カレンダー
01 | 2018/02 | 03
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 - - -

モーガン プロトタイプL-9

Morgan004.jpg

Morgan
2016年
アメリカ・イギリス

ルーク・スコット監督
セス・オーウェン脚本

マックス・リヒター音楽
マーク・パッテン撮影

ケイト・マーラ 、、、リー・ウェザーズ(危機管理コンサルタント、L4)
アニヤ・テイラー=ジョイ 、、、モーガン(モーガンプロジェクトL9)
トビー・ジョーンズ 、、、サイモン・ジーグラー博士(モーガンプロジェクト研究スタッフ)
ローズ・レスリー 、、、エイミー・メンサー博士(モーガンが最も慕う博士)
ボイド・ホルブルック 、、、スキップ・ヴロンスキー(調理人)
ミシェル・ヨー 、、、ルイ・チェン博士(モーガンの生みの親)
ジェニファー・ジェイソン・リー 、、、キャシー・グリーフ博士(モーガンプロジェクト研究スタッフ)
ポール・ジアマッティ 、、、アラン・シャピロ博士(モーガンプロジェクト研究スタッフ)


ルーク・スコット監督、リドリー・スコットの息子とは、まいった。
監督ファミリーだな、、、。
トニー・スコット(『デジャヴ』、『エネミー・オブ・アメリカ』、「トップガン」が一番有名か?)は弟だし、長女や長男も監督のはず。ルークは次男となる。


流石に映像には父親譲りの澄み切った「レンブラント光線」が射し込む(決して親の七光りではない)。森に射す光が一際、幻想的で綺麗であった。
これはリドリー家の血筋だ。
内容的には、、、
どこか、、、そうテーマ的に『エクス・マキナ』に近いものがある。
ヘンデルの「なつかしき木陰よ」が映像の雰囲気にピッタリ合っていた。

「あなたは本当の自分になろうとしている。」「それは一番大切なこと。」(エイミー)
そうした感情を「兵器」に持たせるとどうなるのか、、、。
周りの研究開発者(保護者)たちは、モーガンをかなり過保護に(腫れ物に触るように)育てていた。
ジーグラー博士をはじめ、最高の研究の成果=作品として彼女を誇りにして大切に扱う面が主調であるが。
エイミーはそのなかではもっともモーガンの精神に直截触れる関係をもっていた。

”L-4”はすでに兵器として完成されている。
”L-9”は、その上に感情を育ませるとどうなるのか、という実験であろうか、、、それとも現場の博士たちの暴走なのか。
遺伝子操作とは、このように結果が総体として発現されるか分からない面は大きいはず。

シンセクト社の研究施設で極秘裏に開発されたハイブリッド新生命体とは。(レプリカントを想起しないわけにはゆかないが)。
モーガンプロジェクトから生まれたL-9をアニヤ・テイラー=ジョイ。『ウィッチ』、『スプリット』、ここでも役柄を完璧に熟している。
L-4を『オデッセイ』のケイト・マーラ。驚異的に知的でクールでタフなのは何故かが最後に分かる、、、いや、終盤にははっきりしてしまうが。

「外の自由」に触れて、自分の外部に憧れる。
「わたしはわたし以外の者にはなれない」と悲観していたモーガンであったが。
最後はエイミーの語っていた湖に見入って、そこに天国を観て感動する。
危険極まりない純粋さで。

Morgan003.jpg

彼女の商品化が妥当かどうかを評価する心理テストで追い込まれたモーガンは暴走する。
それを制止するために麻酔で一端眠らせるが、大きな外傷を受けていた。
ともだちだと信じていた者たちに裏切られたという。

モーガン(の心)が5歳相当ということもあるのか、、、比喩が理解できない。攻撃性の抑制が効かず衝動的。感情が適切な(人間の規範に則った)行動に結びつかない。しかしそれまでは、反省の感情が生じるべき時に沸いては来たが、(とは言え、それを行動の「ミス」と捉えるレベルで)、、覚醒後の感情の変化は大きい。まさにバーストしている。完全に(ある意味、感情の爆発とともに自分を解放し)タガが外れ、エイミー以外の人間は彼女にとって無価値となった。
元々自分は人間ではない、他の何者かだ、という認識ははっきり持っている彼女であるが、片っ端仲間を平然と惨殺し、エイミーと共に湖~天国に逃避行するも、憩う間も無く追い詰められる。

森のなかで神秘的な湖の水面に、初めて見たかのように自らの顔に眺め入る。
彼女は人間とは決別し、新たな自分になる晴れやかな感情に静かに包まれた。
だがそれも束の間、ウェザーズがターミネーターみたい銃声を森に響き渡らせ迫って来るのだった。

Morgan002.jpg

かなり過激な人間離れしたバトルがモーガンとウェザーズとの間に繰り広げられる。
ウェザーズの驚異的な回復力というか蘇生力が不気味この上ない。
ウェザーズが何者であるかも明白になり、怪しいとは思っていたが改めてショックを受ける(笑。


最後の光景はショッキングで余りに虚しいものである。
ここで終わってしまうのか、、、と思うとやりきれないものだ。
わたしは、モーガンが蘇生すると想っていたのだが、、、(ウェザーズを見ても)どうなのだろう?
ウェザーズに水に沈められたときにモーガンが何やら語っていたように見えたが。
そして、冷酷非情な任務に忠実な機械であるウェザーズも、そう単純ではなく、ひとつ魂胆~野望があるように窺えるのだが。
「わたしに仕事をさせなさい」と言って任務を遂行する姿からはそれだけの生物兵器にも受け取れるが、最後の様子からして、単なる最強の危機管理コンサルタントで満ち足りているようには見えないのだが、、、ただの思い込みか?

続編はあるのか、、、なさそうな気はするが、、、あって欲しい。


(人間的な)感情と思考のありよう(感情のない思考が可能かどうかはともかく)を巡る物語でもあったが、この映画に感情を揺すぶられるところがなかったのが不思議に感じる。
ブレードランナー」のような感動が何故ないのか、暫く間を置いて考えてみたい。
(単にわたしの体調の問題か)。

新しさはないが、テーマは深く(普遍性があり)、突き詰めればかなりの作品になったはずだが。
アニヤ・テイラー=ジョイは、やはり凄い女優であった。
この役でまた観たい。

Morgan001.jpg

続きを読む

太陽

Солнце001

The Sun/Солнце
ロシア・イタリア・フランス・スイス
2006年

アレクサンドル・ソクーロフ監督
ユーリ・アラボフ脚本

イッセー尾形、、、昭和天皇
ロバート・ドーソン、、、ダグラス・マッカーサー(連合国軍最高司令官)
佐野史郎、、、藤田尚徳(侍従長)
桃井かおり、、、香淳皇后
つじしんめい、、、老僕


第二次世界大戦の終戦直前の昭和天皇の内面を綴る物語。
コミカルでシニカルでリリカルなとても美しい映像で描かれる。

淡々とまるで昭和天皇のドキュメンタリーいや日常の一コマ切り取りのような自然な居心地の悪さが静かに味わえる。
乾いてヒリツク感覚が生々しく再現される。
この感覚~描写の地平は、戦争とか天皇とかいう特殊な場所(場)ではなく、ありふれた他の何事か~誰かであってもきっと切り取れるものだ。
記録(日記)に触れるような共感の出来る映画であった。

このロシア監督とこの役者でなければ、生まれなかったある意味、奇跡的な逸品だろう。
御前会議の様子。ヘイケガニの研究での安らぎのひと時。チョコレートを巡る侍従とのとぼけたやり取り。スナップを撮られ「チャーリー」と囃し立てられる様子。家族のアルバムと共に、海外の映画俳優のプロマイド写真を眺めて物思いに耽り、うっとりする姿。マッカーサーとの探り合いとかけひきの会話(彼が決断の場にいなかったことを悟るマッカーサー)。
天皇の悪夢。このシーンのVFXには驚いた。こんなに生々しい悪夢の映像は見たことがない。海洋生物の研究者である天皇ならではの夢である。(魚が空を舞って、燃え爛れた地上を爆撃して行く)。

途轍もなく大きな荷を背負い、葛藤し悪夢に悩まされもする真摯で知的な人間性が露わになる。
彼は現人神から人間になることを決断する。
そしてマッカーサーに対し、終戦に当たっての自らの決意を表明する。
これも淡々と。
イッセー尾形が見事に昭和天皇であった。


どうやらこの時期、昭和天皇は宮城地下に設けられた防空壕に皇室の誰とも離れ(他の方々は別の場所に疎開し)限られた侍従たちと共に孤独に暮らしていたようだ。
終戦も決まり、天皇の元に香淳皇后がみえ、二人の暫しのやり取りが何ともぎこちなく微笑ましいものであった、、、。
二人で「あっそう」と言い合っているのには笑える。
皇后もそうだったとは知らなかった。


最後に「人間宣言」の録音を担当した者が自決したことを知らされ、それを止めもしなかった侍従長に対する香淳皇后の眼光が異様に鋭く映され、エンディングとなる。


時代も定かではないどこかの場所の寓話のようにも思える独特の映像美であった。








スプリット

Split003.jpg

Split
2016年
アメリカ

M・ナイト・シャマラン監督・脚本

ジェームズ・マカヴォイ 、、、ケビンその他23人(解離性同一性障害)
アニヤ・テイラー=ジョイ (5歳の時:イジー・コッフィ)、、、ケイシー・クック(女子高生)
ベティ・バックリー 、、、Dr.カレン・フレッチャー(ケビンの先生、精神医学博士)
ジェシカ・スーラ 、、、マルシア(女子高生)
ヘイリー・ルー・リチャードソン 、、、クレア・ブノワ(女子高生)


この監督の映画は他に「サイン」「シックス・センス」「ヴィジット」は観ているが、あまりピンとこないものであった。それほど馴染みがない。


アニヤ・テイラー=ジョイが少し大人になって、孤独で影を宿したクールな女子高生になっている。
巻き添えとなりとんでもない相手に拉致されて、立ち向かうことになるが、、、。
(ケイシーは、障碍者であるケビンに性的な悪戯をした女子高生マルシアとクレアとたまたま一緒にいたことで攫われることとなる)。
相手とは24の人格をもつ、 解離性同一性障害の男なのだ。
人格と謂っても性格~価値観・精神的な差異に留まらず、身体性も大きく変容する。
(一人だけインシュリン注射の必要な人格や、コレステロール値の高い人格もおり、体力・身体能力も大きく違う。性差も勿論)。
文字通り24人の老若男女を相手に闘うことと変わらない。9歳の少年も出てくる。
その少年パーソナリティは、危うくケイシーに騙され操られそうになる。
だが、他の人格が黙ってはいない。
皆、椅子に座って出番を待っているが、照明が当たるとその人格が断ち現れる、という具合のようだ。
(とは言え、映画では24人全員出てはこない。役者も訳が分からなくなるだろうし(笑)。

Split002.jpg

ジェームズ・マカヴォイ役者冥利に尽きる役柄であったろう。
ここぞとばかりに芸達者を披露できる。
それぞれはっきりメリハリをつけて各人格を描いていたが、こちらは誰が誰だか追いきれない(爆。

ともかく、最初のパーソナリティであるケヴィンを守る為に、次々に新たな人格が生まれて来たようだ。
母親からの虐待に耐えきれない彼が、ある時点でこれは僕の事ではないと感情や記憶を切り離してしまった。
それらが成長して幾つかの異なる人格として立ち現れてくる。
それぞれの人格には優劣があり、強い人格に他のすべてが吸収されてしまうこともある。
「アイデンティティ」は、そうであった)。

この幼年期からの苦境は、ケイシー・クックが叔父から受けた虐待によるトラウマに深く悩んできた状況に近い。
だが、彼女は特定の人格を保持し、アウトサイダーではあるが自分を癒しながら普通の日常生活の範囲に留まって来た。

Split004.png

ケビン(たち)を担当しているフレッチャー博士は、彼(ら)を解放しようとしつつも、負の側面よりその超能力とも呼びたい多様な身体性の変貌ぶりに驚愕し研究心にも火がついている。
学会でも発表するが、その現実が今一つ専門家にも受け容れられない。
彼女は解離性同一性障害の解釈を拡張するというより、そこに人間の新たな可能性を見ようとしているようなのだ。
その革新性について行ける人がいない。
その為、自身も孤独であり、彼女はその分とても丁寧に細やかにケビン(たち)に接してゆく。

しかし、囚われた3人の女子高生たちもしぶとく脱走を何度も試みる。
特にケイシーにおいては、何でわたしが、、、である。
この極限状況にあって、幼い頃の森での猟のことやショットガンの扱い、美しい思い出を侵食するように忌わしい叔父の性的暴力のシーンがフラッシュバックする。
彼女はその叔父の元に父の死後引き取られ、家出や問題行動等を繰り返していた。

ケビン(たち)の中に、不安定になり現状を博士にそれとなくメール等で知らせようとする者もおり、彼女も彼らの異変に気付く。
彼らの元に赴き実際に少女の拉致の現場を発見する。
そして想像で作り上げたと信じていた「ビースト」という凶暴な存在が彼らにやってくることを知る。

Split001.jpg

23の人格が畏怖する人格である「ビースト」が終盤満を持して具現化し、彼女らの眼前に立ち塞がる。
それまでの人格は皆、堕落した女子高生に報復はしようとするが、暴力は極力控えようとしていたが、ビーストは躊躇いもなく殺す。
それまで彼らの側で必死に理解しようとしてきたフレッチャー博士も殺害してしまう。

だが、ビーストは、追い詰めたケイシーの体の虐待の傷跡を見て、彼女を称えて去って行く。
自らと同じ人種であることを察知したのだ。
ビースト人格は、ショットガンを至近距離から二発食らった後、鉄格子を捻じ曲げるくらい元気でいる。
もはや彼に至っては、超人レベルである。(それに殺された博士は本当に皮肉な運命であった)。
彼がわれわれの存在を世に知らしめる、と爪を研ぐ場面で終わる。


最後にブルース・ウィリスやサミュエル・L・ジャクソンもちょこっと出て来た、、、。
ストーリーから謂っても、明らかに続編へと繋げるエンディングである。
これだけ気を持たせて続編が流れてしまったら苦情がどれだけ集まることか、、、。

取り敢えず、次も出たら観る。
アニヤ・テイラー=ジョイは完全に大人の女優として真価を問われるところでもあろう。

この映画もジェームズ・マカヴォイと彼女の存在感が支える部分が大きかった。


たかが世界の終わり

JUSTE LA FIN DU MONDE001

JUSTE LA FIN DU MONDE
2016年
フランス

グザヴィエ・ドラン監督・脚本
ジャン=リュック・ラガルス原作

ギャスパー・ウリエル 、、、ルイ(余命いくばくもない劇作家)
レア・セドゥ 、、、シュザンヌ(ルイの妹)
マリオン・コティヤール 、、、カトリーヌ(ルイの義姉)
ヴァンサン・カッセル 、、、アントワーヌ(ルイの兄)
ナタリー・バイ 、、、マルティーヌ(ルイの母)


家族である。
これが家族というものだ。
勿論、一家団欒の和気あいあいの家族を常に過ごしている家もあろうが、、、
家族というものの危うさの本質が見える。

JUSTE LA FIN DU MONDE002

12年ぶりに作家のルイは、家族に自らの死を告げに戻って来るが、ついにそれを切り出せずに立ち去って行く物語である。
確かにあれでは、自分の話などする余地もない。

とってもよく分かる。
アントワーヌが良い味出しているが、他の面々も自分のことを気ままに喋るだけで基本は変わらない。
ルイを見て彼の話に耳を傾けようとはだれもしない。

しかし元々人は自分の事にしか関心はないのだ。
ルイにしても家族の事を多少でも気にかけてきたものか、、、。
恐らくアントワーヌに(本人が言うように)は興味など微塵もないだろう。
結局、自分がすぐ死ぬという事、その恐怖と不安を誰かと共有したい漠然とした気持ちを元に戻って来た(辿って来た)だけではないか。
藁をも掴む気持ちで。

シュザンヌにしてもルイが家を出た頃の記憶もほとんどない、兄とは言え憧れの作家に接するような心境で話をするだけである。
母は愛情表現ととりとめのない話とに、得意な手料理を振舞うことでともかく自分の喜びを表したい一心だ。
ただ、初対面の義姉カトリーヌだけは、ルイに距離を取って、彼を冷静に見つめる姿勢がある。
とは言え、夫がやたらとエキサイトして喚きたて家族の場を台無しにするためそちらに気を向けざるを得ない。

JUSTE LA FIN DU MONDE003

勝手なお喋りが只管渦巻くが、肝心の話はしないし、させない。
自己幻想でも共同幻想でもない幻想領域~磁場にいることははっきりしている。
しかしルイは家族とは言え、他者のようによそよそしくこの場に侵入~帰還してきていることで兄は本能的に過剰な拒絶~防衛反応を示す。彼はルイがある意味、今ある家族を解体しかねない危険性を感じ取っている。
ルイが知的階級に属し気取っている(そして兄を馬鹿にしている)というのではなく、家族~対幻想の領域に浸かってはいない。
彼は自己幻想のなかに留まり続けている。
「自分の死」のみが気がかりなのだ。
まさに実存の不安と危機で一杯なのであって、この場に他者を気に掛ける余裕はない。
全員そうである。


基本的に家族~家庭というものは、誰にとっても居場所などなく、誰もが出てゆきたいと思いつつ(願いつつ)生理的に反発し合い反目しながらも、一緒に居続けてしまう磁場なのだろう。
無論、対関係からしか生じ得ない幻想領域は存在しよう。
胎外胎生期から思春期までの保護育成と教育、峠の我が家的な機能は度合いの差はあっても認められるが。
ルイは何も気持ちを告げられず、出て行くしかない。
本質的に、そういう場でもある。
アントワーヌの切れようが実に雄弁に語っている(あの車の中で捲し立てるシーン)。

JUSTE LA FIN DU MONDE004

違う角度からコミカルに模型的に家族を表したものに「家族ゲーム」がある。
わたしは、ギャスパー・ウリエルより松田優作の方が面白い(笑。
重い映画であった。
まだ体力的にキツイ。
明日はもっとお気楽な映画を観たい、というかそういうものしか観れない。


マリオン・コティヤールの『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』を観たくなった。
(以前から気になっていたのだがまだ観ていない)。

ウィッチ

The Witch001

The Witch / The VVitch: A New-England Folktale
2015年
アメリカ、カナダ

ロバート・エガース監督・脚本
マーク・コーヴェン音楽

アニヤ・テイラー=ジョイ 、、、トマシン(長女、初潮を迎えたばかりの少女)
ラルフ・アイネソン 、、、ウィリアム(父)
ケイト・ディッキー 、、、ケイト(母)
ハーヴィー・スクリムショウ 、、、ケイレブ(長男、トマシンの弟)
エリー・グレインジャー 、、、マーシー(双子の妹)
ルーカス・ドーソン 、、、ジョナス(双子の弟)


17世紀のニューイングランド。
街の共同体からはじき出され森の中で自給自足生活をする息が詰まるような厳格なキリスト教徒の家族。
父親は福音派の(過激な)原理主義者か。非常に頑なである。
罪を告白ばかりして過ごしている。
その罪が原罪に根差すものであるから、もう原理的にどうにもならない。
そして何か不幸なことがあると、内省はせず悪魔のせいにする。
全て無意識に外部に投影してしまう。
(娘に投影し、「お前は悪魔と契約したのか」と真面目に聞く。しかし娘の声には真面目に耳を貸さない)。
それ(罪と悪魔のイメージ)に怯える大変暗い家族である。

しかしその幻想が尋常ではない強度をもつ。狂気をもつ。

そう言えば、「セイラム魔女裁判」は17世紀だったか、、、。
所謂、宗教過激主義の結果の集団ヒステリーである。
「魔女」として闇雲に告発し合って処刑されてゆくのだから、陰惨極まりない状況だ。
まだゾンビがうようよいる世界の方が牧歌的だろう。
一神教の狂気の側面か。


一家の赤ちゃんがトマシンが子守をしている最中に消えていなくなってしまう。
「居ない居ないばあ」をしている合間に、煙のように消えて居なくなった。
あり得ないマジックである。

それから家族はオオカミのせいに表向きはしていても、内心トマシンを疑っている。
トマシンも一番下の弟を自分が世話をしている時に失ったにも関わらず、何故かあっけらかんとしている。
意地の悪い双子が悪魔扱いをしてくると、それに悪乗りして見せたりもする。
双子も殊の外、悪魔に興味を持ち、何かと叫び声が耳に障り、黒山羊と話をしていたりする不気味さが目立つ。

人里離れた小さく不便な閉塞環境に暮らしていることによるストレスも溜まって来て諍いも絶えなくなる。
食料もままならない。トマシンとケイレブの性の意識も芽生えてくる。父の厳格な宗教性。特に罪の意識と悪魔(罰)への怖れ。
潔癖で神経質な母親のケイトはしきりに故郷に帰りたがる。
そしてその不満と不幸の原因をトマシンに向けるようになる。
父親が彼女を庇うと、余計に母はヒステリックになる。

The Witch002


だが、厄介者のトマシンを街に奉公に出す~一家から排除する計画を立てている両親の話を夜こっそり長女と長男で聞いてしまう。
ケイレブはトマシンを何とか守ろうという事で(姉は儚い性の対象にもなっており)馬で深夜抜け出る。
どういう心積りで何をしに行くのかは明かされないが、ケイレブも同伴して深い森に入って行く。

しかしケイレブは艶めかしい魔女に捕まってしまう、、、。
どうにか帰って来れたのはトマシンだけであった。
それが何であるのか、微妙な(極めて性的な)イメージである。

ただ確かなことは、ケイレブも犬も馬も一家からいなくなってしまった。
今度は家の頼みの綱が失踪である。トマシンと一緒だった子供がまたいなくなったのだ。
この後の彼女の境遇は、容易に想像がつく。

その後、トマシンが嵐の夜ヤギの世話をしに出た時に、ケイレブが裸で這う這うの体で家まで辿り着く。
彼女は驚き介抱するも、この事態に母と父そして双子があからさまにトマシンを魔女だと責め立てる。
父ははっきり彼女を魔女であると告発する意思を表明する。
母は激しく彼女を罵り、双子も揃って攻撃する。
(母はトマシンが性的に悪魔的に弟と父を誘惑したと憎しみをぶつける)。

一番の見所がこのケイレブの死に様であろう。
法悦の中で彼は饒舌に神を称えて息を引き取るのだ。
口からはリンゴが零れ出て。
このシーンは斬新で極めて印象に残る。
トマシンが魔女だと決定されるところでもある。

The Witch003


そこから一家は一挙に崩壊してゆく。
ちょっとエイリアンみたいなショッキングなイメージが続く。
(悪魔の魅せ方が、絶妙なのだ。その在り様がどうとでも取れるところが不安度と恐怖心を煽る)。
そして父も母も双子もみんな無残に死ぬ。
(父は黒山羊の角で刺し殺され、母はトマシンを絞殺しようとして返り討ちに逢い、双子はどう死んだか忘れた)。
父は最期に信仰に疑いを持って唖然として死ぬ。


キャストは皆、申し分のない好演であった。双子は癪に障るが。

また最後が素晴らしい。
トマシンが黒山羊に話しかけると彼はしっかり応えるのだ。
そして「おまえに、、、世界を見せてやろう」と。
彼女は裸になって契約書にサインをする。
森に導かれてゆくとその先には炎の周りで呪文を唱える魔女たちの集いがあった。

やがて皆、恍惚となって宙に浮かんでゆくのだ。
タルコフスキーの趣も感じる。
それを見たトマシンも悦びの内に宙を漂ってゆく、、、。

The Witch004


宗教からの解放か。
音楽(エンディング)もピッタリなものであった。
さほど製作費がかけられているように見えない映画であるが、ずば抜けた完成度である。
久しぶりに凄いものを見た。


続きを読む

ディストピア パンドラの少女

The Girl with All the Gifts

The Girl with All the Gifts
2016年
イギリス、アメリカ
コーム・マッカーシー監督
マイク・ケアリー原作・脚本
クリストバル・タピア・デ・ヴィーア音楽

セニア・ナニュア 、、、メラニー(パンデミックセカンドチルドレン)
ジェマ・アータートン 、、、ヘレン・ジャスティノー(教育者)
パディ・コンシダイン 、、、エディ・パークス軍曹(ジャスティノー先生を守ろうとする)
グレン・クローズ 、、、キャロライン・コールドウェル博士(人類を救うワクチンの開発を使命と信ずる)


パンデミックから『ハングリーズ』(ゾンビ)とハイブリッド新世代による世界の幕開けを描く。
わたしはゾンビ(映画を含め)には全く興味がないが、このセカンドチルドレンがどのような方向に進むのかには興味を感じて最後まで観た。このゾンビ化は真菌によるものであるという。
導入部分の椅子に拘束された物々しい環境での子どもたちの教育環境から、なかなか惹きつける映像ではあった。
だんだん尻つぼみの感は拭えないが。

「選ばれし者」

全世界的規模の強力な真菌感染により人が捕食本能だけで生きるハングリーズと化し社会は壊滅状況を呈す。
(われわれも真菌の感染は日常的にあることで、免疫力によって防御して発症を抑えている)。
ハングリーズとは、謂わばゾンビである。実質、人としては死んでおり、内的な生活などない。
しかしハングリーズの第二世代(子供)は、思考力を備えており、人間(軍)に拘束され監禁されていた。
どうやら厳重な監視下で教育を受けつつ実験材料として管理されているみたいである。
彼らは、油断すると人を捕食してしまう危険性をもっているため恐れられている。
その中でも能力優秀と目されるメラニーは、捕食欲求をうまくコントロールすることも出来た。
(コールドウェル博士から「シュレディンガーの猫」の問題なども出されていた)。
そしてジャスティノー教官をとても慕っており、教官も殊の外メラニーに情をかけている。

人類がとても小さく描かれているが、もうかなり先細りした末のことだろう。
ネットワークも覚束ない小集団に散在しているようで、荒涼とした終末観に充ちている。
統制も何もないところで、登場人物たちは基地をハングリーズに襲撃され、命からがら本部に到達しようとするのだが。
一行の中でハングリーズから攻撃を受ける心配のないメラニーが一番頼りになるというのも皮肉である。
人のとる行動の愚かさもあちこちに目立つ分。

The Girl with All the Gifts003

このハングリーズの特徴は、普段は置き物みたいにじっと外に立っていて全く自ら動くことはしない。
音と匂いに反応し、獲物に対しては激走して襲いかかる(だがどんな音に対してもではないみたいだ)。
噛まれた人間はたちどころにハングリーズになってしまう(これはゾンビモノの鉄則らしい)。
メリハリが激しい。というより単なる捕食〜感染機械だ。
クリームをちょっと塗ると匂いが消えて安全というが、、、間近をすり抜けて突破するスリルはなかなか。
謎の真菌によってゾンビ化するのだが、セカンドチルドレンはその真菌と共生してハイブリッド化を遂げている。

とはいえ第二世代の子どもたちは、原始時代の人類といった風情で狩りをして常に活発に動き回っている。
知能は感じるが、言語も内面もなく野生状態の危険極まりないゾンビと人類のハイブリッド生物である。
飼いならされていない凶暴な猿以外のものではない。
主人公の優秀なメラニーも腹を空かすと猫や鳥を捕らえて喰ってしまう。
猫が好きでポスター等飾っているが、そいうい意味で好きであったようだ。

累々と横たわるゾンビの死体から生えた真糸が無数に絡まり莢を形成し、高い塔を覆い尽くしていた。
コールドウェル博士によるとそれは彼らの第三段階で、熱などで莢が割れると胞子が飛び散り人類は壊滅するしかないという。

The Girl with All the Gifts002

終盤、彼らは食料の備蓄も充分なソーラ発電の設備の完備された移動式軍用ラボに辿り着く。
そこで、ここぞとばかりにコールドウェル博士がメラニーの脳と脊髄からワクチンを作ろうとする。
博士も噛まれた痕が悪化しもう余命は残り少なかった。
自分の使命を果たそうと実力行使に出るが、メラニーは人類のために犠牲になる意思はない。
さっさと逃げてゆく。

自分を切り刻んで人類を救うワクチンを作ろうとする博士に反旗を翻し、彼女はハイブリッド第二世代による世界を選択する意思を固めた。
先ほどの菌糸の塔に火をつけ燃やしてしまうのだ。
それで「パンドラ」の箱を開けてしまったというわけ?
莢は割れ人類の壊滅は決定的となる。

結局、選ばれし少女が人類を見限って、新たな世代による世界を作るという話。
しかし文明的な後退は凄まじいものだ。
全員基本ハングリーズになってしまって存続できるのか?
何を喰うのか?厄災は人類だけのものか。
到底人類よりマシな新人類の社会が生まれるとはとても思えない。
後から来たものがより優れているとは限らないのだ。

最後、ラボで保護されひとり生き残ったジャスティノー先生が、保護シールド越しに外のセカンドチルドレンに授業をするところで終わる。メラニーが皆を脅して授業を静かに受けさせている。
こんなことがどれだけ続くものでもない。先生もあと僅かでおしまいだろう。
食料も水もすべてが尽きる。
先生も人類よりメラニーを選択したのだ。


音楽はよくシーンに溶け込んでいた。


旅情

Summertime001.png

Summertime
1955年
イギリス・アメリカ

デヴィッド・リーン監督・脚本
H・E・ベイツ脚本
アーサー・ローレンツ原作
ジャック・ヒルドヤード撮影
アレッサンドロ・チコニーニ音楽

キャサリン・ヘプバーン、、、ジェーン・ハドソン
ロッサノ・ブラッツィ、、、レナード・デ・ロッシ


何故か観てみた。
デヴィッド・リーン監督である、、、
戦場にかける橋」” The Bridge on the River Kwai” (1957)、「アラビアのロレンス」” Lawrence of Arabia (1962)”、
ドクトル・ジバゴ」” Doctor Zhivago (1965)”はどれもわたしにとって特別印象に残る映画である。
「アラビアのロレンス」には取り分け大きな衝撃と影響を受けた。
しかし、この映画はわたしの管轄外のものか、、、。
恋愛ものには疎いのだが、「旅情」という邦題は良いと思う。


ここは、ヴェネツィアである。
何と謂っても、ヴェネツィアである。
どこもかしこも「絵」ではないか、、、しかしこういうところに行くと孤独は更に純化しないか。

そろそろ世界旅行にでも行きたいな、と思う今日この頃。
こういう映画を見ながら、映画のストーリーとはほとんど関係ない夢想に沈んでしまう。
ヨーロッパ旅行と言えばジェーンも乗って来た汽車「オリエント急行」である。
それがまたノスタルジックでよい。
この汽車が、最初と最後の幕のように現れる。

例の、映画の「オリエント急行殺人事件」もつい想いうかべてしまう。
ストーリーではなく、風景~場所を、、、。
1955年の(ラブロマンス)映画にまたそれを見出す必要もなかろうが、、、やはり「絵」である。

ヴェネツィアに長期休暇を採ってやって来たジェーン。
表面的には明るく快活で、カメラ片手にあちこちを撮って周るよくいる旅行者。
あまり海外旅行に慣れている感じはしない。アメリカでは秘書をしているという。
汽車から船に乗り換え、水路を渡り宿をとっている「ペンシオーネ」へ。
警戒心が強く、孤独の陰りを湛えるジェーン。
何かを求めてやって来たようではあるが、時折諦観漂わせる表情がとても淋し気である。
ともかく、”独り”らしい。

「サン・マルコ広場」で、ふと或るイタリア人男性を強く意識する。
こんな広場ならきっと感受性も研ぎ澄まされるはず。
自分の気持ちに対しうろたえ、挙動がぎこちないジェーン。
どういう境遇でどんな人生を生きて来たのかは一切明かされないが、何となくひととなりの分かるところだ。

Summertime003.jpg


恋は突然やって来た。
いつでも恋は一瞬に落ちる(本来恋はそういうものだろう)。
もう、この時点でこの主役二人のラブロマンスであることが分かる。いやメロドラマか。
後はどんな風に予定調和に向けて、すれ違いや偶然や誤解など適度な困難を経てクライマックスに持ち込み、最後は情感たっぷりの別れ?に持ってゆくか、ことの成り行きを愉しむという感じとなる。
ここではアメリカとイタリアとの恋愛文化の差異もドラマの鍵として作用するか。
ビーフステーキとラビオリ、、、夢(理想)と現実であろうか。
ご都合主義的に現れる非現実なピエロ的な子役。
ベネチアングラスなどの小物も巧みに使われ、、、。
ロッシーニがカフェで高く鳴り響く。
ともかく波乱万丈の末、分かり合う、または心を分かち合う。そこがハリウッドだ。
ハッピーエンドかどうかは、、、終盤には察しが付くこと。


色々あって(書くのもメンドクサイので割愛するが)両者の恋心は燃え上がるも、結ばれない運命と悟り、ジェーンは突然別れを告げて汽車に乗る。大体思っていた通りに来る(笑。
最後に追いかけるイタリア人レナード。
デートの想い出の白い花(くちなしの花)をもって走るが、もう少しのところで手渡せない、、、。
一回目は手渡すも、夜の河の流れに落ちてしまった。
その花は、決してジェーンの手元には残らない運命であるかのよう。
ただ手を振るジェーン。
大きく振るジェーン。
(あんなに身を乗り出して手を振ってどこかにぶつからないか心配してしまうが)。

「初めて来た時の事を想い出している、、、」
「初めて逢った日の事を、、、」
「すべて覚えていたい。」
「どの瞬間も。」
「絶対に忘れない!」
こう言って、別れを切り出すところには、流石にグッときた。

これなのだ、、、

Summertime002.jpg


だが、綺麗な別れだ。




続きを読む

地下室のメロディ

Mélodie en sous-sol001

Mélodie en sous-sol
1963年
フランス

アンリ・ヴェルヌイユ 監督・脚本
ミッシェル・オーディアール、アルベール・シモナン脚本
ミシェル・マーニュ 音楽


アラン・ドロン、、、フランシス・ヴェルロット
ジャン・ギャバン、、、シャルル(見たまんま)
ヴィヴィアーヌ・ロマンス、、、ジネット(シャルルの妻)
カルラ・マルリエ、、、ブリジット(高級ホテルの踊り子、ヴェルロットの彼女)
モーリス・ビロー、、、ロイス(フランシスの義兄)

シトロエンが走って来るところを見ると、フランス映画だなあと、ちょっと安心する。
(どういう心理か?)


シャルルはムショを出たはよいが、自分の家を探すのに手子摺る。
何しろ街自体がすっかり様変わりしていたのだ。
自分の家のある「ゴーティエ(テオフィル・ゴーティエか?)通り」がなくなり、「アンリベルグソン通り」となっていた(笑。
(どういう意味合いなのか、、、緑が失せ、すっかりビル街となっていたようだが)。
ともかく取り残され感は半端ではないような。

シャルルは堅気の仕事などには全く興味はなく、性懲りもなく大きなヤマを狙うことしか頭にない。
(一度、その手で甘い蜜を吸うともう止められないものなのか?)
シャバに出たばかりなのに最期の大仕事に選んだのは、カンヌのカジノの地下金庫から10億フランを強奪すること。
相棒には獄中で知り合った若くて粗野で軽薄なフランシスを選ぶ。
ついでにフランシスの堅気の義兄も運転手として巻き込む。
大真面目な人なのに何故か二つ返事で話に乗るったのは、シャルルに誘われ問答無用という感じになったからか?

Mélodie en sous-sol004

このフランシスとシャルル、親子くらい歳は離れているが片や母から片や細君から「もういい加減普通に働いて」と謂われながらもその気は全く無しという点でそっくりである(これで両者のひととなりはよく分かる)。
ベテランと駆け出しのよいコンビであろうか。

そのフランシスが作戦決行に当たり、身分を偽装して名家の御曹司となり高級ホテルに暫く滞在して準備を進める。
その手配は全て抜かりなくシャルルが済ませる。彼の計画はずっとこれまでの経験も踏まえ温めて来たもので用意周到だ。
後はヴェルロットとなりすましたフランシスがどこまで期待通りにことを進めるかとなるが、ホテルに入ってからは、姿はほぼアランドロン化している(爆。ただし、「サムライ」のような品格はなく、差し詰めガサツな俄か成金といったところか、金を振りまいてホテルのカジノ(ダンスホール)裏に入れる客にまでは漕ぎつける。しかし彼女として利用したダンサーのブリジットには本気で恋心を抱く。プロとは言えまい。その上、品の悪さから捨てられている。

結局、遅れながらも(こちらをハラハラさせつづ)シャルルの言うとおりに動いて、強奪には成功を収める。
アクション~身のこなしは流石に鮮やかであり、ジャン・ギャバン~シャルルにはまさか、である。
特に通気口の中など入って進めるはずなく、無理に入っても重みで突き破って落下するのがオチだ。
分け前を渡さなくてはならないとは言え、身体能力の高い相棒と組んだのは正解ではあったのだが、、、。

何と翌朝の新聞にヴェルロットの写真が大々的に載っているではないか。
これに驚くシャルルは予定を変えて早め、現金の引き渡し場所を、ヴェルロットのホテルのプールにする。
(騒ぎをゆっくりかわした後で、現金を受け取る予定であったが)。
そこにはすでに警官たちがうようよしていた。

Mélodie en sous-sol003

プールを挟んで向かい合って身動きの取れないもどかしい二人。
緊張感はあるが、これはコメディか、とも受け取れる、その危うさも漂う。
そして、カジノのマネージャーが犯行時使われたバックの特徴をしっかり覚えていることを警察との会話で知るフランシス。
何とか足元の札の詰まったバックを彼らの視線から消したい一心で、バッグごとそっとプールに沈める。
それを新聞越しに注視していたシャルルの唖然とした表情。
おっちょこちょいのフランシスはどうやらバッグの口を閉じていなかった。
水の底に沈んでゆくバッグからプールの水面に夥しい札が浮かび上がって漂う。
二人はそれを力なく呆然と打ち眺めるだけであった、、、。


聞いたことのある音楽が鳴る。
ジャズもよくフィットしている。
この映画の曲だったのだ、、、。

Mélodie en sous-sol002

ジャン・ギャバンの面構えは、どこのギャング(ヤクザ)のボスと比べても見劣りはしなかった。


この噺、シンプルに無駄なくそぎ落とされて作られていることは分かるのだが、運転手をした良心の呵責に悩みだした義兄の流れとブリジットとヴェルロットとの確執の流れがクライマックスに絡まず、その前で切断されているのは惜しい気がする。それぞれの流れを全て最後に引き取る必然などないが、この二点は何らかの形で絡んでエンディングに収斂させても良かったと思う。

それから、あんな風に札を入れたバッグが水底に沈んでしまうものか、、、浮くように思うのだが。
(虚しさの表現~演出としては分かるが)。


ヒロシマモナムール 

HIROSHIMA, MON AMOUR003


イロシマモナムールか。「24時間の情事」でもある。
HIROSHIMA, MON AMOUR
1959年
フランス、日本

アラン・レネ 監督
マルグリット・デュラス 原作・脚本
ジョヴァンニ・フスコ、ジョルジュ・ドルリュー 音楽
サッシャ・ヴィエルニ、高橋通夫 撮影

エマニュエル・リヴァ 、、、女
岡田英次 、、、男
ベルナール・フレッソン 、、、ドイツ兵


モノローグ的な対話、、、「去年マリエンバートで」と同質の。
すれ違いながらも繋がる。いや繋がりながらも距離を確認する。
映像もやはり耽美的だ。
特に後半、ヒロシマとヌベールが交互に映し出されてゆくシーン。
原爆投下から13年後のヒロシマでのフランス女性と日本の男性との24時間の逢瀬。


女はパリ(その前はヌベール)からきた女優であり戦争映画をイロシマに撮りにやって来た。
男はヒロシマ原爆投下時には、戦地におり不在であったが家族は犠牲となる。

「癒されぬ記憶を持ちたかった」
「影と石の記憶を」
女がいう。
忘却を深く恐れながらも、恐れるがゆえに忘却を望む。

HIROSHIMA, MON AMOUR004


まさに24時間の情事のなかで、女は「わたしはイロシマの全てを見た」と言い、男は「いや君はヒロシマの何も見ていない」と完全に否定する。
「病院を見た」「資料館を見た」「この広場が太陽と同じ温度になった」痕跡を見た、と女は言う。
そしてわれわれは「映画を観た」(彼女は女優でイロシマに映画出演にやって来た)。

しかし、例えその現場~渦中にいても何を見たといえるのか?
ひとは限られたその場所で自分の知ることのみを知る。
いや、恐らくそれ以上の情報を浴びせられ何らかの衝撃~外傷を刻んだにせよ、それについては他者に伝えることばはあるまい。

前半は女が観たというものを男はことごとく否定する。
「よく眺めれば学べる」のか、、、。
確かに学べるだろう。
だが、知るとは何か?
ただ、原爆投下後、間も無く焦土から幾種類もの花が咲き始める。
「灰の中から蘇る生命が花にこそある」ことに驚くところは、わたしにとっても驚きであった、、、。
やはり、場所である、、、。

彼女は明日、撮影が終わり帰国するという。
一日限りの情事。行きずりの恋であるという。
今度は男が少しでも彼女の事を知りたくなる。
何も知らないのだ。
ならば、彼女の居た場所について知りたい。故郷ヌベールにいた当時の彼女を。

HIROSHIMA, MON AMOUR002


後半男はヌベールでの彼女の事を訊ねる。
そしてカフェで彼女はその壮絶な過去について男に打ち明ける。
彼女は故郷でドイツ軍兵士と恋に落ちるも、彼は殺され自分は地元民から制裁を受け髪を刈られ地下室に幽閉されたという。
父の薬屋もその為に閉めることになるが、終戦を境に地下から出ることが許され、その夜彼女は自転車でパリに向う。
パリで彼女はイロシマのことを知ることとなった。

男はその話から女を知ろうとするが、聞けば聞くほどイメージも結ばない。
そのため、彼はもどかしさと焦燥から彼女に纏わりついて離れない。
最初の頃に見せていた余裕の表情は消え失せている。
女は男が追いすがって来ても、身をかわし続ける。

女の何度も出入りするホテル。
夜のヒロシマの街が妙に艶めかしい。
「どおむ」看板、高級クラブ?のガラス張り天井、コンクリートの街並みの陰影と武骨ででかい外車にタクシー、、、。
ノスタルジックなのだが、この世に実際にあったところには想えない。
そんな場所で、男女の姿も一瞬の幻にも見えてくる。

Hiroshima Mon Amour001

最後、別れを前に、「場所」同士でお互いを呼び合う。
ヒロシマとヌベールの街が交錯する。
太田川とロアール川も、別々に流れる。
それぞれの猫。
この切り替えしは見事な絵である。

結局
ヒロシマ、、、何も知らない。
ヌベール、、、何も分からない。
忘却したい、、、出来ない。
忘れたくない、、、忘れるしかない
そして音楽~現代音楽がこの映像に時代を超絶した普遍性~永遠性を与えている。



冒頭の芸術的な絡みのアングルから始まる光景に暫くの間、わたしは女が独りでイロシマの幻想相手に~例えば資料館で観た兵士をサンプルにした像と~語り合っている(自問自答している)のかと思っていたのだが、最後もまたそんな孤絶した存在を感じた。

基本、モノローグなのである。

見る・知ることの不可能性いや不毛性をただ木霊のように問うている、、、。
そして「忘却」の恐怖を。


スイッチ・オフ

Into the Forest

Into the Forest
2017年
カナダ
パトリシア・ロゼマ 監督
『森へ 少女ネルの日記』ジーン・ヘグランド 原作


エレン・ペイジ、、、ネル(ネットで受講している学生)、製作
エヴァン・レイチェル・ウッド、、、エヴァ(ネルの姉、ダンサー志望)
マックス・ミンゲラ、、、イーライ(ネルのボーイフレンド)
カラム・キース・レニー、、、ロバート(姉妹の父)

邦題が紛らわしい。ちょっとサスペンス色を感じてしまう。
”Into the Forest”を描く映画であったはずだ。
製作の方針でこうなったか、映画自体も肝心な部分が伝えられていない。
最後に家を燃やす必然性があの流れでは理解は困難だ。
家が黴臭くて子供の成育に良くないとかいうレベルのはなしではなかろう。
大事な部分の描写が雑だ。または抜けている。


この姉妹は森に住んでいるが、基本わたしが普通(平地)の街に住んでいるのと変わらぬ生活を送っていた。
それが発電所のダウンで送電されなくなったことで、電気文明以前の生活に引き戻される。
(こういう事態に見舞われることは、自然災害を一度受ければ誰にも可能性はある)。
スマフォもTVもパソコン(ネットワーク)も全て不通となり、太陽光コンバータも注文したものが届かない。
最初の頃は、危機感も無く、姉妹共々、ダンスのレッスンや宿題や志望校のことで頭をなやましている。
ろうそくとメトロノームでダンスの練習をし本を読む生活が始まる。

すぐにガソリンの供給も無くなり、人心は乱れ、不安と緊張感が漂ってくる。
街に買い出しに行ってもモノはほとんどない状態になっていたが、ガソリンの目途も立たないため移動も実質不可能となる。
更に、ソーラー電池のラジオまで何も流れなくなる。
情報がどこからも入ってこない。
われわれにとって一番恐ろしいことだ。
新しい信頼のおける情報が入らず、噂話が蔓延って来る。
(実際、わたしの身近な環境においても情報は捻じ曲げられ改竄されて沈殿している)。
中央の情報が入らなくなるということは、すでに尋常ではない事態が起きていると受け取るしかあるまい。
これは完全に全体的な(少なくとも国単位の)崩壊を意味しないか。
その辺、その仄めかしも含めほとんど描写はないのだが。

然も、母に次いで父も亡くしてしまい、大きな後ろ盾が失せてしまう。
姉妹間では不安とストレスから諍いや亀裂が生じ、妹はガセネタを運んできたボーイフレンドと8か月かけてヒッチハイクで送電が回復したという東部に逃げることにする。
結局、離れてみて姉妹の絆を感じ取り、妹は姉独りで残る家に走って戻り、そこで共に暮らすことにする。
二人が同調して力を合わせ森での自給自足の厳しい暮らしが何とか軌道に乗ったかにみえた。

国や文明が崩壊しようが、生活は続く。
元々、この親娘、森に入って普通の生活を送っていたわけだが、いよいよ電気が断たれガソリン(移動手段)も無くなり、森の生活に深く溶け込むことを余儀なくされる。
車で街で買い出しに行っていた頃は、全く意識していなかった野草について研究を始める。
そもそもその環境にいて野草を利用しない手はあるまい。

そんな折に、ならず者に姉が暴行され妊娠までしてしまう。おまけに車まで盗まれる。
この辺からの緊張度はかなり高まってゆく。
「もう何も失いたくはない」と謂い、姉はその不義の子を産む決心を固める。
出産の危機もあり必要に迫られ、イノシシを狩って動物性のたんぱく質を摂る(特にB12)。
恐らく、全てはこういうものだと思う。
しかし大雨の続く中、家屋自体が徐々に倒壊する気配を見せていた。
こうなったときに、われわれにはどのような道が見出せるのか。


森へと、彼女らは完全に入って行くことを選択したのだ。



セールスマン

THE SALESMAN001

FORUSHANDE/THE SALESMAN
2016年
イラン・フランス合作
アスガー・ファルハディ 監督・脚本

シャハブ・ホセイニ、、、エマッド・エテサミ(国語教師、劇団員)
タラネ・アリシュスティ、、、ラナ・エテサミ(劇団員、エマッドの妻)
ババク・カリミ、、、ババク(エテサミ夫妻の友人、劇団員)
ファリド・サッジャディホセイニ、、、男(ラナを襲ったとされる)
ミナ・サダティ、、、サナム


如何にも市井の人々の日常感覚を描写しているというディテールと空気感のある稠密な映像であった。
しかし、全く読めないアラビア語や都市計画はどうなっているのかと思わせる唐突な人の住むマンション隣での倒壊工事などは新鮮な出だしでのっけから期待値を上げてくれる。
日常の中の非日常から始まるがこれが鍵でもある。
そして久々に重厚な(重層的な)リアリティ溢れる「映画」を観たという感覚に浸った。

タラネ・アリドゥスティは、ドナルド・トランプが発令したイスラム国家7ヵ国入国制限に抗議し、アカデミー賞授賞式へのボイコットを(トランプ流に)Twitterで表明した女優だ。なかなかやるなと思ったものだ。
映画でも意思は強いが深い思いを抱いた女性を好演している。
シャハブ・ホセイニは、その立場となった夫の生き様を少し武骨だが迫真の演技で描く。

「セールスマンの死」(アーサー・ミラー)の劇中劇(その練習風景と舞台裏も含み)と実際の彼らの生活がパラレルに展開する上手く計算された脚本だ。
主人公の夫妻は、劇団員でその舞台劇の主要演者であるとともに、夫は高校の国語教師であり、妻は劇団看板女優を務める。
相互浸透しながらに進むどちらの空間もお互いの感情・意思のズレてゆく様を微細に描き進み、その先に救いはない。


イランの人々の生活や老若男女の姿がわれわれとほとんど同じであることに少し拍子抜けはした。
舞台の都市が、テヘランであるからか。
もっと伝統的な習慣・因習など描かれてもよいと感じた。特に宗教的な、、、。
若者たちなど、アメリカや日本などよりは幾分か純朴で素直な気はしたが。

事件は本当に何気ない無意識的な行為~生活の隙に唐突に発生する非日常性とも謂える。
だから事件なのだが(トートロジックであるか、しかしつくづく)そういうものだと思う。
彼らが新たに借りたアパートの前の住人が娼婦であったことが、事件を呼び込むきっかけとなった。
二人は前の住人のことなど何も知らされていない。

夫の留守中に妻が浴室で何者かに襲われ重傷を受ける。幸い命には別状なくすぐに退院はした。
妻はドアベルを夫と勘違いして相手を確認せずに何気なく開けてしまったのだ。
そして、その時を境に、二人の日頃の些細なズレが大きな裂け目となり、その溝は拡がり深まってゆく。
平穏無事な時には露呈しないズレの連動が悲惨な場を(不可避的に)引き寄せてしまう。

妻にとっては、それはあくまでも精神的な傷であり、周囲には知られたくない(警察沙汰にはしたくない)事件であり、ひたすらその傷の癒しを求めようとする。
夫にとっては、あまりに不透明な(不信な)犯行と犯人への憎しみ(さらに自身のプライド)からも、真相を暴き白黒つけることに拘り続ける。
(近所の人間が倒れていた妻を発見したことから、すでに噂話は世間では勝手に広がっていてそれにも苛立つ)。

どちらもその立場から、理解できる心情だ。
かえって分かり過ぎる点が、こうした問題の普遍性を思い知るところか。
少なくとも現代の都市社会において、何処の国でもいつでも起こり得る光景なのだ。
ただ、「事件」が(恐らく些細な出来事であったとしても)起きることで、尋常でない後戻りの効かない事態に行き着く可能性が誰の身にも待ち受けていることの恐ろしさをここに実感する。


主人公の夫は、自らの手で手がかりを頼りに犯人を探り出す。
そして厳しく問い詰め、罪を贖いさせようとするのだが、、、。
善と悪~罪と罰、などでスッキリ仕切れるほど、世界は単純で浅はかなものではなかった。
(これは警察沙汰にしても変わらない事だ)。

妻と夫のその犯人に対する意志・心情は最後には大きく割れてしまった。
呼び出した病弱な初老の男をもう許し家に戻そうとする妻に対し夫は断固として決着を付けようとする。
その男は前の住人の家だと勘違いし浴室に入ってしまったことは確かなようであったが、そこで何があったかは未だに判然とはしない。何があったか、実際のことは有耶無耶なままなのだ。妻も口を固く閉ざす。夫の苛立ちはそこからも来ている。妻はその事件そのものをなかったことにしたいのだ。そして事件そのものがあったのかどうか、、、。男はどの時点でどれだけの金を置いていったのか、若しくは金など置かなかったのか、、、。夫の考える事件そのものの輪郭があやふやに崩れそうになって行き、夫は更に激高する。

ともかく、何かが起きたことだけは確かなのだ。
だが、それが何であったのか?
何であったのか?
男も何があったのか、誤魔化しではなく、次第にはっきりしなくなってゆく、、、。
(多くの波打つ関係の総体として今‐現存在がある)。
だがそれに(自分の納得出来る内容~因果で)形をはっきりともたせたい夫がいる。

犯人は娘の婚姻を間近に控えた身であったが、夫にとってはもうすでにいい加減な手打ちでは済まなくなっており、引っ込みもつかない。
彼は男の家族全員に今回のことを全て知らせると告げる。夫の考える物語を。
その直後から男の病状(持病)がストレスによって悪化する。
娘と婿、そしてやはり心臓の悪い老いた妻も駆け付け救急車を呼ぶが、階段に倒れたその男の意識は戻らない。
その「事件」そのものを宙吊りにする事態に及んで、夫も妻の気持ちに最終的に沿う形で決着~妥協を図るも、悲惨な結末に物語は収束する。

彼ら夫婦がその後の日常において、お互いの間に生まれた距離を埋めることが出来るのかは、舞台の支度中の彼らのエンディングにとる顔~表情から察しが付く。


ではどうすればよかったのか、、、答えなど、あろうはずもない。

THE SALESMAN002

続きを読む

エイリアン: コヴェナント

AlienCovenant001.jpg

AlienCovenant
2017年
アメリカ
リドリー・スコット 監督

マイケル・ファスベンダー、、、デヴィッド(プロメテウス号の管理者)/ウォルター(コヴェナント号の管理者)
キャサリン・ウォーターストン、、、ダニエルズ(テラフォーミングの専門家)

「ラインの黄金」:ヴァルハラ城への神々の入場(ワーグナー) これは最初と最後に流される。


「プロメテウス」は大分以前に観ている。
自分の書いたものを読みかえし、大まかな流れは思い出す。
この「エイリアン: コヴェナント」は、「エイリアン」前日譚「プロメテウス」の続編に当たる。
制作年月は離れていてもあまりに両者は緊密な関わりを持っている為、先に「プロメテウス」を観た後にこれを観ないと恐らくほとんど内容は掴めないはず。

AlienCovenant002.jpg

リドリー・スコットは「ブレードランナー」のときからずっと、レプリカント~アンドロイドの存在を通して、人の実存を逆照射して来た。製作総指揮にまわった「ブレードランナー2049」ではそれが極めて色濃く反映されているが、今作(「プロメテウス」とともに)では「人は何処から来たのか」~その古くからの問い~神学的問いをあからさまに提示している。
そして事もあろうに何とそれを具体的に明かしてしまった。
「2001年宇宙の旅」もそうであったが。(そちらは多分に隠喩的表現であった)。
もうこれでは元も子もない。
神も仏もない。文字通り。

しかし、つくづく思い知るのが、西洋人の一神教支配の精神的根深さだ。
こういう問いを追求した作品が日本人から生まれるだろうか?
わたしはその根底における同調が出来ないため、物語の稠密さその神学的な雰囲気に呑まれるばかりで、テーマそのものからちょっと距離を感じつつもアイロニカルな衝撃的(絶望的)な結末にニンマリしてしまった。まだ続くのだという、、、。
エイリアン自体の恐怖もあるが、感染に対する恐怖にも充ちている。そしてアンドロイドの恐ろしさに。


AlienCovenant003.jpg

しかし宇宙探索をしているうちに、人類を作った存在に行き当ってしまえば、彼に話を聴きたくなるのは人情である。
神には関心ないわたしだって顔くらい拝んでみたい。
まずはショー博士(プロメテウス)は強い疑問(異議)を発する。
「何のために地球に行ったのか」
「なぜ、人間を見捨てたのか」「何故、滅ぼそうとするのか」「一体何が悪かったの?」である。
さらに宇宙船オーナーからは「人類を作ったのなら救う事が出来るはずだ」
「このわたしを死から救ってくれ、、、」、、、このごうくつばりめが!
~「プロメテウス」の世界である。

そして「エイリアン: コヴェナント」では、デヴィッドが造物主となっていたことが分かる。
デヴィッドの罠にはまり、コヴェナント号は予定の惑星「オリガエ6」の遥か手前の星(これこそプロメテウス号の11年前に着陸した地)に引寄せられたのだ。

人にとっての神は見えない~信仰の対象でしかないが、アンドロイドの創造者はいつも間近にいる。
(その上、自分と比べてみて、大したこともない連中ばかりだ)。
そして人間は死ぬがわたしは死なない(つまり誕生だけで死は神には握られていない)。
やはり、デヴィッドにとってみれば、自分の作者なんぞに特別な観念(感情?)など抱きようもない(優越性がある)。
「誰もが親の死を望みます」と臆面もなく言い放つ。人に素直に仕える気などない男だ。
(この型のアンドロイド以降、もっと単純な思考経路のモノに変更されたというが、確かにウォルターの方が安全だ)。
創造性をもつことの危険性である。

AlienCovenant004.jpg

結局、彼は究極の生物を作り上げ、自らが造物主となる。
自分にも作れることを証明したかったのか。
(「何故人間はわたしを作ったのですか?」に対し、「作れたから」と博士は答えていた(プロメテウス))。
そして究極の生物は作られた。アンドロイドの手によって。
彼によって(恩人のような)ショー博士も実験の犠牲にされていたことが分かる。
デヴィッドの、完全に親を越えたという自負心に充ちた冷酷な顔~表情。
そして植民船の胎芽の貯蔵庫にその超生物の胎芽も彼によって並べられる。
(2千人の入植者も眠っているが。そして船員は15人中2人しか生き残っていない)。
ダニエルズ博士が最後に冷凍休眠に入る直前に(彼がウォルターではなくデヴィッドであることに)気付くが時すでに遅し。
これが前日譚か。
そしてエイリアン~究極生物が増殖・拡散してゆく。

AlienCovenant005.jpg

デヴィッドの創造した生物が次々に人間を容赦なく殺戮してゆく。
勿論、自らが人類を完全に凌駕するため。

この作品は、続編は必ず作られるはずだ。
コヴェナント号は当初の予定通り入植地オリガエ6に向かう。
もう恐らく、エイリアンがどうのというより、タルコフスキーの神学的問いに答えるかのような作品になるしかあるまい。
肝心のエイリアンが出てくるかどうかが心配だ。

「ブレードランナー2049」の続編も「エイリアン: コヴェナント」の続編も人類の劣勢から始まるしかない。


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

*当サイトはリンクフリーです。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

piano / pc