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ピアノ発表会

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昨日、恒例のピアノ発表会があった。
毎年、緊張するものだ。

これが終わるまでは、夏も落ち着かない(わたしが)。
幸い今年は7月の最初に時期が早まり、夏休みはゆっくり過ごせる(笑。
今回もまだまだ年少組の為、順番は早い。
次女が8番、長女が10番。
順番が早い方がドキドキ待つ時間も少なくてよい。
後はお姉さん方の演奏を聴いていればよい。
ショパンの凄い演奏なども聴けたりする。
(今回は先生方のなかからショパンが聴けた。あの「幻想即興曲」である。得した気分になった)。


次女は大抵一か所はミスってハラハラさせる。
本人は結構落ち着いているのだが、、、。
今回も同様に(苦。
練習段階で(家で)間違えずに弾けていても、当日うっかりやる。
最小限に誤魔化して流していたが、こればかりは誰にも分かってしまう。
音楽の怖いところだ。一瞬が目立つのだ。
しかし曲の表情と強弱はついており、リズムも問題なかった。
聴かせようという意識は感じられて、まずまず楽しい曲になっていた。

長女は、事前にわたしがプレッシャーをかけ過ぎていた。
それまでほとんどなかったのだが、本番間近になって、やけにタッチミスが入り始めてきたのだ。
気を抜いて弾いている部分もあるかと思い、集中して間違えないように弾くことがまず基本と結構繰り返していた。
何とか前日にそれまでの指が滑って他のキーに触れてしまう?という感じはなくなったのだが。
10番目の演奏において、弾き間違いはなかったが、全体にタッチが弱いかんじであった。
終わってから「弱気になった?」と聞くと「きんちょうした~っ」とはにかんで言っていた。
「ご苦労さん」と自然に言葉が出た(笑。

その夜(昨晩)、先生からのメールで知ったのだが、舞台袖で非常に緊張していて手を握ったら汗をかなりかいていたそうだ。
相当プレッシャーがかかっていたかな、と思う。
緊張していたが綺麗な音色で曲想豊かに弾けていたとあり、とてもホッとした。
「あの子だけ音色が違うわね」と他の先生に褒められたと書き添えられていて、これは嬉しい限りであった。

全体に少し弱い面はあったが、ペダルもタイミングよく合って綺麗な音色を出すことは意識出来ていたと思う。
最後に、生徒たちがより成長出来るようにがんばります、と締めくくられており、こちらとしても是非末永くお願いしたいものだ。

音楽を通して学べることは実に大きい。
楽理的なことや演奏技術や藝術的素養は勿論だが、、、
精神的に強くなることがとても大切なことである。
(これがまず彼女らには一番必要なことかも)。


将来的に音楽で自分を表現できるようになれれば言う事はない。


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演奏会の良いところは、他の人~先輩方の演奏を鑑賞できることだ。
その感想として、ふたりとも早くショパンが弾きたいそうだ。
わたしも聴きたい(笑。

トッド・ラングレンを聴きながら

Todd Rundgren001

映画は午前中に「ワンダーウーマン」を途中まで観た(笑。
ここまでフォーマット化されていて、古いコードの上なぞりはどうにかならぬものか、、、?
特に男女の関係の既視感とわざとらしさに辟易する。
息詰まり、別のことをすることにした。

昼過ぎに長女と買い物がてらウォーキングをたっぷりした(実は店を探して彷徨った)後、iTunesにしこたま入れているトッド・ラングレンを聴きながらモノの整理をして過ごした。
「全能の人」なんて呼ばれる音楽家であるが、やはり音の魔術師であることに間違いない。
マルチプレイヤー(マイク・オールドフィールドに並ぶ)で有能なプロデューサーであるだけでなく、類稀なコンポーザーである。
更に特別なヴォーカリストだ。
一聴でとり憑かれてしまう魔力が、そのサウンドには秘められている。
忽ち体細胞の隅々にまで染み渡るのは、きっと、、、。
そこには、コード進行やサウンドの斬新さを越える(支える)思想的な強度が息づいているのだ。
(音の達人は他にニック・カーショウなど何人もいてその出来には確かに感心するが、トッドの煌きは感じない)。


心地よくて、、、結晶的な快楽感に浸れる、、、健康にきっと良い。
ときどき聴こう。

ざ~と聴いていて、いつもはあまりかけていなかった”Nearly Human”の"Fidelity"が如何にもトッドという感じのリリカルな美しさで手が止まり、暫し聞き惚れた。
(トリスタン・ツァラに近似的人間という詩があるが、あれはとても音楽的な詩であった、、、単に連想しただけだが)。
煌きという点では、”A Dream Goes On Forever”が頂点かも知れないが。
これも本当に良い。やはり非凡だ。
このアルバムは彼の作品のなかでは、地味なものに思えていたが、エッセンスは充分に行き渡っている。

”Healing”も久々に聴いて、癒された。マンマだが(笑。
代表作以外にも名作揃いであった。


さて、寝る前にとっても懐かしい”I Saw The Light”と”Hello it's Me”でも聴いてみたい。
今聴いても最高だろうな、、、。


では、おやすみなさい。





ピアノ決まる!

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いきなりピアノが決まってしまった。
昨夜、近くの楽器店で決めた。(混んでいなければ車で15分のところ)。
かなりの部分、ノリもある~(笑。

娘の先生のピアノを長い事調律している音楽活動も広く行っている方の店で、今後の調律~メンテを考えるとそこが良いとふんだ。
周辺の小中高にもピアノを卸している店であり、音楽イベントも学校などで開いている地域に根差した店だ。
つまり店で決めた面も大きい。(販売だけでは、心もとない)。
使い続ける限り、電子ピアノでなければ、維持において調律は不可欠である。
そのことも含めると、信頼のおける近くのお店と関係を築いておく事は結構大事。

Yamahaの木目調の背の高い方のアップライトだ。
店に30台くらい置かれていた中でタッチが良く、最も低音から高音まで響きと深みがあって格調を感じる音の出るものにした。
お値段は、グランドの小さめのと同じくらいであるが、我が家ではグランドはその大きさから元々無理なので、それに表現力がある面で迫る物があれば良かった。(基本的には違うものではあるにせよ、、、そうキーの戻りの速さがグランドは凄い)。

何と言っても表現力、、、まさにそこである。
電子ピアノはどう弾こうがハイブリッドも含めサンプリングの音である。
基本的に音の強弱はあってもそれ以上のものではない。
それにタッチがどうしてもスイッチぽい。(ハイブリッドはアクション機能を持つ分、タッチにはアコースティックに近いものはあるが)。
考えてみれば、電子ピアノを選択肢に入れる必然性はないのだった(爆。

また、バイオリニストの友人が防音対策をどうするんだと言っていたが、もうかれこれ50年オヤジの代から、そんなこと考慮に入れたことないことに家族みんなで驚いた。
そうなのか、、、これからはそちらも考えに入れて行こうという事に取り敢えずは、なった。
(電子ピアノなら確かにヘッドフォンで弾けるが、深夜の練習ということも場合によってはあるのかなあ、、、娘に)。


だがやはり、触っただけでも電子とアコースティックは全然違う楽器だ。
先生がこちらを強く薦めたのは、よく分かる。
それに今回決めたものは、明るい木目調で、見た目も穏やかで端正なところがポイントであった。
家具としても充分に映える。
一週間後に来るのが楽しみである。
今、次女が一番楽しみにしている。
それで作曲をしたいのだと、、、?
わたしもワクワクでメトロノームはすでに準備して置いてある(笑。


それまでにボロいピアノを処分しておくことになる。
音の出ないキーがひとつあるのが心配なのだが、持って行ってくれるだろうか、、、。
頼んだ引き取り業者は海外輸出をしているところのようだ。
成る程、それで少しばかり値が付いたのか、、、。

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フラクチャー ~ Frakctured

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Nuovo Metal(ヌーヴォメタル)時代の曲を最近また聴き始めた。

わたしがクリムゾンでもっとものめり込んだインプロビゼーション期『太陽と戦慄』、『暗黒の世界』、『レッド』の黄金期から『ディシプリン』のニューウェイブ期(まるでトーキングヘッズみたい~ポリリズムのせいだ~と揶揄されたが”Discipline”は秀逸)からまた重量感たっぷり(ダブルトリオ編成)のヘビーでソリッドなメタルサウンドを信条としたヌーヴォメタル期(2000)に至る。


無論、『クリムゾンキングの宮殿』、『ポセイドンのめざめ』、『リザード』、そして余りに精緻で儚く美しい『アイランズ』、、、音源は悪いがクリムゾンが創造的ライブアーティストであることを立証した『アースバウンド』までのクリムゾン初期が、、、この後に続くミュージシャンや世界中の聴衆の世界観(人格形成)に多大な影響を与えたことは言うに及ばない。

この後にフリップがメンバーを完全に入れ替え(もっともアルバムを作るたびにそのアルバム制作用のメンバーを編成してきているのだが)全く異なる音楽アプローチを始める。
それが二期のインプロビゼーション期である。
”Larks' Tongues in Aspic”(太陽と戦慄)、”Starless And Bible Black”(暗黒の世界)、”Red”(レッド)であり、バーカッションの壮絶な強度、ライブによる即興の神憑り的な創造(まさかアルバムの大半がステージライブのテイクとは知らなかった)、フリップのディストーション・ギターのリフのカッコよさ(笑、ジョンウェットンのヴォーカルの説得力、、、。
基本的には軸のメンバーが不思議に変わっていない。フリップ・ウェットン・ブラフォードである。
ここにデビッド・クロスとジェイミー・ミューアがいたが、クロスは太陽と戦慄と暗黒の世界のみ。
ミューアは太陽と戦慄を録ってから仏教の修行に旅立ってしまう。

通常ライブはそのアーティストがどのくらいアルバムに近い演奏が出来るかの確認レベルのものになることが多い。
しかし、クリムゾンの場合、ほとんどライブの方がスタジオ録音を凌駕したものとなる。
驚愕の音の破壊と創造~生成の場となる。
それをもっともはっきり示しているのが、この時期のライブ音源だ。
そしてそれをかなりの割合でとりこんだ3枚のアルバムであり、その他のライブアルバムであるがどれも遜色がない。
(アムステルダムライブ等々)
レッドをもってこの期にやるべきことを終え、フリップの鶴の一声で解散。『USA』ライブが出ている。バイオリンのパートはクロスのものが削られエディー・ジョプソンの演奏に差し替えられはした(元々彼はクラシックから抜け切れず線が細かった)。

その後、ニューウェイブ期と取り敢えず付けたがディシプリン・クリムゾンとも呼ばれる。
『ディシプリン』、『ビート』、『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』である。
かえってクリムゾン名義にしなかった方がこの優れた3枚のアルバムが正当に評価された気はする。
しかしキングクリムゾンのもっとも魅力的な音色を奏でていた管楽器もバイオリンもピアノ~メロトロンも封印されてしまう。
この楽器編成からして根本的コンセプトの違いは明瞭だ。
ヴォーカルチューンも残るが詩は意味を失い単なる単語の羅列となる。
(それまでは詩人ピート・シンフィールド~リチャード・パーマー・ジェームスが詩を提供していた)
抒情性や哲学的文学性は排除されたビートサウンド改革である。
3枚でスッキリこの期は終焉し、2期のサウンドをオリジナルとして似て非なるものに生まれ還らせる実験が始まる。

スティック(特殊なベース)を使ったヌーヴォメタル期では、ダブルトリオ(ドラム2、ベース2、ギター2の編成)となる。
インプロビゼーション期の驚異の傑作”Fracture”(突破口)がヌーヴォメタル期には”Frakctured”と化している。
”Larks' Tongues in Aspic”(太陽と戦慄)も”Larks' Tongues in Aspic PartⅢ・Ⅳ”として生まれ変わって行く。
全て隙の無いスコアと化し、サウンドが分厚く充填し尽され平板化したこと。 
超絶技巧化し、フリップでさえ練習で音を上げる程のものになる。
(自分で作っておいて)。
情け容赦ない厳格な暴力的ニヒリスティックなサウンドである。
『ヴルーム』、『スラック』、『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』となる。最後に『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』を発表。
わたしは最終作はそのなかの数曲しか聴いていない。

当初は空間的な広がり~解放が感じられない、音が一気に流し込まれた煮えたぎる鉄みたいな圧迫感に息苦しかったのだが、、、
これは系を乗り換えた音であると感じられるようになった。
”The ConstruKction of Light”を聴いてからはっきりそう思った。
これは”エイリアン”~他者の(聴く)音だと。
特に”Larks' Tongues in Aspic PartⅢ”の前半部分のサウンドである。
最初聴いたときに強烈にゾクゾクしたが、まさにそこなのである。
変身の誘いか、、、?(まさかリアル・カフカの「変身」)

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マスターピースである”In The Court Of The Crimson King”(クリムゾンキングの宮殿)をその文脈の中で聴くことは今でも充分に可能だ。
深淵な世界を構築した楽曲でありアルバムであるが、そのメロトロンの煽るドラマ性に(その表現形態に)少し距離を覚える。
音楽が古いというのではない。”Epitaph”はまさに今日の、、、いや永遠の課題とも言えよう。
表現の上での壮大に構築されたドラマ性に感覚的についてゆけなくなったところが少なくないのだ。
(その意味でとても映画を観るのが辛くなっている)。

ただ今でも、2期~インプロビゼーション期の音に時折触れると瑞々しく胸に込み上げるものがある。
特に”トリオ”、”偉大なる詐欺師”、”フラクチャー”などには何度聴いても深く感動し、”土曜日の本”や”堕落天使”には涙腺まで緩んできてしまう、、、。
だが、どうやら曲を聴いて感動してばかりいられない、自分がそんな状況でもあるのだ。
寧ろ、外骨格の昆虫のように反応して行動しなければならない事態~日常にいる。


今のわたしにとっては、ヌーヴォメタルのエイリアンとして動く必然性がある。



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デトロイトでのパニック

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”Panic In Detroit”

「アラジンセイン」(1973)はわたしの大好きなアルバムだが、なかでも「デトロイトでのパニック」がたまらない。
どの曲も狂気に染まった緊張極まる曲揃いだが、そのなかでもこれは針が振り切れている!
(マイク・ガーソンのピアノがキレまくっている)。

チェ・ゲバラにそっくりな男に出逢って書いた曲なのか、、、。
「普段は目立たぬ男だが人知れず隠れ家に銃を隠し持っていた」、、、から始まる。
歌詞世界もゾクゾクするスリリングなものだが、サウンドが凶暴に美しく捻じれて歪み圧巻である。
何とも「間」が良い。
畳み込むサウンドのなかの真空の場に狂気のリズムとスキャットが雪崩れ込む。
そう、ミックロンソンのギターリフも。

これぞロックである。
身体の生き還りには必須のサウンドとなる。
自己の解体~再編成・再組織化には、この爆音洪水を浴びる必要がある。


このアルバム、ボウイの初期のコズミックドライブのかかったものやダイヤモンドドッグズのような近未来SF的なロマンや浮遊感は一切ない。
極めて加速した街の光景の浮かぶ、現在の地上を横断する破壊力あるリズムであり戦慄すべき旋律だ。
そして、この時期のボウイの「アメリカ」への拘り。
彼の(曲の)変身は彼の場所の変遷に重なる。
「Low」はベルリンとなる。
カフカ的に「アメリカ」を彷徨い疾走中のもっとも突出した曲が”Panic In Detroit”


時に、音楽は日常のあらゆるリアルな経験~体験を凌駕し激烈な高揚その垂直的な認識を齎す。
「彼はわたしに家でおとなしくしていた方がよいと言っていた、、、」
それで充分なのだ。
音楽が全てを加速度的に革新してしまう。

映画も音楽でその厚みと質が確定する。
岩井俊二の「リリーシュシュのすべて」をはじめ彼の映画全て音楽の位置づけは極めて大きい。
「ブレードランナー」の”Vangelis”も同等であろう。
あの映画を想いうかべるとき決まってあの荒涼として哀愁を帯びたサウンドが流れる。
「ザ・ミスト」の”Dead Can Dance”もあの終曲「セラフィム(熾天使)の主」で映画が完璧に完結する。

これは挙げ始めたらキリがない。話がこれだけになってしまう(笑。


アラジンセインはマイク・ガーソンの煌びやかで分裂症気味なピアノが基調を作っているが、特にアグレッシブなジャズ的アレンジの効いた”Time”と美しく儚げな”Lady Grinning Soul”で際立つ。
これらも詩がすこぶる良い、、、。
このアルバムの隠れたテーマは「時間」である。
”Lady Grinning Soul”、、、香りを纏った刹那の永遠性を歌った曲でこれ程の名曲があろうか
更にロック以外の何ものでもない”Watch That Man”をかなり反復して聴いていたが、やはり”Panic In Detroit”で再生!である(爆。


”Panic In Detroit”

疾走するカオスが増幅し突き抜ける。
違う時間と系にノリコムにはこんなサウンドがよい!
ボウイもきっとそうして来た。
無数の場所~時空に無数のわたしがいるのだ。
家でおとなしくしていてもよい。
(例え籠っていようが、、、)。
そのためのRockである。


ただ気持ち良い、、、



憧れの馬頭琴 そして”フォーミー”

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馬頭琴の話は、学校の国語の題材で採り上げられていたもの「スーホの白い馬」で、長女がその話に感動し、その楽器の演奏を聴いてみたいということで今回の運び〜泊まり掛けのモンゴル体験になった(笑。
コンサートだけなら東京界隈であるのだが、モンゴル気分を味わいたいとの事。
どちらがメインかどうもはっきりはしない。
馬頭琴はともかく聴くとして、ゲルのお泊まり、後は食事と、衣装を着た撮影くらいか、、、わたしは風邪で出掛けるのも辛いものだったが。
毎年、那須高原は初夏には必ず訪れていた頃もあったので、懐かしさからお伴した。

その馬頭琴という楽器の由来であるが、、、
スーホという男の子が拾った白馬を逞しく美しい馬に育てあげる。
その立派な馬で彼は王様の主催する競馬大会で優勝する。
褒美としてお姫様と結婚できるはずであったのだが、何と馬は奪われ彼も手ひどく痛めつけられてしまったという。
馬は王様の自慢の名馬として囚われの身となっていた。
しかしある日、隙を見て白馬は王様の所からスーホの元に逃げ帰えろうとする。
その途中で追っ手の放つ沢山の弓に射られ、スーホの元には戻るも明くる朝、息絶えてしまう。
嘆き悲しむスーホであったが、ある夜の夢にその白馬が現れ、どうかわたしの尻尾や毛や骨で楽器を作ってください、と彼に頼むのだった。
スーホは目覚めて直ぐにその馬から楽器を作り、人々にその音色を聴かせると、みなが疲れも忘れ、こころを深く揺り動かされたという。

馬頭琴という楽器はこうして生まれたそうだ。
(、、、ここまで全て長女談、物凄く短縮(笑)。


その楽器の演奏をホールで聴いた。
日本で活躍中のモンゴル人の演奏家ムングン氏によるものだ。
2つに分かれた太く白い弦は、片方が馬の尻尾の毛が130本、もう一方が100本縒り合わされたものだという。
それを同じく馬の尻尾の毛180本で作られた弓で弾く擦弦楽器だ。
棹の先端が馬の頭部の形をしたところが何より特徴的であり、モンゴル語で「馬の楽器」の所以である。
鼓弓に似た感じのものだが、とても艶やかで力強い音色が出る。
躍動感に溢れ同時に、情感あるリリカルな楽曲が楽しめた。
この2玄でよくここまでの表現の幅を出せると感心するものだ。
しかし、ここで、更に驚くべき音楽体験をする。

それは人間業とは思えないフォーミーという驚異のボーカリゼーションであった。
何とも形容し難い音世界である。
ひとつ間違えると、超人隠し芸みたいな部門で話題になってしまいそうな危うさを秘めている。
同時に異なる音を2種類発する特殊な発声法によるもので、説明は聞いたが今一つメカニズムについては、イメージ的にも掴み難かった。
シンセサイザーでも余り聴かない非常にハイパーな電子的音響世界である。
何かの描写や叙情表現を超えている還元不可能な音なのだ。
聴衆もみんな呆気にとられて口を開けて、観ていた。
そう、何処からその音が出てくるのか、だた観入ってしまうのだ。
正直ビックリした。ロバート・ワイアットのボーカリゼーションに浸ってばかりはいられない。
彼のボーカルが普通に思えた。


朝食では肉とサラダがモンゴルものだそうで、それ以外は普通のホテルの洋食バイキングであった。
ミネストローネは美味しかった。アイスクリームは推しである。わたしはパンとジュースだけいただく。
後は、もう1つの楽しみでもあった衣装を着ての写真撮影である。
こういう事は彼女らは好きだ。何処へ行っても全種類の組み合わせを試してしまう。もう途中からついて行けなくなる。任せる。
帰りにここでしか買えないと宣伝する温泉饅頭やチーズケーキを買う。
お土産分以外は、電車内で彼女らが食べてしまった(笑。


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到着当日の前日譚。(上の本文は当日の夜から2日目である)。
昨日アップしたものは削除。高熱の為か締まりのないグダグダ文を書いていた。

栃木の黒磯にあるモンゴリア・ビレッジ・デンゲルという施設に泊まり掛けで来た。長女のリクエストである。
馬頭琴の話を本で読んでから、モンゴルはマイブームなのだ。
宿泊する部屋は一戸ずつ独立したテント〜ゲルであった事にちょっと新鮮な驚き。遊牧民族である。扉は低く小さい。中は、テレビで観たことのあるモンゴル調にアレンジされた中央にテーブルと椅子があり周りを微妙な色彩と模様に彩されたやはり如何にもモンゴル調のベッドに取り囲まれた赤基調の円形空間であった。モンゴルテイストの日本人に使いやすくセットされた部屋という感じか。天井の天窓風の丸い明かり取り部分が天気の良い日は取り外しが効くという。小物入れの蓋みたいだ。勿論、テレビ、冷蔵庫、エアコン、電話はある。
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彼女らは直ぐにモンゴル温泉?に出向くが、わたしは風邪が思わしくなく、温泉は諦め部屋で寝そべっていた。
外はにわかに冷たい雨が降り始めていた。
雨音が香ばしく立って聞こえる。よい音だが、はっきり響く。夜中もこれだと眠れるか?
外には、、、出たくない。体にこたえそうだ。
夜の料理は、モンゴルに関係ない、プレート焼肉料理であった(笑。普通。


参考までに、近々開かれる馬頭琴コンサート、、、ここでもし”フォーミー”も体験できたら、、、

「アサル国際馬頭琴アンサンブルコンサート」
2017年5月20日(土)18:30会場19:00開演
国分寺市立いずみホール

問い合わせ:090-4703-4824


ジョン・ウェットンに捧ぐ 土曜日の本

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ジョン・ウェットンが2017年1月31日に亡くなった。
癌であった。
何とも言えない虚脱感に襲われ、それを記事に書こうなどという気持ちは微塵もなかった。
わたしにとってジョン・ウェットンは、キング・クリムゾンがもっともそれらしかった第2期を支える柱である。
彼の死によって、確実にひとつの時代がプッツリと終わった。

カール・パーマーはここのところ、連続して追悼の意を発表し続ける立場である、、、。
(このあまりに重い連続追悼を彼はどう捉えているのだろう、、、彼もさすがにキツかろう)。
キース・エマーソン、、、グレッグ・レイク、、、ジョン・ウェットン、、、考えてみると恐るべき才能の消滅だ。
(彼らは、まさに才能と技量のみで生きていたことを確認する。変な付加価値は必要としない)。
今日、何気なく、エイジアのファースト(1982年)を聴いて、楽観的でポップな気分に浸ったためか、少しだけジョンのことを書いてみたくなった。

わたしは、あまりクリムゾン以外の彼に興味はなく(ファンの風上にもおけないが)他の音源はあまり聴いていない。
だが、彼のインパクトがわたしにとって絶大であることは間違いない。
クリムゾン二期が余りに絶対なのだ。

かのロバート・フリップをして「彼はわたしのヒーローである」と言わしめた男である。
それにしてもどのような文脈でこれをフリップが言ったのか、さっぱり覚えてはいない。
何にしてもロバート・フリップに尊敬されるようなヒトはまず、そうはいまい。


クリムゾン以外でわたしが彼を聴いたものは、ないわけではない。
だが、やはり創造の水準が異なりすぎる。
有り得ない強度~微分的な演奏によって生成と解体の間を行き来するクリムゾンの世界は驚異であり別格なのである。
他のアーティストのものは、いくら緻密に複雑に構成されていたとしても程よい計算のレベルに想える。

とは言え、彼の参加した優れたユニットを強いてあげれば、UKか。
確かに、ありえない程の布陣であった。

ジョン・ウェットン 、、、vocal/bass guitar/moog pedal bass
ビル・ブラッフォード、、、 drums/percussion
エディ・ジョブソン、、、 organ/CP-80/CS-80/minimoog/electric violin/backing vocal
アラン・ホールズワース、、、 guitar/backing vocal

スーパーグループであり、この強烈な個性から持つはずはないと思った。
勿論、出た瞬間に購入した(笑。
直ぐに空中分解すると思っていたし、、、。

最初から分かっていたとは言え、予想を上回る凄まじい演奏であるが、尺の長くてテンションのやたらと高い曲にリスナーはついて行けなくなる。そのため、セールスは伸びなかった。それがわたしにも予感できた。
フリーキーなハイテクジャズロックより更に凄いものであったが、時代は違うものを求めていた。
斯く言うわたしも、その芸術性の高い造り込まれたサウンドに引込まれはしたが、彼らメンバーの名前で聴いていたふしはある。
極めて高い水準で作られたコンテンポラリーミュージックであったが、この方向性は直ぐに途絶える。


それからジョン・ウェットンが音楽ファンの誰にも広く認知された商業的にも大成功を果たしたエイジア。
売れ線は一切聞かないつもりのわたしも、さすがにこのグループのファーストは聴いた。

ジェフ・ダウンズ 、、、 Keyboard (元バグルス、イエス)
ジョン・ウェットン 、、、 vocal/bass guitar/moog pedal bass (元キング・クリムゾン、UK)
スティーヴ・ハウ 、、、 guitar (元イエス)
カール・パーマー 、、、 drums/percussion (元ELP)

ジェフ・ダウンズの役割(主導権)が大きい印象があり、エイジアはやたらとポップであった。
正直、戸惑った。バグルスを重厚にスケールアップさせたようなサウンドに思えた。
ジョン・ウェットンのボーカルは美しく、ベースも相変わらずアグレッシブであり、作曲にも携わっているのだが、、、
UKにまだ残っていた作家性や芸術家気質は抑えられているようであった。
彼の新しいポップで爽やかで明るい局面を覗いた気分であった。
とてもある意味キャッチーで短いポップチューンでアルバムは構成されていた。
どれもシングルカットでヒットを狙えそうなものばかり。
確実に、アルバム一面で一曲(ともかく長く複雑な曲構造)というプログレ時代からの脱却であり、それを求めるヒトがこのサウンドを待っていたのだ。時代に迎え入れられたに違いない。

しかしどこかわたしには寂しい感触が残った。
それまでの深淵から響いてくる知的な翳りに染まったジョン・ウェットン節は影を潜めてしまう。
例えば、在り来りな曲を書くことでみんなから辟易されていたユーライア・ヒープに短期間在籍した時も、彼の書いた曲だけ飛び抜けて重厚で美しく変幻するメロディーをもち、際立っていた。当然アルバム全体のリズムが格段にレベルアップしていることも素人にも明白であった。ジョン・ウェットンが少しでも絡んだユニットは確実にそれまでにない荘厳な響きを纏ってきた。
彼のベース、魅惑的なボーカルも他にないものだが、わたしは彼のもっとも特筆すべき才能は作曲にあると思う。

しかし、彼はこの「エイジア」の方向性がとても気に入っていたようだ。
あくまでもエイジアの活動を主体にして、他にも色々なプロジェクトに参加はしていた。
ジェフ・ダウンズとの曲作り、も含めこのふたりがグループの中心であることは、明白である。

ここでは、ソロでいくらでも目立てるヒトが、皆抑制を効かせて、短くタイトなポップチューンをまとめることに専心している。
とは言え元々ポップ路線のバンドでは、こんなアレンジとダイナミックな演奏など、まず無理であることが分かる。
超絶技巧のミュージシャンが、ソロプレイを封印してポップな曲作りに専念した結果のカラフル(複雑)で前向き(そうまさにそれだ)なサウンドを提供している、と言える。
しかしこのグループもぶつかり合いは激しく、メンバーも安定せず、ついに主要メンバーのジョン・ウェットンも永久に抜けてしまった。
それでも元イエスのメンバーの補充で(わたしはその人を知らない)今後もグループは続行するそうである。
しかし、ジェフ・ダウンズの受けた喪失感はやはりとても大きいようだ。

「彼の作曲はこの世のものとは思えなかったし、彼のメロディとハーモニーも現実のものと思えなかった。彼は文字通り『特別な人』だったんだよ。」


これまで二期のクリムゾン(太陽と戦慄、暗黒の世界、レッド)を定期的に聴いていたのだが、、、。
そうしないと、感覚が麻痺してしまう。
このギリギリの神秘的ですらある創造のパフォーマンスの一角が欠けてしまった事実~空虚は思いの他大きい。
暫くは聴けそうもない。
ボーカルである分、尚更響く。

一期のクリムゾンのボーカルは、グレッグ・レイクである。
エピタフが更に現実味を帯びている今日、、、。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


でも、「土曜日の本」は、聴きたくなった、、、。
この曲と「堕天使」。
改めて、、、。

John Wetton002

Lux Virenz ~ジョセリン・モンゴメリー

Jocelyn Montgomery

ヒルデガルト・フォン・ビンゲン、、、作曲

ジョセリン・モンゴメリー、、、ボーカル

1998年 ポリグラム
デヴィッド・リンチ、、、プロデュース「アシンメトリカル・スタジオ」リリース。

12世紀
所謂、宗教歌曲集である。
グレゴリオ聖歌の調和と秩序の美とは、また趣が異なる。もっとフリーキーな(非定型又は諸形式の混淆した)楽曲である。
神聖さのなかに時にカオスを感じ不安に襲われる。

ヒルデガルトは、中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長であると同時に、ヴィジョンを(定期的に)見る女性自然学者(医学にも通じた薬草学者)でもあったという。この曲集の曲も彼女の作曲であり、幻視家で作曲家であった面は、今世紀に入り特に注目されている。
彼女の映画もある。”VISION Aus dem Leben der Hildegard von Bingen”というドイツ映画。
「ハンナ・アーレント」のマルガレーテ・フォン・トロッタ監督によるものだ。
未見である。ずっとこのまま未見かも知れない(笑。

大分以前、チェックしておいてそのまま過ごしてしまったアルバムである。

現在、廃盤のためアメリカ直輸入で手に入れた。
マルホランド・ドライブ”の監督が製作したアルバムということがよく分かる世界だ。

サウンドは、現代のアレンジが慎重に施されている(彼らの言葉によると、最新のパースペクティブによって蘇らせている)が、恐らく原曲を壊さない編曲になっていると思われる。
デヴィッド・リンチ流のプロデュースと言うより、曲集から察するに彼本来の感性にこの音楽がピッタリであったというのが正解に思える。それを今聴けるように忠実に再現した感がある。
シンセサイザーが生々しく耳に障ることはない。

ジョセリン・モンゴメリーは、あの懐かしい”ミランダ・セックス・ガーデン”のトリオのひとりである。
パースル音楽学校で出逢った3人組で結成。それについて少々、、、。
MIRANDA SEX GARDEN
このMADRAは、マドリガル(ルネサンス・マドリガーレ)の16世紀手法による全てアカペラの歌曲集であり、耽美的でゴシックな要素漂う名作だ。カオスも感じられる。カンタータ以前の歌唱というものを蘇らせている価値は大きい。
セカンド(フルアルバムとして)の”サスピリア”ではインストゥルメンタルの要素が加わり、一般的に効き易いエモーショナルでハードなサウンドに変わり、明らかに方向は転換する。サードの”フェアリーテールズ・オブ・スレイヴァリー”になると、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのギタリスト、アレックス・ハッケがプロデュースし、歌声はさらに強度を増し、魔的で呪術的でノイジーなサイケデリックサウンドと化している、、、。
もう、ロックとして聴けるではないか。
わたしはここまでしか彼女らを追っていないためこの後の消息は知らない。

彼女らは”マガジン”(ハワード・ディヴォートをリーダーとするポストパンク~ニューウェイヴロックグループ)のベーシストであり、映画音楽家のバリー・アダムソンに見出され、彼の映画音楽「Delusion」のサウンドトラックに参加し、サイモン・フィッシャー・ターナー、デレク・ジャーマンの映画音楽にもその後、参加していく。
ミランダ・セックス・ガーデンは中心となるのは、ソプラノのキャサリン・ブレイクであり、彼女以外のメンバーの入れ替わりが続いた。(セカンドからすぐに3人構成ではなくなる)。

さてここで主役のジョセリン・モンゴメリーは、グループを早々に脱退している。
彼女は6歳からバイオリンを弾いており(祖父がバイオリン職人)、音楽キャリアはバイオリニストから始まったようだ。
Jocelyn Montgomery002

デヴィッド・リンチの「アシンメトリカル・スタジオ」でジョセリン・モンゴメリーの歌声にあえて調和を崩した球体状に纏わるサウンドが生成された。
ジョセリン・モンゴメリーのこの歌声~歌唱も、美しいとか清らかとか神聖な響きとかでは到底収まらない、不安な異和が漂う。
声の質はあくまで、伸びやかで透明で美しい、とはいえ。
サウンドそのものに、えも言われぬ暗黒の霧が充満し、歌声もそれに相応している。
何というか、美に一滴の狂気の毒が混ざっている。
それはときに、静謐の中に極めて鋭い線を走らせる。漆黒の闇に音もなく切れ目を入れる雷光に似て。
彼女の時折弾くバイオリンの音もサウンドに溶け込んで一体化して響く。
効果音もやはり、映画監督がプロデューサーであることからか視覚的な感覚を広げるかと思いきや、全くそんなことはない。
鳥のさえずりが長閑な草原を思わせるような要素にはならない。
視覚や音響を逆に吸い取る静謐なダークエネルギーに満ちた恐るべき歌集である。

Jocelyn Montgomery003

わたしは、ミランダ・セックス・ガーデンのアルバムより、こちらに身を委ねたい。
特に眠りにつくときなど、、、


クラスター~ハルモニア


chinode.jpg「地の出」

これをロックには入れたくない。
現代音楽である。
敢えて言えばのはなし、、、。

身体をリセットしたい。
中庸にしたい。
ナチュラルにいや、ニュートラルにしたいというとき、、、

音楽が一番効果的かも知れない。
”クラスター”や”ハルモニア”のような、、、。
これ以上に自己主張のない音楽を知らない。

AQUAのような音である。いやちいさなそよ風か、、、。
自然が秘めている音源がいつしか漏れ聴こえてきたかのような音。
”Cluster & Eno 1977”のアルバムジャケットは、草叢から天に向けた一本のマイクの写真(アートワーク)である。

その通りの音である。
Harmonia の”Musik Von Harmonia”も気持ちいい、、、ジャケットは青い洗剤のポリタンクだ!
プラスチックで、ただ気持ち良い反復。

身を任せてたゆたう、、、。
遊星的郷愁に。
雨の夜が煌く。

ディーター・メビウスとローデリウスによるクラスター(結成当初はクラフトワークのコンラッド・シュニッツラーが中心人物として在籍していた)は、所謂、電子音楽の先駆的存在であった。初めての電子音楽のアーティストであった。
この後にどれだけのロック現代音楽の作家が続いたことか、、、。

そしてミヒャエル・ローター、ローデリウス、ディーター・メビウスによるハルモニア。
なんだ、、、ミヒャエル・ローターがいるとハルモニアで、いないとクラスターかい。
と、当時思ったがまさにその通りなのだ(笑。

クラフトワークの雇われメンバー同士で作ったミヒャエル・ローターとクラウス・ディンガーで、あの栄光の”NUE!”ノイ!が生まれる。
その後、ラ・デュッセルドルフに引き継がれ、これも更に気持ちいい。
確かに、ドラムの無機的リズムが刻まれるとハルモニアで、それがないとクラスターである。

クラスターは、アンビエントミュージック、ヒーリングミュージックの始祖となり、、、
ハルモニアは、典型的クラウトロックと言える心地よいミニマル・ミュージックであり後のパンクミュージックにも繋がってゆく。
無機質の魅惑。

昆虫の音楽。
あの優雅で優しいアゲハ蝶の。
または、地中で眠るカブトムシの幼虫の寝息。

いや、縞瑪瑙の夢。
晶結するトワイライトゾーン~
黄昏時にようこそ。


グレッグ・レイク~キース・エマーソン

Greg LakeGreg Lake Keith EmersonKeith Emerson

年の瀬に、何とも寂しいものである。
ELPのELである。エマーソンは3月に銃で自殺、レイクは癌により亡くなったことが12/8に発表された。
エマーソンは所謂、鬱であった。これについてはどうにも書けなかった。他人事ではないし、、、それが今度はグレッグ・レイクである。
もうPだけである。カールはまだかなり元気でいるらしい。
(ドラマーはいつも運動になっている感じだし、新陳代謝も良さそうな気がする)。
晩年の、クリムゾンキングのジャケット絵みたいに膨れ上がってしまったグレッグ・レイクを見ると何とも忍びなかった。
いくらなんでも膨らみ過ぎで大丈夫かと思っていたが、やはり無理があったか。こちらも他人事とは言えないが。
どうしても中年過ぎるとヒトは太ってしまう。(勿論、細くなるスティーブ・ハウみたいな例もあるが、、、彼はそのせいか、勢力的に自分の息子2人と組んでいまだにツアーをやってる。良い人生だ)。

”Brain Salad Surgery”『恐怖の頭脳改革』が特に好きなのだが、彼らのレーベル「マンティコア」初のアルバムである。
1973年。トータルアルバムとしての完成度の高さは、彼らの他の作品と比べても上である。しかも ”Karn Evil 9”『悪の教典#9』は圧倒的に凝縮されたエネルギー体である。グレッグ・レイクとキース・エマーソンを知りたい人には、まずこれを聴いてもらいたい。
そして、1971のセカンドアルバム”Tarkus”か。これはほとんどキースの組曲である。コンセプトもキースのもので、後の彼のコンポーザーとしての原型が窺える。
(わたしのフルートの先生も発表会で、”Karn Evil 9”のエレクトーン演奏をした。#が9つも付いているんですよ、と説明して始めたが凄い演奏だった。これを演奏すると誰でもエマーソンみたいに見えたことを、いまでもよく覚えている、、、何年前のことだ?)
そしてグレッグ・レイクの作品 ”Still...You Turn Me On”は、”Trilogy”、”From the Beginning”に並びわたしの最も好きなELPの耽美的てアコースティカルな曲の代表だ。ここでのグレッグのヴォーカルとギターにはただ只管酔いしれる。


この頃は、クリムゾン、イエス、ピンク・フロイド、ジェネシス、ジェントル・ジャイアント、ルネサンス、ヴァンダーグラーフ・ジェネレーター、、、などがとても元気で活きの良い頃である。
勿論、プロコルハルムも全盛期を迎えていた。ジェスロタルも忘れてはいけない、、、。

それらとは、別の流れで、クラフトワーク、カン、、、も独自の道を歩んでいる、、、。

群雄割拠である。
そんななか、、、トリオとしては、EGGと並ぶテクニックをもち、EGGがほぼ現代音楽なのに対し彼らはどちらかといえば、クラシック、ジャズ要素が強かった。無論、現代音楽へのアプローチも怠らず、”Brain Salad Surgery”の「トッカータ」はアルベルト・ヒナステラ作曲の「ピアノ協奏曲第1番第4楽章」を編曲したもの。サードアルバム”Trilogy”(1972)の”Hoedown”は、コープランドの曲を彼ら流に暴力的に編曲したもので、作曲者から絶賛を受けている。この曲に限らず演奏はどれもそのスタイル共々圧巻である。
また、EGGが基本的にInstrumental中心で、たまに入るヴォーカルは何とも無機的なのだが、ELPはグレッグ・レイクもキース・エマーソンもどちらも上手い!グレッグのヴォーカルは本当に叙情的で、大英帝国の深い霧を感じさせる知的で気品あるものだ。
彼のヴォーカルが聴ける曲の記念碑的なものにキング・クリムゾンのメンバーであった当時の、 ”Epitaph”がある。
”In The Court Of The Crimson King”に収録されている。(SF映画における”Blade Runner”にあたるアルバムといえよう)。
この曲に彼のヴォーカルの初期の魅力が湛えられている。いよいよ聴きかえしてみたい世界にもなってきた、、、。
その後(クリムゾンのSecond を経て)ELPを結成する。
ELPのハードなチューンだと、キースとグレッグの正直どちらが歌っているのか分からなかった。そう、とてもヴォーカルスタイルが似ているのだ。”Brain Salad Surgery”はキースがヴォーカルだとクレジットを見てはじめて知った。似ている。

グレッグ・レイクのベースはピアノのような澄んだ美しさで際立っていた。(ピアノのトーンに近いベース音なのだ。逆にベース音をシンセで出すプレイヤーは山ほどいる。単にベースギターの替りで出すのでなくても)。アコースティック・ギターの音色も煌びやかで美しかった。
キース・エマーソンのキーボードはまさに天才のテクニックであるし、そのステージアクションも彼独自のパフォーマンスとして熟成していた。
わたしのかなり昔の職場の同僚に、キース・エマーソンフリークの人がいた。
ご自身は幼少時代からパイプオルガンを本格的に習って演奏しており、専門は「数学」と「ババール」であった。
彼女の娘さんもお母さんにならっていつもキースがどうの~と言っていた。あの複数のキーボードの早弾きにゾッコンだったようだが、彼の作曲するクラシカルで稠密な構成のハードな曲にも惹かれていたようだ。
(わたしはこのお宅のiMacのメンテナンスと、ババールのHP製作のため写真取材に度々伺っていた)。
娘さんは年齢的に言って、キース・エマーソンを普通に知る世代ではないのだが、母の影響は大きく、彼女のアイドルだった。
、、、考えるともう相当昔の話だ、、、いまM家の人々はどうしているだろう?
恐らくいまでも趣味のババールの買い付けに母娘の軽いフットワークでヨーロッパに飛んでいる事だろうと思う。
「人間は趣味で生きている」、、、わたしの親友のS君の口癖(信念)だ。


キースは71歳で右の指が動きづらくなり、基本的に8本の指で演奏していたという。
クラシックピアニストもそれくらいの年齢になると腕が鈍るヒトは少なくない。
まして、非常に激しくアクロバティックな演奏を見せる人だ。しかも長時間に渡り何日も続け、、、。
過去に輝かしい成果を山ほど残しているのだから、ただ引退すればよかったのでは、、、。
グレッグ・レイクは長い闘病であったという。
あの体型も病のせいであったのか、、、。


ふたりとも、それに替わる人がいない、所謂天才であった。

ご冥福をお祈りしたい。



この世代で、未だに元気、元気(おかあさんといっしょではないが)なのは、ひとり飛び抜けて元気なミックジャガー筆頭にせいぜい数十名というところではないか?残念だが、今後も、ポツポツと寂しいニュースは入ってくるのだろう、、、。






マシュー・フィッシャーに捧ぐ

Matthew Fisher

ナイーブでセンチメンタルで夢見がち、、、彼は少年時代あの「ネモ船長」に憧れていたらしい。
やはりマシューも海賊の一員であることは確かだ。
トワイライトゾーンに浸りメランコリックな気分に酔ってみたくなったら、、、
マシュー・フィッシャーをターンテーブルに乗せたい。
(CDではない、、、と謂いたいところだが、パソコンに取り込んだ音でもなんでも、、、)。
確かにヒットする曲はない。
そういう曲ではない。
太陽と青空ではない。ギラギラしたアーティフィシャルな照明も似合わない。
月明りの下にチェアを出して聴きたい。(特に5枚目)。

マシュー・フィッシャーのアルバムは、調べた範囲では現在、「旅の終わり」(ジャニーズエンド)も品切れ絶版状態のよう。
2枚目~4枚目も全く店舗にもWeb上にも見ない。流通網からは姿を消した。
1枚目の”ジャニーズエンド”と2枚目の”アイルビーぜア”を一種に詰め込んだCDアルバムは見かけたことはある。ディスクユニオンで。しかし、もう在庫があるかどうか。事実上絶版状態ではないかと思われる。
同じく、3枚目”マシュー・フィッシャー”と4枚目”ストレンジ・デイズ”をひとつにしたCDは、まだ買えるところはあるようだ。新品は期待出来ないが。
また、5枚目の異色アルバムはわたしもCDだけで持っている。
このアルバムは輸入盤を扱っているところなら在庫はあるのでは、、、。本来の?マシューとは異質感があるのだが。
彼のLP版は、今や我が家の宝である。
(こういう燻し銀系アーティストは買えるときに買っておかないと一生手に入らない危険性はある)。

やはりファーストが良い。ジャケットも趣深い。
ここでの極めつけは、Separationである。
マシューの音楽の魅力がこの1曲に凝縮されていると言っても過言ではない。
そしてHard to be Sureのフラジャイルなガラスのような余りに純粋な曲。
ここが、彼のヒットとかセールス度外視の部分がよく表れている。
気取りやケレン味が全くないのだが、プロのミュージシャンとして余りにそれがなさすぎ心配になる彼らしい曲。
最後のJourney's Endはもうプロコルハルムのマシューだ。彼のロマンが溢れ昂まり充満してゆく。
(ソロになってつくづく思ったのだが、彼はやはりビートルズのホワイトアルバム以降のジョージ・ハリソンみたいに、グループ内でアルバムの2,3曲際立つ傑作を作るポジションがとても合っているのではないだろうか)。

セカンドは、ナイーブで繊細な歌を切々と聴かせるアルバムである。
Not Her Faultは、そのなかでも一際切なくリリカルな名曲である。
恐らくこの曲は彼でないと作れないHard to be Sureの線を行く無防備過ぎる曲だ。
しかし、こころにひりつく類まれな名曲に違いない。
Do You Still Think about Meは取り分け淡々とした内省的な彼のボーカルが染み込む。
I'll Be Thereでドラマチックに幕を落とす。

サードは、よく出来た曲で埋められている。
だが、ここで彼のアルバム(曲)がセールスに結びつかないことも何となく理解する。
これまでもNot Her FaultやHard to be Sureなどはプロデュースやプレイヤーによっては、スマッシュヒットに持っていけるポテンシャルは充分に感じた曲なのだが、どうもこのアルバムも同様の原因で残念なものを感じ、インパクトが弱い。
Only a Gameなどヒットしてもおかしく無いポップチューンだ。
Why'd I Have to Fall in Love with Youはマシュー全曲中最もポップ性が高いかも。
そう、聴いてみるとどれも相当レベルの高い曲ばかりである。
ただ、演奏の質が、、、特にドラムに問題がある。
マシューのハモンドオルガンと彼のボーカル以外に、後は取るところがない。
問題が露呈したアルバムというか、漸くわたしも気づいた課題というところ、、、。

4作目は2曲を除いてC.T.White(元ゾンビーズのベーシスト)との共作。
共作によって新しい血による化学変化は得られたのでは、と期待する。
Something I Should Have Knownでいきなりそれを感じたが、美しくマシュー独自のリリカルさの極まったSomething I Should Have Knownで、これはと想う。
その後にはハイテンポのポップなナンバーが続く。アルバムの流れがこれまでより自覚的に工夫されていることが分かる。
マシュー節は健在なまま、少しばかりコンテンポラリーな位置に近づきブラッシュアップした気はする。
だが、何というか危なっかしいまでの瑞々しさは、いまひとつ影を潜める。
Desperate Measuresは、共作ではないが、これまでの殻を破ろうとかなりハードに無理をしている印象を受けた。
Can't Stop Loving You Nowも彼だけの曲だが、リリカルで素人臭い彼のバラッドではなく、やけに拵えたムーディーさなのだ。
高音の伸びる艶やかな綺麗なボーカルでオルガン(ここでは然程弾いていない)も良いのに、やはり微妙だ、、、。
コンポーズも決して悪いわけではない。
演奏の面からいっても、この人はプロコルハルムにいた方が曲の質自体が二段階は高まると凄く思う。
(プロコルハルムの演奏レベルは高い。特にこれまでのドラムは格別)。
ソロになると、その辺、不自由するんだろうか、、、。
Strange Days、、、新しいマシューの素敵な曲ではある。

5作目は、何と自宅で打ち込みレコーディング。最初聞いたときは、こんな曲想で~と示す為のデモテープ版かと思った。
それは、アルバムジャケットが余りの情けなさで(正直、何だこりゃのレベルで)、そこからくる先入観にもよるものであった。
しかも、のっけからこれまでのマシューから考えられないサウンドであったから、、、。
とは言え、聴いてみると実によくできたものなのだ。(頭からあのジャケットを振り祓って、、、)。
こういうマシューのサウンドもあるんだと、、、ちょっと唖然とした。きっとかなり思い切ったのだ。
暫く放置した後で改めて聴いて気づいた。(兎も角、ジャケットデザインが凄まじく悪かったせいだ)。
かつて、フォーカスとムーディーブルースがデモ作りの途中といった感じの曲を未発表曲集アルバムとかで出されてしまい、彼らの輝かしいキャリアに泥を塗ることになってしまったが、一瞬そんな類のものかと想像してしまったのだが、、、。
しかも、ハモンドオルガンかピアノ以外弾いてこなかった(公には)はずの彼が、ギターを弾きまくっているではないか。
勿論、専門外の楽器でも自宅で趣味で演奏するような事はいくらでもあろうが、アコースティックについては、かなり様になっている。エレキギターについても危なげはない。少なくともブライアン・イーノやピーター・ハミルより上手い。その点では安心して聴ける。
できれば、盟友ロビン・トロワーにエレキだけは任せるとかした方が、サウンドの奥行はずっと出たかも知れないが。
彼はブルースギターの天才であるが、どんな曲想にも合わせてくれるはずである。
まあそれを言ったら、マシューのソロアルバム全てに言えることだが、ドラムが酷い。5作目の打ち込みドラムの方がスッキリしていた。
プロコル・ハルムが何故あれほどの奇跡とも言える大傑作アルバムを出し続けて来れたかといえば、その大きな要因のひとつが、バリー・J・ウィルソンの卓越したドラミングによることは間違いない。
ドラムがダメだと曲が成り立たないことは、色々なアーティストのアルバムを通じてずっと感じてきた。
低予算で制作したためか、、、しかしマシューには重厚なリソースがある。それを使わない手があるか?
何故、ロック界一の天才ドラマー、バリー・J・ウィルソンに頼まないのか、と思ったことは確か。
惜しくも彼は1990年に交通事故で亡くなってしまったのだが、4枚目のアルバムまでは付き合って貰えたのでは、、、。
現に、ゲーリー・ブルッカーのソロアルバムでは、いつものテクニックを披露している。(彼の最期の仕事となった)。
(バリー・J・ウィルソン死後、またブルッカーとマシューはよく一緒に仕事をしている。ブルッカーのソロでも、作曲がブルッカー=フィッシャー=リードなのだ。おまけにプロデュースも担当している。彼らは1991年にグループ再結成もしている。”The Prodigal Stranger”はゲーリー・ブルッカー=マシュー・フィッシャー=ロビン・トロワーに詩人のキース・リードの最強メンバーである。バリー・J・ウィルソンがいないのが凄く寂しいが)。

Separation
Why'd I Have to Fall in Love with You
Do You Still Think about Me
Hard to be Sure
Only a Game
Not Her Fault
I'll Be There
Journey's End
Without You
Something I Should Have Known
Strange Days

更にこれに加え異質に聴こえた5枚目、、、。よく聴いてみると彼の最高傑作かも知れなかった。
打ち込みのプライベート風作品で、もう閉まった後の月の光で煌く遊園地みたいな曲集である。
Nutrocker、、、吹っ切れたマシューの存在を感じる。
Dance Band On The Titanicは、はっきり言って前4作のどの1曲目より惹きつけ、これからに期待を抱かせる名曲である。
それに続く2曲目タイトルのSalty Dog Returnsも素晴らしい。(何故最初に気付かなかったのか、、、それはこの頃流行っていたヒーリングミュージックにサウンド的に妙にダブってしまった為もある、が明らかに異なる)。Strange Conversation Continuesが異質に感じたアルバムの代表的な曲であるが、その電子音(テクノ)サウンドはジュール・ヴェルヌのSF小説に近い疑似(魔術的)科学のイメージに充ちている。あのノーチラス号のときめくメカニック。であれば、やはり原点回帰なのだ。まさにSalty Dog Returnsである。Linda's Tuneでその確信を得た。
最終曲Downliners Sect Manifestoはコミカルで硬質で、もの寂しい郷愁のうちに終わる。
これまでのロマンチックで厳かなフィナーレとは明らかに違う。
スケールを絞って、逆に遊星的な孤独と郷愁を描いている、、、。
おっと忘れるところだったが、ボーカルは一切ない。やはり新境地だ。


、、、いつ聴いてもとても孤独で寂しく、心地良い。とても心地よい。


コンテンポラリーな要素というよりメランコリックなロマンがしっとり息づいている。
車に乗って爽快に飛ばしながら聴くヒットチューンはないが、月夜の静かなひとときに植物と一緒に聴きたくなる、、、。

やはり、わたしはマシュー・フィッシャーが大好きだ。
改めて聴いてその意を深くした。
わたしは、マシュー・フィッシャーが大好きだ。

Nemo.jpg
オルガンを弾くネモ船長


上白石 萌音の366日を聴く

Kamishraishi Mone

youtubeで何人ものヒトが「366日」を歌っているのを聴いた。
ここでわかるのは、同じスコアでも歌い手によって全く異なる曲になるということ。
わたしは、長女と聴けたのは、上白石 萌音さんのものだけだった。
他のものに魅力を覚えず、聞流してしまったが、彼女の歌だけ何度も反復して聴いた。
純粋さ清らかさ、果敢なさは上白石さんの声によってこの曲の特徴となる。
うちのむすめたちのなかでは、いくちゃん(生田絵梨香)のショパンの次にきている。
(今日観たような映画で、バイオリンではなくピアノ編があれば生田女史が主役で演じるのもよいのではないか)。

こういったそよ風のような刺激って、良いなあと思う。
アコースティックギターによるもっとも理想的なバックに聞こえる。


Vが曲の内容に関連していないところが、逆に身体的な同期性を感じさせる。




プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

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