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フラクチャー ~ Frakctured

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Nuovo Metal(ヌーヴォメタル)時代の曲を最近また聴き始めた。

わたしがクリムゾンでもっとものめり込んだインプロビゼーション期『太陽と戦慄』、『暗黒の世界』、『レッド』の黄金期から『ディシプリン』のニューウェイブ期(まるでトーキングヘッズみたい~ポリリズムのせいだ~と揶揄されたが”Discipline”は秀逸)からまた重量感たっぷり(ダブルトリオ編成)のヘビーでソリッドなメタルサウンドを信条としたヌーヴォメタル期(2000)に至る。


無論、『クリムゾンキングの宮殿』、『ポセイドンのめざめ』、『リザード』、そして余りに精緻で儚く美しい『アイランズ』、、、音源は悪いがクリムゾンが創造的ライブアーティストであることを立証した『アースバウンド』までのクリムゾン初期が、、、この後に続くミュージシャンや世界中の聴衆の世界観(人格形成)に多大な影響を与えたことは言うに及ばない。

この後にフリップがメンバーを完全に入れ替え(もっともアルバムを作るたびにそのアルバム制作用のメンバーを編成してきているのだが)全く異なる音楽アプローチを始める。
それが二期のインプロビゼーション期である。
”Larks' Tongues in Aspic”(太陽と戦慄)、”Starless And Bible Black”(暗黒の世界)、”Red”(レッド)であり、バーカッションの壮絶な強度、ライブによる即興の神憑り的な創造(まさかアルバムの大半がステージライブのテイクとは知らなかった)、フリップのディストーション・ギターのリフのカッコよさ(笑、ジョンウェットンのヴォーカルの説得力、、、。
基本的には軸のメンバーが不思議に変わっていない。フリップ・ウェットン・ブラフォードである。
ここにデビッド・クロスとジェイミー・ミューアがいたが、クロスは太陽と戦慄と暗黒の世界のみ。
ミューアは太陽と戦慄を録ってから仏教の修行に旅立ってしまう。

通常ライブはそのアーティストがどのくらいアルバムに近い演奏が出来るかの確認レベルのものになることが多い。
しかし、クリムゾンの場合、ほとんどライブの方がスタジオ録音を凌駕したものとなる。
驚愕の音の破壊と創造~生成の場となる。
それをもっともはっきり示しているのが、この時期のライブ音源だ。
そしてそれをかなりの割合でとりこんだ3枚のアルバムであり、その他のライブアルバムであるがどれも遜色がない。
(アムステルダムライブ等々)
レッドをもってこの期にやるべきことを終え、フリップの鶴の一声で解散。『USA』ライブが出ている。バイオリンのパートはクロスのものが削られエディー・ジョプソンの演奏に差し替えられはした(元々彼はクラシックから抜け切れず線が細かった)。

その後、ニューウェイブ期と取り敢えず付けたがディシプリン・クリムゾンとも呼ばれる。
『ディシプリン』、『ビート』、『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』である。
かえってクリムゾン名義にしなかった方がこの優れた3枚のアルバムが正当に評価された気はする。
しかしキングクリムゾンのもっとも魅力的な音色を奏でていた管楽器もバイオリンもピアノ~メロトロンも封印されてしまう。
この楽器編成からして根本的コンセプトの違いは明瞭だ。
ヴォーカルチューンも残るが詩は意味を失い単なる単語の羅列となる。
(それまでは詩人ピート・シンフィールド~リチャード・パーマー・ジェームスが詩を提供していた)
抒情性や哲学的文学性は排除されたビートサウンド改革である。
3枚でスッキリこの期は終焉し、2期のサウンドをオリジナルとして似て非なるものに生まれ還らせる実験が始まる。

スティック(特殊なベース)を使ったヌーヴォメタル期では、ダブルトリオ(ドラム2、ベース2、ギター2の編成)となる。
インプロビゼーション期の驚異の傑作”Fracture”(突破口)がヌーヴォメタル期には”Frakctured”と化している。
”Larks' Tongues in Aspic”(太陽と戦慄)も”Larks' Tongues in Aspic PartⅢ・Ⅳ”として生まれ変わって行く。
全て隙の無いスコアと化し、サウンドが分厚く充填し尽され平板化したこと。 
超絶技巧化し、フリップでさえ練習で音を上げる程のものになる。
(自分で作っておいて)。
情け容赦ない厳格な暴力的ニヒリスティックなサウンドである。
『ヴルーム』、『スラック』、『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』となる。最後に『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』を発表。
わたしは最終作はそのなかの数曲しか聴いていない。

当初は空間的な広がり~解放が感じられない、音が一気に流し込まれた煮えたぎる鉄みたいな圧迫感に息苦しかったのだが、、、
これは系を乗り換えた音であると感じられるようになった。
”The ConstruKction of Light”を聴いてからはっきりそう思った。
これは”エイリアン”~他者の(聴く)音だと。
特に”Larks' Tongues in Aspic PartⅢ”の前半部分のサウンドである。
最初聴いたときに強烈にゾクゾクしたが、まさにそこなのである。
変身の誘いか、、、?(まさかリアル・カフカの「変身」)

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マスターピースである”In The Court Of The Crimson King”(クリムゾンキングの宮殿)をその文脈の中で聴くことは今でも充分に可能だ。
深淵な世界を構築した楽曲でありアルバムであるが、そのメロトロンの煽るドラマ性に(その表現形態に)少し距離を覚える。
音楽が古いというのではない。”Epitaph”はまさに今日の、、、いや永遠の課題とも言えよう。
表現の上での壮大に構築されたドラマ性に感覚的についてゆけなくなったところが少なくないのだ。
(その意味でとても映画を観るのが辛くなっている)。

ただ今でも、2期~インプロビゼーション期の音に時折触れると瑞々しく胸に込み上げるものがある。
特に”トリオ”、”偉大なる詐欺師”、”フラクチャー”などには何度聴いても深く感動し、”土曜日の本”や”堕落天使”には涙腺まで緩んできてしまう、、、。
だが、どうやら曲を聴いて感動してばかりいられない、自分がそんな状況でもあるのだ。
寧ろ、外骨格の昆虫のように反応して行動しなければならない事態~日常にいる。


今のわたしにとっては、ヌーヴォメタルのエイリアンとして動く必然性がある。



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デトロイトでのパニック

David Bowie001

”Panic In Detroit”

「アラジンセイン」(1973)はわたしの大好きなアルバムだが、なかでも「デトロイトでのパニック」がたまらない。
どの曲も狂気に染まった緊張極まる曲揃いだが、そのなかでもこれは針が振り切れている!
(マイク・ガーソンのピアノがキレまくっている)。

チェ・ゲバラにそっくりな男に出逢って書いた曲なのか、、、。
「普段は目立たぬ男だが人知れず隠れ家に銃を隠し持っていた」、、、から始まる。
歌詞世界もゾクゾクするスリリングなものだが、サウンドが凶暴に美しく捻じれて歪み圧巻である。
何とも「間」が良い。
畳み込むサウンドのなかの真空の場に狂気のリズムとスキャットが雪崩れ込む。
そう、ミックロンソンのギターリフも。

これぞロックである。
身体の生き還りには必須のサウンドとなる。
自己の解体~再編成・再組織化には、この爆音洪水を浴びる必要がある。


このアルバム、ボウイの初期のコズミックドライブのかかったものやダイヤモンドドッグズのような近未来SF的なロマンや浮遊感は一切ない。
極めて加速した街の光景の浮かぶ、現在の地上を横断する破壊力あるリズムであり戦慄すべき旋律だ。
そして、この時期のボウイの「アメリカ」への拘り。
彼の(曲の)変身は彼の場所の変遷に重なる。
「Low」はベルリンとなる。
カフカ的に「アメリカ」を彷徨い疾走中のもっとも突出した曲が”Panic In Detroit”


時に、音楽は日常のあらゆるリアルな経験~体験を凌駕し激烈な高揚その垂直的な認識を齎す。
「彼はわたしに家でおとなしくしていた方がよいと言っていた、、、」
それで充分なのだ。
音楽が全てを加速度的に革新してしまう。

映画も音楽でその厚みと質が確定する。
岩井俊二の「リリーシュシュのすべて」をはじめ彼の映画全て音楽の位置づけは極めて大きい。
「ブレードランナー」の”Vangelis”も同等であろう。
あの映画を想いうかべるとき決まってあの荒涼として哀愁を帯びたサウンドが流れる。
「ザ・ミスト」の”Dead Can Dance”もあの終曲「セラフィム(熾天使)の主」で映画が完璧に完結する。

これは挙げ始めたらキリがない。話がこれだけになってしまう(笑。


アラジンセインはマイク・ガーソンの煌びやかで分裂症気味なピアノが基調を作っているが、特にアグレッシブなジャズ的アレンジの効いた”Time”と美しく儚げな”Lady Grinning Soul”で際立つ。
これらも詩がすこぶる良い、、、。
このアルバムの隠れたテーマは「時間」である。
”Lady Grinning Soul”、、、香りを纏った刹那の永遠性を歌った曲でこれ程の名曲があろうか
更にロック以外の何ものでもない”Watch That Man”をかなり反復して聴いていたが、やはり”Panic In Detroit”で再生!である(爆。


”Panic In Detroit”

疾走するカオスが増幅し突き抜ける。
違う時間と系にノリコムにはこんなサウンドがよい!
ボウイもきっとそうして来た。
無数の場所~時空に無数のわたしがいるのだ。
家でおとなしくしていてもよい。
(例え籠っていようが、、、)。
そのためのRockである。


ただ気持ち良い、、、



憧れの馬頭琴 そして”フォーミー”

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馬頭琴の話は、学校の国語の題材で採り上げられていたもの「スーホの白い馬」で、長女がその話に感動し、その楽器の演奏を聴いてみたいということで今回の運び〜泊まり掛けのモンゴル体験になった(笑。
コンサートだけなら東京界隈であるのだが、モンゴル気分を味わいたいとの事。
どちらがメインかどうもはっきりはしない。
馬頭琴はともかく聴くとして、ゲルのお泊まり、後は食事と、衣装を着た撮影くらいか、、、わたしは風邪で出掛けるのも辛いものだったが。
毎年、那須高原は初夏には必ず訪れていた頃もあったので、懐かしさからお伴した。

その馬頭琴という楽器の由来であるが、、、
スーホという男の子が拾った白馬を逞しく美しい馬に育てあげる。
その立派な馬で彼は王様の主催する競馬大会で優勝する。
褒美としてお姫様と結婚できるはずであったのだが、何と馬は奪われ彼も手ひどく痛めつけられてしまったという。
馬は王様の自慢の名馬として囚われの身となっていた。
しかしある日、隙を見て白馬は王様の所からスーホの元に逃げ帰えろうとする。
その途中で追っ手の放つ沢山の弓に射られ、スーホの元には戻るも明くる朝、息絶えてしまう。
嘆き悲しむスーホであったが、ある夜の夢にその白馬が現れ、どうかわたしの尻尾や毛や骨で楽器を作ってください、と彼に頼むのだった。
スーホは目覚めて直ぐにその馬から楽器を作り、人々にその音色を聴かせると、みなが疲れも忘れ、こころを深く揺り動かされたという。

馬頭琴という楽器はこうして生まれたそうだ。
(、、、ここまで全て長女談、物凄く短縮(笑)。


その楽器の演奏をホールで聴いた。
日本で活躍中のモンゴル人の演奏家ムングン氏によるものだ。
2つに分かれた太く白い弦は、片方が馬の尻尾の毛が130本、もう一方が100本縒り合わされたものだという。
それを同じく馬の尻尾の毛180本で作られた弓で弾く擦弦楽器だ。
棹の先端が馬の頭部の形をしたところが何より特徴的であり、モンゴル語で「馬の楽器」の所以である。
鼓弓に似た感じのものだが、とても艶やかで力強い音色が出る。
躍動感に溢れ同時に、情感あるリリカルな楽曲が楽しめた。
この2玄でよくここまでの表現の幅を出せると感心するものだ。
しかし、ここで、更に驚くべき音楽体験をする。

それは人間業とは思えないフォーミーという驚異のボーカリゼーションであった。
何とも形容し難い音世界である。
ひとつ間違えると、超人隠し芸みたいな部門で話題になってしまいそうな危うさを秘めている。
同時に異なる音を2種類発する特殊な発声法によるもので、説明は聞いたが今一つメカニズムについては、イメージ的にも掴み難かった。
シンセサイザーでも余り聴かない非常にハイパーな電子的音響世界である。
何かの描写や叙情表現を超えている還元不可能な音なのだ。
聴衆もみんな呆気にとられて口を開けて、観ていた。
そう、何処からその音が出てくるのか、だた観入ってしまうのだ。
正直ビックリした。ロバート・ワイアットのボーカリゼーションに浸ってばかりはいられない。
彼のボーカルが普通に思えた。


朝食では肉とサラダがモンゴルものだそうで、それ以外は普通のホテルの洋食バイキングであった。
ミネストローネは美味しかった。アイスクリームは推しである。わたしはパンとジュースだけいただく。
後は、もう1つの楽しみでもあった衣装を着ての写真撮影である。
こういう事は彼女らは好きだ。何処へ行っても全種類の組み合わせを試してしまう。もう途中からついて行けなくなる。任せる。
帰りにここでしか買えないと宣伝する温泉饅頭やチーズケーキを買う。
お土産分以外は、電車内で彼女らが食べてしまった(笑。


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到着当日の前日譚。(上の本文は当日の夜から2日目である)。
昨日アップしたものは削除。高熱の為か締まりのないグダグダ文を書いていた。

栃木の黒磯にあるモンゴリア・ビレッジ・デンゲルという施設に泊まり掛けで来た。長女のリクエストである。
馬頭琴の話を本で読んでから、モンゴルはマイブームなのだ。
宿泊する部屋は一戸ずつ独立したテント〜ゲルであった事にちょっと新鮮な驚き。遊牧民族である。扉は低く小さい。中は、テレビで観たことのあるモンゴル調にアレンジされた中央にテーブルと椅子があり周りを微妙な色彩と模様に彩されたやはり如何にもモンゴル調のベッドに取り囲まれた赤基調の円形空間であった。モンゴルテイストの日本人に使いやすくセットされた部屋という感じか。天井の天窓風の丸い明かり取り部分が天気の良い日は取り外しが効くという。小物入れの蓋みたいだ。勿論、テレビ、冷蔵庫、エアコン、電話はある。
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彼女らは直ぐにモンゴル温泉?に出向くが、わたしは風邪が思わしくなく、温泉は諦め部屋で寝そべっていた。
外はにわかに冷たい雨が降り始めていた。
雨音が香ばしく立って聞こえる。よい音だが、はっきり響く。夜中もこれだと眠れるか?
外には、、、出たくない。体にこたえそうだ。
夜の料理は、モンゴルに関係ない、プレート焼肉料理であった(笑。普通。


参考までに、近々開かれる馬頭琴コンサート、、、ここでもし”フォーミー”も体験できたら、、、

「アサル国際馬頭琴アンサンブルコンサート」
2017年5月20日(土)18:30会場19:00開演
国分寺市立いずみホール

問い合わせ:090-4703-4824


ジョン・ウェットンに捧ぐ 土曜日の本

John Wetton001

ジョン・ウェットンが2017年1月31日に亡くなった。
癌であった。
何とも言えない虚脱感に襲われ、それを記事に書こうなどという気持ちは微塵もなかった。
わたしにとってジョン・ウェットンは、キング・クリムゾンがもっともそれらしかった第2期を支える柱である。
彼の死によって、確実にひとつの時代がプッツリと終わった。

カール・パーマーはここのところ、連続して追悼の意を発表し続ける立場である、、、。
(このあまりに重い連続追悼を彼はどう捉えているのだろう、、、彼もさすがにキツかろう)。
キース・エマーソン、、、グレッグ・レイク、、、ジョン・ウェットン、、、考えてみると恐るべき才能の消滅だ。
(彼らは、まさに才能と技量のみで生きていたことを確認する。変な付加価値は必要としない)。
今日、何気なく、エイジアのファースト(1982年)を聴いて、楽観的でポップな気分に浸ったためか、少しだけジョンのことを書いてみたくなった。

わたしは、あまりクリムゾン以外の彼に興味はなく(ファンの風上にもおけないが)他の音源はあまり聴いていない。
だが、彼のインパクトがわたしにとって絶大であることは間違いない。
クリムゾン二期が余りに絶対なのだ。

かのロバート・フリップをして「彼はわたしのヒーローである」と言わしめた男である。
それにしてもどのような文脈でこれをフリップが言ったのか、さっぱり覚えてはいない。
何にしてもロバート・フリップに尊敬されるようなヒトはまず、そうはいまい。


クリムゾン以外でわたしが彼を聴いたものは、ないわけではない。
だが、やはり創造の水準が異なりすぎる。
有り得ない強度~微分的な演奏によって生成と解体の間を行き来するクリムゾンの世界は驚異であり別格なのである。
他のアーティストのものは、いくら緻密に複雑に構成されていたとしても程よい計算のレベルに想える。

とは言え、彼の参加した優れたユニットを強いてあげれば、UKか。
確かに、ありえない程の布陣であった。

ジョン・ウェットン 、、、vocal/bass guitar/moog pedal bass
ビル・ブラッフォード、、、 drums/percussion
エディ・ジョブソン、、、 organ/CP-80/CS-80/minimoog/electric violin/backing vocal
アラン・ホールズワース、、、 guitar/backing vocal

スーパーグループであり、この強烈な個性から持つはずはないと思った。
勿論、出た瞬間に購入した(笑。
直ぐに空中分解すると思っていたし、、、。

最初から分かっていたとは言え、予想を上回る凄まじい演奏であるが、尺の長くてテンションのやたらと高い曲にリスナーはついて行けなくなる。そのため、セールスは伸びなかった。それがわたしにも予感できた。
フリーキーなハイテクジャズロックより更に凄いものであったが、時代は違うものを求めていた。
斯く言うわたしも、その芸術性の高い造り込まれたサウンドに引込まれはしたが、彼らメンバーの名前で聴いていたふしはある。
極めて高い水準で作られたコンテンポラリーミュージックであったが、この方向性は直ぐに途絶える。


それからジョン・ウェットンが音楽ファンの誰にも広く認知された商業的にも大成功を果たしたエイジア。
売れ線は一切聞かないつもりのわたしも、さすがにこのグループのファーストは聴いた。

ジェフ・ダウンズ 、、、 Keyboard (元バグルス、イエス)
ジョン・ウェットン 、、、 vocal/bass guitar/moog pedal bass (元キング・クリムゾン、UK)
スティーヴ・ハウ 、、、 guitar (元イエス)
カール・パーマー 、、、 drums/percussion (元ELP)

ジェフ・ダウンズの役割(主導権)が大きい印象があり、エイジアはやたらとポップであった。
正直、戸惑った。バグルスを重厚にスケールアップさせたようなサウンドに思えた。
ジョン・ウェットンのボーカルは美しく、ベースも相変わらずアグレッシブであり、作曲にも携わっているのだが、、、
UKにまだ残っていた作家性や芸術家気質は抑えられているようであった。
彼の新しいポップで爽やかで明るい局面を覗いた気分であった。
とてもある意味キャッチーで短いポップチューンでアルバムは構成されていた。
どれもシングルカットでヒットを狙えそうなものばかり。
確実に、アルバム一面で一曲(ともかく長く複雑な曲構造)というプログレ時代からの脱却であり、それを求めるヒトがこのサウンドを待っていたのだ。時代に迎え入れられたに違いない。

しかしどこかわたしには寂しい感触が残った。
それまでの深淵から響いてくる知的な翳りに染まったジョン・ウェットン節は影を潜めてしまう。
例えば、在り来りな曲を書くことでみんなから辟易されていたユーライア・ヒープに短期間在籍した時も、彼の書いた曲だけ飛び抜けて重厚で美しく変幻するメロディーをもち、際立っていた。当然アルバム全体のリズムが格段にレベルアップしていることも素人にも明白であった。ジョン・ウェットンが少しでも絡んだユニットは確実にそれまでにない荘厳な響きを纏ってきた。
彼のベース、魅惑的なボーカルも他にないものだが、わたしは彼のもっとも特筆すべき才能は作曲にあると思う。

しかし、彼はこの「エイジア」の方向性がとても気に入っていたようだ。
あくまでもエイジアの活動を主体にして、他にも色々なプロジェクトに参加はしていた。
ジェフ・ダウンズとの曲作り、も含めこのふたりがグループの中心であることは、明白である。

ここでは、ソロでいくらでも目立てるヒトが、皆抑制を効かせて、短くタイトなポップチューンをまとめることに専心している。
とは言え元々ポップ路線のバンドでは、こんなアレンジとダイナミックな演奏など、まず無理であることが分かる。
超絶技巧のミュージシャンが、ソロプレイを封印してポップな曲作りに専念した結果のカラフル(複雑)で前向き(そうまさにそれだ)なサウンドを提供している、と言える。
しかしこのグループもぶつかり合いは激しく、メンバーも安定せず、ついに主要メンバーのジョン・ウェットンも永久に抜けてしまった。
それでも元イエスのメンバーの補充で(わたしはその人を知らない)今後もグループは続行するそうである。
しかし、ジェフ・ダウンズの受けた喪失感はやはりとても大きいようだ。

「彼の作曲はこの世のものとは思えなかったし、彼のメロディとハーモニーも現実のものと思えなかった。彼は文字通り『特別な人』だったんだよ。」


これまで二期のクリムゾン(太陽と戦慄、暗黒の世界、レッド)を定期的に聴いていたのだが、、、。
そうしないと、感覚が麻痺してしまう。
このギリギリの神秘的ですらある創造のパフォーマンスの一角が欠けてしまった事実~空虚は思いの他大きい。
暫くは聴けそうもない。
ボーカルである分、尚更響く。

一期のクリムゾンのボーカルは、グレッグ・レイクである。
エピタフが更に現実味を帯びている今日、、、。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


でも、「土曜日の本」は、聴きたくなった、、、。
この曲と「堕天使」。
改めて、、、。

John Wetton002

Lux Virenz ~ジョセリン・モンゴメリー

Jocelyn Montgomery

ヒルデガルト・フォン・ビンゲン、、、作曲

ジョセリン・モンゴメリー、、、ボーカル

1998年 ポリグラム
デヴィッド・リンチ、、、プロデュース「アシンメトリカル・スタジオ」リリース。

12世紀
所謂、宗教歌曲集である。
グレゴリオ聖歌の調和と秩序の美とは、また趣が異なる。もっとフリーキーな(非定型又は諸形式の混淆した)楽曲である。
神聖さのなかに時にカオスを感じ不安に襲われる。

ヒルデガルトは、中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長であると同時に、ヴィジョンを(定期的に)見る女性自然学者(医学にも通じた薬草学者)でもあったという。この曲集の曲も彼女の作曲であり、幻視家で作曲家であった面は、今世紀に入り特に注目されている。
彼女の映画もある。”VISION Aus dem Leben der Hildegard von Bingen”というドイツ映画。
「ハンナ・アーレント」のマルガレーテ・フォン・トロッタ監督によるものだ。
未見である。ずっとこのまま未見かも知れない(笑。

大分以前、チェックしておいてそのまま過ごしてしまったアルバムである。

現在、廃盤のためアメリカ直輸入で手に入れた。
マルホランド・ドライブ”の監督が製作したアルバムということがよく分かる世界だ。

サウンドは、現代のアレンジが慎重に施されている(彼らの言葉によると、最新のパースペクティブによって蘇らせている)が、恐らく原曲を壊さない編曲になっていると思われる。
デヴィッド・リンチ流のプロデュースと言うより、曲集から察するに彼本来の感性にこの音楽がピッタリであったというのが正解に思える。それを今聴けるように忠実に再現した感がある。
シンセサイザーが生々しく耳に障ることはない。

ジョセリン・モンゴメリーは、あの懐かしい”ミランダ・セックス・ガーデン”のトリオのひとりである。
パースル音楽学校で出逢った3人組で結成。それについて少々、、、。
MIRANDA SEX GARDEN
このMADRAは、マドリガル(ルネサンス・マドリガーレ)の16世紀手法による全てアカペラの歌曲集であり、耽美的でゴシックな要素漂う名作だ。カオスも感じられる。カンタータ以前の歌唱というものを蘇らせている価値は大きい。
セカンド(フルアルバムとして)の”サスピリア”ではインストゥルメンタルの要素が加わり、一般的に効き易いエモーショナルでハードなサウンドに変わり、明らかに方向は転換する。サードの”フェアリーテールズ・オブ・スレイヴァリー”になると、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのギタリスト、アレックス・ハッケがプロデュースし、歌声はさらに強度を増し、魔的で呪術的でノイジーなサイケデリックサウンドと化している、、、。
もう、ロックとして聴けるではないか。
わたしはここまでしか彼女らを追っていないためこの後の消息は知らない。

彼女らは”マガジン”(ハワード・ディヴォートをリーダーとするポストパンク~ニューウェイヴロックグループ)のベーシストであり、映画音楽家のバリー・アダムソンに見出され、彼の映画音楽「Delusion」のサウンドトラックに参加し、サイモン・フィッシャー・ターナー、デレク・ジャーマンの映画音楽にもその後、参加していく。
ミランダ・セックス・ガーデンは中心となるのは、ソプラノのキャサリン・ブレイクであり、彼女以外のメンバーの入れ替わりが続いた。(セカンドからすぐに3人構成ではなくなる)。

さてここで主役のジョセリン・モンゴメリーは、グループを早々に脱退している。
彼女は6歳からバイオリンを弾いており(祖父がバイオリン職人)、音楽キャリアはバイオリニストから始まったようだ。
Jocelyn Montgomery002

デヴィッド・リンチの「アシンメトリカル・スタジオ」でジョセリン・モンゴメリーの歌声にあえて調和を崩した球体状に纏わるサウンドが生成された。
ジョセリン・モンゴメリーのこの歌声~歌唱も、美しいとか清らかとか神聖な響きとかでは到底収まらない、不安な異和が漂う。
声の質はあくまで、伸びやかで透明で美しい、とはいえ。
サウンドそのものに、えも言われぬ暗黒の霧が充満し、歌声もそれに相応している。
何というか、美に一滴の狂気の毒が混ざっている。
それはときに、静謐の中に極めて鋭い線を走らせる。漆黒の闇に音もなく切れ目を入れる雷光に似て。
彼女の時折弾くバイオリンの音もサウンドに溶け込んで一体化して響く。
効果音もやはり、映画監督がプロデューサーであることからか視覚的な感覚を広げるかと思いきや、全くそんなことはない。
鳥のさえずりが長閑な草原を思わせるような要素にはならない。
視覚や音響を逆に吸い取る静謐なダークエネルギーに満ちた恐るべき歌集である。

Jocelyn Montgomery003

わたしは、ミランダ・セックス・ガーデンのアルバムより、こちらに身を委ねたい。
特に眠りにつくときなど、、、


クラスター~ハルモニア


chinode.jpg「地の出」

これをロックには入れたくない。
現代音楽である。
敢えて言えばのはなし、、、。

身体をリセットしたい。
中庸にしたい。
ナチュラルにいや、ニュートラルにしたいというとき、、、

音楽が一番効果的かも知れない。
”クラスター”や”ハルモニア”のような、、、。
これ以上に自己主張のない音楽を知らない。

AQUAのような音である。いやちいさなそよ風か、、、。
自然が秘めている音源がいつしか漏れ聴こえてきたかのような音。
”Cluster & Eno 1977”のアルバムジャケットは、草叢から天に向けた一本のマイクの写真(アートワーク)である。

その通りの音である。
Harmonia の”Musik Von Harmonia”も気持ちいい、、、ジャケットは青い洗剤のポリタンクだ!
プラスチックで、ただ気持ち良い反復。

身を任せてたゆたう、、、。
遊星的郷愁に。
雨の夜が煌く。

ディーター・メビウスとローデリウスによるクラスター(結成当初はクラフトワークのコンラッド・シュニッツラーが中心人物として在籍していた)は、所謂、電子音楽の先駆的存在であった。初めての電子音楽のアーティストであった。
この後にどれだけのロック現代音楽の作家が続いたことか、、、。

そしてミヒャエル・ローター、ローデリウス、ディーター・メビウスによるハルモニア。
なんだ、、、ミヒャエル・ローターがいるとハルモニアで、いないとクラスターかい。
と、当時思ったがまさにその通りなのだ(笑。

クラフトワークの雇われメンバー同士で作ったミヒャエル・ローターとクラウス・ディンガーで、あの栄光の”NUE!”ノイ!が生まれる。
その後、ラ・デュッセルドルフに引き継がれ、これも更に気持ちいい。
確かに、ドラムの無機的リズムが刻まれるとハルモニアで、それがないとクラスターである。

クラスターは、アンビエントミュージック、ヒーリングミュージックの始祖となり、、、
ハルモニアは、典型的クラウトロックと言える心地よいミニマル・ミュージックであり後のパンクミュージックにも繋がってゆく。
無機質の魅惑。

昆虫の音楽。
あの優雅で優しいアゲハ蝶の。
または、地中で眠るカブトムシの幼虫の寝息。

いや、縞瑪瑙の夢。
晶結するトワイライトゾーン~
黄昏時にようこそ。


グレッグ・レイク~キース・エマーソン

Greg LakeGreg Lake Keith EmersonKeith Emerson

年の瀬に、何とも寂しいものである。
ELPのELである。エマーソンは3月に銃で自殺、レイクは癌により亡くなったことが12/8に発表された。
エマーソンは所謂、鬱であった。これについてはどうにも書けなかった。他人事ではないし、、、それが今度はグレッグ・レイクである。
もうPだけである。カールはまだかなり元気でいるらしい。
(ドラマーはいつも運動になっている感じだし、新陳代謝も良さそうな気がする)。
晩年の、クリムゾンキングのジャケット絵みたいに膨れ上がってしまったグレッグ・レイクを見ると何とも忍びなかった。
いくらなんでも膨らみ過ぎで大丈夫かと思っていたが、やはり無理があったか。こちらも他人事とは言えないが。
どうしても中年過ぎるとヒトは太ってしまう。(勿論、細くなるスティーブ・ハウみたいな例もあるが、、、彼はそのせいか、勢力的に自分の息子2人と組んでいまだにツアーをやってる。良い人生だ)。

”Brain Salad Surgery”『恐怖の頭脳改革』が特に好きなのだが、彼らのレーベル「マンティコア」初のアルバムである。
1973年。トータルアルバムとしての完成度の高さは、彼らの他の作品と比べても上である。しかも ”Karn Evil 9”『悪の教典#9』は圧倒的に凝縮されたエネルギー体である。グレッグ・レイクとキース・エマーソンを知りたい人には、まずこれを聴いてもらいたい。
そして、1971のセカンドアルバム”Tarkus”か。これはほとんどキースの組曲である。コンセプトもキースのもので、後の彼のコンポーザーとしての原型が窺える。
(わたしのフルートの先生も発表会で、”Karn Evil 9”のエレクトーン演奏をした。#が9つも付いているんですよ、と説明して始めたが凄い演奏だった。これを演奏すると誰でもエマーソンみたいに見えたことを、いまでもよく覚えている、、、何年前のことだ?)
そしてグレッグ・レイクの作品 ”Still...You Turn Me On”は、”Trilogy”、”From the Beginning”に並びわたしの最も好きなELPの耽美的てアコースティカルな曲の代表だ。ここでのグレッグのヴォーカルとギターにはただ只管酔いしれる。


この頃は、クリムゾン、イエス、ピンク・フロイド、ジェネシス、ジェントル・ジャイアント、ルネサンス、ヴァンダーグラーフ・ジェネレーター、、、などがとても元気で活きの良い頃である。
勿論、プロコルハルムも全盛期を迎えていた。ジェスロタルも忘れてはいけない、、、。

それらとは、別の流れで、クラフトワーク、カン、、、も独自の道を歩んでいる、、、。

群雄割拠である。
そんななか、、、トリオとしては、EGGと並ぶテクニックをもち、EGGがほぼ現代音楽なのに対し彼らはどちらかといえば、クラシック、ジャズ要素が強かった。無論、現代音楽へのアプローチも怠らず、”Brain Salad Surgery”の「トッカータ」はアルベルト・ヒナステラ作曲の「ピアノ協奏曲第1番第4楽章」を編曲したもの。サードアルバム”Trilogy”(1972)の”Hoedown”は、コープランドの曲を彼ら流に暴力的に編曲したもので、作曲者から絶賛を受けている。この曲に限らず演奏はどれもそのスタイル共々圧巻である。
また、EGGが基本的にInstrumental中心で、たまに入るヴォーカルは何とも無機的なのだが、ELPはグレッグ・レイクもキース・エマーソンもどちらも上手い!グレッグのヴォーカルは本当に叙情的で、大英帝国の深い霧を感じさせる知的で気品あるものだ。
彼のヴォーカルが聴ける曲の記念碑的なものにキング・クリムゾンのメンバーであった当時の、 ”Epitaph”がある。
”In The Court Of The Crimson King”に収録されている。(SF映画における”Blade Runner”にあたるアルバムといえよう)。
この曲に彼のヴォーカルの初期の魅力が湛えられている。いよいよ聴きかえしてみたい世界にもなってきた、、、。
その後(クリムゾンのSecond を経て)ELPを結成する。
ELPのハードなチューンだと、キースとグレッグの正直どちらが歌っているのか分からなかった。そう、とてもヴォーカルスタイルが似ているのだ。”Brain Salad Surgery”はキースがヴォーカルだとクレジットを見てはじめて知った。似ている。

グレッグ・レイクのベースはピアノのような澄んだ美しさで際立っていた。(ピアノのトーンに近いベース音なのだ。逆にベース音をシンセで出すプレイヤーは山ほどいる。単にベースギターの替りで出すのでなくても)。アコースティック・ギターの音色も煌びやかで美しかった。
キース・エマーソンのキーボードはまさに天才のテクニックであるし、そのステージアクションも彼独自のパフォーマンスとして熟成していた。
わたしのかなり昔の職場の同僚に、キース・エマーソンフリークの人がいた。
ご自身は幼少時代からパイプオルガンを本格的に習って演奏しており、専門は「数学」と「ババール」であった。
彼女の娘さんもお母さんにならっていつもキースがどうの~と言っていた。あの複数のキーボードの早弾きにゾッコンだったようだが、彼の作曲するクラシカルで稠密な構成のハードな曲にも惹かれていたようだ。
(わたしはこのお宅のiMacのメンテナンスと、ババールのHP製作のため写真取材に度々伺っていた)。
娘さんは年齢的に言って、キース・エマーソンを普通に知る世代ではないのだが、母の影響は大きく、彼女のアイドルだった。
、、、考えるともう相当昔の話だ、、、いまM家の人々はどうしているだろう?
恐らくいまでも趣味のババールの買い付けに母娘の軽いフットワークでヨーロッパに飛んでいる事だろうと思う。
「人間は趣味で生きている」、、、わたしの親友のS君の口癖(信念)だ。


キースは71歳で右の指が動きづらくなり、基本的に8本の指で演奏していたという。
クラシックピアニストもそれくらいの年齢になると腕が鈍るヒトは少なくない。
まして、非常に激しくアクロバティックな演奏を見せる人だ。しかも長時間に渡り何日も続け、、、。
過去に輝かしい成果を山ほど残しているのだから、ただ引退すればよかったのでは、、、。
グレッグ・レイクは長い闘病であったという。
あの体型も病のせいであったのか、、、。


ふたりとも、それに替わる人がいない、所謂天才であった。

ご冥福をお祈りしたい。



この世代で、未だに元気、元気(おかあさんといっしょではないが)なのは、ひとり飛び抜けて元気なミックジャガー筆頭にせいぜい数十名というところではないか?残念だが、今後も、ポツポツと寂しいニュースは入ってくるのだろう、、、。






マシュー・フィッシャーに捧ぐ

Matthew Fisher

ナイーブでセンチメンタルで夢見がち、、、彼は少年時代あの「ネモ船長」に憧れていたらしい。
やはりマシューも海賊の一員であることは確かだ。
トワイライトゾーンに浸りメランコリックな気分に酔ってみたくなったら、、、
マシュー・フィッシャーをターンテーブルに乗せたい。
(CDではない、、、と謂いたいところだが、パソコンに取り込んだ音でもなんでも、、、)。
確かにヒットする曲はない。
そういう曲ではない。
太陽と青空ではない。ギラギラしたアーティフィシャルな照明も似合わない。
月明りの下にチェアを出して聴きたい。(特に5枚目)。

マシュー・フィッシャーのアルバムは、調べた範囲では現在、「旅の終わり」(ジャニーズエンド)も品切れ絶版状態のよう。
2枚目~4枚目も全く店舗にもWeb上にも見ない。流通網からは姿を消した。
1枚目の”ジャニーズエンド”と2枚目の”アイルビーぜア”を一種に詰め込んだCDアルバムは見かけたことはある。ディスクユニオンで。しかし、もう在庫があるかどうか。事実上絶版状態ではないかと思われる。
同じく、3枚目”マシュー・フィッシャー”と4枚目”ストレンジ・デイズ”をひとつにしたCDは、まだ買えるところはあるようだ。新品は期待出来ないが。
また、5枚目の異色アルバムはわたしもCDだけで持っている。
このアルバムは輸入盤を扱っているところなら在庫はあるのでは、、、。本来の?マシューとは異質感があるのだが。
彼のLP版は、今や我が家の宝である。
(こういう燻し銀系アーティストは買えるときに買っておかないと一生手に入らない危険性はある)。

やはりファーストが良い。ジャケットも趣深い。
ここでの極めつけは、Separationである。
マシューの音楽の魅力がこの1曲に凝縮されていると言っても過言ではない。
そしてHard to be Sureのフラジャイルなガラスのような余りに純粋な曲。
ここが、彼のヒットとかセールス度外視の部分がよく表れている。
気取りやケレン味が全くないのだが、プロのミュージシャンとして余りにそれがなさすぎ心配になる彼らしい曲。
最後のJourney's Endはもうプロコルハルムのマシューだ。彼のロマンが溢れ昂まり充満してゆく。
(ソロになってつくづく思ったのだが、彼はやはりビートルズのホワイトアルバム以降のジョージ・ハリソンみたいに、グループ内でアルバムの2,3曲際立つ傑作を作るポジションがとても合っているのではないだろうか)。

セカンドは、ナイーブで繊細な歌を切々と聴かせるアルバムである。
Not Her Faultは、そのなかでも一際切なくリリカルな名曲である。
恐らくこの曲は彼でないと作れないHard to be Sureの線を行く無防備過ぎる曲だ。
しかし、こころにひりつく類まれな名曲に違いない。
Do You Still Think about Meは取り分け淡々とした内省的な彼のボーカルが染み込む。
I'll Be Thereでドラマチックに幕を落とす。

サードは、よく出来た曲で埋められている。
だが、ここで彼のアルバム(曲)がセールスに結びつかないことも何となく理解する。
これまでもNot Her FaultやHard to be Sureなどはプロデュースやプレイヤーによっては、スマッシュヒットに持っていけるポテンシャルは充分に感じた曲なのだが、どうもこのアルバムも同様の原因で残念なものを感じ、インパクトが弱い。
Only a Gameなどヒットしてもおかしく無いポップチューンだ。
Why'd I Have to Fall in Love with Youはマシュー全曲中最もポップ性が高いかも。
そう、聴いてみるとどれも相当レベルの高い曲ばかりである。
ただ、演奏の質が、、、特にドラムに問題がある。
マシューのハモンドオルガンと彼のボーカル以外に、後は取るところがない。
問題が露呈したアルバムというか、漸くわたしも気づいた課題というところ、、、。

4作目は2曲を除いてC.T.White(元ゾンビーズのベーシスト)との共作。
共作によって新しい血による化学変化は得られたのでは、と期待する。
Something I Should Have Knownでいきなりそれを感じたが、美しくマシュー独自のリリカルさの極まったSomething I Should Have Knownで、これはと想う。
その後にはハイテンポのポップなナンバーが続く。アルバムの流れがこれまでより自覚的に工夫されていることが分かる。
マシュー節は健在なまま、少しばかりコンテンポラリーな位置に近づきブラッシュアップした気はする。
だが、何というか危なっかしいまでの瑞々しさは、いまひとつ影を潜める。
Desperate Measuresは、共作ではないが、これまでの殻を破ろうとかなりハードに無理をしている印象を受けた。
Can't Stop Loving You Nowも彼だけの曲だが、リリカルで素人臭い彼のバラッドではなく、やけに拵えたムーディーさなのだ。
高音の伸びる艶やかな綺麗なボーカルでオルガン(ここでは然程弾いていない)も良いのに、やはり微妙だ、、、。
コンポーズも決して悪いわけではない。
演奏の面からいっても、この人はプロコルハルムにいた方が曲の質自体が二段階は高まると凄く思う。
(プロコルハルムの演奏レベルは高い。特にこれまでのドラムは格別)。
ソロになると、その辺、不自由するんだろうか、、、。
Strange Days、、、新しいマシューの素敵な曲ではある。

5作目は、何と自宅で打ち込みレコーディング。最初聞いたときは、こんな曲想で~と示す為のデモテープ版かと思った。
それは、アルバムジャケットが余りの情けなさで(正直、何だこりゃのレベルで)、そこからくる先入観にもよるものであった。
しかも、のっけからこれまでのマシューから考えられないサウンドであったから、、、。
とは言え、聴いてみると実によくできたものなのだ。(頭からあのジャケットを振り祓って、、、)。
こういうマシューのサウンドもあるんだと、、、ちょっと唖然とした。きっとかなり思い切ったのだ。
暫く放置した後で改めて聴いて気づいた。(兎も角、ジャケットデザインが凄まじく悪かったせいだ)。
かつて、フォーカスとムーディーブルースがデモ作りの途中といった感じの曲を未発表曲集アルバムとかで出されてしまい、彼らの輝かしいキャリアに泥を塗ることになってしまったが、一瞬そんな類のものかと想像してしまったのだが、、、。
しかも、ハモンドオルガンかピアノ以外弾いてこなかった(公には)はずの彼が、ギターを弾きまくっているではないか。
勿論、専門外の楽器でも自宅で趣味で演奏するような事はいくらでもあろうが、アコースティックについては、かなり様になっている。エレキギターについても危なげはない。少なくともブライアン・イーノやピーター・ハミルより上手い。その点では安心して聴ける。
できれば、盟友ロビン・トロワーにエレキだけは任せるとかした方が、サウンドの奥行はずっと出たかも知れないが。
彼はブルースギターの天才であるが、どんな曲想にも合わせてくれるはずである。
まあそれを言ったら、マシューのソロアルバム全てに言えることだが、ドラムが酷い。5作目の打ち込みドラムの方がスッキリしていた。
プロコル・ハルムが何故あれほどの奇跡とも言える大傑作アルバムを出し続けて来れたかといえば、その大きな要因のひとつが、バリー・J・ウィルソンの卓越したドラミングによることは間違いない。
ドラムがダメだと曲が成り立たないことは、色々なアーティストのアルバムを通じてずっと感じてきた。
低予算で制作したためか、、、しかしマシューには重厚なリソースがある。それを使わない手があるか?
何故、ロック界一の天才ドラマー、バリー・J・ウィルソンに頼まないのか、と思ったことは確か。
惜しくも彼は1990年に交通事故で亡くなってしまったのだが、4枚目のアルバムまでは付き合って貰えたのでは、、、。
現に、ゲーリー・ブルッカーのソロアルバムでは、いつものテクニックを披露している。(彼の最期の仕事となった)。
(バリー・J・ウィルソン死後、またブルッカーとマシューはよく一緒に仕事をしている。ブルッカーのソロでも、作曲がブルッカー=フィッシャー=リードなのだ。おまけにプロデュースも担当している。彼らは1991年にグループ再結成もしている。”The Prodigal Stranger”はゲーリー・ブルッカー=マシュー・フィッシャー=ロビン・トロワーに詩人のキース・リードの最強メンバーである。バリー・J・ウィルソンがいないのが凄く寂しいが)。

Separation
Why'd I Have to Fall in Love with You
Do You Still Think about Me
Hard to be Sure
Only a Game
Not Her Fault
I'll Be There
Journey's End
Without You
Something I Should Have Known
Strange Days

更にこれに加え異質に聴こえた5枚目、、、。よく聴いてみると彼の最高傑作かも知れなかった。
打ち込みのプライベート風作品で、もう閉まった後の月の光で煌く遊園地みたいな曲集である。
Nutrocker、、、吹っ切れたマシューの存在を感じる。
Dance Band On The Titanicは、はっきり言って前4作のどの1曲目より惹きつけ、これからに期待を抱かせる名曲である。
それに続く2曲目タイトルのSalty Dog Returnsも素晴らしい。(何故最初に気付かなかったのか、、、それはこの頃流行っていたヒーリングミュージックにサウンド的に妙にダブってしまった為もある、が明らかに異なる)。Strange Conversation Continuesが異質に感じたアルバムの代表的な曲であるが、その電子音(テクノ)サウンドはジュール・ヴェルヌのSF小説に近い疑似(魔術的)科学のイメージに充ちている。あのノーチラス号のときめくメカニック。であれば、やはり原点回帰なのだ。まさにSalty Dog Returnsである。Linda's Tuneでその確信を得た。
最終曲Downliners Sect Manifestoはコミカルで硬質で、もの寂しい郷愁のうちに終わる。
これまでのロマンチックで厳かなフィナーレとは明らかに違う。
スケールを絞って、逆に遊星的な孤独と郷愁を描いている、、、。
おっと忘れるところだったが、ボーカルは一切ない。やはり新境地だ。


、、、いつ聴いてもとても孤独で寂しく、心地良い。とても心地よい。


コンテンポラリーな要素というよりメランコリックなロマンがしっとり息づいている。
車に乗って爽快に飛ばしながら聴くヒットチューンはないが、月夜の静かなひとときに植物と一緒に聴きたくなる、、、。

やはり、わたしはマシュー・フィッシャーが大好きだ。
改めて聴いてその意を深くした。
わたしは、マシュー・フィッシャーが大好きだ。

Nemo.jpg
オルガンを弾くネモ船長


上白石 萌音の366日を聴く

Kamishraishi Mone

youtubeで何人ものヒトが「366日」を歌っているのを聴いた。
ここでわかるのは、同じスコアでも歌い手によって全く異なる曲になるということ。
わたしは、長女と聴けたのは、上白石 萌音さんのものだけだった。
他のものに魅力を覚えず、聞流してしまったが、彼女の歌だけ何度も反復して聴いた。
純粋さ清らかさ、果敢なさは上白石さんの声によってこの曲の特徴となる。
うちのむすめたちのなかでは、いくちゃん(生田絵梨香)のショパンの次にきている。
(今日観たような映画で、バイオリンではなくピアノ編があれば生田女史が主役で演じるのもよいのではないか)。

こういったそよ風のような刺激って、良いなあと思う。
アコースティックギターによるもっとも理想的なバックに聞こえる。


Vが曲の内容に関連していないところが、逆に身体的な同期性を感じさせる。




The fosse - Wim Mertens ~ 「夜の概要ⅴ」



”The Fosse”のライブステージ演奏ものがあったため、拾った。
(今日も続きをするつもりは全くなかったのだが、偶然見つけたからには載せたいと思ったのだ)。

アルバムMaximizing the audienceのチューンの方がそれはビビットで安定しているが、これも良い雰囲気だ。
若々しい頃のウィン・メルテンを見ていたため、月日の流れをいやが上にも感じた。
これは、そのまま見続けると昨日載せたものより面白い構成になっていて見応えはあると思われる。
そう、聴き応えというより、ライブコンサートとしての見応えである。
ヴォーカルの女性との連弾もあり、変化のあるアンサンブル自体が嬉しい。
わたしのように、コンサートに行けない身の上からするとささやかな楽しみにもなるというもの。

”The Fosse”の後にもう2曲(4 Mains、Struggle for pleasure)聴くことができるが、その後はLudovico Einaudi(ルドヴィコ・エイナウディ )の映画の挿入歌になってしまうみたいだ。(これは、いまひとつ、、、わたしにとっては)。
3曲目で止めたい。

ウィン・メルテンを聴くとマイケル・ナイマンの「ピアノ・レッスン」みたいな映画音楽を作ってもよいのでは、、、とも思う。
非常にリリカルでドラマチックですらある。
いつも感じるのは、知的になってしまいがちな現代音楽(ミニマムミュージック)のなかで大変emotionalなのだ。
映像的である。


昨日の”Close Cover”とは違い、BGMで詩は詠めない(笑。
とはいえ、トリスタン・ツァラの詩で、もう一つ載せたいものがある。
単にそれだけの理由だが、、、。
今日のものは、昨日の詩より遥かに短い。


勝利の真昼から
「夜の概要ⅴ」

もろもろの溜息は声高に毛皮の時刻からつくられた
そして私は悔恨のない時刻の水のなかで
無感動な歌のように生きたのだ 新しい慈愛は競売で絹の帆を揚げる
その時ひとは愛を何に変えたのか
砂の上低くラヴェンデル香の木の眼の下で断ち切られたもやい綱よ
長く広い祈祷の空間から訪れた汽笛よ
湿り柔らかい妖精の周囲に示される帰還の飛翔よ
執拗な悦楽で輝き 牡牛どもの角のある光明を埋没させる この黒い夜よ
おお 饒舌な海の瓶どもよ――その時ひとは愛を何に変えたのか――

愛の大いなる純真さのように
単彩画を膨らませながら 暖炉の火の皺をのばしながら――
錯乱した木の葉から 息をつめた壁から 凝視する眼から
あるいは生そのものを孤児たちの遊びに変え
絶望を小学生のわめきに声に変えるカードの配り手から
愛の純真さを誰も護りえなかったゆえに
もの静かで揺るぎないひとつの歌が
柏の束を積んだ川船の風にきしむ言葉で 愛を奏でるのだ
その時ひとは愛を何に変えたのか――そして声は沈黙した
棍棒のひと打ちが虚空に跳ねるように
穏やかなひとつの歌がありもはや亀裂はなく
柱時計はなく
下流に狐があり
人形はなく
遠くに別の人形がある
私は何なのか私は何を避けるのか
アザレアの門の向こうにまたひとつの門がある


        「ツァラ詩集」 浜田明訳(思潮社)より


dadaの中心人物であったが、そのグループの詩人では大変、親しみやすい(というかエモーショナルで詠み易い)。
過激で知的なのも面白いし刺激的なのだが、こういう詩が好きだ。



なお、このシリーズ?はここまでにしたい。
明日から通常の形態に戻る事にする。
(と言っても毎回、好き勝手な記事を載せているだけであるが(笑)。



Close Cover - Wim Mertens ~ 「近似的人間」


”Close Cover”
ベルギーのレーベル、クレプスキュールから大昔に出された曲。(いつだったか、、、)
ミニマル・ミュージックの作曲家ウィン・メルテン(ウィム・メルテンス)のもの。
その当時は、Soft Verdict名義でこの”Close Cover”が「ブリュッセルより愛をこめて」というアルバムに収録されていた。
次の”4 mains”も実に彼らしい繊細でエモーショナルなミニマル・ミュージックのひとつ。

”The Fosse”が特に有名だが、アルバムMaximizing the audienceに収められている。
彼は作曲、ピアノだけでなく、作詞もする。
ここでのヴォーカリゼイションも際立っている。(女性ヴォーカル)。


単に曲紹介でも、この季節からいって良いかとも思うのだが、わたしはこの曲で昔、遊びをしていた。
結構、彼の曲は詩の朗読のバックに使える。
わたしは、トリスタン・ツァラの「近似的人間」のバックにかけていた(笑。
レコード(塩化ビニールの)からテープに移しリピートをかけて。
当時は、いい感じに思えたが、、、。


出だしと最後の一部分だけ引用、、、。

日曜日 血のたげりを抑える重い蓋
ふたたび見出された自分自身の内面に沈みこみ
身を閉じ うずくまった一週間の重み
鐘は理由もなく鳴り
鐘を理由もなく鳴らせ そしてわれわれもまた
われわれは鐘とともにわれわれの内にうち鳴らす
鎖の音を楽しむだろう

われわれを鞭うつこの言葉の作用は何なのか われわれは光のなかで戦慄する
われわれの神経は時の手がもつ鞭であり
そして疑惑が彩色のないただひとつの翼をつれて訪れ
他の時代からの苦い魚たちの遊泳への贈りものの
崩れた包みの皺だらけの紙のように
われわれのなかでみずからを締めつけ圧迫し みずからを圧しつぶす

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夜の暗い吐息が濃くなり
血脈に沿って さまざまな存在の層の
音階に移調されて 海のフリュートが歌う
もろもろの生は原子の微細にいたるまで無限にそして高く
無限に高く繰り返され それゆえわれわれは見ることができないのだ
この生を傍らにしながら われわれは見ないのだ
紫外線のかくも多くの平行な道を
われわれが通ることができたかも知れぬ道を
われわれをこの世界に導かなかったかも知れぬ道を
あるいは 遥か昔にあまりにも遥か昔に発ったゆえに
時代も土地も忘れ去られ 土地がわれわれの肉を吸いつくし
塩と金属と井戸の底の透明な液体だけを残し去ったかも知れぬ道を

私はいま 言葉がその核のまわりに織りなす熱のことを
われわれの名である夢のことを 考えるのだ





                「ツァラ詩集」 浜田明訳(思潮社)より


久々に詠んでみた。
これもひとつの鑑賞法かも、、、。

娘たちのピアノ発表会

piano001.jpg

昨年は長女の発表会であったが、今回は次女も加わった。
次女は昨年は、発表会をする人数のいない個人教室に通っていたが、今年から姉と同じ教室になった為である。

まだ、はじめてちょうど二年目で、欲もなくただ教室に通わされているレベルである。
こんなふうに、みんなが弾くところをみれば、刺激を受け意識も変わるかと期待できる機会ではあった。
他の生徒がどれくらい弾くのかは、普段ほとんど分からない。
教室に送りに行った時、前の子の演奏が少しだけ聴けたりすることはあるが。

全体的に、皆よく弾けていた。
ときめきを感じる演奏もあった。
うちの子のものではない(笑。
正直、うちの子の演奏は、聴きに行ってそれはないが、出来れば聴きたくない。
と言うより、聴いていられない。
ドキドキものである。だいたい、うちで聴いているからもうどんなものかは知っている。
だが、参加しなければならないため、来ているという感じだ。
しんどいというのが、率直のところ、、、。

しかしこの第一部で、ショパンまで聴けるとは思わなかった。
(第二部になると、高校生や大学生も加わり、難曲が披露されるというが)。
車のBGMでよく聴いていた『千と千尋の神隠し』のテーマソングの「いのちの名前」や今気になっている「エリーゼのために」があって印象に残ったようだが、「いのちの名前」は完璧に弾きこなされていた。
お決まりのことなのだろうが、途中何度も止まり、こちらがヒヤヒヤしてしまう子もいた。
どの子についても、親の立場に半ばなってしまっている。

うちの娘も、確実に一箇所ずつ間違えている。
しんと静まり返った本番に際し、しっかり弾きこなせるだけの実力を身につけていなければならない。
先は長い。自覚までは、まだまだ。
うちの子と同じくらいの年格好の少年が、補助のペダルをつけてもらって「小さな黒人」をきれいに弾いていたのには、参った。
あれくらい弾きたいと思ったみたいだ、、、。ドビュッシーはやはり何を聴いてもよい。
知らなかった曲だが「演奏会用練習曲」(中田喜直作曲)という曲も腕前を見せられる曲に思えた。
弾いてる子の表情が如何にもという感じで、同じ作曲家の「エチュード・アレグロ」も聴かせた。(すぐ後で知ったが、こういう発表会では、定番曲のようだ)。
定番というかよく弾かれるものでは、ブルグミュラーの「バラード」もあり、耳に馴染んでしまう。
「いのちの名前」以外にもこのステージではなかったが、「となりのトトロ」や「もののけ姫」などの久石譲ものは必ず何曲かは入るようだ。
しかし、運動会ではないし「クシコスポスト」はちょっと聴きたくない。(トトロも運動会の定番だが)。

最後はショパンの「ワルツ」とブラームスの「4手のためのハンガリー舞曲」が締めであったが、聴き応えがあった。
演奏者はもう中学生のようだったが、風格を感じた。

何が一番良かったか、と聞いたら、「お人形の夢と目覚め」が長女で、次女は「乙女の祈り」だそうだ。
「エリーゼのために」でも「いのちの名前で」もなかったようだ。
実は、それらの曲に2人ともかなりのこだわりを示していたのだが。
実際に聴いてみると、良いと思う曲が幾つも発見できたらしい、、、。

普段、家でほとんど触れることのない曲を身近に感じられるお友達が弾くのを聴く機会は大切である。
正直、次女があんなに背筋を伸ばして、長い時間鑑賞が出来るとは思わなかった。
親と違う席というのもよかった。


しかし、沢山の人の中で、ステージ上に自分の子の演奏を聴くというのは、まだまだしんどい、、、。
しんどくない時が来るとは思えないと、つくづく思う。
蛇足だが費用も、前年度より遥かにかかった。(これもしんどく感じた)。
勝手にお花をグレードアップしたのは、こちらの都合であるが、参加費も上がり、昨年度は自分の子供の写真・ビデオ撮影はOKであったのが、今年は一切禁止とされてしまった為、かなりお高い業者物を買わざる負得なくなってしまった。
送料含め、馬鹿にならない。自分のカメラで撮れれば全くの、タダである。

年に一度のことで、細かいことはどうでも良いのだが、何よりお花をステージ上で持てなかったのは少し残念であった。
会場にすら持ち込めなかったのだ。
受付にお預けである。
それも禁止となってしまった。(お花の大きさが不揃いなのが問題のひとつのようで)。
ちょっと世知辛い。

プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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