カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

憧れの馬頭琴 そして”フォーミー”

batoukin001.jpg

馬頭琴の話は、学校の国語の題材で採り上げられていたもの「スーホの白い馬」で、長女がその話に感動し、その楽器の演奏を聴いてみたいということで今回の運び〜泊まり掛けのモンゴル体験になった(笑。
コンサートだけなら東京界隈であるのだが、モンゴル気分を味わいたいとの事。
どちらがメインかどうもはっきりはしない。
馬頭琴はともかく聴くとして、ゲルのお泊まり、後は食事と、衣装を着た撮影くらいか、、、わたしは風邪で出掛けるのも辛いものだったが。
毎年、那須高原は初夏には必ず訪れていた頃もあったので、懐かしさからお伴した。

その馬頭琴という楽器の由来であるが、、、
スーホという男の子が拾った白馬を逞しく美しい馬に育てあげる。
その立派な馬で彼は王様の主催する競馬大会で優勝する。
褒美としてお姫様と結婚できるはずであったのだが、何と馬は奪われ彼も手ひどく痛めつけられてしまったという。
馬は王様の自慢の名馬として囚われの身となっていた。
しかしある日、隙を見て白馬は王様の所からスーホの元に逃げ帰えろうとする。
その途中で追っ手の放つ沢山の弓に射られ、スーホの元には戻るも明くる朝、息絶えてしまう。
嘆き悲しむスーホであったが、ある夜の夢にその白馬が現れ、どうかわたしの尻尾や毛や骨で楽器を作ってください、と彼に頼むのだった。
スーホは目覚めて直ぐにその馬から楽器を作り、人々にその音色を聴かせると、みなが疲れも忘れ、こころを深く揺り動かされたという。

馬頭琴という楽器はこうして生まれたそうだ。
(、、、ここまで全て長女談、物凄く短縮(笑)。


その楽器の演奏をホールで聴いた。
日本で活躍中のモンゴル人の演奏家ムングン氏によるものだ。
2つに分かれた太く白い弦は、片方が馬の尻尾の毛が130本、もう一方が100本縒り合わされたものだという。
それを同じく馬の尻尾の毛180本で作られた弓で弾く擦弦楽器だ。
棹の先端が馬の頭部の形をしたところが何より特徴的であり、モンゴル語で「馬の楽器」の所以である。
鼓弓に似た感じのものだが、とても艶やかで力強い音色が出る。
躍動感に溢れ同時に、情感あるリリカルな楽曲が楽しめた。
この2玄でよくここまでの表現の幅を出せると感心するものだ。
しかし、ここで、更に驚くべき音楽体験をする。

それは人間業とは思えないフォーミーという驚異のボーカリゼーションであった。
何とも形容し難い音世界である。
ひとつ間違えると、超人隠し芸みたいな部門で話題になってしまいそうな危うさを秘めている。
同時に異なる音を2種類発する特殊な発声法によるもので、説明は聞いたが今一つメカニズムについては、イメージ的にも掴み難かった。
シンセサイザーでも余り聴かない非常にハイパーな電子的音響世界である。
何かの描写や叙情表現を超えている還元不可能な音なのだ。
聴衆もみんな呆気にとられて口を開けて、観ていた。
そう、何処からその音が出てくるのか、だた観入ってしまうのだ。
正直ビックリした。ロバート・ワイアットのボーカリゼーションに浸ってばかりはいられない。
彼のボーカルが普通に思えた。


朝食では肉とサラダがモンゴルものだそうで、それ以外は普通のホテルの洋食バイキングであった。
ミネストローネは美味しかった。アイスクリームは推しである。わたしはパンとジュースだけいただく。
後は、もう1つの楽しみでもあった衣装を着ての写真撮影である。
こういう事は彼女らは好きだ。何処へ行っても全種類の組み合わせを試してしまう。もう途中からついて行けなくなる。任せる。
帰りにここでしか買えないと宣伝する温泉饅頭やチーズケーキを買う。
お土産分以外は、電車内で彼女らが食べてしまった(笑。


20170403190318013.jpg

到着当日の前日譚。(上の本文は当日の夜から2日目である)。
昨日アップしたものは削除。高熱の為か締まりのないグダグダ文を書いていた。

栃木の黒磯にあるモンゴリア・ビレッジ・デンゲルという施設に泊まり掛けで来た。長女のリクエストである。
馬頭琴の話を本で読んでから、モンゴルはマイブームなのだ。
宿泊する部屋は一戸ずつ独立したテント〜ゲルであった事にちょっと新鮮な驚き。遊牧民族である。扉は低く小さい。中は、テレビで観たことのあるモンゴル調にアレンジされた中央にテーブルと椅子があり周りを微妙な色彩と模様に彩されたやはり如何にもモンゴル調のベッドに取り囲まれた赤基調の円形空間であった。モンゴルテイストの日本人に使いやすくセットされた部屋という感じか。天井の天窓風の丸い明かり取り部分が天気の良い日は取り外しが効くという。小物入れの蓋みたいだ。勿論、テレビ、冷蔵庫、エアコン、電話はある。
IMG_5384.jpgIMG_5378.jpg

彼女らは直ぐにモンゴル温泉?に出向くが、わたしは風邪が思わしくなく、温泉は諦め部屋で寝そべっていた。
外はにわかに冷たい雨が降り始めていた。
雨音が香ばしく立って聞こえる。よい音だが、はっきり響く。夜中もこれだと眠れるか?
外には、、、出たくない。体にこたえそうだ。
夜の料理は、モンゴルに関係ない、プレート焼肉料理であった(笑。普通。


参考までに、近々開かれる馬頭琴コンサート、、、ここでもし”フォーミー”も体験できたら、、、

「アサル国際馬頭琴アンサンブルコンサート」
2017年5月20日(土)18:30会場19:00開演
国分寺市立いずみホール

問い合わせ:090-4703-4824


Lux Virenz ~ジョセリン・モンゴメリー

Jocelyn Montgomery

ヒルデガルト・フォン・ビンゲン、、、作曲

ジョセリン・モンゴメリー、、、ボーカル

1998年 ポリグラム
デヴィッド・リンチ、、、プロデュース「アシンメトリカル・スタジオ」リリース。

12世紀
所謂、宗教歌曲集である。
グレゴリオ聖歌の調和と秩序の美とは、また趣が異なる。もっとフリーキーな(非定型又は諸形式の混淆した)楽曲である。
神聖さのなかに時にカオスを感じ不安に襲われる。

ヒルデガルトは、中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長であると同時に、ヴィジョンを(定期的に)見る女性自然学者(医学にも通じた薬草学者)でもあったという。この曲集の曲も彼女の作曲であり、幻視家で作曲家であった面は、今世紀に入り特に注目されている。
彼女の映画もある。”VISION Aus dem Leben der Hildegard von Bingen”というドイツ映画。
「ハンナ・アーレント」のマルガレーテ・フォン・トロッタ監督によるものだ。
未見である。ずっとこのまま未見かも知れない(笑。

大分以前、チェックしておいてそのまま過ごしてしまったアルバムである。

現在、廃盤のためアメリカ直輸入で手に入れた。
マルホランド・ドライブ”の監督が製作したアルバムということがよく分かる世界だ。

サウンドは、現代のアレンジが慎重に施されている(彼らの言葉によると、最新のパースペクティブによって蘇らせている)が、恐らく原曲を壊さない編曲になっていると思われる。
デヴィッド・リンチ流のプロデュースと言うより、曲集から察するに彼本来の感性にこの音楽がピッタリであったというのが正解に思える。それを今聴けるように忠実に再現した感がある。
シンセサイザーが生々しく耳に障ることはない。

ジョセリン・モンゴメリーは、あの懐かしい”ミランダ・セックス・ガーデン”のトリオのひとりである。
パースル音楽学校で出逢った3人組で結成。それについて少々、、、。
MIRANDA SEX GARDEN
このMADRAは、マドリガル(ルネサンス・マドリガーレ)の16世紀手法による全てアカペラの歌曲集であり、耽美的でゴシックな要素漂う名作だ。カオスも感じられる。カンタータ以前の歌唱というものを蘇らせている価値は大きい。
セカンド(フルアルバムとして)の”サスピリア”ではインストゥルメンタルの要素が加わり、一般的に効き易いエモーショナルでハードなサウンドに変わり、明らかに方向は転換する。サードの”フェアリーテールズ・オブ・スレイヴァリー”になると、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのギタリスト、アレックス・ハッケがプロデュースし、歌声はさらに強度を増し、魔的で呪術的でノイジーなサイケデリックサウンドと化している、、、。
もう、ロックとして聴けるではないか。
わたしはここまでしか彼女らを追っていないためこの後の消息は知らない。

彼女らは”マガジン”(ハワード・ディヴォートをリーダーとするポストパンク~ニューウェイヴロックグループ)のベーシストであり、映画音楽家のバリー・アダムソンに見出され、彼の映画音楽「Delusion」のサウンドトラックに参加し、サイモン・フィッシャー・ターナー、デレク・ジャーマンの映画音楽にもその後、参加していく。
ミランダ・セックス・ガーデンは中心となるのは、ソプラノのキャサリン・ブレイクであり、彼女以外のメンバーの入れ替わりが続いた。(セカンドからすぐに3人構成ではなくなる)。

さてここで主役のジョセリン・モンゴメリーは、グループを早々に脱退している。
彼女は6歳からバイオリンを弾いており(祖父がバイオリン職人)、音楽キャリアはバイオリニストから始まったようだ。
Jocelyn Montgomery002

デヴィッド・リンチの「アシンメトリカル・スタジオ」でジョセリン・モンゴメリーの歌声にあえて調和を崩した球体状に纏わるサウンドが生成された。
ジョセリン・モンゴメリーのこの歌声~歌唱も、美しいとか清らかとか神聖な響きとかでは到底収まらない、不安な異和が漂う。
声の質はあくまで、伸びやかで透明で美しい、とはいえ。
サウンドそのものに、えも言われぬ暗黒の霧が充満し、歌声もそれに相応している。
何というか、美に一滴の狂気の毒が混ざっている。
それはときに、静謐の中に極めて鋭い線を走らせる。漆黒の闇に音もなく切れ目を入れる雷光に似て。
彼女の時折弾くバイオリンの音もサウンドに溶け込んで一体化して響く。
効果音もやはり、映画監督がプロデューサーであることからか視覚的な感覚を広げるかと思いきや、全くそんなことはない。
鳥のさえずりが長閑な草原を思わせるような要素にはならない。
視覚や音響を逆に吸い取る静謐なダークエネルギーに満ちた恐るべき歌集である。

Jocelyn Montgomery003

わたしは、ミランダ・セックス・ガーデンのアルバムより、こちらに身を委ねたい。
特に眠りにつくときなど、、、


クラスター~ハルモニア


chinode.jpg「地の出」

これをロックには入れたくない。
現代音楽である。
敢えて言えばのはなし、、、。

身体をリセットしたい。
中庸にしたい。
ナチュラルにいや、ニュートラルにしたいというとき、、、

音楽が一番効果的かも知れない。
”クラスター”や”ハルモニア”のような、、、。
これ以上に自己主張のない音楽を知らない。

AQUAのような音である。いやちいさなそよ風か、、、。
自然が秘めている音源がいつしか漏れ聴こえてきたかのような音。
”Cluster & Eno 1977”のアルバムジャケットは、草叢から天に向けた一本のマイクの写真(アートワーク)である。

その通りの音である。
Harmonia の”Musik Von Harmonia”も気持ちいい、、、ジャケットは青い洗剤のポリタンクだ!
プラスチックで、ただ気持ち良い反復。

身を任せてたゆたう、、、。
遊星的郷愁に。
雨の夜が煌く。

ディーター・メビウスとローデリウスによるクラスター(結成当初はクラフトワークのコンラッド・シュニッツラーが中心人物として在籍していた)は、所謂、電子音楽の先駆的存在であった。初めての電子音楽のアーティストであった。
この後にどれだけのロック現代音楽の作家が続いたことか、、、。

そしてミヒャエル・ローター、ローデリウス、ディーター・メビウスによるハルモニア。
なんだ、、、ミヒャエル・ローターがいるとハルモニアで、いないとクラスターかい。
と、当時思ったがまさにその通りなのだ(笑。

クラフトワークの雇われメンバー同士で作ったミヒャエル・ローターとクラウス・ディンガーで、あの栄光の”NUE!”ノイ!が生まれる。
その後、ラ・デュッセルドルフに引き継がれ、これも更に気持ちいい。
確かに、ドラムの無機的リズムが刻まれるとハルモニアで、それがないとクラスターである。

クラスターは、アンビエントミュージック、ヒーリングミュージックの始祖となり、、、
ハルモニアは、典型的クラウトロックと言える心地よいミニマル・ミュージックであり後のパンクミュージックにも繋がってゆく。
無機質の魅惑。

昆虫の音楽。
あの優雅で優しいアゲハ蝶の。
または、地中で眠るカブトムシの幼虫の寝息。

いや、縞瑪瑙の夢。
晶結するトワイライトゾーン~
黄昏時にようこそ。


上白石 萌音の366日を聴く

Kamishraishi Mone

youtubeで何人ものヒトが「366日」を歌っているのを聴いた。
ここでわかるのは、同じスコアでも歌い手によって全く異なる曲になるということ。
わたしは、長女と聴けたのは、上白石 萌音さんのものだけだった。
他のものに魅力を覚えず、聞流してしまったが、彼女の歌だけ何度も反復して聴いた。
純粋さ清らかさ、果敢なさは上白石さんの声によってこの曲の特徴となる。
うちのむすめたちのなかでは、いくちゃん(生田絵梨香)のショパンの次にきている。
(今日観たような映画で、バイオリンではなくピアノ編があれば生田女史が主役で演じるのもよいのではないか)。

こういったそよ風のような刺激って、良いなあと思う。
アコースティックギターによるもっとも理想的なバックに聞こえる。


Vが曲の内容に関連していないところが、逆に身体的な同期性を感じさせる。




The fosse - Wim Mertens ~ 「夜の概要ⅴ」



”The Fosse”のライブステージ演奏ものがあったため、拾った。
(今日も続きをするつもりは全くなかったのだが、偶然見つけたからには載せたいと思ったのだ)。

アルバムMaximizing the audienceのチューンの方がそれはビビットで安定しているが、これも良い雰囲気だ。
若々しい頃のウィン・メルテンを見ていたため、月日の流れをいやが上にも感じた。
これは、そのまま見続けると昨日載せたものより面白い構成になっていて見応えはあると思われる。
そう、聴き応えというより、ライブコンサートとしての見応えである。
ヴォーカルの女性との連弾もあり、変化のあるアンサンブル自体が嬉しい。
わたしのように、コンサートに行けない身の上からするとささやかな楽しみにもなるというもの。

”The Fosse”の後にもう2曲(4 Mains、Struggle for pleasure)聴くことができるが、その後はLudovico Einaudi(ルドヴィコ・エイナウディ )の映画の挿入歌になってしまうみたいだ。(これは、いまひとつ、、、わたしにとっては)。
3曲目で止めたい。

ウィン・メルテンを聴くとマイケル・ナイマンの「ピアノ・レッスン」みたいな映画音楽を作ってもよいのでは、、、とも思う。
非常にリリカルでドラマチックですらある。
いつも感じるのは、知的になってしまいがちな現代音楽(ミニマムミュージック)のなかで大変emotionalなのだ。
映像的である。


昨日の”Close Cover”とは違い、BGMで詩は詠めない(笑。
とはいえ、トリスタン・ツァラの詩で、もう一つ載せたいものがある。
単にそれだけの理由だが、、、。
今日のものは、昨日の詩より遥かに短い。


勝利の真昼から
「夜の概要ⅴ」

もろもろの溜息は声高に毛皮の時刻からつくられた
そして私は悔恨のない時刻の水のなかで
無感動な歌のように生きたのだ 新しい慈愛は競売で絹の帆を揚げる
その時ひとは愛を何に変えたのか
砂の上低くラヴェンデル香の木の眼の下で断ち切られたもやい綱よ
長く広い祈祷の空間から訪れた汽笛よ
湿り柔らかい妖精の周囲に示される帰還の飛翔よ
執拗な悦楽で輝き 牡牛どもの角のある光明を埋没させる この黒い夜よ
おお 饒舌な海の瓶どもよ――その時ひとは愛を何に変えたのか――

愛の大いなる純真さのように
単彩画を膨らませながら 暖炉の火の皺をのばしながら――
錯乱した木の葉から 息をつめた壁から 凝視する眼から
あるいは生そのものを孤児たちの遊びに変え
絶望を小学生のわめきに声に変えるカードの配り手から
愛の純真さを誰も護りえなかったゆえに
もの静かで揺るぎないひとつの歌が
柏の束を積んだ川船の風にきしむ言葉で 愛を奏でるのだ
その時ひとは愛を何に変えたのか――そして声は沈黙した
棍棒のひと打ちが虚空に跳ねるように
穏やかなひとつの歌がありもはや亀裂はなく
柱時計はなく
下流に狐があり
人形はなく
遠くに別の人形がある
私は何なのか私は何を避けるのか
アザレアの門の向こうにまたひとつの門がある


        「ツァラ詩集」 浜田明訳(思潮社)より


dadaの中心人物であったが、そのグループの詩人では大変、親しみやすい(というかエモーショナルで詠み易い)。
過激で知的なのも面白いし刺激的なのだが、こういう詩が好きだ。



なお、このシリーズ?はここまでにしたい。
明日から通常の形態に戻る事にする。
(と言っても毎回、好き勝手な記事を載せているだけであるが(笑)。



Close Cover - Wim Mertens ~ 「近似的人間」


”Close Cover”
ベルギーのレーベル、クレプスキュールから大昔に出された曲。(いつだったか、、、)
ミニマル・ミュージックの作曲家ウィン・メルテン(ウィム・メルテンス)のもの。
その当時は、Soft Verdict名義でこの”Close Cover”が「ブリュッセルより愛をこめて」というアルバムに収録されていた。
次の”4 mains”も実に彼らしい繊細でエモーショナルなミニマル・ミュージックのひとつ。

”The Fosse”が特に有名だが、アルバムMaximizing the audienceに収められている。
彼は作曲、ピアノだけでなく、作詞もする。
ここでのヴォーカリゼイションも際立っている。(女性ヴォーカル)。


単に曲紹介でも、この季節からいって良いかとも思うのだが、わたしはこの曲で昔、遊びをしていた。
結構、彼の曲は詩の朗読のバックに使える。
わたしは、トリスタン・ツァラの「近似的人間」のバックにかけていた(笑。
レコード(塩化ビニールの)からテープに移しリピートをかけて。
当時は、いい感じに思えたが、、、。


出だしと最後の一部分だけ引用、、、。

日曜日 血のたげりを抑える重い蓋
ふたたび見出された自分自身の内面に沈みこみ
身を閉じ うずくまった一週間の重み
鐘は理由もなく鳴り
鐘を理由もなく鳴らせ そしてわれわれもまた
われわれは鐘とともにわれわれの内にうち鳴らす
鎖の音を楽しむだろう

われわれを鞭うつこの言葉の作用は何なのか われわれは光のなかで戦慄する
われわれの神経は時の手がもつ鞭であり
そして疑惑が彩色のないただひとつの翼をつれて訪れ
他の時代からの苦い魚たちの遊泳への贈りものの
崩れた包みの皺だらけの紙のように
われわれのなかでみずからを締めつけ圧迫し みずからを圧しつぶす

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夜の暗い吐息が濃くなり
血脈に沿って さまざまな存在の層の
音階に移調されて 海のフリュートが歌う
もろもろの生は原子の微細にいたるまで無限にそして高く
無限に高く繰り返され それゆえわれわれは見ることができないのだ
この生を傍らにしながら われわれは見ないのだ
紫外線のかくも多くの平行な道を
われわれが通ることができたかも知れぬ道を
われわれをこの世界に導かなかったかも知れぬ道を
あるいは 遥か昔にあまりにも遥か昔に発ったゆえに
時代も土地も忘れ去られ 土地がわれわれの肉を吸いつくし
塩と金属と井戸の底の透明な液体だけを残し去ったかも知れぬ道を

私はいま 言葉がその核のまわりに織りなす熱のことを
われわれの名である夢のことを 考えるのだ





                「ツァラ詩集」 浜田明訳(思潮社)より


久々に詠んでみた。
これもひとつの鑑賞法かも、、、。

娘たちのピアノ発表会

piano001.jpg

昨年は長女の発表会であったが、今回は次女も加わった。
次女は昨年は、発表会をする人数のいない個人教室に通っていたが、今年から姉と同じ教室になった為である。

まだ、はじめてちょうど二年目で、欲もなくただ教室に通わされているレベルである。
こんなふうに、みんなが弾くところをみれば、刺激を受け意識も変わるかと期待できる機会ではあった。
他の生徒がどれくらい弾くのかは、普段ほとんど分からない。
教室に送りに行った時、前の子の演奏が少しだけ聴けたりすることはあるが。

全体的に、皆よく弾けていた。
ときめきを感じる演奏もあった。
うちの子のものではない(笑。
正直、うちの子の演奏は、聴きに行ってそれはないが、出来れば聴きたくない。
と言うより、聴いていられない。
ドキドキものである。だいたい、うちで聴いているからもうどんなものかは知っている。
だが、参加しなければならないため、来ているという感じだ。
しんどいというのが、率直のところ、、、。

しかしこの第一部で、ショパンまで聴けるとは思わなかった。
(第二部になると、高校生や大学生も加わり、難曲が披露されるというが)。
車のBGMでよく聴いていた『千と千尋の神隠し』のテーマソングの「いのちの名前」や今気になっている「エリーゼのために」があって印象に残ったようだが、「いのちの名前」は完璧に弾きこなされていた。
お決まりのことなのだろうが、途中何度も止まり、こちらがヒヤヒヤしてしまう子もいた。
どの子についても、親の立場に半ばなってしまっている。

うちの娘も、確実に一箇所ずつ間違えている。
しんと静まり返った本番に際し、しっかり弾きこなせるだけの実力を身につけていなければならない。
先は長い。自覚までは、まだまだ。
うちの子と同じくらいの年格好の少年が、補助のペダルをつけてもらって「小さな黒人」をきれいに弾いていたのには、参った。
あれくらい弾きたいと思ったみたいだ、、、。ドビュッシーはやはり何を聴いてもよい。
知らなかった曲だが「演奏会用練習曲」(中田喜直作曲)という曲も腕前を見せられる曲に思えた。
弾いてる子の表情が如何にもという感じで、同じ作曲家の「エチュード・アレグロ」も聴かせた。(すぐ後で知ったが、こういう発表会では、定番曲のようだ)。
定番というかよく弾かれるものでは、ブルグミュラーの「バラード」もあり、耳に馴染んでしまう。
「いのちの名前」以外にもこのステージではなかったが、「となりのトトロ」や「もののけ姫」などの久石譲ものは必ず何曲かは入るようだ。
しかし、運動会ではないし「クシコスポスト」はちょっと聴きたくない。(トトロも運動会の定番だが)。

最後はショパンの「ワルツ」とブラームスの「4手のためのハンガリー舞曲」が締めであったが、聴き応えがあった。
演奏者はもう中学生のようだったが、風格を感じた。

何が一番良かったか、と聞いたら、「お人形の夢と目覚め」が長女で、次女は「乙女の祈り」だそうだ。
「エリーゼのために」でも「いのちの名前で」もなかったようだ。
実は、それらの曲に2人ともかなりのこだわりを示していたのだが。
実際に聴いてみると、良いと思う曲が幾つも発見できたらしい、、、。

普段、家でほとんど触れることのない曲を身近に感じられるお友達が弾くのを聴く機会は大切である。
正直、次女があんなに背筋を伸ばして、長い時間鑑賞が出来るとは思わなかった。
親と違う席というのもよかった。


しかし、沢山の人の中で、ステージ上に自分の子の演奏を聴くというのは、まだまだしんどい、、、。
しんどくない時が来るとは思えないと、つくづく思う。
蛇足だが費用も、前年度より遥かにかかった。(これもしんどく感じた)。
勝手にお花をグレードアップしたのは、こちらの都合であるが、参加費も上がり、昨年度は自分の子供の写真・ビデオ撮影はOKであったのが、今年は一切禁止とされてしまった為、かなりお高い業者物を買わざる負得なくなってしまった。
送料含め、馬鹿にならない。自分のカメラで撮れれば全くの、タダである。

年に一度のことで、細かいことはどうでも良いのだが、何よりお花をステージ上で持てなかったのは少し残念であった。
会場にすら持ち込めなかったのだ。
受付にお預けである。
それも禁止となってしまった。(お花の大きさが不揃いなのが問題のひとつのようで)。
ちょっと世知辛い。

弥栄グリーンフェスタを聴いた 高校生のコンサート

sakatano tane

いつも行く公園の”グリーンハウス”にて、弥栄高校のグリーンフェスタというコンサートが開かれた。
雨続きであったため、かなり久しぶりの公園である。
まず早めに着いたため空いてるところがまだ少なく、38Mの展望台から遥か彼方を望遠鏡で眺めることから始めた。
清々しく気持ちよかった、らしい。(わたしは見ていない)。
ふれあい動物公園が開いたため、娘たちとモルモットや獰猛なヤギに人参あげて遊ぶ。
ちょっと、ルー・リードの「パーフェクト・デイ」を思い浮かべるが、気にしない。
3人で自然な流れで、公園の噴水に向かって歩いていく。
いつものように。
夢遊病のように、何となく、、、。
すると突然、園内放送でコンサートの件が告知された。
それが開かれるグリーンハウスは目指す噴水のすぐそばである。

そのまま行ってみよ、ということになる。
来週の土曜日には自分たちが「ピアノ発表会」なのだ。
(長女にとっては二回目、次女は初めての)。
その気分に予め浸っておきたくもなる。(しかしそれはわたしだけだった事が後に分かるのだが)。
ホールには、すでに3人ほどの人が座っていた。
まだ開演30分前であった。

わたしの後ろに席を取った娘たちは、暇を持て余して手遊びや歌遊びをし始めた。
30分あると座ったままでも、結構遊べるものだ。
娘たちの幼い声がひそひそ暫く響いていたが、鳥のさえずりくらいのノイズに過ぎず、誰の気にもならないようだった。
やがて、始まりのアナウンスが聴こえ、まだ小さく続いていた彼女らの声に、上から忽然と若く清らかな声が被さってきた。
その瞬間、ひとつまたひとつと重なる合唱以外の音は一切、途絶えた。
突然始まり、その歌声の主たちは、2回の階段から降りて来る者、背後のホールからわれわれのすぐ横を通り抜けて行く者、すぐ目の前の椅子から立ち上がり正面に向かう者、それぞれがほぼ同じ時にステージへと歌声とともに集まった。
娘たちもこれには、息を飲んだようだ。

演劇ではこういった始まりは数多く体験しているが、コンサートではあまりない。
合唱を聴きに行くことは、これまで無かったことに気づく。
大概、オーケストラか少し小ぶりのアンサンブルか弦楽四重奏とかである。
それ以外はピアノ、フルート、バイオリンの単独演奏のもの、、、。
楽器を弾きながらどこからか現れるのは難しい。

合唱なら確かに、かなり凝った移動の演出が出来る。
そりゃ、ミュージカルもあるし、ワイヤーアクションで飛びながら歌えるんだから当たり前だが、、、
ただステージ上で高校生が唄う歌を聞くことしか頭になかったので、導入にはハッとした。
混声合唱であることも、何か新鮮な感じで、大いに好感を持った。
何せ、如何にも野球部風のお兄ちゃんや、ニキビたっぷりのゲーマー風の少年が懸命に口を開けて発声しているのだ。
それだけで応援したくなるというもの。
男女比も半々でバランスが取れていた。
そして何より若さだ。瑞々しさだ。
無我夢中で歌っている姿が何というか羨ましいではないか、、、。

後ろにいる彼女らの表情は見えないが、神妙に聴いていることは気配で分かる。
それを感じつつ、「さくら」(日本古謡)やモンテベルディの曲以外は知らぬ曲ばかり、8曲ほど聞いた。
「さくら」は編曲が素敵だった。
草野心平作詞の『「コズミックエレジー」より鬼女』というのは、雅楽っぽいおどろおどろしさもあり構成が凝っていて面白かった。
チャレンジ感があって良いのだが、舌足らずな感は否めなかった。
流石に聴くにつれて、どんどん声量、声の力(主に伸び)、言葉の明瞭さが、弱く危うさがめだってきた。
安定感もかなりキツイ。
最初から、非常に若い感じのアンサンブルであり、そこが微笑ましいところで、是非娘に聴かせたいものでもあったが、初々しさだけで引っ張るのも限界はあった。

案の定、後ろから「もう飽きた」、「眠い」という声が2つ聞こえてきた。
終わる2曲前からである。
どうもその前からそわそわしている気配は確かに背に感じながらわたしも聴いていた。
であるからわたしも落ち着いて聴けなかった。

きっと最後は面白いぞ、と言って半ば強引に聴かせた。
子供は一度飽きると、続行は難しい。
しかし後半は弦楽合奏である。
バイオリン、チェロ、ビオラ、コントラバス、、、などが出て来る。
これはまた違うよ、と期待を持たせる。

ドボルザークやチャイコフスキー、谷山浩子の「テルーの唄」まで出てきた。
弦は優しく深みがあり、柔らかく包み込んでくれる音である。
これに親しんでもらいたいのだが。
「もう寒い、冷え過ぎてる」等と言い始めた。確かに冷房は効いている、、、。
チャイコフスキーの「弦楽セレナード」やるなら穏やかな「第二楽章」も良いのだが、「第一楽章」やって貰う方が、受けは圧倒的に良いはずなのだが。
そうは、行かなかったか、、、。
ドボルザークの弦楽四重奏「アメリカ」第三楽章は、曲のよさを知り、少し得した気分になった。
「テルーの唄」は、編曲がなかなか良かった。
彼女らもかつて車のBGMで聴いていた曲であったため、おやっと思ったようだが、惹きつけるまでにはいかなかったか。
最後は、合唱部と弦楽部の合同でモーツァルトだ。
よかったね!とは言ってみたが、何とかもった。
”Ave verum corpus”「アヴェ・ヴェルム・コルプス」である。
フォーレのものも、とても良い。
聖体賛美歌である。小品であるが絶品である。転調がとくに良い。わたしはこういう曲が大好きである。
これを最後に聴けるのは、幸せなのだが、、、。
もういっぱいいっぱいな感じであった。(生徒さんもうちの娘たちも)

ご苦労様でした!


疲れてすぐ帰るかと思いきや、水遊びをしこたまして帰路に着いた。
寒かったんじゃなかったのかい?
(帰る途中でラーメン食べたが、美味しかった)。




続きを読む

着ぐるみコンサート

Zoorasian.jpg 金管五重奏「ズーラシアンブラス」
usagi.jpg 弦楽四重奏「弦うさぎ」(つるうさぎ)

家族全員で着ぐるみコンサートに行った。
母親のおごりだ。
前日に娘たちにブーツを買わされた。季節柄もうないかと思っていたらあった。しかもお得な値段で(祝。
超満員の受付を入り何故か、広告はどっさり貰うが、プログラムを失くす、、、。


やってる音は、ポピュラーな基本子供向けタイトルが多い。
演奏はしっかりしている。CDも5枚ほど出してるらしい(「ズーラシアンブラス」)。
受付でしっかり販売していたが、ジャケも着ぐるみであった。(当たり前か)。


「ウイリアムテル序曲」、「ボッケリーニのメヌエット」、「愛の挨拶」エルガーのもの、、、これ好きである。
外せないチューンというのはあるものだ。
「となりのトトロメドレー」、、、来ると思っていた。
ポピュラーソングの管楽器アレンジものもあったが、結構良かった。こなれている感じ。
「この素晴らしき世界」、「ユア・マイ・サンシャイン」、、、
管がブラバンもどきにならない技術があって、こちらも楽しめる。
弦の音もよく通ってしっかりしている。

しかし感心するのは、よく着ぐるみで演奏が出来るものだという事。
当然暑くて息苦しい筈だ。
何と言っても、管楽器はブレスが大事だ。
肺活量だ。
「弦うさぎ」は、ブレスは無いが女性のはず。
汗は大丈夫か他人事ながら心配した。


演奏者は、金管五重奏「ズーラシアンブラス」と弦楽四重奏「弦うさぎ」(つるうさぎ)である。
全く知らなかったが、活発な活動をしている、有名どころのようだ。


「ズーラシアンブラス」は、オカピーが指揮、インドライオンとドゥクラングールがトランペット、スマトラトラがトロンボーン、マレーバクがホルン、北極グマがチューバという構成。それぞれ個性が出来ていて、時折子供をお約束で笑わせる。
最後の方で、ゴールデンターキーがトランペットでプレミア的に飛び入りするお決まりのようだ。

「弦うさぎ」は、第一、第二バイオリンにチェロ、ビオラの基本構成である。
安定感がある。

「ハッピーバースデー変奏曲」はなかなか楽しかった。
短い楽曲を何人かの作曲家のアレンジで演奏し分ける。
また幾つかのお国調に演奏し分ける。
よいと思う。何より原曲を誰もが知っており、テーマが短いため聴きやすく子供に違いと特徴が分かりやすい。
欲を言えば、もっとたくさんの作曲家でやってもらいたかった。
清水ミチコもそれ得意である。ピアノなら彼女に頼みたい。おう、それからNHKによく出る「アキラ」さんである。
結構ファンなのだ。

モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」弦と管楽器で弾き分けるのも、子供にとっては面白い体験のはず。
途中で何故か「犬のおまわりさん」が入ってくる。
ふざけないといけないと思ってる節がある。
基本音楽を聴きに来ているのだから、モーツァルトの時はそのまま弾いても良い。
勿論、ふざけるのは良いのだが、音楽的にビックリさせて欲しい。
(犬のおまわりさんはチョットきつい)。
やはり、こうしたコンサートは視覚的な演出、ジェスチャーやアクションのウエイトが大きいか?
それで惹きつけることはできるが、落ち着きを削がないか少し気にはなった。


うさぎとかめ、特にここで聴かなくても、、ピクニック、、運動会を思い浮かべてしまう。これは無くて良いかな。学校に行けばいくらでも聞く事になる。
会場を立体的に使い、演劇調に演出している事は分かる。
終盤ゴールデンターキーもトランペットで飛び入りしなかなかノリが良かった。
客席後ろから彼が高らかに鳴らして合流する「闘牛士のマンボ」は特にそう。
けっこう、これには娘たちも盛り上がっていた。
そして「トランペット吹きの休日」、、、と続く。
トランペットのソロも頑張っていた。

ノリノリで終わり、アンコール。凝ったアレンジの
「聖者が街にやってくる」で締める。
このくらいの時間で調度よい。
これ以上は、双方にとって厳しくなる。
こちらは間違いなく途中退場を余儀なくされるであろう。

次女は終始ノリノリで大はしゃぎであったが(おかあさんといっしょのライブみたいだった).長女は途中から帰りたがって大変だった。寝て待つ事が出来ないらしい。
終盤、蘇ったが一時はおんぶして連れ帰る覚悟を決めたものだ、、、。
これからの人生、寝て待つ事も大切である。(その方が良い場合もある)
そのうち、要領としてではなく、配分とバランスの感覚も身につくとは思うが。
面白いと気づいた時に、またノリノリで楽しめば良い。
平坦な曲は詰まらない。


帰りにレストランで食事。
そこで食べ終わったところで、長女が母からもらったブレスレットを失くした事に気づく。
わたしは付けて来たこと自体知らなかった。
何でもダイヤがいっぱいハマってる、そのまた母から貰ったやつとか。
何で小学1年生にそんなものあげるのか?
大学入学時に、あげれば良かろうに。
貰っていない次女がニヤっと笑ったのが印象的であった。
彼女はポーチをもらって、自分の宝箱に仕舞い込んでいる。
(個性はどこにいても明確だ)。
また、コンサートホールに探しに行くこととなる。
よくはめている、100円ショップものであれば、そのまま帰宅なのだが。
しかし、そこは日本。
ちゃんと落し物コーナーに届けられていた。
海外から評価されている美徳が実感できる日ではあった。
反面、コンサート会場でのおばさんマナーはかなり酷かった。


プラマイゼロの日である。




フォーレ レクイエム

G faure

”Requiem”
ニ短調作品48
ガブリエル・フォーレ作曲

早朝薄暗い時から聴いていた。
楽曲の流れとともに朝の明るみが音連れた。
何と気持ちの良い美しい朝だ、、、。


「主よ、私を解き放ってください。永遠の死から。」

第1曲 イントロイトゥスとキリエ(Introitus et Kyrie) 厳かなコラール 慈悲をお与えください主よ、、、最初のユニゾンによる降下が特に印象的 永遠の安息をお与えください 絶えることのない光が彼らに輝きますように
最も力強く長いパート eleisonで終わる

第2曲 オッフェルトリウム(Offertorium) 奉納である 怒りの日はない 転調が繰り返される 伴奏なしのうた 解き放ってください 死せる者の魂を 深い淵より アーメンのリフレイン 落ち込みませんように 闇の中に 深さと複雑な陰影を感じるところ

第3曲 サンクトゥス(Sanctus) 短いが荘厳で幻惑的なパート 天と地があなたの栄光に満ちています 聖なるかな の呼びかけとよせるような応え バイオリンの天上の燦めきの効果 アルペジオで始まりアルペジオに終わる 息を呑む美しさ

第4曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu) いつまでも続く安息を彼らにお与えください 切々と独り歌うソプラノ 合唱のない谷間の静けさ
深淵に響く歌の音

第5曲 アニュス・デイ(Agnus Dei) とても好きなところ 何と優しい幻惑的な楽の音か 神の子羊 世の過ちを取り去る方 ここでいつも感極まる 永遠の光が彼らに輝きますように 後半の転調で曲の雰囲気は一瞬激変する  不安になるが最初のテーマに回帰し終わる

第6曲 リベラ・メ(Libera me) 「主よ、私を解き放ってください。永遠の死から。」このバリトンの独唱がこの楽曲全体で一番印象的だ それを覆うようにユニゾンの合唱が続き その後当初から転調したバリトンがその歌を引き取る

第7曲 イン・パラディスム(In paradisum) 楽園へと天使たちが導きますように 厳かで優しいオルガンのアルペジオに始まり それに終わる いや第1曲冒頭のRequiemに回帰して終わる 明確な作品上の意図が見える

あくまでも素人の独りよがりな感想である
大概、掃除をしながら聴いたりしているが、第5曲あたりで嗚咽してしまい、座り込んで聴く。


「怒りの日」がない。
「死の恐ろしさ」を煽る部分がない。
制作当時カトリック教会に批判された事柄であるが。
「死は永遠の至福に満ちた開放感に他ならない。」(G・フォーレ)であれば、まさにこれ以上の(斬新な)レクイエムはない。
何より、美しい。ひたすら優しく美しい。
純粋な音楽として、これ程ぴったりな誕生日プレゼントはなかった。

そう最初に聴いたのは、高校二年の時、弟からの誕生日プレゼントで貰って、その夕方に聴いたものだ。
次の日は、ほぼ一日中レコードを回しっぱなしでいた。
わたしの特権であるが、誕生日の翌日は常に休みなのだ。
そこは恵まれた運命だとつくづく思う。
(今は、娘たちから羨ましがられている)。
窒息しそうになる前に、定期的に聴いてきた。
薬か?そうだ、薬だ、、、。

よい空気を流したい時に、この楽曲はなくてはならない。
勿論、モーツァルトのそれのようにオドロオドロしい大傑作もあるが。
まったく違う気分に浸る。
ベルディのそれとも違う。
ただ、美しい音楽に包まれたい時にこれを聴く。


良い音楽は、常にそれ以上の何かだ。





Desert Music 砂と反復

Desert.jpg

”The Desert Music”
Steve Reich

"Different Trains"が、クロノス・クァルテットの演奏で、ホロコーストの経緯もあり部分的に耳には入っていたのだが、、、
「スティーブ・ライヒ」を意識的に聴いたのは、この”Desert Music”が最初と言える。
大変鮮明で煌びやかな衝撃を受けた。
曲構成が印象的で、ヘンリー・カウなど結構影響を受けていることが分かる。

大学時代に親しい友達から薦められて聴いたものだ。
彼女はピアノ科であったが、第二楽器がマリンバだった。
その関係もあろうか、ここでもマリンバがかなり聴ける。
この音世界には、たちまち引き込まれた。
わたしがフルートを少しばかり吹いているということで薦められた無調音楽には、正直辟易したのだが。
(フルートは入らないが、モートン・フェルドマンだけは、自分でもCDを買って聴き入った)。

砂漠というより、砂というものの本質に触れた気がした。
それは、海岸の砂でも砂漠の砂でもなく、わたしたちのその頃の先生でもあった國領經郎の砂丘でもない。
(埴谷雄高が彼を高く評価していたのは、物凄く意外であった。どこをどう気に入ったのか今もわからない。モチーフの砂関係でか?油絵なのに日本画的テクスチュアによる空間性においてか?しかし何故、砂だけでなく若い男女などを描き込むのか?)

The Desert Music
実際の「砂」であるが、まだ知らない「現実の砂」である。
砂は、わたしにとってぼやけた観念に留まっている。
他の多くのモノと同等に。
例えそれを名指しても、それがあるのだかないのだか覚束無い、そんな世界に大方暮らしている。
やはり、音楽を聴くと、その真実味がよく染み渡ってくるものだ。
抽象の方が、現実的であることが分かる。

BBCシンガーズは、ロック界における最高傑作と言えるプロコルハルムの”グランドホテル”ですでに聴いてはいたが、ミニマルミュージックの代表格の作曲家の曲で聴くと、また違う。
エモーショナルな感覚は微塵もなく、物質的で無機的な響きが幾度でも回帰してくる。
それもひと粒ひと粒の砂の運動として。

彼らには、反復が馴染む。
砂というものは、反復の象徴である。
いや、反復そのものか。
そして砂漠とは何か?
それこそ無限反復の厚みそのものであろう。
この全体の響きと声-コーラス?は、大変原初的であると同時に、終わりの光景だ。
ヒトは影すらない。
しかも象を結ばない。結ばせない光景であり続ける。
そんな強度をもっている。
宗教を超えたオラトリオを感じる。

マリンバ、弦、(金)管楽器、BBCのボーカりぜーションによる大きなアンサンブルである。
ライヒにはこういう構成が多い。
聴いてるうちに、珍しくうたた寝をしてしまった。
夢の不安と安らぎの両者が抽象の砂風となって立ち現れ、吹き付けては去ってゆく。
これが何千回と繰り返された気がする。


遥か遠方の何処かの地球の光景が思い浮かびそうになるが、その前に眠ってしまう。



Living In the Heart of the Beast

000007.jpg

ヘンリー・カウを聴いていた。
2009年のライブで、ダグマー・クラウゼのボーカルに、ロバートワイアットのスキャットが絡む。
凄まじい美しさだ。
最高の贅沢だ。
最も好きな現代音楽の曲の一つである。

ライブというのは、つくづく凄いものだと思う。
K・クリムゾンやLou Reedもそうであるが、極めて微分方程式的な生成が連動してゆく。
ライブとは、彼らのような存在にとっては特に実験の要素が強いのだろう。
人生そのものが実験ではあるが、、、それを最大限に増幅し優美に抽象化した波動。
その公開-共振の場である。
カオスモスというのか、これを、、、名付けない方がよいか。
ここでは高貴な野生が、次々に目覚める。
わたしと仮に呼んでおくこの場に、蠢く何兆もの生がそれぞれ騒めき立つ。
よいものに触れたとき、ほとんど「わたし」は消え失せる。
それが「ほんとう」なのだと。

ちなみに、わたしのiTunesをそのままほったらかしておくと、次にアルビノーニのアダージョへと引き継がれる。
カラヤン・ベルリン・フィルのものだ。
それが終え息を潜めた瞬間、何故かコルレリの「クリスマス・コンチェルト」が始まる。
究極の愛らしさ。
ビバルディより前の作曲家である。
であるから、バッハより更に前に生きていた。
しかし、その旋律の圧倒的な美しさは、厳格な対位法にさほど縛られていないせいであろうか。
古さ、固さを感じさせない。
大いなる予定調和と健康を感じ、何とも清々しい。
野生の小さなスミレに触れた時の感触に近い。

そのままにしておくと、ビバルディになっていた。

音楽の効用は、身体を「自己」から解き放つものだろう。
それが、何であっても、、、。
せいぜいビバルディまでで良かった。
このまま、進んでいくと、確かモーツァルトが待っている。
(わたし)はモーツァルトのマイナーにやたらと煽られる。
クリムゾンの二期とモーツァルトのマイナーには、過剰に反応してしまう。
今日はやめる。

(わたし)がいなくなるのはよいことなのだが、その代わり多くのモノが色めき立つのだ。
ある意味、身がもたないのだが、快感であることは理るまでもない。
ギリギリまで横溢する。
このディテールを、きっと強度というのだ!






プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

*当サイトはリンクフリーです。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

Movie
PC