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グランド・イリュージョン

Now You See Me001

Now You See Me
2013年
アメリカ

ルイ・ルテリエ監督

ジェシー・アイゼンバーグ 、、、J・ダニエル・アトラス(マジシャン“フォー・ホースメン”のリーダー)
マーク・ラファロ 、、、ディラン・ローズ( FBIの特別捜査官“フォー・ホースメン”を追う)
ウディ・ハレルソン 、、、メリット・マッキニー(メンタリスト“フォー・ホースメン”の一員)
メラニー・ロラン 、、、アルマ・ドレイ( ICPOのフランス人捜査官ローズと共に“フォー・ホースメン”を追う)
アイラ・フィッシャー 、、、ヘンリー・リーブス(マジシャン“フォー・ホースメン”の一員)
デイヴ・フランコ 、、、ジャック・ワイルダー(若手マジシャン“フォー・ホースメン”の一員)
コモン 、、、エバンス(FBIの特別捜査官。ローズの上司)
マイケル・ケイン 、、、アーサー・トレスラー(世界的な大富豪“フォー・ホースメン”のパトロン)
モーガン・フリーマン 、、、サディアス・ブラッドリー(マジックの種明かしを行うことで有名な老マジシャン)


トランスポーター』の監督ということで、カーチェイスはまさにそれを想起するものであった(笑。

最初の出だしのインパクトは凄い。
とんでもないマジシャンが何かを仕出かすぞという煽りは充分であった。
派手でスタイリッシュでまさにトリッキーな映画であろう、、、。
正直惹き込まれた。

だが、印象は次第に変わって行く。

この映画はスケールの大きい鮮やかなトリックで度肝を抜くシーンを楽しむものである。
確かにそうなのだが、具体的にどうやって準備~実行に漕ぎつけたのか?
また、それら~金の巻き上げをやる意図もよく分からない。

その大掛かりなイリュージョンの仕掛けを彼ら“フォー・ホースメン”が如何にして発想・計画・準備・作成を実際に行っていったのか、個々が実際にどう手分けして動いたのか、外注を出したにしてもそれはどのパートなのか、どうやってその大きな仕掛けを秘密裡に仕込み隠蔽できたのか、その辺がすっぽり抜け落ちていて、ただ映画として舞台をCGを駆使したVFXで繋いでいる為、今一つ入り込めるリアリティがない。
あれだけの大掛かりな仕掛けをするには、相当な仕事が必要なのは言うまでもない。
謂わば、彼らの舞台裏~種が見たいのだが、われわれも映画の中の観客と同様に本番舞台しか観れないというのもどんなものか、、、。ブラッドリーが推理する部分は一部出てくるが、実際どうなのか全くのブラックボックスなのだ。
あのリーダー格のアトラスの上滑りの軽薄さが余計に際立ってしまうではないか。
ホントにこんなことの出来る連中なのか、、、という気持ちが次第に強まり距離感が生まれて来る。
パリから来た男性に、メンバーが次々にイメージを植え付けてゆく過程があったが、少なくともあれくらいの説明がイリュージョン実行までの流れに対して欲しい。
(出来る連中とこちらにしっかり思い込ませるプロットが抜けている。結果だけを単にCGで見せるだけでは、そこで演じる彼らがとても嘘くさく見えてくる)。

Now You See Me004

ということで、最初の異様にスタイリッシュな煽りに惹き込まれ大いに期待して行くが、途中のお得意のカーチェイスなどで気を引くものの、どうにもペラペラな展開にシラケが強くなり、、、何だったんだという虚しさが残る。
こういう映画だからこそ、地にしっかり足を付けている人物が必要ではないか?
皆、抽象的な存在なのだ。
特に“フォー・ホースメン”が誰も、いけ好かない。
黒幕であったローズが何年もかけて周到な計画を練ったとドレイに漏らすが、もしそうだとしても“フォー・ホースメン”とそれこそ周到な打ち合わせをしなければ実現できまい。彼らはそんな立場にない(ローズの意図も正体も知らない)し、暇も余裕もない。
更に、計画を緻密に立てた割に命からがら必死に走って逃げる場面が多すぎはしないか?
カーチェイスでワイルダーを死んだと見せつけるあんな手の込んだトリックをする必要があったのか?

そして極め付けが、FBIの捜査官でありながら、詐欺師集団“フォー・ホースメン”を結成させ、自分の父親の仇を討たせるとは、一体いかがなものか?この姿こそイリュージョンなのかい?
それを最後に聞かされたインターポールのやり手女性捜査官が、「それは知らなかったことにしましょ」とか言って落着である。
あんなに必死で任務遂行に賭けていたはずなのに、この腰砕けは何なのだ?ちょっと親しくなったくらいで、矜持というものがないのか?

Now You See Me002

この女性の存在も半ば謎のままであった、、、ただ極めて綺麗な捜査官ではあった、、、それも怪しい。一体何者だ!
更に余裕綽々の大物2人の扱いである。スポンサーの有力者で大富豪のトレスラーと如何にも引き出しを沢山持っている感じのその道の大家ブラッドリーが、あっけなくハメられて、それまで、というのもどうなのか、、、(大御所に失礼ではないか(爆)。

そして最後の最後に4人に送られたカードを合わせて木の幹に当てるとメリーゴーランドが回り出し、その中にいたローズに「おめでとう、君たちを『ザ・アイ』のメンバーに迎えよう」と言われ4人は「あなただったのか!」と感激する。どうやら4人は『ザ・アイ』(本物の魔術師集団)に入るのが目的で一連の金の巻き上げ(入会の為の試練?)をしていたのか、、、マッキニーは金さえ入ればもう知らないみたいなことを言ってはいたが。
ローズに導かれ皆笑顔で達成感に浸っている、、、あれだけドタバタと犯人を追って来て、このローズのマッチポンプぶり一体何なんだという感じである(怒。
『ザ・アイ』を出すからには続編があるのだろうが、ちょっとねえ、、、。

Now You See Me003

登場人物たちにこれ程、違和感を抱く映画は無かったと思う。


物語、役柄自体が非現実的なのだ。
まさに全てがイリュージョン、、、根も葉もない。



ボーン・アイデンティティー

The Bourne Identity001

The Bourne Identity
2002年

アメリカ

ダグ・リーマン監督
トニー・ギルロイ・ウィリアム・ブレイク・ヘロン脚本
ロバート・ラドラム『暗殺者』原作

マット・デイモン 、、、ジェイソン・ボーン
フランカ・ポテンテ 、、、マリー・クルーツ
クリス・クーパー 、、、テッド・コンクリン
クライヴ・オーウェン 、、、教授
ブライアン・コックス 、、、ウォード・アボット
アドウェール・アキノエ=アグバエ 、、、ニクワナ・ウォンボシ


マット・デイモンは好きな役者なので、これは観ておかないと、、、と思い観てみた。
オデッセイ」では植物学博士がとても似合っていた。あれは良かった、、、。

こちらは、サスペンス・アクション映画か。
このカーチェイス観ると、自分でも何か粋な車に乗ってやってみたくなるではないか!
ミニクーパーでよくあれだけ乗りこなせると感心した(例えスタントが入っているとしても)。
途中で壊れると思ったが最後まで走り切ったのでホッとしたものだ。
わたしはシトロエン2CVあたりでやってみたい(笑。
走り出してすぐ解体かもしれないスリルも味わいながら、、、。
ルパン3世のルノーもいいな、、、。
兎も角、カーチェイスのインパクトがあった。

The Bourne Identity002

この映画全てのアクションがリアルでよい。
最初の海にジェイソン・ボーンが浮かんでおり、漁船に救出されて弾丸をナイフで抜き取られる生々しさからしてそうであるが。
実際あるようなことではないのだが、映像の上でのリアルさがとてもあり、そこにグッと惹きつけられる。
記憶喪失でありながら訳も分からず次々に自分の命を狙って敵が襲ってくる畳み掛けに弛むところがない。
ジェイソンの状況がそのようなものである為、更にスリリングさが増す。

他の凄腕エージェントとの闘いも緊張感と臨場感タップリだ(特に倒したと思った敵が急に背後に直立したときなど観ていて仰け反ったものだ(爆)。
ただほとんどの場合が殴り合いのファイトか出合い頭の銃撃戦が多く、特殊な装置や罠や緻密な策略で相手を倒し唸らせるような場面はなかったように思う。
だが迫力あるダイナミックでスリリングな躍動感は充分に感じられらた。
やはりこのタイプの映画の醍醐味が堪能できる。

The Bourne Identity004
ジェイソン暗殺に送り込まれるエージェントたちも皆、如何にも凄腕のエリートという感じで、キャラが立っていた。

記憶喪失で登場するが、身体はそれまでの全生活史を漏らさず蓄えており、自動(反射)的に外部刺激に対して俊敏に応答~対応する。
考えても自分が何者か思い出せないが、他者との様々な関わりを通して自分のアイデンティティのイメージが浮かび上がって来る。
この過程は確かにそういうものだろう。われわれの生活レベルでもそういった認識場面は確実にある。
そして彼は自分がかなり特別な際どい仕事に携わっていることが分かって来るのだ、、、。

後に知ることになるが、要人暗殺などの目的の為、多額の経費によりCIAによって育成された戦闘員なのだという。
スパイ~諜報員というのは、(冷戦時は特に)各国にいたことは実際に知られているが。
この闇に隠れた政府の陰謀組織みたいな存在が工作員を世界の各地に暗躍させ、他の権力中枢を壊したりコントロールするというような噺はネタとして余りにありきたりではある~まだこの当時は新鮮味があったかも知れないが。
だが携帯とパソコンのアナログモニターはノスタルジックで良かった。
(この雰囲気は好きである。ゾクゾクする(笑)。

ストーリー自体には複雑な事情やハプニングも特になく、丁寧に練られ手堅い演出で一気に畳みかける類のよく出来たドラマであった。
ジェイソンは要人暗殺任務の際、ターゲットが子供3人と一緒に寝ていた為、撃ち殺せず、反対に自分が銃弾二発を喰らい海に落ちてしまい、意識の戻ったときは記憶を失っていたのだ。任務をしくじった工作員は組織に消される運命にあった。

ジェイソンが結果的に巻き込むことになったマリーという存在であるが、やはり足手まといとなる部分は当然あるにしても、彼独りでは出来ない働きもしてくれ、かなりこころ強かったはず。
マリー自身も彼と僅かに接触を持っただけで、自分が見えない権力に見張られ調べ上げられていることに激しく動揺していた。
(このエシュロンの脅威は、やはり幾つもの映画で取り上げられている。「エンド・オブ・バイオレンス」、「デジャヴ」、「エネミー・オブ・アメリカ」、「ワールド・オブ・ライズ」等々)。
女性の協力者~同伴者は、相手からは丸見えで、相手の見えない極めて神経をすり減らす孤独な逃亡にとって大きな支えとなったことが分かる。

The Bourne Identity003
このシーンのみ、緊張感が足りなかった気がする。
生命の危機の場面であるが、何だか妙な余裕が感じられた。

マット・デイモンのマッチョ系作品であるが、他のアクション俳優とは違う繊細な陰りと知性の感じられる雰囲気で一味違うものになっている。
俳優の存在はホントに大きい。
しかしその点で見ると相手役の女優が今一つしっくりこなかった。
マット・デイモンの相手としては存在感がどうにも弱い。
クリス・クーパーは如何にもという感じで、一番のはまり役に思えた。
彼も最後は歯車の一つに過ぎなかったという形であっさり始末されてしまう。その悲哀も充分出ていた。


疲れず見応えも感じられる映画の一つであった。
余りコンディションの良くないときでもワクワクしながら観られる作品である。






ブルーム・オブ・イエスタディ

The Bloom of Yesterday001

Die Blumen von Gestern(The Bloom of Yesterday)
2007年
ドイツ・オーストリア

クリス・クラウス監督・脚本

ラース・アイディンガー、、、トト(ホロコースト研究者)
アデル・エネル、、、ザジ(ホロコースト研究インターン)
ヤン・ヨーゼフ・リーファース、、、バルタザール(トトに対立する同僚)
ハンナー・ヘルツシュプルンク、、、ハンナ(トトの妻)


ホロコースト映画にみられる、シリアスな暗さと湿り気、何より当時を回想した物語の悲惨さや衝撃の類(再現)はない。
そうした定型のドラマ性(それは真摯な制作姿勢かも知れないが)を排している。

アウシュビッツ会議の企画を進めているホロコースト研究者のところに若いインターンの女性がフランスからやってくる。
目的意識は一致するも、彼らは家系から謂えば加害者と犠牲者の関係にあった。
二人は逢った先から大いに揉める。彼女はベンツのガストラックに拘っているが、何の理由でというより、送迎の車が彼女の情緒不安定な攻撃性のトリガーになったに過ぎない。兎も角、常時何かにつけ過剰な反応を示す(爆発する)。
自分の祖父がナチスの党員であった事実や自分のユダヤ人の祖母がナチスに殺された事実が自らのルーツとして彼らを病的に苦しめて来ていることが窺える。
それにより思想以前に身体的苦痛に苛まれている。
トトにしても、自分が研究の中心から外されたことに腹を立てバルタザールと大喧嘩になり、その最中、彼らの敬愛する教授が死んでしまう(この暴力性は耐性の低さだけでなく性的な歪みも見て取れる。非常に性的レトリックを多用した罵り合いなのだ)。
これはほぼ、アイロニカルでコミカルなドタバタ劇スレスレを行っている。

情緒不安、暴力(攻撃)性、インポテンツ、脱毛、繰り返すリストカット(自殺未遂)、等々、、、。
更に(特異な)性衝動にも顕著にあらわれてくる。
それも両極端な形で。
片や不能となり妻にさえ他の男を紹介するまでに至っており、黒人の女の子を養子に迎えている。インターン女性の方は、逆に性に対し非常に奔放であり、ドイツに来るなり、トトと強く対立するバルタザールといつの間にか関係を持っている。
(これにはわたしも驚いた)。

トトは自分の家系がナチス党員であっただけで、彼は17歳の時それに気づき脱党している。だが家族のしたことに対する罪の意識は強く、その為に研究家となったが、如何せん関係書籍を読み漁り歴史書を書くだけでは一向に苦痛~罪悪感は癒えない。その出口なしの閉塞感はトトにもザジにもあり彼らの不安定と暴力衝動または自傷(自殺)衝動にも繋がり、性的メカニズムにも深く刻まれ、違う形にせよ(苦痛を伴う様態)で表出して来るのか。
何れにせよ、ホロコーストのような陰惨な歴史のトラウマが性衝動に対して深い影響を与え得ることが窺える。
(少なくともこの映画はそれを強く訴えている)。

Adèle Haenel001  Adèle Haenel002

午後8時の訪問者」の物静かで内省的な医師を演じていたアデル・エネルがここではアグレッシブで壊れかけた研究者となっている。
かなり危うい。
車に乗っている最中口論となり、咄嗟に犬を外に放り投げてしまう。
そういう基調だ。これは常軌を逸している。
犬(ガンジーという教授が飼っていた犬)もたまったものではない。

The Bloom of Yesterday002

後半、ザジの持っているアルバムでトトの祖父と彼女の祖母が同じクラスであった事が明かされる。
実はそれを知った上で、祖母を殺した人間について調べるためにザジは、トトのの元に来たのであった。
だが、それによって二人が親密になり、関係も持つ。
きっと子供が出来たという霊感が働き、その子の名前を「カルミナ」にしようと決める(半ば冗談ではあるが真剣に)。

二人が結ばれるかという時にそれを察知したバルタザールの妨害工作が入る。
彼はナチス戦犯のトトの兄について調べ上げていた。
その件をザジにわざわざ知らせるのだ。
周囲がこの調子であり嫌気もさし、彼女はトトの今後の研究生活のことも考え彼の前から消える。
(バルタザールのような同僚と共同研究は到底無理であろう。トトはアメリカに拠点を移し人種融合研究所で同様のジェノサイド等、先住民虐殺の歴史研究をする)。

The Bloom of Yesterday003

5年後、二人は賑わうクリスマスのデパートで偶然再会する。
彼の養女も大きく育っており、ザジにも子供がいた。
彼女はトトにモーリスよ、と男の子で3歳だと騙ってその場を離れる。
だが、その様子を見た彼の娘が、「あの子は女の子よ、酷いわ。カルミナって呼んでたわよ」と知らせる。
目を丸くして、ザジの向かった方向を見据え、トトが今にも飛び出そうというところで、エンドロールとなる、上手い終わり方だ。

ラース・アイディンガーとアデル・エネルの名演であった。
最初は随分と煩い落ち着かない話だと思い、生理的にきつかったが、後半からグイグイと惹き込まれた。
これはある意味、ラブコメディでもある。
かなり重くて病んだ、しかし真摯な恋愛ドラマとも謂えることは間違いない。


トラウマが性に与える影響の大きさを考えさせる映画でもあった。
性は生命に直結する根源的な衝動でもあり生を支えるエネルギーである。
(であるから、意識的コントロールが出来ない)。
それが破壊~失調することはパーソナリティや生命力にも強く響いてくるはず。
勿論、恋愛にも。
その角度からの切込みである。

数あるホロコースト映画のなかでも、特筆に値する作品だと思う。





X-MEN: ファイナル ディシジョン

XMenThe Last Stand001

X-Men: The Last Stand

2006年
アメリカ

ブレット・ラトナー監督

ヒュー・ジャックマン 、、、ウルヴァリン
ハル・ベリー 、、、ストーム
パトリック・スチュワート 、、、プロフェッサーX(エグゼビア)
ジェームズ・マースデン 、、、スコット・サマーズ(サイクロップス)
ファムケ・ヤンセン 、、、フェニックス=ジーン・グレイ(フェニックス)
イアン・マッケラン 、、、、エリック・マグナス・レーンシャー(マグニートー)
レベッカ・ローミン 、、、、ミスティーク
アンナ・パキン 、、、マリー・ダンキャント(ローグ)
ケルシー・グラマー、、、ヘンリー“ハンク”・マッコイ(ビースト)
ショーン・アシュモア 、、、アイスマン
エレン・ペイジ 、、、キティ・プライド
アーロン・スタンフォード 、、、パイロ
ダニエル・クドモア 、、、ピーター・ラスプーチン(コロッサス)
ヴィニー・ジョーンズ 、、、ジャガーノート
ベン・フォスター、、、ウォーレン・ワージントン三世(エンジェル)

シリーズ第3弾である。第2弾が手に入らなかったので、一つ飛ばした。
これは、良かった。
「猿の惑星」シリーズなみに惹き込まれた。
抑圧を受ける側が多数派に対してどのようなスタンスをとり得るか、その苦悩と葛藤が様々なレベルで描かれる。
特に今回は、ミュータントを人間にしてしまう特効薬が開発され、ミュータントとしてそのままでいるか人間として生きるかを選択できることになる。特殊な能力を持つミュータントは人間にとって潜在的な脅威であることに間違いない。
その人間側の無力化して統制しようという意図と自らのプライドから多くのミュータントは程度の差こそあれ反撥する。
最も強硬な姿勢で全面対決を図ろうとするブラザーフッドから人間との融和を求め人間側に立ってそれを阻もうとするX-Menたちを両極とし、その間に様々な温度差の派閥が存在するという構図か。

XMenThe Last Stand006

ジーンが第2話で死んだそうだが、ここで生き返る。
途轍もない潜在能力をもっていたことが判明するが、それをコントロールできず大変なことが起きる。
何とX-Men統率者であり学園(若い能力の高いミュータントを匿う隠家)の長でもあるエグゼビアを殺害してしまうのだ。
その前に恋人でもあったスコットも制御不能な力の奔流で殺してしまっている(X-Menのリーダー格である)。
これまでプロフェッサーXの右腕を務めて来た彼女がである。
ウルヴァリン達にとっては、とんでもない打撃である。
エグゼビアの後任にはストームが就く。

XMenThe Last Stand005

一方、人間は今度は、「ミュータントは病だ」と定義して彼らを人間にしてしまう薬を作り出してしまう。
ミュータント省のハンクもこれには動揺する。これにはミュータント社会が揺れ動いた。
本気で怒るミュータントが出てきて当然だが、その新薬”Cure”に飛びつくミュータントもいる。
触れるものの生命力を奪ってしまうマリーは学園を抜け出て自ら投薬を受けに行く。
確かにその特性次第では、能力はない方が穏やかで自分の望む生活が送れる者もいるのだ。
しかし、ミュータントの中では、それが希望者ではなく体制的権力により全的投与となることを危惧する者たちが増えてゆく。
薬の発明者の息子もミュータントに覚醒しており、父の薬を投与される最初のミュータントになるはずであったが、それを断りビルのガラスを突き破り、空を白い翼をひろげて飛び去る。この様は象徴的な光景でもあった。彼は学園に助けを求めてやって来た「エンジェル」である。

XMenThe Last Stand004

そしてマグニートーことエリックは、ブラザーフッドというミュータントの過激組織を率いて新薬の使用を阻止するために実力行使に出る。その為に最終兵器として、潜在能力を覚醒させ強大な破壊力を発揮するジーンを組織下に引き入れる。
更に新薬の生成の鍵となる少年ミュータントを保護施設から奪い、薬の生成を根絶しようとする。

特殊能力のぶつかり合う闘いが始まる。特にミュータントに操られないよう全ての銃器をプラスチックにして戦う工夫は面白かったが、闘い方の単調さで簡単に覆されてしまう。作戦が人間側は些か弱いのだ。

XMenThe Last Stand003

今回のミュータント・キャラはどれもビビットで彼らが個々に繰り出す力も多様で見栄えがある。
シーンの細かい絡みが感じられた。
噺は格段に面白くなっている。
しかしエリックが念力でゴールデンゲートブリッジを持ち上げて架け替えてしまうのには呆れた。
あれだけ出来るなら一人でやりなさいと言う感じである。
火と氷の対決などもう少しやりあって欲しいところもあったが、、、
エレン・ペイジ演じるキティが壁や床をすり抜けるだけで、凶暴極まりないジャガーノートを倒すところなど可愛らしい。
エレン自身のちょっと儚げなオーラによるところも大きいが。

XMenThe Last Stand002

彼女が救出する少年と暴走するジーンの動向を巡って展開するストーリーとなっていた。
結局は自らの感情、力を(無意識下の能力も含め)如何にして自らのものとできるか、が双方に求めれられていたと謂える。
あらゆる法を超えた叡智が求められる。


ウルヴァリンがこの闘いの最後の決着をつける。
そしてその後、この世界はどう展開して行くのか、、、それはまだまだという感じで終わる。


イアン・マッケランとパトリック・スチュワートにエレン・ペイジの存在感が際立っていた。





X-メン

X-MEN001.jpg

X-MEN
2000年
アメリカ

ブライアン・シンガー監督・原案
デヴィッド・ヘイター脚本
トム・デサント原案

ヒュー・ジャックマン 、、、ローガン(ウルヴァリン)
パトリック・スチュワート 、、、プロフェッサーX(チャールズ・エグゼビア)
イアン・マッケラン 、、、マグニートー
ファムケ・ヤンセン 、、、ジーン・グレイ
ジェームズ・マースデン 、、、スコット(サイクロプス)
タイラー・メイン 、、、セイバートゥース
アンナ・パキン 、、、マリー(ローグ)
ハル・ベリー 、、、ストーム
レベッカ・ローミン=ステイモス 、、、ミスティーク
ブルース・デイヴィソン 、、、ケリー上院議員
レイ・パーク 、、、トード


かの傑作「ユージュアル・サスペクツ」の監督である。
あれは凄い映画であった。ケヴィン・スペイシーの存在感も異様な程のものであったが、噺それ自体が大変面白かった。
ジャックと天空の巨人」の監督でもある。何というかこちらに近い作品であろうか。「ジャック、、、」の鬼気迫るド迫力も極めて印象的であった。
ハル・ベリーにとってはアカデミー主演女優賞を貰う一年前の作品である。
こういう戦隊モノ女子みたいな役をやっていて、いきなり翌年のあの重厚な「チョコレート」である。
役次第だな、とはつくづく思う。「チョコレート」も胸に焼きつく作品であった。その後、「キャットウーマン」をやってしまうが、、、。
やはり役次第だ(爆。
(尚、戦隊モノ女子の映画で最も面白いのは邦画の「女子ーズ」であろう。関係ないが)。

さてこれは、端から特殊で荒唐無稽な設定で進行してゆく。
アメコミ原作らしい勢いが感じられ、分かり易くシンプルでテンポがよい。
大雑把で些か乱暴な展開ではあるが、気楽に観られることが何より助かる。
まとまった時間が取れないときでも、細切れで観ても繋がる。

だが、「ユージュアル・サスペクツ」から見て大きく異なる。
同じ監督とは思えない。作風とか展開の緻密さなど、質的レベルで、、、。
やはり脚本の違いであろう。脚本で決まる部分は大きいと思う。

勿論、原作から謂えば、この作品で正解であり、他にどう作るのかという映画ではある。
それぞれのミュータントが特殊能力を発揮して闘うものの走りであろうか。
今見るとその特技の面白味や新鮮味は然程感じられないが、その能力によって幼少時から差別の対象となり(危険視され)、理不尽な扱いを受け(迫害され)社会問題となっている状況に関しては頷ける。
違いを恐れ忌み嫌う世の中は変わらない。これは普遍のテーマでもある。
特にマリー(ローグ)の人に触れるとその身体から生命力を奪ってしまう能力というのは、自他ともに不幸にするリスクの高い厳しい個性であり境遇となろう。

まず思想的には、普通の人間対ミュータントとしてあくまでも闘いを表明しているミュータント差別派の人間と人間を徹底して敵視しているミュータントであるマグニート派の対立。そしてミュータントを受け容れようとする人間と人間との融和を図ろうとするプロフェッサーX率いるミュータントとの存在に分かれる。
明らかにプロフェッサーX側は人間全般を尊重し守る立場をとっているが、人間側はマグニートとそうでないミュータントを分けて考えている者は少ないようだ。
実際の闘いが起きるとその破壊力から揃って人間はミュータント全てに対する防衛、抵抗姿勢を固める。
基本、マイノリティ対マジョリティの構図となろう。
闘いの場では恐らくプロフェッサーX側の負担と消耗は大きいと想われる。


どこかで読んだが、プロフェッサーXがキング牧師で、マグニートがマルコムXとか書いてあった。
イメージ的にそうかも知れない。マグニートは物語冒頭で少年時代ホロコーストを経験した生存者でもある。
但しマルコムXは暗殺されるまで暴力運動に出たことは一切ない。
キング牧師は暗殺前は、マルコムXのように過激な言動をとっていたようである。ここは微妙である。

自らの種族の解放といっても、原体験による立場から勢力は異なる形に分かれるものだ。
(これは「猿の惑星」でもみられるように。アメリカの公民権運動のメタファーは無意識的にも窺える)。

基本、登場人物がどのような能力をもっており、それをどのように魅せてゆくか、で楽しませる映画である。
しかし、このX-MEN、然程チームとしてまとまりはない感じであったが。
”ウルヴァリン”でよいような気がする。
なかなかインパクトのあるルックスでもあり。

兎も角、シリーズモノである。
続編も機会があれば観ておきたい。
一作としての面白さと見応えは、断然「ユージュアル・サスペクツ」であり、迫力とスケールと緊張感では、断然「ジャックと天空の巨人」であるが、この映画なりの面白さは、ある。






ひまわり

I Girasoli 001

I Girasoli
1970年
イタリア

ヴィットリオ・デ・シーカ監督
ヘンリー・マンシーニ音楽

ソフィア・ローレン 、、ジョバンナ
マルチェロ・マストロヤンニ 、、、アントニオ
リュドミラ・サベリーエワ 、、、マーシャ
アンナ・カレナ 、、、アントニオの母


ひまわりの花だけは覚えている。
当時観たときもとても物悲しいひまわりであった。
一面のひまわり畑にヘンリー・マンシーニの音楽だけで十分に泣ける。
このテーマ、、、

「戦争と平和」のナターシャを演じたリュドミラ・サベリーエワがアントニオの異郷の若き妻。
とても慎ましく優しい一途な女性である。
更にお転婆で可愛い娘もいた、、、。
アントニオの写真を差し出すジョバンナ。
受け取るマーシャも全てを察知してしまう。
しかし、ふたりとも肝心なことは決して口にはしない。
出来るはずもない。

絶対にアントニオの死を認めなかったジョバンナの強固な信念がへし折れる。
彼の死より残酷な認め難い事実の前に。

I Girasoli 003

戦争で愛する二人が引き裂かれ、女は只管男の帰還を待ち、男は過酷極まりない戦地を彷徨うも極寒の真白い雪に力尽き倒れ込んでしまう。死を覚悟し友にも別れを告げた。
しかし異郷の地の女性に瀕死の状況から助け出され、男は彼女に救いの全てを求める。

「記憶」~アイデンティティより「生きたい」という根源的欲望の発動を誰が責めることができようか。
残されたナポリの女は男の生存を信じ続けて出征したシベリアまで独り探しに行く。
そして夫の現在の姿を知ってしまう。
戻れない立場の男と、再会を果たしてしまう。
自分の信念の通り男は生きていたのであったが、、、。
これを喜べるのか、、、この再会は幸運なのか、、、。

彼女は汽車に飛び乗り号泣しながらナポリに帰る。
数年後、出征時に約束した毛皮のマフラーを持って男はイタリアを訪れる。
何とか彼女の現在の住まいを突き止めるが、すでに彼女も所帯を持っていた。
そしてお互いの愛情は再燃するが、隣の部屋から赤ん坊の泣き声がする。

「名前は、、、?」
「アントニオ」
「アントニオ、、、俺の名前か?」
「いいえ、聖者の名前よ」

、、、極まる、、、。

前半の如何にもイタリア人らしい天真爛漫で明るくはしゃぐジョバンナとアントニオの軽さを基調とした物語の流れが、アントニオの出征を境に一変する。
戦地は極寒のシベリアである。
そこで多くのロシア、イタリア、ドイツ兵、敵も味方もなく多くの民間人(女、子供)も殺され埋められてゆく。

やがて、その上には無数のヒマワリが無情に咲き誇る。
それは地平線上まで覆い隠して。
全てを埋め尽くすのだ。
何もなかったかのように。

I Girasoli 002

新たな生が反復する。


美しい詩のようなフィルムであった。





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モディリアーニ 真実の愛

Modigliani005.jpg  Modigliani003.jpg
            Amedeo Modigliani
Modigliani
2005年
アメリカ、フランス、ドイツ、ルーマニア、イギリス

ミック・デイヴィス監督・脚本

アンディ・ガルシア 、、、アメデオ・モディリアーニ
エルザ・ジルベルスタイン 、、、ジャンヌ・エビュテルヌ
イポリット・ジラルド 、、、モーリス・ユトリロ
オミッド・ジャリリ 、、、パブロ・ピカソ
エヴァ・ヘルツィゴヴァ 、、、オルガ
ウド・キア 、、、マックス・ジャコブ
ランス・ヘンリクセン 、、、フォスター・ケイン
ピーター・キャパルディ 、、、ジャン・コクトー
ミリアム・マーゴリーズ 、、、ガルトルード・スタイン
スージー・エイミー 、、、ベアトリス・ヘイスティングス


構図、色調全てが絵的に美しい。
アメリカ人の監督の為か、間違ってもフランス~イタリア的な質や雰囲気はない。
皆、マッチョな感じだ。芸術家たちというより自由自堕落で奔放なボヘミアンといった感じか、、、。

最初に、全ては自由に脚色されたフィクションだとことわっている。
それでよいと思う。
創作であるが、概ねこんな感じであっただろうな、とは推察する。
フィクションであることにより、極めて印象深くものの本質に迫ることの出来る場合も多い。
SFなどそこを基本形式とする。

モディリアーニがこれ程、無軌道でアル中でも友人たちに愛されていたのか。
ライバルのピカソからも。
モディリアーニとピカソはこんなに面白いやりとりをしていたのか。
この物語はモディリアーニとピカソの対立を通して描かれてゆく。
「わたしと君との違いは成功しているか、そうでないか」、だ。
まさにその通りだ。
そんな嫌味を言い合ったり喧嘩を売ったり買ったりしながらもふたりで車に乗ってルノワールに逢いに行ったりしている。
こんな奇妙な友情もあるだろう。お互いに相手の才能を深く認め合っているからだ。
何れにせよ、強烈な個性が他者に与える影響力というものを考えさせられる。
前提として何か確かなもの~作品を創造していることが肝心なことなのだ。
それが無ければ、彼らの集まりなど不良親父の集会にもならない。

貧困、肺結核、アルコール依存、薬物、不摂生、自堕落、奔放、傲慢、、、
単語だけで挙げてゆくと、単に困った人みたいになってしまうが、、、ジャン・コクトーやガルトルード・スタインが見守るこの共同体は面白いし憧れるところは大きい。

わたしも子育てしつつ、出来る範囲で自堕落に過ごしているが、限度はある。
早寝早起きは基本であり、子供と一緒に少なくとも朝食・夕食はしっかり栄養バランスを考えて食べなければならない。
掃除・洗濯は手早く済ませ、買い物は好きな方なので少し時間はかけるが、、、。
宿題やピアノの練習も監督して定時に寝かせたうえでのボヘミアン生活である。
ホントに気持ちだけボヘミアンを寝る前に試みている状況だ。
とは言えその時間帯にブログも書いているから、、、ほとんど普通の生活ではないか(怒。

Modigliani004.jpg
Gertrude Stein

しかし、他の破滅的天才画家の映画と比べ、どうも出て来る人々に芸術的繊細さや香りが感じられない。
ガルトルード・スタインが余りにわたしの印象と違い笑ってしまった。
ただの太った世話好きなおばちゃんかい。これは流石に「ミッドナイト・イン・パリ」のガルトルード・スタインの方が理知的だ。それにも不満はあるが、ここの彼女よりましだ。
ピカソも少し小太り成金過ぎはしないか、、、モディリアーニとの対比を強くするためか、、、。
モディリアーニは確かにイケメンであったが、若い頃のピカソも精悍な面立ちの男である。
兎も角、ガルトルード・スタインのサロンでの藝術談義や論争など少しはあってもよい。
ジャン・コクトーも折角出ているのだし(ここに彼がいなかったら不自然だ)。
その辺がまるでないというのも奇異な感じがする。
それからモディリアーニの彫刻である。この彫刻制作から彼独特の単純化された力強いフォルムが生成されている。
体力の問題もあり彫刻自体の制作からは離れるが、身近にもう少し彫刻の気配があってもよい。

後半モディリアーニとピカソが睨み合いながらコンペ参加の記名をするスリリングな場面など、西部劇だ。
その時の会場の拍手と歓声もやはり西部劇のそれだ、、、。
その後のスーチンやユトリロ、リベラ、展覧会に参加するたちの制作風景もまるでボクシングの練習みたいなノリだ。
ロッキーかい、と思わず言いたくなる。
何でこうなるのという感じもするが、監督がマッチョ派なのだろう。
フランスかイタリア映画ではまずこうはなるまい。
できれば、藤田嗣治も出して欲しかった。彼も大事な友達の一人である。

Modigliani001.jpg  Modigliani002.jpg
            Jeanne Hébuterne

妻のジャンヌがまさにモディリアーニの絵の女性そのものであった。
個性的であるが、とても美しかった。
よくこの女優を選んだと思う。
モディリアーニとジャンヌは確かに見た目はしっくりしていた。
後は監督・脚本であるが、この人の趣味の問題なのであろう。

では面白くなかったかと謂えば、不思議に残るもののある映画であった。
もしかしたらエルザ・ジルベルスタイン効果かも知れない。
「モディリアーニの絵」そのものなのだ。
そして終盤の場面~収束である。

展示会最後のピカソも絶賛した彼女の肖像に「瞳」が描かれていたのには、あのコンテクストにあって思わず感動してしまった。
彼の愛のかたちがそこに収斂したのだ。
この作品だけが厳密に謂えば「肖像画」であったかも知れない。
他の裸体像や瞳の無い像は、純粋に造形~フォルムを極める方向性しか持ち得ない。
ジャンヌはその絵に彼の「真実の愛」を観たのだ。


そう、何でも終わりが肝心なのである。
まさに「画竜点睛」以外の何ものでもない。
余りに悲しいエンディングとは謂え、、、。





ジェーン

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Jane Got a Gun
2016年
アメリカ

ギャヴィン・オコナー監督

ナタリー・ポートマン 、、、ジェーン・ハモンド、製作
ジョエル・エドガートン 、、、ダン・フロスト(昔の婚約者)、脚本
ノア・エメリッヒ 、、、ビル・“ハム”・ハモンド(夫)
ロドリゴ・サントロ 、、、フィッチャム
ボイド・ホルブルック 、、、ヴィック・ビショップ
ユアン・マクレガー 、、、ジョン・ビショップ(ならず者のボス)

「ジェーン」というシンプルな邦題に違和感を少し覚える。
原題が”Jane Got a Gun”なのだから普通ならまたごてごてとした文句を並べるところかと思うところだが、、、。
わたしとしては、「ジェーン」でよかった。ブログの題に書くのも楽だし。
ジェーンという女性を主人公とした西部劇である。ナタリー・ポートマンが製作に関わっている。
(「水曜日のエミリア」でも彼女は製作総指揮に携わっていた)。


ナタリー・ポートマン繋がりで観てみたのだが、、、この女優~ヒトはともかく一通り何でもやってみたいのだろう。
ではSFは、、、というとまさか、「Vフォー・ヴェンデッタ」か?それは違うと思うが、あれも大変な力演であった。
やはり完璧という幻想に呑み込まれて破滅してゆく悪夢の「ブラック・スワン」には圧倒されるばかりであったが、、、。これが一番凄かったとは謂える。
それで今度は「西部劇」である。何でも「完璧」にできる女優なのだ。
(女優とはそうしたものなのだろう。クロエ・グレース・モレッツが「キャリー」をやってしまうのも驚くが、、、自分と真逆のパーソナリティもやってみたいというのも女優としての表現意欲からくる必然なのか)。

ユアン・マクレガーがならず者のボスとは知らなかった。
しかし何で、という感じであった。
勿論、これまでにも奥の深い悪役は、「天使と悪魔」のカメルレンゴなどで見事に演じていた。
(わたしはあの役のユアン・マクレガーが一番好きだ)。
それから見ると随分見掛け倒しのイマイチ悪玉親分であった。
最近あまり良い役やっていない気がするが大丈夫か、、、。それに体調も。
T2 トレインスポッティング」を観て余計に心配になった(急に年老いたみたいな感じで)。

Jane Got a Gun003

絵の綺麗な映画である。
何気ない場面~室内でジェーンが水を水筒に入れているような光景もバロック期オランダの室内画家の雰囲気を忍ばせている
。光の取り入れ方がよい。
それからこの映画も、最近観る映画がことごとくそうなのだが、回想と今現在の時制が交互に絡む手法である。
とても自然な心象風景として織り交ざって展開するので、違和感はない。
かつての恋人であり婚約者と気球に乗って空を舞うシーンも非常に美化された形でロマンチックに描かれる。
しかし「ずっと気球に乗っていたいの」はちょっとね、、、単なる現実逃避に受け取れるが。
そういう女性でもあるところを表しているものか。
単に男勝りで強いばかりではなく、神経質になったり怒ったり、弱気になったり怯えたりする揺れを見せる。
所謂、スーパーウーマンではない。
拳銃よりも狩の為に使うライフルの方が上手い女性なのだ。

ならず者に追われ、家を突き止められたジェーンは、瀕死の(ならず者に撃たれた)夫と家を守る為、何と昔出征して戻ってこなかったために捨てたかつての婚約者に助けを求める。
(幼いハモンドとの間に出来た娘は友達のところに預けているが、彼との子供はビショップ一家に殺された)。
ダンは南北戦争で手柄を立てた英雄ではあるが、多勢に̥無勢である。
ここは、手前の庭に穴を掘って地雷みたいな仕掛けを作り、その炸裂によりほとんどの勢力を削ぐ。
その後は、生き残りのと死闘となるが、その間に夫のハモンドは外傷が元で絶命してしまう。

Jane Got a Gun001

特にわたしがほっとしたシーンは、どんでん返しの件である。
これはスリリングでもショッキングでもないが、決して小さくないどんでん返しであった。
ビショップが「待て、まだお前の娘は生きている!本当だ」と言って命乞いをするが、ジェーンとダンの二人で「この嘘つきめ!」と罵り、取り敢えず「何処にいるのよ?」、と聞くと「お前が以前働いていた売春宿だ」と答えるも、二人にハチの巣にされて絶命となる。どうせ出任せの嘘だろうと思いながらもそこに行ってみると成長した娘が洗濯の下働きをしているではないか。
これがジェーンたちにとっての一番のサプライズであったはずである。
死んだと思っていたダンとの間に出来た娘が生きており、賞金も保安官からゴッソリ頂き、二人の娘と昔の恋人と共に遠くに(カリフォルニア)に旅立つというハッピーエンドである。西部劇はハッピーエンドの快感がなければ見る気になれない。こうでなければ、というエンディングであった。

ジェーンはずっと自分の娘を殺した ビショップを憎んできた、、、だとすると生かして育てさせてきた親分をそうも虫けらのように殺さなくとも、と思う面もあるが、夫を殺されたのだから仕方ないか。賞金も掛かっているし。
このビショップは何か詰めの甘いボスであり、ダンの背後を取りながら撃ち殺さず、「ジェーンは何処だ」などと、すぐ近くにいることは当たり前なのに訊ねたりしている。要するに妙に余裕をもっていて隙だらけでちょっと人が良いのだ。(悪い奴とは言え)。


荷台にはどっしりと金を積み込み、4人で前途洋々の旅立ちである。
一番ちゃっかりしているのは、ジェーンだったりして。
明らかに勝ち組の彼らであった、、、。






ジャッキー ファーストレディ最後の使命

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Jackie
2016年
アメリカ

パブロ・ラライン監督
ノア・オッペンハイム脚本
ミカ・レヴィ音楽

ナタリー・ポートマン 、、、ジャクリーン・ケネディ(ジャッキー)
ピーター・サースガード 、、、ロバート・F・ケネディ(ボビー)
グレタ・ガーウィグ 、、、ナンシー・タッカーマン
リチャード・E・グラント 、、、ビル・ウォルトン
ビリー・クラダップ 、、、ジャーナリスト
ジョン・ハート 、、、神父

テキサス州 ダラスで外遊中のJFKが1963年11月22日に後方からの狙撃により暗殺された。
それから4日間のケネディ夫人の物語である。

JFK暗殺はいまだに未解決のままだ。
様々な議論を呼んだものだが、オズワルド単独犯で直ぐに口封じのように殺され背景も何もないということで収まってしまっている。
(2017年10月26日に「ジョン・F・ケネディ元大統領暗殺事件に関する機密文書」の公開がトランプ大統領によって約束された。3000以上の公開文書の精査が進んでいるというが、新事実が幾つもあがっているようだ。そもそも隠されてきたこと自体が問題であろうが)。

ここでは、ジャクリーン・ケネディの視座からJFKを失った妻としてのこころの内が静かに鬼気迫る強度で明かされてゆく。


ジャッキーの取り仕切ったホワイトハウスの改修とその紹介番組の白黒TV画像と、JFK暗殺後の回想を交えた記者のインタビューに応える場面を交互に見せることで展開する。
記者との記事を巡る会話はかなりの緊張感ある駆け引きとも言えるものであった。
記者としては当然、世間受けする面白く興味を引く話としたい。だがジャッキーはそれを許さない。

映像の趣向は画質も含めかなり凝っていた。
その1960年代が、ファッション、車、飛行機、TVなどに感じとれるものだ。
実際の銃弾を受けたケネディの頭部とジャッキーの取り乱す姿がリアルに映されているところはショッキングであった。
(白黒の引いた映像はニュース番組で観ているが)。

ジャッキーのその時々の内面を表す強烈な印象の顔アップが連なる。
顔のみで場面を繋いでいるようなところもあった。この演技は特筆もの。
音楽もとても映像のコンテクストにフィットしている。
特に静かに神の不在に憤るジャッキーの心理に沿った音の流れはそのロケーションと共に感じるものは大きかった。

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血痕が飛び散ったピンクのスーツでケネディの死体と共に空港に降り立つ。
実際、車に乗ったまま、頭を撃ち抜かれた夫を膝に抱き脳と血の溢れ出るのを抑えながら走り続けるその「時間」とは、どんなものであろうか、、、!

リンカーン大統領と同様の壮麗な葬儀を行うことにする。
8ブロックもある長い大通りを馬を連ねて棺と共に静かに行進するのだ。他の要人、各国の参列者たちと共に。
ケネディ大統領(ケネディ家)は、謂わば王室のないアメリカにおいてそれに代わる位置(象徴的な意味)も占めていた。
しかし彼女は、容疑者のオズワルドがすぐに暗殺され、一度は参列者や周囲の安全の為、車で厳かに葬儀場へ移動することに変更する。だがその直後にやはり取り消す。
夫の最後の大舞台なのだ。それは葬儀次第で決まる。
ファーストレディとしての最後の使命を果たさなければならない。
邦題そのままであるが、その通りだと思う。
(多分にジャッキー自身のプライドの問題でもあろう)。

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悲しみと苦悩と葛藤と重圧がどれ程のものか想像など出来ない。
しかも立場上、すぐにホワイトハウスを引き渡さなければならない。
暗殺された大統領の夫人の辿る道は過去の例を見ても非常に過酷なもののようである。
決意と覚悟を夫の死後、すぐにしなければならなかった。
参列者、招待者、葬儀の形式の決定からその他、多くのやらねばならぬ差し迫る仕事、、、。
一般の家庭の主婦などからみるとどれ程、多くの責任ある仕事を急かされることか。
死者~夫を偲んでいる余裕など与えられない。
それにしても、棺と共に歩くことが、極めて危険な儀式~行動でもあるのだ。
確かにいつどこから狙撃されるかも知れない、アメリカという国なのだということを改めて実感した。

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「あの時、誰かに撃って欲しかった。そして、夫のところに自分も行ければ幸せだろうと思った」
と神父に語る。
そして彼女は神父にだけ、「他人には何も覚えていないと言っていたが、私はその場面を鮮明に覚えている」と伝える。
ナタリー・ポートマンは決して感情を顕にして激しく訴えたりしないが、静かに運命、神に対する強い憤り~抗議をする。

神父のジョン・ハートは、全ては神の愛によるもの。罰ではない。神の御心はわれわれには計り知れない、、、に終始する。
こう言ってしまえば、それまでだ。
神父なのだから仕方はないにしても、、、。

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ジャッキーのような立場でなくとも、誰でもこのような不条理に直面する。
これから見れば、些細に思える事でも。

わたしは、その時、宗教に頼る気持ちは微塵もない。
(しかし、神と措定するしかない何者かの存在は、宇宙論の「人間原理」などをみても感じざるを得ない)。


ジョン・ハートと謂えば、「コンタクト」、「エイリアン」ではないか。
何れもSFの大傑作である。
(またSF観たくなった、、、勿論見応えのあるSFだが、、、)。





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17歳のエンディングノート

NOW IS GOOD004

NOW IS GOOD
2012年
イギリス

オル・パーカー監督

ダコタ・ファニング、、、テッサ・スコット(白血病の少女)
ジェレミー・アーヴァイン、、、アダム(隣の家の彼氏)
パディ・コンシダイン、、、スコット(父)
オリヴィア・ウィリアムズ、、、スコット夫人
カヤ・スコデラリオ、、、ゾーイ(親友)
ケイト・ディッキー、、、医師

意味ないが、邦題で17歳繋がり、、、


直面した死にどう対処するか。
自分が。
周りの人間が。
これこそ極めて伝統的で普遍的な問題である。
であるからこそ、物語として成立させるにもすでに余りに多くの傑作があり過ぎる。
それは当然既視感と凡庸さ(陳腐さ)を纏いかねない。

この映画でも美しい海岸線をアダムのバイクに乗ってまっしぐらに走るのだ。
海辺を走ってしまっては元も子もないような気もするが、やはり若い二人は走ってしまう。

NOW IS GOOD003

そのうえに余命いくばくもない白血病の美少女を巡る恋人、親友、親との関わりが描かれるのだ。
所謂、闘病を通したそれぞれの愛の物語と謂える。
もはや前例がある、ないというより、もう誰の脳裏にもそれらしいメロドラマが自ずと浮かんで来て拒絶反応を催すような主題でもあろう。
だが、天才ダコタ・ファニングを起用しての直球勝負であろうか、、、。
中央突破か!

実際に観てゆくと、テッサは若い今の自分自身の場所~身体から不安と恐怖に慄きながらも死を見据えて行く決心はしている。
死~運命を受容し最期にすべきことを成し遂げようとする域に達している。物理療法は彼女自らが断っている。
死期を医者から告げられた患者は通常、否認~>怒り~>抑鬱~>取り引き~>受容という流れで死を迎えるという。
(無論、途中で生の中断される場合も多い事だろう)。
彼女は若さにもかかわらず達観しており、強い意志で果敢に後僅かの生を生き抜こうとしている。
その弱みを見せない姿勢が、周囲にはかなり生意気で扱い難い子にも見える。
家族も実際手こずる。特に父である。

父親は癌治療法をいつまでもウジウジ調べあげるばかりで、死に逝く娘の姿を直視しない。
(ある意味、何もできない自分がもどかしく、悔しく、情けないのだ)。
母はまともな看病すら出来ず、娘の病状についての知識も情報も知らぬままで逃避している。
(どうやら別居しているようである)。
9歳の弟は、まだ姉が死ぬことの現実を想像すら出来ない。
姉のことを思いやるつもりもなく勝手に遊んでいるだけ。
親友のゾーイは、テッサとともに彼女の死を前にしたToDoリストに付き合って行動するが、ゾーイには彼女なりの人生がある。
こればかりはどうにもならない。ゾーイは恋人との間に出来た子供のことで掛かりきりになって行く。
テッサにずっと寄り添うのはアダムひとりかも知れない。

彼女はアダムと森に行ったとき、海辺をバイクで走ったときは、片時も忘れられない死の想念から解かれる。
父は止めるが、テッサはアダムと共に後僅かな生を過ごすことを選ぶ。

NOW IS GOOD002

「暗闇でも一緒にいて」
「わたしが何処にいるか、教えて欲しい」
「ぼくが間違えたら?」
「そんなこと、あり得ない」

彼女は看護師の言うように、痛みのない穏やかに意識の遠のく死を迎えて逝くのだが、、、
とても心細く不安で恐ろしいはずだ。
その寄る辺なさ、何処かにしがみ付きたい思いをアダムは受けとめる。
彼が受けとめるしかない。
彼女の最期の場所であった。

父はまだ彼女が何とか起きれる頃は、「どうか死なないでくれお前はわたしの宝だ」と縋りついて号泣するが、もうお別れの時が近づくにあたり、「よく頑張った。もう逝っていいんだよ」と静かに囁く。
弟も、「ぼくに取り憑いてもいいよ」と、彼なりのスタンスで別れを告げる。

「解き放とう」
「人生は瞬間の連続」とこころに囁き、彼女はたくさんのこれまでの想いとともに解き放たれて逝く、、、。

NOW IS GOOD001

かなり淡々とした硬派な薄命の美少女の物語であった。
必ず誰にも訪れる死である。
わたしにとってもあなたにとっても他人事では決して、ない。


余計な噺だが、墓碑銘に「次はお前だ」と彫る人もいるという。
実際、そうなのだ。





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17歳の肖像

An Education002

An Education
2009年
イギリス

ロネ・シェルフィグ監督
ニック・ホーンビィ脚本

キャリー・マリガン、、、ジェニー・メラー(女子高生)
ピーター・サースガード、、、デイヴィッド・ゴールドマン(詐欺師)
ドミニク・クーパー、、、ダニー(デイヴィッドの親友、詐欺師)
ロザムンド・パイク、、、ヘレン(詐欺師)
エマ・トンプソン、、、ウォルターズ校長
オリヴィア・ウィリアムズ、、、スタッブズ先生
アルフレッド・モリーナ、、、ジャック・メラー(ジェニーの父)
カーラ・シーモア、、、マージョリー・メラー(ジェニーの母)

17歳のカルテ」とかダコタ・ファニングの「17歳のエンディングノート」とか、、、「17歳の~」というのは受けが良いのか?
危うさの感覚は匂わせるに足るものだが、、、。

この映画、非常に映像の質が心地よく、ワクワクして観ることが出来た。
キャストが良いことも大きい。
特にヒロインのキャリー・マリガンである。
華麗なるギャツビー」、「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」より以前のまさに女子高生の彼女の知的で瑞々しい煌めく美しさに魅せられる。この役をダコタ・ファニングやクロエ・グレース・モレッツがやってもしっかり成立すると思うが、繊細さではこのキャリー・マリガンかなと思う。
兎も角、雰囲気が良い。
とても良い空気に充ちている。
この気持ち良さで最後まで観ることが出来た。

An Education001

ピーター・サースガードは、「ニュースの天才」、「エスター」でも出ているが、ここでの曲者役はとても面白い。
終始、虚しさがつき纏って影があるところがよい。
しかし実際にもよく3面記事などに出てくるが、何ですぐばれる嘘~結婚詐欺などするのか、、、隠せる類のものではあるまい。
その相手が本当に良いなら、まずはきちんと離婚して身辺整理してから次に進めばよいことであろう。
現状のままで、いきなりプロポーズしてしまえば、もう後は(先は)ない。
でもそうしてしまうパタンが沢山あるのに驚く。

デイヴィッドはマメで口八丁手八丁である。彼女の両親もいとも容易く丸め込む。
ジェニーは学業は極めて優秀だが、多感で好奇心も旺盛なうえに現状に何とも言えない閉塞感も覚えている。
チェロが好きでハーバード大学を狙っており、教師からの評価も高い。英文学に特に関心がありその方面の勉強を深めたいと思っている。そしてパリに憧れていて、シャンソンが好きな夢見がちな少女だ。
外部から魅惑的な誘いが不意を突いてやってくれば、恐らく乗ってしまうであろう。
しかもデイヴィッドは包容力があって優しい。
現在の同じ歳のボーイフレンドが余りに子供なのでなおさらである。

An Education003  An Education006

相手は自分の倍以上年上だが、豊富な経験からくる知識やナイトクラブやクラシック・コンサートそして名画(プレラファエル派のバーン・ジョーズの絵)の落札を経験させてもらったり、憧れのパリなどに連れて行ってくれる行動力と未知の世界の拡がりはまさに魅惑的なめくるめく経験であった。
もう高校の地道な勉強など詰まらぬものに思えてゆく。
大学進学さえも、、、である。
そして、何とデイヴィッドにプロポーズされ、その勢いで学校を中退し大学の試験も受けなかった、、、。
(これは危険だ。わたしは娘には絶対そんなこと認めない(爆)。
だがこの男、実際に要所要所でかなり怪しいのであった。
昨日のエゴンみたいなエゴイストであることは間違いない(ただエゴンは芸術至上主義からのものだが、この男は何から来ているのか、、、ただジェニーが可愛かったから惹かれたのか、本気で好きになったのか、いま一つ分からない)。

An Education005

仕事も盗んだお宝を売りさばいて金を儲けており、文字通りの結婚詐欺でもある。
ジェニーは大変な課外授業を受けてしまった。
お陰で、大学の入試も受けず仕舞いであり、途方に暮れる。
学校に戻ろうにも啖呵を切って辞めてしまったものであるし、ウォルターズ校長は認めない。だが言外に他の進み方を示唆する。
スタッブズ先生の自宅に相談に行き、彼女がジェニーに救いの手を伸ばしてくれる。
結局、オクスフォード大学合格の知らせが来て新たに始まるキャンバスライフの様子を語りエンディングへ、、、。

An Education004


考えてみると、数奇な運命に翻弄されたとか謂うほどドラマチックなものではなく、ちょっぴり背伸びしてほろ苦い経験をした優秀で綺麗な女子学生の物語というところか、、、。
彼女の、誘惑による脱線と熱心な先生のフォローまでを含めた”An Education”であったと謂えよう、、、。
(あの状況でよくハーバード合格に漕ぎつけたなと、、、ちょっとその経緯も知りたかったが、、、)。
学びには、寄り道も必要である。
実際にそれまでのレール上にない、他の道はアンテナを伸ばせば幾らでも見つかってしまうだろう。
それもとても魅惑的な光景が、、、。
迷い脱線(横断)する自由も保証したしなやかな教育があってよい。


そんなありがちな内容と謂っても、充分に怪しく面白く心地よい映画であった。
特に質感が良い。
お薦めである。







エゴン・シーレ 死と乙女

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EGON SCHIELE: TOD UND MaDCHEN/EGON SCHIELE
2016年
オーストリア、ルクセンブルク

ディーター・ベルナー監督・脚本
ヒルデ・ベルガー脚本
アンドレ・ジェジュク音楽


ノア・サーベトラ、、、エゴン・シーレ
マレシ・リーグナー、、、ゲルティ・シーレ(妹、モデル)
ファレリエ・ペヒナー、、、、ヴァリ・ノイツェル(愛人、モデル)
ラリッサ・アイミー・ブレイドバッハ、、、モア・マンドゥ(愛人、ダンサー、モデル)
マリー・ユンク、、、エディット・ハルムス(妻、モデル)

人物画~ヌードを主に描く画家であることから、モデルは肝心である。
この映画を観たところ、彼にとっては気に入った女性は、気に入ったモデルでありミューズのようだ。
しかし恋愛の対象ではない。
妹もそのなかの1人でもあったわけだし。
どうやら余り人間的な関係に興味はないようで、基本的に淡白である。
だから、一人に固執しない。
何人いても良い。皆ヌードモデルとなりそこから傑作が生まれている。
この辺は兄貴分のクリムトにも似ている。
だが、一番のお気に入りがクリムトから紹介された、ヴァリであったようだ。
ヴァリも彼を大変深く愛していたことが分かるが、その為に離れ離れとなり悲惨な結末を迎えることにもなる。

EGON SCHIELE004


エゴン・シーレはわたしの周りでは好きな人が多く、絵を観る機会もあった方だが、居間に飾るタイプの絵ではないところでも評判が良かったような気がする。
だが、わたしにはエロティシズムにおける死の比重が大き過ぎて、痛々しくも陰惨なひりつきばかりが感じられた。
クリムトのエロティシズムには隣に死神が控えていても、芳醇な官能と喜びもあり、居間に飾っても抵抗などない。
退廃的な文学性はあっても装飾的で見栄えも良いので、派手好きなお客にも喜ばれる(笑。
「死」を色濃く纏うものは、余り居間、というより普通の部屋に飾る気は起らないものだ。
しかし画集などで書棚から取り出し、そっと観るその時間性を愉しむ絵であると想える。
だが、わたしにはエロスというよりタナトスの特異な美を享受する面が大きい。

EGON SCHIELE003

たまたま描いた娘が歳が若すぎて警察に拘置されたりするが、彼は若い娘に特に惹かれるものがあった。
(クリムトは老若男女何でもござれであったが)。
純粋で無垢な生命力の湛える美(余計に死は際立つ)を描きたかったのだろうか。
だが、それはクリムトも警告していたように芸術家としての立場を危険に晒すことでもあった。
若さとは無軌道であり、無分別でもあり、無思慮で思い込みも激しいものだ。
結局、弁護士に助けられ無罪とはなるが、道徳的な罪を問われる。
ここでは裁判官の馬鹿ぶりが露呈するが、もとより芸術論で立ち向かえる場ではない。
不毛である。

女性との問題も皆、規範との闘いとなってしまう。
(法ではなく規範である。いや法的にもほぼ重婚ではないかと思われる提案をヴァリとエディットにした為、それを最後にヴァリは彼のもとを去る)。
これはいくら対幻想と言ってもキツイ。
彼らの家を通りすがりに怪訝な顔つきで覗いて行く人々(子供たち)の描写も印象的だ。
彼自身が自分の芸術表現に確信を持っている分、隠し立てしないお陰で共同体との軋轢は強まるばかり。

EGON SCHIELE001

そこで止まって、と言ってすぐにスケッチ~ドローイングに入る。
ちょっと微妙に捻じれ曲がったポーズと彼ならではの強烈な個性としか言えない描線。
さらに表現主義的な彩色。
その全体を観ると、やはりフォルムのささくれたような美しさにとても痛みを覚える。

他の画家で謂えばクリムトより、ベルナール・ビュッフェに近いものを感じてしまう。
詩人ではトラークルを連想する部分もある。

彼は28で病死するが、その看病は若くしてした結婚をずっと兄から認められなかった妹が必死でする。
妹との絆の深さを感じるものだ。

最後は形見分けとなるが、どの作品にも機械的に値が付けられ手際よく整理されてゆく。
随分淡々とした最後だと思ったが、エゴンの関係者も身近で親密な者はすでに亡くなっている。
最後は事務処理的に財産処分であるか。
戦地に赴くであろうエゴンを想い、別れたヴァリも従軍看護婦として戦地に入り猩紅熱で没してしまう。
妻エディットもエゴンと同じ熱病で先に死んでいる。
最初に彼のヌードモデルをしていた妹だけが健在であった。


本物もイケメンであるが、エゴン役の俳優も大したイケメンであり雰囲気は充分に再現していたのではないか。





プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

*当サイトはリンクフリーです。

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