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フェリーニのアマルコルド

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Amarcord
1973年
イタリア/フランス

フェデリコ・フェリーニ監督・脚本
ニーノ・ロータ音楽

ブルーノ・ザニン 、、、チッタ
プペラ・マッジオ 、、、チッタの母
アルマンド・ブランチャ 、、、チッタの父
マガリ・ノエル 、、、グラディスカ

これは想い出の集積のような映像だ。
綿毛が風に舞って冬の終わりを告げる光景から始まり、再びその光景で閉じる、、、。

ファシスト党の集会の最中に、教会の塔の天辺で蓄音機からインターナショナルの曲を流すなどしても、チッタの父は軽めの拷問を受けて家に帰される。
すぐに元気を回復している。
ファシスト党もどこかのんびりしている。
戦争になろうが、どんな体制が敷かれようが、われわれは自分たちの生活を楽しむという気概が伝わる。

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馬車に乗って家族でピクニックしたりして、ムッソリーニが台頭するなかでも、それだからこそ人々は精一杯生活を楽しもうとしていたのだ、、、。
ポプラの綿毛が風に舞いそれを街頭で皆がはしゃぎながら手に掴んで春が来たと喜びを分かち合う。
するとアコーディオンが街に鳴リ響き。
誰に向けてか(映画を観る観客に向けて)美術作品や建築の蘊蓄を語る男。
ただバイクを乗り回す男。
女であることを愉しんでいるような女性。
いい加減な司祭。
悪戯ばかりしているませたガキども(笑。

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皆フェリーニの子供のころからの記憶の断片でもあろうか、、、。きっとそうだ。
色々な先生のそれぞれアクの強いこと。生徒のしょうもない悪戯。
とても綺麗で可愛らしい女子がいるのに、その子に皆の気持ちが集中するわけではなく、年上の大人の女性に彼らは憧れる。
まあ、先生に初恋を抱く年頃でもあるが、、、。この子たちは寧ろ大きな胸とお尻に過剰に拘る即物派であるか。

面白かったのは、チッタの叔父さんである。
精神病院に入院しているが、良くなってきたというところで彼を誘い家族全員で馬車で出かけるが、その先で叔父は大きな木に登ってしまい、いつまでも降りてこない。しかも大声で「女が抱きたい~」と叫ぶのだ(困。
幸いピクニックで町はずれに来ていたため近所に聞かれることはないにしても、家族としては大変気をもむ事態となりピクニックどころではない。
梯子を掛けて降ろそうとするも、ポケットに入れた石のつぶてを頭に投げつけられる。
笑える。が、家族にとっては想定外の災難に違いない。しかし彼らは終始そんな叔父に優しい。とても優しいのだ。
こうしたご時世に。いやそうだからこそなのだ。何故ならムソリーニもヒトラーもスターリンもそういう人を徹底して排除する体制を理想の世界として構築しようとしていたのだから。
結局、先生に車で迎えに来てもらうが、叔父は看護婦さんの言う事にはニコニコしながら従い、降りて来る。そんなものだ。

もうひとつ強く印象に残ったのは、街の人々が夜、わざわざボートに乗って集まり、近くを運行するアメリカの超豪華客船を見に行くところである。それを見て皆が歓声を上げ手を振り涙を流すのが何とも言えないところであった。
アメリカ(文化~自由の国)への憧れなのだろうか。
やはり体制による日々の抑圧と鬱積するものをやがていつか解放してくれる巨大な象徴にも窺える。

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こんな風に、色々と困ったり喧嘩をしたり子供を叱りつけたりその家の特殊事情の悩みがあったりの普通の家庭生活がちゃんとなされているのだ。
市井のひとたちの力強い日常の日々がとても豊かに描かれている。
かなり厳しい情勢となっていることは確かであり、こんな時に浮かれていられる訳ではないが、絶対に体制に圧し潰されない。
幼い時からの記憶であれば美しく染め上げられている部分も少なくはないはずだが、良い物語に編集されていると思う。

雪の降った冬の広場に舞い降り羽を広げた孔雀。
これはきっと忘れられない記憶なのではないか。
(わたしも恐らくこれに似た少年時代の想いはある)。

そして、最後の海辺である。
街一番の美女グラディスカの結婚を祝う引いたカメラでの情景がこちらの無意識的な記憶にも浸食してくるのだ。
何ともノスタルジックな感情が自然に込み上げて来た。
きっと盲目のアコーディオン弾きがここでも演奏していることは大きい。



眺めのいい部屋

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A Room with a View
1986年
イギリス

ジェイムズ・アイヴォリー監督
ルース・プラワー・ジャブヴァーラ脚本
E.M.フォースター『眺めのいい部屋』原作

ヘレナ・ボナム=カーター 、、、ルーシー・ハニーチャーチ(シャーロットの従妹)
デンホルム・エリオット 、、、エマソン氏(ジョージの父、英国人旅行者)
マギー・スミス 、、、シャーロット・バートレット(ルーシーの従姉)
ジュリアン・サンズ 、、、ジョージ・エマソン(ルーシーの恋人)
ジュディ・デンチ 、、、エリナー・ラヴィッシュ(小説家)
ダニエル・デイ=ルイス 、、、セシル・ヴァイス(ルーシーの婚約者)
サイモン・キャロウ 、、、ビーブ牧師
ローズマリー・リーチ 、、、マリアン・ハニーチャーチ(ルーシーの母)


このイギリス貴族の映画を観て、最近読んだカズオイシグロの「日の名残り」を思わず想いうかべてしまったのだが、このジェイムズ・アイヴォリー監督は何とその「日の名残り」を映画化した監督でもあったという。
今度は是非、そちらを観てみないと。
この監督であれば期待も膨らむ。
緻密で間のある格調高い絵が撮れる人でないと、あれは無理である。
(こういった映画はサスペンスの監督には形式的に困難か、、、いやサスペンスの要素がない訳ではない。恋が題材なのだし)。

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この作品世界は、20世紀初頭に設定されているが、田園風景や衣装、馬車、屋敷や人の佇まいからしてトマス・ゲインズバラ(英18C)のあたりの絵画世界を思い起こすところはある。
この時期、風景画をよく描く肖像画家がイギリスにはいた。(コンスタンブルは圧倒的に風景であった。ターナーは別格)。

20世紀になっても古き伝統の息づく貴族社会の一齣が窺える。一種の憧れにも近い、、、。
Thomas Gainsborough
(Thomas Gainsborough)
マネようなドギツサは間違ってもない(笑。
プレ・ラファエル派は異質である。
やはりトマス・ゲインズバラの雰囲気か(と言ってもこの様式化は少し気になるが)。

A Room with a View003

ここのところずっとティム・バートン監督映画で途轍もない役をすました顔でこなしているヘレナ・ボナム=カーターがラブロマンスのちょっと気の強いヒロインである。
とても似合っている。本来こういう人だったのだと、感心する(笑。
テニスも男勝りにやるが、ピアノでベートーベンをアグレッシブに弾き、シューマンも弾いている。歌も弾きながら唄っている。
そして何よりプッチーニの「私のいとしいお父さん」である。
とてもこの映画にしっくりしていた。
お陰でこの曲がもっと好きになってしまった。

色々とニンマリ面白い光景があるが、男三人の森の中の湖での水浴は傑作だった。
画家達に広く題材化された「水浴」であるが、この絵は恐らく誰も描くまい。
牧師もそのなかの一人で、散歩で出くわしてしまったルーシーに狼狽して逃げ惑い、爆笑されている。
様々な絵(風景)や音楽、日常の何気ない出来事、、、その辺が愉しめる作品であって、あまり話にはついて行けなかったのがホントのところ。
おばさま方のお喋りが途中から何言ってるのか分からなくなってしまった。


フィレンツエとイギリスそしてギリシャか、、、。
外国に行ったらホテルの部屋からの眺望には拘るね。
その空こそがその国なのだろう。
恋などは勿論、自国~伝統の柵から解かれてかなり情感に任せて出来てしまうものか。
フィレンツエの地で出逢ったジョージ・エマソンにシチュエーションからも惹かれる(両想い)。

しかし帰国したらもう婚約者が出来ていた。
あっさりしていてこちらが戸惑う。

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婚約者セシル・ヴァイスはわたしとちょっと(かなり)似ているので、どうなるものかと思って観ていたら案の定である。
引き際も実にあっさりしている。そこも似ている(爆。

ルーシーは何でもはっきり言って自分の気持ちを貫くかと謂えばそうではなく、言う事で何か肝心な事を押し隠し、自分でもそれを嘘と自覚している。
つまり自己主張のしっかりした自分を押し通す女性に見えて、実はとても臆病な保守的で脆弱な自我を守っている感じである。

何度もジョージ・エマソンを拒絶しつつ彼に惹かれていくのは、観る目をもつ人なら誰でも分かる(爆。
(特に弟それからジョージの父、、、)


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ギリシャに逃避行しようとする最後の最後にジョージ・エマソンを受け容れたルーシー・ハニーチャーチのこころからほっとして解放された表情が大変印象的であった。桎梏から解かれた顔が綺麗であった。
そう、こういう時こそ人は輝く。
(それを演技で出来るのだから役者は凄い)。

この時期、上流階級はこのような恋愛で結ばれるのは、かなり大変であったのか(20Cである)。
いやいや、イギリス王室のやりたい放題ぶりからしても、そんなことはないと思う。






ザ・リング/リバース

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Rings
2017年
アメリカ

F・ハビエル・グティエレス監督
鈴木光司 原作

マチルダ・ルッツ 、、、ジュリア(ヒロイン)
アレックス・ロー 、、、ホルト(ジュリアの彼氏、大学の研究生)
ジョニー・ガレッキ 、、、ガブリエル(ホルトの教授)
ヴィンセント・ドノフリオ 、、、バーク(元牧師、サマラの父)


夏なので観てみた。
もともとオリジナル「ザ・リング」に何の思い入れも興味もない。
当時の友達関係で、原作まで読んでしまったが、別に何の印象も残らなかった。
ただハリウッド版で、如何にもというドラマチックなエンターテイメントに仕上がっていればそれはそれでよい息抜きにもなるかと思ったのだ。
ここ数日間、「ツインピークス」で訳が分からなくなっており、わたし自身がダグラス・ジョーンズ(ダギー)みたいになっているので(爆、小休止が必要なのだ(娘がいるのでそれは不可能だが)。
(依然、「ツインピークス」はDVDの5つ目で、まだ先は長い)。

のっけからジャンボジェットの乗客で、呪いのビデオを観てから丁度7日目というのがいて、、、何と飛んでもない野郎だ(怒。
乗客・乗員全てを巻き込むスケールでいきなり始まった。
流石はハリウッド、これはやってくれそうと期待を膨らめたものだ。

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だがその二年後という本編に入ってから、、、オルフェウスの話などして盛り上がり、彼氏と溌剌とした笑顔を見せていた頃には良い女優だなと思っていたヒロインが、顔をしかめて演技し出すと何とも魅力ない人に見えて来る。
暗い雰囲気になってからも、大学の研究室の専門チームでサマラの呪いからの救済をシステム化する研究がしっかりなされてゆくのか、と思いきやテールとか何とかいって誰かにコピービデオを見せるという従来の方法をとっており、謎の解明と拡散を食い止める手立てなどを提示する方向性は見えず仕舞いだ。
結局、とても小規模なその教授と教え子だけの個人的な試みだったのだろう。
ここに来て、最初に抱いたスケールの大きい大胆で大掛かりで豪快に愉しませるハリウッドの側面は期待できそうにない事を感じる。

ただ、ちまちまと暗い感じで噺は進行してゆく。
サマラは、流石にメディアとしては消え去ったビデオテープからデジタルデータ化してパソコン上のファイル単位で活動をしていた。
これならメール、SNSなどで一気に世界規模で拡散できる。どう考えてもこの手しかあるまい。
ただ、電気を(コンセントを)抜いてもテレビから、しかも倒れている画面から這い出てくるのが、執念というか律義さを感じさせ、やはり情念~零世界を感じさせるところなのだ。

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ちょっとそのじめじめ感が日本版にも通じる雰囲気もあり、まさかとは思うが原作や「リング」をリスペクトして追従した作りなのだろうか、と勘繰ってしまった。未だに井戸から出て来るし(ビデオの中だけだが)。
怪獣(映画)をリスペクトして作られたギレルモ監督の「パシフィックリム」は大傑作であったが、貞子をリスペクトしてもまず良いことはないはず。
まあ、サマラの呪いの原因が牧師の性犯罪にあったなどアメリカ的に分かり易くなっていたが、ちょっと原作~日本オリジナルからは馴染めない感じになってしまっている。
ハリウッド版なので仕方ないが。

サマラのビデオはかなり絵も複雑でアートがかっており、絵が後から加わりデータ量も増す。
デジタル化した分、ネット上で遥かに柔軟で発展的な情報体となったことが分かる。
そのうちサマラ製作(というか自己拡張)のビデオが2時間映画そのものになってしまう可能性もあるかも。
そうしたら、「アンダルシアの犬」などと同様に人々の(特に評論家の)注目をより浴びる作品となるはず。
ただ見た後、皆死んでしまうが、、、その方向性も面白い。
恐らくザ・リング本編より面白く芸術性の高い作品として残るに違いない。サマラは監督か?

複雑なアートサマラビデオをヒロインの女の子はよく記憶しており、サマラの葬られている土地に行く先々にその場所や形や人物~少女を見出してゆく。この予定調和はある意味、サマラに導かれているのか?惹き合っている様だ。
ヒロインは魂の解放に来てくれるのだし。
そのようなスタンスとなっているようである。
それが一番よく分かったのは、ジュリアが牧師に殺されそうになった時、父でもあるその男を例の恐怖の顔で怖がらせて殺すという、ヒロインを助ける動きに出たことでも分かる。

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このような映画のお約束の最後のどんでん返しであるが、サマラの埋葬が済み、全て解決したとホッとしてシャワーを浴びていると何とジュリアの身体に異変が起きる、同時に彼氏は教授のボイスメモに気付きジュリアの手の傷が点字のメッセージであることを知る。
ジュリアのもがき苦しむ口からはサマラの髪と蝉?が吐き出され、彼氏の点字翻訳がコマンドとなり、サマラのファイルが一斉にメーリングリストを通じコピー転送されてゆく。コンピュータのコンセントを抜いてもそれは止まらない。これはサマラの得意技の一つでもある。
恋人同士二人が叫び声をあげてパニックになる。
拡散したファイルの感想がすぐさま戻って来て、、、ジュリアの方は何とサマラに乗っ取られてしまったか、、、。


しかしこのファイル拡散はパソコンのディスクトップにファイルのアイコンが乗っている時点で最初からこちらも分かって見ている。
今更驚けない。ジュリアの身の上に関しても想定の範囲内である。
どんでん返しには全くならないし、どうにもこの映画自体が怖くはないし、驚きもない、サスペンスというほどの緊張感もない。
これが一番肝心なことであるが、貞子ではなくサマラがあまり出て来ないし、活躍もしていないのだ!
もっとおどろおどろしく暴れてくれなければ。この点においては、日本版の方が怖さはある。
元々サマラより貞子の方が怖いのかもしれない。
ヒロインは、ハリウッド前作のナオミ・ワッツの方がずっと良かった気がする。
彼女は「ツインピークス」でバリバリに活躍している(笑。



やはり「パシフィック・リム」みたいなものを観たい。
(貞子より怪獣である)。


マッドボンバー

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The Mad Bomber
1972年

アメリカ

バート・I・ゴードン監督・脚本・製作・撮影

ミシェル・メンション音楽

チャック・コナーズ、、、ウィリアム・ドーン(爆弾魔)
ヴィンセント・エドワーズ、、、ジェロニモ・ミネリ(刑事)
ネヴィル・ブランド、、、ジョージ・フロムリー(レイプ魔)


年代物映画の好いところと困ったところが両方ある。
効果音・BGMがまず凄い。
耳障りで何の音だか分からない。
ペラペラ音だけが絵から自立してやけに気になる。
緊張感を高める演出としてはかなりきつい。
(「ウルトラQ」とか「怪奇大作戦」に近い乗りではあるが、それらの方が上手かった)。

反面、テープレコーダーが度々出てきて懐かしい。
そして何より(巨大)コンピュータである。
もうたまらないデカさ(大型冷蔵庫以上)と大まかなスウィッチ・ランプそしてデータテープの回転である。
モニタも小さいブラウン管でコマンドライン入力、プリンタからのテープ出力も何とも慎ましい。
爆弾犯人は被害妄想の偏執狂で金は関係なく社会に対する個人的な恨みを元に犯罪を繰り返していると分析結果が出る。
別に言われなくとも誰もがそんなところだろうとは想像している(笑。
犯人の特定に結びつくような特別な犯人像というものではない。

また何と謂っても当時マンガに出てきたようなダイナマイトと丸い目覚まし時計みたいな物との組み合わせの時限爆弾である。
この辺の物~ガジェット類がとてもコミカルな要素となっていてフェティッシュな愉しみが生じてしまう。
(何と謂うか物語の無意識部分に当たるか)。
そう、ファッションも見事に70年代でありその雰囲気に酔える。

The Mad Bomber002

堕落した社会が報復を受けるのは当然の話しだ、と言って犯人は次々に公共施設を爆破して行く。
ともかく、背が高い。2mくらいある。
如何にも頭が固そうな規範に厳しく受容性に乏しい他罰主義男である。
レイプ魔はここでは病院での犯行時に爆弾犯を目撃している可能性が高いことから物語に絡んで来る。
このレイプ魔も非常に悪質であるが自分はさておき、世直し爆弾魔を飛んでもない奴呼ばわりしている。
ほとんどこの男も罪悪感を持っていないことが分かる。

この二人は共に非常に残酷な犯罪を犯しているが、爆弾犯は正義の立場からの制裁という形で人を殺しているのに対しレイプ魔の動機は単なる個人的な欲望の実現以外の何ものでもないのだが、悪びれていない点で同等である。
どちらも身体性において他者との距離がとても離れている。
他者は大変貧しい記号的存在となっている点で両者は似ている。
片や愚かで不道徳な大衆という記号と片や単なる欲望を実現させるだけの性的記号である。
そして彼らは外にしか意識が向いていない。
内省というものが微塵も感じられない為、自己対象化の余地もない。

この物語は刑事も含め、かなり極端な単純化されたキャラで構成されている。
(とは言え、役者の怪演はかなりのものなのだが)。
刑事については、ハードボイルドな一匹狼タイプの先駈け的な存在か。
そのキャラたちの乗る平板な流れが独特な雰囲気を作っている。
何と謂うかこの時期のTVのクライムドラマに質的に近い。
絵の色が実に日常的で映画的ではないところからも。
お金もさほど掛かっていないことは分かる。

何れにせよ原理主義者によるテロや利己的で無意識的な犯罪の多発はすでに現状である。
更にこの爆弾犯のような内省や洞察を欠く他罰主義者が跋扈している点では、潜在的には遥かに恐ろしい状況となっている。
ともあれ古いで片付けられない映画である。

出て来る人物への共感とかは、その人物像の薄っぺらさから無理はあるが、ではつまらない映画かと言われると、そうではない。
爆破で殺された無残な死体などの描写や性的表現も少なからず斬新さがあり、カメラワークも上下(俯瞰)の動きなどに工夫が感じられる。
終盤、犯人が赤いワゴン車にロスの多くの人間を道連れに出来るダイナマイトを積み込み、彼らしく街の決まったコースを信号を守りながらゆっくりと巡回し、爆破のタイミングを計るシーンがあるが、ここなど派手なカーチェイスよりテンションを高められる部分であったと思う。
特に爆弾犯の壮絶な最期などちょっとびっくりした(カメラワークも併せて)。

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こうしたタイプの映画の初期形を観る愉しさは確かにある。

そして今思ったのだが、本作が毎晩少しずつ見ているデヴィッド・リンチの「ツインピークス」に収束してくる流れの一本にも感じられてくるのだ。

GODZILLA 怪獣惑星 

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GODZILLA

3部作構成の第1章である。
2017年

静野孔文、瀬下寛之 監督
ポリゴン・ピクチュアズ制作
虚淵玄 原案・脚本
XAI 主題歌「WHITE OUT」


ハルオ・サカキ大尉
ユウコ・タニ曹長、兵器開発者
メトフィエス中佐、エクシフ(異星人)の大司教
ムルエル・ガルグ中佐、ビルサルド(異星人)の技術士官


アニメーションの自由度をフルに活かし、途轍もないスケールと圧倒的な疾走感で一気に見せてしまう。
とは言えゴジラ自体はあまり動かない。
名状しがたい深い表情。
吠える声はまさにゴジラのものであった。
そして、熱線の破壊力に尽きる。

2作目も早く見たいと思った。

地球が怪獣たちやゴジラに壊滅的に破棄され、選ばれた者たちが他の惑星目指して逃れるが、その惑星には人類は住めずに宇宙を漂流する羽目となる。
長い年月宇宙船の劣悪な環境下にあって、地球に戻りゴジラを倒して故郷を奪還すべきという案に賛同する者が増えて来る。
戦術的にもゴジラを倒す案がサーバーにアップされ、誰もの注目を集めるようになっていた。
主人公は幼い時にゴジラに両親を殺され、何よりも人類の手でゴジラを倒し地球を取り戻すことを自らの使命と捉えている。

更にこの宇宙船には二種類の地球に移住を求めて来た異星人も加わっている。
ほとんど地球人と体形の変わらぬ意思疎通のできる高度な知性を有した種族である。
文明も文化も共有(理解可能な)部分が大きいように窺える。
(と謂うより、余りに似すぎている感じであり、普通の外国人くらいの雰囲気だ)。
議論して協力体制のもと、結局地球に戻り、ゴジラ殲滅作戦に打って出ることとなった。

彼らは宇宙船内に20年過ごしたが、地球はすでに2万年以上経っていた。
その間、環境はゴジラに最適化されたものになっていたようだ。
空気は人の吸えるものではなく、電波も撹乱され、怪獣が跋扈しており、2万年の時の経過は残酷なものであった。

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何と謂ってもメインは目を離せない怪獣やゴジラとの死闘である。
綿密に立てた作戦の決死の決行により、犠牲を出しつつ確実ににゴジラを追い詰めてゆく。
そしてギリギリの攻防の末、ついにゴジラを倒す。

しかし多大な犠牲を払い総力をかけて倒したゴジラはオリジナルの子孫に当たる個体であった。
勝利の余韻に浸る間も無く、ゴジラ・アース~本体が現れた時の敗北感は凄まじいものだ。
もう全く余力のない戦闘員たちになす術もない。
驚くのは、初代ゴジラが2万年の間、ずっと生き続けて成長を遂げていたということである。
体長300メートル、体重10万トンという巨大さは生物の限界を完全に超脱していた。

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誰もが宙を仰ぎ、その魔物の姿に打ちのめされる。
我に返り、その場を退却してゆくが、尻尾一振りの破壊力で多くが吹き飛ばされてしまう。
彼らはもはや散り散りだ。
絶体絶命の状況で物語は第2章へ渡される。


共感したり批判したりする余地のないテンポが凄かった。
暗く白熱した悪夢のようだ。
ただ引きずり込まれて見るだけの映画であった。


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ゴジラが物凄い筋肉質であったことが分かる。
これは動いても凄そうだ。










ストレンジャー・イン・パラダイス

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Stranger Than Paradise
1984年
アメリカ、西ドイツ

ジム・ジャームッシュ監督・脚本
ジョン・ルーリー音楽

ジョン・ルーリー 、、、ウィリー(ベラ・モルナー)
エスター・バリント 、、、エヴァ
リチャード・エドソン 、、、エディ
セシリア・スターク 、、、エヴァの叔母


ジム・ジャームッシュお得意のキャスティングである。
主人公や主要キャストにミュージシャンを選ぶ。
長編一作目の本作では、ウィリーにジョン・ルーリー。相棒エディのリチャード・エドソンはソニック・ユースのドラマーである。
ふたりのミュージックスタイルはかなり異なるが。

ブダペストから来た従妹のエヴァがクリーブランドに向かう途中でウィリーのアパートに転がり込んで来るところから始まり、エヴァを軸に淡々と無機質に展開する。

基本的に何が起きるでもない。
賭けで小銭を儲けてブラブラ生活している様子が垣間見られる。
各シーンは短く、物語性が膨らむ前に周到に摘み取る様に途切れる。(ワンカットワンシーン)。

ギャンブラーとして生計を立てているウィリーがしきりにハンガリー人であることを隠す。
従妹のエヴァを10日ばかり預かってくれと電話をよこす叔母にハンガリー語でなく英語で話せと訴え、自分は生まれも育ちもアメリカ人であると暗に顕示しようとするかのようだ。
エヴァを訪ねて叔母のところに行ったとき、本名のベラというのを相棒に聴きとられただけで怒っている。

そしてウィリーはラジオにかかるジョン・ルーリーの曲を「最低だ」と言って嫌うのが面白い。
他のふたりは大好きだというのに。

競馬で「トウキョウストーリー」が強いとか、小津ファンであることを仄めかすところもある(監督が)。

噺は三つの舞台に分かれる。

The New World
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ニューヨークである。
ギャンブラーとして生計を立てて生きる我が街である。
簡素な街のこれまた簡素なアパートの一室。
これがアメリカ人の食事だといって食べるアルミの皿のセットメニューも実に簡素なものである。
皿を洗う必要がないんだ、と威張っているがエヴァにとっては、それって食べ物?という感じである。
アメフトをTVで観ながら解説するが、エヴァはちっとも興味が沸かず、バカみたいとあっさり退ける。遠慮はない。
そのくせ、この部屋汚れているわと、掃除機をかけたりする。ちょっとこの辺、秋葉のツンデレっぽいか?
相棒のエディもやって来て彼女と顔見知りとなる。確かに素っ気ないコケティッシュな魅力であろう。
クリーブランドに発つときにウィリーは彼女にワンピースをプレゼントする。
「わたしこういうの着ないの。」「ここはアメリカだ。」ウィリーを支えるアメリカ観とは如何なるものか興味深い。
(少なくともアメリカンドリームを当てにしてアメリカにやって来る上昇志向は微塵も見られない。しかし誰よりもアメリカ人でありたいという意識は窺える。では彼のアメリカ人とはどのような像なのか。別のアメリカンイメージがあるのだ)。

夜、外でエヴァはそのダサい服を脱いでゴミ箱に捨てる。
エディはそれを目撃するがウィリーには言わない。

One Year Later
Stranger Than Paradise002
クリーブランドである。
如何様ポーカーでひと稼ぎした勢いで、クリーブランドにエディの借りた車で行くことにする。
「エヴァに逢いに行こうぜ。」この辺、極めて身軽な連中なのだ。
しかし二人にとってエヴァは何であるのか?
エディは赤の他人であるしウィリーも日本であれば4親等であることから彼女にする資格は法的にもある。
特に何も考えずただ逢ってみたいだけでもない執着心は感じるが、どれだけ意識しているかは分からない。
エヴァはクリーブランドのマクドナルドで働き映画を一緒に観る彼氏も出来ている。
彼氏とエヴァの間にエディが座るという4人構成でカンフー映画を観たりして、、、。

だが、そこは寒い。退屈。叔母とカードをしては負けるだけの日々に彼らはもたない。
それにエディの言うように、どこもみな同じなのだ。
全くその通りだ。
エディにブダペストもこうなのかい?と聞かれまたもウィリーは怒る。(エディはほとんど何も考えない男だ)。
600ドル持っている心の余裕からか、ふたりはエヴァを誘ってフロリダに行くことに決める。
エヴァも仕事と彼氏がいるのに、二つ返事でフロリダ行きに乗ってしまう。
叔母の反対を押し切って雪の中を車で乗り出す。

Paradise
Stranger Than Paradise001
フロリダである。
最初のうちは観光客気取りで良い調子であったが、、、。
Stranger Than Paradise004
二人部屋の安モーテルに三人で泊まり、節約して遊びまくるのかと思えば、彼女を部屋に残して出掛けたドッグレースで有り金のほとんどをすってしまう。そしてかなり険悪な事態になる。
一体何をしに来たのか、、、。そんなこと彼らは端から考えてもいない。
どこもみな同じなのではなかったのか?
それでまた、エヴァを独り残して今度は競馬に出掛けてしまう。
つまりウィリーの関心事は何処にいようが、賭け事以外にないことが分かる。観光を愉しむという世界などない。
ここに彼のアメリカ人としての非常に覚束ない(ギャンブルで繋がるレベルの)アイデンティティが窺える。
(母国ではどうだったのだろう?アメリカに来てこうなったのであれば、母国語の抑圧・否定が作用している部分は大きいと考えられる)。
そしてどうやらウィリーは賭けの際、女は絶対連れてゆかない(同席させない)という固い信念(ジンクス)を持っていることも分かる。
エディがいくら可哀そうだし連れて行こうよと懇願しても聞かない。

何も考えていないのが幸いしてか、外を散歩中だったエヴァは麻薬の売人と間違えられて大金を手にする。
競馬で稼いだ二人が小銭を手にしてモーテルに戻ると彼女はすでにいない。
空港に行くという置手紙とかなりの大金が添えてあった。
ふたりは金を持って、彼女を連れ戻そうとすぐに空港に駆け付ける。

Stranger Than Paradise005

この映画全般のリアルな雰囲気はとても良い。
ユーモアとペーソスに充ちている。
特に最後のシーンはブラックユーモアと謂ってよい。

結局、ウィリーは彼女を探して飛行機に乗ったまま何とブダペストへ直行して行く(爆。
その日に発つ飛行機はブダペスト行きしかなかったのだ。
その飛んでゆく飛行機を呆れ顔で眺めつつエディはニューヨークに還るしかなかろう。
彼女は、ブダペストへ帰っても意味はないし、独り引き払われたモーテルに戻って来る。
(自分の書いた手紙から二人はすでにいないことは分かっていても何とも虚しい)。
三人バラバラになってしまうが、最初からバラバラであった。

誰もがストレンジャーなのだ。アメリカは元々そういう国である。
そして何処に行っても同じなのだ。

ダウン・バイ・ロー」とともにお気に入り映画のひとつである。


白い家の少女

The Little Girl Who Lives Down the Lane00

The Little Girl Who Lives Down the Lane
1976年

アメリカ

ニコラス・ジェスネール監督
レアード・コーニッグ原作・脚本

ジョディ・フォスター、、、リン・ジェイコブス (13歳の少女)
マーティン・シーン、、、フランク・ハレット (夫人の息子)
アレクシス・スミス、、、ハレット夫人 (家主)
スコット・ジャコビー、、、マリオ・ポデスタ (片足の不自由な彼氏)
モルト・シューマン、、、ロン・ミリオリティ (警官)


ニューイングランドのウエルズ・ハーパーという物哀しい街が舞台。
街にも出るがほとんど少女リン・ジェイコブス宅でのやりとりである。
The Little Girl Who Lives Down the Lane02

リンは、ハロウィンがバースデイなのだ。
ハロウィンがバースデイだなんて。
白い家に独り淋しく強く生きている。
その白い家に独り住むことを宿命付けられているとも謂えるか。

13歳の娘が独りとなると周りも煩い為、父が書斎に閉じ籠って仕事をしている偽装を凝らしている。
リンは父の思想に共鳴し彼の遺志を継いでいる。高い知性と鋭い感受性をもつが社会の枠に嵌められることを殊更嫌う。
父と同じ感性なのだろうが、外に交わることの不安や恐怖も感じられる個性だ。
金は潤沢にあるようだ(家は向こう三年分の賃貸料を前払いしている)。

The Little Girl Who Lives Down the Lane03

父が詩人というのに一度も出て来ない。
死期を悟り海で自殺してしまっているからいないのだが、回想にも出て来ない。
母は父から渡された青酸カリ入り紅茶で死んでもらっている。
母は父も彼女も大嫌いな人物であったらしい。
だからか母も回想には出て来ない。
(この映画はよくある現在の時間流に過去の時間流が混入するようなタイプのものではなく時間は線状的に流れる。と謂うより内面描写そのものがない)。
部屋のなかに流れる時間で演じられる物語だ。

兎も角、不快極まりないのはハレット母子である。
自分が家主である事をよいことに、他人の家(契約上)にズカズカ入り、やりたい放題の無礼を働き捨て台詞を吐いて立ち去る。
こんな奴らばかりなら、閉じ籠るのも仕方ない。

自分にとって不要なものを遮断して行く生き方は今のわたしと同じでもあり共感出来るが、マリオのアドバイス通り学校くらいは行っておいた方が良いと思う。
この状況は、切断以前に関係性の網が余りにも貧弱すぎる。
ほとんど孤立状態に、ウザいフランクやその母のハレット夫人のような輩のみがズカズカ入り込んで来るだけだ。
警官は職務上仕方ないところはあるが。
まともな友がマリオ一人というのは大変キビシイ。
いくらしっかりしていても人の助けは何かと必要となるものだ。

gifted/ギフテッド」のメアリーと同じように知力と超脱した感性と認識によって同世代の枠に馴染めないのは分かるが。
もう少し関係の網を広く伸ばしてから不要なものを切断して行けばよいのでは。
所謂、普通の他者との交わりである。

The Little Girl Who Lives Down the Lane01

マーティン・シーン演じる粘着気質の嫌な男ぶりは徹底しており悪魔としか言えないものであった。
(最後はまさに悪魔そのものであったが)。
この男との攻防戦が軸とも取れるが、最後のリンの紅茶の巧妙なシーンにはドキドキした。
しかし予め毒入り紅茶を自分が飲むようにセットして置き、相手の猜疑心を刺激してその紅茶の方に手を伸ばすように誘導する等、百戦錬磨のスパイみたいではないか。
13歳の女の子のすることか?
ジョディ・フォスターなら出来る(笑。

地下室から屍を二体引き釣り出して、庭に埋めるが警察犬などに匂いを嗅がれたらアウトのように思うが。
更に最後はもう一体増える。
死体処理どうするんだろうとこちらも心配になる映画であった。
グッドフェローズ」でプロのギャングでさえ死体の処理には困っていたものだ。
相棒のマリオは、雨の日の墓場堀りで肺炎を抉らせ入院中である。

綺麗だねと自分の髪をさすりながら息絶えてゆくフランクを冷たく突き放した瞳で眺め続けるリンのアップでエンドロールである。
魔性すら窺わせるところだ。
ある意味、ジョディの少女期のPVとも受け取れるフィルムでもあろう。
確かに恐ろしい新人女優の登場である。

The Little Girl Who Lives Down the Lane04


羊たちの沈黙」や「コンタクト」が余りに素晴らしく、そちらのジョディ・フォスターにばかり注目してきたが、この時期の彼女も魅せる。








かくも長き不在

Une aussi longue absence

Une aussi longue absence
1961年
フランス

アンリ・コルピ監督
マルグリット・デュラス脚本

アリダ・ヴァリ 、、、テレーズ・ラングロワ(カフェの女主人)
ジョルジュ・ウィルソン 、、、浮浪者(アルベール・ラングロワか?)
ジャック・アルダン 、、、ピエール
シャルル・ブラヴェット 、、、フェルナンド


テレーズはパリの下町にカフェをもち、御客で店は賑わっている。
彼女が信頼され土地に根付いた生活を営んでいることが窺える。
パリ祭が始まると、人々はバカンスに出かけてゆき、すっかり街は静まりかえった。
そんな時、彼女は16年前にゲシュタポに強制連行された夫にそっくりな男に出会う。
”歌手”と綽名を付けられた浮浪者である(セビリアの理髪師を唱っている)。

驚きの念を隠せず、テレーズは男に何とかコンタクトを取るも、彼はこれまでの記憶をすべて失っていた。
男は、川岸に掘っ立て小屋を作り、そこに寝泊まりしている。
古紙を集め生活しており、午後は小屋の前に腰掛け、残った雑誌から気に入った写真を切り抜き箱に収集しているのだ。
彼は基本的に他者に興味がない様子で、淡々と自分のやるべきことに没頭していた。

女は決して直接自分と彼の関係を仄めかしたり、過去を殊更問いただしたりはしない。
ただ話を聞いたり、彼が口ずさむオペラの曲について話したり、店のジュークボックスにその曲を追加して一緒に聞いたりするだけである。
思い出せる一番昔の記憶は、、、とは聞くが、彼は野原で立ち上がり、歩いたというだけであった。
(恐らくそれはつい最近の記憶である)。

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彼女はあくまでも彼の方から思い出してもらいたいのだ。
わたしはアルベール・ラングロワだと、、、。
彼女は親族を呼んで、彼を監査してもらうが、目の表情が違う、身長が違う、音楽に興味はなかったと否定的な見解を述べるが、彼である可能性を打ち消すことも出来ない。誰もが少なくても16年は逢っていないのだ。その不在は、あらゆる面で大きい。
結局、テレーズの彼への想いを、彼こそが帰って来た夫だという確信を、強めることになる。

彼の持っている証明書には名前が「ロベール・ランデ」となっている。
しかしそれも記憶喪失の彼の持ち物であり信憑性に欠ける。
彼には店で食事をしたり、音楽を聴いたり、話をしたりしましょうと持ち掛け彼の承諾を取る。
彼女自身であくまでも彼の正体を暴きたい。
いや共に生きた何らかの記憶を共有したいのだ。
(これが人間の究極的な願いなのかも知れない)。

彼女は食事に取って置きの「ブルーチーズ」を振舞う。
やはり好きであった食べ物が想い出に繋がる可能性は高い。
そう、マルセル・プルーストは(紅茶に浸った)「プチット・マドレーヌ」であった。
だが、そのチーズは美味しいというだけで、何かの想い~記憶に接続することはなかった。

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街の住人(バカンスに行っていない人々)も彼女の動向を固唾をのんで見守る。
皆、個の事態に狼狽えているのだ。

或る夜、音楽(オペラ)を聴いて歌を二人で唄って打ち解けた後、ダンスをして彼女は初めて気づく。
彼の後頭部に大きな深い傷が生々しく残っているのだ。
普段は帽子で気付かなかったそれに彼女は少なからぬ衝撃を受ける。

医者ももう治らないだろうと言っていると彼は他人事のように語る。
そう、感情的な面でも(記憶と感情は切り離せない)何か欠損があるように受け取れる。
彼女の表情は曇るが、時間をかければ記憶の蘇る可能性もあると気を取り直し信じようとする。
いや、そうではない。もはや彼の記憶が戻ろうが戻るまいが、夫であるかどうかなどの次元ではなく、夫をゲシュタボに奪われてからの空白の長い年月の空虚~不在を埋める生きる力~希望と、彼の存在はなっていたのではないか?

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夜の街頭に出たところで彼は、テレーズから、寄り集まって来た街の人々から”アルベール・ラングロワ”と叫んで呼ばれる。
彼はフリーズし両手を上げる。
そして怯えて走って逃げ出す。
街の人々に追われて、、、何かに追われて、、、
正面からやって来た車に、助けを求めるかのように両手をひろげ飛び出してゆく、、、。


警官が彼女のもとに戻って来て、「彼は出て行った」「分かるだろ」と告げる。
彼女は、「また出て行った」と返し呆然としながら「でも冬が来ればまた帰って来る」「冬を待ちましょう」と呟く。

彼女にとり、(また)永遠なる不在がはじまる。







gifted/ギフテッド

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Gifted
2017年
アメリカ

マーク・ウェブ監督
トム・フリン脚本

クリス・エヴァンス 、、フランク・アドラー(メアリーの叔父、元大学哲学教授、現ボートの修理屋)
マッケナ・グレイス 、、、メアリー・アドラー(ギフテッド、フランクの姪)
リンゼイ・ダンカン 、、、イヴリン・アドラー(メアリーの祖母、フランクの母親、数学者)
ジェニー・スレイト 、、、ボニー・スティーヴンソン(メアリーの担任)
オクタヴィア・スペンサー 、、、ロバータ・テイラー(メアリーとフランクの隣人)


マッケナ・グレイス。
エマ・ワトソン、ナタリー・ポートマン、ダコタ・ファニングみたいに彼女もなるか、、、
最近では、アミア・ミラーというこれまた凄い女優が出ているが、ライヴァルとなるのか、、、。
子役というのは不安定な要素があるからそのまま伸びるかどうかは定かではないが、まずここで充分な役割を果たしていた。

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片目の猫もいるだけで充分な存在であった。
猫とは本来そういうものである。
そしてなくてはならないものとなっている。
こころの支えにいつの間にかなっているものだ。
この猫は、鳥にも優しい猫である。
メアリーの情操教育にはなくてはならない。

彼女は同年代の子供との数学的能力の余りの開きが元で普通の学校には適応できない。
しかし、その他の認識力、哲学的な洞察や考察が秀でているかといえば、ほぼ歳相応でもある。
所謂、数学能力の飛び抜けた天才なのだ。

このような場合、やはり彼女自身の求める環境~ヒトの中で愛情たっぷりに育て、際立つ能力だけを更に育成する場に預ければよいはずではないか。

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メアリーの自殺した母は世界的に有名な天才数学者であった。
自分がデートの約束をしていたため、相談に来た姉ののっぴきならない悩みに耳を貸さず、帰ってみると姉が自殺していて、彼女の子供を自分が育てる運命となっていた。フランクが大きな責任を感じるのは当然である。
しかしフランクは実際メアリーが可愛くてしかたない。
そして尋常でない数学的能力が通常の生活を妨げてしまうメアリーを歪に育てたくない。
ここに”Gifted”特殊な秀でた能力をもつ子供の育て難さがよくあらわされている。
隣人のロバータがメアリーに殊の外肩入れしている。
彼女の置かれた立場と彼女に最も必要なものをよく知っている、貴重な存在である。
天才には、こういう人が一人ついているといないとでは、大きなサポート面での差が出来る。
通常であれば単なるお節介になってしまうだろうが。

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数学の問題・ツールの一杯詰まったMacbook、、、これは良い祖母からの贈り物だ。
この娘なら忽ち使い倒してしまうだろう。
だが、このようなアイテムよりこの子にとって必要なのは愛情ある環境である。
才能を開花させるという祖母の気持ちは、単なる娘の代わりに数学の偉業を達成させようという自分の野心の道具に孫を利用としようとする以外の何ものでもない。
周りの人間は、才能を見出すとそれを物象化してそれを持つ人間そのものには見向きもしなくなり、ひたすら才能という物のみに際限なく拘り始める。それを利用しようとする。
これでは、娘(メアリーの母)が精神破綻して自殺してしまうのも無理はない。
祖母は、娘だけでなく孫のメアリーにも同じことをしようとする。
悲劇を繰り返そうとする。

そのやり口は流石に巧妙である。
叔父の暮らす環境が劣悪過ぎる(教育的にも経済的にも健康面からも)という事から親権を巡り裁判を起こす。
フランクの弁護士を抱き込み、自分が勝者と見えないようにし、第三者である里親に託してメラニーに対し同等の権利を持つかのように装い、里親の別棟に彼女を軟禁し自分も入り浸り英才教育を受けさせていた。
祖母は猫アレルギーの為、片目の猫を保健所に追い遣り、すんでのところで処分となっていた。
小学校の担任の先生がそれに気づきその猫は九死に一生を得て、フランクは里親トリックを見抜き、直ぐにメラニー奪回に飛んでゆく。

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結局、メラニーはマサチューセッツ工科大学に小1から学び、放課後は同年代の普通の小学校の子たちと遊ぶことになった。
大好きな叔父と隣人のロバータと片目の猫のいる環境に戻り。
これまでと同じ、この落ち着き先で良いと思う。

娘(メラニーの母)は、7年目にすでに「ミレニアム懸賞問題」のなかの”ナビエ-ストークス方程式の解の存在と滑らかさ”を解いていた。それを敢えて公表せずにいたのだった。
その証明の冊子はフランクに託されていた。
母の死後まで公表するなという意思に従い。
だが、フランクはそれを母に託す。祖母の興味関心と野心はそこにあったはず。
最後に、手渡された直筆の数式のメモの束を見てイヴリンは泣き崩れる。


知的欲求を満たし、身体的~全人的な成育を全うする環境が得られれば取り敢えずは言う事ない。
ピアノをとても弾きたがっていたのだし、それは買ってあげた方がよいだろう。
恐らくかなりのピアニストになってしまう気がする。
グッド・ウィル・ハンティング」を思い起こす。
幼さと利発さと生意気をしっかり演じていたマッケナ・グレイスの今後にも注目したい。



奇跡の丘

Il Vangelo secondo Matteo002

Il Vangelo secondo Matteo  The Gospel According to St. Matthew
1964年
イタリア・フランス

ピエル・パオロ・パゾリーニ監督・脚本
ルイス・バカロフ音楽


エンリケ・イラソキ、、、 イエス
マルゲリータ・カルーソ 、、、母マリア(若い時代)
スザンナ・パゾリーニ(パゾリーニの母)、、、 母マリア
マルチェロ・モランテ、、、 ヨセフ
マリオ・ソクラテ、、、洗礼者ヨハネ
セティミオ・デ・ポルト 、、、ペトロ
アルフォンソ・ガット 、、、アンデレ
ルイジ・バルビーニ 、、、 ヤコブ(ゼベダイの子)
ジャコモ・モランテ 、、、ヨハネ(ゼベダイの子)
ジョルジョ・アガンベン 、、、フィリポ
グイド・チェレターニ 、、、 バルトロマイ
ロザリオ・ミガーレ 、、、トマス
フェルッチョ・ヌッツォ 、、、マタイ
マルチェロ・ガルディーニ 、、、アルファイの子ヤコブ
エリオ・スパツィアーニ 、、、タダイ
エンゾ・シチリアーノ 、、、シモン(熱心党)
オテロ・セスティリ 、、、ユダ(イスカリオテ)
ロドルフォ・ウィルコック 、、、カヤファ
アレッサンドロ・クレリチ 、、、ポンテオ・ピラト
アメリゴ・ベヴィラッカ 、、、ヘロデ大王
フランチェスコ・レオネッティ 、、、ヘロデ・アンティパス
フランカ・クパーネ 、、、ヘロデア
パオラ・テデスコ 、、、サロメ

、、、役者は皆、素人だという。イタリア語で演じられる。
(キリストは流石にシャープで祭司長はベテラン役者風であるが、その他はホントに朴訥とした素人集団だ)。
白黒の画面こそこの物語に似つかわしい。
美しい映画だ。

「マタイによる福音書」に従い全てが描かれてゆく。
(「マタイ」の他に「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の福音書があるが、パゾーリーニはこれを選んだということか)。
イエスはディベートの達人であった。
イエスの語った有名なセリフがこれでもかという感じで強烈に連打される。
例え噺がやはり面白い。説得力を増す。
イエスのかなりの戦闘力を感じるフィルムであった。
音楽が広範囲から選び抜かれてかけられているように思ったが、微妙な選曲もあった。
バッハのマタイ受難曲、モーツアルトの協奏曲は絶妙であった。民族音楽?の使い方、、、。

処女懐胎にはじまる。
ダビデの子、ヨセフの元に天使が現れ、マリアが精霊により身籠った、恐れずにマリアを妻として迎えよと告げる。
(天使は中性的な雰囲気を持つ若い乙女である)。
Fra Angelico
(フラアンジェリコ)
人々の笑顔の表情が印象的。
特に東方の三博士の表情が柔和で中性的な感じがした。
母マリア(若い時代)の顔がとても個性的であった。
(まさに前ルネッサンスの絵に現れる顔である)。
Il Vangelo secondo Matteo001


そしてイエスの誕生
Correggio.jpg
(コレッジオ)
ベツレヘムに生まれる。
天使が現れ幼子イエスの危機を救ってゆく。
へデロから逃れエジプトに留まるのです。
イスラエルに行きなさい、、、。

イエスの洗礼
Verrocchio.jpg
(ヴェロッキオ)
ヨハネから洗礼を受ける。
ヨハネはすでにイエスを知っていた。
自分よりも遥かに高次の存在として。
Il Vangelo secondo Matteo003

青年イエスの顔がマリアそっくりなのには驚く。(トップ画像)
(最初、マリア役の女優がやっているのかと思ったくらい)。
最初の内はどうもキリストというイメージが馴染まず、少し違和感を持ちながらの鑑賞となる。

荒野の誘惑
William Blake
(ブレイク)
悪魔がお前が神の子であるならば、と無理難題を吹っかけてくる。
「この砂漠の石を全てパンに変えてみろ」等々、、、。
「人はパンではなく神の御言葉で生きる」
「神を試してはならぬ」
と、サタンを退ける。
道すがらイエスに「悔い改めよ、天国は近づいた」といきなり言われた農民がきょとんとして振り返っている。
「荒野に叫ぶもの」である。
ここから以後、イエスは苛烈に福音を説いてゆく。
弟子となる者に声をかけてゆき、みな従う。ペテロ、アンデレの漁師たちから、、、ヤコブ、ヨハネと、、、。

イエスの奇跡
Tiziano.jpg
(ティツィアーノ)
ガリラヤを巡回するなか、病人を次々に治す。
ハンセン病が一瞬に治る。
盲目の人の目が見えるようになる、、、。
杖なくして歩けない夫人が杖を捨てる。
安息日に何で病気を治してやるのかという批判に対しても相手を軽くねじ伏せる。
イエスがデベートに強いのは何よりも律法に精通しているからだ。これがまず前提であろう。
イザヤの予言と律法の成就の為に我は来た。

この頃となると、イエスがとてもしっくりしてきて、鋭く全くぶれのないキリスト以外の誰でもないという感じに落ち着く。
若いが威厳に充ち溢れている。
そして、彼を一刻も早く殺さねばと策を巡らすユダヤの司祭たち。

使徒の乗る船を後ろから水面の上を歩いて追いつくキリスト。
岸に就くとユダヤの王エロドの地であり、ヨハネ(洗礼者)が井戸に閉じ込められている。
サロメの舞に歓び王は何でも欲しいものを与えると言い、彼女はヨハネの首を欲する。
(サロメは新体操の選手みたいな少女であった)。

最後の晩餐
Il Vangelo secondo Matteo004
(レオナルド)
レオナルドダヴィンチの絵で余りに印象深い。
イエスはすべてをすでに知っている。
「わたしはエルサレムに行かねばならない。わたしはそこで殺される。」
「殺されるが3日後に復活する。」
エルサレムでキリストはユダヤの祭司長らを圧倒する。
そして火を噴くような説法。非常に攻撃的な内容。
エルサレムとは予言者たちを殺した地である。

祭司長は策略をもってキリストの殺害を実行に移す。
そこにユダが金欲しさに乗って来る。
そして余りに有名な「最後の晩餐」である。
予言者キリストは全てを知っていた。
「おまえたちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」「お前は鶏の鳴く前に3度わたしを知らないという。」
確信を持ったアップの表情がとても多くなる。
(デューラーの肖像画を想いうかべてしまう)。

ゲッセマネの祈り
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(マンテーニャ)
ペテロ、ヤコブ、ヨハネと共にキリストはオリーブ山の麓にあるゲッセマネの園へ行く。
キリストが神に祈る間、三人の弟子たちは眠ってしまい、天使がキリストに聖杯を与える。
ユダがキリストを逮捕する兵士を率いて来る。


ゴルゴダの丘
Mantegna.jpg
(マンテーニャ)
これも多くの画家が描いたテーマだ。
エルサレム神殿を頂点とするユダヤ教体制を批判したかどで、ユダヤの指導者から処刑される。
「お前は神を冒涜した。」
十字架に磔~という公開処刑である。
かなり詳細にリアルに描いている。

復活
Raffaello Santi
(ラファエロ)
天使が使徒たちにイエスの復活を知らせる。
キリストは復活して、すでにガリラヤにいた。

”お前たちは行って、あらゆる国の人々を弟子とし
 父、子、精霊の御名によってバプテスマ(洗礼)を授け、
 また、わたしが命じておいたすべてのことを教えよ
 
 見よ、わたしは、世の終わりまで、お前たちとともにいる”


強烈なノスタルジーを覚えた。
パゾリーニ監督はマルキストとして有名な人である(無神論者)。







ルードウィヒ/神々の黄昏

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Ludwig
1972年
イタリア・フランス・西ドイツ

ルキノ・ヴィスコンティ監督・脚本

ヘルムート・バーガー 、、、ルードウィヒ2世
ロミー・シュナイダー 、、、エリーザベト(オーストリア皇后、ルードウィヒの従伯母)
トレヴァー・ハワード 、、、ワーグナー
シルヴァーナ・マンガーノ 、、、コジマ・フォン・ビューロー(ワーグナーの愛人~二番目の妻)
ソニア・ペトローヴァ 、、、ソフィ(エリーザベトの娘)
ジョン・モルダー=ブラウン 、、、オットー(親王陛下、ルードウィヒの弟)
ゲルト・フレーベ 、、、ホフマン神父
ウンベルト・オルシーニ 、、、ホルンシュタイン(伯爵)
ヘルムート・グリーム 、、、デュエクハイム(大佐 、親友)


ヴィスコンティはドイツにかなり興味と深い教養をもっていたようだ(どうやらドイツ語も流暢に喋れたそうだ)。
『地獄に堕ちた勇者ども』『ベニスに死す』『ルートウィッヒ』はドイツ三部作とも謂われている。
そう謂えば昔の友人が『ベニスに死す』を滅法気に入っていた。
この映画は、イタリア語で作られているがヘルムート・バーガーは、母国語であるドイツ語の他にイタリア語、英語、フランス語も堪能であった為、イタリア語はそのまま彼の発するセリフで撮られている。

音楽はワーグナーばかりか、と思っていたらシューマンもかかっていて嬉しくなった。
全編に流れる音楽が実に良い。”トリスタンとイゾルデ”が絶妙。
そして圧倒的な美術。
城と謂い調度、馬車、衣装と謂い、大変な贅は尽くされていても決して華美なものにならずシックで落ち着いた雰囲気の王室を舞台に描かれる。生涯コアな貴族生活の中にいた人ならではの絵である。
外から素人が想像して作ったレベルではない。
爛熟した文化の凋落と終焉がとても説得力をもつ。

第4代バイエルン国王である。
ノイシュヴァンシュタイン城やバイロイト祝祭劇場やワーグナーで大変な浪費をしたと非難轟々であったが、今では国の財源となっているではないか。
バイロイトなど音楽愛好家の聖地みたいにもなっている。
藝術にお金をかけた人はやはり、後々国の為に残している。大変貴重な財産であることに違いない。
やはり作るときに勢いで作っておくことだ。目先の利益に拘っていては偉大な文化財など生まれない(と思うが)。
日本で謂えば足利義政(第八代将軍)あたりか。彼も政治には全く関心がなく藝術ばかりやっていた。
とは言え、自国が戦争やっているのに、わたしは戦争には興味が無い。わたしにとって戦争など存在しない、はないだろう。
そんなことを言っている間に、自国民が次々に戦争で命を失っている。
やはり困った人だ。
せめて戦争を少しでも早く終わらせる努力をしてみてもよかったか。

音楽に造詣の深いルートウィッヒがワーグナーに心酔するのは分かるが、相手のワーグナーとコジマの憎たらしいこと。
篤くもてなされ資金も潤沢に援助されているのに、金をせしめるだけせしめルードウィヒを思い切り馬鹿にしている。
「パトロン気取りの愚かな若造とか変人の家系の末裔が」などと言って、手紙にも酷いことを並べている。
しかしワーグナーとはホントにあんな男だったのだろうか。
コジマも輪をかけて酷い。あのフランツ・リストの娘ではないか。
かなり幻滅である。

ルートウィッヒは非常にハンサムな国王であったそうだが、肖像画と比べてもヘルムート・バーガーは見事その域に達していた。
しかしとても似ていて笑ってしまったのがワーグナーである。
これまた肖像画そっくりさんであり、そのお陰でワーグナーのイメージがかなりダウンした(笑。
エリーザベトは当時ヨーロッパ随一の美貌で通っていたが、ロミー・シュナイダーとはちょっと異なるタイプの美女に思える。
映画的には文句ない。ルートウィッヒともピッタリである(ルートウィッヒをふってしまうが)。金使いの荒さもルードウィヒとどっこいどっこいだったようだ。

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結局、異性で愛することが出来たのはエリーザベトだけであったという。
これも孤独だ。
元々彼の中には厭世観が蔓延っており、「世界は耐えがたいほどに卑しい」とオットーにも語っていた。
自由でいたい。不可能の中に真実の生を、と。
まさに音楽の中に閉じ籠るしかないような言説となる。
城の建設に異常な熱意を示すことも同じ次元の心性によるものであろう。
そして当代随一の音楽家ともなれば、如何に悪名高くても(血税をいいように使いまくる)ワーグナーであったか。
(ワーグナーに対しては浪費家で知られるエリーザベトも批判的であった)。

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デュエクハイムから滾々と諭されるところは、かなり悲痛だが、国王にあのように率直に意見の謂える存在~友は貴重である。
金や物質的欲望ばかりに明け暮れている身近な側近たちへの不満や戦争をなかったことにして認めない、それを勇気ある選択だとして義務を無視し幸福を見出したと主張するルートウィッヒの姿勢に対し彼はとても静かに意見を述べる。

高い理想を掲げて真実に生きたいと言われるが、本能と欲求のまま偽善と欺瞞もなく過ごせる特権的な自由人の立場をとっているに過ぎない。
本来自由は万人のもの、平凡に生きる者も物質的な安定だけを求めているのではない。真の自由は誰にも手にする権利がある。
道徳的束縛が無く快楽と自由に生きている者たちに騙されてはいけない(ワーグナーたちのことか)。
陛下は別の存在理由を見出さなければならない、、、。
世界は元々純粋なものではなく善も悪もない。陛下もその社会の枠の中にいる。

これを聞いて苦悶するルードウィヒ。
晩年は(まだ若いが)かなり精神も参って憔悴しており容貌にもそれが表れている。
果たして彼は狂王であったのか。
デュエクハイムの言うように彼を狂人に仕立てよう(追い詰めよう)とする勢力があったのか。

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最後の溺死体で岸に上げられたところで終わるこの惨さが彼の短い人生を象徴している。
華麗であるが退廃的で重く悲痛である。
ルキノ・ヴィスコンティ自身を彼に重ねている部分も小さくはない気がする。

4時間は丁度良かった。







家族の肖像

Conversation Piece001

Gruppo di famiglia in un interno / Conversation Piece
1974年
イタリア・フランス

ルキノ・ヴィスコンティ監督・脚本

バート・ランカスター 、、、教授
ヘルムート・バーガー 、、、コンラッド・ヒューベル(夫人の情夫)
ドミニク・サンダ 、、、教授の母(回想)
クラウディア・カルディナーレ 、、、教授の妻(回想)
シルヴァーナ・マンガーノ 、、、ビアンカ・ブルモンティ伯爵夫人
クラウディア・マルサーニ 、、、リエッタ・ブルモンティ(夫人の娘)
ステファノ・パトリッツィ 、、、ステファーノ(リエッタの婚約者)
ロモロ・ヴァリ 、、、ミケーリ(弁護士)


ヴィスコンティと言えば、貴族の末裔、滅びの美学等々のフレーズが直ぐに思い浮かぶが、キャッチフレーズとしては適当なものには思える。彼の場合、貴族と言っても歴史的な名家であり大富豪の極め付けの貴族であった。
ここでも伝統と格式のある邸宅に多くの値打ちある調度品と書物にレコードと夥しい鑑定済みの名画に囲まれてひっそり過ごす男の生活ぶりが描かれるが、、、。
名品がたくさんあってもそれによって華美になったりギラギラしない展示と扱いのセンス~気品が窺える。


「家族の肖像画」を選び収集して、独りもの静かに時を過ごす老教授。
何故、”家族”なのだろうか。
今日も有名な画廊が強引に絵を売り込みに来ていた。

丁度そんなとき不意に、思わぬ客が屋敷に侵入してきた。
彼らは二階に間借りしたい、部屋は改装したいと勝手に要求し、孤独を大切にしている教授が断っているにも拘らず、住み始め改装をして家全体を軋ませてしまう。
静かな環境での読書や思索どころではない、教授は他人の気配と騒音に悩まされてゆく。
観ている方としては、相当にイライラしてくる(特に自己中でヒステリックに喚く伯爵夫人は神経に障る)。
これは犯罪行為ではないか。
しかし教授もしかるべきところに訴える等の強硬手段には出ず、ズルズルと彼らを引き入れてしまう。
彼もその傍若無人な連中のなかに何をか期待するものがあったからかも知れない。

彼らは間借りした部屋で騒ぐだけでなく、教授の書斎にもズカズカ現れ、隠し部屋にまで入って来る始末。
伯爵夫人を筆頭にその娘、娘の婚約者(試験的婚約らしい)そこに過激思想をもつ夫人の情夫と凄い面々の腐乱した関係が教授の静謐な時間を乱すことを止めない。
何度も出て行ってくれることを頼むが、コンラッドが暴漢に襲われたりなんだりで、結局ダラダラと彼らは居続け出入りがなし崩しに続く。
余りの無作法とデカタンに呆れ返る教授ではあるが、コンラッドの教養には次第に興味を示す。
彼は絵画、音楽に造詣が深い。
久しぶりに?噺の出来る相手なのだろう。
ふたりは絵画について話しこむ。
コンラッドは確かに魅力的で知性と独特な見識をもち危険な匂いを纏っている。
教授はコンラッドに親近感を感じるにつれ、夫人や娘、その婚約者たちとも距離は保ちつつ関りは続けてゆく。
彼の内に何かが変わっていった。
何と教授自ら彼らを食事に誘うのだ。

教授はこの静かな時を絶えず乱す不可解な集団を”家族”と呼んでしまえば合理的に受け止められることに気づく。
そう、家族とは本質的にそうしたものだ。
不条理の塊であって、予測不能で、不透明であり、より自らの孤独を際立たせる共同体ではあるが、”家族”によって取り込める場がある。たいそう苦しいが生を活性化する作用が働く。教授に生の意欲が垣間見える。
かつての母や妻の若々しい回想が挟まれる(それにしても回想に使う女優の何と贅沢なことか)。
そして(疑似的な)息子としては、芸術の分かるコンラッドであることは、他の誰も同意するものであった。
コンラッドは伯爵夫人やその取り巻きに愛想をつかし、一度は出てゆくが戻って来る(この連中は常に出たり入ったりを繰り返す)。
ようやく教授がこの事態に折り合いを付け新たな出発をしようとした矢先に、突然コンラッドは爆死を遂げてしまう。
教授は深く落胆し、自らの死とも直面する流れとなってゆく。

果たしてコンラッドは自殺したのか殺されたのか、を問えば殺されたのだと思う。
教授宛の手紙は明らかに遺書ではなく別れを告げるものであった。
伯爵夫人としては自殺して何時までも罪の意識を自分たちの心に残そうとしたと自分への執着を彼に期待していたようだが、実際はリエッタの言うように彼の関わっていた過激派の仲間(敵)に殺されたのだろう。
あの夜、暴漢に襲われた時と同じパタンではないか。
爆死というのも最後の最後まで落ち着かない”息子”~家族である。

しかし、コンラッドの死により、教授の”家族”幻想は瓦解し、彼自らも死に瀕して行く。
伯爵夫人や娘とその婚約者は、コンラッドの事を忘れてそれぞれの道をゆくことにする、という。
ベッドに横たわる教授を彼らは晴れやかな表情で見舞い、たち去って行く。
最後に虚空に腕を差し出して何かを掴もうとするも、力なく崩れる。

貴族の滅びの美学と言えようか。
今や全ては幻。
二階の物音と共に、家族の肖像画から抜け出てきた人物たちとの束の間の戯れであったか。

Conversation Piece002



何やら「野いちご」(ベルイマン)を思い起こす。
それから「鑑定士と顔のない依頼人 」(ジュゼッペ・トルナトーレ)を。







プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
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