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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
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田淵行男

tabuchi.jpg

田淵行男という飛んでもない人を初めて知る。
共感し感動した。
これもまた、日美から(笑。
「まだ見ぬ頂を求めて」という題であったか。まさにその通りであった。
山岳写真に革命を齎した写真家だ。
1940年12月1日未明に彼が息を殺して撮った浅間山からそれは始まる。
(太平洋戦争一年前ではないか)。

tabuchi005.jpg

これまでの全貌を説明的に捉えた単なる記録写真から、部分を切り取ることでディテールからその山の本質を鷲掴みするような芸術的山岳写真を生み出した。記号的に対象を眺めて確認する類のものではなく、息を呑むような緊張感が張り詰める臨場感がそこにはある。恐らく作家がその場所を切り取る瞬間のこころのざわつきの感じられる程のものである。
この抽象画のような浅間の画像は、センセーショナルな話題を呼び多くの議論を引き起こしたという。
彼は学校の先生をしながら山で7000日を過ごしたそうだ。
一枚をものにするために多くの月日を必要としたのだろう。

更に彼は高山蝶の研究家であり、細密素描家であり、「本」の企画・立案・制作をも受け持つ所謂ディレクターか。
博物学的素養を持つ突出したクリエーターでもあった。
ともかく、「山」が好きで多面的に、とことんそれに迫った人であった。
(荒俣宏氏をつい想いうかべてしまう。向こうは魚であるが)。

これもまた、1枚限りの1本勝負である。
冬山にテントを張って待機し、早朝3時にカメラと割れたら終わりのガラス乾板を持って山道を凍えながら分け入って行く。
当時、カメラも重く、ガラス乾板による撮影でもあり、絶好の場所~光を息を殺して待ちそれを切り取るのが撮影であった。
今のように軽量高性能デジタルカメラで幾らでも撮り放題の時代ではない。
「リトレックⅠ」という日本製の寒さに強い一眼レフカメラが愛用機であった。
例の浅間も初冬の初冠雪の光景を狙ったそうだ。
彼の登場で、山の本質を芸術家の目で捉える山岳写真が生まれた。

tabuchi006.jpg

確かに違う。
そして彼自身が編集した、いやもはやディレクターとして最初から最後まで関り作り込んだ写真集は、もうそれ自体が高度なアート作品となっている。
プロの編集者でもここまで拘るのは、松岡正剛氏くらいだろう。
通常、写真家がそれを載せる本自体を自分の思いのままに作ってしまうなんてことがあろうか。
そこまでは到底手が回らないはずだ。
それぞれページ毎に異なるアートワーク、奇抜で斬新なレイアウトなど、読者への伝え方をどの次元まで突き詰めようとしたのか!
彼は写真を撮って後は編集者に丸投げする写真家と異なり、実際の読者にどこまで自分の撮った山の実質を知らせることが出来るかに極限まで拘ったのだ。

とは言え彼自身とても楽しみながら工夫を凝らしている気がする。
感性的な軽みやしなやかさを多分に感じ取れるのだ。
意匠を凝らしてはいるが、楽しく見れるものになっている。
遊び心も旺盛な人であったのではないか。

そして高山蝶の細密画。
博物学を治めた人らしい絵である。
対象に対する「愛」が半端ではない。
幼くして両親を亡くした彼の精神の拠り所でもあるのだ。
雪を纏う高山に惹かれ、寒冷地を求めそこに追いやられた蝶に自分を(運命的にも)重ねたのか、、、
これは肖像画でもあるのか。

tabuchi001.pngtabuchi002.jpgtabuchi003.jpgtabuchi004.jpg

どこまでも高みへ白く光る場所へまだ見ぬ頂へ。

tabuchi007.jpg

好きなこと、好きなもの、惹かれるものに彼は徹底して拘り続けた。
そうして出来上がったものが肌身に感じられるようなスリリングで美しいものであるのは当然だ。




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林忠彦

hayashi tadahiko

「決闘写真」と彼は自らのポートレートを呼んだ。
よく目にする文学者のポートレートは、ほとんどこの人の撮ったものであることを知った。
(画家のものもある)。
一対一の存在を賭けた真剣勝負。
撮るまで、かなり長い時間をかけるという。

晩年は風景写真に移ったそうだ。
しかしそれも尋常な風景ではない。
「風景的人物写真」という(林氏の定義)。
わたしにとって新たな観念だ。
結構、NHKの日曜美術館とコズミックフロントネクストは、勉強になる(バラツキはあるにせよ)。
今回もそこから。


彼にとっては、ポートレートを撮ることは、被写体に決闘を挑む行為であったという。
まさにシャッターを「切る」間を巡る勝負か。
風景を薄暮の頃合いを見て撮るときも、侍みたいな掛け声をかけてシャッターを切っていた。
その絶妙な光の具合。
まさに「光画」というに相応しい。

hayashi tadahiko001

わたしにとっては何と言っても文学者のポートレートであるが、、、
作家それぞれの個性、世界観、ひととなりを見事に捉えているものばかり。
ひとつは太宰治のバーのスツールに胡坐をかき、誰かと談笑しているショットである。
栞にその写真が印刷されていたものを持っていたものだから、本を読み終わるまではそれとなく眺め続け、それを「太宰治」としていつしか馴染んでしまっていた。(それ以前は文庫本のカバーに印刷された如何にもナイーブで内向的な感じの写真であったが)。
ある時、彼は誰と話し込んでいるのかな、と本を閉じる際にふと思ったことがあった。
(その時は、話し相手は多分バーのマスターかなと感じた程度であるが)。
今回の番組で、その答えが知らされるとは夢にも思わなかった(これだけでも番組を観る価値はあった(笑)。
その話し相手とは、何と坂口安吾なのだ(彼はわたしの大好きなサティの「ソクラート」の日本語訳もしてくれている)。
そして、太宰を撮る前に、撮影したのがそのすぐ近くに座っていた織田作之助(「夫婦善哉」の作家)であった。
何というゴージャスなバーだ。この時代を代表する無頼派トリオ?が一堂に会する店とは、、、。まあそういう店だから林忠彦も網を張っていたのだろうが。
こんな機会に勝負をかけない分けにはゆくまい。

hayashi tadahiko002

もうひとつとっても気に入ったのが、その坂口安吾の自室でのポートレートである。
作家は普通、自分の書斎はなかなか見せてくれるものだはないという。
余程の人間関係を結ばないとまず無理と言うものだ。
(わたしも友人の書斎はとても興味があり、家にお邪魔すれば無理を言って見せてもらうが)。
その執筆中の安吾の姿は彼の妻でも見ることの出来ないものであったそうだ。
これは快挙である。いくら見ても見飽きないそれは凄まじい混沌とした(エントロピーがピークとなった)部屋だ。
こういうところで、書いていたのだなあ、あの「堕落論」をとか、「桜の森の満開の下」とかを、、、と思うとホントに感慨深い。
実に感慨深い。

hayashi tadahiko003

他にも川端康成のポートレートを徐々に間合いを詰めながら撮って行き、ついに20年間かけて傑作をものにするなど、凄い執念である(粘着気質でもあるか)。面白いのは、谷崎潤一郎にこれで撮影を終わりますと言って、彼が気を抜き素で微笑んだところをすかさず別のカメラで表情を切り取ったという写真も趣深い。そういう騙し討ちも「決闘写真」のひとつに数えられよう。

hayashi tadahiko004

そして晩年の風景に対峙した写真であるが、、、
天候、つまり光の具合や時には雨などに強く拘って、その場を狙ったそうだ。
同じ場所に7回趣き、まさにこの光だ、というところでシャッターを切る。
人はその場にいないが、これまでにそこを通った人々の視界を追体験するような写真というか光画である。
確かにポートレートも顔だけで成り立つものだけでなく、環境ポートレートと呼んでもよい、彼の内面を饒舌に表す周囲の情報を纏ったものが多い。
そこから特定の人を抜き取った形のものが、彼にとっての風景写真=「風景的人物写真」なのだろう。
江戸時代の旅人の記憶を覘くような、、、。

hayashi tadahiko005


この写真家の作品は、これまで知らぬうちに、かなり目にしてきたことに改めて気づく。



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絵画クラブ「金陽会」

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菊池恵楓園(ハンセン病収容施設)の入所者で作られた絵画サークル「金陽会」のTV番組を観た。
ここのところ、日曜美術館はよく見ている。
小野正嗣さんにも馴染んできた(笑。
良い味を出していて好感が持てる。

彼はしきりに、サークルメンバーの絵が光に充ちていて、いのちを祝福する歓びの絵になっていることを強調していた。
不条理な差別を受け過酷な生を強いられたにも拘らず、安らかな肯定感に充ちていると。
全くその通りだとわたしも感じる。
直截な怒りを返す場合は、やはり言葉かなと思う。
絵という表現形式は、あまり批判~特定のメッセージの発信には向かない。
そのつもりで描いても絵はあまりに多くの情報を纏ってしまう。
どうしたって曖昧になる。

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仮に自分が受けた謂れ無き差別・偏見と隔離、人権と自由の剥奪に対し激しい怒りを日常的に抱えていても、絵を権力~暴力に対する報復手段には使えない思う。絵そのものの形式からしてそう思うが、もうひとつ自己実現のあらゆる可能性を奪われた場にあって唯一自分たちの力で獲得した自由な創作の場なのだ。
そこで思うままに絵筆を振っていくなかで当然様々な感情や想いが浮かんでくるにせよ、結局は自分が得るべくして得られなかったものを補完して行く過程となるのではないか。
わたし自身の場合もそうだ。だんだん面白くなるにつれて、それが形となって見えてくるものだ。
外に対する復讐などより、まず必要なのは自分を充たすこと、救うことである。
もう喉もカラカラなのだ。余計なことに力を割いている場合ではない。
皆さん恐らく水を得た魚みたいに活き活きと自らが生き直すように作業に没頭して行ったはず。

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描くうちに造形そのものへの歓びに充たされていく。
それは、描かれた作品を見れば良く分かるというもの。
世界が自らの手で創造できるのである。
自分が創造した世界に魅入るこの充足感。
愛情に包まれた動物の親子の微笑ましい世界であったり、幼い頃の懐かしく煌めく瑞々しい想い出であったり、ずっと行ってみたかった憧れの場所であったり、、、題材は何でもよいのだ。そのような自分を真に充たし喜ばせる世界を想像し創造する方向に自然に向かうはず。
外に攻撃の牙を剥くより、こちらの方が遥かに大きな快感が得られるし、まずやるべきことであった。
そしてやり始めたら、どこまでも止められない。
創造とはそういうものだ。

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必然的に技量も上がり個性も洗練される。
外の人に向けて展示する機会が生まれ、そこで高い評価を得る。
これはすでに敵対ではなく包含の関係である。
われわれの世界の方が豊かで広かったのだ。
これ以上の満足があろうか。
更に心身ともに元気が湧き、より造形意欲が増してゆく。
もはや、ハンセン病患者が苦難にもめげずに一生懸命描いた絵です、などというレベルのものではない。
何の枠も関係ない、純粋に優れた造形的価値を持つ絵となっていた。

そしてとても静かな境地に達する絵も生まれてくる。
暖かい絵、大胆な絵、可愛らしい絵、楽しい絵、、、どれも見事に熟成していて大変味わい深い。
見飽きることがない絵ばかりであった。

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改めて、昨日の秋野亥左牟ではないが、「絵」の力をつくづく思い知った。
絵による浄化、歓びの世界の構築。
基本、絵の創作とは精神運動を絶大な肯定力に向かわせるものなのだ。

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秋野亥左牟

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昨日は、庭仕事で余りに忙しく、記事をアップするどころではなかった。
パソコンの前に座る暇もない状態で、ちょっと健康的な気分を味わった。
頭も空っぽになり、亀とも親交を深めた。
本当はこっちの方が正しい生活ではないか、と思う。
いや恐らくそうだ。

秋野亥左牟、、、例によって日曜美術館で観る(笑。
日本画家の秋野不矩の次男である。
絵本作家として高名なそうだが、わたしははじめて知った。
かこさとし以外の絵本作家で、これほどの人がいるとは、、、
(長新太はこの際、出さない方がよいか)。
かこさとしとも、全くタイプは違う。

机上に研究資料を積み重ね準備をしてから仕事に取り組むのではない。
基本は、天と地の間に身をひとつおく。
赤裸々に生きる。
そこに初めて何かが生まれてくる。
場所の魂を呼び込む巫女みたいな人だ。

akino isamu

所謂、雰囲気的にはヒッピーみたい。
流浪するヒッピー。
ただし、直ぐに地を横断して去って行くのではない。
まずその土地に暮らし、現地の人との交わりを通じてその土地ならではの伝統を継承したかのような絵~絵本を描く。
それが絵~絵本を描くプロセスなのだ。

彼にとっての旅~異国での生活とは、身に付けてしまったものを剥ぎ取る儀式でもある。
間違っても知識を蓄積して行く過程ではない。
彼は障子の巻紙を担いで旅をしたらしいが、その長い巻紙に現地の画家が描いたかのような作風による絵が生成される。
そこに押し付けがましい個性や自我は窺えない。
「プンクマインチャ」ネパールの民話を題材にしたものなどは、特に素晴らしい成果に見える。
TVで見る限り細密な様式美による線描と鮮やかな色彩である。
わたしにとってえらくエキゾチックな絵に見えた。

akino isamu002

今日、絵本は注文した(笑。
じっくり眺め味わたい。
日本の民話、伝承も怖いものが少なくないが、これもかなり恐ろしい噺らしい。
とても楽しみである。

彼は辺境を愛した。
中央が失ったもので生きているからである。
彼は終戦を経験したことで権力に対し酷く失意を覚えその後、高校時代に共産党に傾倒するもそこでも権威に翻弄されることになる。
当時、共産党は彼に危うい任務を課しておきながら後にそれは一部の党員の暴走によるものという形であっさり弁明~処理して終わった。その出来事はその後の彼の世界観~生き方の基調を形成したように窺える。
彼の母である秋野不矩は「亥左牟の運動には悲しみが肉体化していない」と語ったという。
確かにその歳頃特有な観念的な志向により足を掬われた感が強い。
母はインドで絵を教える仕事があるから一緒に来なさいと亥左牟を誘う。
この旅で、絵の力を真に実感することとなる。
これで彼の行く末が決定的となった。

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旅の人生を彼は送ることとなる。
そして辺境の地を体験、時には漁師(海人)となり、海の中で独りを体験し、空~星~海を知ることとなる。
干潮、満潮、星の位置と動きを知り、生きた海~宇宙を悟った。
ある意味、贅沢である。
本の知識では得られない、身体に染み渡る英知であろう。
そんな場所から生み出された作品である。
どれほど凄いか、、、。

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わたしにとって、かこさとしと秋野亥左牟が絵本界の双璧となりそうである。


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平櫛田中

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平櫛田中
「日曜美術館」で初めてその存在を知る。
廃仏毀釈も手伝い、木彫が廃れてしまった時期に近代日本の代表的木彫作家として活躍した。
「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」
並々ならぬ使命感が窺える。

日本の伝統美術の価値を高く評価する岡倉天心からの影響で基本となる作風が決まる。
「不完全の美」
表現しない部分を残し見る側が想像力を働かせ全体像~世界観を把握する。
この代表作として「尋牛」が生まれる。

hirakushi denncyuu001

この作品は特に時空間の拡張を伴う。
自分と重ね弛まぬ修練を続け歩み続けるその姿~場所である。
尊敬する岡倉天心の像も幾つも傑作を残す。

そしてロダンからの影響。
暫くの間、裸婦モデルを使った彫像による制作に没頭する。
西洋の彫塑作家のように人体構造などの徹底した造形研究を木彫制作にも活かしてゆく。
対象の構造把握をしない~対象に対する洞察をせずに制作技量だけ高めてしまう当時の木彫の水準を脱する。
その成果が「転生」となる。

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そして彼の代表作は何と言っても「鏡獅子」であろう。
国立劇場の正面ホールに置かれる「鏡獅子」は、圧倒的な大作である。
2mの高さで美しく彩色されたものである。

6代目尾上菊五郎をモデルに22年の歳月を経て完成させた途轍もない力作であるが、精緻な彩色が成されている。
この彫刻~立体像に彩色を施す意味とは何か。
仏像も、今現在全ての色が脱色し、所謂「わびさび」をしみじみ感じる様相を呈していても、かつては原色の極彩色で鮮やかに塗られていたものが多い。
彩色された像を見るとわたしは大変エキゾチックな印象を持ってしまう。
そして彫塑というより、人形を想わせる。
この辺がどうにも悩ましい。

hirakushi denncyuu004

だが、この「鏡獅子」に関しては、彩色は全く自然の不可避の造形要素であると感じられる。
モデルが尾上菊五郎という歌舞伎役者であるところも大きい。
ちなみに6代目尾上菊五郎の裸像もあるが、こちらもミケランジェロばりの筋骨が表現されており素晴らしい。
(6代目は数えきれないほどのモデルを務めてくれたそうだ。この協力あっての賜物であろう)。

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岸田劉生

『驚く可きは実在の力
自分は猶これを探り進めたい』

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「道路と土手と塀」
この坂の向うに何が控えているのか、どのような広がりがあるのか、とても怖いが好奇心は更に大きく疼く。
路に横たわる二本の黒い影が不安を煽る。

実在に迫る。
確かにそれが放つ力~面白さ~異様さに惹き付けられてゆき、想像力に接続する。
この土の路のボリューム(量感)とムーヴマン(動勢)はもはや尋常ではなく、それは想像力をエネルギーにしてせり上がる。
文字通りにせり上がる。
遊び心もあるかもしれない。
だがそれがどう展開し得るか、かなりの危うさを秘めている。

物は動いてゆくことをわれわれに思い起こさせる。

岸田劉生はデューラー(写実の極み)とウィリアム・ブレイク(幻視)に深く傾倒していたと謂うが、それは完全に血肉化されていることも分かる。
表面的に似ているなどの(影響は)感じさせない。
少なくとも彼は、ラファエル・コラン経由の折衷的(印象派と象徴派を口当たりよくミックスした)作風を西洋絵画として継承していた当時の日本油絵画家とは一線を画する。
おフランスから取り寄せたこじゃれた油彩ではない。
独自の思索を突き詰めた絵画である。


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「麗子像」
上下に圧縮されていて手がとても小さい。
そしてこの謎の微笑は、、、。
とても日本的に思える。
自らのルーツに遡った姿が娘の肖像「麗子像」へと昇華したかのような。
いつもこの絵を観ると仏像を重ねてしまうが、よくよく見ると尚更そう見える。
有難い気持ちに何故かなる。

写実を極めた先の帰結としてのデフォルメ。
最初からピカソやマチスの真似から入ったデフォルメではない。
本物の形。

『驚く可きは実在の力』

本物の絵もこの力を持つ。


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小早川 秋聲

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「國之楯」

従軍画家、小早川 秋聲の作品「國之楯」の静かな衝撃は未だに脳裏を巡っている。
はじめて見た時、ミケランジェロの「ピエタ」を想った。
しかし「ピエタ」は、神聖で荘厳な作品であるが、地続きに共感できる人間的ドラマも重ねて見ることも可能だ。
だが、この「國之楯」は、これを前にして無言で立ち尽くす以外に何もできない。
自分なりの言葉に絡めることが不可能なのだ。
何らかの形で押さえようとしても言葉が全て滑り落ちてしまう。

完全に隔絶されているのだ。
そこに見えていても、その場所は、この時空に存在していない。
全ての意味の文脈から断ち切れた。
まさに「死」の場所。
その姿が無限の重みとなっている。
顔は日の丸の旗に覆い隠され、手にも手袋をして横たわる身体は、生身を全く晒していない。
この身体は、もはや誰にも触れえないことが分かる。
如何なる言葉も受け付けない。
「死」の実相にこれほど迫った絵画があっただろうか。

小早川ほど長期に渡って兵士と同じ地平で共に過ごした従軍画家はいないと言われる。
自身、軍人であり僧侶でもあった日本画家だ。
常に兵士と行動を共にしてその最前線における生の現実を描き続けた。
つまり、突撃風景よりも寧ろ彼らの日々の生や死とそれを弔う姿~光景をすぐ隣で描いて来たのだ。
日本にいて写真などを元に戦意高揚のための観念的な絵を描いた戦争画家とは、明らかに一線を画する。
彼ら戦争画家は(例えば藤田嗣治の「アッツ島の玉砕」など)日本の兵士の死体など一切描かず、敵の死体が累々と積み重なるところを勇猛果敢な日本兵が死を恐れず突き進むといったものである。
(玉砕ならば、日本兵が全員死んだのである)。
または、真珠湾攻撃の様を上空から俯瞰した(航空写真の)構図でモニュメンタルに描いたものが傑作として残されている(これも藤田嗣治のものが有名)。

そうした絵のなかで、超然と際立つ作品である。
この作品は日本軍から受け取りを拒否された。
だが、この絵を観た兵士誰もが、帽子を取り敬礼をして動けなくなったという。

そう、それを前にして動けなくなる絵画である。




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亀、ほぼ回復~娘の遊びの送り迎え

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亀の白カビ病はほぼ治ったと言ってよいか。
O君がわざわざ赤チン(マーキュロクロム液)と亀のおやつ(天然川エビ)を送ってくれたこともあり、治りも早くなったように思える。
それにしても、赤チンは懐かしい。
子供の頃、転んで膝を擦り剝くと決まってこれを塗っていたものだ。
だから怪我の部分はいつも赤かった。
外を飛び回っている腕白どもは、皆どこかに赤チンが塗られていた(笑。
いつから赤チンが薬屋から消えたものか、、、。
と謂うより、よくO君はこれを持っていたものだ。
O君もS君も不思議なものを持っており、時折見せてくれたりプレゼントしてくれもするが、こういう時は助かる。
(S君の場合は、作ってしまうのだが)。

さて、亀の患部を見ると白く纏わっていたものがほとんど見えないレベルになった。
もう明日からは、単純に水替えだけにするつもりだ。
体を毎日、念入りに洗っていたのだが、その洗い桶でも隙あらば脱走しようと縁にしがみ付き必死に懸垂していたことで体力も付いて回復に良い結果を齎したかも。
それから、最近彼らは決まって新しい暖かい水に入ると気持ちよさそうにまず、ウンチをするようになった。
そのため、必ずそこでまた水を新しく替えることになる。
考えてみれば(考えるまでもなく)厄介な奴らだ。
まあ、出るものが出るのは健康的で良い。

うちは冬眠がちょっと怖いので冬でも水温は温め、普通に生活させている。
今後もそのつもりだ。

赤チンから想い起すが、かつては子供は結構好きな時間に外で遊び、陽が落ちてかなり暗くなっても夢中になって遊びほうけていた(自分もそうだが)。遊ぶというとほとんど外を飛び回っていた記憶が強い。
勿論、子供だけの世界であり、そこに親の介入など全くなかった。
今日もそうだが、わたしはここのところずっと、娘の遊びにも(塾に限らず)送り迎えをしている。
「誰ちゃんの家で遊ぶ約束したの」ということで今日もその子の家の門まで次女を送り、携帯で「もうすぐ帰るの」という連絡で門まで迎えに行って連れて帰った。これの繰り返しである。ホントに送り迎えばかりしている(爆。
家の中では、ほとんどオタク噺とゲームをしている様だが、凄く面白かったというので、それはそれでよいかと思うが、、、。
今夜はカレーを食べたいと言うので、野菜のたっぷり入ったカレーを作った。


こうした感じで、亀たちと娘たちの世話が当分続きそうである。


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わたしは、ダニエル・ブレイク

I, Daniel Blake001

I, Daniel Blake
イギリス、フランス、ベルギー
2016年

ケン・ローチ監督
ポール・ラヴァーティ脚本
ジョージ・フェントン音楽

デイヴ・ジョーンズ、、、 ダニエル・ブレイク(心臓病を患う大工)
ヘイリー・スクワイアーズ、、、ケイティ・モーガン(シングルマザー)
ディラン・マキアナン 、、、ディラン・モーガン(ケイティの長男)
ブリアナ・シャン 、、、デイジー・モーガン(ケイティの長女)
ケマ・シカズウェ、、、チャイナ(ダニエルの隣人)


制度的に給付金が支給されにくいシステムになっているのか。財政赤字から福祉関連の支出を極力抑えるように故意に手続きを煩雑にしその対象となる人々に諦めさせようとしている実情が見て取れる。
姑息な手だ。
かつて福祉大国と謂われた(揺り籠から墓場までの)イギリスもこのような為体である。
経済的に停滞が見えている先進国の多くはこう言った状況なのだろう。

ただし、どうであっても心臓に病を抱え主治医から就労を止められている者~国民に対し、何の経済的支援~保証も出来ないのであれば、最早国としての体をなすまい。
あからさまに生存権が侵されているではないか。緊縮政策のしわ寄せが福祉面に如実に表れている。
ここは大きな問題である。
国民側もサイレントマジョリティーでしかない。
であるからか、ダニエル・ブレイクが壁にスプレーで文句を書き付けた時に、如何にも経済的に底辺に暮らしているような人々から声援が自然に沸き立った。閉塞空間に小さな風穴が開いた感じだ。

I, Daniel Blake004

ダニエルが支援手当の給付の審査に赴いた時から、その後ずっと滞って話が進まないどころか、僅かな申請上のミスや不備を突かれ受給停止や罰則まで課せられる始末。
しかもバカげた質問をくどくどした挙句に就労可能という判断を下す。君は医者かねという質問に医療専門職であると事務的な答えを返す。そして彼に求職活動をして支給の審査を受けろという。
ここでは、特にお役所側は、助けを求めて長い時間並び漸く呼ばれた人を、杓子定規な言葉と理解不能な対応で遠ざけつづける。
普通の神経なら苛立つのは当然だ。
彼は実直で腕の立つ人情に篤い大工であるが、パソコンなど必要ない世界に生きて来た。
それが死活問題の手続き全てパソコンなしでは出来ないウェブ上での作業なのだ。何時間かけてもエラー音に悩まされ続ける。
お役所が国民に対し敵対しているようにしか見えない。
そんなとき大概周囲はその人に対し自己責任と謂って突き放すだけであろう。
彼はただ真面目に真っ当に生きて来ただけなのだ。それのどこが悪い?

フランツ・カフカもお役所の役人であったが、ある労働者の救済の為、自らが彼の弁護士を内緒で雇い、自分たち(役所側)が裁判で負けるように仕向けたそうだ。カフカの(自称)弟子であるグスタフ・ヤノーホの手記にあったエピソードであるが、後にそのことを知った労働者は、カフカの事を「聖者」と呼び深く感謝していたと。それは尊い行いであると思った。
しかし聖者がそこここにいるわけはなく、この噺で描かれるのは弱者同志のお互いの状況の理解と同情・共感による相互扶助、支え合いの精神の尊さである。
この人と人との関係の原点に立ち戻り、再度システムの見直し~改善をすべきではないか。
システムこそが肝心であり、何処かにいるかも知れない良い人頼みというわけにはいくまい。
現状のシステムでそのまま行けば、エアポケットに落ちてしまう人は必ず出る。
誰がそのシステムの歯車に就いても多様なニーズに応えられるものにしておかなければ悲劇は続く。
セーフティネットの完備を目指すべきである。

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しかしここではシステムには回収できない個々の生身の人間同士の触れ合いの大切さが押さえられている。
ふたりの幼い子供を抱えたシングルマザーのケイティとの出逢いはお互いにとって感情を清めるものになったはず。
不寛容に対する怒りの感情よりも同情と他利的な思考に充たされる方が人間として幸福であるのは言うまでもない。
わたしが最もショックを受け胸が熱くなったところは、ケイティが慈善団体の催すフードコートで、思わず缶詰を開け中身を食べはじめてしまい、我に返りその行いを恥じて動揺を隠せないでいる場面であった。すぐさまダニエルが駆け寄り彼女を慰め元気づけていたが、過酷な生活の耐え難い空腹からしてしまったことで酷く自尊心を傷つけてしまうのだ。
しかしこれが生活であり、そこに寄り添える相手のあることの大切さである。
これは何にも代えがたい。

I, Daniel Blake002

様々な面で、経済面・精神面に渡りダニエルはケイティ一家を援助するが、彼自身の力も尽きてしまう。
ケイティ一が強力な支援機関を探し出し、今度はダニエルに恩返しをしようと彼をその機関に引き合わせるも、そのトイレで心臓発作で倒れ、帰らぬ人となる。
彼の葬儀にケイティ一が「彼はお金で買えぬ物を与えてくれました」と述べ、ダニエルのポケットに入っていた紙のメモを読み上げた。

「わたしはクライアントでも顧客でもユーザーでもない。怠け者でもたかり屋でも物乞いでも泥棒でもない。国民保険番号でもなく、エラー音でもない。きちんと税金を払ってきた、それを誇りに思っている。地位の高い者には媚びないが、隣人には手を貸す。施しはいらない。わたしは、ダニエル・ブレイクだ。当たり前の権利を要求する。敬意ある態度と言うものを。わたしは一人の市民だ。それ以上でもそれ以下でもない」

鉛筆書きの履歴書であろう。
役所で何を学んできたのかと言われ撥ねつけられたものである。






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女神の見えざる手

Miss Sloane001

Miss Sloane
2016年
アメリカ、フランス

ジョン・マッデン監督
ジョナサン・ペレラ脚本


ジェシカ・チャステイン、、、エリザベス・スローン
マーク・ストロング、、、ロドルフォ・シュミット
ググ・ンバータ=ロー、、、エズメ・マヌチャリアン
アリソン・ピル、、、ジェーン・モロイ
マイケル・スタールバーグ、、、パット・コナーズ
ジェイク・レイシー、、、フォード
サム・ウォーターストン、、、ジョージ・デュポン
ジョン・リスゴー、、、スパーリング上院議員


ジェシカ・チャステインは「ゼロ・ダーク・サーティ」の主演女優であった。
今回は辣腕ロビイストを重厚に演じる。
凄まじい生き方だ。
その緻密に先を読んだ企画力と大胆な発想と行動力、更に自らを一つの駒として投企し勝利をものにするなんて誰も思いも及ばぬところだろう。そこまで周到な計画が立てられるのか、と唖然とするしかない。
やることの一つ一つは限度を超え冷酷無比に思えても全てを総合して最終的に見れば、社会の停滞や腐敗の悪循環を鮮烈に打ち破る破壊力を確かに発揮していた。それをもって正義と謂っても良いだろう。
(こういう人が実際にいるのだろうな、と思うと背筋が凍り付くが)。

Miss Sloane002

それにしても脚本が凄い。
観始めると目が離せない。
先の読めない展開には冷や冷やし通しである。
エリザベス・スローンのヒールな潔さに感情移入してしまい、彼女を応援しながら見ているもので、気が気でないのだ(笑。
基本彼女は自分の陣営においても孤独なのだから。
彼女の先の先を予測する目と独自の手法に誰も付いてこれないことからも。
これは飛び抜けた能力によるというより、唯一無比の個性によるものと謂えるか。
やることが尋常ではない。
ここまで稠密でスリリングなポリティカル・サスペンスは、観たことがない。
これ程超脱したヒロインも見たことがない。

内容は、銃規制法案を巡る、ロビイスト同志の闘いでもあるが、実質独りで立ち向かうヒロインの壮絶な人生の物語だ。
常に人の裏をかき出し抜き欺き、情報を操作し、ターゲットを操り誘導し、自分(たち)の政治的思惑を成功に導こうとする過酷と謂えばこれほど過酷な仕事もあるまい。
だが、彼女の場合、クライアント~大物のお得意様に依頼されれば、どんな仕事でも引き受けるというものではなく、確固たる選択基準があり、自分の意志にそぐわない仕事は引き受けない。
自分が真に正しいと信じた仕事のみを、手段を択ばずやり遂げ勝利を手にすることが、彼女の歓びであり目的なのだ。

Miss Sloane003


ジェシカ・チャステインがこれ程の女優であることはゼロ・ダーク・サーティの時は気づかなかった。
非常に役柄に説得力を感じた。
余りに凛々しく孤独すぎるが実際にいてもおかしくないリアリティを覚える。
稀に見る作品。



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ボディ・ハント

House at the End of the Street001

House at the End of the Street
2012年
アメリカ

マーク・トンデライ監督
デヴィッド・ルーカ脚本
ジョナサン・モストウ原案

ジェニファー・ローレンス、、、エリッサ・キャシディ(17歳女子高生、バンドで音楽活動)
マックス・シエリオット、、、ライアン・ジェイコブソン(隣家に住む青年)
エリザベス・シュー、、、サラ・キャシディ(エリッサの母、医師)
ギル・ベローズ、、、ビル・ウィーヴァー(警察官、相談相手)
エヴァ・リンク、、、キャリー・アン(ライアンの妹)

サラとエリッサの母娘が森の端の片田舎の家に引っ越してくる。
すぐ隣の家が3年前に父母を障害のある娘が殺すという悲惨な事件があった家だった。
そのせいで、地価は低落していて、家もお手頃な値段で借りることが出来た。
問題の家がすぐ隣であることに母は胸騒ぎを感じる。


「僕はキャリーじゃないよ」
「あなたはキャリーよ」と母の怒りに触れ殴られる。
ライアンは幼い頃、ブランコ事故で妹のキャリー・アンを喪ったことで、両親に妹の替わりとして育てられる。
(ちょうどダリが亡くなった兄の身代わりとして育てられたように)。
彼はアイデンティティを認められず、常態化した虐待の中を生きて来た。
思春期となり、力の均衡がズレ、彼は両親を殺す。
この時、彼は誰として殺したのか?キャリー・アンとして?新生ライアン・ジェイコブソンとして?
キャリー・アン=ライアン・ジェイコブソンとして殺したのか。

表向きは、事故で頭を打った障害で暴力衝動~殺意をもつキャリーが両親を殺害しそのまま行方をくらましたこととなっている。
つまりライアン・ジェイコブソン(という人物)は、惨事に逢った家族の生き残りの一人に過ぎない。
犯人の兄である。
当時、彼は叔母の家に預けられていたという(そういうことになっている)。

足枷は確かになくなった。
この時点から彼は自分自身として生きることを始めようとしたのか。
だが、直ぐにそれが可能とはならなかった。
彼は、自分のアイデンティティを成立させるために、キャリー・アンを必要とした。
なくてもやり直すことは可能であったかも知れぬが、彼には必須要素であったようだ。

どのようにして彼はキャリー・アンを調達していたのだろうか?
こんな片田舎で。
美女が一人でも失踪すれば、直ぐに街中大騒ぎになろうが。
しかもライアンは買い物すら出ることを控えるほどの引き籠りに近い生活を送っている。

House at the End of the Street003

こうした猟奇ホラーには必須の地下室がここでもしっかり機能を果たす。
ここに犯人の深い闇の快楽と原罪の秘密が詰まっている。大変な情報量だ。これは誰もが怖さ見たさで入ってみたくはなる。
お化け屋敷よりずっと怖い。
向こうの人(欧米人)は、訪ねた家に人がいないときに、平気で家探しをするというところもこうした映画では必ず見られる彼らの習性のようだ。そして必ず何かを見つけ出し自ら危険に陥る。ある意味、自業自得だ。
妙に話が分かるお節介(親切)な警官が深入りして、絶体絶命の主人公にあと一歩のところであっさり殺されるところも、定石通り。

勿論それだけではない。
ライアン・ジェイコブソンが如何にもその地の住人に不当な差別を受け、謂われなき悪意を向けられているかが強調され、そのなかで、独り静かに誠実に生きているさまをこちらにそして主人公エリッサに示す。当然、それに対する同情を呼ぶ。
更にこちらには彼が秘密裏に、暴れて外に飛び出す妹を匿って養い面倒を必死で看ている様が窺える。
だが、地域で一番健気で良いヒトこそが、ホラー製造鬼なのだ、という既視感。

と謂うより、少し捻くれた感じで観てゆくと役者が幾ら上手くても、中盤くらいで薄々分かって来る。
ここでは、包丁を持って屋敷を脱出したキャリー・アンを止めようとして、首を折って死なせてしまい、何てことをしてしまったのかと悔いた後あたりから完全にこれは黒だと分かってしまう(その後、キャリーのスペアを用意するところでやっぱりねと何なんだ、である(爆)。
主人公のエリッサに疑いが過るのはもう少し先であるが、それまで贔屓をして必死に庇っていた人間が殺人犯であることに気づきショックを受ける。
そして彼が殺意をむき出しにして襲い掛かる、主人公に迫りくる最大の危機。
そこへ、もっとも(本当に)彼女を大切に思う、来るべき人が飛び込んでくる。
すんでのところで、彼女を救う。
必ず事件の流れに親子のドラマ(不和~葛藤~和解)を絡めるところも忘れてはならない。

House at the End of the Street002

これぞ、ホラーの鉄板パタンなのであろう(笑。
もはや様式美の世界かも知れない(TVの水戸黄門みたいな)。
素直に観れば、上手にこちらのミスリードを誘う演出と脚本で、充分に愉しめるものだが。
ジェニファー・ローレンスのファンには、観て損はない内容と謂える。

最後、治療施設に収容されたらしいライアンであるが、彼は自分のアイデンティティが生み出せるのだろうか。






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隔離

Solitary002.jpg

Solitary
2009年
アメリカ

グレッグ・デロチー監督・製作
ジャスティン・ヘイス脚本・原案

アンバー・イエガー、、、サラ
アンドリュー・ジョンソン、、、レズニック(医師)
キーロン・エリオット、、、マーク(夫)
クリスティン・サリヴァン、、、ジーナ(姉)
B・アンソニー・コーエン、、、刑事
ダルトン・リーブ、、、刑事


とても緊張感ある映画であった(字幕が変だったが)。
終盤まで、サラが幻想の内にいるだけなのか、彼女の相続する遺産を巡って周囲の者が陰謀を企んでいるのか、判然としないままに物語は深みに嵌って行く。
広場恐怖症のサラは2日前に夫マークが失踪してしまい、家を出ることが出来ないまま、手を尽くして夫の安否を探ろうとする。
だが家の周囲と室内で昼夜を問わず不審な動きや物音がする。
不穏な気配に悩まされながら夫や会社に電話をし、警察にも捜索願を出すが、一向に進展しない。
夫の幻が克明に見えたりもする。そして赤ん坊の泣き声なども聴こえた(姿を消した夫は子供を欲しがっていたが、サラはまだその要求は飲めずにいた)。
ほんの僅かでも彼女は普通に外には出られない。少しでも出たら、パニック障害で呼吸を酷く乱して家に戻らざるを得ない。

姉と高名な精神科医が彼女のケアと治療に家まで訪れる。
何度も彼らの訪問が繰り返されるうちに、サラの苛立ちは増してゆき、彼らに対する疑念が沸き上がって来た。
幻や物音だけでなく悪夢も見るようになる。
そしてジーナやレズニックに対する敵意すら湧き上がってくるのだが、ここへ来てサラ自身にも自己解体の兆しが訪れる。

Solitary001.jpg

徐々に飛んでもない外傷経験から精神崩壊を免れるために彼女の意識がしいた防衛機制が解かれてゆく。
そしてずっと開けることを拒んでいた部屋をサラが決心して開けたことで、6か月前の自分の誕生祝いの日に自動車事故に遭い、夫が亡くなっていたことをようやく思い出す。
事態を知った彼女は姉に謝るが、それだけではまだ不完全であった。
自分自身についての認識が欠けたままであった。

それは無理もない。
実は彼女も無事ではなく、その事故で意識不明の昏睡状態にあったのだ。
意識がないのに夫の死をどこで悟ったのか。
それとも意識の離脱があったのだろうか。

再びパニックになり、レズニックと口論となり、彼の存在を消したいと願う。
そしてレズニックを撃ち殺した後で彼のノートパソコンを開き、全てを悟る。
潜在意識下にあって、ノートパソコンから事態を客観視するというのも、如何にわれわれの(無)意識がテクノロジーを前提にしているかが良く分かるところだ。
サラは病院のベッドで意識のないまま生命維持装置で辛うじて生きており、レズニックとジーナが懸命に彼女の意識にアクセスを試みているところが俯瞰されたのだ。
そう、幽体離脱した魂は上方から自分とそれを取り巻く人々を俯瞰するという。その角度からのパソコン映像だ。

Solitary003.jpg


つまり、姉の願い~目的とは、昏睡状態の妹自身にこれから先の判断を委ねたいという切なるものなのだ。
わたしの先ごろ亡くなった叔母も7年間に渡り生命維持装置で「生きていた」のだが、こんな激しく葛藤する夢の中を生きていたのだろうか、、、。
世界の破れ目を日々感じない為、何の疑問もなく生活を営んでいるが、もしそれが多少なりとも思い当たるようであれば、今いる世界~自分を疑った方が良いかもしれない。
精神科医の遺体はキレイに消えていた。
もはやすべてが明らかであった。
これまでのサラに起きた混乱は、全て夫との関係における葛藤(主に子供の件)やサラ自身の抱える広場恐怖症なども含む実存的不安が成せる現象に相違なかった。
それが明白になったところで、彼女はこころからレズニック(の治療)にお礼を述べる。

そしてサラが開いた部屋に見た光景は、マークが以前から欲しがっていた赤ん坊を彼があやす姿であった。
その可愛らしい赤ん坊はサラによく似ており、目元は夫にそっくりであった。
最愛の子供を抱き、二人でミルクを作って与える。

外にも何の障害もなく安らかに出てゆき、陽の光を全身に浴び彼女は笑顔で全てを受け容れた。



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