「ゴールドベルグ変奏曲」 バッハ ~グールド ~P・オトゥール ~ニーチェ

初めてゴールドベルグ変奏曲を聴いたのは中学生のとき。チェンバロの演奏でした。
演奏家の名前は覚えていません。
レコードではなく、ラジオからだったはずです。(もしかしたらテープか?でもラジオから録ったはず)
カール・リヒターのものだったかも知れません?!
すでにバッハは聴いていましたが、この曲に対しては、ああバッハらしい曲だな。と思い聴いており、他の印象はこれといって強烈には残りませんでした。が、この曲をこの時期に聴いたことだけは何故か覚えています。元音楽体験としてでしょうか。
「ゴールドベルグ」はグレン・グールド(あたかもニーチェはワーグナー)というくらい?ポピュラー対応図式の状況が続いていましたから、わたしもレコードで聴いたものです。
一瞬、間を置く出だしのアリアの神聖な響きから第一変奏に差し掛かったとき身震いするほどの感動を味わい、高揚感とともに第三変奏のメロディの美しさ優しさに包み込まれたかとおもうと、ピアノはまた精確に躍動してゆきます。高揚し到達しつつまた更に上昇してゆく、、、。バッハ特有の対位法に 弁証法的な語らいを感じ、深く魅了されました。
再演版は亡くなる前の録音で実質、最終演奏にあたるものでした。ちなみに彼の華々しいデビュー版のゴールドベルグ変奏曲は、聴いておらず持ってもいません。おそらく手に入れるのは今は大変かと思われます。そちらの方は録音時間が短い、つまり非常に速いテンポで、流れるように全体のまとまりを大切に弾かれているとよく言われます。再演(最終)版の方は、速いものは速く、ゆっくり弾くものは充分にゆったり厳かに弾かれています。
片方を知らないので、何ともいえませんが、この一曲一曲に独立した解釈を徹底し、完璧に練り上げたであろう演奏はわたしのような素人にはただひたすら神業に思えます。
彼こそ超人と呼ぶのにさほど躊躇することはありません。
この時の音源とは別かとも思われますが、何かの機会でゴールドベルグ変奏曲を弾く彼のビデオも見せて貰いました。(確かフルートの先生にです)。
初めてこの「練習曲」が難曲であることを実感しました。特にピアノにおいて。もともと二段の鍵盤のあるチェンバロ用の曲であることに、はっきりと気づいてしまったのです(遅すぎる!)。
右手と左手の激しくも複雑な交錯は、恐らく、右指でキーを叩くべき所をそのタイミングによっては左指にも変えて弾いているように思えました。妥協は一切せずに技術的な面からの音(装飾音)の省略などは全くしていないのが明瞭に分る演奏でした。(しかし鑑賞できたのは数分でした)。
デビューに「ゴールドベルグ変奏曲」を弾いて大絶賛を博し、その後ライブ演奏は短期間してはいるものの、ほとんどはスタジオ演奏録音であったと思います。その間、レコードによる再演は、本人の意図的には無いのでは。(よくレコード会社との契約などとの関係で、本人の意思に関係なく出されてしまうことは時折ありますが、例えばカール・リヒター最晩年の日本コンサートでの「ゴールドベルグ変奏曲」、、、)
やはりグールドは余程、デビュー作である「ゴールドベルグ変奏曲」に、こだわりとそれを「超えんとする」意志を持ち続けていたのではないでしょうか?
しかし、つくづく処女作というものは、本人にとって大きなものなのですね。
処女作すらもっていないわたしには、想像がつきませんが、いろいろなアーティストをみると本当に重荷でもある一生付き纏う、テーマにもなってしまうように感じられます。
ここのところあっさりやっています、映画感想に絡めますと、ピーター・オトゥールですね。
彼の俳優というキャリアは、いきなり途轍もない高みから始まってしまいましたから、そこを「いかに超えるか」はもう至難の業としか言えないものだったでしょう。
実際、本人は大変だったと思います。
あれもまさに神業でした。奇跡的な。トマス・エドワード・ロレンス本人よりその人になってしまった感があります。
鬼気迫るというより狂気をまともに感じました。あの瞳!
探せば、次々出てくるはずです。(それほどあるか?)
音楽家というより芸術家が、再演録音する-自分の作品を作りなおす-ことは通常ないかと思われます。わたしも自分の一度描いた物を描き直すことは生理的に出来ません。
バッハ繋がりでは、ヘルムート・ヴァルヒャがモノラル版とステレオ版とに分けて2回バッハオルガン曲選集を録音して出していました。多分そのような都合もあり、探せば沢山出て来るかも知れませんが、、、。(実はわたしが音楽に興味を持ったきっかけがヘルムート・ヴァルヒャの弾くハープシコードによる「フランス組曲」です。彼はオルガン奏者として名高い人ですが、そのハープシコードの天上の音色が決定的な音楽体験として残りました)。
絵画でもキリコは後半生において自分の作品コピーを意図的・策略的に行っていました(わたしの友人にも一人、いとも簡単に自分の絵画作品を寸分違わずコピーしてみせる人がおりますが、彼にとってはフツーのことらしいです。例外はどこにでもいます)。
話を戻しますが、グレン・グールドはよほどの愛着からか、のっけからの大成功を乗り越えるためか、、、理由はわたしには分りませんが、再演します。この81年度版には天才の余程の覚悟があったと思います。最初と最後が「ゴールド・ベルグ」というのは、自ずと重く捉えてしまいます。
また、じっくり聴きたいものです。
グレン・グールドのピアノの方でですが。チェンバロは誰の演奏がお薦めでしょうか?
わたしが数日前に映画の感想で書いた「地球の静止する日」に対し、リメイク版の「地球が静止する日」に「ゴールドベルグ変奏曲」が使われていることを教えて頂いたもので、哀しみのセルフィッシュ・ジーン Ⅰ~地球の静止する日/アルジェの戦い/いのちの戦場 アルジェリア/馬謖、により思わず想い出を書いてしまいました。
博士に宇宙人が出会う場面で流れているそうですね。
「が」の方も機会があれば、観てみたいです。
「ゴールドベルグ変奏曲」にニーチェの思想を実感されるということ。
確かに、「ロマン主義的ペシミズム」の高揚を感じます。ニーチェは古典文献学者の基盤を確立して後、悲劇の偉大さを強調していますね。このペシミズムにはデカダンスの翳りはなく、螺旋状に厳かに上昇してゆく澄み切ったビジョンを感得します。孤高のビジョンを。
寧ろ、ショーペン・ハウエルがワーグナーかもしれません。
長くなりましたのでここで切らせて頂きます。
続きはまたの機会に。