プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
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Close Cover - Wim Mertens ~ 「近似的人間」


”Close Cover”
ベルギーのレーベル、クレプスキュールから大昔に出された曲。(いつだったか、、、)
ミニマル・ミュージックの作曲家ウィン・メルテン(ウィム・メルテンス)のもの。
その当時は、Soft Verdict名義でこの”Close Cover”が「ブリュッセルより愛をこめて」というアルバムに収録されていた。
次の”4 mains”も実に彼らしい繊細でエモーショナルなミニマル・ミュージックのひとつ。

”The Fosse”が特に有名だが、アルバムMaximizing the audienceに収められている。
彼は作曲、ピアノだけでなく、作詞もする。
ここでのヴォーカリゼイションも際立っている。(女性ヴォーカル)。


単に曲紹介でも、この季節からいって良いかとも思うのだが、わたしはこの曲で昔、遊びをしていた。
結構、彼の曲は詩の朗読のバックに使える。
わたしは、トリスタン・ツァラの「近似的人間」のバックにかけていた(笑。
レコード(塩化ビニールの)からテープに移しリピートをかけて。
当時は、いい感じに思えたが、、、。


出だしと最後の一部分だけ引用、、、。

日曜日 血のたげりを抑える重い蓋
ふたたび見出された自分自身の内面に沈みこみ
身を閉じ うずくまった一週間の重み
鐘は理由もなく鳴り
鐘を理由もなく鳴らせ そしてわれわれもまた
われわれは鐘とともにわれわれの内にうち鳴らす
鎖の音を楽しむだろう

われわれを鞭うつこの言葉の作用は何なのか われわれは光のなかで戦慄する
われわれの神経は時の手がもつ鞭であり
そして疑惑が彩色のないただひとつの翼をつれて訪れ
他の時代からの苦い魚たちの遊泳への贈りものの
崩れた包みの皺だらけの紙のように
われわれのなかでみずからを締めつけ圧迫し みずからを圧しつぶす

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夜の暗い吐息が濃くなり
血脈に沿って さまざまな存在の層の
音階に移調されて 海のフリュートが歌う
もろもろの生は原子の微細にいたるまで無限にそして高く
無限に高く繰り返され それゆえわれわれは見ることができないのだ
この生を傍らにしながら われわれは見ないのだ
紫外線のかくも多くの平行な道を
われわれが通ることができたかも知れぬ道を
われわれをこの世界に導かなかったかも知れぬ道を
あるいは 遥か昔にあまりにも遥か昔に発ったゆえに
時代も土地も忘れ去られ 土地がわれわれの肉を吸いつくし
塩と金属と井戸の底の透明な液体だけを残し去ったかも知れぬ道を

私はいま 言葉がその核のまわりに織りなす熱のことを
われわれの名である夢のことを 考えるのだ





                「ツァラ詩集」 浜田明訳(思潮社)より


久々に詠んでみた。
これもひとつの鑑賞法かも、、、。

娘たちのピアノ発表会

piano001.jpg

昨年は長女の発表会であったが、今回は次女も加わった。
次女は昨年は、発表会をする人数のいない個人教室に通っていたが、今年から姉と同じ教室になった為である。

まだ、はじめてちょうど二年目で、欲もなくただ教室に通わされているレベルである。
こんなふうに、みんなが弾くところをみれば、刺激を受け意識も変わるかと期待できる機会ではあった。
他の生徒がどれくらい弾くのかは、普段ほとんど分からない。
教室に送りに行った時、前の子の演奏が少しだけ聴けたりすることはあるが。

全体的に、皆よく弾けていた。
ときめきを感じる演奏もあった。
うちの子のものではない(笑。
正直、うちの子の演奏は、聴きに行ってそれはないが、出来れば聴きたくない。
と言うより、聴いていられない。
ドキドキものである。だいたい、うちで聴いているからもうどんなものかは知っている。
だが、参加しなければならないため、来ているという感じだ。
しんどいというのが、率直のところ、、、。

しかしこの第一部で、ショパンまで聴けるとは思わなかった。
(第二部になると、高校生や大学生も加わり、難曲が披露されるというが)。
車のBGMでよく聴いていた『千と千尋の神隠し』のテーマソングの「いのちの名前」や今気になっている「エリーゼのために」があって印象に残ったようだが、「いのちの名前」は完璧に弾きこなされていた。
お決まりのことなのだろうが、途中何度も止まり、こちらがヒヤヒヤしてしまう子もいた。
どの子についても、親の立場に半ばなってしまっている。

うちの娘も、確実に一箇所ずつ間違えている。
しんと静まり返った本番に際し、しっかり弾きこなせるだけの実力を身につけていなければならない。
先は長い。自覚までは、まだまだ。
うちの子と同じくらいの年格好の少年が、補助のペダルをつけてもらって「小さな黒人」をきれいに弾いていたのには、参った。
あれくらい弾きたいと思ったみたいだ、、、。ドビュッシーはやはり何を聴いてもよい。
知らなかった曲だが「演奏会用練習曲」(中田喜直作曲)という曲も腕前を見せられる曲に思えた。
弾いてる子の表情が如何にもという感じで、同じ作曲家の「エチュード・アレグロ」も聴かせた。(すぐ後で知ったが、こういう発表会では、定番曲のようだ)。
定番というかよく弾かれるものでは、ブルグミュラーの「バラード」もあり、耳に馴染んでしまう。
「いのちの名前」以外にもこのステージではなかったが、「となりのトトロ」や「もののけ姫」などの久石譲ものは必ず何曲かは入るようだ。
しかし、運動会ではないし「クシコスポスト」はちょっと聴きたくない。(トトロも運動会の定番だが)。

最後はショパンの「ワルツ」とブラームスの「4手のためのハンガリー舞曲」が締めであったが、聴き応えがあった。
演奏者はもう中学生のようだったが、風格を感じた。

何が一番良かったか、と聞いたら、「お人形の夢と目覚め」が長女で、次女は「乙女の祈り」だそうだ。
「エリーゼのために」でも「いのちの名前で」もなかったようだ。
実は、それらの曲に2人ともかなりのこだわりを示していたのだが。
実際に聴いてみると、良いと思う曲が幾つも発見できたらしい、、、。

普段、家でほとんど触れることのない曲を身近に感じられるお友達が弾くのを聴く機会は大切である。
正直、次女があんなに背筋を伸ばして、長い時間鑑賞が出来るとは思わなかった。
親と違う席というのもよかった。


しかし、沢山の人の中で、ステージ上に自分の子の演奏を聴くというのは、まだまだしんどい、、、。
しんどくない時が来るとは思えないと、つくづく思う。
蛇足だが費用も、前年度より遥かにかかった。(これもしんどく感じた)。
勝手にお花をグレードアップしたのは、こちらの都合であるが、参加費も上がり、昨年度は自分の子供の写真・ビデオ撮影はOKであったのが、今年は一切禁止とされてしまった為、かなりお高い業者物を買わざる負得なくなってしまった。
送料含め、馬鹿にならない。自分のカメラで撮れれば全くの、タダである。

年に一度のことで、細かいことはどうでも良いのだが、何よりお花をステージ上で持てなかったのは少し残念であった。
会場にすら持ち込めなかったのだ。
受付にお預けである。
それも禁止となってしまった。(お花の大きさが不揃いなのが問題のひとつのようで)。
ちょっと世知辛い。

弥栄グリーンフェスタを聴いた 高校生のコンサート

sakatano tane

いつも行く公園の”グリーンハウス”にて、弥栄高校のグリーンフェスタというコンサートが開かれた。
雨続きであったため、かなり久しぶりの公園である。
まず早めに着いたため空いてるところがまだ少なく、38Mの展望台から遥か彼方を望遠鏡で眺めることから始めた。
清々しく気持ちよかった、らしい。(わたしは見ていない)。
ふれあい動物公園が開いたため、娘たちとモルモットや獰猛なヤギに人参あげて遊ぶ。
ちょっと、ルー・リードの「パーフェクト・デイ」を思い浮かべるが、気にしない。
3人で自然な流れで、公園の噴水に向かって歩いていく。
いつものように。
夢遊病のように、何となく、、、。
すると突然、園内放送でコンサートの件が告知された。
それが開かれるグリーンハウスは目指す噴水のすぐそばである。

そのまま行ってみよ、ということになる。
来週の土曜日には自分たちが「ピアノ発表会」なのだ。
(長女にとっては二回目、次女は初めての)。
その気分に予め浸っておきたくもなる。(しかしそれはわたしだけだった事が後に分かるのだが)。
ホールには、すでに3人ほどの人が座っていた。
まだ開演30分前であった。

わたしの後ろに席を取った娘たちは、暇を持て余して手遊びや歌遊びをし始めた。
30分あると座ったままでも、結構遊べるものだ。
娘たちの幼い声がひそひそ暫く響いていたが、鳥のさえずりくらいのノイズに過ぎず、誰の気にもならないようだった。
やがて、始まりのアナウンスが聴こえ、まだ小さく続いていた彼女らの声に、上から忽然と若く清らかな声が被さってきた。
その瞬間、ひとつまたひとつと重なる合唱以外の音は一切、途絶えた。
突然始まり、その歌声の主たちは、2回の階段から降りて来る者、背後のホールからわれわれのすぐ横を通り抜けて行く者、すぐ目の前の椅子から立ち上がり正面に向かう者、それぞれがほぼ同じ時にステージへと歌声とともに集まった。
娘たちもこれには、息を飲んだようだ。

演劇ではこういった始まりは数多く体験しているが、コンサートではあまりない。
合唱を聴きに行くことは、これまで無かったことに気づく。
大概、オーケストラか少し小ぶりのアンサンブルか弦楽四重奏とかである。
それ以外はピアノ、フルート、バイオリンの単独演奏のもの、、、。
楽器を弾きながらどこからか現れるのは難しい。

合唱なら確かに、かなり凝った移動の演出が出来る。
そりゃ、ミュージカルもあるし、ワイヤーアクションで飛びながら歌えるんだから当たり前だが、、、
ただステージ上で高校生が唄う歌を聞くことしか頭になかったので、導入にはハッとした。
混声合唱であることも、何か新鮮な感じで、大いに好感を持った。
何せ、如何にも野球部風のお兄ちゃんや、ニキビたっぷりのゲーマー風の少年が懸命に口を開けて発声しているのだ。
それだけで応援したくなるというもの。
男女比も半々でバランスが取れていた。
そして何より若さだ。瑞々しさだ。
無我夢中で歌っている姿が何というか羨ましいではないか、、、。

後ろにいる彼女らの表情は見えないが、神妙に聴いていることは気配で分かる。
それを感じつつ、「さくら」(日本古謡)やモンテベルディの曲以外は知らぬ曲ばかり、8曲ほど聞いた。
「さくら」は編曲が素敵だった。
草野心平作詞の『「コズミックエレジー」より鬼女』というのは、雅楽っぽいおどろおどろしさもあり構成が凝っていて面白かった。
チャレンジ感があって良いのだが、舌足らずな感は否めなかった。
流石に聴くにつれて、どんどん声量、声の力(主に伸び)、言葉の明瞭さが、弱く危うさがめだってきた。
安定感もかなりキツイ。
最初から、非常に若い感じのアンサンブルであり、そこが微笑ましいところで、是非娘に聴かせたいものでもあったが、初々しさだけで引っ張るのも限界はあった。

案の定、後ろから「もう飽きた」、「眠い」という声が2つ聞こえてきた。
終わる2曲前からである。
どうもその前からそわそわしている気配は確かに背に感じながらわたしも聴いていた。
であるからわたしも落ち着いて聴けなかった。

きっと最後は面白いぞ、と言って半ば強引に聴かせた。
子供は一度飽きると、続行は難しい。
しかし後半は弦楽合奏である。
バイオリン、チェロ、ビオラ、コントラバス、、、などが出て来る。
これはまた違うよ、と期待を持たせる。

ドボルザークやチャイコフスキー、谷山浩子の「テルーの唄」まで出てきた。
弦は優しく深みがあり、柔らかく包み込んでくれる音である。
これに親しんでもらいたいのだが。
「もう寒い、冷え過ぎてる」等と言い始めた。確かに冷房は効いている、、、。
チャイコフスキーの「弦楽セレナード」やるなら穏やかな「第二楽章」も良いのだが、「第一楽章」やって貰う方が、受けは圧倒的に良いはずなのだが。
そうは、行かなかったか、、、。
ドボルザークの弦楽四重奏「アメリカ」第三楽章は、曲のよさを知り、少し得した気分になった。
「テルーの唄」は、編曲がなかなか良かった。
彼女らもかつて車のBGMで聴いていた曲であったため、おやっと思ったようだが、惹きつけるまでにはいかなかったか。
最後は、合唱部と弦楽部の合同でモーツァルトだ。
よかったね!とは言ってみたが、何とかもった。
”Ave verum corpus”「アヴェ・ヴェルム・コルプス」である。
フォーレのものも、とても良い。
聖体賛美歌である。小品であるが絶品である。転調がとくに良い。わたしはこういう曲が大好きである。
これを最後に聴けるのは、幸せなのだが、、、。
もういっぱいいっぱいな感じであった。(生徒さんもうちの娘たちも)

ご苦労様でした!


疲れてすぐ帰るかと思いきや、水遊びをしこたまして帰路に着いた。
寒かったんじゃなかったのかい?
(帰る途中でラーメン食べたが、美味しかった)。




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着ぐるみコンサート

Zoorasian.jpg 金管五重奏「ズーラシアンブラス」
usagi.jpg 弦楽四重奏「弦うさぎ」(つるうさぎ)

家族全員で着ぐるみコンサートに行った。
母親のおごりだ。
前日に娘たちにブーツを買わされた。季節柄もうないかと思っていたらあった。しかもお得な値段で(祝。
超満員の受付を入り何故か、広告はどっさり貰うが、プログラムを失くす、、、。


やってる音は、ポピュラーな基本子供向けタイトルが多い。
演奏はしっかりしている。CDも5枚ほど出してるらしい(「ズーラシアンブラス」)。
受付でしっかり販売していたが、ジャケも着ぐるみであった。(当たり前か)。


「ウイリアムテル序曲」、「ボッケリーニのメヌエット」、「愛の挨拶」エルガーのもの、、、これ好きである。
外せないチューンというのはあるものだ。
「となりのトトロメドレー」、、、来ると思っていた。
ポピュラーソングの管楽器アレンジものもあったが、結構良かった。こなれている感じ。
「この素晴らしき世界」、「ユア・マイ・サンシャイン」、、、
管がブラバンもどきにならない技術があって、こちらも楽しめる。
弦の音もよく通ってしっかりしている。

しかし感心するのは、よく着ぐるみで演奏が出来るものだという事。
当然暑くて息苦しい筈だ。
何と言っても、管楽器はブレスが大事だ。
肺活量だ。
「弦うさぎ」は、ブレスは無いが女性のはず。
汗は大丈夫か他人事ながら心配した。


演奏者は、金管五重奏「ズーラシアンブラス」と弦楽四重奏「弦うさぎ」(つるうさぎ)である。
全く知らなかったが、活発な活動をしている、有名どころのようだ。


「ズーラシアンブラス」は、オカピーが指揮、インドライオンとドゥクラングールがトランペット、スマトラトラがトロンボーン、マレーバクがホルン、北極グマがチューバという構成。それぞれ個性が出来ていて、時折子供をお約束で笑わせる。
最後の方で、ゴールデンターキーがトランペットでプレミア的に飛び入りするお決まりのようだ。

「弦うさぎ」は、第一、第二バイオリンにチェロ、ビオラの基本構成である。
安定感がある。

「ハッピーバースデー変奏曲」はなかなか楽しかった。
短い楽曲を何人かの作曲家のアレンジで演奏し分ける。
また幾つかのお国調に演奏し分ける。
よいと思う。何より原曲を誰もが知っており、テーマが短いため聴きやすく子供に違いと特徴が分かりやすい。
欲を言えば、もっとたくさんの作曲家でやってもらいたかった。
清水ミチコもそれ得意である。ピアノなら彼女に頼みたい。おう、それからNHKによく出る「アキラ」さんである。
結構ファンなのだ。

モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」弦と管楽器で弾き分けるのも、子供にとっては面白い体験のはず。
途中で何故か「犬のおまわりさん」が入ってくる。
ふざけないといけないと思ってる節がある。
基本音楽を聴きに来ているのだから、モーツァルトの時はそのまま弾いても良い。
勿論、ふざけるのは良いのだが、音楽的にビックリさせて欲しい。
(犬のおまわりさんはチョットきつい)。
やはり、こうしたコンサートは視覚的な演出、ジェスチャーやアクションのウエイトが大きいか?
それで惹きつけることはできるが、落ち着きを削がないか少し気にはなった。


うさぎとかめ、特にここで聴かなくても、、ピクニック、、運動会を思い浮かべてしまう。これは無くて良いかな。学校に行けばいくらでも聞く事になる。
会場を立体的に使い、演劇調に演出している事は分かる。
終盤ゴールデンターキーもトランペットで飛び入りしなかなかノリが良かった。
客席後ろから彼が高らかに鳴らして合流する「闘牛士のマンボ」は特にそう。
けっこう、これには娘たちも盛り上がっていた。
そして「トランペット吹きの休日」、、、と続く。
トランペットのソロも頑張っていた。

ノリノリで終わり、アンコール。凝ったアレンジの
「聖者が街にやってくる」で締める。
このくらいの時間で調度よい。
これ以上は、双方にとって厳しくなる。
こちらは間違いなく途中退場を余儀なくされるであろう。

次女は終始ノリノリで大はしゃぎであったが(おかあさんといっしょのライブみたいだった).長女は途中から帰りたがって大変だった。寝て待つ事が出来ないらしい。
終盤、蘇ったが一時はおんぶして連れ帰る覚悟を決めたものだ、、、。
これからの人生、寝て待つ事も大切である。(その方が良い場合もある)
そのうち、要領としてではなく、配分とバランスの感覚も身につくとは思うが。
面白いと気づいた時に、またノリノリで楽しめば良い。
平坦な曲は詰まらない。


帰りにレストランで食事。
そこで食べ終わったところで、長女が母からもらったブレスレットを失くした事に気づく。
わたしは付けて来たこと自体知らなかった。
何でもダイヤがいっぱいハマってる、そのまた母から貰ったやつとか。
何で小学1年生にそんなものあげるのか?
大学入学時に、あげれば良かろうに。
貰っていない次女がニヤっと笑ったのが印象的であった。
彼女はポーチをもらって、自分の宝箱に仕舞い込んでいる。
(個性はどこにいても明確だ)。
また、コンサートホールに探しに行くこととなる。
よくはめている、100円ショップものであれば、そのまま帰宅なのだが。
しかし、そこは日本。
ちゃんと落し物コーナーに届けられていた。
海外から評価されている美徳が実感できる日ではあった。
反面、コンサート会場でのおばさんマナーはかなり酷かった。


プラマイゼロの日である。




フォーレ レクイエム

G faure

”Requiem”
ニ短調作品48
ガブリエル・フォーレ作曲

早朝薄暗い時から聴いていた。
楽曲の流れとともに朝の明るみが音連れた。
何と気持ちの良い美しい朝だ、、、。


「主よ、私を解き放ってください。永遠の死から。」

第1曲 イントロイトゥスとキリエ(Introitus et Kyrie) 厳かなコラール 慈悲をお与えください主よ、、、最初のユニゾンによる降下が特に印象的 永遠の安息をお与えください 絶えることのない光が彼らに輝きますように
最も力強く長いパート eleisonで終わる

第2曲 オッフェルトリウム(Offertorium) 奉納である 怒りの日はない 転調が繰り返される 伴奏なしのうた 解き放ってください 死せる者の魂を 深い淵より アーメンのリフレイン 落ち込みませんように 闇の中に 深さと複雑な陰影を感じるところ

第3曲 サンクトゥス(Sanctus) 短いが荘厳で幻惑的なパート 天と地があなたの栄光に満ちています 聖なるかな の呼びかけとよせるような応え バイオリンの天上の燦めきの効果 アルペジオで始まりアルペジオに終わる 息を呑む美しさ

第4曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu) いつまでも続く安息を彼らにお与えください 切々と独り歌うソプラノ 合唱のない谷間の静けさ
深淵に響く歌の音

第5曲 アニュス・デイ(Agnus Dei) とても好きなところ 何と優しい幻惑的な楽の音か 神の子羊 世の過ちを取り去る方 ここでいつも感極まる 永遠の光が彼らに輝きますように 後半の転調で曲の雰囲気は一瞬激変する  不安になるが最初のテーマに回帰し終わる

第6曲 リベラ・メ(Libera me) 「主よ、私を解き放ってください。永遠の死から。」このバリトンの独唱がこの楽曲全体で一番印象的だ それを覆うようにユニゾンの合唱が続き その後当初から転調したバリトンがその歌を引き取る

第7曲 イン・パラディスム(In paradisum) 楽園へと天使たちが導きますように 厳かで優しいオルガンのアルペジオに始まり それに終わる いや第1曲冒頭のRequiemに回帰して終わる 明確な作品上の意図が見える

あくまでも素人の独りよがりな感想である
大概、掃除をしながら聴いたりしているが、第5曲あたりで嗚咽してしまい、座り込んで聴く。


「怒りの日」がない。
「死の恐ろしさ」を煽る部分がない。
制作当時カトリック教会に批判された事柄であるが。
「死は永遠の至福に満ちた開放感に他ならない。」(G・フォーレ)であれば、まさにこれ以上の(斬新な)レクイエムはない。
何より、美しい。ひたすら優しく美しい。
純粋な音楽として、これ程ぴったりな誕生日プレゼントはなかった。

そう最初に聴いたのは、高校二年の時、弟からの誕生日プレゼントで貰って、その夕方に聴いたものだ。
次の日は、ほぼ一日中レコードを回しっぱなしでいた。
わたしの特権であるが、誕生日の翌日は常に休みなのだ。
そこは恵まれた運命だとつくづく思う。
(今は、娘たちから羨ましがられている)。
窒息しそうになる前に、定期的に聴いてきた。
薬か?そうだ、薬だ、、、。

よい空気を流したい時に、この楽曲はなくてはならない。
勿論、モーツァルトのそれのようにオドロオドロしい大傑作もあるが。
まったく違う気分に浸る。
ベルディのそれとも違う。
ただ、美しい音楽に包まれたい時にこれを聴く。


良い音楽は、常にそれ以上の何かだ。





Desert Music 砂と反復

Desert.jpg

”The Desert Music”
Steve Reich

"Different Trains"が、クロノス・クァルテットの演奏で、ホロコーストの経緯もあり部分的に耳には入っていたのだが、、、
「スティーブ・ライヒ」を意識的に聴いたのは、この”Desert Music”が最初と言える。
大変鮮明で煌びやかな衝撃を受けた。
曲構成が印象的で、ヘンリー・カウなど結構影響を受けていることが分かる。

大学時代に親しい友達から薦められて聴いたものだ。
彼女はピアノ科であったが、第二楽器がマリンバだった。
その関係もあろうか、ここでもマリンバがかなり聴ける。
この音世界には、たちまち引き込まれた。
わたしがフルートを少しばかり吹いているということで薦められた無調音楽には、正直辟易したのだが。
(フルートは入らないが、モートン・フェルドマンだけは、自分でもCDを買って聴き入った)。

砂漠というより、砂というものの本質に触れた気がした。
それは、海岸の砂でも砂漠の砂でもなく、わたしたちのその頃の先生でもあった國領經郎の砂丘でもない。
(埴谷雄高が彼を高く評価していたのは、物凄く意外であった。どこをどう気に入ったのか今もわからない。モチーフの砂関係でか?油絵なのに日本画的テクスチュアによる空間性においてか?しかし何故、砂だけでなく若い男女などを描き込むのか?)

The Desert Music
実際の「砂」であるが、まだ知らない「現実の砂」である。
砂は、わたしにとってぼやけた観念に留まっている。
他の多くのモノと同等に。
例えそれを名指しても、それがあるのだかないのだか覚束無い、そんな世界に大方暮らしている。
やはり、音楽を聴くと、その真実味がよく染み渡ってくるものだ。
抽象の方が、現実的であることが分かる。

BBCシンガーズは、ロック界における最高傑作と言えるプロコルハルムの”グランドホテル”ですでに聴いてはいたが、ミニマルミュージックの代表格の作曲家の曲で聴くと、また違う。
エモーショナルな感覚は微塵もなく、物質的で無機的な響きが幾度でも回帰してくる。
それもひと粒ひと粒の砂の運動として。

彼らには、反復が馴染む。
砂というものは、反復の象徴である。
いや、反復そのものか。
そして砂漠とは何か?
それこそ無限反復の厚みそのものであろう。
この全体の響きと声-コーラス?は、大変原初的であると同時に、終わりの光景だ。
ヒトは影すらない。
しかも象を結ばない。結ばせない光景であり続ける。
そんな強度をもっている。
宗教を超えたオラトリオを感じる。

マリンバ、弦、(金)管楽器、BBCのボーカりぜーションによる大きなアンサンブルである。
ライヒにはこういう構成が多い。
聴いてるうちに、珍しくうたた寝をしてしまった。
夢の不安と安らぎの両者が抽象の砂風となって立ち現れ、吹き付けては去ってゆく。
これが何千回と繰り返された気がする。


遥か遠方の何処かの地球の光景が思い浮かびそうになるが、その前に眠ってしまう。



Living In the Heart of the Beast

000007.jpg

ヘンリー・カウを聴いていた。
2009年のライブで、ダグマー・クラウゼのボーカルに、ロバートワイアットのスキャットが絡む。
凄まじい美しさだ。
最高の贅沢だ。
最も好きな現代音楽の曲の一つである。

ライブというのは、つくづく凄いものだと思う。
K・クリムゾンやLou Reedもそうであるが、極めて微分方程式的な生成が連動してゆく。
ライブとは、彼らのような存在にとっては特に実験の要素が強いのだろう。
人生そのものが実験ではあるが、、、それを最大限に増幅し優美に抽象化した波動。
その公開-共振の場である。
カオスモスというのか、これを、、、名付けない方がよいか。
ここでは高貴な野生が、次々に目覚める。
わたしと仮に呼んでおくこの場に、蠢く何兆もの生がそれぞれ騒めき立つ。
よいものに触れたとき、ほとんど「わたし」は消え失せる。
それが「ほんとう」なのだと。

ちなみに、わたしのiTunesをそのままほったらかしておくと、次にアルビノーニのアダージョへと引き継がれる。
カラヤン・ベルリン・フィルのものだ。
それが終え息を潜めた瞬間、何故かコルレリの「クリスマス・コンチェルト」が始まる。
究極の愛らしさ。
ビバルディより前の作曲家である。
であるから、バッハより更に前に生きていた。
しかし、その旋律の圧倒的な美しさは、厳格な対位法にさほど縛られていないせいであろうか。
古さ、固さを感じさせない。
大いなる予定調和と健康を感じ、何とも清々しい。
野生の小さなスミレに触れた時の感触に近い。

そのままにしておくと、ビバルディになっていた。

音楽の効用は、身体を「自己」から解き放つものだろう。
それが、何であっても、、、。
せいぜいビバルディまでで良かった。
このまま、進んでいくと、確かモーツァルトが待っている。
(わたし)はモーツァルトのマイナーにやたらと煽られる。
クリムゾンの二期とモーツァルトのマイナーには、過剰に反応してしまう。
今日はやめる。

(わたし)がいなくなるのはよいことなのだが、その代わり多くのモノが色めき立つのだ。
ある意味、身がもたないのだが、快感であることは理るまでもない。
ギリギリまで横溢する。
このディテールを、きっと強度というのだ!






臨界点

rinkai.jpg

雨がしとしと降る。
何か内側に溜まっていくように。
やんだかと思っても降っている。
(やんでいる時も実際あるようだが)。
この何かの猛毒に徐々に侵されていく感触。
(放射能か病原菌か呪いか)。

外には出ない。
大雨ならスッキリするのだが、これでは外に出る気分にならない。
外を確かめることから不快なのだ。
息が詰まりそうになる。
全てのものを内側から腐さらせ忽然と倒壊させる悪意に満ちた気を感じる。
宇宙の悪意を。
毒には毒をという感じで、、、

Lily Chou-Chou (Salyu) の「呼吸」を聴いている。
「アラベスク」は昔”クレプスキュール”から出ていてもおかしくない曲だ。
典型的な名曲だ。
、、、ならばスッキリしているはずだが、、、

わたしには、やはり「飽和」と「共鳴」が特にしっくりくる。
が、どれも良い。
「回復する傷」と「グライド」も気に入っている。
全体に懐かしい響きで、郷愁を誘う曲ばかりだ。
しかし、物質的な何らかの記憶に行き当たるわけではない。
残り火をデジャヴのように感じる。
(何故か大岡昇平の”野火”を思い出した)。

いまの気分と相殺する何かではない。
わたしが消えない。
つまり、新たな場所が生じない。
(転移が起きない)。

全曲聴き終えて、iTunesリストにある次の曲は、Sightだ。
同じく小林武史氏の。
これこそ昔懐かしいクレプスキュールだ。
これはかなり心地よい。

もう少し長い曲だったらもっと良かったのにと思う。
すぐ終わってしまい名残惜しい。
ウィン・メルテンがその次に入っている。
ここでは”Maximizing The Audience”が。

特にリリカルなミニマムミュージックでよいのは、いつまでも流れていることである。
徐々に変化(僅かに更新)しながら反復する。
それは永劫回帰を感じさせる。
ヒトという歴史を。
大いなる反復。

うんと劇的なのは昔よく聴いていたラベルの「ボレロ」だったが。
ちょうどその頃、フィギュアスケートの選手がよく使っていた。
特に、アイスダンスの競技でそれはとても激情的で、効果的であった。
(何というペアだったか、名前は忘れた。満点をよくとっていた)。

現代音楽(ミニマムミュージック)では非常に静謐でリリカルにこみ上げる反復である。
時間が長いので催眠効果がある。
魔術的である。
麻薬である。
しばし痛みを忘れる。


明日は、ジェーンカンピオンの”ピアノレッスン”でマイケル・ナイマンを堪能しよう。
そんな気分だ。


娘のピアノ発表会

piano.jpg

一昨日、長女のピアノ発表会に行った。(双子の次女の方は別の教室なので後日である)
第一部で29人。と全員合唱。
第二部で18人と先生方の発表。
さらにアンサンブルが4つ。
第一部では一人二曲づつ。いったい何歳なんだというような小さな子ばかり、可愛らしい曲を弾く。

大変な曲数であり、発表者であり、休憩と移動バス時間を含むと結局まる一日の大仕事であった。
しかも、緊張しまくり状態で、喉もカラカラ、三脚にビデオを乗せひたすら撮ることでなんとか自分を落ち着かせた。
(わたしのことだ)
娘は多少は緊張感は見られたが、おちつきはらっていた。

暫く発表の続く中で、わたしはとんでもないことに気づく。
最初の頃は楽曲が簡単だから楽譜を見ないのか、と思っていた。
しかしいつまで経っても楽譜を見て弾く子がいない。
まさか!と思っているうちにうちの娘の番が来た。
ニコニコしながら舞台で挨拶する娘の手には楽譜がない。
袖に送り出す時には持たせていたのに!
わたしはフリーズした。

少なくともわたしが家でみていた範囲では、常に楽譜を見ながら注意しつつ弾かせていた。
一度も練習で楽譜を見ずに弾かせた事がない。
いきなり本番で初めて譜のない状態で弾くなんて、、、。
こりゃ無理だ!
暗譜してないし。
失敗した。
何でそこに気付かなかったのか。
先生は譜を見ずに弾くようにとはひとことも言っていなかった。

長女はお気に入りのワインレッドのドレスで椅子に座り、暫く手を鍵盤上に置いたまま動かない。
わたしは思わず固唾を呑んだ。
時間が止まったように思えた。
やがて間合いをおいて静かに弾き始める。

タッチが弱い。全体に弱い。
しかし、その中での強弱、抑揚はついている。
中間トーンのデッサンを見る思いだ。
ミスタッチも特にない。
リズムは問題ない。
このまま行け。祈るように聴いていると、、、

最後まで行った。
終わった。

わたしに曲想を楽しむような余裕などもとより無い。

椅子から降りて、彼女は舞台中央で無表情にお辞儀をし、袖へと去ってゆく。
どっと疲れが出る。
わたしが疲れてどうする。

小学生に入り、高学年くらいから皆楽譜を見ながら弾き始めていた。
まだ、娘くらいの段階では見ながら弾くほどのものではないのか?
そういうことではないと思うのだが。

戻ってきた娘に聞くと「先生が楽譜はいらないって。」
それで持って出なかったの?
「そう。」
暫く動かなかったけど、困っていたの?
「あたまの中でがくふを思いだしてた。」
それで弾き始めるまで少し待ったのね。
「うん。」
わたしではその状況では、とても弾けない。
娘が逞しく思えた。
アンサンブルでのベル演奏でも音の大きさが少し小さかったがタイミングはしっかり鳴らせていた。
彼女はちゃんとやっていた。
問題はわたし-保護者である。

最後のお花である。
パンフに先生に渡す花は、係りを前もって決めているため、その生徒のみ放送に従い前に出て渡すようにと記されていたため、全くお花のことは、頭になかった。
ところが、最後の記念撮影でみんなが各自、自分のためのお花を持って舞台上に集合となった。
3人の先生の教室の寄り集まった発表会であったが、うちの先生の生徒がほぼみんな花を持っていない。
わたしは焦った。
よく確認しておけばよかった。
コンサートホールに1時間早く到着していたので、花屋に買いに行くことくらい軽く出来たものだ。
幸いお花は何列にも並んで撮るため隠れて見えなくなっていたが。

娘に申し訳ない。
こちらの不甲斐なさに、ほとほと参った。
親はなくても子は育つと言うが、いつの間にかしっかり育っていた。
せめて帰りは娘の好きなイタリアレストランで食べることにした。

ショパンの「子犬のワルツ」がこんなに良い曲だったことに初めて気づいた。
娘が今度上がる小学校の先輩が弾いた「荒野のばら」がとても素敵であった。
「風の丘」のような久石譲の曲を弾く子が何人かいた。クラシックの中に混ざって新鮮に聴こえた。
一番面白かったのは、ルパン三世の格好で出てきた男の子のジャズアレンジ版ルパン三世のテーマであった。
彼はスター性も抜群であった。


「ゴールドベルグ変奏曲」 バッハ  ~グールド ~P・オトゥール ~ニーチェ

Glenn Gould

初めてゴールドベルグ変奏曲を聴いたのは中学生のとき。チェンバロの演奏でした。
演奏家の名前は覚えていません。
レコードではなく、ラジオからだったはずです。(もしかしたらテープか?でもラジオから録ったはず)
カール・リヒターのものだったかも知れません?!

すでにバッハは聴いていましたが、この曲に対しては、ああバッハらしい曲だな。と思い聴いており、他の印象はこれといって強烈には残りませんでした。が、この曲をこの時期に聴いたことだけは何故か覚えています。元音楽体験としてでしょうか。

「ゴールドベルグ」はグレン・グールド(あたかもニーチェはワーグナー)というくらい?ポピュラー対応図式の状況が続いていましたから、わたしもレコードで聴いたものです。

一瞬、間を置く出だしのアリアの神聖な響きから第一変奏に差し掛かったとき身震いするほどの感動を味わい、高揚感とともに第三変奏のメロディの美しさ優しさに包み込まれたかとおもうと、ピアノはまた精確に躍動してゆきます。高揚し到達しつつまた更に上昇してゆく、、、。バッハ特有の対位法に 弁証法的な語らいを感じ、深く魅了されました。

再演版は亡くなる前の録音で実質、最終演奏にあたるものでした。ちなみに彼の華々しいデビュー版のゴールドベルグ変奏曲は、聴いておらず持ってもいません。おそらく手に入れるのは今は大変かと思われます。そちらの方は録音時間が短い、つまり非常に速いテンポで、流れるように全体のまとまりを大切に弾かれているとよく言われます。再演(最終)版の方は、速いものは速く、ゆっくり弾くものは充分にゆったり厳かに弾かれています。

片方を知らないので、何ともいえませんが、この一曲一曲に独立した解釈を徹底し、完璧に練り上げたであろう演奏はわたしのような素人にはただひたすら神業に思えます。
彼こそ超人と呼ぶのにさほど躊躇することはありません。

この時の音源とは別かとも思われますが、何かの機会でゴールドベルグ変奏曲を弾く彼のビデオも見せて貰いました。(確かフルートの先生にです)。
初めてこの「練習曲」が難曲であることを実感しました。特にピアノにおいて。もともと二段の鍵盤のあるチェンバロ用の曲であることに、はっきりと気づいてしまったのです(遅すぎる!)。
右手と左手の激しくも複雑な交錯は、恐らく、右指でキーを叩くべき所をそのタイミングによっては左指にも変えて弾いているように思えました。妥協は一切せずに技術的な面からの音(装飾音)の省略などは全くしていないのが明瞭に分る演奏でした。(しかし鑑賞できたのは数分でした)。


デビューに「ゴールドベルグ変奏曲」を弾いて大絶賛を博し、その後ライブ演奏は短期間してはいるものの、ほとんどはスタジオ演奏録音であったと思います。その間、レコードによる再演は、本人の意図的には無いのでは。(よくレコード会社との契約などとの関係で、本人の意思に関係なく出されてしまうことは時折ありますが、例えばカール・リヒター最晩年の日本コンサートでの「ゴールドベルグ変奏曲」、、、)
やはりグールドは余程、デビュー作である「ゴールドベルグ変奏曲」に、こだわりとそれを「超えんとする」意志を持ち続けていたのではないでしょうか?

しかし、つくづく処女作というものは、本人にとって大きなものなのですね。
処女作すらもっていないわたしには、想像がつきませんが、いろいろなアーティストをみると本当に重荷でもある一生付き纏う、テーマにもなってしまうように感じられます。

ここのところあっさりやっています、映画感想に絡めますと、ピーター・オトゥールですね。
彼の俳優というキャリアは、いきなり途轍もない高みから始まってしまいましたから、そこを「いかに超えるか」はもう至難の業としか言えないものだったでしょう。
実際、本人は大変だったと思います。
あれもまさに神業でした。奇跡的な。トマス・エドワード・ロレンス本人よりその人になってしまった感があります。
鬼気迫るというより狂気をまともに感じました。あの瞳!
探せば、次々出てくるはずです。(それほどあるか?)


音楽家というより芸術家が、再演録音する-自分の作品を作りなおす-ことは通常ないかと思われます。わたしも自分の一度描いた物を描き直すことは生理的に出来ません。
バッハ繋がりでは、ヘルムート・ヴァルヒャがモノラル版とステレオ版とに分けて2回バッハオルガン曲選集を録音して出していました。多分そのような都合もあり、探せば沢山出て来るかも知れませんが、、、。(実はわたしが音楽に興味を持ったきっかけがヘルムート・ヴァルヒャの弾くハープシコードによる「フランス組曲」です。彼はオルガン奏者として名高い人ですが、そのハープシコードの天上の音色が決定的な音楽体験として残りました)。
絵画でもキリコは後半生において自分の作品コピーを意図的・策略的に行っていました(わたしの友人にも一人、いとも簡単に自分の絵画作品を寸分違わずコピーしてみせる人がおりますが、彼にとってはフツーのことらしいです。例外はどこにでもいます)。
話を戻しますが、グレン・グールドはよほどの愛着からか、のっけからの大成功を乗り越えるためか、、、理由はわたしには分りませんが、再演します。この81年度版には天才の余程の覚悟があったと思います。最初と最後が「ゴールド・ベルグ」というのは、自ずと重く捉えてしまいます。
また、じっくり聴きたいものです。
グレン・グールドのピアノの方でですが。チェンバロは誰の演奏がお薦めでしょうか?

わたしが数日前に映画の感想で書いた「地球の静止する日」に対し、リメイク版の「地球が静止する日」に「ゴールドベルグ変奏曲」が使われていることを教えて頂いたもので、哀しみのセルフィッシュ・ジーン Ⅰ~地球の静止する日/アルジェの戦い/いのちの戦場 アルジェリア/馬謖、により思わず想い出を書いてしまいました。
博士に宇宙人が出会う場面で流れているそうですね。
「が」の方も機会があれば、観てみたいです。

「ゴールドベルグ変奏曲」にニーチェの思想を実感されるということ。
確かに、「ロマン主義的ペシミズム」の高揚を感じます。ニーチェは古典文献学者の基盤を確立して後、悲劇の偉大さを強調していますね。このペシミズムにはデカダンスの翳りはなく、螺旋状に厳かに上昇してゆく澄み切ったビジョンを感得します。孤高のビジョンを。
寧ろ、ショーペン・ハウエルがワーグナーかもしれません。


長くなりましたのでここで切らせて頂きます。
続きはまたの機会に。

THEME:音楽 | GENRE:学問・文化・芸術 |

Womb

an00.jpg

3日間だけ、O君の1991年作・演奏による”Womb"がページが開くと同時に鳴り出します。違う形でまたお届けしますので、3日間だけこの形でお願いします。暫く調整させてください。もう一つ”Photon”―― 素粒子の光子ですね、これの方が彼らしいか、もあります。わたしの諸事情でアップが大変遅れております。
なお、彼はその後、アレンジをすこし変え、演奏し直したものを再度、私に送ってくれていますので、そちらの方もご紹介したいと思っています。どちらかというと、今鳴っている方が私は好きなのですが。当時、坂本龍一の番組でとりあげられ、「楽譜送ってくれ」と頼まれたようです。実際に送ったかどうかは、聞き忘れました。

ここのところシステムの不調とデータ保存の不手際などが重なり(見つかり)、想定外の問題が出ておりますが、思いがけない発見もあり(あくまでもわたし的にですが)それはそれで面白いのですが、疲れます。
お約束のお届けがズルズル遅れ誠に済みません。




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O君の音

an00.jpg
O君の音をご紹介します。本当は1か月前に姉妹ブログでご紹介するはずだったのですが、本当にやりにくく、通常のアップもTextだけならなんでもないのですが、音と画像の紹介となると、片手間にはできない作業なので、諦めて他の物も全部お引っ越しすることにしました。また、画像データの質も悪く、この際元データのレベルから作り直すつもりです。
では、O君1991年作”Womb”です。

鳴らないぞ

少々お待ちください、、、。

代わりに今回はこれを(前フリで)

年に一度くらいしか逢わない友人のひとりで、現代音楽の作曲家であり、教科書会社の編集長をやっているO君の音楽をweb上で紹介したいとおもいます。彼の作品で以前、坂本 龍一のラジオ番組でも取り上げられていましたWombを今回紹介します。これは彼が1991年に自分の部屋でDX7の多重録音によりつくつたものを普通のオーディオテープに入れて、なんとなくわたしにくれたものです。他にもいくつかの曲の音源から取ったテープをもらっていますので、一曲ずつでも紹介していくつもりです。彼自身はバイオリニストですが、ヤマハDX7の多重録音ものが短かめなのでそのへんからいきます。 

"Womb"について:「バイクの速度で初めて見えてくる光が在る。時に夕刻の街の虚空に浮遊し揺らめくガラスの片々に。緩やかに、心地よいリズムで、めくるめく。」私が最初の勤めでよく出張した新宿センタービルの35階あたりでは、窓の外をキラキラ光って舞い上がり、いつまでも宙を漂うものがふいに表れます。はらはらと。本当に、ものなのか。何なのか。時空間と言う場所のある特異な表情なのか。まあ、それをものと呼ぶのか。なんであるかは分からないのですが、我知らず恍惚としてその複雑きわまりない振る舞いに捕われているのです。しかし逆らいがたいその光景になにか過飽和状態になって耐えきれない気持ちが同時に膨れ上がり、ちょっと目を離した隙に、最初からなかったかのように、ふっとそれは消え失せているのです。こちらの意識が一枚布のように全体を識ってしまうしまう一瞬。と、そしてなんとも言えない喪失。すべてが終わってしまった後の光景。あるいは始まる前の、、、。痕跡。片々。めくるめく外傷経験の反復。想い出。色褪せたほろ苦い誕生。または覚醒。そんな体験をどこか頭に置きながら、彼と作った短文が上のものです。CDのライナーにも載せました。彼は何処へでもバイクを飛ばして行ったものです。ときにはバイオリンを担いで。たぶん目的地は口実で、ただ光を追って。




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