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仮面ライダードライブ、シンデレラゲーム、心霊写真部リブート、女子高

これらを立て続けに観る。日曜日の話、、、。
無茶をした(爆。
死にそう(笑。

kamen001.jpg

「仮面ライダードライブ」は、長女とアマゾンプライムビデオで。
「シンデレラゲーム」と「心霊写真部リブート」は次女とTSU○AYAで借りて、、、。
怖いものが好きでたまらないのだ。そのうち普通にホラーを見出すはず。困った。
「女子高」は彼女らがピアノ練習している間にひとりで観た。

「仮面ライダードライブ」は、わたしも日曜朝8時から見たことが数回ある。
仮面ライダーなのにバイクに乗らずにスポーツカーを乗り回すのが新鮮であった。
しかしライダーキックを相変わらずやっており、ほっとした。
キックをやらなくなったら、もう何を信じて良いのやらとなってしまう。
バッタぽくなくなり、バイクも捨て、キックを決め技にしなかったらどこが仮面ライダーなのだ。
映画のため、やはりドライブ~主人公が中心にCG的にスケールアップした物語にまとめている。
メカの表現はかなり凝っていて面白かった。
今かなりの注目度の高い女優、だーりお(内田理央)さんが出ているが、とても生真面目な熱血警察官を好演している。
警視庁幹部の柳沢慎吾をやり込めるところは見所の一つか?
それに乗って上司の片岡鶴太郎が柳沢に釘を刺す。
ここは理想的な部下と上司の関係ではないか、、、と感心した。
ここで内田が意見した責任を自分がしっかり引き取ってそれを意味のあるものにしている。
なかなかこの立ち位置に身を置く上司はいない。

話はほとんど未来から来た息子を騙るロイミュードと主役のしんのすけの戦いである。(念のためクレヨンしんちゃんではない)。
今の時代のロイミュードなど一瞬しか出ない。
であるからやはり今人気上昇中の馬場ふみかなどセリフは一言であった、、、。
勿体無いが仕方ない。短い時間でまとめなければならない。
この「仮面ライダー」でわたしが魅力を覚えるキャラはチェイサーであった。
しかしキャラ設定が複雑でしっかり毎週観ている必要があるのだ(ちゃんとキャラの素性を知るには)。
ちなみに、わたしが仮面ライダーシリーズで(とは言え最近はほとんど見ることもないのだが)もっとも魅力を感じたキャラは、「仮面ライダーオーズ」のアンクである。役者の力量が凄かった。二役をやっていたが、この役者にはもっと色々と出てきてもらいたい。
三浦涼介という役者だ。『るろうに剣心 京都大火編』でもかなりの存在感を見せていた。
オーズでマドンナ役をやっていたのが高田里穂であり、、、次の「女子高」の実質主役である。

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何というか、女子高生の権力関係~イジメのけじめを卒業7年目の同窓会でつけてやろうじゃないか、、、という感じの物語である。
クラスメイトの「自殺」が元で廃校となった学校のクラス同窓会をその当時の教室で行うため、ダンス部の女子7人が夜集まってくる。実際、いそうな人達である。まだ、学校の電気は灯るのだ、、、。
集まると同時に早速険悪になる女子も出る。その直後教室の電気が消され、高田里穂が何者かに拳銃で殺される。
騒然となり、悲鳴が飛び交う。
今警察官となっている女子がその場を仕切り、残った者たちを他の部屋に移動させ、容疑者として拘束する。
その場で、誰彼ともなく高校生当時の思い出が彼女らから語られてゆく。
ちなみに、「自殺」したとされる女子は高田里穂の唯一こころを許した親友であった。

だが、6人それぞれの視座から個人的な世界を映し出すのではなく、どのエピソードも誰の目でもないカメラの目~超越的視座である。
特定の誰かの世界がそれぞれ綴られ、それが次々に死角をパズルのように埋めてゆき真相に到達するというタイプのものではない。
「バンテージ・ポイント」がそうであったが。

この思い出の中で大活躍なのが高田里穂であり、この濃いキャラだけはあまり現実的ではない。
その他の人々は如何にもという感じである。
しかし、いつまでも鑑識が来た様子もなく、彼女らの取り調べの警官も来ない。
ただ、その婦人警官ひとりで対応するばかりである。
オマケに推理したり仮説を立てたり、証拠物件のアクセサリーを自分で持っていたり、、、。
電気は点いているし、何か不自然だなと思って見ていたら、やはりどんでん返しが。
峯岸みなみが高田里穂は殺されたのではなく、親友を自殺に追いやった罪悪感から自殺をして見せて、それはわたしたち全員の罪でもあることを思い知らせようとしてやったことだと仮説を立てる。それを聴いて皆が納得する。
だがその話のなかで、高田里穂と死んだ親友のふたりの間でしか知らないアクセサリーの話が出てくる。
そこに隣室から高田里穂が現れる。
この会自体が婦人警官と高田里穂が犯人確認のため(高田の親友は実は殺されたという確証を得るため)、最初から結託して仕組んだ芝居であったのだ。
(ただこうなるとは、最初から想定内である。高田里穂が最初に殺されること自体がもっとも不自然であるから)。

最後に、不自然な筋・設定の運びの理由が分かるが、さっさと拘束を解かれて帰ってゆく彼女たちも変だなとは思わないのが少しふしぎであった。まあ考えるより早くその場を離れたい意識が勝るのは分かる、、、。
最後に残された峯岸みなみが下手人と判定され、彼女は自首するのか、高田里穂にその場で撃ち殺されるのか、婦人警官がそれを阻止して収めるのか、、、というところでエンドロールとなっていた。
女子のドロドロはよく描かれていた。
だが、敢えてわざわざドロドロ~ホラーを見たいとも思わない。

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しかし次女は無類の怖いもの好きである。
仕方なく、心霊写真部リブートというのを観た。
ここには、仮面ライダーのひとつ前の時間帯にやっている戦隊もの「ゴーバスターズ」のヒロインで名を馳せた小宮有紗が出てくる。最近は映画で文芸ものまで広く活躍している。
この心霊写真部というのがなかなか脱力しているのか真面目なのかよく分からぬ高校生の部活なのだ。
こういう部活があっても、まず入らないなとは思った。
彼らの忍び込む廃墟の設定はまずまずであった。

ただ部長がどうにも微妙で真面目そうでいて如何わしく、この人を観察した方が面白いのでは、と思うのだが。
人形とかそこで死んで無縁仏となっていた霊のメッセージとか、、、実に使い古された種であり、都市伝説でももう出ては来ない類の噺であった。それに蘊蓄を垂れる部長がどう見てもウザイ(女子から見ると恐らく)。
そして後半、霊がその力を発動すると、主人公の女子以外の部員の皆が倒れブルブル痙攣しているのだ(爆。
その間、主人公の女子がビデオを確認してそのポイントを探り当て、解決することで皆ブルブルから解かれる。
これを吹き出したり笑ったりしては、まずいことを次女の横顔をみながら確認するのだ。
小宮さんは忽然と現れ、心霊写真部なぞに親切にいちいち危険の警告などをしに来てくれる謎の存在である。
後を追うと、さっと消えたりするところから、幽霊である可能性は高い。

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同じく戦隊もののヒロインで活躍していた山谷花純主演ものは更に微妙で荒唐無稽な設定である。
落ち目のアイドルが無人島みたいな場所に集められ、そこでカード探しをして、集めたカードで競い合い負けたら首に嵌められた首輪の毒針?に刺されて死ぬ。負けたところで首輪が点滅し始め自らの運命を悟るのだ。
最後に生き残った、たったひとりのアイドルは手厚くサポートされ成功が保証されることになっている。

一か八かで出したカードの優劣で決まるもの(原理的にはジャンケンに等しい)。
それでも山谷花純はずっと勝ち続ける。
当然である。それ以外の運びはあり得ない。
精神的に持たなくなるアイドルも勿論出てくるが、タフな子だが性格がモロに現れる子も次々に粛清されてゆく。
一体、誰が主催しているのかは最後まで謎のままである。
大体、何でこんなことをするのか、主催者側以外誰も知らないし、調べる余裕もない。
ただ、そのゲームは首輪もあり降りようがないため、続けるのみである。
このような極端で単純な設定にすると実に脚本も演出も楽であろう。

そして残るのは、山谷さんとなるが最後の相手は失踪していたはずの姉となり、唖然とする。
彼女は、最後に彼女の姉に勝って優勝するのだった。
それまでの不条理に耐えて生き抜いて来たのだが、全てが終わり安堵したのか、、、
苦渋の表情が消え、「今のお気持ちは?」のインタビューに可憐な笑顔を見せる。
良いエンディングであった。なかなかのホラーとなった。
これからどんどん出てきて欲しい女優である。

思い切り極端で単純な設定により押し切るおばけ屋敷的な映画もひとつではあろう。
ハンガーゲームもこの類である。


トイレのピエタ

Pietà004

2015年
松永大司:監督・脚本
手塚治虫:原案

野田洋次郎、、、園田宏(末期ガンの青年)
杉咲花、、、宮田真衣(女子高生)
リリー・フランキー、、、横田亨(園田と同じ病院に入院している患者、友人)
市川紗椰、、、尾崎さつき(新進画家、園田の元彼女)
大竹しのぶ、、、園田智恵(母)
岩松了、、、園田一男 (父)
宮沢りえ、、、橋本敬子(園田と同じ病院の親しい少年の母)


十字架から降ろされたキリストを抱く母マリアの聖母子像をピエタと呼ぶ。
サン・ピエトロ大聖堂に展示されているミケランジェロの作品がもっとも知られている。
「何故死んだ我が子をこんなに穏やかに優しい目で見つめられるのでしょうね」(橋本敬子)
息子は手術の甲斐無く死んでしまう。病院の友達には退院したと伝えられる。
Michelangelo Pieta003


手塚治虫が亡くなる前の日記の最後のページに書いていた作品の構想を元に製作された作品だという。
「浄化と昇天」
トイレにミケランジェロさながらのピエタ像を描ききって、胃癌で息絶える若者の物語だ。
(手塚治虫も胃癌であった)。

前半は冗長気味にだらだら怠惰な雰囲気で話が流れてゆく。
飄々としたリリー・フランキーによるところが大きい(笑。
重いものを抱えた掴みどころの無い役が上手い人だ。
杉咲花はやはり目力があって若手実力派という感じであった。
真衣が金魚とプールで泳ぐところは、なかなか絵として気持ち良い。
(本人も気持ち良さそうであった)。しかしプロット的に今ひとつ意味が分からないところではある、、、。
Pietà003
彼女も日々、母親の愛には恵まれず、認知症の祖母のケアで息詰まっている。
ひょんなタイミングで園田宏の余命(3ヶ月)を知らされ、腐れ縁となった。
彼女は相手の余命がどうだなど、全く遠慮しない。
ただ、お互いに引き合うものがあるのだ。
「あんたなんか自分で生きることも死ぬこともできないじゃん!」
結構、正統できつい指摘を度々してくる。
感情がストレートに出るタイプ。
しかしそれに対して「そんなのわかってるよ!」と叫んで返す園田。
確かにそれ以外に何を答えられよう?

大学時代の彼女で今は絵描きとして賞にも輝き成功している尾崎さつきが彼らと対比する存在として現れる。
自分のやるべきことに一途で全く嫌味はないが、晴れ舞台を突き進んでゆく彼女はもう彼の世界の住人ではなかった。
ここで演じる市川紗椰嬢は、実際の彼女に近い気がする。
もう少し彼女の演技を見たかった。

元々自らをビルに張り付いた虫だという園田宏の覇気のなさは自然で良い。
しかし画家を諦めて高層ビルの窓拭きアルバイトというのも何か面白い。
これまで塗ってきた絵の具、全ての線や色を自ら拭き取っているみたいで。
決別したいと思ったらやってみたくなるバイトかも知れない。
しかし園田は作業中に突然倒れ医者に運び込まれて検査を受けると胃癌であった。

最初は副作用に悩まされながら抗癌剤治療を入院して続ける。
隣ベッドの怪しいオヤジ横田亨とも何故かウマが合う。
白血病の少年と心を通わせたり、その少年の死に際し、母親から少年の絵を頼まれる。
しかし絵を捨てた彼は彼女の懇願を退けるのだ。
その後、転移もみられ、医者に最後の日々の暮らし方を尋ねられた。
彼は退院して余生を自分のアパートで過ごすことにする。
実家には少しばかり顔は出すが、そこに戻る気はない。
これは、分かる。わたしがその立場でも絶対に実家に戻ることはあり得ない。

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しかし間近に死を突きつけられたとは謂え、何がどう変わる訳ではなかろう。
恐らく何も変わらない。
何をか認識を得たり、見えてきたりするものではない。
体調が変わる(悪化する)としても。
(いや、余りにも体調の変化や苦痛~激痛が描かれていなかった気はする)。

真衣と横田の存在は大きい。
彼らは園田の生に火を灯したことは確かである。
絵を描く気になったのだ。
(わたしは、まだまだ、ならない(笑)。
天井向いて一心不乱に描くとところなど、まさにミケランジェロである。

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横田のヴィデオにおさまりつつ、、、
「僕、いま生きてますよ」
このセリフで締まった!


絶命した園田を抱く構図の絵~聖母は紛れもなく真衣であった。

何でも最後は肝心である。


”RADWIMPS”というグループの音はまだ一度も聴いたことがない。
であるから、野田洋次郎というギター&ヴォーカルという人も初めて見た。
素人臭さが良い意味で生きていた。市川嬢と共に。

めし

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1951年
成瀬巳喜男:監督
林芙美子:未完の絶筆『めし』原作
脚本:田中澄江
監修:川端康成

上原謙、、、岡本初之輔
原節子、、、岡本三千代
島崎雪子、、、岡本里子
杉葉子、、、村田光子
風見章子、、、富安せい子
杉村春子、、、村田まつ
小林桂樹、、、村田信三

東京・大阪の戦後復興期の街の風景が何ともリリカルである。
どこの国の風景だろうか、、、と見入ってしまう無国籍な抽象性であった。
「くいだおれ」も不思議で感慨深い。

小津映画で完成された原節子のイメージとはまた異なる彼女の姿が見られるが、憂いに充ちた横顔がギリシャの彫像のようで美しかった。
こういう原節子も味わい深い。
小津作品での原節子のことをよく書いてきたが、「青い山脈」、「安城家の舞踏会」の原節子がもっとも生き生きしていて魅力が感じられる。どちらも小津映画ではない、、、。勿論、「東京物語」の彼女は素晴らしいの一言だが、あれは作品の出来具合の良さで、誰もが神々しく輝いている。
この映画もまた彼女の異なる魅力が引き出されていると思う。

聖女ではなく、生活に疲れ猫に孤独を紛らわす市井の主婦を演じる。
「所帯疲れよ」と自ら突き放したように騙る原節子である。これは新境地か。

前半はひたすら彼女が倦怠感と疲労の漂う表情で、イライラとしながら家事に追われている。
「まるで女中よ」と、夫の転勤で大阪に居ることにも不満があるようだ。
周囲からは何の苦労もない幸せな夫婦と思われている。
当人もそれに対し真っ向から否定するような素振りは一切見せない。
だが陰鬱な疲労感が日々鬱積してゆく、、、。

仕事を持って故郷の東京で働きたい。そう思うようになるが、そこへ里子が転がり込む。
彼女は親が設定した縁談が気に食わず家出してきたのだ。
所謂戦後の現代っ子であろうか。
この時期の映画にはしばしばこういう思い切り自由な女性が現れる。
その後の彼女の、大阪での羽の伸ばし方が尋常でなく、遊びほうけて周囲も呆れるばかり。
三千代も彼女に対して不満を抱きつつ、自分の影とも言えるその存在への関心は保ち続ける。

さんざん自由に振る舞い迷惑をかけていた里子が実家に帰るに乗じて、三千代も一緒に東京の実家に帰ることを決断する。
実際に東京で仕事を見つけて張りのある生活をするつもりなのだ。
しかし、実家で父親に叱られた里子が今度は三千代の実家にまたもや転がり込む。
これには三千代も驚きまた呆れる。
そこで里子は勝手で我儘な生活ぶりを繰り広げようとする。
だがその姿に三千代は逆に、日々の生活の反復の価値に気づかされ思わず笑ってしまう。
冒頭で林芙美子の文章を原節子のナレーションで騙る部分に重なる。
これが基本コンセプトなのだ。

ここでも列車の移動するなかでの想念と思考の推移が描かれる。
最後の夫と共に大阪に戻ってゆく列車内での自覚と認識が告げられる。
生活の川に泳ぎ疲れて漂いしかも戦って、今は居眠りしている夫の平凡な横顔を見ながら、この人に寄り添って生きることが自分の本当の幸せなのだ、、、と微笑みを漏らしつつ悟る。
諦観を超えた生きる価値を見出すくだり、、、如何にも帰りの列車の中が似合う。


しかし元に戻れば反復する日常が待っている。
われわれに出来るのは、如何にこの反復を更新して行けるかだ。
日々新たに、、、向き合ってゆくか。
この先も毎日、「めし」を食べてゆくわけだ。
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砂漠の流れ者

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The Ballad of Cable Hogue
1970年
アメリカ

サム・ペキンパー監督・製作
ジョン・クロフォード、エドマンド・ペニー脚本

ジェイソン・ロバーズ、、、ケーブル・ホーグ(砂金掘りの流れ者、駅馬車中継駅の主)
ステラ・スティーヴンス、、、ヒルディ(娼婦)
デビッド・ワーナー、、、ジョシュア(似非牧師)
ストローザー・マーティン、、、ボウエン(砂金掘りの小悪党)
L・Q・ジョーンズ、、、タガート (砂金掘りの小悪党)


久しぶりのサム・ペキンパー監督の作品。
「ゲッタウェイ」「ワイルド・バンチ」「ガルシアの首」「 戦争のはらわた」、「わらの犬」、、、などとても印象を深く残す作品ばかりであるが、わたしにとってはとくに「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」の演出・脚本も強烈なインパクトを残す。
わたしの一番のお気に入りは「ゲッタウェイ」であるのだが。
これも何とも言えない印象を残す作品となった。

初っ端から歌がたくさん唱われて、何か長閑な雰囲気の映画である。
最初の歌が流れたときは、これってミュージカル調の映画なのか?と思って見るのを躊躇したが、サム・ペキンパー監督のものである。
そのまま観る事にした。
いきなり主人公であるケーブル・ホーグが砂漠で仲間2人に身ぐるみ剥がれ、放置されてしまったところから始まる。
彼は水のないところで独り半死半生の苦闘を演じ、神にすがり神を呪いつつ諦めかけた時に水を掘り当てる。
そこからその場所を登記しインチキ牧師とともに小屋を建て、駅馬車の中継駅を経営する。
娼婦のヒルディとも恋仲となって、安定した幸せと言ってよい日々が過ぎてゆく。
しかし彼は、もうすんでのところで命を落としかけた仲間の裏切りに対する復讐心は失ってはいなかった、、、。

スローモーションや派手な撃ち合いなどは一切ない。
お洒落なタイトルバックは「ワイルド・バンチ」に準じていたが。
主人公が腰抜けと呼ばれているのだ。
実際のところ、腰抜けでも何でもない、心優しく商才ある堅実な男だが。
やはり変わった主人公ではある。

見終わってから、これも西部劇であったのだ、と気づいた。
もう車が走り出した西部劇時代の末期か?
砂漠で裸一貫、一花咲かせた男の奇妙な何とも悲哀のある人生が描かれ、象徴的な締めくくりで終わる作品である。
この監督のいつもの作風とは異なるとはえ、大変味わい深い魅了される作品であったが、何よりもケーブル・ホーグという男に惹かれてゆくのだ。
砂漠に留まり続けたところが良い。
わたしは、ここでこの男に強く共感し、より映画にのめり込んだ。
(ちょいと儲けたところでいそいそと街に移り住んだとしたら実に詰まらぬ男である)。

そして砂漠の地においてケーブルとヒルディとジョシュアの朴訥で細やかな話が織り成される。
ここは面白く、綺麗である。
ケーブルは善人でも悪人でもなく、ケチでもあるが優しく大らかでもある。
よく映画で描かれる、はっきりした主人公でないところに好感が持てる。
とてもユニークな普通の男なのだ。
(実際そうしたものであろうし、その方が馴染める)。

そして最後、自分が長年砂漠で待ち続けた敵の二人に自分の経営する駅で出逢う。
一人は射殺し、もうひとりはお情けで許し自分の後継者とする。
ここの攻防は派手さはないが、相手に姿を見せぬ上下(高低)の地形での毒蛇を使った作戦などでかなり楽しめた。
何れにせよケーブルはこころに誓っていた復讐は成し遂げたのだ。
ひとつの大きな目的を達してしまった。
そこへサンフランシスコで富豪となったヒルディが最新の車にお抱え運転手の運転でやって来る。
彼女にニューオリンズに一緒に行きましょうと誘われ彼は二つ返事で同意する。
ここで、彼を支えていた「復讐」と「砂漠」から彼は解かれてしまう。

運転手のサイドブレーキかけ忘れによる、交通事故死というこの時代としては突飛な事故死に見えるが、とても必然的で悲哀に満ちた死に思える。
その実、彼は周りが大丈夫というのにもうすでに自分の死を確信し、ジョシュアに生きてるうちに弔辞を詠ませるのだ。
ジョシュアの詩人としての資質が窺える、美しいスピーチである。
このシーンが一番こころに残った。
最後はもう本当に死んで葬式の場面に移っている、、、。

「戦い愛した砂が今、彼を覆い、、、永遠に留まることのない魂の流れの中に入る、、、彼にはある面では神のお姿に似たものがある、、、この砂漠で生きて死んでいったことを考えても、、、彼は並みの人間ではない。」

牧師の言葉を聴きながらひとりまたひとりと姿を消してゆくところが本当に物悲しくも美しい。




阪急電車 片道15分の奇跡

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2011年

三宅喜重監督
有川浩原作
岡田惠和脚本

中谷美紀 
戸田恵梨香 
宮本信子 
南果歩
芦田愛菜
有村架純

かなり凄いキャストだ!
特に中谷美紀さんは、「砂の果実」以降、女優としてもミュージシャンとしても随筆家としてもファンである。
その「砂の果実」のPVにおける彼女の美しさは絶大なもので、当時地球上の生物のなかで最も美しい存在であると確信したものだ。
そして最近、高偏差値進学中学に合格して女優業再開となった、芦田愛菜の原点みたいな姿も見られる。
この前見たTVでは、相当に美しく洗練されたちょっと歳以上に感じられる女の子になっていてびっくりした。
だいぶ以前であるが、尊敬する女優は、と聞かれて中谷美紀と答えていたのは覚えている。
そのとき、この子は大したものだ、とつくづく思ったことで今も記憶に残っている。(感動があると記憶は長期に残るものだ。海馬~短期記憶・メモリーから大脳辺縁系~長期記憶・ハードディスクへと)

そして流石に宮本信子さんの演技は素敵だ。
人間あのように歳を取れれば申し分ないと思う。
あのようなおばあちゃんであれば、是非ひとこと教訓なり叱咤激励なり思い出噺なり聞かせて頂きたくなるものである。
だがそのためには、相当な叡智がなければならない。単なる知識や経験ではない。
急にはああいったおばあちゃんに誰もがなれるものではない。
あの電車内で注意されたおばちゃん軍団のような人々では到底無理である。

南果歩さんのお母さんはとても良い感じだ。
PTA関係で凄まじくとんでもない不良おばちゃん軍団と行動を共にしなければならなくなった悲哀がとてもよく出ていた。
宝塚あたりのそれは、わたしはかつて二子玉川で見てきた。
実際、そういうものである。毎日のようにフレンチやイタリアンの高級レストランでおいしいランチを食べてるのは本当だ。
それが耐えられないのはよく分かるし、関係を断つと後が怖い。
家族が理解者であることは救われるが、ちょっと不自然な感じもあるにはあったが。
気弱で回りを気にする善良な主婦が十分に演じられていた。

そして今をときめく有村架純である。
「ビリギャル」面白かったが、ここでも伸るか反るかの受験生役で、こういうのが合っているのだろう。
この年頃の女優は女子高の怪談物に出ているケースが目につくが。
「女子ーズ」での活躍も面白かった。ニュートラルな女の子役でこの人の右に出る者はいないと思う。
直向きで可憐な役がピッタリだ。

戸田恵梨香はやはり上手いし自然である。
演じている感がない。
芸達者だ。
しかし、DVを受けても、というより受けることで、離れられなくなる一種の病的な心理規制も発現してしまうのか、、、見ていてそう感じられた。この物語のように外部の支援者に間に入ってもらうことがベストに思える。

それから、お宅学生のカップルである。
この二人がどうみても、もっとも幸せカップルであろう。
自分の趣味の道を素直に無理なく進んでゆくことが、結局は一番ベストな結果を生むのだ。
自分に嘘をつき、無理に外に合わせるだけ時間を単に空費し、時に取り返しのつかないところに追いやられる。
自然な形で自分たちにもっとも合う相手を見つけるのが最高だ。


このローカル線、、、。
ありふれた光景に見えてかなり異化された時空である。
登場人物たちは、孤独を電車の中で噛みしめることで、解放へと繋がってゆく。
そこにとても重要な触媒としてのおばあちゃんが介在する。(如何にも賢そうな孫の芦田愛菜と一緒に)。
おばあちゃんのちょっとしたお節介が、よい波紋となって他の登場人物たちに染み渡ってゆく。
中谷美紀や戸田恵梨香が癒され自分に向き合い、救われたことで、彼女らも他の人を癒し救ってゆく。
お宅カップルも救われたに違いない。
連鎖が優しく広がる。

これなのだ。
ローカル線であることも重要なファクターだが。
通常、このおばあちゃんのような、優しく賢いお節介というのはない。
誰もが自分の硬い殻の中に籠っている。人に構うなんてもっての外と思っている。
あっても大概目つきの悪い、批判や攻撃だ。単なる他罰主義丸出しの自己中心的な憤りだ。
でなければ、無自覚なコンプレックスの投影で人にとり憑いてくる輩もいる。
迷惑以外の何ものでもないし、人を更に孤独に孤立させる関係性しか生じない。
(こんな関係を深める光景がほとんどだ)。


しかし、ここでは、、、。
宮本信子と芦田愛菜のおばあちゃんと孫娘から広がる浄化と癒しの空間が電車という形で現出されている。
(これが街角や店などでは、効力を発揮しない。あくまでローカル電車という場所であることが重要である)。



PUSH 光と闇の能力者

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PUSH
2009年
アメリカ

ポール・マクギガン監督

クリス・エヴァンス 、、、ニック・ガント(ムーバー・念動力者)
ダコタ・ファニング 、、、キャシー・ホームズ(ウォッチャー・未来予知力者)
カミーラ・ベル 、、、キラ・ハドソン(プッシャー・記憶操作能力者)
クリフ・カーティス 、、、フック・ウォーターズ(シフター・物体の外観を変える能力者)
ジャイモン・フンスー 、、、ヘンリー・カーバー(ディヴィジョンのエージェント、プッシャー)
ニール・ジャクソン、、、ヴィクター・ブダリン(ディヴィジョンのエージェント、ヘンリーの右腕、ムーバー)
リー・シャオルー、、、ポップ・ガール(ウォッチャー、香港暗黒街のボスを父に持つ)


わたしは、こじんまりとした(小さくまとまった)作品は結構、好きな方だ。
だが、そういう作品ほどきっちりと締まったものでないと話にならない。

小粒な超能力者たちがざわざわ動いて結局何をしたのか分からない映画。
(昨日の超能力はそれなりに分かり、その人間の実存も充分に共感できたが、これは人がまるで木偶人形である)。
舞台は香港。
秘密組織ディヴィジョンから逃亡して潜伏している超能力者と、ディヴィジョンから送り込まれたエージェントに、香港暗黒街の組織の超能力者たちの、三つ巴の戦いである、ようだ。
ただ、何で戦ってるのか、彼らにどういう動機があるのか、金なら何で儲かるのか、よく分からなかった(笑。
そう、話自体さっぱり掴めずただ見ていただけなのだ、、、。

ダコタ・ファニングはそこそこ際立ち頑張ってはいるが、ナタリー・ポートマンみたいな圧倒的な存在感からは遠い。
妙に大人びていて生意気で頼りになるが危なっかしい少女というステレオタイプの役柄だ。
「レオン」は作品自体素晴らしかったし、、、やはり出演作は大きい)。
というより、今はもうこういった少女役は無理な年齢になっている。
正統派の美人女優として今後、伸びてゆく人であろうが。

PUSH 003
サイキックとは言え、ちゃんと能力発揮してるのは、ヴィクターくらいではないか?
彼はかなり派手だし。こういうもんだろうと思える。
だが、主人公他、誰もほとんどパッとしない。
主人公がもっともパッとしないのだが。
魅力がない。
キラというキャラ設定も情けないほど薄い。
キャシーだけは、このなかでは厚みを覚えるが、妙なポップアートみたいなのを描いてばかりで、今一つ深まらないし、広がりを欠く。全て原案・脚本・監督のせいであるが。
(こういうレヴェルの作品はスキップするべきなのだが、うっかりみてしまったため取り合えず備忘録と相成った)。

キャラが充分に動かせず、能力も有効な展開に繋がるという訳でもない。
(特にキラの場合)。
同じ種類のパワーでも個人差はあるようだが、実用レヴェルに達しているのは、ほとんどいない。
これを逆にうまく連合させてストーリーに練り上げれば、結構スリリングで面白味のあるものとなったのでは。
ひとりくらいミスタービーンみたいな人も加え、、、。
そうしたら、ぐっと入っていけるかも知れない。

それからナチス時代に研究・開発された超能力軍事兵器だそうだが、何でもヒトラー~ナチをブラックボックスにしてしまう安易さは勘弁してくれというところ、、、。ディヴィジョンという組織がそれを引き継ぐって、確かにそういった地下~秘密組織に対する憧れは誰もがもつところだが、安直である。
まあ、物語全体において安易であるが。
ウォッチャーなどを下手に設定してしまうと、プロット的に首を絞めることにもなる。
相当脚本を練る必要があるはず。


全体に、何を見せたいのかが、いまひとつ分からず中途半端感が最後まで続いた。

結局、何であったのか、、、?
余りのインパクトのなさに、もう見た内容も思い出せない。
いや、この記憶は消そう。
(記憶を消して身を守る場面があったが)。

ニックは中国の醬油を注射して大丈夫なのか、、、。
そんなところが気になってしまう。


PUSH 001
あ~あ、出る作品、選ばなけりゃ、、、と言っているようにも見える。



デッド・ゾーン

The Dead Zone002

The Dead Zone
1983年

デヴィッド・クローネンバーグ監督
スティーヴン・キング小説『デッド・ゾーン』原作

クリストファー・ウォーケン、、、ジョニー(元高校教師、家庭教師)
ブルック・アダムス、、、サラ(ジョニーの元フィアンセ)
マーティン・シーン、、、スティルソン(危険な政治家)
ハーバート・ロム、、、ウイザック(ジョニーの主治医)
トム・スケリット、、、バナーマン(保安官)

デヴィッド・クローネンバーグは、「ヴィデオドローム」「ザ・フライ」「 イースタン・プロミス」などの圧倒的な存在感のあるものが目立つが、この作品の隙のない丁寧で繊細な出来には、とくに好感を抱く。

美しい映画であった。
デヴィッド・クローネンバーグ監督はスティーヴン・キングの小説の世界観を余すところなく表現できていると思う。
いや更に透徹した世界に達していはいないか、、、。
クリストファー・ウォーケンの演技がそれを充分に体現し表出していた。

ヴィジョンの絶対的な説得力は様々なところで生きる。
多くは芸術の領域で発揮されることは多い。
以前、ヒルデガルト・フォン・ビンゲンに関して採り上げたことはあるが、少なからず画家や小説家にも見受けられることは事実である。

フィアンセと共に幸せな日常を育んでいたジョニーにとり、ある夜の突然の交通事故により、彼も尋常でないヴィジョンを得ることとなる。
しかしその能力は、5年間の昏睡による時間の喪失、それは同時にかけがいのない恋人の喪失でもあり、ベッドから起き上がっても杖なしには歩けない足の不自由が残る、、、その代償として得られたものである。


確かに彼のような内的~潜在的コミュニケーション能力は、「心的現象論」を論じる吉本隆明氏もその存在を認めている。
所謂、世間的にいう超能力だ。
ひとつの源言語的能力で、胎内にいた時期の極めて初期に形成され得る能力のひとつとして捉えられている。

特にジョニーのように、それが強力で卓越したものであると、世間の好奇の目からは逃れられない。
芸術などに昇華・表現したものであれば、その領域での評価を呼ぶだろうが、彼の場合、日常に密着している。
彼は警察にも協力し犯人逮捕に貢献するが逆恨みを受け、銃で撃たれたりもする目に遭う。
面白おかしくメディアで採り上げられたり、犬を探してくれ的な手紙が山ほど届いたり、ただ彼を追い詰め悩ます事にしかならない。
しかも能力は次第に強まってくると同時に体力は衰弱して来る。
主治医には病院の管理下での生活を勧められるが、彼は今でも充分に管理下に置かれていることを告げる。
彼にとってはそれは忌まわしい能力でしかない。

連続殺人犯の警官の母親が息子のことを知っていた事実や主治医のウイザックが少年時代、ヒトラーに戦火のなか母親とはぐれたままになっていた深層の記憶と、その母親が遠くでまだ生きていることの透視は、さもあろうかと分かる。
彼らの意識のなか、記憶の底を探れば見えてくるだろう。
家庭教師を任され親しくなった少年が近未来に湖の事故に遭うことの予見は高度さは増していると思われるが、感情的な繋がりがそれを可能にしたとは受け取れる。だが手を触れたばかりの看護婦の自宅が今家事である事は、かなりの超能力と言えよう。
そして、連続殺人犯に殺された少女の遺体に触れてその犯人を特定した~顔を観た能力は、もうモノ~屍体から想念?を得るレヴェルである。少し他のケースから見て飛躍は感じられる部分ではある、、、。
そして、彼のかつての恋人サラが積極的に応援運動をしている政治家スティルソンの手を握った時に、彼が将来大統領となり、国の有事に躊躇いもなく核ミサイルを発射させることをはっきりと見てしまう。
強烈なヴィジョンである。
彼はさすがに、ウイザックに「ヒトラーがあのように台頭することが分かっていたら事前に彼を殺すか?」と問う。
すると彼は、「わたしは人々の命を救うのが仕事だ。勿論、彼を何があっても殺す。」と答える。

ジョニーは選挙演説の会場に銃をもって潜む。
結局、サラがスティルソンの間近におり、彼女の子供を盾として身を守った為に、彼が銃殺されることになる。
しかし、その一部始終はマスコミのカメラに収められ、駆け寄って彼を問い詰めてきたスティルソンが自滅して自殺するヴィジョンをジョニーは得る。
サラがどうして、、、?と困惑と驚きをもって彼を抱き上げるなか、彼は安堵して絶命する。
自分が死んでしまえば原理的に意味のないことではあるが、そのヴィジョンを観てしまえば、阻止できるのは自分であると思うだろう。わたしもほぼ同じ行動に出てしまうかも知れない。
世界を救うためとかいう大儀や自己犠牲の意識ではなく、そのヴィジョンの絶対性に突き動かされて、不可避的にとった行動であると思われる。
彼にとってきっとヴィジョンは、現実より強烈なリアリティを湛えたものであったはずだ。

最期に彼は、自分の能力を「今は神の恵みだと思っている」と恩寵として捉えて死んでいる。
The Dead Zone001

ジュリエット・ビノシュ in ラヴァーズ・ダイアリー

ELLES001.jpg

ELLES
2011年
フランス・ポーランド・ドイツ

マルゴスカ・シュモウスカ監督・脚本

ジュリエット・ビノシュ、、、アンヌ(ELLES雑誌記者)
ジョアンナ・クーリグ、、、アリツィア(女子大生)
アナイス・ドゥムースティエ、、、シャルロット(女子大生)
ルイ=ド・ドゥ・ランクザン、、、夫

ジュリエット・ビノシュ主演でなければまず観ない。
邦題が悪すぎる。
”ELLES”である。彼女ら~ELLES(雑誌名)で良かろうに、、、。
題が作品の品格を落としている。


クラシック音楽~最初の頃のは思い出せないがワグナー、マーラー、ベートーベンなどを基調としている。
が、そこに、、、あのシャンソン、、、何であったっけ、、、が介入してくる。
インテリア、服、ドレス、調度、色調などが彼女の生活の質を綺麗に表しているが、、、
冷蔵庫のドアにいちいち引っかかる。(何かが必ず邪魔してドアが閉まらないのだ)。
ここに綻び、不協和音が現れてくる。
そういうものだ。
一見整然としているように見えて、、、
エントロピーが静かに増大してくる。


熟年夫婦となると子供を介して繋がっている部分が大きい。
もうお互い同士の関係の瑞々しい更新は困難となってきている。
これはある意味、人間における普遍的で深刻な問題なのだ。
しかし、肝心の子供は親の預かり知れない何者かとなっている。
価値観が理解不能になっている。(長男の大学生の部屋にはチェ・ゲバラのポスターが飾ってあった)。
(ついでに次男の小学生は、流行りのゲームばかりしている)。
コミュニケーション自体も不全に陥っていることは明白だ。
特に大学生の長男は相当に生意気で親を馬鹿にしている。

”ELLES”の雑誌記者であるアンヌは、女子大生の援助交際の記事を書くために、見た目もごく普通の可愛らしい女子大生に取材を持ち込む。彼女らのネット上の広告を見てインタビューをするのだ。
最初は壁を作る彼女らであったが、アンヌの彼女らに対する先入観(偏見)が薄らぎ、一緒にパスタを食べたりお酒を飲んだり、シャンソン(クラシックではない)で踊ってみたりしているうちに、彼女らも心を開き質問に全て答え、赤裸々な話をしてゆく。
明らかにアンヌに好意を示し、自分の本当の名前も明かす。
夫がアンヌの今取り組んでいる仕事を、娼婦の取材と蔑視していることに彼女は大きな意識の落差を覚える。
更に、長男が学校をサボり薬をやったことに対して、夫は妻が家庭を向いていないと批判する。
「わたしたちの責任じゃないの?」というアンヌに取り合わず、上司を呼ぶ今夜のディナーの食事や振る舞いばかりを気にしている。

実際女子大生のふたりは、経済的な必要性、バイトでは勉強する時間すらなくなってしまうため始めたのだが、時間とお金の余裕で、人間として女性としても明るく力強く暮らしていることを知る。
ほとんどネガティブな感情は持っていない。それ以前の生活の方が遥かに辛く惨めであったのだ。
確かにこころが全てを受け入れているわけではない。
社会的にも知人にも秘密の仕事で余裕を持てているのだ。
しかし、少なくとも女性として扱われ、逞しく生活を営んでいることにアンヌは動揺し、自分の置かれた現状が逆照射されることとなる。
特に「女性」としてである。
ここでの性的な描写が女性監督のためか、感情的な流れも含め、かなりリアルに受け取れる。


夫が招待した上司たちとのディナーを囲むと彼女には彼らが皆、取材を続けているふたりの女子大生の客でもあることを想像する。確かに買うものたち~需要があるために成り立つ構造なのだ。
彼女はそれまでの日常に、自分の深層の欲望に自覚的になっている。
ディナーの場が耐え切れず席を突然離れ、外気に当たりにゆく。
もうどうでも良いわ、、、とか漏らしていた、、、。


翌朝、綺麗な食卓を親子で囲む朝食の光景が流れる。
食事はみんなで仲良くとらねばならない。
それぞれがこころは離れていても、食事を共にとることが家族を取り敢えず繋ぎ留める。
そんな静かで明るい映像が続き、エンドロールへ、、、。



アンタッチャブル

The Untouchables001

The Untouchables
1987年
アメリカ

ブライアン・デ・パルマ監督
エリオット・ネス の自伝を原作とする実録映画
デヴィッド・マメット脚本
エンニオ・モリコーネ音楽

ケビン・コスナー、、、エリオット・ネス(財務省捜査官)
ショーン・コネリー、、、ジム・マローン(シカゴ市警警官)
アンディ・ガルシア、、、ジョージ・ストーン(射撃の名手、若手警官)
チャールズ・マーティン・スミス、、、オスカー・ウォーレス(財務省簿記係)
ロバート・デ・ニーロ、、、アル・カポネ
ビリー・ドラゴ、、、フランク・ニッティ(アル・カポネ腹心の殺し屋)

今では「マイインターン」で優しさと包容力一杯の役などを好演しているロバート・デ・ニーロの鬼気迫るアル・カポネである。
ビリー・ドラゴの殺し屋は妖気さえ漂わせていた。もう紙一重である。
ショーン・コネリーは味わい深い役をしっかりこなしている。この映画の中核を成していることは間違いない。
アンディ・ガルシアは瑞々しくシャープでスマートであった。
チャールズ・マーティン・スミスの個性はこの物語に幅を持たせていて、過度の緊張を和らげる存在でもあった。簿記係なのに銃撃戦でも予想外の活躍なのがちょっとコメディ調でもあった。
ケビン・コスナーはこの役にピッタリであった。正義に拘り名誉も気にし揺れ動く主人公の繊細なこころの動きをうまくなぞっている。

丁度「ゴッドファーザー」の裏側の話だ。

禁酒法時代の話である。
酒が作れず売ることも呑む事もできなければ、世は荒れるだろう。
当然、それにつけ込む人間は出てくる。
呑みたい人間は金を出す。(ポテチが食べられないくらいで、ネット上で大金が動くのだ(笑)。
酒の密造とカナダからの密輸で大儲けする組織が出来る。
アル・カポネがその最大勢力のボスであった。

法はあくまで法であり、彼がチーム「アンタッチャブルズ」によって、逮捕されてすぐ後に禁酒法はなくなり、何時でも好きなだけ酒が呑める事になる、、、。
法とは法である。法以外の何ものでもない。

ただ、この物語の発端にあるのは、ギャングの酒の売り込みを拒絶した店主の店を爆破したことによる10歳の少女の巻き添えの爆死である。
この深い悲しみから市民に対する暴力の阻止のためエリオット・ネスたちが立ち上がったと言えよう。
しかし、捜査は難航を極める。
権力の深みにまでアル・カポネの金の力が浸透していたのだ。
勿論、警察の中に内通者がかなりおり、エリオット・ネスの最初のガサ入れは見事失敗する。
失態は大々的にメディアに乗って物笑いの種にされ、権威の失墜も含め、人身のマインドをもコントロールしてしまう。
昨日の、コルレオーネの勢力も政治家や警察やメディアを抱え込むことで強大化していた。
その構造は同じである。

この映画では、暴力~銃に対しては暴力~銃で叩き潰すという基本姿勢である。
シカゴ流なのだ。後半に至るまで、これをグイグイとジム・マローンが引っ張る。
かなり血なまぐさい。
壮絶である。
人物がよく描かれている分、「アンタッチャブルズ」のうち二人が死んでしまうのは、こちらの胸も痛くなった。
そして撮り方である。
緊張を如何に保つか、生理的に心理的に微細に尺の長さを調整していることは明らかだ。
脚本的~流れにも焦らすような効果を取り込んでこちらを緊張の内で揺り動かそうとしている。

また、その道具立てと場所だ。
クラシックカー(1930年代)や騎馬隊(車ではないのか)が贅沢に出てくる。
ちょっと小屋も含めて西部劇を連想してしまう、、、。
そして「階段」での「乳母車」越しの銃撃戦である。
度々上下の高さを使った攻防が巧みに描かれていた。
ここが非常に緊張を高めるところで、主に神経を極限的に使い、決断を下す場面となる。

冒頭での少女の爆死から事実上の最後の決着を着けるところも子供絡みである。
かなりの危うさであるが、ジョージ・ストーンの射撃の腕に託された。
母親としてはその事態に不安と恐怖でたまったものではないが、、、。
(爆死した少女の母親がエリオットに犯罪組織の撲滅の懇願に来ていたことの対比でもある)。


全体を通し音楽は実に演出効果を上手く務めていた。全体をスムーズに流す作用がよく効いていた。

今日はマフィアに戦いを挑む法の側の物語であったが、これ以降の暴力、汚職について改善はみられたのだろうか。
(確かに改善された部分はあると思われるが、、、寧ろ裏切り者は許さないというアルの姿勢の徹底化が進んだようにはっきり思えるところである。その極端な例がプリズム!ある意味、全世界的に透明化したマフィアに覆われたような恐ろしい世の中となったものだ)。


ゴッド ファーザー

The Godfather001

The Godfather
1972年
アメリカ

フランシス・フォード・コッポラ監督
マリオ・プーゾ『ゴッドファーザー』原作
マリオ・プーゾ、フランシス・フォード・コッポラ脚本
ニーノ・ロータ音楽


マーロン・ブランド、、、ドン・ヴィトー・コルレオーネ(コルレオーネ家の家長)
アル・パチーノ、、、マイケル・“マイク”・コルレオーネ(コルレオーネの三男)
ジェームズ・カーン、、、サンティノ・“ソニー”・コルレオーネ(コルレオーネの長男)
ロバート・デュヴァル、、、トム・ヘイゲン(コルレオーネ家の相談役)
ダイアン・キートン、、、ケイ・アダムス・コルレオーネ(マイケルの妻)
リチャード・カステラーノ、、、ピーター・クレメンザ(コルレオーネ家の古参幹部)
ジョン・カザール、、、フレデリコ・“フレド”・コルレオーネ(コルレオーネの次男)


設定だけでなく重みが「カラマーゾフの兄弟」にも似ている。
実は、「ゴッド ファーザー」をアマゾンプライムで初めて見た、、、。
わたしは、マフィアのドンパチがあまり好きではなく、これも敬遠していたのだが、フランシス・フォード・コッポラなので観てみたのだが、、、。
これは別格の作品である。

マーロン・ブランド、本当に重厚で燻し銀の演技である。
ニューヨーク・マフィアの頂点に立つ男の孤独と人間愛が深い味わいで表出されていた。
家族を大切にし麻薬を嫌っているところも、はっきりけじめのある人格である。
彼の出る場面はまるで、レンブラントの絵を観る想いだ(あの内面を抉る自画像群)。
(恐らくコッポラ監督もそこを狙っているのでは、、、)。
ここに本意ではないが、父を尊敬するマイクが結局、二代目を継ぐ過程が鮮やかに描きこまれる。
アル・パチーノの最初の青臭さから最後の覚悟を決めた精悍な面構えになるまでの変化の演技も素晴らしい。
周りの強面衆も実に渋くて滲みる。
一人一人の陰影が深くバロック絵画を想わせる絵とニーノ・ロータの音楽がこの映画を別格のものにしている。
これは、見始めたら3時間はあっという間であった。

緻密な構成には呆気にとられる。
精緻な工芸品に似た感触がある。
ドンがオレンジを買いに独りで出て行ったところを待ち伏せた対抗勢力の銃弾に倒れる。
奇跡的に回復するが最期はオレンジの農園の中で孫の防虫剤の銃に撃たれながら絶命する。
葬儀屋の娘が乱暴され顔を潰され報復を頼まれるドンであったが、その男に敵の銃弾に蜂の巣にされたソニーの遺体の修復を頼む。
パン屋の結婚を助けるとドンの入院する病院を守ることにそのパン屋が協力することに、、、。
そう言えばその婚約者はイタリアに行くことを止められうまくいく。
マイクは敵対勢力のボスとそれに協力する警部を射殺しイタリアに飛ぶ。
この視点で見ると、そんな対応関係でぎっしり稠密に練り上げられた映像であったのだ。
何気なく観てしまったのだが。

対比するモジュールで網目のように構成されている作品であることに気づく、、、。
これは飛んでもない美学によるアプローチで作られた特殊な映画のようだ。
一回観ただけでは、その全貌など掴めないことが分かるということだけは確認できた。

内容的に観ても、裏社会に生きること自分のファミリーが特殊であることに大いに抵抗をもっていたマイクがあのように変貌を遂げてゆくことに何とも言えない悲哀を覚えつつも非常に共感してしまうのだ。
(長男は直情的で粗暴で単純なため組織を任せられる器とは言えない。次男は気が弱く軽くあしらわれてしまうとてもマフィアの務まる性格ではない。やはり大学出の軍隊で表彰を受けた沈着冷静な自分が引き受けるしかない、、、と父の入院する病院を独りで守ったときに決意を固めたはずだ)。
そして最期まで威厳と包容力を保つドンの姿。
彼の死去で確実に何か大きなものが画面から喪失する。
マイクの変貌がここに極まる。
この辺の体感感覚が通常の映画とは異なるのだ。


The Godfather002
洗礼を受ける男の子として乳児であるがソフィア・コッポラがここでも出演している。
特に笑えるシーンではなかった。というよりその存在が緊張の最高度に高まる場面の演出になっていた。
赤ん坊が洗礼を教会で受けているときに、敵対するマフィアのボスたちを次々に虐殺してゆくこの生と死の極まり。
これほどフラジャイルで緊迫する生と死のドラマを見たことがない。
いやこれこそが洗礼なのか!そうなのだ。全ての魔を振り払う、、、。
無意識とは言え役者として彼女の最高の演技であったはず。(それ以降を見れば皮肉にも間違いなく、、、)。


それでも恋するバルセロナ

Vicky Cristina Barcelona001

Vicky Cristina Barcelona
2008年
アメリカ・スペイン

ウディ・アレン監督・脚本

ハビエル・バルデム、、、フアン・アントニオ
レベッカ・ホール、、、ヴィッキー
ペネロペ・クルス、、、マリア・エレーナ
スカーレット・ヨハンソン、、、クリスティーナ


スペインの太陽とガウディの建築があれば、こういう気分になるものだろう。
それは正しい。
「成就しない恋愛こそロマンチックだ」とは実にめでたい。
きっとこの気候と景色がよいのだ。

展開は小気味よい。
ちょうど良い時期にナレーションが入り、歌が入ってくる。
この辺のウディ・アレンのセンスは好きだ。
「ミッドナイト・イン・パリ」もこのセンスが光っていた。ただジョークは向こうの方が上で、もっと面白かったが。

ともかく、重くしないでオシャレに運ぶ。
扱っている恋愛沙汰自体はそれこそ、かなりシンドくてドロドロしたものだが。
アメリカの一般的な結婚生活~価値観にはウンザリというところはよくにじみ出ている。
(彼らの場合、アメリカのセレブであるが)。
ただ、こちらに来れば何かが変わり、自分にピッタリのもの~生活スタイルが見つかるかというと、、、
そうもいかない。
(アメリカを離れてここで経験したことは、意味はあったが、やはり強烈すぎたか?)
Vicky Cristina Barcelona003


そもそもふたりは安定~確信(発見)を求めてきたのか?
そうではない。
だいたい、自分探しの旅だなんて、、、探し当てた先の自分などという幻想は存在し得ない。
元々ないもの探すこと自体が甘ちょろい。というよりその身振り自体が甘い。
ただの気晴らしのレベルに過ぎない。

マリア・エレーナがクリスティーナに対して吐いていたことば「あなたは慢性的な欲求不満よ!」
その通りで、どうあっても、人は今に充足できない。
恵まれてるとか幸せとか関係なく、今在るところのものからはみ出ていくのが存在形式として必然なのだ。
現状を解体して~破壊して違うものを構築し続ける。
この構築し続ける運動こそが生であり性であろう。
そこに自分とか何とかは関係しない。
ひたすら運動する~生きるという事実があるだけだ。
ガウディの建築そのものである。
Vicky Cristina Barcelona002

本来、人間には中心がなく、永遠に日々のディテールを記述しながら未完の長編を構築し続けてゆくしかないのだ。
それがガウディであり、カフカが鋭利に示した世界なのだ。

フアン・アントニオとマリア・エレーナの関係はもっとも創造的で破壊的な、ある意味理想的な方向性をもったものであるが、安定とは無縁でひとつ間違えれば死に直結してしまう。
それに中途半端に憧れるクリスティーナとヴィッキーは、その事態を垣間見て経験はするが、やはり観光客としてアメリカに戻ってゆく。
特にヴィッキーは、最後のフアン・アントニオとマリア・エレーナの拳銃沙汰で外傷経験をもってはいないか。
これで懲りてしまうと、行く前より典型的なアメリカ(セレブ)型に収まってしまう。
大概はそのパタンではなかろうか、、、。

今の生活を、諦観で染めない、、、そこに尽きる。


わたしにとってここに出てくる人物など誰も皆、基本的にどうでもよく、この群像劇を見ていて感じたことが以上のことである。


ランブルフィッシュ

Rumble Fish001

Rumble Fish
1983年
アメリカ

フランシス・フォード・コッポラ監督
S・E・ヒントン原作
スチュワート・コープランド音楽 言わずと知れた”ポリス”のドラマーである。

マット・ディロン、、、ラスティ・ジェームズ
ミッキー・ローク、、、モーターサイクルボーイ(兄)
ダイアン・レイン、、、パティ(彼女、、、元か)
デニス・ホッパー、、、父
ニコラス・ケイジ、、、スモーキー(ラスティを裏切る)
ヴィンセント・スパーノ、、、スティーヴ(ラスティの親友)
トム・ウェイツ、、、ベニー(カフェバー店主)

とても贅沢なキャストだ。
トム・ウェイツは、俳優としてもかなりのキャリアを積み重ねていることを改めて知った。
ミュージシャンで俳優をやっている人は確かにいるが、、、どちらも極めている。


荒涼とした夜の迷路をあてどなく彷徨うモーターサイクルボーイとラスティ・ジェームズ。
そうここは完全な迷路だ。
この不安と不穏の響き渡る夜の街で、頼りとしている背が、ふっと兄の姿が視界から消えるときの寄る辺なさ、、、すごく共振した。
いみじくも彼らの父が呑んだくれてラスティ・ジェームズに言ったことがとても実感できる。
「鋭い知覚認知を持っているからといってそれは異常ではない。ただ間違った時代に間違った場所で生を受けてしまったんだ。彼は自分が何も望むことがないのに気づいてしまったんだ、、、。」
Rumble Fish002


道理で、カフカの小説をあからさまに原作とした映画より遥かにカフカ的であった。
また、シュールレアリスムに通底する。
だから街のディテールは冴え渡っているではないか!
タルコフスキーの詩情も感じる。
感触は「去年マリエンバートで」に近かった。
アメリカ映画界は時折、飛んでもない作品を生み出す。
フランシス・フォード・コッポラは、と言うべきか、、、。
確かに「コッポラ胡蝶の夢」も圧巻であったが。

闘魚だけが美しい赤と青であった。
モーターサイクルボーイにはそう見えていたのだ。
他の表象は音量を絞った白黒テレビに過ぎなくとも。
だからその魚だけは海に繋がった川に解放したかったのか、、、。
(自由は幻想に過ぎなくともせめて、外に向けて解き放ちたかったのだ)。
「お前はおれのバイクで川に沿って走り海に出てくれ。」
これが兄の遺言であることを無邪気なラスティ・ジェームズも悟る。
しかし何故、こうなってしまうのかは分からない。だが彼は涙ぐみつつ覚悟は決めている。
確か兄は、カリフォルニアに行っていたのに、海には出れずに足止めを食っていたという。
海を目指したのに海に出られなかった闘魚なのだ。

何も意味がない。
意味~色のない音も微かな世界~表象にモーターサイクルボーイは生きていた。
しかし、それで生に対する感覚が研ぎ澄まされることもある。
喧嘩~スリルに逃げていたが結局何も見い出せなかった。
ほとんどの連中は、楽しんでさえいなかった。
誰もが兄貴を慕ってついてゆく、と言っても彼は答える。
「人を率いるなら行く先が必要だ」と。(「ハーメルンの笛吹き男」に例えて話をする)。
しかしその答え~行く先はない。
(そのままだと、みんな海に落ちることになる。その為、スモーキーはラスティを裏切った)。
カフカの主人公たちも、とりあえずの行く先は名目上あるにはあるが、常に途上での細々した出来事に不可避的に関わり迷路に深く囚われ死んでゆくのだ。

モーターサイクルボーイにとっても、ただ外へ出る以外に道がない。
しかし、彼も今1歩の所で何かに阻まれる。
それは母に遭ったことか。
兄は諦観漂う飄々とした表情で還ってくる。

「おれは5歳で子供をやめた。」
「おれはいつ子供をやめられるかな。」
「一生ない。」
兄と弟の対話である。
弟は単純で無邪気だが、この兄の孤独は計り知れないものがある。
あの不気味なほどの穏やかで繊細な語り口、というより感情を捨てたような表情と語りは、もう街に戻ってきたときからすでに最期を見据えていた。


弟は兄に託され、、、何も分からないまま、ただバイクを走らせる。
海に、、、夜明けに向けて、、、

Rumble Fish003

ラスティ・ジェームズはカモメの鳴く明け方の海にバイクで降り立つ。


音楽がとてもマッチしていた。
エンドロールの音楽もよかったがこれは、ポリスである(笑。
コッポラが兄に捧げている作品である。
分かる気がする、、、。

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プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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