上語る準備は、脱力中のわたしにはないのだが、、、
ずっと、多くの脳裏に残る写真であることは、間違いない。

そしてやはり、作家が気になる作品群である。
彼ラルティーグにとって、世界はおもちゃ箱をひっくり返したような愉しさに満ちたものだったと想われる。
そんな世界とは、恐らく微細で多様で異質なモノ全てを面白がり愛する精神を前提とするはずだ。
そしてその強度を保ち、畢生ディレッタントで押し通せることは、超人(ニーチェの)に近いと言ってもよい。


アッジェも後で、ゆっくり楽しみたくなった。
写真集は、見始めると面白い。

今日は思いっきり他力本願です(笑

シュールな世界をヒロイモノでご紹介♡

izumo012.jpg
何故か清々しくて、神々しくもある。

izumo019.jpg
楽しい。フィギュアも冷たいのか?なにか引っかかって落ちてこない気もしないでもないが。

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ノーコメント

izumo025.jpg
こっちは大変良心的な店だ。最近珍しいほどに誠実な。

izumo021.jpg
特徴がかえってよく分かります。だろうか?

izumo024.jpg
ホントにご無体な。

izumo023.jpg
信頼できるレベルまで来ました!ジョブズさん。

izumo027.jpg
すぐにあわてて終了させなくても、時折待てば復活することもあります。
うちのPCでも10回に1回くらいですけど。

izumo026.jpg
お茶目ですねえ♡
わたしの大好きなシトロエン♡

izumo016.jpg
最後は綺麗に。凛々しいお姿!ハイデッガーを思わせる


第二集もやるかもです(笑

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SeaSong の行く末に関して

donguri.jpg


すみません。うちわのことです。
私の二番目のブログ”SeaSong"ですが、作ったばかりで長いこと投げ出し状態になっておりました。
もうかれこれ、、、うんヶ月。
理由は今ひとつ編集しにくい、とくに画像とテキストの関係など。ヤフー
それから、何より紹介しようと思っていたものを集められなかった、私の怠慢が原因です。
もう年末ですし、整理をしなければなりません。
ということで、そのブログこれからどうするか、消し去るのかなのですが、、、

これまで何事もなかったかのごとく、続きをそう3日にいっぺんくらいの頻度でアップしていこうと思うのです。
いかがでしょう?
なんて、知ったことか好きにしろ!だと思いますが、とりあえず好きにします(笑

廃物利用でもないですが、せっかく開いたブログですので、使っていきたいと思いました。
本当は解約がメンドクサイノデス。(え?何語ですか?わかりませーん)

一応、小回りの効く、作りやすく集めやすい、調べやすいものをご紹介したいと思っています。
それではちっとも面白くないではないか!
お怒りの声も聞こえてきそうですが、わたしもマチュピチュの取材に飛んだり、ブラジルのUFOについて現地人にインタビューなどしたいのはやまやまなのですが、ちょっと無理があります。(ちょっと?)
そういうのは「世界不思議発見」に任せ、わたしはローカルな話題に特化します。ハイ?

SeaSongは大昔私が毎日更新していたHP(5つあったうち)の一つでもあります。
タイトルだけはとても想い出深いものなのです。まだまだ実は想い出深いタイトルは控えており、今年度中にもしかすると、永い眠りから覚めるかも知れません。
あくまでもわたしに余裕があればの話です。
わたしは最近、娘の隣で仮寝をすると、いつの間にか一緒にそのまま朝まで眠ってしまうのです。
人類は徐々に眠る時間と眠る深さが増大してゆき、植物化してゆくという話を読んだことがありますが、よい話です。(実は書いたのはバラードです)
すべてのヒトタチが月の元にソウナッテほしい、、、(宮沢賢治風に言ってみました)。

だんだん何を言おうとしていたのか、定かでなくなってきました。
私が最近、一番自分の中での著しい変化と感じているのは、記憶力です。
ほとんど覚えていない。何も。特に都合の悪いことはほぼ、すべて蒸発してゆく。
買ったものも忘れている。
落とした自分も忘れてしまい、うちに帰ってくる始末。
稲垣タルホか?自分なりによい境地に至ったものだ。
ってなんのはなしでしたっけ?

そうそう、ブログを再生するはなし、でした。
そこでこうします。
買い物などの帰りに、私のもっているカメラでRICOHのGRを使うことを縛りとして、路上観察委員会的なオブジェとおぼしきものを1分程度で撮る、としてみたいと思います。(その際、買ったものを落とさないように注意する!)
RAW現像ものは載せません。あくまでも画像確認用JPEGを小さなデーターにしてアップしますので。
画質どうこうという写真作品ではなくあくまでも何があったかの、「何」を載せます。
宜しくお願いします。

まずは何を撮るか、「どんぐり」だろうな、、、


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第14回「相模原市写真連盟展」

相模原市民ギャラリーにて11/12まで開催。相模原市写真連盟主催。
またしても、結果的プライベートビーチ状態の「相模原市民ギャラリー」での取材です。
こんなに小忠実にこのギャラリーの取材を律儀に行う人が果たして関係者以外にいるでしょうか?
なお、本来は絵画・写真の専用ブログとしています"Low"で行うはずなのですが、今プロコル・ハルムの紹介をしている最中なので、こちらで失礼します。

では、今回もわたしのローカル取材です。(作者の敬称略です)

まず本展覧会は加盟写真グループ単位での参加のようです。8団体参加しています。かなりの点数でした。
すべてを見渡してみて思うことは、「趣味」です。

やはり趣味の世界でした。
ただ、他者に見せるに十分な質はもっていました。

モチーフは、鳥、花、建物(古民家)、路地、公園、人物、彫像、樹々、雪景色、紅葉、渓谷・水、炎、一瞬の動き、反映する光、、、

まず、最近目が悪いせいか、距離をもつと物がぼやけて困るのですが、こんなとき異様にモチーフが際立って浮かび上がって見えてくるのは、背景を思い切りぼかして深度の充分にある写真です。

まるで3D画像のように見えました。
それは特に霧の遊歩道ii(興水サキ子)や秋たけなわ(酒井邦男)をはじめ、鳥や花をモチーフとした写真にはほとんど見られます。
また、色彩の鮮やかな作品に祭りをテーマとした物が目立ちました。「ハレ」の日(堀口浩幸)などに見られる色相の対比と凛としたモデルの佇まいの美しさ、収穫の秋、お彼岸の頃(柳一郎)にはさらに強烈に色の対比-コントラストが見られます。
反対に色のトーンを落とし、細やかなグラデーションで魅せるソフトな作品も多く見られました。
あからさまなソフトフォーカスという訳ではなく、グラデーションと色彩の対比(補色)で絵をまとめている物に、斜光(高橋豊吉)や夕映えの渓谷(倉本勝美)があります。オレンジと青の補色対比は霧と水繁吹の質感の対比にもかさなってとても柔らかく鮮やかです。
静寂(藤野富一)の鈍い黄から深緑までのグラデーション、グリーンの夜明け(金井勝利)の深い豊かな緑の光。

これらを見ると自然に写真は「光画」とも呼ばれることを思いおこします。
本来、光を切り取る芸術であることを。

また、写真ならではの作品として、砂丘遠望(篠崎明弘)があり、砂丘の中をずっと歩いてゆく小さな人々の後ろ姿を追うものです。さらに必ず展覧会にはある、ここぞという瞬間ショット。今回も何枚もありました。
また、絵画的な世界を狙った、射光の朝(吉永進作)の不思議な樹木の影。光Ⅲ(山口元秀)のモネかと思う印象派絵画のような光の画像。新緑(藤波彰)の構図の面白さ(ジョージア・オキーフみたいな)。

わたしが今回の写真展で最も繊細で美しさを感じた作品は、「凍てつく湖畔」(坂本武昭)です。
池の水面の風で乱れる波紋の表情をそのままの姿で凍結した薄氷の美。
自然の幽かな気配を見事に形象化していて感動的な作品でした。
それから、「合わせ鏡」(滝沢達巳)ですか、澄んだ水の最も説得力ある表現は、このような時間を止める鏡状の水面ですね。全くの合わせ鏡になっています。この水、これこそ純粋なメディアです。存在を表そう知らしめようとするとき、必要なのは、そのものではなく、このようなメディアに他ありません。

今回の写真展で今ひとつ観ることが辛く感じるものに、絵葉書タイプの写真があります。
これは構図・構成、色相、コントラストなどあまりに綺麗に収まりすぎていて、完全に閉じてしまっているため、他者のイメージを拒絶するようなものです。一見見事なのですが、とてもペラペラに見えてしまうのです。
技術は大したものですけれど、キレイに撮る以外の何かを感じさせないのです。
ある特定の場所の紹介写真などでしたら必要十分なものなのですが。これは山の写真や瞬間切り取り写真にかなり見受けられました。「絵葉書」によいと思いましたが。

写真は記憶と関連します。ですから基本的に個人的な重みを孕むものです。撮った本人が満足ならそれで良いはずなのですが、作品として発表するとなると、それは何からも中立して第三者-観る者の目に晒されるものとなります。わたしはその場所を切り取った意思が見えるモノに魅力を感じますが。
趣味的な楽しさはしっかり伝わってくる展示会でした。


以前、ここでの絵画展でご紹介したことのある、鈴木英子氏の絵画作品が別コーナーで展示されておりました。
大きい油絵が4点、小品が6点くらいだったと思います。
大きいものだけしか観ませんでしたが、やはり作風は不変もので、ポテロとルソーが混じってお洒落なトーンにまとまったような世界です。
「、、、ここはわたしの楽園です。動物も植物も、そして「私」も幸せに生きています。」
と作者の言う世界は、理想郷を作り、自然と共生する文字通り「秘密の楽園」であり決して今日-今ではありえず永遠の「NEXT DAY」であり永遠の「明日」であるしかない。しかしこの画布の中でだけは「NOT ALONE]なのであります。不可避的に有り得ないモノ達と有り得ない時空に共生する。ひとりじゃない、、、と絶対的な場所に住まう。
作家とはそのような者なのでしょう。





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志賀 理江子氏の作品から~幻想のありか

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相模原市民ギャラリーで、総合写真祭「フォトシティさがみはら」という催しが、10/11~10/28の期間、駅ビル(セレオ4F)にて執り行われております。

そこで今回取り上げたいのは、プロの作家の志賀 理江子氏です。
氏は1980年愛知県生まれということです。ロンドン芸術大学チェルシーカレッジ・オブ・アート卒。
しかし若い新たな感性などと言って括れるような作品ではありません。

「快適に整えられ自動化された日々の生活と社会に身体的な違和感を感じるところから表現を始めた」そうです。
そして身体と密接な土地との関係を求め宮城県を見出し、その後何度も訪れて太平洋側の北釜に出会います。現在そこに暮らしながら地域のカメラマンとして祭り等の公式行事の記録さらにオーラルヒストリー(口述史)の作成も進めているそうです。そして自分自身の写真制作の活動を精力的に続けています。
2007年にはすでに木村与兵衛写真賞、2009年にICPインフィニティアワード新人賞、2012年東川賞新人賞を獲得しており、個展もオスロやメルボルン、シンガポール、バンコク等日本だけでなく海外で積極的に行っています。

今回の展覧会のプロ4人の中で、最も想像力を掻き立て呼び起こす作家が志賀氏でありました。
作品は何か民俗学か文化人類学の学者がフィールド・ワークで土地や人や言い伝えや神話を調べなぞり直すような作業も思い浮かべるものです。また、地質学者のような目でその土地を作る鉱物を肖像写真のようにその表情を精緻に撮り分けています。
鉱物の写真はすべて時間?数値で記されていました。

人もたまたま写っていますが、あくまでも茫洋とした風景の部分として、
または何かの影のごとく、通り過ぎ又は屍体のように無名なものとして在ります。
誰が執り行っているのか分からぬ何かの儀式や痕跡(穴)も一部見られます。
しかしなんの儀式かその名前も目的も誰も思い出せません。
名もない宇宙人も寄る辺ない石ころのように、ころがっています。
ここにはいささかも奇異な物などなく、奇妙な関係・組み合わせもありません。
ここには名や生や死は何の意味も持ちません。

非常に物質的な、場所というものを志向した作家だと感じます。
写真を撮った時間帯は夜(深夜)か、夜明けのトワイライトゾーンのように見えます。
草や木が生き生きとした異次元の動物のように待ち構えていたり、
ヒトも一体となった不思議な存在となって場所を形作っています。
次の朝、太陽の下では何も残ってはいません。


写真の主人公はあえて言えば、「場所」に他ありません。

そしてやがて場所から立ち上がってくるもの、これが「ことば」であり「光景」であり撮るべき「写真」
-「イマジネーション」なのでしょう。
非常に生々しい、生まれたての言葉で捉えられた、初めて目にする光景ー事象はイマジネーションそのもの。
氏はイマジネーションは自分の中に生じる個として持ち運べるものではなく、このような氏をひとつの媒介といてその場に立ち表れるものとして捉えているようです。
観測者ー撮る側も数式に組み込まれて成り立った場所-世界です。

ここが幻想というリアルな世界の有り様なのではないかと思います。
別に科学と呼んでも良い。



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ダイアン・アーバスの写真に触れて

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アーバスの写真は真正面から撮ることが多いことを除くと、レニ・リーフェンシュタールの「ヌバ」にも似ていると思いました。純粋に他者(異物)の強烈な美の記録という点において。
普遍的な強度をもった。
またアーバスはその対象の異質さにより、リーフェンシュタールはナチに絡んだ過去によりまともに論じられることはなかった点も似ています。

アーバスが狂信的なバッジを付けパレードに参加する青年を撮ったのは、情熱にもえる恍惚とした憑かれた美が、ただ撮りたいからであって、同じ強度で夥しいフリークスも撮っていたのでしょう。そこには政治的・思想的な動機など微塵もなく、自身の生の根源的欲望に従って、まさに生の証として撮りたいものを撮るという一貫した姿勢がありありと窺えます。その点で、リーフェンシュタールはやはり芸術(写真芸術)を意識していたことは疑えません。
アーバスはファッション写真家からの転向のように捉えられますが、ある意味、ファッションにおける虚構美も「それ」と通底するグロテスクさが認められたはずです。少なくとも彼女にとっては等価のものだったかもしれません。アーバスにとってカメラは、嫌悪を抱かずにいられないのにどうしようもなく惹かれてやまない彼らーそれに対峙する唯一の道具だったでしょう。ともかく「それ」を記録しないではいられなかったのです。正面からキッチリと。その点においては、彼女はいかなる枠にも派閥にも属さない単独の記録者であったと言えます。結果的に作品が良識やタブーなどに守られた凡庸な美意識を逆撫でしようが揺さぶろうが、彼女の関心はひたすら「それ」に向けられるばかりでした。いえ、「それ」から逃れられなくなるのです。

しかしそのままいくと必然的に彼岸へ、彼岸のものへとひきずりこまれてしまうのでしょうか?
あの歓喜の群れのなかへと、、、

「略、、、船が火事でゆっくり沈んでゆくのを、わたしは知っていました。みんなもそれを知っているのに、明るく踊り、唄い、キッスして浮かれ騒いでいます。希望はありませんでした。でもわたしは恐ろしいほど興奮していました。撮りたいものがなんでも撮れるのです。」(アート・フォーラム71年3月)
アーバス最後のメモです。数ヵ月後に手首を切ります。

生前に写真集が出版されることはありませんでした。


”An Aperture Monograp”と”Diane Arbus Revelations”さらに”Magazine Work”が現在、アマゾンなどから手に入ります。
わたしも昔、写真雑誌に抜粋されたものしか持っていません。今度買おうかと思っています。

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プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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