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とうもろこしの島

SIMINDIS KUNDZULI001

SIMINDIS KUNDZULI
2014年
ジョージア/ドイツ/フランス/チェコ/カザフスタン/ハンガリー

ギオルギ・オヴァシュヴィリ監督
ヌグザル・シャタイゼ、ギオルギ・オヴァシュヴィリ、ルロフ・ジャン・ミンボー脚本

エレメール・ラガリイ撮影
ヨシフ・バルダナシュヴィリ音楽

イリアス・サルマン 、、、老人
マリアム・ブトゥリシュヴィリ 、、、少女
イラクリ・サムシア 、、、ジョージア兵
タメル・レヴェント 、、、アブハジア士官


凄いものを観てしまった。
こんな剥き出しの生活は今の日本の現状からは想像もつかない。
セリフもほとんどない、自然の物音の中に銃声が響くくらい。
何とも言えない淡々とした緊張が続く中、、、
ヒトの生活の元型的光景を見せられるばかりであった。

祖父と戦禍で両親を失った孫娘の生活である。
混じり気のない自然とヒトとの絶妙なバランスの内の絵はまた取り立てて美しい。
音楽もそこに見事に溶け込んでいた。
美しい朝日と共に目覚め夕日が沈むころに寝屋につく。
季節の移り変わりも鮮やかである。
(孫娘の服装からも分かる)。


それが、中洲での生活なのだ。
農民は誰の土地でもない中洲に自分の農地を見出す(しかないのか?)
独りの老人が小舟を漕いで中洲に降り立つ。
上流(コーカサス山脈)から運ばれた土の堆積して出来た中洲はとりわけ肥沃なのだ。
彼は初めに中洲の土を念入りに(口に入れるまでして)確かめ、選定する。
(わたしにとって、非常に新鮮で衝撃的なものであった)。

はじめは本当に小さな心もとない面積であるが、そこに木材を何度も運びバラックを建て終わるころには、中洲はかなり広がっていることに、ちょっとびっくりする。
その広がった土地を耕し、トウモロコシの種を蒔いてゆく。
まだ十代半ばに見える孫娘も祖父に従い黙々と一生懸命手伝う。
そう、彼は孫娘を途中からそこに連れてきたのだ(実家はちゃんと陸地にある。時折物を中洲まで運び入れたりしている)。

SIMINDIS KUNDZULI003

しかしこんな心もとない、「生活」があるだろうか。
しかも戦争中なのだ。
ジョージアと、ジョージアからの独立を目指すアブハジアの軍事衝突の最中。

鳥の鳴き声、水の波音に混じり、河川の両岸からは両軍の銃声が響き渡る。
時折、それぞれの軍の警備艇が脇を通り過ぎてゆく。(よく鉢合せにならないなと、ハラハラする)。
そのどちらとも挨拶を交わす祖父。
緊張の走る一瞬だ。わざわざ立ち寄りワインを呑んでゆく兵士もいる。
丁度その時、その兵士たちの敵の傷ついたジョージア兵を匿っているところでもあった。
彼は高く茂ったトウモロコシ畑に身を隠して息を殺している。
(ちなみに祖父と孫娘もアブハジア人であるが、傷ついた人間を見殺しには出来ない)。

自然の脅威に晒されつつ人間界からも寄る辺ない身である彼ら。
(であるから基本的に人に対する差別は、なかった)。
そこには祖父と孫娘が身を寄せ合い送る生活があるだけなのだ。
自然と両軍による戦争の狭間で、、、まさに抽象的な間に彼らは存在する。
しかし、トウモロコシは立派に育ちしっかり収穫出来ていた。
これも自然の摂理の成せる業であろう。
祖父は何とか孫を学校が終わるまでは育てて見届けたいと願う。

SIMINDIS KUNDZULI002

しかし、うら若き娘にとって、助けた兵士は一人のまだ若い男性であった。
彼女は普段決して祖父に対して見せない笑顔と素振りを彼に対して見せて燥ぐ。
この姿に祖父は厳しい目を向け、危惧する。
ことばが通じないため、無言の表情で彼は若者を中洲から追いやってしまう。
(と言うより兵士が察して去って行ったというべきか)。

だがそれと引き換えのようにやって来た暴風雨。
集中豪雨だ。
忽ち中洲は浸食を受け、水量の増した河に呑み込まれバラックは根元から揺らぐ。
小舟に何とか孫娘と収穫したトウモロコシなどを目一杯積み込み、岸に向け押し出し逃がす。
祖父はバラックの柱を懸命に支えるが甲斐なく全て潰れ濁流に流されてしまう。


ある晴れた日、何処からか小舟に乗って独りの男が出来たばかりの小さな中洲にやって来る。
その男も中洲の土をあちこち掘り返し吟味する。
地中からあの孫娘が飾っていた縫ぐるみの人形(親からもらった想いでの人形か?)が、引っ張り出される。

この反復(そして差異)こそ自然であり人間の姿~真理である。


神話を覗いたような気分になった。
絶大な重さを感じる。

凄いものを観てしまった。


国吉 康雄

Kuniyoshi DailyNews
デイリーニュース

以前から好きなアメリカの日本人画家である。
とっても身近な親しみやすさを覚えたからである。
じっくり眺めると、大変わたしの体質に馴染む絵であることを確信した。


彼の画集を観ていたら、作品制作に使った物か、彼の撮った写真が沢山載っていた。
油彩作品も好きだが、写真もとても日常的だが対象~人物との絶妙な距離感が面白く、興味を惹かれたものだ。

彼はアメリカが好きであったと思う。
移民として入国し、厳しい肉体労働と差別に会いながらも画家を目指すが、その意欲を受け止めてくれる学校(アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク)が存在し、そこで才能を伸ばせば、しっかり評価を得られるのだ。(後にその学校の教授となり学生たちから慕われる)。
この民主主義と自由は、彼はとても大事なものと思い、守らねばならぬと感じたはずだ。

この30年代は失業者も多く経済的にアメリカは大変な時代であった。
仕事を日本人が奪う、と日本人排斥運動も起こった時期である。
それでも彼は画家として、彼ならではの非常に洗練されたモダニズム絵画を生み出す。
アメリカに住む日本人であったからこそ、アメリカモダニズムを代表する画家と成り得たのかも知れない。
ヨーロッパ絵画と日本の伝統的絵画のエッセンスは息づいているが、その両者とははっきり距離を持つ独自の創意である。
特に色彩がグレーの目立つものから鮮やかなパステルカラーを使った物まであるにせよ、どれにも哀愁や虚無感が宿っており、いぶし銀の深みに惹き込まれる。

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誰かが私のポスターを破った

異国の地ではやはり新聞に載る評価などには極めて過敏となるだろう。
国吉はユーモアのセンスがよく、弁舌も優れ社交的でもあったようだ。
アメリカ国内での作品の評価は高まり、ニューヨーク近代美術館から現代アメリカ絵画を代表する1人に選出される。

父の病気で一時帰国した彼は、祖国での個展を代表作を引っ提げ行う。
アメリカでの成功により前評判は非常に高かったが、絵画はほとんど売れず作品は受け入れられなかった事が分かる。
しかも軍国主義に沸く日本国内での権力の横暴に呆れ果て、帰属意識を喪失する。

自分はアメリカにしか住めない、そう自覚したときに41年の真珠湾攻撃である。
もうひとつの~今やたったひとつの母国から敵国民として厳しい視線を投げかけられる。
国吉はアメリカの民主主義を信じていたため、求めに従い「戦争画」~プロパガンダを描く。

実質、ここで究極的に寄る辺なき身となる。
引き裂かれる。
緊張感と不安と虚無が同居する。

kuniyosi003.jpg
ひっくり返したテーブルとマスク

とても自分に正直な人である為か”Upside Down Table and Mask”であることを率直に表している。
混乱を苦悶をそのまま表すところがよい。
分かり易い人なのだろう。
そこが良い。

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ミスターエース

彼にしてはとても色が多く鮮やかだが、もっとも虚無的な絵である。
一見有能で頼りがいがある様に見えて、権力において非常に残忍な立ち位置にいる男である。
普段は、ピエロとして親しまれている存在かも知れない。
これくらい冷たい目が描ける~知っている人なのだ。

戦後、国吉は美術家組合(artist equity association)を作りその会長として精力的に活動する。
これはニューヨークを美術の一つの中心地に引き上げる役割を担うものであったが、非情な赤狩りの標的にもなる。
彼は反共主義政策におけるブラックリストに入れられていたのだ。
その勢力を上手くかわしつつも、圧力に悩まされた。

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果物を盗む子供

わたしが一番好きな絵である。
勿論、象徴的な意味がバナナと桃、子供との関係にあることは分かるが(ジャップが黄色い白人と呼ばれていて、少年はまだ建国して程ない若い国アメリカであり、桃は国吉の出身岡山の特産でもある)、それを想わなくても単に造形的に愉しい。
絵として見飽きないのだ。

純粋に絵の魅力でじっくり時間を過ごせる画家である。



私がクマにキレた理由

The Nanny Diaries

The Nanny Diaries
2007年
アメリカ

シャリ・スプリンガー・バーマン、 ロバート・プルチーニ監督・脚本

スカーレット・ヨハンソン、、、アニー・ブラドック(ベビーシッター)
ローラ・リニー、、、ミセスX(アニーの雇い主)
ニコラス・アート、、、グレイヤー(X家の少年)
アリシア・キーズ、、、リネット(アニーの友達)
クリス・エヴァンス、、、ハーバード・ホッティ(アニーの彼氏)
ドナ・マーフィー、、、ジュディ・ブラドック(アニーの母)
ポール・ジアマッティ、、、ミスターX


アニー・ブラドックは、大学で人類学を専攻していた女子。
新卒で就活するも、面接試験で自分が見えなくなった。
わたしは、一体何がしたいのか、、、わたしとは何か、、、。
ビルの赤い傘マークが、外れアニーのもとに舞い降りてきて、彼女はそれを手に取り空に舞い上がる。
かなり重症だ。

そこで、舞い込んで来た上流階級の住み込みのベビーシッターの仕事に就く。
他人の家庭を人類学的に考察することと、自分を知る意味からもこの経験は有効であろうという考えもあり。
また、女手一つで育ててくれた母の手前、取り敢えずどこかに就職を決めておきたかったみたいだ。

しかし、その上流階級、何と利己的で見栄っ張りで我儘で無礼な連中か。
まさかこれが典型ではないだろうが、こんな感じの家庭もあるのだろうか。
金持ちの誰もがこれでは、アメリカは到底もたないだろう。良識ある知識人も勿論多いはずだが。
面白かったのは、アニーが幾つもの家庭から依頼を受けているとき、「うちは給料が高いわよ」という真っ当なものの他に、「わたしの家はトランプタワーなのよ」と自慢している奥さんがいた。
これにはちょっと笑えるが、、、やはり結構危なそう。
(結局そういう結果が出たし、こんな家庭がグロテスクに単純化した極端な例でもなさそう気もしてくる)。

ただ、その誇張された歪みぶりも、思いつきそうなもので、特段に驚きのシーンとかはなかった。
アニーは大変な激務を熟すことになるが、次第に腕白な息子グレイヤーに情が移ってゆく。
同じマンションに住むハーバードの男子にも恋をする。
(アニーの直向きさに彼が惚れたようだ)。

反撥を持ちながらも仕事と割り切って無理で傲慢な要求に従ってゆくが、当の雇い主の惨めさが分かって来て、その不幸に同情するようになる。
彼らは金と地位があっても、現状を維持するための取り繕いと取り憑かれた欲望に従うだけの生活に無自覚なのだ。
そしてもっとも厳しいのは、愛情が家庭に全く通っていないことである(夫婦及び親子に)。
その意味では、家はすでに機能不全であり子供を育てる環境成り得ていない。
と言うより、これでは子供の行く末が危ない。

ここが一番の問題として描かれており、この点については現代社会の縮図でもあり普遍性を持ち得ている。
基本的に特異な家庭ではない。
夫は仕事と言って家を顧みずおまけに浮気にうつつを抜かし、妻は社交パーティや見栄を気にした慈善パーティ、セミナー、豪華な食事会にばかり参加していて、子供に対しては教育プログラムをベビーシッターを通して押し付け、自分は何にも関わらない。
ただ子供がどの学校に行くことになるかだけには異常な関心を持つ。

彼女自身もその場に深く入り込んでゆくとともに、この悲惨で荒涼とした子供の生活環境はどうにかしてあげたいという気持ちが強くなる。
しかし、その矢先、ミセスXが監視用カメラで、アニーが子供に食べさせないように注意していたオーガニック素材ではないものを瓶から直接食べさせていたことやフランス語やその他の細かい勉強を疎かにしていたことが発覚して、首になってしまう。
グレイヤーとアニーがこころを通わせていたのは、まさに妙なルールに縛られずに彼に向き合って関係を築いていたからなのだが。
彼女も以前からそのカメラの事が気になっており、最後にクマの縫ぐるみに仕込んで置かれていたカメラを探し当ててしまう。
前から期間限定で経験してみようと思って始めた仕事であるが、ここで撤退するのは彼女にとって中途半端で不全感は否めない。
そこで、逆にクマの目向かって、ミセスXに敢然と立ち向かう。
思いのたけをぶちまけ、グレイヤーに対する押しつけと放任による彼の孤独の現状としっかり向き合う愛情の必要性を切々と説く。

そのビデオを観て、ミセスXは内省し我に返り~正気となり、夫と離婚してグレイヤーと共に時間を過ごす選択をする。
(一度も仕事をしたことのない奥さんがこの先どうやって生活をしてゆくのかは不安であるが。慰謝料と養育費は押さえているにしても)。
アニー・ブラドックは自分はどういう人間ですか、という面接に対し、どのように答える人になったのだろうか、、、。
少なくとも自己肯定的な逞しさは身についたはずである。
グレイヤーとハーバード・ホッティにこころから愛されたことは、大きい。
そういうものであろう。






くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ

Ernest et Celestine002

Ernest et Celestine
2012
フランス

バンジャマン・レネール、ステファン・オビエ、バンサン・パタール監督
ガブリエル・バンサン(ベルギー)原作

アーネスト、、、クマのおじさん
セレスティーヌ、、、ネズミの少女


絵本を元にした映画であり、その質感を大切にして映像に再現していることが分かる。
動きはジブリの古畑アニメを彷彿させる。


ネズミ世界、クマ世界、それぞれの世界からのはみ出し者同士が接点をもつ。
お互い自分の世界が居心地悪い彼らが親しくなるのに時間はいらなかった。

ネズミ社会では、クマは意地が悪くネズミを食べてしまう怖い存在だと教え込まれている。
おまけにセレスティーヌは孤児でクマの前歯を集める仕事を強制されているが、彼女はスケッチばかりしていて邪魔者扱いされている。
クマにとってネズミは地下に住む生き物であり、本来自分たちとは別世界のものたちである。
しかもアーネストは両親から裁判官になることを望まれていた。
しかし彼のなりたいのは、音楽家か詩人であり、一文無しの腹ペコクマなのだ。

アーネストがたまたまごみ箱をあさっていると、中にネズミが眠っており食べてしまおうかと思ったが、彼女がお菓子屋さんを紹介してくれたことで、その地下倉庫で思う存分甘いお菓子を食べることが出来た。
そのお礼としてアーネストは、そのネズミ、セレスティーヌの歯の収集に手を貸す。
アーネストは沢山の歯を袋に詰め、ネズミのいる地下世界まで運んだところで眠くなり、そのまま眠ってしまう。
(クマのアーネストがすぐに眠ってしまうところなどありそうで面白い)。
ここで、彼らは一緒にいるところを見つかり、盗みと互いの境界を侵犯したことで、共犯者としてネズミ・クマ双方から追われる身となる。
と同時に彼らはとても仲良くなる。ずっと一緒に暮らしたいと思うような絆が芽生える。

Ernest et Celestine001

クマのアーネストは音楽、ネズミのセレスティーヌは絵が得意である。
特に、「アーネスト、見せてあげる、これが冬の絵」とセレスティーヌが絵を描くのに合わせて、「音楽をつけるとしたらこんな感じかな」とアーネストが音楽を付ける。このハーモニーは絶品と謂えよう。
大変良質な環境ビデオ(ブライアン・イーノの創るような)の趣があった。
クマにとって冬の世界は、未知の世界である。
それを覗いた感動をふたりで音と画像により表現しようなんて素敵な関係ではないか。

Ernest et Celestine003

クマとネズミとのはっきり分かれた棲み分け上下社会という他にも、シニカルな面はしっかり押さえている。
夫がお菓子屋でたくさんのお菓子を子供たちに売りつけ、その真向かいで妻が経営する歯を悪くしたものに入れ歯を売りつける店で大儲けする夫婦が描かれ、彼らは絶対に息子だけには甘いものは食べさせない。
これは典型的な小市民像であり、市場社会の縮図である。
アーネストとセレスティーヌは、そのどちらからも商品を掠め取る。
こうした搾取と完結性を崩すひとつの象徴的で無意識的な彼らの行為か。

クマ裁判長とネズミ裁判長の両界において絶対的な権力を持つ者がどちらも、裁判中に起きた火災から裁こうとしていたアーネストとセレスティーヌによって救い出される。
皆、周りの提灯持ちは、我先に逃げてしまった。
そして下で起きた火災は上にも及ぶのだ。自然~物理的災害は境界などお構いなく容赦なく浸食する。
(核戦争のメタファーにも感じ取れる)。


アニメ全体は、とても柔らかで清々しい水彩タッチで、優しく流れてゆく。

最後は、どちらも無罪放免となり、穏やかで和やかなふたりの生活が描かれる。
これまでのふたりの辿った物語を絵本にするのだ。

恐らく、この噺のように(笑。
おしゃれである。流石フランスアニメだ。





ダウンタウン物語

Bugsy Malone002

Bugsy Malone
1976年
イギリス

アラン・パーカー監督・脚本

ポール・ウィリアムス、ロジャー・ケラウェイ音楽


スコット・バイオ、、、バグジー・マロン(ボクシング・プロモーター、一文無し)
ジョン・カッシージ、、、ファット・サム(ギャングのボス、キャバレー経営者)
マーティン・レブ、、、ダンディー・ダン(サムと対立するギャングのボス)
ジョディ・フォスター、、、タルーラ(サムの情婦)
フローリー・ダガー、、、ブラウジー(マロンの恋人、ハリウッドを目指す歌手)
デクスター・フレッチャー、、、ベビーフェイス(新入りギャング)


ジョディ・フォスターまさに、「栴檀は双葉より芳し」である。

とても思い切った設定で、まず一回やったら真似はもうしない方がよいだろう、、、。
禁酒法時代のアメリカギャング映画を「子供だけのキャスト」で撮った映画。
でも、ジョディ・フォスターって子供か?
子供の年齢には違いないだろうが、子供には見えない。
大人でもない。

そう、ジョディはジョディでしかなかった!
恐るべし、、、。
やはり普通の人間ではなかった。
(今若手で、これほどの存在感を示す女優はいるか、、、ダコタ・ファニングか?確かに両者ともに天才である)。

足漕ぎクラシックカーもともかく愉しい。
これもたまらない。
出てくるたびに嬉しくなる。
子供時代にこんな豪華な足漕ぎギャングカーに乗ってみたかった。
いや、今でも乗ってみたいではないか。

さらにミュージカルであるが、どの曲もとても出来が良い。粒揃いなのだ。シングルカットで行けそうなものばかり。
時折、ミュージカルなのに曲がショボく(特に「ムーランルージュ」)、観ているのが苦痛になるものがあるが、この作品はとっても音楽~歌が良かった。

但し、残念なのは歌が吹き替えなのである(苦。
子供声でよいから、(下手でもよいから、、、演技も上手くはないのだし)本人の歌で聴きたかった。
とーくに、タルーラ♪~である。あの曲はジョディの肉声で聴きたかった!
ここが吹き替えでがっかりした。この映画で一番がっかりしたところだ。
もう、がっかりした。

Bugsy Malone003

度々出てくるクラシックカーも、ジョディ・フォスターもとても素晴らしい。
ただ欲を言えば、もう少し彼女の出番を多くしてもらいたかった。
というより、この映画ジョディとこの珍妙な足漕ぎ自動車が出てこなければ、少し厳しいかも。
勿論、楽曲も良いのだけれど、他の子どもさんとの差があり過ぎなのが観ているうちにしみじみ分かって来る。
ファット・サムのジョン・カッシージ君も体形~ルックス的にも個性があり上手いかも知れないが、、、。
二枚目役のバグジー・マロンも敵のボス役のダンディー・ダンも、確かにイケメンだが今一つ影が薄い。

いや、普通なら彼らはかなり達者な子役なのだ。
(ヒロインのブラウジーは正直キツイが)。
タルーラ~ジョディ・フォスターで皆、ぼんやり霞んでしまったのだ、、、。
これは仕方ないが。
本当なのだ。

Bugsy Malone004

パイ投げは、向こうの映画では定番なのか。
このようなパロディ・コミカル映画では、どうしても実弾とはいかずパイとなる。
しかし手でパイを投げるとなれば、簡単に敵に避けられてしまう。
ファット・サムの店でわざわざその実証をボス直々にしている(爆。

それで、新型銃が登場し威力を発揮する。
パイを発射する銃を大量に手に入れ優勢に立つダンディー・ダンのファミリー。
こちらはファット・サムのところと違い統制もとれている。(部下がボスを尊敬している(笑)。
この新兵器で一時、ファット・サム一派はコテンパンにやられ追い詰められる。
それで組の者ではないバグジー・マロンに助けを求める。
バグジー・マロンは一文無しなので、金を積まれれば直ぐに乗る。

ファット・サムは店ごと最早、壊滅かといったところで、マロンの機転でその銃の略奪に成功し、最後は五分五分の激戦に持ち込み訳の分からぬ状況になる。
よくある無茶苦茶なパイ投げシーンに雪崩れ込む。
「グレートレース」で辟易したパイ投げであるが、よっぽどこれが好きなのだ。
パーティでちょっと羽目を外しても、ギャング同士の闘いでも、何でもともかくパイを投げたい。
そして全てがうやむやとなり~エントロピー最大~でついに双方ともに痴呆状態となって終結を迎える。
お互いに手を取りニコニコしているのだ。
こういうエンディングなんだ、、、。

他のアイデアは出なかったか、、、これがもっとも分かり易く受け容れられる形であるか。
、、、文化なのだ。

全体の話としては面白い。
ファット・サムの酒の密造工場がダンディー・ダン達に見事に潰されたり、真っ当な商売の野菜倉庫までも破壊される。
この徹底したダンの思惑通りの進撃振り、というかサム一派のやられ振りの展開が傑作である。
それに子役でこれくらいオヤジの悲哀に迫れる(理解する)ジョン・カッシージもその個性共々特筆ものかも知れない。
(こういう役に限定すれば)。
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いや、やはり、ジョディ・フォスターの魅力に尽きる映画であった。
Bugsy Malone001


レオナルド・ダ・ヴィンチ

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河に渦巻く水流から運動を抽出し、戦争(フィレンツェとミラノ間)の戦闘場面~その人馬一体となった力の鬩ぎ合いに応用するという抽象性がレオナルドであろうか。きっとそこに何らかの自然学的原理を見出していたのだ。
その乱戦時の人の四肢の激しい筋肉運動や微細な表情を描き切る為、毎夜病院の死体安置所に赴き死体解剖にも臨んだ。
精緻で医学的に正確なデッサンが残っている。(わたしもレオナルド素描集を良く眺めたが驚愕である)。
極めて実証的で論理的である。
そして内面を、解剖学的に調べ上げたその動きの構造的描写で饒舌に表す。
これは最終的にあの「最後の晩餐」に結実するものか。

表面的には別の現象~事象に映るもの、微妙で饒舌な表情~表層、をその構造から描き起こすこと。
この次元から物事を捉えようという本質力に拘る画家は、少なくとも同時代ではミケランジェロ以外にはいなかった。
その後もここまで徹底した芸術家はほとんどいない。スケール的にも、、、。

レオナルドにとっては、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学それぞれを研究しそれらの成果を挙げようなどという意識・意図は全くなかった。
そもそも「学」それ自体が細分化していない。
単に事象の本源、原理を探ろうとした過程であり、結果であっただろう。
一言で謂えば「自然学」か。

ちなみに、ルネサンス時(イタリアルネサンス)にレオナルドをはじめ天才が多く輩出したとも謂われるが、ある意味今日の英才教育が良い形で実践されていたように思える。
この頃は、まだ「子供」は発明されていなかったこともあり、年少時に工房に見習いに出された後は、制限なく才能に任せて伸びる者はどこまでも自由に伸びたはずだ。レオナルドみたいに天井知らずで。

Leonardo002.jpg
「アンギアーリの戦い」はルーベンスの模写でそれがどれほど途轍もないものであるか、時代を超えたものであるかが分かる。
Rubens copy

そして素描と未完成が目立つ。発見と創造と技法の探求において。
しばしば技法の実験開発に失敗したことも、完成作品数の少なさの原因ともなっている。
壁画が絵の具の定着の不具合で壊滅的な損傷を食らったりすると、もう契約の面から謂ってもアウトとなろう。
完成よりも常に新たな発明に挑んでいた天才であることから、そんな事態も避け得なかった。
そもそも彼にとって、完成などあっただろうか。
「モナリザ」は終生身辺から手放さなかったという。

油彩作品は少ないが、素描はかなり多く残っている。
思考の跡を辿る見方が彼の場合、適しているのかも知れない。


普段出して観ること自体に気後れして、棚に仕舞いっぱなしでいたが、、、
とっても重い素描集をこの愚図ついた天気に部屋に出してきて観るのも良いものだ。


やはり魅入ってしまう、、、。

Leonardo003.jpg



この続きは、また近いうちに、、、。

キング・コング 2005

King Kong003

King Kong
2005年

アメリカ
1933年「キング・コング」のリメイク
ピーター・ジャクソン監督・脚本
メリアン・C・クーパー、エドガー・ウォレス原作

ナオミ・ワッツ、、、アン・ダロウ(舞台女優)
ジャック・ブラック、、、カール・デナム(映画監督)
エイドリアン・ブロディ、、、ジャック・ドリスコル(脚本家)
トーマス・クレッチマン、、、イングルホーン船長
ジェイミー・ベル、、、ジミー(ベンチャー号の少年船員)
エヴァン・パーク、、、ベン・ヘイズ(ベンチャー号一等航海士、ジミーの親代わり)
カイル・チャンドラー、、、ブルース・バクスター(映画主演俳優)


舞台は地図上にはない謎の島「スカル島」と1930年代の不況に喘ぐアメリカである。

正直これ程凄いVFXの映画だと思わなかった。
凄まじいというレベル。どうやって作ったのだろうという映像が一杯であった。
「ジェラシックワールド」など遠く霞んでしまう。
特に、アンとコングの関係に違和感がなく、コングの微細な表情の変化には驚く。
「美しい」という「ことば」がアンとコングとの間(ジェスチャー)で伝わり合うところはとても素敵だ。
二人を包む島の夕日とエンパイアステートビル頂上の朝日は格別に、いや異様に美しい。

King Kong002

コングは高台でトワイライトゾーンに浸るのを好む詩人なのだ。
黄昏時は、誰も可もなくその存在は単独者となる。
単独者同士の邂逅である。
一切のイデオロギーもパラダイムもない、ただ薄明の光に照らされるだけの関係。
そこは下界のとは関わりのない至福の場なのだ。最初のアンの務める舞台の歌のように。
純粋に等価な魂同士の触れ合い。

これ程美しい映画が他にどれだけあるか、、、。


ナオミ・ワッツが本当に頑張っていた。
これ程、観ながらよく頑張ってるな~っと労いたくなる女優はいなかった。
そぞかしタフでハードな撮影であったはず。

それから何といっても、出てくる恐竜が非常に即物的な迫力で迫って来る。
もう、文字通りの肉弾戦なのだ。
ブロントサウルスのぶつかりこすれ合いながらの大きな群れでの激走。
特にデナム達はカメラやフィルム、三脚などの機材を持って逃げる。
まさに恐竜の足の合間を縫って逃げる人間、、、。
合間で人間を食おうとちょっかい出すユタラプトル?小型肉食獣たちの小賢しい動き。
これらの動きが非常に速い速度で絡みあう。
所々で、踏みつぶされたり、放り投げられたり、食われたり、撃ち殺したりのアクセントが入る。
ともかく迫力の流れ~リズムだ!

更にティラノサウルス3頭相手にコングの激闘。
迫力ではこれがマックスかも知れない。
コングは最愛のアンを守っての闘いを余儀なくされる。
流石にティラノサウルスは他の恐竜などと比べ戦闘力は桁違いだ。
度々あの鰐より鋭い歯で噛みつかれるも怯まずにアンを庇いつつスリリングな攻防が続く。
最後はコング圧勝に終わるが、その地形と体術(運動能力)を目一杯利用したアクロバティックな動きそのものに感心した。
特に、アンを右手左手足で軽業的に受け止めて闘う姿は、まさにそれである。

それにしても、恐竜が絶滅せずに生存していたというだけでなく、多種多様な圧倒的に獰猛な動物がこれでもかと、次から次へうじゃうじゃ出てくる。
観ているこちらが絶望したいくらいである。
しかもみな巨大である。
正直、ここまでやるのか、と途方に暮れるくらいだ。
しかし、それでも焦点が崩れずしっかりアンとコングの関係が一本通り、そこにドリスコルの果敢な愛とデナムの強力な野心が絡んでくる。デナムの何にでも徹底してカメラを回す、映画至上主義の姿勢には、これはこれで共感できたが、カメラが壊れコングを見世物として持ち帰り金儲けだけの野望に変換したところで何だこれはである。この流れがなければ、コングがニューヨークには来なかったのであるが。
イングルホーン船長やジミーとヘイズ、バクスターの人物像も活き活きとくっきり描かれ物語は重厚に展開する。
スカル島原住民の他者性も充分に描かれていた。

最後は、余りにも有名な塔の頂上での飛行機との決戦だ。
コングはアンの身を庇い銃弾を浴びて落下し絶命する。


その直前の至福の場は、そう何処にでもあるものではない。
(しかし、実は非常に近くの小さな場に存在するものだと思う。)

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オディロン・ルドン

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生後2日目で里子に出されるとは、どういう意味をもつのか、、、。
そこはボルドー近郊のペイルルバードという不毛な荒涼とした田舎であったという。
家はボルドーの裕福な家庭であり、何らかの親の都合があったには違いない。

少なくとも親元に帰る11歳までは、漠然とした喪失感と寂莫感に宙吊りになって過ごしていただろう。
その分自然との接触は遥かに他の子どもより濃密で自由であったはずだ。
学校にも行っていなかったらしいから尚更。
ただ病弱で病気がちであったというから、野山を駆け回るような接近ではなかったと思われる。
(そうであれば、いやでも悪ガキ仲間とかができるはずだが)。

それは自然の光や色や音にめくるめく夢想を豊かに内面に蓄積することかも知れない。
非常に強い憧れを宿した、憧れと未来からやって来る郷愁と、、、
過剰な渦巻く夢想。
G・バシュラールのいうような物質的想像力に充ちてゆく。

自分にもほぼ同等の経験があるため実感できる。

11歳で帰って来て彼はどうだったのか?
深い落胆しかなかっただろう。
完全な孤独を知った事だろう。
分かり過ぎるくらい分かる。
そういうものだ。

自然~宇宙の大きさに高密度で膨らんだ憧れと郷愁は、すでに親のエゴや家族~共同体のファシズムのうちに変換・解消され収まることは出来ない。もはやインフレーションは止められない。
ここで更に彼は学校にまで行かされる。
こんな歳になって、突然学校に放り込まれるのである。
この強要にどうして耐えることが出来るか?
(しかもどの年齢で教育を受けさせ、学校制度に投げ入れるのが適当かなど教育学的にも何らこれまでまともな考察などない)。


彼のこころの拠り所は、音楽と絵画であったという。

わたしもこころの拠り所は、音楽と絵画であった。
それが絶大なものとしてあった。
そう絶大なのだ。
万能感と果てのない愛情を受けそこなった場合~これは永遠の幻想の類(特殊性と謂うより人であることからくるロマンに過ぎないか?)~人が本質的に持つ疎外観念か、または過剰さを求める本源的欲望であるか~何にしても、その代わりとなるものはこの他にない。なければ枯渇して死ぬようなモノであり、空気と同等のモノである。
(いや数学の天才ならひたすら数学をやるだろう。数学は特に10代が勝負だ)。

学校も美術学校も当然続かない。
それは、はっきりと彼の中に確信を生む。
「自分がいつもやって来たことの他の方法で藝術を生むことは出来ない」
ということだ。

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ルドンの夥しい眼差しの群れ。
大概、それらは特別な感情を持たぬ、一つ目であったり、、、。
そのほとんどは重力の影響を受けていない。
思考と夢の純粋な運動から生まれてくる。
起源:「おそらく花の中に最初の視覚~ヴィジョンが試みられた」
~わたしは、見えるものの法則を可能な限り見えないものの為に奉仕させたのだ~
これがルドンの生理であるだろう。
必然の流れだ。

緋色のように美しい黒。
全ての色彩があらん限り封じ込められてゆく黒。
ここから蛹が成虫に変態するように色彩が開闢~ビッグバンする。
これは絶対に徐々に変化するような事態ではなかった。
瞬時の相転換である。

木炭からパステルへ。
或る時、豊かな漆黒の夢想は、歓びの色彩に溢れ散った。
二度目の起源:インフレーションが起きたのだ。
色彩はパステルを経て、水彩や油彩によって更に加速して広がり深まる。

題材はギリシャ神話そして再び「花」へ。
見えないものを通って見えるものに色鮮やかに開花する。
物理原則を目の当たりにするみたいに。

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紙屋悦子の青春

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2006年
黒木和雄監督・脚本

原田知世、、、紙屋悦子
永瀬正敏、、、永与少尉(悦子の夫、「お父さん」)
松岡俊介、、、明石少尉(悦子の初恋の人、永与の親友で特攻隊で死ぬ)
本上まなみ、、、紙屋ふさ(安忠の妻、悦子の義理の姉)
小林薫、、、紙屋安忠(悦子の兄)

これも中身は縁談絡みの噺で、最初と最後そして中間に現在の老境にさしかかった悦子と「お父さん」のまったりした対話がある。
しかし現在の病院の屋上での騙りは二人による回想が主であり、何やら霞んだ雰囲気で、舞台袖での演技を想わせる。
一方、その当時(昭和20年)の二人がまだ結ばれる前(縁談~お見合い)の若い頃の場面は、素朴で初々しい漠然とした希望も感じられる。
縁談~お見合い噺もみな基本は対話であり、ことばの聞き間違えや緊張してガチガチなやり取りなど、ユーモラスなところもかなりあり、フッと笑える。
縁談~お見合い噺が暗い訳もなく、戦時中であろうが、特攻隊員として死を決意する者がいようが、日常の生活においては桜が咲いて桜が散り、耳を澄ますと海などないのに波の音が何処からか聴こえてきたりする、、、。
昼も夜も明るい。
そして静かだ。
ふさと安忠の口喧嘩の時すら静謐な雰囲気に包まれている。

そんな、昭和20年終戦間近の鹿児島であるが、ほとんど部屋か部屋から臨む庭先程度が舞台である。
あくまでも空間を、現在は病院の屋上の椅子に座って、当時は鹿児島の紙屋家の部屋に限って、悦子を中心に描く。
まさに舞台劇を見るような形式である。
このまま戯曲でもよい。

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基本、テーブル(卓袱台)で戦時中の配給で貰ったおかずを囲んでの質素な食事をとりながらの、方言による軽妙な魅力ある対話で構成される。
家族の場合は、それであり、永与少尉(と明石少尉)との場合は、静岡産のお茶とおはぎであったりする。
静岡のお茶はお客さん用の取って置きの御馳走であり、特に美味しそうである。
(役者がまた美味しそうに飲むこと、、、)。
さらに悦子とふさ、安忠の方言の騙り合いのリズムがとても心地よく綺麗で魅惑的である。

ここには一切、戦闘場面や爆撃を受けた悲惨な市街地などの映像は出てこない。
死を覚悟した人は出てくるが、死骸の類も全く見せない。
しかし、バックグラウンドにそれが逼迫しているという空気は漂っている。
明石少尉がある時、唐突にやって来て、特攻隊に志願したことを紙屋家の人に告げる。
ふさは、悦子と明石を二人きりにし、思いのたけを語らせようとするが、悦子は彼を見送らず、家の奥で慟哭する。
これだけで、充分である。

人物の数を最小限にして人物像を色濃く浮き立たせる。これには対話の妙が充分に効いている。
そして噺の焦点を絞りその流れのディテールをしっかり描く。
明石少尉の沖縄出征の報告時から後の悦子の心情には、本当に共感、共振してしまった。
静かな確かな説得力である。
永与少尉(今の「お父さん」)は、明石少尉に悦子を託された形であった。
(勿論、永与少尉は悦子に一目惚れして結ばれたのであるが)。
死んだ明石少尉の最期の手紙を永与少尉が悦子に渡すシーンは、もはや蛇足であるがダメ押しであり、戦争映画が戦場を描くばかりではないことが分かる。


これは、反戦映画成り得ていると思う。

黒い雨

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原子爆弾投下後に降る「黒い雨」である。
1989年

今村昌平 監督・脚本
井伏鱒二 原作
武満徹 音楽
川又昂 撮影

田中好子 、、、高丸矢須子(叔父の重松夫婦に育てられた20の女性)
北村和夫 、、、閑間重松(横川駅の列車内で被爆)
市原悦子 、、、閑間シゲ子(重松の妻、住宅内で被爆)
原ひさ子  、、、閑間キン(重松の母で矢須子の祖母、認知症)
三木のり平 、、、好太郎(残留放射能に二次被爆した重松の親友)
小沢昭一 、、、片山(残留放射能に二次被爆した重松の親友)
石田圭祐 、、、岡崎屋悠一(精神を病む元特攻隊員)
山田昌  、、、岡崎屋タツ(悠一の母)
常田富士男、、、老遍路


高丸矢須子は、瀬戸内海を渡る小舟の上で、黒い雨を浴びる。(爆心地からは離れていたが)。
物語は終始、矢須子の縁談を軸に進んでゆく。
この「縁談」から離れないところが良い。
ここが途切れてしまい、人々を俯瞰して見るような流れとなったらイデオロギー(集合知)で騙るような噺に脱してしまうかも知れなかった。
ともかく一個人の関心事、願い~身体性に寄り添う形で進まなければ、実感が遠のく。

映画であれば、どうしてもその時代考証や捉え方にズレはつきものであり、この原爆投下の時期というのは、大変微妙なところだ。少なからずこの場を体験している人から見れば、それぞれの立場からの異議が出てきてもおかしくない。
実際の死骸はあんなものではなかった、とか被爆した被害者の描き方とかその時分の農民の姿とか、人々全般の他者に対する姿勢や傾向など、、、。
当然出てくるそのような齟齬も、うんと絞った関係~ディテールの描写で身体性における共感を保つことはできる。
被爆者差別や病をもった者に対する偏見や根拠のない噂に流される世間の本質がそこにしっかり晒される。
全体を隈なく正確に描くという事自体に意味はない。断片に感性が充分に浸かることのできる描き方がなされていれば充分だ。

また武満の音楽が死の不安と生の欲望に対する大変微細なニュアンスを饒舌に表現していた。
武満の音楽はシーンと切り離せぬ純度にあった。


矢須子は母が出産後すぐに亡くなったため、叔父夫婦のもとで育てられる。
重松夫婦も彼女の事をとても大切に育てて来た。
年頃でもあり、嫁に出してあげたいと願うが、、、。
彼女が「黒い雨」をかつて浴びていたことから、良縁があっても必ず壊れてしまう。
先方は最終的に器量よりも健康を優先してくる。
と言うことより、「黒い雨」に当たったという事自体が負の価値であり、それを背負込むなんて世間的に謂って論外なのだ。
それこそ家に傷がつくとかいうレベルで。
重松夫婦は矢須子の日記をまとめて清書し、当時彼女が爆心地から離れた場所におり、被爆していない旨の書類を作成するも、正確を期した情報など全く役には立たない。悪い噂の方が人々の好みなのだ。

何でアメリカは広島に原爆を落としたのか?
それが分からないで死にたくないものだ、と言って片山は死ぬ。
まったくだ。

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広島がのうなってしまった、という感が充分に分かる瓦礫と無残な死体の横たわる(水に浮く)焼け野原を、重松夫婦と矢須子の3人で取り敢えず重松の勤務する工場に避難するために横切ってゆく。その途上、顔に酷い火傷のある老遍路に出会う。
彼が自分は防空壕を出た矢先にピカドンにやられたこと、妻は即死したが息子は足を倒れた柱に挟まれ動けないでいたため、懸命に助け出そうとしたが柱がびくとも動かず、やがて火が周って来て息子を置いて逃げてきたことを打ち明ける。
顔の傷は痛まないがこころが痛むと。
「とうちゃんたすけて~」(日本昔話の語り部が息子のことばを何度も何度も繰り返す、、、)
この場面は、可哀そうとかお気の毒にという同情といった感情に落ち着くものではなく、その場にいてしまった3人にとってはただ慄然とするしかなかった。早々に彼らはその場を立ち去る。その男は別れ際、矢須子に無表情に水を求める。
彼が水をがぶ飲みしているのを打ち眺める矢須子の表情は、名状し難い存在の生々しさ~恐怖に強張っていた。
こんな場面だけでももう充分である。事細かにあれやこれやを拾い描きつづる必要などあろうか。
(この息子が生きたまま、周って来た火に焼かれる場面は、「はだしのゲン」にもあった)。

元特攻隊員で、普段は小屋に籠って石像を彫っているが、エンジン音に反射してすかさず表に出て行き布団爆弾を車に仕掛けて止めてしまう矢須子の幼馴染も、帰還兵の悲痛な姿を表している。
ただ、この村(祖母の住む彼らの疎開先)の救われるところは、この男をみんなで守っているところである。
そして、普段は大人しく石像を彫り続けている男に、矢須子も惹かれてゆく。
家の身分には大きな差があるが、相思相愛である事を知った男の母が矢須子を嫁に貰いたいと重松に頼む。
当然、重松はその急な申し出に愕然とする。彼は良家との縁談以外考えていなかった。
しかもその男は精神に病を抱えている。だが彼がどんな人間であるかについての本質的洞察はしているのだ。
そして矢須子の自らの気持ちを大切にしてあげたいという妻シゲ子の進言に彼も同意する。
「わたしは悠一さんを尊敬しています。」
自分の目で相手を見て、考えられる人もしっかりいるのだ。

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「正義の戦争より、不正義の平和の方がまだマシ」重松の噛みしめる言葉が実に説得力がある。
お嫁にも行く間もなく矢須子がついに発症してしまったのだ。
悠一に抱きかかえられて行き絶え絶えの彼女は車で病院に運ばれてゆく、、、。
もうすでに矢須子の縁談で奔走してくれた好太郎も鯉の養殖仲間の片山も死んでおり、頼みの綱の妻のシゲ子も発症して死んでいる。
その上に、矢須子まで、である。

彼はあの山に綺麗な7色の虹が掛かれば、彼女の病は治る!と胸に念じる。


そういうものだと思う。


大魔神 三部作

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BSでやっていたので、とりあえず観てみた。3つとも。
監督がそれぞれ違うのに、話は完全にフォーマット化されていて、おんなじであった。
大魔神が現れるタイミングもきっちり同じであり、お姫様とか小童がお祈りして頼むと願いを聞いてくれる。
水戸黄門的な律義さで流れてゆく。

特撮はかなりよく出来ているが、魔人のスケール感がシーンによってかなりばらついていた。
身長は4.5mというのだが、明らかにそれより大きかったり、そのくらいだったりする。
一定に保つのは難しいことだ。
それから特徴として、何も話さないし吠えたりもしない。声自体出さない。
やはり口から何も発しないところが、神の威厳を保つうえで肝心なところなのだ。
(あの大きさで何やら声を出すと、ただの怪物となってしまう。ゴジラやガメラとの差別化を図らねばなるまい)。
ただその存在を大きな足音で知らしめる。
そして高くて頑丈な塀や石垣、岩などを怪力で崩してその姿を現す。
登場スタイルも皆同じ。

つまり2,3作目は1作目を基本フォーマットとして継承いたのか、或いは最初からシリーズはこの形でというものが決められていたのか。
チェコの映画『巨人ゴーレム』(1936)にインスパイヤされ日本の時代劇と融合させた形をとっている。
2作目は、「モーゼの十戒」からの引用か、湖が裂けて大魔神が移動して行く。
これ程の力があったのか、、、流石は神である。

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ちなみに誰もが知っている戦闘時に顔が変わるシーンであるが、魔人の山に祭られている平時は古墳祭祀の際に使われていたような埴輪顔だが、腕を顔の前で交差するとたちまち仏像(仏教化するのだ)における憤怒の形相の 明王みたいになる。
ここが大魔神の大魔神たるところだ、、、。

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必ず一度、魔人阿羅羯磨(あらかつま)を極悪非道な新たな領主が破壊を試みるが、かえって魔人を怒らせることになる。
当たり前だ。これでただで済むと思ってるのか!、、、である。
地震、地割れでまずは邪魔な子悪党を文字通り神罰で呑み込み、、、。
次々とお城や建物を壊し、なぎ倒し、砲撃を跳ね返して前進する。
後は何処までも悪い殿をのっしのっしと追い詰め、止めをさす。
「かみさま~」と圧政に苦しんできた村の衆や悪い殿に一族を滅ばされた姫や小童たちが拝んでおしまい。
魔人はその場で粒子化して崩れ、核部分が火の玉状となり飛び去って行く。
この青い火の玉が魔人の実体なのだ。


音楽が3作とも伊福部昭であることで特撮技術と相まってある種の格調の高さが生まれている。
噺自体は非常に単純な勧善懲悪の民話みたいなものである。
脚本と撮影も同じ人だ。これで作品に安定感というより、同じような話~絵となるわけだ。

領民に思いやりのある政をして慕われてきた領主~お殿様を悪辣で非道な侵入者(家臣)が悉く殺してしまい、自らがその地位を奪い統治してしまう。過酷な労働に駆り立てられ死にそうな目に遭う民が山の谷間のような秘密の場所に祀られている山の荒ぶる神に助けを求めに行く。だが、映画の終盤まではなかなか魔人は重い腰を上げない。誰がお祈りをささげて涙を流すか(自己犠牲的な仕草を見せるか)で、彼ははじめて動く。1,2作目は綺麗な姫の私の身を捧げますと言って流す涙。3作目は小童の拝んで雪に身を投げる姿、に呼応する。
(とは言え虐げられている村人が魔人に蹴散らされたり、村人の為に立ち上がった少年が自己犠牲的に川に流されても直ぐにドライに忘れ去られたり、可哀そうに思えるところはある)。

それから、何とも恐ろしいことに、全ての作品が1966年に製作されているのである。
映画によっては続編が10年以上後となるものなどいくらでもある。
これでは猶更同じようなものになるのでは、、、。それが狙いか。
でも、何でこんなに急いで続編を作ったのか?
一作目が結構ヒットしたのに気をよくしてそれにあやかろうとしたのか?


「大魔神」(1作目)
1966年
安田公義監督
吉田哲郎脚本
伊福部昭音楽
森田富士郎撮影

高田美和、、、花房小笹(一族を悪家老一派に滅ぼされた姫)
青山良彦 、、、花房忠文(姫の兄)
藤巻潤、、、猿丸小源太(忠文の懐刀)
五味龍太郎、、、大舘左馬之助(悪家老)

1518年(永正15年) 丹波にて

ここでは、民がどんな酷い目に遭っても動かぬ大魔神であったが、花房小笹(高田美和)が涙で頼むと、いうことを聞く。
噺と流れは、同じ。


「大魔神怒る」(2作目)
1966年
三隅研次監督
吉田哲郎脚本
伊福部昭音楽
森田富士郎撮影

藤村志保、、、早百合(姫、十郎時貞の許婚)
本郷功次郎、、、千草十郎時貞(民に称えられる千草の領主)
上野山功一、、、名越勝茂(千草の分家、早百合の兄)
神田隆、、、御子柴弾正(隣国から攻め込んだ悪殿)

1532年(天文元年) 八雲 にて

ここでは、早百合が捨て身で涙を一滴流して頼むと、言うことを聞いてくれる。
噺と流れは、同じ。


「大魔神逆襲」(3作目)
1966年
森一生監督
吉田哲郎脚本
伊福部昭音楽
森田富士郎、今井ひろし撮影

二宮秀樹、、、鶴吉
堀井晋次、、、大作
飯塚真英、、、金太
長友宗之、、、杉松
(どれも小童)

1543年(天文12年) 飛弾 にて

ここでは特に殿も姫も出てこない。
そこが1,2作目と異なる。
演技の下手な子役でもたせるのは、かなり大変。
(製作側も観る方も)。
やはり殿(直ぐに敵につかまり人質になる)と幼気な姫でやった方がすんなり観られるのだが。
噺と流れは基本的に同じ。

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3作目で初めて剣を抜いたと思う。
それまでは、ほとんどただ歩くだけで、悪の主をやっつけるときも自分の剣は使わなかった。


どれも初めて見た。
ゴジラ、ガメラは明らかな怪獣であるが、こちらは荒ぶる神であった。
取り敢えず3部作全部見てひとやれである。


恐らくもう二度と観ることはあるまい。


リング

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1998年
中田秀夫監督
高橋洋脚本
鈴木光司原作

松嶋菜々子 、、、浅川玲子(ジャーナリスト)
真田広之 、、、高山竜司(浅川の元夫、大学教授、霊能者)
中谷美紀 、、、高野舞(高山の教え子)
沼田曜一 、、、山村敬(志津子の親戚)
雅子 、、、山村志津子(千里眼の持ち主、貞子の母)
竹内結子 、、、大石智子(浅川の姪)
佐藤仁美 、、、雅美(智子の友人)

BSで入っていたので、久しぶりに観てみた。夏であるし。ほとんど忘れていた為、新鮮な気分で観ることが出来た。
不安や恐怖、不穏な空気感を演出で淡々と忍ばせて行くところが良い。
(クリーチャーやスプラッターシーンがこれでもかと出てくる西洋ホラーにない魅力である。わたしがホラーが苦手なのは怖いからではなく、ただスプラッター的刺激ばかりをエスカレートして行く傾向が苦手なのだ)。


観てから一週間で死ぬという個人差なく平等なきっちりとした設定。
ちゃんとその時にテレビ画面から這い出てくるサービスは、今日の時間に正確なビジネスモデルと重なる。
デジタルメディア時代にピッタリ則した呪いである。
しかし、貞子の呪いでなくとも、わたしもデジタルデータを扱う頻度はとても高いし、その作業(基本的にデータのコピー以外の何でもない)をしている事自体、モニタを介したデータのやり取りに呪われていると言える。
スマフォを手放せない人はしっかりメディアデータに呪縛されている。
それはわれわれを身体的に蝕む。ストレスの大部分はそれであろう。

この一週間以内にダビングして別の人に送れば命が助かるというのも、ひと頃流行った不幸の手紙などを思い起こさせる。
もっとも、こちらの方は、貞子自身の無念~怨念を人々に広く周知させようという目論見なのだろうが。
これをネットを使ったメールで広めるようになったら、恐ろしいことになる。(効率と手軽さからも)。
今であれば、貞子も当然そちらの手法に移行するはずだ。(ユーチューブも使ってくるだろう)。
恐らく、コピー配布もマルチ商法的(ねずみ講的)な広め方を強制してくるかも知れない。
そうなるともう爆発的増殖となる。
ネット上なら、特に言葉の意味的な作用はないようであるし、言語的な問題はなければ海外だってシームレスだ。
スーパーフラットだ。
内容的に言っても、かなり興味をそそるビデオである。ピコ太郎みたいに視聴する人は増えるはず。
きっとジャスティン・ビーバーも勧めてくるだろう?

ただ、コピー配布にも限界があり、滞ることでとどんどん死んでゆくことになる。
配布時に1人または2人でよいのに、物凄く多くのメールリストに一斉配布してしまう者が出てくると大変な混乱となる。
ネットやメールをたまたまやらない一部の人だけ助かるみたいな構図もできそう、、、。

わたしは何を心配しているのか?
ひとはモニタを介したデジタルデータのアウト&インプットに呪詛されている。
この手の厄介なトラブルも何らかの形で生じないとも限らない。
何かを拡散しようとすれば、極めて容易くなっている状況であることは確かなのだし。

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リングに戻る。
この怨念ビデオは、なかなかよく出来ている。
井戸の中から長い髪で顔の見えない白装束の少女が出てくる間など、見事だ。
そして極めつけはTV画面からシームレスに日常空間に出て来てしまうのである。
アッパレだと思う。
思わず膝を叩いてしまうではないか。

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しかし、何故彼女を前に、みんな裸足で外に逃げ出せないのか?!
部屋の中で、這って少しだけ逃げて恐ろしい顔で死んでしまうのか、、、。
やはり出てきた者が余りに珍しくて目を離せないのだ。
身の安全より、好奇心が勝るものなのだ。
そりゃそうだ。普通の番組では例えスーパーマンであろうと仮面ライダーであろうと、出てきちゃくれない。
一体どんな人なのかと、怖いながらもそのサービスと正体に触れてみなくては申し訳ないという律儀な思いに駆られるのだ。
(いや怖いけどそれで愉しみたいという眩暈感を味わいたいのだ。それは人間の本質である。でなければ誰がホラー映画などわざわざ観るか!)

確かにあの顔は怖い。
だが、なにもあんなに恐怖にひきつった顔で死ななくても、と思うのだがどうであろう?

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やはり怖いには怖い。
独りでいるときに急にTVが点いて、井戸の場面から吸い込まれるように見入ってしまい、そのままここまで来てしまうと心臓の悪い人はイチコロに違いない。
そうでなくとも、これを見たところで、みんな死ぬようだ。
どうやら怖いだけでなく、もっと心臓に打撃を加える何かがあるのだろう。

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わたしがやって竜司さんがしてなかったことは何なの?
と考え、コピーだと気づいたところで、浅川玲子の顔つきが変わる。
息子が深夜に起きて隣の部屋でビデオを観ていたときの玲子のショックは、本当によく分かる。
この映画でもっともショックを受けたところだ。

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そして、この映画で一番怖かったのは、浅川玲子が息子の命を救う為、自分の父親にコピービデオを見せようと決意した時の表情である。

貞子と同じくらい怖い目。

こうして貞子の怨念は広まり浸透してゆくのだ。
貞子は(ネット)ビジネス向きの人だ。


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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