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ナイトウォッチ

NOCHNOI DOZOR001

NOCHNOI DOZOR
2004年ロシア

ティムール・ベクマンベトフ監督
セルゲイ・ルキヤネンコ原作
ユーリ・ポテイェンコ音楽
セルゲイ・トロフィモフ撮影

コンスタンチン・ハベンスキー、、、アントン・ゴロジェツキー(光の異人)
マリア・ポロシナ、、、スヴェトラーナ・ナザーロヴァ(光の異人)
ウラジミール・メニショフ、、、ゲセル(光の異人、ボス)
ガリーナ・チューニナ、、、オリガ(光の異人。魔術師)
ディマ・マルティノフ、、、イゴール(アントンの息子)
ヴィクトル・ヴェルズビツキー、、、ザヴロン(闇の異人、ボス)


VFXが至る所で使われていて目まぐるしく勢いのある映画であった(笑。
素早いカットの連続とどぎつい色彩に蚊やビスなどの小さなモノの見せ方が凝っている。
特に時間~速度感の演出が冴えており、全体をスリリングでタイトなものにしていた。
そう、グロテスクで粘液質のシーンも含め、感覚を擽る映画である。

光陣営と闇陣営の対立で、1000年お互いを監視し合い力の均衡を保ってきたが、その均衡を破る強大な力を秘める異種の誕生を契機に、その異種の自陣への取り込みをめぐる駆け引き~争いが展開されてゆく。
誠に単純この上ない骨格である。
それを面白い話に練り上げている、とは言え分かりにくいシーンは幾つもあるのだが。
主人公アントンはいい加減な軽い男で、浮気した恋人のことで、それと知らず魔女(闇陣営)に相談に行ったばかりに光の戦士として戦う羽目となる。彼もその時、はじめて自分が異種であった事を知る(その魔女を捉えに来た光の戦士が見えてしまったことで)。
恋人には子供が出来ていて、魔女はその胎児を浮気相手の子だと殺そうとするが、実はアントン自身の子であり、最後に分かるのはその子こそ恐るべき力をもった予言で待ち望まれていた存在であった。

追いかけにくい断片的で奇妙に捻ったストーリーや伏線が活かされており、なかなか面白い。
また、双方の間に交わされた協定(冷戦状態)がかなりお互いを生き難くしているところが、妙にリアルでもあった。
(法にがんじがらめにされて人間界に居心地悪そうに暮らしている)。

そして色々出てくる。闇の異種がヴァンパイアとなって人を襲いヴァンパイアにしてしまったり、それを協定違反として追う光の異種=ナイトウォッチ。ちなみに光の異種の行動を監視するのがデイウォッチである。
いざこざは、日々あるようだが、伝説の「禍の女」の出現で大きく状況が変わる。
その眼鏡をかけた女性の出現の仕方が印象的だ。
主人公の乗る電車内でその女性だけが髪が上昇気流に煽られており、その強風は上空高く渦巻いていた、、、。
偉大な異種誕生を告げる禍々しい異変であるようだ。
この手の見せ場は、幾つもある。

NOCHNOI DOZOR003


特に最後の屋上シーンなど、冒頭の軽い出だしをしっかり回収し、なるほどねと感心した。
主人公は最初から罠にかけられていたことが判明し、まんまと実の子を闇陣営に取られてしまう。
その子が闇側に自らの意思でついてしまうように巧妙に仕組まれていたのだ。
闇のボスが一枚も二枚も上手であった。
(なんせ、その計画をCGゲームでシュミレートしているのだ。IT的に光陣営は遅れを取った)。
しかし何も背骨を刀にしなくともよかろうに、、、奇想天外というか余りに無茶な絵も少なくはない(爆。


どうも物々しく登場した人物が「Xメン」みたいに仕事を何もしないし、誰もがこれといった能力を発揮せぬ(フクロウ女以外は変身もせぬ)まま終わったな、、、と思っていたら、これは3部作の第1作目にあたるものだそうだ。
これからなのだ、、、と思うと導入部~序章としては、まずまず成功しているかと思う。
(今、調べてみたら2作目「デイウォッチ」、3作目「ダスク・ウォッチ」、4作目「ファイナル・ウォッチ」まで行くシリーズものだという。ロシアでは大変な興行収入をあげており、ハリウッド映画より受けているそうだ)。

お金は見るからにかけていないようだし、こじんまりしているが、独特の風情がある。
ロシア的なのかどうかよく分からないとはいえ。
また、VFXへの拘りが尋常でないところは、表現自体は全く異質であるが先日観た「アトラクション」と同様である。
ロシア人はこういった極めて感覚的な効果に惹かれるところが大きいのか。
この領域においてはハリウッドと比べても全く遜色はない。

この映画、ロックがエンディングも含め、ガンガンかかっていたが、とてもピッタリ合っていた。
ロックサウンドの似合うサイケデリックな映画である。
やはり感覚・感性に訴える作品だ。
決して嫌いなタイプではない(どちらかと謂えば好きな方だ)。
続編もかなり気になる。


しかしロシアには、もうタルコフスキー(ソ連だが)みたいな作家はいないのか、、、。
彼は自身の表現の自由を確保するため亡命しパリに没しているが、ロシアは今も何ともきつそうだな、、、。
日本にも溝口みたいな監督はいないが。
こういう割り切った(思想的な深みや何らかの問題意識など微塵もなくただ面白い筋と効果で魅せる)大衆娯楽映画も丁寧に作られていればそれはそれでよいが、他の方向性も期待したい。
アレクサンドル・ソクーロフ監督(「太陽」)がいたか。

NOCHNOI DOZOR002


兎も角、とてもマニアックなおもちゃの詰まった箱をひっくり返したような作品であった。
取り敢えず、手に入れば「ファイナル、、、」まで観てみたいとは思う。
暇があればのはなしだが(笑、、、。


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スターシップ9

Orbiter 9 002

Orbiter 9
2017年
スペイン・コロンビア

アテム・クライチェ監督・脚本

クララ・ラゴ、、、エレナ(クローン)
アレックス・ゴンザレス、、、アレックス(エンジニア)
ベレン・ルエダ、、、シルビア(心理カウンセラー)
アンドレス・パラ、、、研究所のボス


そもそも、わたしにとって、映画は然程身近なものではないし、見る事自体に抵抗があり億劫に感じることも多い。
その為ジャンルがSFかどうかではなく、良い映画~見られるものでないと、大変キツイ。

兎も角、「ノスタルジア」や「ブレードランナー」、「アラビアのロレンス」は、何であろうが、文句なしに良い映画である。
そして、最近もこれは、という映画には巡り合った。
今日見た映画は、紛れもなくそのうちのひとつに数えられる。
素晴らしい作品だ。
マスターピースに出逢った時のトキメキに最初から惹きこまれ、20分後の尋常ではない展開からはもうどっぷり浸かり込んでしまった。
徹底して画像で語り迫る監督である。
不穏な雰囲気の光景に、不思議に心地よい空気が充ちている。
ブレードランナーへのオマージュにも時折、ニンマリする。

Orbiter 9

たった独りの孤独な移住(移民)のための星間飛行(いや周回飛行なのか”Orbiter”)をこの先20年続ける予定のエレナという20歳の女性。両親の存在はビデオの中で知るのみで、彼女を宇宙船の中で生んだ後に幼子を残し船外に出て行ってしまったらしい。
この初源における喪失~不在感とは、何であろう。
しかし、何かわたしにもそういった感覚が深々とこころに巣食っていることに気付く。
何とも言えない郷愁と焦慮の念と共に。
そういった感覚をふいに引き釣り出す映像なのだ。

うら若き女性が宇宙船にたった独りというのも余りにストイックな状況である。
そこへ酸素の供給システムの不具合で救援に応じてやって来たエンジニア。
彼女の初めて見る生身の人間であった。
しかしエンジニアは修理が済むとすぐに帰還してしまう。唖然とするほどの、その余りのそっけなさ。
彼女は、慣れ切った孤独に引き戻る。
(しかし戻れるのか。一度覚えた高揚感を身体的に忘れる事が出来るか)。


暫くして何の前触れもなく再び彼はやって来て、前回とは全く異なる感情的な面持ちで、いきなり信じ難い事実を告げ、事態を俄かに呑み込めない彼女を半ば強引に外へと連れ出す。
「外」である。
文字通りの彼女の身体性における完全な「外」であり、これまでの自分の記憶・文脈をすべて上書きしなければならない場所に追い遣られる。

彼女は生まれてこのかた20年間も、地球の地下施設で過ごしていたのだ。
幽閉され、監視され、テストされ続けて来たのだ。
何故、わたしが、、、何故その場所に居なければならなかったのか。
彼女と共に、こちらも眩暈に襲われる。
しかし、こうしたことはあり得る。
今わたしの居るこの場所が、本当にわたしがいるべき場所なのか、、、。
この光景がわたしの見るべき風景なのか?
わたしは何故、ここにいて別のどこかに居ないのか?
これは、わたしも常に持つ本源的疑惑である。
(決して本来居るべき場所が何処かにあるという超越的な前提など全くないにも関わらず不可避的に生じてしまう問いなのだ)。

地下生活、、、。
それ自体は魅惑的である。
深宇宙におけるたった独りとは、どう異なるのだろう。
身体的には、重力と宇宙線・光の作用であるが、それは全てシュミレートされた上での環境が作られているだろうが。

Orbiter 9 003

彼女はその実験施設のモルモットとして選ばれた理由を自ら探り出してしまう。
自分はクローン人間であったのだ。
両親と思っていた科学者夫婦は、DNAをクローン作成のため進んで提供した存在であった。
(植物はずっと昔からクローン技術によって繁栄してきた)。
彼女は寄る辺ない上に、何者でもない(人間と認定されていない)存在となる。
究極のわたしとは何か。
そしてわたしは何処からきて、何処に行くのか。
リドリースコットが映画で問い続けて来た問いにここからも繋がって行く。


「オービター計画」という人類移住計画のために10体のクローンが地下の実験施設で実際のロケットに乗っていると思い込んで生活~宇宙空間移動をしていたのだ。
毎日の様子や身体状況~健康チェックはモニターされて蓄積されてゆく。
地球に住めなくなった人類の20年かかる星間旅行の為の大掛かりな実験だという。
アレックスはその計画を推進して来た研究者であった。
しかし、実際にその実験対象に出逢って、そこに命と精神を見てしまう。
(自分の周囲の人間にないものを)。
そして彼女と共に逃避行する決心をする。
(まるでデッカードとリプリーのように)。


しかし彼女は地球の大気~太陽光には耐えられない体であった。
地下シュミレーターの中に最適化した身体として成長して来たのである。
軍隊のような研究機関に追い詰められてゆく二人。
彼女が処分される絶体絶命の時に検査で判明する。
アレックスとエレナの間には子供が出来ていた。
最後はそれを盾に、ふたりで共に地下施設に籠ることを機関に認めさせる。
そう自ら地下にゆくのだ。
遥か彼方の宇宙ではなく、地下に、、、。

それから20年経ったのか、、、その地下の扉から成長した女の子が微笑みながら外へ出てくる。
それを迎える年老いた所長。


全く無駄のない展開であった。
ひとりエレナ(とその外部としてのアレックス)を描く事でテーマの全てを語り切った映画であった。


わたしの意識のもっとも下部を揺り動かす映像である。
わたしにとってこうした作品こそが観るに値するものなのだ、ということを実感させる。
間違っても「パッセンジャー」などではない。

低予算映画のようだが、そのせいか音楽は今一つであった。
この映画なら、ハロルド・バッドあたりに音楽を頼みたいところだ。

アテム・クライチェ、、、この監督の名は覚えておく必要がある。

アトラクション 制圧

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ATTRACTION
2017年
フョードル・ボンダルチュク監督

イリーナ・スターシェンバウム、、、ユリア、ロシア軍の司令官の娘
アレクサンドル・ペトロフ、、、ヘイコン、異星人
オレグ・メンシコフ、、、ユリアの元カレ


わたしは、体調が今ひとつのときは、元気付けにSFを観ることもある。恋愛ものなどは見切れないが(爆。
実際、ここのところ最悪のコンディションなのだ。
何とか「気」から回復を試みる必要があった。
そこで散歩がてら、CD・DVDショップに買い物に行く。
「乃木坂46」のCDでも娘に買ってゆくかと思いつつ、SF映画のコーナーに。
もう「ブレードランナー2049」最新作も並んでいるではないか、、、と、棚を横へとゆっくり観てゆくと、ちょっと凄そうなパッケージが、目についた。

何と、そこには、ロシアのSF超大作とあり、またまた何と、「エリジウム」、「第9地区」の製作スタッフが関わっているなどと書いてあったため思わず舞い上がってしまった。(これだけで少しばかり元気になるのだ)。
タルコフスキーの「ソラリス」にブロムカンプの「第9地区」というふたつの大傑作が融合・昇華した作品だったら、もう映画史上に燦然と輝く金字塔だぞ。
しかもロシアはニコライ・ゴーゴリやアントン・チェーホフ、ドストエフスキー(余り読んでいないのだが)、トルストイはよく映画にもなってきた、、、の国である。
いやが上にも期待は膨らむ。
パッケージ写真は紛れもなく、「第9地区」スタッフでなければ作れない絵である。

これは。大袈裟な宣伝ではなく、ホントにSF超大作なのかも、、、。
と思ってしまい、危うく買うところだったが、(何故か嫌な予感がして)踏みとどまり、、、借りた。


予感は大当たり。
借りてもお金の惜しい大作であった、、、(哀。
何よこれ、、、、。

邦題に「制圧」と余計な文字をくっつけたのがどういう意味かさっぱりである。
ただ、間抜けなUFOが地球近傍で撃ち落とされてモスクワにビルにぶつかりながら墜落しただけなのだが。
水を貰って元気になり~修復して去って行くという物語だ。
何故か船が直るまで、異星人は街をぶらぶらしてモスクワヤンキー娘と恋に落ちてみたりする。
だが、元カレが焼きもちを焼いて、宇宙人から地球を守るぞ~と暴動を起こしたりする。
これどう見てもローカルな、彼女を巡るゴロツキ同士の喧嘩ではないか。

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確かにVFXは、彼のスタッフの製作に間違いない、飛んでもなく高水準の完成度である。
重厚で威圧感のある独創的なUFOの造形と奇想天外な動きといい、エイリアンのスーツの細部に及ぶ精緻な出来栄えとその敏捷かつ特異な動作など、目を見張るものだ。
水の扱いも他のSFには見られないダイナミックで繊細な表情豊かな表現に驚かされる。

だが、これ程、表現技術とストーリー~内容・本が乖離したものも珍しい。
よくこんな映画作りに、そのスタッフたちが協力したものだ、、、。
はなしは、全く持って他愛もないと言うより、気分が悪くなるような筋書きなのだ。
有り触れても既視感すらもないくらい、陳腐で愚劣で趣味の悪い内容であった。
確かにチープでステレオタイプなシーンも寄せ集められてはいる。
(各国首脳のニュース演説をだしてみたり、やたらと演出面でも風呂敷を広げて大作めいた体裁にしようとする)。

コミカル青春ラブストーリーに徹すれば、このVFXなので奇想天外なギャグ映画として楽しめるはずだが、妙にシリアスな問題に能天気に関わってみたりする。永遠の命より愛を選ぶとか何とか、、、ギャグに昇華しないとどうなるのか?

ヒロインが何と言っても異様だ。どういう精神構造なのか分からないが、ひとりで何か勝手に納得して悦に入っている。
何か認識を得たようなのだが。
それで彼女が充足したのはよいが、こっちは置いてけぼりなのだ(と言うより最初からついてゆけないのだが)。
一体どういうつもりだ。

ここに決定的なのは、一人のブロムカンプがいないということだ。
それが決定的なのだ。
タルコフスキーはわたしの勝手な思い過ごし(思い入れ)であり、先に挙げた作家も別に関係ないと言えばそれまでだが。
決定的欠如があった。
決定的欠如の上に成り立ってしまった(製作してしまった)映画である。

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ロシア藝術(文学)と「第9地区」の幻想に躓いた。
民衆は、これ程軽いのだ。みんなゴロツキ。異星人もゴロツキ(爆。
映画の登場人物のだれひとり共感できる者はいないし、ご都合主義と言うよりあり得ない話の運びだ。
流れは変だし、キャラクターの設定がどれも異星人みたいで、そもそも何で異星人が普通のロシア人なのか?
ゴダールの「アルファヴァル」みたいな映画であれば、自然に観れるのだが、これには説明が欲しい。
よく謂われる、低い文明にむやみに高い文明が接触するとその文明を破壊してしまう為、極力違和感のない姿で現れたとかいうものか。
自分の宇宙船のなかでは、元の姿に戻ってもよいのではないか、、、と思うのだが。

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この高い文明社会から来たロシア人異星人も結局何しに地球近傍までわざわざやって来たのか分からないし、、、。
一体どういう監督なのか、、、。
それが最大の疑問となってきた。

VFXだけ途轍もない、空っぽ能天気映画という以外に評し様もないものに時間を費やしてしまった。
勿論、体調が上向きになるはずもない。
もう、、、明日から養生しないと、、、。


これからは、ロシア映画には警戒したい。

モーガン プロトタイプL-9

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Morgan
2016年
アメリカ・イギリス

ルーク・スコット監督
セス・オーウェン脚本

マックス・リヒター音楽
マーク・パッテン撮影

ケイト・マーラ 、、、リー・ウェザーズ(危機管理コンサルタント、L4)
アニヤ・テイラー=ジョイ 、、、モーガン(モーガンプロジェクトL9)
トビー・ジョーンズ 、、、サイモン・ジーグラー博士(モーガンプロジェクト研究スタッフ)
ローズ・レスリー 、、、エイミー・メンサー博士(モーガンが最も慕う博士)
ボイド・ホルブルック 、、、スキップ・ヴロンスキー(調理人)
ミシェル・ヨー 、、、ルイ・チェン博士(モーガンの生みの親)
ジェニファー・ジェイソン・リー 、、、キャシー・グリーフ博士(モーガンプロジェクト研究スタッフ)
ポール・ジアマッティ 、、、アラン・シャピロ博士(モーガンプロジェクト研究スタッフ)


ルーク・スコット監督、リドリー・スコットの息子とは、まいった。
監督ファミリーだな、、、。
トニー・スコット(『デジャヴ』、『エネミー・オブ・アメリカ』、「トップガン」が一番有名か?)は弟だし、長女や長男も監督のはず。ルークは次男となる。


流石に映像には父親譲りの澄み切った「レンブラント光線」が射し込む(決して親の七光りではない)。森に射す光が一際、幻想的で綺麗であった。
これはリドリー家の血筋だ。
内容的には、、、
どこか、、、そうテーマ的に『エクス・マキナ』に近いものがある。
ヘンデルの「なつかしき木陰よ」が映像の雰囲気にピッタリ合っていた。

「あなたは本当の自分になろうとしている。」「それは一番大切なこと。」(エイミー)
そうした感情を「兵器」に持たせるとどうなるのか、、、。
周りの研究開発者(保護者)たちは、モーガンをかなり過保護に(腫れ物に触るように)育てていた。
ジーグラー博士をはじめ、最高の研究の成果=作品として彼女を誇りにして大切に扱う面が主調であるが。
エイミーはそのなかではもっともモーガンの精神に直截触れる関係をもっていた。

”L-4”はすでに兵器として完成されている。
”L-9”は、その上に感情を育ませるとどうなるのか、という実験であろうか、、、それとも現場の博士たちの暴走なのか。
遺伝子操作とは、このように結果が総体として発現されるか分からない面は大きいはず。

シンセクト社の研究施設で極秘裏に開発されたハイブリッド新生命体とは。わたしは人間そっくりのAIなど絶対に生まれることはないと確信しているが、遺伝子操作で超人的な新人類が作られる可能性は否定できないと思う(レプリカントを想起しないわけにはゆかないが)。
モーガンプロジェクトから生まれたL-9をアニヤ・テイラー=ジョイ。『ウィッチ』、『スプリット』、ここでも役柄を完璧に熟している。
L-4を『オデッセイ』のケイト・マーラ。驚異的に知的でクールでタフなのは何故かが最後に分かる、、、いや、終盤にははっきりしてしまうが。

「外の自由」に触れて、自分の外部に憧れる。
「わたしはわたし以外の者にはなれない」と悲観していたモーガンであったが。
最後はエイミーの語っていた湖に見入って、そこに天国を観て感動する。
危険極まりない純粋さで。

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彼女の商品化が妥当かどうかを評価する心理テストで追い込まれたモーガンは暴走する。
それを制止するために麻酔で一端眠らせるが、大きな外傷を受けていた。
ともだちだと信じていた者たちに裏切られたという。

人は究極的な自己存在証明として、人を作りたい~造物主となりたいようだ。
しかし、作られた者は人に対する畏怖や畏敬の念などもたない。
それは、人が神に対して抱くようなこころがそれには備わっていないというより、人が神のように不在ではないからである。
不死(よって誕生もない)ではなく身近にあって生活し衰えてゆく者に対し、如何なる神秘性も神話性も生じようがない。
しかも自分より(多くの場合)遥かに脆弱な生き物に過ぎないのだ。

さらにモーガン(の心)が5歳相当ということもあるのか、、、比喩が理解できない。攻撃性の抑制が効かず衝動的。感情が適切な(人間の規範に則った)行動に結びつかない。しかしそれまでは、反省の感情が生じるべき時に沸いては来たが、(とは言え、それを行動の「ミス」と捉えるレベルで)、、覚醒後の感情の変化は大きい。まさにバーストしている。完全に(ある意味、感情の爆発とともに自分を解放し)タガが外れ、エイミー以外の人間は彼女にとって無価値となった。
元々自分は人間ではない、他の何者かだ、という認識ははっきり持っている彼女であるが、片っ端仲間を平然と惨殺し、エイミーと共に湖~天国に逃避行するも、憩う間も無く追い詰められる。

森のなかで神秘的な湖の水面に、初めて見たかのように自らの顔に眺め入る。
彼女は人間とは決別し、新たな自分になる晴れやかな感情に静かに包まれた。
だがそれも束の間、ウェザーズがターミネーターみたい銃声を森に響き渡らせ迫って来るのだった。

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かなり過激な人間離れしたバトルがモーガンとウェザーズとの間に繰り広げられる。
ウェザーズの驚異的な回復力というか蘇生力が不気味この上ない。
ウェザーズが何者であるかも明白になり、怪しいとは思っていたが改めてショックを受ける(笑。


最後の光景はショッキングで余りに虚しいものである。
ここで終わってしまうのか、、、と思うとやりきれないものだ。
わたしは、モーガンが蘇生すると想っていたのだが、、、(ウェザーズを見ても)どうなのだろう?
ウェザーズに水に沈められたときにモーガンが何やら語っていたように見えたが。
そして、冷酷非情な任務に忠実な機械であるウェザーズも、そう単純ではなく、ひとつ魂胆~野望があるように窺えるのだが。
「わたしに仕事をさせなさい」と言って任務を遂行する姿からはそれだけの生物兵器にも受け取れるが、最後の様子からして、単なる最強の危機管理コンサルタントで満ち足りているようには見えないのだが、、、ただの思い込みか?

続編はあるのか、、、なさそうな気はするが、、、あって欲しい。


(人間的な)感情と思考のありよう(感情のない思考が可能かどうかはともかく)を巡る物語でもあったが、この映画に感情を揺すぶられるところがなかったのが不思議に感じる。
ブレードランナー」のような感動が何故ないのか、暫く間を置いて考えてみたい。
(単にわたしの体調の問題か)。

新しさはないが、テーマは深く(普遍性があり)、突き詰めればかなりの作品になったはずだが。
アニヤ・テイラー=ジョイは、やはり凄い女優であった。
この役でまた観たい。

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太陽

Солнце001

The Sun/Солнце
ロシア・イタリア・フランス・スイス
2006年

アレクサンドル・ソクーロフ監督
ユーリ・アラボフ脚本

イッセー尾形、、、昭和天皇
ロバート・ドーソン、、、ダグラス・マッカーサー(連合国軍最高司令官)
佐野史郎、、、藤田尚徳(侍従長)
桃井かおり、、、香淳皇后
つじしんめい、、、老僕


第二次世界大戦の終戦直前の昭和天皇の内面を綴る物語。
コミカルでシニカルでリリカルなとても美しい映像で描かれる。

淡々とまるで昭和天皇のドキュメンタリーいや日常の一コマ切り取りのような自然な居心地の悪さが静かに味わえる。
乾いてヒリツク感覚が生々しく再現される。
この感覚~描写の地平は、戦争とか天皇とかいう特殊な場所(場)ではなく、ありふれた他の何事か~誰かであってもきっと切り取れるものだ。
記録(日記)に触れるような共感の出来る映画であった。

このロシア監督とこの役者でなければ、生まれなかったある意味、奇跡的な逸品だろう。
御前会議の様子。ヘイケガニの研究での安らぎのひと時。チョコレートを巡る侍従とのとぼけたやり取り。スナップを撮られ「チャーリー」と囃し立てられる様子。家族のアルバムと共に、海外の映画俳優のプロマイド写真を眺めて物思いに耽り、うっとりする姿。マッカーサーとの探り合いとかけひきの会話(彼が決断の場にいなかったことを悟るマッカーサー)。
天皇の悪夢。このシーンのVFXには驚いた。こんなに生々しい悪夢の映像は見たことがない。海洋生物の研究者である天皇ならではの夢である。(魚が空を舞って、燃え爛れた地上を爆撃して行く)。

途轍もなく大きな荷を背負い、葛藤し悪夢に悩まされもする真摯で知的な人間性が露わになる。
彼は現人神から人間になることを決断する。
そしてマッカーサーに対し、終戦に当たっての自らの決意を表明する。
これも淡々と。
イッセー尾形が見事に昭和天皇であった。


どうやらこの時期、昭和天皇は宮城地下に設けられた防空壕に皇室の誰とも離れ(他の方々は別の場所に疎開し)限られた侍従たちと共に孤独に暮らしていたようだ。
終戦も決まり、天皇の元に香淳皇后がみえ、二人の暫しのやり取りが何ともぎこちなく微笑ましいものであった、、、。
二人で「あっそう」と言い合っているのには笑える。
皇后もそうだったとは知らなかった。


最後に「人間宣言」の録音を担当した者が自決したことを知らされ、それを止めもしなかった侍従長に対する香淳皇后の眼光が異様に鋭く映され、エンディングとなる。


時代も定かではないどこかの場所の寓話のようにも思える独特の映像美であった。








スプリット

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Split
2016年
アメリカ

M・ナイト・シャマラン監督・脚本

ジェームズ・マカヴォイ 、、、ケビンその他23人(解離性同一性障害)
アニヤ・テイラー=ジョイ (5歳の時:イジー・コッフィ)、、、ケイシー・クック(女子高生)
ベティ・バックリー 、、、Dr.カレン・フレッチャー(ケビンの先生、精神医学博士)
ジェシカ・スーラ 、、、マルシア(女子高生)
ヘイリー・ルー・リチャードソン 、、、クレア・ブノワ(女子高生)


この監督の映画は他に「サイン」「シックス・センス」「ヴィジット」は観ているが、あまりピンとこないものであった。それほど馴染みがない。


アニヤ・テイラー=ジョイが少し大人になって、孤独で影を宿したクールな女子高生になっている。
巻き添えとなりとんでもない相手に拉致されて、立ち向かうことになるが、、、。
(ケイシーは、障碍者であるケビンに性的な悪戯をした女子高生マルシアとクレアとたまたま一緒にいたことで攫われることとなる)。
相手とは24の人格をもつ、 解離性同一性障害の男なのだ。
人格と謂っても性格~価値観・精神的な差異に留まらず、身体性も大きく変容する。
(一人だけインシュリン注射の必要な人格や、コレステロール値の高い人格もおり、体力・身体能力も大きく違う。性差も勿論)。
文字通り24人の老若男女を相手に闘うことと変わらない。9歳の少年も出てくる。
その少年パーソナリティは、危うくケイシーに騙され操られそうになる。
だが、他の人格が黙ってはいない。
皆、椅子に座って出番を待っているが、照明が当たるとその人格が断ち現れる、という具合のようだ。
(とは言え、映画では24人全員出てはこない。役者も訳が分からなくなるだろうし(笑)。

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ジェームズ・マカヴォイ役者冥利に尽きる役柄であったろう。
ここぞとばかりに芸達者を披露できる。
それぞれはっきりメリハリをつけて各人格を描いていたが、こちらは誰が誰だか追いきれない(爆。

ともかく、最初のパーソナリティであるケヴィンを守る為に、次々に新たな人格が生まれて来たようだ。
母親からの虐待に耐えきれない彼が、ある時点でこれは僕の事ではないと感情や記憶を切り離してしまった。
それらが成長して幾つかの異なる人格として立ち現れてくる。
それぞれの人格には優劣があり、強い人格に他のすべてが吸収されてしまうこともある。
「アイデンティティ」は、そうであった)。

この幼年期からの苦境は、ケイシー・クックが叔父から受けた虐待によるトラウマに深く悩んできた状況に近い。
だが、彼女は特定の人格を保持し、アウトサイダーではあるが自分を癒しながら普通の日常生活の範囲に留まって来た。

Split004.png

ケビン(たち)を担当しているフレッチャー博士は、彼(ら)を解放しようとしつつも、負の側面よりその超能力とも呼びたい多様な身体性の変貌ぶりに驚愕し研究心にも火がついている。
学会でも発表するが、その現実が今一つ専門家にも受け容れられない。
彼女は解離性同一性障害の解釈を拡張するというより、そこに人間の新たな可能性を見ようとしているようなのだ。
その革新性について行ける人がいない。
その為、自身も孤独であり、彼女はその分とても丁寧に細やかにケビン(たち)に接してゆく。

しかし、囚われた3人の女子高生たちもしぶとく脱走を何度も試みる。
特にケイシーにおいては、何でわたしが、、、である。
この極限状況にあって、幼い頃の森での猟のことやショットガンの扱い、美しい思い出を侵食するように忌わしい叔父の性的暴力のシーンがフラッシュバックする。
彼女はその叔父の元に父の死後引き取られ、家出や問題行動等を繰り返していた。

ケビン(たち)の中に、不安定になり現状を博士にそれとなくメール等で知らせようとする者もおり、彼女も彼らの異変に気付く。
彼らの元に赴き実際に少女の拉致の現場を発見する。
そして想像で作り上げたと信じていた「ビースト」という凶暴な存在が彼らにやってくることを知る。

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23の人格が畏怖する人格である「ビースト」が終盤満を持して具現化し、彼女らの眼前に立ち塞がる。
それまでの人格は皆、堕落した女子高生に報復はしようとするが、暴力は極力控えようとしていたが、ビーストは躊躇いもなく殺す。
それまで彼らの側で必死に理解しようとしてきたフレッチャー博士も殺害してしまう。

だが、ビーストは、追い詰めたケイシーの体の虐待の傷跡を見て、彼女を称えて去って行く。
自らと同じ人種であることを察知したのだ。
ビースト人格は、ショットガンを至近距離から二発食らった後、鉄格子を捻じ曲げるくらい元気でいる。
もはや彼に至っては、超人レベルである。(それに殺された博士は本当に皮肉な運命であった)。
彼がわれわれの存在を世に知らしめる、と爪を研ぐ場面で終わる。


最後にブルース・ウィリスやサミュエル・L・ジャクソンもちょこっと出て来た、、、。
ストーリーから謂っても、明らかに続編へと繋げるエンディングである。
これだけ気を持たせて続編が流れてしまったら苦情がどれだけ集まることか、、、。

取り敢えず、次も出たら観る。
アニヤ・テイラー=ジョイは完全に大人の女優として真価を問われるところでもあろう。

この映画もジェームズ・マカヴォイと彼女の存在感が支える部分が大きかった。


たかが世界の終わり

JUSTE LA FIN DU MONDE001

JUSTE LA FIN DU MONDE
2016年
フランス

グザヴィエ・ドラン監督・脚本
ジャン=リュック・ラガルス原作

ギャスパー・ウリエル 、、、ルイ(余命いくばくもない劇作家)
レア・セドゥ 、、、シュザンヌ(ルイの妹)
マリオン・コティヤール 、、、カトリーヌ(ルイの義姉)
ヴァンサン・カッセル 、、、アントワーヌ(ルイの兄)
ナタリー・バイ 、、、マルティーヌ(ルイの母)


家族である。
これが家族というものだ。
勿論、一家団欒の和気あいあいの家族を常に過ごしている家もあろうが、、、
家族というものの危うさの本質が見える。

JUSTE LA FIN DU MONDE002

12年ぶりに作家のルイは、家族に自らの死を告げに戻って来るが、ついにそれを切り出せずに立ち去って行く物語である。
確かにあれでは、自分の話などする余地もない。

とってもよく分かる。
アントワーヌが良い味出しているが、他の面々も自分のことを気ままに喋るだけで基本は変わらない。
ルイを見て彼の話に耳を傾けようとはだれもしない。

しかし元々人は自分の事にしか関心はないのだ。
ルイにしても家族の事を多少でも気にかけてきたものか、、、。
恐らくアントワーヌに(本人が言うように)は興味など微塵もないだろう。
結局、自分がすぐ死ぬという事、その恐怖と不安を誰かと共有したい漠然とした気持ちを元に戻って来た(辿って来た)だけではないか。
藁をも掴む気持ちで。

シュザンヌにしてもルイが家を出た頃の記憶もほとんどない、兄とは言え憧れの作家に接するような心境で話をするだけである。
母は愛情表現ととりとめのない話とに、得意な手料理を振舞うことでともかく自分の喜びを表したい一心だ。
ただ、初対面の義姉カトリーヌだけは、ルイに距離を取って、彼を冷静に見つめる姿勢がある。
とは言え、夫がやたらとエキサイトして喚きたて家族の場を台無しにするためそちらに気を向けざるを得ない。

JUSTE LA FIN DU MONDE003

勝手なお喋りが只管渦巻くが、肝心の話はしないし、させない。
自己幻想でも共同幻想でもない幻想領域~磁場にいることははっきりしている。
しかしルイは家族とは言え、他者のようによそよそしくこの場に侵入~帰還してきていることで兄は本能的に過剰な拒絶~防衛反応を示す。彼はルイがある意味、今ある家族を解体しかねない危険性を感じ取っている。
ルイが知的階級に属し気取っている(そして兄を馬鹿にしている)というのではなく、家族~対幻想の領域に浸かってはいない。
彼は自己幻想のなかに留まり続けている。
「自分の死」のみが気がかりなのだ。
まさに実存の不安と危機で一杯なのであって、この場に他者を気に掛ける余裕はない。
全員そうである。


基本的に家族~家庭というものは、誰にとっても居場所などなく、誰もが出てゆきたいと思いつつ(願いつつ)生理的に反発し合い反目しながらも、一緒に居続けてしまう磁場なのだろう。
無論、対関係からしか生じ得ない幻想領域は存在しよう。
胎外胎生期から思春期までの保護育成と教育、峠の我が家的な機能は度合いの差はあっても認められるが。
ルイは何も気持ちを告げられず、出て行くしかない。
本質的に、そういう場でもある。
アントワーヌの切れようが実に雄弁に語っている(あの車の中で捲し立てるシーン)。

JUSTE LA FIN DU MONDE004

違う角度からコミカルに模型的に家族を表したものに「家族ゲーム」がある。
わたしは、ギャスパー・ウリエルより松田優作の方が面白い(笑。
重い映画であった。
まだ体力的にキツイ。
明日はもっとお気楽な映画を観たい、というかそういうものしか観れない。


マリオン・コティヤールの『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』を観たくなった。
(以前から気になっていたのだがまだ観ていない)。

ウィッチ

The Witch001

The Witch / The VVitch: A New-England Folktale
2015年
アメリカ、カナダ

ロバート・エガース監督・脚本
マーク・コーヴェン音楽

アニヤ・テイラー=ジョイ 、、、トマシン(長女、初潮を迎えたばかりの少女)
ラルフ・アイネソン 、、、ウィリアム(父)
ケイト・ディッキー 、、、ケイト(母)
ハーヴィー・スクリムショウ 、、、ケイレブ(長男、トマシンの弟)
エリー・グレインジャー 、、、マーシー(双子の妹)
ルーカス・ドーソン 、、、ジョナス(双子の弟)


17世紀のニューイングランド。
街の共同体からはじき出され森の中で自給自足生活をする息が詰まるような厳格なキリスト教徒の家族。
父親は福音派の(過激な)原理主義者か。非常に頑なである。
罪を告白ばかりして過ごしている。
その罪が原罪に根差すものであるから、もう原理的にどうにもならない。
そして何か不幸なことがあると、内省はせず悪魔のせいにする。
全て無意識に外部に投影してしまう。
(娘に投影し、「お前は悪魔と契約したのか」と真面目に聞く。しかし娘の声には真面目に耳を貸さない)。
それ(罪と悪魔のイメージ)に怯える大変暗い家族である。

しかしその幻想が尋常ではない強度をもつ。狂気をもつ。

そう言えば、「セイラム魔女裁判」は17世紀だったか、、、。
所謂、宗教過激主義の結果の集団ヒステリーである。
「魔女」として闇雲に告発し合って処刑されてゆくのだから、陰惨極まりない状況だ。
まだゾンビがうようよいる世界の方が牧歌的だろう。
一神教の狂気の側面か。


一家の赤ちゃんがトマシンが子守をしている最中に消えていなくなってしまう。
「居ない居ないばあ」をしている合間に、煙のように消えて居なくなった。
あり得ないマジックである。

それから家族はオオカミのせいに表向きはしていても、内心トマシンを疑っている。
トマシンも一番下の弟を自分が世話をしている時に失ったにも関わらず、何故かあっけらかんとしている。
意地の悪い双子が悪魔扱いをしてくると、それに悪乗りして見せたりもする。
双子も殊の外、悪魔に興味を持ち、何かと叫び声が耳に障り、黒山羊と話をしていたりする不気味さが目立つ。

人里離れた小さく不便な閉塞環境に暮らしていることによるストレスも溜まって来て諍いも絶えなくなる。
食料もままならない。トマシンとケイレブの性の意識も芽生えてくる。父の厳格な宗教性。特に罪の意識と悪魔(罰)への怖れ。
潔癖で神経質な母親のケイトはしきりに故郷に帰りたがる。
そしてその不満と不幸の原因をトマシンに向けるようになる。
父親が彼女を庇うと、余計に母はヒステリックになる。

The Witch002


だが、厄介者のトマシンを街に奉公に出す~一家から排除する計画を立てている両親の話を夜こっそり長女と長男で聞いてしまう。
ケイレブはトマシンを何とか守ろうという事で(姉は儚い性の対象にもなっており)馬で深夜抜け出る。
どういう心積りで何をしに行くのかは明かされないが、ケイレブも同伴して深い森に入って行く。

しかしケイレブは艶めかしい魔女に捕まってしまう、、、。
どうにか帰って来れたのはトマシンだけであった。
それが何であるのか、微妙な(極めて性的な)イメージである。

ただ確かなことは、ケイレブも犬も馬も一家からいなくなってしまった。
今度は家の頼みの綱が失踪である。トマシンと一緒だった子供がまたいなくなったのだ。
この後の彼女の境遇は、容易に想像がつく。

その後、トマシンが嵐の夜ヤギの世話をしに出た時に、ケイレブが裸で這う這うの体で家まで辿り着く。
彼女は驚き介抱するも、この事態に母と父そして双子があからさまにトマシンを魔女だと責め立てる。
父ははっきり彼女を魔女であると告発する意思を表明する。
母は激しく彼女を罵り、双子も揃って攻撃する。
(母はトマシンが性的に悪魔的に弟と父を誘惑したと憎しみをぶつける)。

一番の見所がこのケイレブの死に様であろう。
法悦の中で彼は饒舌に神を称えて息を引き取るのだ。
口からはリンゴが零れ出て。
このシーンは斬新で極めて印象に残る。
トマシンが魔女だと決定されるところでもある。

The Witch003


そこから一家は一挙に崩壊してゆく。
ちょっとエイリアンみたいなショッキングなイメージが続く。
(悪魔の魅せ方が、絶妙なのだ。その在り様がどうとでも取れるところが不安度と恐怖心を煽る)。
そして父も母も双子もみんな無残に死ぬ。
(父は黒山羊の角で刺し殺され、母はトマシンを絞殺しようとして返り討ちに逢い、双子はどう死んだか忘れた)。
父は最期に信仰に疑いを持って唖然として死ぬ。


キャストは皆、申し分のない好演であった。双子は癪に障るが。

また最後が素晴らしい。
トマシンが黒山羊に話しかけると彼はしっかり応えるのだ。
そして「おまえに、、、世界を見せてやろう」と。
彼女は裸になって契約書にサインをする。
森に導かれてゆくとその先には炎の周りで呪文を唱える魔女たちの集いがあった。

やがて皆、恍惚となって宙に浮かんでゆくのだ。
タルコフスキーの趣も感じる。
それを見たトマシンも悦びの内に宙を漂ってゆく、、、。

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宗教からの解放か。
音楽(エンディング)もピッタリなものであった。
さほど製作費がかけられているように見えない映画であるが、ずば抜けた完成度である。
久しぶりに凄いものを見た。


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ディストピア パンドラの少女

The Girl with All the Gifts

The Girl with All the Gifts
2016年
イギリス、アメリカ
コーム・マッカーシー監督
マイク・ケアリー原作・脚本
クリストバル・タピア・デ・ヴィーア音楽

セニア・ナニュア 、、、メラニー(パンデミックセカンドチルドレン)
ジェマ・アータートン 、、、ヘレン・ジャスティノー(教育者)
パディ・コンシダイン 、、、エディ・パークス軍曹(ジャスティノー先生を守ろうとする)
グレン・クローズ 、、、キャロライン・コールドウェル博士(人類を救うワクチンの開発を使命と信ずる)


パンデミックから『ハングリーズ』(ゾンビ)とハイブリッド新世代による世界の幕開けを描く。
わたしはゾンビ(映画を含め)には全く興味がないが、このセカンドチルドレンがどのような方向に進むのかには興味を感じて最後まで観た。このゾンビ化は真菌によるものであるという。
導入部分の椅子に拘束された物々しい環境での子どもたちの教育環境から、なかなか惹きつける映像ではあった。
だんだん尻つぼみの感は拭えないが。

「選ばれし者」

全世界的規模の強力な真菌感染により人が捕食本能だけで生きるハングリーズと化し社会は壊滅状況を呈す。
(われわれも真菌の感染は日常的にあることで、免疫力によって防御して発症を抑えている)。
ハングリーズとは、謂わばゾンビである。実質、人としては死んでおり、内的な生活などない。
しかしハングリーズの第二世代(子供)は、思考力を備えており、人間(軍)に拘束され監禁されていた。
どうやら厳重な監視下で教育を受けつつ実験材料として管理されているみたいである。
彼らは、油断すると人を捕食してしまう危険性をもっているため恐れられている。
その中でも能力優秀と目されるメラニーは、捕食欲求をうまくコントロールすることも出来た。
(コールドウェル博士から「シュレディンガーの猫」の問題なども出されていた)。
そしてジャスティノー教官をとても慕っており、教官も殊の外メラニーに情をかけている。

人類がとても小さく描かれているが、もうかなり先細りした末のことだろう。
ネットワークも覚束ない小集団に散在しているようで、荒涼とした終末観に充ちている。
統制も何もないところで、登場人物たちは基地をハングリーズに襲撃され、命からがら本部に到達しようとするのだが。
一行の中でハングリーズから攻撃を受ける心配のないメラニーが一番頼りになるというのも皮肉である。
人のとる行動の愚かさもあちこちに目立つ分。

The Girl with All the Gifts003

このハングリーズの特徴は、普段は置き物みたいにじっと外に立っていて全く自ら動くことはしない。
音と匂いに反応し、獲物に対しては激走して襲いかかる(だがどんな音に対してもではないみたいだ)。
噛まれた人間はたちどころにハングリーズになってしまう(これはゾンビモノの鉄則らしい)。
メリハリが激しい。というより単なる捕食〜感染機械だ。
クリームをちょっと塗ると匂いが消えて安全というが、、、間近をすり抜けて突破するスリルはなかなか。
謎の真菌によってゾンビ化するのだが、セカンドチルドレンはその真菌と共生してハイブリッド化を遂げている。

とはいえ第二世代の子どもたちは、原始時代の人類といった風情で狩りをして常に活発に動き回っている。
知能は感じるが、言語も内面もなく野生状態の危険極まりないゾンビと人類のハイブリッド生物である。
飼いならされていない凶暴な猿以外のものではない。
主人公の優秀なメラニーも腹を空かすと猫や鳥を捕らえて喰ってしまう。
猫が好きでポスター等飾っているが、そいうい意味で好きであったようだ。

累々と横たわるゾンビの死体から生えた真糸が無数に絡まり莢を形成し、高い塔を覆い尽くしていた。
コールドウェル博士によるとそれは彼らの第三段階で、熱などで莢が割れると胞子が飛び散り人類は壊滅するしかないという。

The Girl with All the Gifts002

終盤、彼らは食料の備蓄も充分なソーラ発電の設備の完備された移動式軍用ラボに辿り着く。
そこで、ここぞとばかりにコールドウェル博士がメラニーの脳と脊髄からワクチンを作ろうとする。
博士も噛まれた痕が悪化しもう余命は残り少なかった。
自分の使命を果たそうと実力行使に出るが、メラニーは人類のために犠牲になる意思はない。
さっさと逃げてゆく。

自分を切り刻んで人類を救うワクチンを作ろうとする博士に反旗を翻し、彼女はハイブリッド第二世代による世界を選択する意思を固めた。
先ほどの菌糸の塔に火をつけ燃やしてしまうのだ。
それで「パンドラ」の箱を開けてしまったというわけ?
莢は割れ人類の壊滅は決定的となる。

結局、選ばれし少女が人類を見限って、新たな世代による世界を作るという話。
しかし文明的な後退は凄まじいものだ。
全員基本ハングリーズになってしまって存続できるのか?
何を喰うのか?厄災は人類だけのものか。
到底人類よりマシな新人類の社会が生まれるとはとても思えない。
後から来たものがより優れているとは限らないのだ。

最後、ラボで保護されひとり生き残ったジャスティノー先生が、保護シールド越しに外のセカンドチルドレンに授業をするところで終わる。メラニーが皆を脅して授業を静かに受けさせている。
こんなことがどれだけ続くものでもない。先生もあと僅かでおしまいだろう。
食料も水もすべてが尽きる。
先生も人類よりメラニーを選択したのだ。


音楽はよくシーンに溶け込んでいた。


旅情

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Summertime
1955年
イギリス・アメリカ

デヴィッド・リーン監督・脚本
H・E・ベイツ脚本
アーサー・ローレンツ原作
ジャック・ヒルドヤード撮影
アレッサンドロ・チコニーニ音楽

キャサリン・ヘプバーン、、、ジェーン・ハドソン
ロッサノ・ブラッツィ、、、レナード・デ・ロッシ


何故か観てみた。
デヴィッド・リーン監督である、、、
戦場にかける橋」” The Bridge on the River Kwai” (1957)、「アラビアのロレンス」” Lawrence of Arabia (1962)”、
ドクトル・ジバゴ」” Doctor Zhivago (1965)”はどれもわたしにとって特別印象に残る映画である。
「アラビアのロレンス」には取り分け大きな衝撃と影響を受けた。
しかし、この映画はわたしの管轄外のものか、、、。
恋愛ものには疎いのだが、「旅情」という邦題は良いと思う。


ここは、ヴェネツィアである。
何と謂っても、ヴェネツィアである。
どこもかしこも「絵」ではないか、、、しかしこういうところに行くと孤独は更に純化しないか。

そろそろ世界旅行にでも行きたいな、と思う今日この頃。
こういう映画を見ながら、映画のストーリーとはほとんど関係ない夢想に沈んでしまう。
ヨーロッパ旅行と言えばジェーンも乗って来た汽車「オリエント急行」である。
それがまたノスタルジックでよい。
この汽車が、最初と最後の幕のように現れる。

例の、映画の「オリエント急行殺人事件」もつい想いうかべてしまう。
ストーリーではなく、風景~場所を、、、。
1955年の(ラブロマンス)映画にまたそれを見出す必要もなかろうが、、、やはり「絵」である。

ヴェネツィアに長期休暇を採ってやって来たジェーン。
表面的には明るく快活で、カメラ片手にあちこちを撮って周るよくいる旅行者。
あまり海外旅行に慣れている感じはしない。アメリカでは秘書をしているという。
汽車から船に乗り換え、水路を渡り宿をとっている「ペンシオーネ」へ。
警戒心が強く、孤独の陰りを湛えるジェーン。
何かを求めてやって来たようではあるが、時折諦観漂わせる表情がとても淋し気である。
ともかく、”独り”らしい。

「サン・マルコ広場」で、ふと或るイタリア人男性を強く意識する。
こんな広場ならきっと感受性も研ぎ澄まされるはず。
自分の気持ちに対しうろたえ、挙動がぎこちないジェーン。
どういう境遇でどんな人生を生きて来たのかは一切明かされないが、何となくひととなりの分かるところだ。

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恋は突然やって来た。
いつでも恋は一瞬に落ちる(本来恋はそういうものだろう)。
もう、この時点でこの主役二人のラブロマンスであることが分かる。いやメロドラマか。
後はどんな風に予定調和に向けて、すれ違いや偶然や誤解など適度な困難を経てクライマックスに持ち込み、最後は情感たっぷりの別れ?に持ってゆくか、ことの成り行きを愉しむという感じとなる。
ここではアメリカとイタリアとの恋愛文化の差異もドラマの鍵として作用するか。
ビーフステーキとラビオリ、、、夢(理想)と現実であろうか。
ご都合主義的に現れる非現実なピエロ的な子役。
ベネチアングラスなどの小物も巧みに使われ、、、。
ロッシーニがカフェで高く鳴り響く。
ともかく波乱万丈の末、分かり合う、または心を分かち合う。そこがハリウッドだ。
ハッピーエンドかどうかは、、、終盤には察しが付くこと。


色々あって(書くのもメンドクサイので割愛するが)両者の恋心は燃え上がるも、結ばれない運命と悟り、ジェーンは突然別れを告げて汽車に乗る。大体思っていた通りに来る(笑。
最後に追いかけるイタリア人レナード。
デートの想い出の白い花(くちなしの花)をもって走るが、もう少しのところで手渡せない、、、。
一回目は手渡すも、夜の河の流れに落ちてしまった。
その花は、決してジェーンの手元には残らない運命であるかのよう。
ただ手を振るジェーン。
大きく振るジェーン。
(あんなに身を乗り出して手を振ってどこかにぶつからないか心配してしまうが)。

「初めて来た時の事を想い出している、、、」
「初めて逢った日の事を、、、」
「すべて覚えていたい。」
「どの瞬間も。」
「絶対に忘れない!」
こう言って、別れを切り出すところには、流石にグッときた。

これなのだ、、、

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だが、綺麗な別れだ。




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地下室のメロディ

Mélodie en sous-sol001

Mélodie en sous-sol
1963年
フランス

アンリ・ヴェルヌイユ 監督・脚本
ミッシェル・オーディアール、アルベール・シモナン脚本
ミシェル・マーニュ 音楽


アラン・ドロン、、、フランシス・ヴェルロット
ジャン・ギャバン、、、シャルル(見たまんま)
ヴィヴィアーヌ・ロマンス、、、ジネット(シャルルの妻)
カルラ・マルリエ、、、ブリジット(高級ホテルの踊り子、ヴェルロットの彼女)
モーリス・ビロー、、、ロイス(フランシスの義兄)

シトロエンが走って来るところを見ると、フランス映画だなあと、ちょっと安心する。
(どういう心理か?)


シャルルはムショを出たはよいが、自分の家を探すのに手子摺る。
何しろ街自体がすっかり様変わりしていたのだ。
自分の家のある「ゴーティエ(テオフィル・ゴーティエか?)通り」がなくなり、「アンリベルグソン通り」となっていた(笑。
(どういう意味合いなのか、、、緑が失せ、すっかりビル街となっていたようだが)。
ともかく取り残され感は半端ではないような。

シャルルは堅気の仕事などには全く興味はなく、性懲りもなく大きなヤマを狙うことしか頭にない。
(一度、その手で甘い蜜を吸うともう止められないものなのか?)
シャバに出たばかりなのに最期の大仕事に選んだのは、カンヌのカジノの地下金庫から10億フランを強奪すること。
相棒には獄中で知り合った若くて粗野で軽薄なフランシスを選ぶ。
ついでにフランシスの堅気の義兄も運転手として巻き込む。
大真面目な人なのに何故か二つ返事で話に乗るったのは、シャルルに誘われ問答無用という感じになったからか?

Mélodie en sous-sol004

このフランシスとシャルル、親子くらい歳は離れているが片や母から片や細君から「もういい加減普通に働いて」と謂われながらもその気は全く無しという点でそっくりである(これで両者のひととなりはよく分かる)。
ベテランと駆け出しのよいコンビであろうか。

そのフランシスが作戦決行に当たり、身分を偽装して名家の御曹司となり高級ホテルに暫く滞在して準備を進める。
その手配は全て抜かりなくシャルルが済ませる。彼の計画はずっとこれまでの経験も踏まえ温めて来たもので用意周到だ。
後はヴェルロットとなりすましたフランシスがどこまで期待通りにことを進めるかとなるが、ホテルに入ってからは、姿はほぼアランドロン化している(爆。ただし、「サムライ」のような品格はなく、差し詰めガサツな俄か成金といったところか、金を振りまいてホテルのカジノ(ダンスホール)裏に入れる客にまでは漕ぎつける。しかし彼女として利用したダンサーのブリジットには本気で恋心を抱く。プロとは言えまい。その上、品の悪さから捨てられている。

結局、遅れながらも(こちらをハラハラさせつづ)シャルルの言うとおりに動いて、強奪には成功を収める。
アクション~身のこなしは流石に鮮やかであり、ジャン・ギャバン~シャルルにはまさか、である。
特に通気口の中など入って進めるはずなく、無理に入っても重みで突き破って落下するのがオチだ。
分け前を渡さなくてはならないとは言え、身体能力の高い相棒と組んだのは正解ではあったのだが、、、。

何と翌朝の新聞にヴェルロットの写真が大々的に載っているではないか。
これに驚くシャルルは予定を変えて早め、現金の引き渡し場所を、ヴェルロットのホテルのプールにする。
(騒ぎをゆっくりかわした後で、現金を受け取る予定であったが)。
そこにはすでに警官たちがうようよしていた。

Mélodie en sous-sol003

プールを挟んで向かい合って身動きの取れないもどかしい二人。
緊張感はあるが、これはコメディか、とも受け取れる、その危うさも漂う。
そして、カジノのマネージャーが犯行時使われたバックの特徴をしっかり覚えていることを警察との会話で知るフランシス。
何とか足元の札の詰まったバックを彼らの視線から消したい一心で、バッグごとそっとプールに沈める。
それを新聞越しに注視していたシャルルの唖然とした表情。
おっちょこちょいのフランシスはどうやらバッグの口を閉じていなかった。
水の底に沈んでゆくバッグからプールの水面に夥しい札が浮かび上がって漂う。
二人はそれを力なく呆然と打ち眺めるだけであった、、、。


聞いたことのある音楽が鳴る。
ジャズもよくフィットしている。
この映画の曲だったのだ、、、。

Mélodie en sous-sol002

ジャン・ギャバンの面構えは、どこのギャング(ヤクザ)のボスと比べても見劣りはしなかった。


この噺、シンプルに無駄なくそぎ落とされて作られていることは分かるのだが、運転手をした良心の呵責に悩みだした義兄の流れとブリジットとヴェルロットとの確執の流れがクライマックスに絡まず、その前で切断されているのは惜しい気がする。それぞれの流れを全て最後に引き取る必然などないが、この二点は何らかの形で絡んでエンディングに収斂させても良かったと思う。

それから、あんな風に札を入れたバッグが水底に沈んでしまうものか、、、浮くように思うのだが。
(虚しさの表現~演出としては分かるが)。


ヒロシマモナムール 

HIROSHIMA, MON AMOUR003


イロシマモナムールか。「24時間の情事」でもある。
HIROSHIMA, MON AMOUR
1959年
フランス、日本

アラン・レネ 監督
マルグリット・デュラス 原作・脚本
ジョヴァンニ・フスコ、ジョルジュ・ドルリュー 音楽
サッシャ・ヴィエルニ、高橋通夫 撮影

エマニュエル・リヴァ 、、、女
岡田英次 、、、男
ベルナール・フレッソン 、、、ドイツ兵


モノローグ的な対話、、、「去年マリエンバートで」と同質の。
すれ違いながらも繋がる。いや繋がりながらも距離を確認する。
映像もやはり耽美的だ。
特に後半、ヒロシマとヌベールが交互に映し出されてゆくシーン。
原爆投下から13年後のヒロシマでのフランス女性と日本の男性との24時間の逢瀬。


女はパリ(その前はヌベール)からきた女優であり戦争映画をイロシマに撮りにやって来た。
男はヒロシマ原爆投下時には、戦地におり不在であったが家族は犠牲となる。

「癒されぬ記憶を持ちたかった」
「影と石の記憶を」
女がいう。
忘却を深く恐れながらも、恐れるがゆえに忘却を望む。

HIROSHIMA, MON AMOUR004


まさに24時間の情事のなかで、女は「わたしはイロシマの全てを見た」と言い、男は「いや君はヒロシマの何も見ていない」と完全に否定する。
「病院を見た」「資料館を見た」「この広場が太陽と同じ温度になった」痕跡を見た、と女は言う。
そしてわれわれは「映画を観た」(彼女は女優でイロシマに映画出演にやって来た)。

しかし、例えその現場~渦中にいても何を見たといえるのか?
ひとは限られたその場所で自分の知ることのみを知る。
いや、恐らくそれ以上の情報を浴びせられ何らかの衝撃~外傷を刻んだにせよ、それについては他者に伝えることばはあるまい。

前半は女が観たというものを男はことごとく否定する。
「よく眺めれば学べる」のか、、、。
確かに学べるだろう。
だが、知るとは何か?
ただ、原爆投下後、間も無く焦土から幾種類もの花が咲き始める。
「灰の中から蘇る生命が花にこそある」ことに驚くところは、わたしにとっても驚きであった、、、。
やはり、場所である、、、。

彼女は明日、撮影が終わり帰国するという。
一日限りの情事。行きずりの恋であるという。
今度は男が少しでも彼女の事を知りたくなる。
何も知らないのだ。
ならば、彼女の居た場所について知りたい。故郷ヌベールにいた当時の彼女を。

HIROSHIMA, MON AMOUR002


後半男はヌベールでの彼女の事を訊ねる。
そしてカフェで彼女はその壮絶な過去について男に打ち明ける。
彼女は故郷でドイツ軍兵士と恋に落ちるも、彼は殺され自分は地元民から制裁を受け髪を刈られ地下室に幽閉されたという。
父の薬屋もその為に閉めることになるが、終戦を境に地下から出ることが許され、その夜彼女は自転車でパリに向う。
パリで彼女はイロシマのことを知ることとなった。

男はその話から女を知ろうとするが、聞けば聞くほどイメージも結ばない。
そのため、彼はもどかしさと焦燥から彼女に纏わりついて離れない。
最初の頃に見せていた余裕の表情は消え失せている。
女は男が追いすがって来ても、身をかわし続ける。

女の何度も出入りするホテル。
夜のヒロシマの街が妙に艶めかしい。
「どおむ」看板、高級クラブ?のガラス張り天井、コンクリートの街並みの陰影と武骨ででかい外車にタクシー、、、。
ノスタルジックなのだが、この世に実際にあったところには想えない。
そんな場所で、男女の姿も一瞬の幻にも見えてくる。

Hiroshima Mon Amour001

最後、別れを前に、「場所」同士でお互いを呼び合う。
ヒロシマとヌベールの街が交錯する。
太田川とロアール川も、別々に流れる。
それぞれの猫。
この切り替えしは見事な絵である。

結局
ヒロシマ、、、何も知らない。
ヌベール、、、何も分からない。
忘却したい、、、出来ない。
忘れたくない、、、忘れるしかない
そして音楽~現代音楽がこの映像に時代を超絶した普遍性~永遠性を与えている。



冒頭の芸術的な絡みのアングルから始まる光景に暫くの間、わたしは女が独りでイロシマの幻想相手に~例えば資料館で観た兵士をサンプルにした像と~語り合っている(自問自答している)のかと思っていたのだが、最後もまたそんな孤絶した存在を感じた。

基本、モノローグなのである。

見る・知ることの不可能性いや不毛性をただ木霊のように問うている、、、。
そして「忘却」の恐怖を。


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
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