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ライオンは今夜死ぬ

LE LION EST MORT CE SOIR001

LE LION EST MORT CE SOIR
2017年
フランス、日本

諏訪敦彦 監督・脚本
トム・アラリ撮影

ジャン=ピエール・レオ、、、ジャン
ポーリーヌ・エチエンヌ、、、ジュリエット(死んだジャンの恋人)
モード・ワイラー、、、ジュールの母親
アルチュール・アラリ、、、フィリップ(映写技師)
イザベル・ベンガルテン、、、マリー
ルイ=ド・ドゥ・ランクザン,,,映画監督


「ライオンは寝ている」という曲は初めて知った。
多くの歌手に歌い継がれてきた曲だそうだ。
肝心のセリフもそこからきており、この曲から着想を得たものなのか、、、。

南フランスのラ・シオタを舞台に、「大人は判ってくれない」のジャン=ピエール・レオが「死」を演じる初老の俳優として出演。
目を15秒閉じてセリフを語りまた15秒目を閉じる。
目を閉じたらそれっきりかも知れない危うさしっかり感じさせてくれる。
「わしは疲れたから眠るよ」とよく眠っていた。
親近感を持つ。
わたしも睡魔との闘いであった。

共演女優が部屋に閉じ篭り出てこないため撮影が進まず、彼はその地にあるかつての恋人の家を訪ねる。
所謂、我儘な大女優というやつか、、、。
そこで彼は、バカンス気分に。
(こういう時に出来た空白の時間がもっとも自由で贅沢に思える)。

LE LION EST MORT CE SOIR004

屋敷に着くと彼はうら若きジュリエットに出逢う。
彼女の霊に遭ったのか、彼の白昼夢のなかのかつての彼女なのか。
しかしそれはどちらであっても彼にとってはどうでもよい。
きっと彼にとっての理想の彼女の姿であって、他の人に彼女は見えないことでは同じ。
南仏の光と闇のなかで、、、
生死~現と夢の間が曖昧になってゆく。

そんな時空間に映画ごっこをして遊ぶ幼い子供たちが入り込んでくる。
一緒に映画遊びをしたいと言う。
彼らがシナリオを書き、ジャンも役者として入ることになる。
恐怖の館というホラー映画を子供たちに撮られた。
その合間に、彼はジュリエットと語り合う。
そしてよく昼寝もした。

LE LION EST MORT CE SOIR003

このこどもたちとのやりとりは、恐らくほとんどがアドリブではないか。
スカスカでとても無理のない自然なものであった。
子供たちが皆、楽しそうで、まさに遊んであるではないか。
こんな場所だと、映画遊びなどとてもよく馴染む。

ジャンの謂うように、死もまた出逢いのひとつならば、、、
彼の美しい恋人との再会や映画を作る子供たちとの遭遇が、彼の死と生を一際煌めかせる場~時空となったと謂える。

LE LION EST MORT CE SOIR002
LE LION EST MORT CE SOIR005


南仏は憧れの場所だ。
ライオンが歩いていてもおかしくない。





白痴

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1951年

黒澤明 監督
黒澤明、久板栄二郎 脚本
ドストエフスキー『白痴』原作

原節子 、、、那須妙子 ナスターシャ
森雅之 、、、亀田欽司 ムイシュキン公爵
三船敏郎 、、、赤間伝吉 ロゴージン
久我美子 、、、大野綾子 アグラーヤ
志村喬 、、、大野 エパンチン将軍
東山千栄子 、、、大野里子 リザヴェータ夫人
文谷千代子 、、、大野範子 アレクサンドラ
柳永二郎 、、、東畑 トーツキイ
千秋実 、、、香山睦郎 ガーニャ
千石規子 、、、香山孝子 ワーリャ
井上大助 、、、香山薫 コーリャ


この映画の全体について語る用意はない。幾つか感じたことのみ記して置くに留める。
4時間25分のものを二度にわたり松竹側からカットを要請され、ついに普通の映画1本分にあたる時間を切り取り166分になってしまった作品ということ。
監督は当初、第一部と第二部の二本立ての映画として計画したが、それを本作のなかに組み込んで一本の映画とすることになった。
第一部「愛と苦悩」そして第ニ部「恋と憎悪」。
冒頭の方で3度も字幕による説明文が流され、場面を切った後の繋ぎのトランジションなのかワイプなどが頻繁に入って展開して行く。かなりの難産によって日の目を見た映画という感じはする。ちょっと作品自体がダイジェスト版になりかけていて痛々しい。
(よくあるオリジナル作品の発掘はこれについてはないようだ。完全にカットした段階で消滅しているらしい)。

昨日の「七人の侍」の対極にあるような作品である。

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まさに” Femme fatale”とは、この人のことか、と実感させる黒衣の原節子~那須妙子(素晴らしいネーミング)であった。
小津映画ではまず見ることのないペルソナだ。こんな迫力というか情念・魔性を彼女に覚えたことはない。
(これを観てしまうと、他の役柄が皆、省エネ演技に思えてしまう)。
その相手役、ではなく主役は有島武郎の息子である森雅之だ。
基本的に女性キャストはピッタリの役柄でリアリティがあったが、森雅之の亀田欽司はかなり難しい役だ。
抽象的な人物を演じる困難さである。目からして極めて特異な「てんかん性痴呆症」を遥かに超えたペルソナを演じている。「一番大切な知恵にかけては、世間の人たちの誰よりも、ずっと優れている」人物として素描される。
語る言葉はことごとく、哲学的で詩情に溢れてもいる。魅力的であり、全く別世界の人間に見えてやはり世間一般の常識~パラダイムをはみ出している赤間伝吉が惹かれるのも良く分かる。

森雅之、彼はやはり文学的な雰囲気~面持ちの人である。(有島武郎はわたしの大好きな作家であり、文を読んでいるときの恍惚感は他の作家では味わえないものがある。とても堅牢な文体と構成力に眩暈を感じる)。

原作(勿論訳だが)は軽妙な文体で、するする読んで行ける(行ってしまった)が、映画の方も亀田と赤間の掛け合いが微妙なテンポで面白く、知らず惹き込まれてしまう。内容の重み、と言うか純度は途方もないが、観易い流れではある。
舞台は昭和20年代の札幌。異国情緒があり、何だかロシアっぽい。
特に赤間伝吉のアジトなど、かなり無国籍的で禍々しい魅力が漂っている。
「ぼくはね、君の家がこんな風だろうと思っていたよ」赤間の内面も見透かすような亀田欽司の洞察力は半端ではない。

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白く深い雪のなかでの純粋な狂気とその崩壊の物語である。

主要登場人物は皆、狂気の人である。いや、目をしている。
目が違う。
那須妙子の目、亀田欽司の目、赤間伝吉の目、大野綾子の目、、、その眼差しの力。
運命に対する途轍もない怒りに充ちた眼差し、自我から外れた純粋な洞察を湛える静かな眼差し、親の呪縛に対する激しい反発と自己主張にぎらつく眼差し、頑なに純粋さを求める半面の猜疑心による攻撃的な眼差し、、、
皆、尋常ではない。

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この他の目は普通の目とは言えるが。
その目を持つものもかなり強面だ。
大野里子に香山孝子の女性陣である。
正論を翳して襲い掛かる。男たちは皆、タジタジである。
特に八方から終始やられっぱなしは香山睦郎だ。
那須妙子を愛人として囲っていた政治家東畑から60万円の持参金付きで引き取ろうとした身である。
(それでいて大野綾子にもこころを寄せている。この点では亀田欽司の全く裏側に位置する)。
ずっといじけて不貞腐れっぱなしの小心者の目であった。

赤間伝吉は那須妙子に一目ぼれした瞬間が自立の決意と同期したため、まずは是が非でも彼女と結ばれたい。
100万円を用立て、香山睦郎に叩き付ける。
それが那須妙子によって暖炉に放り込まれるが、意に介さず「これが俺たちのやり口だ」と啖呵を切り彼女を連れ立ってゆく。
男では彼のみがひたすら強気で衝動的で、きな臭い。

それにしても「東京物語」の奥ゆかしい東山千栄子の見る影もない。
もっとも、大野里子は最終的に(本質的に)娘同様、亀田欽司という存在の尊さを認識している。

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亀田欽司の語ることが確信を突きすぎていて、その本質力から誰も異論は出しようがないのだが、那須妙子と大野綾子両者の純粋さと素晴らしさを認め、両者を好きだと公言してしまったうえで、どうするかという世間的な配慮など元より計算などない。
彼の本質を見抜いてしまい那須妙子と大野綾子も彼を心から愛してしまう。
だがそれが単純な取り合いにはならない。
那須妙子は彼の人生を自分のために台無しにはしたくない一心で、大野綾子と結婚させたいと願う。
それが余計に大野綾子の癇に障る。

そこに深く絡む赤間伝吉とそうした流れを理解しつつ世間体も考え口を挟む大野里子。
嫌われながらも当てつけで大野綾子に時折利用されつつ最後まで周辺に漂う香山睦郎。
それを激しく叱咤する妹の香山孝子。
亀田欽司に共感し好意を寄せるメッセンジャーボーイの香山薫。
彼らの動きから只ならぬ波紋は広がる。

夜の雪まつりの光景がまた禍々しく、そこに立つデーモン雪像が一際象徴的に見えた。
那須妙子と大野綾子のギリギリの対決を経て二人の共存の不可能性を感じ取った赤間伝吉は那須妙子を手にかけた。
亀田欽司と赤間伝吉は自らの精神を支えきれずに崩壊し精神病院に入る。

「そう!あの人の様に 人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら、、、
私、、、私、なんて馬鹿だったんだろう、、、白痴だったの、わたしだわ!」
大野綾子の最後の言葉で締めくくられる。



七人の侍

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1954年

黒澤明 監督
黒澤明、橋本忍、小国英雄 脚本
中井朝一 撮影
松山崇 美術
早坂文雄 音楽

三船敏郎 、、、菊千代(孤児の自称侍)
志村喬 、、、島田勘兵衛(智将)
加東大介 、、、七郎次(勘兵衛の元家臣)
木村功 、、、岡本勝四郎(郷士の末子、志乃と惹かれ合う)
稲葉義男 、、、片山五郎兵衛(勘兵衛の参謀)
千秋実 、、、林田平八(ムードメーカーの浪人)
宮口精二 、、、久蔵(凄腕の剣客)
土屋嘉男 、、、利吉(侍を集め世話役をする若い百姓)
津島恵子 、、、志乃(万造の娘)
藤原釜足 、、、万造(娘の髪を切り男装させる)
小杉義男 、、、茂助(防衛線の外に家を持つ百姓)
左卜全 、、、与平(中年の百姓、菊千代に目をかけられる)


これほど短い207分を味わうことはまずない。
見始めたかと思ったら、映画時間に吸い込まれ終わった後に時間の経過を知った。
観ている自分をこの間ほとんど意識しなかったため、こちら側での時間感覚はないに等しい。
(わたしは向こう側に飛んでいた)。
この比類ない直截的な臨場感はどこから来るのか。
脚本、演出・美術、撮影、役者の存在感と演技力、音楽どれもが優れたものであるからだろうが、ひとつ具体的に言うと、敵と味方をはっきり分断して描くことを徹底している点にあると思う。
敵は名のない野武士=エイリアンであり。
こちらの感情を傭兵と百姓との葛藤と協調そして一枚岩になるまでの過程に釘付けする。
これが本当に起伏があり濃密な活き活きした流れなのだ。
もし敵側にも個々の名のある個性があってその描写にシーンが行ったり来たりと飛んでいたら、われわれの視座が非常に揺らいで定まらない超越的なものにならざる負えない。恐らく抽象的な視座から距離が生まれ、相当現実味が削がれたはず。
この自然さ~質は現実体験に限りなく近い。
であるからその時間流に一体化してしまうのだ。

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この稠密な時空間は寧ろ夢に似たものかも知れない。
始まりは野武士に村を根こそぎ荒らされもうどうにもならなくなった百姓の苦悩とそこからひねり出された苦肉の策を巡り、村人に共振しつつ寄り添う。何とか侍が7人集まり村に到着してからは、徐々に百姓の強かさ狡賢さも露呈して来る(落ち武者狩りの戦利品を隠し持っていたり、食料も巧妙に貯蔵している)。逆に侍たちの身分~権威を純粋にリーダーシップにのみ発揮した高潔な姿勢に徐々に彼らに対する共感が増してゆく。元々村を野武士から守る間に食料を保証するだけの条件であり、西部劇のヒーローではまず引き受けない内容である。
彼らの献身的な働きで武装した百姓も様になり村は統制された要塞と化してゆく(防衛線の外の家は捨てられ、これを泣く泣く納得した時点で完全に一丸となる)。
侍たちを統率する島田勘兵衛の村の地形から的確に割り出した戦略がことごとく功を奏する知略ぶりとそれぞれ剣術に長けた侍が自分の持ち味を生かしつつチームプレイに徹するところは見事というしかない。そして智将島田とは正反対の無軌道かつ衝動的な爆発力で暴れ回る菊千代が、彼ら侍~百姓陣営に危険(不安)と活力(笑い)を呼び込みダイナミズムを生む。
大きく激しい緩急のなか、確実に戦果は挙げてゆくが、鉄砲に撃たれ侍がひとりまたひとりと死んでゆくと、こちらの胸も痛むほどに侍たちの方に共振を深めていた。
まさにこれらの動きが素早く交錯し気象も彼らの心象風景となって破れ目のない絵として展開し息もつかせぬ夢の時間を生きている。

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そして秀逸なのは、全ての決着のつく頃に大雨が降り出すのだ。
若い岡本勝四郎が尊敬の念を率直に伝えた凄腕の剣客久蔵と菊千代が鉄砲に相次いであえなく倒れ、激高した彼が「野武士はおらんか!」と叫んだ時には、すでに敵は誰も残っていなかった。
この雨がこれまでの非常に濃厚で分厚い時間を何もなかったかのように呆気なく押し流してしまう。
晴れて眩しい翌日、百姓たちは快活に歌と踊りを交えて一心不乱に稲を植えはじめ、その響きは空に木霊する勢いであった。
生き残った島田とその元家臣の七郎次と岡本の三人が立ち去ろうとしても関心を払う者もいない。
岡本と愛し合った情熱的な娘、志乃も一瞥して直ぐに田植えに入って歌を高らかに唄う。
侍は再び浪人として用無しの身となった。
「また戦いに負けた。勝ったのは百姓たちじゃ」呆然として島田が呟く。

確かに百姓たちは勝ち誇った生気が滾る顔をしていた。
こうした逆転もあるのだ。
夢から覚めるときの感覚にも似て。

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アイ、トーニャ

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I, Tonya
2017年
アメリカ

クレイグ・ガレスピー監督
スティーヴン・ロジャース脚本

マーゴット・ロビー 、、、トーニャ・ハーディング、製作
アリソン・ジャネイ 、、、ヴォナ・ハーディング(母)
セバスチャン・スタン 、、、ジェフ・ギルーリー(夫)
ジュリアンヌ・ニコルソン 、、、ダイアン・ローリンソン
ボビー・カナヴェイル 、、、マーティン・マドックス
ポール・ウォルター・ハウザー 、、、ショーン・エッカート(夫の悪友)
ボヤナ・ノヴァコヴィッチ 、、、ドディ・ティーチマン
ケイトリン・カーヴァー 、、、ナンシー・ケリガン
マッケナ・グレイス 、、、トーニャ・ハーディング(少女時代)


ナンシー・ケリガン襲撃事件というのは、記憶にある。
わたしもフィギュアファンであったから、当時テレビで観た。
まだカタリナ・ビットも活躍していたころだ。わたしは大のカタリナ・ビットファンであった。

はっきり言って、トーニャ・ハーディングには全く興味がなかったので、フ~ンと思ったくらいである。
(ただ、スポーツ競技において余りに露骨で下劣な行為だなとは感じた、、、スポーツでなくてもそうだが)。
その彼女の人間像に迫るといってもそれほど乗り気で観たわけではないのだが、、、

主役のマーゴット・ロビーの熱演にグイグイ惹き込まれてしまった。
彼女は製作にも関わっており、何を描きたいのかの芯もしっかり感じ取れた。思い入れがたっぷり籠った感じだ。
充分彼女の造形するトーニャ像には共感する。
そしてアリソン・ジャネイ演じる冷酷非道な母像の破壊力と共に見応えある作品に仕上がっていた。


まさに親子関係が作る成育環境は、その後の長い人生を支配し続ける蟻地獄ともなるものだ。
非常に横暴で挑発的な態度で娘に愛情の替わりに暴力と暴言しかかけない母に支配された(父はそれに耐えられずに家を出て行った)家庭環境で、トーニャは母のウエイトレスのバイトで得た費用でスケートレッスンに明け暮れる。
勉強もろくにやらせてもらえず、不可避的にスケートしか知らない人生となる。
トーニャ自身、幼くしてスケートに憧れたこともあり、母としては彼女のやりたいことを暴力的だが支援したというかたちでもあろうか。

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所謂、トーニャに関しては愛着障害以外のなにものでもない。
そして同様の障害を持った仲間を必然的に呼び寄せ、固着関係が出来てどうにもならない形で転がって行く。
打開しようともがくほど、悪い方向に膨らみ悪循環となる構図が窺える。
ことごとく、そういうものだ。
DV夫といい、彼の誇大妄想の虚言癖の友人といい、その友人の訳の分からぬ手下(この連中が実際にナンシー・ケリガンの膝を殴打する)などと腐れ縁となってゆく。どうにも断ち切れない。彼女自ら頼ってしまいもする。

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この映画で、トーニャを終始悩ませ続けるのが、アーティスティック・インプレッションである。
芸術点と言ってもそこは多分に「アメリカの良き家族像に訴えるような」(審査員がオフレコで彼女に答えた)ものである必要があった。多分に権威主義で偏狭な価値観に支配されている面は否めない。
トーニャのようにクラシックではなくZZトップのヒットチューンをバックに豪快にトリプルアクセルにかける滑り方は、審査員~スケート協会に喧嘩を売っているような挑戦的なものに映ったようだ。
彼女に浴びせかけられる批判は、スケートは技術だけじゃないんだ!という類のものに集約される。
しかしこれは聞こえは良いが、ある理想的なお上品な階級に迎合するスタイルで滑れよ、という排他的(権威主義的)メッセージにしか受け散れない。

I, Tonya003

そこに持ってきて、誇大妄想狂の虚言癖のあるジェフの悪友ショーンの余計なお節介と謂うより、ボディーガード気取りの迷惑至極なナンシー・ケリガン殴打事件が突然引き起こされる。元はと謂えばショーンがトーニャにスケートの試合に出られなくなるような脅迫状を送ったのがきっかけである。ショーンの稚拙な姦計にはまり、ジェフもケリガンを脅迫状で脅すことには乗り気でいたが(トーニャはどうでもよい噺で相手にもしてなかったが)実際にやったことはケリガンの膝を殴打し負傷させる犯罪であった。これはジェフとトーニャにとっては寝耳に水であるにせよ後の祭りで、余りにお粗末な犯行のため直ぐにショーンは捕まり、彼はジェフが首謀者でその計画はトーニャも知っていたと警察に騙ってしまう。

女子で初めてトリプルアクセルに成功し全米で持て囃された矢先に、天国から地獄である。
誰もがその襲撃事件にトーニャが関わっていることを信じ期待した。
彼女の言うように、みんなはヒールを作りたがっているのだ。
ヒールに誰かを仕立て上げて、それをみんなで叩き優越感と爽快感を得たいのだ。
彼女は以前から問題行動(スケート協会にそぐわぬスタイル)をとっていたために格好の餌食であった。

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マーゴット・ロビーの体当たりの名演もあり、あそこまで追い込まれ叩かれる彼女に対し同情は禁じ得ない。
夫やその悪友やその手下など、とんでもない取り巻きにいつも邪魔される不遇もそうだが、とりわけ彼女が何度も和解を試みた母に再三再四にわたり残酷な形で撥ねつけられ絶望する姿には深く感じ入るところであった。
母親の愛を何とか得たい一心で頑張って来ているのに全く受け入れられず、遂に身近な取り巻きたちの引き起こした身勝手極まりない犯罪のお陰で唯一の取柄(本人の語るところ)であるスケートも取り上げられてしまう。
スケート協会から除名され、試合に限らずすべてのスケート競技の出場権は剥奪となる。
わたしは学歴も何もないのにこれからどうしろというのよ、ということでヒールとして人々の前に身を晒て稼ぐ格闘技のリングに上がる。わたしは暴力には慣れっこだから、、、である。

それが、”I, Tonya”、、、なのか。

I, Tonya006

潔い生き方ではあるが、その前に、、、
現在の自分を形作ってしまった全ての要因に見切りをつけ排除・切断し、余計な未練や一抹の希望(幻想)など抱かぬことである。
独りになれば見えてくるものが必ずあるはず。惰性的な依存関係が人を破滅に導く一例でもある。

マッケナ・グレイスの少女時代のトーニャの存在感も圧倒的なものであった。
(凄い子役である)。
アリソン・ジャネイ最凶の毒母をクールに演じ切っていた。お見事というしかない。
彼女に些かも反省の念がないのもそれが彼女にとっての愛であったからだ。
永遠に平行線を行く親子というのは、はっきりとある。
(わたしも場合も同様に)。


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ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男

Darkest Hour001

Darkest Hour
2017年
イギリス

ジョー・ライト監督
アンソニー・マクカーテン脚本
辻一弘 特殊メーキャップ
ダリオ・マリアネッリ 音楽

ゲイリー・オールドマン 、、、ウィンストン・チャーチル
クリスティン・スコット・トーマス 、、、クレメンティーン・チャーチル(妻)
リリー・ジェームズ 、、、エリザベス・レイトン(秘書)
スティーヴン・ディレイン 、、、ハリファックス子爵
ロナルド・ピックアップ 、、、ネヴィル・チェンバレン
ベン・メンデルソーン 、、、国王ジョージ6世


非常に説明的な邦題である。判り易いが味気ない。

ゲイリー・オールドマンが跡形もなくウィンストン・チャーチルになっていた。
大変な特殊メーキャップ技術だ。
顔だけでなく体形~シルエットや姿勢や仕草など全体の動きまで研究し尽くして臨んだことが実感できる。
凄まじい役作りだが、余裕を感じさせるところが、ゲイリー・オールドマン。
勿論、外観だけではないことは、言うまでもない。
そこは、ゲイリー・オールドマンなので、実に繊細に大胆に怪演している。いや軽妙で機知に富んだ好演であった。
きっとウィンストン・チャーチルとは、こういう人なのだろうと納得してしまうような。
それは、「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥールみたいに、本人よりも似ていたかも知れない(笑。
愉しみながらやっている感じであった。

ダンケルク」を観ていたので、ダンケルクのイギリス軍兵士を救出する困難については、映画を一つ作れるくらいのドラマであることは知っていた。
ダイナモ作戦と民間人パワーの賜物である。ダンケルクからは多くの英兵が奇蹟的に帰還を果たすが、それを支援した”カレー”は殲滅してしまう。戦争の不可避の側面であるか。
戦争内閣で首相に任命されたチャーチルの使命は、徹底抗戦で国民のプライドを守り抜くことであった。
ファシズムに断じて屈しない。
確かにあの文脈では(この映画の流れでは)、それ以外にとるべき道はないだろう。

しかしこの映画を観て、ヒトラーとナチスドイツの底力もひしひしと伝わって来た。
それにほぼ孤立した形で立ち向かうチャーチルの恐怖と不安がどれ程のものであったか。
だが、この選択は閣僚が皆靡いていたイタリア(ムッソリーニ)を介した和平策をとるより圧倒的に正しいものであったことは間違いない。
わざわざ意を決して生まれて初めて地下鉄に独りで乗り込み人々の声を聴いて確信を深めたことだ。
この場面は素直に共感でき感動した。

だが、同時にチャーチルが閣外政治家や終盤の内閣での演説のなかで、もし和平案をとればイギリスはドイツの属国~植民地にされてしまうかも知れないという不安を市井の人々は抱えていると語り、彼ら(派閥を超えて政治家たち)を徹底抗戦に向けて奮い立たせるところでは、素直に共感を持って高揚できない距離感も生じる。
言うまでもないが、大英帝国の植民地政策も尋常ではないものであった。
清に対するアヘン戦争など自然に頭を過ってしまうだろう。
とは言え、、、日本も同等の過ちを過去に犯してはきたと言え、今後このような立場に置かれたら毅然たる態度で臨む以外にない。
今現在、この日常においても、、、
どのようなレベルであろうと、ファシズムは叩き潰すだけである。
ファシズムは徹底的に叩き潰すのみ!

何よりも透明化した何気ない日常に潜在するファシズムに対する感覚は、鋭利にしておく必要がある。



Darkest Hour002
ヒッチコックと間違えそうなゲイリー・オールドマンであった(爆。
貫禄である。
そう、音楽も映像によくマッチしていたことも忘れてはならないところだ。



50回目のファースト・キス

50 001

2018年

福田雄一 監督・脚本

山田孝之、、、弓削大輔(オアフ島のツアーガイド、天文学者)
長澤まさみ、、、藤島瑠衣(記憶障害の女性、美術教師)
ムロツヨシ、、、ウーラ山崎(大輔の親友)
勝矢、、、味方和彦(旅行会社の上司)
太賀、、、藤島慎太郎(瑠衣の弟)
山崎紘菜、、、高頭すみれ(大輔の同僚)
佐藤二朗、、、藤島健太(瑠衣の父)


かなりよく出来たコメディーだと思ったらハリウッド映画のリメイクだった。
それは大ヒット映画であったらしい。
それをあえてリメイクする、、、その意図は、、、

オリジナル映画の方も舞台はハワイで弓削大輔に当たる男性は水族館で獣医師だという。
本作では、彼は天文学の研究のためにハワイに来ている。
わたしとしては、こちらの設定の方がしっくりする。
ハワイは世界で最も宇宙観測に向いた土地でもある。
夜空がフルに活きてきてロマンチックでもある。これはラブコメに最適だ。
どちらもプレイボーイの設定であるが、日本人旅行客相手のツアーガイドで持モテまくっているというのも判り易く無理は特にない。
藤島瑠衣のヒロイン役も双方ともに記憶障害で事故前の記憶はあるが、その後の記憶は一日単位の記憶しか保てず寝て覚めれば、リセットされてしまうのは同じ。それでいつもファーストキッスということになる。そこは物語の根幹であるから変えられない部分だ。
全体に良いアレンジなのではないか?
(オリジナル版までみたいという気はないが)


50 003

毎日新たに愛する人に出逢えるというのは、考えてみれば素敵なものだ。
同じ相手(自分)なのに、その日によって直ぐに惹き合ったり、突っぱねられて相手にされないというのも面白い。
そういうものだと思う。ヒトは非常に複雑で繊細な生き物である。
記憶がリセットされ白紙の状態で同じ相手に出逢っても機械的に同じ反応をすることなどまずないはず。
気象に変化がなくても、その日の様々な状況が身体に及ぼす影響は小さくない。
更に謂えば、何度も何度も逢い続けるなかで、身体性~無意識に浸透する思い・記憶は確実にある。
だから彼女の夢に彼が出て来た。(記憶の場は脳にだけ局限されるものではない)。

50 002

大輔と瑠衣のコミカルな掛け合いも良いアクセントにはなっていたし、脇のギャグ担当の面々も妙な緩さと灰汁の強さが適当な範囲であったと思う。
基本がシリアスな物語であるため、暗く重くならないためにもこのようなユーモアの部分は外せないものであろう。
ただ、独特な面白味であるため、爆笑するようなものではなく、こそばゆい感じでニンマリするところか。
ここはハワイである。こういう明るさはとても環境~景色にもマッチしたものだと思う。
慎太郎のキャラクタだけは少しくどかったが。

なかでも長澤まさみの瑞々しさは際立っていた。
山崎紘菜には、もう少し出番があっても良かった。

50 004

瑠衣の家族が何故、彼女に苦痛を与えまいと同じ日~事故当日に閉じ込め反復を続けるのか。
(外に出ていれば破れ目が生じるのは必然である)。
やはり大輔の試みのようにヴィデオなどで彼女自身の状況をしっかり知らせてゆくことは重要であると考えられる。
更に彼女の一日毎に裁断された経験を編集したヴィデオを毎日更新して見せることが生を重ねてゆく可能性を生むだろう。
自筆の事細かな日記は更に経験の直截性を高める。これも必要不可欠だ。
でなければ、一日のスパンで結婚までの愛~感情を育むことなどまずあり得ない。

ともかく最後に大輔は、天文学の研究の夢を実現するために、別に彼女と別れる必要などないではないか、ということに気づいたことは、正しい(笑。
それは何よりも彼女にとって良いことだ。
こういう病いは常に愛情をもった人間がぴったりと寄り添っていることがもっとも大事なことである。
生が物語を紡いでゆくことなら、線状的な連続性が保証されなければならない。
共にいることがふたりにとって、きっと良い方向に進展して行くはず。
これだけは断言できる。

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何故だか前向きになれる映画であった(爆。


マグダラのマリア

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Mary Magdalene
2018年
アメリカ、イギリス

ガース・デイヴィス監督
ヘレン・エドムンドソン、フィリッパ・ゴスレット脚本
ヨハン・ヨハンソン音楽


ルーニー・マーラ、、、マグダラのマリア
ホアキン・フェニックス 、、、イエス・キリスト
キウェテル・イジョフォー、、、ペトロ
タハール・ラヒム、、、イスカリオテのユダ


わたしにとっては、ベルイマンの映画を観るような感覚で味わえた。
マグダラのマリアは、わたしが学生時代のころは、キリストの教えに目覚めた娼婦という立場であったが、ここでは12使徒と同等の立場であり、彼らの誰よりも覚醒したキリストの教えの第一の体現者の女性であった。
当時の女性でこれほど何から(パラダイムから)も自立してものを捉える感覚を有していた人がいたのだ。
特異な個性と謂える。
何よりルーニー・マーラの目である。純粋で神聖な目である。
これに尽きる。

そしてキリストがやけに人間臭い。
お説教好きの風呂屋の親父と謂ったら言い過ぎだが、他の映画に出てくる見るからに神聖な孤高の超絶感は薄い。
だがとっても人のよさそうな母性本能を擽る雰囲気のキリストである?
特にホアキン・フェニックスである必要性も感じなかったが、こういう肉付けのあるキリストの方がリアルにも感じられる。
奇蹟をおこなっても息切れしていて何だか泥臭い。

一番新鮮であったのがユダの描かれ方だ。
わたしはキリスト教には疎いため知らなかったが、最近はこういう解釈になっているのか。
キリスト関係の映画でこのようにユダを描いているのは、新しいこの作品だけではなかろうか、、、。
純粋で素朴な親近感を持ってしまう男であり、悲劇的な人である。
このユダも余りに人間的なのだ。
ある意味、キリストの神性をもっとも盲目的に信じ切っていた人なのかも知れない。
そして余りにそれに依存し過ぎた。王国が天を割いて降りてくるのを真剣に信じていたのだろう。
それをキリストの超人性が実現してくれるのだと、、、。

結局使徒たち誰もがキリストを利用しようとしていたことには変わりないなかで、マリアだけがキリストの謂う自らのうちに見えない王国を描いていた。
彼女はまず変わらなければならないのは、この外界ではなくわたしなのだということを強調する。
自らが変わることで自ずとここに王国が出現するのだと。

こういった思考形式は、他の使徒には直ちに納得は出来ない。
そしてマリアは独り出てゆく。
マリアにはキリストが見えた。
マリアだけは、実際に復活したキリストに遭うことが出来たのだ。


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エル・グレコによるマグダラのマリア

ヨハン・ヨハンソンの音楽が秀逸であった。

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グッバイ・ゴダール!

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Le Redoutable
2017年
フランス

ミシェル・アザナヴィシウス監督・脚本
アンヌ・ヴィアゼムスキー『それからの彼女』原作

ルイ・ガレル 、、、ジャン=リュック・ゴダール
ステイシー・マーティン 、、、アンヌ・ヴィアゼムスキー(妻)
ベレニス・ベジョ 、、、 ミシェル・ロジエ(親友の妻)
ミーシャ・レスコ 、、、ジャン=ピエール・バンベルジェ
グレゴリー・ガドゥボワ 、、、ミシェル・クルノー


「中国女」の主演を務めたゴダールの二人目の妻アンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝を元にしている。
(最初の妻は、アンナ・カリーナである)。
アンヌ・ヴィアゼムスキーは、母方の祖父は作家のフランソワ・モーリアックであり自身も女優の他に小説家、映画監督でもある。
Anne Wiazemsky
本人、、、つい先ごろ亡くなる。

「サンローラン」のルイ・ガレルがジャン=リュック・ゴダール
かなりの印象を植え付けられた(笑。なりきっていた感じ。
監督は傑作「アーティスト」のミシェル・アザナヴィシウス。

「5月革命」であれだけ労働者に交じりドゴール批判をしてデモに参加しては眼鏡を壊したり、学生たちの革命集会ではケチョンケチョンに貶されてすごすごと退散したり、ジャン=ピエール・ゴランらと「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成してめんどくさい民主主義(匿名性)映画製作をしていたことなどわたしは知らなかった。
トリュフォーらとカンヌ国際映画祭を中止に追い込んだのは小耳に挟んではいたが。
ゴダール監督自身についてはほとんど何も知らない。
知らないからこの映画で観た印象を少しばかり語るにとどめる。
しかし、政治か映画かって、、、映画作ることが不可避的に政治的な行為でもないのか?
(例えばロックにおいて、パンクは極めて政治的行為でもあった)。
これを二項対立の図式にすることもないのでは、、、。

ということで、彼の妻であったアンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝映画で色々面白い逸話が披露されるかと想って見てみた。
ひたすら政治運動に首を突っ込み、理屈を捏ねていたが、あんななかで映画を作っていたのか、、、と感慨深いものはあった。
それから夫婦で何処に行くにも出来る限り一緒に行動し、夫が嫉妬深くうじうじ喧嘩を吹っ掛けてくるなど、思いのほか普通な夫婦生活なのには驚いた。
もっとリベラルな、芸術的で自由な夫婦ではないかと思っていたので、ちょっと暑苦しかった。
アンヌが結構献身的で、ゴダールのよき理解者足らんと努力していたこともよく分かったが、そこは彼女の自伝である。
多少差し引いて見る必要もあるかも。

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アンヌ・ヴィアゼムスキーとはタイプは違うがプロポーションのよい知的でコケティッシュな美女で役にはピッタリフィットであった。

ゴダールが学生との議論ではことごとく言われっぱなしで呑み込んでしまうのも印象的であった。
理論以前に若さに気後れしている感じである。そう若さにコンプレックスを抱いているみたいだ。
35歳(モーツァルトは35で死んだ)より歳をとった芸術家はマヌケだと彼自身独白している。
何を言われようが、彼らの支援者たらんとしていたようだ。

夫婦で手をつないで、デモに参加してはいつも眼鏡を壊す。
監督仲間(映画ファン)には、映画は、ゴダールはもう死んだと謂い、これまでの映画や自分の作品をことごとく否定してみせる。
だが政治集会では、映画監督として存在そのものを糾弾される。コカ・コーラの成れの果てとまで学生に突っ込まれる。
何と言うか、政治と映画の二項対立において前者からは否定され後者を自ら否定し、両者から批判されて抽象的に宙吊り状態で悶々となり妻に時々八つ当たりしているという様子であった。

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こうなるとゴダールの才能の煌めき場面を渇望してしまうが、終始書かれたことや謂われたことにウジウジし妻に慰めてもらっている構図ばかりが目についた。実際、映画を変えたというほどの作品を次々に発表してきたのだから、その辺に纏わる創造の閃きなど製作逸話もないかと思ったのだが、なかった。
どちらかというと、労働者の集会やデモに参加しているのに日常生活(ちょっとした会話)において彼らを見下しているような痛い人に描かれている。

わたしには何で映画監督がこんなことに首を突っ込んでいるのかが理解できないので、距離感を持ってずっと観ていた。
その間、アンヌはゴダールと出会ったことで得た世界観を彼女の視点からさらに的を絞っておし広げているようであった。
ゴダールが映画に戻り、いや本来の自分に戻り、監督として映画を撮って行けばグッバイはなかったかも知れない。
彼女は政治の人というよりも映画の人であったのだ。
少なくとも天才映画監督としてのゴダールを敬愛していたのは確かだろう。
もっとも、ゴダールは、ゴダールであったのだろうが。

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アンヌ・ヴィアゼムスキーは先ごろ亡くなったが、ゴダールは88歳で元気である。



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アンヌ・ヴィアゼムスキー  ステイシー・マーティン

ナチスが愛したフェルメール

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Een echte Vermeer

2016年
オランダ・ベルギー・ルクセンブルク

ルドルフ・バン・デン・ベルグ監督・脚本

ユルン・スピッツエンベルハー、、、ハン・ファン・メーヘレン
リゼ・フェリン、、、ヨーランカ
ルーラント・フェルンハウト、、、テオ


わたしの大好きなフェルメール映画は言うまでもなく「真珠の耳飾りの少女」である。スカーレット・ヨハンソンの最高の仕事に思える。

さて、こちらはフェルメールの贋作画家で金儲けと自己顕示欲と屈折した名誉心(自分を認めなかった美術界への復讐心)を充たそうとしたというハン・ファン・メーヘレンの噺である。
腕は良いそうだが、志と思想に決定的な問題がある。
少なくとも彼は芸術家ではない。
あるはずがない。

こんな男がフェルメールに近づけるはずもない。
だいたい自尊心と名誉心だけで何を描きたいのかも自分で分かっていない。
多くの芸術家は、自分の描きたいものをひたすら描き続けている。
それを描かざるを得ないために死ぬまで描き続ける。
それしかできないからそうするだけだ。

幸運にも生きている間に認められる画家もいれば、200年後に発見される画家やそのまま忘れ去られるヒトも数多い。
そういうものだ。
だが、それを気にする画家は実は少ない。表現自体は自己完結性を持つ。
自分のなかでよく出来たかどうかは分かるし、尺度も自分のなかにしかない。
逆に外部の評価は大方的外れで、当人にとっては煩わしいだけだ。
時に大々的に認められたことが迷惑でしかないこともある。
勿論食っていくために売れないと困るという面はある。
そのために自分のライフワークと切り離してクライアント用に売り絵を描いたりもする。
だがそれはどうでもよい別の責任に過ぎない(家族のためとか)。
ともかく、画家は自分のやりたいことを知っており、それを如何に描き切るかにかけている。
(勿論、主題はその時々の自分の問題意識に従い変化してゆくにしても)

この男は、まずもって前提となるそれが欠けている。
テクだけあって、それを何に使うかを知らない。
これで人に感銘を与える作品など作れようか。
修復師だって無理なはず。


そもそも若いうちに賞を得たりして認められているではないか。
その力量を活かし自分の描くべきものを探りその制作を弛まずに続けてゆくのが本来のはず。
何を捻くれてああなったのか。変な姦計を巡らしフェルメールの空白期に描いた絵だなんて、、、よくそんなでっち上げが通ったものである。
ヨーランカの夫である評論家でハンのパトロンにもなりそうだった男が彼を酷評したのは、妻にちょっかいを出された嫉妬からである。

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それは自業自得だ。それでへこんで酒に溺れてどうする。
たいそうイケメンの役者が悲劇の破滅的な天才画家みたいに熱演するものだから、こちらもついつい同情的に見守ってしまいがちになるが、少し距離を持って冷静に見れば単なるアホである。
政府も反ナチスのプロパガンダ的に利用しているのが見え見えだし、マスコミもその線で動いており、ハン・ファン・メーヘレンが国の宝であるフェルメールの絵をゲーリングに売って海外に流失させたことで国賊呼ばわりし、世間もそれを真に受けて踊らされていたが、一転、全ての絵はハン自身が描いた贋作だとカミングアウトしX線検査などでそれが証明されると、ナチスを愚弄した国の英雄扱いをし、絵をナチスに売った件では無罪、詐欺罪として懲役1年の求刑でおさまるのには呆気にとられる。
しかし、絵を売った金は返すことになる。
ハンにとってはフェルメールと同じ絵なのに何故、わたしの描いたものには値が付かないのかと、、、。
この失意・落胆とアルコール中毒が祟ったのか、実は恩赦が言い渡されるはずであったそうだが、それも待たずに彼は死去する。

わたしにはどう見てもそれがフェルメールには到底見えないが、それとは関係ない彼の絵として最初から発表していればそれなりの評価は得られていただろう。実際に美術館に彼の名で今では作品が飾られているそうだし。ほかの画家も、彼が目の敵にしていたピカソのように前衛画家ばかりではない。バルチュスみたいな古典的な(宗教的)画家もいて崇拝されていた。
ハンも時代に取り残された分けではない。自分のやるべきことを(贋作ではなく)成せばよいのだ。それを好む人は何処かにいる。
何をか勘違いした腕だけある絵描きのドタバタ劇であった。

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ヨーランカという女性~ミューズは単に思わせぶりなオマケみたいなものだった。
(画家たちの近辺には必ずこうしたミューズは現れるようだが、キキは特に有名である。絵描きであり同時に自身がそれでもあったのがタマラ・ド・レンピッカである。蛇足であるが)。


ビューティフル・デイ

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You Were Never Really Here
2017年
アメリカ・イギリス・フランス

リン・ラムジー監督・脚本
ジョナサン・エイムズ『ビューティフル・デイ』原作
ジョニー・グリーンウッド音楽

ホアキン・フェニックス 、、、ジョー(退役軍人元FBI、行方不明者捜索業)
ジュディス・ロバーツ 、、、ジョーの母
エカテリーナ・サムソノフ 、、、ニーナ・ヴォット(アルバート州上院議員の攫われた娘)
ジョン・ドーマン 、、、ジョン・マクリアリー(闇の仕事の仲介役)
アレックス・マネット 、、、アルバート・ヴォット州上院議員
ダンテ・ペレイラ=オルソン 、、、少年時代のジョー
アレッサンドロ・ニヴォラ 、、、ウィリアムズ州知事


音楽がレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドである。加えて主人公がホアキン・フェニックスとくれば、まともな映画ではなかろうと、察しはつく。
”You Were Never Really Here”
という感じで常にトラウマを引きずり、PTSDに悩まされる。
少年時代のジョーは相当酷い虐待にあっていたようだ。
それを覆い隠すようなカウントダウンが麻酔のように何度も覆い被さってゆく。

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それは、しょっちゅうやって来る。
やはり加圧された状況下が多いか。
非常にビビッドな想念である。
オマケに自殺願望もありその衝動が時折頭をもたげる。ナイフなどもって痛そう。
おしまいの方では、その自殺願望の衝動イメージが余りに鮮烈過ぎて、明らかに現実が侵食されていた。その血飛沫。
こっちまでびっくりしたではないか!

過去の想念が現在に交じり合うが、PTSDなのだから自然である。
実際、強烈な文脈が現在の時間系をふいに侵食するのだ。
時に、それが現実なのか想念に過ぎないのか区別があやふやになる。
(それは確かにそういうものだ)。
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とは言え、内容的に何があるかというと、、、。
殺人は頻繁に起こるが、特に何があるというわけでもない。
アルバート・ヴォット上院議員は娘を誘拐されたが、どうやらそれが闇の売春組織であることを掴む。
しかし選挙中のため事を表沙汰にしたくない。
そこで凄腕の闇の人探しの専門家ジョーの出番となる。
仕事の依頼は仲介役のジョン・マクリアリーから受けた。

手慣れたもので警備についていた男たちを皆殺しにし組織のアジトから手際よく少女を救出する。
父親に引き渡すモーテルで待つなか、当の上院議員が自殺したという報道をTVで観てしまう。
その後モーテルの主人を射殺して押し込んできた警官に少女がジョーの目前で連れ去られる。

どうやら警官もグルになった犯罪組織が動いていることが分かり、ジョーはその真相を確かめにマクリアリーのところに向かうが彼はすでにオフィスで惨殺されていた。危険を感じて直ぐにマクリアリーを彼に紹介したかつての相棒を訪ねるが彼も息子と共に拷問を受けた後、始末されていた。当然、ジョーは自宅に急行する。暴かれた彼の家で、すでに母は殺害された後であった。しかしその犯人はまだ家を立ち去ってはおらず、ジョーは彼らを撃ち殺す。
ジョーは何故か瀕死の倒れた男の隣に横たわり噺を交わす。そしてその男と”I’ve Never Been to Me”を一緒に唄う。
彼はジョーの手を握り目を開けたまま絶命した。、、、死とは何か、、、ここではっきりしているのは、死体のみ。
ジョーは母の遺体を湖に運び沈める。
この辺でこの映画の尋常でないところが感じ取れてくる。
勿論、音楽があってのことだ。

You Were Never Really Here002

彼は孤立したか。
だがまだ一度は助けた少女がいる。

隣で死んだ男の話からウィリアムズ州知事が少女を買っている大本であることを知り、アルバート上院議員もそれに関与しての自殺であることが分かる。
大物のそんな事情は表には到底出すことは出来ないものであった。
ジョーはウィリアムズ州知事の別荘に忍び込み、また手際よく警備を倒し、ウィリアムズを探すが彼は喉を切られて死んでいた。キッチンでは少女が血だらけの手で食事をしていた。そういうことだ。
その少女を再び保護して外のダイナーで朝食をとる。
彼はもう自殺願望が頂点に達し、自分の頭を拳銃で吹き飛ばす。そこにウエイトレスが良い一日をと伝票を笑顔で置いてゆく。
ウエイトレスに血飛沫がかかったはず。
トイレから戻ると少女ニーナは、”It’s a beautiful day”と語りかける。
「確かにいい天気だ」と返すジョー。
ジョーに関係なく世界がニーナと共に進行し始める。
ジョーはそれに乗っかるしかない。
何の希望も当てもなく一緒に何処かにゆくしかないだろう。
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他のクライムサスペンスとは似て非なるものであった。
はっきり言って作品の筋などどうでもよく、世界と自分のずれのもどかしさ、ひりつき、そして死とは、、、その漸近的な接近、、、死への憧れと不安。
そんな存在の不確かさを浮き彫りにしてゆくホアキン・フェニックスであった。


少女がどうにもいまいちであった。
エル・ファニングあたりがやってくれたらよかったのに。
音楽はこの世界のずれ感が良く出ていた。




レディ・バード

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Lady Bird
2017年
アメリカ

グレタ・ガーウィグ監督・脚本

シアーシャ・ローナン 、、、クリスティン・“レディ・バード”・マクファーソン
ローリー・メトカーフ 、、、マリオン・マクファーソン(クリスティンの母)
トレイシー・レッツ 、、、ラリー・マクファーソン(クリスティンの父)
ルーカス・ヘッジズ 、、、ダニー・オニール(クリスティンの最初の彼氏)
ティモテ・シャラメ 、、、カイル・シャイブル(クリスティンの二人目の彼氏、ベーシスト)
ビーニー・フェルドスタイン 、、、ジュリー・ステファンス(クリスティンの親友)
スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン、、、 リバイアッチ神父


ブルックリン」のシアーシャ・ローナンである。「ブルックリン」は良かった。今でも印象が残る。そう彼女は名作「グランド・ブダペスト・ホテル」にも出ている。「ザ・ホスト 美しき侵略者」にも。
他にもいっぱい出ているが(笑。

軽快でテンポのよい、よく出来た青春映画だと思う。
キャストも皆、達者だ。
だが、よくあるよく出来た青春映画に見えて、何か違う。
他の青春映画と比べてもこれといったドラマがある分けではない。
ごくありふれた親や教師、世代間との対立(反抗)や葛藤と、思春期特有の性や疎外感や閉塞感、理想と夢が混然となった、その内容に特に新しさは見出せない。
主人公も生意気で自己主張の強い何処にでもいそうな娘だ。
なのに惹き付けられて最後はお母さんと一緒にジ~ンと来てしまう。

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恐らく時間の進め方の特異な方法論に原因のひとつはあるのだと思う。
わたしは映画が好きではなく、映画の手法にも詳しくないため、よく分からないがこのちょっと違う感覚がこの映画をよく出来た青春映画と差別化しているのではないか。

時制を弄ったり過去~想念と現在を織り交ぜたりする見飽きた手法ではなく、時間を平滑に流して、そして一年後とか一年前とかに接続するのとも異なり、あれ?数日経ってるのかと思うが特に無理のない、ハッとするスキップが繋げてゆく。時間を絶妙な幅でスキップさせて、展開して行くのだ。

特別新鮮とかいうほどのインパクトではないのだが、この映画そのものの意味を支える根幹における形式であろう。
ちょっとした差異なのかも知れないが、肝心なところに思える。

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親が勝手につけた自分の名前が気に食わない彼女は自分をレディ・バードと呼ばせる。
だがこんな街はいやだいやだと嫌いながらも深い愛着を持っていたことに漠然とするクリスティン。
そして自分自身の名前を認め、鬱陶しかった街と、対立していた母とも和解する。
恋愛はどれもすれ違いに終わったが、距離を置いていた親友との絆は深まる。
どれも自分にとってなくてはならない大切なものであったのだ。
大概、それに気づくのは、故郷サクラメントを離れ、外で自分一人になってものを想うときになってからである。
(夏目漱石もロンドンに移って日本論を書いた)。

Lady Bird002

ある意味、外部に身を移すということは有効である。
街と親と離れ独りになることで、その絆~関係性を確認(対象化)するというところか。
わたしもこの映画の流れの中で共感し最後には感動していたのだが、普通の(他の)映画で同様の内容で感動できたかどうかは疑わしい。
この映画特有の魅力がある。
(分析する必要があるかも)。


誰も知らない

NOBODY KNOWS

NOBODY KNOWS
2004年

是枝裕和 監督・脚本・製作

柳楽優弥 、、、明(長男12歳)
北浦愛 、、、京子(長女)
木村飛影 、、、茂(次男)
清水萌々子 、、、ゆき(次女)
韓英恵 、、、紗希(虐めを受けている他所の子、中学生か)
YOU 、、、福島けい子(母)


こんなふうに共同体から見えない形となって抽象的に存在する子はたくさんいる。
見えていてもやはり見えてはいない。
実は全然、見えていない形で存在する。そんなパタンは寧ろありふれている。
それが常態である。
恐らくそういう在り方しかできない。

この父違いの兄弟たちは、母がネグレクトで経済的に大変辛いが、シンパシーを感じ微笑んで親和的に関わってくれる紗希お姉さんがいて、兄弟で寄り添って生きていること自体、それほど酷い境遇ともいえない。

人はせいぜい3歳までにどのように養育されたかで基調が決まる。
彼らは(彼らも)もうとっくに手遅れである。そこはもうどうでもよい。
それ以降の境遇は、さして大きな(決定的な)影響を彼らに与えるほどのものではない。
この少年期前半に是非ともやっておかなければ手遅れなのは、音楽と数学くらいのものだろう。
京子のピアニストはもう不可能であるが、それ以外のことでは、他の人より始めるのが遅かろうが、大差はない。
これから先の本人の努力次第か。
早晩、彼らは社会~法的に見出され、保護教育を施設で受けることになろうし、社会人として陶冶されていくことだろう。

紗希の存在が大変大きいと思う。
このような他者が上からでも下からでもなく、溶け込むように入ってくれていることが彼らの救済になっていることは確か。
彼らを統率する長男の明の支えはやはり紗希である。
普通(多くは)、このような存在には恵まれず、ぎりぎりまで孤立を深めていった先に内部崩壊となるだろう。
もっとも、ここでも一番の弱者であるゆきが犠牲となった。
こうしたことは充分にあり得る。

実際、我々は周囲の誰に対しても何も見えてなどいない。
ある対象に対する自分の感じ、考えを抱いているに過ぎない。
それはその対象そのものとは何の関係もない自分の想念である。
さして関心もない対象に対して、一体何が分かるというのか。
色々な面において零れ落ちてしまって、戸惑いつつどうにもならないで表情を殺して生きている子供はいる。
一番下の茂などは、大した苦労も不自由や不足も感じず、結構面白おかしく生きている。
そんなものでもある。

であるから余計にそれが読み込める人間はそうはいない。
ここでは紗希がふっと共感して(直覚して)中に~まるで新たな兄弟みたいに~入って来た。
この、外部から入って来ることがきっと重要なのだ。
理解したり導いたりするのではなく。如何なる権力の介在もなく。
それまでは、実の母から存在自体を消し去られていたも同然で、外の目を避けて籠って生きて来た子供たちである。
これから何かの機関に捕まって保護を受けるにせよ、紗希以上に寄り添うケアはまず不可能だ。


ともかく長い映画であった。
長さをホントに感じた。
BSで入っていたが、観終わると同時に消した。
これを二度見ることなど、まずない。





プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

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