カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

幻想の対象化へ

Anton Lehmden001

実際の作業には時間がかかるが、ゆっくり着実に前のめりに進めてゆきたい。
自動的に増殖するイメージの消費と相克、そのさなかでの現実の虚構化。
これはあらゆる場において留まることを知らない。

幻想=表象として思考する反復の限界と、その鏡像関係の閉塞に関して。
その欲望を投影する自明性を不透明にすること。
自己疎外のメカニズムを晒す。

無意識的で根源的な思考及び想像力の場にゾンデを垂らす。
様々な幻想の相互浸透する波間の~両義性の中へと。
だが実際、そこが生きた現実~時間ではあるのだ。

幻想を意図的・創造的に描く画家たちは、極めてそれに自覚的だ。
幻想を対象化するための強靭であり極めて脆弱な身体性に全てを委ねる。
その目覚めの時の喪失感から遡り、無時間の世界の定着を図る仕草は、、、

余りに完璧で理路整然とした果敢無い夢の断章の捕獲にも想える。



マルセル・デュシャン

MarcelDuchamp001.jpg

画家、彫刻家、チェスプレイヤーである。
絵画(油絵)を1912年以降、放棄してからは、チェスに没頭していたようだ。
ダダの芸術家たちとの接触、一時はその中心的位置(ニューヨーク・ダダ)にいたが、シュールレアリストとのコラボも経てゆく彼は、そのいずれのグループにも所属はしなかった。常に違和を唱えていた。
何らかの組織に帰属することは徹底して拒んでいる。
そして彼はヨーロッパ(フランス)に見切りをつけアメリカに飛んでいる。

但し、ダダイストであるフランシス・ピカビアには多大な影響を受けたようだ。
『人間機械論』のピカビアである。(わたしは彼の「機械の時期」が大好きだ)。
ピカビアの追求した機械の美しさはデュシャンに色濃く受け継がれていると見られる。
『チョコレート磨砕器』、『回転ガラス板』、『地上稀なる絵画』等に特に色濃く反映されていると思う。
勿論、『大ガラス』を忘れてはならない、、、。

MarcelDuchamp005.jpg

『階段を下りる裸体』(No.2)が未来派やキュビズムの画家たちにすら理解されなかった。
これ以降、彼は絵画制作から急速に遠ざかる。
「裸体は階段を降りない」という批判はこの絵画に対する批判たり得るか?馬鹿げている。
「題名だけでも変えろ」などという忠告も受けデュシャンは呆れかえった。
ここには他のどんな絵画よりも「運動」が優れて捉えられている。
未来派やキュビズムの最高の成果とも受け取れるものだが。

クールベ以降の絵画は「網膜的になった」という批評を美術界に放って以降、彼の作品は油絵からコンセプチュアルアートと呼べるものへと移行する。
単なる「網膜的な愉しみ」に終始している藝術を終わらせる彼の企てであろう。
レディ・メイド、匿名芸術、複製芸術、死後の芸術、インスタレーション、、、
などの様々な方法論によって「観念芸術」を試み、意欲作を作成する。
チェスにも通じる「思考の愉しみ」の為の芸術か。
レディ・メイドをはじめそれ等に対し彼は明確な定義をはぐらかすような言葉「私は何もしていない」などと騙っていた。
特にレディ・メイドは、既製品をそのまま、叉は手を加え(修正し)て自分のサインすることで出来上がりとするオブジェ作品である。
この衝撃は実際、大きかった。
実質、ここからコンセプチュアルアートが始まっている。

MarcelDuchamp006.jpg


絵具や支持体を使わぬ作者の手もほとんど介さぬ作品群である。
もっとも『大ガラス』はガラスを支持体にはして何年もかけて(確か8年くらい)入念に制作されている。
ガラスの間に埃などを挟んだりしていた。
無論他にも、油彩、ガラス、鉛の箔、ヒューズ線も挟んでいる。

MarcelDuchamp003.jpg


ローズ・セラヴィ名義で作品発表、、、自身の「性」と「宗教」の移行でもある。男ー>女、カトリックー>ユダヤ教となる。
女装もしている。何処となく南伸坊さんを思い浮かべる。森村 泰昌氏のそれとは違う。
作家自身も変身~作品化するのだ。
『ローゼ・セラヴィ、何故くしゃみをしない』(鳥篭に角砂糖型の大理石と温度計とイカの甲が詰められている。見るからにクシャミしたくなる。しかもたいそう重そうだ)、『ベラレーヌ: オー・ド・ヴォワレット』(リゴーの香水瓶のラベルを自作のものに付け替えている、、、こういうのやってみたい)。この辺はローズ・セラヴィ名義である。

MarcelDuchamp002.jpg


彼の作品は、その題名が重要な役割を果たしている。
少なくとも作品を読む糸口には違いない。題名が作品の一部とも謂えるものもある。

『階段を降りる裸体 No.2』キュビスム更に未来派の手法を用いて描かれている。「屋根瓦工場の爆発」と揶揄されるが本作でデュシャンの名が知れ渡る。
『泉』逆さまにした男子用小便器に「リチャード・マット」と署名した作品。レディ・メイドの傑作。アルフレッド・スティーグリッツによる写真が残されている。尚「泉」は誤訳で「噴水」であるという説があるが、わたしもそちらに賛成である。
『彼女の独身者によって裸にされた、花嫁さえも』(『大ガラス』)運搬中にガラスに罅が幾つも入ってしまったことを彼は喜んだという。これは、本当に大作というオーラを感じる。結局、未完ということになった。
『遺作』「1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ」は彫刻であり、インスタレーションである。木の扉の穴から中を覗くと、見事に仕掛けられた白日夢(と、よく謂われているが)の世界が広がっている。
視覚のシステム~問題を様々な形で批評して来たその最後の作品と謂えるか。

『自転車の車輪』、『ビン掛け』の両作品は妹によってごみと間違えられたか処分され、現存しているのはその再現作である。
『折れた腕の前に』レディメイドの最初の作品。
『秘められたる音に』レディメイドの初期の作品。
『L.H.O.O.Q.』モナリザに髭を付けた作品。
『グリーンボックス』メモ集。断片的な解説?箱に収められている。ちょっとドキドキする。箱に入れておく意味は小さくない。
『トランクの中の箱』限定300個制作。
『髭を剃られたL.H.O.O.Q.』モナリザの複製画に自分のサインを施した作品。複製品のまんまでもある。
『ホワイト・ボックス』メモ集。科学的なもの(4次元に関する)。箱に収められている。これもドキドキする。
『贈り物』アイロンに釘が一列に接着されたもの。
等々、、、。

題名がやはり示唆的で意味深い。
その作品鑑賞に分かちがたく結びついている。
更に『グリーン~ホワイト・ボックス』など、作品制作の設計図~全体的なコンセプトも併せて用意された。
中西夏之の作品も設計図?を元に後世の人が制作できるようなものとなっていたが。

MarcelDuchamp004.jpg

『大ガラス』上部の「花嫁」の領域と下部の「独身者」の領域に分けられるこの作品は観ていて飽きない。
わたしにとって、とても不思議な作品だ。
複雑さがこれほど美しい造形を生むのはとても衝撃的で新鮮で不安でもある。
マルセル・デュシャンというとやはりこの作品が真っ先に頭に浮かぶ。
この作品の謂わば解説のようなものが『グリーンボックス』である。
読むと彼の思考プロセスとコンセプトが浮かぶと同時に更に謎が深まる類のものだ。
それもデュシャンの仕掛けのひとつであろう。
アンドレ・ブルトンに高く評価された作品でもある。

この作品については、またの機会に触れてみたい。余りに絶妙過ぎて、深入りする気はないが(爆。

夜のしじま

night01.jpg

今夜は、昨夜に続き、佐治晴夫博士の例のエッセイで、はじめて知った詩人の詩を読んで眠るつもり、、、


そう、昨夜書くのを忘れたのだが、「考えることを省略する方向に向かっているこの社会は、恐ろしいですね。」
とあった。
考えなくても流されていけば何とかなるという風潮に対しての結びである。


自分にとって自明であること。
いや、意識が対象化すらしない事柄。
それらがかなり肝心な(実に不安定な)下部構造~基盤であったりする。

人の身体は何故、このような形体をとっているのか、、、。
佐治先生の本では、、、
1.太陽と地球との距離が1億5000万㎞だったこと。
2.地球の大きさが、直径1万mだったこと。
3.地球の重さが6の24乗㎏だったこと。
この3つから、いまあるこの形でなければならなかったことが物理学的に導かれることがさらっと記されていた。
パラダイム(思考の枠)について考える以前に、こんな疑問と解明があって然るべき。
(この辺から思考し想像してゆくSF映画が作られないといけない)。


更に、自分とは何かと考える前に、「自分で自分の顔を見ることは、一生ない、、、」という現実~生理を受け止めておく必要があった。
謂うに及ばず、「写真や鏡で見る自分の顔。」しか観ることは叶わない。
それは、左右反対であったり、極小の点~銀粒子や光点や編み目の集合体であったりする。
自分の顔を自分で観ることは一生ない。(この顔から目を引き離せない身体性の特性)。
純粋に関係性から思考と想像によって考えるしかない必然の大元なのかも知れない。
つまり「あなたは、あなたでないものからあなたになっている、、」事実の重さである。
自意識と哲学の生じる間~場であろう。

ほんとうにさらっとした、優しいエッセイであるが、汲出そうとすれば底知れないものが浮かび上がりそうだ。
自己解体の契機ともなる刺激に充ちている。
(この本には彼のお得意な数式や計算、グラフなどは一切ない)。


ここで初めて読んだ詩人の「しずかにしてね」(こわせたまみ)

しずかにしてね

しずかにしてね
ふうりんさん
ならないでね
いま
あかちゃんがねんねしました

しずかにしてね
カーテンさん
ゆれないでね
いま
あかちゃんがねんねしてます


今宵はいつになく外が静まっている、、、。
鳥は寝静まり物音ひとつしない。
こんななか、、、

(重力波はしっかり人の耳に聴こえる。その音はTVで流されていた。これ程録画しておいてよかったと思ったことはない)。


お休みなさい、、、、。


犬神家の一族

inugami002.jpg

1976年
市川崑 監督
横溝正史 原作
小杉太一郎 箏曲「双輪」作曲

石坂浩二 、、、金田一耕助
島田陽子 、、、野々宮珠世
高峰三枝子 、、、犬神松子
三条美紀 、、、犬神竹子
草笛光子 、、、犬神梅子
あおい輝彦 、、、犬神佐清/青沼静馬
地井武男 、、、犬神佐武
坂口良子 、、、那須ホテルの女中・はる
小沢栄太郎 、、、古館恭三弁護士
加藤武 、、、橘警察署長
大滝秀治 、、、大山神官
寺田稔 、、、猿蔵
岸田今日子 、、、琴の師匠
三国連太郎 、、、神佐兵衛
川口晶 、、、犬神小夜子
川口恒 、、、犬神佐智
金田龍之介 、、、犬神寅之助
小林昭二 、、、犬神幸吉


今日は画家の噺でもと、思っていたらタイムリーにこれがBSで入っていた。
「犬神家の一族」は、”無責任シリーズ”と共に、観たいと思っていた映画であったので丁度よかった。
石坂浩二主演による”金田一耕助シリーズ”の第1弾となる。
(無責任シリーズに一族シリーズともに大ヒットした)。
お釜帽とトランクと絣の単衣の着物と羽織によれよれの袴で、ぼさぼさ頭と飄々としたスタイルは最初から確立されていたようだ。
(フケ症はちょっとやり過ぎかなとも思う)。
「わたしが全部作ったの。何が一番美味しかった?」(はる)と聞かれて普通に「生卵」と答えるところなどよい。
そして何より若い。走る姿も軽快だ。
(ちなみに、中原中也がお釜帽を好んで被っていたみたいだ、、、写真を見ても)。

他のキャストも豪華な顔ぶれである。
所謂、オールスターキャストというものか。三国連太郎があまりに勿体ない使われ方であったが。
島田陽子や坂口良子は実に瑞々しい煌めきがある。
特に最初の頃、犯人と疑われるなかでの野々宮珠世(島田)の毅然として凛とした姿は美しい。
身の危険もありながら湖の真ん中に単身ボートで出て行き、昼寝をしている余裕も素敵だ。
恐らくこの頃が一番女優としても良い時期だったのでは、、、。
女中・はる(坂口)もとても初々しく金田一に協力を惜しまない気さくで一途な姿に好感をもつ。
ただの女中にしては出番も多く金田一との掛け合いなどで映画のよいアクセントになっている。

そして何より「マスク姿の佐清」と「水面から突き出た足」である。
これは当時、色々な場面で使われたようだ。単なる真似やパロディで。
かなりのインパクトがあったことは想像がつく。
怖くて不気味で面白い。
受けるはずだ。(プールで真似した人が多かったらしい)。

inugami004.jpg

あくまでも金田一耕助は、探偵であり刑事ではない。
人を捕まえたり裁くことには興味はない。
捕まえるのは、ここでは「よし分かった。奴が犯人だ。」とすぐに早合点する橘警察署長であり、誠に頼りない。
単純で粗暴で暴力的である体制~世間の象徴的存在でもあろう。
ここで、風来坊(アウトサイダー)の彼が見事な推理で風穴を空け、颯爽とというよりそそくさと帰って行く。
(依頼者からのお金の受け取りシーンを丁寧に描くところも面白い)。

inugami003.jpg

基本、金田一耕助は人受けがよく、知り合う女性からは誰からも好感を持たれ、この物語で強面の猿蔵にも好かれてしまう。
母性本能を刺激するというか、どことなく頼りなげで人懐っこく、誰をも和ませる身体性がある。
そんなパーソナリティであるから、彼にはあなただけには喋りますがと、気を許してペラペラ大事なことまで語ってしまう。
あの口の堅い(自分で謂っている)大山神官でさえ、そうである。
彼が優秀な探偵であるのは、この辺がベースになっているところは大きい。
勿論、事件の謎解きや殺人のトリックを明かすことを無上の喜びとしている結果ではあるが。
(一族の相関関係図をとても丁寧に筆で書いている姿が全てを表している)。


ちなみに、わたしは犬神家の一連の殺人事件の犯人は皆目見当がつかなかった。
犯人が分かった後でも今一つ、実感はなかった。
そこまでやるか?という違和感は残った(爆。
ただ最後に野々宮珠世がしきりに犬神佐清に疑いの目を向けていたのは、彼の事を愛していたからだという事はよく分かった。
そこは成る程、と納得した(笑。


一度見ておいて損はない映画だと思う。
わたしとしては、島田陽子と坂口良子を発見した作品であった。


トイ・ストーリー

Toy Story002

Toy Story
1995年
アメリカ

ジョン・ラセター監督
ランディ・ニューマン音楽

ウッディ(カウボーイ人形)、、、声:唐沢寿明(確かに顔が似ている)。
バズ・ライトイヤー(スペースレンジャー人形)、、、声:所ジョージ
アンディー(ウッディやバズたちオモチャの持ち主の少年)
シド・フィリップス(オモチャを虐める悪ガキ)


もうこれが出てから20年以上経つとは、、、。
風邪をひいている娘と一緒に観たが、未だに古さは感じない。
(娘はモンスターズインクを見たがったが強引にこちらにした。あれはもう何度観たか知れない)。

しかし、、、流石は”Pixar”(Pixar Animation Studios)だ。
iPhoneといいiTunesといい、このPixarといい、スティーブ・ジョブスの慧眼による。
やはり彼の偉大な功績である。


普段、彼らは「おもちゃのルール」に従い、人間が来ればただのオモチャとなり、人気がなくなると生きた魂を持つ存在となる。
(この姿、はっきり言って今のAIロボットなどより1000年進んでいる、、、それ以上か)。
子供時代の一時期、そんな妄想に耽った経験は誰にもあるだろう。
オモチャは子供にとって不気味な何者かでもある。
特に人形は神秘(呪術)的な力もあり、持ち主との心の結びつきは強い。


さてここは、カウボーイ人形のウッディとスペースレンジャー人形のバズの出逢いから友情の芽生えまでのスリリングな物語の展開となる。人間はあくまでも脇であり、彼ら二人を主体とした噺である。
バズがアンディ一家にやって来るまでは、ウッディがオモチャ仲間のまとめ役で、信頼も篤かった。
しかもウッディは持ち主のアンディの寵愛を一心に受けていてその事が彼の誇りとなっていた。
だが、流行の最先端で機能も盛りだくさんの新入りのバズがアンディのお気に入りとなってしまいウッディは穏やかではない。
ウッディは背中の紐を引くと、「銃を捨てろ、手ぇあげな」くらいのものである。(数パタンあるが)。
そして何と言ってもカウボーイである。
バズの方は、アクションボタンでレーザービームを照射したり、翼が開いたり、ヘルメットが開閉したり、、、「無限の彼方へ さあ行くぞ!」(その他いろいろ)である。
ウッディは味があるが古さは隠せない木製の人形。バズはクールな最新のアクション人形である。
ウッディはバズに何かと突っかかる。
お互いに反目し合う。

Toy Story

ただ一つバズにも困った問題があった。
バズは自分が子供のオモチャではなく、本当のスペースレンジャーだと信じ込んでいたのだ。
ウッディがいくら言っても信じない。
成り切っていると、かなりの事が平然と出来てしまう事も分かる。
(空から落ちていても飛んでいるようにカッコつけて舞い降りてきたり、、、ある意味、真理かも知れない)。
ウッディが妬んで絡んできても超然とした態度で跳ね返し、物語通り銀河の平和を守るヒーローの志で行動をとっていた。
だが、アクシデントで窓から落ち、彼はオモチャを残酷な遊びで壊しているシドにウッディ諸共、捕られる。
シドの家のテレビで偶然、自分のCMを見る事で自分が最近売りだし中のオモチャのひとつだという事実を知り、意気消沈してしまう。(オモチャの自己認識の違いとは面白い点を突いたものだ)。
もうそれまでの勢いも何も無い。

ウッディの方は仲間のオモチャたちからは、妬みからワザとバズを窓から突き落とした悪者扱いされ「オモチャ殺し」とまで言われる始末。
ウッディもバズをシドの家から救おうとして二人とも捕まってしまい危機に陥る。
シドは強力なロケットをバズに取り付け空高く飛ばすつもりであった。
何とか助かろうと手を尽くすが、アクシデントもあり追い詰められる。
ウッディがかつての仲間たちに助けを請うも、人望を失っており協力を得られない。

シドの手から逃れ、引っ越しするアンディー一家の車に何とか戻る為に、ウッディとバズは力を合わせ奮闘する。
シドにグロテスクに改造されたオモチャの人形たちもウッディに快く協力してくれ、はじめて「オモチャのルール」を破りシドを懲らしめることに成功する。
シドはすっかりオモチャに怯え、もう残酷な悪戯は出来そうもない。
それはそうだ。相手が物ではなかったのだ。(かなりの外傷経験に違いない)。

後はスリリングでスピード感あるアクションの連続である。
この映画、取り残される、置いてけぼり、のシーンが幾つもあり、小さな人形が(車で走り去る等の)ご主人のところに如何に追いつくか~戻るかという心細いシチュエーションで惹きつける。
この関係性を上手くプロットに利用している。
特に子供には感覚的に共感するところは小さくないと思う。
よく駅やデパート、広場などで、親と不意に距離が出来てしまった事に気づいた瞬間、泣き叫ぶ子供を見たりするが、そんな潜在する記憶~思い出を擽るはずだ。

最後は散々な追跡レースの末、シドにくっつけられたロケットでバズとウッディが豪快に空を飛び仲良くアンディの車のサンルーフから座席の箱にすっぽり収まるという荒唐無稽でアクロバティックなハッピーエンドである。
それまでの展開から言っても、この流れは充分あり得る(笑。

試練を通してウッディはバズと親友になり信用も回復。
ただ面白い。こういう映画もたまには観ないと、、、。

Toy Story003

PLANET OF THE APES/猿の惑星

Planet of the Apes007

Planet of the Apes
2001年
アメリカ

ティム・バートン監督


マーク・ウォールバーグ 、、、レオ・デイヴィッドソン大尉
ティム・ロス 、、、セード(猿の将軍)
ヘレナ・ボナム・カーター 、、、アリ(人間の理解者の猿)
マイケル・クラーク・ダンカン 、、、アター
エステラ・ウォーレン 、、、デイナ
ポール・ジアマッティ 、、、リンボー
ケイリー=ヒロユキ・タガワ 、、、クラル
デヴィッド・ワーナー 、、、サンダー


是非続編が見たくなるような傑作であった。
オリジナルよりも面白かったかも。
『猿の惑星』のリ・イマジネーション作という位置づけのようだ。
確かにリメイクではない。
一から考え、作り直されている。
最後のショッキングさはオリジナルに引けをとらない。
ただしオリジナルはそのモニュメンタルな廃墟に絶望するがあくまでも距離を持った思想的な絶望となる。
だがこちらはもう思想どころではない現実の切羽詰まったパニック~絶望である。実際驚愕して唖然として思考停止状態であるはず。

最初からスリリングで惹きつける。
何とお猿が宇宙飛行士かい?
しかし彼はトラブルに遭遇し操縦不能でパニックとなる。
あわやと思うが、それはシュミレーション訓練であった。
もう掴みはOK。

土星間際での大型宇宙船において、猿も動員しての深宇宙の探査を進めている場面であった。
そんな矢先に船にも影響を与えている強力な電磁場を発見する。
その正体を探る為、例の猿がポッドに乗り込み磁場めがけて飛び込んでゆくも消息が途絶える。
強力な磁場からは、発せられてきた過去の電波が跳ね返されていた。
何とその断片の中にはその宇宙船の船長の緊急事態を必死に告げる画像もあった、、、。
不穏な空気のなか、レオは自分の手塩にかけて育て訓練して来た猿を自らポッドに乗って磁場に向かい救いに行く。

Planet of the Apes008

ポッドは翻弄され制御を失い、あらぬ星に不時着~着水する。
湖の中からレオは何とか岸にたどり着くと、地球に酷似した環境のその星には、地球と変わらぬ人と猿が棲んでいた。
ある意味、これは驚きではないか。ただし、人と猿の立場は完全に逆転している。
人は猿の支配下で奴隷として何とか生きながらえている有様であった。
しかしオリジナル同様に、テクノロジーは(敢えて)発達させていない。人間の轍を踏まぬためか?
その潜在的な脅威もあってか人に対する攻撃欲は酷く、レオも勿論囚われ過酷な目に逢ってゆく。

かなり強い野生を残した逆上し易い知性をもった猿たちである。
その猿メーキャップは、これまでに見た猿のなかでも際立って悪賢い威厳も備えた顔であり、個々の猿の内面~思想の個人差も見て取れるほどに雄弁な表情を持つ。この人格ではなく猿格の表現の多様さと深さは凄い。
どこか仏像の表情の描き分けにも通じるところを感じた。

人は虐待の限りを受けて虐げられており、猿はその実質的に支配的位置にいるセード将軍が彼らの超自我を神話なども利用して統率していた。特に人に対する憎しみの感情~意思のコントロールである。

Planet of the Apes005

しかし、セードの思いを寄せる権力者の娘アリは、その知性の高さから彼らの規範的な感覚から逸脱している。
彼女は人の知性の可能性に注目し、彼らに対し親和的な意思を持つ。セードには強く反撥している。
アリは自分の立場より自らの思想に忠実に生き、レオに深入りしてゆく。
同じくレオに思いを寄せる人間の娘のデイナと共にレオを支えることになる。

オリジナルと同様に、神話で忌諱されている場所にレオ達一行は踏み込んでゆく。
わたしたちの起源の謎がある場所よ。
勿論、それを現実に信じている訳ではないの。起源の物語によって猿たちの無意識を集合させまとめているだけの噺なの。
というところだろうが、そこで飛んでもない事実が判明してしまう。
ここからがこの映画の真骨頂だ。
何とその遺跡は、レオの乗っていた母船の墜落した姿であった。
エネルギーのまだ残る船体の操作系統を立ち上げ過去の航行記録を調べて一同驚く。
優秀な知性を持つ猿が反目し他の猿を煽り、乗組員を襲わせこの星にやってきたのだった。
セード将軍はそのボス猿の血をひき、先祖から人に対する敵意を叩き込まれてきた存在であったのだ。
猿と人の文字通りの起源の場所であった。道理で地球人と猿がその姿でこの地にもいた分けだ。

レオの事を聞き及んで集結して来た人と猿の軍隊との総力戦を迎える事となる。
到底人の勝ち目はない。
母船のエネルギーを利用し脅しをかけても、圧倒的な体力と腕力の差は如何ともし難いものだ。
絶体絶命の状況に陥るが、丁度そのタイミングで磁場に巻き込まれたあの猿がポッドに乗って彼らの群れのなかに光芒を放ち見事に着陸を果たす。「お前俺より着陸上手いな」(レオ)。
皆、跪いてそれを拝む。
神話通りの奇跡が起きたというのだ。

レオはその猿を迎え、猿たちにその事実を説く。
そして将軍以外の猿は、人との和解の道を選ぶ。
だが、セードは決してこれを受け容れることはしなかった。
散々抵抗するが、防弾ガラスの中に閉じ込められ意気消沈する。

Planet of the Apes006

レオは優しく賢いアリや美しいデイナに引き留められるも、もう彼の気持ちは地球に帰るモード100%になっていた。
彼はこの地に新しい世を切り開いた伝説の男となって、皆に惜しまれ地球に向けて発つ。

宇宙船を迎える管制塔の指示は、耳慣れたものであった。ただ制御の効かぬポッドは、ワシントンD.C.のリンカーン記念堂前に胴体着陸となった。
やっとのことで地球に戻れた彼は、すぐに記念堂へと入って行く、、、。

リンカーン像を目の当たりにして、全くレオと同時にわたしも仰天した!
(こんなことは映画を観てきてほとんどない。大概こちら観客は知っていることを主人公が知るのを見て感慨に耽るのだが)
まさか、セードが猿の解放者としてリンカーンの位置に祭られていようとは、、、
しかもこの世界を一瞬にして知ることのできる象徴的な場所にピンポイントで不時着するなんて、ついているのかいないのか、、、
ともかく劇的である。(ここは植木等映画的な強引さである)。

つまり、強力な磁気嵐の中でそれぞれが異なる時間系に乗ってしまったのだ。
面白い事に、最初に磁気嵐に突っ込んだ猿は、その後に発ったレオにかなり遅れてそこに到着し、レオを捜索するうちに猿たちの反乱で磁場に巻き込まれた宇宙艇が実は彼らの中で一番最初にその地に墜落している。
どうやら入った順番と逆に時間的にそこから吐き出される構造をもっているらしい。
であるため、一番最後に磁気嵐に入ったと思われるセードがレオより数世紀早く地球に到着して猿の支配する世界を樹立していたのだ。(例の猿からセードは母船に幾つもあるポッドの操作法を聞き出していたはずだ)。

時間のダイナミズムの波打つ作品であり、天晴だ(笑。

Planet of the Apes009

と言っても、これ程ショッキングな終わり方というのもなかなかあるまい。
猿たちに逮捕されたレオは心底、アリやデイナのいる~しかも猿たちと和解した~星に留まっていればよかったと思ったことだろう。磁気嵐を抜けた後、地球を捉え、峠の我が家気分で着陸したはずである。まさか、、、。
究極のやっちまった、、、である(爆。

いや彼の胸中、察するに余り有る。
流石はティムバートン。座布団三枚。いや脚本家にか、、、。
(ここでハッピーエンドでは、確かにちょっと物足りない。とは言え、これではいくら何でも、、、)。

この続編も観てみたいものだ。もう役者は総入れ替えとなろうが、主人公が充分タフな男であったし、あの地獄からの帰還、、、何処へ帰還かはともかく、何かもうひと暴れしてもらいたい。
20年ぶりの続編、期待したい。

大冒険

daibouken.jpg

1965年
古澤憲吾 監督
田波靖男、笠原良三 脚本
円谷英二 特撮監督

植木等 、、、植松唯人
谷啓 、、、谷井啓介
ハナ肇 、、、花井部長刑事
団令子 、、、谷井悦子
越路吹雪 、、、森垣久美子
犬塚弘 、、、乾刑事
石橋エータロー 、、、市橋刑事
桜井センリ 、、、加倉井編集長
安田伸 、、、石崎
アンドリュウ・ヒューズ 、、、ヒットラー(陰謀団の黒幕)
森繁久彌 、、、総理大臣
ザ・ピーナッツ 、、、クラブの歌手
佐々木孝丸 、、、警視総監
高田稔 、、、大蔵大臣
二瓶正也 、、、黒服の男
伊藤久哉 、、、日本艦隊将校
柳永二郎 、、、日銀総裁


「クレージー・キャッツ結成10周年記念映画」という位置づけであった。
かなり力の入った(金を使った)特撮映画である。

のっけから、ウルトラQ~怪奇大作戦を彷彿させるタッチの映像だ。
TVから各国の偽造紙幣の緊急ニュースの模様が流れ緊張感をもって始まる。
ここに植木がどう絡んで来るのかと、いつも通りの期待感で観始めるも、、、植木自身は雰囲気は同じだが、話はちょっと違う。
総理大臣により召集された偽造紙幣で経済撹乱を企てる国際陰謀集団に対する会議がもたれ、警察特捜本部による秘密裡の捜査が行われる。しかし実際の捜査官は勘頼りの花井部長刑事他クレイジーの乾、市橋刑事。
花井も植木と同じくらい間の抜けたところで歌を唄い出すいい加減さ。
円谷特撮がどんな風にこれに絡み展開するのかが見ものなのだが、主にそれは後半、特に終盤に炸裂した。
(ザ・ピーナツがステージに現れ歌う時にはなにやら「モスラ」を連想してしまったが、特撮が頭にあるからか)。

daibouken002.jpg

今回は雑誌記者として活躍する植木である。サラリーマン復活(笑。
大法螺も忘れてはいない。
アパートの隣の部屋には友人の発明家である谷井啓介とその美しい妹の悦子が住んでいる。
彼女はまるで気がないが、彼は最初から彼女と結婚するつもりでいるところは無責任シリーズと同じである。
端から(部屋の中から)元体操選手である植松唯人の身のこなしが披露されるが、植木の身体能力がなかなかのものだと分かり、感心する(笑。
緑の上下スーツが何気なくルパン三世を想わせる。(余計な事考えすぎか?しかしルーツ的な存在かも知れない、、、)。

総天然色複写機を谷井啓介に発明させ、それの特許を取って大儲けするつもりであったが、そのテストですでに出回り始めた偽壱萬円札をコピーしてしまったために、警察と偽札製造陰謀団両者から狙われる羽目となる。
おまけに悦子を陰謀団に誘拐され東京から神戸までの壮絶な追いつ追われつの大混戦となる。
最後にヒトラーが出てきて、経済撹乱に乗じて自分の帝国を再び打ち立てようという魂胆を明かす。
潜水艦と孤島の要塞基地など円谷ワールドに植木・谷・団のトリオが入り込んでくることがちょっと場違い的な面白さだ。
日本支部の幹部の越路吹雪が終始クールである。
如何にも手作り感たっぷりなジュールベルヌ的な要塞内部とそこでの闘いも何だか間が抜けてズレている。
いちいち敵のテクノロジーを見て感心する植木・谷の様子も可笑しい。

アクションは全編にわたり相当ハードなものであった。
何度も車や電車に轢かれそうになり、銃弾の間をくぐり、馬に乗ったりして逃げまくる。
植木は、ほぼ走りどおしだ。
特に、橋やビルの屋上、断崖絶壁などから落ちそうになり、何とかつかまる命からがらのシーンも多い。
それでも不屈の根性で、「今度のしごきはきつかった~。さあ歌でも唄うか~」というが、いつもの無責任のお調子には受け取れない。この明るさ無理がある。汗だらけだ(爆。
思わず最後にお疲れさんと言いたくなるほどのものだった。
(谷啓と団令子もハイヒールでその運動量はかなり凄い)。
ストーリーは所謂サスペンスアクションもので、植木等がいくら面白く持っていこうが結構シリアスである。
(ご都合主義の展開や拍子抜けする歌が入ろうが)。
何しろ、植松~植木が悦子の兄の啓介に向かって少しは責任を感じろなどと諫めているのだ。
まんざらブラックジョークでもない。いつになく真面目だ。

砲撃を受けたヒトラーたちは、これが見えぬかと威嚇したうえで、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、中国等に向け本当にミサイルを同時に放つ。(今の北朝鮮は大丈夫か?!)
しかし、事前に谷井啓介がミサイル制御装置を弄っていたために、発射されたミサイルは自分の島に着弾してしまう。
という何とも言えない(冴えない)オチである。
これには拍子抜けしたが、丁度よい結末でもあった。
その後はすぐに植松唯人と谷井悦子の結婚式のパーティ場面に転換。
その出し物がクレイジーキャッツ結成10周年記念コンサートとなる、、、。

daibouken003.jpg

もう充分観た気がする。
愉しいとか解放されるというのとはまた異なる感覚だ。
元々腹を抱えて笑う類のものではないが、爽快感というのでもない。
力作で面白くまとめており、豪華なスタッフによるものであったが、、、

この辺でいいかな、と思う、、、。


無責任清水港

simizuminato.jpg

1966年
坪島孝 監督
小国英雄 脚本
萩原哲晶、宮川泰 音楽


植木等 、、、追分の三五郎(いかさまお調子男)
谷啓 、、、森の石松
ハナ肇 、、、清水次郎長
団令子 、、、お蝶(次郎長の女房)
浜美枝 、、、お雪(お蝶の妹)
平田昭彦 、、、大政
田崎潤、、、横山隼人(凄腕用心棒)
石橋エータロー、、、清次(仇討ちの弟~何故か女形)
安田伸、、、新助(仇討ちの兄)
加藤春哉、、、亀吉(次郎長の子分)
高橋紀子、、、お美代(小料理屋の娘、石松の恋人)


また、BSのNHKで無責任シリーズが入って来た。
それはとてもよいことだが、なにぶんNHKは短いスパンで同じ映画を繰り返しやり過ぎる。
観る暇がなくメディアに逃がしておいてそのうち観ようなどと思っていると、うっかり同じものを何度もコピーしかねない。
過去の名作はまだまだ沢山あるのだし、そこは何とかお願いしたいものだ。

いやまてよ、「無責任清水港」の前に「大冒険」が入っていた。
わが円谷英二の特撮が絡んだ映画のはず。これは明日観よう。
「無責任シリーズ」というより、「クレイジーキャッツシリーズ」という位置づけでの放送か?
このシリーズ放送はこのまま続けて欲しい。ちょっと嬉しいではないか。

さて、今回も植木等は苦境に立つとカラカラ(いや、はっはっはと)笑ういつもの調子で突っ走る(笑。
まあ、苦境と言っても彼にとっては屁でもないところだろうが、普通の人間にとってはやはり苦境か。
物事の捉え方が人とはひとつ異なるところは強調されて描かれてはいる。
しかしいい加減に見えて非常に確固たる信念はもっており、お調子者であるがその調子を維持する技能を備えている。
そして理解とか共感とかいうレベルでなく無理やり周りの人間を自分のペースに巻き込んでしまう。
周囲は訳が分からぬまま、乗せられて行ってしまう。
訳が分かって受容しているのとはちょっと違う。ここが凄いところだ。
(エイリアン~他者であるのにホイホイと誰をも乗せて行ってしまう、、、これが植木等のパーソナリティの真骨頂か)。

無責任とは言っても彼自身も、結局ノリで人情に篤い正義漢になってしまっている。
だんだんそうなってしまうのだ。ちょっと人間的に悩み戸惑うようなそぶりも見せて、、、。

ただし超然として飄々とした部分は、いかさまや縄抜けなどの特殊技能により保証される。
それがあることで正義感溢れる薄っぺらいヒーローにはならずにちょっとズレ出てゆく。
今回の彼の魅力はその辺に発するところは大きい。
そして相変わらず厚かましく迫まられた美女~お雪は、最後は彼に追いすがってゆくではないか、、、。
いつものパタンとは言え(笑。
究極のお調子者健在である。
谷啓~石松も思いを寄せていた「お美代ちゃん」もちゃんと彼の元にやって来る。
(この谷啓の「お美代ちゃん!」という語り口が何とも味がある。ガチョ~ンくらいある)。
究極の予定調和だ。


谷啓の役者ぶりはここでも際立つ。植木とのアウンの名コンビが確立している。
ハナ肇は人の好い親分さんが実によく似合う(それにしてもこれほど人の好い人相があろうか)。
団令子が女将さん役だと安心して観ていられる。
平田昭彦は如何にも大政で安心感タップリ。
飛んでもなく腕の立つ田崎潤演じる浪人があっけなく石橋エータローの構えているだけの刀に刺されて死ぬのもこの劇ならではのコミカルさだ。それにしても顔を三船に異様に似せているところが面白かった。
歌はいつも程入ってこなかったが、お約束は果たされていると謂えよう。


植木等の役としては随分丸くなっており然程無責任さはないが、世渡り上手というレベルを超えたお調子モノぶりは健在である。

明日は「大冒険」を観ることにする。



キングコング 髑髏島の巨神

Kong Skull Island003

Kong: Skull Island
2017年
アメリカ

ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督


トム・ヒドルストン 、、、ジェームズ・コンラッド(元SAS大尉)
サミュエル・L・ジャクソン 、、、プレストン・パッカード(大佐、米国陸軍第三強襲ヘリコプター部隊スカイデビルズ司令官)
ブリー・ラーソン 、、、メイソン・ウィーバー(戦場カメラマン)
ジョン・C・ライリー、、、ハンク・マーロウ(中尉、第二次世界大戦中に島に不時着)
ジョン・グッドマン 、、、ビル・ランダ(地質学者、モナーク所属)
ジン・ティエン 、、、サン(生物学者、モナーク所属)
コーリー・ホーキンズ、、、ヒューストン・ブルックス(地質学者、ランダの助手、モナーク所属)
マーク・エヴァン・ジャクソン、、、スティーブ・ギヴソン(ランドサット衛星データ収集担当調査員)

何でもモンスターバースというワーナーブラザーズの企画で進められているシリーズの今回は第二弾であり、一弾目はあの『GODZILLA ゴジラ』(ギャレス・エドワーズ監督、2014年)であった。あの作品も実に格調高い傑作であったが、今作は力強さが途轍もない。


髑髏島にヘリ着陸と共にブラックサバスがかかる。
ワクワクする。
漸く任務から解かれ国に帰ろうとしたところへパッカード大佐に声が掛かかり再びスカイデビルズは戦地に赴く。
隊員たちもこれ程の地獄に連れて行かれるとは思いもよらない、というところからの展開となる。
いつもながらビル・ランダのような首謀者たち数人だけが行く目的を知っていて、周りの隊員たちが飛んでもない事態に巻き込まれる冒険パタンは一緒だ。
だが、そこに説得力がある。
この物語はシンプルで裂け目がない。

島には空洞の地下や湖の中や樹木の上から途轍もない怪物が狙っている。
この状況では、ちょっと気を許したとたんに怪獣に食われてしまう。
コングも徹底してハードボイルドな怪物である。
この突き放した魅力がリアリティを生む。

そう、コングと怪獣たちのリアリティは極まった。
これ以上のVFXは想像できない。
本当に力強い映画である。
隙が全く無い。
ストーリーもベトナム戦争と米ソ冷戦も絡めながらの人間ドラマもしっかり描き込まれている。
パッカード大佐の暴走は白黒つかぬまま犠牲者だけを大量に出した戦争へのストレスが大いに関わっているようだ。
コングに対して、全ての矛盾の象徴のように自分の無意識的な負のイメージの総体を投影している。
それに対して膨らむ忠実な部下たちの戸惑い。
コングの本当の姿と役割を認識するコンラッド=ウィーバー=マーロウ達の葛藤。
(コングを倒せばスカル・クローラーが繁殖し大変な事態となる)。
勿論、コング対巨大トカゲの怪獣スカル・クローラーとの死闘は凄まじい。
相手の強さは半端ではなく、最後までハラハラする。
そのバトルは最大の見せ場である。『キング・コング2005』のナオミワッツを守りながらの死闘も凄かったが。

Kong Skull Island002

役者はみな芸達者である。
ジェームズ・コンラッドのGACKTの吹き替えがかなりきまっていた。
パッカード大佐とコングとの睨み合いなど迫力の一瞬であった。
(しかしサミュエル・L・ジャクソン歳とったなあ~)
髑髏島の原住民の描写も異質さと自然さが上手く表れていた。
ネイティブには南洋というより日本人に近い感触がある。

取り敢えず、ここでもコングは戦場カメラマンのウィーバーを助ける。
基本的に島の侵略者ではなく、自分に対し好感を持っていることを察知しての事か。
そのうえで女性であることも大事な要素か、、、この辺はよく分からないが、なかなか素っ気なく男前のコングであった(爆。

最期30年ぶりに生還して妻と成人した息子初めて逢う家庭用ビデオのシーンは感動ものであった。
特務研究機関モナークにコンラッドとウィーバーが呼ばれると、そこにはブルックスとサンがおり、「実はこの地球を影で支配している生命が他にもいる」ことを彼らに仄めかすのだった。
そして、はっきりとこの続編となる次作の内容が暗示されて終わる。

Kong Skull Island001


なんでも今度は、ゴジラがまたこのシリーズで出てくるようだ。
ゴジラVSコングも控えているらしい、、、。
何処までやるのか?
やはりアメリカ~ハリウッドでまともにやるとこれだけのものが出来るのだ。
こういう映画を観て愉しみたい。
(日本映画でここまでの質は到底望めまい。アニメは別として)。


ガメラはかなり頑張っていたのだが、本当に終了してしまったのか。
ちょっと寂しい、、、。

アンリ・マチス

Matisse001.jpg
「マティス 夫人像」

夜遅くになって、アンリ・マチスの絵を眺めはじめた。これはほぼライブに近い(笑。今11時。

原色を多用した絵で、ブラマンクやドランらと共にフォービズム(野獣派)の画家と呼ばれる。
(しかしブラマンクの波打ち渦巻くようなタッチの激しさに比べマチスは構成的な色彩の方に目が向く)。
確かに野獣派と言われるだけあって、強烈な緑に赤の補色の使い方などの配色・色彩構成が際立つ。
最初に「マティス 夫人像」を小5の時に観て、その印象が脳裏に沁み込んでいる。
マチスと聞くとその夫人像がまず目に浮かぶ。
何しろ顔の真ん中に緑の線が引かれていて、新鮮で特異ではあるが破綻のない見事に肖像画となっていることに驚いたものだ。
これは色を塗るではなく、色で絵を描く際の典型的な参考作ともなる為、娘たちにも見せておきたい。
寧ろ大人になって見せるより子供の時期に魅せた方がよさそうな気がする。

日本の画家では萬鉄五郎が近い感性(理念)をもっているように思える。
だが、そういった激しい表現はそう多くはなく、寧ろ涼しく静謐な旋律の聴こえてくるような絵が目立つ。


Matisse003.jpg
「ピアノのレッスン」

モンドリアンもそうだが、この単純な面の色構成は絶妙としか言いようがない。
いつまでも見ていたい心地よさだ。部屋に飾れば静かな涼やかな風がそよいでくるに違いない、、、。
モンドリアンの絵をコンピュータを使って、様々な考え得る色面構成を試してみた結果、画家の選んだ色以外に絵となるものがなかった(最高の色構成であった)という実験結果があったが、丁度、この「ピアノのレッスン」も同様だ。
恐らくこれ以外の色構成は望めないはず。
どの色もその面積も位置も変えようがない形で構成・存在する。

どうみても修練を重ねた色彩家が計算し尽くしたうえで、瑞々しい感性のもとに描き込んだと感じられる。
マチスの身体性そのものからの表出と謂えよう。
やはり自らがやるべきことをやり続けてきて発酵~熟成した成果というものか。
芸術家に限らず、ヒトはこうであらねばと唸らせる。
(最近特に虚しい生き方をしている輩をよく目にするにつけ、つくづくそう思う)。


Matisse002.jpg
「王の悲哀」

これは色彩の魔術師である彼の真骨頂を発揮したコラージュ作品。
たしかに貼り絵で彼の持ち味というか資質がストレートに実感できる。
確かに色彩の魔術師だ。
こうは上手くいかなくても、これをやり始めたら面白くて夢中になってしまうだろう。
今度、教室でもやってみたい。
勿論その都度、思い付きでやる訳にはいかない。カリキュラム的な流れは必要だ。
だが、色塗り、筆使いと共にこちらをやっていかないと色彩感覚を磨かず色だけ漫然と塗らせていても意味はない。

色紙を用意しておこう。
今度はわたしも一緒にやってみることにする。
というか、わたしがやりたいのだ(笑。

この絵は、大学時代に部屋に飾っていたものだが、いつの間にかなくなっていた。
額入りではなく、ポスターをピンで留めておいただけなので強風が入った際にでも何処かに飛び去ったか。
それはそれで趣き深い、、、。

教室の一回目

omocha002.jpg
(本当のセットの写真は、もっとおもちゃカボチャを足したものを来週((笑)。

頂いた大きなオレンジカボチャ3個。
これがひょうたん型でなかなかボリューム的にも凄い。
それに加え、わたしが花屋で一つだけ調達できた、おもちゃカボチャの4つで構成して、、、
(色々な形を期待して行ったのだがワンパタンしかなかったのだ。270円。昔は100円で買えたのに、、、)。

クロッキーを5回やった。
一回3分。
線~輪郭線だけで描く。
消しゴムは一切使わない。
iPhoneのストップウオッチで「はじめ」、「はい、そこまで」などとやると、かなり面白がっていた(笑。

ただ、そのまま描かせると、小さめになることが多い。
クロッキー帳のページ一杯に描かせるようにする。長女はそれで直ぐに大きく調整したが、、、。
次女のように何でも小さく描きがちなケースには、予め薄く絵をおさめる大きさの丸(楕円形)を描いてガイドラインとする。
するとほぼその大きさで描けるようになった。
(思ったよりあっさり、、、)。

描いた中から一つ選んで、色を塗らせた。
今回は、少し水を多めのポスターカラーで。
これまではリキテックスで描かせることが多かったが、アクリルだと後始末が大変である。
薄い紙に描くことから、透明水彩も考えたが、コスパと使い勝手を取り、これにした。
充分これでイケる。

透明水彩は、色の扱いに慣れてきて、知識も実地で身につけてからでないと、思うようには描けない。
グワッシュにするならポスターカラーでよい。グワッシュは高いし。
一回目としては、そこそこ手応えはあった。
筆使いは沢山描いていくことがまず肝心だろう。
ちなみに、わたしは描くどころでは、なかった(苦。
もう少し波に乗ってから描き始めようと思う。


生徒は来るべき子がまだ、来れる状況ではない為、来週からとなる。
だから今日は、うちの娘二人とである。
最初だからそれなりに真剣にやってはいたが、家族であると次第にだらけてくる可能性は高い。
やはりそこに他人が入ることでピリッとしてくるものだ。
来週から来てくれれば丁度良いか、、、。



ユトリロ

Utrillo004.jpg

私生児で10代からアル中になり、少年時代は大変苦労したという。
入院したり警察に拘束されたり学校にも馴染めずで、不安定でかなり荒れた生活をしていた。
健康状態も悪化したり小康状態になったりの繰り返しであったらしい。
母親も手をこまねいて人任せになり、祖母に預けることも多かったようである。
しかし祖母が元々アル中で、ユトリロ少年にも酒を呑ませていた影響が大きかったと謂われる。

要するに生育環境が悪かった。
人はそれを選べないのが、決定的なところである。
この初期の受け身の状況については、どうにもならない。
では、それを変える~脱するには、もうカントの説くように自らがそれを選んだと捉え返し、自らの主体として生きなおすしかない。

ユトリロ7歳の時の母シュザンヌ・ヴァラドンによるデッサンはよく彼の特徴を湛えている。
晩年のユトリロの写真にも残る面影が窺える。
鼻つきがまさに彼である。
どういう対象として描いたのだろう。
この頃は彼女も画家として成功している時期だ。

結局、彼女が息子のアル中療法として彼に絵の手ほどきするようになった。
だが、師匠の言うことを素直に聴いて画業に励むというより、独自の画法を編み出して描いてゆく。
かの有名な白い絵だ。
何と絵の具に漆喰を混ぜている。

Utrillo003.jpg

はじめは、描くこと自体嫌々ながらであったらしい、、、想像はつくが。
母とは異なる作風であるが、彼も高い評価を得るまでにそう時間はかからなかった。
それに従い、とても平穏な日常生活も手に入れてゆく。
絵を自ら描いてゆくうちに、生命力の核に触れていったのだと思う。
自我とか主体よりもっと深いところに、図らずも降り立ったのではないか?
それが確信を生み、強固なものにしてゆく。身体も落ち着く。
外的なシステム~法に全く左右されない内的な基準~価値の獲得により、、、。
大概、優れた芸術家はその域に達している。
(世間の目や流行りや、才能などという外部の尺度などは端から意識にないが)。

自分のやるべきことをひたすら、やる。
創造行為とはそうしたものである。

Utrillo002.jpg

ユトリロは、ひたすら街を描く。彼にとって絵を描くとは、街~街頭を描くことであった。
彼もまた、パリに色々な国や地域から集まって来てモンパルナスやモンマルトルの街や風俗や人々を、ボヘミアンな生活を送りながら描き続けた所謂、エコール・ド・パリの画家に数えられるが(その中でも特に有名な画家であるが)、彼にとってはパリは生まれ故郷であり自分の元々住んでいる街頭を描いているだけである。

それがとても寒々としている。
人は時折、街路や階段に見つかるが、本当に他者であり、何か繋がりの感じられる温もりの表情はその姿にない。
だが、白い建物や路(石畳)は構図と共にとても堅牢である。
白の堅牢なマチエールが更にその建造物の内と外を厳しく隔てているようだ。
ユトリロは勿論、外にいる。
ロートレックは中にいる(笑。(レオナール・フジタもいた)。

Utrillo001.jpg

最初に見た絵がこれだったか、、、。
とても孤独な絵だ。
孤独というものをじっくりと感じさせる。
だが、寂しいとか悲惨なものでは全くない。
確信的な孤独である為、力強い。
強度のある孤独である。


観ているうちにこちらにも力が漲ってくる(笑。
いや、本当に、、、。



プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

*当サイトはリンクフリーです。

検索フォーム
ブロとも申請フォーム
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

Movie
PC