リバー・オブ・グラス

River of Grass
1994
アメリカ
ケリー・ライカート監督・脚本・製作
リサ・ボウマン、、、コージー(30歳の主婦)
ラリー・フェセンデン、、、リー(だらしない男)
ディック・ラッセル、、、警官の父親(元ドラマー)
スタン・カプラン
マイケル・ブシェーミ
モノローグが少し煩い。
喋り過ぎ。
言葉なんてうんとそぎ落として寡黙に淡々といっても伝わる。

とは言え、大変不快な映画であった。「草の川」まさにその通り、、、。
いつもは、こういう言い方をする時、映画の不出来に関する文句であるが、監督の思惑通りの作品に仕上がっていてその点では見事。だがその描く世界が余りにも不快なのだ。
わたしの世界に似ているから(爆。
その意味でやり切れない。
こんなもの観て、どうすればよいのよ?
責任取ってもらいたい。

ここで、それぞれヒロインやその父やらのやってることは、誰にも届かない。
独りで誰の目にも耳にも届かないところで、しかし何者かに向け、やっているのみ。
お化粧したり踊ってみたりドラムをたたいてみたり、、、
だからある意味、モノローグも(形式上)効いているのだが、、、。
ホントの意味で孤独で虚無で不毛。
不毛な想像と白昼夢。子供と家族から離れてどこかで違う人として生きたい、、、みたいな。
鬱屈しながらそんな気持ちで自堕落に暮らしていたが。30にもなってわたしって何者なの、とかいう思いも過る今日この頃(爆。
そして或る時、何となく何者かでありたいと想う~願う。
クルマに轢かれそうになるリスクは犯した。
では、この弾みで行ってしまおう、と、、、。

その車の男とその先のバーで出逢う。母と祖母と暮らす何もしてない男だ。
お互いに虚無的なぐうたら同士で直ぐに打ち解けるが。
盛り上がるようなもんじゃない。
希望とかそういうものが芽生えるような関係は生じようもないふたり。
ただ、この男、友達が銃を拾っていて、実はこの女性の父の落としたモノなのだ。
その銃を何処かで売れよと託されて持っている。
この娘は最後までその銃が父のモノとは気付かない。

ただこのようなぐうたら男が銃を持つとろくなことは無い(のが世の常)。
酒を呑んで女は帰ることにするが、男が何としても友人の家のプールが使えるから30分ほど泳いで帰ろうと誘う。
余りにしつこいため、泳ぐことにしたのが、面倒の始まり。
断る時に断れないのが日頃の生活によって培われた特性だ(オーバーか?
基本、動けない人間ほどこういうものだ。わたしがそうだからよく分かる。
そして、たまたま銃を握りプールサイドに腰かけている時、その家の主が現れ、引き金を引いてしまう。
夜だから当たったかどうかよく分からないが、そして引き金も二人で押さえていたからどちらが引いたものか、、、弾みで引いたのは間違いないが。
(そもそもオヤジの銃だと分れば直ぐにそれをとりあげていただろうに)。
ビックリして塀を飛び越え、ふたりして一目散に車に乗って逃げる。
さてよく見るタイプの虚無的な男女の破滅的な逃避行かと思うが、ちっともピリッとしない。
(しかしよく赤ん坊ほったらかして何処か遠くに逃げるなんて気になれるな)。

女の方は、犯罪者となったことで、ワクワクする。
何でもないモノから何者かに昇格したのだから。
という感じで、このまま行けば何処かでダーティーヒロインとして死ねるか、というところまでは、ちょっと(笑。
モーテル住いで逃げてはみるが、いつもと変わらぬ世界の表情に戸惑う。何が変わったというほどのものではないのだ。
そして男はこの前侵入した家に偵察に行くが、警察には訴えてはいたが主人はピンピンしており、殺人犯にはなっていないことを確認。なっていればこんなに温い逃亡劇などあり得ない。高速道路に入る際に料金所で金が払えずすごすごとUターン。
しかし警官には今度は小銭を用意しろよ、気をつけてな、とか言われる。
そして男は遅ればせに彼女に伝えた。死んでいなかったと。
彼女の中にぷつんと切れるものがあった。
この男それでも彼女とこの先、生活を共にする気で、北に行ってどうしようこうしようみたいなことをクドクドと喋り始める。
咄嗟に銃で男を撃ち助手席から放り出し、最初銃の見つかった場所にほぼピンポイントで捨てる(笑。
この離れ業も誰が知るものでもない。当人も全く知らぬことだし。(神の視座にいる)われわれが知るのみ。
全てがそんなもの。全てがそんなものなのだ。
そして走り去ってゆく、、、。スタイリッシュに決めた。
よく出来た映画だが、面白かったり爽快だったり気づきがあったりとか言う映画ではない。
お前の世界もこんなもんだろ、と監督に着き付けられているような作品だ。
実際こんなもんだから腹が立つ。
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