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ティム・バートンのコープスブライド

Corpse Bride003

Tim Burton's Corpse Bride
2005年

ティム・バートン、マイク・ジョンソン監督・製作
パメラ・ペトラー、キャロライン・トンプソン、ジョン・オーガスト脚本

声)
ジョニー・デップ、、、ヴィクター・ヴァン・ドート
ヘレナ・ボナム=カーター、、、コープスブライド (エミリー)
エミリー・ワトソン、、、ヴィクトリア・エヴァーグロット
リチャード・E・グラント、、、バーキス・ビターン卿
クリストファー・リー、、、ゴールズヴェルス牧師
マイケル・ガフ、、、グートネクト長老


ジョニー・デップ繋がりで、、、いや死後の世界繋がりか、、、。
これはストレートに感動を呼ぶ作品だ。
ストップモーションということで、1時間20分に満たない映画だが、まさに労作という感じである。
ティム・バートン~ジョニー・デップ~ヘレナ・ボナム=カーターの相変わらず(鉄壁)のタッグである。

よく作り込んでいるが、話はスッキリ分かり易く、人形世界はディテールまで稠密に、ユーモラスで細やかな動きも実現している。
歌もミュージカル調に時折入るが、ヴィクターとエミリーのピアノの連弾など特に素敵であった。
ああいった場面、もっと見たい。
(ヴィクトリアとの最初の出会いもピアノであった。この辺の微細でセンシティブなところは、よい)。

噺は、19C.のヨーロッパが舞台で、魚屋で繁盛し財を成した一家の息子ヴィクターと没落し路頭に迷う寸前の貴族の娘ヴィクトリアの両家の間の政略結婚(片や社会的名誉、片や経済を得る為の婚姻関係)であったが、実際に2人が初めて逢ってみると直ぐに惹き合う相性の良さであった。お互いに結婚式を楽しみにしていたが、ヴィクターが式の練習で間違いを連発し牧師が怒って式を延期してしまう。その為、ヴィクターは独り森に入り式の練習をして、誓いの言葉を間違えずに言えたとき、それを闇の中で承諾したのがエミリーであった。そのさなか、結婚詐欺師のバーキスが持参金や宝石目当てに式の客としてエヴァーグロット家に入り込んでいた。
その頃ヴィクターは死者の国のパーティに圧倒されている、、、。
死後の世界の方がずっと楽しく美しく見える(笑。

Corpse Bride001

物語のポイントは、異界~異形の者たちとの関り。それによる生・死を超えた存在の解放である。
生者と死者がヴィクターの婚姻を契機に強張った接触~邂逅を果たす。
そこには恐怖も拒絶も対立も生じることなく、ただお互いにとっての悪ははっきり明確になる。
だがそれも死者の世界に吸い込まれて解消~昇華してしまう。
生者は彼ら死者と自分たちを隔てている時間をまたぎ、驚きつつも抱擁し合って再会を歓ぶ。

死者の世界は懐が深い。
そして色鮮やかで、楽しそうである。見たところしょっちゅう唄って踊りのパーティばかりしているようだ。
それに引き換え、生者の世界のモノトーンの息苦しさ物悲しさ。
「死んだら戻る気なんて起きない」のもよく判る。

Corpse Bride002

そして死者の心残り~怨念からの解放である。
これは恐らくヴィクターみたいな人だから、彼を触媒として可能となったと謂えよう。
邪心のない優しく素直な人間。
これは彼のホントの婚約者のヴィクトリアも、成り行きでそうなった死者のエミリーも同様である。
ヴィクトリアが他の男と結婚することを知らされたヴィクターはエミリーと死者の国で一緒になることを決める。
教会では死者と生者の結婚式が始まろうとしていた。
そこにはヴィクターの身を案じたヴィクトリアも忍び込んでいた。
エミリーはその時、ヴィクトリアを狙って教会に乱入してきたバーキスこそ、かつて自分をたぶらかして殺した犯人であることを知る。
結婚を約束して自分を殺害し金品を奪った男であった。
しかしその男も自滅し死者の国へ。


エミリーは今更自分の夢を叶えるために人から夢を奪うことなど出来ないことを悟り、身を引く。
ここはとても切ないところだが、彼女の身体は解放され、たくさんの蝶となって夜空に飛んで逝くのだった、、、
本当はわたし(たち)としては、3人とも自分の本懐を遂げてもらいたかったところだが、この形がやはりベストな在り方であろう。
充分に共感できるところだ。

Corpse Bride004

人形の造形、特に主人公たちの容姿が、「アナと雪の女王」を思い起こす、とても親和性のある愛らしさで自然に同調してしまうものであった。
人形劇では噺の内容・演出と同時に大変重要なポイントであると思う。
であるから、最後の流れに至って率直にこちらも感動できた。

ティム・バートンらしさのよく出たアーティフィシャルな映画であったと謂える。






プラネタリウム

Planetarium002.jpg

Planetarium
2016年
フランス・ベルギー

レベッカ・ズロトヴスキ監督・脚本


ナタリー・ポートマン 、、、ローラ・バーロウ
リリー=ローズ・デップ 、、、ケイト・バーロウ
エマニュエル・サランジェ 、、、アンドレ・コルベン
ルイ・ガレル 、、、フェルナンド・プルーヴェ
アミラ・カサール 、、、エヴァ・セド

「人が望むものを見せることができる」
ローラがケイトの才能を労って語った言葉。
霊を本当に見せるかどうかより、その人の期待に沿ったものが見せられることが大事なのだ。
本当の霊と言っても、本当の姿など誰が知っていよう、、、
それよりも、当人が見たと想えるように見せてやれればよいのだ。
要は相手が満足を得られるかどうか、である。

1930年代、アメリカからパリにやって来た交霊術を執り行う美人姉妹、、、
昨日の映画の続きのような感覚で観た。
似たような題材の映画が続く傾向あり。

妹のケイトに霊感があり、姉のローラが演出をして取り仕切る交霊ショーをキャバレーで開く。
それがかなりウケており、そこに居合わせた映画プロデューサーのコルベン の目に留まる。
コルベンは殊の外、彼女らとこの企画に興味を示し、この交霊術の映画を撮ろうと企てる。
それと並行してローラが女優として交霊に絡んだ恋愛映画も撮って行く。

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コルベンは映画会社そのものをもっと近代化しようとしていた。
彼女ら姉妹は、その切り札的な役割を担う存在であった。
幸い姉のローラも野心家である。その辺では噛みあう部分は少なくない。
コルベンは二人を自分の豪邸に住まわし、姉には内緒で妹と交霊会をしていた。
彼は兄や父にイメージの中で鮮明に出逢う。

ただ、彼はそれを真実の映像であると受け取り(確かに彼にとっては真実である)、VFXを使わないドキュメンタリー映画を撮るんだと息巻いている。つまり本当の実写で幽霊の出て来る映画を撮ると。
彼のイメージ界にはしっかり現れていたのだから、それを映像として作ればよいのではないか、、、。
それは映画としては、説得力があり真実でもある。
だがそれに納得しなかったことで、彼は身を滅ぼす。

実際、妹のケイトに物々しい電極を被せて、かなりハードな交霊をしたようだが、そこに現れたのは、コルベンの背後にうっすらと見えたエクトプラズムらしい光のパタンだけであり、退屈でまともに扱えないものであった。
怒った監督はさじを投げて帰ってしまう。
本物に拘るとこんなものでしかない。
本物を雄弁に誠実に伝えるフィクションをプロデュースすればよいのだ。
そのためにSFがある。いや「プラネタリウム」があるのだ。
実際の星は例え晴れ渡っていようとも、そこまで鮮明には見えない。見えないことの方がずっと多い。
プラネタリウムを見せてあげればよいのだ。いつでも見たいときに確実に見せてあげられる。

コルベンはフランス国籍であったが、ポーランド系のユダヤ人であった。
その為もあってか、会社の金を私的に流用した嫌疑をかけられ代表の辞任に追い込まれ、その後逮捕される。
丁度、時流も悪く、行く先は強制収容所となったであろう。
妹のケイトはその年の冬に亡くなってしまう。
「わたしの能力のせいで死ぬのよ」、、、コルベンの為に無理をして本物を見せようとしたこともあり。
本物に拘り繋がろうとすると、こういう流れになることも。


ローラは本格的な女優となり、ある意味「プラネタリウム」を体現する立場となっている。

リリー=ローズ・デップは、言わずと知れたジョニー・デップとヴァネッサ・パラディの娘である。
わたしは、両方のファンである。そして彼女は両親に程よく似ている。
その娘が凄くない訳はないが、どうも気になったのは眉毛であった。片方が途中で途切れているのだ。それが気になって映画に集中できなかった(苦。芸風は実にあっさりした感じなのだが。

ヴァネッサ・パラディの”ジョーのタクシー”(Joe Le Taxi)が久々に聴きたくなった、、、。


やはりママとパパによく似ている。
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ナタリー・ポートマンについては、今更何も言うことはない。
とても円熟してきたな、とは思った。
何より驚いたのは、ふたりは本当の姉妹みたいに似ているのだ。
この映画のわたしにとっての一番の発見はそこだったような、、、。
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パーソナル・ショッパー

Personal Shopper001

Personal Shopper
2016年
フランス

オリヴィエ・アサヤス監督・脚本

クリステン・スチュワート 、、、モウリーン(パーソナル・ショッパー)
ラース・アイディンガー 、、、インゴ(キーラの不倫相手)
シグリッド・ブアジズ 、、、ララ(モウリーンの亡き兄の恋人)
アンデルシュ・ダニエルセン・リー 、、、アーウィン
ノラ・フォン・ヴァルトシュテッテン 、、、キーラ(モウリーンを雇うセレブ)

面白い内容の映画であった。
勿論、クリステン・スチュワートがヒロインであることで魅せる映画ではあったが。
彼女は多忙で人前に気安く姿を見せられないセレブに、服やアクセサリーを代わりに買って来るパーソナル・ショッパーの仕事をパリでやっている。
時折、禁止されている、ボスの服を内緒で試着することをしてドキドキするところがよかったが、この映画全編ドキドキの心象世界の描写とも謂えるものだ。

アクトレス〜女たちの舞台〜」の監督でもある。
クリステン・スチュワートがメインで出演していた。主演はジュリエット・ビノシュ だったが。
クロエ・グレース・モレッツも鋭い役どころで出ていた。
クリステンとジュリエットとの緊張感溢れる見応えのある映画であった、と思う(もう記憶は薄れているが、、、クリステンは繊細な役であったはず)。

今回の映画も緊張感は充分にあったが、クリステンの相手は基本iPhoneである。
普通のヒト相手には然程の緊迫感はない。
ごく有り触れたやり取りが交わされるだけ。
ただ、彼女の若くして亡くなった双子の兄の影響で、霊の噺の好きなヒトが周囲に多かったが。
兄は交霊術に深く関わっていたようだ(その為、彼女も感化されており霊媒体質とも謂える)。
そして兄の最後のメッセージが死後にサインを送って寄こすというものであった。
兄が今、どうしているのか、何らかの死後の世界は存在するのか、、、これはこころの何処かに常に引っかかっていることだろう。

ということから、彼女は常に霊界~異界を意識する心的傾向の強い状況にある。
これは物語の前提となる。
ポイントは、相手が「不確か」な何かであること。

異音や物陰に絶えず彼女は兄~霊の徴を見ようとする。探ろうとする。
実際にエクトプラズムが現れこちらもびっくりするのだが、、、。
彼女の世界はそのような言語~物語により編成・変容されていると受け取れる。
つまり、そのエクトプラズムは、彼女の期待通りに現象し彼女を恐怖に高揚させたとも謂えるのだ。
兄のメッセージを受け取ったら落ち着いて、自分の穏やかな生活に戻れると考えていた彼女は、それを受信することに焦ってもいたとも謂える。
(兄からの解放も内心望んでいただろう)。
意思(意志)が表象を作る。

iPhoneに知らぬ相手から何から何まで筒抜けのようなメッセージが次々に送られてくる。
大体、見知らぬ相手からテクストが送られてくること自体かなりの高ストレスを覚えるものだろう。
(彼女は兄と同様に心臓疾患も抱えている様だ)。
このiPhoneメッセージが、彼女の内面の何でも見透かしており、しかも送信者が彼女のいる場所に迫って来るのだ。
ある意味誰もが少なからず経験するNet~SNSに抱く不安とストレスではあるが、この状況~イメージは極端すぎる。
TVで欅坂の平手女史が、スマフォのテクストメッセージにおける自閉的関りを述べていたが、それによって人と結びつくというよりその相手へのイメージを自分流に膨らめる(解釈する)作用は大きい。

このメッセージに多少なりとも頓珍漢で不透明な呼びかけがあれば、現実味があるが、、、これに関してはちょっと違う印象を持つ。何より、禁止されているキーラの衣服の試着をしたいという彼女の内心を知っていること自体、不思議である。そしてそのメッセージに刺激を受け、実際に大胆にボスの服を着て、そのままベッドに寝込んでしまうのだ、、、。
このメッセージの発信者は兄か?という以前に、果たしてこのようなメッセージが実際に来ているのか、、、。
である。勿論、彼女の世界においては来ているのだが、、、。
ほぼ統合失調症の急性期における症状に重なるような表象~幻想に取り巻かれてゆく。
ここまで来るとかなりきついと思う。しかし禁制を破り解放感も味わったことは、よい状況に運んだともとれる。
メッセージ相手からホテルのキーも送られてくる。
この辺が何ともこちらを混乱させるところであるが、着飾って行ってみるが誰も来ないし、誰が予約し金を払ったかも掴めない(彼女の名で予約し、前金の現金払いであった)。

Personal Shopper002

だが、そのタイミングで、彼女のボスに頼まれたアクセサリーを自宅に届けたら、何と彼女は惨殺されていたではないか、、、。
かなり恐ろしい音も聞こえてくる。
音はともかく、この殺害は幻ではない。
彼女は警察に疑われるが、キーラはインゴに殺されたことが分かり事件も解決する。
メッセージもホテルの仕掛けもどうやら一度彼女に会ってキーラを巡り噺をしたことがある、インゴの仕業であったようだ。
しかし、どこまでが彼のよこした内容であったのか、どうか、、、。

この事件で彼女が混乱しパニックになることもなく、しっかり気持ちを保ち、彼氏のいるオマーンへ出かけることになった。
パリにいる必然性も無くなり、転地して気分を変える良い機会でもある。
しかし現地で、またコップが宙に浮き下に落下することが起きる。これは、ララの家でもあったことだ。
彼女は、霊に対し質問を投げかける。しかしYesなら一回ドンね、とか申し合わせているわけではないのに、その方法で答えて来る。そして最後に、あなたは誰?と聞くと何ら反応もなく、「全て気のせい?」と聞いたところで、ドン!
、、、ときて彼女の表情の緊張が解けてゆく、、、。

画面が白転してエンドである、、、。
はっきりと霊がいたとか、全て自分の空想に過ぎなかったとか、結論しないが、現実とはもともとそういう在り方であろう。
、、、そういうものだと思う。
ここで彼氏とのんびり暮らせば、それまでの不安など全て忘れてしまうだろう。
彼氏は死後の世界など全く信じないタイプの人だし、、、。








聖なる鹿殺し

The Killing of a Sacred Deer001

The Killing of a Sacred Deer
2017年
アメリカ、アイスランド、イギリス

ヨルゴス・ランティモス監督・脚本
エフティミス・フィリップ脚本

コリン・ファレル 、、、スティーブン(心臓外科医)
ニコール・キッドマン 、、、アナ(スティーブンの妻、眼科医)
バリー・キオガン 、、、マーティン(謎の少年)
ラフィー・キャシディ 、、、キム(スティーブンの長女)
サニー・スリッチ 、、、ボブ(スティーブンの長男)
アリシア・シルヴァーストーン 、、、マーティンの母
ビル・キャンプ 、、、マシュー(スティーブンの同僚の麻酔科医師)


やけに際立つ効果音と長回しの引いた廊下や俯瞰カメラが不安と緊張を煽っていた。
そして一番、不安を煽るのがマーティン~バリー・キオガンの存在自体である。
あの個性的な風貌で、妙に礼儀正しく純朴な仕草で中盤まで絡んでくるところが、逆に怖いところだ。
後半から執拗にスティーブンに纏わりつき、そのしつこさが不穏さを際立たせてゆく。

スティーブンとマーティンの妙な関係も不気味である。
マーティンをわざわざ自宅にまで連れてきて、子供たちと遊ばせるというのも、、、不思議だ。
特にマーティンとキムの関係である。キムにとっては単純に彼氏という感覚になってゆくが、マーティンはどう思っているのか、あの風貌からは窺い知れない。

父親を手術ミスで失ったことから、執刀医の家族も誰かひとり死ぬべきだ、と願うことはあり得るであろうが、それを実際に不思議な流れで実現させてしまう噺である。この手術の直前にスティーブンは飲酒していたのだ。
その負い目もあって、彼は時々その息子のマーティンに会い、話し相手になったり食事を奢ったりプレゼントをしたり、金を渡しもしていた。マーティンははっきりと父は彼に殺されたという認識をもった上で親しく礼儀正しく接している。
そのゆるゆるとして不気味に進行する復讐劇となってゆく。

The Killing of a Sacred Deer002

それも何やら毒殺とか事故に見せかけるとか代理殺人等々の具体的な犯行を企てる類のものではなく、、、
呪いか暗示か、何だろう、、、あの急に脚が動かなくなるというのは、、、。
姉と弟の二人が下半身不随となり、床を這い始めるのだ。
車椅子に素直に乗らずに這うところが、また怖さを増す(日本ホラー的)。

そして食欲が失せ、暫く経つと目から血を流し、死に至るという。
そうなるまでに、当事者である父が誰かひとり自分の家族を殺せば、他にもう何も起こらないという。
要するに生贄を出せというものだ。
これは、マーティンがどういう呪術でそうなるようにしたのか皆目わからない。
だが、彼が企てたことには間違いない。その死までの過程を実際に知っているのだから。
(その辺の魔術だか呪術に関する説明的な話~場面は一切ない。暗示にかけたにせよ、その辺の仕掛け的なものも少しは匂わせてもよかったのでは。オカルティックなものでよいので)。

The Killing of a Sacred Deer005

しかしそれに罹るのは子供二人だけで、妻はなんでもないのだ。変化が見られない。
これも何故なのか、、、。アナはニコール・キッドマンだし、確かに強そうだ。
マーティンは直ぐに誰か一人殺さないと三人みんな死ぬといっていたが、妻はその流れに乗る気配はなかった。
それでも、いやそれだからこそ、か、、、。
ただならぬ雰囲気や気配はずっと途切れることなく続く。

何とか現代医学においてこの奇妙な症状を鎮められないか、徹底的に検査するが器質的な異常は確認されない。
では精神疾患なのか、、、しかし身体的に表れるその症状はマーティンの言ったとおりに重くなる。
そしてついにボブの目から血が流れ始めた。
スティーブンがどんどん追いつめられる。
この 厄災の元を作ったのは自分であるし、息子は死に瀕している。このままでいると家族全滅となる。
(こうなる直前に学校に、息子と娘のどちらが優秀かなどと大真面目で聞きに行ったりしていた。もう笑うに笑えない完全に逃れられない流れに嵌っている)。

The Killing of a Sacred Deer003

最後は、自分も含めて全員目隠しで、彼がくるくる回りスイカ割形式で銃を放ってゆく。
大真面目に飛んでもないまねをしている。
だが、人間切羽詰まるとこうなるしかないのだ、、、(傍から見ると狂気のギャグみたいだ)。
三回目の発砲で、彼も恐らく無意識的にそう決めていたであろう、息子に命中する。


暫く後に、レストランでスティーブン親子(父、母、娘)とマーティンが出逢う。
勿論、何も話さず、3人三様の表情~視線を彼に送り、さっさと彼らはそこを後にする。
マーティンはその様子をあの風貌でジュースを飲みながら目で追う。

普通の日常である。

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ニーゼと光のアトリエ

Nise da Silveira Senhora das Imagens002

Nise da Silveira: Senhora das Imagens
2015年
ブラジル

ホベルト・ベリネール監督

グロリア・ピレス、、、ニーゼ(精神科医、作業療法主任)
 以下、クライアント~
シモーネ・マゼール、、、アデリナ
ジュリオ・アドリアォン、、、カルロス
クラウジオ・ジャボランジー、、、エミジオ
ファブリシオ・ボリベイラ、、、フェルナンド
ホネイ・ビレラ、、、ルシオ


絵は実は人間にとって本質的なものなのだ、と再実感するものであった。
音楽だってそうなのだが、如何せん演奏技術が伴わないと自分のエモーションをそのまま表出することなどかなわない。
誰もがエリック・クラプトンではないのだ。わたしは成れるならロバート・フリップになりたい(笑。
(確かに全ての芸術は音楽の状態に憧れる、とはいうが)。

音楽的な絵というものはある。
決まってよい絵だ。
クレーの絵だけではなく、様々な名画が目に浮かぶ。未来派(ボッチョーニたち)も忘れてならない。
どれも心が軽やかに楽しくなるばかりではないが、律動と旋律に身体が惹き込まれてゆく。
それは例え重く稠密な体験であっても快感を呼ぶ。何と言うか、法悦と呼んでもよい、、、そうベルニーニ、、、彫刻もそうである。

で、この映画の統合失調症のクライアントたちの描く絵と作る彫塑であるが、とても素晴らしい。
無意識~(映画では)抽象的言語を、目に見えるように定着してゆく得も言われぬ解放感を感じる。
まさにそれは、芸術であり同時に治療~癒しの過程となろう。
ちょっと苦しくも必ず快感と陶酔を伴い、描くまたは作るのを止められなくなるのは、そのためだ。
抵抗感は最初のうち見せただけで、直ぐに彼ら自らがすすんで黙々と取り組んでゆく。
やはり、絵や粘土というのは、誰にとっても入り易い敷居のない有効なメディアなのだ。
(稚拙さも絵だと個性的な面白味として伝わるが、音楽はただの下手以外の何ものでもなく伝達不能である。パンクムーブメントはその域を微妙なところまで引き下げたが、、、恰も若者の政治表明みたいに)。

確かに彼らクライアントたちは、飛んでもない人権無視の差別を受けていた(時は1940年代ブラジル)。
その最たるものは、前頭葉切断手術であるロボトミー手術だ。
カッコウの巣の上で」は忘れられない映画である。
この手術がノーベル生理学・医学賞を取っているのだ、、、。佐藤栄作のノーベル平和賞が微笑ましく思えるではないか。
アイスピックが使われていたというのは、凄まじい。
(眼窩の骨の間から、アイスピックを大脳前頭葉部分まで通し、神経繊維を切断したという)。

Nise da Silveira Senhora das Imagens004

ヒロインの医師ニーゼは、そのような手術や電気ショックなどによる治療が主流の時代に、紅一点で病院に独り飛び込み孤軍奮闘する。荒み切った殺伐とした鉄格子ばかりの環境で、予算の分配もない作業療法の主任にされる。
彼女はそこから独自の目の覚めるような活動を展開して行く。
患者をクライアントと呼び、「アイスピック」を一切拒絶し、皆に「絵筆」を与えた。
病院支給の患者の服から自分の気に入った服に着替えさせる。
作業スペースを綺麗に掃除し、そこをアトリエとして彼らを新鋭画家にしてしまう。

Nise da Silveira Senhora das Imagens001

理論的な根拠をユングに置いた。
絵は最初はカオス状のものであったが、次第に幾何学的な図形へと整序される(特に円が象徴的に生まれてゆく。それに従い彼らの安定が見られる、、、ユング的だ)。
更に、そこから実に素敵な表現主義的な絵画が続々と芽を出してゆく。
アンリ・マティスフランツ・マルクみたいな極上のものに近いところまで辿り着く。
風景画は、ゴーギャン風のものも。
制作は彼ら自身に全面的に任せた。自由なキャンパスそのものである。
そのなかで彼らは直ぐに自分が何を描くかを悟っていた。

Nise da Silveira Senhora das Imagens003

彼らを厄介者と見ていた職員たちも彼らの無意識を恐れなくなっており、スタンスが彼らを理解しようというものに変わって行く。
ブラジルでもっとも名高い美術評論家はその作品群を見て驚きを隠せない。
彼らは少なくとも絵の教育は一切受けていないのだ。
だが、確固たる表現コンセプトをもっている。
そのもっとも説得力あったのは、神を見たことのあるクライアントが、他の人にも自分が見た神を見せたい、というもの。
これはもしかして、いやまさに「絵」でないと実現不可能ではないか。絵で描く他あるまい。
これ、ほとんどゾンネンシュターンに重なる。芸術の起源の神秘~魔術的時空のめくるめく世界であろう。
ニーゼ先生、絵を描く環境を作ったことは、実に的を得ていた。
「意味のある人生を取り戻してあげたい」、、、確かに。
彼らもしっかり言葉でも考えを伝える「いつかこの絵のように窓が開く。簡単じゃないけど。」

Nise da Silveira Senhora das Imagens005


これは、つまらぬ美大よりアグレッシブな環境と化してはいないか。
そしてユングからも注目される。
これでこの成果が世に一気に認められ、大変な成功例として新たな統合失調症に対するメソッドとなったか、と言えばまだ道程があった。
病院側の妨害であった。ことあるごとに彼女を批判し邪魔をしていたが、何とクライアントの精神的な拠り所として飼っていたペットの犬を全て殺してしまったのだ。当然の如く大混乱となる。
ここで、彼女の方法論は残り結果的に現在に継承されているが、アトリエは閉鎖され全ての絵は取り払われた。



わたしもブログを書いてる暇があったら、絵を描くべきだろうか、、、。
最近、ホントに考えていることだ。




暗黒街のふたり

DEUX HOMMES DANS LA VILLE001

DEUX HOMMES DANS LA VILLE
1973年
フランス、イタリア

ジョゼ・ジョヴァンニ監督・脚本

アラン・ドロン、、、ジーノ・ストラブリッジ
ジャン・ギャバン 、、、ジェルマン・カズヌーブ(保護司)
ミムジー・ファーマー 、、、ルシー(ジーノの新しい恋人)
ミシェル・ブーケ 、、、ゴワトロー警部
イラリア・オッキーニ 、、、ソフィー・ストラブリッジ(ジーノの妻)


ジャン・ギャバンのとっても渋いナレーションで進む。
いい感じだ。これが彼の最後の映画となったそうで、感慨は一際である。
この保護司の役が余りにしっくりくる。人の長所を伸ばそうとする深い愛情と思慮のある重厚な人格が窺える。
冒頭からフランスではまだギロチンによる処刑が行われていることが淡々と語られる。
最後にアラン・ドロンがギロチンにかけられあっけなく処刑される時に、ジャン・ギャバンとの目と目で語るシーンは確かに印象に残るが、ポイントはギロチンなのか?
主人公の半生は興味深いものであるが、映画そのものは面白くない。
アラン・ドロンとジャン・ギャバンの名優2人が素晴らしい演技を披露しているのに、ピンとこない映画なのだ。

ギロチンは置いといて、アラン・ドロン扮するジーノの刑務所出所後の生き様を追うと、、、
今、わたしの住んでいる地域社会と何ら変わることのない世界が描かれている。
この映画の舞台をそのままわたしの界隈に嵌め込んでも行けるものだ(笑。
エキストラ陣も充実しているぞ~。
こうした映画で決まって論じられるキーワードに、先入観や不寛容、他罰主義などがあろう、、、確かにそうなのだが、、、何と謂うか、自分の抱えている矛盾や不条理を誰か(スケープゴート)に投影して特異な凶悪犯に仕立て上げて(生贄として)処分したいという取り巻く者たちの無意識が強烈に見受けられる。自分に対する内省に向かわず、自分の内界を他者に投影していることに気づかない。
代理処分で合理化しようという虫のよい堕落しきった(思考停止した)思いである。
ひとえに知性の欠如の成せる業に他ならない。これだからバカは困る。ホントにウザい。まさに暗黒街と謂えよう(爆。
だが、バカは必ずやり過ぎて墓穴を掘る(これを自業自得という)。ここではゴワトロー。こういうのは、何処にでもいる。
(邦題の暗黒街とは、何を意味しているのだろう、、、ただこれだとマフィア組織の噺という「先入観」をもつだろう)。


この映画、裁判所で弁護士が出てくるシーンが非常に弱い。
映画をつまらなくしているところがここだ。
ジーノが不可避的にゴワトローをはじめとする警察権力によって犯罪を犯さざるを得ないところに追い詰められた過程における弁護ではなく、刑務所の劣悪な環境とかギロチンによる処刑制度の批判などをずっと熱く騙っている。
制度に関する一般論で彼の刑を軽く出来るはずなかろう。
所謂、ジーノ個人(個人史)を改めて衆目の前に晒してそれを読み直すことを全くしていない。
実にとぼけたやつである。わたしだったら、こんな弁護人など直ぐに願い下げだ。

人の歴史は多様に幾らでも読み替えが利く。検察側の読み以外の読みを披露する必要がまずある。
如何にゴワトローたちにジーノが彼の新たな普通の生活を営むことを妨害されてきたか、それらの積み重ねに対し彼がどれだけの苦痛と忍耐を要してきたかをまず問題化しなければならない。
恋人がああだこうだと言っても説得力はない。
弁護士は、人権無視の行き過ぎた捜査が犯罪者を作り上げる過程~物語を語って聞かせる義務がある。
ゴワトローはわれわれは人を疑う職業だと言っているが、そこには人に対する悪意以外見出せない。
だがこの悪意が空気に染み渡ってどこまでも広がっているのだ。
特定の先入観などというより、偏在し潜在する悪意とでもいうべきものが確かに基底を成している。

DEUX HOMMES DANS LA VILLE002

それを象徴しているような刑務所の壁に沿って歩んでゆくジェルマン。
ナレーションで、「この壁の中にまだギロチンが存在する」で終わる。
しかし別に電気椅子でも同じではないか、、、。
いや、死刑制度云々ではなかろうに。
それなのか?いや、ジーノの刑務所出所後の生き様を考えると、そこではなかろうに。

何が言いたいのか、この映画。



太陽がいっぱい

Plein soleil[001

Plein soleil[
1960年
フランス、イタリア

ルネ・クレマン監督・脚本
ポール・ジェゴフ脚本
パトリシア・ハイスミス原作
ニーノ・ロータ音楽

アラン・ドロン 、、、トム・リプレー
マリー・ラフォレ 、、、マルジュ・デュヴァル
モーリス・ロネ 、、、フィリップ・グリーンリーフ
エルノ・クリサ 、、、リコルディ
ビル・カーンズ 、、、フレディ・マイルズ
フランク・ラティモア 、、、オブライエン
アヴェ・ニンチ 、、、ジャンナ


BSで観た。
遠い昔に観た映画で、ほとんど記憶はなかったが、テーマ曲が流れて随分懐かしい思いがこみ上げて来た。
とっても虚しい。
ボートのスクリューに醜く絡みついたワイヤー。徐々に引き釣り出されるその先の布に巻着つけられた死体は覚えていた。
中身はほとんど忘れていても、その禍々しい異物は潜在意識からはっきり浮かび上がって来る。

何と、この映画の原作は昨日観た「アメリカの友人」の原作者によるものである。もっともこちらの方が17年前のものであるが。
驚く。恐らくこちらの方が出来が良いのでは。
映画としてのディテールの質感(物質感)はこちらもよく描写されている。トムが散歩を始めると市場で何気なく足元に落ちている魚の不気味な頭の切り身が彼の入り込んだ新たな時間流を示唆していた等々、、、。
(多くの映画で市場は不穏な空気に充ち、幾つもの亜時間への出入り口が潜んでいたりする)。

全体に、演出がきめ細かく、自然~風や波、太陽光を巧みに利用し、不安と緊張を高めている。
そしてトム・リプレーという男の決して運命を変えられない絶望の生き様を饒舌に騙ってゆく。

Plein soleil[004

アラン・ドロンのぎらついた目が終始印象的であったが、彼はもう少し歳をとってから精悍な美男子という感じになってくるな、と思った。まだ若過ぎて、悪事に陶酔している姿から、欲望丸出しの軽いチンピラにしか見えない。
勿論、ナルシシズムはたっぷりある。
鏡に向かってフィリップの服を着て、まるで彼の人格になったかのようにマルジュへの愛を囁き、キスまでする、、、。
(そう謂えば、淀川先生が、トム~フィリップの同性愛を指摘していたような、、、)。

これでは、マルジュに上手くすり寄っても、彼女は靡くまいと思っていたら最後に淋しくなってしまったか、、、。
そう、人は、淋しくなってしまっては、ダメなのである。
依存の始まり、、、そこに良いことは断じて、ない!
本まで書いて自立を目指している女性は、ここで妥協はしてはならない。
(とは言え、フィリップの言う通り、マルジュの「フラ・アンジェリコ論」は月並みな出だしだ(笑)。

Plein soleil[003

筆跡を真似、声色を使い、パスポートを巧みに偽造し、タイプライターでラブレターや遺書まで捏造して相手を操り、想定外のことがあっても瞬時に言い訳をするところまではともかく、人を殺してしまったら大概、それまでとなる。
死体の処置とは、思いの外厄介なのだ。
(どの映画を観てもそうだ。死体から足はつく)。
いやしかし、このトムにとって、殺人だけは通常の彼の振舞いから逸脱した異質の行為であった。
謂わば、彼自身の生の行為となってしまった事で、彼の計略を逆に打ち砕くことになったか。

トムはフィリップにある意味同一化を無意識に図っていたところがあるが、これもフィリップへの依存とも謂える。依存、、、トム自身、他人の金で暮らすことしか考えられず、その手段、方法は全て筆跡、声、ID,書類、、、須らく他人の真似~成り済まし~究極の依存で済ませて来たものだ。
基本、自分というものがない。フィリップに従属し羨望の意識で生きて来たと謂える。
あったのは、フィリップを刺し殺すとき、と他に打つ手がなくフレディを鈍器で撲殺したときか。
この殺しは明らかに、手段としての成り済ましで急場を凌ぐ部分はあったにせよ、これからの自らの人生を生きる為の彼にとっての一か八かの前向きな投企であった事は確かだ。
だが、それが彼を破滅に導く。

彼にとって依存~同一化か殺人~抹消以外の選択がなかったこと自体が悲劇である。
これは彼の教育(養育)環境によるものか、彼自身の資質からくるものか、、、。
恐らく、フィリップとの会話からして、両者によるものだろう。

Plein soleil[002


やはり最後のシーンが圧巻であると思う。
完全犯罪を成し遂げ、マルジュと仲良くなり、まさにこの世の春である。
「太陽がいっぱいだ」。
離れた港では、マルジュの悲鳴が響く。
人生最高の瞬間を海辺でじっくり味わっている時に、「リプレーさんお電話で~す」と呼ばれる。
店の奥には鼻の利く刑事が鋭い形相で控えている。
トムはまだ何も知らず、笑みを浮かべて歩いてゆく。
この強烈で静謐な対比。
確かに太陽のせいだ。




アメリカの友人

Der amerikanische Freund001

Der amerikanische Freund
1977年
西ドイツ・フランス

ヴィム・ヴェンダース監督・脚本・製作
パトリシア・ハイスミス『アメリカの友人』原作
ユルゲン・クニーパー音楽

デニス・ホッパー 、、、トム・リプリー(画商)
ブルーノ・ガンツ 、、、ヨナタン・ツィマーマン (額縁職人、修復師)
ジェラール・ブラン、、、 ラオール・ミノー(マフィア)
ニコラス・レイ、、、ダーワット(贋作画家)
リサ・クロイツァー、、、マリアンネ・ツィマーマン(ヨナタンの妻)


BSで観た。
ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」、「エネミー・オブ・アメリカ」、「ベルリン 天使の詩」、「パリ テキサス」は、観ているが、どれも頗る良い。なかでも「パリ テキサス」は、乾いた虚しい雰囲気と噺そのものが大好きで、「ベルリン 天使の詩」の孤高の寂莫感も深く印象に残る。「エネミー・オブ・アメリカ」も大変スリリングで刺激的であったし、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は音楽と無名の音楽家たちへの深い愛に溢れていた。つまりどれもとても良かった(爆。

さて本作である。
英語、フランス語、ドイツ語が入り混じり、外国人同士が希薄に濃密に淡々と触れ合ってゆく。
高名な画家だというダーワットの贋作をオークションで高値で捌き大儲けする画商トムが、額縁職人で修復師のヨナタンにその絵の青がおかしいという指摘を受ける。こんな絵はとても危険で関われない。いやアメリカなら、特にカンサス当たりなら引っ張りだこだ、と謂うところなどは可笑しかった。トムはアメリカ人らしくカウボーイ風の男である(紋切り型か)。
トムはヨナタンが目利きで非常に腕の良い職人だが血液の病気で余命幾許もないことを関係者から聞かされる。
興味を惹かれ彼の店に行くと腕の良い職人らしい店内と作業場の雰囲気と仕事ぶりを気に入ってしまう。
自分の仕事からしても、彼に対する尊敬の念は禁じ得ない。
両者の抱える不安(死と不正)~哀しみ、その存在的~実存的レベルでの引き合いがあるに違いないが。
親友になりたい気持ちが沸くと同時に、そういう仲にはなれないことも互いに知っている。

Der amerikanische Freund003

ヨナタンの病状が悪化しているという噂が周辺に広まる。
彼本人も大変気にしている病状ではあるが、噂共々尚更気になって来る。
地元ハンブルグの主治医の診断では、血液検査の数値に変化は無いが、それだけでは不安で居た堪れない。
丁度、そんな時にミノーという男から大きな金の転がり込む仕事の噺が入る。
それが何と絵の関係の仕事ではなく、殺しなのだ。
当然、キッパリ断るが、向こうもプロである。
彼の弱み~白血病を盾に、もっと良い医者に診てもらえとか、残った家族のことを考えろなどと彼の気持ちを揺るがしてくる。
ヨナタンはミノーの紹介でパリの血液専門医やミュンヘンの専門医に診てもらう。
殺人を依頼してくるマフィアの噺によく無防備に素直に乗るものだ、とは思うがヨナタンは何の疑いも持たず検査を受ける。
その結果は悲観的なものであった。彼の決断に及ぼす影響は大きかった。
(後で妻が調べて分かることだがその分析結果は出鱈目であった。見ている方は当然そう思っている)。

Der amerikanische Freund002

治療にも、自分が死んだ後の家族のことを考えても、金はあった方がよい。
そしてズルズルとその依頼を受ける形で銃を持たされ実際にターゲットの殺害に及んでしまう。
それで金を受け取り終わりと思っていたら、その後直ぐに二件目の依頼が来る。
勿論、抵抗を感じるも、もう後には引けない状況となっている。
(一度、やってしまったら言うなりに動く他なくなるものだろう)。
いや、そもそも何で額職人がそんなことに巻き込まれるのかが皆目見当もつかない。
単に不安を抱えた病人を上手く利用したというだけのことか?
その背景や繋がりをわたしが見落としたのか、よく分からないが、その依頼主のミノーとトムが繋がっているのには呆れる。
トムは闇の画商なのだろう。他にも色々と黒い仕事をしてそうだ。
ミノーは地下鉄を何で犯行場所に指定するのか、、、防犯カメラが沢山ついているではないか。
そして二度目は電車内での実行を指定である。
これらの点も疑問だ。

Der amerikanische Freund006

二度目の仕事にはトムも自主的に協力する。
そして今度はターゲットと護衛の2人を列車から放り出して無事、始末に成功する。
その為に、ヨナタンはかなりあちこち走り回ることになり、身体には良い影響はない。
これだけ走りまわり疲労を溜めると病気にも影響するはずだ。
妻は単なる病気の検査とは思わず、ヨナタンにつき纏い、真相を問い詰めて来る。
多額のお金が通帳に振り込まれているからだ。

しかし、ミノーは自分の家が吹き飛ばされたと言い、ヨナタンを狙ってくる。
ここで最後の処理を、ヨナタンの妻も交え3人で行うこととなる。
サスペンスものなのだろうが、終始淡々としていて、007のようなスピーディで隙もノイズも無い流れるようなド迫力の展開はなく、大変素人臭い間のある、その分リアルな実況中継みたいな流れで進む。
何やら具体的に動きが掴みずらい展開でともかく、救急車でやって来た連中を追い払ったりやっつけたりする。
そして最後の厄介者を乗せた救急車を海辺まで運んでくる。

Der amerikanische Freund004

首尾良く行き、海岸で救急車を燃やして万歳と謂うところであるが、ヨナタンは妻だけ乗せてトムを現場に置き去りにしフォルクスワーゲンを爆走させる。
「、、、深い友情を感じるがその友情が成立しないことに安堵する」。
海岸沿いの道をどんどん逃げてゆくが、途中で彼の目が見えなくなり妻がエンジンブレーキをかう。
その時、すでにヨナタンは絶命していた。
全てを終わらせて、完全犯罪なのかどうか、、、自分も終わってしまう。


音楽は、ヴィム・ヴェンダースの拘り通りの音であろう。
キャスト共々、ジャストフィットというところか。
相変わらず絵が美しい。
特に日本風ホテルの障子を開け放った時の蒼い、曇り空の拡がりには何とも言えない。
筋の上で分からぬところはあったが、ヴィム・ヴェンダースの映画であることは、はっきり分かるものだ。
これもまた奇妙な感触の続く作品である。





東京暮色

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1957年
小津安二郎 監督・脚本
野田高梧 脚本

原節子 、、、沼田孝子
有馬稲子 、、、杉山明子
笠智衆、、、杉山周吉
山田五十鈴、、、相島喜久子
杉村春子 、、、竹内重子



BSで観た。
わたしは、無意識的に「東京物語」=小津映画という図式で観て来た部分が大きいように思う。
しかしまだ小津映画のほんの少しをかじっただけだ。ということを強く実感する。
昨日の「早春」といい、この「東京暮色」といい、わたしのこれまで抱いて来た小津(作品)像からはかなり異質なイメージをもつ。
「東京物語」が時空を超えた彼岸の眩い光のなかの記憶のような映画とすれば、これらの映画はダークサイド・オブ・ザ・ムーンである。まさに悪夢だ。
「早春」より更に泥沼化する。しかも徹底して暗い。闇夜ばかりの映像である。
バーも麻雀屋もとても暗くてどぎつい。下品ですらある。
これも小津映画なのか、、、と改めてその懐の深さを感じたが、余り感じたくもないものであった。

昨日の岸惠子は思い切り奔放で明るく我が道を力強く生きる女性であったが、、、
本日の有馬稲子はボーイッシュで岸とはタイプの違う美女だが、思いっきり暗い。内向的で頑なで厭世的な感覚がある。
まだ学生なのに、深夜悪い仲間とマージャンに興じていたりしているが享楽的な明るい雰囲気はしない。
父(笠)や姉(原)の言うように、母のいない淋しさが彼女をそうさせているのか、、、。

偶然自分もよく行くマージャン屋で、自分を幼い日に捨てて満州に男と出奔した母に邂逅する。
ここで自分のアイデンティティを確認しようとする。
自分の実母なのか。
どうして自分を捨てたのか。
本当の父は、いまの父なのか(そこまで懐疑的になっている)。
そして母に強い憤りをぶつけるが、同時に自分も恋人との間に出来た子を中絶したところであった。
母が自分を捨てたことに対する怒りは、自分にも向けられる。
哀しい宿命。それは繰り返す。

親にされたことを盲目的に反復していることに気付く。
また親に扱われた通りのことを周囲からされる。
そういうパタンが組まれている。
これを崩すのは困難である。

この有馬稲子~明子の心象風景が絵となっているような映画である。
何処にも出口が無いというか自ら固く閉ざしている。
愛し合ったはずの青年は(彼女が身籠った事に対して)全く責任感も愛情もなく、終始逃げ回っていた。
姉の原節子~孝子も亭主と上手くいかず、2歳の女の子を連れて父の元に戻って来ている。
父はかつて部下に山田五十鈴~妻を奪われている。
笠智衆~周吉は、男手一つで愛情を惜しまず2人の娘を大事に育ててきたが、「家」~婚姻・番関係は総じて安定しない。
元々、そうしたものだとは考えるが、男女関係は婚姻を超えたところに理想的な何かがあるのかも知れない。
(この辺になるとわたしは皆目見当もつかないのだが)。

ただ小津監督も原節子とは結局、結婚はしなかった。
結婚してしまってはそれまで、みたいな関係性はあるのだと思う。
確かに結婚は制度に過ぎない。そしてそれによってできる家も含めた幻想が、様々な疎外、喪失感を生む。
とは言え、フリーな恋愛観が問題が無いとは全く謂えない。
これに明子は足を掬われ、独りで抱え込み苦しんでいた。

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しかし、この暗さは救いの無さは、どういうものなのか。
ここで唯一、生きた愛情が通っていたところは、孝子の周吉に対する心遣いである。
確かに孝子は妹の明子にも優しいが、それはどうにも一方通行に終わるっているのだ。
妹がこころを開かなかった。

最後に唐突に妹が電車の踏切事故で死ぬ。
危篤の状態のときに彼女は「生きたい。もう一度やり直したい」と本心を素直に漏らす。
だが、そこまでであった。

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姉は実母のところに喪服で訪ね、明子が死んだのはあなたのせいだと告げる。
孝子は喜久子が花を手向けることも許さない。
実母は、今の夫と共に北海道で新しい仕事に就き暮らすことにする。


これは、どういう映画なのか、、、
まだ咀嚼が足りないようだが、、、暫く意識に絡みつきそうな感触である。





早春

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1956年
小津安二郎 監督・脚本
野田高梧 脚本

淡島千景、、、杉山昌子
池部良、、、杉山正二
岸惠子、、、金子千代
高橋貞二、、、青木大造
笠智衆、、、小野寺喜一
山村聰、、。、阿合豊
浦邊粂子、、、北川しげ
杉村春子、、、田村たま子
東野英治郎、、、服部東吉


BSで観た。
この作品、「東京物語」の次に作られた作品だそうだ。
何と謂うか、、、驚く。
笠智衆もかなり若くなっている!
山村聰と同僚の関係、、、。

今日初めて、サラっと観ただけの印象であるが、「東京物語」をはじめとする小津映画とは何か撮り方も異なる気がした。
ローアングルで、時折ビルの無機的カットが入ったり下町の風情と明暗の対比が描かれてはいるが、撮影手法が微妙に違う感じだ。
内容的にも、池部良と岸惠子の不倫による、池部ー淡島夫妻の危機的状況が描かれる。
間に笠智衆が入っている為、あっさり緩和されてはいるが、小津映画ではこういう情念の世界は初めて見た。
特に二人で初めて迎えた早朝の部屋に揺らめく川面の光の反映が彼らの内面の怪しく艶めかしい揺らぎを示しているところは唸った。流石である。

岸惠子は「君の名は」の次の作品ではないか?
ここでは「金魚」である。自由奔放な恋愛観をもつ積極的で自分に正直な女性である。
ある意味、怖いものなしでしなやかで強い存在である。
しかも大変チャーミングである分、言動が注目され易く、世間の噂に事欠かない。
もともと「目が大きくて、ズべ公だから」電車通勤仲間が「金魚」という綽名を付けたという。
随分である。

面白いのは、通勤列車仲間で定期的にハイキングなどを催しているという事だ。
そこで唄う歌がこれまた凄い。池部の転勤の時などみんなで「蛍の光」の熱唱である。
(軍隊仲間に通勤仲間と呑み仲間?等幾つもの共同体に属していることは今より寧ろ人付き合いは多様ではないか)?
ハイキングでも先頭はハーモニカで何やら文部省が推薦するような曲を奏でている。

そんな仲間とハイキングをしている最中に、無邪気に池部と共に、トラックを止めて、二人で荷台に飛び乗り燥いで手を振って走り去って行くのだ。万事この調子であるから、外野にいる連中はしきりに道徳や人道主義を持ち出し善人ぶってお説教を試みたりするが、要するに羨ましさからのやっかみに過ぎない。自分たちがサラリーマンで、「格子の無い牢獄」生活を強いられているという意識が強いために、自由で奔放な生き方をしているように映る人間が許せないだけだ。

しかしこの映画、過剰に会社勤め、サラリーマン、電車通勤をネガティブに批判する部分が多い。
まだ舗装されていない叢の目立つ道路をサラリーマンたちがぞろぞろと歩いてゆくシーンが印象的に映される。
(早く見切りをつけて良かったとか、、、脱サラした人が羨望の目で見られたりする)。
丁度、高度成長期に入った時期ではないか。
一方で植木等の猛烈サラリーマンがスーパーマン的な活躍をしているが。

単にこの時代の人々を距離を持って対象化するにしても余りに紋切り型で貧しい側面の捉え方にしか思えない。
(これは現代にも通じる)。
これを語っている時のBGMがサーカス小屋に掛かるような音なのだ。
サラリーマンの創造性~独創的な部分を見落としたら今の日本は語れまい。
どれ程の革新技術や発明、特許が生まれたか、それらは先進的な企業でのサラリーマンの斬新な発想と努力によるものだ。
逆に見れば登場人物たちの務める会社(丸ビルの)とはそれほどつまらぬところなのか、、、会社自体が先は無かろう。

噺は逸れるが、何をするにも結局、その枠内でどれだけ枠自体を揺るがす(ズラす)発想を展開するかに掛かって行くはずである。
蒲田から毎日、都心に通うサラリーマン。休日には、相模湖とか江ノ島~茅ケ崎へとハイキング等々。
このなかから見出せるものはあるはずだ。

とは言え、ここからの展開~逸脱は、岸惠子の誘いに乗って池部がお好み焼き屋でデートして一晩過ごすところか、、、その時の言い訳が病状の悪い同期の仲間の見舞いという嘘をつくところは、かなりドライである。これが夫婦間と金魚を含めた三角関係でのかなり重苦しい修羅場に当然の如くに発展する。


この映画流石に小津映画と思ったところは、「仁丹」のビルのイルミネーションが絶妙なところで大変シュールに夜空に光るところ。
同様なシーンに「月桂冠」もあったが、インパクトは「仁丹」であった。ハッとさせられた。

それから傘のついた電球の下で池部が新聞を読むところや向かいに住む杉村春子の夫が帰ったところで、鰹節を削らされるところなど、何ともいえない郷愁を覚えた。

相変わらず飲み屋~小料理屋の会話が軸になる。
呑兵衛は必ず出て来る。
そこにピッタリの東野英治郎。この人無しでは語れない(今回は酒に呑まれる役ではないが)。
そして浦邊粂子が小料理屋の店主であり池部の嫁である淡島の母である。
如何にも美味そうなおでんをいつも作っており、娘の最大の相談役である。


最初から倦怠期という感じであったが(冒頭の寝起きシーンからして)、浮気がバレ夫婦仲はかなり険悪になる。
池部はやり直す決心で、会社の要請を受け転勤を受け容れる。
岡山県の田舎町だ。
彼らの仲人の笠智衆の鶴の一声もあり、夫婦でその土地に移ることで心機一転、もう一度やり直しましょうと謂うところに落ち着く。
場所を変えるという事は、確かに効果はあるかも知れない。
関係性が清算される点において。

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最後はその新しい地で、池部が謝罪し妻が許し、希望を見出したところで終わる。
強い明暗のコントラストで外を臨む池部と淡島の姿。



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OSIRIS オシリス

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Science Fiction Volume One: The Osiris Child
2016年
オーストラリア

シェーン・アビス監督・脚本


ケラン・ラッツ、、、サイ(看護師、脱走囚人)
ダニエル・マクファーソン、、、ケイン・サマーヴィル(中佐、インフラ設備の統括者)
ティーガン・クロフト、、、インディ・サマーヴィル(ケインの娘、地球から休暇でやって来た)


半分観ないうちに止めて放り出した映画だが、今日改めて観てみた。
ここのところ同傾向の映画が続き、息詰まったのだ。
かなり荒っぽい映画だが、こざっぱりしているので最後まで付き合った。
少女インディがヒロインでナレーションをやっている。
やはり見ているうちに距離感が出てくるが、突き放して見る分には観れる。
チャプター分けしてそれぞれの物語を並べてゆく。
ずっと繋げて線状的に展開するより、一つの噺が深く掘り下げられるかとも思ったがそれ程の効果はない。
登場人物の背景もサイについてはよく分かったという程度。

父が娘の射撃の訓練をするが、それが別に伏線で生きない。
それはそれでいい。何でも回収すればよいというものではない。
最初と最後に(少女によって)意味深げに語られる「何かを求めて来る人間は信用できない。だが何かを求めない人間はいない」というのが、物語にどう絡んでいたのか、よく分からない。

兎も角、ある惑星を植民地化して支配しており、それを上空の基地から管理している。
惑星には街と刑務所があり、囚人(独房に移された者)は極秘に生体実験に使われていた。
植民地の先住民を制圧するためにウイルスによって生物兵器にされたモンスターが囚人と共に脱走する。
どれくらいの規模の街をどれだけのモンスターがどのように暴れているのかは分からない。
上空の基地に伝えられる情報で知らされるだけだ。
荒れ野にあるバラックで2人の男を群れで襲う、何とも淋しい光景はあったが、、、。
余程の低予算映画なのだろうか、、、?CGはなかなかそつないものではあった。

出来たモンスターがもう破壊衝動しかないイグアナ似の代物だが、それをどのように統率して使うつもりだったのか?
このような厄介で面倒なものを作るくらいなら、もっと効率のよい方法が幾らでもあると思われるが。
上空の管理責任者は、この事態を地球政府から隠すため、惑星を核で一掃して収拾することに決める。
つまり普通の住民たちの巻沿いを何とも思わない。その余りに非倫理的で不合理な決定を他の幹部が異論を挟まない。
軍事法規上も当然、引っかかるはずだが。

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その爆破のタイムリミットまでに、ケインはたまたま地球から遊びに来ていた娘を安全なシェルターまで避難させなければならないと、、、。
上層部は、下の住民たちに情報は流さないまでも、管理者たちの家族くらいはまず優先して基地に連れてこさせないか?
これだけ特権階級意識を持っているのだ。普通それくらいの処置はとらないか、、、地上に機密情報が流出することを何より恐れてのことか。
情報を全て遮断して、完全に地上との行き来を閉ざすという事は、口で何を言おうが地上を見捨てることを意味する。
上層部の家族でも、、、冷酷な女司令官だ。
そして単に囚人が暴徒と化し刑務所を脱走し、危険ウイルスを盗んで逃亡している。彼らは原子力発電所を破壊すると脅しているという偽情報を意図的に流す。そうすることで、原子炉破壊により地上を壊滅させることが合理的に出来る。

ケインは命辛々、閉鎖される直前の基地から脱出して地上に降り立ち、刑務所から脱獄していたサイと出逢う。
ケインは追いすがる基地の戦闘機数機と空中戦を交えている。
この空中戦がほとんど二次大戦級のものと変わらない。
あのような目視に頼る戦闘の可能な次元のものなのか、、、その速度と謂い、射撃システムと謂い、、。
ちょっと時代を(テクノロジーを)誤っている。

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脱獄後、サイは仲間と別れている。
「オペラを見に行く」と言って。どういう目的で別れたのかはさっぱり掴めず仕舞い。
・・・・いちいちこれらを書いていても仕方ないのだが、これから先も規定違反でビールを作っている店に立ち寄りバスを借りる。
バスの持ち主の男女が店ではかなりクレージーで凶暴であったのに、急に落ち着いた話を理性的に始める。
その辺の変貌が唐突に感じられる。バスを大金で貸すところまではよいが、彼らに協力してケインの娘救助に命を張る。
どうもしっくりこない。彼らは店で頻りにナイフ投げの腕を自慢していたがそれは実際の戦闘場面では活かされないし、ロケット砲を高い値段で仕入れたのにマシンガンくらいしか使っていない。

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とここまでにして置き、終盤はなかなか意外な展開を見せ、急に締まって来る。
バスがシェルターに着く直前に戦闘機に見つかる。一度は基地をやり過ごし戦闘機が過ぎ去ったところで全速でシェルターに向かう。助かったかと思ったその時、引き返して来た戦闘機にバスがハチの巣にされる。ここはスリリングであった。上手い。
そして娘と家族をこれから何よりも大切にすると誓ったばかりの父ケインも絶命する。
何故か体を張ってくれたバスの持ち主の2人も死に、サイとインディだけ生き残る。
この二人がシェルターに逃げ込むのだが、扉寸前のところでサイがイグアナモンスターに針を刺されウイルスを注入されてしまう。

シェルター内で、サイは体が見る見る変貌して行くことが示唆される。
ここは「ハウリング」や「狼男アメリカン」みたいにじっくり克明に変貌する姿を見せるというVFXはやらない。
こちらに想像させるだけである。それでよいのだが、何と謂うか物足りなさは感じる。

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そして一年後、その後を探査に来た船が見たのがその女の子である。
彼らはその子を救出しようとしたが、ひとりは殺され、インディとモンスター化したサイに船を乗っ取られる。
サイとインディは手話で意思の疎通を図っていた。
サイは理性が保てる特殊例であったらしく、船の座席に女の子と行儀よく座っているところは、「トトロ」みたいな妙に和む光景であった。
しかしそれを確認しつつ操縦桿を握る女性飛行士は何やら本部に通信を送っている、、、。


如何にも続編を匂わすエンディングであったが、それもこれくらい荒っぽい作りでゆくのだろうか、、、。
(だが、出たら気になって見てしまいそう(笑)。

確かにこの終わり方だと気になる。




誘う女

To Die For001

To Die For
1995年
アメリカ

ガス・ヴァン・サント監督
バック・ヘンリー脚本
ジョイス・メイナード『誘惑』原作

ニコール・キッドマン 、、、スザーン・ストーン(TV局のお天気キャスター)
マット・ディロン 、、、ラリー・マレット(スザーンの夫、イタリアレストラン経営)
ホアキン・フェニックス 、、、ジミー・エメット(スザーンに操られる高校生)
ケイシー・アフレック 、、、ラッセル・ハインズ (スザーンに操られる高校生)
アリソン・フォランド 、、、リディア・マーツ(スザーンに操られる高校生)
イリアナ・ダグラス 、、、ジャニス・マレット(ラリーの姉、フィギュアスケーター)


実話を下敷きにした物語だという。

女の魔性をフルに描いた映画であろう。
面白い映画であるし、悪女のニコール・キッドマンの魅力もタップリ堪能できる。
TVドキュメンタリー調に展開するところが観易く、コメディタッチでもある。
TVに出て有名人に成ることを至上目的に掲げその為には手段を選ばぬ女の噺だ。
だが、ひとつネックもある。

果たして夫を殺害するほどの状況であったか?
基本的に彼女をTVに売り出すところでは彼も同意していたはずだ。
夫も店に大物ミュージシャンを呼び、録画映像をスザーンにTVで紹介させることで彼女を有名にしようと提案していた。
同時に店をPRして盛り上げることを意図しているが、それも経済的に不可欠なことである。
夫が邪魔になり殺害する動機が弱いというか曖昧なのだ。
(敢えて探せば子供を欲しがっていたことくらい、、、)。
それに夫は、人としてとても良い人ではないか。

今は大物俳優のホアキン・フェニックスが何とも頼りない高校生でニコール・キッドマンに良いように翻弄される。
たぶらかされる頭の弱くお人よしの男子学生を巧みに演じていた。
(ホアキン・フェニックスの演技は特筆ものであった)。

To Die For002

何と謂うか、スザーンの有名になろうと色々企画を立てて頑張る過程はとてもまともである。
周りを全く見てはいないにしても、上の人がしっかりサポートしてプロジュースできればものになる可能性はある。
だが、何故だか夫が鬱陶しくなったのか、殺害を思いつき、、、別れるのではなくいきなり発想が飛躍し、、、その実行犯にお頭の足りない3人を選んで、ほぼ勝手にやらせる。
普通、クライム映画などでは緻密な計画・準備・人選のもとに犯行を企てるが、ここではいい加減で行き当たりばったりの証拠も残しまくりのお粗末さ、、、仕方ない、彼らは何も考えず急かされて、細かい指示も与えられずに、ただスザーンに気に入られたい一心でやってしまうのだ。

To Die For003


しかし現実の犯罪なんて、どちらかというと、こういうパタンの方が多いと思う。
これは、スザーンに恋焦がれているジミーと彼女に憧れ信じ切っているリディアの思春期のふたりがとても瑞々しくも痛々しい姿を晒す(演じる)ことで余計に説得力を増す。ラッセルはよく付き合ったなと思うが、捕まって直ぐに全て自白したのは彼であった。
リアルな生々しさはとても伝わるものだ。
これに比べると綿密な計算で遂行される完全犯罪など平板で非現実的な絵空事に思えてしまう。

そう、匂い立つような思春期の欲動と自己中心の欲望が絡んで思慮を一切欠いた短絡的な犯行がなされた。
だから、バレるのも容易い。そもそもバレずにやろうという意思すら感じられない。
ただ、スザーンに忠誠を誓っていることを示したかったのだ。
結局、少女リディアのお腹に警察の付けたマイクでスザーンの指示による夫殺害であることが捕まれる。
(いじらしい程にスザーンを崇拝していた割にさっさと警察に協力している)。
勿論、スザーンは弁護士を立て真っ向から対立はするが。
取り敢えず、この時点で彼女は全国レベルで有名人となったことは間違いない。
ある意味、目的達成か。

その後のインタビューで、彼女はありもせぬ亡き夫の薬物疑惑などをでっち上げたのが命取りとなる。
高校生3人を薬の売人に仕立て、取り引きのトラブルで夫は殺されたのだと。
これに激怒した夫の父(義父)はイタリア系マフィアともつながっている。
TV業界のプロモーターのような風情で現れた男に打ち合わせということで雪原~氷原のなかに連れて行かれ、、、
氷のなかでスザーンは凍結することに。
ラリーの結婚に大反対であった姉はフィギュアのスケーターである。
彼女はスザーンをずっと冷たい女と批判していた。
皮肉なものである。

To Die For004

ニコール・キッドマンの究極的に薄っぺらな自己中女も、素敵であった。
演技派ホアキン・フェニックスとダイエットプログラムをクビになっているリディア役アリソン・フォランドのリアルなボーダー上の学生演技は見応えがあって、面白かった。


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
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