カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

多肉を整える

taniku.jpg


多肉植物を暫く放って置いたら、かなりの乱れが生じていた。
デタラメさが増大していた。
しかし、これは死に向かう無秩序ではなく、生への無意識の造形である。
かなり無慈悲に暴れまくっていた(笑。
廃墟に通じる感覚もある。

棚に収まりきらない拡張も見られ、枝ぶりを整理した。
盆栽みたいである。
基本は同じだと思う。
「整いました。」
TVで以前よく聞いたな、、、最近見ないが。


花殻や枯葉を全てどけていたら、虫喰われや病気も見つかった。
(乾燥しすぎていてもこのような事が起きる。風通しもビニルで保温していたためよくなかった)。
やはり株分けして増やしてしまったため、棚奥の余り目立たない鉢に異常があった。
昨年、大きな鉢で寄せ植えしてかなりの見栄えとなっていたものが、突然全滅したときは驚き唖然としたものだ。
常に何かが潜在的に進行している。
微分的に変化している。
そして忽然と相転換。

こちらも怠惰が過ぎた。


暴れていても、植物である。
われわれとは時間性が異なる。
声ももたないため、動勢を感じにくい。
ほとんどいつも、彼らは「静物」として確認される。
植物は「静物画」としていつも制作される。(食虫植物のように瞬時の動きを見せるものはあっても)。
また静物画として描かれた生きた動物の絵は見たことない(剥製は物である)。

やはり、植物とは生きられる時空が異なるのだ。
そんなことをふと想うが、実はこれは大変なことかも知れない。


彼らと意思疎通が出来たら、恐るべきことに迫れるのかも知れない。
分厚い「サボテンが喋った」と言う本を持っていたが、今はもう内容は思い出せない。


水をやる時期であるからたっぷりあげた。
肥料も少し。
周りのビニルの覆いを外した。
2階の窓辺でいつも確認しながら育てているものより、環境的には良くない。
外は冬の間は過酷であった。
寒気と強風である。
それに加えて密封。これは気にして風は入れるようにしていたが。
ほとんど、何かを共感し合うような間柄ではなかった事は確かだ。

亀にかまけていたし。
これからは、多肉にもっと濃密な共振時間を割こう。


彼らを眺めてボウっとしているだけで、確かに清められる感覚があるのだから。





パラレルワールド

Morgan Freeman

ドラえもんでもお馴染みである。
モーガン・フリーマンのナビゲートする科学特集番組でやっていた。
「パラレルワールド」
その番組をとっかかりとはするが、またほとんど違うことを書き出すことだろう、、、いつも通り(笑。

映画で過去に戻ったり未来に飛んだりという安易な物語がよく作られるが、パラレル・ワールドで一つ作ってみたらどうだろうか、、、と、思った。
最近の科学は、ミクロと広大なマクロの世界に別次元の世界の手がかりを見つけている。

今回も(以前も途中から見ているのだが、、、時間の話で)。
何人もの博士が出てきて、刺激的な話はしてくれている。


まず、無限である。
無限であることを前提にすると、統計学上、ありえないことが起こる可能性が生じてくる。
全てのパタンは反復する。微妙な差異を伴いながら。
となれば、無限の果てまで探しに行けば、どこかで自分と同じ存在が、自分とは異なる生を営んでいる可能性がある。
ウッディ・アレンではないが、人は生の現実に常に不全感を抱いている。
別のもっとましな生活をしている自分という幻想に憧れる。
しかし、ここではそれが理論上は存在し得るということだ。

それはまた、究極の何でもあり理論で、ドラえもんにぴったりでもある。
ご都合主義の映画にも持ってこいに思えるが。

一つ疑問なのは、観るということは何であるのか、、、。
その定義が分からない。
観察、測定により、一つの粒子が異なる場所に同時に存在している(確率的に)のを、ひとつに確定してしまう行為というが、、、。
そもそも観るということは何なのか。
このことが、保留されたまま話はどんどん進む。

測定前の全ての存在は消え去ったりしない。
それらは、それぞれ別の次元で現実化するという。
掴みどころのない飛躍に聞こえる。

量子力学的運動をわれわれのスケールの日常空間に無理やり当て嵌めようとしているようだ。
だから、自分の分身があちこちにいるような話になる。
それでもよいのだが、現実的展望はない。

ただ、観えないのと存在しないことは、別のことである、というのはその通りだと考えられる。
しかしだからといって別の存在が別の次元(世界)で生きていても、それは原理上知ることはできない。
一つの現実を選び取っても、まだ他の現実が消え去った分けではなく、別次元でそれは現実化されているという考え。
この認識には前提として、それら多次元の世界を包括的に(俯瞰して)観ることのできる超越的な立場の存在が措定されている。
彼らは単に帰納的に(論理的な推論から)それを述べていると言うにせよ。
宗教的な匂い~枠も感じる。

ともかく論旨の根拠は、どのような物体も複数の箇所に同時に存在できることを証明できれば成り立つと考えているのが分かる。
シュレディンガーこのかた、量子の振る舞い~観測の問題で、ミクロレベルでの認識(確率論的な位置と運動の関係)は周知のとおりであるが、物体レベルとなると、どう話を持ってゆくのか、、、。
番組では単に、わたしだって原子の集まりである以上、同じように他の世界に存在してもよいはず、というだけのもの、、、。
他の博士によって、絶対零度に近い低温下で、金属片を使った実験がなされていた。
そこでは、金属片そのものが量子的振る舞い~振動をしていたという。

そして、マクロ、、、大宇宙においては、まず反物質から話を始めている。
ビッグバンで生じた反物質の世界をパラレルワールドとして。
正直、インフレーション理論をもとにしたパラレルワールドについては、何を言いたいのか分からなかった。
ブレーンワールド~膜宇宙については、イメージがつきやすいものだった。
膜自体は相互作用はないパラレルだが、相互の重力を観測することはできる。
重力場が巨大になると、二つの膜が繋ぎとめられる。
その場所こそがブラックホールだと、、、。

ブラックホール内の物質はエネルギーは保存したまま、ホワイトホールとして噴出する。
その現象こそがビッグバンである。
つまり、ブラックホール~臍の緒を通ってパラレルワールドとわれわれの宇宙は繋がっている。
パラレルワールドからの情報(メッセージ)は、すでに伝えられている。
ガンマ線バーストがそれにあたると、、、。

ひとつの現実だけがあるのではない。
ヒトは一つの結果だけを認識するが、同時に異なる結果がどこかに存在する。
という科学的理論を作ろうとしている人たちがいる。
ということを、知った。
とても眠かった。時間が時間である。これからは録画して見たい。

死もこのような別世界への目覚めという科学的?な認識に移行してゆくのか、、、。
死の解明も物理学的に為されるのかも知れない。


「あなたはもうひとりのあなたの夢を生きているのかも知れない」
最後のモーガン・フリーマンのことばだけが、やけに沁みた。











またもや赤色矮星!

TRAPPIST-1.png

まだ、ほとんど情報が伝わってきてはいないが、、、(わたしが知らないだけか?)
NASAの発表があったそうな。
TRAPPIST-1という赤色矮性の周りに7つも地球型惑星(系外惑星)が存在すると。
つまり岩石惑星で大きさもほぼ同等、ということは重力も近いか。
そのいずれにも水のある可能性が高いという。
その上、3つの惑星は、地表に水を湛えているらしい。
(地中になら太陽系の惑星・衛星に幾つもある)。

水瓶座の方向約39光年(9兆4600億km)という、これまでからすると、非常に近いところに見つけた訳だ。
(しかし水瓶座の方向というのが今の時代に象徴的である。アクエリアスの時代になって、、、)。

また、何よりロマンチックなのは、それぞれの惑星間距離が近いため、ひとつの惑星に着陸すると、月より大きな天体が6つも空に拝めるということらしい。(しかし近いといっても40光年である、、、星間移動の技術革新は前提となる)。
尚、赤色矮星はわれわれの太陽より表面温度は随分低いが、遥かに長生きする。
惑星がうんと近くを回っていようと、それほど熱くはならない可能性が高い。
ただしどれもが非常に近い軌道にいれば、朝夕ロックはかかっていて、地球に対する月みたいに、同じ面を向けて周回することにはなろう。しかし大気と水があれば循環が起こる。

まだ、情報はこれから明かされててゆくのだろうが、いよいよ「ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡」の出番となろう。
2018年打ち上げである!
それによって、随分多くの事実、というか実態が判明するはずだ。
まずは、大気成分の解析、地表や水も分析ができるはずである。

この恒星は、ともかく非常に長い寿命(数十兆年)がある。
ということは、進化に充分な時間がかけられる。
ハビタブルゾーンに3つも惑星が入っているというのも、かなり科学者たちの期待増であろう。

地球が生命の住めない環境になるまでに、ヒトが生きていたなら移動可能であれば、重要な候補地が見つかったということであろうか。その星から平和に地球の滅亡を眺められることになろうか。
その前に人類は完全に絶滅しているかも知れない。
だが、人類の跡を継いだ生物がいれば(ロボットかもしれないが)それが住める場所になるだろうか。

とは言え、その星が環境が整ったところであれば、先住民がいる可能性も高く、われわれが侵略者ともなり得る。
地球人の侵略に対抗する正義の異星人(その星のnative)という構図になりそうだが。
そんなこと、今から心配しても仕方ない(笑。

ともあれNASAの科学者は、生命のいる星があるかどうか、からいつそれを発見できるかという段階になった、という。
深夜TV(ユアタイムの市川さんの薀蓄も含めた)短いニュースコーナーで見た範囲であるため、何とも言えないが、今後の動向に注目したい。
「ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡」の稼働によって大きく動くと思われる。


何というか、、、宇宙探査が生命探査と同義となってゆきそうな様相である。

生命力

hikari.jpg
あくまでも「生命力」とは、ではない。
そこを説くのではなく、「生命力」の恍惚を再認したいだけである。
昨日のマルキの映画でつくづく感じるところが、「生命力」であった。

その過剰とも言える「生命力」が危なっかしくも非常な魅力を感じる。
われわれがあれほどの迸る生命力を発揮し得るか?
単に幽閉され迫害を受けた事に対する反発や、予め備えている反骨精神と強靭な肉体(彼の場合は更に放逸な性エネルギー)だけで、あれほどの「表現欲」が生じようか?単なる破壊活動や殺人に向かっていてもおかしくはない。
マルキにとっては、何よりことば~物語が殊更に身体的~性的欲求・欲望を充たすものであったのだ。
そこへあらゆる欲望を抑圧から解き放つ純粋な表現欲を彼が真摯に認めた結果であろう。
彼にとり、あの「表現欲」こそが「生命力」そのものなのだ。

われわれは、自らの意思で閉じ篭もり、それを封じ込め枯渇させている。
ときに宗教的(道徳的)な美徳で合理化し。
(後にそれをアンドレ・ブルトンは痛烈に批判した)。
自ら囚われ人となり、その枠内で物事に悩んで抜けられないあのエッシャーの版画の男のように。
その枠をもっとも原初的で本源的なエネルギーをもって内奥から打ち壊してしまうことば~物語の力に彼の小説は満ちていた。
だから人々はそれ~焚書を(秘薬のように)隠し持って読んだ。
(恐らく論理をもってしなくとも、人々を解放し得る唯一の方法であったかも知れない。そう言ってしまうと宗教はどうなんだという声が聞こえるが、仏教の「南無妙法蓮華経」はこれに近い過激さを感じる。キリスト教についてはすでに書いている)。

表現は他者あってのものである。
創造はその新しさを他者が認めるところにある。
彼は生粋の作家~芸術家であった。
彼もまた他者を何よりも必要とした。読者がいることが彼をワクワクさせた。
次作をみんなが待ってるわと言われれば、書かないわけにはいかない。
どんな障害があろうとも書かないではいられないのだ。
神父は書くことで自らの「毒」を対象化し、精神が清められると期待していたが、マルキは日記を書いているつもりなど微塵もなかった。
彼は端から開放系に属する。隠し事もまるでない。
(物語の後半からは、布一枚身につけていない(爆!)
それ以前に、自分が毒に犯されているなどとこれっぽっちも思っていない。
言うまでもなく(宗教の)阿片に毒されているのは、お前たちだ、となる。
確信は絶対的なものであった。
彼の強さの根拠である。

彼こそ健全であった。
その激烈な生命力こそが証である。真理である。
旺盛な表現欲は生=性そのものの発露であったのだ。
そしてその対象である読者~他者とは、マドレーヌであった。
ストイック(プラトニック)な彼女への愛が底知れぬ「生命力」=「表現欲」の源であった。
恐らく、、、。


まず、なんといっても生命力を枯れさせてはならない。
それを強く再認識する作品になっていた。


冬さがし

snow man

ちょっとでも雪が降ると必ずどこかの隅っこに作ってある。これは近くの公園に、、、。
冬~雪へのオマージュなのか。


今日は娘たちと、「冬さがし」をした。恐らく学校の「生活」の授業にでもやったのではないかと思う。
雪も降ったことだし、、、彼女らのスイッチが入ってしまった(笑。
これだけ寒いんだから冬だよ、と言っても、そういうことではない。
形を探すということである。
「冬」の形を、、、。
朝から冬さがしで、われわれは家の庭からその周り、近くの公園まで道端を探って廻った。
日光は強いが風は冷たい。


家、庭周りでは、霜柱、ポリバケツの底に溜まった水が凍っていたり、、、だがそこに枯葉が絡みちょっと乙であった。
それから、草花が白く凍りついていたり、小さな葉っぱには水滴と見紛う氷の水晶がチョコっと乗っていたり、、、
普段は見れないキラキラした光景が楽しめた。
狭い裏庭にはわたしは滅多に行かないのだが、彼女らは度々探検しているらしく、木や花の場所をよく知っていた。
霜柱をザクザク踏むのも靴裏の感触が楽しめ、普段できない体験である。
だが、その程度であれば綺麗で面白かったね、くらいで終わっていたのだが、、、われわれ探検隊は、エッジにおいて驚愕の造形に出逢う!

次女がこれこれ!と言ってわれわれを呼んだところ、、、

場所は家の塀とアスファルト路面の間~縁である。
土が吹き溜まった結果できた謂わば結界みたいな細い場所である。
そこに生成された圧倒的な自然の表情であった。

先だって、女子美に展示された、地面に生じた罅割れそのものの作品があったが、その定型(基礎形)を非常に高スペックなコンピュータでパタンを複雑化した後、更に魅惑的に絶妙な崩しを施し、氷点下の気温と水分を加え、神秘的に仕上げたという感のある罅割れに、われわれ親子はただ魅了された。

形には生気が欲しい。はじめから力を感じない表面の克明ななぞりではなく。
受け側と力を及ぼす側との、その地と図との間のせめぎ合いの強度~微分方程式が欲しい。
この前展示会で見たのは、質を感じない余りにスタティックな~形骸化した、ものであった。


混沌のなかに刃に似た鋭さが目立ち、自然の覇権への闘士すら感じる。小さな場所でのある闘い。
crack001.jpg

ディテールへ、、、それは残酷な爪か牙か。
crack003.jpg

激しい闘いの反復。これまで何度繰り返されてきたのか、、、。
crack004.jpg

境界~エッジを前にそれらは留まる。ある法則に従い。記憶に留める。
crack boundary


思い切っていつもの公園にそのまま行った。
sagamihara p
いつもとは、別世界であった。
(僅かばかりの雪で、、、)雪とは何か、、、?
                           *写真は全て長女。


ふたりは、帰りに美味しいハンバーグ専門店に行く相談をしている、、、。
冬さがしは、最後に高くついた(苦。


雪の日に

snowman.jpg

雪が降って表は変に明るいのだ。
こんな寒い日に、わたしは自動車免許更新に出て行く、、、。
(ちょっと宮沢賢治が入ってきた、、、賢治殿申し訳ない(拝)。

行く予定を組んでおり、変更が効かなかった。
毎日、何かがあるためだ。

他の日にするにしても、見通しがつかない。
予定通り、よりによって雪の日に、寒々とした光景のなか、実際に充分寒い日に、警察署に向った。
みぞれでなくて、まだよかったが、、、。

不運は、これだけでは終わらない。
折角、前日に撮っておいた写真を切って持って行ったのに、切る目安のボールペンの輪郭線が少し見えたことがまずかったのか、「ちょっとこの白いところに黒っぽいモヤっとしたものが見えます。」
(メガネかけてるのに異常に目の良い警官だ。というより意地が悪いのか?)
撮り直しを窓口の婦人警官に命ぜられてしまった。
渋々、近くの警察署お抱えの印紙と写真を扱う事務所で新たに写真を撮り直して、警察に戻った。
その時に、婦人警官が写真を見てちょっとクスッと笑ったのが、やけに気になった。
撮り直した写真がわたしも強烈に気に食わないのだ。
(これは、風呂にゆっくり入ってのんびりするまで、横腹に引っかかり続ける)。

しかし一番、心配していたのが、視力テストである。
視力がこの5年間で随分、低下した。
メガネもその間に作り、日中の大半は、メガネ探しの旅に時間を浪費している始末。
(この件がもっとも悲惨といえば悲惨であろうが)。
ちなみに、その次がiPhone探しである。時折、それに車のキー探しが加わることもある!
一日のうちで、実のある時間はほんの僅かではないか、、、、(絶句。

途方に暮れる前に話を戻し、視力テストに怯えていたが、それは何故か簡単にパスし、問題なく講習のビデオ鑑賞となった。
シュールなビデオではあるが、交差点と物陰から飛び出るモノに気を付けよという注意喚起映像には違いない。
平常心と健康管理も肝要であるという、、、いちいち納得して見ている間に突然それは終了した。
思ったより早く終わったのは、ラッキーである。(ここで少し救われた気分になる)。
優良ドライバーであったため、30分で終わった。やはり安全第一主義は正しかったのだ、、、。
帰りも一段と寒かった。
自宅から警察署まで、普段なら歩いてもわけない距離なのだが、今日は異常に体に凍みた。

そして帰りに、本日もっとも寒い、凍りつく経験をする。
時折外観を鑑賞している、日に日に崩れが目立ってきている廃屋のある通りに差し掛かった。
いまや雪の降りは、家を出た時より増している。
普段、その廃屋には全く人気を感じたことがなかった。
今日も、勿論ガランドウだと思い、壊れたガラスのない扉の窓をそれとなく眺めた。

すると、もはや暖気を得る機能など持ち合わせていないに等しいその崩れかかった建物に、生々しく光るヒトの顔が浮いているではないか。その廃屋の内部が突然露わになった気がした。
驚きは感じず、ただ唖然としてその時空に見入った。
その壊れ解体寸前とも取れる扉の以前ガラスの嵌められていたであろう窓に、大きく見開いた無表情の両眼があり、頭部の全体までは窺えなかった。特に眼の次に内面を表す口元は隠れて見えなかったため、余計に内面を超脱した眼がただ異様に光っているだけだった。

生きているヒトに違いない、、、。
恐らく。
その建物の持ち主なのか。
恐らくそうだろう。
少し年老いた婦人に見えた。
暮らしていたのか、、、少なくともそれまでその場所に生活感を受けたことはない。
内部はもはや、彼岸の厚みに属していたのだ。

足はそそくさと家に向かっていた。
かなりの速度である。
自動的にそこを離れてゆくが、寒さからもう風呂のことしか考えられなくなっていた。
体は芯から冷えていた。


新免許は、暖かくなってから受け取りに行こう。



時間についてほんの一言

sands of time

モーガン・フリーマンの顔を見て思い出した。
昨日観た映画もある意味、時間との闘いとも言えるスリリングなものだ。
しかし、時間を考え出したら、これは結構、厄介である。

そもそもこの時間体験はどこから生じるか、、、
われわれの身体の大きさレベルにおいては、熱から生じている。
物質と熱の相互作用が目に見える変化を生むため、時間を体験する。
熱力学の法則により、物体は低エントロピーから高エントロピーへと一方向に向かってゆく。
それが時間の矢と見える。
時計の針と相関する。
(変化~動きの相関関係としての時間)
勿論、われわれ生命は大きなエントロピーの矢のなかでの非平衡開放系~ネゲントロピーに属している。

しかし、その熱はあくまでも統計学的な見地におけるこの世界の大きさにおけるものであり、素粒子レベルでは通用しない。
つまり、ニュートン的な日常のスケールのなかでのみ馴染むものである。
量子力学に”t”がそぐわないことは当初から問題になっていることで、時間概念を外した量子論を作り直している人も少なくない。
素粒子の相互作用の世界には”t”が当てはまらないのだ。少なくとも”t”だけ単独では取り扱えなくなっている。
光に対して時間と空間というものが個別に扱えないことは、アインシュタイン以降、もう前提となっている。
時間だけをとりだした考察はもうできない。
素粒子間の相互作用を正確に把握できないためわれわれは、エネルギーを統計学的な(平均値で)温度としてとらえている。
素粒子の運動そのものには、時間的方向性はない。

そんな時間がわれわれという段階の生に必要な尺度に過ぎない幻想であると述べる物理学者もいる。
モーガン・フリーマンのナビゲートする情報番組をたまたま観ていたらこの話が特に気になった。
時間の矢(エントロピーの矢)は絶対であるということを前提に話している科学者の噺は退屈だった。


時空連続体を「粒」として面白い見解を(学説を)述べていたのが、その次に登場した女性科学者であった。
その粒が連続的に生み出されてゆくというもの。
流れるのではなく、時空が非常に短いスパンで連続的に生成されていくのだ、というものである。
もともとこういった理論はイメージは不可能である。
(科学理論を比喩などに変換すると大概間違ってしまう。12次元理論など、イメージのつくものであるはずない)。


そもそも時間があるとかないとかどちらかに決める必要はあるのか、、、
取り敢えず、日常時間は時計で測って過ごせばよろしい。うちでも目覚ましで子供は起きている。
そもそも時間というものは、こういうものですと解明されたとしても、われわれの身体的実感として馴染むものかどうか、疑問である。

わたしにとって、とりわけ魅力を感じる時間は、「永遠」と「瞬間」だ。
いやそれ以上に吉本隆明氏の「固有時との対話」の「固有時」だ。
アインシュタイン以前に、このような時間の観念は出てこなかったと思われる。

日常の「時計時間」も(古典)物理学の「時間の矢」もある意味で正しいとはいえ、無粋な気がする。
やはりキリスト教の作った時間神話の定着なのか、、、世界の創成から終末をリニアな線で表わしてしまったことの。
ニュートンはそれを科学的に保証し時間の矢を絶対化し強固なパラダイムと化した。
日常生活において、常識以前の前提となってきた。
日本は、、、と言っても、仏教であるが(仏教が身体化したひとはそれほど多いとは思わないが)、「現在有体過未無体」(人間存在~現象界は、現在現れているかぎりにおいては実有であるが,過去,未来においては無である)は、ある意味西洋の最新の時間論~物理理論に通じるものはある。

西洋でもニーチェの永劫回帰などの思想も唱えられたが、むしろ異質な思想であろう。
(ギリシャ哲学においては、循環的な時間概念も唱えられていたが)。
社会通念に影響を及ぼすには至るものではない。やはり大きいものはキリスト教の教理というより世界観だ。
すでに絶対時間(線状的時間)と絶対空間(均質空間)が確立されていた。デカルト~カントに及び。
そして成長、発展、進化、、、などの社会通念が時間観念を地固めしてきた。


だが、今世紀に入ってからいよいよ、時間はない(われわれの意識が要請する物語)というひとから、時空連続体を前提とした、観測者のいる系の速度により伸び縮みする時空(これはアインシュタインが初めから言っていたこと)や、生成され続ける時空の粒まで出てきている。


何にしても、「時間」というかたちで何かが語れることは、なくなって行くとは思われる。


廃墟の時間

kumamusi001.jpg

ほぼ毎日、車で送り迎えをしている道すがら、廃屋が気になっている。
もう随分前からだ。
かなり立派なお屋敷から、昔よく足を運んだ古本屋まで、、、カウントしたらかなりの数にのぼると思われる。
スーパーやデパート、ボーリング場は、空いてもすぐに次の店に改装されたり、取り壊され再生する。
しかし病院は、次のものになるのに暫くかかる(微妙な時間を経る)。
そして大概、取り壊される。
マンションなどがその土地に新たに建設されることが多いが、時折また病院が立て直されることもあった。

そのままずっと長いこと放置されるのは、普通の民家や個人経営の小さなお店である。
時間の滞った内部で何が起きているのか、何が充満しているのか、とても不安になってくる。
よく廃墟探索等といって、チームを組み中に入ってみる人がいるようだが、とてもそんな気にはなれない。
病院ならまだよい。
広い空間がある。たくさんの空いた窓を吹き通る風がある。逃げるための外階段がある。
しかし、小さな空間は恐ろしい。そこに空気はあるのか、別のガスなのか、水が溜まってはいないか。
細部という細部が捲れ上がり、何かが侵入し発生している。密かに密かに異なる時間のなかで熟してゆく何か、、、。
そんな像を結ばないイメージが浮かんでくる。
それは、めくるめく群れを成していた。

廃墟(廃屋)には動くものがない。音もしない。
そこから、閉じられた内部にも動くものは見られないと思う。
あからさまに、大きなものは、大きな動きは、、、目につくものは。
そのようなものは、廃墟の静寂を壊してしまう。

だが、小さなモノたちは、きっとどこにもいる。
この地平の何処にも偏在することは、科学が実証してきた。
無音で策略を練り無言で実行するモノたち。
小さく細やかに忙しなく群れ動き、密閉した壁を僅かづつ自動的に食い破って進攻するモノたちの事だ。

そんな小さな機械の群れは、突っ切ってゆく。
誰の目にも留まらず。
鳥の目にも、監視カメラのレンズにも、猫の目にも、、、満月の下にあっても、、、風が吹いても。
誰にも気づかれず。

われわれの地図に関係なく、われわれの国に重なり、われわれの知らない国名をいつしか名乗っている。
勿論、聞き取れない音と、発音できない声で。
ただ、鳴き声や自然現象のなす音ではないことは、聞き分けられる。
そんな音=存在が、巣食って充満して、いまや臨界点を超えんとしていた。


それは、まったくの虚無から突然、物体化する「他者」である。





長女のお腹の風邪

ATOM001.jpg

発熱と嘔吐、下痢と、、、今日は練習していたにも関わらず、ピアノに行けなかった。
長女である。

それどころではない。
ちょっと、スープを飲んでも吐いてしまう。
食べられないことは、一番きつい。
何がキツイといったら、思うことが出来ない事である。
そういえば、学校もお休みした。

意識の上ではしたいことはあるのに、気力と体がそれに伴わない。
ともかく、今は何でも出してしまう為、何も留まらない。
口に入れる気持ちも萎え、食欲自体が沸かない。

それでいても、わたしの言葉かけには、いちいち生意気な返答をしてニヤリとする。
なかなかなものだと思う。
何かを返さなければ、といつも思っているらしい、、、。
面白い。


次女もいつもならわれわれに我儘を言って困らせようとするところだが、今日は長女の様子を見て、大人しくしている。
普通、ピアノが自分だけ上がった時など、大いに歓んで相手を貶したりするのだが、今日は独りだけピアノに行って上がって来ても何も言わない。
神妙に姉の様子を窺っている。

実際、辛いことは確かなのだが、寝ていればそこそこ楽なのである。
わたしも、家事(笑や医者に交通機関を使って行く時などは辛いが、家でゆっくり休んでいれば、例え熱が多少あろうが、それほどでもない。
ただ、嘔吐が続くときだけは堪らない。
長女は朝は流石に辛そうだったが、医者の薬で何とかおさまっている。

出るものは出る必要があって、出ているため、それを無理やり抑えるのは、からだにとってはよくないことは、昔から言われている。
確かにその通りだと感じる。必要があって出しているのだ。
しかし、少しでも快適に睡眠はとらせたい。

ということで、先ほど熱冷ましの座薬で、眠らせた。

実は、わたしも似たような症状である。
風邪は感染るものだからだ。

今日は、病院も含め野暮用もあり、外に出かけ尽くめであった。
調子が良くないのに出歩く用が多い今日この頃である。
更に看病とピアノの送り向かい。
小龍包づくりにも駆り出された(笑。

わたしと長女は、スープとお粥しか食べなかったが、、、。

そろそろ本格的に体調をスッキリさせる予定。


カメの神秘 Ⅱ

kame005.jpg
昨日の記事で、日向ぼっこのことを書いた。

3日ほど前までの時折、眺めるなかでの印象だったが、昨日いつもより長く見ていると、、、
(というのも洗濯物がいつもより多く出て、乾かすローテーションが生じてしまったのだ、、、そのついでに)。
長女ガメもしっかり次女ガメの後で甲羅干しをしていた。
若干、次女ガメに比べてその時間が短い感じはしたが、気持ちよさそうにしていたので安心した。
(日中ずっと観察しているわけではないので、長女ガメの日光浴のシーンを見過ごしていたのだ)。

それにしても、、、
次女ガメの亀島の上でのリラックス振りには、呆れるほどである。
大アクビをしてしばらく頭を手で掻いていたかと思うと、後ろ足を片方ピンと伸ばして、次いで手を片方ピンと伸ばす、今度は反対側の足とそして手を同じように伸ばす。それをやった後、またアクビをしてゆっくり目を閉じてお日様に当たっている。

羨ましい、、、。なんと贅沢な、、、。とホンキでそう思う。

この世に、これ程呑気な生き物はいないのではないか、と思うほどのリラックス振りである。

長女ガメの方もゆっくり甲羅干しはするが、頭を掻くくらいで、手足も取り敢えず伸ばしはするがアクビはしない。
全てにおいて次女ガメより控えめである。


今回、ふたりで日光の当たりの良い方の亀島に並んで乗っている時によくよく見てみたのだが、ふたりの大きさが全く見分けが付かないくらい同じなのには、改めてびっくりした。
かなり大きさに差が出ていたのに、これ程同じ体格に調整してくるとは思わなかった。
(昨日の感想と全く同じ内容なのだが(爆)。

顔もしげしげ観たが、長女の撮った写真(次女ガメ)そのもの。
どちらも、われ関せずという表情だが、どうだろうか?
思い切りリラックスしながら何かやっている感もタップリな利口そうな顔つきである、、、。



窓越しに外を眺めると、日差しはあっても寒そうである。
多肉植物の心配を本格的にしなければならない状況になった。
外気が氷点下になるとマズイ。
それまでに、対策を講じたい。
兎も角、この春~夏に小分けした株が(秋の間に)それぞれ増えすぎ、大きくなりすぎた。
鉢が増えたため、棚に収まりきらないで、あちこちに置いてある状況なのだ(笑。

笑ってる場合ではない。
今日中に何とかしよう。
カメの水を取り替える時にでも、、、。





カメの神秘

kame005.jpg


何とびっくりしたことに、かなり大きさが違っていたふたりのカメがほとんど見分けが付かない大きさになってしまった。
娘たちが体重を量りたいということで、体重計に乗せてみるとどちらも80グラム。

甲羅と線の色との対比が違い(次女ガメはビビットだが、長女ガメは少しぼやけている)健康状態が気になるほどではない。
頭、手脚は色も形もとても似ている。
顔の造作は違うのだが、、、。
次女の名前のカメは、目鼻立ちがはっきりしていて気の強そうな、、、実際、手で持ち上げると激しく暴れる、、、顔である。
今日も水替えの際、持ち上げると、歌舞伎調に「なに~っと」こっちを睨む(爆。
長女の名前のカメは、目鼻立ちはすっきりしていて落ち着いた、、、手に取ってもさほどジタバタしない、、、顔である。
こちらはつまみあげてしげしげ見ても「何か?」と涼しい表情。

最初購入したときは、ほぼ同じ大きさで、だんだん大きさに差が生じてきて、次女亀と長女亀の比が1:1.3くらいのところまで開いたのだが、、、。
この時分は、長女ガメが圧倒的によく食べていて、次女ガメの鼻の先の餌まで取ってしまっていた。
しかし突然、長女ガメがほとんど何も食べなくなり、その間次女ガメがガツガツ食べていたためであろうが、、、
色と模様の線の部分の違いからわれわれには直ぐ分かると言っても、大きさと全体の形では見分けが付かない。
今はふたりとも、同じように食べている。
体の大きさ調整をしたようにしか受け取れない。
ふたりで相談でもしたのか、、、?
とっても神秘的な現象に思える。


もう食べ物も、以前の緑の餌に替え、ひところ食べさせていた、高ビタミンの赤のものは、やめた。
(勿論、小さな水槽病室でのビタミン浴も終了、、、贅沢すぎることもある(笑)。
ビタミン強化タイプは粒が大きく、噛み付いて砕けた破片が水に浮かずに直ぐに底に落ちてしまい、汚れも比べ物にならないくらいで水が濁るのが気になった。
ベーシックの緑のものに戻したら水がいつまでも綺麗で助かる。
(日に必ず一度は水替えしているが)。
粒の大きさもカメの口に調度合うためカスが水中に残らない。


ただ、次女ガメの方は、すすんで亀島に登り日光浴をよくしているが、長女ガメは亀島の中で休んでいることが多い。
すすんで日光浴しない場合は、やはり無理やり日光に当てた方がよいのだろうか、、、。
アウトドア派とインドア派か、、、?
甲羅(と線)の色も恐らくその関係だと思う。
動き、食欲には基本的にさほど差も感じられない。
性格~個体の差は、結構出てきているようだ。

まずは、よく食べるようになったことは、一安心ではある。


もう少し様子を観てみたい。

kame.jpg



静かな夜

karesannsui.jpg

枯山水とは、日本だけのもののようだ。
水を表現するための最高の方法が水を全く使わないこと。
その不在~欠如により、その存在を際立たせる。
その「方法」の知が日本文化においては、極めて優れたところに思える。


最近のいや、最近ではなく常にその流れはあったと思うが、ただ空間を目まぐるしく勢いで埋め尽くす類の表現。
只管、プラスしてゆき圧倒しようとする向きには、辟易している。
そういったものに、毒や破壊力があった試しがない。
解体力や救済力があった試しがない。
かえって下らない幼稚極まりない道徳性に落ち込んでいる。
今日観た「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」などがまさにそれであり、思い出すうちに腹立たしくなってきた。
本当に頭にきた。ああいうものを作る連中に対し。

何というか表現とは何か。
何をコンセプトとして打ち出すのか。
その基本理念の確認も何もなく、安易極まりない排泄物が止めど無く垂れ流されて全てを覆い尽くそうとしているというのが、もっとも適当だろう。
スーパーフラットな現状~病状であろう。

これは明らかに病気である。
深刻な思考停止病である。
感性の麻痺である。
文化の衰退である。

歴史的にも立ち戻って考えないといけない。
日本のアニメは優れているなどとタカをくくっている場合ではない。
かなり危険で末期的だ。
勿論、良いものも生まれてくる余地は残されている。
現に、生まれているが、、、危うい。


本来の日本文化はそんなところにはない。





プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

*当サイトはリンクフリーです。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

QRコード
QR
最新トラックバック