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トッド・ラングレンを聴きながら

Todd Rundgren001

映画は午前中に「ワンダーウーマン」を途中まで観た(笑。
ここまでフォーマット化されていて、古いコードの上なぞりはどうにかならぬものか、、、?
特に男女の関係の既視感とわざとらしさに辟易する。
息詰まり、別のことをすることにした。

昼過ぎに長女と買い物がてらウォーキングをたっぷりした(実は店を探して彷徨った)後、iTunesにしこたま入れているトッド・ラングレンを聴きながらモノの整理をして過ごした。
「全能の人」なんて呼ばれる音楽家であるが、やはり音の魔術師であることに間違いない。
マルチプレイヤー(マイク・オールドフィールドに並ぶ)で有能なプロデューサーであるだけでなく、類稀なコンポーザーである。
更に特別なヴォーカリストだ。
一聴でとり憑かれてしまう魔力が、そのサウンドには秘められている。
忽ち体細胞の隅々にまで染み渡るのは、きっと、、、。
そこには、コード進行やサウンドの斬新さを越える(支える)思想的な強度が息づいているのだ。
(音の達人は他にニック・カーショウなど何人もいてその出来には確かに感心するが、トッドの煌きは感じない)。


心地よくて、、、結晶的な快楽感に浸れる、、、健康にきっと良い。
ときどき聴こう。

ざ~と聴いていて、いつもはあまりかけていなかった”Nearly Human”の"Fidelity"が如何にもトッドという感じのリリカルな美しさで手が止まり、暫し聞き惚れた。
(トリスタン・ツァラに近似的人間という詩があるが、あれはとても音楽的な詩であった、、、単に連想しただけだが)。
煌きという点では、”A Dream Goes On Forever”が頂点かも知れないが。
これも本当に良い。やはり非凡だ。
このアルバムは彼の作品のなかでは、地味なものに思えていたが、エッセンスは充分に行き渡っている。

”Healing”も久々に聴いて、癒された。マンマだが(笑。
代表作以外にも名作揃いであった。


さて、寝る前にとっても懐かしい”I Saw The Light”と”Hello it's Me”でも聴いてみたい。
今聴いても最高だろうな、、、。


では、おやすみなさい。





フラクチャー ~ Frakctured

giger001t.jpg

Nuovo Metal(ヌーヴォメタル)時代の曲を最近また聴き始めた。

わたしがクリムゾンでもっとものめり込んだインプロビゼーション期『太陽と戦慄』、『暗黒の世界』、『レッド』の黄金期から『ディシプリン』のニューウェイブ期(まるでトーキングヘッズみたい~ポリリズムのせいだ~と揶揄されたが”Discipline”は秀逸)からまた重量感たっぷり(ダブルトリオ編成)のヘビーでソリッドなメタルサウンドを信条としたヌーヴォメタル期(2000)に至る。


無論、『クリムゾンキングの宮殿』、『ポセイドンのめざめ』、『リザード』、そして余りに精緻で儚く美しい『アイランズ』、、、音源は悪いがクリムゾンが創造的ライブアーティストであることを立証した『アースバウンド』までのクリムゾン初期が、、、この後に続くミュージシャンや世界中の聴衆の世界観(人格形成)に多大な影響を与えたことは言うに及ばない。

この後にフリップがメンバーを完全に入れ替え(もっともアルバムを作るたびにそのアルバム制作用のメンバーを編成してきているのだが)全く異なる音楽アプローチを始める。
それが二期のインプロビゼーション期である。
”Larks' Tongues in Aspic”(太陽と戦慄)、”Starless And Bible Black”(暗黒の世界)、”Red”(レッド)であり、バーカッションの壮絶な強度、ライブによる即興の神憑り的な創造(まさかアルバムの大半がステージライブのテイクとは知らなかった)、フリップのディストーション・ギターのリフのカッコよさ(笑、ジョンウェットンのヴォーカルの説得力、、、。
基本的には軸のメンバーが不思議に変わっていない。フリップ・ウェットン・ブラフォードである。
ここにデビッド・クロスとジェイミー・ミューアがいたが、クロスは太陽と戦慄と暗黒の世界のみ。
ミューアは太陽と戦慄を録ってから仏教の修行に旅立ってしまう。

通常ライブはそのアーティストがどのくらいアルバムに近い演奏が出来るかの確認レベルのものになることが多い。
しかし、クリムゾンの場合、ほとんどライブの方がスタジオ録音を凌駕したものとなる。
驚愕の音の破壊と創造~生成の場となる。
それをもっともはっきり示しているのが、この時期のライブ音源だ。
そしてそれをかなりの割合でとりこんだ3枚のアルバムであり、その他のライブアルバムであるがどれも遜色がない。
(アムステルダムライブ等々)
レッドをもってこの期にやるべきことを終え、フリップの鶴の一声で解散。『USA』ライブが出ている。バイオリンのパートはクロスのものが削られエディー・ジョプソンの演奏に差し替えられはした(元々彼はクラシックから抜け切れず線が細かった)。

その後、ニューウェイブ期と取り敢えず付けたがディシプリン・クリムゾンとも呼ばれる。
『ディシプリン』、『ビート』、『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』である。
かえってクリムゾン名義にしなかった方がこの優れた3枚のアルバムが正当に評価された気はする。
しかしキングクリムゾンのもっとも魅力的な音色を奏でていた管楽器もバイオリンもピアノ~メロトロンも封印されてしまう。
この楽器編成からして根本的コンセプトの違いは明瞭だ。
ヴォーカルチューンも残るが詩は意味を失い単なる単語の羅列となる。
(それまでは詩人ピート・シンフィールド~リチャード・パーマー・ジェームスが詩を提供していた)
抒情性や哲学的文学性は排除されたビートサウンド改革である。
3枚でスッキリこの期は終焉し、2期のサウンドをオリジナルとして似て非なるものに生まれ還らせる実験が始まる。

スティック(特殊なベース)を使ったヌーヴォメタル期では、ダブルトリオ(ドラム2、ベース2、ギター2の編成)となる。
インプロビゼーション期の驚異の傑作”Fracture”(突破口)がヌーヴォメタル期には”Frakctured”と化している。
”Larks' Tongues in Aspic”(太陽と戦慄)も”Larks' Tongues in Aspic PartⅢ・Ⅳ”として生まれ変わって行く。
全て隙の無いスコアと化し、サウンドが分厚く充填し尽され平板化したこと。 
超絶技巧化し、フリップでさえ練習で音を上げる程のものになる。
(自分で作っておいて)。
情け容赦ない厳格な暴力的ニヒリスティックなサウンドである。
『ヴルーム』、『スラック』、『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』となる。最後に『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』を発表。
わたしは最終作はそのなかの数曲しか聴いていない。

当初は空間的な広がり~解放が感じられない、音が一気に流し込まれた煮えたぎる鉄みたいな圧迫感に息苦しかったのだが、、、
これは系を乗り換えた音であると感じられるようになった。
”The ConstruKction of Light”を聴いてからはっきりそう思った。
これは”エイリアン”~他者の(聴く)音だと。
特に”Larks' Tongues in Aspic PartⅢ”の前半部分のサウンドである。
最初聴いたときに強烈にゾクゾクしたが、まさにそこなのである。
変身の誘いか、、、?(まさかリアル・カフカの「変身」)

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マスターピースである”In The Court Of The Crimson King”(クリムゾンキングの宮殿)をその文脈の中で聴くことは今でも充分に可能だ。
深淵な世界を構築した楽曲でありアルバムであるが、そのメロトロンの煽るドラマ性に(その表現形態に)少し距離を覚える。
音楽が古いというのではない。”Epitaph”はまさに今日の、、、いや永遠の課題とも言えよう。
表現の上での壮大に構築されたドラマ性に感覚的についてゆけなくなったところが少なくないのだ。
(その意味でとても映画を観るのが辛くなっている)。

ただ今でも、2期~インプロビゼーション期の音に時折触れると瑞々しく胸に込み上げるものがある。
特に”トリオ”、”偉大なる詐欺師”、”フラクチャー”などには何度聴いても深く感動し、”土曜日の本”や”堕落天使”には涙腺まで緩んできてしまう、、、。
だが、どうやら曲を聴いて感動してばかりいられない、自分がそんな状況でもあるのだ。
寧ろ、外骨格の昆虫のように反応して行動しなければならない事態~日常にいる。


今のわたしにとっては、ヌーヴォメタルのエイリアンとして動く必然性がある。



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デトロイトでのパニック

David Bowie001

”Panic In Detroit”

「アラジンセイン」(1973)はわたしの大好きなアルバムだが、なかでも「デトロイトでのパニック」がたまらない。
どの曲も狂気に染まった緊張極まる曲揃いだが、そのなかでもこれは針が振り切れている!
(マイク・ガーソンのピアノがキレまくっている)。

チェ・ゲバラにそっくりな男に出逢って書いた曲なのか、、、。
「普段は目立たぬ男だが人知れず隠れ家に銃を隠し持っていた」、、、から始まる。
歌詞世界もゾクゾクするスリリングなものだが、サウンドが凶暴に美しく捻じれて歪み圧巻である。
何とも「間」が良い。
畳み込むサウンドのなかの真空の場に狂気のリズムとスキャットが雪崩れ込む。
そう、ミックロンソンのギターリフも。

これぞロックである。
身体の生き還りには必須のサウンドとなる。
自己の解体~再編成・再組織化には、この爆音洪水を浴びる必要がある。


このアルバム、ボウイの初期のコズミックドライブのかかったものやダイヤモンドドッグズのような近未来SF的なロマンや浮遊感は一切ない。
極めて加速した街の光景の浮かぶ、現在の地上を横断する破壊力あるリズムであり戦慄すべき旋律だ。
そして、この時期のボウイの「アメリカ」への拘り。
彼の(曲の)変身は彼の場所の変遷に重なる。
「Low」はベルリンとなる。
カフカ的に「アメリカ」を彷徨い疾走中のもっとも突出した曲が”Panic In Detroit”


時に、音楽は日常のあらゆるリアルな経験~体験を凌駕し激烈な高揚その垂直的な認識を齎す。
「彼はわたしに家でおとなしくしていた方がよいと言っていた、、、」
それで充分なのだ。
音楽が全てを加速度的に革新してしまう。

映画も音楽でその厚みと質が確定する。
岩井俊二の「リリーシュシュのすべて」をはじめ彼の映画全て音楽の位置づけは極めて大きい。
「ブレードランナー」の”Vangelis”も同等であろう。
あの映画を想いうかべるとき決まってあの荒涼として哀愁を帯びたサウンドが流れる。
「ザ・ミスト」の”Dead Can Dance”もあの終曲「セラフィム(熾天使)の主」で映画が完璧に完結する。

これは挙げ始めたらキリがない。話がこれだけになってしまう(笑。


アラジンセインはマイク・ガーソンの煌びやかで分裂症気味なピアノが基調を作っているが、特にアグレッシブなジャズ的アレンジの効いた”Time”と美しく儚げな”Lady Grinning Soul”で際立つ。
これらも詩がすこぶる良い、、、。
このアルバムの隠れたテーマは「時間」である。
”Lady Grinning Soul”、、、香りを纏った刹那の永遠性を歌った曲でこれ程の名曲があろうか
更にロック以外の何ものでもない”Watch That Man”をかなり反復して聴いていたが、やはり”Panic In Detroit”で再生!である(爆。


”Panic In Detroit”

疾走するカオスが増幅し突き抜ける。
違う時間と系にノリコムにはこんなサウンドがよい!
ボウイもきっとそうして来た。
無数の場所~時空に無数のわたしがいるのだ。
家でおとなしくしていてもよい。
(例え籠っていようが、、、)。
そのためのRockである。


ただ気持ち良い、、、



ジョン・ウェットンに捧ぐ 土曜日の本

John Wetton001

ジョン・ウェットンが2017年1月31日に亡くなった。
癌であった。
何とも言えない虚脱感に襲われ、それを記事に書こうなどという気持ちは微塵もなかった。
わたしにとってジョン・ウェットンは、キング・クリムゾンがもっともそれらしかった第2期を支える柱である。
彼の死によって、確実にひとつの時代がプッツリと終わった。

カール・パーマーはここのところ、連続して追悼の意を発表し続ける立場である、、、。
(このあまりに重い連続追悼を彼はどう捉えているのだろう、、、彼もさすがにキツかろう)。
キース・エマーソン、、、グレッグ・レイク、、、ジョン・ウェットン、、、考えてみると恐るべき才能の消滅だ。
(彼らは、まさに才能と技量のみで生きていたことを確認する。変な付加価値は必要としない)。
今日、何気なく、エイジアのファースト(1982年)を聴いて、楽観的でポップな気分に浸ったためか、少しだけジョンのことを書いてみたくなった。

わたしは、あまりクリムゾン以外の彼に興味はなく(ファンの風上にもおけないが)他の音源はあまり聴いていない。
だが、彼のインパクトがわたしにとって絶大であることは間違いない。
クリムゾン二期が余りに絶対なのだ。

かのロバート・フリップをして「彼はわたしのヒーローである」と言わしめた男である。
それにしてもどのような文脈でこれをフリップが言ったのか、さっぱり覚えてはいない。
何にしてもロバート・フリップに尊敬されるようなヒトはまず、そうはいまい。


クリムゾン以外でわたしが彼を聴いたものは、ないわけではない。
だが、やはり創造の水準が異なりすぎる。
有り得ない強度~微分的な演奏によって生成と解体の間を行き来するクリムゾンの世界は驚異であり別格なのである。
他のアーティストのものは、いくら緻密に複雑に構成されていたとしても程よい計算のレベルに想える。

とは言え、彼の参加した優れたユニットを強いてあげれば、UKか。
確かに、ありえない程の布陣であった。

ジョン・ウェットン 、、、vocal/bass guitar/moog pedal bass
ビル・ブラッフォード、、、 drums/percussion
エディ・ジョブソン、、、 organ/CP-80/CS-80/minimoog/electric violin/backing vocal
アラン・ホールズワース、、、 guitar/backing vocal

スーパーグループであり、この強烈な個性から持つはずはないと思った。
勿論、出た瞬間に購入した(笑。
直ぐに空中分解すると思っていたし、、、。

最初から分かっていたとは言え、予想を上回る凄まじい演奏であるが、尺の長くてテンションのやたらと高い曲にリスナーはついて行けなくなる。そのため、セールスは伸びなかった。それがわたしにも予感できた。
フリーキーなハイテクジャズロックより更に凄いものであったが、時代は違うものを求めていた。
斯く言うわたしも、その芸術性の高い造り込まれたサウンドに引込まれはしたが、彼らメンバーの名前で聴いていたふしはある。
極めて高い水準で作られたコンテンポラリーミュージックであったが、この方向性は直ぐに途絶える。


それからジョン・ウェットンが音楽ファンの誰にも広く認知された商業的にも大成功を果たしたエイジア。
売れ線は一切聞かないつもりのわたしも、さすがにこのグループのファーストは聴いた。

ジェフ・ダウンズ 、、、 Keyboard (元バグルス、イエス)
ジョン・ウェットン 、、、 vocal/bass guitar/moog pedal bass (元キング・クリムゾン、UK)
スティーヴ・ハウ 、、、 guitar (元イエス)
カール・パーマー 、、、 drums/percussion (元ELP)

ジェフ・ダウンズの役割(主導権)が大きい印象があり、エイジアはやたらとポップであった。
正直、戸惑った。バグルスを重厚にスケールアップさせたようなサウンドに思えた。
ジョン・ウェットンのボーカルは美しく、ベースも相変わらずアグレッシブであり、作曲にも携わっているのだが、、、
UKにまだ残っていた作家性や芸術家気質は抑えられているようであった。
彼の新しいポップで爽やかで明るい局面を覗いた気分であった。
とてもある意味キャッチーで短いポップチューンでアルバムは構成されていた。
どれもシングルカットでヒットを狙えそうなものばかり。
確実に、アルバム一面で一曲(ともかく長く複雑な曲構造)というプログレ時代からの脱却であり、それを求めるヒトがこのサウンドを待っていたのだ。時代に迎え入れられたに違いない。

しかしどこかわたしには寂しい感触が残った。
それまでの深淵から響いてくる知的な翳りに染まったジョン・ウェットン節は影を潜めてしまう。
例えば、在り来りな曲を書くことでみんなから辟易されていたユーライア・ヒープに短期間在籍した時も、彼の書いた曲だけ飛び抜けて重厚で美しく変幻するメロディーをもち、際立っていた。当然アルバム全体のリズムが格段にレベルアップしていることも素人にも明白であった。ジョン・ウェットンが少しでも絡んだユニットは確実にそれまでにない荘厳な響きを纏ってきた。
彼のベース、魅惑的なボーカルも他にないものだが、わたしは彼のもっとも特筆すべき才能は作曲にあると思う。

しかし、彼はこの「エイジア」の方向性がとても気に入っていたようだ。
あくまでもエイジアの活動を主体にして、他にも色々なプロジェクトに参加はしていた。
ジェフ・ダウンズとの曲作り、も含めこのふたりがグループの中心であることは、明白である。

ここでは、ソロでいくらでも目立てるヒトが、皆抑制を効かせて、短くタイトなポップチューンをまとめることに専心している。
とは言え元々ポップ路線のバンドでは、こんなアレンジとダイナミックな演奏など、まず無理であることが分かる。
超絶技巧のミュージシャンが、ソロプレイを封印してポップな曲作りに専念した結果のカラフル(複雑)で前向き(そうまさにそれだ)なサウンドを提供している、と言える。
しかしこのグループもぶつかり合いは激しく、メンバーも安定せず、ついに主要メンバーのジョン・ウェットンも永久に抜けてしまった。
それでも元イエスのメンバーの補充で(わたしはその人を知らない)今後もグループは続行するそうである。
しかし、ジェフ・ダウンズの受けた喪失感はやはりとても大きいようだ。

「彼の作曲はこの世のものとは思えなかったし、彼のメロディとハーモニーも現実のものと思えなかった。彼は文字通り『特別な人』だったんだよ。」


これまで二期のクリムゾン(太陽と戦慄、暗黒の世界、レッド)を定期的に聴いていたのだが、、、。
そうしないと、感覚が麻痺してしまう。
このギリギリの神秘的ですらある創造のパフォーマンスの一角が欠けてしまった事実~空虚は思いの他大きい。
暫くは聴けそうもない。
ボーカルである分、尚更響く。

一期のクリムゾンのボーカルは、グレッグ・レイクである。
エピタフが更に現実味を帯びている今日、、、。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


でも、「土曜日の本」は、聴きたくなった、、、。
この曲と「堕天使」。
改めて、、、。

John Wetton002

グレッグ・レイク~キース・エマーソン

Greg LakeGreg Lake Keith EmersonKeith Emerson

年の瀬に、何とも寂しいものである。
ELPのELである。エマーソンは3月に銃で自殺、レイクは癌により亡くなったことが12/8に発表された。
エマーソンは所謂、鬱であった。これについてはどうにも書けなかった。他人事ではないし、、、それが今度はグレッグ・レイクである。
もうPだけである。カールはまだかなり元気でいるらしい。
(ドラマーはいつも運動になっている感じだし、新陳代謝も良さそうな気がする)。
晩年の、クリムゾンキングのジャケット絵みたいに膨れ上がってしまったグレッグ・レイクを見ると何とも忍びなかった。
いくらなんでも膨らみ過ぎで大丈夫かと思っていたが、やはり無理があったか。こちらも他人事とは言えないが。
どうしても中年過ぎるとヒトは太ってしまう。(勿論、細くなるスティーブ・ハウみたいな例もあるが、、、彼はそのせいか、勢力的に自分の息子2人と組んでいまだにツアーをやってる。良い人生だ)。

”Brain Salad Surgery”『恐怖の頭脳改革』が特に好きなのだが、彼らのレーベル「マンティコア」初のアルバムである。
1973年。トータルアルバムとしての完成度の高さは、彼らの他の作品と比べても上である。しかも ”Karn Evil 9”『悪の教典#9』は圧倒的に凝縮されたエネルギー体である。グレッグ・レイクとキース・エマーソンを知りたい人には、まずこれを聴いてもらいたい。
そして、1971のセカンドアルバム”Tarkus”か。これはほとんどキースの組曲である。コンセプトもキースのもので、後の彼のコンポーザーとしての原型が窺える。
(わたしのフルートの先生も発表会で、”Karn Evil 9”のエレクトーン演奏をした。#が9つも付いているんですよ、と説明して始めたが凄い演奏だった。これを演奏すると誰でもエマーソンみたいに見えたことを、いまでもよく覚えている、、、何年前のことだ?)
そしてグレッグ・レイクの作品 ”Still...You Turn Me On”は、”Trilogy”、”From the Beginning”に並びわたしの最も好きなELPの耽美的てアコースティカルな曲の代表だ。ここでのグレッグのヴォーカルとギターにはただ只管酔いしれる。


この頃は、クリムゾン、イエス、ピンク・フロイド、ジェネシス、ジェントル・ジャイアント、ルネサンス、ヴァンダーグラーフ・ジェネレーター、、、などがとても元気で活きの良い頃である。
勿論、プロコルハルムも全盛期を迎えていた。ジェスロタルも忘れてはいけない、、、。

それらとは、別の流れで、クラフトワーク、カン、、、も独自の道を歩んでいる、、、。

群雄割拠である。
そんななか、、、トリオとしては、EGGと並ぶテクニックをもち、EGGがほぼ現代音楽なのに対し彼らはどちらかといえば、クラシック、ジャズ要素が強かった。無論、現代音楽へのアプローチも怠らず、”Brain Salad Surgery”の「トッカータ」はアルベルト・ヒナステラ作曲の「ピアノ協奏曲第1番第4楽章」を編曲したもの。サードアルバム”Trilogy”(1972)の”Hoedown”は、コープランドの曲を彼ら流に暴力的に編曲したもので、作曲者から絶賛を受けている。この曲に限らず演奏はどれもそのスタイル共々圧巻である。
また、EGGが基本的にInstrumental中心で、たまに入るヴォーカルは何とも無機的なのだが、ELPはグレッグ・レイクもキース・エマーソンもどちらも上手い!グレッグのヴォーカルは本当に叙情的で、大英帝国の深い霧を感じさせる知的で気品あるものだ。
彼のヴォーカルが聴ける曲の記念碑的なものにキング・クリムゾンのメンバーであった当時の、 ”Epitaph”がある。
”In The Court Of The Crimson King”に収録されている。(SF映画における”Blade Runner”にあたるアルバムといえよう)。
この曲に彼のヴォーカルの初期の魅力が湛えられている。いよいよ聴きかえしてみたい世界にもなってきた、、、。
その後(クリムゾンのSecond を経て)ELPを結成する。
ELPのハードなチューンだと、キースとグレッグの正直どちらが歌っているのか分からなかった。そう、とてもヴォーカルスタイルが似ているのだ。”Brain Salad Surgery”はキースがヴォーカルだとクレジットを見てはじめて知った。似ている。

グレッグ・レイクのベースはピアノのような澄んだ美しさで際立っていた。(ピアノのトーンに近いベース音なのだ。逆にベース音をシンセで出すプレイヤーは山ほどいる。単にベースギターの替りで出すのでなくても)。アコースティック・ギターの音色も煌びやかで美しかった。
キース・エマーソンのキーボードはまさに天才のテクニックであるし、そのステージアクションも彼独自のパフォーマンスとして熟成していた。
わたしのかなり昔の職場の同僚に、キース・エマーソンフリークの人がいた。
ご自身は幼少時代からパイプオルガンを本格的に習って演奏しており、専門は「数学」と「ババール」であった。
彼女の娘さんもお母さんにならっていつもキースがどうの~と言っていた。あの複数のキーボードの早弾きにゾッコンだったようだが、彼の作曲するクラシカルで稠密な構成のハードな曲にも惹かれていたようだ。
(わたしはこのお宅のiMacのメンテナンスと、ババールのHP製作のため写真取材に度々伺っていた)。
娘さんは年齢的に言って、キース・エマーソンを普通に知る世代ではないのだが、母の影響は大きく、彼女のアイドルだった。
、、、考えるともう相当昔の話だ、、、いまM家の人々はどうしているだろう?
恐らくいまでも趣味のババールの買い付けに母娘の軽いフットワークでヨーロッパに飛んでいる事だろうと思う。
「人間は趣味で生きている」、、、わたしの親友のS君の口癖(信念)だ。


キースは71歳で右の指が動きづらくなり、基本的に8本の指で演奏していたという。
クラシックピアニストもそれくらいの年齢になると腕が鈍るヒトは少なくない。
まして、非常に激しくアクロバティックな演奏を見せる人だ。しかも長時間に渡り何日も続け、、、。
過去に輝かしい成果を山ほど残しているのだから、ただ引退すればよかったのでは、、、。
グレッグ・レイクは長い闘病であったという。
あの体型も病のせいであったのか、、、。


ふたりとも、それに替わる人がいない、所謂天才であった。

ご冥福をお祈りしたい。



この世代で、未だに元気、元気(おかあさんといっしょではないが)なのは、ひとり飛び抜けて元気なミックジャガー筆頭にせいぜい数十名というところではないか?残念だが、今後も、ポツポツと寂しいニュースは入ってくるのだろう、、、。






マシュー・フィッシャーに捧ぐ

Matthew Fisher

ナイーブでセンチメンタルで夢見がち、、、彼は少年時代あの「ネモ船長」に憧れていたらしい。
やはりマシューも海賊の一員であることは確かだ。
トワイライトゾーンに浸りメランコリックな気分に酔ってみたくなったら、、、
マシュー・フィッシャーをターンテーブルに乗せたい。
(CDではない、、、と謂いたいところだが、パソコンに取り込んだ音でもなんでも、、、)。
確かにヒットする曲はない。
そういう曲ではない。
太陽と青空ではない。ギラギラしたアーティフィシャルな照明も似合わない。
月明りの下にチェアを出して聴きたい。(特に5枚目)。

マシュー・フィッシャーのアルバムは、調べた範囲では現在、「旅の終わり」(ジャニーズエンド)も品切れ絶版状態のよう。
2枚目~4枚目も全く店舗にもWeb上にも見ない。流通網からは姿を消した。
1枚目の”ジャニーズエンド”と2枚目の”アイルビーぜア”を一種に詰め込んだCDアルバムは見かけたことはある。ディスクユニオンで。しかし、もう在庫があるかどうか。事実上絶版状態ではないかと思われる。
同じく、3枚目”マシュー・フィッシャー”と4枚目”ストレンジ・デイズ”をひとつにしたCDは、まだ買えるところはあるようだ。新品は期待出来ないが。
また、5枚目の異色アルバムはわたしもCDだけで持っている。
このアルバムは輸入盤を扱っているところなら在庫はあるのでは、、、。本来の?マシューとは異質感があるのだが。
彼のLP版は、今や我が家の宝である。
(こういう燻し銀系アーティストは買えるときに買っておかないと一生手に入らない危険性はある)。

やはりファーストが良い。ジャケットも趣深い。
ここでの極めつけは、Separationである。
マシューの音楽の魅力がこの1曲に凝縮されていると言っても過言ではない。
そしてHard to be Sureのフラジャイルなガラスのような余りに純粋な曲。
ここが、彼のヒットとかセールス度外視の部分がよく表れている。
気取りやケレン味が全くないのだが、プロのミュージシャンとして余りにそれがなさすぎ心配になる彼らしい曲。
最後のJourney's Endはもうプロコルハルムのマシューだ。彼のロマンが溢れ昂まり充満してゆく。
(ソロになってつくづく思ったのだが、彼はやはりビートルズのホワイトアルバム以降のジョージ・ハリソンみたいに、グループ内でアルバムの2,3曲際立つ傑作を作るポジションがとても合っているのではないだろうか)。

セカンドは、ナイーブで繊細な歌を切々と聴かせるアルバムである。
Not Her Faultは、そのなかでも一際切なくリリカルな名曲である。
恐らくこの曲は彼でないと作れないHard to be Sureの線を行く無防備過ぎる曲だ。
しかし、こころにひりつく類まれな名曲に違いない。
Do You Still Think about Meは取り分け淡々とした内省的な彼のボーカルが染み込む。
I'll Be Thereでドラマチックに幕を落とす。

サードは、よく出来た曲で埋められている。
だが、ここで彼のアルバム(曲)がセールスに結びつかないことも何となく理解する。
これまでもNot Her FaultやHard to be Sureなどはプロデュースやプレイヤーによっては、スマッシュヒットに持っていけるポテンシャルは充分に感じた曲なのだが、どうもこのアルバムも同様の原因で残念なものを感じ、インパクトが弱い。
Only a Gameなどヒットしてもおかしく無いポップチューンだ。
Why'd I Have to Fall in Love with Youはマシュー全曲中最もポップ性が高いかも。
そう、聴いてみるとどれも相当レベルの高い曲ばかりである。
ただ、演奏の質が、、、特にドラムに問題がある。
マシューのハモンドオルガンと彼のボーカル以外に、後は取るところがない。
問題が露呈したアルバムというか、漸くわたしも気づいた課題というところ、、、。

4作目は2曲を除いてC.T.White(元ゾンビーズのベーシスト)との共作。
共作によって新しい血による化学変化は得られたのでは、と期待する。
Something I Should Have Knownでいきなりそれを感じたが、美しくマシュー独自のリリカルさの極まったSomething I Should Have Knownで、これはと想う。
その後にはハイテンポのポップなナンバーが続く。アルバムの流れがこれまでより自覚的に工夫されていることが分かる。
マシュー節は健在なまま、少しばかりコンテンポラリーな位置に近づきブラッシュアップした気はする。
だが、何というか危なっかしいまでの瑞々しさは、いまひとつ影を潜める。
Desperate Measuresは、共作ではないが、これまでの殻を破ろうとかなりハードに無理をしている印象を受けた。
Can't Stop Loving You Nowも彼だけの曲だが、リリカルで素人臭い彼のバラッドではなく、やけに拵えたムーディーさなのだ。
高音の伸びる艶やかな綺麗なボーカルでオルガン(ここでは然程弾いていない)も良いのに、やはり微妙だ、、、。
コンポーズも決して悪いわけではない。
演奏の面からいっても、この人はプロコルハルムにいた方が曲の質自体が二段階は高まると凄く思う。
(プロコルハルムの演奏レベルは高い。特にこれまでのドラムは格別)。
ソロになると、その辺、不自由するんだろうか、、、。
Strange Days、、、新しいマシューの素敵な曲ではある。

5作目は、何と自宅で打ち込みレコーディング。最初聞いたときは、こんな曲想で~と示す為のデモテープ版かと思った。
それは、アルバムジャケットが余りの情けなさで(正直、何だこりゃのレベルで)、そこからくる先入観にもよるものであった。
しかも、のっけからこれまでのマシューから考えられないサウンドであったから、、、。
とは言え、聴いてみると実によくできたものなのだ。(頭からあのジャケットを振り祓って、、、)。
こういうマシューのサウンドもあるんだと、、、ちょっと唖然とした。きっとかなり思い切ったのだ。
暫く放置した後で改めて聴いて気づいた。(兎も角、ジャケットデザインが凄まじく悪かったせいだ)。
かつて、フォーカスとムーディーブルースがデモ作りの途中といった感じの曲を未発表曲集アルバムとかで出されてしまい、彼らの輝かしいキャリアに泥を塗ることになってしまったが、一瞬そんな類のものかと想像してしまったのだが、、、。
しかも、ハモンドオルガンかピアノ以外弾いてこなかった(公には)はずの彼が、ギターを弾きまくっているではないか。
勿論、専門外の楽器でも自宅で趣味で演奏するような事はいくらでもあろうが、アコースティックについては、かなり様になっている。エレキギターについても危なげはない。少なくともブライアン・イーノやピーター・ハミルより上手い。その点では安心して聴ける。
できれば、盟友ロビン・トロワーにエレキだけは任せるとかした方が、サウンドの奥行はずっと出たかも知れないが。
彼はブルースギターの天才であるが、どんな曲想にも合わせてくれるはずである。
まあそれを言ったら、マシューのソロアルバム全てに言えることだが、ドラムが酷い。5作目の打ち込みドラムの方がスッキリしていた。
プロコル・ハルムが何故あれほどの奇跡とも言える大傑作アルバムを出し続けて来れたかといえば、その大きな要因のひとつが、バリー・J・ウィルソンの卓越したドラミングによることは間違いない。
ドラムがダメだと曲が成り立たないことは、色々なアーティストのアルバムを通じてずっと感じてきた。
低予算で制作したためか、、、しかしマシューには重厚なリソースがある。それを使わない手があるか?
何故、ロック界一の天才ドラマー、バリー・J・ウィルソンに頼まないのか、と思ったことは確か。
惜しくも彼は1990年に交通事故で亡くなってしまったのだが、4枚目のアルバムまでは付き合って貰えたのでは、、、。
現に、ゲーリー・ブルッカーのソロアルバムでは、いつものテクニックを披露している。(彼の最期の仕事となった)。
(バリー・J・ウィルソン死後、またブルッカーとマシューはよく一緒に仕事をしている。ブルッカーのソロでも、作曲がブルッカー=フィッシャー=リードなのだ。おまけにプロデュースも担当している。彼らは1991年にグループ再結成もしている。”The Prodigal Stranger”はゲーリー・ブルッカー=マシュー・フィッシャー=ロビン・トロワーに詩人のキース・リードの最強メンバーである。バリー・J・ウィルソンがいないのが凄く寂しいが)。

Separation
Why'd I Have to Fall in Love with You
Do You Still Think about Me
Hard to be Sure
Only a Game
Not Her Fault
I'll Be There
Journey's End
Without You
Something I Should Have Known
Strange Days

更にこれに加え異質に聴こえた5枚目、、、。よく聴いてみると彼の最高傑作かも知れなかった。
打ち込みのプライベート風作品で、もう閉まった後の月の光で煌く遊園地みたいな曲集である。
Nutrocker、、、吹っ切れたマシューの存在を感じる。
Dance Band On The Titanicは、はっきり言って前4作のどの1曲目より惹きつけ、これからに期待を抱かせる名曲である。
それに続く2曲目タイトルのSalty Dog Returnsも素晴らしい。(何故最初に気付かなかったのか、、、それはこの頃流行っていたヒーリングミュージックにサウンド的に妙にダブってしまった為もある、が明らかに異なる)。Strange Conversation Continuesが異質に感じたアルバムの代表的な曲であるが、その電子音(テクノ)サウンドはジュール・ヴェルヌのSF小説に近い疑似(魔術的)科学のイメージに充ちている。あのノーチラス号のときめくメカニック。であれば、やはり原点回帰なのだ。まさにSalty Dog Returnsである。Linda's Tuneでその確信を得た。
最終曲Downliners Sect Manifestoはコミカルで硬質で、もの寂しい郷愁のうちに終わる。
これまでのロマンチックで厳かなフィナーレとは明らかに違う。
スケールを絞って、逆に遊星的な孤独と郷愁を描いている、、、。
おっと忘れるところだったが、ボーカルは一切ない。やはり新境地だ。


、、、いつ聴いてもとても孤独で寂しく、心地良い。とても心地よい。


コンテンポラリーな要素というよりメランコリックなロマンがしっとり息づいている。
車に乗って爽快に飛ばしながら聴くヒットチューンはないが、月夜の静かなひとときに植物と一緒に聴きたくなる、、、。

やはり、わたしはマシュー・フィッシャーが大好きだ。
改めて聴いてその意を深くした。
わたしは、マシュー・フィッシャーが大好きだ。

Nemo.jpg
オルガンを弾くネモ船長


水曜日のカンパネラ

Wednesday Campanella

”水曜日のカンパネラ”の中毒性。
これには参った。
つい最近、このユニットを知った。
(「日々ゆらり」muzi-q様運営ブログにて)
随分遅いか?
こんなに微妙な(バランス感覚の)音があったとは、、、。
ピコピコテクノでもあるが、妙にペシミックなコードが目立つ。
何というのか、、、ヒップホップでもあり、J-Popでもよいか。
韻を踏むナンセンスな言葉がまた、妙に艶かしい。

このアーティストはビデオで鑑賞するタイプだ。
音楽だけで聴くよりビデオで魅力を発散する。
”コムアイ”というヒトは、クレジットがボーカル(ラップ)という立場だけではなく「主演」となっている。
ミュージックビデオがデフォルトか。
実際、これは観るべきであり、断然、観た方が面白いはず。

まず、全編アニメの「桃太郎」が感覚にこびりつく面白さがある。
アクの強い絵も歌詞も絶妙。
(この画風はよく見る。名の知れたイラストレイターによるものだろう)。
しかしボーカルはフラットで透明。そして直向きで可愛らしい。
早速うちの娘たちに観せてみたが、こういう面白アニメに絡むリズム・サウンドにはすぐに、はまりこんでしまう。
唖然とした顔で魅入っている。
特に「キッビダーン、キビキビダーン、オニッターイジ、オニオニターイジ」のリフレインや「魂の16連射!」などのナンセンスなラップの韻とリズムがアニメと溶け込み、メディアとしてのマッサージ効果にタップリ浸れる。
「魂の16連射」って何?と聞かれてわたしに分かるはずもない。
しかし、このMVサウンドの中ではピッタリだ。

勿論、コムアイ女史のフル主演が見られる「モスラ」や「マリー・アントワネット」も愉しい。
こちらは、長くて退屈な映画による拷問めいた苦悩から気持ちを解放してくれるに充分な爽快感があった。
やってる当人がともかく愉しそうなのだ。伸び伸びした遊びの感覚。
「小野妹子」では、山田孝之が出ていた。もしかしたら彼は”水曜日のカンパネラ”のファンなのか。
MV自体が気持ち良いメディアであるが、この”コムアイ”ヒップホップは殊更に身体に和む。
(最近、映画がやたらと長く感じられることが多く、観終わるまでに飽きて6,7回ポーズすることが増えてきた)。
こういうミュージック・ビデオの方が遥かに気持ち良いことをつくづく感じる。
尺も5分程度で十分なのだ。
それで世界観はしっかり伝えられる。
映画の高密度版ともとれるが、この先映画もこうなっていって欲しい。
「去年マリエンバートで」も濃縮すれば、かなりこういった形式に近くなるはず。

「インカ」や「ミツコ」や「チャイコフスキー、、、」など、そのナンセンスに畳み掛けるラップと絵の勢いは凄い。
更に「ラー」などは、VFXにかなりお金がかかっているようだ。
曲数からみても、かなり熟したヒップホップ(ラップ)ユニットであることが分かる。
知らなかった、ではシャレにならない。

ここのところ自分が如何に新しいものに触れてこなかったかがよく判る。
”サカナクション”と”水曜日のカンパネラ”は大きな収穫である。
こちらもいま、キャパ切れ状態であるため、殊更新しいものを物色するつもりもないが、良いものはやはり取り込んでゆきたい。


さて「桃太郎」をもう一回観てみよう、、、(笑。

クラフトワーク礼賛~ニューオーダーの死

kraftwerk002.jpg

”Music Non Stop”(Kraftwerk)
この1曲の一撃はいまだに残る。
ただこの曲と同等の衝撃は”Blue Monday”(NewOrder)にも受けた。

凡百のハード(ヘビー)ロックなど何百束になっても、ひと振りのハエたたきで一瞬に皆ぺっちゃんこという強度である。
強烈な差異である。
次元が違う。
一分の迷いもない。
絶対的自信漲る隙のなさ。
特に”Music Non Stop”は、ヴィデオで観たい。
(”Blue Monday”もヴィデオがよい)。
人間性の欠片もない、昆虫ロボットが圧倒的確信のもと、音を紡ぎ出している様がありありと窺える。
異物性と崇高さが醸す威圧はあるが、とても爽快である。
クリング・クラング・スタジオに他者(デビッド・ボウイ以外)を入れないのはよく判る。
彼らが元の姿で演奏する場所だからだ。マスコミなど入れたら大変だ。
ボウイはもともと宇宙から降ってきた男だ。
外骨格など気にしまい。

ルーリードの「メタル・マシーン・ミュージック」はアメリカからの返歌 であった。
そう、ルーも親戚かも知れなかった。ボウイの親友だし。

「知性」と「テクノロジー」による音楽ーサウンドの完全勝利である。

今日、最初の大ヒットアルバム”Autobahn(1974)”を聴いてみた。
物凄く懐かしい音である。
それから”ManーMachine(1978)”も。
「人間解体」という邦題が傑作である。
明日は、折角棚からごっそり取り出してきたので、”RadioーActivity(1975)”を聴きたい。
そうだ、”The Mix(1991)”もあった、、、。
(このようなリミックスバージョンはNewOrderもよくやっていた)。

しかしkraftwerkのどれも、、、
以前聴いた時よりも、随分哀愁を感じる。
そう、何故か郷愁や哀愁をやたらと感じるのだ。
最初の衝撃が解けた後、メロディの遊星的哀愁が残った感じだ、、、。
それはそれで、良い。
破壊力がそれで減じる分けではない。

クラフトワークはもうミックス・リミックスを無限に繰り返し世界中の音楽の遺伝子となって定着してしまった。
ミトコンドリアみたいに。
今の音楽に必須の要素となって。

NewOrderも多くの死を孕みつつ確かなスタイルを残した。
そして少なくとも”GetReady”で完全解散すべきであった。
何故、むりやり復活しようとするのか?
復活は、”GetReady”一発でよかった。それで、もうおしまいにすべきだった。
もう充分であったし、終了とてっきり思っていたのが15年ぶりのインターバルだなんて洒落にもならない。
すでにNewOrderには、コンポーザーが不在だ。

”MusicComplete(2015)”というアルバム、、、であるが、、、
わたしは、”GetReady”で一度復帰してみたが、もう彼らは完全にやめたと勝手に踏ん切っていた。
何であえてまだやるのか、、、としか思えないものであった。
ここにはかつての彼らの色々なイデオム(エレクトロ的な面とギターバンド的な面)のいまひとつ煮え切らぬ旋律と、初期の少し?を感じた”Sub-Culture”的な安易な曲、それからバーナード・アルブレヒト(サムナー)のエレクトロニックのサウンドを覚える部分が交互に見え隠れする。
それらは、一番つまらない劣性遺伝子の発現のような、作品のブラッシュアップと共に消えてゆくべき要素であった。

あくまでもNewOrderは、”Blue Monday”の強度を保つバンドである。
そのサウンドは一言で言えば、ニーチェのツァラトゥストラ的なものである。
この破格(エレクトロとアシッドディスコの融合)の創造性こそが彼らである。
そのバリエーションの生成・反復が彼らであった。
ギターがメインでもよい。
ギターバンド的なサウンドは、”The Perfect Kiss”である。

ここには、彼らの”Regret”がない。
”Vanishing Point”がない。
”Ruined In A Day”がない。
かと言って、”World In Motion”もない。

その意味で、これらは単に半端な形骸である。

発想とアイデアの尽きた凡庸な曲だけがNewOrderの名で並んでいるではないか。
”GetReady”で終わっていれば、彼らの歴史を汚すこともなかったろうに、、、。
と思う。
もう完全なゾンビである。
前作でKraftwerkに送った曲があるという。Kraftyか。(craftyであれば狡い、悪賢いとなるのだが、、、皮肉なものだ)。
もう一儲けでもあるまいに、、、。脱退したピーター・フックとの間に金絡みの問題も起きてるらしい、、、。


何であっても死ぬタイミングが肝心である。
死にぞこなったら(しがみついたら)オシマイという何とも寂しい例だ。



サカナクション 

sakanaction001.jpg
sakanaction

ボーカル(フロントマン)の山口氏の表情が非常に印象的であった。
先日、テレビでライブの一部を観たのだ。
確信に満ちた晴れ晴れとした顔がやけに脳裏に焼き付いたのだ。
サウンドにも少し聴いただけだったが、惹かれた。気にかかった。

かの山口氏、誰かに似ていると思ったら、田辺画伯ではないか(笑。
違うか、、、ともかくわたしは、サカナクションを初めて聴いた。(グループ名は知っていたのだが、、、)


良かった。
日本のミュージシャンも少し聴いてみようと再び思った。
以前、そう思ったのは、Salyuに接してのことであった。
Salyuは圧倒的存在であった。
瞠目した。
その前に聴いていたのは、遊佐未森と越美晴とナーヴ・カッツェか、、、。
随分前だ。
わたしの持っているLP約500枚とCD約2000枚は、ほとんど海外アーティストのものだが、iTunesで買い始めた音楽のうち200曲は少なくとも日本のミュージシャンのものだ。小林太郎が一番の注目株であるが、、、。

わたしがロックとクラシックと現代音楽を聴いてきたのは、それが日本でない(起源と必然をもたない)音楽であるからである。
わたしは、日本的なものが尽く気色悪く、神経に触り、深い憎悪の対象となっていた。
それは、近親憎悪にもピッタリ対応する。(自分のルーツは大変ベタな縄文人という感じなのだが(笑)。
わたしのアイデンティティは、日本的なものからあらん限り遠ざかることで形成されてきた経緯がある。
だから気に入るものは、普遍性に達したものとなる。(ヨーロッパ的なものがよいとかいうものではない)。
無国籍的とかワールドミュージックとかではなく、アナキズムにベクトルの向いたもの、、、。


話を戻す。
彼らの”sakanaction”は聴き応えを感じた。
わたしは、徹底したサウンド派であるが、時折詩も確認はする。(訳することもある(笑)
彼らは歌詞に重きを置いてる。
女性ベーシストの演奏がなかなか目立つ。
オルタナティブ・ロックという懐かしい言葉を思い出す。

kikUUikiとDocumentaLyも合わせて一度聴いてみた。
バッハやクレーまで、出てきた。
一種拘りのある歌詞であった。
このサウンドの質感、エレクトロでもあるか、、、
それを引き合いに出せば、アフリカ・バンバータでクラフト・ワークに繋がる。
繋がる。
何も、電気グルーブばかりじゃない(爆。
良い感触だ。

アルバムとしてはDocumentaLyからkikUUikiそしてsakanactionと来るようだが、一度に聴く分には、その流れに意味は特に感じない。彼らをリアルタイムに聴いてきたら流れに感想はいろいろ持つのだろうか、、、。
それぞれに対しまだ何とも言えないが、かなり印象的な曲もあり、いずれまた書く機会は持ちたい。
気になる曲はある。

一度に聴いたら、どれがどれという感じではないのだが、sakanactionが一番吹っ切れたサウンドに聴こえた。
普遍性が高く、洗練されておりヨーロッパでもどこで流れても違和感はない感じがした。
ということは、わたしにとって聴きやすかったことを意味する。
すんなり飲み込めた。

DocumentaLyは、エレクトロ色が強く残り、全体を覆う孤独感に好感はもった。
kikUUikiでは、Paradise of Sunnyが特に面白かった。トータル性もありまとまりも感じる。
どちらも一筋縄ではない、ペシミスティックだが解放に向かおうとする世界観を形作っている。


全体として聴いて、”sakanaction”が一番心地よかった。
わたしは、無機的なものが好きなのだが、このアルバムは様々な要素がアマルガム化され昇華・蒸溜されたものに想える。
それで、とてもすっきりした後味を覚える。

更に懐かしい。
何かに似ているのだが、それを指し示せない。
だが、聴いたことがあるサウンドなのだ。
これまで聴いてきた音の奔流が、ここにも溢れてきたのかと感じられた、、、。

音楽というものがたぶん、そういうものなのだ。





クラフトワーク

Kraftwerk001.jpg

Computer World (1981)とTour de France (2003)を最近なんとなくまた聴いている。

これ以前に彼らは誰も理解できないような、とんでもない音をすでに発表していた。

まずセンセーショナルであったのは、”レディオ・アクティビティ”。
そしてマニフェストとして強烈に響いたのは、”マン・マシーン”であった。
ちなみにMVで圧倒されたのが”ミュージック・ノンストップ!”
これまでの音を全て断絶し、何にも妥協しない、完全なオリジナルの音を作る凄まじい強度(差異)であった。
(タンジェリンドリームさえ、イギリス的イデオムに感化されているとして、彼らは認めなかった。であるからきっとイエスとかELPなんぞ論外であったはず)。
クラフトワークとは、結局クラフトワークでしかなかったことに、だいぶ後になって誰もが気づく。
唯一無二とは、彼らのための言葉であった。
(ライブがまさにそれ。)


この時期ドイツのエレクトロニク・ロック(何と呼ぶべきか、、、)、カン、グルグル、アモンデュール、ファウスト、、、たちは、既製のロックやポップは勿論、クラシック、既製の現代音楽から、あらん限り遠ざかって行った。
イギリスやフランス、イタリアのロック(ポップ)アーティストが適度なクラシックロジックをとりこんで、稚拙で脆弱な音をひょろひょろ出していた時期と重なると思うと、やはり音楽性以前の姿勢からしてまるで違う。
先のジャーマンロックアーティストから見ると、彼らは随分安易で不真面目に映ったはずだ。


”Computer World”
例えば、火星で独り作業に明け暮れるなんてことになったなら、こんな音楽が一番心身に良いはず。
適度な刺激と覚醒を呼ぶが、思考の邪魔にならずに、いつしか視界に溶け込んでいる。
聴いていていつまでも疲れない。

昔の音とは言え、圧倒的なオリジナリティを発し続けることに、改めて驚く。
その音はサンプルとして、その後の様々な音楽に溶け込み、すっかりわれわれの肌に馴染んでいる。
いや、肌というより神経に。
それでも、新鮮なのだ。
神秘ですらある。

ついうっかりするところだが、1981年といえば、まだマックも世に出ていない時期である。
アタリでキューベースが使えたか、、、いやまだだ。
こんな時代に、完璧なコンピュータミュージックが作られていた。
ただ、驚愕である。
ここから後のYMOが生まれ、電気グルーブなどの孫やひ孫たちが続々と輩出することになる。
所謂テクノ直系でなくとも、ほとんどのミュージシャンがその方法論を拝借したことは事実だ。
彼らの音はリミックスし続け拡散し、他の音楽に繋がってゆく。


”Tour de France”
ヒトと自転車。ヒトに最も密着し一体化したテクノロジー。
クラフトワークにうってつけの題材。
機械化したヒトの姿そのもの。
しかもそれは高速に加速する未来派の音である。
音楽=ヒト=機械
テクノ・ミュージックの極み。

彼らのクリング・クラング・スタジオから繰り出される音がそのままツール・ド・フランスに速度として流れ込む。
(クリング・クラング・スタジオに入ることを許されるのは極僅かな人のみであったらしい)。
心地よさばかりが染み渡ってくる。
心地よいが、調和と同義になる。
テクノというのは、まさにこれであった。
音楽としての円熟がこれまた凄い。
ここまで複雑な楽曲となるとは、思わなかった。

いずれにせよ孤高のクラフトワーク・ミュージックである、としか言い様がない。


これにディスコとハウス、ゴシックロマンが絡み合うことで、”Blue Monday”(NewOrder)が生まれる。


雨音が響き鐸(さなぎ)となる

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The Cureの"Wish"を最近よく聴く。1992年のものでわたしの聴くもののなかでは新しい方だ。

CDをコンスタントに買わなくなって、もう久しい。
しきりに購入していたのはLPレコードであり、CDの頃にはもう幾分覚めていた。
iTunes Storeで買うのに慣れてきたところで、一曲単位の販売がなくなったので、それももうやめている。

ということでここ数ヶ月で買った音楽はCDで、ももクロの「セーラームーン」(娘に頼まれ)と電気グルーヴくらいか、、、。


”Wish”は、わたしのZERO状態に何ともよく馴染む。
零度と言うべきか。
ついさきほど、一度ヘッドフォンを外し、席を立つとき耳に入った雨音に妙に共振する音であることに気づいた。
過度の湿り気と漆黒に震える旋律。
あまりに自然にその場所絵と誘う律動。
雨音に似て。

”From The Edge Of The Deep Green Sea”からただひたすら入り込む。
深みへ。
幻想に烟る深みへ。
歪んだオルガンとギターのつくる音色以外に光のない闇に沈む。
”Doing The Unstuck”などは三味線と琴で演奏しても恐らくアレンジが更に深まることが分かる。
その流れによりそいつつ補正しながら進んでゆける音である。
何というか、外からの音ではなくなってゆく。
キング・クリムゾンにそんな余地は残されない。

”Trust”からさらに黒い霧に包まれ下ってゆく。
そう、われわれは下に下に沈むのだ。
あるべき住処に戻る。
いろいろな謂われ方をしてきた場所である。
それが虚空に解かれるもうひとつの路であることを、知らず想い出している。



”To Wish Impossible Things”に至る頃には、漆黒の雨音が楽曲の要素となっている。
いや、組み込まれていたのだ。
この夜のために生成されたのだ。

考えてみれば、同じ音など聴いた事がない。
同じ作曲家の同じ演奏家の同じクレジットのレコードであろうが、同じ音が流れたことなど一度もなかったことに、今更ながら驚く。

シドバレットのピンクフロイドを聴いた時の煌きがここにも感じられる。

その音は、プログレッシブであったことなどない。
このかたまりは、全ての表象を取り込み。
飽くことなくわれわれを個の外へ心の底へと、引き戻す。


夜の雨音に耳を澄ましいつしか鐸となる。

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電気グルーヴ ポケットカウボーイ 懐かしいコジコジ

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一度もアルバムを聴いていないで、記事を書くのもちょっと何なので、初期のアルバムAを聴いた。
すると何と懐かしいコジコジのテーマ曲?「ポケットカウボーイ」があった。
その当時、この曲を聴いて何て面白い曲を作るアーティストだろう、とつくづく感心したものだ。
また再びあの頃の、奇妙な感覚を味わった。
「コジコジ」もまた見たくなった。
あのアニメどこかで見られないだろうか?

ここには、他にも「パラシュート」とか「ガリガリ君」に「猫夏」、「SMOKY BUBBLES」など感性を擽る曲ぞろいだ。
唯一「あすなろサンシャイン」だけは、しつこすぎて辟易したが、、、他の曲はクセになる音だ。
1曲だけスキップしてこの先も何度も繰り返し聴いてしまいそうなアルバムである。
そう、「ガリガリ君」は、赤城乳業の氷菓「ガリガリ君」のキャンペーンプレゼント用として製作された非売品特別SCDのものらしいが、初めて聴いた気はしない。
この凄まじい音は、聞き覚えがはっきりある。大胆なサンプリング元も窺える。

しかし、「猫夏」あたりまでこのアルバム聴き進めると、もうYMOやクラフトワークに並ぶ独自性と強度を感じてしまう。
つまりテクノを超えたテクノだ。
石野卓球とはどんな人なのか。
ピエール瀧とのステージや楽屋裏のヴィデオを観てしまうと強烈な個性というか、アクの強さばかりが残ってしまうが、、、。
そして余りにぬけぬけとした図太い曲、「Shangri-La」。
これはヒットしただろうな、、、。

こんな強さがわれわれには必要だ。
身体の底から戦闘力と破壊力の湧き出る曲だ。
電気グルーヴとは、この強靭な力であると分かった!

ついでに近所のレコード屋にとんでついさっきVOXXXを仕入れてきた。
Aの3年後の作品だ。
もう今日は間に合わないが、これについてもまたすぐ書きたい。
今聴いてる感じでは、わが「NewOrder」に近いものを感じる。
遥かに荒々しく、節操ないが、、、。
だが資料を見ると石野卓球氏は「NewOrder」のファンであることを知った。
(まだ、見ると言う程、見たわけではないが)。
なる程ね。
そんな感じした。
原質にそれが感じられた。

Aより確信に満ちた曲作りが窺える。
トータルアルバムとして極めて純度が高い。
と言っても、完成度が高まったというより、更に自由度と奔放さ(ナンセンス度)に煮え滾るエネルギーの奔流である。
凄まじい原始的な生命力。

そう、クラフトワークのような知的な構築性にまっしぐらに進む方向性と真逆である。
寧ろそこはCANに近い。
YMOがこぢんまりとしたグループに思えてくる。
どのアーティストをもってきてもこの大胆不敵さ(ふてぶてしさ)には敵わないが。

今聴いてる最中であるが、このVOXXX、気が変になりそうな狂気のアルバムであることは確か。

だいたい、「ジャンボタニシ」って何なんだ?!
それを演歌調にこぶしを回して唱われても、、、

終盤はもうトランス・ムジークである。
ここは寧ろ行儀の悪いクラフトワークといった感である。


圧倒的!

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プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

*当サイトはリンクフリーです。

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