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S君の仕事-断片補遺

Skun.jpg

別の機会に、としておいた、S君の武勇伝?など幾つか、、、。

これはO君からまず聞かされた件である。
砂漠の群像などの洋画で有名な国領恒郎氏(日展審査員・日本芸術院会員)とS君はある期間とても親しい関係にあるとわれわれには映っていた。
国領氏がS君の作品に興味を示し、よく観ていたことは知っている。
或る時、氏がS君から気に入った作品を一枚借りたそうだ。
一流作家から認められればそれは嬉しい(まず悪い気はしまい)。
だが貸したはよいが、暫く手元に作品がないことを淋しがっていた。
彼にとって作品は、自分の息子のようなものである。それはよく分かる。
(わたしは大事にしてくれる人なら結構気前よくあげてきたものだ、、、今考えると惜しいものもある)。

O君が遊びに行った時もなかなか作品が戻らずブランクの壁面を淋しがっていたそうだ。
それはわたしも本人が漏らすのを聞いていた。
(恐らく彼は隙間自体を好まない体質に思える)。
しかし、暫く後に行ったとき、作品がそこにしっかり収まって~戻っている。
「よかった、戻って来たんだ」というO君に対し「いや、また同じもの描きました」と平然と返すS君がそこにいた。
O君は絶句した。わたしもそれを聞くなり絶句した。同じように(爆。

ちょっと描けない。それは勿論、最初から30枚同じ踊り子の絵を描くといった目的(目的が絵の外部にある場合)で、仕事で売り絵を描くケースは知っているが、普通一点ものとして描いた場合、絵はその制作過程(試行錯誤による生成過程)から考えても同じものは描けない。
つまりその一回性の時間そのもの~精神運動の物質化現象なのだ。
再度時間を繰り返す(生き直す)ことの不可能性に等しい。

無理にやるには思想的に信条的にどうこうではなく、生理的に(身体性において)極めてきつく不自然なことになる。
だが、S君はさらりとそれをやってのけてしまう。
通常なら、コピーしようと思って、描き出しても進むにつれて異化されてゆく。
最終的には異なる絵となる。
勿論、S君のように見たところ寸分違わぬ(恐らくそうであろう)絵となっても、異なる絵であることは相違ない。
微細な部分は違うだろうし、時間性において完全に異なる場にある。
当然そうなのだが、われわれが描けば見た目にも(構図・内容・筆致・色彩等)自然に変質する。
もしかしたら、ここがS君の制作行為の本質的な部分なのかも知れない。

壊れたジオラマを元通りに戻す~直す行為。
もう一つ同じジオラマを造る行為。
この身体性~身振りに近いことかも知れない。
または伝統工芸の作家にも通じるところも感じられる。
ただ売り絵作家とは方向性が最初からはっきり異なるものだ。

恐らく彼にとっては通常の「コピー」という言葉はそぐわない、もっと神聖な呪術的でもある再生の儀式なのだ。
ただ淡々と息子を蘇らせているところが、如何にもS君なのだ。
「コピー」ということばや逆に「藝術」(自然科学も含)などという思想に妙な思い入れや拘りを一切持たない場所にいる。
ことばから解放されていて自由~自在である為に出来ることは、きっと多いし多様なのだ。

外の枠など端からどうでもよく、彼はそれと対決することもなく自分のすべきことのみしている。
ここがある意味、羨ましい体質であり資質である。
わたしはどうしてもいちいち対決の場をもってしまう。そういう体質なのだろう。


その後、作品が戻ったのかどうかは、一度も話したこともない。
また、作品を再生するケースがあったかどうかも聞いていない。
ただ、それはほとんど彼にとっては、どうということもない通常の制作過程の内のようだ。


今回は一つだけになってしまった。
またこの場は設けたい。面白い噺は他にもある為、、、。



S君の仕事-Ⅴ

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他にもいろいろ、、、今回はこういう形でしか撮れないものも多く(例の溢れ出すキノコの絵のように、、、)、全体像はこの後、またの機会に。

最初期(初期)の点描の厳格さを守り続けてきた頃と異なり、自在な筆致を駆使するようになるにつれて(ゴッホも実に多彩な筆致を編み出して使い分けていた)、色彩が際立って瑞々しく鮮やかに活き活きしたものになり、同時に絵画世界の輪郭がこちら~観る側の身体性に溶け込んできたように感じられる。
この観るというインターフェイスに筆致はとても解放的な装置として作動したのだ。
現に昨日から今日、ここに載せた絵は、無意識的に共振できる波動に充ちている。
郷愁と焦慮の念と共に、自分の身体性の何処かに埋もれた記憶を呼び醒ます。
過剰に説明的でカタログ(図録)的な俯瞰と距離感、それによる硬直したシンメトリックなフレーミングによる画像群が、この世界~わたしの意識の縁に連続し奥行きをもつ無理のない目線の内の表象と化していた、、、。

そして固有の質量を持ってきた。
つまり多様性が活き活きと感じられる。


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緑の匂い立つ画像である。やって来る電車も緑。光がとても優しく、本当の光らしい。
俯瞰してるが、たまたま出逢った世界の切り取りである。
緑の木々の向こうから顔を出してくる電車はどことなく青虫を想わせる。もしかしたらかつて木々の内に見出した葉っぱの上を歩く青虫とのダブルイメージになっているのかも知れない。微視的・記憶上のイメージが様々な絵の要素と絡み融合している可能性は高い。
右側をカーブしてゆくトロッコが可愛い。しかしどちらに向けて走っているのか、又は止まっているのか分からない微妙なバランスを保っている。しかし電車との何らかの対応(力学的)関係はあるように想える。
この絵がわたしを引き込むのは、何より光と影である。
光がとても柔らかく繊細な煌きに充ちている分、影の癒しの効力も高い。
影が補色になって、とても居心地が良い。


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画面全体が夕焼けの過飽和状態である。
黄昏時ではあっても奇妙に明る過ぎる一時(一瞬)の光景~記憶に違いない。
明らかに汽車が汽車以上の何かである。
黄色い光がこれだけの分量の郷愁と神秘を呼ぶものか。
透明の黄色を幾層にも分厚く塗ったものであろう。
タップリ過ぎる光がとてもしっくり馴染む絵だ。
わたしも、この光景の中にいたことが一度ならずあることに気づく。


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スカイツリーお出ましである。
飛行船も飛んでいる。(わたしも飛行船はよく絵に描いた)。
思い出深い電車特急「こだま」(151系)も走って行く。やって来たというより行くぞという方向性を感じる構図だ。
そう、スカイツリーを軸(ほぼ中心)に、飛行船の飛行の線、鳥の飛翔の線、「こだま」の走行する線、煙突の煙のなびく線、暫し停泊している屋形船のこちらに向かう線、の各線が誇張された放射状のパースペクティブを持つ。
これらは異なる時間流の輻射と受け取れるものだ。
更に画面の上下がほぼ半分に黄色と緑に分割されている。空を漂う系と水上を漂う系との質=色の差であるか。
スカイツリーが中心を左にズレているところが、絵の力学において上手く全体をまとめている。
無意識的な平面の正則分割的構成ではなく、意図的で意識的な幾何学的構成に作家的意欲を感じる(笑。


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初期の絵に一見、内容~要素が似ているが、空間の奥行きと空間自体の質的厚さがとても濃厚である。
そして要素の置かれ方も奥行きを作ってゆく。
立体感と色彩の息遣いも初期の絵とは別物である。
わたしは、当初どの年代でも彼は同じ世界を描いているため、時系列の重要性はないということを述べた。
半分はそうなのだが、半分は違う。
テーマは同じであっても、その世界は徐々に自発的に破れ、外に解放されてゆくのだ。
創作とは、制作の反復とは、そういうものであるのかも知れない。


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東京タワーである。
これはまさに懐古的な、また回顧的な意匠である。
今の時点で、昔やってきた絵をもう一回描いてみたいという気持ちか?
多くの要素を予めセットして、スイッチを入れた途端に起きた騒ぎ。
奥行きだけでなく電車やバスや飛行機や風船や傘のカップルたちが一斉に走り出し宙を舞うダイナミズムとちょっとキッチュな面白さ、、、。ひとことで言えば、趣味の世界。
どうしてもこういうのをやりたいヒトなのだ。
やはり時系列は余り関係ないな。
しかし絵は生命感があり気持ちよい。明らかに描画手法は繋がっている。


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プレ・ラファエル派の絵だと謂っても信用する人は多いと思う。(電車があるのは変だが)。
新しい光と色彩と筆致を得たうえでの点描もフルに活かした制作だ。
かなりの力作である。
池には鰐もいる。
電車はやけにリアルで、上に観られた郷愁に染め上げられた車両ではなくすっきり洗い流された姿を見せている。
そして何と言っても植物の描き方の多様性であろう。
海と沖に輝く光はもうお手のものか、、、。
しかし一番異なるのは、いつもの後ろ姿の少女ではなく、横向きの座ってもたれかかり夢想に耽る妙齢の女性である。
わたしがプレ・ラファエル派と言ったのもそれが大きな理由となる。
左上部の木陰が少し彩度が高すぎる感じはするが、精緻で繊細でありながら全体構造がしっかりした調和のとれた絵である。


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江ノ島である。
S君にとって江ノ島は楽しいところなのだ。
楽しいから、それを詰め込みたい。
先程の乗り物ラッシュではないが、ともかく好きなものが色々入って来るのだ。
ある意味、シンプルでナイーブな絵であるが、シンプル(省略)して単純化を図る方向性とは逆である。
様々なモノを収集し増殖する絵でもある。また作者でもある。

最初期にこんなテーマの絵があったが、もう構図は遥かに複雑になり、色彩も筆致も自在性はずっと増している。
ただ、技量が増したと言うより、解放され表現が深まり広くなったのだと思う。

しかしヒトは変わらない。
やはりS君なのだ。
彼は不変の人である。


今回の特集は取り敢えずこの辺で、、、。

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S君の仕事-Ⅳ

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クリスマスジオラマのひとつ。このような工芸品(照明絡繰り付き模型)という感触が、実は絵画作品にも染み渡っている。


改めて(笑、S君の絵を観るとすぐに連想してしまうのが、アンリ・ルソー(様式化した森~動植物など)やポール・デルヴォー(汽車や少女などのモチーフにおいて)であるが、それらとの比較・分析めいたことは、端からするつもりはなかった。
彼の作品のなかの、この僅かな点数と何をか語るには些か準備の足りないところでそれをするのは危うい事である。
しかしあくまでプレ作品お披露目の機会~位置から、少しばかり作品特性を浮き彫りにして確認しておきたい。
余りに周辺的なお喋りに傾き過ぎた感もあるため、、、。


まずルソーとの類似点については、特にこれと謂ってあれこれ挙げ連ねる必要はあるまい。
その動植物の描写の様式性と装飾性がとても人工的でエキゾチックに仕上がっていること、細部への拘り(これはS君の方がずっと上であるが)について殊更強調するまでもない。質感に血縁関係を感じるところは確かに認められる。

それよりも、われわれが風景~場所の絵を観るとき、どのように観ているか。

デルヴォーの場合、決まって始発駅から発車する汽車が描かれており、何処か別の街(世界)に旅立つことだけは予想できる。
S君の汽車は、ニュートリノのようにある方向からやって来ては、通過して行くことが多く、相互作用がほとんど感じられない。
(高速で爆走して横断するキリコの機関車に寧ろ近い)。
しかし宇宙線のように頻繁にやって来る。
情報は受けているのだ。ただ、それをどのような形で返しているかと謂えば、これらの絵の次元としてであろう。
その絵は、とても俯瞰的であり、最初期作品の「夏の午後 partⅠ」(S君の仕事-Ⅰ)の双眼鏡で景色~テニスウェアの女性を覗き込む紳士の視座に近いものと謂えるか。
この模型を上から眺めるような俯瞰的視座。
われわれも彼~S君となることを要請されている、、、?

再度、われわれが風景~場所の絵を観るとき、どのように観ているか。
これを考えてみるとき、ほとんど「絵の中に入る」ように観てしまっていることを思い出す。
例えデルヴォーの「部屋」が遠近法的にどれだけ歪んでいようが、われわれはその部屋に入っている。
(絵の中の裸婦も頭が天井にぶつかることなどちっとも恐れていない)。
作者~超越的視座も意識などせずに味わっている。

しかし、S君の絵はその視座があからさまな俯瞰でなくとも、微妙にわれわれを宙吊りにしてしまう。
わたしの足場が揺らぐというより足場ということが意識に引っかかるのは、ひょっとしてわたし個人の問題である可能性もある。
(大概、自然界の出来事も相互的な嵌入によっている)。
だがそれらの作品の側には、やはり特異な閉鎖性がその形式においてみられるようだ。
またもしかして、その次元は実は何処かで自発的に破れているのか。

S君の絵の世界の少女やシルクハットの紳士や妖精は、果たしてトロッコや汽車に乗ってわれわれの世界いやわれわれの入って行ける世界に現れることもあるのだろうか、、、。


Paul Delvaux005
Paul Delvaux006

ポール・デルヴォー「夜の汽車」や「森の中の駅」はS君の絵を日常的高さから見直した絵とも謂える。
S君の絵との違いは所謂、視座のみであろう。(勿論、テーマや描画法の違いはあっても形式的には)。
日常的な普通の身長からものを観る、通常感じる環界の身体感覚である。
わたしもこれらを見るとき、それとなく絵の中に入っていることに気づく。

登場する女性(少女)のポーズや仕草も控えめで、何かを訴えたり仄めかすことは少ない。
その上、S君の場合、後ろ姿が圧倒的に多い。
デルヴォーの女性も造形的に顔に表情がないのだが。
S君の少女は、文脈的に形式的に表情が隠蔽されていた。
「距離」と「高さ」がポイントである。
後ろ姿でももっと近ければ、何かが感知されることもあろうか。


S君の作品はどれも工芸品~模型の手触りに近い。
その表現世界の中に入りその意味~文脈を楽しむというより、それそのものをそのものとして味わう、そんな接し方で絵と関係することをわたしは選んでいた、、、。


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光の反映においては、最も美しい絵だ。
ここでも虫取り網を持った少年をうしろから少女が観ている。
その全体像を観る神の目であるわれわれ。
電車は次に向けて直ぐに出発するだろう。


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色合いと形体はビビットである。
最初の頃と比べると目の覚めるようだ。
ベタっという感じが全くない。
手前左にいる少女が汽車のなかの誰かに手を振っているらしい。
いや、その先の川で水遊び~魚とりをしている少年たちに手を振っていた。
それとも三輪軽トラックから降りて田んぼ仕事をしているお父さん?に対して何か呼び掛けているのか?
珍しく感情表現(ドラマ性)を感じる場面が挿入されている。
登場人物たちにいよいよ様々な動きとコミュニケーションの芽が生まれてきたか。
とは言え、異様に絵そのものは静謐(無音)なのだ。


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箱庭的な風景である。秋のさっぱりした光景にも見える。
かなり日常的な視座から少女がバスのやって来るのを停留所で待っているところだ。
その向こう側ではお約束の電車が通過して行く。
ただ、画面左側を占める木々が妙に小振りだ。形態から謂って大きな成長した木にも思えるのだが異様に小さい。
しかし形から草花とは受け取れない。そこが箱庭的でジオラマっぽい。


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家の駅近くの米軍基地の住宅をふと連想する。
少女の眼前の曲がってゆく路は何処まで続くのだろうか?
(この路には魅了される)。
上呂を持って境界に立ち止まる少女には既視感を充分持つが、手にアイテムを持っていることが、絵画世界を饒舌にする。
ドラマ性と生気が揺らぎ立つ。
だが、一歩踏み込めずに彼女は立ち尽くす。


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ここでは兄妹の間に明らかに会話が成立している。
きっとS君のお子さん二人だと思われる。
「祝」というメッセージのディズニーランド的アトラクションの乗り物を想わせる電車が普通の夜の商店街にやって来た。
この絵は恐らく子供さんへの何かのお祝いのプレゼント用に描かれたのでは、、、。
こんな絵を貰ったらそれは嬉しい。
(実際、小さな絵である。3号くらいか)。


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面白い構図である。
画面上部、水平に鉄橋を走るのは貨物列車の先頭部か?
黄緑の車体であり、下に道を挟んで広がる畑も同じ黄緑である。
左下には黄色いランドセルの少女が何かを見やっている。
植物の上にとまっている白い鳥か。
空や雲や遠方の建造物も含め黄色がポイントである。
そうした時間の記憶がわたしにもある。


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また、三輪軽トラックであり、何と少女が荷台に乗っている。
ちょっと映画風ではないか、、、。
電車が凄い森(林?)のなかを走って行く。
お父さん?の運転する姿も垣間見える。
牛が二頭草を食んでいる牧歌的と言いたいところだが、やはり電車が怪しすぎる。
この一見何気なさそうな光景は、かなり魔術的(で呪術的)な気配を孕んでいる。


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実に美しい寒色の色調である。
正直、これには驚いた。
このパタン化した白樺?の木は実家の近傍に茂っていたものか。
色彩と色調、色の響き合いがとても心地よい。
全体の調和も申し分ない。
少女が左下の構図から、木に寄りかかりながら横に振り向き牛たちの様子を窺っている。
少女の秘めた想いが漸く感じ取れそうな気がしてくる。
地上に降り立った気分である。
静謐でこころ安らぐ絵である。

繋がってきた、、、。


明日は感動の最終回(爆。



S君の仕事-Ⅲ

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2Dから3Dへ、、、。今となっては珍しいトリックではないが、かなり昔から置かれている。
キノコが余りに自然に溢れ出ていた。

キャンバスの形式とサイズを記していないことを、わたしも気にしていたのだが、大体がFであり、真四角のSもあるにはあるが、長細い(長方形の)PやMはさほどなかったと思う。大きさも3号くらいから10号あたりが多く。20号などは大きい方だ。最も大きいのでもF30くらいであったと思う。兎も角、小さめの絵が多いということはお伝えしておかなければなるまい。
正確に画像に題と形式・大きさを記すべきであるが、それは正式な画集やS君回顧展などでしっかりできればと思う。
子どものお守りついででは、そこまで行き届かなかった。

細筆(面相筆)でひたすら細かい点描で描くことから、大画面タイプの絵ではない。
太い平筆で豪快なタッチで塗る絵の対極で、点を置くことで生成される絵である。
ちなみに、われわれ共通の友人O君(バイオリニスト、作曲家)は、前者の代表ブラマンクが好きだ(笑。
わたしも時折、凄く観たくなる画家だ。だが、わたしもO君もS君の絵を観に窺う。
われわれは、それぞれが面白いというだけでなく、多様性そのものを楽しんでいるところが大きい、と思う。
お喋りも楽しんではいるが(笑。


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この絵は昨日の作品の二番目あたりに来るべき絵で、教育出版の音楽の教科書(小2)の裏表紙に載せられていた絵だ。
もう随分古い。(H.7年印刷、8年度配布の教科書)。
しかし彼の絵はテーマ(本質)は不変である為、年代(順)が何らかの意味をなすこともないので、わたしもほとんど雰囲気で並べている。
正確な順番は本人にしっかり確認しなければ分からない。
だが、彼にとっても大した意味は持っていないはず。


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  *わたしの同時期の音楽の教科書(小4)に掲載されたものは、「続きを読む」にて、、、。

確か7回だか描き直したそうな。わたしも一度部分的に描き直している(挿げ替えている)が。
その世界に関する拘りのぶつかりから(描いているうちに仕事を越えて自分の作品となってしまう人は少なくないことから)、もつれることもあるし、文字や写真を入れる部分に絵を描いてしまい、それをどかしてくれという単純な要請になかなか添えずにだらだら描き直しが続いている場合もある。

S君も拘りはやたらと強く、絶対に自分の主張は曲げない人であるから、どういう形の描き直しであったか、、、
(以前、新左翼系学生活動家から三里塚の絵を描いてくれと頼まれ、大激怒していたことを思い出す。わたしも怒るはずだが、あそこまで怒るかという感じだった。基本、意に添わぬことは一切やらない人だ)。
わたしは、仕事の場合は全面的に向こうの依頼を呑んでしまうので、ただ要請に近づけるだけの問題でその点ではお気楽である。
この絵、非常に練られた構図であり単純化も精緻になされて洗練度が実に高い。
もう力作と言うべきであろう。
恐らく普通に描いてゆく場合、S君が描き直しをするとは思えない。
(まるまる自作のコピーは平気でするが(爆。そのエピソードは別の機会に、、、)。
その分、ここでの描き直しは明らかに作品の充実度と完成度においては良い形に反映したと思われる。
特にダイナミックにまとまった構図と細部の統一感と調和である。 
良い意味で、頑張った感じがする。


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教科書画のエスキースか最初のイメージスケッチ的な絵にも見えるが、ここに時系列で繋がっているのかどうかも定かではない。恐らくもう少し以前の作品であるとは思うが。
シンメトリックで動きのある安定した装飾的な作品だ。
好きなものは、しっかり描き入れている。
その点でも安心の一作だ。


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横浜の風景のファンタジックに変性したものか?
夜景であるが彼の場合、朝であろうが昼だろうが夜景であっても、それは単なる光力の差、色光の違いに過ぎない。
全て(モノによってはガラスケース内の)ジオラマを照らす特定の光源である。
S君のなかのイメージなのか?
寧ろインターフェイスなのだろう。
彼と環界の間に生成される薄い煌びやかな街なのだ。


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この岩壁。
タリバンに破壊された仏像みたいな像もいるこの岩壁こそトロッコの絵に端を発するあの地形からやって来たものだ。
マジンガーZみたいな神聖な石像も間近の森に寝ている。
ただ安定が悪く、たまたま寝かされているのかも知れない、、、時折そうしたフィギュアもあるものだ。
ここでは広い森と例の岩壁もそうだが、手前左空間を占める光の三原色を体現したような妖精が何よりポイントだ。
ほんのり甘やかな生命感も漂ってくる。
そう、無時間模型の平面世界から生命の息吹が立ち昇る気配がある。

(別にこの先、ここからどう変わるなどという線状性はないため、それを匂わせる書き方はすべきでないな(笑)。


明日に続く。


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S君の仕事-Ⅱ

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ジオラマ飾り棚の一部。

トロッコの絵から見られたように、彩度・明度が上がり、更に遠近によって出来るダイナミックな(動きの感じられる)構図(広がり)が設えられる。
そして稠密な構造物も現れる。
まるでバベルの塔のような。
人工的な光~光線が(過剰に)発せられる。
彼の作るジオラマのあちこちの部分に灯る光のように絵の中の様々な要素が地形が発光し始める。
ただし、そこには重力が感じられない。
夢の中のように(永遠の白昼夢か)。
そう、どれも精巧で軽い素材の(ミニチュアの)ジオラマの世界なのだ。
きっと、、、。

それから、これらの絵には題名が分かるようになっていなかったため、題を表記出来ない。
本人に聞いておけばよかったが、学生時代の友人の悪口に夢中になっていてそれどころではなかった。
果たして彼も題名を考えていたかどうか、分からない。
S君が暇な時に確認しておきたい。


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これは初期作のデザインの集大成的な感じである。
兎も角、それまでの場面と要素を全部取り込んでみたという。
この距離感も初期作の特徴である。うんと引いていて近くのものは描かない。
望遠鏡で覗いた構図か。

ここでひとつ締めくくりたかった、のだろうか。
そのままジオラマの完成予想図としてもよいだろう。


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恐らく筆致が変わって来たこともあるのだろうが、明らかに全体の精緻さの質が変化した。
牛が題材ということもあるが、点描による描写が柔らかさと厚みを獲得している。
牛がやけに美味しそうだが、食べてみたら甘い薄皮に包まれたこれまた飛び切り甘くて美味しい餡子が詰まっていることは間違いあるまい。
だが一口サイズで食べ易いはず。
モーレツに甘いお菓子が食べたくなる絵(逸品)である。


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ピグモンがいる。サイズから謂ってガラモンではない。
それがオウムやフクロウやトラのいるジャングルの端に所在なく佇んでいる。
川岸はカーペットで子供のゲームかジオラマセットの為にサッとリビングにでも敷かれたようだ。
彼らはただ素っ気なくその上に順番に並べられただけなのかも知れない。
強力な光源のスウィッチが入ったところで、それを仕掛けたのが暗がりにいるシルクハット?の紳士S君である。


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ジオラマ感バッチリな地形。少女の乗る汽車の形のミニトロッコを後ろから手押す少年。
もはや投影とか代理とかはどうでもよい。余りそうした関係(意味)性には重きは置いていないだろう。
これから二人はお城、或いは城塞の街に赴く。それしかコースはない。
スイッチを押せば行くべきところに着いて止まる模型なのだ(スタートに戻して何度でも始まる)。
脇にはグラスファイバーでLEDライトも灯りそうな滝と人魚(度々登場する脇役)も。
スヌーズレンの仕掛けにも似たメンタルヘルスの効能も感じられるのだが。
熱を発しない過剰照明を背景に、山のように高くそそり立つお城の周囲を飛び回り続けるドラゴン。
この反復と回帰の運動。
非常にベタな形体配置と仕掛けにも思えるが、それをズバッと描いてしまうところが彼の最大の強みでもあり、、、
郷愁とも切り離されたある種の(根源的な)淋しさを湛え続ける。


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このバベルの塔のような構造物(恐らく)は何か?
ただ、この塔以外にも水上都市があり、、、何と塔は水上へと突き出た建造物なのだ!
手前からそれに向けて静かに運行する船がある種の予感を誘う。
まさかノアの箱舟なんてことは、、、。いや他にも海賊船みたいな影もある。
錯綜する物語が、その光や光線や鳥たちの動きからも禍々しく漂い来る。
何でもありの模型世界が何か予言的な、黙示禄のような世界の感触を生む。
そんなことも起きる確率はあると思う。


明日に続く。

S君の仕事-Ⅰ

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S君の家に遊びに行った。
娘二人と。
S君と言えば、大学卒業まで江ノ電の「鎌倉高校前」から白樺の高台に登ったところの実家に住んでいたが、そこにいる間ただの一度も海岸に降りたことはなく、小窓から感じ取れる砂浜の様子を絵に描き続けていたそうだ。
わたしは、S君を「鎌倉高校前のレーモン・ルーセル」と勝手に呼びたい!

兎も角S君の絵を見せてもらいに行ったのだが、娘二人はS君の大学生のお嬢さんに遊んでもらいに行ったようなものである。
お姉さん遊ぼ、と謂ってずっと遊んでもらっていた。
よほど嬉しかったようで、いつまでも遊んでもらっていた。
ここで改めてお姉さんにお礼を言わなければならない。
ほぼ丸一日、ありがとうございます。
(何をしていたか後で聴くと3Fの屋根裏部屋の一室にお姉さんを閉じ込め、外から思いっきり怖い話をして怖がらせていたそうな、、、本当に根気のいるお相手をしてもらったもので、申し訳ない(苦)。
その間、わたしはS君と奥さん相手に積もり積もった話がたっぷりゆっくりできた。

とは言え、絵も観た(爆。
それが目的であったし。彼の絵が時折何故だか妙に気になるし、、、。
長女がS君の絵の感想を述べ、それに感慨深そうに彼が応えるやりとりも面白かった。
(次女はその間、動き回りながらだれかれ構わず喋りまくっていた、、、ちょっと心配、、、多動か)。
わたしは、ただひたすらかつて見た絵の写真を黙々と撮っていく。


今日から5日間に渡り、S君の作品の一部であるが、ご紹介したい。
3F屋根裏部屋の彼のアトリエ兼ギャラリーには額に入ったガラス越しの作品が多く、距離的に謂っても角度・照明からも撮り難い物が多かったが、今回ここに33点ばかり並べる作品だけでも、その世界は感得してもらえるのではなかろうかと思う。

ここで、特に彼に関して一般的に、例えばナイーブ画家として解説を加えながら作品を掲示しようなどとは思わない。
若干の感想めいたことは添えると思うが、なるべく余計な口出しはせず、あくまでも「友人の画家の絵」を紹介するに留めたい。

もううっかりナイーブ画家などと口を滑らしたが、どう見てもそういう感覚(視線)で観られてしまう絵ではあろう。
そうした目で見始めてしまうと、幼少年期の思い出と無意識的なトラウマや強い拘りや喪失観の印象は拭い難い。
本人もそういう話をしているので、仕方ないところではあるが(笑。

公園、遊園地、電車(乗り物)、部屋、境界、音楽、、、それらの要素による絵は、思い出の再構成=模型世界の定着として描かれたものに他あるまい。
そこでは時間は凍結しており、さらに空間は構図上あっても物質的な次元としては無い。
尋常ではない平面性~凝縮性を息苦しく受け取る。その意味でナイーブアートのようなアバウトな脱力感や空気感は窺えない。
その執拗な細密さと装飾性からも(彼の絵は基本的に点描であり、速乾性のリキテックスによる)。
自然の環界を感じるところはなく、何やら演出(装飾)的に極めて人工的に灯る照明の(それは白熱灯から蛍光灯、LEDに変化していくにせよ)「絵」にはある種の強い無意識的で意図的な意志=抽象を感じさせる。
実際そうなのだ。
リビドーが形象として象形文字のように凝縮して定着した雰囲気を感じさせる。

そして溢れる郷愁が彼を確信的に動かしていること~描く行為に不可避的に仕向けて(追いやって)いることは想像し易い。
実際、彼はこの絵にあるようなジオラマを、粘土やベニヤ(ペンキで着色)やプラスチックのオーナメントや豆電球、モーターなどで細密に幾つも作ってもいる。(子どものおもちゃにもしていたそうだ)。それはとても集中と根気を要する作業でもあろう。
愉しくて夢中になってやっているのではあろうが、やらずにもいられないのだ。きっとそういうものなのだ。
愉しい苦行かも知れない、、、。
(兎も角、この行為は、現代美術の枠に対する批判~自己解体の知的作業でありかつ普遍性を目指した「藝術行為」の対極にあるものだ。そういった意味では極私的~私小説的な絵であり自己充足的な行為と謂える。しかしその個人的で本当にあったか分からぬような秘密~記憶を垣間見るような一種の気恥ずかしさや恍惚さの方にわたしたちは共振する所が大きい。きっとまた暫くして彼のお宅に絵を観に行くはず。娘たちはお姉さんと遊ぶためかも知れぬが(爆)。

S君の止むにやまれぬ「仕事」の最初期からわりと最近までの幾つか(何とかデジタル化出来た範囲のモノ)をこれから並べてみたい。

感想(感慨)を述べ出すと、全くありきたりの解説めいたものに陥ってしまうのが分かるのでお喋りはなるべく少なめにする。


まずは、初めて人に絵を見せ始めた頃のS君の原型とも謂える最初期作品群。

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「公園」
この頃は、後に観られるビビッドさがなく、かなりくぐもった画面は、ちょっと呪術性をも感じさせるところである、、、。
紳士はS君。

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「Marine Land」
恐らくこの頃、夢中になっていた彼女が水着の娘である。
奥さんには内緒だ。

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「Wanderful Dance Time」
彼はジャズ大好き人間である。
それを聴きながら描いたみたいだ。

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「夏の午後 partⅠ」
勿論、覗き見しているのがS君である。
本人も自分の中の鉱脈~郷愁に染められた記憶を覗き込んでいるという行為を対象化~自覚している様であろうか。
描くことを意識し始めたという、、、。しかし遠いね、彼女、、、。

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「夏の午後 partⅡ」
実は、この絵で初めて彼の絵を面白いと感じた。
この境界から向こうを眺め見る行為と境界の壁に反映する木漏れ日がとてもよい瞬間を凍結している。
しかし向こう側の模型のようなサイズ不明なSLが余りに不愛想である。黒いブルドッグみたいに。
一体少女は何を気にしているのか、、、。

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「長者町の思い出」
ジオラマ趣味がしっかり窺える。
例の少女と似たような少年がいる。
二人とも視線に含みを持たせている。
少年がその先何処に向かうのかを少女が気にしているのは明白だ、、、(余計な事か)。

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「「放課後」
いつもながら、遠近法が面白い。
独特の俯瞰視座であるが微妙なバランスを保っている。
その微妙さが主題化している。

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「良平とトロッコ」
初期作品では一番わたしの好きな舞台のような絵。
背景の日の光は書割である。
この地形は、他の絵へと接続してゆく特徴的な壁面も観られる。
そうこのトロッコで繋がって行くのだ。トロッコの線路がとてもよい感じ(笑。


明日へ続く。










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鈴木春信

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最も高名な浮世絵師のひとりである。
錦絵という色彩溢れる浮世絵版画を実質作った絵師だ。
江戸の風俗から詩情豊かなカラフルな絵をメディアとして普及した。
当世風の美男美女を古典~歴史ものの一場面に見立て、それをとてもお洒落な構図で鮮やかに(悲惨な史実であっても)パロディとも謂える絵物語として再現する(再構築する)。
この思想~史実を抜き取った装飾的デザインが当世風としてお洒落なのだ。

更に、店の看板娘として話題の美女を刷って広め、江戸庶民を夢中にさせた。
今で謂えばブロマイドかグラビアアイドルポスターに当たるか。
その為、さらに彼女らは有名に身近に感じられ、人気も鰻上りとなる。
勿論、彼女らの務めるお店は、彼女ら目当ての客が連日押し寄せ大繁盛の嬉しい悲鳴。
春信は、錦絵というメディアで遺憾なく影響力を振るう。
特に”お仙”と”お藤”はトップアイドルであったようだ。

美人画は確かに定型の範疇であるが、春信の美人は確かに美しい。
(絵師によっては同時代でも定型の美人をそのまま描いており、あまり面白味のない女性像となっているものもある)。

その他では、、、
金持ちが「絵暦」(カレンダー)を発注してくる。
依頼主独自の凝りに凝ったものだ。
太陰暦の当時、一見文字も数字も無いような絵柄の内に、読み取ることを要求する文字・数字を巧妙に仕込む。
その年によって、大の月(30日)と小の月(29日)が違った。
「小」と「大」と「数字」をそれと分からぬように絵の中に埋め込み、それを読み取らせる。
色とデザイン~模様がより精緻に巧妙さを極めてゆく。
とても懐柔で読み取れないものも出てくる(笑。
好事家たちの金に糸目をつけない要求から錦絵は技術的にもメディアとしても大発展する。

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また自ら愛する江戸を和歌の世界に見立てその風俗を描く。
われわれのよく知っている百人一首の詩が、江戸庶民の市井の光景に添えられ暖かく愛らしく再現される。
ユーモアとウェットに富んでいる。
とても身近で詩的で馴染みやすい絵だ。
「見立絵」として、当世風の絵柄から、古典・故事の特定のシーンを同時に思い浮かべる(ダブルイメージを得る)ものも多数刷っている。
例えば何気ない男女の絵に、男の方に矢を持たせ、女の着物に合戦場を想わせる模様を配するなどしてそれが平家物を連想させるものとなっていたり、、、しかし男の矢先には恋文が結ばれているなど、極めてお洒落で当世風な恋愛物となっている。
絵を読むことで楽しさも倍増する。
歴史的な渋い話や悲劇をポップで煌びやかな物語絵にしてしまう。
(それにしても江戸庶民は歴史に詳しい前提でもある。皆それ相応の知識人であったのか)。

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究極的には、絵で音を表現する。
「夜の雨」を茶釜のお湯の沸く絵で雨音を感覚的に知らしめるところまで極まる。
驚いたのは、輪郭のない幼子の絵などもあるのだ。
体の柔らかな質感まで表現している。
単に表現が巧みというより詩的感性が湛えられているのを感じる。
和歌の入った絵は勿論、それ以外の絵にも全てそれが窺えるものだ。

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それから面白いのが、男女が時にほとんど同じような姿で描かれている。
ユニセックスな容姿なのだ。
これは寧ろ未来的な感覚させ抱かせる、、、。








女子美の文化祭に行く

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3人で女子美の文化祭に行った。
1時頃に到着したのだが、ほぼずっと雨の中であった。

いつもの3人なのだが(笑、今日はほとんど2-1の個別行動となる。
美術大学であるから、展示室に創作コーナーがあったり、参加者が創作するための部屋が設えてあり、そこで二人も描き出すともうペースも異なり、ひとりはじっくり描き進め、片方は手っ取り早く済ませて次に行きたがる。
わたしは、あっちに行ったりこっちを見に戻ったり、である。
何とか油絵と日本画の展示はまわることが出来た。
「自画像」が目立った。「自画像」はどうしても描く事になる。
そういうものだと思う。
他は、、、忘れてしまった(笑。
娘の引率で手一杯となる。

広いし結構歩き、喉も乾く。お腹も空く。
でも飲みたいジュースも冷たいのと暖かいのと好みは別れ、屋台のおやつも好みは別。
それぞれ行ったり来たり、何かのテーマパークに連れてきて遊ばせているような気分だ。
ほとんど変わらない。休日の娘サービスか?

ようやく3人で一緒に、ガラス工芸展示館に向かっていると、お姉さんからチラシを受け取る。
「ケルベロス」、、、!
舞台劇である。演劇サークルの発表だ。
冥府の入り口を守護する番犬であるが、どう扱われているのか、、、。

ガラス展はそそくさと周り、時間に遅れないように演劇公演の館に急ぐ。
ガラス工芸は”gravity”という作品がちょっと面白かったが、題名は忘れたが記憶を象徴的に表しているオブジェ作品もこころに残った、、、。
全体に作品数は多いが割と似ている気はする。
(他の展示もそうだが、全体に表現の幅は広くはない。突拍子もない作品は観られなかった)。
1号館~10号館まであり、1階から4階まで展示や発表がある。
ソーシャル‐ダンスやマンドリンも取り敢えず見た~聴いた。
ヒップホップ?ダンスは健気で面白かった、、、。
コスプレや仮装も見た。もっと派手にやっても良かったと思うが。


そして、演劇サークルの「ケルベロス」を娘たちだけで観ることになる。

---あなた、あたしを通して一体だれを観てるの---

というキャッチコピー?にわたしも興味惹かれたのだが。
あちこち周って、その場所に辿り着いたのは、10分前。もう会場の席は埋まっていた。
諦めかけたが、担当のお姉さんが、二席折り畳み椅子を出してくれたのだ。
長女も見る気満々である。
小学生に分かりますかね、と尋ねると「楽しめると思います」と返され、二人を頼んでわたしは外へ。
他の展示をその間、観て周ることにした。
1:15の舞台であるという。退屈でもしたら心配だ。
一抹の不安を抱きつつも、片っ端展示を観て周った。
後で見せたいところだけピックアップして周る。
時間を気にしながら、染物以外の展示は観たように思う。

十分前に演劇公演こ館に戻り、ジャスミン茶を飲んで待っていると、、、
とっても面白かったと二人がうきうきして出て来た。
どういう話だった、と聞くがよく分からない。
でもとても笑えたという。とっても楽しかったそうだ。
(演劇サークルのお姉さんたちに礼を言いたいくらいだ)。
しかし、、、果たして、どういう内容だったのか、、、
次女の方が説明は上手いので聞いてみたが、断片的シーンだけで、さっぱり分からなかった。
「去年マリエンバートで」を説明しろと言われているようなものなのか、、、?)
現時点でも、謎のままである。
「演劇を楽しめれば立派な文化人だ」などと訳の分からぬ事を言って褒め、残り少ない時間をわたしが予め実踏しておいた、お勧めの展示鑑賞に向かった。

陶芸、工芸の展示を周った。
動物の表現を面白がっていた。頭が小さく体が物凄くデカい猫とか、装飾模様のあるクジラとか、、、。
だが作品より今日周ったどの作品コーナーにも、作者オリジナルの名刺が置いてあり、二人とも名刺アートにかなり惹かれたようだ。
それぞれがとても個性的で可愛らしく、彼女らは途中から名刺集めに専念し始めていた。
カード集めは何ともこころときめく物がある。わたしも取り敢えず貰って歩いた(笑。
アニメ展示館では、テイクフリーのアニメブックを貰いちょっとした時間に夢中で観ていた。
イラスト描きは家でも自主的にしているが、丁度その延長線上にあり興味深いに違いない。

最後によく演劇を楽しみましたということで、綿飴を食べさせて帰路につく。
綿飴なんてまず、お祭り以外に食べない。
確かにお祭りだった。
(今日予定されていた星を見る会が中止になってしまい残念であったが、これが代わりとなったはず)。

非日常を楽しんだ。
しかしわたしはほとんど絵を観た気がしない、、、何故だか(爆。

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幻想の対象化へ

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実際の作業には時間がかかるが、ゆっくり着実に前のめりに進めてゆきたい。
自動的に増殖するイメージの消費と相克、そのさなかでの現実の虚構化。
これはあらゆる場において留まることを知らない。

幻想=表象として思考する反復の限界と、その鏡像関係の閉塞に関して。
その欲望を投影する自明性を不透明にすること。
自己疎外のメカニズムを晒す。

無意識的で根源的な思考及び想像力の場にゾンデを垂らす。
様々な幻想の相互浸透する波間の~両義性の中へと。
だが実際、そこが生きた現実~時間ではあるのだ。

幻想を意図的・創造的に描く画家たちは、極めてそれに自覚的だ。
幻想を対象化するための強靭であり極めて脆弱な身体性に全てを委ねる。
その目覚めの時の喪失感から遡り、無時間の世界の定着を図る仕草は、、、

余りに完璧で理路整然とした果敢無い夢の断章の捕獲にも想える。



マルセル・デュシャン

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画家、彫刻家、チェスプレイヤーである。
絵画(油絵)を1912年以降、放棄してからは、チェスに没頭していたようだ。
ダダの芸術家たちとの接触、一時はその中心的位置(ニューヨーク・ダダ)にいたが、シュールレアリストとのコラボも経てゆく彼は、そのいずれのグループにも所属はしなかった。常に違和を唱えていた。
何らかの組織に帰属することは徹底して拒んでいる。
そして彼はヨーロッパ(フランス)に見切りをつけアメリカに飛んでいる。

但し、ダダイストであるフランシス・ピカビアには多大な影響を受けたようだ。
『人間機械論』のピカビアである。(わたしは彼の「機械の時期」が大好きだ)。
ピカビアの追求した機械の美しさはデュシャンに色濃く受け継がれていると見られる。
『チョコレート磨砕器』、『回転ガラス板』、『地上稀なる絵画』等に特に色濃く反映されていると思う。
勿論、『大ガラス』を忘れてはならない、、、。

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『階段を下りる裸体』(No.2)が未来派やキュビズムの画家たちにすら理解されなかった。
これ以降、彼は絵画制作から急速に遠ざかる。
「裸体は階段を降りない」という批判はこの絵画に対する批判たり得るか?馬鹿げている。
「題名だけでも変えろ」などという忠告も受けデュシャンは呆れかえった。
ここには他のどんな絵画よりも「運動」が優れて捉えられている。
未来派やキュビズムの最高の成果とも受け取れるものだが。

クールベ以降の絵画は「網膜的になった」という批評を美術界に放って以降、彼の作品は油絵からコンセプチュアルアートと呼べるものへと移行する。
単なる「網膜的な愉しみ」に終始している藝術を終わらせる彼の企てであろう。
レディ・メイド、匿名芸術、複製芸術、死後の芸術、インスタレーション、、、
などの様々な方法論によって「観念芸術」を試み、意欲作を作成する。
チェスにも通じる「思考の愉しみ」の為の芸術か。
レディ・メイドをはじめそれ等に対し彼は明確な定義をはぐらかすような言葉「私は何もしていない」などと騙っていた。
特にレディ・メイドは、既製品をそのまま、叉は手を加え(修正し)て自分のサインすることで出来上がりとするオブジェ作品である。
この衝撃は実際、大きかった。
実質、ここからコンセプチュアルアートが始まっている。

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絵具や支持体を使わぬ作者の手もほとんど介さぬ作品群である。
もっとも『大ガラス』はガラスを支持体にはして何年もかけて(確か8年くらい)入念に制作されている。
ガラスの間に埃などを挟んだりしていた。
無論他にも、油彩、ガラス、鉛の箔、ヒューズ線も挟んでいる。

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ローズ・セラヴィ名義で作品発表、、、自身の「性」と「宗教」の移行でもある。男ー>女、カトリックー>ユダヤ教となる。
女装もしている。何処となく南伸坊さんを思い浮かべる。森村 泰昌氏のそれとは違う。
作家自身も変身~作品化するのだ。
『ローゼ・セラヴィ、何故くしゃみをしない』(鳥篭に角砂糖型の大理石と温度計とイカの甲が詰められている。見るからにクシャミしたくなる。しかもたいそう重そうだ)、『ベラレーヌ: オー・ド・ヴォワレット』(リゴーの香水瓶のラベルを自作のものに付け替えている、、、こういうのやってみたい)。この辺はローズ・セラヴィ名義である。

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彼の作品は、その題名が重要な役割を果たしている。
少なくとも作品を読む糸口には違いない。題名が作品の一部とも謂えるものもある。

『階段を降りる裸体 No.2』キュビスム更に未来派の手法を用いて描かれている。「屋根瓦工場の爆発」と揶揄されるが本作でデュシャンの名が知れ渡る。
『泉』逆さまにした男子用小便器に「リチャード・マット」と署名した作品。レディ・メイドの傑作。アルフレッド・スティーグリッツによる写真が残されている。尚「泉」は誤訳で「噴水」であるという説があるが、わたしもそちらに賛成である。
『彼女の独身者によって裸にされた、花嫁さえも』(『大ガラス』)運搬中にガラスに罅が幾つも入ってしまったことを彼は喜んだという。これは、本当に大作というオーラを感じる。結局、未完ということになった。
『遺作』「1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ」は彫刻であり、インスタレーションである。木の扉の穴から中を覗くと、見事に仕掛けられた白日夢(と、よく謂われているが)の世界が広がっている。
視覚のシステム~問題を様々な形で批評して来たその最後の作品と謂えるか。

『自転車の車輪』、『ビン掛け』の両作品は妹によってごみと間違えられたか処分され、現存しているのはその再現作である。
『折れた腕の前に』レディメイドの最初の作品。
『秘められたる音に』レディメイドの初期の作品。
『L.H.O.O.Q.』モナリザに髭を付けた作品。
『グリーンボックス』メモ集。断片的な解説?箱に収められている。ちょっとドキドキする。箱に入れておく意味は小さくない。
『トランクの中の箱』限定300個制作。
『髭を剃られたL.H.O.O.Q.』モナリザの複製画に自分のサインを施した作品。複製品のまんまでもある。
『ホワイト・ボックス』メモ集。科学的なもの(4次元に関する)。箱に収められている。これもドキドキする。
『贈り物』アイロンに釘が一列に接着されたもの。
等々、、、。

題名がやはり示唆的で意味深い。
その作品鑑賞に分かちがたく結びついている。
更に『グリーン~ホワイト・ボックス』など、作品制作の設計図~全体的なコンセプトも併せて用意された。
中西夏之の作品も設計図?を元に後世の人が制作できるようなものとなっていたが。

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『大ガラス』上部の「花嫁」の領域と下部の「独身者」の領域に分けられるこの作品は観ていて飽きない。
わたしにとって、とても不思議な作品だ。
複雑さがこれほど美しい造形を生むのはとても衝撃的で新鮮で不安でもある。
マルセル・デュシャンというとやはりこの作品が真っ先に頭に浮かぶ。
この作品の謂わば解説のようなものが『グリーンボックス』である。
読むと彼の思考プロセスとコンセプトが浮かぶと同時に更に謎が深まる類のものだ。
それもデュシャンの仕掛けのひとつであろう。
アンドレ・ブルトンに高く評価された作品でもある。

この作品については、またの機会に触れてみたい。余りに絶妙過ぎて、深入りする気はないが(爆。

アンリ・マチス

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「マティス 夫人像」

夜遅くになって、アンリ・マチスの絵を眺めはじめた。これはほぼライブに近い(笑。今11時。

原色を多用した絵で、ブラマンクやドランらと共にフォービズム(野獣派)の画家と呼ばれる。
(しかしブラマンクの波打ち渦巻くようなタッチの激しさに比べマチスは構成的な色彩の方に目が向く)。
確かに野獣派と言われるだけあって、強烈な緑に赤の補色の使い方などの配色・色彩構成が際立つ。
最初に「マティス 夫人像」を小5の時に観て、その印象が脳裏に沁み込んでいる。
マチスと聞くとその夫人像がまず目に浮かぶ。
何しろ顔の真ん中に緑の線が引かれていて、新鮮で特異ではあるが破綻のない見事に肖像画となっていることに驚いたものだ。
これは色を塗るではなく、色で絵を描く際の典型的な参考作ともなる為、娘たちにも見せておきたい。
寧ろ大人になって見せるより子供の時期に魅せた方がよさそうな気がする。

日本の画家では萬鉄五郎が近い感性(理念)をもっているように思える。
だが、そういった激しい表現はそう多くはなく、寧ろ涼しく静謐な旋律の聴こえてくるような絵が目立つ。


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「ピアノのレッスン」

モンドリアンもそうだが、この単純な面の色構成は絶妙としか言いようがない。
いつまでも見ていたい心地よさだ。部屋に飾れば静かな涼やかな風がそよいでくるに違いない、、、。
モンドリアンの絵をコンピュータを使って、様々な考え得る色面構成を試してみた結果、画家の選んだ色以外に絵となるものがなかった(最高の色構成であった)という実験結果があったが、丁度、この「ピアノのレッスン」も同様だ。
恐らくこれ以外の色構成は望めないはず。
どの色もその面積も位置も変えようがない形で構成・存在する。

どうみても修練を重ねた色彩家が計算し尽くしたうえで、瑞々しい感性のもとに描き込んだと感じられる。
マチスの身体性そのものからの表出と謂えよう。
やはり自らがやるべきことをやり続けてきて発酵~熟成した成果というものか。
芸術家に限らず、ヒトはこうであらねばと唸らせる。
(最近特に虚しい生き方をしている輩をよく目にするにつけ、つくづくそう思う)。


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「王の悲哀」

これは色彩の魔術師である彼の真骨頂を発揮したコラージュ作品。
たしかに貼り絵で彼の持ち味というか資質がストレートに実感できる。
確かに色彩の魔術師だ。
こうは上手くいかなくても、これをやり始めたら面白くて夢中になってしまうだろう。
今度、教室でもやってみたい。
勿論その都度、思い付きでやる訳にはいかない。カリキュラム的な流れは必要だ。
だが、色塗り、筆使いと共にこちらをやっていかないと色彩感覚を磨かず色だけ漫然と塗らせていても意味はない。

色紙を用意しておこう。
今度はわたしも一緒にやってみることにする。
というか、わたしがやりたいのだ(笑。

この絵は、大学時代に部屋に飾っていたものだが、いつの間にかなくなっていた。
額入りではなく、ポスターをピンで留めておいただけなので強風が入った際にでも何処かに飛び去ったか。
それはそれで趣き深い、、、。

教室の一回目

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(本当のセットの写真は、もっとおもちゃカボチャを足したものを来週((笑)。

頂いた大きなオレンジカボチャ3個。
これがひょうたん型でなかなかボリューム的にも凄い。
それに加え、わたしが花屋で一つだけ調達できた、おもちゃカボチャの4つで構成して、、、
(色々な形を期待して行ったのだがワンパタンしかなかったのだ。270円。昔は100円で買えたのに、、、)。

クロッキーを5回やった。
一回3分。
線~輪郭線だけで描く。
消しゴムは一切使わない。
iPhoneのストップウオッチで「はじめ」、「はい、そこまで」などとやると、かなり面白がっていた(笑。

ただ、そのまま描かせると、小さめになることが多い。
クロッキー帳のページ一杯に描かせるようにする。長女はそれで直ぐに大きく調整したが、、、。
次女のように何でも小さく描きがちなケースには、予め薄く絵をおさめる大きさの丸(楕円形)を描いてガイドラインとする。
するとほぼその大きさで描けるようになった。
(思ったよりあっさり、、、)。

描いた中から一つ選んで、色を塗らせた。
今回は、少し水を多めのポスターカラーで。
これまではリキテックスで描かせることが多かったが、アクリルだと後始末が大変である。
薄い紙に描くことから、透明水彩も考えたが、コスパと使い勝手を取り、これにした。
充分これでイケる。

透明水彩は、色の扱いに慣れてきて、知識も実地で身につけてからでないと、思うようには描けない。
グワッシュにするならポスターカラーでよい。グワッシュは高いし。
一回目としては、そこそこ手応えはあった。
筆使いは沢山描いていくことがまず肝心だろう。
ちなみに、わたしは描くどころでは、なかった(苦。
もう少し波に乗ってから描き始めようと思う。


生徒は来るべき子がまだ、来れる状況ではない為、来週からとなる。
だから今日は、うちの娘二人とである。
最初だからそれなりに真剣にやってはいたが、家族であると次第にだらけてくる可能性は高い。
やはりそこに他人が入ることでピリッとしてくるものだ。
来週から来てくれれば丁度良いか、、、。



プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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