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GOMA28

Author:GOMA28
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怪奇蒐集者 朱雀門出2

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横山一洋 監督

朱雀門出,、、、語り(作家)
蜃気楼龍玉、、、案内人(噺家)


わたしの知らなかった作家、朱雀門出の騙りを聴く映画。

朱雀門出が、かつて友人たちから聞いた不可思議な話を、作家としてうまくまとめて紹介する形をとる。
ここでは、手短に要領よくまとめられた噺が7つばかり騙られた。語り口が良くとても聴き易かった。
基本どれも合理的に説明できないが、こんな経験をしてしまった。とっても奇怪であった~怖かったという噺である。
簡単にこう言ってしまえば元も子もないが(笑。

噺はそれが嘘だろうとホントだろうが、面白いかどうか、にかかっている。
どの噺もそれを明かした当人にとっては深刻な際どい、危険ですらある内容に受け取れるものだ。
朱雀門出は第三者として客観的に整理して話しているが、距離の取り方は適切だと思う。
その後、其の情報を提供した友達はどうなったのか~どうしたか、などの言及はない。
(別に話したところで何でもない類のものもあるが)。
ただそれぞれが、微妙な郷愁を誘う、自分も友達と少年期に夢中になって喋っていたことのなかに似たような噺も含まれていた気もする。つまりそのような時空を行き来した感触が思い起こされる、、、。怖いと謂うよりやはり一種の郷愁に近い感じ。

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要は、其の噺が客観的な事実~実際にあった現実であるのか、何やらトワイライトゾーンに訪れた特殊な事象であったものか、白昼夢~無意識的な光景の報告なのか、、、ただ、どうやら夢と現が絶妙にバイパスされており、姉妹が知らず共に同じ場所を行き交う現象も起きている。そしてそれは現実にシームレスに繋がっていて、彼らの母が日常の中で目撃~確認したりもしている。
結構、われわれの世界とは、厚みがあるのだ。
というか、亜時間~亜空間と呼べばよいか、現実の傍流があるのではなかろうか。

Cさんが家族で行った動植物園で彼以外の誰も見ることの出来なかった人の生首そっくりの動物「カープテ」を、彼の他にも目撃していた人を数年後に知ることになったり、Oさんが夢のなかで妹と訪ねた「かおるちゃん」の家に、実は妹も自分の夢で姉と行っており、人肉ジュースを飲まされそうになって、ふたりで一緒に家に逃げ帰って来たところを母が現実に(日常世界で)観ていたりとか、Kさんが夢に観た西洋建築の役所と全く同じ建物を現実にも発見し、そこでも夢と同様の手順で「コノエさん」を探すが、夢では必ず係がその人を呼びに行ったところで目を覚まし、実際に遭うことは無かったのだが、現実に「コノエさん」と遭ってしまえばどうなるのか、恐怖に戦きそのまま逃げ帰るなど、、、。
これらの噺には常に死が色濃く漂っているところも共通している。

suzaku002.jpg

他にも琥珀コレクターの奥さんが昔、「小人」が入っている恐竜時代の琥珀を見せてくれた記憶が鮮明にあり、大人になってそれをもう一度確認したくてたまらず、その場所に戻るもその住所には誰もおらず、少年期のその想いが宙吊りになって残る噺とか、、、
これは上手くやればレイ・ブラッドベリ風の短編にもなるだろうか、、、。


無さそうでありそうな事が何処かであるのだ。きっと。
これらは、独りだけの内に完結した幻想とは言えず、必ず他者への広がり~繋がりがある。
そんな場所~系があるのだ。恐らく。
それを小説とか絵で描写出来たらこれは面白かろう、、、。









狂つた一頁

A Page of Madness001

A Page of Madness
1926年


衣笠貞之助 監督
川端康成、衣笠貞之助、犬塚稔、沢田晩紅 脚本
川端康成 原作
村岡実、倉嶋暢 音楽

井上正夫、、、小使
中川芳江、、、妻
飯島綾子、、、娘
根本弘、、、青年
関操、、、医師
高勢実、、、狂人A
高松恭助、、、狂人B
坪井哲、、、狂人C
南栄子、、、踊り子


多重露光が凄い(笑。明暗のコントラストも強く、、時間の錯綜~回想も絡み合って進む。
アバンギャルドな舞が屡々挟まれる、
そう、全体の動き~流れが劇と謂うより踊り~集団舞踏に近い。
音楽~効果音がまるでピンクフロイドである(怪獣映画も彷彿させるが)。
光ととてもよくユニゾンしていた。
無声映画であるから、どの時点でこの音楽が加わったのか、、、。
和楽器も無国籍なエキゾチックでモダンな響きで、、、この映像によく合っている。
大変意欲的な実験作だ。形式的に。

A Page of Madness002

内容については、原作を読んでいない為、ほとんど何も分からない(笑。
無声映画で字幕もなければ、このシュールな映像で掴めることと言ったら、、、。
舞台が精神病院で、男(病院関係者)が女性(患者)を連れ出そうとすることは、分かる。
かなり激しい医者や患者たちとの格闘場面もあるが、幻想的であり身体的に同調してしまう(エキサイトする)類のものではない。
ふたりは、年配夫婦という感じだが、、、
それ以上は分からない(爆。
チャップリン流に、途中で短いフレーズでも入ると、もう少し入り込む助けにはなったか。
(少し文字が入らないとこの凝縮された映像の緊張感に耐えきれない)。

A Page of Madness003

最初に降りしきる雨といい、踊り続ける女性に、目つきの異様な髭の男たち、生気の感じられない女、、、
不穏の塊みたいな光景が、様々なエフェクトを通して更に、悪夢として深まってゆく。
最後に皆が能面を男に被せられて踊る頃には、、、
とても静謐な狂気の「絵」となっている。
そう、覚め切っていた。


音楽がとても良かった。
1926年にこの映画、、、
衝撃的だ。
これが極彩色カラーでトーキーなら寺山修司みたいになるだろうか。

A Page of Madness004



あまり多くを語れない映画だ。
原作を読んでいれば、かなり豊かな内容が汲み取れるはず。



AmazonPrimeにて、、、
こんな映画は、ちょっと他では観れないのでは、、、わたしはここで初めて知った。


Walk on the Wild Side

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NHK日曜美術館で北海道の「シゲチャンランド」(大西重成氏の私設美術館)を観た。

ひとつ思い切ることが大事だ。
チマチマと現状維持の生活をしていては何も始まらない。
今の生活を~の為だから仕方ない、と誤魔化してはいないか。

いるべきところにいて、やりたいことを思いっきり自由にやる。
そんなオブジェアーティストのシゲチャンを見て、やはり圧倒された。

若い頃は、ニューヨーク帰りのグラフィックデザイナーで有名アーティストのアルバムジャケットなどを手掛けていた。
50歳で故郷の北海道に帰り、海辺などから拾ってきたものだけでオブジェを作る造形作家を始めた。

牧場跡地に美術館を作り、全て自分の拾ったパーツを組み立てて作る呪術的で生命力を感じるオブジェ作品で満たしてゆく。
町興しにも役立っているという。シゲチャンデザインのお菓子や土産物、店などもある。
作品を作って行く時間が歓びと驚きに満ちており、拾ったものを回収するように無駄が何処にもない。
制作理念としては、打ち捨てられていたものを成仏させるためにあるべきところに組み込むというものらしい。
(暫くの間、連れ帰ったモノを寝かしておき、対話してから組み合わせなどを決めてゆくようだ)。

一番驚いたのは、オブジェ作品を雪の中にポツンと置き、写真に収めてゆくのだが、その切り取りが名も知らぬ遠い惑星の光景を垣間見たような厳粛な感動を覚えるものなのだ。
オブジェは未知の生物にしか見えない。
孤独で崇高な存在を目の当たりにした。

色々盛沢山に情報があったが、わたしにとって、それだけで充分であった。
やはり、何かのせいにして、今の生活を正当化していても仕方ない。
要らない物を捨て、変えられるものは、出来る限り変えて、邪魔なモノとは徹底的に闘い、内部から変革して行きたい。
生きることは変わることであり、解放されることであり、濃密な時間を愉しむことに他ならない。

それにしても、凄いオブジェであった。
本当に何処かに存在するイデアを感じた。
何かをやることがそのままイデアに触れる方法ともなるのだ。
(それが自分にとって、ホントにやるべきことであれば、、、)


まずは明日から、必ずひとつ古いことを辞め、新しいことに手を付けよう。


ルー・リードの”Walk on the Wild Side”を改めて聴いた。
シゲチャンの大好きな曲だそうだ。

確かにやばい。


北斗の拳

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1986年


芦田豊雄 監督
武論尊 原哲夫 原作
高久進 脚本
KODOMO BAND「Purple Eyes」主題歌
服部克久 音楽

神谷明、、、ケンシロウ (北斗神拳正統伝承者)
山本百合子、、、ユリア (南斗の血をひく女、南斗最後の将であることは明かされない)
内海賢二、、、拳王 /ラオウ(流派などに関せず天を狙う世紀末覇者)
大塚周夫、、、ジャギ (リュウケンの不肖の弟子)
古川登志夫、、、シン (「南斗孤鷲拳」伝承者)
塩沢兼人、、、レイ (「南斗水鳥拳」伝承者)
鈴木富子、、、リン (孤児、天帝の双子の妹という素性は明かされない)
鈴木みえ、、、バット (孤児、リンの相棒)
安藤ありさ、、、アイリ (レイの妹)
千葉順二、、、リュウケン (北斗神拳先代、4人の師匠)


あの威勢のよい主題歌が流れるかと期待したが、マイナーの静かな曲しか聴けなかった。
そこは、ちょっと残念であった。
例の「ひでぶーっ」も一度しか聞けなかった。「お前はもう死んでいる」は数回聞けたか、、、。
スプラッターアクションはたっぷりあり、そこは爽快であった。
経絡秘孔を突き内部破壊を呼ぶというのもカッコよい。
あれには憧れたものだ(笑。

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全世界規模の核戦争後の荒廃した世である。
ここでは、食料を得るため暴力、殺戮が常態化していた。
当然、孤児もたくさん見られる。リンとバットにとって大変過酷な世界である。
マッドマックスに出てくるゴロツキみたいなのに、リンが捕まり、殺されそうになった時、リンの内なる何かがケンシロウを呼ぶ。
ラオウ=拳王の行進中にもリンの気配でラオウが黒王号と共に暫し留まる。
リン(そしてユリア)が特別な存在であることが暗示される。

トキは出てこない(話題にもあがらなかった)。
リュウケンの四人の弟子のうちもっとも人格者で技のキレる彼だが、、、。
出すと物語も複雑化し尺も足りなくなるか。
その代わりとんでもない下衆のジャギがタップリ出演している。
(何故こんな輩が弟子のひとりに選ばれていたのか疑問)。
他の3人は確固たる志と理念をもっているが、こいつは僻みと妬みが原動力の狡猾で悪辣な輩。

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TV、コミック版とは話も異なっており、映画オリジナル脚本であった。
(場合によっては正反対の設定部分もある)。
ケンシロウが恋人のユリアを奪われ、それを助けに旅をする大筋は同じでも異なる場面展開に戸惑ったりもする。
だがラオウとケンシロウの死闘となるとやはり、ドラゴンボールを彷彿させる異次元バトルだ。
とてもヒトの入る幕ではない。
ふたりが本気を出して対峙すれば、周囲の人間はどんな豪傑であろうが、きゃ~きゃ~言って逃げ惑う他ない。
ビルなどの建造物が粉々になって吹き飛んでしまうのだ。
シンもレイでさえもラオウにはかなわない。
ふたりとも別格の戦闘力である。

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このふたりに唯一対抗できるというか、その闘争力を無化できるのは、リンという存在(別次元の力)だけである。
そうなのだ。同じ地平上での同種の力=破壊力の競い合いでは埒が明かない。
常に戦闘力をアップし続け凌ぎを削るのみである。
これでは両者ともに消耗し尽くして共倒れが見えている。
ドラゴンボールでは、その「玉」によるリセットなどをとりいれ誤魔化しているが構造は一緒だ。

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ここでケンシロウは世紀末の救世主という位置づけである。
特にレイが自らの身を犠牲にしてケンシロウを生かそうとする。
暴力の支配する世界を変革できるのは彼しかいないと、、、。
しかしやはり、リンがカギなのだ。
この先の世界は、彼女に託される。
だがそれまでは自らの宿命を全うするだけだ、、、世界に草木が生い茂るころには、もう拳の支配する世界ではなくなる。
ラオウもケンシロウもそれを悟って闘っているところが、何とも悲哀があってよい。

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ケンシロウがユリアを追って砂漠のオアシスのような幻想の中を彷徨う姿で静かに終わる、、、。

当然、続編があって良いはずだが、、、ないみたいなのだ、、、。


ラオウの「わが生涯に一片の悔いなし」と、立ったままで往生する後編をやらない手はないであろうが。
「北斗神拳究極奥義 無想転生」も是非とも観たいし。
リンとユリアの波乱と更なる展開のなかで幾つもの山場が観られる、、、。

面白いはずだが。











ドラゴンボールZ とびっきりの最強対最強

DRAGON BALL001

1991年

橋本光夫 監督
小山高生 脚本
鳥山明 原作
菊池俊輔 音楽
影山ヒロノブ 主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA」


野沢雅子、、、孫悟空、孫悟飯(孫悟空の息子)
古川登志夫、、、ピッコロ(ナメック星人)
田中真弓、、、クリリン(孫悟空の親友)、ヤジロベー
中尾隆聖、、、クウラ(フリーザの兄)、フリーザ
龍田直樹、、、ウーロン(子豚)、ハイヤードラゴン
宮内幸平、、、亀仙人(師匠)
渡辺菜生子、、、チチ(孫悟空の妻)
永井一郎、、、カリン(仙猫、武術の神)
速水奨、、、サウザー(クウラ機甲戦隊リーダー)
平野正人、、、ネイズ (クウラ機甲戦隊)
佐藤正治、、、ドーレ (クウラ機甲戦隊)


「CHA-LA HEAD-CHA-LA」はなかなか元気が出て良い。
「気」を練ると言うが、戦闘力を高めるのによい興奮剤にはなるな。
孫悟空の声が懐かしかった。
余りにはっきりした悪役が出てくるところもスッキリしている。
ここでは冷酷非情のやたらと強いクウラだ。まず最初にフリーザに似ていて皆びっくりするが、更に強いときている。
(鳥山明のこのアニメは戦闘力を線状的にただひたすら上げてゆくことで進行~継続してゆく構造だ)。

DRAGON BALL002

余り熱心にTVで観ていた方ではないが、このあたりの流れは何となく知っている。
バトルの場面は、流石に迫力。CGは使っていない頃(セル画)のものだが、無駄がなくとても説得力あり。
それにピッコロがダンディでやたらとカッコよい。
クウラの半端でない強さと更なる変身による戦闘力アップでテンションを上手く高める手法は、このアニメならではの強みか。
悟空もスーパーサイヤ人には、自在になれるのではなく窮地に落とされたところで、意思を超えてなってしまうところが良い。
これによって出来るタメが物語をよりドラマチックに、そして効率的にカタストロフに繋げてゆく。
もうひとつ、ドラゴンボールが出てこないことが良い。これによって白けるからだ。
せんずで元気が出て盛り上がるというのなら良いが、単にリセットしてしまう何でもありのゲームとなれば、折角の物語としての緊張感は無くなり、解体してしまう。

悟飯が苦労してせんずをカリンというか、ヤジロベーから貰ってきたのに、気を察知されサウザーに悟空が食べる前に燃やされてしまう。だが、しっかり一個だけ別にヤジロベーに渡されていたことに悟飯は気づく。この辺、ヤジロベーがひとつ別にくれたところで、先が読めてはしまうが、期待通りの上手い伏線と回収になっていて、それはそれとして気持ちが良い。
このような形で、演出が山を作りながら決着に向けて大きく盛り上げて行く。
なかなか演出が良く練られた戦闘ものアニメだ。

ここには、ベジータは出てこなかった。悟空に嫉妬しながらも同胞意識と自らのプライドとの狭間で葛藤しながら闘う姿が味のあるキャラである。ちょっと彼がいないのは物語に厚みが無くなるかも知れない。その代わりピッコロが肝心なところで大活躍である。
これも良いかも。

DRAGON BALL003

どんどん戦闘力を上げるばかりの無敵のスーパーサイヤ人と洗練されてゆくだけのCG表現だと、観ることに距離が出来てゆき面白みや興奮は減衰して行く。この頃がもしかしたら一番パワーバランスもよく、面白い時期であったかも、、、。

北斗の拳も観たくなった(笑。
これもオープニングの曲がとても元気がある。
兎も角、疲れた時に「気」をパアッと発散するには、良いかも知れない。


だがわたしとしては、二期クリムゾン、バンダーグラーフ、、、ニューオーダー、キュア、、、とかを聴く方がトランス状態になってスッキリ覚醒できる。
久しぶりに聴くか、、、。



AmazonPrimeにて、、、。

衹園囃子

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1953年

溝口健二 監督
依田義賢 脚本

木暮実千代、、、美代春(芸妓)
若尾文子、、、栄子(舞妓・美代栄)
進藤英太郎、、、沢本(栄子の父)
河津清三郎、、、楠田(車両会社の専務)
菅井一郎、、、佐伯(楠田の部下)
小柴幹治、、、神崎(役所の課長)
田中春男、、、小川(美代春の馴染み客)
浪花千栄子、、、お君(お茶屋の女将)


わたしのもっとも苦手な類の噺だ。
いくら出来が良くても~日本の伝統的美意識、、、路地や着物や調度、所作の美しさが極めて精緻に描かれていようが~こういう映画は観たくない。
本人には、全く落ち度がないにも関わらず、周囲の人間から人格・人権を無視、否定された仕打ちを受け続けてゆく姿は見るに耐えないのだ。
見ていて激しい憤りを覚え、何度も観るのを途中で止めてしまった。
実は同じく溝口映画の大傑作とされる「西鶴一代女」もヒロインへの余りに理不尽な仕打ちに観ていられなくなり途中で放棄した。
救いが全く無いのだ。
そのまま、、、。わたしが最後まで吸い込まれるようにして観たのは「雨月物語」だけである。今のところ。
「絵」の作り~構図やロングショットがどれ程、見事であっても噺が受け付けないのでは、見切れない。

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これは、とてもキツイ時間を強いられる。
木暮実千代(美代春)と若尾文子(栄子)以外の誰に対しても虫唾が走る。
自分の愚にもつかない欲だけで人を踏みにじる連中ばかり。
(自分が憎らしいと思う輩とだぶるところで余計に頭にくる)。
これで観ろと言われても、拷問みたいだ。
別に誰に勧められた訳ではないが、小津映画をかなり続けて観て来たし、あの「雨月物語」の溝口映画も、と思ったのが不味かった。
彼女らが、いくら酷い目にあったとしても、この先に僅かでも希望が残されたものならばまだしも、これは無間地獄である。
何でこんな目に合う必然性があるのか、、、。

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或る意味、これが「祇園」のリアルであり、ひとつの文化(因習)とも受け取れもするが、感情的に納得できない。
「西鶴一代女」のお春も悲惨の極みだが、これも同様である。
美代春にこの先、自らの生きる喜びがあろうか。
栄子を守るためとは言っても、自己犠牲の精神だけでよく生きることなど可能か?
無理である。
普通、途中でダメになる。
折れる。

「祇園」の枠~パラダイムを出て、徹底的に戦うしかない。
とは言え、少なくとも栄子は技芸学校で先生から日本国憲法の理念について学んでいる。
つまり戦後民主主義の洗礼は受けているのだ。
(だから余計に古い仕来りに納得がいかず苦しいという面は大きい)。
そこで自分を親身になって庇ってくれる美代春ともぶつかり合う。

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だが本質的に体制がどう変わろうと、何も人は変わらないよ、ということであろう。
特に欲については、なおさら個人主義的に我欲を追求してゆくものだ。市場原理主義の下。
今現在のこのスーパーフラットな地平においても実質、金や名誉の為に身売りしている人間は沢山いるはず。
こうしたドラマを見るたびに、生きることは、解放されることである、と心底思う。


ふたりはぶつかり合った後により絆を深めたようだ。
これは偏に栄子に対する美代春の強い愛情によるものである。
このふたりの鞏固な関係が、もしかすると救いを齎してゆくのか、、、確かに力強く並んで歩いて行く、、、
そう思わなければやり切れない。

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映像や美術の見事さは、確かに感じるものであり、「お茶屋」のシステムには何とも言えぬ感慨をもつが。
内容が生理的に観るに耐えないのだ。
これが現実だと言われればそれまでだが、あえてそれ~グロテスクな光景を見る気になれない。




AmazonPrimeにて、、、



戸田家の兄妹

Toda Family001

Brothers and Sisters of the Toda Family
1941年

小津安二郎 監督
池田忠雄、小津安二郎 脚本

佐分利信、、、昌二郎(次男)
高峰三枝子、、、節子(三女)
葛城文子、、、母
斎藤達雄、、、進一郎(長男)
三宅邦子、、、和子(妻)
吉川満子、、、千鶴(長女)
藤野秀夫、、、戸田進太郎(父)
坪内美子、、、綾子(次女)
笠智衆、、、昌二郎の友人
桑野通子、、、時子(節子の親友)
飯田蝶子、、、きよ(女中)


今日はまた太平洋戦争前の映画だ(日中戦争後)。
とは言え、日本は既に軍国主義に走っており、不穏な情勢の中、全ての表現~芸術作品の制作にとって大変な時期に入っている。
(既に「国体明徴声明」により、日本が天皇の統治する国家と定められ、立憲主義の統治理念は否定されている)。

また、フィルム劣化の問題。
これもせりふが聞き取り難い。
土砂降りの大雨かと思ったら「今日はいい天気だ」という佐分利信の言葉、、、それほどノイズが凄い。
せりふもボソボソと呟くものが多く、大切な会話のやり取りが見えてこないところもある。
ローアングルから、部屋全体を窓の外の眺望までしっかり正面から切り取る構図は、このように最初から完成されていたのか。

Toda Family006

笠智衆は主人公の友達その一か二であった。
酒の注文を勢いよくしていた(笑。酒の強いイメージはある。旨そうに酒を呑むこと。
肝っ玉母さんがよく似合う飯田蝶子は、女中役でこれもほんの少しの顔出し。
豪華な脇だ。
主人公は「父ありき」で成人したかつての「父」の生徒の佐分利信であり、優等生的雰囲気が、ここでは奔放で豪快な性格も発揮している。

Toda Family003

大事業家の家長が亡くなり借金が発覚する。大変豪奢な洋館に住むファミリーであったが、家財や遺産(相当な文化財)を処分することとなり、屋敷で一緒に住んでいた母や未婚の娘が親戚の家で暮らすことになる。これはさぞや大変なことだろう。
片方は他人なのだから。そしてやたらと気位が高い。
上流階級であるため、何かと窮屈で面倒なのだ。何よりも彼らには体面というものがある。
経済的に大変になり、節子が務めに出ようとしたら姉に、御家の恥だとばかりにしこたま怒られる。
次女の家でも長男の嫁にも長女の家でも母娘共々ギスギス文句を言われ、傷んだ鵠沼の別荘に移り住むことにする。

Toda Family004

「今日お友達が遊びに来ますの。お母様と節子さんには外に遊びにいらしてくださらない?」と言うことで、外に出ていて遅くに帰って来てもまだ客がいたためにそっと自室に戻っていると、「何故、お帰りでしたのにご挨拶に来てくださらないの?」である。
もし、顔でも出したものなら、わざわざ外に出てもらっていたこちらの気持ちをお察しくださらない?とか当然文句を言うはずだ。
そして一日中さして用のない都会を彷徨い歩いて疲れたところに、夜中にピアノである。
風呂にも入れず、客の帰りを待っていて、ついにそのまま布団に入ったところで、、、。
これには我慢が出来ず、止めてもらいに行くと逆に、こちらも気を使っていることがお分かりでないの?とかいう態度なのだ。
要するに、居るということ自体が気に喰わないということである。
厄介者扱いということだ。世知辛い上流社会。

節子の相談相手は、数少ない庶民の時子くらいのものである。
彼女はOLをして自立しているようであった。
節子は、母と何処かに独立して住みたいと願い始めていた。当然であろう。
「わたしにもできるかしら」
「あなたの家は人を使う側だから、勤めると言ってもおうちが許さないわよ」と忠告される。
その通りであった。
特に未婚の娘が仕事など論外ということらしい。なるほど、、、。
男尊女卑の態度や使用人に対する奴隷のような扱いも気にはなる部分ではあったが。
(子供ですら親と同じ態度を女中に対してとっている)。
このご時世が窺えるものである、、、(映画の歴史的価値としの記録性)。

Toda Family002

昌二郎は世間体や体裁など一切気にせず、やりたいことを自分の意思に忠実にやる人間であり、節子と母を荒れた別荘に追いやった兄弟たちを一喝する。
そして母と節子と女中のきよを自分が事業を展開している天津に呼ぶことにする。
そこなら働こうと思えばだれもが幾らでも自由に働けると、、、。
自分のやりたいように周囲に気兼ねせず出来ると。
母と節子の表情が久しぶりに明るくなる。
やはり人間は解放されないと、健康的な生活は送れない。
解放度の高い程、活き活きと暮らせるものだ。
(ここは現代のわたしにおいても課題である)。

Toda Family005

ついでに昌二郎の嫁は、節子が世話をすることに、、、。
お相手は、賢く綺麗で気立ての良い庶民の出の時子である。
(確かに節子の分身のような存在の時子)。
それに対して昌二郎も負けじと「俺みたいなやつ」をみつけてやると、、、。
とっても可愛くはにかむ節子、、、。
何だこりゃ、、、どうもこの「兄妹」微妙。まさに謎の「戸田家の兄妹」であった。

小津作品にはこういった縁談が噺の中によく登場する。
酒場シーンと同様、小津映画には頻出するが。
ここの縁組話は、また特別な質感~次元を覚える、、、。
恐らく細密に見てゆくと、重奏する意味の流れが顕わになるような映画、、、。
(フロイト的な分析をしたら味気ないが)。


何にせよ、この辺の時期の小津フィルムは、かなりの費用は掛かるはずだが修復して保存管理してもらいたい。
どうにも観難い。












父ありき

There Was a Father001

There Was a Father
1942年


小津安二郎 監督
池田忠雄、柳井隆雄、小津安二郎 脚本

笠智衆、、、堀川周平
佐野周二、、、堀川良平 (息子)・津田晴彦(少年時代の息子)
佐分利信、、、黒川保太郎
坂本武、、、平田真琴
水戸光子、、、ふみ
大塚正義、、、清一
日守新一、、、内田実


笠智衆主演映画である。これを観ないでどうする、という感じで観てみた。
修復の必要性を強く感じる、カットもかなりされた戦時中の映画であるが、とても良い映画には違いない。
(確かに流れの上で不自然なカット~編集を感じさせるところは気になったが)。
戦時ということもあるか、死の匂いは全般に漂う。

この役~元教師で企業の中間管理職が如何にも笠智衆らしく、せりふも実に多い。
つまり存分に楽しめる(ものなのだが、よく聞き取れないところが少なくなかったところが残念)。


戦時中の映画とは言え、只管父と子の絆を描きあげたものである。
男手ひとつで息子を励まし支え伸び伸びと育て上げてゆく。
当然、良い息子となっている(若干ファザコン気味ではあるが、心配するレベルではない)。
父も息子を大学まで出すために東京に出て働く。
仕事と全寮制の関係もあり、一緒に暮らす時間は少なかったが、自立し立派になった息子と、とても濃密な1週間を過ごす。
父子ふたりで温泉に浸かって静かに語り合う姿は堪らないものがあった。
息子の子供時代と大人になってからの旅行での二回、ふたり同じように(自然の流れでシンクロして)川釣りをする姿は印象に残る演出だ。
そしてまるで一生の締めくくりと取れるかつての同僚教師や教え子と盛大な宴を開き、父は満足して他界する。
彼は、やるだけのことはやったから後悔はないといった言葉を残す。
それは、仕事だけではなく息子に対してもそうであった。

There Was a Father003

理想的な父子に見えた。
羨ましい。
確かに離れて暮らすことは多く、息子としては寂しい思いはあったはずだが、父との関係はすこぶるよいものであった。
長く一緒にいればよいものでは決してない。
それが毒父であったら息子にとっては被害甚大となるばかり(経験者は語る)。
向かい合った際、どういうことばのやりとりが出来るかどうか、である。時間など関係ない。
ことばである。
どんなことばを発するか。
ことばが全てなのだ。

ただ、映画のノイズが全般的に大きく、特に前半の子役の息子と父とのかなり重要な対話の部分が何とも聞き取り難かった。
ここが残念なところである。
フィルムの修復をしたものを是非もう一度観直したい。

There Was a Father002

大人である息子役の佐野周二に自然に繋がる容姿の子役の津田晴彦の人選には感心した。
「一人息子」の息子役、日守新一のにこやかな笑顔がここでも見ることが出来、何か得した気分になった(笑。

何といってもフルに出ずっぱりの笠智衆の演技を堪能できたことがともかく良かった。
芸風は不変である。

小津映画とは切っても切れない笠智衆がこれだけ見られる贅沢で、この映画については謂うことなし。

「東京物語」を観たくなった。








一人息子

The Only Son003

The Only Son
1936年

小津安二郎 監督・原案
池田忠雄、荒田正男 脚本


飯田蝶子、、、野々宮つね(母)
日守新一、、、野々宮良助(一人息子)
坪内美子、、、杉子(良助の妻)
吉川満子、、、おたか(隣家の奥さん)
笠智衆、、、大久保先生(トンカツ屋主人)


どんどん時代を遡って観て来た小津映画。3本目。
昨日観た11年後の小津映画でもヒロインで大活躍の飯田蝶子さんの若いのに老成した演技の光る作品。

1936年の作品である。構図はこの頃から決まっており、枕詞の静物ショットも効果的に配されている。
チャップリン(サボタージュ)やヒッチコック(モダンタイムズ)が名作を発表している時代ではあるが、、、
流石に時代をヒシヒシと感じさせる。
最初出てきた笠智衆が飛んでもなく若い(彼と気づかなかったではないか)。
フィルムのノイズが気になり、小津監督の初のトーキー作品ということだが、セリフが聞き取りにくい。
立身出世主義の時代である。
東京と言えどもまだ怖い程ガランとした空間が開けている息子の住む土地。
別に職業に卑賤はなく、夜学の教師だろうとトンカツ屋を営もうと何でもよいはずだが、収入の点で大変厳しいものであったようだ。
大金を儲けていれば、取り敢えずは文句はないというところであろうが、、、。
確かに息子の良助宅も大久保先生のトンカツ屋にしても場末感が半端ではない。
とても金に困っており、田舎から訪ねてきた母に御馳走を振舞うにも同僚から借金しなければならない状況だ。
夜でも近所から機械の音が聞こえる。そのために家賃が少し安いという。そんな住居。

The Only Son004

息子としては、母を東京に呼びたくなかった。
女手一つで紡績工場で働き息子を東京の中学に進学させ将来に夢を託したのだが。
学費の工面で家財全てを売り払い工場の長屋住まいで長年懸命に働き、独り立ちした息子の暮らしぶりを見に上京したら、そこには想像と全く異なる光景があった。
しかも妻もいてその子供~赤ん坊もいた。
愕然とし絶句する母。
その様子に項垂れつづも明るく振舞い母に御馳走し行楽地を案内して回る息子。

息子としては彼なりの幸せは手に入れていると思うが、母の思いに対する負い目というか義理に対し引け目を感じている。
お前の幸せを願うという母の「幸せ」に達していないと痛感してしまう息子(夫婦)である。
当時のパラダイムからくる落ちこぼれ感でもあろう。

母は何とか現実を受け止めようとするが、経済的に困窮している様子は直ぐに察知した。
息子の恩師で夢を抱き、地方の教師を辞め上京していた大久保先生もかつての精悍な面影はなく、寂れたトンカツ屋を開いている。
(ここでの笠智衆はメイクもあるかしっかり落ちぶれた感じであった。芸風は不変である)。
これが東京というもんですよ、おかあさん、と言われても息子の立身出世のために身を粉にして働いてきたつねには納得できない。
(この設定、見ようによっては「夜学の教師」や「トンカツ屋」から抗議を受け兼ねない差別的なものでもある)。

The Only Son001  The Only Son002

やるだけのことはやったが、ここまでだったと過去形で語る息子に、まだ若いのだからこれから先の希望を持てと檄を入れる母。
傍でオイオイ泣く息子の妻。
口を半開きでひたすら眠り続ける赤ん坊、、、。

何かと助け合っている隣家の奥さんの子供が馬に蹴られ大怪我をした際、進んで介抱し医者に連れて行き、治療費の足しにと金を渡す息子の献身的振る舞いに接し、母は鼻が高いよと言って息子を褒める。
とても嬉しいと言いつつもどこか複雑な思いでいる母。
そしてお金をくるんだ手紙を置いて郷里の信州に帰ってゆく。

息子は、そこでもう一回勉強をし直して頑張ってみると嫁に誓うのであったが。
(ここで何故かわたしは、クレヨンしんちゃんを思い浮かべてしまった。意味は分からない。いや、もっと能天気に生きても良いのでは、と頭をよぎったせいか)。

特に社会的地位を得たり金儲けしなくても、愛情に満ちた生活が出来れば基本充分であると思うが、どうしてもそれでは不足感をもってしまう時代性(又は心性)というものはあるだろう。
「足るを知る」という老子の言葉もあるが、、、。
勿論、今はこれ程、一元的な富や名誉に拘る心性は少なくなったにせよ、個人主義から価値観も多様化したとはいえ、一人息子への幻想は様々な形態をもって強く圧しかかっていることだろう。一人息子でなくてもそうであるが(比較によって更に強い抑圧と疎外が生まれれる場合も多い)。
毒親の増殖から見てもそれは謂える。


冒頭の芥川龍之介の『人生の悲劇の第一幕は親子になったことにはじまっている』という引用が感慨深い。
淡々としているが、結構重い映画である。そう、実に重くて厄介、、、。










長屋紳士録

Record of a Tenement Gentleman001

Record of a Tenement Gentleman
1947年

小津安二郎 監督
池田忠雄 小津安二郎 脚本


飯田蝶子、、おたね(長屋に住む未亡人。荒物屋を営む)
青木放屁、、、幸平(父と逸れて連れてこられる)
小沢栄太郎、、、幸平の父親、大工
河村黎吉、、、為吉
吉川満子、、、きく女
笠智衆、、、田代
坂本武、、、喜八
高松栄子、、、とめ
長船フジヨ、、、しげ子
河賀祐一、、、平ちゃん
谷よしの、、、おかみさん


おたねさんが実に良い味を出していた。
今、こういった初老の味のある女優はいるだろうか、、、。
樹木希林や市原悦子ほどの強烈な個性は無く素朴でぶっきらぼうで憎めないタイプ。
そのおたねと幸平の「間」の演技は絶妙と言うほかない。
彼女と田代と幸平を軸に、全体にユーモアとペーソス漂う映画であった。
相変わらずローアングルの確立した構図~奥行きに全てが整然と収まっている。


この時期、戦災孤児は上野とかにかなりいたという。
終わり間際のシーンでは、年端も行かぬ少年たちが上野公園でタバコを吸ってたむろしていた。
舞台となる長屋近辺でも孤児と思しき少年らが釣りをしていた。その日食べる魚の調達だろうか。

Record of a Tenement Gentleman004

ここでも八王子で焼け出された大工の息子が父と逸れて寄る辺無き身のところを長屋に連れてこられる。
連れて来たのは笠智衆演じる田代であった。
(口髭を生やし髪は黒々として歌を唄いまくる「のぞきからくりの口上」、らしくない胡散臭い笠智衆だ)。
茅ヶ崎からついて来たから仕方ないと言って。
だが、自分の家に泊めるのではなく、戦争未亡人のおたねに押し付けて去ってゆく。
「一晩泊めてやっておくれよ、、、」と、いい加減な男だ。その後どうするんだ。
その子は父親のタバコの吸い殻と釘をポケットにしまっている。

警察に届けるなんていう状況~時代でもないのだろうし(例え引き受けようがその子に関する情報が徹底的にない)、行政や福祉が動く時代ではない。そもそも機能するネットワークもないのだ。
置き去りにされた子供らは一体どうしたんだろうと思う、、、。
このような下町人情がなければ、恐らくどうにもならない。

Record of a Tenement Gentleman005

とは言っても最初のうちは押し付け合いである。
誰も生活に余裕などないのだから。
その上、その子に可愛げがない。少なくとも現代的な可愛さ~キュートではないのだ。
おたねさん曰く「こちこちの握り飯みたいな顔でこっちを睨むんだよ」(爆)。おたねさんの睨みも怖い。
無口でむすっとしていて、純朴なのだが不器用で。返答に窮するとフエ~ンと泣き出す。
おまけにオネショをする始末。
これには、おたねさんも怒りまくる。団扇を渡してこれで扇いで乾かしな、と。

ちょいと品のあるお友達が度々遊びに来ては帰りに「おやかましゅ~」と言って去るのが印象的だった。
当時の言い回しもいろいろと面白い。
この人の行き来が軽妙な(情報の)やり取り、適度の距離感と微妙な他者性があって、風通しの良い長屋の良さを感じる。
おたねの「捨てられたんだか、逸れたんだか、あんたんとこいらないかい」に対し、そのご婦人の「いらないねえ。ゴムのホースならほしいけど」には、笑った。

何とか誰かに引き取って貰いたい彼女~長屋の彼らは、田代が最初に出逢ったという茅ヶ崎にその子を連れてゆくことにする。
(この役を長屋では籤引きで決めた。もしこれを話し合いなどでやっていたら埒が明かない。籤引きとは、大変優れた物事を決める手段~方法である。英知の賜物である)。
現地で聞いて回るが、八王子で焼け出されてやってきた父子であるということ以外分からない。父はどうやら仕事の目途がついたらしいが、何処に向かったかは分からない(つまり新しい情報はなにも得られない)。
海辺の砂浜でおにぎりを食べながら、あんたの父親も薄情な男だねえとか話しながら、海に行って貝拾ってきてと言って、おたねは大急ぎで砂浜を駆け登りサッサと逃げてゆく。しかしそれを見つけたその子もまっしぐらに走って来て彼女に追いつく。
ここの砂浜の白を背景にしたシーンは、「東京物語」の埠頭でのシーンにも繋がる美しくも幻想的な光景だ。
結局、茅ケ崎で引き取り相手を見つけることなく、一緒に戻ってくることに、、、。

Record of a Tenement Gentleman003

それからも、その子はおたねに干し柿泥棒と間違えられこっぴどく叱られたり、またもやおねしょをしてしまい叱られるのが怖くて、布団を畳んで逃げるが行くところもなく、また田代に駅で拾われ戻って来たり、、、。(この男は自分では何もしないくせに連れてくるだけのことはする(爆)。
おたねのムンっという睨みつける顔は、まるで犬、猫相手にするようなものにも見える。
(そもそも田代も捨て犬か猫を拾ってくるような感覚で連れてくるのだ)。

猫と言えばわたしも子供の頃から14匹飼ったものだ。一匹いなくなると直ぐに次が尻尾を立てて、やって来る。
一度もペットショップなどで買ったことなどない。全て遊びに来て居ついてしまう猫たちである。
一匹一匹、こうも違うかというほど、個性や性格、能力も違うが、それぞれに癒されたものだ。
未だに想い出に鮮明に残る猫もいる(ホキと名付けた真っ白な猫だ)。
思い返すとどれ程猫たちに救われていたか知れない(人に壊された脳を猫に治癒してもらった部分は大きい)。
話は逸れたが、一度姿を消してからその子の存在の大きさに気づくおたね。猫にしてもそうだが。
彼が戻って来てからは、それまでの接し方とは打って変わって、良いものを着せ、上手いものを食わせ、動物園に連れて行き、一緒に写真館でおめかしをして記念写真まで撮る。特にスイミングキャップみたいな帽子を普通の帽子に買い替えたのは正解だ。
自分が引き取り育ててゆく決心をしたのだ。
その子を目を細めて見るおたねの表情は愛情に満ちている。
おたねもその子のシラミか何かをもらったようで、ふたりでシンクロして肩を揺らす。

Record of a Tenement Gentleman002

そしてある夜突然、幸平の父がやって来る。
気持ちの優しそうな礼儀正しい男で、彼も必死に逸れた息子を探していたという。
息子が世話になった礼を丁寧に述べ、土産を置いて行こうとする。
彼女は、幸平の為に買い求めたもの一式をまとめてせわしなげに父に手渡す。もう自分の元にとっておく必要などないのだから。
彼らを見送り、後に一人残るおたね、、、。思えば共に過ごしたのは、一週間程であった。

おたねは知らぬうちに干乾びてしまっていた自分がその子に癒されたことを深く実感し、彼が父と幸せになることを心の底から祈る。





風の中の牝雞

A Hen in the Wind001

A Hen in the Wind
1948年

小津安二郎 監督
斎藤良輔、小津安二郎 脚本

田中絹代、、、雨宮時子
佐野周二、、、雨宮修一(復員した夫)
村田知英子、、、井田秋子(時子の親友)
笠智衆、、、佐竹和一郎(修一の同僚)
坂本武、、、酒井彦三(大家)
岡村文子、、、曖昧宿の女将


笠智衆が驚くほどの若さ、、、これが一番印象的であった(笑。
芸風は全く不変である(この一貫性、尊敬に値するレベル)。
彼が喋るとこの世であって、この世でない感覚になってゆく。(これが見事に「東京物語」に結実する)。
相変わらずのローアングルは小津映画だという安定感を覚えるが、今回は階段を見上げ見下ろすアングルが加わる。
縁側から望む鳥籠や植木に代わり、街角や大きな工場の隙間に揺れる洗濯物がその役割を果たしていた。

A Hen in the Wind002

昭和23年である。
戦後間もないと謂うより、戦地からの復員をまだまだ首を長くして待っているという時期だ。
国民健康保険の制度もなく、アルバイト仕事の求人があるわけでもなく、母子で家を守る側もさぞ大変であったはず。
ここでも幼い子供が大腸カタルになり、医者に診せたことで、病気は治るが治療費が支払えず、曖昧宿(青線)を一度だけ利用してしまう。後でこのことが日頃から資金援助など助けてくれている親友に知れ、相談しなかったことを責められる。
だが、親友自身も大変な生活をやりくりしており、とても声を掛けられなかった。
どうにもならない事情はいつでも起こるモノだが、その事後処理こそが肝心かも知れない。

そんななか夫が突然、無事に帰還してくる。
物静かで温厚な男である。
良かった、ということで家族三人水入らずの待望の生活が始まるはずが、この奥さんよりによって夫に喋ってはならないことを正直に伝えてしまうのだ。
隠し立てが出来ない性格と言えば、聞こえは良いが墓場まで持ってゆくべき事もあろうに。

A Hen in the Wind004

これもまた、いつも世話を焼いてくれる親友に叱られる。それはそうだ。
夫はその日から苦悩に表情を歪め、怒りを顕わにし妻を遠ざけるようになる。
折角飛んでもなく大変な目に遭いながらも日本に戻って来たのに、恐らく一番聞きたくないことを知らされたわけだ。
しかし妻の身になれば、あの状況にあって我が子の命を救うにあたり、とった行為を誰も責め立てることなど出来まい。
ただ、そのことではなく、何でわざわざその件を夫に告白する必要があるのか。
(宗教上の理由があったわけでもないようだし)。
その影響を考えないのか、、、性分と謂うよりシミュレーションも想像力も働かせないおっちょこちょいなのかも知れない。

恐らく夫が無事に帰って来た家庭であっても、このような悲劇は少なくなかったのだろう。
すんなり万歳、これからは民主主義だ~と明るく楽しい生活が始まるという能天気な家庭はほとんどなかったと思われる。
双方の時間の交差から何らかの蟠りや躓きが生まれても不思議はない。

A Hen in the Wind003

そもそも日本が太平洋戦争~アメリカとの戦争にまんまと引き込まれたのも、情報戦に負けた結果であった。
情報の扱いを誤ると時に命取りとなる。
ここでも4年間待ち続けた夫が帰って来てからの方が、地獄のような耐え難い日々となってしまった。
皮肉である。

後半、修一が時子が行ったという曖昧宿に赴き、そこで働く21の若い女性と草原で弁当を食べながら対話するところで、ホッとする。
追い詰められた妻の行い~置かれた状況を相対化する視点を探ってることに共感出来るところだ。
心情的な大きな蟠りを捨て、全てを受け容れようと模索する姿がやんわりと描かれている。

最後に懇願し縋りつく時子を修一が振り払い、その弾みで彼女が階段を頭から下へと転げ落ちてゆくシーンがある。
これには、度肝を抜かれた。
しかも音と事後の姿でそれを暗示させるのではなく、あからさまにその様を映すのだ。
暴力による大変危険な事故場面である。
何もここまでする必要はなかろうに。あくまでも映画演出上。
(ちょっと畳に突き倒すくらいでは、ダメなのか、、、)。

しかしこれは、敗戦の衝撃とそこからの再生にだぶらせる適切な劇的シーンであったのかも知れない。
これを機に、夫は妻を抱き寄せ、これから夫婦で何があってもお互いを労わり合いしっかりやってゆこうと誓うのだ。
大変、熱の入った感動的シーンかも知れなかった、、、。
過去を振り払い、共に前に向かって突き進もうという力強い。

A Hen in the Wind005

とは言え、今のわたしの感覚では、階段の下でピクリともせず横たわっている妻に対して大丈夫かと声をかけ、漸く気が付いて手摺ににつかまり上がって来た彼女に向かい、ちょっと歩いてみろと命じ、よろよろと壁伝いにビッコを引いてゆく姿を見て、よし、は無いと思う。まず医者に診せないと。頭を打っていたらこの後激変する可能性もある。打ち所が悪ければ命に関わる。
わたしは、以前娘が椅子から落ちた時にすぐに救急車を呼び脳の検査をしっかりしてもらった。
今の感覚では、そうだと思う。

この夫の感覚は、まだ明らかに戦時中である。
まだ、戦後ですらない。
ジャングルの兵隊感覚である。
体よりまず精神先行である。これから日本を立て直してゆくぞと二重写しになるような夫婦の強い誓いであるが、この奥さん大丈夫だろうか、という心配が映画の感動的流れとは別に生じてしまい、終盤かなりの距離感をもって観てしまった。


やはりわたしは、ほぼ彼岸に行ってしまっている(この世とは思えぬ)「東京物語」が一番好きだ。




AmazonPrimeで、、、




娘よ

Daughter001

Daughter
2017年
パキスタン・アメリカ・ノルウェー


アフィア・ナサニエル監督・脚本・製作


サミア・ムムターズ、、、アッララキ(母)
サレア・アーレフ、、、ザイナブ(娘)
モヒブ・ミルザ、、、ソハイル(トラック運転手)


カラコルム山脈の絶景。
音楽の荘厳さ、、、。
映像自体が圧倒的である。

極彩色の衣装に、堀の深い端正な顔立ち、そして勇壮な自然、、、。
エキゾチックな魅惑的な風景だが、人の暮らしは厳しい。

その麓での部族間抗争を収める為の政略結婚に8歳の娘が選ばれる。
部族長の幼い娘だ。
結婚相手はもう初老でもある先方の部族長である。
人権無視もよいところで、娘は結婚が何かも知らない無邪気な遊び盛りの歳である。
他に解決策は無いのか、、、。
。。。無いらしい、、双方の長がそれで納得なのだ。
確かにレヴィ=ストロースの言うように、共同体間の安定維持は女性の交換によって成り立ってきた。
だが、せめて二十歳ぐらいの娘の中から募集したらどうなのか、、、。

Daughter002

母は幼い娘を連れて逃避行に走る。
彼女には近代的自我~個人がしっかりあるのだ。
娘というひとりの独立した人格の自由を守らねばならない。
ふたりの会話を録音したテープレコーダーをかけたまま部屋に鍵をかけ窓から抜け出す。
なかなかオシャレ。

ふたりに逃げられたことを知った両部族長は怒り心頭である。
自分の部族と相手の部族が同時に追っ手を放つ。
捕まったら少なくとも母の方は命はない。
娘は強制的に高齢な相手部族長の嫁である。
探す途中あちこちに当たるが、嘘をついていると思われた者はあっけなく銃殺。
追っ手は厳しく皆懐疑的で、怪しいとなると直ぐに撃ち殺されるのだ。
ドキドキ、ハラハラである。
この辺では誰もが銃を携帯するのか。
共に面目を潰された同士で血眼で母娘を探しまくる。

Daughter004

緊迫する逃避行の中で、娘は目を離すと子犬と遊び始めたり、、、母と途中から道連れとなったトラック運転手は気が気ではない。
トラックの中ではお漏らしをするし。
しかしこんな子供を嫁に出せとは、いったい、、、。
そこでこの子の人生終わりではないか。
この文化圏で、この母は立派である。
そして出逢ったトラック野郎がこのパラダイムに収まらないモナドの人であったことが幸いであった。
トラック自体飛んでもないデコトラであったし。
もしそうでなかったら直ぐに部族の権力者に引き渡されていただろう。
ご褒美も当然貰えるだろうし。

Daughter005

しかしどの国においても、子供の育成に関してはまだまだ様々な深刻な問題が山積している。
これらは、あまり話題にも議論にもなっていないが、人類のとってすこぶる重大な課題でもあるはず。
勿論、このような婚姻制度もそのうちである。


最後の祭り?の場面の緊迫感は耐え難い程。
祭りの環境音~激しく打ち鳴らされる太鼓の音などがそのまま演出のBGMとなるところなど素晴らしい。
他の映画でも大概そうだが、このような状況下で肉親(ここでは長年逢っていない年老いた母)に逢うことほどリスキーなことはない。
追っ手も探しあぐねて肉親の近辺を張るであろうし、肉親がリスキーな人間に連絡をとってしまうこともある。
ここでもやはり「それ」がやって来て、頼りとなるトラック男とその追っ手との取っ組み合いから銃の撃ち合いにもなる。

Daughter007

結局、ここまで頑張って来た母は流れ弾に当たって倒れてしまう。
幼い娘に介抱されながら車で病院に向かうが、どうなるかは分からない、、、。
そのままエンディング。
この母には助かってもらいたい、、、。
実話ベースのようだが、この地方なら珍しいことではないようだ。

Daughter003

初めて観るパキスタン映画。
ここでもトヨタとマツダの車が行き来していた。
子供の人権は世界の何処でも(当然、日本でも)驚くほど踏みにじられている。
ピストルのドンパチはないにしても、、、。
この状況の深刻さに気付かない人間の何と多いことか。
(わたしもその被害者の一人である。周りの大人の目は皆節穴であった)。


この監督の映画はチェックしてゆきたい。



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