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国吉 康雄

Kuniyoshi DailyNews
デイリーニュース

以前から好きなアメリカの日本人画家である。
とっても身近な親しみやすさを覚えたからである。
じっくり眺めると、大変わたしの体質に馴染む絵であることを確信した。


彼の画集を観ていたら、作品制作に使った物か、彼の撮った写真が沢山載っていた。
油彩作品も好きだが、写真もとても日常的だが対象~人物との絶妙な距離感が面白く、興味を惹かれたものだ。

彼はアメリカが好きであったと思う。
移民として入国し、厳しい肉体労働と差別に会いながらも画家を目指すが、その意欲を受け止めてくれる学校(アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク)が存在し、そこで才能を伸ばせば、しっかり評価を得られるのだ。(後にその学校の教授となり学生たちから慕われる)。
この民主主義と自由は、彼はとても大事なものと思い、守らねばならぬと感じたはずだ。

この30年代は失業者も多く経済的にアメリカは大変な時代であった。
仕事を日本人が奪う、と日本人排斥運動も起こった時期である。
それでも彼は画家として、彼ならではの非常に洗練されたモダニズム絵画を生み出す。
アメリカに住む日本人であったからこそ、アメリカモダニズムを代表する画家と成り得たのかも知れない。
ヨーロッパ絵画と日本の伝統的絵画のエッセンスは息づいているが、その両者とははっきり距離を持つ独自の創意である。
特に色彩がグレーの目立つものから鮮やかなパステルカラーを使った物まであるにせよ、どれにも哀愁や虚無感が宿っており、いぶし銀の深みに惹き込まれる。

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誰かが私のポスターを破った

異国の地ではやはり新聞に載る評価などには極めて過敏となるだろう。
国吉はユーモアのセンスがよく、弁舌も優れ社交的でもあったようだ。
アメリカ国内での作品の評価は高まり、ニューヨーク近代美術館から現代アメリカ絵画を代表する1人に選出される。

父の病気で一時帰国した彼は、祖国での個展を代表作を引っ提げ行う。
アメリカでの成功により前評判は非常に高かったが、絵画はほとんど売れず作品は受け入れられなかった事が分かる。
しかも軍国主義に沸く日本国内での権力の横暴に呆れ果て、帰属意識を喪失する。

自分はアメリカにしか住めない、そう自覚したときに41年の真珠湾攻撃である。
もうひとつの~今やたったひとつの母国から敵国民として厳しい視線を投げかけられる。
国吉はアメリカの民主主義を信じていたため、求めに従い「戦争画」~プロパガンダを描く。

実質、ここで究極的に寄る辺なき身となる。
引き裂かれる。
緊張感と不安と虚無が同居する。

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ひっくり返したテーブルとマスク

とても自分に正直な人である為か”Upside Down Table and Mask”であることを率直に表している。
混乱を苦悶をそのまま表すところがよい。
分かり易い人なのだろう。
そこが良い。

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ミスターエース

彼にしてはとても色が多く鮮やかだが、もっとも虚無的な絵である。
一見有能で頼りがいがある様に見えて、権力において非常に残忍な立ち位置にいる男である。
普段は、ピエロとして親しまれている存在かも知れない。
これくらい冷たい目が描ける~知っている人なのだ。

戦後、国吉は美術家組合(artist equity association)を作りその会長として精力的に活動する。
これはニューヨークを美術の一つの中心地に引き上げる役割を担うものであったが、非情な赤狩りの標的にもなる。
彼は反共主義政策におけるブラックリストに入れられていたのだ。
その勢力を上手くかわしつつも、圧力に悩まされた。

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果物を盗む子供

わたしが一番好きな絵である。
勿論、象徴的な意味がバナナと桃、子供との関係にあることは分かるが(ジャップが黄色い白人と呼ばれていて、少年はまだ建国して程ない若い国アメリカであり、桃は国吉の出身岡山の特産でもある)、それを想わなくても単に造形的に愉しい。
絵として見飽きないのだ。

純粋に絵の魅力でじっくり時間を過ごせる画家である。



レオナルド・ダ・ヴィンチ

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河に渦巻く水流から運動を抽出し、戦争(フィレンツェとミラノ間)の戦闘場面~その人馬一体となった力の鬩ぎ合いに応用するという抽象性がレオナルドであろうか。きっとそこに何らかの自然学的原理を見出していたのだ。
その乱戦時の人の四肢の激しい筋肉運動や微細な表情を描き切る為、毎夜病院の死体安置所に赴き死体解剖にも臨んだ。
精緻で医学的に正確なデッサンが残っている。(わたしもレオナルド素描集を良く眺めたが驚愕である)。
極めて実証的で論理的である。
そして内面を、解剖学的に調べ上げたその動きの構造的描写で饒舌に表す。
これは最終的にあの「最後の晩餐」に結実するものか。

表面的には別の現象~事象に映るもの、微妙で饒舌な表情~表層、をその構造から描き起こすこと。
この次元から物事を捉えようという本質力に拘る画家は、少なくとも同時代ではミケランジェロ以外にはいなかった。
その後もここまで徹底した芸術家はほとんどいない。スケール的にも、、、。

レオナルドにとっては、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学それぞれを研究しそれらの成果を挙げようなどという意識・意図は全くなかった。
そもそも「学」それ自体が細分化していない。
単に事象の本源、原理を探ろうとした過程であり、結果であっただろう。
一言で謂えば「自然学」か。

ちなみに、ルネサンス時(イタリアルネサンス)にレオナルドをはじめ天才が多く輩出したとも謂われるが、ある意味今日の英才教育が良い形で実践されていたように思える。
この頃は、まだ「子供」は発明されていなかったこともあり、年少時に工房に見習いに出された後は、制限なく才能に任せて伸びる者はどこまでも自由に伸びたはずだ。レオナルドみたいに天井知らずで。

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「アンギアーリの戦い」はルーベンスの模写でそれがどれほど途轍もないものであるか、時代を超えたものであるかが分かる。
Rubens copy

そして素描と未完成が目立つ。発見と創造と技法の探求において。
しばしば技法の実験開発に失敗したことも、完成作品数の少なさの原因ともなっている。
壁画が絵の具の定着の不具合で壊滅的な損傷を食らったりすると、もう契約の面から謂ってもアウトとなろう。
完成よりも常に新たな発明に挑んでいた天才であることから、そんな事態も避け得なかった。
そもそも彼にとって、完成などあっただろうか。
「モナリザ」は終生身辺から手放さなかったという。

油彩作品は少ないが、素描はかなり多く残っている。
思考の跡を辿る見方が彼の場合、適しているのかも知れない。


普段出して観ること自体に気後れして、棚に仕舞いっぱなしでいたが、、、
とっても重い素描集をこの愚図ついた天気に部屋に出してきて観るのも良いものだ。


やはり魅入ってしまう、、、。

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この続きは、また近いうちに、、、。

オディロン・ルドン

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生後2日目で里子に出されるとは、どういう意味をもつのか、、、。
そこはボルドー近郊のペイルルバードという不毛な荒涼とした田舎であったという。
家はボルドーの裕福な家庭であり、何らかの親の都合があったには違いない。

少なくとも親元に帰る11歳までは、漠然とした喪失感と寂莫感に宙吊りになって過ごしていただろう。
その分自然との接触は遥かに他の子どもより濃密で自由であったはずだ。
学校にも行っていなかったらしいから尚更。
ただ病弱で病気がちであったというから、野山を駆け回るような接近ではなかったと思われる。
(そうであれば、いやでも悪ガキ仲間とかができるはずだが)。

それは自然の光や色や音にめくるめく夢想を豊かに内面に蓄積することかも知れない。
非常に強い憧れを宿した、憧れと未来からやって来る郷愁と、、、
過剰な渦巻く夢想。
G・バシュラールのいうような物質的想像力に充ちてゆく。

自分にもほぼ同等の経験があるため実感できる。

11歳で帰って来て彼はどうだったのか?
深い落胆しかなかっただろう。
完全な孤独を知った事だろう。
分かり過ぎるくらい分かる。
そういうものだ。

自然~宇宙の大きさに高密度で膨らんだ憧れと郷愁は、すでに親のエゴや家族~共同体のファシズムのうちに変換・解消され収まることは出来ない。もはやインフレーションは止められない。
ここで更に彼は学校にまで行かされる。
こんな歳になって、突然学校に放り込まれるのである。
この強要にどうして耐えることが出来るか?
(しかもどの年齢で教育を受けさせ、学校制度に投げ入れるのが適当かなど教育学的にも何らこれまでまともな考察などない)。


彼のこころの拠り所は、音楽と絵画であったという。

わたしもこころの拠り所は、音楽と絵画であった。
それが絶大なものとしてあった。
そう絶大なのだ。
万能感と果てのない愛情を受けそこなった場合~これは永遠の幻想の類(特殊性と謂うより人であることからくるロマンに過ぎないか?)~人が本質的に持つ疎外観念か、または過剰さを求める本源的欲望であるか~何にしても、その代わりとなるものはこの他にない。なければ枯渇して死ぬようなモノであり、空気と同等のモノである。
(いや数学の天才ならひたすら数学をやるだろう。数学は特に10代が勝負だ)。

学校も美術学校も当然続かない。
それは、はっきりと彼の中に確信を生む。
「自分がいつもやって来たことの他の方法で藝術を生むことは出来ない」
ということだ。

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ルドンの夥しい眼差しの群れ。
大概、それらは特別な感情を持たぬ、一つ目であったり、、、。
そのほとんどは重力の影響を受けていない。
思考と夢の純粋な運動から生まれてくる。
起源:「おそらく花の中に最初の視覚~ヴィジョンが試みられた」
~わたしは、見えるものの法則を可能な限り見えないものの為に奉仕させたのだ~
これがルドンの生理であるだろう。
必然の流れだ。

緋色のように美しい黒。
全ての色彩があらん限り封じ込められてゆく黒。
ここから蛹が成虫に変態するように色彩が開闢~ビッグバンする。
これは絶対に徐々に変化するような事態ではなかった。
瞬時の相転換である。

木炭からパステルへ。
或る時、豊かな漆黒の夢想は、歓びの色彩に溢れ散った。
二度目の起源:インフレーションが起きたのだ。
色彩はパステルを経て、水彩や油彩によって更に加速して広がり深まる。

題材はギリシャ神話そして再び「花」へ。
見えないものを通って見えるものに色鮮やかに開花する。
物理原則を目の当たりにするみたいに。

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青木繁

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「黄泉比良坂」

彼はギュスターブ・モローが大好きだったという。
なるほど、と思う。
通じるものがある。
神話を題材とする(ロマン派的)というだけでなく、一時期特に色彩の扱い方が近い気がする。
厭世的なところも似ている。まあ、世間など端から相手にしない芸術家は少なくないが、青木の場合、食ってゆく必要からなかなか大変であったようだ。
金銭面については、モローは全くお金に不自由する人ではなかった為、悠々と隠者生活が送れた。
この処女作の美しさには唸った。初めて観たとき、これが一番良いと思った。
黒田清輝の「白馬会」に出品し賞を得たというが、この絵はモローにも繋がる象徴性を湛えた神秘的な光を感じる絵である。
古事記(日本書紀も)を読み、日本人の根源に迫る絵を目指していたようだ。
これは、とても優れた方向性だと思うし、彼の描画スタイルにも合致していると思う。
そのまま行けば、東洋のギュスターブ・モローの誕生だ。

彼は早くから「天才」と呼ばれる。
自身もそう確信していることが良くわかる「自画像」を描いている。
「丹青(絵画)によって我男子たらん」と初心表明していた。
絵でアレキサンダーのような存在になる野心をもっていたようなのだ。

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「海の幸」

彼独自の作風であるし、代表作となるだけのモニュメンタルなインパクトがある。
とても勢いがあるダイナミックで的確なタッチだ。
画力が充分窺える。
恋人の白い顔がこちらを覗いている。
常にそういうものが気になり、その文脈の中に自分独自の意味~象徴を埋め込んでしまう人なのだ。
絵によっては、何気なく恋人の下に置いてきた息子まで出演している。
それは、気になるのは当然であろうが、主題的に関係ない作品に表出させてしまうのである。
自分の気持ち(無意識的なもの~要求)にとても率直なのだ。
(表現者の特徴であり、ある意味特権ではあるが、、、)。

この行列は、地元の漁師に謂わせれば、全くの想像の賜物であり、実際にこういう形で獲物を捕らえてから行列して歩くことはないという。祭りの形体から援用しているとみられるところはあるらしいが、元の形などはさしあたり、どうでもよい。
日本(人)の源流を漁師たちの姿を借りて青木のイメージで掬いだしたものと謂えよう。
わたしもこれには見入ってしまうが、漁師たちの表情がもはや、日常のヒトのものではないのだが、神話的な人物というような特別な存在(英雄や偉人)にも見えない、何かヒトの原型を観るような気分になる。
一口に言って、不思議な感じの拭えない絵なのだ。
パリで展示された際にも、鑑賞したパリジャンたちは、皆不思議がっていたようである。
だから注目され続け、代表作なのだろう。

Aoki Shigeru001
「わだつみのいろこの宮」

はっきり言って力作と一目で分かる絵である。
やる気を出して、充分に構想を練って準備して描いたなと恐らく誰が見ても分かってしまう絵であろう。
大変美しく隙の無い作画であるし、完成度がとても高いものだ。
ただ、丁寧なタッチで描き過ぎたきらいはあり、やや説明的な感もしなくはない。
もしかしたら、賞狙いの欲が過剰に働いたか。
「海の幸」みたいに描きたいもの~イメージを一気呵成に、奔放に定着した凄みは後退している。
綺麗な絵である。

当人の期待した称賛は得られず、大きな落胆を経験することになる。
しかし、自分がよく描けたという確信があれば、世間がどう見ようがそんなことはどうでも良いのではないか?
自分にとって(内的必然において)どうなのか、それがすべてではないのか。
勿論、大家となって名誉欲を充たし、金銭面でも安定を得る必要はあったかも知れないが。
であれば、一回くらいの挫折で落ち込んでいる暇はあるまい。
10回続けてトライしても大賞が取れなかったというなら分かるが、たかが一度思った賞が取れなかったくらいで大変な落ち込み様というのは、なんとも、、、。

非常な自信家であった分、打たれ弱いヒトであったようだ。

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「朝日」

恋人とその間に生まれた子供を残し、故郷に戻って生活を支える絵を描いていたが、その後、、、
九州各地を放浪し酒に溺れながら極貧のうちに唐津の海に最期に行き着く。
そこで、何故か「朝日」を描く。
写実のようで心象風景に他ならない異様に神秘的で幽玄な美しい海の光景である。
幻想の朝日であろう。
そこに見えない「朝日」を見ようとしたのだ、、、。
絶筆である。
28年の生涯を閉じる。


娘のお出かけ~北斎とルノアールも少し、、、

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7月31日からずっと、娘が海外旅行である。
15日にならなければ戻ってこない。
娘のいないうちに色々やろう、と思っていたのだが、いざ自分の空間にあの小うるさい娘たちがいないと、腑抜け状態になってしまう。計画を綿密に立てなかったから、とかいう問題ではなく、、、。
ボーっと一日が過ぎてしまうのだ。
活気がないとかいうものとは違う感覚である。
(うるさいのと活気とは違う)。
ただ、自分のなかに発動する何かがないのだ。

、、、わたしには、もともと中心がない。

おまけに、天気も悪く、月も出ない。
娘たちとはじめて、毎日収穫のあったトマト畑も、嵐でかなりの大打撃を食らってしまった。
昨日、結局3本木を始末した。

何だか蒸し暑いうえに、空虚な感じにとらわれるものである(爆。


今日は北斎やルノアールを観て過ごした。
北斎の技量の高さには、ひたすら驚愕するばかりである。
その上に発想の豊かさと自在さ、というか観察力とその構造の原理を掴みデザインに的確に活かせる能力の高さに驚く。
また、よく言われる茶目っ気である。
やはり、その通りだ。
富士山であれだけ遊べる人はいまい。思わず笑ってしまう。
そして夥しいバリエーションの獅子である。
もう、北斎その人である、としか言えない。獅子がそろばん弾いて小言まで言っている。
更に波頭の形体の妙。砕ける波がどんどん雄弁に迫力を増してゆく。
ついに波しぶきが鳥となって羽ばたき飛んでゆく様は、もうエッシャーである。
(勿論、エッシャーより早い)。
波の打ち寄せと引き潮の動きの雄弁で簡潔なこと、、、。
とても解き放たれた心地よい想像力を感じ、スーパーフラットな閉塞的な圧迫感が全くない。
そして波だけが時空の奥に向けて螺旋状に運動してゆく光景は、宇宙の創造そのものを肌身に感じるところまでゆく。
神秘的であり偉大さを感じるが、重々しさはない。

どんな描画法であろうが何が題材であろうが、何でも彼の独自の絵として完璧に迷いなく仕上げてしまう。
晩年の肉筆画の圧倒的な技量には、ただもう唸るだけであるが、とても心地よく絵の中に入って行ける。
ここがきっと肝心なところなのだ、とつくづく思った、、、。
ここまで神業となると、上手いとかどうとかではなく、ただ気楽に楽しめてしまう。
そういった、行くところまで行った「軽み」が感じられるものである。

Mlle Irene Cahen dAnvers

ルノアールは、断然初期が良い。1980年代は瑞々しさを保ちながらも熟れてきた作品が多く、とても好きだ。
1970年代の固さが感じられる絵にも惹かれる。
だが、わたしはこのあたりの初期の頃の絵しか見る気がしない、、、。
何といっても印象派である。
外に絵の具を持って(開発されたチューブ入り絵の具で)光と色を、特にルノアールは繊細なタッチで描いてゆく。
光と色は常に新たに発見され、カンバスに小気味よく定着される。
その息遣いさえも感じられるタッチの画面は、どれも気持ちよい。
この雨ばかり続き風もひどく鬱陶しい時に見るには最適な絵である。

ルノアールは、もともと陶磁器の絵付け職人から出発した人であるから、細やかなタッチと心地よい色遣いは特徴的である。
とても清々しく優しいハーモニーに充ちている。(何しろ陶磁器が気持ちよい模様でなかったら商品にならない)。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」、「二人の姉妹~テラスにて」、「舟遊びをする人々の昼食」とか、風景の中の群像(人物)の絵は、いつまでも観ていられるとても心安らぐ愉しいものばかりである。
そんななかでも「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」が特に好きだ。
こんな瑞々しく愛らしい少女像があるだろうか。
こういった少女像は、この頃のルノアールの独壇場だ。
他の画家の追従を許さない。

しかし、1990年以降のルノアールの絵にはついてゆけなくなる。
巨匠となってから後だ。(巨大な恐竜が身動きできなくなったかのような印象を受ける)。
特に「ピアノに寄る少女たち」(1992)が象徴的であるが、もう何と言うかひたすら感覚的に観るに耐えないものとなってゆく。
晩年の「浴女たち」が良いという人も勿論いるだろうが、わたしは生理的にダメである。
有名画家の描いた絵の中で(教科書にも載っていた絵で)もっとも嫌いな絵が「ピアノに寄る少女たち」であったが、それは今も変わらない。それから、ぶよぶよのセイウチのような晩年のニンフ群についても。

最も好きな絵の一つも彼の「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」なのだが、、、。
わたしにとってルノアールとはアンビバレンツな存在なのだ。

まあ、そういったものであることが普通なのかとも思う。

だが、西洋画家でも、ギュスターヴ・モロー、バルテュス(バルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ)、ウンベルト・ボッチョーニ、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フランツ・マルクなどは、どの作品をとっても強烈に好きである(爆。


天候の悪い日は、自分の好きな絵でも観て、音楽を聴いて過ごすのが一番に想える。
(ただ、娘たちがいないうちに出来ることは少しでも進めておかなければならない)。



村上隆

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昨日に続いて現在活躍中のアーティスト。(画家というよりアーティストというのが馴染む)。
村上隆を実際に美術館に見に行った事はない。
横100m縦3mの作品を観たら、それはさぞ圧倒されるだろう。
メディアや雑誌で観た範囲の感想である。
恐らく実際に会場に足を運んでも変わらないと思うが、その作品世界に惹き込まれるというものではなく、表面に湛えられた強烈な迫力に押し返されるような経験となると思う。

彼は若くして海外(アメリカ)に渡る。
世に出ること~野心に燃えていたようだ。
何をすれば時流に乗れるだろう、と考えた末、日本のアニメを元に(その後は水墨画~浮世絵も引用し)、シルクスクリーンを中心に作品を展開していった。
特徴としては、何より奥行き~内界を排除した表面のみを強調したパワー溢れるものだ。
等身大フィギュアも作成している。当初から作品はよく売れたそうだ。

自身は「海外に対するアンチテーゼ」と騙っているが、寧ろ日本のアニメと江戸の絵師からの引用と西洋ポップアートの融合ではないか、という気がする。
さらに戦後日本を強く意識した制作を行っているという。
なるほど、戦後の日本のオモチャ産業はJHQやアメリカ本国への輸出を巡っての商品開発で、やはりアメリカ=日本のハイブリッドデザインが生まれる場であったはず。
彼の作品群はそれを更に純化した異常なほどポップな融合作なのではないか。

芸大の日本画出身で、アニメの手法を基本にして、ポップアート~ファインアート~水墨画(浮世絵)をシームレスに繋ごうという試みは、彼自身が提唱するスーパーフラットというムーブメントであろう。
確かに非常に平面的で、構成要素の輪郭内部に限りなく過剰な装飾形体~模様を充填してゆこうという作品だ。
(こんな巨大で細密な版画をよく刷ったものだなと、感心するばかりだ)。
個々の要素(羅漢など)に関しては、一体ずづコンピュータに取り込んで構成に及んだという。

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村上隆は、作品がとても高く売れる。
金が動く。非常に儲かっているアーティストだ。
フィギュアも作っており、パリで展示されたり、やはり高額で買い取られている。
(金持ちは結構いるものだ)。
流石にベルサイユ宮殿で展示される際には、反対者も出たらしい。
(しかし、ベルサイユ宮殿に展示され、そしてそれに反対する人たちがいる事自体、どれだけ有名かということである)。

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彼は『DB君』という真似されやすいキャラクターをもっている。
似ているキャラを発表している会社に対し著作権侵害で提訴して和解金(4000万円)も受け取っているが、子供とかが何となく描けば似てしまう類の顔のキャラである。
実際、フィギュアも一体5800万円で取引されたそうだが、食玩にも作品は転用されている。
確かにオモチャ・キャラクター商品でも十分に通用するモノだろう。

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肝心の大作についてだが、「500羅漢図」を美術誌紙面とTVで観た。
実際に会場に行ったとしても全貌を一度に観るのは不可能であり、部分的に観てゆくことになろう。

全長100mの凄まじく長く大きなシルクスクリーン作品であり、彼が原案を考え、それらを構成する絵は雇っているスタッフや学生アルバイトに任される。
実際の刷りは、非常に神経を使う体力・根気仕事であり、これは学生たちの担当になる。
村上は、基本チェックをして檄を飛ばす社長のような立場だ。
現場責任者も学生だったりする。
村上は外注であったり、工房~スタジオシステムで作品制作をしてきているのだ。
ルネサンス期だって多くはそうであった。(レオナルドはベロッキオ工房で師匠の絵の一部を描いていた、、、師匠より上手かったが)。
「500羅漢図」は、東日本大震災に衝撃を受けて、アートとして何ができるかを考えたところから、コンセプトが生まれたという。
安政の大震災の際に描かれた狩野一信による「500羅漢図」を下地に村上流の平面的極彩色の迫力画面に仕上がっている。
羅漢が光線を発しているところなど、歌川国芳にも通じるところを感じる。
(村上にとって光線を発する等、大したギミックではないが)。
そして羅漢に限らず、全ての要素が「怪物」たちなのである。龍やその他の想像上の怪獣で羅漢の他は埋め尽くされる。
勿論、羅漢の顔~表情も皆、怪物である。
少なくとも観て拝みたくなる厳粛な顔などは一切ない。
どう見たらよいのかよく分からない顔ばかりなのだ、、、。それが狙いなのだろうが、、、。
(何故か諸星大二郎の「インフェルノ」を扱った『生命の木』に登場する彼らの顔を想起した)。

また面白いのは、背景の(炎などの)連続性を故意に崩すことで、観る者にワザと引っかかりを持たせる工夫を凝らしているところだ。
炎に限らずドット模様も繋ぎ目でズレていたりする。しかし図の部分では綺麗に連続している。
これは確信犯である。

しかし、大いに目立つとはいえ、これがどういう作品なのか(何であるのか)、よく分からないのだ。
『DB君』とその変容キャラも含め。
文字通り商品としても接することのできる作品であるが、どう接するものなのかとても戸惑うモノなのだ。
とても微妙な境界上の作品群に想える。
(分析しようとか、そういう気にもさせない強靭な即物性は感じる)。




入江一子

絵を描くことがそのまま宇宙から滋養を貰うこと。
きっとそうなのだ。
われわれには不可視なその光が、いよいよ顕になる。
呆気にとられる「光そのもの」が射してくる、、、。
まさしく「光の画家」

しかし、それはDNAを破壊するような宇宙線ではない。
霊光とでも謂うべき優しい涼やかな光が風景を満たすのだ。
尋常ではない原色の眩い光景~パステルカラーである。
民族衣装も際立つ。
そう、純情無垢な美しさ~愛らしさで充ち広がるのだ。

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「四姑娘山の青いケシ」

入江一子は、高齢で現役を元気に続けている画家の代表である。
1916年5月生まれであるから今、101歳。
新作を意欲的に制作し続けている。
何れも対象に対する究極の「賛歌」と謂えようか。一点の曇りも感じない絵だ。

彼女は50歳を越えてから、シルクロード36カ国を周っている。(それを聞いただけでもわたしは眩暈がする)。
42℃もある土地で何時間にもわたってスケッチをしたり、明かりのない暗がりで懐中電灯を頼りに敦煌の飛天を模写したり、蒼い芥子を観るために24時間馬に乗り、山頂に二泊して高山病に罹りながらも芥子を描いて帰ってきたり、ともかくその取材力が半端でなく凄い。普通なら過労で倒れるようなところ、彼女は絵を描くことによって、余計に元気になる。
恐らく、自然に同調して元気を貰っているのだ。
自然~宇宙の神秘との結束点になっているのだ。
植物のように。
ヒトとしての何かの器官が発達している(または、抑制されている)のかも知れない。

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「敦煌飛天」

彼女の天真爛漫な話し方からして、何かが違う。
これまで画業一筋、脇目も振らず一直線に生きて来た賜物か。猥雑物が一切ない。
彼女が「絵」そのものという感じしかしないのだ。
例えば青木繁のような天才画家であっても、絵は手段・方法のひとつと考えており、彼にとって自分の思想~世界観(神話)を表すことが何より問題である。それが文学であったかも知れず、選択の結果であった。
入江の場合、そのような絵との距離はなく、描くことは生の形式に埋まり込んだものだ。
絵を描くことが生きること~呼吸することと同義となっている。
6歳の時から絵が描きたくてたまらず描いてきており、その姿勢は100年、変わりない。
(彼女にはメアリー・カサットと違い、「女子美」という受け皿もしっかりあった。)
幼いころから食卓に出た食べ物も、まず絵に描いてから食べる。(これは今でもやっているかどうか、、、?)

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「トルファン祭りの日」

そして毎日、好物の焼き肉を食べる。(魚は絵になるが、恐らく焼き肉は絵には描くまい)。
来客には自分の旅の話を楽しそうに聞かせる。
モロッコのバザールで空に浮いた原色の色鮮やかなパラソルの群れのこと。
大道芸人たちと楽器を打ち鳴らす音の響き、、、。
民族衣装の美しさ。
砂漠や日干し煉瓦に落ちる朝日と夕日の光の輝き。
そして、その民族が今、戦禍に見舞われ苦しめられていることにたいする同情。
入江の絵は文化遺産の記録にもなってしまった。(彼女流に抽象化された風景ではあるが)。
彼女がかつて描いた バーミヤンの石仏は、タリバンのによって破壊されてしまっている。
そんなところが多数ある。

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「バリ島.ガルンガンまつりの日」

光が完全に可視化している。
この光の下でのこの色彩なのだろう。
彼女には実際に、こう見えているのだ。
「デッサンは難行、苦行だが色を塗ると真実みが出てきて愉しいです。」

彼女は、何処にあっても目に留まるものを何でもスケッチする。
東京の路地であっても。
そこから「生命の美」そのものが生まれてくるようだ。


「絵がだんだん分かって来て、だんだん描けるようになるんです。」
この言葉には無限の重みがある。



メアリー・カサット

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この絵はメアリー・カサットの芯の強さをよく表している。
女性の眼差しが確固たる意志を表明している。
わたしは見に来た、という眼力を充分に感じ取れる。

彼女はアメリカの富豪の娘であったが、絵画の勉強にやって来たパリで学校に入れてもらえなかった。
試験に不合格であったわけではない。
女性である為に、門前払いを受けたのだ。
19世紀のパリである。
エアリー・カサットは、学びはルーブル美術館で充分と言って作品模写に励む。
観ることで学ぶという。その強い姿勢が窺える。
この自立心はもうすでに男性以上ではないか、、、。

同時代の女性画家(印象派)に、フランスではベルト・モリゾがいたが、彼女はフラゴナールの家系でもあり、師匠にはコローがいた。
彼女の方は、かなり恵まれているか。

しかし、メアリー・カサットもその後印象派に関わり、(結局彼女のお陰でアメリカに印象派が紹介される)そこでピサロ、ドガに絵を学ぶ。
特に、ドガと自分の視座の近いことを認識する。
自分たちは、身近な日常のありのままの現実をもっとも重く見る!
(恐らくこう考えたはず、、、)。

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この絵の絶大な魅力は何か、と考えると「濃密な距離」にある。
そこに生じている空間が非常に濃密なのだ。
母の目と子供の目の間の作る時空である。
互いに問いかけ合う関係が重く息づく、、、。
そこには、親密な情もあるが絵空事ではない、無意識的で生理的な嫌悪と、生々しい葛藤も渦巻いている。
自分の感情を静かに内省してみれば、これは誰にも否定は出来ないはずだ。
カサットの絵には、そうした「疲労」が描き込まれている。
その点だけでもわたしは彼女の絵の信奉者である。
母子関係とは、本当に生易しいものではない。

それは「人間」(たかだか200年の概念)の前にある生物学的ヒトとしての迷いと寄る辺なさからくる、疲れである。
(吉本隆明はかつて親子関係を本質的に互いが互いを滅ぼし合う関係であると騙っていたが、余りに大きい説得力に絶句することも屡々である)。


「母子」だけを主題としたのはカサットが初めてではないか。
宗教画や風俗画の一部に添え物として描き込まれることは、それまで~歴史的にあったにせよ。
(間抜け顔した天使像などにもよく見られる)。
まともに写実された歴史は彼女以前には、ない。

「母子」関係の重さは計り知れない。
「母子」関係はやがて成長とともに消えゆくものとは言えず、強固に精神の基調を形作り、一生に深い影響を及ぼすことが多い。
宿命との闘いの始まりの図である。
カサットの絵は、むずがっている可愛らしい子供をあやす微笑ましい母子愛が優しく描かれているだとか、、、いい加減に軽く見ることは許さない毅然とした崇高さがある。

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本当に日常の写実である。
彼女は理想的な姿は描かない。綺麗ごとで胡麻化さない。
現実の母子関係は(父子もそうであるが)、日々闘いでしかない。
牧歌的で呑気なものでは決してないのだ。
母子の互いの探り合いを、とても細やかな神経で描き切っている。

それによって研ぎ澄まされた美で湛えられている。
畳みこまれた母子関係~時間が一見何気なく描かれている。
そこに魅了される。

これは、恐らく彼女が姉の看病、母親の介護を長年しながら、女性ということからくる差別とも闘い、果敢に絵を描き続けてきたことで培われた意志の強さと洞察力によるものだと思われる。
ちなみに彼女自身には子供はおらず、兄夫婦や周囲の子供を鋭く観察した過程に生まれた成果である。

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彼女はフランスで日本の浮世絵を鑑賞し、影響を受ける。
当時の印象派の画家たちは少なからず、浮世絵の平面性、形体の単純化・強調、色彩に衝撃を受けていたが、彼女もその例外ではない。
しかも題材的にも、母子像の描かれたものに惹かれるところがあったようだ。

銅版画の線の明快な美しさがとても活き活きしていて気持ちが良い。
まるで浮世絵を見るような心持になる。
才能の確かさも改めて確認した。

時折、画集を開いて観てしまう画家である。


長谷川等伯

長谷川等伯は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した絵師である。
下級武士の子として生を受けるが幼い時に、染物業を営む長谷川家に養子に出される。

「松林図屏風」(国宝)
Hasegawa Tohaku002Hasegawa Tohaku001

ここまで圧倒的な絵というものを、観たことがない。
ただ、ことばを失うばかりだ。
何をか無理やり言ってみても虚しい。
やはりこうした屛風画では、一番拘ってしまう。
この絵は時の権力者の依頼で描いたものではない。
自分の為に描いたものだ。
画集で観るときでさえ、特別姿勢を正して観てしまう。
丁度この頃、自分の跡継ぎと決めていた息子が世を去っている。
狩野派にこれは描けないことだけは、確かだ。
水墨画と大和絵の高次の融合である。


戦国時代、絵師というのは、権力者の城の空間を埋めるための仕事をしたと言える。
狩野派一の天才とうたわれる狩野永徳は常に天下人の近くで権力に守られ制作に励んでいた。
一方、長谷川等伯は能登から独りやって来た無名の絵師(仏画師)である。
永徳の描いた絵を見て、等伯の野心に火が付いたことは有名。
等伯は一時、狩野派の下で絵を学んでいる。(学ぶと言っても部外者として手伝うといったレベルを超えられない)。

等伯は独立し堺の商人の勢いに乗った(金を蓄えた商人が等伯の絵を求めるようになった)ところもあり、利休とも交流が深かまり、重く見られるようになる。
そしてついに、大徳寺三玄院の襖絵を利休に任され成果を上げる。
ここから等伯の名声は鰻上りとなり、永徳は大いに焦ったという。
狩野派は既得権を守るために、等伯に対し様々な圧力と奸計を仕掛ける。
等伯はついに「仙洞御所対屋障壁画」の大きな仕事の依頼を受けるも、永徳の謀略によって阻まれるという事件も起きた。
しかし信長が死んでから、永徳の権威もこれまでのような力が続かず、等伯の勢いを止めることが出来なくなった。
永徳の急死により、狩野派は一時求心力を失う。
その時期、秀吉は息子の弔いのために、京都に菩提寺・祥雲寺(智積院)の建立を命じ、障壁画を等伯に任せた。
秀吉も大いに満足させた「楓図屏風」(楓図壁貼付)が等伯の地位と名声を絶大なものにする。


長谷川等伯の絵は、いずれも野心的であり、センスが極めて鋭い。

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「楓図屏風」(国宝)
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「檜図屏風」(狩野永徳)
同時代の巨匠同士でよく引き合いに出される絵。
共に豪華絢爛な趣向であるが、デザイン的に観るとかなり違う。
構図、色彩の扱い(塗り重ね)等が、等伯の楓図は大胆で華麗で革新的だ。
これを見比べると、等伯に時代を超脱した魅力が活き活きと感じられ、やはり等伯となってしまうが、永徳には「洛中洛外図屏風」もある。
金箔貼りまくりの細密豪華絢爛の凄さもありだ。
あっちも見始めると面白くてやめられない、、、。

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「利休居士像」
利休ももとは、堺の商人であった。
等伯の力をいち早く見抜いた人である。
この肖像画、様式的に描く姿勢とは全く異なり、極めてリアルに洗練された手法で描かれている。
これを観れば、利休という人がじわ~っと分かって来る気がする。
非常に優れて写実的な肖像画に想える。

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「枯木猿猴図」
この猿は面白い。
とってもフサフサしていて柔らかそうで白くて丸いのだ。
3匹いて、等伯親子を表しているとも謂われる。
木の枝振りは実に枯れていて、猿との質感の違いを味わえるものだ。
彼は妻と才能豊かな息子を二人とも亡くしている。

絵では大成功し「下剋上の絵師」とまで称されるが、私生活では大切な肉親の死に見舞われた。
しかしそれを乗り越える精神~野心も只ならぬものがある。
雪舟を自分の権威イメージに巧みに取り込むイメージ戦略が功を奏し、大寺院からの依頼も増え続け、彼は単なる有名絵師に留まらず京都の有力者となっていった。
具体的には、雪舟から数えて自分が5代目にあたると標榜する系譜の作成~宣伝である。
雪舟-等春-法淳(養祖父)-道浄(養父)-等伯。
なかなか絵師がここまで考えることはないと思う。
藝術的才能と技量だけではない、マーケティング(ブランディング)能力の高さも尋常ではなかった。
(利休や堺との結びつきなどにしても)。
商才にも長けていたというべきか。



吉田 博

もう一人、版画を。わたしはこの画家については「光る海」(版画)から入っており、それ以前の画業や人となりなどについてはほとんど知らない。明治~大正~昭和を跨ぎ活躍した画家~版画家であり、時代を通しての第一人者であるが、然程知らないのだ。
だが、その版画が途轍もない魅力を湛えている為、一言だけ記しておきたい。

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ダイアナ妃がとても気に入り購入したという彼の「光る海」
執務室に飾っていたことは知られている。
日が傾く頃の瀬戸内海の静かで永遠を感じさせる柔らかな水面の光、、、。


画才を認められ吉田嘉三郎の養子となったことで吉田の姓を名乗る。
その当時は水彩画が基本で、油絵も描いていた。
若くして渡米し、デトロイトで作品を多数展示・発表するが、高い評価を得て受け容れられ、作品も売れる。

自然の幽玄な姿を写し取る緻密で重厚な作風は、東洋的とは謂えるが、伝統的描画ではなく欧米にも日本にも比べるものがないことからも話題を呼んだ。
その後、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDCでも展覧会を開き名も知れ渡る。
そして題材を求め、欧州諸国、及びモロッコ、エジプトにも外遊し作品制作に励む。

版画に移行する前の水彩・油彩の吉田の絵は、只管重厚で哲学的な趣の深いもので、当時主流であった黒田清輝の軽やかで明るい「新派」からは「旧派」扱いを受け、日本においては孤立を余儀なくされていた。
アメリカ~ヨーロッパでは、かなり認められた存在であったにも拘らず、暫く本国日本では誰もが知る画家とは言えない位置にいた。

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尤も、アカデミックな場においては、水彩画の「ピラミッドの月夜」、「池の鯉」、「新月」、「峡谷」などや油彩の「精華」、「千古の雪」など非常に高い評価を博しているものも多い。文部省美術展覧会で文部省買い上げや無鑑査で出品する権利を得ており、審査員としての出品も果たしていた。


しかし新版画の版元、渡辺庄三郎に出会い彼の版画舗から木版画を出版し始めることにより、日本においても一般的に高い評価がつくようになる。
充分に画家としての高い地位についていた40歳からの挑戦であり、新境地の開拓でもあった。
彼が本格的に活躍が広く認められるのは版画に目覚め、何と彫りと刷りまで職人レベルの力をつけ独りで出版するようになってからと謂えよう。
版画の制作ペースも速く、忽ちボストンを拠点に、フィラデルフィア、デトロイトなどで何度も展覧会を開いている。
しかも独自の手法を幾つも開発し、一見版画には見えない版画作品の趣を得ることになる。
(海外の吉田 博の研究家はそれを「発明」と呼んでいる)。

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名作と呼び名も高い「剣岳の朝」
夏の夜明けの一瞬である。
印象派的な儚い美をしっかりとした版画の構築性で捉えている。
光と空気が優しく柔らかい。
その光と空気のリアリティの為か、臨場感が異様に高い。
「画家は自然と人間の間に立って、それを見ることのできない人のために自然の美を表してみせるのが天職である。」
確かにわれわれもそこに溶け込むように風景を感じることが出来るのだ、、、。
こんな時間は、名画相手の絵画鑑賞であっても、それほど味わえるものではない。


彼はその題材を求め、日本でも諸外国においても山岳をモチーフとすることが多かった。
自身山登りが好きで、必ず頂上まで登ってしまい、山中に籠って描くことも多かったようだ。
その為、その視座によるパノラマ画面の雄大で清々しい風景も多い。
しかし、何処に行っても(外国に行っても)観光化が進み、それが悩みでもあったらしい。
人の知らない自然の美を伝えなければならないのだ。
山を描く版画家であれば、彼も当然「富士山」を描いている。
そこには、西洋画だけでなく明らかに葛飾北斎などの浮世絵の影響が感じとれる。
版画を学び取るに当り浮世絵の線や色彩、形体の単純化の研究が作画にとても有効に働いたと考えられる。
確実に水彩・油彩に見られない特異な表現~美が加わっている。
(何処を描いても人の知らない自然を魅せてしまうような、、、)。

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彼は山のほかに、山の谷間などを流れる渓流なども好んで描いている。
水の表現では彼の右に出る画家はいないとまで謂わしめるようになるが、確かに水~多様な速度の水流は圧巻であり、飛び抜けた動勢と質感である。
水の湧き出て流れ、砕け落ちる「音」まで聴こえてくる。
まさに自然の美を純粋に伝えるレヴェルに到達している、と感じられる。


それを可能にする方法として、まず秀でたデッサン力は言うまでもないが、掘りの輪郭線の強弱・太さの微妙な調節、線も光に対する色で刷り分けるなどを細やかな手間を惜しまない。
しかし一番大きな効果は、画面に深い陰影を埋め込むための「ネズミ版」を執拗に重ねて刷ることで、版画であることに気付かないような深い奥行きのある画面が生成されることとなる。
この「ネズミ版」を30回以上重ね刷ることが彼の作品では普通であった。
欧州歴訪を終え、自身の版画スタジオから「アメリカ・シリーズ」、「ヨーロッパ・シリーズ」を出版する。
この彼の版画の光景は、欧米とか日本とか関係なく、、、光と風の創る、未知の永遠の瞬間に想える。


水彩や油彩の頃と比べると、作風に重厚さは基調として保たれてはいるが、優しさ~穏やかさや柔らか味が加わっていることが分かる。
ここが、恐らくダイアナ妃を強く惹きつけたところであろう。
斯く言うわたしも、そうなのだ(笑。
一度目を向けたら、なかなか離れられない画面である。


萬鉄五郎

yorozu005.jpg『裸体美人』(萬) nobe kuroda『野辺』(黒田)
芸大入学時(主席入学)には、師である黒田 清輝の作風を強く意識した、フランス外光派(印象派の亜流)風の作品を描いていた萬であったが、卒業制作では師の「野辺」からは程遠い「裸体美人」にまで進展している。
彼のモットーは、「未だかつて出来なかったことを、なし遂げんとする」ことである。
この芸大卒業制作は、19人中16番であったそうだ。
萬は卒業式をボイコットする。

確かに野獣派的で挑発的な作品である。
(マチスっぽい)。
完全に、黒田的裸婦像の「美」の約束事の外にある「裸体」であろう。
その即物性は何と言うか、プリミティブで太々しい生命力を発散している。
ゴーギャンのタヒチでの現地の女性像に近い迫力を感じるものだ。
ありきたりな美はすでに捨て去っていることは、はっきり分かる。
ラファエル・コラン(黒田の師)の絵などをこんな時に見ると到底、萬が満足できるはずはないと思う。
萬の野心丸出しの絵という感じだ。
「雲のある自画像」

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彼は自分を見つめ常に自分の殻を破って創造を続けた芸術家であると考えられるが、自分を見つめるという意味でも、自画像が多い。レンブラントもその意味での自画像が多いが。
自分をモチーフにすれば、その作画の変遷も分かり易い。
そう、萬の場合は、自画像が実験結果という感じで、残って行く。
これと、赤と緑の補色関係の二つの雲が頭上に浮かぶ自画像が有名である。
この雲と彼との関係はとても緊迫した関係にあることは分かるが、恐らく内面を象徴する形態・色彩であろうが、何故かわたしには漫画チックに見えてしまった。
ギャグマンガに転用される危うさをも秘めている。

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「赤い目の自画像」
新しく「原始時代を始める」と宣言したころの絵である。
萬は故郷の土沢に戻り、ひたすら作画の実験に没頭していた。
純粋な自分だけの作画を「土沢」で極めようとしたのだ。
赤土と神楽の面に象徴される故郷の地で、それこそのたうち回って新しい絵を探っている。
(こののたうち回って新たな独自表現をものにしようという姿勢は小林秀雄の姿にも重なる)。

そうした結果、この自画像は、更に変容する。
顔は神楽の面にも通じる呪術的な形に変容し、敢えて共振する絵を探せばピカソのアビニョンの娘たちに見いだせる「顔」である。
彼はピカソは知っていても、その作品は知らない状況にあったという。
彼が試行錯誤の果てに、独りで独自に行き着いた表現法であった。
「それ」はもうヒトではなく鬼の頭部と見紛うほどの異様な形態を獲得している。

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「土沢風景」から「丘の道」に至っては、赤褐色に数種類の緑色以外にはほとんど色はなく、形はもう地形を感じさせないほどに抽象化されてゆく。
ダイナミックな色の動きによる構成に近い。
この赤は謂うまでもなく、故郷の土の「赤」~「丹の色」であり、一種の土着性(アニミズム)が彼独自の表現を強調している。

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「もたれて立つ人」
そして極め付けである。
キュービズムの見事な作品だ。
マルセル・デュシャンかと思うほどの絵であり、やはり彼も形体のとる運動(力学的な形態)に注目している。
同時性と謂ってよいか、彼が独自に創造した成果であろう。


晩年は、肺結核を患い、茅ケ崎に療養を兼ねて移り住む。
この時期から「南画」にも取り組み、墨で自分の境地を風景になぞる様に小気味よく描いている。
とても病人とは思えない、活き活きとした楽し気な筆である。
南画はリズムが肝要と言い、そこで試したリズムをまた油絵に活かしてゆく。
最後は、「宝珠をもつ人」を描き始めるが、未完のまま終わった。
16歳の娘の病の快癒を祈る絵であったと言われるが、甲斐なく娘は他界し、彼自身も翌年41歳で娘と同じ病で病死する。


ここのところ夭逝する天才画家を取り上げ過ぎた感がある。
画家は一方で、非常に長生きする人も少なくない。
そういうヒトも取り上げたいものだ。

松本 竣介

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音のない世界の音楽が聴こえる。
静寂の中に、ミニマル・ミュージックの理知的な調べが続いていた。
恐らく。

彼は13で聴覚を失い、16で画家を志し、36歳で夭逝。
「天に続く道を行く」と決意し、そのままずっとブレることがなかった。
余計な雑音が入らないことも、内部の純化と熟成に寄与したはず。

彼は耳のせいで徴兵を免れる。
そして街を歩く。

何処に行くか。
行くところなどない。
決まった場所を観測するように描き続ける。
「Y市の橋」であり「ニコライ堂」であり、、、。

何と言うか、戦争中はそこの定点観測に明け暮れていたのではないか。
巷には「戦争画」が溢れかえっていた。

そのなかで異彩を放つ彼の絵は、極めて静謐で知的に見える。
それも張り詰めた強靭な静謐さに湛えられている。
何処かクレーの絵に似た、この世離れした佇まいも感じられる。


その要因は、ひとつに黒い輪郭線である。(現実に「黒」や「輪郭線」はない)。
この線が絵によっては、抽象的な自立した「黒い線」として画面に重なる、別次元の生成として調和して息づく。
そしてもう一つが、塗り重ねである。
透明色の重層的な塗り重ねは、バルテュスも好んでおこなっているが、松本もかなりの時間の畳み込みを画面に施している。
重厚な絵の具の層が、内部で光の乱反射を招き、宝石のように煌めく光を内包する。
(以前、バルテュス展でそれを確認したとき、身震いがしたことを覚えている)。
それからもう一点あげれば、徹底した風景の編集作業であろう。
松本はスケッチ(クロッキー)した最初の題材を、アトリエにおける油絵の下絵の段階で、各要素を組み換え、入れ替え、改変し、自分にとってあるべき風景に再構成する。
この操作によって命名された一般的な場所が、イデアとしての風景に思えてくる。
彼の絵が非常に理知的~詩的に見える所以でもあろう。

「今、沈黙することは賢い。、、、一切の芸術家としての表現行為は、作者の腹の底まで浸み込んだ肉体化されたもののみに限り、それ以外は表現不可能。」
全くその通りだ。
彼の手記にあるマニフェストは、別に反戦とかそういった政治的なイデオロギーとは無関係なものだ。
自分の意志=身体性に抗う何かを創作するなんて、そもそも不可能だ!という至極真っ当なことを述べているに過ぎない。
藤田嗣治が戦争画を描いたのは、心底、自分も祖国の人々を守るため一兵卒として戦いたいと願った為の必然であり、そこには死力を尽くし自己犠牲の精神で戦うしかなかったヒトの壮絶な姿が明確に捉えられている。(戦意高揚などという愚劣でワザとらしいものでは決してなく、本当の写実である)。それは崇高な内的必然から生まれた藝術に他ならない。
その点で、松本も藤田も自身の身体性において、全く妥協や矛盾はなかった。
松本の「立てる像」の孤高の壮絶さ、これはある意味、彼の戦争画であろう。

MatsumotoShunsuke002.png

この時期において糾弾されるべき者は、ただ政府の圧力で描きたくない戦争画をいやいや描いた画家たちである。
自分の「腹の底まで浸み込んだ肉体化されたもの」を蔑ろにして、違うものを描いた画家たちこそ画家としても人間としても糾弾されるべきである。(しかし、そういう連中は戦後、自分の責任を逃れようと藤田一人にそれを押し付けようと迫った)。
松本も、戦争画を描くのなら、戦後も継続して描くべきだ。と語っていた。そこに芸術性があるのなら描く意味はある、といったことを、、、。
実際、戦後も戦争画を描き続けた画家はいる。戦争と捕虜体験を描き続けた「シベリヤ・シリーズ」の香月泰男など。


松本 竣介は絵だけでなく、文筆も精力的にしており、言語感覚も鋭く瑞々しい。
彼は家族を疎開させても独り自分は空襲の激しい東京に最後まで残り、終戦を見届けた。
従軍しなかった自分の責任と考えてのことだろうか。
彼は実際に空襲の最中にも外で絵を描いていたという。

戦後の絵には、赤が目立ち、焼け溶け落ちた鉄骨の黒い線が彼の内心に共振しているかのような画面が現れる。
彼は、その下に眠る人々の魂に哀悼の意を表しながらも、一切の夾雑物の焼き払われた光景の圧倒的な美しさに驚嘆を隠さなかった。




プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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