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ジョン・ウェットンに捧ぐ 土曜日の本

John Wetton001

ジョン・ウェットンが2017年1月31日に亡くなった。
癌であった。
何とも言えない虚脱感に襲われ、それを記事に書こうなどという気持ちは微塵もなかった。
わたしにとってジョン・ウェットンは、キング・クリムゾンがもっともそれらしかった第2期を支える柱である。
彼の死によって、確実にひとつの時代がプッツリと終わった。

カール・パーマーはここのところ、連続して追悼の意を発表し続ける立場である、、、。
(このあまりに重い連続追悼を彼はどう捉えているのだろう、、、彼もさすがにキツかろう)。
キース・エマーソン、、、グレッグ・レイク、、、ジョン・ウェットン、、、考えてみると恐るべき才能の消滅だ。
(彼らは、まさに才能と技量のみで生きていたことを確認する。変な付加価値は必要としない)。
今日、何気なく、エイジアのファースト(1982年)を聴いて、楽観的でポップな気分に浸ったためか、少しだけジョンのことを書いてみたくなった。

わたしは、あまりクリムゾン以外の彼に興味はなく(ファンの風上にもおけないが)他の音源はあまり聴いていない。
だが、彼のインパクトがわたしにとって絶大であることは間違いない。
クリムゾン二期が余りに絶対なのだ。

かのロバート・フリップをして「彼はわたしのヒーローである」と言わしめた男である。
それにしてもどのような文脈でこれをフリップが言ったのか、さっぱり覚えてはいない。
何にしてもロバート・フリップに尊敬されるようなヒトはまず、そうはいまい。


クリムゾン以外でわたしが彼を聴いたものは、ないわけではない。
だが、やはり創造の水準が異なりすぎる。
有り得ない強度~微分的な演奏によって生成と解体の間を行き来するクリムゾンの世界は驚異であり別格なのである。
他のアーティストのものは、いくら緻密に複雑に構成されていたとしても程よい計算のレベルに想える。

とは言え、彼の参加した優れたユニットを強いてあげれば、UKか。
確かに、ありえない程の布陣であった。

ジョン・ウェットン 、、、vocal/bass guitar/moog pedal bass
ビル・ブラッフォード、、、 drums/percussion
エディ・ジョブソン、、、 organ/CP-80/CS-80/minimoog/electric violin/backing vocal
アラン・ホールズワース、、、 guitar/backing vocal

スーパーグループであり、この強烈な個性から持つはずはないと思った。
勿論、出た瞬間に購入した(笑。
直ぐに空中分解すると思っていたし、、、。

最初から分かっていたとは言え、予想を上回る凄まじい演奏であるが、尺の長くてテンションのやたらと高い曲にリスナーはついて行けなくなる。そのため、セールスは伸びなかった。それがわたしにも予感できた。
フリーキーなハイテクジャズロックより更に凄いものであったが、時代は違うものを求めていた。
斯く言うわたしも、その芸術性の高い造り込まれたサウンドに引込まれはしたが、彼らメンバーの名前で聴いていたふしはある。
極めて高い水準で作られたコンテンポラリーミュージックであったが、この方向性は直ぐに途絶える。


それからジョン・ウェットンが音楽ファンの誰にも広く認知された商業的にも大成功を果たしたエイジア。
売れ線は一切聞かないつもりのわたしも、さすがにこのグループのファーストは聴いた。

ジェフ・ダウンズ 、、、 Keyboard (元バグルス、イエス)
ジョン・ウェットン 、、、 vocal/bass guitar/moog pedal bass (元キング・クリムゾン、UK)
スティーヴ・ハウ 、、、 guitar (元イエス)
カール・パーマー 、、、 drums/percussion (元ELP)

ジェフ・ダウンズの役割(主導権)が大きい印象があり、エイジアはやたらとポップであった。
正直、戸惑った。バグルスを重厚にスケールアップさせたようなサウンドに思えた。
ジョン・ウェットンのボーカルは美しく、ベースも相変わらずアグレッシブであり、作曲にも携わっているのだが、、、
UKにまだ残っていた作家性や芸術家気質は抑えられているようであった。
彼の新しいポップで爽やかで明るい局面を覗いた気分であった。
とてもある意味キャッチーで短いポップチューンでアルバムは構成されていた。
どれもシングルカットでヒットを狙えそうなものばかり。
確実に、アルバム一面で一曲(ともかく長く複雑な曲構造)というプログレ時代からの脱却であり、それを求めるヒトがこのサウンドを待っていたのだ。時代に迎え入れられたに違いない。

しかしどこかわたしには寂しい感触が残った。
それまでの深淵から響いてくる知的な翳りに染まったジョン・ウェットン節は影を潜めてしまう。
例えば、在り来りな曲を書くことでみんなから辟易されていたユーライア・ヒープに短期間在籍した時も、彼の書いた曲だけ飛び抜けて重厚で美しく変幻するメロディーをもち、際立っていた。当然アルバム全体のリズムが格段にレベルアップしていることも素人にも明白であった。ジョン・ウェットンが少しでも絡んだユニットは確実にそれまでにない荘厳な響きを纏ってきた。
彼のベース、魅惑的なボーカルも他にないものだが、わたしは彼のもっとも特筆すべき才能は作曲にあると思う。

しかし、彼はこの「エイジア」の方向性がとても気に入っていたようだ。
あくまでもエイジアの活動を主体にして、他にも色々なプロジェクトに参加はしていた。
ジェフ・ダウンズとの曲作り、も含めこのふたりがグループの中心であることは、明白である。

ここでは、ソロでいくらでも目立てるヒトが、皆抑制を効かせて、短くタイトなポップチューンをまとめることに専心している。
とは言え元々ポップ路線のバンドでは、こんなアレンジとダイナミックな演奏など、まず無理であることが分かる。
超絶技巧のミュージシャンが、ソロプレイを封印してポップな曲作りに専念した結果のカラフル(複雑)で前向き(そうまさにそれだ)なサウンドを提供している、と言える。
しかしこのグループもぶつかり合いは激しく、メンバーも安定せず、ついに主要メンバーのジョン・ウェットンも永久に抜けてしまった。
それでも元イエスのメンバーの補充で(わたしはその人を知らない)今後もグループは続行するそうである。
しかし、ジェフ・ダウンズの受けた喪失感はやはりとても大きいようだ。

「彼の作曲はこの世のものとは思えなかったし、彼のメロディとハーモニーも現実のものと思えなかった。彼は文字通り『特別な人』だったんだよ。」


これまで二期のクリムゾン(太陽と戦慄、暗黒の世界、レッド)を定期的に聴いていたのだが、、、。
そうしないと、感覚が麻痺してしまう。
このギリギリの神秘的ですらある創造のパフォーマンスの一角が欠けてしまった事実~空虚は思いの他大きい。
暫くは聴けそうもない。
ボーカルである分、尚更響く。

一期のクリムゾンのボーカルは、グレッグ・レイクである。
エピタフが更に現実味を帯びている今日、、、。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


でも、「土曜日の本」は、聴きたくなった、、、。
この曲と「堕天使」。
改めて、、、。

John Wetton002

戸嶋 靖昌 ~ リアリズムとは何か

Toshima Yasumasa004

1934年 – 2006年7月20日

戸嶋 靖昌というひとは、徹底してリアリズムを追求したひとであると思う。


リアリズムとは、何か?
リアリズムとは、いやリアルとは時空を超える出現である。

それは現れるべき場所に自ずと現れる。
はっきりそれと分かる本質である。
彼の絵を見てそれを知った。

Toshima Yasumasa003

「肉体は朽ち果てるものであって、本質的には存在していない。腐ってゆく過程こそが肉体なのだ。だから愛情がなければそれを見つめることはできない。」


このことばなのだ。
わたしは、自分の恐れを自覚した。自分の分裂的内向を。
肉体的時間性を超える「ことば」を追求している当人が、肉体~現象に足をとられていてよいのか、、、。
腐ってゆく過程を観ることのできる眼差しこそが、愛情なのだ。
無に帰してゆくその場所(存在)に畳み込まれて晶結していたすべての時間が振りほどけてゆく、、、
それを真正面から見据えることこそ。
「コッポラの胡蝶の夢」のドミニク・マテイは、研究を最後の最後に愛情のために断念したように見えて、元々研究も愛情においても中途半端で自らのうちでも引き裂かれていた。彼は真に対象に対して身を晒していない。その結果の必然的な挫折に過ぎなかった。

それがよく分かる戸嶋 靖昌の絵であり、ことばだ。


形を忠実に模する絵は散々見てきているし、わたしも無自覚にやってきた。
「それは偽りの魂を描いてしまう危うさがある。」(偽りの愛でもあろう)。
それは、彼の絵を見れば瞭然である。
「本質そのもの~魂」とは何か。
そのことばを形象化すると、この絵以外のものにはならない。
それだけ明白なのだ。


腐ってゆく過程を腐りゆく生命の哀しみを、生命が消えてゆく瞬間を、凝視する。
戸嶋 靖昌によれば、それこそが愛情なのであり、それによってはじめて「対象が持つ全ての時間~思想」が絵として立ち現れる。

だから彼は人体に拘った。
「人体そのものの描写は、19世紀でモチーフとしては終わっている。しかし何故、取り組んでいるかと言えば、人体のなかに生きるものに共通する力があったからだ。」

Toshima Yasumasa001


何というべきか、それは(ミケランジェロの)彫刻と見紛う強度をもつ絵である。
実際彼は彫刻を学んでいる。
そのことは技法(方法)的に小さくない。
そして彼の尊敬するベラスケスの絵とスペイン・グラナダの生活に密接し人々に染み込んだキリスト教に浸る25年。
彼のモデルは、ほとんど酒場で知り合ったアル中の男だったり、近所の世話になったご婦人などであった。
「ミゲール(アル中の男性モデル)は、奥底に無類のエレガンスをもっている。彼は無だから、全てでもある。」

Toshima Yasumasa002


彼は生前、作品をほとんど手放さなかったという。

今は、半蔵門にある「戸嶋靖昌記念館」*でそのほぼ全貌を観ることができるようだ。

                                 *要予約。03-3511-8162


秘密基地

himitsukichi.jpg

長女が近頃、しきりに「秘密基地」が欲しいという。
自分だけが鍵を掛けて出入り出来る場所がどうしても欲しいのだそうだ。
自分の部屋ではダメなのだ。
謂わば、秘密の活動拠点が必要となっているらしい。

しかし、その構築に関してわたしに相談してくるのだから、余り秘密に拘っているようでもない。
どうやら、場所~位置は知られていても、自分以外の人間の出入りが自分ひとりの裁量で決定できる空間が欲しいようなのである。
具体的には、鍵の掛かる部屋らしくない部屋なのだ。

聞くだけでワクワクするではないか、、、。
わたしも子供時代そういうのが欲しかった。
わたしの場合、近くの空き地の鉄骨の捨ててあるような場所を友達と一緒に基地と見立てて遊んだことはある。
だが、基地と呼ぶには程遠かった。
充分、象徴性はあって、ある意味役目は果たしてはいたのだが、、、。
その当時、庭で作った「かまくら」の方がそれらしかったのを今でも覚えている。
(今でも秘密基地的な空間は欲しい。それは所謂「部屋」ではないのだ)。
ニトリのCMで確かあった、、、大人向け「ニトリでつくる憧れの秘密基地」というの(笑。
そこでのコンセプトはあくまでも個人の嗜好に特化した包み込むような空間という感じであったが、、、。


長女との密談では、わたしの提案で、書庫の2階を利用することに傾いた(まだ決定ではない)。
それを話しながら、彼女は眠くなって寝てしまった、、、。
これから継続審議である。

さて、どうするか、であるが、どうもこうも、場所など何処にもないのだ(笑。
どの部屋もただの普通の空間以外に使えそうもないことは明らかであるし、階段下倉庫やウォークインクローゼットなど、もう隙間もない。押入れもダメ。とくればもうそこしかなかった。

わたしが昔、描いていたかなりの数の絵のカンバスを整理すれば場所は空くのだ。
ただ、そこに登る階段を大分前にわたしが外してしまっており、いまや忍者でなければ上に登れないようになっている。
今回長女のおねだりは、その問題に、改めて直面する機会となった。

適当な梯子があれば、上り下りは彼女がうまくやることだろう。
彼女はジャングルジム系が得意で、高いところに登るのも好きだ。
高いところがからきしダメな次女との階級闘争が明らかにかかっているこの基地問題は、この点でも合意が得られると思われる。

朝起きたら、その線で改めて確認してみよう。
まさか、起きたら何のことやら忘れてたなどということはあるまいな、、、と少し心配なのだが。

「秘密基地」は「廃墟」とはまた異なる、妙に濃密に畳み込まれた自分だけの息苦しさすら覚える魅惑的な記憶に向けて開かれている。その記憶内容は、しかし「まっさら」である。秘密基地なんて実際にはなかった(ないのだ)から、、、。
だが、本当に作ってみたいという思いはある。

そうしたらどうであろうか、、、?


そういえば、少し前、女子美の学生が公園に作って置いた鳥小屋を拡大したような木の小屋をとても気に入って遊んでいたのを思い出した。
あれは、休憩室でもただの遊具でも廃墟でもない、秘密基地に違いなかった、、、。





北ホテル

HOTEL DU NORD001

HOTEL DU NORD
1949年
フランス

マルセル・カルネ監督・脚本
「天井桟敷の人々」には圧倒された。それからみるとこじんまりとした感はあるが、味わい深い作品である。


ジャン=ピエール・オーモン 、、、ピエール(売れない画家)
アナベラ、、、ルネ(孤児の寄る辺ない娘)
ルイ・ジューヴェ 、、、エドモンド(謎の男)
アルレッティ、、、レイモンド(エドモンドの情婦)

HOTEL DU NORD003


パリのサン・マルタン運河のほとりに建つ北ホテルが舞台。
小さな庶民のためのホテルである。水門が近くにあり、街並みにしても古くてパリのひとつの姿を垣間見せている。
丁度、ホテルの主人夫婦が娘の初聖体を祝うパーティで賑わっていた時だ。
16号室の客ピエールと恋人ルネが心中を図った。生きることに疲れ死に魅せられたカップルである。
ルネは相手の男に撃たれたが、その音を聞きつけドアを破って駆け付けたエドモンによって病院に素早く搬送される。
エドモンは何故かピエールを警察には突き出さず、逃がしてしまう。
ルネは急所は外れていたためか、回復は思いのほか早かった。
ピエールは、結局死ねず警察に自首する。
そこから物語は、ルネを中心にまわり始める。

行くあてのないルネは北ホテルでメイドとして働くことになり、その美しさから周りの注目を浴びることになる。
下町の人々は彼女を人情深く受け入れてゆく。ちょっかいを出す男もいるが彼女は全く見向きもしない。
彼女に想いを寄せていた謎めいた影ある男エドモンは情婦のレイモンドと縁を切る。
刑務所のピエールは死なずに逃げた自分を恥じ、面会に来たルネに対しこころを閉ざす。

エドモンは、ロベールという本名をルネだけに明かす。
彼女に自分のアイデンティティを晒す。そのことで、彼女はエドモンにこころを許す。
面会で頑なに別れ話を持ちかけるピエールにルネはもう成すすべもない。
再び絶望して路頭に迷うルネはエドモンとどこか異国で生活することに決める。
二人は急速に接近し、結ばれたかに見えた。
昔の悪友に命を狙われているエドモンにとっても、ピエールを吹っ切ろうとするルネにとってもそれが一つの決断の選択でもあったのだ。
船に2人して乗りこむが、やはりルネはピエールへの未練が断ち切れない。エドモンもそれを見て悟る。

ルネは一人船を出て、北ホテルに舞い戻る。
時はパリ祭のたけなわ、そのダンスの後で、出所が決まったピエールと落ち合うことになっていた。
船から立ち戻ったばかりのルネの説得でふたりは、今度こそやり直すことにしていたのだ。
エドモンがその祭りに取って返してきて、彼女に改めてお別れを告げる。
ルネもエドモンと一緒に国を出ようとした決意には嘘はなかったことを告白する。

ルネはエドモンにホテルの部屋には近づかないように警告する。
彼に振られたレイモンドが彼を追っていた男に待ち伏せさせていたからだ。
しかしあえてエドモンは、その男の待つ部屋に行き、自ら彼にピストルを投げて渡す。
ピストルの音は、祭りの爆竹の音と思われ誰にも気づかれなかった、、、。


HOTEL DU NORD002

エドモンは、雰囲気としては「サムライ」のアランドロンに似た虚無的なダンディズムを貫いていた。
わたしとしては、そのまま透明感あふれる清楚なルネと彼が結ばれてもよいなと思っていたが、、、。
ピエールと一緒に本当にこの先やってゆけるのか、不安要素は拭えない。
あまりに脆弱なロマンティストであり、現実感が薄そうな優男なのだ。
ホテルの主人が別れ際、また自殺なんかするなよ、とルネに冗談交じりに言っていたが、、、

絵の作り(カット)からしてロマンチックである。
王道のメロドラマを観たという感触だ。
たまには、こういうのもよい。


ゲームの規則

RULES OF THE GAME001

LA REGLE DU JEU      RULES OF THE GAME
1939年
フランス

ジャンルノワール監督・脚本

マルセル・ダリオ 、、、ロバート
ジャン・ルノワール、、、オクターブ
ノラ・グレゴール、、、クリスティーン
ローラン・トゥータン、、、アンドレ
ポーレット・デュボスト、、、リゼッタ
ミラ・パレリ 、、、ジェヌビエーブ
オデット・タラザク 、、、シャーロット
ジュリアン・カレット、、、マルソー


第二次大戦開戦前夜の上流階級の恋愛ゲームのバカ騒ぎが描かれている。
映画に出てくる見事なオートマタのように全体が豪華で虚しいからくり人形の群像劇に想えてくる。
ピストルがよく撃ち鳴らされる映画であるが、特に狩りのシーンが殺伐とした彼らの日常を象徴していた。
森で動物たちが木の棒で駆り出されてゆき、銃を持った狙撃者たちが一斉に撃つ。
すると、地面に獲物がボトボトと落ちてくる。うさぎや鹿も倒れる。
アッケラカンと淡々と次々に撃つ。落ちる。倒れる。
そして文句を言ったり疲労を覚えたりしながら屋敷に戻ってゆく。
狩りが終わったら、仮装パーティーだ。
絶え間ないお喋り、喧騒の続くパーティー。
娯楽の時空は途切れることがない。
終わることの出来ない自動演奏ピアノ。
様々な出し物と狂態。
退廃的ということばが無理なくあう。

そこでは女性も男性も婚姻に関係なく恋愛対象を別に求める。
これはブーシュやフラゴナールの絵にもよく表れているフランスの伝統か。
そして、小間使いや下僕の動きが絡む。
パーティー会場の退廃秩序をさらにかき混ぜてゆく。
森番の男が嫉妬に狂い相手を追い回して銃を撃ちまくる。
悲鳴と怒号と混乱。

屋敷の内外の混沌の度合いが高まってゆく。
エントロピーが無闇に増大する。

そこでフランスらしく、オシャレにケープが物語の最後を締めくくるアイテムとなる。
自分の妻のブーケを被った屋敷のご婦人を闇のなかで妻本人と勘違いし浮気相手共々撃ち殺そうとする森番。
そのケープが標的となるが、中身は別人であることにいつまでも気づかない。
そしてその浮気相手に狙いを定めたときそれは別人であった。
葛藤の結果、選手交代して勢いよく(運悪く)飛び出た男である。
(とは言え最初から、森番とはなんの利害関係もないペアであったのだが)。
盲目に蒙昧に暴走した男が、銃で撃つ根拠もない相手をターゲットロックしていた。


これは単に無秩序さがいつも以上に増しただけ、その結末に過ぎない。
そもそも、ゲームの規則とは何か?
社交界の暗黙の規則にしっかり則ったゲームをそれでも誰もが行っている、のだ。
(ただの無秩序に見えてそうでもない線~微妙な規則が通っている)。
殺された飛行士アンドレも誤って殺してしまった森番もそのゲームの規則を無神経に逸脱してしまった。
そのために働いた力学の結果といえよう。
(もう少しだけ正確に言えば、アンドレは自分勝手な規則を無理やり持ち込んでしまったこと。森番は嫉妬からくる殺意に歯止めが効かない単なる殺人という逸脱になろう)。

そして、屋敷の主の計らいで悲劇的な「事故」として括られる。
「皆様、お騒がせいたしました。お風邪を召さぬよう、どうぞお入りください。」
で終わる。

第二次大戦開戦前夜にもうたどり着くところまで、たどり着いていた部分~面を受け取った。
勿論、時代を超えた普遍性もある。
これは物語のひとつに過ぎないが、登場人物や話そのものにしっかりリアリティが感じられるものだ。
また形式上、ドタバタコメディの元祖でもあろう。
軽妙なタッチで、恋愛ゲームに興じる人々の欲望と葛藤が虚しくオシャレに描かれている。


ジャン・ルノワールが他の役者より、芸達者で驚いた。
彼が一番、影が濃かった。
(役者で立派にやってゆけるひとである)。


写生を巡って 円山応挙

oukyo001.jpg

少し前(かなり前だったか?)、「日曜美術館」で、「円山応挙」を見た。
そのことが、頭に残っていて、忘れないうちに肝心なことだけ書いておこうと思う。
「写生」に関して、である。

私のことであるから、番組からかなり離れた話題も結構入ってくるはず。
(というより、ほとんど番組はとっかかりとしているだけで、関係ない話になると思うが)。


彼は最初は、狩野派の様式美に学んだ人であり、番組では独学で絵を学んだと言っていたが、何故そういうことにしたのか、、、。
応挙は狩野派を批判的に乗り越えたリアリズム画家であると思う。
そのために、型に嵌めずに自由に素質を伸ばせということを敢えて強調していたのだろう。

応挙のまず言うには、「対象を観察し形を写すことを極めれば、自然とその生き生きした生命感を表現できる」(番組より)という大変真っ当なことが述べられているが、、、
彼の徹底した写生の実践は、ただ見たままを描きなさいと言っている訳ではない。
見ること自体、言語作用である。
誰もがことばによって外界の光の渦を有機化~分節化した結果の表象として環界を捉えている。

彼の重要な教えは、「現実の世界に意識を向け、物事の道理を把握してゆけば、万物を描くことができる」(同番組)にこそあろう。
ここで謂う「道理」である。意識的に世界を見つめ直すために「道理」で観てゆく姿勢である。
物理的に事象を捉えれば、どのようなものも、自然に在るがごとくに描ける、と。
まさにレオナルド・ダ・ヴィンチと同様の視線である。
「写生の極意は野の人や山の人をつかまえては聞くことにしていた。」(本朝画人傳 村松梢風著)というところにも窺える。
つまり実際に、そのもの~現象や生き物など身近によく知っている人に確認すれば、様式的に描いているオカシナところを指摘してもらい自分の目で冷静に再度よく観察しなおすことができる、ということを意味する。
「馬は草を食べるときは目を庇って閉じるのだと諭された」(本朝画人傳)ことなど、その動物の習性を正しく捉えることで、より真に迫った自然な絵を描くことができるはずだ。
彼の謂う「対象を観察し形を写すことを極める」というのは、「道理」~客観的な自然観察(物理的な)によって可能となることである。
それによりはじめて、それまで受動的、習慣的に身につけてしまっていた先入観から抜け出せることを意味する。
(様式的な絵を脱することが可能となる)。
言語の対消滅の結果である。
真に対象に迫るには、先入観や常識を解体し、それに代わる新たな知(物理的な見方)の獲得が不可避なのだ。
そのへんのことは、全く番組では触れられていないが。
応挙は、相当な教養人であったはずだ。

そのひとつに子供時代奉公に出されたという高級玩具店で受け持った「眼鏡絵」作りの遠近法的捉え方、3次元的描写(後の松の枝の描写などに見る)に大きく寄与していると考えられる。レンズも墨で巧みに描き分けられた光と影の表現に役立ったのではないか。
これら若い頃の経験は、応挙の科学的(光学的)な絵画の研究~アプローチに役立っているはずである。
デルフトの画家フェルメールもまさにレンズ~カメラオブスキュラから多くのヒラメキと知識を得ていた。
また、絵画という2次元性の表現を(積極的に)徹底させるため、鏡で対象を映して平面化し、それを写し取るという大変合理的で理にかなった方法を編み出したのも、この時期身につけた思考法が効いているのではないか、、、。そこでブレのない像を発見し、命毛1本で描いたかのような細密でダイナミックな猫線も獲得する。


更に応挙の凄いところ、、、。
n-1の描き方である。
素人っぽい画家ほど只管重厚に描き重ねてゆくものだ。
(日本画家にもよくいる、金箔を隙間にベタベタ鬱陶しく貼るものとか、、、)

彼は、描かないことで、描き込むより饒舌にそれを示す~描くことをあらゆるところで試して成功させている。
「自分であらたに形を捉え直さなければ絵画とはならない」のである。
ここである。ここではじめて応挙の絵画となってゆく。創造となる。
「龍門図」の鯉が滝を登ってゆく中央の図など、シュールレアリズムの絵画と変わらない。
鯉が勢いよく抜け登る水の部分を紙の地とすることで、まさに生き生きとした自然の流水となっている。
如何に描き残すかで、「向こう側からの造形化」が発動する。
(これが現代の美術にもなかなか見いだしにくいものである)。
国宝「雪松図屏風」などは、その極みであり、描かれないことで、感じさせるものの極地を見せられる。
描き残されて反転し実体の重みすらひしひしと感じる松の枝にかかった積雪。
それは周りの空気とその気温をも生んでいるではないか!
ここまで、その生成を意識的に徹底させたのは、少なくとも日本では応挙がはじめてであると思われる。


書き始めたらきりがなくなりそうなので、この辺に、、、。

日本の画家について書いたのは、久しぶりであった。
その辺もこれから、改めて見てゆきたい。とても面白い鑑賞にもなるし。



あん

an001.jpg

2015年
日本/フランス/ドイツ

河瀬直美監督・脚本
ドリアン助川原作


樹木希林 、、、徳江(あん作りの名人、元ライ病患者)
永瀬正敏 、、、千太郎(小さなどら焼き屋の雇われ店長)
内田伽羅(樹木の孫) 、、、ワカナ(中学生)
市原悦子 、、、佳子(徳江の親友)
浅田美代子 、、、「どら春」のオーナー
水野美紀 、、、ワカナの母(放任、保護能力ない)


「私達はこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。
 ・・・だとすれば、何かになれなくても、
 私達には生きる意味があるのよ。」
徳江さんの言葉である。
充分に見て、聞いてきたか、、、それなら、やり残したことはない。
徳江さんも隔離された施設の窓から、ずっと長い間自然の様々な美と移ろいに遊んできたのだろう。
達観した眼差しといつも絶やさぬ優しい微笑みがそれを爽やかに語っていた。


川べり、桜並木の傍らにある小さなどら焼きの店、「どら春」
そこの店長千太郎。
常連のキャピキャピした女子高生(中生?)トリオ。
放任の母親と暮らす高校進学も危うい、周りから浮いた雰囲気の中学生少女ワカナ。
「どら春」のアルバイト募集に応募してきた徳江。
世間の人間代表という感じの店のオーナー。
後半に重要な役どころで顔を出す徳江の親友の佳子。

基本主要登場人物は限られている。

店の常連で失敗したどら焼きを渡す間柄でもあり時折、大衆食堂でも出逢う千太郎とワカナ。
そのふたりは、どちらも似ている。
人に怪我を結果的に負わせて服役し借金で身動きできない男と家にもどこにも身の置き場のない少女。
漂うように、ルーチンを何とかこなしているが、帰属する場所があやふやで本当に覚束無い。
自らの意思でそこにいるというわけではない居心地の悪さ、、、。
そこに、徳江さんが突然やって来る。

彼女は、「どら春」のバイトに雇って欲しいと店長に懇願する。
彼女の持参した「あん」の美味しさに驚いた彼は「あん」の担当をお願いする。
エプロン、キャップを付けた徳江さんが光のなかに輝く。とても綺麗であった。
あずきに話しかけ会話するように「あん」に向き合い、たっぷりと時間をかけて炊いてゆく。
その手間と愛情のかけ方を初めて経験した店長の千太郎。
「どら春」はかつてないほどの盛況をみせるが、それも束の間、徳江さんがライ病患者であったことが世間に知れ渡り、、、。
店から客は遠ざかる。

徳江さんは勿論、その成り行きの全てを知っている。
店長の「徳江さん、きょうはもう、このへんで」
このことばで、徳江さんは、「じゃあ」と別れを告げる。
これっきりの。

千太郎は、世間の非情さを実感するが、それより徳江さんを守れなかった自分の不甲斐なさに沈む。
ワカナは図書館でライ病について調べる。その歴史的実態を知る。
そこで調べた書籍のなかに次の一節を見つける、、、「わたしたちも陽のあたる世界で生きたい。」

ワカナは千太郎を連れて徳江さんの施設を訪問する。
千太郎一人では行けない。彼は自ら動けるほどしなやかなこころも器用さももたないタイプの人だ。
そこにいた徳江さんは短期間で驚く程、老けて衰弱している様子であった。
店で活き活きとあんを作ってお客に対応していた輝きがかき消えていた。(何と恐るべき女優か!)

そこでまた、彼女の親友の佳子からも甘もののご馳走を頂く。
「店長さん、お世話になりました。楽しかったわ。」
千太郎は、すべての想いが去来し、感極まる。
「店長さん、美味しいときは笑うんですよ。」


そして店はもう機能しないかたちにオーナーに打ち崩され、項垂れる千太郎を「ずっとさがしましたよ」とワカナが再び徳江さんのところへと誘う。
しかし、すでに彼女は3日前に亡くなっていた。
残されたカセットに、徹夜で前の晩に母が縫ってくれたワンピースを入所時に燃やされてしまったこと、授かったこどもを産むことが許されなかったこと、その子が生きていればちょうど店長くらいの歳であったこと、施設の散策でたまたま店長を見たとき自分が若い時にこの施設を一生出れないことを悟った時の目をしていて、いてもたってもいられなかったことが告げられていた。
千太郎も服役中に母を失っていた。

そして佳子から、お墓をもつことができないわたしたちは友達が死ぬと庭に木を1本植えることを教えられる。
徳江さんは、彼女の大好きなソメイヨシノであった。


「私達はこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。
 ・・・だとすれば、何かになれなくても、
 私達には生きる意味があるのよ。」


ただ、濃密に深く生きること。




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生命力

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あくまでも「生命力」とは、ではない。
そこを説くのではなく、「生命力」の恍惚を再認したいだけである。
昨日のマルキの映画でつくづく感じるところが、「生命力」であった。

その過剰とも言える「生命力」が危なっかしくも非常な魅力を感じる。
われわれがあれほどの迸る生命力を発揮し得るか?
単に幽閉され迫害を受けた事に対する反発や、予め備えている反骨精神と強靭な肉体(彼の場合は更に放逸な性エネルギー)だけで、あれほどの「表現欲」が生じようか?単なる破壊活動や殺人に向かっていてもおかしくはない。
マルキにとっては、何よりことば~物語が殊更に身体的~性的欲求・欲望を充たすものであったのだ。
そこへあらゆる欲望を抑圧から解き放つ純粋な表現欲を彼が真摯に認めた結果であろう。
彼にとり、あの「表現欲」こそが「生命力」そのものなのだ。

われわれは、自らの意思で閉じ篭もり、それを封じ込め枯渇させている。
ときに宗教的(道徳的)な美徳で合理化し。
(後にそれをアンドレ・ブルトンは痛烈に批判した)。
自ら囚われ人となり、その枠内で物事に悩んで抜けられないあのエッシャーの版画の男のように。
その枠をもっとも原初的で本源的なエネルギーをもって内奥から打ち壊してしまうことば~物語の力に彼の小説は満ちていた。
だから人々はそれ~焚書を(秘薬のように)隠し持って読んだ。
(恐らく論理をもってしなくとも、人々を解放し得る唯一の方法であったかも知れない。そう言ってしまうと宗教はどうなんだという声が聞こえるが、仏教の「南無妙法蓮華経」はこれに近い過激さを感じる。キリスト教についてはすでに書いている)。

表現は他者あってのものである。
創造はその新しさを他者が認めるところにある。
彼は生粋の作家~芸術家であった。
彼もまた他者を何よりも必要とした。読者がいることが彼をワクワクさせた。
次作をみんなが待ってるわと言われれば、書かないわけにはいかない。
どんな障害があろうとも書かないではいられないのだ。
神父は書くことで自らの「毒」を対象化し、精神が清められると期待していたが、マルキは日記を書いているつもりなど微塵もなかった。
彼は端から開放系に属する。隠し事もまるでない。
(物語の後半からは、布一枚身につけていない(爆!)
それ以前に、自分が毒に犯されているなどとこれっぽっちも思っていない。
言うまでもなく(宗教の)阿片に毒されているのは、お前たちだ、となる。
確信は絶対的なものであった。
彼の強さの根拠である。

彼こそ健全であった。
その激烈な生命力こそが証である。真理である。
旺盛な表現欲は生=性そのものの発露であったのだ。
そしてその対象である読者~他者とは、マドレーヌであった。
ストイック(プラトニック)な彼女への愛が底知れぬ「生命力」=「表現欲」の源であった。
恐らく、、、。


まず、なんといっても生命力を枯れさせてはならない。
それを強く再認識する作品になっていた。


クイルズ

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Quills
2000年
アメリカ

フィリップ・カウフマン監督・製作
ダグ・ライト脚本

ジェフリー・ラッシュ、、、マルキ・ド・サド
ケイト・ウィンスレット、、、マドレーヌ
ホアキン・フェニックス、、、クルミエ神父
マイケル・ケイン、、、コラール博士
ビリー・ホワイトロー、、、ルセール夫人
アメリア・ワーナー、、、シモーヌ

書くことへの凄まじい執念だ。
みんなマルキ・ド・サドに自分の信念を試されている。
これは痛快だ!

この激越したリビドー、大したものである。
そして笑える。
この笑いのセンスにも命がけだ。
ちょっと痛ましいが。
マルキ・ド・サドの天才を認めたのはマドレーヌだけか、、、?
いや、みんなが恐れているのだ。だから彼を排除する。だがその本源力から彼に惹きつけられる。

書こうとする意欲は勿論であるが、彼の生命力が只ならぬものだ。
性と生はほぼ同等の根深さと本質力がある。
でなければ、フロイトが精神を分析するにあたり性を俎板に乗せはしない。
であるから、ここの部分が病むと精神に障害や異常を来す。
それは生命力と創造力の源であろう。

言葉にすれば抑えた感情が行動をとる、、、クルミエ神父ギリギリの至言だ。神父の限界だ。
ここでも自分の恐れを知ることが試される。認めることが試される。(昨日見た映画と全く繋がる)。
神の名(美徳の観念)をもって自分の感情~生命力を抑圧する。
性の抑圧はとりもなおさず生の抑圧ともなり、、、。
人の持つ本源的な力~感情・感性・創造力・思考力は瘦せ細る。

サドの戦いは凄まじいものであるが、性に本源的に纏わるユーモアが物語をとても軽妙にし重くし過ぎない。
そう、性とユーモアは非常に近い。
共に原始的(本能的)な生きる力となり形骸化した枠を解体する力となる。
同じ精神病院にいる患者たちとの舞台劇を通しての交わりなど極めて下品な祝祭=ハレの場である。
それを如何わしそうな表情をこしらえながらも、楽しんでいる偽善的で欺瞞に満ちた観客たち。
この時代の抑圧された庶民が如何に生命力を高める「異なる物語」を求めていたかが分かる。
言うまでもなくキリスト教教会勢力=制度に対する反逆に他ならない。(それと意識せずとも)。
この意味でサドは閉塞空間を打破するシュールレアリストである。

このサドの生命力は人々を無力化して支配しようという勢力にとって危険なものでしかなかった。
であるから、彼はほぼ一生に渡り、バスティーユ、ヴァンセンヌ、シャラントンに幽閉され続けた。
確かに支配者にとってもっとも危険な存在だ。
彼の書物を読んだ者たちが次々に自分を解放して自分を生きるために出て行ってしまう(爆!
コラール博士の若妻シモーヌも自らを見出し、若い燕と駆け落ちしてしまう。
コラール博士怒り絶頂で、その憤懣のありったけをサドにぶつける。
しかし、彼はへこたれない(笑。
迫害されても物語をあらゆる方法を見つけて書いてきた彼だが、もう書く手段を全て奪われたかと思うと、、、
彼は大声で牢獄から叫んで、マドレーヌまで(患者たちの)伝言で口述筆記させる。
これはもう笑うしかない。どんなコントより面白い。

「親愛なる読者よ。かくも不道徳な物語を聞かせよう。覚悟なされよ。」
シビレル(笑。
この時代に、大した男だ、というより破格な存在だ。
しかし神の造形、その美は認めている。
人々の神の権威の利用に徹底的に背く。
宗教や道徳を断じて受けつけない。不屈の闘志で拒む!(わたしも当然!)

物語の火から本当の火事になる話のくだりがうまい!(興奮しすぎた患者が実際に火をつける)。
しかし実際にマドレーヌまで殺されてしまう。
生きた言葉の危うさである。
まさに「患者が水の上を歩こうとして溺れたら、神~聖書のせいか?」
物語としてよくできている。
舞台劇の映画化というのがよくわかる流れであった。
音楽の絡みもよい。


キャストはだれも言うことなし!
ケイト・ウィンスレットが特に魅力的であったが、アメリア・ワーナーの小悪魔ぶりもなかなかのものであった。
ホアキン・フェニックスの繊細にギリギリのところまで葛藤しついにその壁を突き破る神父は鬼気迫る名演である。
これほど凄い役者であったか、、、リバー・フェニックスの弟はやはりただ者ではなかった。
ジェフリー・ラッシュの懐の深さというか、役者魂には、、、ただ恐れ入る。
とは言え、「やさしい本泥棒」「鑑定士と顔のない依頼人」の彼の方が好きではあるが、、、
これは余りに凄すぎた。




ブラック・スネーク・モーン

Black Snake Moan

Black Snake Moan
2007年
アメリカ

クレイグ・ブリュワー 監督・脚本

スコット・ボマー 音楽
アメリア・ヴィンセント撮影

サミュエル・L・ジャクソン、、、ラザラス(ブルースギタリスト)
クリスティーナ・リッチ、、、レイ (義父による性的虐待からトラウマを抱える女性)
ジャスティン・ティンバーレイク、、、ロニー(レイの恋人、重度の不安神経症)

わたしは、ブルースに疎い。
しかし全編に流れるブルースは、とても物語に厚みと渋みを加えていた。
何故か無性にクリームを聴きたくなった。(ロックによるブルースの解釈のもっともすぐれた成果である。わたしはそちらに馴染んできた)。
カメラワークも凝っていて、斬新に感じた。

「黒へびのうめき」
まさに闇~無意識から襲い掛かってくるものの呻き。
それに常に脅かされ苦しめられる者たちの希望まで描かれている。
(前途多難ではあるが、雄々しく彼らは一歩を踏み出してゆく)。

自分たちの恐れを認める。
ここである。
「私、いいものをなぜかダメにしちゃうの」とレイは言う。
そうなのだ。
こころに深い傷を宿している者の魔の反復に怯えるナイーブな言葉。
虐待を受けて育った者のトラウマ、そして深い絶望や慢性的な病に対し如何に立ち向かうか、その姿を描いてゆく。
暗闇からいつも衝動的に飛び出てくる魔物を根絶することは、難しい。
しかし、絶望に喘ぐ者、病やトラウマに深く囚われた者同士の理解と助け合いがあれば道は開ける。
やはり、お互いに解り合える者が必要なのだ!
この映画のテーマとなっているのが、自分の魂を救うにはまず、彼女を救わなければならない、、、である。

その彼女とは、ひどく殴られ道に転がっていた若い女性レイである。
彼女を拾ったやはりこころに傷を負った男ラザラスが、自分の損得を顧みず宗教的な精神性をもって彼女の力になろうとする。
クリスチャンであることと、この姿勢はそのまま繋がらないと思う。
これはあくまでもラザラス固有の心性~直覚した使命感による。
そして当然、音楽本来の力である。
ラザラスが懸命に彼女に尽くし手だてを講じようとも、やはりもっとも大きな薬となってゆくのは彼の音楽だ。
これは、わたしも身をもって経験してる。
音楽がなかったら、自分がどうなっていたか分からない。
(キング・クリムゾン~プロコル・ハルム、、、ジョイ・ディビジョン~ニュー・オーダーである)。

やり方は、まずは彼女を衝動的性的発作の際の対象をシャットするための頑丈な鎖で繋ぐという方法であった。
これには繋がれた方は激高するが、やがて彼流の療法に慣れてくる。
傷薬を塗ってもらい、彼の育てた野菜をたっぷり食べ、上品なドレスを買ってもらって身に着け、彼のブルースを聴いて過ごす。
彼女もある朝、自分で曲を作ってみる。彼がそれにギターで合わせて歌う。
相互理解と親和的関係がしっかりと築かれてゆく。
彼女は母親とその関係はついに結べなかった。彼女の幼いころの過酷極まりない生を母親は全く認めなかった。
彼は弟に妻を奪われてしまっていた。妻は全く彼に理解と愛情をもたなかった。
そんなもの同士であるからこそ、理解しあえる水準がある。
自暴自棄のこころを昇華させる場所も生じた。

彼女の恋人ロニーも重度の不安神経症に苦しんでいた。
お互いに支え合い彼ら二人は結婚し、別の街へと旅立つが、ロニーにもレイにもまだまだ時間は必要であった。
ロニーは、車の運転中に騒音に耐えられなくなり、道端に車を止めて必死に堪える。
彼女も発作的性衝動が過るが、ラザラスから結婚式でもらった美しい鎖のアクセサリーを腰に締め発作を抑える。
彼女は自作の歌をロニーに聴かせて落ち着かせる、、、。
二人とも相手を理解し合い、快方に向かってゆくことを暗示させつつエンドロールへ、、、。

この映画、、、「私、いいものをなぜかダメにしちゃうの」にせよ、音楽の取り込みにせよ、よく分かっている。

中途半端な映画ではない。
無論、キャストの演技も半端ではない。
クリスティーナ・リッチにここまでやらせるか、、、とは思ったが。
スリーピー・フォローの彼女が懐かしい、、、それを言うならアダムス・ファミリーか?「アフターライフ」も忘れ難い)。
文字通りの体当たり演技であったが、彼女の瑞々しい感性を感じた。
サミュエル・L・ジャクソンは、わたしの知る限り、彼の他の映画より渋く魅力的であったし、歌も上手いことが分かった。
ミュージシャンのジャスティン・ティンバーレイクが全く歌わず、ジャクソンが歌いまくり、最後はクリスティーナ・リッチに優しく歌ってもらうという役柄、演出が面白い。本当の玄人は一小節も歌わない(笑。
また、牧師とリンカーン少年がとても良い味を醸していた。

しっかりできたよい映画である。



ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅

Nebraska 001

Nebraska
2013年
アメリカ

アレクサンダー・ペイン監督
ボブ・ネルソン脚本
マーク・オートン音楽


ブルース・ダーン、、、ウディ・グラント(100万ドルを当てたと思っている老人)
ウィル・フォーテ、、、デヴィッド・グラント(ウディの次男、AV機器店主)
ジューン・スキッブ、、、ケイト・グラント(ウディの妻)
ボブ・オデンカーク、、、ロス・グラント(ウディの長男、ニュース・キャスター)
ステイシー・キーチ、、、エド・ピグラム(ウディと自動車整備会社を共同経営していた男)


何とも言えない広漠としたハイウェイとそこに流れる音楽はピッタリ合っていた。
ふたつの心をつなぐ旅にはとても思えなかったが。
次男が只管、大苦労しただけの映像にしか思えなかった。
「老い」の問題もひとつのテーマに感じる。
そう、誰でも老いるのだ、、、。
その老いた父と家族(特に次男)の関わりの問題も分ち難い。
話に特別なものは何もなく、何処にでも起きうる日常の光景であるが、、、。

しかしキツイ映画であった。
感情移入は全く無理。
確かに大人になってから、父親とどこかのタイミングで一度じっくり語り合っておきたいという気持ちは理解できる。
好むと好まざるとに関わらず、この親の遺伝子を受け継ぎ、知らずこの親の言葉を喋っている部分は間違いなくあるのだ。
父親と語ることで、自分が逆照射されるところは、確実にある。
思わぬ内省の契機にもなったりする。
だから、もう先の短い父に一回はしっかり関わっておきたいという拘りは分かる。

しかし、すでに父親は現実界から異なる幻想界に移行している。
老いが、身体の衰えだけのレベルならまだしも、精神(思考)からも弾力性を奪っていた。
母は、相変わらず頑固で、、、とか言ってはいるが、頑固~頑なで意地っ張りとかいうレベルではない。
いくら説明して引きとめようとしても父は懸賞金の引き換えに行くんだと受け入れられない状況に来ている。
本来は、はじめから詐欺と分かっている100万ドル当選の受取などに行かせるべきではないのだが、次男としてはお父さんとの旅をここで経験しておきたかったのだ。
老後の外界からの刺激の乏しさは急速に心身の衰えを増す。(ちょっとした冒険も良い刺激ではないか、、、)。

きっと今のうちに父にやりたいようにやらせて、少しでも彼を理解しておきたかった。
父も子供に対する愛情は内奥にはもっているが、もうそれを何かであらわしようもない。
その気持ちが何やらその詐欺ダイレクトメールに固執する形になって現れているのだろうが、、、。
懸賞金、コンプレッサー、新品のトラック、、、これらへの拘りが彼を生かしているとも言えた。
(この人生最後における滑稽さはペーソスに満ちてはいる)。
この距離感と歯がゆさと愛おしさ、、、息子から歩み寄る以外にない関係だろう。


この息子の苦労するところは、父がその詐欺の手紙を心底信じ切っていることだ。
そして父子の遠距離の車の旅の途中で、父は出逢う昔の仲間や親戚に自分が100万ドル当たったことを口にしてしまう。
すると、日本同様あちらでも次々に昔、金を工面してやった借りを返してもらおうとか、、、根も葉もない言いがかりで金をむしり取ろうとする輩が群がってくる。(有名な芸能人が死ぬときに、初めて現れる親戚とかが沢山いるという)。

息子は父を庇いつつ、何とか彼を最後の受取場所まで連れてゆく。
そうしないことには、どうにも終わらないからだ。
そして、その場で当選してないと告げられ、やっと父も引き下がる。

「いい風景も見られたことだし、、、」と息子。
帰りに息子は自分の車と父が欲しがっていたトラックを交換し、これを父名義にする。
更に父がかつての仲間に40年前に貸したっきり返されていないコンプレッサーを買ってプレゼントする。
なんと良い息子か。
それにしても、この父親は何なのか、、、。
息子が何か清々しい表情になって満足気なので良しとするが、、、この息子でなければやってられないところだろう。

単なるアルツハイマーか?
恐らくそうであろう。
どう見てもそうだ。
豊かな情感の揺れが見当たらない。


わたしも娘たちにとって、単なるアルツハイマーにならないよう心がけたい。
そう思わされる映画ではあった。
こころが通いあうタイミングはすでに逸していたか、そういう対象の父親とは思えなかった。


とても殺伐としているのはよいが、敢えて観て確認する程の意味もない映画であった。

冬さがし

snow man

ちょっとでも雪が降ると必ずどこかの隅っこに作ってある。これは近くの公園に、、、。
冬~雪へのオマージュなのか。


今日は娘たちと、「冬さがし」をした。恐らく学校の「生活」の授業にでもやったのではないかと思う。
雪も降ったことだし、、、彼女らのスイッチが入ってしまった(笑。
これだけ寒いんだから冬だよ、と言っても、そういうことではない。
形を探すということである。
「冬」の形を、、、。
朝から冬さがしで、われわれは家の庭からその周り、近くの公園まで道端を探って廻った。
日光は強いが風は冷たい。


家、庭周りでは、霜柱、ポリバケツの底に溜まった水が凍っていたり、、、だがそこに枯葉が絡みちょっと乙であった。
それから、草花が白く凍りついていたり、小さな葉っぱには水滴と見紛う氷の水晶がチョコっと乗っていたり、、、
普段は見れないキラキラした光景が楽しめた。
狭い裏庭にはわたしは滅多に行かないのだが、彼女らは度々探検しているらしく、木や花の場所をよく知っていた。
霜柱をザクザク踏むのも靴裏の感触が楽しめ、普段できない体験である。
だが、その程度であれば綺麗で面白かったね、くらいで終わっていたのだが、、、われわれ探検隊は、エッジにおいて驚愕の造形に出逢う!

次女がこれこれ!と言ってわれわれを呼んだところ、、、

場所は家の塀とアスファルト路面の間~縁である。
土が吹き溜まった結果できた謂わば結界みたいな細い場所である。
そこに生成された圧倒的な自然の表情であった。

先だって、女子美に展示された、地面に生じた罅割れそのものの作品があったが、その定型(基礎形)を非常に高スペックなコンピュータでパタンを複雑化した後、更に魅惑的に絶妙な崩しを施し、氷点下の気温と水分を加え、神秘的に仕上げたという感のある罅割れに、われわれ親子はただ魅了された。

形には生気が欲しい。はじめから力を感じない表面の克明ななぞりではなく。
受け側と力を及ぼす側との、その地と図との間のせめぎ合いの強度~微分方程式が欲しい。
この前展示会で見たのは、質を感じない余りにスタティックな~形骸化した、ものであった。


混沌のなかに刃に似た鋭さが目立ち、自然の覇権への闘士すら感じる。小さな場所でのある闘い。
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ディテールへ、、、それは残酷な爪か牙か。
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激しい闘いの反復。これまで何度繰り返されてきたのか、、、。
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境界~エッジを前にそれらは留まる。ある法則に従い。記憶に留める。
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思い切っていつもの公園にそのまま行った。
sagamihara p
いつもとは、別世界であった。
(僅かばかりの雪で、、、)雪とは何か、、、?
                           *写真は全て長女。


ふたりは、帰りに美味しいハンバーグ専門店に行く相談をしている、、、。
冬さがしは、最後に高くついた(苦。


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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