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ジョン・ウェットンに捧ぐ 土曜日の本

John Wetton001

ジョン・ウェットンが2017年1月31日に亡くなった。
癌であった。
何とも言えない虚脱感に襲われ、それを記事に書こうなどという気持ちは微塵もなかった。
わたしにとってジョン・ウェットンは、キング・クリムゾンがもっともそれらしかった第2期を支える柱である。
彼の死によって、確実にひとつの時代がプッツリと終わった。

カール・パーマーはここのところ、連続して追悼の意を発表し続ける立場である、、、。
(このあまりに重い連続追悼を彼はどう捉えているのだろう、、、彼もさすがにキツかろう)。
キース・エマーソン、、、グレッグ・レイク、、、ジョン・ウェットン、、、考えてみると恐るべき才能の消滅だ。
(彼らは、まさに才能と技量のみで生きていたことを確認する。変な付加価値は必要としない)。
今日、何気なく、エイジアのファースト(1982年)を聴いて、楽観的でポップな気分に浸ったためか、少しだけジョンのことを書いてみたくなった。

わたしは、あまりクリムゾン以外の彼に興味はなく(ファンの風上にもおけないが)他の音源はあまり聴いていない。
だが、彼のインパクトがわたしにとって絶大であることは間違いない。
クリムゾン二期が余りに絶対なのだ。

かのロバート・フリップをして「彼はわたしのヒーローである」と言わしめた男である。
それにしてもどのような文脈でこれをフリップが言ったのか、さっぱり覚えてはいない。
何にしてもロバート・フリップに尊敬されるようなヒトはまず、そうはいまい。


クリムゾン以外でわたしが彼を聴いたものは、ないわけではない。
だが、やはり創造の水準が異なりすぎる。
有り得ない強度~微分的な演奏によって生成と解体の間を行き来するクリムゾンの世界は驚異であり別格なのである。
他のアーティストのものは、いくら緻密に複雑に構成されていたとしても程よい計算のレベルに想える。

とは言え、彼の参加した優れたユニットを強いてあげれば、UKか。
確かに、ありえない程の布陣であった。

ジョン・ウェットン 、、、vocal/bass guitar/moog pedal bass
ビル・ブラッフォード、、、 drums/percussion
エディ・ジョブソン、、、 organ/CP-80/CS-80/minimoog/electric violin/backing vocal
アラン・ホールズワース、、、 guitar/backing vocal

スーパーグループであり、この強烈な個性から持つはずはないと思った。
勿論、出た瞬間に購入した(笑。
直ぐに空中分解すると思っていたし、、、。

最初から分かっていたとは言え、予想を上回る凄まじい演奏であるが、尺の長くてテンションのやたらと高い曲にリスナーはついて行けなくなる。そのため、セールスは伸びなかった。それがわたしにも予感できた。
フリーキーなハイテクジャズロックより更に凄いものであったが、時代は違うものを求めていた。
斯く言うわたしも、その芸術性の高い造り込まれたサウンドに引込まれはしたが、彼らメンバーの名前で聴いていたふしはある。
極めて高い水準で作られたコンテンポラリーミュージックであったが、この方向性は直ぐに途絶える。


それからジョン・ウェットンが音楽ファンの誰にも広く認知された商業的にも大成功を果たしたエイジア。
売れ線は一切聞かないつもりのわたしも、さすがにこのグループのファーストは聴いた。

ジェフ・ダウンズ 、、、 Keyboard (元バグルス、イエス)
ジョン・ウェットン 、、、 vocal/bass guitar/moog pedal bass (元キング・クリムゾン、UK)
スティーヴ・ハウ 、、、 guitar (元イエス)
カール・パーマー 、、、 drums/percussion (元ELP)

ジェフ・ダウンズの役割(主導権)が大きい印象があり、エイジアはやたらとポップであった。
正直、戸惑った。バグルスを重厚にスケールアップさせたようなサウンドに思えた。
ジョン・ウェットンのボーカルは美しく、ベースも相変わらずアグレッシブであり、作曲にも携わっているのだが、、、
UKにまだ残っていた作家性や芸術家気質は抑えられているようであった。
彼の新しいポップで爽やかで明るい局面を覗いた気分であった。
とてもある意味キャッチーで短いポップチューンでアルバムは構成されていた。
どれもシングルカットでヒットを狙えそうなものばかり。
確実に、アルバム一面で一曲(ともかく長く複雑な曲構造)というプログレ時代からの脱却であり、それを求めるヒトがこのサウンドを待っていたのだ。時代に迎え入れられたに違いない。

しかしどこかわたしには寂しい感触が残った。
それまでの深淵から響いてくる知的な翳りに染まったジョン・ウェットン節は影を潜めてしまう。
例えば、在り来りな曲を書くことでみんなから辟易されていたユーライア・ヒープに短期間在籍した時も、彼の書いた曲だけ飛び抜けて重厚で美しく変幻するメロディーをもち、際立っていた。当然アルバム全体のリズムが格段にレベルアップしていることも素人にも明白であった。ジョン・ウェットンが少しでも絡んだユニットは確実にそれまでにない荘厳な響きを纏ってきた。
彼のベース、魅惑的なボーカルも他にないものだが、わたしは彼のもっとも特筆すべき才能は作曲にあると思う。

しかし、彼はこの「エイジア」の方向性がとても気に入っていたようだ。
あくまでもエイジアの活動を主体にして、他にも色々なプロジェクトに参加はしていた。
ジェフ・ダウンズとの曲作り、も含めこのふたりがグループの中心であることは、明白である。

ここでは、ソロでいくらでも目立てるヒトが、皆抑制を効かせて、短くタイトなポップチューンをまとめることに専心している。
とは言え元々ポップ路線のバンドでは、こんなアレンジとダイナミックな演奏など、まず無理であることが分かる。
超絶技巧のミュージシャンが、ソロプレイを封印してポップな曲作りに専念した結果のカラフル(複雑)で前向き(そうまさにそれだ)なサウンドを提供している、と言える。
しかしこのグループもぶつかり合いは激しく、メンバーも安定せず、ついに主要メンバーのジョン・ウェットンも永久に抜けてしまった。
それでも元イエスのメンバーの補充で(わたしはその人を知らない)今後もグループは続行するそうである。
しかし、ジェフ・ダウンズの受けた喪失感はやはりとても大きいようだ。

「彼の作曲はこの世のものとは思えなかったし、彼のメロディとハーモニーも現実のものと思えなかった。彼は文字通り『特別な人』だったんだよ。」


これまで二期のクリムゾン(太陽と戦慄、暗黒の世界、レッド)を定期的に聴いていたのだが、、、。
そうしないと、感覚が麻痺してしまう。
このギリギリの神秘的ですらある創造のパフォーマンスの一角が欠けてしまった事実~空虚は思いの他大きい。
暫くは聴けそうもない。
ボーカルである分、尚更響く。

一期のクリムゾンのボーカルは、グレッグ・レイクである。
エピタフが更に現実味を帯びている今日、、、。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


でも、「土曜日の本」は、聴きたくなった、、、。
この曲と「堕天使」。
改めて、、、。

John Wetton002

グレッグ・レイク~キース・エマーソン

Greg LakeGreg Lake Keith EmersonKeith Emerson

年の瀬に、何とも寂しいものである。
ELPのELである。エマーソンは3月に銃で自殺、レイクは癌により亡くなったことが12/8に発表された。
エマーソンは所謂、鬱であった。これについてはどうにも書けなかった。他人事ではないし、、、それが今度はグレッグ・レイクである。
もうPだけである。カールはまだかなり元気でいるらしい。
(ドラマーはいつも運動になっている感じだし、新陳代謝も良さそうな気がする)。
晩年の、クリムゾンキングのジャケット絵みたいに膨れ上がってしまったグレッグ・レイクを見ると何とも忍びなかった。
いくらなんでも膨らみ過ぎで大丈夫かと思っていたが、やはり無理があったか。こちらも他人事とは言えないが。
どうしても中年過ぎるとヒトは太ってしまう。(勿論、細くなるスティーブ・ハウみたいな例もあるが、、、彼はそのせいか、勢力的に自分の息子2人と組んでいまだにツアーをやってる。良い人生だ)。

”Brain Salad Surgery”『恐怖の頭脳改革』が特に好きなのだが、彼らのレーベル「マンティコア」初のアルバムである。
1973年。トータルアルバムとしての完成度の高さは、彼らの他の作品と比べても上である。しかも ”Karn Evil 9”『悪の教典#9』は圧倒的に凝縮されたエネルギー体である。グレッグ・レイクとキース・エマーソンを知りたい人には、まずこれを聴いてもらいたい。
そして、1971のセカンドアルバム”Tarkus”か。これはほとんどキースの組曲である。コンセプトもキースのもので、後の彼のコンポーザーとしての原型が窺える。
(わたしのフルートの先生も発表会で、”Karn Evil 9”のエレクトーン演奏をした。#が9つも付いているんですよ、と説明して始めたが凄い演奏だった。これを演奏すると誰でもエマーソンみたいに見えたことを、いまでもよく覚えている、、、何年前のことだ?)
そしてグレッグ・レイクの作品 ”Still...You Turn Me On”は、”Trilogy”、”From the Beginning”に並びわたしの最も好きなELPの耽美的てアコースティカルな曲の代表だ。ここでのグレッグのヴォーカルとギターにはただ只管酔いしれる。


この頃は、クリムゾン、イエス、ピンク・フロイド、ジェネシス、ジェントル・ジャイアント、ルネサンス、ヴァンダーグラーフ・ジェネレーター、、、などがとても元気で活きの良い頃である。
勿論、プロコルハルムも全盛期を迎えていた。ジェスロタルも忘れてはいけない、、、。

それらとは、別の流れで、クラフトワーク、カン、、、も独自の道を歩んでいる、、、。

群雄割拠である。
そんななか、、、トリオとしては、EGGと並ぶテクニックをもち、EGGがほぼ現代音楽なのに対し彼らはどちらかといえば、クラシック、ジャズ要素が強かった。無論、現代音楽へのアプローチも怠らず、”Brain Salad Surgery”の「トッカータ」はアルベルト・ヒナステラ作曲の「ピアノ協奏曲第1番第4楽章」を編曲したもの。サードアルバム”Trilogy”(1972)の”Hoedown”は、コープランドの曲を彼ら流に暴力的に編曲したもので、作曲者から絶賛を受けている。この曲に限らず演奏はどれもそのスタイル共々圧巻である。
また、EGGが基本的にInstrumental中心で、たまに入るヴォーカルは何とも無機的なのだが、ELPはグレッグ・レイクもキース・エマーソンもどちらも上手い!グレッグのヴォーカルは本当に叙情的で、大英帝国の深い霧を感じさせる知的で気品あるものだ。
彼のヴォーカルが聴ける曲の記念碑的なものにキング・クリムゾンのメンバーであった当時の、 ”Epitaph”がある。
”In The Court Of The Crimson King”に収録されている。(SF映画における”Blade Runner”にあたるアルバムといえよう)。
この曲に彼のヴォーカルの初期の魅力が湛えられている。いよいよ聴きかえしてみたい世界にもなってきた、、、。
その後(クリムゾンのSecond を経て)ELPを結成する。
ELPのハードなチューンだと、キースとグレッグの正直どちらが歌っているのか分からなかった。そう、とてもヴォーカルスタイルが似ているのだ。”Brain Salad Surgery”はキースがヴォーカルだとクレジットを見てはじめて知った。似ている。

グレッグ・レイクのベースはピアノのような澄んだ美しさで際立っていた。(ピアノのトーンに近いベース音なのだ。逆にベース音をシンセで出すプレイヤーは山ほどいる。単にベースギターの替りで出すのでなくても)。アコースティック・ギターの音色も煌びやかで美しかった。
キース・エマーソンのキーボードはまさに天才のテクニックであるし、そのステージアクションも彼独自のパフォーマンスとして熟成していた。
わたしのかなり昔の職場の同僚に、キース・エマーソンフリークの人がいた。
ご自身は幼少時代からパイプオルガンを本格的に習って演奏しており、専門は「数学」と「ババール」であった。
彼女の娘さんもお母さんにならっていつもキースがどうの~と言っていた。あの複数のキーボードの早弾きにゾッコンだったようだが、彼の作曲するクラシカルで稠密な構成のハードな曲にも惹かれていたようだ。
(わたしはこのお宅のiMacのメンテナンスと、ババールのHP製作のため写真取材に度々伺っていた)。
娘さんは年齢的に言って、キース・エマーソンを普通に知る世代ではないのだが、母の影響は大きく、彼女のアイドルだった。
、、、考えるともう相当昔の話だ、、、いまM家の人々はどうしているだろう?
恐らくいまでも趣味のババールの買い付けに母娘の軽いフットワークでヨーロッパに飛んでいる事だろうと思う。
「人間は趣味で生きている」、、、わたしの親友のS君の口癖(信念)だ。


キースは71歳で右の指が動きづらくなり、基本的に8本の指で演奏していたという。
クラシックピアニストもそれくらいの年齢になると腕が鈍るヒトは少なくない。
まして、非常に激しくアクロバティックな演奏を見せる人だ。しかも長時間に渡り何日も続け、、、。
過去に輝かしい成果を山ほど残しているのだから、ただ引退すればよかったのでは、、、。
グレッグ・レイクは長い闘病であったという。
あの体型も病のせいであったのか、、、。


ふたりとも、それに替わる人がいない、所謂天才であった。

ご冥福をお祈りしたい。



この世代で、未だに元気、元気(おかあさんといっしょではないが)なのは、ひとり飛び抜けて元気なミックジャガー筆頭にせいぜい数十名というところではないか?残念だが、今後も、ポツポツと寂しいニュースは入ってくるのだろう、、、。






マシュー・フィッシャーに捧ぐ

Matthew Fisher

ナイーブでセンチメンタルで夢見がち、、、彼は少年時代あの「ネモ船長」に憧れていたらしい。
やはりマシューも海賊の一員であることは確かだ。
トワイライトゾーンに浸りメランコリックな気分に酔ってみたくなったら、、、
マシュー・フィッシャーをターンテーブルに乗せたい。
(CDではない、、、と謂いたいところだが、パソコンに取り込んだ音でもなんでも、、、)。
確かにヒットする曲はない。
そういう曲ではない。
太陽と青空ではない。ギラギラしたアーティフィシャルな照明も似合わない。
月明りの下にチェアを出して聴きたい。(特に5枚目)。

マシュー・フィッシャーのアルバムは、調べた範囲では現在、「旅の終わり」(ジャニーズエンド)も品切れ絶版状態のよう。
2枚目~4枚目も全く店舗にもWeb上にも見ない。流通網からは姿を消した。
1枚目の”ジャニーズエンド”と2枚目の”アイルビーぜア”を一種に詰め込んだCDアルバムは見かけたことはある。ディスクユニオンで。しかし、もう在庫があるかどうか。事実上絶版状態ではないかと思われる。
同じく、3枚目”マシュー・フィッシャー”と4枚目”ストレンジ・デイズ”をひとつにしたCDは、まだ買えるところはあるようだ。新品は期待出来ないが。
また、5枚目の異色アルバムはわたしもCDだけで持っている。
このアルバムは輸入盤を扱っているところなら在庫はあるのでは、、、。本来の?マシューとは異質感があるのだが。
彼のLP版は、今や我が家の宝である。
(こういう燻し銀系アーティストは買えるときに買っておかないと一生手に入らない危険性はある)。

やはりファーストが良い。ジャケットも趣深い。
ここでの極めつけは、Separationである。
マシューの音楽の魅力がこの1曲に凝縮されていると言っても過言ではない。
そしてHard to be Sureのフラジャイルなガラスのような余りに純粋な曲。
ここが、彼のヒットとかセールス度外視の部分がよく表れている。
気取りやケレン味が全くないのだが、プロのミュージシャンとして余りにそれがなさすぎ心配になる彼らしい曲。
最後のJourney's Endはもうプロコルハルムのマシューだ。彼のロマンが溢れ昂まり充満してゆく。
(ソロになってつくづく思ったのだが、彼はやはりビートルズのホワイトアルバム以降のジョージ・ハリソンみたいに、グループ内でアルバムの2,3曲際立つ傑作を作るポジションがとても合っているのではないだろうか)。

セカンドは、ナイーブで繊細な歌を切々と聴かせるアルバムである。
Not Her Faultは、そのなかでも一際切なくリリカルな名曲である。
恐らくこの曲は彼でないと作れないHard to be Sureの線を行く無防備過ぎる曲だ。
しかし、こころにひりつく類まれな名曲に違いない。
Do You Still Think about Meは取り分け淡々とした内省的な彼のボーカルが染み込む。
I'll Be Thereでドラマチックに幕を落とす。

サードは、よく出来た曲で埋められている。
だが、ここで彼のアルバム(曲)がセールスに結びつかないことも何となく理解する。
これまでもNot Her FaultやHard to be Sureなどはプロデュースやプレイヤーによっては、スマッシュヒットに持っていけるポテンシャルは充分に感じた曲なのだが、どうもこのアルバムも同様の原因で残念なものを感じ、インパクトが弱い。
Only a Gameなどヒットしてもおかしく無いポップチューンだ。
Why'd I Have to Fall in Love with Youはマシュー全曲中最もポップ性が高いかも。
そう、聴いてみるとどれも相当レベルの高い曲ばかりである。
ただ、演奏の質が、、、特にドラムに問題がある。
マシューのハモンドオルガンと彼のボーカル以外に、後は取るところがない。
問題が露呈したアルバムというか、漸くわたしも気づいた課題というところ、、、。

4作目は2曲を除いてC.T.White(元ゾンビーズのベーシスト)との共作。
共作によって新しい血による化学変化は得られたのでは、と期待する。
Something I Should Have Knownでいきなりそれを感じたが、美しくマシュー独自のリリカルさの極まったSomething I Should Have Knownで、これはと想う。
その後にはハイテンポのポップなナンバーが続く。アルバムの流れがこれまでより自覚的に工夫されていることが分かる。
マシュー節は健在なまま、少しばかりコンテンポラリーな位置に近づきブラッシュアップした気はする。
だが、何というか危なっかしいまでの瑞々しさは、いまひとつ影を潜める。
Desperate Measuresは、共作ではないが、これまでの殻を破ろうとかなりハードに無理をしている印象を受けた。
Can't Stop Loving You Nowも彼だけの曲だが、リリカルで素人臭い彼のバラッドではなく、やけに拵えたムーディーさなのだ。
高音の伸びる艶やかな綺麗なボーカルでオルガン(ここでは然程弾いていない)も良いのに、やはり微妙だ、、、。
コンポーズも決して悪いわけではない。
演奏の面からいっても、この人はプロコルハルムにいた方が曲の質自体が二段階は高まると凄く思う。
(プロコルハルムの演奏レベルは高い。特にこれまでのドラムは格別)。
ソロになると、その辺、不自由するんだろうか、、、。
Strange Days、、、新しいマシューの素敵な曲ではある。

5作目は、何と自宅で打ち込みレコーディング。最初聞いたときは、こんな曲想で~と示す為のデモテープ版かと思った。
それは、アルバムジャケットが余りの情けなさで(正直、何だこりゃのレベルで)、そこからくる先入観にもよるものであった。
しかも、のっけからこれまでのマシューから考えられないサウンドであったから、、、。
とは言え、聴いてみると実によくできたものなのだ。(頭からあのジャケットを振り祓って、、、)。
こういうマシューのサウンドもあるんだと、、、ちょっと唖然とした。きっとかなり思い切ったのだ。
暫く放置した後で改めて聴いて気づいた。(兎も角、ジャケットデザインが凄まじく悪かったせいだ)。
かつて、フォーカスとムーディーブルースがデモ作りの途中といった感じの曲を未発表曲集アルバムとかで出されてしまい、彼らの輝かしいキャリアに泥を塗ることになってしまったが、一瞬そんな類のものかと想像してしまったのだが、、、。
しかも、ハモンドオルガンかピアノ以外弾いてこなかった(公には)はずの彼が、ギターを弾きまくっているではないか。
勿論、専門外の楽器でも自宅で趣味で演奏するような事はいくらでもあろうが、アコースティックについては、かなり様になっている。エレキギターについても危なげはない。少なくともブライアン・イーノやピーター・ハミルより上手い。その点では安心して聴ける。
できれば、盟友ロビン・トロワーにエレキだけは任せるとかした方が、サウンドの奥行はずっと出たかも知れないが。
彼はブルースギターの天才であるが、どんな曲想にも合わせてくれるはずである。
まあそれを言ったら、マシューのソロアルバム全てに言えることだが、ドラムが酷い。5作目の打ち込みドラムの方がスッキリしていた。
プロコル・ハルムが何故あれほどの奇跡とも言える大傑作アルバムを出し続けて来れたかといえば、その大きな要因のひとつが、バリー・J・ウィルソンの卓越したドラミングによることは間違いない。
ドラムがダメだと曲が成り立たないことは、色々なアーティストのアルバムを通じてずっと感じてきた。
低予算で制作したためか、、、しかしマシューには重厚なリソースがある。それを使わない手があるか?
何故、ロック界一の天才ドラマー、バリー・J・ウィルソンに頼まないのか、と思ったことは確か。
惜しくも彼は1990年に交通事故で亡くなってしまったのだが、4枚目のアルバムまでは付き合って貰えたのでは、、、。
現に、ゲーリー・ブルッカーのソロアルバムでは、いつものテクニックを披露している。(彼の最期の仕事となった)。
(バリー・J・ウィルソン死後、またブルッカーとマシューはよく一緒に仕事をしている。ブルッカーのソロでも、作曲がブルッカー=フィッシャー=リードなのだ。おまけにプロデュースも担当している。彼らは1991年にグループ再結成もしている。”The Prodigal Stranger”はゲーリー・ブルッカー=マシュー・フィッシャー=ロビン・トロワーに詩人のキース・リードの最強メンバーである。バリー・J・ウィルソンがいないのが凄く寂しいが)。

Separation
Why'd I Have to Fall in Love with You
Do You Still Think about Me
Hard to be Sure
Only a Game
Not Her Fault
I'll Be There
Journey's End
Without You
Something I Should Have Known
Strange Days

更にこれに加え異質に聴こえた5枚目、、、。よく聴いてみると彼の最高傑作かも知れなかった。
打ち込みのプライベート風作品で、もう閉まった後の月の光で煌く遊園地みたいな曲集である。
Nutrocker、、、吹っ切れたマシューの存在を感じる。
Dance Band On The Titanicは、はっきり言って前4作のどの1曲目より惹きつけ、これからに期待を抱かせる名曲である。
それに続く2曲目タイトルのSalty Dog Returnsも素晴らしい。(何故最初に気付かなかったのか、、、それはこの頃流行っていたヒーリングミュージックにサウンド的に妙にダブってしまった為もある、が明らかに異なる)。Strange Conversation Continuesが異質に感じたアルバムの代表的な曲であるが、その電子音(テクノ)サウンドはジュール・ヴェルヌのSF小説に近い疑似(魔術的)科学のイメージに充ちている。あのノーチラス号のときめくメカニック。であれば、やはり原点回帰なのだ。まさにSalty Dog Returnsである。Linda's Tuneでその確信を得た。
最終曲Downliners Sect Manifestoはコミカルで硬質で、もの寂しい郷愁のうちに終わる。
これまでのロマンチックで厳かなフィナーレとは明らかに違う。
スケールを絞って、逆に遊星的な孤独と郷愁を描いている、、、。
おっと忘れるところだったが、ボーカルは一切ない。やはり新境地だ。


、、、いつ聴いてもとても孤独で寂しく、心地良い。とても心地よい。


コンテンポラリーな要素というよりメランコリックなロマンがしっとり息づいている。
車に乗って爽快に飛ばしながら聴くヒットチューンはないが、月夜の静かなひとときに植物と一緒に聴きたくなる、、、。

やはり、わたしはマシュー・フィッシャーが大好きだ。
改めて聴いてその意を深くした。
わたしは、マシュー・フィッシャーが大好きだ。

Nemo.jpg
オルガンを弾くネモ船長


水曜日のカンパネラ

Wednesday Campanella

”水曜日のカンパネラ”の中毒性。
これには参った。
つい最近、このユニットを知った。
(「日々ゆらり」muzi-q様運営ブログにて)
随分遅いか?
こんなに微妙な(バランス感覚の)音があったとは、、、。
ピコピコテクノでもあるが、妙にペシミックなコードが目立つ。
何というのか、、、ヒップホップでもあり、J-Popでもよいか。
韻を踏むナンセンスな言葉がまた、妙に艶かしい。

このアーティストはビデオで鑑賞するタイプだ。
音楽だけで聴くよりビデオで魅力を発散する。
”コムアイ”というヒトは、クレジットがボーカル(ラップ)という立場だけではなく「主演」となっている。
ミュージックビデオがデフォルトか。
実際、これは観るべきであり、断然、観た方が面白いはず。

まず、全編アニメの「桃太郎」が感覚にこびりつく面白さがある。
アクの強い絵も歌詞も絶妙。
(この画風はよく見る。名の知れたイラストレイターによるものだろう)。
しかしボーカルはフラットで透明。そして直向きで可愛らしい。
早速うちの娘たちに観せてみたが、こういう面白アニメに絡むリズム・サウンドにはすぐに、はまりこんでしまう。
唖然とした顔で魅入っている。
特に「キッビダーン、キビキビダーン、オニッターイジ、オニオニターイジ」のリフレインや「魂の16連射!」などのナンセンスなラップの韻とリズムがアニメと溶け込み、メディアとしてのマッサージ効果にタップリ浸れる。
「魂の16連射」って何?と聞かれてわたしに分かるはずもない。
しかし、このMVサウンドの中ではピッタリだ。

勿論、コムアイ女史のフル主演が見られる「モスラ」や「マリー・アントワネット」も愉しい。
こちらは、長くて退屈な映画による拷問めいた苦悩から気持ちを解放してくれるに充分な爽快感があった。
やってる当人がともかく愉しそうなのだ。伸び伸びした遊びの感覚。
「小野妹子」では、山田孝之が出ていた。もしかしたら彼は”水曜日のカンパネラ”のファンなのか。
MV自体が気持ち良いメディアであるが、この”コムアイ”ヒップホップは殊更に身体に和む。
(最近、映画がやたらと長く感じられることが多く、観終わるまでに飽きて6,7回ポーズすることが増えてきた)。
こういうミュージック・ビデオの方が遥かに気持ち良いことをつくづく感じる。
尺も5分程度で十分なのだ。
それで世界観はしっかり伝えられる。
映画の高密度版ともとれるが、この先映画もこうなっていって欲しい。
「去年マリエンバートで」も濃縮すれば、かなりこういった形式に近くなるはず。

「インカ」や「ミツコ」や「チャイコフスキー、、、」など、そのナンセンスに畳み掛けるラップと絵の勢いは凄い。
更に「ラー」などは、VFXにかなりお金がかかっているようだ。
曲数からみても、かなり熟したヒップホップ(ラップ)ユニットであることが分かる。
知らなかった、ではシャレにならない。

ここのところ自分が如何に新しいものに触れてこなかったかがよく判る。
”サカナクション”と”水曜日のカンパネラ”は大きな収穫である。
こちらもいま、キャパ切れ状態であるため、殊更新しいものを物色するつもりもないが、良いものはやはり取り込んでゆきたい。


さて「桃太郎」をもう一回観てみよう、、、(笑。

クラフトワーク礼賛~ニューオーダーの死

kraftwerk002.jpg

”Music Non Stop”(Kraftwerk)
この1曲の一撃はいまだに残る。
ただこの曲と同等の衝撃は”Blue Monday”(NewOrder)にも受けた。

凡百のハード(ヘビー)ロックなど何百束になっても、ひと振りのハエたたきで一瞬に皆ぺっちゃんこという強度である。
強烈な差異である。
次元が違う。
一分の迷いもない。
絶対的自信漲る隙のなさ。
特に”Music Non Stop”は、ヴィデオで観たい。
(”Blue Monday”もヴィデオがよい)。
人間性の欠片もない、昆虫ロボットが圧倒的確信のもと、音を紡ぎ出している様がありありと窺える。
異物性と崇高さが醸す威圧はあるが、とても爽快である。
クリング・クラング・スタジオに他者(デビッド・ボウイ以外)を入れないのはよく判る。
彼らが元の姿で演奏する場所だからだ。マスコミなど入れたら大変だ。
ボウイはもともと宇宙から降ってきた男だ。
外骨格など気にしまい。

ルーリードの「メタル・マシーン・ミュージック」はアメリカからの返歌 であった。
そう、ルーも親戚かも知れなかった。ボウイの親友だし。

「知性」と「テクノロジー」による音楽ーサウンドの完全勝利である。

今日、最初の大ヒットアルバム”Autobahn(1974)”を聴いてみた。
物凄く懐かしい音である。
それから”ManーMachine(1978)”も。
「人間解体」という邦題が傑作である。
明日は、折角棚からごっそり取り出してきたので、”RadioーActivity(1975)”を聴きたい。
そうだ、”The Mix(1991)”もあった、、、。
(このようなリミックスバージョンはNewOrderもよくやっていた)。

しかしkraftwerkのどれも、、、
以前聴いた時よりも、随分哀愁を感じる。
そう、何故か郷愁や哀愁をやたらと感じるのだ。
最初の衝撃が解けた後、メロディの遊星的哀愁が残った感じだ、、、。
それはそれで、良い。
破壊力がそれで減じる分けではない。

クラフトワークはもうミックス・リミックスを無限に繰り返し世界中の音楽の遺伝子となって定着してしまった。
ミトコンドリアみたいに。
今の音楽に必須の要素となって。

NewOrderも多くの死を孕みつつ確かなスタイルを残した。
そして少なくとも”GetReady”で完全解散すべきであった。
何故、むりやり復活しようとするのか?
復活は、”GetReady”一発でよかった。それで、もうおしまいにすべきだった。
もう充分であったし、終了とてっきり思っていたのが15年ぶりのインターバルだなんて洒落にもならない。
すでにNewOrderには、コンポーザーが不在だ。

”MusicComplete(2015)”というアルバム、、、であるが、、、
わたしは、”GetReady”で一度復帰してみたが、もう彼らは完全にやめたと勝手に踏ん切っていた。
何であえてまだやるのか、、、としか思えないものであった。
ここにはかつての彼らの色々なイデオム(エレクトロ的な面とギターバンド的な面)のいまひとつ煮え切らぬ旋律と、初期の少し?を感じた”Sub-Culture”的な安易な曲、それからバーナード・アルブレヒト(サムナー)のエレクトロニックのサウンドを覚える部分が交互に見え隠れする。
それらは、一番つまらない劣性遺伝子の発現のような、作品のブラッシュアップと共に消えてゆくべき要素であった。

あくまでもNewOrderは、”Blue Monday”の強度を保つバンドである。
そのサウンドは一言で言えば、ニーチェのツァラトゥストラ的なものである。
この破格(エレクトロとアシッドディスコの融合)の創造性こそが彼らである。
そのバリエーションの生成・反復が彼らであった。
ギターがメインでもよい。
ギターバンド的なサウンドは、”The Perfect Kiss”である。

ここには、彼らの”Regret”がない。
”Vanishing Point”がない。
”Ruined In A Day”がない。
かと言って、”World In Motion”もない。

その意味で、これらは単に半端な形骸である。

発想とアイデアの尽きた凡庸な曲だけがNewOrderの名で並んでいるではないか。
”GetReady”で終わっていれば、彼らの歴史を汚すこともなかったろうに、、、。
と思う。
もう完全なゾンビである。
前作でKraftwerkに送った曲があるという。Kraftyか。(craftyであれば狡い、悪賢いとなるのだが、、、皮肉なものだ)。
もう一儲けでもあるまいに、、、。脱退したピーター・フックとの間に金絡みの問題も起きてるらしい、、、。


何であっても死ぬタイミングが肝心である。
死にぞこなったら(しがみついたら)オシマイという何とも寂しい例だ。



サカナクション 

sakanaction001.jpg
sakanaction

ボーカル(フロントマン)の山口氏の表情が非常に印象的であった。
先日、テレビでライブの一部を観たのだ。
確信に満ちた晴れ晴れとした顔がやけに脳裏に焼き付いたのだ。
サウンドにも少し聴いただけだったが、惹かれた。気にかかった。

かの山口氏、誰かに似ていると思ったら、田辺画伯ではないか(笑。
違うか、、、ともかくわたしは、サカナクションを初めて聴いた。(グループ名は知っていたのだが、、、)


良かった。
日本のミュージシャンも少し聴いてみようと再び思った。
以前、そう思ったのは、Salyuに接してのことであった。
Salyuは圧倒的存在であった。
瞠目した。
その前に聴いていたのは、遊佐未森と越美晴とナーヴ・カッツェか、、、。
随分前だ。
わたしの持っているLP約500枚とCD約2000枚は、ほとんど海外アーティストのものだが、iTunesで買い始めた音楽のうち200曲は少なくとも日本のミュージシャンのものだ。小林太郎が一番の注目株であるが、、、。

わたしがロックとクラシックと現代音楽を聴いてきたのは、それが日本でない(起源と必然をもたない)音楽であるからである。
わたしは、日本的なものが尽く気色悪く、神経に触り、深い憎悪の対象となっていた。
それは、近親憎悪にもピッタリ対応する。(自分のルーツは大変ベタな縄文人という感じなのだが(笑)。
わたしのアイデンティティは、日本的なものからあらん限り遠ざかることで形成されてきた経緯がある。
だから気に入るものは、普遍性に達したものとなる。(ヨーロッパ的なものがよいとかいうものではない)。
無国籍的とかワールドミュージックとかではなく、アナキズムにベクトルの向いたもの、、、。


話を戻す。
彼らの”sakanaction”は聴き応えを感じた。
わたしは、徹底したサウンド派であるが、時折詩も確認はする。(訳することもある(笑)
彼らは歌詞に重きを置いてる。
女性ベーシストの演奏がなかなか目立つ。
オルタナティブ・ロックという懐かしい言葉を思い出す。

kikUUikiとDocumentaLyも合わせて一度聴いてみた。
バッハやクレーまで、出てきた。
一種拘りのある歌詞であった。
このサウンドの質感、エレクトロでもあるか、、、
それを引き合いに出せば、アフリカ・バンバータでクラフト・ワークに繋がる。
繋がる。
何も、電気グルーブばかりじゃない(爆。
良い感触だ。

アルバムとしてはDocumentaLyからkikUUikiそしてsakanactionと来るようだが、一度に聴く分には、その流れに意味は特に感じない。彼らをリアルタイムに聴いてきたら流れに感想はいろいろ持つのだろうか、、、。
それぞれに対しまだ何とも言えないが、かなり印象的な曲もあり、いずれまた書く機会は持ちたい。
気になる曲はある。

一度に聴いたら、どれがどれという感じではないのだが、sakanactionが一番吹っ切れたサウンドに聴こえた。
普遍性が高く、洗練されておりヨーロッパでもどこで流れても違和感はない感じがした。
ということは、わたしにとって聴きやすかったことを意味する。
すんなり飲み込めた。

DocumentaLyは、エレクトロ色が強く残り、全体を覆う孤独感に好感はもった。
kikUUikiでは、Paradise of Sunnyが特に面白かった。トータル性もありまとまりも感じる。
どちらも一筋縄ではない、ペシミスティックだが解放に向かおうとする世界観を形作っている。


全体として聴いて、”sakanaction”が一番心地よかった。
わたしは、無機的なものが好きなのだが、このアルバムは様々な要素がアマルガム化され昇華・蒸溜されたものに想える。
それで、とてもすっきりした後味を覚える。

更に懐かしい。
何かに似ているのだが、それを指し示せない。
だが、聴いたことがあるサウンドなのだ。
これまで聴いてきた音の奔流が、ここにも溢れてきたのかと感じられた、、、。

音楽というものがたぶん、そういうものなのだ。





クラフトワーク

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Computer World (1981)とTour de France (2003)を最近なんとなくまた聴いている。

これ以前に彼らは誰も理解できないような、とんでもない音をすでに発表していた。

まずセンセーショナルであったのは、”レディオ・アクティビティ”。
そしてマニフェストとして強烈に響いたのは、”マン・マシーン”であった。
ちなみにMVで圧倒されたのが”ミュージック・ノンストップ!”
これまでの音を全て断絶し、何にも妥協しない、完全なオリジナルの音を作る凄まじい強度(差異)であった。
(タンジェリンドリームさえ、イギリス的イデオムに感化されているとして、彼らは認めなかった。であるからきっとイエスとかELPなんぞ論外であったはず)。
クラフトワークとは、結局クラフトワークでしかなかったことに、だいぶ後になって誰もが気づく。
唯一無二とは、彼らのための言葉であった。
(ライブがまさにそれ。)


この時期ドイツのエレクトロニク・ロック(何と呼ぶべきか、、、)、カン、グルグル、アモンデュール、ファウスト、、、たちは、既製のロックやポップは勿論、クラシック、既製の現代音楽から、あらん限り遠ざかって行った。
イギリスやフランス、イタリアのロック(ポップ)アーティストが適度なクラシックロジックをとりこんで、稚拙で脆弱な音をひょろひょろ出していた時期と重なると思うと、やはり音楽性以前の姿勢からしてまるで違う。
先のジャーマンロックアーティストから見ると、彼らは随分安易で不真面目に映ったはずだ。


”Computer World”
例えば、火星で独り作業に明け暮れるなんてことになったなら、こんな音楽が一番心身に良いはず。
適度な刺激と覚醒を呼ぶが、思考の邪魔にならずに、いつしか視界に溶け込んでいる。
聴いていていつまでも疲れない。

昔の音とは言え、圧倒的なオリジナリティを発し続けることに、改めて驚く。
その音はサンプルとして、その後の様々な音楽に溶け込み、すっかりわれわれの肌に馴染んでいる。
いや、肌というより神経に。
それでも、新鮮なのだ。
神秘ですらある。

ついうっかりするところだが、1981年といえば、まだマックも世に出ていない時期である。
アタリでキューベースが使えたか、、、いやまだだ。
こんな時代に、完璧なコンピュータミュージックが作られていた。
ただ、驚愕である。
ここから後のYMOが生まれ、電気グルーブなどの孫やひ孫たちが続々と輩出することになる。
所謂テクノ直系でなくとも、ほとんどのミュージシャンがその方法論を拝借したことは事実だ。
彼らの音はリミックスし続け拡散し、他の音楽に繋がってゆく。


”Tour de France”
ヒトと自転車。ヒトに最も密着し一体化したテクノロジー。
クラフトワークにうってつけの題材。
機械化したヒトの姿そのもの。
しかもそれは高速に加速する未来派の音である。
音楽=ヒト=機械
テクノ・ミュージックの極み。

彼らのクリング・クラング・スタジオから繰り出される音がそのままツール・ド・フランスに速度として流れ込む。
(クリング・クラング・スタジオに入ることを許されるのは極僅かな人のみであったらしい)。
心地よさばかりが染み渡ってくる。
心地よいが、調和と同義になる。
テクノというのは、まさにこれであった。
音楽としての円熟がこれまた凄い。
ここまで複雑な楽曲となるとは、思わなかった。

いずれにせよ孤高のクラフトワーク・ミュージックである、としか言い様がない。


これにディスコとハウス、ゴシックロマンが絡み合うことで、”Blue Monday”(NewOrder)が生まれる。


雨音が響き鐸(さなぎ)となる

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The Cureの"Wish"を最近よく聴く。1992年のものでわたしの聴くもののなかでは新しい方だ。

CDをコンスタントに買わなくなって、もう久しい。
しきりに購入していたのはLPレコードであり、CDの頃にはもう幾分覚めていた。
iTunes Storeで買うのに慣れてきたところで、一曲単位の販売がなくなったので、それももうやめている。

ということでここ数ヶ月で買った音楽はCDで、ももクロの「セーラームーン」(娘に頼まれ)と電気グルーヴくらいか、、、。


”Wish”は、わたしのZERO状態に何ともよく馴染む。
零度と言うべきか。
ついさきほど、一度ヘッドフォンを外し、席を立つとき耳に入った雨音に妙に共振する音であることに気づいた。
過度の湿り気と漆黒に震える旋律。
あまりに自然にその場所絵と誘う律動。
雨音に似て。

”From The Edge Of The Deep Green Sea”からただひたすら入り込む。
深みへ。
幻想に烟る深みへ。
歪んだオルガンとギターのつくる音色以外に光のない闇に沈む。
”Doing The Unstuck”などは三味線と琴で演奏しても恐らくアレンジが更に深まることが分かる。
その流れによりそいつつ補正しながら進んでゆける音である。
何というか、外からの音ではなくなってゆく。
キング・クリムゾンにそんな余地は残されない。

”Trust”からさらに黒い霧に包まれ下ってゆく。
そう、われわれは下に下に沈むのだ。
あるべき住処に戻る。
いろいろな謂われ方をしてきた場所である。
それが虚空に解かれるもうひとつの路であることを、知らず想い出している。



”To Wish Impossible Things”に至る頃には、漆黒の雨音が楽曲の要素となっている。
いや、組み込まれていたのだ。
この夜のために生成されたのだ。

考えてみれば、同じ音など聴いた事がない。
同じ作曲家の同じ演奏家の同じクレジットのレコードであろうが、同じ音が流れたことなど一度もなかったことに、今更ながら驚く。

シドバレットのピンクフロイドを聴いた時の煌きがここにも感じられる。

その音は、プログレッシブであったことなどない。
このかたまりは、全ての表象を取り込み。
飽くことなくわれわれを個の外へ心の底へと、引き戻す。


夜の雨音に耳を澄ましいつしか鐸となる。

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電気グルーヴ ポケットカウボーイ 懐かしいコジコジ

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一度もアルバムを聴いていないで、記事を書くのもちょっと何なので、初期のアルバムAを聴いた。
すると何と懐かしいコジコジのテーマ曲?「ポケットカウボーイ」があった。
その当時、この曲を聴いて何て面白い曲を作るアーティストだろう、とつくづく感心したものだ。
また再びあの頃の、奇妙な感覚を味わった。
「コジコジ」もまた見たくなった。
あのアニメどこかで見られないだろうか?

ここには、他にも「パラシュート」とか「ガリガリ君」に「猫夏」、「SMOKY BUBBLES」など感性を擽る曲ぞろいだ。
唯一「あすなろサンシャイン」だけは、しつこすぎて辟易したが、、、他の曲はクセになる音だ。
1曲だけスキップしてこの先も何度も繰り返し聴いてしまいそうなアルバムである。
そう、「ガリガリ君」は、赤城乳業の氷菓「ガリガリ君」のキャンペーンプレゼント用として製作された非売品特別SCDのものらしいが、初めて聴いた気はしない。
この凄まじい音は、聞き覚えがはっきりある。大胆なサンプリング元も窺える。

しかし、「猫夏」あたりまでこのアルバム聴き進めると、もうYMOやクラフトワークに並ぶ独自性と強度を感じてしまう。
つまりテクノを超えたテクノだ。
石野卓球とはどんな人なのか。
ピエール瀧とのステージや楽屋裏のヴィデオを観てしまうと強烈な個性というか、アクの強さばかりが残ってしまうが、、、。
そして余りにぬけぬけとした図太い曲、「Shangri-La」。
これはヒットしただろうな、、、。

こんな強さがわれわれには必要だ。
身体の底から戦闘力と破壊力の湧き出る曲だ。
電気グルーヴとは、この強靭な力であると分かった!

ついでに近所のレコード屋にとんでついさっきVOXXXを仕入れてきた。
Aの3年後の作品だ。
もう今日は間に合わないが、これについてもまたすぐ書きたい。
今聴いてる感じでは、わが「NewOrder」に近いものを感じる。
遥かに荒々しく、節操ないが、、、。
だが資料を見ると石野卓球氏は「NewOrder」のファンであることを知った。
(まだ、見ると言う程、見たわけではないが)。
なる程ね。
そんな感じした。
原質にそれが感じられた。

Aより確信に満ちた曲作りが窺える。
トータルアルバムとして極めて純度が高い。
と言っても、完成度が高まったというより、更に自由度と奔放さ(ナンセンス度)に煮え滾るエネルギーの奔流である。
凄まじい原始的な生命力。

そう、クラフトワークのような知的な構築性にまっしぐらに進む方向性と真逆である。
寧ろそこはCANに近い。
YMOがこぢんまりとしたグループに思えてくる。
どのアーティストをもってきてもこの大胆不敵さ(ふてぶてしさ)には敵わないが。

今聴いてる最中であるが、このVOXXX、気が変になりそうな狂気のアルバムであることは確か。

だいたい、「ジャンボタニシ」って何なんだ?!
それを演歌調にこぶしを回して唱われても、、、

終盤はもうトランス・ムジークである。
ここは寧ろ行儀の悪いクラフトワークといった感である。


圧倒的!

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電気グルーヴ Shangri-La

denki.png

テクノであるが、分類を作っていない。
元々わたしのブログは、分類はあってないようなものなので、どうでもよい。
電気グルーヴと言えば、「Shangri-La」がすぐに鳴り出す(笑。
CM(日産)でも使われていたし、当時よく店などでも耳にしていた。

「Spring Rain」(シルヴェッティ)のサンプリングから生まれているが、完全に彼らの曲である。

シャングリラ彼女の唱ったユートピア眩しい
シャングリラ彼女の語った趣きはよし
シャングリラ彼女にすればどうにでもなるし
シャングリラの中に消えた思い出は無視

夢でKISS KISS KISS KISS KISS KISS
何処へも何処までも
繋がるような色めく世界麗しの時よ
夢でKISS KISS KISS KISS KISS KISS
いつでもいつまでも
煌くような甘い想いに
胸ときめいていたあの頃のように

、、、これはノリノリの広がりのある楽曲であった。
下手をすると、ドリカムと勘違いされそうな危うさもある。
電気グルーブの中でも一番キャッチーで温かみを感じる(今聴いても)。
彼らの本質は危険で怪しくいかがわしいところであろうが。
これも彼らのひとつの極なのだろう。

”DENKI GROOVE THE MOVIE?”というDVDを最近観たのだが、26年間のヒストリーということだ。
これは昨年出たものであるから、27年活動していることになる。
とは言え活動休止していた期間が3年間くらいある。
だが、その間もソロアルバムなどは発表している。
実質的な創作活動は継続していたというべきか。
ピエール瀧は、映画俳優としてもこの時期開眼し、賞もかなりとっている。
また、彼がいつごろからあの青い富士山の格好をし始めたのかも分かった。

それにしてもアクの強いねちっこいステージである。
こういうかたちでテクノが日本に根付いたのかという感慨をもった。

海外でもドイツを中心に高い評価を得ているが、ドイツというところがまた良い。
テクノと言ったらやはりドイツだ。
イギリスではない。
だからイギリスを狙うメンバーが抜けて2人となりさらに彼らは純化する。
石野卓球とピエール瀧とは、キツイコンビである。
彼らの音は、中毒性が強く一度聴き始めるとそのまま惚けて聴き続けてしまう。
テクノ自体がそんな陶酔型音楽形式なのであるが。
彼らのものはその極みだ。

わたしは彼らを特に注目して聴いてきたわけではない、通り掛り的リスナーであるが、濃いテクノだなと聴くたびに思ってきた。
スチャダラパーとのコラボアルバムをブロともの方が取り上げていたため、少し聴いてみたが面白い。
コラボを組んだ頃、調度両者が活動を休止していたタイミングであったという。
デビューだって、同時期のグループである。
同時性を感じる。お互いに興味も持っていたらしい。ちょうどよい機会にもなったようだ。
コラボアルバムもピコポコ刺激的で耳に馴染む。
この時期、隆盛を極めていたミュージシャンが揃って充電期間に入っていたらしい。

元気一杯で売れまくっていた関わりのあるミュージシャンは、ラルクアンシェルだけだったと、共通のプロデューサーが笑っていたが、彼らとラルクが多少なりとも共通点があることが意外であった。
まあ、でも電気グルーヴである。何があっても可笑しくない。
思い切りタフでしたたかなイメージは、このDVDを見てさらに強まった。

わたしとしては、ピエール瀧の役者業の方が馴染んできていたのだが、音楽(本業)の方も改めて聴いてみたい。
相変わらずライブでは富士山になっているらしいが。

グランドホテル~プロコルハルム

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たまたま、聴いてしまった1973年度のアルバム。
プロコル・ハルムの不滅の名作であり、時折聴いてしまうもの。

一部の隙も無いアルバムというのは、ほとんどない。
奇跡的な一枚としてこれがある。
退廃の美学である。
これほどどうでもよい、語るべきことなどもはや何もない内容を美しく虚しく歌い尽くしたアルバムは他にない。
典雅で諧謔に満ちた荒涼とした美(神の不在)を描ききった希にみる作品。
勿論、大傑作という以外にない。


グランドホテル、、、どうやらフランスの一流ホテルのようであり、グランドホテル形式の映画のようであり、、、。
思い切り空虚でチープな煌びやかさと喧騒が見事に奏でられる。
これ以外の的確なオーケストラアレンジがありえるだろうか。
特に中間部のどうでも良いバイオリンによる見せかけのマイナーメロディのセンスは極めつけである。
安物メロドラマ(宮廷音楽風アレンジ)をカットアップして非常に上質な音楽に設えている。
リズム・テンポ・調・曲想も目まぐるしく変わる構成力は流石である。

トゥジュール・アモール、、、リリカルでハイテンポのピアノイントロから続くギターとオルガン音色が小気味よい。
ギターの畳み掛けもきっちり決まっていてロビン・トロワーをちょっぴり彷彿させるところでもある。
フランス行って山小屋借りようかな、、、
スペイン行ってピストル買おうか、、、
頭に一発、ズトンとね。
これだけあっけらかんとした歌詞がこれだけのノリと心地よさは、ないだろう。

ア・ラム・テール、、、極めて美しいリリカルなワルツ。
ピアノとオルガンの融合は見事だ。
しかし特筆すべきは、ゲーリー・ブルッカーのボーカルは、このような曲でこそ際立つということ。
彼はコンポーザー・ピアニストだけでなく、ボーカリストとして如何に魅力的かがここで充分に味わえる。
何処までも広がりを感じる何処までも空虚な曲である。
僕は土人の目を逃れ独りでラムを呑んで生きてゆくよ。
そして街を焼き払い、飛行機を借りて空にストーリーを書くんだ。
神様がきっと買ってくれるさ。

TVシーザー、、、また魅惑的なピアノフレーズから、、、。
ここでもオーケストラは全く自然にプロコルハルムのメンバーになっている。
楽曲の基盤の構成要素である。ゲーリー・ブルッカーの面目躍如である。
楽曲自体が初めからオーケストレーションで書かれたものと、プロデューサーがオーケストラアレンジを後から入れたものとの歴然とした差である。
BBCシンガーズも全面的に入っている。
キース・リードの詩の韻も心地よい陶酔を呼ぶ。
サウンドと詩が不可分に退廃的な様式美で貫かれている。
”T.V.CEASAR Mighty Mouse”である。一筋縄ではない言語感覚。
イメージのはっきり伝わるハイパーセンスである。
テレビでお馴染みマイティマウスは何処の家にも住みついてるのさ、、、。

スーベニール・オブ・ロンドン、、、アコースティックギターとオルガン主体で極めて投げやりな曲想。
ブルッカーも殊更ソウルフルな歌唱スタイルであるが、からからに乾ききった覚めた歌である。
ロンドン土産をもってきちゃってさ、、、
である。
いい加減にしなさい、である。
アルバムとしてはなくてはならない絶妙なアクセントではあるが、まことに安くておバカなテーマ。
これもグランドホテルの一幕であることは確か。

ブリンギング・ホーム・ザ・ベーコン、、、天才バリー・J・ウィルソンのドラミングの際立つナンバー。
オルガンフレーズもよく、そこにギターがまた上手く絡む。
ブクブク太った赤ん坊を連れてきたかと思ったら、それはどうやら皇室に生まれた子らしい。
よくまあ、、、それにしてもグロテスクをスタイリッシュに描く手腕には呆れる。
”クイーン・イズ・デッド”にしてもそうだが、イギリスでは大丈夫なのか?
もう心配するでもないが、、、シニカルを超えているが詩になっているため芸術的に昇華されているといえる。

フォー・ロコリス・ジョン、、、漆黒の宙を彷徨うかのような不安を掻き立てる曲。ここでもドラミングが際立っている。
非常に優れた彼らからしか生まれてこない表情を持つ曲。
これほど詩と曲の裂け目のない作品は珍しい。他の曲も勿論そうだが。
不安というより、どうしようもない居心地の悪さ、身を捩る違和感を覚えないではいられない。
しかし曲の魅力が麻薬的に作用し、奇妙な快感に変じてゆく、、、。
ジョンは、何の病気なのか、どの医者にも判らない。
病気かどうかも、、、
彼の体温はいつだって正常だった。
彼が海に沈んでゆくとき、彼は自分に手を振っている人々の姿を見た、、、

ファイアーズ、、、厳かなピアノイントロで始まる。
ある意味、プロコル・ハルムの曲の中で最も哀調のある曲と言えよう。
BBCシンガーズのスキャットが全面に躍動的に押し出される。
ゲーリー・ブルッカーのボーカルも冴える。
ここでもテンポと調性の変化が曲想を深め豊かにしている。
戦争譚であるが、言葉からスッポリ魂の抜け落ちた世界が透いて見える。
美しいが限りなく冷ややかに覚めた、逆説的な様式美の楽曲である。
如何にもグランドホテルらしい話であろう。
最後から二番目の曲としての重要な役割を完璧に果たして、終わる。

ロバーツボックス、、、もはや蛇足だ。ダメ押しか。
プロコルハルム(ゲーリー・ブルッカー)以外の誰からも生まれない格調とポップさと絶望に満ちたドラマチックな楽曲。
乾ききった上に光もない。
ここでも変幻自在な展開で一気に駆け抜ける。
ゲーリー・ブルカーの低音"doctor"のシニカルな多重スキャットの味わい。
エンディングの永遠に続くかの如き、虚空に向けた劇的に高揚する彼のリフレイン、、、
Just a pinch to ease the pain
I'll never trouble you again
これはまず教会では歌われまい。
あくまでもグランドホテルである。

救いが欲しいのではない。
ただ痛みを忘れさせて欲しいのだ。

わかるか!!!

と神に告げている。


全曲に渡ってバリー・J・ウィルソンのドラミングが光っていた。
曲を支えるのがドラムであることを痛感する。



Vitamin C ~ Soup CAN

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”CAN”これは多分、現代音楽。
だが、クラフト・ワークがロックと呼ばれるなら、ロックでよかろう。
何にも似ていないカテゴライズ不能のものは、取り敢えずロック枠に放り込まれる。
まるで「その他」だ(笑。
「その他」の王様はやはり、キング・クリムゾンであろう。
決してピンク・フロイドではない。シド・バレットのいた頃は、本当に光っていたが。

彼らジャーマンロックのグルグル、ファウスト、アモンデュール、タンジェリン・ドリームたちは自らをロックアーティストなどと思っていたか?少なくともエドガー・フローぜ(タンジェリン、、、)は思っていなかった。ベートーベンの生まれ変わりくらいには思っていたふしはある。だからあらゆるクラシックと現代音楽から徹底的に遠くへ逃走を図った。違う音楽を創造しようとした。
他の面々もおよそ想像がつく。
(ノイ、ラ・デュッセルドルフ、ハルモニア、、、たちもいる)。

しかし、CANは、というよりホルガーチューカイはそんなこと端からどうでもよい、知ったことではないだろう。
イルミン・シュミット、ジャッキ・リーベツァイト、ミヒャエル・カローリ、あともうひとり忘れた、、、残念、も同様だろう。
ここに日本人、ダモスズキが入る。メンバーについてはここでは触れない。
兎も角、ホルガーチューカイは音の編集を極めたかった。
自分が面白い音を作り込みたかったのだ。
芸術に拘った訳ではあるまい。
結果的に何かに似てしまっても、別にそれはそれ、、、といったところであろうか。
もっとしなやかで柔軟な人々なのだ。
だから、固いこと言わず何でもかんでもアメーバー的に取り込み、ダイナミックで洗練された独特なサウンドで深く琴線を鷲掴みにする音が排泄された。
不可避的にCANへと昇華されたといえよう。
これもひとつの方法である。
恐るべき無意識的な方法だ。

しかしこの辺のスタンスを見るに付け、それ以外の国の所謂、プログレッシブ・ロック(書くのも恥ずかしい)の幼稚で安易な姿勢が目立つ。そう目立つのだ。絵なら見なけりゃ済むが、音は聞こえて来てしまう。その意味で目立つのだ。

EGGのように、まんま現代音楽になってしまえばそれまでである。
あれはあれで、かなり完成度が高く、とても良かった。
ウィン・メルテンは、最初からもうマイケルナイマン同様、現代音楽(ミニマル)である。が、ロックにも顔を出す、と言うよりホルガーチューカイと一緒に仕事をしたりしている。やはりこのあたりがグレーゾーンか。

ヘンリーカウ、ハットフィールド、キャメル、ナショナルヘルス、、、カンタベリーファミリーのジャズの振り子を極限的に振り切れば、ソフトマシーン、ロバートワイアットまでゆくか、、、これらは高純度で結晶化している。違う場所に発生したが、マハビシュヌ・オーケストラもその点で、特記できる。

グリフォンは、シェークスピア時代の楽曲の再現をしているときは筋は通っていたが、ロックの旋律をクラシックぽくアレンジし始めてからは、古風な木管などを使う高級なプログレではないか、、、惜しい。特にサードアルバムの構成は言うことないのだが、、、。

タンジェリンドリームみたいに何故か日和ってポップなシンセグループになってしまうのもどうしたものか、、、。何を考えたのか、出だしの志は何処へ?やはり頭が硬すぎ、クラフトワークのような緻密な戦略性に欠けたためか。
クラウスシェルツが唯一頑張ったとは言え、"Irrlicht"ファーストアルバムを超えられていないまま、、、どうなった?
"Irrlicht"は確かに衝撃であった。アレ聴いて精神病院に入院してしまったという人が結構いるのだ。
シンセでその対極にあるのは、ギリシャのヴァンゲリス・パパサナシューだ。
彼のアフロディティス・チャイルドは、プログレポップであると同時に、三波春夫的なサービスの効いた演芸性もあり、その発展で充分に映画音楽を制する可能性を秘めていた。(プログレポップでは、割と単発的な優れたオリジナリティを放つ佳作アルバムは少なくない、、、ベガーズ・オペラは中でも光った。ハイセンスでは、スクリッティ・ポリティとか10CC)。

ジャズとクラシックとロックを極めて高品位にアマルガムしたアルティ・エ・メスティエリは、結局ファーストだけで、次からはどう見てもただのハイテクニックのジャズロックグループだ。これなら、もっとクリエイティブなジャズロックグループはイギリスにも沢山いる(いた)。フリオ・キリコは結局、練習熱心な太鼓屋さんであった。
ちょっとLP引っ張り出したい気分になってきた、、、。

ブルースをロックに極めて饒舌にダイナミックに流し込んだロビン・トロワーは忘れられない。
物凄く美しいブルースロックであった。演奏が飛び抜けているのも勿論効いているというより彼の場合、本質的なものである。
なんというか演奏そのものがコンポーズに嵌入しているのだ。(その代表がルー・リードとクリムゾンか)。
ハモンドオルガンの第一人者、永遠の少年マシュー・フィッシャーがプロデュースというのも頷ける。
2人ともサウンドはまるで違うが、とても似ているのだ。
2人ともその身体性で、コンポーズからサウンドに分かちがたく結びついたタイプだ。
ファズやワウワウ、片やハモンド(に加えVも)が彼ら以外の人には弾けないことが決定的であり、それを前提に楽曲が生成される。
これについては、また後に書きたい。

その対極に、楽譜を渡せば、他のクラシック奏者でも基本的に同じに弾けるというのがELPとかイエスだろう。
ジェントル・ジャイアントはまた違うタイプで、寧ろジェスロタル寄りの存在だ。
そしてもう少し極まれば、プロコルハルムの頂きである。(マシューとロビンはメンバー。)
アナーキーでフリーキーでフリークスなロックとして、忘れられないのが、スロッピング・グリッスル、マーク・アーモンド、サイキックTV、オランダのメカノとか、、、

何を言っているのかと言えば、この域のアーティストは、質的には極めて優れた音楽水準を保っていること。
(酷い例を上げる前に、例外を先に確認しておきたかった)。
他に、アレア、プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ、サードイヤーバンド、ヴァンダーグラーフ、ルネサンス、イオナなどもここに入る。おう、ツェッペリンとムーディーブルース、ジェネシス、フォーカスをお招きしないと。(これは、やり始めるとキリがなくなる)。

忘れているのもかなりあるはずだが、、、それはともかく、プログレとか呼ばれる連中のほとんどがクラシックを連想させるどうでもよい音色を紋切り型とすら呼ぶ気になれない形でサウンドに嵌め込んで、何か作った気になっていることだ。
また、それを煽てるリスナー(音楽評論家)もいる。様式美でいくなら、グリフォンやトレース、イエスくらいまでもっていってもらわないと。しかし、それにはリック・ヴァンダー・リンデン(トレース)くらいの技術と素養が必要となる。彼はクラシックのピアノ協奏曲アルバムも何枚も出している。カーブド・エアもビバルディを引用したりしているが、彼らのクラシック要素のロックへの引き込みはうまい。アイス・ハウスの方が一枚上だが。アレンジ力で言えば初期のディープ・パープルはイエスより良い。

プログレの志も内容も構造もセンスも全くないものが圧倒的に多いことは断言できる。
なかでも、彼のノヴァーリスの名前を冠するとんでもない腑抜たプログレがいた。クラフトロックもマカロニロック同様、両極端と言える。プログレッシブの本来の意味から言えば、ここに挙げていない方々、クラプトンやイーグルスなど、レッテル貼られたプログレなど問題外でプログレ的ブルース、フォークロックミュージシャンはいる。チェレステなども捨てがたい。

以前レコード屋に、冬はこたつでみかん食べながらプログレでも聴きましょう、というコピーが貼ってあった。
このキッチュ過ぎるコピーが妙にピッタリ似合ってしまうのだ、特にイタリアバンドのほとんど。マカロニバンドか。
この辺からの隔絶と言って良い距離をCANをはじめとする上にあげたアーティストたちは保っている。

かと言って何かに全く似ていない曲かといえば、CANの場合、スレスレで近いものもある。サンバとか。(故意にやっている)。
前衛にも縛られないしなやかな柔軟性があるところが、タンジェリン(結局コケたポップ)やクラフトワーク(厳格・孤高)との違いか?(クラフトワークのライブはもう機械劇みたいで、未来のメトロポリスである)。
しかも取り入れた要素はすべて、CANの音である。
原始的でダイナミックで、洗練された唯一無比のCANの音になっているのだ。

”Ege Bamyasi”(もっとも聴き易いCANで有名)の中でも、”Vitamin C” や”Soup”は、異様にシンプルで、童謡みたいに牧歌的だが、呪術的で独特な翳りにも充ちている。
一度聴いてしまうと耳から離れない。エンドレスに鳴り始める。(「天国の階段」の歌詞にあるように、、、)。
この牧歌的な(ときに荒々しい)麻薬的で呪術的サウンドがCANである。
つまり。現代音楽とかロックではなく、”CAN”でよい。

何れかを聴いてしまったら、全部聴きたくなる。中毒性が間違いなくある。
そんな音だ。
ポップとか前衛ともズレがあり、引用するものすべてとズレ、形式上何かを懐かしく夢想させ活性させる独自の音楽。
何か本来の意味での健康で元気の出る音楽である。
凡百のプログレでは、とても浸れない快感である。


我がNewOrderはまた再結成して始動した。
これも目は離せない存在だ。耳か。そう願いたい。

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GOMA28

Author:GOMA28
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