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創作活動に着手

sands of time

今日は、独りで公園に出かけ、本当にぼんやりと一日のほとんどを過ごした。
気持ちがスッキリし、ものを作る状態にもってこれそうだ。
やはり自分のすべきことは創造活動に尽きる。

ぼんやりしながらも何とも言えないワクワク感が充満してきた。
そもそも時間とは、自分と無関係に切り離された世界の事象がひたすら立ち去って行く感覚から零れだしたものだ。
それが時間観念として、外在化した。

作品の制作に埋没している場所に時間を感じることはない。
時間が進んでいない可能性もある。
つまり身体がエントロピーの矢から外れている。

芸術家で恐ろしく長生きするひとは少なくない。
彼らは何処かで時間から離れて腰を下ろしているのだ。
逆に夭折する人も少なくない。やはり有り得べき時間性を無視したかのように。

時間・空間という自明性からの超克こそが存在の目標である。
自分の生を自分が支配することの究極的な地平であろう。
つまりは他者に一切何の依存も干渉も受けずに自立(自律)が成立すれば、自分の外に白々しい測りをみる必要などない。

まずは、心構えとしては、全てをありのまま受け容れ、それを評価しないことだ。
ただ、自分のフィルターを通してそれがアウトプットされるままに見守り驚き、愉しむこと。
そもそもただ人を批判したくてたまらず監視する(暗黙の)システムが時間と分かちがたく結びついてきた。

まさに時間の無駄である。
何のために生きているのか、意味もない。
それこそ人生はクズに等しい。

何にも左右されずに作るべきものを作る。
それだけでよい。
それ以外に、ない。




女子美の美術展に行く

torunka.jpg

女子美術大学同窓会設立100周年記念~
「青のかけ橋 佐野ぬい賞受賞作家展」
に、先週長女と公園で遊んだ帰りに行った。


>物質がもつ”spontanéité”
>この”自発性”抜きに藝術が語れないというのもまた
>見過ごされがちな事実ではないかと・・・。

>藝術の領域で
>表現者の意図が、そのままにくまなく表出されることの方がむしろ稀で
>創造とは
>作品上に配置されたる物質
>その物質側の運動(偶然性)と、切っても切れない関係性にありましょう。
>よって、両者の統合の上に構築されたるもの

   ~エストリルのクリスマスローズより

まさに上記の通りに、作家の「意図」とその物質特有の「自発性」のせめぎ合いにのなかで生成された油絵であり銅版画であった。
基本的にこれ以外に余計な言葉は付け加えたくはない。
(作品展については以上)。


一般的に謂って、何をか作品を作るという行為にあって(テーマは100%自分で決めるという場合特に)、ほとんど誰もがこの泡立つ「せめぎ合い」を経験し、ドキドキわくわくしながら、頃合いを見極める作業をしているはず。
精神のゾンデを深みに降ろし、手探りで、創造のタイミングを狙う。
その微細なコントロールの正しさは、内的必然として感知される。
能動的に半ば自然に任せることで、創造の運河化がすでに起きている。
ものを形作る厳粛な喜び~法悦の瞬間、瞬間、瞬間。
(恐らくミケランジェロは、それは宗教性~至高体験にまで達していたはず)。

ジョン・ケージの提唱していたチャンス・オペレーションにも近い。
こちらの意思と向こうからやってくるものとの、飛躍的な融合だ。
精神と物質との高次のコミュニケーションとも謂えるか。
恐らくそうなのだ。
われわれは真に一体化することを希んでいるのだ。

生と死を超えて。


藝術に触れるとは、この現象~事件を時空をおいて認知することなのかも知れない。
遠方の星を観測するように。




映画は一休み

sora.jpg

片付け仕事で一日過ごした。
気づくと、もう10時を大きく回っていた(痛。
ブログ書くタイミングを逸したというより、映画(ビデオ)も見る気が起きずに見てない(笑。
来週頭から、読書に勤しむ予定もあり、今環境を整えようと幾つか作業を進めている。


ピアノのおケイコの嫌いな長女が見事、ピアノが上がらなかった。
いい気味である。
自分の責任だ。
「これからは、もっと早くから練習を始めます。」
と、ピアノ教室の先生と約束させた(笑。
ほんとうに、ギリギリまで練習に入らない。
(あくまでも弾く技術だけは身につけたい)。
これからは、直ぐにビデオを見呆けてしまう、タブレットはしまう事にした。
けじめと我慢ができなくなる、という判断から、とりあえず。
ネット上のつまらぬ刺激、影響、教育をシャットアウトしたいところからも、である。


絵を再開したと思い、整理をした。
新たにカンバスを買うのではなく、つまらぬ絵をジェッソで消して上描きするつもりである。
X線も透過できない。
完全に古い痕跡を消せ、安心だ。
デリートしたいものは沢山ある。
そうしたら、娘の3歳の頃の絵も一緒に出てきた。
今彼女らの描いている少女漫画を真似た愚にもつかない絵とは全く違い、プリミティブで力強い惚れ惚れする絵であった。
それは、残す価値が非常に高いものであった。
(残したいものは思いの他多くはないことに最近気づく、、、)。

それらの絵を元に、自分のこれからの姿勢と参考にしたい思いつく事、、、。


○自分自身の衝動にのみ根ざす。
○人を黙らせる明白な単純さ。
○非権力であること。
○どんな物語(神話)にも絡め取られず消費されない。
(ドラマの介入を徹底的に避ける~感動に注意する)。
○淡々とした機械状な作業(プロセス)。


これは困難すぎて目標にはならない。
その方向性だけ、確認。


幼児期の絵は、やはり面白いを超えた何かがある。
時に、統合失調症の人の描いた過剰に稠密な絵なども、それに通じるものを感じる。

ある意味「絵」の教育を受けていないということが、彼らを痛手から救っている。









戸嶋 靖昌 ~ リアリズムとは何か

Toshima Yasumasa004

1934年 – 2006年7月20日

戸嶋 靖昌というひとは、徹底してリアリズムを追求したひとであると思う。


リアリズムとは、何か?
リアリズムとは、いやリアルとは時空を超える出現である。

それは現れるべき場所に自ずと現れる。
はっきりそれと分かる本質である。
彼の絵を見てそれを知った。

Toshima Yasumasa003

「肉体は朽ち果てるものであって、本質的には存在していない。腐ってゆく過程こそが肉体なのだ。だから愛情がなければそれを見つめることはできない。」


このことばなのだ。
わたしは、自分の恐れを自覚した。自分の分裂的内向を。
肉体的時間性を超える「ことば」を追求している当人が、肉体~現象に足をとられていてよいのか、、、。
腐ってゆく過程を観ることのできる眼差しこそが、愛情なのだ。
無に帰してゆくその場所(存在)に畳み込まれて晶結していたすべての時間が振りほどけてゆく、、、
それを真正面から見据えることこそ。
「コッポラの胡蝶の夢」のドミニク・マテイは、研究を最後の最後に愛情のために断念したように見えて、元々研究も愛情においても中途半端で自らのうちでも引き裂かれていた。彼は真に対象に対して身を晒していない。その結果の必然的な挫折に過ぎなかった。

それがよく分かる戸嶋 靖昌の絵であり、ことばだ。


形を忠実に模する絵は散々見てきているし、わたしも無自覚にやってきた。
「それは偽りの魂を描いてしまう危うさがある。」(偽りの愛でもあろう)。
それは、彼の絵を見れば瞭然である。
「本質そのもの~魂」とは何か。
そのことばを形象化すると、この絵以外のものにはならない。
それだけ明白なのだ。


腐ってゆく過程を腐りゆく生命の哀しみを、生命が消えてゆく瞬間を、凝視する。
戸嶋 靖昌によれば、それこそが愛情なのであり、それによってはじめて「対象が持つ全ての時間~思想」が絵として立ち現れる。

だから彼は人体に拘った。
「人体そのものの描写は、19世紀でモチーフとしては終わっている。しかし何故、取り組んでいるかと言えば、人体のなかに生きるものに共通する力があったからだ。」

Toshima Yasumasa001


何というべきか、それは(ミケランジェロの)彫刻と見紛う強度をもつ絵である。
実際彼は彫刻を学んでいる。
そのことは技法(方法)的に小さくない。
そして彼の尊敬するベラスケスの絵とスペイン・グラナダの生活に密接し人々に染み込んだキリスト教に浸る25年。
彼のモデルは、ほとんど酒場で知り合ったアル中の男だったり、近所の世話になったご婦人などであった。
「ミゲール(アル中の男性モデル)は、奥底に無類のエレガンスをもっている。彼は無だから、全てでもある。」

Toshima Yasumasa002


彼は生前、作品をほとんど手放さなかったという。

今は、半蔵門にある「戸嶋靖昌記念館」*でそのほぼ全貌を観ることができるようだ。

                                 *要予約。03-3511-8162


写生を巡って 円山応挙

oukyo001.jpg

少し前(かなり前だったか?)、「日曜美術館」で、「円山応挙」を見た。
そのことが、頭に残っていて、忘れないうちに肝心なことだけ書いておこうと思う。
「写生」に関して、である。

私のことであるから、番組からかなり離れた話題も結構入ってくるはず。
(というより、ほとんど番組はとっかかりとしているだけで、関係ない話になると思うが)。


彼は最初は、狩野派の様式美に学んだ人であり、番組では独学で絵を学んだと言っていたが、何故そういうことにしたのか、、、。
応挙は狩野派を批判的に乗り越えたリアリズム画家であると思う。
そのために、型に嵌めずに自由に素質を伸ばせということを敢えて強調していたのだろう。

応挙のまず言うには、「対象を観察し形を写すことを極めれば、自然とその生き生きした生命感を表現できる」(番組より)という大変真っ当なことが述べられているが、、、
彼の徹底した写生の実践は、ただ見たままを描きなさいと言っている訳ではない。
見ること自体、言語作用である。
誰もがことばによって外界の光の渦を有機化~分節化した結果の表象として環界を捉えている。

彼の重要な教えは、「現実の世界に意識を向け、物事の道理を把握してゆけば、万物を描くことができる」(同番組)にこそあろう。
ここで謂う「道理」である。意識的に世界を見つめ直すために「道理」で観てゆく姿勢である。
物理的に事象を捉えれば、どのようなものも、自然に在るがごとくに描ける、と。
まさにレオナルド・ダ・ヴィンチと同様の視線である。
「写生の極意は野の人や山の人をつかまえては聞くことにしていた。」(本朝画人傳 村松梢風著)というところにも窺える。
つまり実際に、そのもの~現象や生き物など身近によく知っている人に確認すれば、様式的に描いているオカシナところを指摘してもらい自分の目で冷静に再度よく観察しなおすことができる、ということを意味する。
「馬は草を食べるときは目を庇って閉じるのだと諭された」(本朝画人傳)ことなど、その動物の習性を正しく捉えることで、より真に迫った自然な絵を描くことができるはずだ。
彼の謂う「対象を観察し形を写すことを極める」というのは、「道理」~客観的な自然観察(物理的な)によって可能となることである。
それによりはじめて、それまで受動的、習慣的に身につけてしまっていた先入観から抜け出せることを意味する。
(様式的な絵を脱することが可能となる)。
言語の対消滅の結果である。
真に対象に迫るには、先入観や常識を解体し、それに代わる新たな知(物理的な見方)の獲得が不可避なのだ。
そのへんのことは、全く番組では触れられていないが。
応挙は、相当な教養人であったはずだ。

そのひとつに子供時代奉公に出されたという高級玩具店で受け持った「眼鏡絵」作りの遠近法的捉え方、3次元的描写(後の松の枝の描写などに見る)に大きく寄与していると考えられる。レンズも墨で巧みに描き分けられた光と影の表現に役立ったのではないか。
これら若い頃の経験は、応挙の科学的(光学的)な絵画の研究~アプローチに役立っているはずである。
デルフトの画家フェルメールもまさにレンズ~カメラオブスキュラから多くのヒラメキと知識を得ていた。
また、絵画という2次元性の表現を(積極的に)徹底させるため、鏡で対象を映して平面化し、それを写し取るという大変合理的で理にかなった方法を編み出したのも、この時期身につけた思考法が効いているのではないか、、、。そこでブレのない像を発見し、命毛1本で描いたかのような細密でダイナミックな猫線も獲得する。


更に応挙の凄いところ、、、。
n-1の描き方である。
素人っぽい画家ほど只管重厚に描き重ねてゆくものだ。
(日本画家にもよくいる、金箔を隙間にベタベタ鬱陶しく貼るものとか、、、)

彼は、描かないことで、描き込むより饒舌にそれを示す~描くことをあらゆるところで試して成功させている。
「自分であらたに形を捉え直さなければ絵画とはならない」のである。
ここである。ここではじめて応挙の絵画となってゆく。創造となる。
「龍門図」の鯉が滝を登ってゆく中央の図など、シュールレアリズムの絵画と変わらない。
鯉が勢いよく抜け登る水の部分を紙の地とすることで、まさに生き生きとした自然の流水となっている。
如何に描き残すかで、「向こう側からの造形化」が発動する。
(これが現代の美術にもなかなか見いだしにくいものである)。
国宝「雪松図屏風」などは、その極みであり、描かれないことで、感じさせるものの極地を見せられる。
描き残されて反転し実体の重みすらひしひしと感じる松の枝にかかった積雪。
それは周りの空気とその気温をも生んでいるではないか!
ここまで、その生成を意識的に徹底させたのは、少なくとも日本では応挙がはじめてであると思われる。


書き始めたらきりがなくなりそうなので、この辺に、、、。

日本の画家について書いたのは、久しぶりであった。
その辺もこれから、改めて見てゆきたい。とても面白い鑑賞にもなるし。



退職教員記念展を観た~女子美

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昨日、余りに良いお天気であった。
こんな良い陽気に外に出ない手はないと思い、公園にゆく。

ひととき遊具で遊ぶがこの時期こどもは毎回、以前できなかったことが、少しずつ出来るようになってゆく。
今日も、ここまで登れたとか、ここを渡れたとか、前回諦めたところを克服している。
実は恐らく毎日がその反復なのだ。
そうして育ってゆく。

特にこんな反復(差異を孕んだ)遊びで、力をつけてゆく。
その身体感覚の獲得がきっと、美術にも重要な役割となって機能するのだと考える。

遊んだ帰りにいつものように、女子美アート・ミュージアムに3人で行った。


ギャラリーに最初に入ってすぐに飛び込んできたのは、高い明度を背景に茶や褐色(或いは荒々しい濁色)系の激しいタッチによる単純な形が大きく色面構成されていた。
いやスタティックな構成というより、ムーブマン~動勢そのものの動きの過程を捉えたものかも知れない。
しかしフリーキーに見えてかなりメッセージ性を秘めた繊細な画像に思えてくるものであった。
大きい中にタッチの揺れ動きが(躊躇も)見られた。
絵画とはすべからくそういうものであるかも知れない。

その後ろを振り向くと、とても穏やかで淡く、優しげな「色彩」の泡立ちが広がっていた。
そう、色自体が生きて動いているような、、、。
平面的な繊細なタッチで高明度で彩度を抑えた柔らかな暖かさが散りばめられて。
いや、泡立ちとかいう活性ある運動というより、流れに近く、それが大画面を充たしているというべきか。
近くで確認しても、個々の流れ動きは小さく静かである。
「青い猿」という作品だけが、異質の色面分割で何やら明らかなフォルムを匂わせる前形体とも呼ぶべきものが示唆されていた。
ちなみに、他の絵画は「天使の忘れ物」シリーズであった?

奥に入ると、彫塑が並んでいた。
粘土の塊を只管押し付けて作っていったゴツゴツ質感で量感そのものを表した感のあるものや、、、。
雨後に地表が強烈な日照りで乾燥した時にできる罅割れの写しといった作品など自然の襞~その凹凸の神秘に魅せられたような作品が並び、自然の時間の中に析出するような「染み」を魅せるものや、岩石の切断面を模した内部に様々な結晶を宝探しのお宝風に隠したようなものまで~何故か豆の入った和菓子を連想させもするが~わたしを夢想に誘ってくれそうなものがあった。

会場入り口付近に展示された版画にはもっとも興味惹かれた。
エッチング、メゾチント、アクアチントは分かったが、ミクストメディアとか、はどうして作られているのか、よく分からないものであった。さらにグラビア印刷の作品もみられた。
ディテールの精緻さに思わず吸い込まれる。
そこが版画の版画たるところだが。
表現方法(形式)の異なる版画をこれだけ凝縮した空間に見るのは初めてで、大変濃密な鑑賞体験となった。

今の印刷方式の主流は、オフセット印刷(平版)であるが、グラビア印刷(凹版)による味わいのある版画は格別な趣がある。
かつての雑誌の写真印刷はグラビア印刷術によるもので、最近はほとんど見ることもなく何とも言えない郷愁に満ちていた。
マグリッドやエルンストを想わせる建築物のアクアチント作品からグラビア印刷による草の自然が精妙に作った形体が印象に残った。
そう、このような写真によって対象化~抽象化されることで、自然の造形の神秘にわれわれは深く感じ入ることができる。
そんなことも再認識する展示会であった。




デトロイト美術館展

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病院の帰りに立ち寄る。
帰りに立ち寄る分には良いが、その後、家まで帰るのが物凄く長旅になって辛い。
その度に、上野にはもう行くまいと思う。

上野の森美術館は、余り行かないところだが、今回行ってみて思ったのは、少ない!
えっこれだけ?
というくらいに、展示作品が少ない。
これでは、うちの近所の展示会場並ではないか、、、(苦。

今日はわざわざ足を運んだ甲斐はなかった。
酷く疲れただけだった。
展示された作品はほとんど画集で見ていた。
画集になかったものでも、特にお得感を感じるほどではなかった。


強いて言えば、、、ドイツ表現主義のコーナーだけは、良かった。

特にパウラ・モーターゾーン=ベッカーの「年老いた農婦」には見入った。
平面的で厳かな厚みがあり、素朴で深い宗教性を秘めている。
独特のマチエール~この絵は油絵だが、テンペラ画の質感がここにも生きている。
完全に自分の自律的で堅牢な形体を見出した画家のひとりと言えよう。
惜しむらくは彼女が創造の絶頂期にいた31歳の若さで亡くなってしまったことだ。
そう、リルケともお友だちであったようで、彼女ならではの詩~死情も感じられる。
(かなり昔に一度、彼女の作品展(200点弱の)が開かれたはずだが、確か東京には来なかった)。

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーの「月下の冬景色」は、ゴッホに負けぬ狂気の美である。
そう、ここに展示されているゴッホの「オワーズ川の岸辺、オーヴェールにて」も、はちきれそうな狂気を湛えた絵だ。
(TVで市川沙耶さんが、その青のタッチの狂気について言及していた)。
この2点は本展示会での「狂気の双璧」であろう。
赤と青の狂気である。
キルヒナーには退廃と不安の2文字が常に纏いつくが、彼は非常に研究熱心であり、ピカソのやった実験のほとんどを体験~作成しているようにわたしは想う。版画作品にも意欲的なものが目に付く。
ただ、ピカソとの決定的な差は、ピカソが常に生を激烈に更新していったのに対し、キルヒナーにはその資質がなかった。
様々なスタイルを起こしても、生成される作品は何れも黄昏のなかに浸かっている。
酷い不眠症に悩まされていたようだが、本当に精神を病んでピストル自殺してしまう(ここもゴッホに重なる)。
ナチに追い詰められなければ、更に広範な大きな仕事(研究)が残せたはずだ。
退廃芸術とされナチにかなり処分されても、とても多彩なスタイルの作品がそこそこ残されている。
キルヒナーは、レッテルを外して観なければならない。

両者共に1点ずつしか展示されていないが、それが美術館が元々それだけの所蔵なのか、今回の展示で運べたのがこの点数であったのか、わたしは知らない。
しかし、パウラ・モーターゾーン=ベッカーとエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーを思い出すには良い契機となる作品だった。

他にもオスカー・ココシュカのビビットな風景画、ワシリー・カンディンスキーの純粋芸術を提唱(絵は音楽のように描ける)、青騎士(ブラウエライター)結成後の作品(習作)が一枚。初めて知ったマックス・ベックマンの正面を向いた絶望の影を帯びながらも不退転の決意を滲ませる自画像、、、があった。彼もナチから逃れながら制作を続けた画家のひとりであった。


取り敢えず、見慣れた作品~画家であるが、、、

ピカソの絵は一番たくさんあって充実していた(と思う)。
「腰掛け椅子の女性」(新古典主義時代のものか?)が涼やかで調和がとれていて好きだ。
「バラ色の時代」、「アフリカ彫刻時代」、「キュビズム」、「シュルレアリズム」それぞれの期の作品があった。
「青の時代」はなかったと思う。
それからマティス(ピカソといえばマティスだ)が数点。
そしてモディリアーニも彼らしいオシャレな作品が数点。ボナール。ルドン、、、。後、数点ほかの画家のものもあったが忘れた。
そうだ、ルオーのとてもうす塗りの「道化」があった。ルオーにはうす塗りもあったことを思い出した。

おっと、オットー・ディックスの自画像が一枚。
現実に対する非常に批判的な精神を具現化したもので、その描写の精度はデューラーを彷彿させる。
(真正面ではないが、強烈な懐疑的視線で見詰めてくる)。
これにはナチもたじろぎ、彼らに敵視され、作品も多数没収されたという。
この率直さである、、、そうだと思う。

対ナチのなかで描かれた作品が印象に残った。
思い返せば、一度足を運ぶ価値がある展示会であったと思えてくる、、、。





デイヴィッド・ホックニー版画展

David Hockney

町田市立国際版画美術館にて。11/23(水)まで。
ローカルなため最短コースをやや詳しく、、、。JR町田駅のターミナル口(多くの人が向かう出口方向と反対に向かえば間違いない)を出て、そのまま前方を目指して陸橋を降り、その勢いで道を一直線に歩けば5分程でたどり着く。(途中から道が急に細くなりそこで運悪くスレスレに走る車に轢かれなければ、嫌でも到着してしまう)。
オブジェなどを見ながらダラダラ長々と歩く通常コースもあるが、それについては美術館HPなどを参照。

隣の公園で遊べたりする。
ダイナミックな水の表情を楽める巨大な回転する彫刻(可動彫刻)がデンと据えられている広場である。
この美術館には「森羅万象を描く デューラーから柄澤齊へ」を5/21に観に来ている。
これは、顧みても奇跡的に充実した展示会であったと思う。
惜しかったのは独りか、美術愛好家(美術の好きな人)と一緒に行くべきであった。
そうしないと、落ち着いてじっくり集中して観ることが出来ない。


今回はこれまでさほど興味をもっていなかったポップアートなデイヴィッド・ホックニーである。
プールの版画(リトグラフ)でその作風に妙に強烈な印象をもっていたが、他に関してはほとんど知らない。
そんなところで、観てみた。
写真によるコラージュやコピー機を使った作品があったが、意外な感じはせずこういうのも流れから充分納得できるものであった。
また、男性モデルが多いな、と思ってきたのだが、実際男性モデルが多かった。
(別に詮索する気はない。キース・ヘリングをはじめ、ポップな人には多いケースだ)。
ビリー・ワイルダーの肖像がわたしにとってはとても印象的で、何か良いオマケに当たった気分であった。
ホックニー氏、写真によっては、顔がアンディ・ウォーホルにかなり似ている。

さて、作品展の内容であるが、、、リトグラフとエッチングが多く、アクアチントによる濃淡の表現も目に付いた。
それから写真コラージュやコピー機を印刷手段として利用したもので構成されていた。
有名な男性ヌードのあるプールの作品などは来ていなかった。
面白かったのは「スウィミング・プールに流れ込む水」という水自体に拘り、その多様な流動体の様式化を図ったと思われるリトグラフである。更に「リトグラフの水」というリトグラフの制作過程を一つずつ示したかのような意表を突いた連作もあった。
「スプリンクラー」という珍しく(どうなのか知らぬが)カンヴァスにアクリルで描かれた、彼らしい平面的で単純明快な絵もあった。(版画美術館であるが例外として展示か?)この奥行きのない具象空間というのは、絵画で観ても凄いものだ。

ちなみに、リトグラフではどうやら浮世絵の影響を受けている「太陽」など、デザイン調に可視化された「光線」とそれを受けている植物の葉の面―様子とも相まって大変明快で背景との対比も美しい作品である。
「雪」などに至ってはあからさまに浮世絵を取り込んだ日本情緒が窺える。これらはウェザーシリーズという位置づけらしい。
成る程、浮世絵から気象・空気の表現を抽出したか、、、。

ピカソに傾倒していただけのことはあり、遠近法の解体~ムーヴィング・フォーカスと、キアロスクーロ(明暗法)の単純化というか装飾化がはっきりと窺える。1点の視座から視界を物理的に統御せず、通常の立体・写実には関与しない明暗の付け方である。
極めて明るく鮮明で単純な平面的なフォルムが広がる。
これは、全体の版画作品に共通していた。
ムーヴィング・フォーカスとしてはっきり作品化されているのは、視点を僅かにずらして撮られた写真の細かい切り貼りで作られた作品である。
この技法の着想はとても面白い。
こういうことを初めてやったのがホックニーであったことを知った。
(一度考案するとすぐに真似されるのがこの業界である。この真似はかなり簡単でもある。広告でも見たことがある)。
この技法はまさにアイデア勝負というところか。
コピー機による印刷手法も彼の作品を見れば、すぐにやってみようという人は幾らでも出てきたはず。
トナーを一色ずつ使い刷ったようだ。
ただし、こちらの方は、あくまでもコピー機を使用した彼独自の版画であり、作画の点でホックニーはホックニーである。

単純で平面的で明快な色調を観ていくうちに、酔うように快感を覚える。
なかでも特にわたしが一番気に入ったのは「ホテル・アカトラン」シリーズであった。
ホテルの中庭であろうか。きっと色彩もこのように魅惑的なものであったことが、想像できる。
このホテル・アカトランの中庭をホックニー自身もいたく気に入り、シリーズものに仕上げたのだと想われた。
ムーヴィング・フォーカスがリトグラフとして美しく結実したものと取れる。
構図上の歪みなどが全く気にならないというより、それによって中庭の快感が(魚眼レンズ風に)圧縮され遺憾無くひとつの画面に描き込まれている。
また何よりも色調が素晴らしい。
全面が光に満ち満ちており、床(廊下)が真っ赤。黄色の柱(影の部分は青)。黄緑と黄色に輝く庭。
この作品を観るだけでも来た甲斐がある。


初期作品や童話の挿絵(「自分を二つに裂く」には、さすがに驚いたが)を観ているうちは、ふーんという感じで観て回っていたが、ピカソが題材として現れた「画家とモデル」あたりから俄然面白くなった。ピカソへのオマージュもあからさまに窺え、その影響力の大きさもよく伝わってくる。



女流画家協会展70回記念

Sayaka Kodama001
相模原市民ギャラリー 11/4(金~11/15(火 (駅ビル:セレオ相模原4F)、、、、ローカルなため少し詳しく

鬼気迫る息苦しさを感じる作品群に圧倒された。
どれも真摯に突き詰められたモノばかりである。
芸術家というより、、、女性の意地か?
作品同士で火花が散っていた(気がした)。
一人一作品で57作である。
このひとりで一作品であることから、選りすぐりの逸品が出展されていると思われた。
と同時に作る事の快感と陶酔も感じられるものであった。


娘二人を連れて鑑賞したが、彼女らもかなりよく見ていた。
うちの娘たちの特性として、初めて遭ったヒトともずっと懇意の間柄のように普通にお喋りしてしまうのだが。
(そのコミュニケーションの余りの抵抗のなさは、わたしにとって謎である)。
今回も会場に、娘さんの作品を観に来られたご年配のお母さんと、何故か次女がその絵の前で随分長く話し込んでいるのだ。
この御婦人が絵から離れる際に、「じゃあ娘にそう電話しておきますね」などと謂われていた。
、、、一体何を話していたのか?!
まだ、次女には何も聞いていないが、明日になったら恐らくこの事はきっと忘れていることだろう。
いつも、そうなのだ。


カタログを観ると、並んだ最後列にポツポツと若い女性も見られるが、ほとんどがかなりのご高齢であることは、見てとれる。
しかし大変元気に協会を支えられているという感じだ。
女性作家のパワーが窺える。


以前、記事に載せた児玉沙矢華氏の作品も1点「空想に架ける」(120F)があった。
やはり危うい鏡―ガラスの上に横たわり物想う少女がいた。
児玉氏の絵に出てくる少女はいつも魅惑的だ。
TV画面では見られないし、現実にも何処にでもいそうで、滅多にいない「普通の少女。」
今後の作品もずっと注目し続けたい作家だ。勿論、すでにファンである。

他にも気になった作品を幾つか、、、。
「罪を編む」(100S)、、、當間菜奈子氏
苦悶する人の表情にも受け取れる布の襞が細やかに克明に非常にドラマチックに描き込まれている。
会場に入って、いきなりこちらの精神を鷲掴みにされた。
光と影のコントラストも見事な演出を与えている。
他にどんな絵を描く人だろうか。興味がある。「襞」に拘る作家なら大いに期待したい。

"Angel Brain Cybernetics"(130F)、、、佐々木里加氏
天使の脳ミソと羽を透過して見える圧縮された構築物が何であろうか、、、。この克明に描かれた背景に惹きつけられた。
ダブルイメージでもない、とても気になる作品だった。
この作家の他の作品も是非、観てみたい。

「透き間」(100S)、、、佐藤みちる氏
メタリックなリキッド感が光の効果もあり、かなり心地よい刺激であった。
「エイリアン」(リドリースコット~H・R・ギーガー)にも通じる感性。
画材を確認する暇がなかったのだが、アクリル系か?
この質感の絵には、郷愁を感じる。
以前この雰囲気(質感)の絵をかなり観た事があったからか、、、既視感か?
しかし、複雑な構成や光の使い方も含めそれらより、ずっと深い世界観が窺える。

「円・2016(屈折)」(130変形)、、、菅原智恵子氏
メタリックな素材の大胆でソリッドな使い方-ミクスドメディアに目を奪われた。
長女が工作みたい、と感想を述べていた。
確かにそれの高度に洗練された形であろう。
CDやDVD(ブルーレイ)を毎日手にしている身体性に何か引っかかってくる質感である。

「生まれ、出づる」(130変形)、、、長瀬いずみ氏
もはやオブジェだ。半立体である。
天使か、新たな何者かの「羽そのもの」である。
厚みのある物質感が実在感を高めている。

’16-Work(130F)、、、八木芳子氏
絵の具ではない素材を巧みに使った反復連続模様が、絶妙で見飽きない。
スチール製の網がマットな青と茶に塗られ固有の光の効果を生んでいる。
言い換えれば、ミクスドメディアを使いこなした果ての光の表現と謂うべきであろうか。
距離による印象も異なる。

「トリゴヤ」(130変形)、、、上条千恵子氏
この絵を観たのは、初めてではない。
以前観て、実験性の高さが気になっていた。
大小様々な矩形の黒枠に入った歪んだ白いフィギュアが印象に残る。
(白黒の作品である。しかも白いトリ?は切り抜かれた紙であったりする)。
フランシス・ベーコンを想わせるフィギュアで、見慣れてしまうことを拒否し続ける作品だ。

「幾つものハート」(100S)、、、中元宣子氏
うちの長女が好きだという絵。
工作や折り紙が大好きな彼女が、絵でもこんな工作みたいな凄いもの作れるの?
と、目を丸くして言っていた。見る事の快楽を感じる。

"Domani'16-3°"(130F)、、、照山ひさ子氏
次女が気に入ったという作品。
アクリル系の絵の具であろうか、、、かなり分厚くテクスチュア作りがなされている。
木片も貼り付いていた。
扉のようでいて単なる壁にも見える。
赤茶けた凹凸のある面が、何かを閉ざし続ける時間性を強く感じさせた。


他にも気になる絵はかなりあった、、、。
遠藤彰子氏の作品は出ていなかったと思う、、、(余り鑑賞時間が取れなかったのだが、、、あれば真っ先に分かるはず)。



ゴーギャンとゴッホ展

syuukaku001.jpg収穫(ゴッホ)

東京都美術館
に昨日行った。

ゴーギャンとゴッホ、、、
もうかなり見慣れたビックネームであるが、会場で観ればまた味わいも違う。
しかし、混んでいた。何もここまで混まなくても、、、と思った。(やはり知名度の高さとそのドラマチックな物語からか)。
土曜日に行ったわたしが悪いのか?
クラーナハは然程混んではいなかったのだが、、、。

ゴーギャンとゴッホ展。余り点数はなかったが、両者の魅力と個性を際立たせる作品は集められていた。
特に「ゴーギャンの椅子」(ゴッホ)と「肘掛け椅子のひまわり」(ゴーギャン)
「収穫」(ゴッホ)と「ブドウの収穫 人間の悲惨」(ゴーギャン)であろう。
ふたりの人間のやりとりのドラマを見るより、こちらの作品をじっくり見比べて静かに鑑賞したいものだ。
極めつけの傑作である。
これらも時間が許されれば、いつまでも見入ってしまう絵である。

更に印象に残ったのは、ゴッホでは「玉ねぎの皿のある静物」である。
この作品、ここまで際立って明るく鮮やかな(明度と彩度の高い)絵であったか、、、
実際に観るとまた作品の印象も異なる(深まる)ものだ。
観てみることで非常に好きになった作品である。

しかし、この展示会で最もわたしが惹きつけられたのは、ゴーギャンの「色彩」の妙であろう。
どちらの常設展であったかもうごちゃごちゃだが、そこのクールベのマチエールにもつくづく魅了されたのだが、それとほぼ同等の静かな衝撃をここにも感じた。
タヒチで開花したゴーギャンの独創は他の追従を許さぬ個性として確立されたかも知れぬが、わたしはその直前の作品に深く魅せられる。その繊細で緻密極まりない輪郭と色彩の震えを感じ取れる作品群だ。なかでも特に「マルティニク島の風景」などのタヒチのゴーギャンとして完成されてしまう少し手前の作品には、いつまでもその前から離れ難い。
ナビ派や象徴主義という「形」となってしまう以前の何者でもない、、、精妙な震えが堪らない。
「マルティニク島の風景」も実際に観てみて、大変な魅力を覚えた絵だ。
この絵はどうしてもまたじっくり見直したい。

これだけでも、わざわざ上野まで来た価値はある。

展覧会の副題が”Reality and Imagination”であったが、確かにゴッホはあくまでも目の前の対象に拘りぬくことからあのような表象を得るところまでに至り、ゴーギャンは対象をひとつの契機として永遠・普遍を要請するイメージをあのように構成した。
ゴーギャンには詩的で哲学的な意味での理想や探求が絵画世界を作っているところが大きいが、ゴッホには即物的でそのまま突き詰めたら行くところにしか行かない切羽詰まったものを改めて感じる。
ふたりのそれぞれの「自画像」の描き方の違いが余りに雄弁に、それを示していると思われるのだ。

モネ、ミレー、ピサロのこれまた優れた絵も観ることができ、得した気分になったのだが、ふたりの絵が明らかに印象派の次の次元に突入したものであることは、これらの作家の作品と比較して鮮明に分かった。(美術史から言えば、取り敢えず後期印象派か)。

ただし、ゴッホの場合、新しい領域が狂気と綯交ぜとなった危険極まりないゾーンであった。
ここでは、その警報とでも云える代表作「オリーブ園」があった。
実際にそれをじっくり観ると、やはり背筋がゾクゾクする。
このような絵は自分の部屋には飾りたくない。青で落ち着くなどという次元のモノでは明らかに、ない。


結局、ゴーギャンとゴッホ。全く合わないと言うより(それは確かに全く合わないのは絵を見れば一目瞭然だが)、そもそもゴッホという人が、誰かと共同生活を送ることのできるタイプの人ではなかった気がする。その上、ゴーギャンが全く遠慮のないヒトだ。(互いに才能は認め合っていたにしても)。
距離をおいて芸術に関して文通する友人としてなら、長続きしたように思われるのだが。
どちらも手紙を書くのがべらぼうに好きな人であるし。
(これだけでも非常に有益なやりとりになったはず)。

syuukaku002.jpgブドウの収穫 人間の悲惨(ゴーギャン)


クラーナハ展

久々に本業?の絵の方で、、、。

Lucas Cranach

国立西洋美術館
クラーナハ展に行った
1517年に開始された宗教改革から500年ということで、同時代を生きたクラーナハ再考のちょうど良い機会というものか。
拾い物の展覧会であった。行ってよかった。
そもそもクラーナハの絵自体それ程観てこなかった。
これだけの点数が集められただけでも見る価値があるというもの。

16世紀ドイツルネサンスの画家クラーナハ(父)。
この当時、クラーナハはデューラーやグリューネヴァルトとも比較される大画家であり宮廷画家である。
デューラーやグリューネヴァルトがそうであるように、クラーナハの時代を超越した普遍性と個性を強く感じる展覧会であった。
特にデューラーとクラーナハの「メランコリア」の作品の違いには思わず笑ってしまった。
クラーナハは、この主題をおちょくっているのか?デューラーが余りに真摯に深く掘り下げ神秘的な晦渋さを呈しているのと比べてみると何とも言えない。(勿論、赤ん坊のダンスに寓意的意味はあるようだが)。
cranach melancholia003Melancholia003.gif
*クラーナハとデューラーの”メランコリア”(爆

クラナーハ初の日本における絵画展である。

以前からクラナーハ(父)作とか(子)作とか、画集で観てきたが、その意味がわかった。
クラナーハ(蛇の紋章)作とは、クラナーハ(父)の制作総指揮による子や多くの弟子の総力を結集したクラナーハ工房としての絵画の総称なのだ。
勿論、クラーナハ(父)は、傑出した技量をもつ画家であった。
特にその速描きの才能が認められたため、如何に効率的に高品質の肖像画や寓意画を量産出来るかそのシステムづくりにも才能を発揮した。普通は自分ひとりでただひたすら頑張るというところで終わるものだろう。
様々な主題に対するバリエーションとパターンをクラナーハ(父)が考え、それに従い工房―工場のメンバーが各要素の組み合わせを工夫し人気作品(ヒット作)を生み出して行ったらしい。
想像するだけで面白い。

実業家、企業家としての絵描き。
商品としての絵画の普及を見据えていた画家である。(ドイツだけでなくヨーロッパ各地へと)。
フリードリヒ賢明公から授かった紋章を自身の署名更に工房の商標にもしてゆく。
このような形の制作者の先駆的存在であろう。


SF映画のポスターみたいな絵には驚いた。
少年向けSF雑誌の表紙みたいでもあり、強烈な郷愁にやられニンマリした(笑。
ある意味、この時代に飛んでもない絵である。
騎士が宇宙服を着ているではないか。SF映画も真っ青な天変地異で火山弾みたいなのが飛んでくるし、、、。
「聖カタリナの殉教」である。知らなかった絵であるが、ひと目で気に入った。(一番好きかも!)
妖艶で細身のヴィーナスは、非常にモダンであることを確認した。
これほど美しいヴィーナスだったことに改めて気づく。
透明な布のベールを手にしているが、この素材でどこを隠すことも出来ない。
ただ、手にそれを持つ仕草によって、本来隠されるべき身体のエロティシズムを更に高揚させている。
非常に写実的に描かれた何枚ものマルティン・ルターによって彼の顔は覚えてしまった。
街で合えば必ず気づくほどに(笑。

「不釣合いなカップル」シリーズもかなり痛いところを突いている。
金持ちの醜い老人と若く美しい金目当ての女性の息遣いを感じるそのカップルの絵からは、幾らでもその手の映画やTVドラマが生まれそうなものだ。
ユディト、サロメ、ヴィーナス、ルクレティアそれぞれの女性の物語もしっかり網羅されている。
わたしは中でも、ヴィーナスの美しさに目を奪われた。まるで綾波レイかと思うほどの蠱惑的な超時代性がある。
非常に名高い傑作「ホロフェルネスの首を持つユディト」もじっくり観ることができたが、もっている画集のものより格段に見応えがあった。(自分の画集が古く写真が良くないことが大きい)。
cranach002.jpg
この自らが主人公のドラマから魂はすでに何処かに飛んでいるのが分かる絵。

単なる様式美の画家ではない。
表現の幅も広い。
版画作品も多い。
彼は版画芸術の屈指の天才であるデューラーとも実際に親交があったという。
版画も当然工房の主要な商品であり、ドイツのみならず国外の皇室・貴族に多くの作品を納めていたようだ。
(デューラーに市場の独占はさせなかった)。

しかもクラーナハの凄いところは、油彩画と版画では、その拡散力には雲泥の差が出る。
勿論、クラーナハも版画を重要視して多くの作品を生み出したが、1点物の油彩画の普及力も工房の生産力によってヨーロッパに「遍在する」までにしてしまった。

大した実業家である。
「正義の寓意」が彼の本質を表しているように思えたのだが、、、。

面白かったのは、ピカソやマルセル・デュシャン、マンレイなどによるクラーナハである。
抽象化されるとこんなふうになるのかという変貌が愉しめる。これがまた観ごたえ充分なのだ。
そして極めつけは、レイラ・パズーキの『「正義の寓意」1537年によるコンペティション』である。
中国の複製絵描き100人にワークショップで描かせた絵が100点?(数えてない)壁面にズラっと並んだ様は壮観であった。
複製と反復そしてそれによる商品というクラーナハの差異を孕んだ反復による制作過程にオーバーラップする視点を提供していた。


今日は、病院の帰りに寄ってきたため過労もあり、このへんにしたい。(上野公園で遊ぶんじゃなかった)。
常設展もボリュームたっぷりであったが、敢えて書かない。
上野なので一緒に観た、「ゴッホ&ゴーギャン展」も後日、一言書いておきたい。






よあけ

yoake.jpg

ユリ・シュルヴィッツ作
福音館書店

我が家には古い絵本が結構残っている。
良いものは整理しない。
すると、整理の対象となるものは、それ程出ない。
(片付け専門家からは甘いと言われそうだが)。

先日、ベッドに寝転がって、これを娘に読んだ。
というより見せた。
絵を見せるに、良い絵本がとても役立つ事を再認識した。
今度、自分でも絵本を作ってみようか、、、と思える。
ちょっとばかりやる気になった。
(実際に描くのは、もう少し体調が落ち着いたらのことになるが)。


音のない世界が広がる。
周囲の雑音を消してくれる絵である。
これが一枚ではなく、適度な連続性をもって流れてゆく。
そこが絵本の面白さだ。
良質な時間の空間化。

適度な連続性と書いたが、飛躍的な連続性である。
この飛躍が絶妙であればあるほど素敵なものとなる。
「間」と言い換えてもよいか。

そして物質的想像力を優しく掻き立てる。
事物に感覚を研ぎ澄ます。
その静謐な高揚感。

よあけ ”twilight zone”は、宝物のような時間(場所)である。
これまでも、何かうっかりして起きてみたら、「薄明の場所」にいたことがあったのを思い出した。
それは「虚無の場所」とは対極にある。
そう、それは夕日の沈む時間にも生成される場所だ。
地球上での、わたしにとってのもっとも貴重な記憶がそれであった。
という、大切なことを思い出した。

これと恐らく同質の場所が廃墟に当たるはずだ。
トワイライトに結晶したフラジャイルなフィギュア。
ユベール・ロベールの絵(まさに「時間の庭」)でもよいが。

実際にその場所に自由に行ける人はとっても羨ましい。
その時間性は、残念ながらここにいては味わえないものだ。
恐らくその為に、それを閉じ込める装置として、絵本や版画などが存在するのだろうが。
身体的な体験―想いにまで昇められるかである。
これは、こちらの感性と作品の質の問題となるが、実際にその場所に赴いても感性が試されることは確かだ。


わたしの知る限りでは、その場所を思う存分満喫しておられる方が、こちらだ
いま、ギリシャをまわられている。
写真と文章がまた素晴らしい。
旅とは何か、、、ということを夢想させられるものだ。





プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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