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ザ・ドア 交差する世界

Die Tür002

Die Tür
2009年
ドイツ

アノ・サオル監督
ヤン・ベルガー脚本
アキフ・ピリンチ原作『Die Damalstür』

マッツ・ミケルセン、、、ダヴィッド・アンデルナッハ(有名画家)
ジェシカ・シュヴァルツ、、、マヤ・アンデルナッハ(妻)
ヴァレリア・アイゼンバルト、、、レオニー・アンデルナッハ (娘)
トーマス・ティーメ、、、シギー(ダヴィッドの隣人)
ティム・ザイフィ、、、マックス(ダヴィッドの親友)
ハイケ・マカチュ、、、ジア(ダヴィッドの隣人で愛人、ミュージシャン)


よく出来た映画で、びっくりした。
神学的な意味での罪というものを匂わせる作品であった。
ただ、愛する一人娘が自宅プールで溺れ死んでしまうのだが、どれだけ深いプールを庭に作っているのか?
ドイツのプールはみんなあんなに深いのか?サメが出てきそうなオッカナイプールである。
それにも正直びっくりした。

パラレルワールドを究極の救済(死を超える場)として縋るヒトたちの在り方を見応え充分に描いていた。
この時期(2006年)は、まだかなりファンタジックな次元で捉えられていたであろうパラレルワールドであるが、いまや理論物理学の重鎮ともいえるような学者たちが、パラレルワールドを考えないと辻褄が合わないと唱え、それぞれの理論を提唱している。
(この噺が主体ではないのでやめるが、、、面白いものだ)。
ビッグバン時に無数の泡宇宙が形成されたという理論は特に有名。
ただし、他の宇宙の観測自体が原理的に不可能であるため、理論上でしか説明はつかないものとしてある。
(別の時空にあるために相互作用がない。しかも物理原理が全く異なる世界が想定されている)。
しかし、ごく最近ではその多元宇宙が量子レベルで影響を与え合っているという理論も出ている。
ともかく目の離せない勢いのある分野?であることは確かである。

この映画のように、人の身の丈レベルでの「ドア」という形で行き来が可能であれば、これは飛んでもない事件である。
当たり前だが、、、。
この事実が大きく広がらないうちに、それを知る者は結託して秘密を守り抜こうとするだろう。
誰もがその5年間遅れたそっくり世界で、掛け替えのない恩寵を受けているのだ。

Die Tür004

ダヴィッドは自分が近所のジアと浮気中に、娘レオニーを自宅プールで溺死させてしまう。
彼女が事故でプールに落ちたとき彼は、助けられなかったのだ。
蝶を取ろうと娘に持ち掛けられたとき、彼はぞんざいにそれを断って娘を独りにしてしまった。
これ程の後悔、慚愧の念に堪えないことがあろうか。
父親としては、どんなことをしてでも償いたいし、娘を取り戻せるなら何でもやるはず。

ある時、途方に暮れて冬空のもと放浪してるときに、蝶に誘われ偶然トンネルを見つける。
そこを抜けると季節は変わり、まだレオニーは生きている時空に出ていたのであった。
その街並みの光景を見ると、何と丁度これから自分が浮気現場に向かう途上ではないか、、、。
彼は、自宅にまっしぐらに走り(ダンプにぶつかりながらも)直ぐにプールに飛び込み、溺れたばかりの彼女を救いあげる。
それはもう、あり得ないほどの感激の一瞬、である!
ただ、これで目的達成で終わるものではなかった。
この後の人間ドラマである。

その時期にすでに夫婦関係はかなり悪化していたが、娘を大事にする彼を見て、妻は次第に彼を許す気分になってゆくが、肝心の娘は彼に抵抗を示し、遠ざける。
(ちなみに、5年後の元の世界では、娘の死をもってふたりは離婚している)。
娘の為だけにその世界に来たのに肝心の娘はとってもよそよそしく本当のパパではない、あなた誰?とくる。やはり5年後のパパだと明らかに違和感を感じるのだ。

ダヴィッドは娘をプールから救って家にいるうちに自宅に戻って来た5年前のダヴィッドに見つけられ不審者と間違えられる。
もみ合ううちに、若いダヴィッドを誤って殺してしまう。
そこに本来いるはずのない自分が自分を殺してしまい、そのまま入れ替わることにしたのだ。
それしかあるまい。
これからは娘を大事に育て、家族を大切にしてゆくために彼は最善を尽くす。

Die Tür001

しかし娘の目は鋭く、彼に不審の念を向ける。
彼女は、溺れかけた日のことを垣間見ており、彼がパパに何かしたと確信していた。
ダヴィッドは、前のパパは、レオニーをしっかり守ることが出来なかったから遠くに行った。合わせる顔もないのだ。今のパパの方が良い人なのだ、と説明する。
だが彼の誕生パーティの折、友人のマックスがレオニーの描いている絵をもとに、庭に埋めた若いダヴィッドの屍を見つけてしまう。
マックスが取り乱し、マヤにそれを告げようとするところ、彼を突然現れた隣人シギーが殺害する。
シギーもこの世界に流れてきて人生のすべてをやり直し、競馬で大儲けして暮らす男であった。

何とこの世界には、パラレルワールドからやって来た人間が少なからずおり、その利権を守るためにも、彼らの秘密を暴露しようとする人間を次々に消していたのだ。
シギーは、この(5年前の)世界を守る為なら手段を選ばない。何しろ彼は元の世界では犯罪者であったのだ。
一度、ダヴィッドはマヤとレオニーを連れて自分の元の世界に逃げようとするが彼に捕まり引き戻される。
シギーは、何としてもこの世界での自分(とその権限)を守り抜きたいのだ。
そして街に出くわした人間は目くばせし合い、彼らが実は同じ道を辿って来た人々であることがわかる。
まるで「ボディ・スナッチャー」の不気味さだ。

Die Tür003

そして何と5年後のマヤまでレオニー逢いたさにやって来てしまう。
そうなると、若いマヤ(ことの次第をよく理解していない彼女)を殺害して、この世界で親子3人で暮らすことを強制されることになる。この世界の安定のためである。
ダヴィッドにとり、これまた大変な選択だ。同じ妻である。殺せるはずもない。
マヤ同士が路上で出くわし驚愕し合う。
そして彼女たちも理解する。

ここからエンディングに向け些か力業となるが、スリリングな脱出劇となる。
これがとても侘しいこととなるのだが、ようやく前の父より自分を好いてくれるようになっていた娘を若いマヤに託し、彼は囮となって、シギーたち移住者の追撃を食い止める役を担う。
その隙にすでに場所は一度連れてこられて知っている道を通り、母娘はあちらに逃げ込む。
パンクしたダヴィッドの車のボンネットに張り付いたシギーごとそのトンネルの入り口に激しく激突し、「ドア」そのものが埋もれて壊れてしまう。
こちらに残ったのは、結局5年後のダヴィッドとマヤのふたりであり、娘はもう一人のマヤと閉ざされた向こうの世界に行ってしまった。

これをどう受け止めればよいか。
ダヴィッドとマヤにはすでにそこにいる理由もないが、ふたりで新たにやり直すことは出来るかも知れない。
(ふたりとも力なくプールサイドに座ってしまい動く気力もない)。
娘は母と別世界で生きていると実感をもって想像することは可能である。
それだけでも救いであるか。
それとも一緒に過ごせないのなら単なる死別と等価ではないか、と考えるであろうか。

やはり罪はどうあがいても、なくなりはしないというものか、、、。


イヴ・サンローラン

Yves Saint Laurent

Yves Saint Laurent
2014年
フランス

ジャリル・レスペール監督


ピエール・ニネ、、、イヴ・サン=ローラン
ギヨーム・ガリエンヌ、、、ピエール・ベルジェ(イヴの無二の親友、恋人)
シャルロット・ルボン、、、ヴィクトワール・ドゥトルロウ(モデル、前期の親友)
マリアンヌ・バスレール、、、ルシエンヌ・サン=ローラン(イヴの母)
ニコライ・キンスキー、、、カール・ラガーフェルド(シャネルのデザイナー)
ローラ・スメット、、、ルル・ド・ラ・ファレーズ(モデル)
マリー・ド・ヴィルパン、、、ベティ・カトルー(モデル、後期の親友)


昨日、イヴ・タンギーを想い出したところで、イヴ繋がりでイヴ・サンローランにした(爆。
夏の暑い中、冷たいジュースばかり飲んでいて、ばて気味の体には応える重さであった。
この映画の重さは一種独特である。

ふたりで集めた美術収集品を独りで観るのが辛い、ということから長年イヴを支え続けたピエール・ベルジェがコレクションを競売に出すところから始まる。
この出だしからして重い。
「収集は人生を映す」、、、まさにそうだ!
ピエール・ベルジェにとってイヴとの今生の別れは、その収集品との別れでもあったか。

Yves Saint Laurent03

非常に二枚目である(実物も)が、同性愛者である。
この重さがわたし的には、あった。
見た目は(特に若い時分は)神学生みたいであるが。
ピエール・ベルジェとイヴ・サン=ローランの関係も生々しい依存と協力の関係であり、悲痛なぶつかり合いも多かったことが分かる。
後半の享楽的で楽天的な感じの描写も、とても身を切るような痛々しさを覚える。
ドラッグとアルコールに加え、ヘビースモーカーでもあったような、、、。


若くして(21歳で)、クリスチャン・ディオールのメゾンを引き継ぎ、維持・発展に導きフランスを救ったとまで評される。
その最初のコレクションを見た審美眼の鋭い雑誌の仕事をしていたピエール・ベルジェは、その天才に一発で惹かれる。
ピエール自身、彼にとっての藝術~美術の枠を広げる電撃的な機会となったのだ。
移ろい易くも永続的なる美”モード”を追求するふたりの日々の闘いの始まりである。
それはイヴの死ぬまでひたすら長く続く。

イヴは程なく戦争に召集され、軍隊で精神的苦痛を味わって鬱病となり、薬とアルコールが手放せない状態になる。
そのせいもあり、クリスチャン・ディオールを実質クビとなり、イヴにとっては自身のメゾン~クチュールハウスを作り、創作をする以外に道はなくなる。

イヴ・サンローランという会社設立に際しての資金集めに始まり、企業経営、顧客探し、イベント企画、プレス発表、オートクチュールの発表時のマネージメント、ステージを裏方として仕切るなど、デザインそのもの以外のすべての仕事をピエールが請け負った。
ランウエイの奥からいつも見守り続けるピエールの姿は、彼の献身的な役割を象徴的に示していると謂えるか。

Yves Saint Laurent02

いくら才能に溢れ、デザイン以外には何もできないとまで嘯くイヴであっても、常に斬新なアイデアを出し続けることは至難の業であった。(引退時に、地獄の日々であったとイヴは語る)。
少し低迷する時期が続くが、モンドリアンに着想を得て発表したモードで再浮上する。
このころのライバルは、カール・ラガーフェルドやピエール・カルダンか。
イヴは、カールの恋人とも恋仲になったりする。過剰なドラッグやアルコール摂取の線での浮気であろうか、、、ともかく自己破滅的に走りつつも、コレクション時には「デザインを終わらせねば」と身を削って創作に明け暮れる。この際に支えるのが常にピエール・ベルジェとなる、、、。そんな過酷な関係だ。
(この時期の著名なデザイナーは同性愛者が多く、堂々と公表までしている人が多い)。
この映画で見る限り、他の同性愛者は妙に力強い。特にカール。
しかし、イヴはいつも青息吐息で、コレクション発表時に力を振り絞りなんとか完成に漕ぎつけるという状況だ。
天才と呼ばれ帝王と讃えられ、富も名誉も得たが、彼の内心はどのようなものであったか想像する気にもなれない。

「欝に苦しまないのは一年のうち2日だけだった」とピエール・ベルジェが終盤で述懐するように、春・秋のコレクションで人々の喝采を浴びる日だけ解放されるというのは、何とも辛い。
軍隊の体験がトリガーとなったのだろうが、もともと非常に内向的で繊細な人であったようだ。
(芸術家には少なくないタイプであるが)。

常に完全を期し、成功を勝ち得ていく度にプレッシャーは重層されていったのだと思う。
しかし恐らく彼のその身体性があってこそ、天才的創造が生まれたのだ。
苦痛は、彼にとっては属性のようなものだった。
孤独もしかり。

それは創造者の宿命とも謂えるものかも知れない、、、。



キャストが優れていた分、説得力があって重くて、ばて気味の体にはキツイ。
明日は軽めの、、、エンターテイメント映画でも観たい(笑。








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ロスト・バケーション

The Shallows001

The Shallows
2016年
アメリカ

ジャウマ・コレット=セラ監督
アンソニー・ジャスウィンスキー脚本

ブレイク・ライブリー、、、ナンシー(医大生)
サメ
カモメ


「浅瀬」と言った方が何やら意味深げで秘められた禍々しい何かを想像させる。
(イブ・タンギーの絵のような)。
とんだバケーションになってしまったのも事実だが、結果的に悟りも開けたみたいだし、、、。

ワンシチュエーションによる究極のサバイバルである。
満潮までは持つ小さな岩礁に独り取り残され繰り広げられる、「場所と時間の限られた」生死を掛けた闘い~ゲームなのだ。
サメの回遊の習性を観察し、海に入っていられる時間を割り出す。
傷との闘い(波乗りの最中にサメに噛みつかれ重症を負う)もある。勿論、恐怖と不安との葛藤。
ビーチまで精々200m位なのに、人気が少ないことが災いして、救援が呼べないもどかしさ。
(実際、たまたま人が浜にいて、手を振って叫んでも何のことだか理解できないという絶望的な孤立感)。
この様々な過酷な条件のもと精神をすり減らしつつ、最後まで諦めずに果敢にサメと対決する女子医大生なのである。

何より、痛い。とっても痛い。傷を自分でありあわせの針と糸?ピアスとネックレスのチェーンで縫合するのだ!
ああっ血が溢れ出る、その激痛!、、、わたしのもっとも苦手なタイプの噺~シーンではないか、、、。
圧迫包帯をスーツの袖をブレスレットを歯代わりにして割いて作る。
流石は医大生というか女の子というべきか、、、女子は強いというところか?!
その上に、触れるととても痛いサンゴやサメさえ避ける毒を持ったクラゲの群れ、、、。
もう、痛いこと続きで、その度に目を逸らす。
彼女もその痛さに、海中で絶叫するのだが、水の中で叫ぶとどうなるのだろう?
そのまま継続して泳いでいるどころではないはずだが、、、。

サメの造形~質感や動きはリアルで申し分ない。
カメラワークも至れ尽くせり。
ナンシーの視点から、彼女の近傍から、水中から様々な角度で、上空からの俯瞰、そして美しい秘密のリゾート ビーチでの華麗なサーフィンフィルムとしても充分に魅せる。
ビーチまでの森の様子も木々からの木漏れ日の道など、まさにバケーションの導入としてこの上ないシチュエーションではないか。
そして凄いビーチが眼前に開け渡る。それだけ観れば誰でも行きたくなるような圧倒する美しいビーチに違いない。
亡き母から教えてもらったビーチに日頃の勉強疲れを癒しに来たという設定か。
さらに進路で迷っており、医学部辞めようかなとか思っているところ。
確かにそんなときは、人気のない美しい海岸で波乗りして頭をクールダウンさせれば、何かがつかめよう。
そう想うところだ。
だが自然はそう甘くはなかった、、、というところか。経験を通して学べということか、、、にしても代償は余りにも痛かった。

The Shallows002

ただ、サメの口の大きさと噛まれた太ももの歯形がどうも合わない気がする。
噛む力も、ブイの鉄骨をへし折ったり、酔っぱらったオヤジさんの胴体を引き千切る破壊力からすると、何と謂うか傷が、、、とても痛そうなのだが、、、浅すぎる気もする。まあ、その時は弱く噛んだのかも知れないが。いや牙が触れ割かれたのか、、、今一つよく分からなかったところだ、、、そうか!余りに痛そうだったので、わたしが目を逸らしていたのだ。
(どうだろう?)

このサメのしつこさは尋常ではなく、クジラを仕留めてその死体も浮かべており、サーファーの若者ふたりと酔っぱらいを襲い、少なくとも満腹のはずなのだが、執拗にナンシーの周囲を回遊し続けるというのも、どういうものか。
サメの習性上こんなものなのか、、、?ナンシーには特別の感情を持っているのか?
確かに憎々しい表情を浮かべて急襲して来るが、考えてみればサメ(ホオジロザメ)はみなそんな顔だ。

The Shallows003


そして自然界のタイムリミットを迎え、水没する岩礁からサメの攻撃をかわして如何に逃げるか、という場面であるが、まさかというスーパーマン的な(米軍特殊部隊所属のエリートみたいな)身のかわし方と、車はすぐには止まれない的なサメの動きで闘いの決着はつく!

彼女はこの闘いを通して生きることへの執念と医者として命を救うことの大切さを悟る。
(これを悟らせるための亡き母からのバケーションビーチのプレゼントだとしたら、プロセスにおける学びは余りに痛い)。
一年後、妹と父親と、何でまた同じビーチで波乗り出来るのか不思議でならないのだが、、、。
外傷経験も逞しく乗り越えたのだ。
ただ太ももには、歯形の傷跡がしっかり残っていた。(やっぱり噛まれていたのだ)。


しかし何でアメリカ映画には、サメパニック映画が多いのか、、、。
アメリカ人にとって、サメとは何なのか?
タコではだめなのか?(タコ対サメは観たことあるが)。
日本には、オオダコスダールがいる!
(それがどうしたと言われそうだが、、、)。


これまでわたしが観たサメ映画では抜きん出てよく出来ていた。
(安っぽさが全くない力作であり、主演というかほぼ独り芝居であったブレイク・ライブリーの好演も痛々しいが、光った)。
あのカモメは、動物事務所に所属する俳優なのであろうか?
助演者になっていたが、、、。


スリ

Pickpocket.jpg

Pickpocket
1959年
フランス

ロベール・ブレッソン監督・脚本

ピエール・レマリ 、、、ジャック(ミシェルの親友)
マルタン・ラ・サール 、、、ミシェル(スリ)
マリカ・グリーン 、、、ジャンヌ(ミシェルの恋人となる)
ピエール・エテックス 、、、ミシェルの共犯者


ロベール・ブレッソンもかつて写真を撮っていたそうだ。
ブレッソンと謂えばアンリ・カルティエ・ブレッソン~決定的瞬間であるが、こちらのブレッソン映画もかなり写真的な映画である。
そう、「シネマトグラフ」と呼ばなくては、ならない。
「役者」ではなく「モデル」であった。
プロの役者は一切使わず、それ一本限りの素人を使うことで、芝居(演劇)掛かった演技を締め出し、感情表現を抑えた独特なストイックな絵作りをしている。何と謂うか、不純物を嫌った監督なのだろう。


この作品のジャンヌ役のマリカ・グリーンはそのまま映画界に留まった。
ドミニク・サンダも同じパタンである。
アンヌ・ヴィアゼムスキーは、その後女優としてだけでなく監督にもなり、ゴダールとも結婚している。

学生時代、文字通り大枚叩いて写真集を買っていた(爆。
この監督のブレッソンも写真集があるかどうか家で調べたが、アンリ・カルティエ~しかなかった(残。
しかしこの人の写真も見てみたくなる映画である。

カメラワークも時折かかる音楽も良い。
スリの指裁き?の華麗な技が鮮やかに追われている。
特に途中から3人で組んでスリを連携で行うところなど、その機械状のスムーズさに感心してしまう。
そう、動きの連続性に恍惚となる面はある。
しかし、第三者には通常これはまず見れない~経験不能ものであり、映画だから超越的に動作の流れをわれわれも確認することが出来る。
スリというものの本人にとっての醍醐味がリアルに分かる気がするところだ。
(貧困とかの理由などに関係なく、一度その快感を身に覚えてしまうと依存症的になってしまうのだ)。
それを志す人にもかなり参考になったのではないか?大丈夫か、とも思うが(笑。
フランス映画にはよくスリの場面が出てくるが、文化的に根付いている面もあるのだろうか。

この映画でミシェルの言うような「特別な権限を持つ者がいる」という特権意識を彼ももっているのか?
彼はわざわざ警部に、その手の話を幾度となく向けたり、スリの犯罪者の本を彼に貸そうとまでしている。
つまり、隠れて悪いことをするという意識ではなく、、、スリという行為自体、被害者本人に見つからずに金品を抜き取る技~仕事ではあるが、、、その仕事自体の正統性を主張する権利のある人間がいるのだ、という意識を持っているようなのだ。
要するに、職業スリを堂々とやるという、、、それとも単に自分と警察を誤魔化す為のはったりか。
良識ある親友ジャックが何度も堅気の仕事を探すように忠告するが、ミシェルは無視し続ける。
しかしどうであろう。
非常に行為に当たって虚無的で痙攣的なのだ。
堅気の仕事という選択もこころの片隅には常にある感じは匂う。

その間、ジャック、ミシェル、ジャンヌの奇妙な関係は続く。
ジャンヌはミシェルの病気の母の面倒まで診てくれていて、どういう立ち位置なのかよく分からないのだが、ミシェルの事はずっと好きでいるようだ。ジャックはそんなジャンヌのこころは見通していたが、ミシェルはそれに全く気付かない~ジャックがジャンヌのことを好きなのだろうと思っている~スリのことしか頭になく暇さえあれば指の訓練や技の練習に明け暮れている。そんなミシェルをずっと心配している友というのもかなり奇特な人である。

Pickpocket02.jpg


2年ほど、イタリア~イギリスへ渡り身を隠していたが、古巣に帰る。
ジャンヌはシングルマザーとなっていて子供がいた。
そんな折、子供の面倒は自分が見てやるとまで言ったはよいが、真っ当な仕事に就く気にはなれない。

だが犯罪にはどうしても最期が来る。
ミシェルはおとり捜査にまんまと引っかかり、競馬場で警官の財布を抜き取ろうとして手錠を掛けられる。
留置所にジャンヌがやって来る日が続く。
暫くジャンヌが来ない日があり、とても不安になりソワソワする。
そして、高熱を出した子供の看病で来れなかったと手紙が届いたときに胸が高鳴るのを覚える。

彼女への愛を確認する。ここでか?だが、そうしたものなのだ。
そこに「辿り着くのに奇妙な回り道をした」とミシェルは述懐する。

Pickpocket03.jpg


これほど手先が器用なのだから、これからはマジシャンなど目指してもよいのではないか、と思ったが(笑。

「サムライ」という映画があったが、この映画も「スリ」にしたらよかった気がする。
音的にシュールでとても合っていると思う。(しかし日本はスリの本場ではないから、日本語にする必然性はないはず)。



とうもろこしの島

SIMINDIS KUNDZULI001

SIMINDIS KUNDZULI
2014年
ジョージア/ドイツ/フランス/チェコ/カザフスタン/ハンガリー

ギオルギ・オヴァシュヴィリ監督
ヌグザル・シャタイゼ、ギオルギ・オヴァシュヴィリ、ルロフ・ジャン・ミンボー脚本

エレメール・ラガリイ撮影
ヨシフ・バルダナシュヴィリ音楽

イリアス・サルマン 、、、老人
マリアム・ブトゥリシュヴィリ 、、、少女
イラクリ・サムシア 、、、ジョージア兵
タメル・レヴェント 、、、アブハジア士官


凄いものを観てしまった。
こんな剥き出しの生活は今の日本の現状からは想像もつかない。
セリフもほとんどない、自然の物音の中に銃声が響くくらい。
何とも言えない淡々とした緊張が続く中、、、
ヒトの生活の元型的光景を見せられるばかりであった。

祖父と戦禍で両親を失った孫娘の生活である。
混じり気のない自然とヒトとの絶妙なバランスの内の絵はまた取り立てて美しい。
音楽もそこに見事に溶け込んでいた。
美しい朝日と共に目覚め夕日が沈むころに寝屋につく。
季節の移り変わりも鮮やかである。
(孫娘の服装からも分かる)。


それが、中洲での生活なのだ。
農民は誰の土地でもない中洲に自分の農地を見出す(しかないのか?)
独りの老人が小舟を漕いで中洲に降り立つ。
上流(コーカサス山脈)から運ばれた土の堆積して出来た中洲はとりわけ肥沃なのだ。
彼は初めに中洲の土を念入りに(口に入れるまでして)確かめ、選定する。
(わたしにとって、非常に新鮮で衝撃的なものであった)。

はじめは本当に小さな心もとない面積であるが、そこに木材を何度も運びバラックを建て終わるころには、中洲はかなり広がっていることに、ちょっとびっくりする。
その広がった土地を耕し、トウモロコシの種を蒔いてゆく。
まだ十代半ばに見える孫娘も祖父に従い黙々と一生懸命手伝う。
そう、彼は孫娘を途中からそこに連れてきたのだ(実家はちゃんと陸地にある。時折物を中洲まで運び入れたりしている)。

SIMINDIS KUNDZULI003

しかしこんな心もとない、「生活」があるだろうか。
しかも戦争中なのだ。
ジョージアと、ジョージアからの独立を目指すアブハジアの軍事衝突の最中。

鳥の鳴き声、水の波音に混じり、河川の両岸からは両軍の銃声が響き渡る。
時折、それぞれの軍の警備艇が脇を通り過ぎてゆく。(よく鉢合せにならないなと、ハラハラする)。
そのどちらとも挨拶を交わす祖父。
緊張の走る一瞬だ。わざわざ立ち寄りワインを呑んでゆく兵士もいる。
丁度その時、その兵士たちの敵の傷ついたジョージア兵を匿っているところでもあった。
彼は高く茂ったトウモロコシ畑に身を隠して息を殺している。
(ちなみに祖父と孫娘もアブハジア人であるが、傷ついた人間を見殺しには出来ない)。

自然の脅威に晒されつつ人間界からも寄る辺ない身である彼ら。
(であるから基本的に人に対する差別は、なかった)。
そこには祖父と孫娘が身を寄せ合い送る生活があるだけなのだ。
自然と両軍による戦争の狭間で、、、まさに抽象的な間に彼らは存在する。
しかし、トウモロコシは立派に育ちしっかり収穫出来ていた。
これも自然の摂理の成せる業であろう。
祖父は何とか孫を学校が終わるまでは育てて見届けたいと願う。

SIMINDIS KUNDZULI002

しかし、うら若き娘にとって、助けた兵士は一人のまだ若い男性であった。
彼女は普段決して祖父に対して見せない笑顔と素振りを彼に対して見せて燥ぐ。
この姿に祖父は厳しい目を向け、危惧する。
ことばが通じないため、無言の表情で彼は若者を中洲から追いやってしまう。
(と言うより兵士が察して去って行ったというべきか)。

だがそれと引き換えのようにやって来た暴風雨。
集中豪雨だ。
忽ち中洲は浸食を受け、水量の増した河に呑み込まれバラックは根元から揺らぐ。
小舟に何とか孫娘と収穫したトウモロコシなどを目一杯積み込み、岸に向け押し出し逃がす。
祖父はバラックの柱を懸命に支えるが甲斐なく全て潰れ濁流に流されてしまう。


ある晴れた日、何処からか小舟に乗って独りの男が出来たばかりの小さな中洲にやって来る。
その男も中洲の土をあちこち掘り返し吟味する。
地中からあの孫娘が飾っていた縫ぐるみの人形(親からもらった想いでの人形か?)が、引っ張り出される。

この反復(そして差異)こそ自然であり人間の姿~真理である。


神話を覗いたような気分になった。
絶大な重さを感じる。

凄いものを観てしまった。


私がクマにキレた理由

The Nanny Diaries

The Nanny Diaries
2007年
アメリカ

シャリ・スプリンガー・バーマン、 ロバート・プルチーニ監督・脚本

スカーレット・ヨハンソン、、、アニー・ブラドック(ベビーシッター)
ローラ・リニー、、、ミセスX(アニーの雇い主)
ニコラス・アート、、、グレイヤー(X家の少年)
アリシア・キーズ、、、リネット(アニーの友達)
クリス・エヴァンス、、、ハーバード・ホッティ(アニーの彼氏)
ドナ・マーフィー、、、ジュディ・ブラドック(アニーの母)
ポール・ジアマッティ、、、ミスターX


アニー・ブラドックは、大学で人類学を専攻していた女子。
新卒で就活するも、面接試験で自分が見えなくなった。
わたしは、一体何がしたいのか、、、わたしとは何か、、、。
ビルの赤い傘マークが、外れアニーのもとに舞い降りてきて、彼女はそれを手に取り空に舞い上がる。
かなり重症だ。

そこで、舞い込んで来た上流階級の住み込みのベビーシッターの仕事に就く。
他人の家庭を人類学的に考察することと、自分を知る意味からもこの経験は有効であろうという考えもあり。
また、女手一つで育ててくれた母の手前、取り敢えずどこかに就職を決めておきたかったみたいだ。

しかし、その上流階級、何と利己的で見栄っ張りで我儘で無礼な連中か。
まさかこれが典型ではないだろうが、こんな感じの家庭もあるのだろうか。
金持ちの誰もがこれでは、アメリカは到底もたないだろう。良識ある知識人も勿論多いはずだが。
面白かったのは、アニーが幾つもの家庭から依頼を受けているとき、「うちは給料が高いわよ」という真っ当なものの他に、「わたしの家はトランプタワーなのよ」と自慢している奥さんがいた。
これにはちょっと笑えるが、、、やはり結構危なそう。
(結局そういう結果が出たし、こんな家庭がグロテスクに単純化した極端な例でもなさそう気もしてくる)。

ただ、その誇張された歪みぶりも、思いつきそうなもので、特段に驚きのシーンとかはなかった。
アニーは大変な激務を熟すことになるが、次第に腕白な息子グレイヤーに情が移ってゆく。
同じマンションに住むハーバードの男子にも恋をする。
(アニーの直向きさに彼が惚れたようだ)。

反撥を持ちながらも仕事と割り切って無理で傲慢な要求に従ってゆくが、当の雇い主の惨めさが分かって来て、その不幸に同情するようになる。
彼らは金と地位があっても、現状を維持するための取り繕いと取り憑かれた欲望に従うだけの生活に無自覚なのだ。
そしてもっとも厳しいのは、愛情が家庭に全く通っていないことである(夫婦及び親子に)。
その意味では、家はすでに機能不全であり子供を育てる環境成り得ていない。
と言うより、これでは子供の行く末が危ない。

ここが一番の問題として描かれており、この点については現代社会の縮図でもあり普遍性を持ち得ている。
基本的に特異な家庭ではない。
夫は仕事と言って家を顧みずおまけに浮気にうつつを抜かし、妻は社交パーティや見栄を気にした慈善パーティ、セミナー、豪華な食事会にばかり参加していて、子供に対しては教育プログラムをベビーシッターを通して押し付け、自分は何にも関わらない。
ただ子供がどの学校に行くことになるかだけには異常な関心を持つ。

彼女自身もその場に深く入り込んでゆくとともに、この悲惨で荒涼とした子供の生活環境はどうにかしてあげたいという気持ちが強くなる。
しかし、その矢先、ミセスXが監視用カメラで、アニーが子供に食べさせないように注意していたオーガニック素材ではないものを瓶から直接食べさせていたことやフランス語やその他の細かい勉強を疎かにしていたことが発覚して、クビになってしまう。
グレイヤーとアニーがこころを通わせていたのは、まさに妙なルールに縛られずに互いがしっかり向き合って関係を築いていたからなのだが。
彼女も以前からそのカメラの事が気になっており、最後にクマの縫ぐるみに仕込んで置かれていたカメラを探し当ててしまう。
前から期間限定で経験してみようと思って始めた仕事であるが、ここで撤退するのは彼女にとって中途半端で不全感は否めない。
そこで、逆にクマの目向かって、ミセスXに敢然と立ち向かう。(恐らく初めて切れる。カメラ越しだし謂い易いこともあるか)。
思いのたけをぶちまけ、グレイヤーに対する押しつけと放任による彼の孤独の現状としっかり向き合う愛情の必要性を切々と説く。

そのビデオを観て、ミセスXは内省し我に返り~正気となり、夫と離婚してグレイヤーと共に時間を過ごす選択をする。
(一度も仕事をしたことのない奥さんがこの先どうやって生活をしてゆくのかは不安であるが。慰謝料と養育費は押さえているにしても)。
アニー・ブラドックは自分はどういう人間ですか、という面接に対し、どのように答える人になったのだろうか、、、。
少なくとも自己肯定的な逞しさは身についたはずである。
状況を体当たりで捉え、自分なりに感情を込めたアウトプットも出来たし、、、。
グレイヤーとハーバード・ホッティにこころから愛されたことも、とても大きい。

そういうものであろう。






くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ

Ernest et Celestine002

Ernest et Celestine
2012
フランス

バンジャマン・レネール、ステファン・オビエ、バンサン・パタール監督
ガブリエル・バンサン(ベルギー)原作

アーネスト、、、クマのおじさん
セレスティーヌ、、、ネズミの少女


絵本を元にした映画であり、その質感を大切にして映像に再現していることが分かる。
動きはジブリの古畑アニメを彷彿させる。


ネズミ世界、クマ世界、それぞれの世界からのはみ出し者同士が接点をもつ。
お互い自分の世界が居心地悪い彼らが親しくなるのに時間はいらなかった。

ネズミ社会では、クマは意地が悪くネズミを食べてしまう怖い存在だと教え込まれている。
おまけにセレスティーヌは孤児でクマの前歯を集める仕事を強制されているが、彼女はスケッチばかりしていて邪魔者扱いされている。
クマにとってネズミは地下に住む生き物であり、本来自分たちとは別世界のものたちである。
しかもアーネストは両親から裁判官になることを望まれていた。
しかし彼のなりたいのは、音楽家か詩人であり、一文無しの腹ペコクマなのだ。

アーネストがたまたまごみ箱をあさっていると、中にネズミが眠っており食べてしまおうかと思ったが、彼女がお菓子屋さんを紹介してくれたことで、その地下倉庫で思う存分甘いお菓子を食べることが出来た。
そのお礼としてアーネストは、そのネズミ、セレスティーヌの歯の収集に手を貸す。
アーネストは沢山の歯を袋に詰め、ネズミのいる地下世界まで運んだところで眠くなり、そのまま眠ってしまう。
(クマのアーネストがすぐに眠ってしまうところなどありそうで面白い)。
ここで、彼らは一緒にいるところを見つかり、盗みと互いの境界を侵犯したことで、共犯者としてネズミ・クマ双方から追われる身となる。
と同時に彼らはとても仲良くなる。ずっと一緒に暮らしたいと思うような絆が芽生える。

Ernest et Celestine001

クマのアーネストは音楽、ネズミのセレスティーヌは絵が得意である。
特に、「アーネスト、見せてあげる、これが冬の絵」とセレスティーヌが絵を描くのに合わせて、「音楽をつけるとしたらこんな感じかな」とアーネストが音楽を付ける。このハーモニーは絶品と謂えよう。
大変良質な環境ビデオ(ブライアン・イーノの創るような)の趣があった。
クマにとって冬の世界は、未知の世界である。
それを覗いた感動をふたりで音と画像により表現しようなんて素敵な関係ではないか。

Ernest et Celestine003

クマとネズミとのはっきり分かれた棲み分け上下社会という他にも、シニカルな面はしっかり押さえている。
夫がお菓子屋でたくさんのお菓子を子供たちに売りつけ、その真向かいで妻が経営する歯を悪くしたものに入れ歯を売りつける店で大儲けする夫婦が描かれ、彼らは絶対に息子だけには甘いものは食べさせない。
これは典型的な小市民像であり、市場社会の縮図である。
アーネストとセレスティーヌは、そのどちらからも商品を掠め取る。
こうした搾取と完結性を崩すひとつの象徴的で無意識的な彼らの行為か。

クマ裁判長とネズミ裁判長の両界において絶対的な権力を持つ者がどちらも、裁判中に起きた火災から裁こうとしていたアーネストとセレスティーヌによって救い出される。
皆、周りの提灯持ちは、我先に逃げてしまった。
そして下で起きた火災は上にも及ぶのだ。自然~物理的災害は境界などお構いなく容赦なく浸食する。
(核戦争のメタファーにも感じ取れる)。


アニメ全体は、とても柔らかで清々しい水彩タッチで、優しく流れてゆく。

最後は、どちらも無罪放免となり、穏やかで和やかなふたりの生活が描かれる。
これまでのふたりの辿った物語を絵本にするのだ。

恐らく、この噺のように(笑。
おしゃれである。流石フランスアニメだ。





ダウンタウン物語

Bugsy Malone002

Bugsy Malone
1976年
イギリス

アラン・パーカー監督・脚本

ポール・ウィリアムス、ロジャー・ケラウェイ音楽


スコット・バイオ、、、バグジー・マロン(ボクシング・プロモーター、一文無し)
ジョン・カッシージ、、、ファット・サム(ギャングのボス、キャバレー経営者)
マーティン・レブ、、、ダンディー・ダン(サムと対立するギャングのボス)
ジョディ・フォスター、、、タルーラ(サムの情婦)
フローリー・ダガー、、、ブラウジー(マロンの恋人、ハリウッドを目指す歌手)
デクスター・フレッチャー、、、ベビーフェイス(新入りギャング)


ジョディ・フォスターまさに、「栴檀は双葉より芳し」である。

とても思い切った設定で、まず一回やったら真似はもうしない方がよいだろう、、、。
禁酒法時代のアメリカギャング映画を「子供だけのキャスト」で撮った映画。
でも、ジョディ・フォスターって子供か?
子供の年齢には違いないだろうが、子供には見えない。
大人でもない。

そう、ジョディはジョディでしかなかった!
恐るべし、、、。
やはり普通の人間ではなかった。
(今若手で、これほどの存在感を示す女優はいるか、、、ダコタ・ファニングか?確かに両者ともに天才である)。

足漕ぎクラシックカーもともかく愉しい。
これもたまらない。
出てくるたびに嬉しくなる。
子供時代にこんな豪華な足漕ぎギャングカーに乗ってみたかった。
いや、今でも乗ってみたいではないか。

さらにミュージカルであるが、どの曲もとても出来が良い。粒揃いなのだ。シングルカットで行けそうなものばかり。
時折、ミュージカルなのに曲がショボく(特に「ムーランルージュ」)、観ているのが苦痛になるものがあるが、この作品はとっても音楽~歌が良かった。

但し、残念なのは歌が吹き替えなのである(苦。
子供声でよいから、(下手でもよいから、、、演技も上手くはないのだし)本人の歌で聴きたかった。
とーくに、タルーラ♪~である。あの曲はジョディの肉声で聴きたかった!
ここが吹き替えでがっかりした。この映画で一番がっかりしたところだ。
もう、がっかりした。

Bugsy Malone003

度々出てくるクラシックカーも、ジョディ・フォスターもとても素晴らしい。
ただ欲を言えば、もう少し彼女の出番を多くしてもらいたかった。
というより、この映画ジョディとこの珍妙な足漕ぎ自動車が出てこなければ、少し厳しいかも。
勿論、楽曲も良いのだけれど、他の子どもさんとの差があり過ぎなのが観ているうちにしみじみ分かって来る。
ファット・サムのジョン・カッシージ君も体形~ルックス的にも個性があり上手いかも知れないが、、、。
二枚目役のバグジー・マロンも敵のボス役のダンディー・ダンも、確かにイケメンだが今一つ影が薄い。

いや、普通なら彼らはかなり達者な子役なのだ。
(ヒロインのブラウジーは正直キツイが)。
タルーラ~ジョディ・フォスターで皆、ぼんやり霞んでしまったのだ、、、。
これは仕方ないが。
本当なのだ。

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パイ投げは、向こうの映画では定番なのか。
このようなパロディ・コミカル映画では、どうしても実弾とはいかずパイとなる。
しかし手でパイを投げるとなれば、簡単に敵に避けられてしまう。
ファット・サムの店でわざわざその実証をボス直々にしている(爆。

それで、新型銃が登場し威力を発揮する。
パイを発射する銃を大量に手に入れ優勢に立つダンディー・ダンのファミリー。
こちらはファット・サムのところと違い統制もとれている。(部下がボスを尊敬している(笑)。
この新兵器で一時、ファット・サム一派はコテンパンにやられ追い詰められる。
それで組の者ではないバグジー・マロンに助けを求める。
バグジー・マロンは一文無しなので、金を積まれれば直ぐに乗る。

ファット・サムは店ごと最早、壊滅かといったところで、マロンの機転でその銃の略奪に成功し、最後は五分五分の激戦に持ち込み訳の分からぬ状況になる。
よくある無茶苦茶なパイ投げシーンに雪崩れ込む。
「グレートレース」で辟易したパイ投げであるが、よっぽどこれが好きなのだ。
パーティでちょっと羽目を外しても、ギャング同士の闘いでも、何でもともかくパイを投げたい。
そして全てがうやむやとなり~エントロピー最大~でついに双方ともに痴呆状態となって終結を迎える。
お互いに手を取りニコニコしているのだ。
こういうエンディングなんだ、、、。

他のアイデアは出なかったか、、、これがもっとも分かり易く受け容れられる形であるか。
、、、文化なのだ。

全体の話としては面白い。
ファット・サムの酒の密造工場がダンディー・ダン達に見事に潰されたり、真っ当な商売の野菜倉庫までも破壊される。
この徹底したダンの思惑通りの進撃振り、というかサム一派のやられ振りの展開が傑作である。
それに子役でこれくらいオヤジの悲哀に迫れる(理解する)ジョン・カッシージもその個性共々特筆ものかも知れない。
(こういう役に限定すれば)。
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いや、やはり、ジョディ・フォスターの魅力に尽きる映画であった。
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キング・コング 2005

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King Kong
2005年

アメリカ
1933年「キング・コング」のリメイク
ピーター・ジャクソン監督・脚本
メリアン・C・クーパー、エドガー・ウォレス原作

ナオミ・ワッツ、、、アン・ダロウ(舞台女優)
ジャック・ブラック、、、カール・デナム(映画監督)
エイドリアン・ブロディ、、、ジャック・ドリスコル(脚本家)
トーマス・クレッチマン、、、イングルホーン船長
ジェイミー・ベル、、、ジミー(ベンチャー号の少年船員)
エヴァン・パーク、、、ベン・ヘイズ(ベンチャー号一等航海士、ジミーの親代わり)
カイル・チャンドラー、、、ブルース・バクスター(映画主演俳優)


舞台は地図上にはない謎の島「スカル島」と1930年代の不況に喘ぐアメリカである。

正直これ程凄いVFXの映画だと思わなかった。
凄まじいというレベル。どうやって作ったのだろうという映像が一杯であった。
「ジェラシックワールド」など遠く霞んでしまう。
特に、アンとコングの関係に違和感がなく、コングの微細な表情の変化には驚く。
「美しい」という「ことば」がアンとコングとの間(ジェスチャー)で伝わり合うところはとても素敵だ。
二人を包む島の夕日とエンパイアステートビル頂上の朝日は格別に、いや異様に美しい。

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コングは高台でトワイライトゾーンに浸るのを好む詩人なのだ。
黄昏時は、誰も可もなくその存在は単独者となる。
単独者同士の邂逅である。
一切のイデオロギーもパラダイムもない、ただ薄明の光に照らされるだけの関係。
そこは下界のとは関わりのない至福の場なのだ。最初のアンの務める舞台の歌のように。
純粋に等価な魂同士の触れ合い。

これ程美しい映画が他にどれだけあるか、、、。


ナオミ・ワッツが本当に頑張っていた。
これ程、観ながらよく頑張ってるな~っと労いたくなる女優はいなかった。
そぞかしタフでハードな撮影であったはず。

それから何といっても、出てくる恐竜が非常に即物的な迫力で迫って来る。
もう、文字通りの肉弾戦なのだ。
ブロントサウルスのぶつかりこすれ合いながらの大きな群れでの激走。
特にデナム達はカメラやフィルム、三脚などの機材を持って逃げる。
まさに恐竜の足の合間を縫って逃げる人間、、、。
合間で人間を食おうとちょっかい出すユタラプトル?小型肉食獣たちの小賢しい動き。
これらの動きが非常に速い速度で絡みあう。
所々で、踏みつぶされたり、放り投げられたり、食われたり、撃ち殺したりのアクセントが入る。
ともかく迫力の流れ~リズムだ!

更にティラノサウルス3頭相手にコングの激闘。
迫力ではこれがマックスかも知れない。
コングは最愛のアンを守っての闘いを余儀なくされる。
流石にティラノサウルスは他の恐竜などと比べ戦闘力は桁違いだ。
度々あの鰐より鋭い歯で噛みつかれるも怯まずにアンを庇いつつスリリングな攻防が続く。
最後はコング圧勝に終わるが、その地形と体術(運動能力)を目一杯利用したアクロバティックな動きそのものに感心した。
特に、アンを右手左手足で軽業的に受け止めて闘う姿は、まさにそれである。

それにしても、恐竜が絶滅せずに生存していたというだけでなく、多種多様な圧倒的に獰猛な動物がこれでもかと、次から次へうじゃうじゃ出てくる。
観ているこちらが絶望したいくらいである。
しかもみな巨大である。
正直、ここまでやるのか、と途方に暮れるくらいだ。
しかし、それでも焦点が崩れずしっかりアンとコングの関係が一本通り、そこにドリスコルの果敢な愛とデナムの強力な野心が絡んでくる。デナムの何にでも徹底してカメラを回す、映画至上主義の姿勢には、これはこれで共感できたが、カメラが壊れコングを見世物として持ち帰り金儲けだけの野望に変換したところで何だこれはである。この流れがなければ、コングがニューヨークには来なかったのであるが。
イングルホーン船長やジミーとヘイズ、バクスターの人物像も活き活きとくっきり描かれ物語は重厚に展開する。
スカル島原住民の他者性も充分に描かれていた。

最後は、余りにも有名な塔の頂上での飛行機との決戦だ。
コングはアンの身を庇い銃弾を浴びて落下し絶命する。


その直前の至福の場は、そう何処にでもあるものではない。
(しかし、実は非常に近くの小さな場に存在するものだと思う。)

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紙屋悦子の青春

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2006年
黒木和雄監督・脚本

原田知世、、、紙屋悦子
永瀬正敏、、、永与少尉(悦子の夫、「お父さん」)
松岡俊介、、、明石少尉(悦子の初恋の人、永与の親友で特攻隊で死ぬ)
本上まなみ、、、紙屋ふさ(安忠の妻、悦子の義理の姉)
小林薫、、、紙屋安忠(悦子の兄)

これも中身は縁談絡みの噺で、最初と最後そして中間に現在の老境にさしかかった悦子と「お父さん」のまったりした対話がある。
しかし現在の病院の屋上での騙りは二人による回想が主であり、何やら霞んだ雰囲気で、舞台袖での演技を想わせる。
一方、その当時(昭和20年)の二人がまだ結ばれる前(縁談~お見合い)の若い頃の場面は、素朴で初々しい漠然とした希望も感じられる。
縁談~お見合い噺もみな基本は対話であり、ことばの聞き間違えや緊張してガチガチなやり取りなど、ユーモラスなところもかなりあり、フッと笑える。
縁談~お見合い噺が暗い訳もなく、戦時中であろうが、特攻隊員として死を決意する者がいようが、日常の生活においては桜が咲いて桜が散り、耳を澄ますと海などないのに波の音が何処からか聴こえてきたりする、、、。
昼も夜も明るい。
そして静かだ。
ふさと安忠の口喧嘩の時すら静謐な雰囲気に包まれている。

そんな、昭和20年終戦間近の鹿児島であるが、ほとんど部屋か部屋から臨む庭先程度が舞台である。
あくまでも空間を、現在は病院の屋上の椅子に座って、当時は鹿児島の紙屋家の部屋に限って、悦子を中心に描く。
まさに舞台劇を見るような形式である。
このまま戯曲でもよい。

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基本、テーブル(卓袱台)で戦時中の配給で貰ったおかずを囲んでの質素な食事をとりながらの、方言による軽妙な魅力ある対話で構成される。
家族の場合は、それであり、永与少尉(と明石少尉)との場合は、静岡産のお茶とおはぎであったりする。
静岡のお茶はお客さん用の取って置きの御馳走であり、特に美味しそうである。
(役者がまた美味しそうに飲むこと、、、)。
さらに悦子とふさ、安忠の方言の騙り合いのリズムがとても心地よく綺麗で魅惑的である。

ここには一切、戦闘場面や爆撃を受けた悲惨な市街地などの映像は出てこない。
死を覚悟した人は出てくるが、死骸の類も全く見せない。
しかし、バックグラウンドにそれが逼迫しているという空気は漂っている。
明石少尉がある時、唐突にやって来て、特攻隊に志願したことを紙屋家の人に告げる。
ふさは、悦子と明石を二人きりにし、思いのたけを語らせようとするが、悦子は彼を見送らず、家の奥で慟哭する。
これだけで、充分である。

人物の数を最小限にして人物像を色濃く浮き立たせる。これには対話の妙が充分に効いている。
そして噺の焦点を絞りその流れのディテールをしっかり描く。
明石少尉の沖縄出征の報告時から後の悦子の心情には、本当に共感、共振してしまった。
静かな確かな説得力である。
永与少尉(今の「お父さん」)は、明石少尉に悦子を託された形であった。
(勿論、永与少尉は悦子に一目惚れして結ばれたのであるが)。
死んだ明石少尉の最期の手紙を永与少尉が悦子に渡すシーンは、もはや蛇足であるがダメ押しであり、戦争映画が戦場を描くばかりではないことが分かる。


これは、反戦映画成り得ていると思う。

黒い雨

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原子爆弾投下後に降る「黒い雨」である。
1989年

今村昌平 監督・脚本
井伏鱒二 原作
武満徹 音楽
川又昂 撮影

田中好子 、、、高丸矢須子(叔父の重松夫婦に育てられた20の女性)
北村和夫 、、、閑間重松(横川駅の列車内で被爆)
市原悦子 、、、閑間シゲ子(重松の妻、住宅内で被爆)
原ひさ子  、、、閑間キン(重松の母で矢須子の祖母、認知症)
三木のり平 、、、好太郎(残留放射能に二次被爆した重松の親友)
小沢昭一 、、、片山(残留放射能に二次被爆した重松の親友)
石田圭祐 、、、岡崎屋悠一(精神を病む元特攻隊員)
山田昌  、、、岡崎屋タツ(悠一の母)
常田富士男、、、老遍路


高丸矢須子は、瀬戸内海を渡る小舟の上で、黒い雨を浴びる。(爆心地からは離れていたが)。
物語は終始、矢須子の縁談を軸に進んでゆく。
この「縁談」から離れないところが良い。
ここが途切れてしまい、人々を俯瞰して見るような流れとなったらイデオロギー(集合知)で騙るような噺に脱してしまうかも知れなかった。
ともかく一個人の関心事、願い~身体性に寄り添う形で進まなければ、実感が遠のく。

映画であれば、どうしてもその時代考証や捉え方にズレはつきものであり、この原爆投下の時期というのは、大変微妙なところだ。少なからずこの場を体験している人から見れば、それぞれの立場からの異議が出てきてもおかしくない。
実際の死骸はあんなものではなかった、とか被爆した被害者の描き方とかその時分の農民の姿とか、人々全般の他者に対する姿勢や傾向など、、、。
当然出てくるそのような齟齬も、うんと絞った関係~ディテールの描写で身体性における共感を保つことはできる。
被爆者差別や病をもった者に対する偏見や根拠のない噂に流される世間の本質がそこにしっかり晒される。
全体を隈なく正確に描くという事自体に意味はない。断片に感性が充分に浸かることのできる描き方がなされていれば充分だ。

また武満の音楽が死の不安と生の欲望に対する大変微細なニュアンスを饒舌に表現していた。
武満の音楽はシーンと切り離せぬ純度にあった。


矢須子は母が出産後すぐに亡くなったため、叔父夫婦のもとで育てられる。
重松夫婦も彼女の事をとても大切に育てて来た。
年頃でもあり、嫁に出してあげたいと願うが、、、。
彼女が「黒い雨」をかつて浴びていたことから、良縁があっても必ず壊れてしまう。
先方は最終的に器量よりも健康を優先してくる。
と言うことより、「黒い雨」に当たったという事自体が負の価値であり、それを背負込むなんて世間的に謂って論外なのだ。
それこそ家に傷がつくとかいうレベルで。
重松夫婦は矢須子の日記をまとめて清書し、当時彼女が爆心地から離れた場所におり、被爆していない旨の書類を作成するも、正確を期した情報など全く役には立たない。悪い噂の方が人々の好みなのだ。

何でアメリカは広島に原爆を落としたのか?
それが分からないで死にたくないものだ、と言って片山は死ぬ。
まったくだ。

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広島がのうなってしまった、という感が充分に分かる瓦礫と無残な死体の横たわる(水に浮く)焼け野原を、重松夫婦と矢須子の3人で取り敢えず重松の勤務する工場に避難するために横切ってゆく。その途上、顔に酷い火傷のある老遍路に出会う。
彼が自分は防空壕を出た矢先にピカドンにやられたこと、妻は即死したが息子は足を倒れた柱に挟まれ動けないでいたため、懸命に助け出そうとしたが柱がびくとも動かず、やがて火が周って来て息子を置いて逃げてきたことを打ち明ける。
顔の傷は痛まないがこころが痛むと。
「とうちゃんたすけて~」(日本昔話の語り部が息子のことばを何度も何度も繰り返す、、、)
この場面は、可哀そうとかお気の毒にという同情といった感情に落ち着くものではなく、その場にいてしまった3人にとってはただ慄然とするしかなかった。早々に彼らはその場を立ち去る。その男は別れ際、矢須子に無表情に水を求める。
彼が水をがぶ飲みしているのを打ち眺める矢須子の表情は、名状し難い存在の生々しさ~恐怖に強張っていた。
こんな場面だけでももう充分である。事細かにあれやこれやを拾い描きつづる必要などあろうか。
(この息子が生きたまま、周って来た火に焼かれる場面は、「はだしのゲン」にもあった)。

元特攻隊員で、普段は小屋に籠って石像を彫っているが、エンジン音に反射してすかさず表に出て行き布団爆弾を車に仕掛けて止めてしまう矢須子の幼馴染も、帰還兵の悲痛な姿を表している。
ただ、この村(祖母の住む彼らの疎開先)の救われるところは、この男をみんなで守っているところである。
そして、普段は大人しく石像を彫り続けている男に、矢須子も惹かれてゆく。
家の身分には大きな差があるが、相思相愛である事を知った男の母が矢須子を嫁に貰いたいと重松に頼む。
当然、重松はその急な申し出に愕然とする。彼は良家との縁談以外考えていなかった。
しかもその男は精神に病を抱えている。だが彼がどんな人間であるかについての本質的洞察はしているのだ。
そして矢須子の自らの気持ちを大切にしてあげたいという妻シゲ子の進言に彼も同意する。
「わたしは悠一さんを尊敬しています。」
自分の目で相手を見て、考えられる人もしっかりいるのだ。

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「正義の戦争より、不正義の平和の方がまだマシ」重松の噛みしめる言葉が実に説得力がある。
お嫁にも行く間もなく矢須子がついに発症してしまったのだ。
悠一に抱きかかえられて行き絶え絶えの彼女は車で病院に運ばれてゆく、、、。
もうすでに矢須子の縁談で奔走してくれた好太郎も鯉の養殖仲間の片山も死んでおり、頼みの綱の妻のシゲ子も発症して死んでいる。
その上に、矢須子まで、である。

彼はあの山に綺麗な7色の虹が掛かれば、彼女の病は治る!と胸に念じる。


そういうものだと思う。


大魔神 三部作

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BSでやっていたので、とりあえず観てみた。3つとも。
監督がそれぞれ違うのに、話は完全にフォーマット化されていて、おんなじであった。
大魔神が現れるタイミングもきっちり同じであり、お姫様とか小童がお祈りして頼むと願いを聞いてくれる。
水戸黄門的な律義さで流れてゆく。

特撮はかなりよく出来ているが、魔人のスケール感がシーンによってかなりばらついていた。
身長は4.5mというのだが、明らかにそれより大きかったり、そのくらいだったりする。
一定に保つのは難しいことだ。
それから特徴として、何も話さないし吠えたりもしない。声自体出さない。
やはり口から何も発しないところが、神の威厳を保つうえで肝心なところなのだ。
(あの大きさで何やら声を出すと、ただの怪物となってしまう。ゴジラやガメラとの差別化を図らねばなるまい)。
ただその存在を大きな足音で知らしめる。
そして高くて頑丈な塀や石垣、岩などを怪力で崩してその姿を現す。
登場スタイルも皆同じ。

つまり2,3作目は1作目を基本フォーマットとして継承いたのか、或いは最初からシリーズはこの形でというものが決められていたのか。
チェコの映画『巨人ゴーレム』(1936)にインスパイヤされ日本の時代劇と融合させた形をとっている。
2作目は、「モーゼの十戒」からの引用か、湖が裂けて大魔神が移動して行く。
これ程の力があったのか、、、流石は神である。

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ちなみに誰もが知っている戦闘時に顔が変わるシーンであるが、魔人の山に祭られている平時は古墳祭祀の際に使われていたような埴輪顔だが、腕を顔の前で交差するとたちまち仏像(仏教化するのだ)における憤怒の形相の 明王みたいになる。
ここが大魔神の大魔神たるところだ、、、。

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必ず一度、魔人阿羅羯磨(あらかつま)を極悪非道な新たな領主が破壊を試みるが、かえって魔人を怒らせることになる。
当たり前だ。これでただで済むと思ってるのか!、、、である。
地震、地割れでまずは邪魔な子悪党を文字通り神罰で呑み込み、、、。
次々とお城や建物を壊し、なぎ倒し、砲撃を跳ね返して前進する。
後は何処までも悪い殿をのっしのっしと追い詰め、止めをさす。
「かみさま~」と圧政に苦しんできた村の衆や悪い殿に一族を滅ばされた姫や小童たちが拝んでおしまい。
魔人はその場で粒子化して崩れ、核部分が火の玉状となり飛び去って行く。
この青い火の玉が魔人の実体なのだ。


音楽が3作とも伊福部昭であることで特撮技術と相まってある種の格調の高さが生まれている。
噺自体は非常に単純な勧善懲悪の民話みたいなものである。
脚本と撮影も同じ人だ。これで作品に安定感というより、同じような話~絵となるわけだ。

領民に思いやりのある政をして慕われてきた領主~お殿様を悪辣で非道な侵入者(家臣)が悉く殺してしまい、自らがその地位を奪い統治してしまう。過酷な労働に駆り立てられ死にそうな目に遭う民が山の谷間のような秘密の場所に祀られている山の荒ぶる神に助けを求めに行く。だが、映画の終盤まではなかなか魔人は重い腰を上げない。誰がお祈りをささげて涙を流すか(自己犠牲的な仕草を見せるか)で、彼ははじめて動く。1,2作目は綺麗な姫の私の身を捧げますと言って流す涙。3作目は小童の拝んで雪に身を投げる姿、に呼応する。
(とは言え虐げられている村人が魔人に蹴散らされたり、村人の為に立ち上がった少年が自己犠牲的に川に流されても直ぐにドライに忘れ去られたり、可哀そうに思えるところはある)。

それから、何とも恐ろしいことに、全ての作品が1966年に製作されているのである。
映画によっては続編が10年以上後となるものなどいくらでもある。
これでは猶更同じようなものになるのでは、、、。それが狙いか。
でも、何でこんなに急いで続編を作ったのか?
一作目が結構ヒットしたのに気をよくしてそれにあやかろうとしたのか?


「大魔神」(1作目)
1966年
安田公義監督
吉田哲郎脚本
伊福部昭音楽
森田富士郎撮影

高田美和、、、花房小笹(一族を悪家老一派に滅ぼされた姫)
青山良彦 、、、花房忠文(姫の兄)
藤巻潤、、、猿丸小源太(忠文の懐刀)
五味龍太郎、、、大舘左馬之助(悪家老)

1518年(永正15年) 丹波にて

ここでは、民がどんな酷い目に遭っても動かぬ大魔神であったが、花房小笹(高田美和)が涙で頼むと、いうことを聞く。
噺と流れは、同じ。


「大魔神怒る」(2作目)
1966年
三隅研次監督
吉田哲郎脚本
伊福部昭音楽
森田富士郎撮影

藤村志保、、、早百合(姫、十郎時貞の許婚)
本郷功次郎、、、千草十郎時貞(民に称えられる千草の領主)
上野山功一、、、名越勝茂(千草の分家、早百合の兄)
神田隆、、、御子柴弾正(隣国から攻め込んだ悪殿)

1532年(天文元年) 八雲 にて

ここでは、早百合が捨て身で涙を一滴流して頼むと、言うことを聞いてくれる。
噺と流れは、同じ。


「大魔神逆襲」(3作目)
1966年
森一生監督
吉田哲郎脚本
伊福部昭音楽
森田富士郎、今井ひろし撮影

二宮秀樹、、、鶴吉
堀井晋次、、、大作
飯塚真英、、、金太
長友宗之、、、杉松
(どれも小童)

1543年(天文12年) 飛弾 にて

ここでは特に殿も姫も出てこない。
そこが1,2作目と異なる。
演技の下手な子役でもたせるのは、かなり大変。
(製作側も観る方も)。
やはり殿(直ぐに敵につかまり人質になる)と幼気な姫でやった方がすんなり観られるのだが。
噺と流れは基本的に同じ。

daimajin004.jpg
3作目で初めて剣を抜いたと思う。
それまでは、ほとんどただ歩くだけで、悪の主をやっつけるときも自分の剣は使わなかった。


どれも初めて見た。
ゴジラ、ガメラは明らかな怪獣であるが、こちらは荒ぶる神であった。
取り敢えず3部作全部見てひとやれである。


恐らくもう二度と観ることはあるまい。


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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
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