カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

幻想の対象化へ

Anton Lehmden001

実際の作業には時間がかかるが、ゆっくり着実に前のめりに進めてゆきたい。
自動的に増殖するイメージの消費と相克、そのさなかでの現実の虚構化。
これはあらゆる場において留まることを知らない。

幻想=表象として思考する反復の限界と、その鏡像関係の閉塞に関して。
その欲望を投影する自明性を不透明にすること。
自己疎外のメカニズムを晒す。

無意識的で根源的な思考及び想像力の場にゾンデを垂らす。
様々な幻想の相互浸透する波間の~両義性の中へと。
だが実際、そこが生きた現実~時間ではあるのだ。

幻想を意図的・創造的に描く画家たちは、極めてそれに自覚的だ。
幻想を対象化するための強靭であり極めて脆弱な身体性に全てを委ねる。
その目覚めの時の喪失感から遡り、無時間の世界の定着を図る仕草は、、、

余りに完璧で理路整然とした果敢無い夢の断章の捕獲にも想える。



マルセル・デュシャン

MarcelDuchamp001.jpg

画家、彫刻家、チェスプレイヤーである。
絵画(油絵)を1912年以降、放棄してからは、チェスに没頭していたようだ。
ダダの芸術家たちとの接触、一時はその中心的位置(ニューヨーク・ダダ)にいたが、シュールレアリストとのコラボも経てゆく彼は、そのいずれのグループにも所属はしなかった。常に違和を唱えていた。
何らかの組織に帰属することは徹底して拒んでいる。
そして彼はヨーロッパ(フランス)に見切りをつけアメリカに飛んでいる。

但し、ダダイストであるフランシス・ピカビアには多大な影響を受けたようだ。
『人間機械論』のピカビアである。(わたしは彼の「機械の時期」が大好きだ)。
ピカビアの追求した機械の美しさはデュシャンに色濃く受け継がれていると見られる。
『チョコレート磨砕器』、『回転ガラス板』、『地上稀なる絵画』等に特に色濃く反映されていると思う。
勿論、『大ガラス』を忘れてはならない、、、。

MarcelDuchamp005.jpg

『階段を下りる裸体』(No.2)が未来派やキュビズムの画家たちにすら理解されなかった。
これ以降、彼は絵画制作から急速に遠ざかる。
「裸体は階段を降りない」という批判はこの絵画に対する批判たり得るか?馬鹿げている。
「題名だけでも変えろ」などという忠告も受けデュシャンは呆れかえった。
ここには他のどんな絵画よりも「運動」が優れて捉えられている。
未来派やキュビズムの最高の成果とも受け取れるものだが。

クールベ以降の絵画は「網膜的になった」という批評を美術界に放って以降、彼の作品は油絵からコンセプチュアルアートと呼べるものへと移行する。
単なる「網膜的な愉しみ」に終始している藝術を終わらせる彼の企てであろう。
レディ・メイド、匿名芸術、複製芸術、死後の芸術、インスタレーション、、、
などの様々な方法論によって「観念芸術」を試み、意欲作を作成する。
チェスにも通じる「思考の愉しみ」の為の芸術か。
レディ・メイドをはじめそれ等に対し彼は明確な定義をはぐらかすような言葉「私は何もしていない」などと騙っていた。
特にレディ・メイドは、既製品をそのまま、叉は手を加え(修正し)て自分のサインすることで出来上がりとするオブジェ作品である。
この衝撃は実際、大きかった。
実質、ここからコンセプチュアルアートが始まっている。

MarcelDuchamp006.jpg


絵具や支持体を使わぬ作者の手もほとんど介さぬ作品群である。
もっとも『大ガラス』はガラスを支持体にはして何年もかけて(確か8年くらい)入念に制作されている。
ガラスの間に埃などを挟んだりしていた。
無論他にも、油彩、ガラス、鉛の箔、ヒューズ線も挟んでいる。

MarcelDuchamp003.jpg


ローズ・セラヴィ名義で作品発表、、、自身の「性」と「宗教」の移行でもある。男ー>女、カトリックー>ユダヤ教となる。
女装もしている。何処となく南伸坊さんを思い浮かべる。森村 泰昌氏のそれとは違う。
作家自身も変身~作品化するのだ。
『ローゼ・セラヴィ、何故くしゃみをしない』(鳥篭に角砂糖型の大理石と温度計とイカの甲が詰められている。見るからにクシャミしたくなる。しかもたいそう重そうだ)、『ベラレーヌ: オー・ド・ヴォワレット』(リゴーの香水瓶のラベルを自作のものに付け替えている、、、こういうのやってみたい)。この辺はローズ・セラヴィ名義である。

MarcelDuchamp002.jpg


彼の作品は、その題名が重要な役割を果たしている。
少なくとも作品を読む糸口には違いない。題名が作品の一部とも謂えるものもある。

『階段を降りる裸体 No.2』キュビスム更に未来派の手法を用いて描かれている。「屋根瓦工場の爆発」と揶揄されるが本作でデュシャンの名が知れ渡る。
『泉』逆さまにした男子用小便器に「リチャード・マット」と署名した作品。レディ・メイドの傑作。アルフレッド・スティーグリッツによる写真が残されている。尚「泉」は誤訳で「噴水」であるという説があるが、わたしもそちらに賛成である。
『彼女の独身者によって裸にされた、花嫁さえも』(『大ガラス』)運搬中にガラスに罅が幾つも入ってしまったことを彼は喜んだという。これは、本当に大作というオーラを感じる。結局、未完ということになった。
『遺作』「1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ」は彫刻であり、インスタレーションである。木の扉の穴から中を覗くと、見事に仕掛けられた白日夢(と、よく謂われているが)の世界が広がっている。
視覚のシステム~問題を様々な形で批評して来たその最後の作品と謂えるか。

『自転車の車輪』、『ビン掛け』の両作品は妹によってごみと間違えられたか処分され、現存しているのはその再現作である。
『折れた腕の前に』レディメイドの最初の作品。
『秘められたる音に』レディメイドの初期の作品。
『L.H.O.O.Q.』モナリザに髭を付けた作品。
『グリーンボックス』メモ集。断片的な解説?箱に収められている。ちょっとドキドキする。箱に入れておく意味は小さくない。
『トランクの中の箱』限定300個制作。
『髭を剃られたL.H.O.O.Q.』モナリザの複製画に自分のサインを施した作品。複製品のまんまでもある。
『ホワイト・ボックス』メモ集。科学的なもの(4次元に関する)。箱に収められている。これもドキドキする。
『贈り物』アイロンに釘が一列に接着されたもの。
等々、、、。

題名がやはり示唆的で意味深い。
その作品鑑賞に分かちがたく結びついている。
更に『グリーン~ホワイト・ボックス』など、作品制作の設計図~全体的なコンセプトも併せて用意された。
中西夏之の作品も設計図?を元に後世の人が制作できるようなものとなっていたが。

MarcelDuchamp004.jpg

『大ガラス』上部の「花嫁」の領域と下部の「独身者」の領域に分けられるこの作品は観ていて飽きない。
わたしにとって、とても不思議な作品だ。
複雑さがこれほど美しい造形を生むのはとても衝撃的で新鮮で不安でもある。
マルセル・デュシャンというとやはりこの作品が真っ先に頭に浮かぶ。
この作品の謂わば解説のようなものが『グリーンボックス』である。
読むと彼の思考プロセスとコンセプトが浮かぶと同時に更に謎が深まる類のものだ。
それもデュシャンの仕掛けのひとつであろう。
アンドレ・ブルトンに高く評価された作品でもある。

この作品については、またの機会に触れてみたい。余りに絶妙過ぎて、深入りする気はないが(爆。

アンリ・マチス

Matisse001.jpg
「マティス 夫人像」

夜遅くになって、アンリ・マチスの絵を眺めはじめた。これはほぼライブに近い(笑。今11時。

原色を多用した絵で、ブラマンクやドランらと共にフォービズム(野獣派)の画家と呼ばれる。
(しかしブラマンクの波打ち渦巻くようなタッチの激しさに比べマチスは構成的な色彩の方に目が向く)。
確かに野獣派と言われるだけあって、強烈な緑に赤の補色の使い方などの配色・色彩構成が際立つ。
最初に「マティス 夫人像」を小5の時に観て、その印象が脳裏に沁み込んでいる。
マチスと聞くとその夫人像がまず目に浮かぶ。
何しろ顔の真ん中に緑の線が引かれていて、新鮮で特異ではあるが破綻のない見事に肖像画となっていることに驚いたものだ。
これは色を塗るではなく、色で絵を描く際の典型的な参考作ともなる為、娘たちにも見せておきたい。
寧ろ大人になって見せるより子供の時期に魅せた方がよさそうな気がする。

日本の画家では萬鉄五郎が近い感性(理念)をもっているように思える。
だが、そういった激しい表現はそう多くはなく、寧ろ涼しく静謐な旋律の聴こえてくるような絵が目立つ。


Matisse003.jpg
「ピアノのレッスン」

モンドリアンもそうだが、この単純な面の色構成は絶妙としか言いようがない。
いつまでも見ていたい心地よさだ。部屋に飾れば静かな涼やかな風がそよいでくるに違いない、、、。
モンドリアンの絵をコンピュータを使って、様々な考え得る色面構成を試してみた結果、画家の選んだ色以外に絵となるものがなかった(最高の色構成であった)という実験結果があったが、丁度、この「ピアノのレッスン」も同様だ。
恐らくこれ以外の色構成は望めないはず。
どの色もその面積も位置も変えようがない形で構成・存在する。

どうみても修練を重ねた色彩家が計算し尽くしたうえで、瑞々しい感性のもとに描き込んだと感じられる。
マチスの身体性そのものからの表出と謂えよう。
やはり自らがやるべきことをやり続けてきて発酵~熟成した成果というものか。
芸術家に限らず、ヒトはこうであらねばと唸らせる。
(最近特に虚しい生き方をしている輩をよく目にするにつけ、つくづくそう思う)。


Matisse002.jpg
「王の悲哀」

これは色彩の魔術師である彼の真骨頂を発揮したコラージュ作品。
たしかに貼り絵で彼の持ち味というか資質がストレートに実感できる。
確かに色彩の魔術師だ。
こうは上手くいかなくても、これをやり始めたら面白くて夢中になってしまうだろう。
今度、教室でもやってみたい。
勿論その都度、思い付きでやる訳にはいかない。カリキュラム的な流れは必要だ。
だが、色塗り、筆使いと共にこちらをやっていかないと色彩感覚を磨かず色だけ漫然と塗らせていても意味はない。

色紙を用意しておこう。
今度はわたしも一緒にやってみることにする。
というか、わたしがやりたいのだ(笑。

この絵は、大学時代に部屋に飾っていたものだが、いつの間にかなくなっていた。
額入りではなく、ポスターをピンで留めておいただけなので強風が入った際にでも何処かに飛び去ったか。
それはそれで趣き深い、、、。

教室の一回目

omocha002.jpg
(本当のセットの写真は、もっとおもちゃカボチャを足したものを来週((笑)。

頂いた大きなオレンジカボチャ3個。
これがひょうたん型でなかなかボリューム的にも凄い。
それに加え、わたしが花屋で一つだけ調達できた、おもちゃカボチャの4つで構成して、、、
(色々な形を期待して行ったのだがワンパタンしかなかったのだ。270円。昔は100円で買えたのに、、、)。

クロッキーを5回やった。
一回3分。
線~輪郭線だけで描く。
消しゴムは一切使わない。
iPhoneのストップウオッチで「はじめ」、「はい、そこまで」などとやると、かなり面白がっていた(笑。

ただ、そのまま描かせると、小さめになることが多い。
クロッキー帳のページ一杯に描かせるようにする。長女はそれで直ぐに大きく調整したが、、、。
次女のように何でも小さく描きがちなケースには、予め薄く絵をおさめる大きさの丸(楕円形)を描いてガイドラインとする。
するとほぼその大きさで描けるようになった。
(思ったよりあっさり、、、)。

描いた中から一つ選んで、色を塗らせた。
今回は、少し水を多めのポスターカラーで。
これまではリキテックスで描かせることが多かったが、アクリルだと後始末が大変である。
薄い紙に描くことから、透明水彩も考えたが、コスパと使い勝手を取り、これにした。
充分これでイケる。

透明水彩は、色の扱いに慣れてきて、知識も実地で身につけてからでないと、思うようには描けない。
グワッシュにするならポスターカラーでよい。グワッシュは高いし。
一回目としては、そこそこ手応えはあった。
筆使いは沢山描いていくことがまず肝心だろう。
ちなみに、わたしは描くどころでは、なかった(苦。
もう少し波に乗ってから描き始めようと思う。


生徒は来るべき子がまだ、来れる状況ではない為、来週からとなる。
だから今日は、うちの娘二人とである。
最初だからそれなりに真剣にやってはいたが、家族であると次第にだらけてくる可能性は高い。
やはりそこに他人が入ることでピリッとしてくるものだ。
来週から来てくれれば丁度良いか、、、。



ユトリロ

Utrillo004.jpg

私生児で10代からアル中になり、少年時代は大変苦労したという。
入院したり警察に拘束されたり学校にも馴染めずで、不安定でかなり荒れた生活をしていた。
健康状態も悪化したり小康状態になったりの繰り返しであったらしい。
母親も手をこまねいて人任せになり、祖母に預けることも多かったようである。
しかし祖母が元々アル中で、ユトリロ少年にも酒を呑ませていた影響が大きかったと謂われる。

要するに生育環境が悪かった。
人はそれを選べないのが、決定的なところである。
この初期の受け身の状況については、どうにもならない。
では、それを変える~脱するには、もうカントの説くように自らがそれを選んだと捉え返し、自らの主体として生きなおすしかない。

ユトリロ7歳の時の母シュザンヌ・ヴァラドンによるデッサンはよく彼の特徴を湛えている。
晩年のユトリロの写真にも残る面影が窺える。
鼻つきがまさに彼である。
どういう対象として描いたのだろう。
この頃は彼女も画家として成功している時期だ。

結局、彼女が息子のアル中療法として彼に絵の手ほどきするようになった。
だが、師匠の言うことを素直に聴いて画業に励むというより、独自の画法を編み出して描いてゆく。
かの有名な白い絵だ。
何と絵の具に漆喰を混ぜている。

Utrillo003.jpg

はじめは、描くこと自体嫌々ながらであったらしい、、、想像はつくが。
母とは異なる作風であるが、彼も高い評価を得るまでにそう時間はかからなかった。
それに従い、とても平穏な日常生活も手に入れてゆく。
絵を自ら描いてゆくうちに、生命力の核に触れていったのだと思う。
自我とか主体よりもっと深いところに、図らずも降り立ったのではないか?
それが確信を生み、強固なものにしてゆく。身体も落ち着く。
外的なシステム~法に全く左右されない内的な基準~価値の獲得により、、、。
大概、優れた芸術家はその域に達している。
(世間の目や流行りや、才能などという外部の尺度などは端から意識にないが)。

自分のやるべきことをひたすら、やる。
創造行為とはそうしたものである。

Utrillo002.jpg

ユトリロは、ひたすら街を描く。彼にとって絵を描くとは、街~街頭を描くことであった。
彼もまた、パリに色々な国や地域から集まって来てモンパルナスやモンマルトルの街や風俗や人々を、ボヘミアンな生活を送りながら描き続けた所謂、エコール・ド・パリの画家に数えられるが(その中でも特に有名な画家であるが)、彼にとってはパリは生まれ故郷であり自分の元々住んでいる街頭を描いているだけである。

それがとても寒々としている。
人は時折、街路や階段に見つかるが、本当に他者であり、何か繋がりの感じられる温もりの表情はその姿にない。
だが、白い建物や路(石畳)は構図と共にとても堅牢である。
白の堅牢なマチエールが更にその建造物の内と外を厳しく隔てているようだ。
ユトリロは勿論、外にいる。
ロートレックは中にいる(笑。(レオナール・フジタもいた)。

Utrillo001.jpg

最初に見た絵がこれだったか、、、。
とても孤独な絵だ。
孤独というものをじっくりと感じさせる。
だが、寂しいとか悲惨なものでは全くない。
確信的な孤独である為、力強い。
強度のある孤独である。


観ているうちにこちらにも力が漲ってくる(笑。
いや、本当に、、、。



ロートレック

Lautrec001.jpg

どの絵も闊達な筆さばきで気持ち良いし小気味よい。
何と迷いのないスピード感溢れる絵か。
絵の上手さでいったら、これ程上手い画家もそうはいないだろう。
画家は皆、上手い人揃いだが、その中でも抜きん出ている。
と、絵を観ていて、つくづく思える。

Lautrec002.jpg

ポスターになると、もう水を得た魚みたいに伸びやかでしなやかな線が決まりまくる。
本人も描いていて楽しくてしょうがないだろう。
その楽しさがリズミカルな旋律に乗って伝わって来る。
この快感がたまらない。

Lautrec005.jpg

それに平気で厚紙~ボール紙にグワッシュなどでガンガンと描いている。
恐らく手近にあったもので描いていたりするのだろう。
中にはツギハギで、打ち付けた釘の頭まではっきり出っ張っている板に、伸び伸び達者で奔放な絵を見事に描きつけている。
これは日本の伝統的な美学の用の美にも通じる精神か?
文人画にも通じる域のものである。
粋だ。

なかなか普通、そんな素材に絵を描けるものではない。というより描こうとさえまず思わないものだ。
そこにおいても何か飛び抜けた感覚と理念をもっていることが窺える。
ともかく、何だろうが描いてしまうのだ(爆。

Lautrec006.jpg

由緒正しい貴族の生まれであったが、幼い頃の事故から下半身の障害を得たロートレックは、爛熟した文化の中心というか坩堝のようなムーランルージュ~キャバレーの奥深くへと、踊り子や娼婦の私生活の内にまで入り込んでゆく。
まるで空気のような存在として彼女らを活き活きと描いている。
そこに自分の住処を移し、究極の自在観を得たのだ。
(出自・身分に囚われ普通の脚でスタスタ歩くことより遥かに自在で伸びやかな生を手に入れたのだ)。

この辺で、彼は恰も目の存在となり、何でも自在に描け、何処にでも何にでも描ける極意を身につけた感がある。
彼のしなやかさはこういう場から生まれているのだ。
きっと。

Lautrec003.jpg
ユトリロのお母さん、シュザンヌ・ヴァラドンも描いている。
彼女もとても優れた画家であり、ユトリロのお師匠でもあった。
確か酒も彼女から習っている。
ロートレックも大酒呑みだ。それで体を壊している。

ちなみにシュザンヌはその美貌からルノアールのモデルなどもかなりしていた。
あの有名な「ブージヴァルのダンス」とか、、、。
マルチな活躍ぶりである。

ユトリロはパリを外から寒々しく孤独に描いた人だが、ロートレックはパリの中身、その深奥の熱気溢れる渦を捉えた画家だろう。
どちらも優れてリアルであるが。

Lautrec004.jpg

ゴッホとは結構、意見も合い仲も良かったらしい。
芸術家は自分の感性と内的な価値意識が絶対的なものとしてある。
(世間や外的な基準・規範など端から知った事じゃない人たちでもあり)
そうそう仲良くなれるものではない。
案外、名コンビに思えるが、、、。
しかし、アルル行きを進言したのはロートレックそのひとであった。
そこに行けば精神的に落ち着くのではないかという配慮からだろう。

ゴッホは、ゴーギャンと共同生活をアルルでして、ああなったが、ロートレックと娼婦の館に住めばもっとヒトが丸くなり?大画家になるまで生きていられたような、、、。
でも晩年の狂気の傑作~糸杉に比べられる作品がここで描けるかどうか、、、狂気があれを描かせたとしたのなら、無理か、、、。だが、違う形の傑作が生まれた可能性も高い。創造の根っこはちょっとしたことで変わるものではないし。

それに、ふたりとももう少し長生き出来たかも、、、。
ユトリロ36歳、ゴッホ37歳没である。
これでは余りに早すぎる。


コロー

Corot001.jpg

絵心とかよく聞くが、コローの絵を観ていると、その絵心というものがじわっと実感できる。
その絵を描くことの恍惚感を想い、、、
脇に置いていつでも観ていたいという絵である。
「絵」なのだ。
それ以外の何ものでもない。
伝統的な手法の傑作はあるが、それを越えているところが感じられる。
そこが面白い。

コローから、印象派まであと一歩のところにあることはよく分かる。
影の部分がそれまでの画家の絵とは異なってきているからだ。
ただ明度と彩度を下げ黒を混ぜたりする(所謂、ヤニ色という定番処理)ではない。
影の部分にはそれ相応の色(色相)があることを発見している。

タッチも落ち着いていて静かだが、細やかなだけでなく大胆で確信的でもある。
必要最低限の単純な筆致と色で恐らく素早く仕事を仕上げたと感じられるものも少なくない。
ここでもやはり、省略したりぼかしたりすることで、その空気感も含めたリアリズムを追及している。
何でも細かく埋め尽くせば、リアルになるという考えは、もうここにはない。

都市の光景もモニュメンタルで一種の偉大さを証明する絵ハガキ的な構図ではなく、画家の感性で切り取った詩的で私的な風景が観られる。
場合によっては、その建造物が何であるのか分かりにくいものもある。(例えば「コロセウム、、、」)。
観光写真でこれが~とはっきり分かるそんな構図では、もはやない。
あくまでも画家がこの情景が美しいと感じたまさにその絵なのだ。
この点で、コローは印象派に繋がる資質をはっきりと示している。
丁度、現在われわれがとっても心惹かれたアングルの風景をスナップショットで切り取るような感じだ。
それは無名の風景になっている。とても新しさを覚える。

Corot002.jpg


如何せん、写真を撮っただけだと、それで安心してその風景を味わい尽くさないのが、大方のケースだ。
例え、簡単なスケッチでも自分で描いておくと、かなりイメージが脳裏に残る。
その印象を大切に、先ほど撮った写真も参照して家に帰って絵にするとかなり良いものが出来るかと。
本当はその場で粘ってずっと最後まで描ければい謂うこと無いが、実際はそうはいかないことが多い。

でも写真を元に何となく描き出すと、かなり危ないところに引きずられてゆく。
コローの世界~絵から遠い光景にどんどんなって行ってしまい焦る。
自分の「絵」~印象というものを最初にしっかり意識し、描き始めなければならない。
(描き始めが肝心である。それ以降はブレないよう、勢いを大切に進めることだと思う)。

コローを観ると、どうしても描くことそのものに気持ちが流れてゆく。
そう、描くことの恍惚を感じさせ誘惑する絵であろう。
もう少しで、印象派に繋がり爆発する前夜の密かにワクワクする絵ともいえる、、、。

Corot003.jpg



モネの快楽~快眠

Monet001.jpg
「散歩、日傘をさす女」は数パタンある。恐らくこれが美術の教科書で観たものだ。
もっと派手で煌びやかで、色彩がビビットなものがある。
ちなみに、その華やかバージョンの方は傘の柄が描かれていない。
もう、光と渦巻く色調と風を描くのに夢中で、そんな細かいモノなど描いてる場合じゃない、とばかりの勢いのある絵だ。
ただ、教科書にあったのは、こちらか、、、今では調べようもないが。

モネという巨人を書かないできたが、書くとなるとなかなか厄介である。
セザンヌのように考えさせるタイプの画家ではなく、寧ろ考えさせない画家であるか。
彼のある方向性を考えに考えて展開してしまった絵画がその後の前衛現代絵画でもある。
ひとつ観念的~思想的なネタが分かってしまうと、もう面白くないというものは多い。

モネは、考えてしまう前の状況で描こうとした。
題名はついているが、その「場」そのものを描いているとしか謂えないような絵である。
中心があるようで、なく、主題はあるとは謂え、それが切り離されてはいない。
一気呵成に捉えたもの~ことを描き切る。
結局、その「場」の本質を掴もうとするとき(勿論モネはそんなことは言っていないが)、説明的な配慮を完全に捨てる。
直覚したその事象の全体性を取り込もうとする運動そのものとなる。
そんなリアリティ~写実なのだ。
リアリティを現す際に傘の柄など結果的に必要なかったりする。(あくまでも結果的に)。
しかし、それを論理的に意図的操作で省略したりし始めると現代美術の頭でっかちになってしまい、面白くもなんともなくなってゆく。

Monet002.jpg

モノは場のエネルギーとして励起した姿である。
そのエネルギーそのものを鬩ぎ合いつつ描きとろうと愉しく格闘するモネ。
そこに概念的な説明の枝葉をくっつけていってしまうと、だんだんエネルギーが失せモノそのものの姿~運動が形骸化してゆく。
まさにプラトンのいうイデアに対する影みたいな絵になっている。
そう残像みたいに虚ろなものになるだろう。
それに比べてモネの鮮やかさときたら、、、。

われわれが絵を描いていると、描くうちにどんどんそちらの方向に向かって行ってしまう。
まるでエントロピーの法則みたいに。
そして観念的に略してみたり止めてみたりすると、とてもわざとらしく心地悪い。
やはりモネみたいに快活に活き活きと(ネゲントロピーそのものに)描ければとっても気持ちよいはず。
彼は、ずっと目が観えなくて手術か何かで急に眼の見えた人になりたい、みたいなことも言っていた。
赤ん坊にとっての外界みたいな光の渦を生々しく体験してみたい。
やはり、はじまり、、、これが重要なのである。
何故か?(われわれはすべからく生と死に昏く、その間は言語的な概念に縛られ続ける)。
われわれは気が付いたらこのように見えてしまっていたのだ。
まさに、ことばの獲得に同期するように、、、。
そうなると、もう知ってしまった以前に遡行は原理的に不可能となる。
しかしモネは例外的な芸術的な鍛錬と意思でセザンヌが言ったように「目そのもの」になってしまった(ようだ)。
それをもって天才と呼ぶのだろう。
では、われわれがその状態を獲得するには、と考えたとき、技能的には遠く及ばずとも、科学的な認識によりその世界に近づくことは可能であると思う。
やはり量子物理学的世界観は全てのベースとして要請されるしかない。

Monet003.jpg

これまでわたしの抱いてきた彼について、いや彼を巡る印象~感想である。
わたしもモネの一ファンであることは間違いない。
それにわたしは、あまり論理で突き進むだけの現代美術には関心が寄せられなかった分、モネの快感がまだ瑞々しいまま残っている。

ただわたしの個人的な趣味で、モローバルテュスボッチョーニが大好きトリオなのではあるが(笑、、、。
それは仕方ない。
モネは見る度に、いいなあ~っと、ただ快楽に浸れる画家である。
初期の頃の硬質な感じの絵からして好きだ。


何だかわたしは(も)、印象派が好きなんだと今更ながら自覚するのだった(爆。
今夜はじっくりモネ画集を眺めて寝よう。
ラベル(モーリス・ラヴェル)の「水の戯れ」でもかけて。そうだその後に、「マ・メール・ロワ」と「亡き王女のためのパヴァーヌ」を繋げて、、、ZZZ(笑。

Monet004.jpg




シスレーに触れて

Sisley001.jpg

シスレーについては色々と語れる程、観て来た画家ではない。
確かに画商でも評論家でもあるまいに、多くの作品や資料にあたる機会もないものだ。

大概、他の画家についても、絵をたまたま数点~数十点観ることで、(心地よい美に浸って惹かれてしまうなどして)それがその画家のイメージとなってきた。
ひとつの絵のなかにその画家の強烈な個性や創造性が渦巻いており、そのエッセンスを感じ取れれば彼~彼女のイメージが自分の内に生成されてゆく。

、、、考えてみると印象派には「風景画」の傑作が多い。
かつてない風景画が沢山生まれていることに気付く、、、
みんなチューブ絵の具をもって外に出て、五感全解で自然の神秘に、言葉~伝統を捨てて向き合ったのだ。
そこから生まれる生の風景の輝きが感じられる。
(生チョコレートでも生ビールでも、なんでも、生のつく美味しさである)。

わたしのなかでシスレーは、数少ない作品からイメージが作られている。
彼の絵では幾つかの「風景画」しか知らない。
如何にも印象派という風景画だ。
とても穏やかで美しい。
はっきりと分かる流麗なタッチと優しく鮮やかな色彩が心地よい為、血圧もスッと落ち着く(笑。
でもそんな絵である。
それだけで充分。
これだけ心地よい風景というものは、滅多に観れないことに改めて気付く、、、。
見直してみてつくづくそう思う。

その風景を観て、他に何かを探す~探る必然性も感じない。
シスレーを研究したいなどという気持ちも微塵もないため、気に入った風景画がシスレーそのものである。
絵の画題など知らず、シスレーで総称している。
実際、シスレーは「印象派の風景画」を極めた人のようで、生涯の作品のほとんどが風景画であったという。
かのピサロも認めた画家である。
作風もしっかり安定しており(恐らく変化も然程せずに)達者な印象派の手法で、次々に風景画を描いていった。
安定というより、しなやかで安らぐという感じか、、、。
一種の焦慮の念や郷愁も覚える。
そこに無性に惹かれる。何だろうかこのときめき。
特に、水辺(河)のある空気の広がった風景が好きでたまらない。

Sisley002.jpg

はじめの頃はとても裕福な家庭の息子であったため、絵が売れなくても何の不自由もなかったようだ。
シスレーの活躍した当時、印象派はまだ売れる段階にはなかった。

後に 普仏戦争と父親の破産のため困窮することになる。
後援者が現れ何とかやって行けたようだが、、、。


今日、画集で見直してみて改めてシスレーが気になって来た。
作品展があったら、何があっても行って、じっくりとタップリ時間を費やしてその世界に触れたい。

美術教室準備

moonbow.jpg

今日をいきなり第一回目とした。
まだ肝心の生徒さんは間に合わず、娘二人と開始しようと、、、しかし。
彼女らもやることがあるし、まだそのつもりになっていないということもあり、プレ教室としてワークショップをやることにした。
今日は宿題をしてからパーティのお買い物があり、わたしもついてゆくことになっている。
その後、外へ。できれば公園で、、、。
何?次女は先にお風呂に入ると、、、。
(ゲームを始める前に何とかしよう)。


ワークショップは何かというと、二人ペアとなり、片方が目を鉢巻きで隠し、もう一人が道案内をする。
極めてシンプルなもの。
手を繋ぎ、道の凹凸などはしっかり目隠し相手に教えて歩く。
ヨガのひとつの方法らしい。
これはわたしが大学時代に外部講師から教えてもらったもので、非常に面白かった経験がある。
何の授業でやったかは忘れたが。

目が見えない側は、「光と影の変化」や「風の向きや強さ」、耳に入って来る「音の方向や響き」、「地面の微妙な硬さ柔らかさの感触」などをいつになく敏感に感知~感得する。
そう、それが思いの外劇的変化だったりする。普段はオブラートで包まれたかのようにしか感じないことが。
鮮烈な刺激で感覚能力が上がったかのような印象を受ける。
いや実際あがっているはず。
日頃視覚~概念(悟性)に余りに頼り過ぎていることからくるぼんやりした感覚から抜け出る、かなり手軽で効果的な試みの一つと想える。
(その講師の方は有名な物理の先生だったらしいが、名前は失念した)。

モノの観察、モノに関わってゆくには、こちら側の感覚が研ぎ澄まされているに越したことはない。
(なるほど、物理はかつてないほどの微細でデリケートな観測を強いられている)。
少なくとも知覚の幅が(心理的にでも)広がっていれば、その分モノが瑞々しく捉えられることが期待できよう。


、、、と思って表に出ようとしたら、タイミングよく大雨がいきなり降って来た。
(逆シンクロニシティー、、、そんなものがあるか?)
どうやら、、、わたしが絵を描こう、絵の準備をしようとするとこれまでも何か決意を挫くことがあったが、、、
結局、長女の提案通り、来週の木曜日から開始することとなった(残。
考えてみれば、家族の中でやるより、生徒がいた方が背筋もしゃんとする。
親子だけでやるのは、恐らくピリッとしない。
他者がいることで教室らしくなるというもの。 


しかし愚図つく天気の続くこと、、、。

天体望遠鏡もず~っと覗けない、、、。







セザンヌ

Cézanne001

セザンヌを観る度に頭を過るのは、「達人」ということばである。
彼の絵には、余白がそのまんまのこされているものがある。
余白と言っても背景とかではない。
人物の頭部や体~衣服である。
然も余白があってしっかり凄みのある絵となっている。

もしかしたら未完なのかも知れないし、もうこれ以上手を入れる必要なし、と謂って筆を置いた絵かも知れない。
だが、その絵の存在感は途轍もないものだ。
こんな芸当の出来る画家はそれ程いない。
日本の文人画などにはよくあるパタン~思想ではあるが、、、西洋の油絵である。
(絵に対する基本的な構えや画材そのものが根本的に違う)。
まずアングルに出来るはずはない(笑。
(あくまでも素描~エスキースとかは別として)。
アングルに限らず西洋画は偏執狂的充填の世界である。
ゴーギャンのように金がなくなってちょっとばかり絵に余白が残ったという例もあるにはあるが。

どこかセザンヌは孤絶している。
孤高の人である。
全ては円筒と円錐と球で構成されている、という彼の絵画論のなかの言葉があり、とても印象的というか学生時代にびっくりした概念がある。
先輩と絵の何処の部分が球で円筒で円錐か絵を探ってみたことがあった。
そうしているうちに、ちょっとそういう単純なパズル~構成を越えたものだという感じがとてもしてきて徒労感を強くしたことがある。

セザンヌのもっともセザンヌらしい絵の存在感は、そのタッチからくると思う。
アングルにタッチはない。(タッチは絶対残さない)。
タッチは厳禁という画家は結構多い。
(アングルは子供の頃は、ダリとともに凄い上手い画家として尊敬していたが、セザンヌに触れてのっぺりしたビニール製品の制作者のような感覚しか持てなくなった)。

やはりこのタッチが達人なのだと思う。
またタッチを積極的に造形そのものに反映させるひとは、そのタッチがそれぞれ個性的で異なる。
画家~身体性が違うのだから当然のことだが、それに見入るととても面白く示唆的だ。
ゴッホなど一つの絵でそれを実に繊細に使い分けている。
非常に多彩で変幻自在な使い方だ。

それに比べるとセザンヌのタッチは見て分かるゴッホのようなシステマチックで知的なタッチとはまた違う。
物凄く確信に満ちた豪放なタッチであることは間違いないのだが、余白も含めて何であろう?
天才の意匠であるか。

そういってしまえばそれまでである。
ただ、事象を日常的な概念~名称で見てしまうと、例えば大事な個性を示す顔だけはしっかり塗って体から離れた部分についてはその重要性が薄れるなどの塗り分け、が無意識的に起きてしまうだろうが、セザンヌの「全ては円筒と円錐と球による」という観念に沿って描くと、何処が有意味な中心とかいう分け隔ては少なくともなくなる。
全ては全く異なる形成力のもとで生成される。
これはひとつ、とても肝心なところだと思う。

ともかくこれ程、絵を観る快感の味わえる画家もいない。
恐らく、今流行りの何でもコンピュータで解析する流れで、この円筒と円錐と球による絵の構成とか、タッチの法則などを観てみても、何かが分かるとは思えない。
凄く潜在した造形への必然性を感じる。
全く違う文法で形成されたものがたまたまわれわれの知っている世界に重なっているような危うさと快感がある。

Cézanne002


絵画教室始動、、、

moonbow002.jpg

依頼があり、絵を教えることとなった。
と言っても、これまでも教えて来たのだが(笑、自宅で教えるのは初めてである。
家では、ちょっとした塾を学生時代にしていたくらいである。
ホントに久しぶりだ。

自分も描き始めたら間違いなく、のめり込んでしまう。
それで描かないでいたのだが、、、。
日々どうにもならないルーチンで占められ(雑事と育児であるが)、ブログの時間もほとんど取れないでこれまできた。
そこに映画を観るとやりくりが、かなりキツイ(爆。
勿論、観たくて観るのならよいが(早く観たいのが「ブレードランナー2049」だが)、時折何故だか嫌々ながら見てしまったという後味の悪い映画がある。
自分で見ておいてその時間の空費に物凄く腹が立つ。


少し「時間」を考え直したい。
その一日のなかのどこかに「絵」を入れたくなったのだ。

育児との絡みではあるが、最近娘たちも暇さえあれば「ゼルダ伝説」(ゲーム)に次いで絵を好き勝手に描いている。
本当は、これくらいピアノを自主的に練習してくれたら有難いのだが、そちらはなかなかやらない(テコ入れがそろそろ必要だ)。
その流れをうまく編成し、彼女らも絵の教室に入れてやっていこうと思う。
育児とわたしの創作も合流した濃密な時間が生まれればかなり良い。
(どれだけ良いかはやってみなければ分からないとは言え)。

丁度、長女が今回の夏休みの課題で描いたクレヨン画が入選したので、展示会に行くことになっている。
前回の入賞の時は授賞式に保護者一名だけの同伴であり、わたしは行けなかったのだが、今回は入選なのでお気楽に家族で作品展に赴ける。
少し表現が繊細過ぎた感があり印象を弱くしてはいたが、次女の作品の出来も今度ばかりは良かった。
ミニトマトのリズムがかなり愉しく美味しそうな絵であったのだ。だが、丁寧な絵作りに気を取られ過ぎたなと思う。
もう一つは題だ。長女は「ひきうすのたいけん」であり、伝統文化推奨に乗った感があった(笑。
だが、次女は「ミニトマト」である。余りに押しが弱かった。勿論表現が強くもっと豊かであれば目にも留ったはずだが。
かなり次女は残念がっていて絵に拘りを持ってきている。
長女はもともと豪放(日常ではひどく神経質)なところがあり、そのまま進めていったら面白そうだ。

娘と生徒さんと一緒に絵をわたしも描くことにしよう。
(これまでも描こうと思った時はあったが、そんな日に限って面倒な雑事が入ったり娘を病院に連れて行くことになったりしていたものだ)。
教えるのと創作はほとんど同じ次元で物を観ることになる。
教室にしてしまえば、今度はやるしかない。
丁度良い機会と謂える。


donkey001.jpg

ちなみに長女が今、一番描きたいのはロバらしい。
成る程、移動教室も必要か、、、。


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

*当サイトはリンクフリーです。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

Movie
PC