プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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ノートルダムのせむし男

Notre Dame002

The Hunchback of Notre-Dame
1939年
アメリカ

ウィリアム・ディターレ監督
ヴィクトル・ユーゴーNotre-Dame de Paris原作
ソニア・レヴィン脚本
ロバート・ワイズ編集

チャールズ・ロートン、、、カジモド(ノートルダム大聖堂の鐘つき男、せむし男)
モーリン・オハラ、、、エスメラルダ(ジプシー娘)
セドリック・ハードウィック、、、フロロ(司教補佐)
エドモンド・オブライエン、、、グランゴワール(詩人)
アラン・マーシャル、、、フェビュス隊長


中世のパリの光景が大変印象に残る(15世紀のパリ)。
特に夜のノートルダム大聖堂の存在感。
ファサードの再現性も高いではないか。
それと同等の存在感をもったせむし男Quasimodo(不完全)。
レリーフ像の数と多彩さにも眩暈を覚える。カジモドもその一つみたいであった。
しかし彼の鐘を突くシーンは凄い。
その激しさと身軽さは、まるでゴリラみたいだ。

Notre Dame001

エスメラルダが最後まで馴染めなかったのは分かる。
彼女は、詩人のグランゴワール、司教補佐のフロロ、王室射手隊の隊長フェビュス、そしてカジモドから好意を寄せられる。
消去法でいってグランゴワールとなろう。
フロロとフェビュスは論外であるが、フロロが最も厄介な輩であろう。フェビュスはどこにでもいる女たらしに過ぎないにしても、これにひっかかったことでとんでもない事態となる。

Notre Dame003

この映画は原作とは異なり、エスメラルダは処刑を免れハッピーエンドである。
カジモドの勇敢で直接的な働きは大きい。彼がいなければ原作のように違う形であるが殺されていたに違いない。
筆の力で世論を形成し王に決断を迫ったのはグランゴワールであり、彼のお陰で彼女は正式にパリに暮らすことが出来た。
ふたりの力があってこそであり、グランゴワールは彼女と結ばれる。
カジモドはレリーフのように孤独のままであるが。
悪魔のそれと並んだ姿が見分けがつかないところが、実に絵にはなる。
彼も「石になりたい」と呟く。そう特異な無機質感がある、、、。
彼はこの地上で何であるか。あえて言えば鐘を突くレリーフであろう。

Notre Dame003

地球は丸いということに対する根深い猜疑や印刷術に対する教会(権力者側)の脅威や不安もよく表されていた。
確かに当時の統治側一般としては、民衆に本を読まれて賢くなられては都合が悪いのは分かる。
その点、ルイ11世は開けた人だと思った。
科学とテクノロジーの味方である。大したものだ。

やはり一番大したものは、完全にカジモドになっていたチャールズ・ロートンであった。
演技も演出もディテールまで文句なしだが、この特殊メイクも素晴らしい。
彼は、何か受賞でもしているのか?これだけやって何もなかったらおかしい。

女の心の動きがよく分かった。






寝ても覚めても

Asako I II001

Asako I & II
2018年
フランス・日本

濱口竜介 監督
田中幸子、濱口竜介 脚本
柴崎友香 原作
tofubeats 音楽


東出昌大、、、丸子亮平 / 鳥居麦
唐田えりか、、、泉谷朝子
瀬戸康史、、、串橋耕介
山下リオ、、、鈴木マヤ
伊藤沙莉、、、島春代
渡辺大知、、、岡崎伸行(ALSになる麦の親友)
仲本工事、、、平川
田中美佐子、、、岡崎栄子


携帯を捨てる。
それまでの全てを捨てる。
決断をしているように取れるが、、、
寝ても覚めても(悪)夢の中なのだ。
外には出れない。

Asako I II004

確かに感謝と愛とは違う。
好きというのは、いつも微妙。
好きというのは、自分に言い聞かせるときに使う。
好きにならなければ、、、。
本当に好きな他の誰かを意識の底に沈みこませる時に使う。

成長した気になっていたけど、、、
目が覚めて、わたし何も変わっていなかった。
何度も目が覚めた。
亮平の運転する車の中で。
麦の運転する車の中で。

同じように車が途中で止まり、気づく。
自分の目覚める方向はどちらなのか、、、。

Asako I II003

ずっと怖かった。いつかそうなるかと思っていた亮平。
麦は亮平やない。帰らないと、と言われあっさり晴れやかな表情で別れを告げる麦。

彼女との関係を常に恐れる男と何も恐れず飄々と自分の世界を生きる男。
顔がそっくりなだけ。
地道に生きる男と夢の中を通り過ぎる男。
実際、どちらに惹かれるかは彼女次第。
どちらも悪夢の中のひとつの様態に過ぎない。

Asako I II002

あやふやな、どこか間違っていると感じていた彼女は、「間違いでなかったことをしたかってん。その時は。」と言う何か安定した現実感に触れたかった。亮平にはその安定~安心感がある。
しかし、どこからともなく現れいつの間にか去ってゆく面影にも、その実体のない煌めく夢の方向にも絶えず引っ張られてゆく。
どちらも夢だが、どちらの夢を選ぶか、である。

最後に朝子は、とても力強く確信を持った目で、亮平の世界で共に生きることを決意する。
彼にもう信じては貰えなくとも、彼に甘えず自分を生きることに決めた。
亮平も、もう関わらないと言っても彼女の飼い猫をすっと飼っていたのだ、、、。
ふたりの仲はそのまま漸近的に元へと収束するのだろう。
元の夢へと。



朝子の寝ても覚めても居心地悪い夢の中にいる感覚はとても共感する。
わたしにとっても、この世界はなにひとつ確かなものも信用できることもない悪夢に等しい。

Asako I II005

主演のふたりは物語を延長しそのまま不確かな夢の中を踏み迷って行ったようだ。


山下リオに意外なところで逢った感じ。相変わらず素敵である。
主演のふたりは、この危うい幻想世界を見事に演じ構築していた。
この世界を表わすのにもっとも適した主演者と思われる。



めがみさま

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2017年

宮岡太郎 監督
大月もも 脚本
主題歌SHE'S「Ghost」
松本淳一 音楽

松井玲奈、、、佐倉 理華
新川優愛、、、ラブ
廣瀬智紀、、、川崎 拓海(ラブのマネージャー)
梅舟惟永、、、三坂 あゆみ(雑誌記者)
西沢仁太、、、鹿島(ラブのセミナー会員)
西丸優子、、、相田(ラブのセミナー会員)
片山萌美、、、高鷲 尚美(理華の同僚)
鈴木ちなみ、、、ショップ店員
筒井真理子、、、、佐倉 市絵(理華の母)
尾美としのり、、、尾沢欽一(三坂の上司)


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酷い毒母に育てられる(うちとおっつかっつだ(爆)。
娘の自立性(はおろか自律性を)も認めない母。
(この母の特徴がまず表されるシーンが隣から聞こえてきた赤ん坊の泣き声に酷く腹をたてるところ。本源的な欲求や瑞々しい生命力という他者性を認めない)。
仕事に就いてからもその支配下から娘は抜け出ることが出来ない。
完全にがんじがらめとなっており、無力で卑屈な曖昧な笑みを浮かべる弱者に貶められて生きる。
母子家庭のようだ。佐倉 理華という娘。

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そんな身体性を抱えもって生きているため、母にされたであろうような仕打ちを周りの人間からも絶えず反復される。
片山萌美女史が悪役やっているのは、ちょっと嫌だが(爆、こういう上から目線に常に痛めつけられることが常態化していた。
虐められても誰も助けてはくれないが、それ以前にちゃんと自己を主張し、周囲に対し被害を訴え救援を頼む姿勢が彼女には欠如している。
しかしこれは仕方ないことで、母のお陰で主張するだけの自己が形成されることがなかったのだ。そして健やかな人との関係性を育む機会が与えられずに来てしまったため、自分に起きたことを正当に周囲に伝える、生きるための基本スキル~コミュニケーションスキルがなかった。
やられたらそのまま。そのまま反論もせずクビとなる。
家に帰って母にしょんぼりその件を話すと、単に責められ、この出来損ないが、みたいな罵倒されるだけ。

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ストレスは勿論、大分以前から溜まりまくっており、もう極限状態に達したか。
夜中にムックリ起きてパソコンに向かうと、モニターに自分の別人格が現れた(投影された)。
これだけ自分を抑圧して、ほぼ亡き者として生きていれば、乖離したもうひとりの活きの良い人格が無意識下から忽然と飛び出て来てもおかしくはない。本人はこれまで内省的な人間ではなかった為、単に外に現れた人と受け取って対話することとなる。

彼女と公園で話をして感銘を受け~自分が本当はそうありたいという話をラブという幻想~インターフェイスを通して知り、彼女のセミナーに行く(実際はどういう形で整えられたのかは分からぬが、理華=ラブ主催のセミナーである)。
そこでラブの口から理華の本心を聴く形となり、大いに感激する。
自分自身に目覚めてゆく。

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橋の欄干から飛び降り自殺しようとしていた青年を思いとどまらせ、彼をセミナーに呼ぶ。
ラブの言葉に強い感銘を受けた青年は彼女のマネージャーとなり運転も受け持つ。
ラブと理華はルームシェアして暮らし相方として活動を進めてゆく。
マネージャーとなった青年に理華は密かに思いを寄せるが、彼はラブに恋をしている。
理華はラブに嫉妬心を抱く。ラブはある意味、理華の理想形でもあり見た目は大変美しい(新川優愛だし)。
しかし活き活きしてきた自分にも自尊心が芽生えてくる。
これまでまず抱かなかったであろう感情が湧き、かなりの回復を感じさせるところ。

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川崎を間にラブに対して、少し距離感を感じ始める理華であったが、それ以上にラブの言葉と実際の行為の隔たりに戸惑い始める。
最初、出逢った頃のことばには、説得力しか覚えなかったのであるが、、、。
「赤ちゃんみたいに泣き叫ばなければ、誰にも気づかない」。「ことばを呑み込んだ分、振り回されてきたのよ」。
「何を捨てても自分だけは捨てられない。裏切ってはいけないのは自分なの。自分のこころに耳を傾けなさい」。
「変わらなくていい。開放するの」。
理華はめでたく家出する。

そして、、、声を上げろ。状況を変えろ。我慢しない。
という掛け声から、ラブ自身も、セミナーの濃いラブ信奉者たちも、まるで子供の仕返しみたいな幼稚で粗暴な行動に出る。
いつも必ず、ラブと理華は一緒にいるが、誰もがラブしか見ておらず、理華に視線が向かないのは、ラブが投影された理華を観ているからだ。人々の中では理華そのものは見えていない。あくまでも理華であるラブに接している。

誰も理華がラブの代役でインタビュー、取材、セミナーで語っても、それに気づかない。
表向きは同一人物であり、内的にかなりの乖離が顕わとなり、双方がそれに気づいてきていた。
であっても、語る内容は同じところから湧き出ている。
その点では、破綻はない。
つまり代役は見事に熟している。

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しかし彼女に習い、セミナーの人々のやることと言えば、相手の人格を無視した暴力的な仕返しであり、一つ間違えれば人身事故や法にも触れる行為に及ぶに至る。
自身も苦しみ葛藤しながら取材に取り組む雑誌記者の三坂がたまたまラブを取材することになった。自分の立ち位置から彼女らを観て、明らかな幼さ自我~自己が成立しないところで単に粗暴な自己主張だけ繰り返しており、彼女は独りよがりで社会的に容認できないものとして告発しようとする。
(この幼い本源的欲求とも取れるものは、子供時代に抑圧され疎外された欲求であろう。ただ、この生々しい欲求がそのまま受け入れられることは赤ん坊でなければ不可能であり、社会化された要求へと昇華されなければならない)。

三坂の真っ当な見解もラブにマインドコントロールされた集団の前では無力であった。
揉み合いになって倒れた三坂を縛り上げて車に乗せ殺害して自分たちを守ろうとするラブについに理華は耐えきれず反旗を翻す。
理華は三坂の主張に共感する部分が大きくなってきたのだ(以前のインタビューの時に比べて)。
しかし三坂はテープを解き車から飛び出したところでトラックに轢かれ死んでしまう。
三坂にも自殺願望があり理華と同様に精神安定剤を常用していた為、取材中であったとは言え彼女の自殺、または妄想がもとの事故と言う形で処理される。

理華は実家に帰り母とはっきりと対峙する。決着をつけるところまでは行かぬが、初めて思い切り自分の本心をぶつける。
毒母が何を謂われたところで改心することはないが、これまで通り娘を思うように操れなくなることだけは認識したはず。

漸く理華は、乖離した自己と決別して、苦難をしっかり受け止められる自立した自己として生きてゆく決心をする。
ラブを取り込んで~子供時代の欲求を承認したうえで、自立した大人として他者と対等に生きる姿となったのだ。
セミナーで、もうラブはいません、と宣言する彼女。
理華は、一つの自我に統合された。

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梅舟惟永という存在感ある女優が光った。
勿論、松井玲奈と新川優愛の熱演は言うことないが。
それから梅舟惟永の上司、編集長?の尾美としのりがとても劇を引き締めていた。
更に友情出演の筒井真理子の毒母振りの凄さはホントに強烈であった。
他人事とは思えない臨場感と共感を得た(爆。
梅舟惟永という女優の他の作品も見てみたいものだ。

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書道ガールズ!! わたしたちの甲子園

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2010

猪股隆一 監督
永田優子 脚本
岩代太郎 音楽
FUNKY MONKEY BABYS「大切」主題歌

成海璃子、、、早川里子(書道部部長)
山下リオ、、、岡崎美央(書道部部員)
桜庭ななみ、、、篠森香奈(書道部副部長)
高畑充希、、、好永清美(書道部部員)
小島藤子、、、山本小春(書道部部員)
森崎ウィン、、、市ノ瀬誠(書道部部員)
森岡龍、、、中野卓也(書道部部員)
坂口涼太郎、、、村上悟(書道部部員)
市川知宏、、、高田智也(里子の幼なじみ)
金子ノブアキ、、、池澤(書道部顧問の臨時教師)
愛媛県立三島高等学校書道部
埼玉県立川口高等学校書道部
埼玉県立松山女子高等学校書道部


ホントに書道パフォーマンスしていた。
「書道」はよく行く(今は全然行けないが)美術館でもやっているし、その一気呵成に描かれた龍雅で精妙な造形に魅了され暫く見惚れてしまうものだ。
ここで彼女らによって書かれた文字もなかなかのものだと思う。
大きな筆で体力も相当消耗するはず。わたしがやったら必ず腰に来る。
女優も大変な職だと思う。
ピアニストの役柄でホントに弾いてる人もいるし。

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この物語は実話を元にしたものだという。
愛媛県四国中央市は紙の街として知られ、製紙工場の煙突は街の何処からでも見えるシンボルにもなっていた。
そんな街だが、不況の影響で商店街は軒並みシャッターが降りて店じまいの張り紙が淋しく貼られてゆく状況。
最大の売りである上質の紙も安い紙に押されて売れない。
不活性な雰囲気が至るところに蔓延して閉塞感を漂わせていた。
この物語の愛媛県立四国中央高等学校の書道部も主力部員が母親の入院で進学を諦めアルバイトのために部にも出れなくなる。
書道部は、何とかかつての書道部のような活気を取り戻したいともがく。

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絵をパフォーマンスで描くことはもうすでに歴史がある。
このライブのパワーは確実に見るものに衝撃を与える
独り籠って自分に向き合い描き進めその結果を見せるものとは異なるエネルギーの迸りがある。
より感覚の研ぎ澄まされる場の高揚も生まれるのでは。
生成されてゆく過程を目の当たりに出来ることは、音楽を聴くような一回性の感動を齎す。
作者と観客の恍惚的な一体感も生まれるだろう。

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これは造形芸術のひとつの在り方だと思う。
特に書き直しの利かない書道は、このようなパフォーマンスに適している。
だらだら長引かないところも良い。
観ていても気持ちよいものだ。
それが個ではなく団体の対抗戦の形式で行われるのは、スポーツ的な要素も入りより見応えも増す。
フィギュアスケートや新体操の競技の観戦にも近い要素はある。

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この高校の発案で始まった書道パフォーマンス~「書道甲子園」がそのままずっと続いていることは、その価値が人々にしっかり受け容れられているためだろう。
この催しで、町興しがどれほど出来たかはさておいて、人の気持ちが活性化され創造的になることが出来ればきっと良い結果が齎されるものだ。
あの大きな丈夫で破れない高品質の地元の紙がふんだんに使われていたが、売り上げに繋がっていっただろうか、、、。
注目が全国的に広がることであろう。
まさに「再生」である。

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この大会を考え付き、益々盛大なものにしてきたこの書道部の功績は大きい。
ただ、わたしは岡崎美央が大学進学を断念して将来の書道の道も危うい状況のままで終わってしまったのが残念であった。
山下リオは薄幸な美少女という役回りが多いのだろうか、、、。


自分が真にやりたいことが、外的条件により断念せざるを得ない。
立ちはだかる現実。これは、何にしても辛いことだ。
最後の思い出に大会に出場したくらいで、諦めがつくとは思えない。








Rise Up ライズアップ

Rise Up005

Rise Up
2009

中島良 監督
入江信吾 脚本

林遣都、、、津屋崎航(わたる)
山下リオ、、、柳沢ルイ(盲目の少女)
太賀、、、梶裕哉(ひろや)わたるの親友
青木崇高、、、柳沢誠一郎(ルイの兄)


主役トリオがとても瑞々しい。
ほぼありえないような巡りあわせにとても強引な運びであるが、それでも役者が良いと魅せてしまう良い例。

わたしも「太陽って暖かいのね」と涙できる感性で日々を生きたい。

Rise Up003

パラグライダー、盲目の美少女、カメラ、、、。
この三つが揃えば、ドラマは出来るな。
ロケ地がまた良い。

特別な上昇気流“ライオン”に乗ればきっと自分は変われると信じる航。
最後はその航と一緒にパラグライダーで風に乗るルイ。
カメラが趣味であった彼女は、事故で盲目となった後、彼の影響でまた撮り始めた。
高みに上がり、太陽の暖かさを感じてシャッターを押す。

Rise Up001

間近に立つ航の顔を撮る際に、ルイの心象風景における彼の顔が写真に納まる~重なる瞬間のVFXが素敵であった。
これから彼女は盲目の写真家として歩んで行くのだろうと想える。
ひろやもいいやつだが、なかなかここまでの親友というのも、、、貴重である。
航とルイの出会い自体、その因果も含め確率的に在りそうもないものだし、、、あってもよいが。

非常に場のエネルギーが高まっている状態に思える。

何というか若い感性がキラキラしている、そんな映像であった。
ここのルイみたいな少女をツンデレというのか?
ルイ程可愛くないと単に途中で見捨てられそうだが(笑。

Rise Up002

ルイが趣味にしていたカメラは、事故で盲目になってしまった後で処分を頼んでいたモノだそうだ。
それがまだ家に保管されていたことを知り、彼女は逆上してその大切だったカメラを床に叩きつけて壊してしまう。
だが、あることで失意にある彼女を何とか元気にしたいということから、わたるはそのカメラを修理して彼女に手渡す。
わたるに見せた彼女の対応がまず普通のものであろう。嫌がらせなの?と怒り撥ねつける他は考えにくい。
そこから、どういった心の動きがあって、再び撮ってみたいと感じるようになったのか、そこの過程を繊細に描くことは、もうちょっとして欲しいところであった。この部分こそ、この映画の臍の部分だし。

Rise Up004

彼女は撮る対象も撮った写真も見ることは出来ない。
それでも写真を再度、始める決心をしたのは、、、。
確かにその決心をしてから、彼女の外界に対する態度・姿勢が変わった。
こころを強張らせ閉ざしていた他者に対し自分から進んで関り、親切にしてくれた老人に被写体になってくれることを頼むまでしている。
今の自分の身体性を受け容れ、そこを元に新たに積極的に環世界に対して関係を切り結ぼうとしたのだ。
決意後の姿勢はよく分かる。
そして、、、何といってもパラグライダーであろう。
感性が開かれ受容性が高まり、それで”ライオン”に航と一緒に乗れたらきっと感じられるものは、とても広大で美しく暖かいもののはず。
まさにアルタード・ステイツである。

こうした体験から以前の視覚とは異なる感覚が冴えわたってくるかと思われる。
その(拡張)感覚で捉えた写真というのも面白いものになるかも知れない。
そういったことに想いを馳せる機会ともなる映画であった。

Rise Up006

物語の中で流れる「月の光」は良いとして、エンディングの歌はやめてもらいたい。
邦画はどうもエンディングに全てをぶち壊すようなヴォーカルもののポップスをガンガン入れてくるものが多い。
止めて欲しい。


林遣都の演技のぶっきらぼうなところがとてもフィットした物語であった。
山下リオは何の役で出ても存在感があり素晴らしい。








オープン・ウォーター

Open Water002

Open Water
2003年
アメリカ

クリス・ケンティス監督・脚本


ブランチャード・ライアン
ダニエル・トラヴィス


実話であると。

海へとバカンス。二人の男女カップルで出かけるが、どちらも多忙な仕事の合間と言う感じ。
かなり沖のダイビングスポットで楽しくダイビング。
淡々と地味に進む。

タップリ水中の魚やウツボなどを愉しんで水面にポッカリ浮かんでみたら、自分たちの乗って来たボートが影も形もない。
文字通り、海の真ん中に男女のカップルが取り残される。
浮かんでいるだけで波に少しづつ流されてゆく。
とは言え、こんな状況で下手に泳ぎ体力を失ったら大変だ。
成す術もなく偶然通りかかるボートに手を振るが、向こうからは全く気付かれない。遠くて見えないのだ。

Open Water007

徐々に焦燥感が高まり、不安が増してくる。
そうこうするうちにクラゲに刺される。とても痛い。
上下に揺れているうちに酔って気持ちが悪くなる。
様々なパタンの波の動きが映されてゆく。
大海原という自然の真っただ中で、何と人は小さく無力なものか、、、
(これ程説得力のある映像は無い)。

暗くなってくる。
ふたりは何時しか眠ってしまう。
そのうち別々に流され離れてしまい、お互いにパニックになる。
幸い程なく二人は一緒になれた。
しかし安心できる要素は何もないのだ。
長時間水中にいたために足も釣る。
寒さも感じるようになってきた。

Open Water001

突然、大きなサメが威嚇するように寄ってくる。
もはや恐怖しかない。
陸に上がりリゾートを愉しむ人々の姿が明るく対照的に描かれる。
二人の孤絶感と寄る辺なさが際立つ。

Open Water003

暗くなってきて大海原にたった二人、、、。
発狂を誘う。
男が叫びまくる。
女の方は肝を据えた感じであるが、、、。
このじわじわ来るスポットの当て方は効果的だ。
サメが沢山寄ってくる。
恐ろしさが言い争いを誘うが、直ぐにお互いの愛情を確認し合う。
それでも、何に手を振っても無駄。

Open Water005

海の真ん中に取り残された二人にずっとフォーカスするこの手法は効果的だ。
すぐ下には大きなサメがうようよ。
そしてついに男の方がサメに噛まれる。
血を流しているとサメは放っておかない。
太陽が沈む。
もう海原は真っ暗。

Open Water004

誰も彼らに気づかない。
誰も彼らの不在に気付かない。そういうことはあるのだ。
ボートの人員確認などこんなものか、、、。こうした隙間は実は日常のあちこちに潜んでいる。
ちょっと浮上時間に遅れて上がったくらいで、、、。ちょとしたズレが原因で、、、
見捨てられることもある。


翌朝になって、残された荷物からボートの管理者が気づき、捜索が開始されるが、、、
男の方は噛まれた傷の悪化からか力尽き、女は静かに男を手放す。
もはや諦観を漂わせる女。
独りで漂流する女の間近にはサメの群れが取り巻いている。
すでに運命は決まっていた、、、
女が忽然と水面から消える。


後日、捉えられ解体されたサメの体内から二人が使っていた水中カメラがゴロっと出てくる。

海の怖さ。
充分に堪能した。



AmazonPrimeで、どうぞ。




緑園の天使

National Velvet001

National Velvet
1944年
アメリカ

クラレンス・ブラウン監督
セオドア・リーヴス、ヘレン・ドイッチュ脚本
イーニッド・バグノルド原作


エリザベス・テイラー、、、ヴェルヴェット・ブラウン(馬好きの少女)
ミッキー・ルーニー、、、マイ・テイラー(父を亡くした後、放浪の旅に出ている)
ドナルド・クリスプ、、、ハーバート・ブラウン(ヴェルヴェットの父、肉屋の主人)
アン・リヴィア、、、ハーバート・ブラウン夫人(海峡横断)
アンジェラ・ランズベリー、、、エドウィナ・ブラウン(ヴェルヴェットの姉)


エリザベス・テイラー当時12歳。うちの娘と同年齢ではないか、、、。
うちの娘もしっかりしてほしい。

1920年代イギリスの物語である。
馬が大好きな少女ヴェルヴェットはルーニーという流れ者と荒馬を調教して、障害物競争の練習を熟し、何と騎手としてグランド・ナショナルに出場して優勝を果たす。
女子と言うことがあとでばれるが、ゴールした後気を失い落馬したことで失格となったこともあり、お咎めなしとなる。
(優勝したのに失格となりその上、逮捕は厳しすぎる。イギリス人は英雄には寛大ということらしい)。
ニュースになり各方面から話題沸騰。
「優勝騎手は、何と少女だった!」
映画の主演もアメリカから舞い込んでくる。

景気の良い噺だ。
当初馬に反対であった父親も浮かれる。
気持ち良い。
こんな映画もたまには見ないと、、、

National Velvet004

馬のことばかり考えている少女。
夢中になるモノがあることは素晴らしい。
その夢が人生を切り開いてゆく。

唯一引っかかったところは、マイが配達する肉を粗末に扱ったところ。
路に肉を落として犬に喰いつかれた肉を拾って配達である。あんな肉食えない。

末っ子がいつも嘘の病気や怪我で家族の気を引こうとしているところなど脇を固める兄弟姉妹はよいアクセントになっていた。
母はかつて海峡を横断した名選手であったそうだが、奇しくも放浪の旅人マイの父がそのコーチであったという。
馬の絡みと言いもう偶然とか生易しいものではない。
母は受容性が高く達観したとても頼れる人である。
ヴェルヴェットの物怖じしない自分の思いに素直に突き進む性格はこの母譲りであろう。

National Velvet002

荒馬を持て余したオーナーが1シリングのくじで馬を手放す。
ヴェルヴェットがそれを当てる。
その名馬の原石が手に入ってからは毎日、マイがコーチとなり障害レースの練習に明け暮れる。
母がそれらに対して常に背後から支えている。
海岸沿いをヴェルヴェットが途轍もない能力を秘めた馬パイと駆け抜けてゆく。
このシーンは見事なロケーションで気持ち良い。
(あの歳で馬をこれ程乗りこなすというのも凄い。菅井さんより凄そう。飛び越えシーンも本人なら)。

National Velvet003

女子なのでレース時には、騎手を雇わなければならないが。
結局、頼んだ騎士がいけ好かないやつだったため、落馬事故でトラウマを抱えているマイが乗ろうと意を決するが、髪を惜しげもなくバッサリ切って男になりすましヴェルヴェットが乗ることになる。
マイの立派なところは、ヴェルヴェットの決意をいつもそれは正しいと尊重し後押しするところだ。
この信頼関係は大きい。ヴェルヴェット~パイ~マイの連携は無敵となった。
その効果で、ヴェルヴェットは自分の能力をどこまでも伸ばしてゆくことになる。
周囲の懐疑的な目も惹き付けていってしまう。


この点だけでわたしは、この映画に満足してしまう。
こうした関係性を築いて行きたいものだ。
そして何といっても最後の障害物レースのハプニング続出のハラハラドキドキのレースが面白かった。
確かにいくら強気の少女でも、こんなレースを制したら感動より驚きで卒倒してしまうだろう。

今度娘たちと一緒に観たい。












囚われ人 パラワン島観光客21人誘拐事件

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CAPTIVE
フランス・フィリピン・ドイツ・イギリス
2012年

ブリランテ・メンドーサ監督・脚本


イザベル・ユペール、、、テレーズ・ブルゴワン(NPO団体職員、フランス人)
カティ・ムルヴィル、、、ソフィー・バーンスタイン
マルク・ザネッタ、、、ジョン・バーンスタイン
ルスティカ・カルピオ、、、ソルダット
マリア・イサベル・ロペス、、、マリア・ポリカルビオ
ティム・マバロ、、、ハメド
レイモンド・バガッツィング、、、アブ・サヤフ


まさに「捕虜」である。
フィリピン南部では身代金目的の誘拐は、実入りの良いビジネスとなっているという。
2001年5月に、フィリピン・パラワン島リゾートで21人の観光客が、イスラム武装勢力アブ・サヤフによって誘拐された事件の実録映画である。
演出を感じないドキュメンタリータッチの淡々と進む映画である。
激しい銃撃戦が突発的に起こるのに、何故かとても静謐な印象であった。

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フィリピン政府の救援部隊かと思うと、ゲリラも人質もお構いなく銃弾を浴びせかける。
人質がバタバタと撃ち殺されて倒れてゆく。これでは無差別射撃ではないか。
しかもゲリラが身を隠している病院に対して撃ちまくってくる。入院患者をどう考えているのだ。
民兵や武装集団もあちこちに潜んでおり、直ぐに銃撃戦となる。
恐らくアブ・サヤフに賞金がかかっているのだ。
しかしここでもゲリラ以上に人質が犠牲になる。

至る所に銃を携えた者が潜んでおり、銃が直ぐに発砲されるこんな場所があるのを実感する。
人質とは言え、最初に身代金が取れそうもないと分かった時点で殺される者も。
金蔓と判断されれば、ゲリラと共にジャングルの中を果てしなく移動し続ける羽目に。
この映画の人質たちは7か月以上をジャングルを連れまわされて過ごす。
都会人がジャングルで過ごす過酷さ、、、。
気力を保つことも難しい。

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ジャングルの中を逃げ惑うことの不安と恐怖に加え、、、
衛生状況は酷い。まともな食料もない。水にも不自由。
ヒルはいるし、病気もあり、怪我をしたら致命的だ。
薬草を噛み砕いたものを傷口にくっつけて処置する。
これでは銃弾で負傷したらもうおしまいだ。
足手まといになると判断されれば物陰に呼ばれて銃殺である。

兵士は、教育も受けていない子供がかなりの数を占める。
(そのまま大人になった兵士が彼らを指導している)。
銃の使い方だけ知っている。
ジャングルが教育の場だ。
考えてみれば凄い共同体だ。
このようなところで人質になったら、まず命がいくつあっても足りない。

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銃による暴力は絶対的だ。
これには、少なくとも民間人は言うなりになるしかない。
これに立ち向かえば、すぐさまハチの巣である。
そして人質になれば、全員射殺されるか、奴隷となるか、イスラム教に改宗して平和に暮らすか、税金を払って自分の宗教で暮らすかを選ばされることとなる。
射殺は初期において金にならぬと判断された場合であるにせよ、脅されて改宗したところでまともには暮らせまい。

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ムスリムのテロリストが世界貿易センターに突っ込んで多数の犠牲者を出したことをラジオで知り、ゲリラたちが歓喜に沸く場面もあった。
同志の功績である。
(ホントは違うが)。
ジャングルにあっても、情報のやり取りはかなりある。電話で身代金の相談も細かくしていた。

こんな場所に突然メディアが入ってきてレポーターが取材をして帰ってゆく。
人質のインタビューを撮って。これも何かの(政治的)取引の一環であろう。
この事態を政府や他の国が把握していない訳ではないのに、人質を助けることが出来ないという奇妙な事態が成立している。
単に停滞しているのか。

学校でゲリラたちが休憩をとる場面もあった。
子供たちが学ぶ場に、凄い人相の物々しい銃を掲げた男たちが入って来るのだ。
しかしそうした事態にも子供たちは和んでいる。特に緊張が走る訳ではない。これが普通なのか。

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テレーズ・ブルゴワンは最後に本格的な救援隊がやって来て保護されるが、まだ年端もいかぬ少年兵ハメドをしきりに気にしていた。
彼女もフランスに子供を3人残している。
7か月以上も共に暮らした、自分の子供と同年代の少年である。かなり重ね合わせて気にしている様子であった。
彼は幼い頃、自分が学校に行っている間に、両親が家で殺され、その後ゲリラ組織で育てられたという。
子供にとって、過酷な社会~環境である。

テレーズ・ブルゴワンはよく助かったものだ。


フィリピン人監督ブリランテ・メンドーサが、まずイザベル・ユペールをヒロインとしたうえで考えて作った映画であるという。
彼女がヒロインをしない訳にはゆかぬが、見事に演じ切っていた。









キューブ CUBE


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Cube
1997年
カナダ

ビンチェンゾ・ナタリ監督・脚本
アンドレ・ビジェリク 、グレーム・マンソン脚本
ヤスナ・ステファノビック美術


モーリス・ディーン・ウィント、、、クエンティン(黒人警察官)
ニッキー・グァダーニ、、、ハロウェイ(女性精神科医師)
ニコール・デ・ボアー、、、レブン(数学科の学生)
ウェイン・ロブソン、、、レン(刑務所の脱獄プロ)
デヴィッド・ヒューレット、、、ワース(設計技師)
アンドリュー・ミラー、、、カザン(自閉症、数に強い)
ジュリアン・リッチングス、、、オルダーソン(最初に骰子のように独楽切れとなる)

以上全員、キューブの中に閉じ込められていたことに気が付き、脱走を図る。


大変、インパクトがあった。
後の映画に相当な影響を与えていることが分かる。
この映画のシーンを真似たものをよく見る。


間違いなく傑作である。

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われわれ誰もが、気づいたら不可視の悪意のある法の支配のただなかに放り出されていた。
勿論、その法(システム)はその共同体~CUBEによって異なるにせよ、トラップ(罰)は多彩で大掛かりな仕組みになっていることは間違いない。
大概の者は、不安に慄く。

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誰もが何で自分がこんな目にあわされるのか、と本質的な疑問は抱くも、まずは目先の障害に対処するしかない。
余裕が与えられていないのだ。立ち止まっていれば餓死してしまうだろう。
世界~法は、それ自体の法則で罰を下し機械的に動いているだけ。

こんな時、知はその動く法則を捉えることに役立つ。
ここでは、それが初期においては、「素数」がポイントであった。しかし、それだけでは現実の解読には不十分であった。
今度はそれが「因数」であることに気づき、謎の数値の3つの塊が空間座標を示すことに思い当たる。

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これで世界の動きの法則と自分たちのいる相対的位置が判明し、トラップ(罰)の回避も可能となった。
だが、それでこの世界が鮮明になり過ごしやすくなるわけではない。
われわれは気づいた時から、その身体性において極めて過酷な状況~世界に囚われているのだ。
ここに慣れる訳にはいかない。
地獄からはっきり解かれなければ、外部を夢見ながら早晩そこで死ぬしかない。

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大きな問題は、人は狭い意味での知のある一定の領域において同調できても、価値の絡む感情的な面では、危機的状況に投げ入れられた者同士で相容れることは難しい。この幻想領域において、個々の肥大した幻想が生理的な面からも互いに強い拒絶反応を示すということだ。
主導権を握った者が自分にとり異質の存在の弾圧・排除に走る。
このシステムの中にあって、機械的トラップで死んだ者は、最初の2人だけである。
その後、死んだ4人は、自分たちの幻想(妄想)を膨らめ、その悪意を相手に投影したうえでの殺し合いによるものだ。
過酷な法によって充分に追い詰められた結果にせよ、殺戮は生の人間同士でなされる。
(それを確かめるための大掛かりな検証システムなのか)。

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これの目的も思想も背後の存在~権力も何も分からぬまま(何かのきっかけで)それぞれ無責任な分散された個々の仕事の集積により自動的に組み上げられた巨大な殺戮空間~キューブが構築され、任意に選ばれた人を入れて作動していた。監視はされているのかどうか、、、神の立場は存在するのか。
あっけらかんと。この宇宙の成り立ちみたいに。ただ成立して作動する空間なのかも知れない。

カザンみたいにあらゆる党派、イデオロギーから無縁で、しかしアスペルンガー的特異能力を持ち、世の中から特別な保護が得られる立ち位置というのは、生存にとって有利な気がした。


漫然と生きている場所をデフォルメ~異化して観易い形にすると、その邪悪な異形の姿があからさまになって来る。
それは、人間そのものの姿であった。




AmazonPrimeで、、、



吸血怪獣ヒルゴンの猛襲

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ATTACK OF THE GIANT LEECHES
1959年
アメリカ

バーナード・L・コワルスキー監督
レオ・ゴードン脚本


ケン・クラーク,
イヴェット・ヴィッカーズ,
ヤン・シェパード

パッケージを観た時、昭和30年代の日本怪奇映画のような雰囲気を感じた。
アメリカ映画にも似たようなものがあるのか、と興味が湧き見てみた。
文字通り、怖いもの見たさ、、、以外の何ものでもない。


画面が暗くてよく分からない場面が多い。
これだけ暗ければ、ディテールも誤魔化せるが。
バックミュージックが長閑なディズニー調だったりする。
意味のない効果音が気になった。
(ヒルゴンが動いてるぞ、というものなのか)。

雰囲気で察するしかない部分が結構ある。
特に「ヒルゴン」のフィギュアだ。そもそもヒルゴンなんて勝手に名をつけてよいのか?これでわたしも和風映画を連想してしまった。
何だか形態がよく分からない。この映画より古いゴジラがあれほどの雄姿を誇っているに比べ。
よく部分的に見せるだけだったり、わざと霞ませたり、シルエットだけや一瞬だけ見せるようなパタンはあるが、ボコボコ現れているのにその実体が掴めない不定形な形なのだ。と言うと聞こえが良いが、上手く着ぐるみが作れなくて、覚束ない形で見切り発車したみたいな、、、。素材もどういうもので作ったのか(薄手の黒ビニールみたいな)、、、手抜き感が半端ではないものなのだ。

だが、噺自体詰まらないわけではない。ある田舎街の沼地で起きた怪物騒ぎを科学者の父とその娘婿の環境保護管が意見の対立しながら解決して行くものである。
しかし科学者の方は、ダイナマイトで爆発だ、を主張するばかりで、何とも言えない。
ついでに保安官であるが、沼地で死んだり行方不明になった者は皆ワニに襲われたことで片つけようとする。
この沼にはワニは全くいないそうだ。
ともかく正体不明の怪物に怯える者と真っ向から否定する者との間で不信感と不安が募る。

「ヒルゴンの猛襲」と謳っているが、沼に夜とか日暮れ時に入って来た者を引きづり込んで水中に出来た空洞域でチビチビ血を吸っているヒルゴンである。猛襲なんて言うほどガツガツしていない。

結局、威力のあるダイナマイトを沼底に仕掛け、それを環境保護管がレバーを押して、ヒルゴンを退治して終わる。
なかなかあっさりした潔い決着であった。義父と婿の和解も出来娘としてもハッピーか。博士は勿論、満足気であった。

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ちょっと引っかかるところ疑問点が幾つか、、、ダイナマイトの博士の最初の爆破で、ぽこぽこ3人水面に上がって来た男たちであるが、彼らはその直前までヒルゴンに血を吸われながらもまだ生きていたはず。検死官も行方不明になっていた数日前に死んだのではなく、まだ死んだばかりだという見解を示している。
彼らは博士の仕掛けたダイナマイトで死んだのでは、、、。

とても威力のある二度目のダイナマイトで怪物を吹き飛ばしたが、その前に保護管とお友達が2人水中に入ってヒルゴンとちょっとばかり闘ったりする。そこでかなりの傷を敵に負わせる。
水面に上がってきてから、相当深手を負わせたぞ、とか岸にいる関係者に叫び、更に息の根を止めに行く。
だが、保安官をはじめ、ヒルゴンの存在を知らない、或いは否定している者が多い中、まずヒルゴン~ヒルの突然変異体が実際にいたという報告をすべきだろう。それを巡って、もめもしたのだし。
その際に空洞域から水中に落ちた女性が水上に上がってくる。
彼女も寸前まで生きていたのだが浮かんできたところで、ボートに乗せはしたがその後ほったらかしだ。
真っ先に救急措置を取るべき対象ではないのか、、、。あれでは結果的に死んでしまったかも。

ヒルゴンが、アクティブでなさ過ぎる。仕掛けられて反撃すべきところで、全く何もしない。
ここは、これだけやられた分、猛然と襲い掛かるだろうという期待は全て潰れる。
ここが演出上も不思議なところで、迫力、スリルを削ぐところだ。
推測だが、あの妙なもたつく着ぐるみみたいなコスチュームでマメな動きがとても出来ない事情だったのでは。
水中でダイナミックな動きを出すことは、かなり難しいものだし工夫のいるところだろう。

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博士はヒルゴンは夜行性なのだ、と言っていたが、昼にも出て来たし、夜に行方不明者捜索隊が一杯やって来ても出てこないわで、夜行性かどうかは結局不明であった。あれは単なる仮説ということでよしと。頭の固い娘婿にヒルゴンの存在を力説してきた功績は大きいものだし。しかしヒルゴン陸に立つともうヒルでも何でもない形であるが、、、。血の吸い方がまさにヒルと言うことなのか、、、

この娘婿だが、危険な正体不明の怪物が出没する沼をボートに乗って探索するときに、妻を相棒に引き連れてゆくものか、、、。
ヒルゴンが全力で襲い掛かってきたらどうするつもりなのか。この危機管理のなさは、全く義父の考えを無視しているにせよ、問題ではないか。


こんなことを挙げてゆくと幾らでも出てきてしまうが、酒場を経営する男とその若い妻と間男の三角関係を全体が短い尺の中にあれほど印象深く挿入するのはどうしたものか。ヒルゴンが若い妻と間男を襲って沼の中に消えたものを保安官が信用せず、浮気された為、怒って妻と男を撃ち殺したと逮捕され、夫は獄中自殺してしまう。この悲惨なエピソードがちょっと重くてヒルゴン噺が褪せてしまうのだが、、、。
周りが化け物をなかなか信用しない、と言うレベルのエピソードならもう少し軽めでよかったのでは。
三角関係のもつれをあの熱量で演じられると何の映画だったか分からなくなる。

それから役者がかなり大根揃いの気がしたが、、、。


色々出てきてしまったものだが、結構面白かった作品ではある。
一回、見る分には良いのでは、、、。


ナイアガラ

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Niagara
1953年

アメリカ

ヘンリー・ハサウェイ監督
チャールズ・ブラケット、ウォルター・ライシュ、リチャード・L・ブリーン脚本

マリリン・モンロー、、、ローズ・ルーミス
ジョセフ・コットン、、、ジョージ・ルーミス(ローズの夫)
ジーン・ピータース、、、ポリー・カトラー(新婚旅行中の女性)
ケイシー・アダムス、、、レイ・カトラー(ポリーの夫)
デニス・オディア、、、スターキー警部
リチャード・アラン、、、パトリック(ローズの愛人)
ドン・ウィルソン、、、ケターリング(レイの会社の社長)


ロケーションは、何といってもナイアガラの瀑布である。立派な虹がかかっていて観光客は皆、水浸しである。
庭に娘と水撒きしていても、虹はかかるが、こちらのスケールは違う(笑。
ただ撮影技術の限界か、少しこじんまりとした視野・視界に感じた。

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ここではモンローはセクシー路線。しかも悪女。非常に悪そうな目つきである。モンローウォークもご披露。
周りの視線を一身に集め、ムーディーな歌まで披露している。(今後の路線も敷かれてしまった感があり後で苦悩する)。
そこへ夫がレコード盤をムキになって外し、盤を素手で割って手をケガする。
これでどういう夫婦か察しがつく。
事業に失敗し運のない夫が必死でローズに縋りつくが、さらっと交わされ痛い目ばかり見ている日々の象徴か。

妻が手引きして夫を愛人に葬らせようというパタンはよくある。何度も見た覚えがある。
それの最初の映画だろうか。
たまたま出逢った新婚夫婦に夫の落ちぶれようと精神衰弱振りを印象付けようと何かと接触してくる。
奥さんのポリーは、その正義感や真面目さから何かと関わってしまう。

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鐘の音が殺人成功の知らせというのも、、、なかなか粋なものか。
(殺す前に離婚ではダメなのか、、、素朴すぎる疑問だが)。
その合図で、一緒に高跳びだ。
しかしあの鐘は、たまたま鳴った(鳴る時間だった)のだろう。
それを勘違いしてニコニコ歩いてゆくモンローいやローズ。
夫が行方不明なんですと警察に駆け込み、死体安置所に行って見てびっくり。

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考えてみれば(考えないでもそうだが)このルーミス夫婦厄介者である。
頼られる、というより利用される新婚のカトラー夫婦は飛んだとばっちりだ。
たまたま出逢った新婚のカップルが何でこんなに親切にこじれた夫婦の世話を焼く必要があるのか。
しかも新婚さんは自分たちの予約した部屋をルーミスに譲っている。

案の定、旦那のレイは、ルーミス夫婦に対してブチギレたが。
もう巻き込まれないぞ。と言うが最後の最後逢で巻き込まれる羽目に。

遺体はローズの愛人のパトリックの方であった。
旦那は愛人を返り討ちにし、事の次第を悟り、不気味な雰囲気で戻ってくる。
その真相をロッジの入れ替えによって偶然知ってしまったポリーという構図。結構上手いと思った。
ポリーはその為、最後まで付き合う羽目になる。
このパタンも後の映画で見たことがある(愛人は返り討ちにあうものだ)。

遺体を観て卒倒して病院に入院したローズは暫く鐘楼の音に魘される。
もう生きた心地ではないローズは、病院を抜け出して逃げようとするが、殺されかけた夫から追われる身。
一気に緊張感が高まる。
しかしローズの逃走劇は、警察にも気づかれた為に検問が至る所に出来、夫の待ち伏せで逃げきれずあっけなく終わる。

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建物の暗がりで、ローズの落とした口紅がライトのように光っているところなど、、、無常さ、悲痛さが際立つ。
ディテールの演出が細やか、、、。
愛していたのに裏切られローズを手に掛けてしまったルーミスの絶望に同調できる。
モンロー、いやこのローズの魅力に取り込まれ身を滅ぼした男である。
俳優がまた上手い。

ストーリーも面白い上に、かなりのサスペンスで、よく出来ている。
最後のルーミスが奪ったボートに丁度ポリーが乗り合わせており、途中でボートの燃料が尽き漂流をはじめてじわじわと滝壺へと吸い寄せられてゆくところは圧巻であった。
流れに乗るのを遅れさせるためルーミスはボートを浸水させてゆく。
これは、岸からパトカーの中でその様子を見ていたレイが舟を沈めろと声を絞り出したのに呼応したかのよう。
結局、ポリーをルーミスが滝の縁にある岩場に辛うじて乗せ、自分は急速に滝壺に向かい、真っ逆さまに落ちてゆく。
この様子にポリーは目を覆う。
彼女はヘリに助け上げられる。

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この大きな自然の流れの中では、何事もなかったに等しい、人の些細な出来事であった、、、。
人の音が全て轟音に掻き消されていることも無常感を高めていた。

モンローの魅力はこういったファム・ファタールものより他の映画にこそ、たっぷり見られる。
(別にこれが悪いとは言わないが)。





美の祭典

FEST DER SCHONHEIT-OLYMPIA TEIL II001

FEST DER SCHONHEIT-OLYMPIA TEIL II
1938年
ドイツ

レニ・リーフェンシュタール監督
ヘルベルト・ヴィント音楽


外で体操競技をやっている。何とも言えない開放的な競技場である。
体操競技の技術は飛躍的に難易度は増したことが分かる。
しかし、この体操が古臭く稚拙かと言うとそうは思えない。
運動競技の本質(原質)を思い起こさせるような厳粛さを感じさせ魅入ってしまう。
チョコマカと小難しいことを目にもとまらぬ速さでやってみせるアクロバティックな動きより重厚さで唸らせる。
他に、ヨットレースにせよ乗馬、ポロ競技、フェンシング、射撃にしろ、的を得た接写とスローモーションの演出効果は大きい。
音楽も程よく乗る。過剰さはないが適度に盛り上げてゆく。
選手の表情のアップも見事に捉えられている。
突然挿入された唖然とするほどの数の女子による集団体操。
この後に始まる10種競技辺りから、陶然として競技に酔いしれてしまう。
構成・展開も綿密に計算されている。音楽もぴたりと合わせてくる。

FEST DER SCHONHEIT-OLYMPIA TEIL II004

麻薬のような流れに乗ってしまう。
起伏や緩急のあるリズム、、、。
ここでも男子高跳びが凄い正面飛びなのだ。
ちょっと今見ると、こそばゆい。
(「民族の祭典」の時から、この競技がクセになっている。わたしにとって、とても美味しい競技なのだ)。

競技時間が長引き日が傾いてくる。そんな光量の足りないところが幻想と陶酔を呼び込む。
ホッケー、クリケット、サッカーと陸上競技に絞った「民族の祭典」と異なり、様々な競技がこのパートⅡ「美の祭典」に集まっている。
スローモーションが効果的に使われていた分、自転車競技のスピード感が際立つ。
メリハリが効いている。
そして馬術の映像の美しさ、ダイナミックさ、、、キャプテン(騎士)がよく転げ落ち、見応えがあった。
噺に聞く、キャプテン・バロン西の雄姿も拝めた。古い記録フィルムの価値である。
ボートレースでのあのアップは、競技中の撮影はまず無理であり別個の特別撮影に違いない。
アナウンスもかなりアフレコだと思う。
しかしそれが臨場感と緊迫感~プレザンスを生んでいる。
更に飛び込み競技はもう芸術である。この思い切った自在な構図。幻想的だ。何かのプロモーションビデオ(今ならCM)のようにも見えてしまう。
こんなオリンピック映像をこれまで見たことがない。

FEST DER SCHONHEIT-OLYMPIA TEIL II003

水泳では、日本がかなり気を吐いている。
男子日本人選手の競泳の姿がかなり捉えられている。
飛込競技でも日本女子選手の爽やかな笑みが印象的だった。
この頃は、水泳と跳躍競技で日本勢が活躍していたことが分かる。

FEST DER SCHONHEIT-OLYMPIA TEIL II002

これはまさに、よく出来た映画である。

ナチスのプロパガンダ色は微塵も感じられない映像であった。
しかし淀川 長治氏の言うように、この見事な映像で日本人はドイツ贔屓になった、という説もあながち突飛なものでもなく、全て観終わると説得力を感じてくる。

この映画の批判でよく寄せられる、完璧な肉体の賛美がナチズムに呼応するといった類のものがあるが、各国から集まったこれだけの選りすぐりのアスリートを躍動感溢れる映像で表せば、結果的にそう見たければ、そのように見えてもおかしくはない。



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