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ザ・ドア 交差する世界

Die Tür002

Die Tür
2009年
ドイツ

アノ・サオル監督
ヤン・ベルガー脚本
アキフ・ピリンチ原作『Die Damalstür』

マッツ・ミケルセン、、、ダヴィッド・アンデルナッハ(有名画家)
ジェシカ・シュヴァルツ、、、マヤ・アンデルナッハ(妻)
ヴァレリア・アイゼンバルト、、、レオニー・アンデルナッハ (娘)
トーマス・ティーメ、、、シギー(ダヴィッドの隣人)
ティム・ザイフィ、、、マックス(ダヴィッドの親友)
ハイケ・マカチュ、、、ジア(ダヴィッドの隣人で愛人、ミュージシャン)


よく出来た映画で、びっくりした。
神学的な意味での罪というものを匂わせる作品であった。
ただ、愛する一人娘が自宅プールで溺れ死んでしまうのだが、どれだけ深いプールを庭に作っているのか?
ドイツのプールはみんなあんなに深いのか?サメが出てきそうなオッカナイプールである。
それにも正直びっくりした。

パラレルワールドを究極の救済(死を超える場)として縋るヒトたちの在り方を見応え充分に描いていた。
この時期(2006年)は、まだかなりファンタジックな次元で捉えられていたであろうパラレルワールドであるが、いまや理論物理学の重鎮ともいえるような学者たちが、パラレルワールドを考えないと辻褄が合わないと唱え、それぞれの理論を提唱している。
(この噺が主体ではないのでやめるが、、、面白いものだ)。
ビッグバン時に無数の泡宇宙が形成されたという理論は特に有名。
ただし、他の宇宙の観測自体が原理的に不可能であるため、理論上でしか説明はつかないものとしてある。
(別の時空にあるために相互作用がない。しかも物理原理が全く異なる世界が想定されている)。
しかし、ごく最近ではその多元宇宙が量子レベルで影響を与え合っているという理論も出ている。
ともかく目の離せない勢いのある分野?であることは確かである。

この映画のように、人の身の丈レベルでの「ドア」という形で行き来が可能であれば、これは飛んでもない事件である。
当たり前だが、、、。
この事実が大きく広がらないうちに、それを知る者は結託して秘密を守り抜こうとするだろう。
誰もがその5年間遅れたそっくり世界で、掛け替えのない恩寵を受けているのだ。

Die Tür004

ダヴィッドは自分が近所のジアと浮気中に、娘レオニーを自宅プールで溺死させてしまう。
彼女が事故でプールに落ちたとき彼は、助けられなかったのだ。
蝶を取ろうと娘に持ち掛けられたとき、彼はぞんざいにそれを断って娘を独りにしてしまった。
これ程の後悔、慚愧の念に堪えないことがあろうか。
父親としては、どんなことをしてでも償いたいし、娘を取り戻せるなら何でもやるはず。

ある時、途方に暮れて冬空のもと放浪してるときに、蝶に誘われ偶然トンネルを見つける。
そこを抜けると季節は変わり、まだレオニーは生きている時空に出ていたのであった。
その街並みの光景を見ると、何と丁度これから自分が浮気現場に向かう途上ではないか、、、。
彼は、自宅にまっしぐらに走り(ダンプにぶつかりながらも)直ぐにプールに飛び込み、溺れたばかりの彼女を救いあげる。
それはもう、あり得ないほどの感激の一瞬、である!
ただ、これで目的達成で終わるものではなかった。
この後の人間ドラマである。

その時期にすでに夫婦関係はかなり悪化していたが、娘を大事にする彼を見て、妻は次第に彼を許す気分になってゆくが、肝心の娘は彼に抵抗を示し、遠ざける。
(ちなみに、5年後の元の世界では、娘の死をもってふたりは離婚している)。
娘の為だけにその世界に来たのに肝心の娘はとってもよそよそしく本当のパパではない、あなた誰?とくる。やはり5年後のパパだと明らかに違和感を感じるのだ。

ダヴィッドは娘をプールから救って家にいるうちに自宅に戻って来た5年前のダヴィッドに見つけられ不審者と間違えられる。
もみ合ううちに、若いダヴィッドを誤って殺してしまう。
そこに本来いるはずのない自分が自分を殺してしまい、そのまま入れ替わることにしたのだ。
それしかあるまい。
これからは娘を大事に育て、家族を大切にしてゆくために彼は最善を尽くす。

Die Tür001

しかし娘の目は鋭く、彼に不審の念を向ける。
彼女は、溺れかけた日のことを垣間見ており、彼がパパに何かしたと確信していた。
ダヴィッドは、前のパパは、レオニーをしっかり守ることが出来なかったから遠くに行った。合わせる顔もないのだ。今のパパの方が良い人なのだ、と説明する。
だが彼の誕生パーティの折、友人のマックスがレオニーの描いている絵をもとに、庭に埋めた若いダヴィッドの屍を見つけてしまう。
マックスが取り乱し、マヤにそれを告げようとするところ、彼を突然現れた隣人シギーが殺害する。
シギーもこの世界に流れてきて人生のすべてをやり直し、競馬で大儲けして暮らす男であった。

何とこの世界には、パラレルワールドからやって来た人間が少なからずおり、その利権を守るためにも、彼らの秘密を暴露しようとする人間を次々に消していたのだ。
シギーは、この(5年前の)世界を守る為なら手段を選ばない。何しろ彼は元の世界では犯罪者であったのだ。
一度、ダヴィッドはマヤとレオニーを連れて自分の元の世界に逃げようとするが彼に捕まり引き戻される。
シギーは、何としてもこの世界での自分(とその権限)を守り抜きたいのだ。
そして街に出くわした人間は目くばせし合い、彼らが実は同じ道を辿って来た人々であることがわかる。
まるで「ボディ・スナッチャー」の不気味さだ。

Die Tür003

そして何と5年後のマヤまでレオニー逢いたさにやって来てしまう。
そうなると、若いマヤ(ことの次第をよく理解していない彼女)を殺害して、この世界で親子3人で暮らすことを強制されることになる。この世界の安定のためである。
ダヴィッドにとり、これまた大変な選択だ。同じ妻である。殺せるはずもない。
マヤ同士が路上で出くわし驚愕し合う。
そして彼女たちも理解する。

ここからエンディングに向け些か力業となるが、スリリングな脱出劇となる。
これがとても侘しいこととなるのだが、ようやく前の父より自分を好いてくれるようになっていた娘を若いマヤに託し、彼は囮となって、シギーたち移住者の追撃を食い止める役を担う。
その隙にすでに場所は一度連れてこられて知っている道を通り、母娘はあちらに逃げ込む。
パンクしたダヴィッドの車のボンネットに張り付いたシギーごとそのトンネルの入り口に激しく激突し、「ドア」そのものが埋もれて壊れてしまう。
こちらに残ったのは、結局5年後のダヴィッドとマヤのふたりであり、娘はもう一人のマヤと閉ざされた向こうの世界に行ってしまった。

これをどう受け止めればよいか。
ダヴィッドとマヤにはすでにそこにいる理由もないが、ふたりで新たにやり直すことは出来るかも知れない。
(ふたりとも力なくプールサイドに座ってしまい動く気力もない)。
娘は母と別世界で生きていると実感をもって想像することは可能である。
それだけでも救いであるか。
それとも一緒に過ごせないのなら単なる死別と等価ではないか、と考えるであろうか。

やはり罪はどうあがいても、なくなりはしないというものか、、、。


イヴ・サンローラン

Yves Saint Laurent

Yves Saint Laurent
2014年
フランス

ジャリル・レスペール監督


ピエール・ニネ、、、イヴ・サン=ローラン
ギヨーム・ガリエンヌ、、、ピエール・ベルジェ(イヴの無二の親友、恋人)
シャルロット・ルボン、、、ヴィクトワール・ドゥトルロウ(モデル、前期の親友)
マリアンヌ・バスレール、、、ルシエンヌ・サン=ローラン(イヴの母)
ニコライ・キンスキー、、、カール・ラガーフェルド(シャネルのデザイナー)
ローラ・スメット、、、ルル・ド・ラ・ファレーズ(モデル)
マリー・ド・ヴィルパン、、、ベティ・カトルー(モデル、後期の親友)


昨日、イヴ・タンギーを想い出したところで、イヴ繋がりでイヴ・サンローランにした(爆。
夏の暑い中、冷たいジュースばかり飲んでいて、ばて気味の体には応える重さであった。
この映画の重さは一種独特である。

ふたりで集めた美術収集品を独りで観るのが辛い、ということから長年イヴを支え続けたピエール・ベルジェがコレクションを競売に出すところから始まる。
この出だしからして重い。
「収集は人生を映す」、、、まさにそうだ!
ピエール・ベルジェにとってイヴとの今生の別れは、その収集品との別れでもあったか。

Yves Saint Laurent03

非常に二枚目である(実物も)が、同性愛者である。
この重さがわたし的には、あった。
見た目は(特に若い時分は)神学生みたいであるが。
ピエール・ベルジェとイヴ・サン=ローランの関係も生々しい依存と協力の関係であり、悲痛なぶつかり合いも多かったことが分かる。
後半の享楽的で楽天的な感じの描写も、とても身を切るような痛々しさを覚える。
ドラッグとアルコールに加え、ヘビースモーカーでもあったような、、、。


若くして(21歳で)、クリスチャン・ディオールのメゾンを引き継ぎ、維持・発展に導きフランスを救ったとまで評される。
その最初のコレクションを見た審美眼の鋭い雑誌の仕事をしていたピエール・ベルジェは、その天才に一発で惹かれる。
ピエール自身、彼にとっての藝術~美術の枠を広げる電撃的な機会となったのだ。
移ろい易くも永続的なる美”モード”を追求するふたりの日々の闘いの始まりである。
それはイヴの死ぬまでひたすら長く続く。

イヴは程なく戦争に召集され、軍隊で精神的苦痛を味わって鬱病となり、薬とアルコールが手放せない状態になる。
そのせいもあり、クリスチャン・ディオールを実質クビとなり、イヴにとっては自身のメゾン~クチュールハウスを作り、創作をする以外に道はなくなる。

イヴ・サンローランという会社設立に際しての資金集めに始まり、企業経営、顧客探し、イベント企画、プレス発表、オートクチュールの発表時のマネージメント、ステージを裏方として仕切るなど、デザインそのもの以外のすべての仕事をピエールが請け負った。
ランウエイの奥からいつも見守り続けるピエールの姿は、彼の献身的な役割を象徴的に示していると謂えるか。

Yves Saint Laurent02

いくら才能に溢れ、デザイン以外には何もできないとまで嘯くイヴであっても、常に斬新なアイデアを出し続けることは至難の業であった。(引退時に、地獄の日々であったとイヴは語る)。
少し低迷する時期が続くが、モンドリアンに着想を得て発表したモードで再浮上する。
このころのライバルは、カール・ラガーフェルドやピエール・カルダンか。
イヴは、カールの恋人とも恋仲になったりする。過剰なドラッグやアルコール摂取の線での浮気であろうか、、、ともかく自己破滅的に走りつつも、コレクション時には「デザインを終わらせねば」と身を削って創作に明け暮れる。この際に支えるのが常にピエール・ベルジェとなる、、、。そんな過酷な関係だ。
(この時期の著名なデザイナーは同性愛者が多く、堂々と公表までしている人が多い)。
この映画で見る限り、他の同性愛者は妙に力強い。特にカール。
しかし、イヴはいつも青息吐息で、コレクション発表時に力を振り絞りなんとか完成に漕ぎつけるという状況だ。
天才と呼ばれ帝王と讃えられ、富も名誉も得たが、彼の内心はどのようなものであったか想像する気にもなれない。

「欝に苦しまないのは一年のうち2日だけだった」とピエール・ベルジェが終盤で述懐するように、春・秋のコレクションで人々の喝采を浴びる日だけ解放されるというのは、何とも辛い。
軍隊の体験がトリガーとなったのだろうが、もともと非常に内向的で繊細な人であったようだ。
(芸術家には少なくないタイプであるが)。

常に完全を期し、成功を勝ち得ていく度にプレッシャーは重層されていったのだと思う。
しかし恐らく彼のその身体性があってこそ、天才的創造が生まれたのだ。
苦痛は、彼にとっては属性のようなものだった。
孤独もしかり。

それは創造者の宿命とも謂えるものかも知れない、、、。



キャストが優れていた分、説得力があって重くて、ばて気味の体にはキツイ。
明日は軽めの、、、エンターテイメント映画でも観たい(笑。








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ロスト・バケーション

The Shallows001

The Shallows
2016年
アメリカ

ジャウマ・コレット=セラ監督
アンソニー・ジャスウィンスキー脚本

ブレイク・ライブリー、、、ナンシー(医大生)
サメ
カモメ


「浅瀬」と言った方が何やら意味深げで秘められた禍々しい何かを想像させる。
(イブ・タンギーの絵のような)。
とんだバケーションになってしまったのも事実だが、結果的に悟りも開けたみたいだし、、、。

ワンシチュエーションによる究極のサバイバルである。
満潮までは持つ小さな岩礁に独り取り残され繰り広げられる、「場所と時間の限られた」生死を掛けた闘い~ゲームなのだ。
サメの回遊の習性を観察し、海に入っていられる時間を割り出す。
傷との闘い(波乗りの最中にサメに噛みつかれ重症を負う)もある。勿論、恐怖と不安との葛藤。
ビーチまで精々200m位なのに、人気が少ないことが災いして、救援が呼べないもどかしさ。
(実際、たまたま人が浜にいて、手を振って叫んでも何のことだか理解できないという絶望的な孤立感)。
この様々な過酷な条件のもと精神をすり減らしつつ、最後まで諦めずに果敢にサメと対決する女子医大生なのである。

何より、痛い。とっても痛い。傷を自分でありあわせの針と糸?ピアスとネックレスのチェーンで縫合するのだ!
ああっ血が溢れ出る、その激痛!、、、わたしのもっとも苦手なタイプの噺~シーンではないか、、、。
圧迫包帯をスーツの袖をブレスレットを歯代わりにして割いて作る。
流石は医大生というか女の子というべきか、、、女子は強いというところか?!
その上に、触れるととても痛いサンゴやサメさえ避ける毒を持ったクラゲの群れ、、、。
もう、痛いこと続きで、その度に目を逸らす。
彼女もその痛さに、海中で絶叫するのだが、水の中で叫ぶとどうなるのだろう?
そのまま継続して泳いでいるどころではないはずだが、、、。

サメの造形~質感や動きはリアルで申し分ない。
カメラワークも至れ尽くせり。
ナンシーの視点から、彼女の近傍から、水中から様々な角度で、上空からの俯瞰、そして美しい秘密のリゾート ビーチでの華麗なサーフィンフィルムとしても充分に魅せる。
ビーチまでの森の様子も木々からの木漏れ日の道など、まさにバケーションの導入としてこの上ないシチュエーションではないか。
そして凄いビーチが眼前に開け渡る。それだけ観れば誰でも行きたくなるような圧倒する美しいビーチに違いない。
亡き母から教えてもらったビーチに日頃の勉強疲れを癒しに来たという設定か。
さらに進路で迷っており、医学部辞めようかなとか思っているところ。
確かにそんなときは、人気のない美しい海岸で波乗りして頭をクールダウンさせれば、何かがつかめよう。
そう想うところだ。
だが自然はそう甘くはなかった、、、というところか。経験を通して学べということか、、、にしても代償は余りにも痛かった。

The Shallows002

ただ、サメの口の大きさと噛まれた太ももの歯形がどうも合わない気がする。
噛む力も、ブイの鉄骨をへし折ったり、酔っぱらったオヤジさんの胴体を引き千切る破壊力からすると、何と謂うか傷が、、、とても痛そうなのだが、、、浅すぎる気もする。まあ、その時は弱く噛んだのかも知れないが。いや牙が触れ割かれたのか、、、今一つよく分からなかったところだ、、、そうか!余りに痛そうだったので、わたしが目を逸らしていたのだ。
(どうだろう?)

このサメのしつこさは尋常ではなく、クジラを仕留めてその死体も浮かべており、サーファーの若者ふたりと酔っぱらいを襲い、少なくとも満腹のはずなのだが、執拗にナンシーの周囲を回遊し続けるというのも、どういうものか。
サメの習性上こんなものなのか、、、?ナンシーには特別の感情を持っているのか?
確かに憎々しい表情を浮かべて急襲して来るが、考えてみればサメ(ホオジロザメ)はみなそんな顔だ。

The Shallows003


そして自然界のタイムリミットを迎え、水没する岩礁からサメの攻撃をかわして如何に逃げるか、という場面であるが、まさかというスーパーマン的な(米軍特殊部隊所属のエリートみたいな)身のかわし方と、車はすぐには止まれない的なサメの動きで闘いの決着はつく!

彼女はこの闘いを通して生きることへの執念と医者として命を救うことの大切さを悟る。
(これを悟らせるための亡き母からのバケーションビーチのプレゼントだとしたら、プロセスにおける学びは余りに痛い)。
一年後、妹と父親と、何でまた同じビーチで波乗り出来るのか不思議でならないのだが、、、。
外傷経験も逞しく乗り越えたのだ。
ただ太ももには、歯形の傷跡がしっかり残っていた。(やっぱり噛まれていたのだ)。


しかし何でアメリカ映画には、サメパニック映画が多いのか、、、。
アメリカ人にとって、サメとは何なのか?
タコではだめなのか?(タコ対サメは観たことあるが)。
日本には、オオダコスダールがいる!
(それがどうしたと言われそうだが、、、)。


これまでわたしが観たサメ映画では抜きん出てよく出来ていた。
(安っぽさが全くない力作であり、主演というかほぼ独り芝居であったブレイク・ライブリーの好演も痛々しいが、光った)。
あのカモメは、動物事務所に所属する俳優なのであろうか?
助演者になっていたが、、、。


スリ

Pickpocket.jpg

Pickpocket
1959年
フランス

ロベール・ブレッソン監督・脚本

ピエール・レマリ 、、、ジャック(ミシェルの親友)
マルタン・ラ・サール 、、、ミシェル(スリ)
マリカ・グリーン 、、、ジャンヌ(ミシェルの恋人となる)
ピエール・エテックス 、、、ミシェルの共犯者


ロベール・ブレッソンもかつて写真を撮っていたそうだ。
ブレッソンと謂えばアンリ・カルティエ・ブレッソン~決定的瞬間であるが、こちらのブレッソン映画もかなり写真的な映画である。
そう、「シネマトグラフ」と呼ばなくては、ならない。
「役者」ではなく「モデル」であった。
プロの役者は一切使わず、それ一本限りの素人を使うことで、芝居(演劇)掛かった演技を締め出し、感情表現を抑えた独特なストイックな絵作りをしている。何と謂うか、不純物を嫌った監督なのだろう。


この作品のジャンヌ役のマリカ・グリーンはそのまま映画界に留まった。
ドミニク・サンダも同じパタンである。
アンヌ・ヴィアゼムスキーは、その後女優としてだけでなく監督にもなり、ゴダールとも結婚している。

学生時代、文字通り大枚叩いて写真集を買っていた(爆。
この監督のブレッソンも写真集があるかどうか家で調べたが、アンリ・カルティエ~しかなかった(残。
しかしこの人の写真も見てみたくなる映画である。

カメラワークも時折かかる音楽も良い。
スリの指裁き?の華麗な技が鮮やかに追われている。
特に途中から3人で組んでスリを連携で行うところなど、その機械状のスムーズさに感心してしまう。
そう、動きの連続性に恍惚となる面はある。
しかし、第三者には通常これはまず見れない~経験不能ものであり、映画だから超越的に動作の流れをわれわれも確認することが出来る。
スリというものの本人にとっての醍醐味がリアルに分かる気がするところだ。
(貧困とかの理由などに関係なく、一度その快感を身に覚えてしまうと依存症的になってしまうのだ)。
それを志す人にもかなり参考になったのではないか?大丈夫か、とも思うが(笑。
フランス映画にはよくスリの場面が出てくるが、文化的に根付いている面もあるのだろうか。

この映画でミシェルの言うような「特別な権限を持つ者がいる」という特権意識を彼ももっているのか?
彼はわざわざ警部に、その手の話を幾度となく向けたり、スリの犯罪者の本を彼に貸そうとまでしている。
つまり、隠れて悪いことをするという意識ではなく、、、スリという行為自体、被害者本人に見つからずに金品を抜き取る技~仕事ではあるが、、、その仕事自体の正統性を主張する権利のある人間がいるのだ、という意識を持っているようなのだ。
要するに、職業スリを堂々とやるという、、、それとも単に自分と警察を誤魔化す為のはったりか。
良識ある親友ジャックが何度も堅気の仕事を探すように忠告するが、ミシェルは無視し続ける。
しかしどうであろう。
非常に行為に当たって虚無的で痙攣的なのだ。
堅気の仕事という選択もこころの片隅には常にある感じは匂う。

その間、ジャック、ミシェル、ジャンヌの奇妙な関係は続く。
ジャンヌはミシェルの病気の母の面倒まで診てくれていて、どういう立ち位置なのかよく分からないのだが、ミシェルの事はずっと好きでいるようだ。ジャックはそんなジャンヌのこころは見通していたが、ミシェルはそれに全く気付かない~ジャックがジャンヌのことを好きなのだろうと思っている~スリのことしか頭になく暇さえあれば指の訓練や技の練習に明け暮れている。そんなミシェルをずっと心配している友というのもかなり奇特な人である。

Pickpocket02.jpg


2年ほど、イタリア~イギリスへ渡り身を隠していたが、古巣に帰る。
ジャンヌはシングルマザーとなっていて子供がいた。
そんな折、子供の面倒は自分が見てやるとまで言ったはよいが、真っ当な仕事に就く気にはなれない。

だが犯罪にはどうしても最期が来る。
ミシェルはおとり捜査にまんまと引っかかり、競馬場で警官の財布を抜き取ろうとして手錠を掛けられる。
留置所にジャンヌがやって来る日が続く。
暫くジャンヌが来ない日があり、とても不安になりソワソワする。
そして、高熱を出した子供の看病で来れなかったと手紙が届いたときに胸が高鳴るのを覚える。

彼女への愛を確認する。ここでか?だが、そうしたものなのだ。
そこに「辿り着くのに奇妙な回り道をした」とミシェルは述懐する。

Pickpocket03.jpg


これほど手先が器用なのだから、これからはマジシャンなど目指してもよいのではないか、と思ったが(笑。

「サムライ」という映画があったが、この映画も「スリ」にしたらよかった気がする。
音的にシュールでとても合っていると思う。(しかし日本はスリの本場ではないから、日本語にする必然性はないはず)。



とうもろこしの島

SIMINDIS KUNDZULI001

SIMINDIS KUNDZULI
2014年
ジョージア/ドイツ/フランス/チェコ/カザフスタン/ハンガリー

ギオルギ・オヴァシュヴィリ監督
ヌグザル・シャタイゼ、ギオルギ・オヴァシュヴィリ、ルロフ・ジャン・ミンボー脚本

エレメール・ラガリイ撮影
ヨシフ・バルダナシュヴィリ音楽

イリアス・サルマン 、、、老人
マリアム・ブトゥリシュヴィリ 、、、少女
イラクリ・サムシア 、、、ジョージア兵
タメル・レヴェント 、、、アブハジア士官


凄いものを観てしまった。
こんな剥き出しの生活は今の日本の現状からは想像もつかない。
セリフもほとんどない、自然の物音の中に銃声が響くくらい。
何とも言えない淡々とした緊張が続く中、、、
ヒトの生活の元型的光景を見せられるばかりであった。

祖父と戦禍で両親を失った孫娘の生活である。
混じり気のない自然とヒトとの絶妙なバランスの内の絵はまた取り立てて美しい。
音楽もそこに見事に溶け込んでいた。
美しい朝日と共に目覚め夕日が沈むころに寝屋につく。
季節の移り変わりも鮮やかである。
(孫娘の服装からも分かる)。


それが、中洲での生活なのだ。
農民は誰の土地でもない中洲に自分の農地を見出す(しかないのか?)
独りの老人が小舟を漕いで中洲に降り立つ。
上流(コーカサス山脈)から運ばれた土の堆積して出来た中洲はとりわけ肥沃なのだ。
彼は初めに中洲の土を念入りに(口に入れるまでして)確かめ、選定する。
(わたしにとって、非常に新鮮で衝撃的なものであった)。

はじめは本当に小さな心もとない面積であるが、そこに木材を何度も運びバラックを建て終わるころには、中洲はかなり広がっていることに、ちょっとびっくりする。
その広がった土地を耕し、トウモロコシの種を蒔いてゆく。
まだ十代半ばに見える孫娘も祖父に従い黙々と一生懸命手伝う。
そう、彼は孫娘を途中からそこに連れてきたのだ(実家はちゃんと陸地にある。時折物を中洲まで運び入れたりしている)。

SIMINDIS KUNDZULI003

しかしこんな心もとない、「生活」があるだろうか。
しかも戦争中なのだ。
ジョージアと、ジョージアからの独立を目指すアブハジアの軍事衝突の最中。

鳥の鳴き声、水の波音に混じり、河川の両岸からは両軍の銃声が響き渡る。
時折、それぞれの軍の警備艇が脇を通り過ぎてゆく。(よく鉢合せにならないなと、ハラハラする)。
そのどちらとも挨拶を交わす祖父。
緊張の走る一瞬だ。わざわざ立ち寄りワインを呑んでゆく兵士もいる。
丁度その時、その兵士たちの敵の傷ついたジョージア兵を匿っているところでもあった。
彼は高く茂ったトウモロコシ畑に身を隠して息を殺している。
(ちなみに祖父と孫娘もアブハジア人であるが、傷ついた人間を見殺しには出来ない)。

自然の脅威に晒されつつ人間界からも寄る辺ない身である彼ら。
(であるから基本的に人に対する差別は、なかった)。
そこには祖父と孫娘が身を寄せ合い送る生活があるだけなのだ。
自然と両軍による戦争の狭間で、、、まさに抽象的な間に彼らは存在する。
しかし、トウモロコシは立派に育ちしっかり収穫出来ていた。
これも自然の摂理の成せる業であろう。
祖父は何とか孫を学校が終わるまでは育てて見届けたいと願う。

SIMINDIS KUNDZULI002

しかし、うら若き娘にとって、助けた兵士は一人のまだ若い男性であった。
彼女は普段決して祖父に対して見せない笑顔と素振りを彼に対して見せて燥ぐ。
この姿に祖父は厳しい目を向け、危惧する。
ことばが通じないため、無言の表情で彼は若者を中洲から追いやってしまう。
(と言うより兵士が察して去って行ったというべきか)。

だがそれと引き換えのようにやって来た暴風雨。
集中豪雨だ。
忽ち中洲は浸食を受け、水量の増した河に呑み込まれバラックは根元から揺らぐ。
小舟に何とか孫娘と収穫したトウモロコシなどを目一杯積み込み、岸に向け押し出し逃がす。
祖父はバラックの柱を懸命に支えるが甲斐なく全て潰れ濁流に流されてしまう。


ある晴れた日、何処からか小舟に乗って独りの男が出来たばかりの小さな中洲にやって来る。
その男も中洲の土をあちこち掘り返し吟味する。
地中からあの孫娘が飾っていた縫ぐるみの人形(親からもらった想いでの人形か?)が、引っ張り出される。

この反復(そして差異)こそ自然であり人間の姿~真理である。


神話を覗いたような気分になった。
絶大な重さを感じる。

凄いものを観てしまった。


国吉 康雄

Kuniyoshi DailyNews
デイリーニュース

以前から好きなアメリカの日本人画家である。
とっても身近な親しみやすさを覚えたからである。
じっくり眺めると、大変わたしの体質に馴染む絵であることを確信した。


彼の画集を観ていたら、作品制作に使った物か、彼の撮った写真が沢山載っていた。
油彩作品も好きだが、写真もとても日常的だが対象~人物との絶妙な距離感が面白く、興味を惹かれたものだ。

彼はアメリカが好きであったと思う。
移民として入国し、厳しい肉体労働と差別に会いながらも画家を目指すが、その意欲を受け止めてくれる学校(アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク)が存在し、そこで才能を伸ばせば、しっかり評価を得られるのだ。(後にその学校の教授となり学生たちから慕われる)。
この民主主義と自由は、彼はとても大事なものと思い、守らねばならぬと感じたはずだ。

この30年代は失業者も多く経済的にアメリカは大変な時代であった。
仕事を日本人が奪う、と日本人排斥運動も起こった時期である。
それでも彼は画家として、彼ならではの非常に洗練されたモダニズム絵画を生み出す。
アメリカに住む日本人であったからこそ、アメリカモダニズムを代表する画家と成り得たのかも知れない。
ヨーロッパ絵画と日本の伝統的絵画のエッセンスは息づいているが、その両者とははっきり距離を持つ独自の創意である。
特に色彩がグレーの目立つものから鮮やかなパステルカラーを使った物まであるにせよ、どれにも哀愁や虚無感が宿っており、いぶし銀の深みに惹き込まれる。

kuniyosi001.jpg
誰かが私のポスターを破った

異国の地ではやはり新聞に載る評価などには極めて過敏となるだろう。
国吉はユーモアのセンスがよく、弁舌も優れ社交的でもあったようだ。
アメリカ国内での作品の評価は高まり、ニューヨーク近代美術館から現代アメリカ絵画を代表する1人に選出される。

父の病気で一時帰国した彼は、祖国での個展を代表作を引っ提げ行う。
アメリカでの成功により前評判は非常に高かったが、絵画はほとんど売れず作品は受け入れられなかった事が分かる。
しかも軍国主義に沸く日本国内での権力の横暴に呆れ果て、帰属意識を喪失する。

自分はアメリカにしか住めない、そう自覚したときに41年の真珠湾攻撃である。
もうひとつの~今やたったひとつの母国から敵国民として厳しい視線を投げかけられる。
国吉はアメリカの民主主義を信じていたため、求めに従い「戦争画」~プロパガンダを描く。

実質、ここで究極的に寄る辺なき身となる。
引き裂かれる。
緊張感と不安と虚無が同居する。

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ひっくり返したテーブルとマスク

とても自分に正直な人である為か”Upside Down Table and Mask”であることを率直に表している。
混乱を苦悶をそのまま表すところがよい。
分かり易い人なのだろう。
そこが良い。

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ミスターエース

彼にしてはとても色が多く鮮やかだが、もっとも虚無的な絵である。
一見有能で頼りがいがある様に見えて、権力において非常に残忍な立ち位置にいる男である。
普段は、ピエロとして親しまれている存在かも知れない。
これくらい冷たい目が描ける~知っている人なのだ。

戦後、国吉は美術家組合(artist equity association)を作りその会長として精力的に活動する。
これはニューヨークを美術の一つの中心地に引き上げる役割を担うものであったが、非情な赤狩りの標的にもなる。
彼は反共主義政策におけるブラックリストに入れられていたのだ。
その勢力を上手くかわしつつも、圧力に悩まされた。

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果物を盗む子供

わたしが一番好きな絵である。
勿論、象徴的な意味がバナナと桃、子供との関係にあることは分かるが(ジャップが黄色い白人と呼ばれていて、少年はまだ建国して程ない若い国アメリカであり、桃は国吉の出身岡山の特産でもある)、それを想わなくても単に造形的に愉しい。
絵として見飽きないのだ。

純粋に絵の魅力でじっくり時間を過ごせる画家である。



私がクマにキレた理由

The Nanny Diaries

The Nanny Diaries
2007年
アメリカ

シャリ・スプリンガー・バーマン、 ロバート・プルチーニ監督・脚本

スカーレット・ヨハンソン、、、アニー・ブラドック(ベビーシッター)
ローラ・リニー、、、ミセスX(アニーの雇い主)
ニコラス・アート、、、グレイヤー(X家の少年)
アリシア・キーズ、、、リネット(アニーの友達)
クリス・エヴァンス、、、ハーバード・ホッティ(アニーの彼氏)
ドナ・マーフィー、、、ジュディ・ブラドック(アニーの母)
ポール・ジアマッティ、、、ミスターX


アニー・ブラドックは、大学で人類学を専攻していた女子。
新卒で就活するも、面接試験で自分が見えなくなった。
わたしは、一体何がしたいのか、、、わたしとは何か、、、。
ビルの赤い傘マークが、外れアニーのもとに舞い降りてきて、彼女はそれを手に取り空に舞い上がる。
かなり重症だ。

そこで、舞い込んで来た上流階級の住み込みのベビーシッターの仕事に就く。
他人の家庭を人類学的に考察することと、自分を知る意味からもこの経験は有効であろうという考えもあり。
また、女手一つで育ててくれた母の手前、取り敢えずどこかに就職を決めておきたかったみたいだ。

しかし、その上流階級、何と利己的で見栄っ張りで我儘で無礼な連中か。
まさかこれが典型ではないだろうが、こんな感じの家庭もあるのだろうか。
金持ちの誰もがこれでは、アメリカは到底もたないだろう。良識ある知識人も勿論多いはずだが。
面白かったのは、アニーが幾つもの家庭から依頼を受けているとき、「うちは給料が高いわよ」という真っ当なものの他に、「わたしの家はトランプタワーなのよ」と自慢している奥さんがいた。
これにはちょっと笑えるが、、、やはり結構危なそう。
(結局そういう結果が出たし、こんな家庭がグロテスクに単純化した極端な例でもなさそう気もしてくる)。

ただ、その誇張された歪みぶりも、思いつきそうなもので、特段に驚きのシーンとかはなかった。
アニーは大変な激務を熟すことになるが、次第に腕白な息子グレイヤーに情が移ってゆく。
同じマンションに住むハーバードの男子にも恋をする。
(アニーの直向きさに彼が惚れたようだ)。

反撥を持ちながらも仕事と割り切って無理で傲慢な要求に従ってゆくが、当の雇い主の惨めさが分かって来て、その不幸に同情するようになる。
彼らは金と地位があっても、現状を維持するための取り繕いと取り憑かれた欲望に従うだけの生活に無自覚なのだ。
そしてもっとも厳しいのは、愛情が家庭に全く通っていないことである(夫婦及び親子に)。
その意味では、家はすでに機能不全であり子供を育てる環境成り得ていない。
と言うより、これでは子供の行く末が危ない。

ここが一番の問題として描かれており、この点については現代社会の縮図でもあり普遍性を持ち得ている。
基本的に特異な家庭ではない。
夫は仕事と言って家を顧みずおまけに浮気にうつつを抜かし、妻は社交パーティや見栄を気にした慈善パーティ、セミナー、豪華な食事会にばかり参加していて、子供に対しては教育プログラムをベビーシッターを通して押し付け、自分は何にも関わらない。
ただ子供がどの学校に行くことになるかだけには異常な関心を持つ。

彼女自身もその場に深く入り込んでゆくとともに、この悲惨で荒涼とした子供の生活環境はどうにかしてあげたいという気持ちが強くなる。
しかし、その矢先、ミセスXが監視用カメラで、アニーが子供に食べさせないように注意していたオーガニック素材ではないものを瓶から直接食べさせていたことやフランス語やその他の細かい勉強を疎かにしていたことが発覚して、クビになってしまう。
グレイヤーとアニーがこころを通わせていたのは、まさに妙なルールに縛られずに互いがしっかり向き合って関係を築いていたからなのだが。
彼女も以前からそのカメラの事が気になっており、最後にクマの縫ぐるみに仕込んで置かれていたカメラを探し当ててしまう。
前から期間限定で経験してみようと思って始めた仕事であるが、ここで撤退するのは彼女にとって中途半端で不全感は否めない。
そこで、逆にクマの目向かって、ミセスXに敢然と立ち向かう。(恐らく初めて切れる。カメラ越しだし謂い易いこともあるか)。
思いのたけをぶちまけ、グレイヤーに対する押しつけと放任による彼の孤独の現状としっかり向き合う愛情の必要性を切々と説く。

そのビデオを観て、ミセスXは内省し我に返り~正気となり、夫と離婚してグレイヤーと共に時間を過ごす選択をする。
(一度も仕事をしたことのない奥さんがこの先どうやって生活をしてゆくのかは不安であるが。慰謝料と養育費は押さえているにしても)。
アニー・ブラドックは自分はどういう人間ですか、という面接に対し、どのように答える人になったのだろうか、、、。
少なくとも自己肯定的な逞しさは身についたはずである。
状況を体当たりで捉え、自分なりに感情を込めたアウトプットも出来たし、、、。
グレイヤーとハーバード・ホッティにこころから愛されたことも、とても大きい。

そういうものであろう。






くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ

Ernest et Celestine002

Ernest et Celestine
2012
フランス

バンジャマン・レネール、ステファン・オビエ、バンサン・パタール監督
ガブリエル・バンサン(ベルギー)原作

アーネスト、、、クマのおじさん
セレスティーヌ、、、ネズミの少女


絵本を元にした映画であり、その質感を大切にして映像に再現していることが分かる。
動きはジブリの古畑アニメを彷彿させる。


ネズミ世界、クマ世界、それぞれの世界からのはみ出し者同士が接点をもつ。
お互い自分の世界が居心地悪い彼らが親しくなるのに時間はいらなかった。

ネズミ社会では、クマは意地が悪くネズミを食べてしまう怖い存在だと教え込まれている。
おまけにセレスティーヌは孤児でクマの前歯を集める仕事を強制されているが、彼女はスケッチばかりしていて邪魔者扱いされている。
クマにとってネズミは地下に住む生き物であり、本来自分たちとは別世界のものたちである。
しかもアーネストは両親から裁判官になることを望まれていた。
しかし彼のなりたいのは、音楽家か詩人であり、一文無しの腹ペコクマなのだ。

アーネストがたまたまごみ箱をあさっていると、中にネズミが眠っており食べてしまおうかと思ったが、彼女がお菓子屋さんを紹介してくれたことで、その地下倉庫で思う存分甘いお菓子を食べることが出来た。
そのお礼としてアーネストは、そのネズミ、セレスティーヌの歯の収集に手を貸す。
アーネストは沢山の歯を袋に詰め、ネズミのいる地下世界まで運んだところで眠くなり、そのまま眠ってしまう。
(クマのアーネストがすぐに眠ってしまうところなどありそうで面白い)。
ここで、彼らは一緒にいるところを見つかり、盗みと互いの境界を侵犯したことで、共犯者としてネズミ・クマ双方から追われる身となる。
と同時に彼らはとても仲良くなる。ずっと一緒に暮らしたいと思うような絆が芽生える。

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クマのアーネストは音楽、ネズミのセレスティーヌは絵が得意である。
特に、「アーネスト、見せてあげる、これが冬の絵」とセレスティーヌが絵を描くのに合わせて、「音楽をつけるとしたらこんな感じかな」とアーネストが音楽を付ける。このハーモニーは絶品と謂えよう。
大変良質な環境ビデオ(ブライアン・イーノの創るような)の趣があった。
クマにとって冬の世界は、未知の世界である。
それを覗いた感動をふたりで音と画像により表現しようなんて素敵な関係ではないか。

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クマとネズミとのはっきり分かれた棲み分け上下社会という他にも、シニカルな面はしっかり押さえている。
夫がお菓子屋でたくさんのお菓子を子供たちに売りつけ、その真向かいで妻が経営する歯を悪くしたものに入れ歯を売りつける店で大儲けする夫婦が描かれ、彼らは絶対に息子だけには甘いものは食べさせない。
これは典型的な小市民像であり、市場社会の縮図である。
アーネストとセレスティーヌは、そのどちらからも商品を掠め取る。
こうした搾取と完結性を崩すひとつの象徴的で無意識的な彼らの行為か。

クマ裁判長とネズミ裁判長の両界において絶対的な権力を持つ者がどちらも、裁判中に起きた火災から裁こうとしていたアーネストとセレスティーヌによって救い出される。
皆、周りの提灯持ちは、我先に逃げてしまった。
そして下で起きた火災は上にも及ぶのだ。自然~物理的災害は境界などお構いなく容赦なく浸食する。
(核戦争のメタファーにも感じ取れる)。


アニメ全体は、とても柔らかで清々しい水彩タッチで、優しく流れてゆく。

最後は、どちらも無罪放免となり、穏やかで和やかなふたりの生活が描かれる。
これまでのふたりの辿った物語を絵本にするのだ。

恐らく、この噺のように(笑。
おしゃれである。流石フランスアニメだ。





ダウンタウン物語

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Bugsy Malone
1976年
イギリス

アラン・パーカー監督・脚本

ポール・ウィリアムス、ロジャー・ケラウェイ音楽


スコット・バイオ、、、バグジー・マロン(ボクシング・プロモーター、一文無し)
ジョン・カッシージ、、、ファット・サム(ギャングのボス、キャバレー経営者)
マーティン・レブ、、、ダンディー・ダン(サムと対立するギャングのボス)
ジョディ・フォスター、、、タルーラ(サムの情婦)
フローリー・ダガー、、、ブラウジー(マロンの恋人、ハリウッドを目指す歌手)
デクスター・フレッチャー、、、ベビーフェイス(新入りギャング)


ジョディ・フォスターまさに、「栴檀は双葉より芳し」である。

とても思い切った設定で、まず一回やったら真似はもうしない方がよいだろう、、、。
禁酒法時代のアメリカギャング映画を「子供だけのキャスト」で撮った映画。
でも、ジョディ・フォスターって子供か?
子供の年齢には違いないだろうが、子供には見えない。
大人でもない。

そう、ジョディはジョディでしかなかった!
恐るべし、、、。
やはり普通の人間ではなかった。
(今若手で、これほどの存在感を示す女優はいるか、、、ダコタ・ファニングか?確かに両者ともに天才である)。

足漕ぎクラシックカーもともかく愉しい。
これもたまらない。
出てくるたびに嬉しくなる。
子供時代にこんな豪華な足漕ぎギャングカーに乗ってみたかった。
いや、今でも乗ってみたいではないか。

さらにミュージカルであるが、どの曲もとても出来が良い。粒揃いなのだ。シングルカットで行けそうなものばかり。
時折、ミュージカルなのに曲がショボく(特に「ムーランルージュ」)、観ているのが苦痛になるものがあるが、この作品はとっても音楽~歌が良かった。

但し、残念なのは歌が吹き替えなのである(苦。
子供声でよいから、(下手でもよいから、、、演技も上手くはないのだし)本人の歌で聴きたかった。
とーくに、タルーラ♪~である。あの曲はジョディの肉声で聴きたかった!
ここが吹き替えでがっかりした。この映画で一番がっかりしたところだ。
もう、がっかりした。

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度々出てくるクラシックカーも、ジョディ・フォスターもとても素晴らしい。
ただ欲を言えば、もう少し彼女の出番を多くしてもらいたかった。
というより、この映画ジョディとこの珍妙な足漕ぎ自動車が出てこなければ、少し厳しいかも。
勿論、楽曲も良いのだけれど、他の子どもさんとの差があり過ぎなのが観ているうちにしみじみ分かって来る。
ファット・サムのジョン・カッシージ君も体形~ルックス的にも個性があり上手いかも知れないが、、、。
二枚目役のバグジー・マロンも敵のボス役のダンディー・ダンも、確かにイケメンだが今一つ影が薄い。

いや、普通なら彼らはかなり達者な子役なのだ。
(ヒロインのブラウジーは正直キツイが)。
タルーラ~ジョディ・フォスターで皆、ぼんやり霞んでしまったのだ、、、。
これは仕方ないが。
本当なのだ。

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パイ投げは、向こうの映画では定番なのか。
このようなパロディ・コミカル映画では、どうしても実弾とはいかずパイとなる。
しかし手でパイを投げるとなれば、簡単に敵に避けられてしまう。
ファット・サムの店でわざわざその実証をボス直々にしている(爆。

それで、新型銃が登場し威力を発揮する。
パイを発射する銃を大量に手に入れ優勢に立つダンディー・ダンのファミリー。
こちらはファット・サムのところと違い統制もとれている。(部下がボスを尊敬している(笑)。
この新兵器で一時、ファット・サム一派はコテンパンにやられ追い詰められる。
それで組の者ではないバグジー・マロンに助けを求める。
バグジー・マロンは一文無しなので、金を積まれれば直ぐに乗る。

ファット・サムは店ごと最早、壊滅かといったところで、マロンの機転でその銃の略奪に成功し、最後は五分五分の激戦に持ち込み訳の分からぬ状況になる。
よくある無茶苦茶なパイ投げシーンに雪崩れ込む。
「グレートレース」で辟易したパイ投げであるが、よっぽどこれが好きなのだ。
パーティでちょっと羽目を外しても、ギャング同士の闘いでも、何でもともかくパイを投げたい。
そして全てがうやむやとなり~エントロピー最大~でついに双方ともに痴呆状態となって終結を迎える。
お互いに手を取りニコニコしているのだ。
こういうエンディングなんだ、、、。

他のアイデアは出なかったか、、、これがもっとも分かり易く受け容れられる形であるか。
、、、文化なのだ。

全体の話としては面白い。
ファット・サムの酒の密造工場がダンディー・ダン達に見事に潰されたり、真っ当な商売の野菜倉庫までも破壊される。
この徹底したダンの思惑通りの進撃振り、というかサム一派のやられ振りの展開が傑作である。
それに子役でこれくらいオヤジの悲哀に迫れる(理解する)ジョン・カッシージもその個性共々特筆ものかも知れない。
(こういう役に限定すれば)。
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いや、やはり、ジョディ・フォスターの魅力に尽きる映画であった。
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レオナルド・ダ・ヴィンチ

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河に渦巻く水流から運動を抽出し、戦争(フィレンツェとミラノ間)の戦闘場面~その人馬一体となった力の鬩ぎ合いに応用するという抽象性がレオナルドであろうか。きっとそこに何らかの自然学的原理を見出していたのだ。
その乱戦時の人の四肢の激しい筋肉運動や微細な表情を描き切る為、毎夜病院の死体安置所に赴き死体解剖にも臨んだ。
精緻で医学的に正確なデッサンが残っている。(わたしもレオナルド素描集を良く眺めたが驚愕である)。
極めて実証的で論理的である。
そして内面を、解剖学的に調べ上げたその動きの構造的描写で饒舌に表す。
これは最終的にあの「最後の晩餐」に結実するものか。

表面的には別の現象~事象に映るもの、微妙で饒舌な表情~表層、をその構造から描き起こすこと。
この次元から物事を捉えようという本質力に拘る画家は、少なくとも同時代ではミケランジェロ以外にはいなかった。
その後もここまで徹底した芸術家はほとんどいない。スケール的にも、、、。

レオナルドにとっては、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学それぞれを研究しそれらの成果を挙げようなどという意識・意図は全くなかった。
そもそも「学」それ自体が細分化していない。
単に事象の本源、原理を探ろうとした過程であり、結果であっただろう。
一言で謂えば「自然学」か。

ちなみに、ルネサンス時(イタリアルネサンス)にレオナルドをはじめ天才が多く輩出したとも謂われるが、ある意味今日の英才教育が良い形で実践されていたように思える。
この頃は、まだ「子供」は発明されていなかったこともあり、年少時に工房に見習いに出された後は、制限なく才能に任せて伸びる者はどこまでも自由に伸びたはずだ。レオナルドみたいに天井知らずで。

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「アンギアーリの戦い」はルーベンスの模写でそれがどれほど途轍もないものであるか、時代を超えたものであるかが分かる。
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そして素描と未完成が目立つ。発見と創造と技法の探求において。
しばしば技法の実験開発に失敗したことも、完成作品数の少なさの原因ともなっている。
壁画が絵の具の定着の不具合で壊滅的な損傷を食らったりすると、もう契約の面から謂ってもアウトとなろう。
完成よりも常に新たな発明に挑んでいた天才であることから、そんな事態も避け得なかった。
そもそも彼にとって、完成などあっただろうか。
「モナリザ」は終生身辺から手放さなかったという。

油彩作品は少ないが、素描はかなり多く残っている。
思考の跡を辿る見方が彼の場合、適しているのかも知れない。


普段出して観ること自体に気後れして、棚に仕舞いっぱなしでいたが、、、
とっても重い素描集をこの愚図ついた天気に部屋に出してきて観るのも良いものだ。


やはり魅入ってしまう、、、。

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この続きは、また近いうちに、、、。

キング・コング 2005

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King Kong
2005年

アメリカ
1933年「キング・コング」のリメイク
ピーター・ジャクソン監督・脚本
メリアン・C・クーパー、エドガー・ウォレス原作

ナオミ・ワッツ、、、アン・ダロウ(舞台女優)
ジャック・ブラック、、、カール・デナム(映画監督)
エイドリアン・ブロディ、、、ジャック・ドリスコル(脚本家)
トーマス・クレッチマン、、、イングルホーン船長
ジェイミー・ベル、、、ジミー(ベンチャー号の少年船員)
エヴァン・パーク、、、ベン・ヘイズ(ベンチャー号一等航海士、ジミーの親代わり)
カイル・チャンドラー、、、ブルース・バクスター(映画主演俳優)


舞台は地図上にはない謎の島「スカル島」と1930年代の不況に喘ぐアメリカである。

正直これ程凄いVFXの映画だと思わなかった。
凄まじいというレベル。どうやって作ったのだろうという映像が一杯であった。
「ジェラシックワールド」など遠く霞んでしまう。
特に、アンとコングの関係に違和感がなく、コングの微細な表情の変化には驚く。
「美しい」という「ことば」がアンとコングとの間(ジェスチャー)で伝わり合うところはとても素敵だ。
二人を包む島の夕日とエンパイアステートビル頂上の朝日は格別に、いや異様に美しい。

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コングは高台でトワイライトゾーンに浸るのを好む詩人なのだ。
黄昏時は、誰も可もなくその存在は単独者となる。
単独者同士の邂逅である。
一切のイデオロギーもパラダイムもない、ただ薄明の光に照らされるだけの関係。
そこは下界のとは関わりのない至福の場なのだ。最初のアンの務める舞台の歌のように。
純粋に等価な魂同士の触れ合い。

これ程美しい映画が他にどれだけあるか、、、。


ナオミ・ワッツが本当に頑張っていた。
これ程、観ながらよく頑張ってるな~っと労いたくなる女優はいなかった。
そぞかしタフでハードな撮影であったはず。

それから何といっても、出てくる恐竜が非常に即物的な迫力で迫って来る。
もう、文字通りの肉弾戦なのだ。
ブロントサウルスのぶつかりこすれ合いながらの大きな群れでの激走。
特にデナム達はカメラやフィルム、三脚などの機材を持って逃げる。
まさに恐竜の足の合間を縫って逃げる人間、、、。
合間で人間を食おうとちょっかい出すユタラプトル?小型肉食獣たちの小賢しい動き。
これらの動きが非常に速い速度で絡みあう。
所々で、踏みつぶされたり、放り投げられたり、食われたり、撃ち殺したりのアクセントが入る。
ともかく迫力の流れ~リズムだ!

更にティラノサウルス3頭相手にコングの激闘。
迫力ではこれがマックスかも知れない。
コングは最愛のアンを守っての闘いを余儀なくされる。
流石にティラノサウルスは他の恐竜などと比べ戦闘力は桁違いだ。
度々あの鰐より鋭い歯で噛みつかれるも怯まずにアンを庇いつつスリリングな攻防が続く。
最後はコング圧勝に終わるが、その地形と体術(運動能力)を目一杯利用したアクロバティックな動きそのものに感心した。
特に、アンを右手左手足で軽業的に受け止めて闘う姿は、まさにそれである。

それにしても、恐竜が絶滅せずに生存していたというだけでなく、多種多様な圧倒的に獰猛な動物がこれでもかと、次から次へうじゃうじゃ出てくる。
観ているこちらが絶望したいくらいである。
しかもみな巨大である。
正直、ここまでやるのか、と途方に暮れるくらいだ。
しかし、それでも焦点が崩れずしっかりアンとコングの関係が一本通り、そこにドリスコルの果敢な愛とデナムの強力な野心が絡んでくる。デナムの何にでも徹底してカメラを回す、映画至上主義の姿勢には、これはこれで共感できたが、カメラが壊れコングを見世物として持ち帰り金儲けだけの野望に変換したところで何だこれはである。この流れがなければ、コングがニューヨークには来なかったのであるが。
イングルホーン船長やジミーとヘイズ、バクスターの人物像も活き活きとくっきり描かれ物語は重厚に展開する。
スカル島原住民の他者性も充分に描かれていた。

最後は、余りにも有名な塔の頂上での飛行機との決戦だ。
コングはアンの身を庇い銃弾を浴びて落下し絶命する。


その直前の至福の場は、そう何処にでもあるものではない。
(しかし、実は非常に近くの小さな場に存在するものだと思う。)

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オディロン・ルドン

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生後2日目で里子に出されるとは、どういう意味をもつのか、、、。
そこはボルドー近郊のペイルルバードという不毛な荒涼とした田舎であったという。
家はボルドーの裕福な家庭であり、何らかの親の都合があったには違いない。

少なくとも親元に帰る11歳までは、漠然とした喪失感と寂莫感に宙吊りになって過ごしていただろう。
その分自然との接触は遥かに他の子どもより濃密で自由であったはずだ。
学校にも行っていなかったらしいから尚更。
ただ病弱で病気がちであったというから、野山を駆け回るような接近ではなかったと思われる。
(そうであれば、いやでも悪ガキ仲間とかができるはずだが)。

それは自然の光や色や音にめくるめく夢想を豊かに内面に蓄積することかも知れない。
非常に強い憧れを宿した、憧れと未来からやって来る郷愁と、、、
過剰な渦巻く夢想。
G・バシュラールのいうような物質的想像力に充ちてゆく。

自分にもほぼ同等の経験があるため実感できる。

11歳で帰って来て彼はどうだったのか?
深い落胆しかなかっただろう。
完全な孤独を知った事だろう。
分かり過ぎるくらい分かる。
そういうものだ。

自然~宇宙の大きさに高密度で膨らんだ憧れと郷愁は、すでに親のエゴや家族~共同体のファシズムのうちに変換・解消され収まることは出来ない。もはやインフレーションは止められない。
ここで更に彼は学校にまで行かされる。
こんな歳になって、突然学校に放り込まれるのである。
この強要にどうして耐えることが出来るか?
(しかもどの年齢で教育を受けさせ、学校制度に投げ入れるのが適当かなど教育学的にも何らこれまでまともな考察などない)。


彼のこころの拠り所は、音楽と絵画であったという。

わたしもこころの拠り所は、音楽と絵画であった。
それが絶大なものとしてあった。
そう絶大なのだ。
万能感と果てのない愛情を受けそこなった場合~これは永遠の幻想の類(特殊性と謂うより人であることからくるロマンに過ぎないか?)~人が本質的に持つ疎外観念か、または過剰さを求める本源的欲望であるか~何にしても、その代わりとなるものはこの他にない。なければ枯渇して死ぬようなモノであり、空気と同等のモノである。
(いや数学の天才ならひたすら数学をやるだろう。数学は特に10代が勝負だ)。

学校も美術学校も当然続かない。
それは、はっきりと彼の中に確信を生む。
「自分がいつもやって来たことの他の方法で藝術を生むことは出来ない」
ということだ。

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ルドンの夥しい眼差しの群れ。
大概、それらは特別な感情を持たぬ、一つ目であったり、、、。
そのほとんどは重力の影響を受けていない。
思考と夢の純粋な運動から生まれてくる。
起源:「おそらく花の中に最初の視覚~ヴィジョンが試みられた」
~わたしは、見えるものの法則を可能な限り見えないものの為に奉仕させたのだ~
これがルドンの生理であるだろう。
必然の流れだ。

緋色のように美しい黒。
全ての色彩があらん限り封じ込められてゆく黒。
ここから蛹が成虫に変態するように色彩が開闢~ビッグバンする。
これは絶対に徐々に変化するような事態ではなかった。
瞬時の相転換である。

木炭からパステルへ。
或る時、豊かな漆黒の夢想は、歓びの色彩に溢れ散った。
二度目の起源:インフレーションが起きたのだ。
色彩はパステルを経て、水彩や油彩によって更に加速して広がり深まる。

題材はギリシャ神話そして再び「花」へ。
見えないものを通って見えるものに色鮮やかに開花する。
物理原則を目の当たりにするみたいに。

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プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

*当サイトはリンクフリーです。

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