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遠藤彰子

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遠藤彰子は日本の油絵画家の中ではもっとも好きな画家のひとりである。
はじめて教科書で観てからずっと彼女の絵のファンである。
あのキリコの輪回しをする少女を彷彿させる不安で気にかかる絵であった、、、。

先日のNHK「日曜美術館」で久しぶりに作品にまた邂逅したので、感想だけでも記しておきたい。
テーマとしては、「大きな絵」である。

自宅が見れて良かった。緑に包まれている。実はうちも緑に侵食されていたのだが、今日日中を使いその70%を剪定してしまった、、、。そうしてみると、遠藤氏宅がやたらと羨ましく思えたものだ。
アトリエも見れたし、階段に並ぶ小物が確かにアンティークショップを思わせた。
そして500号の絵が何枚も格納された倉庫も見ることが出来た。
脚立と謂い、この絵の釣り上げシステムと謂い、巨大画を描く画家のアトリエはテクノロジーも見合ったものが必要である。



家の前のアスファルトに蝋石で何処までもいつまでも絵を描く少女。
それが後の遠藤彰子となる。
誰もこんな風な幼少時の逸話(武勇伝)はもっているはず。


50年間毎日絵を描く。
30年前から大作にも着手する。
イメージの連鎖の作る世界。
相模原市に移り住み、それからは毎年、500号を超える大作を制作している。
これは一枚のキャンバスでは収まらない。

動物と人間の楽園をそこに見たという。
{楽園シリーズ}
このシリーズ画は、はじめて見た。
1970年代以降の作品である。
毎日のように森に通って制作した作品というが、林はあっても森は無いと思うが、、。
太った豚が子連れで歩いていたというが、その時点から彼女は幻想の世界に浸っていたかも知れない。
(いくら何でも豚が放し飼いはない。イノシシでもあるまいに。わたしは何故か相模原にはとても詳しいのだ(笑)。
まずはこの作品、ファンタジーとして見ることの出来るものだ。
アンリ・ルソーを賑やかにしたような、、、。ボスの絵にも繋がるものはある。

郷愁~イマジネーション喚起力の魅力。
人~植物~動物が等価。
大画面の初期は大きさの自在さはあっても、まだ平面的で装飾的な空間であった。
全ての物体が人間的ヒエラルキーから解かれ、自在に配置され、子供時代の囚われない物象世界を想わせる作品が見られる。
とても愉しい。作者の気持ちが伝わるような、、、。

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遠藤氏が現実に深く結びつく絵を描くようになったのは、息子の病気がきっかけであったという。
それは納得できる。深刻な生死観が根底にくるであろう。
「街シリーズ」から明らかに変わって来る。
この辺からわたしも知る絵が現れる。

俯瞰する視座からの迷路のような巨大都市。
人々は思い思いの仕草をしている。
あの輪回しの少女も何処か橋の欄干に持たれているかも知れなかった。

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空に吸い込まれるような構図の巨大建造物。
そして遠近法の消失点が複数ある絵である。
空も複数ある。
空が見つめるのか、人々が見つめるのか。
主体がはっきりしない不安で荘厳な眼差し。
「重力の反転」、、、確かにそうした眩暈を覚えずにはいられない。

今、500号×2のサイズの絵を制作している。
制作風景が見れたのは得した気分になった。
まずは、モノトーンで陰影の配分を見ながらの下地作りから始まる。
習字用の比較的細い筆でずっと書き進める。
番組ではあんなデカい画布にそんな細筆では途方もないという事を謂っていたが、絵の要素が全て小さいのだからあれで描くしかなかろう。

次第に奥行きが極端に深化し、渦巻くようなダイナミックな動勢が生じる。そして、上下左右が定かではなくなる重力からの自由(自在性)もその奥行きと動きの構造に加わる。やがて複数の時空の接合したような歪んだ空間が現出する。
大画面未来派のエッシャーとでも呼びたい絵。

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「大きい絵」を描く意味。
全ての制約から解かれた自由な絵の創作をそこで可能にした。
「重力のコントロールによって」(遠藤彰子)
~自由に動ける~イメージの連鎖・増殖~「自然に色々な場所から何かが出てきちゃう」~生々流転。
まさに、そういうことか、、、改めて確認した。

やはり自由とは重力から解かれることなのだ。
夢や思考には重力がない。


これは大変重要なことだ。


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「図案対象」久保克彦



「図案対象」
若々しく生命力に溢れた幾何学的な図象。
そんな第一印象をもった7メートルを超す、5つのパートに分かれた絵である。
第二次大戦で大学卒業後に動員され中国大陸で戦死した画家、久保克彦の絵(卒業制作)である。


自分の生=絵画制作がはっきりと断絶することを知った時点で、そこから遡行するような形で人は全ての思考・思想・記憶・感情を動員して総括を行おうとするものか。

戦争において、自分という時間流が戦場でふいに断ち切られる。
いや実質的に戦争に動員された時点で、画家という生命は終わっているか。
奇跡的に生きて終戦を迎え、家(アトリエ)にまでたち戻れれば、そこから断絶した人生の再開~制作続行は果たせるだろう。

だが、極限状態において、当人は「終わり」を予知してしまっているのだ。
これが”スワンソング”であると。
TV番組*で「図案対象」を見て分かった。
これは認知し認識した事象全ての見取り図ではないか。
芸大の卒業制作である。
それが最期の作品である。

構図・構成は計算しつくされたストイックな緊張が張り詰めており、カメラが近くによると、ほとんど全ての作図線が残っている。
恐らくそれらも重要な構成要素として敢えて残したのだ。
単に設計図やプロセス~時間性を重層的に残すというより、意味~読みのヒント・ガイドラインとしても。
一見、そのダイナミックさと要素の構成・配置から、フラクタル図形からの無限~永遠、有機物と幾何図形の対比の作る象徴性を内容として強く感じさせるが、実は5つの巨大絵画が全て1:1.618の黄金比よって貫かれていることが分かっている。
これには、驚く。

各画面においても黄金比によって正確に構成されている。
黄金比によってできる長方形をまた区切って正方形が切り出されてゆく。
その完全性の枠の中に、彼が拘る要素がことごとく整然と収まっている。
そして、各画面にある有機物の落とす影で時間を示す。
朝から夕刻までの意識~生きられる時間であろう。
エッシャーとはまた異なるスケールと質を感じる。


これが死を眼前にした者のひとつの「回答」なのだ。
世界との相関関係において実相を描くことを強いられた、とも謂えようか。
巨大な不安と恐怖を抱えつつ。

同期の芸大卒業生で、彼がただ一人の戦死者であったという。
――>同期の東京美術学校工芸科図案部15人のうち、ただ一人の戦死者
    (甥の久保克彦様からのご指摘により訂正。お詫び申し上げます)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「この絵を描いたからこそ、これから自分が戦争に行くということに向き合えたんじゃないか」と番組で芸大の女子学生が述べていたが、わたしもそうだと思う。
これを描いたことで、死を受け容れる覚悟も出来たのだろう。
(しかし、これは見ようによっては、未完であるとも謂える)。
彼は友への手紙に「自分は一兵卒で死ぬ」と書き送っていたという。


死を受け容れてしまうと、本当にそうなる(引き寄せる)ことにもなるかも知れない。
続きを必ず帰ってから描くと決めていたら、きっとそうなっていたように思う。



上野の芸大美術館で10/2から展示されるという。
季節も良いし、見に行きたい。



*新日曜美術館

モネとは何か

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モネの現代的な意味を再確認(再発見か?)する番組(日曜美術館)を、たまたま例によって途中から見たので、それに対して感じた事を幾つかメモしておきたい。
モネについては以前「モネの快楽~快眠」で書いてみた。
(何を書いたかほとんど覚えていないが)。
良い絵を観ると良い音楽を聴きながら寝てしまうように、眠くなる。
あくまでもわたしの場合であるが、他にもそういう人がいるかも知れない。
そんなところで締めたはずだ(笑。

今回、番組で白を主体に雪の絵を描いている女性画家の噺が印象的であった。
ブレ、揺らぎで完結しない図像。
主題から解かれた額縁絵画を超える絵画。
地続きに身体全体で感じる世界。
身体性~無意識で観る絵画。
こんなことが現代絵画の作家(画家、版画家)の対談で語られていた。
モネの現代絵画~藝術にも繋がる意義である。

モネは印象派の画家ではなく現代絵画の先駆者だという位置づけも分かる。
そういってしまえば、宗教(神話)画、歴史画、肖像画(印象派にもあるが位置づけが異なる)などの主題性と象徴性を持つ絵から「印象派」の画家たちの絵に目を転じれば、何か自由に解き放たれる感覚は少なくとも誰もが持つはずである。
印象派の肖像画の主題性は当のモデルより技法自体に置かれる。
実際の噺、対象は人間でも積藁でも同じモノなのだ。
そのモノでどのように光~色彩の移ろい、その時間性を封じ込めることが出来るかの試みとも謂える。

その中でもとりわけ、モネが30年に渡り描き続けた、自宅の庭に水を引いて作った池に浮かぶ「睡蓮」の連作が輝かしい成果の一つになろう。
その水面には睡蓮と共に、微妙な空の光や変幻する彩雲も映り込む。
それらが等価の画像として一瞬の光の色彩として画布に揺らぎ続けるのだ。


確かに印象派から絵画は読まれるもの意味を解かれるもの、から誰もが自由に絵を読むものとなった。
いや読む~意味を見出すのではなく、光と風の揺らぎをおのおので体験するものとなる。
そして、それが極めて現代的な絵画~藝術の先駈けとなっていると謂えよう。

最後に司会者の作家が、モネの絵から、それぞれ後世の画家が、わたしはモネのこの場所、わたしはこの場所というようにして自らの絵画世界を形成していったのだろうと述べていたが、そういうものだと思う。
そのように沢山の人が印象派にインスパイアされて来たはずだが、とりわけモネの「睡蓮」はその巨大な場となったと想える。


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クリムト

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「接吻」

何故か、クリムトについて書いていなかったことに気付く、、、。
あの圧倒的な金と装飾性がヒトの生~性の余りの生々しさ(更に対比的な死)を過剰に強調しているかのようで、興味がありながらどこか敬遠して来た感もある。


クリムトには風景画が多い。
最近、気付いた。
しかしよく見るとその風景は恐らく彼の得意とする装飾的で象徴的な物語~構成である。
所謂、「風景」が出現していない時代ではないと思われる。
印象派の目前にはすでに恐るべき「風景」が現出していたではないか、、、。
恐らく彼にとっては風景も女性もあの塊~アマルガム調となったドラマチックな男女(老若男女)の絡む像も、同じ心象風景であったのだと思われる。
彼の内面世界(の投影)に違いない。

今回彼について書いてみようとしたところで、画集を見直して気付いたことである。

そう想うと風景も肖像も構成的物語像も等しく同じ次元の作品に感じられ腑に落ちる。
描き方も基本的に同じである。
金細工職人の息子に生まれ、工芸学校を出て、建築装飾の仕事に就く。
身に付けた(ルーツでもある)金の装飾技術を遺憾なく発揮した極めて構成的で装飾的な作品群。
象徴性に富むというよりそれをいやが上にも引寄せてしまう平面的世界の構築である。
(通常の奥行き・遠近法を締め出しているものが多いぶん、特異な象徴性~文学性は深まる)。


しかしそれはまた反面、通常の物語性を解体する視座の提示でもあったことは重要である。
それまで、主流の絵画で「愛」を語るには神話のフィギュア構成~物語上に描く事が自明であった。
そこからすると、奔放な性の奔流する(エロチシズム)の生々しさと過剰な装飾性(構成と共に金箔の多様な使用)の共存はそこからの衝撃的な逸脱であった。明らかに新たな絵の出現だ。
テーマの捉え方が内容的~意味においても形式的にも、センセーショナルであったと謂える。

金の箔の使い方が、やはり親譲りのものか、反射率の異なる箔の貼り方を駆使しており、人物の衣装に使われる部分は全体に思いっきり輝きが強く、背景の金は反射率の低いくすんだ金箔の地となっている。
日本画(琳派など特に多いか?)の技法も思わせるものである。

Gustav Klimt002
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 II」

先日、日曜美術館で彼を取り上げていたのだが、そこでも腑に落ちたポイントがあった。
エミーリエ・フレーゲというミューズの存在である。
もっとも、彼には愛人が多く、アトリエには常に二桁のモデルがひしめいていて彼女らとの間に14人の子供がいたことは、この番組で知った。NHKも役に立つ。
その時代の先端を行くミューズが彼に大きな影響を与えていたようだ。
特にエミーリエは、まだ女性の地位と自立が然程認められていない時期に、実業家として活躍していたのである。
そうした(精神的・経済的に)自由な立場の女性との関係は、自らの芸術の解放に拍車をかけるに充分であっただろう。

もう一つ。コルセットで固めた身動きしにくそうな上流の女性のドレスをゆったりした動きの美しさにシフトしたドレスをデザインしたことである(これについては画集にも解説されていたが)。デザイナーとしてだけでなく、その写真も彼が撮ってファッション誌(その始まりらしい)という形に掲載したそうだ。
つまり新時代のファッションリーダーでもあったのだ(エミーリエとともに)。
静的な堅苦しい線のドレスから動きの美しさを狙ったドレスへの変貌は、女性の解放の形体をも意味したであろう。
実際、この時期は、ブルジョア新興勢力の台頭期である。
だから尚更、クリムトのような画家はもてはやされたはず。
美しく先進的で確固たる信念をもった女性にも大モテであった。
良い人生であったはず。恐らく(笑。

彼の着物みたいな不思議な衣服もきっと自らデザインした物だろうと合点した。
(以前からずっと気になっていたちょっと妙な感じの服であるが、確かに着やすそうで自由な感じはする(笑)。
しかし、第一次世界大戦の勃発により、華やかさは息を潜め、至る所に死の蔓延る混とんとした時代となる。
彼の、性~生が性~死に繋がるような晩年の「金」を封印した象徴性の高い絵が生まれてゆく。

Gustav Klimt003
「死と生」

番組で紹介されていた絵はそれぞれクリムトらしさをもっとも表しているものに思えた。
ベストチョイスに感じる。
番組としては皆が自分の趣味に惹き付け感想を述べあう井戸端会議みたいで、それはそれで面白かった。

Gustav Klimt004
「白樺の林」




バーニー・フュークス

Bernie Fuchs001 Norman Rockwell001

バーニー・フュークスにした。ノーマン・ロックウェルではなく。
J・Fケネディの肖像で決めた。
(自分の好みでもある)。
どちらも「アメリカのポートレート」画家(作家)~~アメリカの良心(ジャクソンブラウンがよくそう言われていた意味でも)であると感じるが、同じ対象を描いてもかなり趣が異なる。
*左のケネディがフュークスで右がロックウェル。

Norman Rockwell002 Bernie Fuchs006
基本的な作風の違いはよく現れてはいるが、左はまだフュークスがスポーツ選手を描く前のファッション誌のコテコテのイラストレーションを描いていた時期で、彼の既知の物語性をズラし斬新で本質的なフレーミングを切り取り編集するところまでは至っていない。
*左がロックウェルで右がフュークス。

輪郭においてロックウェルは極めてスタティックであるが、フュークスは、動的なぼかし溶け込みが感じられる。
ロックウェルの精緻で忠実な描写に対しフュークスは必ずその対象の本質的な要素を押さえる機智に富んだ描写が見られる。
それがケネディにおいてはワイシャツである。階級的な象徴となるボタンダウンを彼は着なかったことをその目の覚めるような白いシャツで強調する。常に合衆国そのものとともにあろうとする不屈の使命感を滲ませる。
(ケネディの肖像は、沢山あるがどれもほとんど野心的な若いイケメン大統領の域を出ない)。

ロックウェルの絵は基本的に静的であり、アメリカらしい(アンドリュー・ワイエスで極まるが)写実の系譜と謂えるか。
とても庶民性があり日常の機微とユーモアに満ち、絵本に親和性の高い典型的な絵に思える。

フュークスの絵には、ただそれらしく描いただけ、というものは恐らくひとつもないだろう。
攻めのイラストレーションなのだ。その意味でモダンなのだ。全く古さを感じない。

二人とも商業主義的な広告(CM)などを含むイラストレーターとしての活躍の場が主体であるが、フュークスの与えられたテーマにおける彼独特の場面の選定とそのフレーミングと構図・構成は、どの絵においても彼のスタイルとなっている。
初期のデトロイトでの車のイラストでも、それまで(通常)のイラストでは、人の姿など添え物として端に僅かに描かれる程度であるが(今の広告でもそんなものだ)、彼の絵では、勿論車は卓越したテクニックで魅惑的に中央に描かれているが、寧ろその車と共にいることの楽しさや幸せを、ひとを様々に活き活きと描く事で目一杯表している。ひとをこれ程しっかりと描き込んでいる車の広告は彼のもの以外にあるまい。

Bernie Fuchs002

そしてスポーツである。彼の真骨頂が描かれる。
実はわたしが、このバーニー・フュークスという偉大な画家を知ったきっかけがこの絵である。
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ケネディの崇高な孤独の姿にも深く胸をうたれたが、この野球選手の画像には、ただ圧倒されるばかりであった。
そして感情的にグッと込み上げるものが、あった。

神聖な威厳すら湛えた肖像である。まだ黒人はメジャーリーグで活躍する場を与えられておらず、野球史に残る名選手(実力者)であったにもかかわらず国民の注目を浴びる機会に恵まれなかった男の姿~生き様を浮きたたせる。
これは彼のその選手に向けた畏敬の念の表出の結果であろうが、技法的に見れば対象を後光の如くに照らす荘厳な光の役割が大きい。フュークスは、ここでも独自の光の表現法を見出している。背景を描き切ったところで、周到にテレピン油で光の場所を拭き取るのだ。これはやり直しは効かない絶妙な技術である。
「消し取り描法」と彼によって命名される手法だ。(まあ、わたしも無意識に絵の具を拭き取り光を作る経験はしてきたが、、、多分そういう人は少なくないと思うが、しかし彼の絵における、この効果には目を見張るばかりだ)。
更にここでもさりげなく、しかしとても肝心なところに彼の人生を支えて来た家族の姿をしっかりと描き込んでいる。
ここが違うのだ。彼の絵には必ずこれがある。探すまでもなく、あるべきところに、あるのだ。

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モハメド・アリの肖像でもこれを凌ぐものがあるだろうか。
その存在の偉大さをひしひしと感じさせる。
肩書はイラストレーターであるが、これらの肖像の厚みはレンブラントの人物画や自画像群にも引けを取らないと思う。

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ゴルフ場であるが、メインが何処か一見分からない。
主役であるはずの選手は実に小さく、ギャラリーと見分けがつきにくいくらいに入っている。
そしてフェアウェイがその先の先まで描き込まれ、われわれの視線はいやが上にも丈高い木々へと注がれる。そこに射す光に。
そのゴルフ場の特徴とその下でのプレーを一瞬に物語る。

同様の作品に得意の野球ものがあるが、、、
「グリーン・モンスター」である。
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外野の選手がたった独り守備をしているプレーの最中を切り取った絵である。
この球場はその設置環境の条件から、ホームラン性の玉も跳ね返してしまう、守備も大変な高いネットが聳えていることが何よりの特徴なのだ。
そのやりにくそうな選手の姿に共感してしまう構図が面白い上に絵としてもとても印象に残るものだ。


そしてわたしの一番好きな絵は、彼の絵本にある。
ジョセフィン・ベーカーの少女期を表した愛情をたっぷり感じる物凄く精緻に描かれた贅沢過ぎる絵本である。
これには驚く。ジョセフィン・ベーカーの可愛いこと。ダンスしながら歌う弾ける姿は、特に可愛い。
静かな肖像なら、ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール」などあるが、この活き活き感は、ちょっとないだろう。

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彼がまだ差別意識の高い時代に、黒人をこれだけ親密に描いているのは、彼にとっては自然であった。
彼はグレンミラーに憧れ、トランペットにのめり込み頭角を示しており、将来を嘱望されていたという。
普通に黒人とセッションする音楽人生を送っていたが、彼の祖父には内緒であったそうだ。
しかし高校卒業後に努めた工場で利き手の指三本をプレス機で失い、演奏家の夢は断たれる。
そこで第二の夢として絵描きを目指すが、利き手の指が3本無いと絵だってそう容易に描けるものではない。


絵に、やはり彼の人生の全ての時間がこめられていることを実感する。


キリコ

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わたしが恐らく初めて観た彼の絵は、教科書に載っていた「通りの神秘と憂愁」だったと思う。
中学生になって観たものだ。
それ以来、キリコはわたしのなかで特別な場所を持つようになる。

5感を越えた現実を捉え見えるものにするのがシュルレアリズムであるなら、まさにそれかも知れない。
何処までも続くアーケード。
張り詰めた濃密な気配だけ漂う空間。
それはまた何か恐ろしい事件の残響。

少女の影だけが浮かび上がる不吉な時間。
いや、凍結した時間か。
真っ白に、思考の終了による事態。

キリコはイタリアの広場に憧れを持っていたという。
ルーツにあるギリシャ古代都市にイタリア広場の接続。
寂莫と不安の支配する空間。
哲学者同士の出逢う場。

どんより曇った空のもとでの何処から照らされるのか強烈に明るい温度を持たぬ光と幾何学的な影。
その不安は更に崩された幾つかの消失点をもつ遠近法により増幅される。

「形而上絵画」が極まったところで、パリではアンドレブルトン、アポリネールらのシュルレアリストたちから絶賛を浴びる。
だが、直ぐにスタイルを変え、彼らの元を去ってしまう。
キリコは古典絵画の技法の習得に向かう。
これはピカソにも例えてよい変貌であろうか。

ティツィアーノを彷彿させる(実際に彼からの影響とされる)官能的豊かさに輝く色彩と活き活きしたタッチの馬や静物が描かれてゆく。
そしてその技法によるマネキンたちの生成。
ここに芳醇な傑作は幾つも生まれている。


晩年となると、自らの初期「形而上絵画」の模倣や要素を入れ替えただけのものや、日付を書き換えただけの作品の量産が起きる。これは世間を大いに戸惑わせる(誹謗中傷を呼び込む)変貌でもあった。
この意味を解説できる美術評論家は未だにいない状況である。
一部、初期作品の評判が上がったためのリクエストに応えたものだなどという噂もあるが、ニーチェに強く影響を受けた画家~小説家である彼の読み込みはまだ十分になされていない。
少なくともウォーホールなどとは、全く別の系に乗る芸術家であろう。


謎をもっとも愛する画家であったが、自身非常に深い謎を秘めた画家であった。
この謎が深くわたしを魅了し続ける。

実は「通りの神秘と憂愁」は、わたしのノスタルジア~原郷の拠点のひとつなのだ、、、。
それが映画となると、まさにタルコフスキーの「ノスタルジア」そのものとなる。

S君の仕事-断片補遺

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別の機会に、としておいた、S君の武勇伝?など幾つか、、、。

これはO君からまず聞かされた件である。
砂漠の群像などの洋画で有名な国領恒郎氏(日展審査員・日本芸術院会員)とS君はある期間とても親しい関係にあるとわれわれには映っていた。
国領氏がS君の作品に興味を示し、よく観ていたことは知っている。
或る時、氏がS君から気に入った作品を一枚借りたそうだ。
一流作家から認められればそれは嬉しい(まず悪い気はしまい)。
だが貸したはよいが、暫く手元に作品がないことを淋しがっていた。
彼にとって作品は、自分の息子のようなものである。それはよく分かる。
(わたしは大事にしてくれる人なら結構気前よくあげてきたものだ、、、今考えると惜しいものもある)。

O君が遊びに行った時もなかなか作品が戻らずブランクの壁面を淋しがっていたそうだ。
それはわたしも本人が漏らすのを聞いていた。
(恐らく彼は隙間自体を好まない体質に思える)。
しかし、暫く後に行ったとき、作品がそこにしっかり収まって~戻っている。
「よかった、戻って来たんだ」というO君に対し「いや、また同じもの描きました」と平然と返すS君がそこにいた。
O君は絶句した。わたしもそれを聞くなり絶句した。同じように(爆。

ちょっと描けない。それは勿論、最初から30枚同じ踊り子の絵を描くといった目的(目的が絵の外部にある場合)で、仕事で売り絵を描くケースは知っているが、普通一点ものとして描いた場合、絵はその制作過程(試行錯誤による生成過程)から考えても同じものは描けない。
つまりその一回性の時間そのもの~精神運動の物質化現象なのだ。
再度時間を繰り返す(生き直す)ことの不可能性に等しい。

無理にやるには思想的に信条的にどうこうではなく、生理的に(身体性において)極めてきつく不自然なことになる。
だが、S君はさらりとそれをやってのけてしまう。
通常なら、コピーしようと思って、描き出しても進むにつれて異化されてゆく。
最終的には異なる絵となる。
勿論、S君のように見たところ寸分違わぬ(恐らくそうであろう)絵となっても、異なる絵であることは相違ない。
微細な部分は違うだろうし、時間性において完全に異なる場にある。
当然そうなのだが、われわれが描けば見た目にも(構図・内容・筆致・色彩等)自然に変質する。
もしかしたら、ここがS君の制作行為の本質的な部分なのかも知れない。

壊れたジオラマを元通りに戻す~直す行為。
もう一つ同じジオラマを造る行為。
この身体性~身振りに近いことかも知れない。
または伝統工芸の作家にも通じるところも感じられる。
ただ売り絵作家とは方向性が最初からはっきり異なるものだ。

恐らく彼にとっては通常の「コピー」という言葉はそぐわない、もっと神聖な呪術的でもある再生の儀式なのだ。
ただ淡々と息子を蘇らせているところが、如何にもS君なのだ。
「コピー」ということばや逆に「藝術」(自然科学も含)などという思想に妙な思い入れや拘りを一切持たない場所にいる。
ことばから解放されていて自由~自在である為に出来ることは、きっと多いし多様なのだ。

外の枠など端からどうでもよく、彼はそれと対決することもなく自分のすべきことのみしている。
ここがある意味、羨ましい体質であり資質である。
わたしはどうしてもいちいち対決の場をもってしまう。そういう体質なのだろう。


その後、作品が戻ったのかどうかは、一度も話したこともない。
また、作品を再生するケースがあったかどうかも聞いていない。
ただ、それはほとんど彼にとっては、どうということもない通常の制作過程の内のようだ。


今回は一つだけになってしまった。
またこの場は設けたい。面白い噺は他にもある為、、、。



S君の仕事-Ⅴ

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他にもいろいろ、、、今回はこういう形でしか撮れないものも多く(例の溢れ出すキノコの絵のように、、、)、全体像はこの後、またの機会に。

最初期(初期)の点描の厳格さを守り続けてきた頃と異なり、自在な筆致を駆使するようになるにつれて(ゴッホも実に多彩な筆致を編み出して使い分けていた)、色彩が際立って瑞々しく鮮やかに活き活きしたものになり、同時に絵画世界の輪郭がこちら~観る側の身体性に溶け込んできたように感じられる。
この観るというインターフェイスに筆致はとても解放的な装置として作動したのだ。
現に昨日から今日、ここに載せた絵は、無意識的に共振できる波動に充ちている。
郷愁と焦慮の念と共に、自分の身体性の何処かに埋もれた記憶を呼び醒ます。
過剰に説明的でカタログ(図録)的な俯瞰と距離感、それによる硬直したシンメトリックなフレーミングによる画像群が、この世界~わたしの意識の縁に連続し奥行きをもつ無理のない目線の内の表象と化していた、、、。

そして固有の質量を持ってきた。
つまり多様性が活き活きと感じられる。


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緑の匂い立つ画像である。やって来る電車も緑。光がとても優しく、本当の光らしい。
俯瞰してるが、たまたま出逢った世界の切り取りである。
緑の木々の向こうから顔を出してくる電車はどことなく青虫を想わせる。もしかしたらかつて木々の内に見出した葉っぱの上を歩く青虫とのダブルイメージになっているのかも知れない。微視的・記憶上のイメージが様々な絵の要素と絡み融合している可能性は高い。
右側をカーブしてゆくトロッコが可愛い。しかしどちらに向けて走っているのか、又は止まっているのか分からない微妙なバランスを保っている。しかし電車との何らかの対応(力学的)関係はあるように想える。
この絵がわたしを引き込むのは、何より光と影である。
光がとても柔らかく繊細な煌きに充ちている分、影の癒しの効力も高い。
影が補色になって、とても居心地が良い。


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画面全体が夕焼けの過飽和状態である。
黄昏時ではあっても奇妙に明る過ぎる一時(一瞬)の光景~記憶に違いない。
明らかに汽車が汽車以上の何かである。
黄色い光がこれだけの分量の郷愁と神秘を呼ぶものか。
透明の黄色を幾層にも分厚く塗ったものであろう。
タップリ過ぎる光がとてもしっくり馴染む絵だ。
わたしも、この光景の中にいたことが一度ならずあることに気づく。


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スカイツリーお出ましである。
飛行船も飛んでいる。(わたしも飛行船はよく絵に描いた)。
思い出深い電車特急「こだま」(151系)も走って行く。やって来たというより行くぞという方向性を感じる構図だ。
そう、スカイツリーを軸(ほぼ中心)に、飛行船の飛行の線、鳥の飛翔の線、「こだま」の走行する線、煙突の煙のなびく線、暫し停泊している屋形船のこちらに向かう線、の各線が誇張された放射状のパースペクティブを持つ。
これらは異なる時間流の輻射と受け取れるものだ。
更に画面の上下がほぼ半分に黄色と緑に分割されている。空を漂う系と水上を漂う系との質=色の差であるか。
スカイツリーが中心を左にズレているところが、絵の力学において上手く全体をまとめている。
無意識的な平面の正則分割的構成ではなく、意図的で意識的な幾何学的構成に作家的意欲を感じる(笑。


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初期の絵に一見、内容~要素が似ているが、空間の奥行きと空間自体の質的厚さがとても濃厚である。
そして要素の置かれ方も奥行きを作ってゆく。
立体感と色彩の息遣いも初期の絵とは別物である。
わたしは、当初どの年代でも彼は同じ世界を描いているため、時系列の重要性はないということを述べた。
半分はそうなのだが、半分は違う。
テーマは同じであっても、その世界は徐々に自発的に破れ、外に解放されてゆくのだ。
創作とは、制作の反復とは、そういうものであるのかも知れない。


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東京タワーである。
これはまさに懐古的な、また回顧的な意匠である。
今の時点で、昔やってきた絵をもう一回描いてみたいという気持ちか?
多くの要素を予めセットして、スイッチを入れた途端に起きた騒ぎ。
奥行きだけでなく電車やバスや飛行機や風船や傘のカップルたちが一斉に走り出し宙を舞うダイナミズムとちょっとキッチュな面白さ、、、。ひとことで言えば、趣味の世界。
どうしてもこういうのをやりたいヒトなのだ。
やはり時系列は余り関係ないな。
しかし絵は生命感があり気持ちよい。明らかに描画手法は繋がっている。


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プレ・ラファエル派の絵だと謂っても信用する人は多いと思う。(電車があるのは変だが)。
新しい光と色彩と筆致を得たうえでの点描もフルに活かした制作だ。
かなりの力作である。
池には鰐もいる。
電車はやけにリアルで、上に観られた郷愁に染め上げられた車両ではなくすっきり洗い流された姿を見せている。
そして何と言っても植物の描き方の多様性であろう。
海と沖に輝く光はもうお手のものか、、、。
しかし一番異なるのは、いつもの後ろ姿の少女ではなく、横向きの座ってもたれかかり夢想に耽る妙齢の女性である。
わたしがプレ・ラファエル派と言ったのもそれが大きな理由となる。
左上部の木陰が少し彩度が高すぎる感じはするが、精緻で繊細でありながら全体構造がしっかりした調和のとれた絵である。


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江ノ島である。
S君にとって江ノ島は楽しいところなのだ。
楽しいから、それを詰め込みたい。
先程の乗り物ラッシュではないが、ともかく好きなものが色々入って来るのだ。
ある意味、シンプルでナイーブな絵であるが、シンプル(省略)して単純化を図る方向性とは逆である。
様々なモノを収集し増殖する絵でもある。また作者でもある。

最初期にこんなテーマの絵があったが、もう構図は遥かに複雑になり、色彩も筆致も自在性はずっと増している。
ただ、技量が増したと言うより、解放され表現が深まり広くなったのだと思う。

しかしヒトは変わらない。
やはりS君なのだ。
彼は不変の人である。


今回の特集は取り敢えずこの辺で、、、。

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S君の仕事-Ⅳ

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クリスマスジオラマのひとつ。このような工芸品(照明絡繰り付き模型)という感触が、実は絵画作品にも染み渡っている。


改めて(笑、S君の絵を観るとすぐに連想してしまうのが、アンリ・ルソー(様式化した森~動植物など)やポール・デルヴォー(汽車や少女などのモチーフにおいて)であるが、それらとの比較・分析めいたことは、端からするつもりはなかった。
彼の作品のなかの、この僅かな点数と何をか語るには些か準備の足りないところでそれをするのは危うい事である。
しかしあくまでプレ作品お披露目の機会~位置から、少しばかり作品特性を浮き彫りにして確認しておきたい。
余りに周辺的なお喋りに傾き過ぎた感もあるため、、、。


まずルソーとの類似点については、特にこれと謂ってあれこれ挙げ連ねる必要はあるまい。
その動植物の描写の様式性と装飾性がとても人工的でエキゾチックに仕上がっていること、細部への拘り(これはS君の方がずっと上であるが)について殊更強調するまでもない。質感に血縁関係を感じるところは確かに認められる。

それよりも、われわれが風景~場所の絵を観るとき、どのように観ているか。

デルヴォーの場合、決まって始発駅から発車する汽車が描かれており、何処か別の街(世界)に旅立つことだけは予想できる。
S君の汽車は、ニュートリノのようにある方向からやって来ては、通過して行くことが多く、相互作用がほとんど感じられない。
(高速で爆走して横断するキリコの機関車に寧ろ近い)。
しかし宇宙線のように頻繁にやって来る。
情報は受けているのだ。ただ、それをどのような形で返しているかと謂えば、これらの絵の次元としてであろう。
その絵は、とても俯瞰的であり、最初期作品の「夏の午後 partⅠ」(S君の仕事-Ⅰ)の双眼鏡で景色~テニスウェアの女性を覗き込む紳士の視座に近いものと謂えるか。
この模型を上から眺めるような俯瞰的視座。
われわれも彼~S君となることを要請されている、、、?

再度、われわれが風景~場所の絵を観るとき、どのように観ているか。
これを考えてみるとき、ほとんど「絵の中に入る」ように観てしまっていることを思い出す。
例えデルヴォーの「部屋」が遠近法的にどれだけ歪んでいようが、われわれはその部屋に入っている。
(絵の中の裸婦も頭が天井にぶつかることなどちっとも恐れていない)。
作者~超越的視座も意識などせずに味わっている。

しかし、S君の絵はその視座があからさまな俯瞰でなくとも、微妙にわれわれを宙吊りにしてしまう。
わたしの足場が揺らぐというより足場ということが意識に引っかかるのは、ひょっとしてわたし個人の問題である可能性もある。
(大概、自然界の出来事も相互的な嵌入によっている)。
だがそれらの作品の側には、やはり特異な閉鎖性がその形式においてみられるようだ。
またもしかして、その次元は実は何処かで自発的に破れているのか。

S君の絵の世界の少女やシルクハットの紳士や妖精は、果たしてトロッコや汽車に乗ってわれわれの世界いやわれわれの入って行ける世界に現れることもあるのだろうか、、、。


Paul Delvaux005
Paul Delvaux006

ポール・デルヴォー「夜の汽車」や「森の中の駅」はS君の絵を日常的高さから見直した絵とも謂える。
S君の絵との違いは所謂、視座のみであろう。(勿論、テーマや描画法の違いはあっても形式的には)。
日常的な普通の身長からものを観る、通常感じる環界の身体感覚である。
わたしもこれらを見るとき、それとなく絵の中に入っていることに気づく。

登場する女性(少女)のポーズや仕草も控えめで、何かを訴えたり仄めかすことは少ない。
その上、S君の場合、後ろ姿が圧倒的に多い。
デルヴォーの女性も造形的に顔に表情がないのだが。
S君の少女は、文脈的に形式的に表情が隠蔽されていた。
「距離」と「高さ」がポイントである。
後ろ姿でももっと近ければ、何かが感知されることもあろうか。


S君の作品はどれも工芸品~模型の手触りに近い。
その表現世界の中に入りその意味~文脈を楽しむというより、それそのものをそのものとして味わう、そんな接し方で絵と関係することをわたしは選んでいた、、、。


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光の反映においては、最も美しい絵だ。
ここでも虫取り網を持った少年をうしろから少女が観ている。
その全体像を観る神の目であるわれわれ。
電車は次に向けて直ぐに出発するだろう。


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色合いと形体はビビットである。
最初の頃と比べると目の覚めるようだ。
ベタっという感じが全くない。
手前左にいる少女が汽車のなかの誰かに手を振っているらしい。
いや、その先の川で水遊び~魚とりをしている少年たちに手を振っていた。
それとも三輪軽トラックから降りて田んぼ仕事をしているお父さん?に対して何か呼び掛けているのか?
珍しく感情表現(ドラマ性)を感じる場面が挿入されている。
登場人物たちにいよいよ様々な動きとコミュニケーションの芽が生まれてきたか。
とは言え、異様に絵そのものは静謐(無音)なのだ。


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箱庭的な風景である。秋のさっぱりした光景にも見える。
かなり日常的な視座から少女がバスのやって来るのを停留所で待っているところだ。
その向こう側ではお約束の電車が通過して行く。
ただ、画面左側を占める木々が妙に小振りだ。形態から謂って大きな成長した木にも思えるのだが異様に小さい。
しかし形から草花とは受け取れない。そこが箱庭的でジオラマっぽい。


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家の駅近くの米軍基地の住宅をふと連想する。
少女の眼前の曲がってゆく路は何処まで続くのだろうか?
(この路には魅了される)。
上呂を持って境界に立ち止まる少女には既視感を充分持つが、手にアイテムを持っていることが、絵画世界を饒舌にする。
ドラマ性と生気が揺らぎ立つ。
だが、一歩踏み込めずに彼女は立ち尽くす。


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ここでは兄妹の間に明らかに会話が成立している。
きっとS君のお子さん二人だと思われる。
「祝」というメッセージのディズニーランド的アトラクションの乗り物を想わせる電車が普通の夜の商店街にやって来た。
この絵は恐らく子供さんへの何かのお祝いのプレゼント用に描かれたのでは、、、。
こんな絵を貰ったらそれは嬉しい。
(実際、小さな絵である。3号くらいか)。


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面白い構図である。
画面上部、水平に鉄橋を走るのは貨物列車の先頭部か?
黄緑の車体であり、下に道を挟んで広がる畑も同じ黄緑である。
左下には黄色いランドセルの少女が何かを見やっている。
植物の上にとまっている白い鳥か。
空や雲や遠方の建造物も含め黄色がポイントである。
そうした時間の記憶がわたしにもある。


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また、三輪軽トラックであり、何と少女が荷台に乗っている。
ちょっと映画風ではないか、、、。
電車が凄い森(林?)のなかを走って行く。
お父さん?の運転する姿も垣間見える。
牛が二頭草を食んでいる牧歌的と言いたいところだが、やはり電車が怪しすぎる。
この一見何気なさそうな光景は、かなり魔術的(で呪術的)な気配を孕んでいる。


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実に美しい寒色の色調である。
正直、これには驚いた。
このパタン化した白樺?の木は実家の近傍に茂っていたものか。
色彩と色調、色の響き合いがとても心地よい。
全体の調和も申し分ない。
少女が左下の構図から、木に寄りかかりながら横に振り向き牛たちの様子を窺っている。
少女の秘めた想いが漸く感じ取れそうな気がしてくる。
地上に降り立った気分である。
静謐でこころ安らぐ絵である。

繋がってきた、、、。


明日は感動の最終回(爆。



S君の仕事-Ⅲ

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2Dから3Dへ、、、。今となっては珍しいトリックではないが、かなり昔から置かれている。
キノコが余りに自然に溢れ出ていた。

キャンバスの形式とサイズを記していないことを、わたしも気にしていたのだが、大体がFであり、真四角のSもあるにはあるが、長細い(長方形の)PやMはさほどなかったと思う。大きさも3号くらいから10号あたりが多く。20号などは大きい方だ。最も大きいのでもF30くらいであったと思う。兎も角、小さめの絵が多いということはお伝えしておかなければなるまい。
正確に画像に題と形式・大きさを記すべきであるが、それは正式な画集やS君回顧展などでしっかりできればと思う。
子どものお守りついででは、そこまで行き届かなかった。

細筆(面相筆)でひたすら細かい点描で描くことから、大画面タイプの絵ではない。
太い平筆で豪快なタッチで塗る絵の対極で、点を置くことで生成される絵である。
ちなみに、われわれ共通の友人O君(バイオリニスト、作曲家)は、前者の代表ブラマンクが好きだ(笑。
わたしも時折、凄く観たくなる画家だ。だが、わたしもO君もS君の絵を観に窺う。
われわれは、それぞれが面白いというだけでなく、多様性そのものを楽しんでいるところが大きい、と思う。
お喋りも楽しんではいるが(笑。


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この絵は昨日の作品の二番目あたりに来るべき絵で、教育出版の音楽の教科書(小2)の裏表紙に載せられていた絵だ。
もう随分古い。(H.7年印刷、8年度配布の教科書)。
しかし彼の絵はテーマ(本質)は不変である為、年代(順)が何らかの意味をなすこともないので、わたしもほとんど雰囲気で並べている。
正確な順番は本人にしっかり確認しなければ分からない。
だが、彼にとっても大した意味は持っていないはず。


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  *わたしの同時期の音楽の教科書(小4)に掲載されたものは、「続きを読む」にて、、、。

確か7回だか描き直したそうな。わたしも一度部分的に描き直している(挿げ替えている)が。
その世界に関する拘りのぶつかりから(描いているうちに仕事を越えて自分の作品となってしまう人は少なくないことから)、もつれることもあるし、文字や写真を入れる部分に絵を描いてしまい、それをどかしてくれという単純な要請になかなか添えずにだらだら描き直しが続いている場合もある。

S君も拘りはやたらと強く、絶対に自分の主張は曲げない人であるから、どういう形の描き直しであったか、、、
(以前、新左翼系学生活動家から三里塚の絵を描いてくれと頼まれ、大激怒していたことを思い出す。わたしも怒るはずだが、あそこまで怒るかという感じだった。基本、意に添わぬことは一切やらない人だ)。
わたしは、仕事の場合は全面的に向こうの依頼を呑んでしまうので、ただ要請に近づけるだけの問題でその点ではお気楽である。
この絵、非常に練られた構図であり単純化も精緻になされて洗練度が実に高い。
もう力作と言うべきであろう。
恐らく普通に描いてゆく場合、S君が描き直しをするとは思えない。
(まるまる自作のコピーは平気でするが(爆。そのエピソードは別の機会に、、、)。
その分、ここでの描き直しは明らかに作品の充実度と完成度においては良い形に反映したと思われる。
特にダイナミックにまとまった構図と細部の統一感と調和である。 
良い意味で、頑張った感じがする。


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教科書画のエスキースか最初のイメージスケッチ的な絵にも見えるが、ここに時系列で繋がっているのかどうかも定かではない。恐らくもう少し以前の作品であるとは思うが。
シンメトリックで動きのある安定した装飾的な作品だ。
好きなものは、しっかり描き入れている。
その点でも安心の一作だ。


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横浜の風景のファンタジックに変性したものか?
夜景であるが彼の場合、朝であろうが昼だろうが夜景であっても、それは単なる光力の差、色光の違いに過ぎない。
全て(モノによってはガラスケース内の)ジオラマを照らす特定の光源である。
S君のなかのイメージなのか?
寧ろインターフェイスなのだろう。
彼と環界の間に生成される薄い煌びやかな街なのだ。


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この岩壁。
タリバンに破壊された仏像みたいな像もいるこの岩壁こそトロッコの絵に端を発するあの地形からやって来たものだ。
マジンガーZみたいな神聖な石像も間近の森に寝ている。
ただ安定が悪く、たまたま寝かされているのかも知れない、、、時折そうしたフィギュアもあるものだ。
ここでは広い森と例の岩壁もそうだが、手前左空間を占める光の三原色を体現したような妖精が何よりポイントだ。
ほんのり甘やかな生命感も漂ってくる。
そう、無時間模型の平面世界から生命の息吹が立ち昇る気配がある。

(別にこの先、ここからどう変わるなどという線状性はないため、それを匂わせる書き方はすべきでないな(笑)。


明日に続く。


続きを読む

S君の仕事-Ⅱ

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ジオラマ飾り棚の一部。

トロッコの絵から見られたように、彩度・明度が上がり、更に遠近によって出来るダイナミックな(動きの感じられる)構図(広がり)が設えられる。
そして稠密な構造物も現れる。
まるでバベルの塔のような。
人工的な光~光線が(過剰に)発せられる。
彼の作るジオラマのあちこちの部分に灯る光のように絵の中の様々な要素が地形が発光し始める。
ただし、そこには重力が感じられない。
夢の中のように(永遠の白昼夢か)。
そう、どれも精巧で軽い素材の(ミニチュアの)ジオラマの世界なのだ。
きっと、、、。

それから、これらの絵には題名が分かるようになっていなかったため、題を表記出来ない。
本人に聞いておけばよかったが、学生時代の友人の悪口に夢中になっていてそれどころではなかった。
果たして彼も題名を考えていたかどうか、分からない。
S君が暇な時に確認しておきたい。


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これは初期作のデザインの集大成的な感じである。
兎も角、それまでの場面と要素を全部取り込んでみたという。
この距離感も初期作の特徴である。うんと引いていて近くのものは描かない。
望遠鏡で覗いた構図か。

ここでひとつ締めくくりたかった、のだろうか。
そのままジオラマの完成予想図としてもよいだろう。


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恐らく筆致が変わって来たこともあるのだろうが、明らかに全体の精緻さの質が変化した。
牛が題材ということもあるが、点描による描写が柔らかさと厚みを獲得している。
牛がやけに美味しそうだが、食べてみたら甘い薄皮に包まれたこれまた飛び切り甘くて美味しい餡子が詰まっていることは間違いあるまい。
だが一口サイズで食べ易いはず。
モーレツに甘いお菓子が食べたくなる絵(逸品)である。


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ピグモンがいる。サイズから謂ってガラモンではない。
それがオウムやフクロウやトラのいるジャングルの端に所在なく佇んでいる。
川岸はカーペットで子供のゲームかジオラマセットの為にサッとリビングにでも敷かれたようだ。
彼らはただ素っ気なくその上に順番に並べられただけなのかも知れない。
強力な光源のスウィッチが入ったところで、それを仕掛けたのが暗がりにいるシルクハット?の紳士S君である。


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ジオラマ感バッチリな地形。少女の乗る汽車の形のミニトロッコを後ろから手押す少年。
もはや投影とか代理とかはどうでもよい。余りそうした関係(意味)性には重きは置いていないだろう。
これから二人はお城、或いは城塞の街に赴く。それしかコースはない。
スイッチを押せば行くべきところに着いて止まる模型なのだ(スタートに戻して何度でも始まる)。
脇にはグラスファイバーでLEDライトも灯りそうな滝と人魚(度々登場する脇役)も。
スヌーズレンの仕掛けにも似たメンタルヘルスの効能も感じられるのだが。
熱を発しない過剰照明を背景に、山のように高くそそり立つお城の周囲を飛び回り続けるドラゴン。
この反復と回帰の運動。
非常にベタな形体配置と仕掛けにも思えるが、それをズバッと描いてしまうところが彼の最大の強みでもあり、、、
郷愁とも切り離されたある種の(根源的な)淋しさを湛え続ける。


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このバベルの塔のような構造物(恐らく)は何か?
ただ、この塔以外にも水上都市があり、、、何と塔は水上へと突き出た建造物なのだ!
手前からそれに向けて静かに運行する船がある種の予感を誘う。
まさかノアの箱舟なんてことは、、、。いや他にも海賊船みたいな影もある。
錯綜する物語が、その光や光線や鳥たちの動きからも禍々しく漂い来る。
何でもありの模型世界が何か予言的な、黙示禄のような世界の感触を生む。
そんなことも起きる確率はあると思う。


明日に続く。

S君の仕事-Ⅰ

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S君の家に遊びに行った。
娘二人と。
S君と言えば、大学卒業まで江ノ電の「鎌倉高校前」から白樺の高台に登ったところの実家に住んでいたが、そこにいる間ただの一度も海岸に降りたことはなく、小窓から感じ取れる砂浜の様子を絵に描き続けていたそうだ。
わたしは、S君を「鎌倉高校前のレーモン・ルーセル」と勝手に呼びたい!

兎も角S君の絵を見せてもらいに行ったのだが、娘二人はS君の大学生のお嬢さんに遊んでもらいに行ったようなものである。
お姉さん遊ぼ、と謂ってずっと遊んでもらっていた。
よほど嬉しかったようで、いつまでも遊んでもらっていた。
ここで改めてお姉さんにお礼を言わなければならない。
ほぼ丸一日、ありがとうございます。
(何をしていたか後で聴くと3Fの屋根裏部屋の一室にお姉さんを閉じ込め、外から思いっきり怖い話をして怖がらせていたそうな、、、本当に根気のいるお相手をしてもらったもので、申し訳ない(苦)。
その間、わたしはS君と奥さん相手に積もり積もった話がたっぷりゆっくりできた。

とは言え、絵も観た(爆。
それが目的であったし。彼の絵が時折何故だか妙に気になるし、、、。
長女がS君の絵の感想を述べ、それに感慨深そうに彼が応えるやりとりも面白かった。
(次女はその間、動き回りながらだれかれ構わず喋りまくっていた、、、ちょっと心配、、、多動か)。
わたしは、ただひたすらかつて見た絵の写真を黙々と撮っていく。


今日から5日間に渡り、S君の作品の一部であるが、ご紹介したい。
3F屋根裏部屋の彼のアトリエ兼ギャラリーには額に入ったガラス越しの作品が多く、距離的に謂っても角度・照明からも撮り難い物が多かったが、今回ここに33点ばかり並べる作品だけでも、その世界は感得してもらえるのではなかろうかと思う。

ここで、特に彼に関して一般的に、例えばナイーブ画家として解説を加えながら作品を掲示しようなどとは思わない。
若干の感想めいたことは添えると思うが、なるべく余計な口出しはせず、あくまでも「友人の画家の絵」を紹介するに留めたい。

もううっかりナイーブ画家などと口を滑らしたが、どう見てもそういう感覚(視線)で観られてしまう絵ではあろう。
そうした目で見始めてしまうと、幼少年期の思い出と無意識的なトラウマや強い拘りや喪失観の印象は拭い難い。
本人もそういう話をしているので、仕方ないところではあるが(笑。

公園、遊園地、電車(乗り物)、部屋、境界、音楽、、、それらの要素による絵は、思い出の再構成=模型世界の定着として描かれたものに他あるまい。
そこでは時間は凍結しており、さらに空間は構図上あっても物質的な次元としては無い。
尋常ではない平面性~凝縮性を息苦しく受け取る。その意味でナイーブアートのようなアバウトな脱力感や空気感は窺えない。
その執拗な細密さと装飾性からも(彼の絵は基本的に点描であり、速乾性のリキテックスによる)。
自然の環界を感じるところはなく、何やら演出(装飾)的に極めて人工的に灯る照明の(それは白熱灯から蛍光灯、LEDに変化していくにせよ)「絵」にはある種の強い無意識的で意図的な意志=抽象を感じさせる。
実際そうなのだ。
リビドーが形象として象形文字のように凝縮して定着した雰囲気を感じさせる。

そして溢れる郷愁が彼を確信的に動かしていること~描く行為に不可避的に仕向けて(追いやって)いることは想像し易い。
実際、彼はこの絵にあるようなジオラマを、粘土やベニヤ(ペンキで着色)やプラスチックのオーナメントや豆電球、モーターなどで細密に幾つも作ってもいる。(子どものおもちゃにもしていたそうだ)。それはとても集中と根気を要する作業でもあろう。
愉しくて夢中になってやっているのではあろうが、やらずにもいられないのだ。きっとそういうものなのだ。
愉しい苦行かも知れない、、、。
(兎も角、この行為は、現代美術の枠に対する批判~自己解体の知的作業でありかつ普遍性を目指した「藝術行為」の対極にあるものだ。そういった意味では極私的~私小説的な絵であり自己充足的な行為と謂える。しかしその個人的で本当にあったか分からぬような秘密~記憶を垣間見るような一種の気恥ずかしさや恍惚さの方にわたしたちは共振する所が大きい。きっとまた暫くして彼のお宅に絵を観に行くはず。娘たちはお姉さんと遊ぶためかも知れぬが(爆)。

S君の止むにやまれぬ「仕事」の最初期からわりと最近までの幾つか(何とかデジタル化出来た範囲のモノ)をこれから並べてみたい。

感想(感慨)を述べ出すと、全くありきたりの解説めいたものに陥ってしまうのが分かるのでお喋りはなるべく少なめにする。


まずは、初めて人に絵を見せ始めた頃のS君の原型とも謂える最初期作品群。

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「公園」
この頃は、後に観られるビビッドさがなく、かなりくぐもった画面は、ちょっと呪術性をも感じさせるところである、、、。
紳士はS君。

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「Marine Land」
恐らくこの頃、夢中になっていた彼女が水着の娘である。
奥さんには内緒だ。

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「Wanderful Dance Time」
彼はジャズ大好き人間である。
それを聴きながら描いたみたいだ。

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「夏の午後 partⅠ」
勿論、覗き見しているのがS君である。
本人も自分の中の鉱脈~郷愁に染められた記憶を覗き込んでいるという行為を対象化~自覚している様であろうか。
描くことを意識し始めたという、、、。しかし遠いね、彼女、、、。

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「夏の午後 partⅡ」
実は、この絵で初めて彼の絵を面白いと感じた。
この境界から向こうを眺め見る行為と境界の壁に反映する木漏れ日がとてもよい瞬間を凍結している。
しかし向こう側の模型のようなサイズ不明なSLが余りに不愛想である。黒いブルドッグみたいに。
一体少女は何を気にしているのか、、、。

006sabu.jpg
「長者町の思い出」
ジオラマ趣味がしっかり窺える。
例の少女と似たような少年がいる。
二人とも視線に含みを持たせている。
少年がその先何処に向かうのかを少女が気にしているのは明白だ、、、(余計な事か)。

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「「放課後」
いつもながら、遠近法が面白い。
独特の俯瞰視座であるが微妙なバランスを保っている。
その微妙さが主題化している。

008sabu.jpg
「良平とトロッコ」
初期作品では一番わたしの好きな舞台のような絵。
背景の日の光は書割である。
この地形は、他の絵へと接続してゆく特徴的な壁面も観られる。
そうこのトロッコで繋がって行くのだ。トロッコの線路がとてもよい感じ(笑。


明日へ続く。










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プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

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