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重陽の節句

chouyou001.jpg

9月9日は一番大きな数が重なる為、「重陽の節句」と呼ばれるようになった。
ちょうど季節の節目でもあり「無病息災」を祈願する行事の日となる。

うちでも簡単にこの別名「菊の節句」を行うことにしている。
そもそも、うちでは昔からやっていたのではなくわたしがブログを始めたころ、ブロ友の方が記事でそれは印象的に紹介されていたことに影響を受けて恒例の行事となった。とは言え、実に簡素にやっている。

早速、昼も近くなったので、近所に買い物に出たが、普通七夕やお月見などの行事では必ず特設コーナーが小さくも設置されるのに、どこにも何もない。「重陽の節句」が完全に無視されていることが分かった。うちの近所の店では、、、。
ちなみに、今年のお月見は9月24日になる。この日はお団子だ。このコーナーは出来るはず。月にお団子で分かり易いのか?

娘のバースデーに必ず頼むケーキ屋にも置いていない。
焦って他のお菓子店にも電話したが、ないのだ、、、。
和菓子専門店ならあるはずだが、ずっと長いこと続いていた大きな店が一週間ほど前に閉店したばかりだ。
(ここのところ、長く続いた店舗も含め、閉店ラッシュである。わたしも日頃の買い物はほとんどアマゾンだし)。
昨年はちょっと遠出した先の大きなデパ地下で前日に買ったと思う(たまたまである)。
菊の花と菊のお菓子。

仕方ないので、菊の花を3種類ばかり買って花瓶に挿した。
後はお酒と三色串団子を買って来た。
大人はお酒に菊を浮かせて、娘は麦茶に菊を浮かせることにした。
栗ご飯を夕食に焚くことにしたので、それで慎ましく行うことにした。


夜は菊を浮かべたお風呂に、これから入る。
まだ夕方だが。
一番は次女から、、、。
今日はゆっくりしたい。

chouyou002.jpg


何とトラブルの元は、バッテリーであった、、、

computer.jpg

花火が煩い」でお伝えしたノートの故障について、その後日談を、、、。

まず悲惨なことに、ブログ書いている途中で、頻繁に落ち始めた。
落ちるとき、バッテリーの残量がありませんというアラートと共に落ちる。
ACアダプターから電源供給しているにも拘らず。
通常電源ケーブルは挿しっぱなしで使っている。
常時、スリープ状態から立ち上げている。
(うちのパソコンはほとんど全てその状態。ディスクトップは止めているのもあるが)。

バッテリー残量を調べると0だったり100だったり表示される。
(表示が不安定)
電源ケーブルを外しても、バッテリーのランプが赤く点灯していた。不気味だ。普通ここは抜くと光らない。
そして、バッテリーだけでは全く起動もしない。
ケーブル挿してまた起動を試みると、起動して通常のディスクトップ画面が現れたとたん落ちるようになってしまう。

ともかく電源トラブルであることは明白であった為、マザーボードの交換となるのかな、、、と修理費も心配になって来た。
やれることだけ、やっておこうという事で、まずは、放電して暫く置いてからバッテリーを装着し直してみた。
このショック療法で治る事もあったりする。
しかし変わらない。やはり充電も始まっていない模様。


ちなみに、HDDも専用ツールで細かく調べたが、そちらは正常である。
(ここでデータの書き込みエラーのログとか見つかった日には、もう全面メンテである。マザー・HDD交換やむなし、データは特別料金で吸い出しとなる可能性もある)。
ソフトで悪さをして居るものもない。割と最近、初期化をしてやっとのことで(各設定、ユーテュリティを)現状に戻したところだ。
かなり初期から使えなくなっている光学ドライブもどうやらハード的エラーつまり初期不良であったことが確認できた。
不幸中の幸いとまでは言う気はないが、切り分けられてスッキリはした。
ずっと外付けドライブで運用できているのでもうよいこととする(保証期間内に面倒で動かなかったのだから仕方ない)。


バッテリーと電源部分は、しっかり絡んでおり、AC電源ケーブルで使用していてもバッテリーは常に関与している。
ディスクトップをよく使っていたわたしは、電源をACアダプターで取っているから、バッテリーはそのモードでは関係ないと思っていた。
このバッテリーと電源の絡みをはっきり認識。

理由はともかく、この症状はバッテリーへの充電が出来ていないことに始まっているようなのだ。
その関連で落ちていたらしい。
バッテリー不良と診断すれば、、、。
単にバッテリーを外してACアダプターのみで運用出来るかを診ればよい。
そして、全く問題なく使えた。バッテリーを外しただけで何の問題もなく立ち上がり小気味よく使える。
今も使えている(これを書いているノートは別のものだが)。

だがそれではディスクトップである。
それなら机をほとんど占有しないパネルだけの省スペース・ディスクトップの方がまだマシである。
何の為にノートを購入したのか?
では、バッテリーだけをメーカーから取り寄せればよいか?
そこなのだが、、、まだ注文すれば新品はしっかり手に入る。

専用の機器でテストしたわけではない。
単独にバッテリーの不良で問題が起きていたのか、、、
(勿論、3年もすればバッテリーの劣化は起きる。それだけの理由で取り替える場合もあろう)。
もしマザーの電源の部分の故障でバッテリーへの充電(通電)不良が起きていたなら、新しいバッテリーを挿してもこれまでと同じ症状が再現されてしまうだろう。それこそマザーボード交換の対応が必至となる。
マザーとバッテリー交換及び工賃考えると質の良い中古を買った方が手っ取り早い。
いや、ノートは他にも娘たちが怖い噺のビデオを観るために使っているものから一つ貰えばよいだけか。

その場合も考慮すると、結局バッテリー外したまんまでミニディスクトップパソコンとして使ってゆくか、という地点に落ち着くのだった(爆。
動き自体は実に快適であるし。
うっかり電源ケーブルが外れたというようなことだけ注意すれば、運用に差し支えない。

要するにめんどくさいのだ(ネジ外しと割れそうなプラスチックカバー外しが特に)。昔はこういうのマメにやっていたのだが、ノートを主体に使い出してからというものパソコンがブラックボックス化してきた。
なんせ、CPUや電源やメモリー、HDDの増設・交換など日常茶飯事でやっていたことだが、ノートはメモリの増設すらだんだん面倒な仕様になって来ている。バッテリーを交換するにも妙な手間が掛かる様になっている。どうしてか。

バッテリー無しのノートで、N-1志向で行くことに。


取り敢えず以上。簡単に、ご報告まで。
今日は、「ベッドタイム・ストーリー」でいこうかと思ったが余りに大味なので別のを(笑。








散歩

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最近、うちの周りを散歩をしている。
勿論、時間帯はトワイライト・ゾーンにセットする。
これが微妙で、何時何分ではない。
常に前日より数分早かったり遅かったり、、、になる。

今日は風が激しいので愉しみにしていた。
外に出て暫く歩くうちに霧雨がサーっと降って来た。
上空に月を探すが流石に出ていない。
これはまずいなと思い家に踵を返す。
が、それも束の間小降りになったので、取り敢えず文房具屋で付箋を買っておくことにした。
その途中でふいに激しい大雨に見舞われる。

一瞬にして全身ぐしょぐしょである。
面白い。
典型的な台風接近間際の天候だ。
雨宿りするところもなくそのまま小走りに走り店に駆けこむ。
これがつげ義春描くような店なら素敵なのだが、普通の殺伐とした店の光景だ。
付箋ひとつだけ買って足早に帰る。

わたしが一番たくさん使う物は恐らく付箋である。
それからBlu-rayとDVDメディア、、、くらいか。
昔はオーディオテープ、ビデオテープであった。
いやその頃は、ノートとクロッキー帳だったか。
時折、付箋を夕刻に買いに走る。


だが、散歩では基本的に買い物などしないことにしている。
散歩は、空っぽでいたいのだ。
何の目的もなく。
何も考えず、何も思わない。
歩いてることも気にならないくらいの速度で歩く。
(これがわたしの場合、割と速い)。
これに限る。

住宅街にあっては、ほとんど人のいない時刻に歩いているが、犬の散歩の人には出逢う。
時刻とコースがほぼ同じであると同じ人と犬に何処かの地点で逢うものだ。
今日はここですか、、、
すれ違う際に互いにほんの少し気にし合う。

しかしそれはいつしか途切れる。

こんな関係が一番ここち良い。

だれとの邂逅もこんな風なものである。



花火が煩い

natsu009.jpg


昨夜、メインノートが壊れる。
電源部分の故障のようだ。
スーッと落っこちて、98%書いたブログ記事が消えた。
通常は60%くらい書いたところでエディターにコピーするのだが昨日は何故かしなかった。
一度落ちても、再起動すると、データの復元を聞いてきて大概続けて入力できるのだが昨日のパタンでは出来なかった。
セカンドノートから23時にアップする予定も叶わず、24時チョイと前にそれまで書いたものとは全然異なる文をアップはした。同じ文は書けない。

だが、何かの遺り滓的なイメージが強く、一旦削除して最初に書いたものに近づけてアップし直した。
(これが最善のはずはないが)。
気持ちの問題かもしれないが、二度目のものは、形は違えど最初に書いたモノを整理して書いた感じに落ち着いていた。それが妙に気に喰わない。
いきなり浮かんできたものには、それがどんなものであってもそれなりのアウラがあるものだが、それが全然ないものになってしまうととても虚しい。
やはり一番搾りが美味しいのだ。

結局、自分が最初に書いたものに似たものにしてアップした。
こちらの方が、整理報告文よりはまだ多少はマシであった。
恐らく一定期間、読んでくださってる方々には分かってしまうに違いない。
「か」の抜けたビールみたいになっている。(この言い回し通じないヒトもいる。ローカルなのか)。

夜中にパソコン関係でゴタゴタするのはキツイ。
以前はそればっかりしていたものだが。
自分でやる根気がなくなっている。
タワーのデカい類のものならやる気も自然に起きるが、ノートは気が進まない。
メーカー修理に出そう。梱包がメンドクサイが,そのうち、、、。


どこで上がっているのか分からないが、先ほどからずっと花火の音がしている。
窓から覗いても分からず、テラスからでも見えない。
庭に出てみたが、テラスから見えないものが見えるはずもなかった。
星は静かなのだが、花火は音ばかりが煩い。
ある意味、人を呼ぶためのものだ。

以前、TVで星(恒星)の音を流していた。
通常では聞こえない音だ。
楽器と同じく反響音だ。凄いスケールの。
名状し難い音だが不思議に記憶に残る。
何でも音を出していることに気付く。


音だけ聞いて想像するというのは、楽しいものだが花火にはそんな気にはなれない。
、、、出て来るパタンが知れている。寧ろ静かに花火そのものだけひっそりと見たい。
ペアになってる音はきっとお祭りを連想させるのか。
時折、心地よい音に聴こえたりもするが。

星はイメージすらできない。
ケプラー望遠鏡の捉えた恒星の音であったが、どこか昔のSF映画で使われていたUFOの効果音にも似ていた。しかしそれでいてチープさはなく、強い存在感ある音であった。

星の音を捉えるような感覚が稀にある。
自分の作ったモノに自然に接続できると、嬉しくなる。


昨夜は遅くまで起きていて夜食も食べ過ぎた。
これでは感覚も鈍るし太る。
今日は何もせず早く寝よう。



NASAの衛星が捉えた地球の音は、もうそれ自体が飛び切りの音楽であった。
クラウトロックも近い音を出していたが、これは「本物」~アウラである。






続きを読む

トトロの雨

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昨日、台風の中、長女とドライブをした。
ワイパーをうんと速くしても前の見える時間は僅か。
風の唸りとシャワーの細かく鋭い連続音。
この水のお陰か、車内の空間密度が昇まる。
濃密になって来る。

桜並木の中央通りに差し掛かると、雨のシャワーとは全く別の水の塊の落ちる低音が不規則に天井に鳴り響く。
ちょっとユーモラスな太鼓の音だ。
後ろの席で、彼女が「トトロ、トトロ」と歓ぶ。

確かにそうだ。
トトロだ。

ドン!と鳴るとキャハっと笑う。
また、、、ドン!と鳴るとこちらも一緒に笑ってしまう。
ドドン!(笑。
ドドドン!(爆。


トトロサウンドとシャワーで音も視界も密閉される感覚が嬉しい。
この状態がもっと進めば、走るアイソレーション・タンクとなるか?
アルタード・ステイツへとコズミック・ドライブ!(笑。

豪雨の日はスピードがより際立つ。
水しぶきを豪快にあげて走る。
気持ち良い。
水の四重奏だ。
離脱する。

特別な浮遊感。


離脱。



さあ、どこに再接続するか、、、


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夏場の冬眠

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外に暫く水撒きに出ただけで滝のように汗が流れて着替える。
ここのところ少し用事で外出するたびに汗だくとなりシャワーを浴びて着替える。
そんなことを日に4回くらい繰り返す。

今日は日中は一歩も外に出ず、ここ2週間利かせっぱなしのクーラーの下でひんやりしながらずっと寝ていた。
時折、眠り半分目覚め、またウトウトしつつ、、、。
チョット寒い感じであったが、気にせず寝ていた。

何もしない快感である。

とは言え、西部劇「荒野の用心棒」と「ハンガーゲーム2」を観てしまった(笑。
(近いうちに感想でも書きたいが、黒沢の「用心棒」と「ハンガーゲーム3,4」を観てからにしたい)。

全く何もしないというのは難しい。
おっとそれから、トイレに起きた後で「乃木坂工事中」を観た。これが一番面白かった。

やはりトップアイドルの女子たちの溌溂としたクリエイティブなパワーは小気味好い。
鬱屈する暑苦しい外界~日常とは異次元だ。
ひと頃、「お笑い」も観ていたが、それ以上の清涼感と解放感がある。

しかも充分笑えるのだ。
気持ちよく笑わせてくれるヒトがわたしにとっていま最も必要な人である。


(こんなに暑い中、娘たちは喧嘩ばかりしているし、、、)。



夜風

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反復運動の切断
そして意味から解かれること
疾走すること
この快感のうちにいること

長女と手をつないで夜の散策に出る
昼の熱風は死に心地よい風が吹き外という過酷さは微塵もない
公園を横切り猫が逃げ出す
猫の走る先に雲に包まれた月が灯る

自分の歴史を描くこと
「心の経路を有りの儘に現はすこと」(夏目漱石)
そしてつまり創作すること
清められるために

不透明な事象~身体それ自体をそれとして描くこと
不可能な物語を
出来る限り克明に
有りの儘に

複雑極まりない塊にもそれなりのパタンも見つかる
メスをいれる
対象化して
証明を作る

沈黙を
暗号を
徴を
言いようのないフィギュアで


清められ
安らかに
新たに
加速するために

自分を心地よく捨てるために
ひとことも喋ることなく長女と帰った



リアルであるとは

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映画を観ても造形に関わっても肝心なことであるが。
リアルとはどんな状態であるか。

少なくともリアルと所謂現実とは異なるものととらえている。
端的に謂って、現実とは距離をもって意味付けすることで全てを曖昧にしてしまう形式である。
解釈が不可避的に入って来る世界。

それは籠って見る世界に他ならない。
内面化とは意味による混濁に過ぎない。

夢には自意識の入る余地はない。
夢という場に対象化する距離はない。
了解のみの世界が脈絡なく展開する。

その余りの鮮明さ、稠密さに圧倒される。
遠近法~統語法がない。
リアルという感覚はそれかも知れない。

時折、映画にそれを見る。
小説にそれを見る。
夢のようにリアルな現実描写という、、、。


われわれは(わたしは)意味の剥ぎ取られた現実に触れたいのだ。
音楽はそれにとても近いピュアな力を形式上保持していると思われる。

しかしやはりいつもは言葉~意味に絡めとられている。
音楽が本来の力~流れと輝きを見せることは稀である。


距離があるところには必ず(時間の)遅延がある。
そこに記憶による構成~物語化が不可避的に起こる。


恐らくその解体・編集が鍵となってくるか、、、。



まとまりのないメモである。


現実の希薄さから謂えること

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閉塞的で薄い現実が日常的であると、ひとは(わたしは、と謂うべきか)内面化する。
すると以前は、そうシュルレアリスムに興味を持った学生の頃など、「夢」、「狂気」、「未開」に憧れてしまう時期があった。
単なるナイーブなロマンに過ぎないのだが。

狂気や未開に縋るにも接点が見いだせないため取り敢えず、夢に頼ってみた。
(シュルレアリスムにはこの手法が多く使われている)。
夢日記をつけ出すと妙に夢を起きた後も記憶しているようになる。だがすぐ分かることだが、それを思い返しながら書いてゆくと、そこには曖昧なディテールなど一切ない。
荒唐無稽なオドロオドロしい幻想などもっての外。余りに整然とした精緻な世界しかないのだ。
まさにカフカの小説そのものであった。
残酷な程、似ていた。

夢とは、軟弱なロマンなど決然として受け付けない稠密なディテールのみの世界である。
そこには付け入る隙もない。
自由がないからだ。
これが決定的である。
だからカフカの小説が絶対的価値を持つのだ。

恐らく、狂気や未開も同様に表現などで迫れる世界ではない。
距離を持って憧れても詰まらぬロマン主義の垂れ流しにしかならない(その手のものは少なくない)。
詩人のアントナン・アルトー(劇作家、思想家でもある)や薬を使ってその状態を探ったアンリ・ミショー、何人かの神秘主義者(アレイスター・クローリー等)、人類学者カルロス・カスタネダが極めて実験的にその世界に迫ってはいるが、何れにせよ対象化して理知的にそれを捉えられるはずはない。
ギリギリ高度な詩的世界に定着するか幻覚時のやはり詩的な記述等になる。
(これらは大変魅力的で啓発的なものであるが、それを読んでこちらが追体験出来るような代物ではない)。

未開~叉は初期についても、モネの強烈な希いが印象に残る。
睡蓮の連作を始めて「ずっと盲目でいて今初めて目が見えたらどれだけよいか」(正確ではないが、こんなことを漏らしていたという)。
以前のパラダイムには絶対に(原理的に)戻れない。また身体的~生理的獲得においても同様に。
知ってしまってから、知らなかった状態を体験することは不可能だ。
言語を獲得してからそれを忘れることは出来ない。
ことばは身体化して保存されるものである。
「盟神探湯」(くがたち)なども恐らくその時代であれば、有効であったのではないか。
だが今やったら皆、どうあがいても大火傷に終わるだけである。
大火傷を負ってしまう人間は最早、未開を知ることは出来ない。
(もし何かの間違いで未開を知ってしまったなら、すでにそれをわれわれに知らせる術はない状況であることを意味する)。


何をグダグダ言っているのか、、、。
要するに、内面化して良いことは全くない、という事である。
いや、内面化してもカフカのような筆力で徹底したリアリズムにより現実界を遥かに凌ぐ現実界を描き出せれば、それは救われるはずだが。そう、きっと彼はその行為によって救われていたのだと思われる。
彼は出来上がった小説をマックス・ブロートらの前で大笑いしながら読んで聴かせたという。
内容はもうあっけらかんとした絶望しかない精緻な世界ではあるが。
ただし、強力なガジェットなしで内面化の中に沈み込んでしまうと、もうアリ地獄以外に言いようのない状況となる。

結局人は健康が一番、と言う訳ではないが(笑、現実の中に確かな手応えのひとつもなくなると極めて危なくなる。
それを創作の根拠にしようなどと想うと、詰まらぬイメージの垂れ流しにもなりかねない。
確かな他者が現実に必要である。
カルロス・カスタネダにおける(ヤキ・インディアンの)ドンファンのような導き手なら言うことないが、、、。




終わりのあるドラマ

web.png
やはりWebから暫く出るか。

WWWとは謂っても、自分の世界なのだ。
Googleの取り仕切る自分の世界に他ならない。
Amazonがお薦めする自分の世界の範疇に過ぎない。
endlessに自意識を強化する世界がどこまでも広がる。
基本、全てが自分の世界の延長でしかないことからくる。
他者は何処にもいない。いないから他者なのか。

何と謂うか、本であれば、、、最近カズオイシグロの小説を読んで思ったが、、、一冊読めばずっしりしたものが得られて一区切りがつく。
その後、暫くは心の中で反芻して余韻を味わう日々が続く。
充分に「終了」後の成就感に浸れる。

その作家の他の本に興味が沸けば、また数日間濃密な(贅沢な)時間を過ごせもしよう。
とは言え、作家の本全て読まなければならないという強迫観念に囚われることはない。
一冊、重い本を読み終えれば、充分満足して安らかな心境が得られるものだ。

ウェブ上では、どうやらそうはいかない。
一度、観始めると、、、情報を収集し始めると、、、
いつまでも続く情報の更新に付き合うことに(多くの場合)なり兼ねない。
自分の方も情報を途切れさせることは不安になって来る。

それは性質上いや構造上、もとより終了に向けた物語の外にあるからだ。
物語~ドラマでさえもない。
そして、、、
きりのない記号論的フェティシズムの疼く欲望世界に惹き込まれてしまう(場合もある)。
画像、音楽などその要素~誘惑は強い。

基本的に、毎日情報更新~というよりも付加してゆくことから、日毎に追ってゆかなければならない。
そして書き手~作者も、それはもう強迫的に更新してゆく。
その際限の無さに眩暈を覚える。
いや鈍痛として身体を重く拘束し始める。
わたしは昔から収集癖もあることから尚更困る(笑。

このエンドレスに広がる閉じた鏡面世界。


恐らくウェブ上では基本的に全てがこの構造となっている。
パッケージ概念がない。
ただ連打されてゆく。
そう”ささやき”が流行り出して更に加速し構造が強固になってきている。

勿論わたしもそのなかに混ざって動いてしまっている。
つまり日常を縛られ縛るシステムの内にいる。
解放されたいが為、やり始めたことなのに、その形式が逆の作用を及ぼしている。

やはり実際の本屋に足を運ぶことは、「違う本」に偶然出合う為なのだ。
そして違うドラマに突然出逢い自分自身を更新する為なのだ。


GoogleやAmazonはわたしを解体・更新してくれる為の「おすすめ」はしない。
統計的に「その線」を出してくれるだけだ。
そして何より、継続する一連の流れの(休止~中断ではなく)終了がない。
ドラマチックなエンディングがない。
乗り換えが無い。
だからいつまでも似たような現実が永遠に続く。
エンディングと他者のない世界は自意識にやがて圧し潰されるしかない。






夜気に浸る

yaki.jpg

夜の冷気にはホッとする。

”六気を餐いて沆瀣を飲む”という

沆瀣(こうがい)は「露の気」でもあり仙人の食べ物でもある、、、。

意識に清澄な大気が流れ込む

そう、濁り白んだ器を漆黒の冷気が一気に清めてしまう。


すると何やら気配がする

静まり返った闇の幾層もの微細な空間から、それは小さなもの音たちが

わたしを押し戻そうとしていた。



公園での読書

sagamihara p


最近ハマっているのが、これである。
わたしは図書館での読書が好きではない。
雰囲気が暗く閉塞的で空気も悪そうな気がするのだ。
ひっそりと本を読みたいのだが、人が何分多すぎる。

図書室だと声が出せない。
そのくせ咳が(強迫的に)やたらとあちこちでしたりする。
全く自分の中に入っているならよいが、妙に相互監視している節がある。
何かピリピリしているのだ。

公園であると、噴水を見ながらベンチでのんびり独りきりで本が読める。
鳩や烏も風の仲間で気にならない。
青空のもとで解放感に浸りながら時々欠伸をして。
不意に、持ってきたチキンを食べたりする。
(そう急に食べたくなるのだ)。
喉が渇けばDr.Pepperと決めている(笑。

自然に食べたくなり、飲みたくなる。
(あの時代のギリシャの人ならパンとワインか。対談いや対話もあんな風にしてみたい)
わたしは本を読むときかなり食欲が出る。
であるから、図書館は基本的に、無理なのだ。
誰かの家の書斎で呑むなんていうのもいいな、と今思う。


食べたいときに食べ、、、
読みたいときに読み、、、
観たいときに観る、、、
少しの間、映画は休みたい。

寝たいときに寝る。
散歩したいときにして
買い物を思いついたら買いに行く
泳ぎたいときに泳ぐ。
(大概娘と一緒だが)


取り敢えず、まずは公園でぼ~っとしてから決める。

最近、車に読みたい本と水着は入れて走っている。

ただ、本を入れるものを手提げバッグからナップザックに変更した。
手に色々持っていると最近、一つ落っことしたりする。
この前は新品のこれから読む本二冊の入ったバッグを落とし角が見事に潰れてしまった。
わたしは使用しているうちに自然に摩滅して行くのは寧ろ心地よく感じるのだが、事故で痛んだりするととても落ち込んでしまうのだ。とてもその辺が神経質なのである。

そうだ、今度は話もしてみたい、、、。
最近、とんと人に逢っていないのだ。
もうかなり長いことそうである。
(今気づいた)

独りでいるとどうも細かいことに気が行ってしまう。



yokoyama park





プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

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