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日本一のホラ吹き男

horafuki.jpeg
1964年

古澤憲吾 監督
笠原良三 脚本


植木等、、、初等(はじめ ひとし)/初等之助(先祖)
浜美枝、、、南部可那子(増益電気のアイドル社員)
草笛光子、、、清水花江(高級バーのマダム)
曽我廼家明蝶、、、増田益左衛門(増益電気社長)
山茶花究、、、大野総務部長
三井弘次、、、古井資料係社員
中真千子、、、山田富子(資料係)
谷啓、、、井川(研究所研究員)
安田伸、、、宮本(初等の大学の同窓生)
桜井センリ、、、社長の運転手
江川宇礼雄、、、西條社長(丸々電気社長)


様々なオリンピックの種目の競技練習風景から始まるが、違和感は充分ある、、、。
今ならジャニーズ事務所の若いタレントなどが選手で出てくるのだろうが、ここではおじさんポイ選手ばかりだ(笑。
そして何と植木等が三段跳び日本代表選手として見事な飛翔を、、、といったところで彼らしいズッコケ、、、。

何となくニヤニヤしながら緊張感の欠片もなく観始める。
そして「東京五輪音頭」がいきなり始まった(笑。
(ここでもミュージカル調に唱や踊りはいきなり始まる)。
もうすぐまた五輪だが、これを超える曲が出るか?
こんなナンセンスな歌は出て来ないだろうな~。
変な真面目な曲など出て来ないでほしい。聞きたくもないし。
そう言えば、、、三波春夫の「東京五輪音頭」というのもあった、、、。
でも、三波春夫なら『世界の国からこんにちは』(万国博覧会音頭)の方がキャッチーで耳に残っている。
あんなふうな曲がよいな~。ナンセンスであっけらかんとしていて、どうでもよくって。

他にも主題曲の「ホラ吹き節」や「馬鹿は死んでも直らない」とか「空の青さは僕のため」に「ガタガタ言うなよ(私はウソを申しません)」等々今回もC調の植木節は健在。でも無責任~の方が面白いかな、、、でもよくこれだけシリーズでたくさん作曲したと思う。


やはり脚本家が「日本無責任~」から代わっているが、こちらはダーティーな所はなく、ただひたすらがむしゃらに頑張るモーレツサラリーマンだ。
豪快に高笑いして、傍若無人で押しの強いキャラ設定は同じであるが。
必ず一度は、クビだ~クビ!と謂われるが落ち着いてかわし、次の一手がしっかり控えてる。
ちゃんと後がある。
でもちょっとこれだけでは限界あるな~。
ブラックさがほとんどない。
(あの目の前に転がって来たボールを、瞬時にあさっての方位にすっ飛ばしてしまう生理が失せている)。

初等(またこれだ)は、三段跳びの有力な日本代表選手であったが、アキレス腱を切り競技者生活を断念。
故郷に帰って暫く休むも、出土した先祖の古文書を読んで一念発起。
三段跳び形式でサラリーマンとして出世するぞ~っである。
こういったやる気が今の世では湧きようがないのが現実だ。
(ぼんやりと視界を覆う虚無感と閉塞感のなかを皆が佇んでいる状況だ)。
しかし様相は無責任男からはかなり変わっている。

機転の利く、やたらとポジティブな「出来る男」ではないか、、、。
無責任男からは随分距離がある。
ホラは吹くが、有言実行である。策略は練るが、詐欺や横領など非道なことはしない(爆。
先祖もホラを吹いても、剣術の腕は剣豪レベルではないか、、、。
わたしはてっきり姑息な手を使って相手を陥れて倒し、1万石をせしめたのかと思っていたが、正々堂々と勝ち取っている。
確かにいらんことはペラペラ喋るが、それに呑まれるようでは相手も大したことはない。
「ホラ」は謂わば自らを奮い立たせ鼓舞する呪文のようなものである。
しかも引き寄せの効果も充分に期待できることを実証している。
何だ、、、人生の達人ではないか、、、そういうことか。

典型的な口八丁手八丁男である。
電気業界最大手の増益電気でホップ、ステップ、ジャンプの要領で出世し、アイドル社員の南部可那子のハートも射止める。
全てトントン拍子で進むところが小気味よい。
植木等はこうでなければ、という感じに行くが、最後に特に驚かされる結末はなかった。
終始、植木等カラーで、お任せで乗せられていればそのまま行き着くべきところに運ばれてくる。

無責任男の植木からは脱皮してしまっているが。
(やっぱりダーティさに関して製作側からの意向とか入ったのだろうか?ちょっと残念)。


相変わらず面白いが、入り込めない距離感はどうにもならない。
しかし全く頭を使わず安心してニヤニヤ観ていればよい映画はとても貴重だ。
最近、映画を観るのが実は苦痛でならない。
押しつけがましさから気が重くなり途中で退場したりしている。
鬱陶しさがまるでないところが好ましい。


由利徹の出番が少なすぎた。
(どうしても期待してしまうのだ、、、あの味に。このシリーズもうひとつの個性ではないか?)




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フェルメール

De Schilderkunst

今日は久しぶりに真夏のように晴れて暑かったため、独りで公園に行った。
娘も家族もほっぽらかして。
いつも車で行く距離の場所だが、今日は往復徒歩にした。
単に歩きたかったのだが、流石に暑い。生き帰りの長い道のりで尋常ではない強度の日光に焼かれた。
科学関係の本を二冊持って行って読んだはよいが、、、。
日陰のデッキで風通しも良く気持ちはよかったのだが、かなり蚊にも刺された(痒。

帰ってから、暑さにやられたのか、昔のディスクを引っ張り出して片っ端確認を始める。
その時面白いものを見つけた。
フェルメールの特集なのだが、ちょっと変わったものなのだ。


NHKの「日曜美術館」でかなり昔やっていた森村 泰昌氏のセルフポートレートによる「画家のアトリエ」の再現を通してフェルメールに迫ろうという試みである。
以前から森村氏の面白いアプローチ~方法だと感じていたのだが、最終的に見事な「画家のアトリエ」が出来上がった。
コンピュータによる空間と各要素の3D解析や衣装・小物の素材を厳密に調査したうえで調達し完璧な再現を期すため、たくさんのスタッフを動員して制作されていることを知った。大変な作業である。
南伸坊氏がやったらどうなるだろうか、とそっちの方も、勝手に想像して笑ってしまった(爆。
(実はそちらの方も観てみたかった)。

「画家のアトリエ」は、ダヴィンチが生涯「モナリザ」を手元に置いておいたのと同様、フェルメールの手放す事のなかった、ただ一つの絵であったそうだ。

森村 泰昌氏の再現によって、「画家のアトリエ」が完璧な遠近法によって描かれていることが判明したが、その消失点の置き方が絶妙な所に置いてあるため、何度観ても心地よい空間が実現されていることが確認された。
(この消失点をどこに置いて遠近法的整序をなすかは、絵にとって大変難しく肝心なところである。特に狭い部屋においては)。

更に何よりカメラオブスキュラで実際覗いた画面をTVで幾度もその焦点移動も含め見せてくれたことは、とても大きい。
わたしも実際に黒布を被って観てみたくなった、とても魅惑的な機器である。
(フェルメールがカメラオブスキュラをこの上なく効果的に絵画制作に利用して来たことは余りに有名)。
わたしも覗いてみると、こういう風に見えるのか、、、と確認できた。
何と謂うか普通に見るより、「生な見え」なのだ。
そのすりガラスに映る光景が、、、。
何か郷愁を誘うし、焦点とボケの空間がしっかりあってよりリアルで新鮮に思えた。

しかし、その番組での掘り出し物はそれくらいであった。
アシスタントが、かの「はな」さんの時期であることも嬉しかったし、懐かしい。

実際、フェルメールの絵は凄まじくリアルである。
だが、驚くべきことは、細密な部分は細密だが、ラフな部分はかなりラフなタッチで思い切って筆が走っており、ぼやかした部分もちゃんとある。
光の点なども効果的に打たれていることも見て取れる。
そこからくる質感は、顕微鏡的な超細密画など寄せ付けないリアルさなのだ。
表象以前の物の本質美とでもいうような美しい光景である。(カント的な意味合いではない)。

これはカメラオブスキュラを当時の他の画家の単に構図の決定などに利用していたやり方とは全く違う、物の見え方の本質に迫る研究手段として用いていた賜物であろう。
眼球は常に微動し続けており、観ることは必然的に編集的遅延を帯びる。
つまりわれわれは、言語的に有機的な分節化を経てパンフォーカス的な光景を表象として世界認識している。
だから、同時期の高名な写実画家たちは、皆隅から隅まで超細密な描写で画布を埋めきっていく方向性をとる。

だがそれらはどれも言語的に整序された絵に過ぎない。
観た人はよくこんなに根気よく丁寧に細かく正確に描きましたね~と感心はするが、そこに心地よい真の美をどれ程感じるか、、、
疑問である。
昨日の蠣崎 波響などは、見事な手仕事~細密な筆さばきを政治的手段~価値としており、細密さがリアルな表現に繋がるものではないが、大方当時のオランダ画家の超絶技巧もその範囲であるろう。

フェルメールの絵は、謂わばカメラの目であり、言葉による遅延が起きる少し前、それこそ宇宙物理の謂うインフレーション後のほんの僅かな時間~10のマイナス10乗後、、、あたりの消息を捉えた光景なのだ。
ちょっと例えが強引か?
光学的な記憶を遍く脳が言語的処理をして全てに焦点を合わせた画像を見せる前のカメラオブスキュラで覗いためくるめくドキドキする光景を魅せたのだ。
瞬間への郷愁が絵となって成立している。
画家はただ、レンズの目となって、、、。


そう、森村 泰昌氏が最後に「フェルメールは自己主張していない」と評していたが、謂い得て妙である。
流石だ。


蠣崎 波響(かきざき はきょう)

isyuuretsuzou001.jpg
「夷酋列像」(いしゅうれつぞう)
夷酋列像を構成する12枚の絵である。

アイヌの酋長を描いた『夷酋列像』が有名であるが、とても特異な絵であることは確か。

顕微鏡で描いたかのような細密描写。
描いた目的が、「藩を救うため」であること。(自分の名誉や利益の為ではない)。
画力はずば抜けているが、絵師ではなく武士。しかも松前藩家老にまでなっている。
アイヌの指導者12人を描いた絵であるが、実際に波響が直接逢ったのは、7人だけ。
異様なまでに描写にリアリティを追及しているのに、ほぼ皆同じ顔でその当人自体~IDに重きを置いたものではないことが分かる。しかもポーズも左右反転で装飾~衣装を変えて済ませてあるなど、バリエーション・フォーマット化されている。
ロシアコートを着ている指導者は、西洋画の陰影法を使うなど画法の使い分けをしている。
その時期まで(少なくとも日本)には、現れたことのない大変芝居がかった大袈裟で絢爛な肖像画である。

ともかく趣向が凝らしてあり面白く、興味が尽きない、、、。

それにしても画業と政治の両立とは、、、個人として相当しんどくはないか?

akkeshi.jpg
「イトコイ」

まず目に飛び込んで来るのは鮮烈な赤であるが、これで直ぐに異民族の姿であることが察知できる。
日本の肖像画~風俗画でこのようなビビッドな赤は使われない。
そして、12人の誰にも言えるが、服飾品も含めとても豪華で派手でありポーズもフォーマットされてはいても特徴的な動勢がある。
まるで現代のヒーローキャラの絵カードみたいに見えるではないか。
恐らく普遍的に興味関心を刺激する絵であると思われる。
1980年フランスのブザンソン美術考古学博物館で11点が発見されたという。美術館の学芸員も何故ここに渡って来たのか分からないそうだ。

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「ションコ」

個々のアイヌの首長のみならず、民族全体にも敬意を表して描かれていることは明白である。
それはまた日本国内(諸国の藩、江戸幕府、天皇)に対しても、蝦夷地において松前藩が安定した治世を行っていることのアピールでもあった。
「クナシリ・メナシの戦い」で、治世を危ぶまれた松前藩が、アイヌと日本全土に対して講じた策であった。
闘いの際、藩とアイヌとの間を取り持ち、和平に協力した酋長の絵で構成されたものである。
「絵」というものが最大限に政治的に役立った例でもあろう。
その絵を描いたのが、後に家老として藩を導く蠣崎 波響である。
それ以降、彼は剣の代わりに絵で何度も藩を救ってゆく。外交・財政両面において。

「夷酋列像」は九州の藩にまで話題となって広がり、幾つもの藩で模写がなされた。
アイヌとはどのような民族なのか、噺でしか耳にしていない人々の好奇心を掻き立てるものでもあっただろう。
彼はこの絵を携え京に赴き、光格天皇の天覧にも供され、いたく感心した天皇が、一晩彼を宮中に泊めたという。

後に江戸幕府から蝦夷地が直轄地とされた為、陸奥国伊達郡梁川藩に転封され、藩の規模を縮小されるが、ここでも絵で財政難を切り抜け、その利益で得た金を使い再び松前に藩を戻すことに成功する。
ここまで「絵」が有効に使えるものか、、、。

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「釈迦涅槃図」

波響はかの円山応挙と親交を結び、俄然絵の主題が増し表現の幅も広がりを見せる。
京や江戸で他に著名な画家、文人とも多数親交を持つ社交的な人でもあったらしい。政治家でもあるから当然か、、、。
彼は風景画や風俗画、美人画まで描くようになる。
そのなかで、びっくりしたのは応挙のあのシュルレアリスティカルな滝登りの鯉の図そっくりの絵を描いていることだ。
ある意味、如何に応挙に心酔し技術を更に吸収し高めたところを示すものか。
毎日彼は絵を描いては神社に奉納していたそうである。
絵で救われてきたという実感からか、宗教性も覚えるところだ。
全ては絵であった。唯一無二の武士~政治家であったかも。

結核を患いながらも絵筆を手放すことなく描いた最後の作「釈迦涅槃図」が彼の集大成の代表作となる。


政治(政策)と絵画~藝術(制作)をこれだけ密接に絡めて、いや同じ地平においてクリエイティブな創作を続けた蠣崎 波響も万能のヒトのひとりかも知れない、、、。



ミケランジェロ

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『サン・ピエトロのピエタ』

まず、ミケランジェロは彫刻家である。
表現技術の革新と解剖学的に人体構造を捉え美の手掛かりにする研究に余念はなかった。
これはライヴァルであるレオナルド・ダ・ヴィンチにも引けを取らない。
きっと彼も古代ギリシャ・ローマの彫刻に驚き憧れたひとりであったはず。
その「生命力」に惹かれ、キリスト教(カトリック)に囚われない「人間」に対する純粋な洞察を深める契機になったと思われる。

同時代の「ピエタ像」の死後硬直した棒のような体をしたキリストと内面の感じられないマリア。
そのぎこちない姿。
聖書の教義を理念的に伝えることのみに作られた、制作姿勢そのものの硬直した物ばかりであったなか、、、この作品の突出した超然たる美は圧倒的な輝きを放つ。
神聖な哀しみを具現化した至高の作品であろう。

「モナ・リザ」とともに、、、
完成した美とはまさにこれか、、、という。

David.jpg

『ダヴィデ像』

まだ、ミケランジェロ20代で、血気盛んな時期でもある。
ちょうど、フィレンツェからメディチ家が追放されるが、その後権力を握った藝術否定論者のサヴォナローラが処刑され、フィレンツェ共和国にピエロ・ソデリーニのもと芸術が「フィレンツェの自主性を表す象徴」として復活する。
ミケランジェロはヴェッキオ宮殿に面したシニョリーア広場に設置する「ダヴィデ像」制作を依頼された。
カッラーラの採石場から採掘した一つの大理石を掘り進み3年をかけて完成する。

これからゴリアテを倒しに行く一糸纏わぬ逞しい筋肉質のダヴィデである。
闘いの前、全身に緊張感漲る、凛々しい表情の青年だ。
ドナテッロやヴェロッキオのダヴィデは少年であり、闘いの後の剣を携え足元にゴリアテの頭部が置かれた(定型)ものだ。
この聖書からの設定の独自化が話題を呼び、その有無を言わさぬ圧倒的な造形で、ミケランジェロの名は不動のものとなる。
最初のマニフェストとも呼べる作品であろう。
これ程、力強い彫像があろうか、、、。教理に従う異論など吹き飛ばす創造力・才能の勝利であり、人間に対する洞察が深められてゆく。

Deluge.jpg

『システィーナ礼拝堂天井画』(大洪水から)
『創世記』に取材した9つの場面により成り立つ。

光と闇の分離
太陽、月、植物の創造
大地と水の分離
アダムの創造
エヴァの創造
原罪と楽園追放
ノアの燔祭
大洪水
ノアの泥酔

そもそも彫刻家に礼拝堂の天井画を依頼するとは、、、。
一番驚いたのはミケランジェロ当人であったはず。
ユリウス2世には、お気に入りのフレスコ画家ラファエロもいた。
尚更、なんでまた、、、と思ったはずだが、きっとチャレンジ精神旺盛なのだ(研究熱心でもあるし)。
しかし、天井画である。非常に過酷な仕事であったことは想像に難くない。
やはり尋常ではない構想の結果描かれた場面ばかりだ。
どういう構図なのかと戸惑うようなものやダイナミックで極めてクリエイティビティを感じさせるものまで、、、。
特に「大洪水」など箱舟は遥か先に浮かんでいるのが分かるくらい、ノアもいるにはいるが、忙しそうにしているだけである。
主題は寧ろ、危機に瀕して何とか逃げ延びたい生きたい、と子供を抱いてもがいている一般の人々である。
宗教家達はそこをどう見たのだろうか?

Last Judgement


祭壇壁のフレスコ画の『最後の審判』もミケランジェロ以外の誰からも生まれないものである。
誰もが裸で身分も地位も分からない。ただの「人間」である。特別な者はひとりもいない。
非常に力強いキリストと傍にはマリアが立ち、地獄へ逝くもの天国に逝くものを選り分けている。
背景には美しいラピスラズリ~この上ない美しい青が広がり、誰もが特に悲しんでも喜んでもいない(当惑してはいても)。
誰にも等しく光が当てられているのだ。

当時の宗教家達はこれを観てどう判断したのか?少なくとも他の、しっかり教義に従い描いた画家達の「最後の審判」とは全く違う絵ではないか、、、。
だが、これも人類史上最も優れた「最後の審判」と彼らから評価された。
この有無を言わせぬ力こそ、ミケランジェロの技量と人間に対する洞察力によるものだろう。

Pietà002

『ロンダニーニのピエタ』

わたしは現実や日常において泣くようなことはまずないが、芸術作品を観て感極まる経験は何度もある。
この「ロンダニーニのピエタ」には、一度ならず極まった。

初期にして藝術作品として完成された『サン・ピエトロのピエタ』から60年を経て、ついにここまで来てしまう。
未完成という形をとってはいるが、これ以上進むものではないだろう。遺作とは言え中断には見えない。
余計な「表現」が剝ぎ取られていった結果の最終形体なのだ。
日本の高僧が彫った石仏みたいだ。現代アートにも通じ凌駕している。
最早、完成の遥か先にいってしまった。時空を超えて人間の本質がそのままここにある。
そうとしか感じられない。

右腕が打ち捨てられているところから、きっとキリストはもっと前のめりの姿勢でマリアが後ろから覆いかぶさる構図だったのかもしれない。しかし、ほぼ直立しようとする(瞬間的)姿勢をとったのだ。
その刹那がこんな永遠の美として凍結しようとは。
偉大な哀しみ。


何故、ミケランジェロは敢えて、右腕を残したのか。



地図にない場所

アーススキャナーというNHK番組(ここのところ連続)が録画されていたためディスクに移してそれを見ていたら、半分ほどで切れた。丁度、その頃デッキが一杯になって途中で録画出来なくなっていたのだ。
これは、ちょっと惜しい。だから、わたしが観たのは、マココの水上集落と、シーランド公国の途中まで(トホホ、である。

makoko.jpg

上空から見た映像ではしっかり猥雑な風景が映っているのに、地図では真っ白という地帯がナイジェリアの「マココ」という場所だ。
ナイジェリアのラゴスの普通の商店街を歩いていて、道路脇の狭い路地を入ってゆくと急に小さな船着き場があり、そこから岸を離れるとすぐに海上集落へと迷い込む形となる。

水に囲まれて(包まれて)住むというのは、どんな感覚なのだろう。
ゲストに呼ばれた、ボビーオロゴンもここの事は知らなかったそうだ。
いちいちびっくりしていた(笑。彼は彼らから魚を買うだけの立場のヨルバ族ということ。
(しかし、ボビーの話し方、独特の話術は癖になる面白さがある)。

水上に夥しい手作り家屋が柱で組まれて建っており、その間を縫うように沢山の荷物の積まれた小舟が走る。
家には子供たちが燥いでいたり、活き活きした生活臭が漂っている。舟の荷を見ると、それぞれ異なり興味が尽きない。
謂わば、生活に必要な衣食関係のモノは全てその移動マーケットで賄えるようになっているようだ。
何と砂土で埋め立てられた学校まである。小さな校庭が微笑ましい。
総勢で10万人がいるという。
凄い広がりだ。

漁に出る父子、水に潜って泳いで遊ぶ幼い子供たち。
家族の結びつきも親密で一見、楽園的な光景にも見える。
だが、そこにいる住民たちは選択の余地なく、そこに暮らしているのだった。
彼らは漁師であり、魚を採って暮らす以外に術がない。

ナイジェリアのベニスとか司会者は言っていたが、水は濁っていて汚い。上下水道などのインフラなどあるはずもなく、衛生状態は悪い。医療関係も如何にも厳しそうだ。電気も内陸から住民が個々に電線を引いてきている状況である。
ここに住むエグン族は漁労民族で、昔から先祖代々ずっと魚の採れる水域を見つけるとその近辺に移住し漁師として生活を続けて来た。
フランス・イギリスの占領下に入ってから後、その海上に住むこと自体が違法となっている。
過去に政府側から一方的な強制撤去が強行され、建物を壊され住民が放り出されたことがあったという。
それで子供たちを病気でかなり失ったそうだ。

彼らが他の形で漁業が出来るようにする工夫とか、雇用の創出をするなどが同時に図られないと、単に元に戻るだけである。
逞しくまた水上集落は更に膨らみ続けているようだ。


sealand001.jpegsealand002.jpg

北海の南端、イギリス南東部のサフォーク州の10km沖合いに浮かぶ放棄された構造物を領土と主張するシーランド公国である。
かつて海軍の海上要塞で対ドイツ軍のレーダーや高射砲を備えた物騒な海上の建築物であった。
それに住み着いた人々の国で現在187人の国民を抱えているという。
国旗もある。
何とも実に趣味的で大人の秘密基地そのものだ。
見張りも随時独りたてているという(笑。


場所と建造物的にはワクワクするが、国となっていては余り行く気もしない。
法もあり、面倒な人間(上下)関係があれば、陸地から船で40分の謂わば孤絶した海の中に閉ざされた場所である。
わたしは普通の陸地の国家にいた方が気楽でよい、とかまず思った。
しかし、デッキから海と月を眺めてワインなど飲んでみたら、それは不満など薄れてしまうかも、、、。

塩で老朽化(確かに70年経過)しているが、北海の強い風を利用した風力発電や頻繁に降る雨水を濾過した水回りなどは、しっかり設備が整えられていた。地下7階くらいあり、高級ホテル並みのベッドルームもあって、大人の仲間と暮らす趣味の共同生活にはよさそうであったが、何と一番下の方には礼拝堂、首脳陣の会議室、その下には刑務所まであった。
多分ジョークであろうが。

今のシーランド公の父に当たるパディ・ロイ・ベーツという人が、放送法違反で訴えられた「海賊ラジオ」の拠点として占拠したのが発端であったが、イギリス政府が何とかそこを立ち退かせようと裁判に持ち込んだ。しかしその場所がイギリス領海外であったためにイギリス司法の管轄外ということになり決着した。
切手やコイン(メダルか)や金で買える伯爵の爵位(証明書)などを発行(販売)して財源を確保する等なかなかぬかりはない。
現在、世界中から国民となるための問い合わせが相次いでいるという。
世界情勢からみれば、頷けるものである。
(但し、人口から謂ってもうギリギリだと思うが)。


ただの大人の趣味の遊びではなくなっているのかも。
(最初から切実な行為であったことは分かる)。
個人があらゆるものから自由になるための場所として確保されたのだ。
問い合わせをして来る人々にとっても最後の砦的な場所なのかも知れない。


地図にない(認められていない)地帯、というロマンチックでアナーキーな場所であるが、実際に住むとなれば、どうなのだろうか。
インフラも含めて、不自由を感じ出したら厳しい現実の方が頭を擡げるように思われる。

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写実の彼方へ

aqua.jpg

普段、外界と自分との関わり~知ること、が希薄で脆弱に思えることがある。
この景色は良い、と思ってiPhoneでスナップを撮って終わりにしていたりする、、、。
撮った写真をじっくり眺め入るならならまだしも、撮って安心して観た気になってしまっている。
そんな形で事象のほとんどを素通りしていることが多い。
(一日がつまらなく感じたなら、それは間違いない)。

昨日に続き、NHK(NHKの回し者ではない)の日曜美術館で写実絵画~高橋由一と岸田劉生から後の流れについての特集を観た。
さらっと流しているが、取り上げられた作品や作家のことばには圧倒された。(パソコンの液晶を通してでも)。

Wyeth.jpg

最近、やはり同番組で観た「アンドリュー・ワイエス」もそうだが、、、
写実絵画(の優れたもの)は、ほとんどが普通の記録写真を超えた質と情報量を湛えている。

写実~リアルとは、そもそも何か。写実画の作用とは何か。
物から入って行くが、突き詰めてゆくと、見えないものが徐々に~次々に明かされ五感に訴え掛けて来る。

確かにこの世には、形しかない。
その形体を単に希薄な記号のように認知して暮らしていては、当然こちらまで希薄で硬直した存在になってしまう。
その積み重ねの中で暮らしていても、何にも辿り着けない。
意味も価値もとても浅薄なものと化す。
焦燥と不安と閉塞ばかり募って、ことばからは重みが剥奪される。

生活の過程に垂直性がないのだ。


まず自分にとって「現実」とは何なのか。
その問いが、写実の動機となる。
自分の目で見て、色々なものを感じる。
現実に対峙する。

3年間、同じ場所~浅間山に通い詰め、日々刻々と変わる画像を追いかけ、季節による変遷を画布の上に更新し続ける。
そして木の年輪のように分厚い、質量をもった絵が生成された。
水野 暁氏の「The Volcano-大地と距離について/浅間山-」である。
写真などでは感じることの出来ない奥深い「運動」がそこに体感できる。

asamayama.jpg

作家は直接自然に対峙し共振して、われわれに強靭な描写力で訴える。
体験をもっともリアルに濃密な時間をもって行うのは作家であるが、鑑賞者であるわれわれも
その絵を通して探ることになる。
大地の蠢き、律動を。畳みこまれた時間を。その結晶を。
そして初めて見る山の表情を、目の当たりにする。

写実絵画の力である。
(確かにへたな抽象画では到底体感できない。ましてや理解など)。

水野 暁氏によると、、、
「絵になるかどうか、ではなく、何を掴むかだ」という。
写実絵画(この内の優れた作品)は、確実に何処かの地層に物理的に到達している。
(寧ろ知層の表面を撫でているだけなのは抽象画に多い)。

Salmon.jpg

事象を深く感じ味わいたい。
そうした「写実」だ。



北大路魯山人

kiki.jpg
NHKの日曜美術館で樹木希林の解説で「北大路魯山人」をやっていた。
「北大路魯山人」が樹木希林のナヴィで語られると、北大路魯山人というより樹木希林の人生が浮かび上がってきた面白いものだった。
どちらも、凄い人である。
このTVで語られた内容の範囲のみで何か書いておきたい。

出て来てのっけから、わたしは本物なんかに興味はないとくる。
流石だ。
最初から突き放して来て、司会者ふたりをドギマギさせていた(笑。

偽物でも面白い。
そう、それそのものよりも、あてがわれた美というものがあるのだ。あつらえられた美である。
これをそのまま日常でも実践しているところで彼女と魯山人は重なる。
謂わば、「用の美」として。
そのエピソードがやたら面白く、終わりの方で紹介したい。


魯山人も「焼きもの知らず」と評されながら、罅や書き損じなどの所謂「失敗」をチャンスとして利用し、彼独特の美学を追求している。
「当意即妙よ」と樹木希林の述べるまさにそれであろう。
計画や作為をもたない、刻々と生じる事態を謂わば編集する作業と謂えるか。
ジョン・ケージのチャンス・オペレーションにも通じる。

「創造には破れ目がなければつまらないわよ」
確かにわたしも陶芸で、焼いた後で罅の入った部分に新たに粘土を流し込み、二度焼きしたものの焼き上がりに、見蕩れたことがある。最初から計画してとても出来る代物ではないのだ。

「不揃いの美に気迫が籠っている」
とても熱気もあり、破天荒な独自の形体の追及をしていることが感じられる。

彼は北大路という社家に生まれながら、里子に出され、学校にもろくに通えず転々として育ったという。
印刷と看板の仕事で生計を立てていたが、ある時料亭で出された器に衝撃を受け、仕事を辞め陶芸家を目指す。
だが、生来の型に嵌められるのを嫌う性格から、特定の師を持たず、独学で陶芸を学び研究して行く。

パトロンが出来、赤坂に料亭を出し、料理を引き立てる器~脇の小さなもの~の追及が始まる。
それは「美食」の追及であり「用の美」を極めんとする創作活動であった。
如何に優れた脇役を創るかということであり、樹木希林が溜息交じりに独白するには、「近頃主役やる子はいくらでもいるんだけど、力量のある脇を張れる子がとっても少ないのよね~」ということである。まさに彼女こそ超ド級の脇役であるが、確かに主役は脇にしっかり固められてはじめて輝く。これはわたしも多少映画を観始めて痛感することだ。
料理~主役との構成美の追及である。

更に使ってこそモノは活きる。
確かにしまっておいては、何のためのものか分からないし、意味もない。
またそれを使うことで、美意識が磨かれる。
又はその当人の美意識が試される場ともなるだろう。
魯山人は、客であろうが、一切妥協しなかった。
であるから、予約に遅れてくる客など、言語道断となる。
客や料亭スタッフとも激しくぶつかったようだ。
その為、オーナーに自分の店から解雇されてしまう。

そういうことは充分に想定される。
彼は美意識を日常の隅々にまで徹底して張り巡らせた。
厳格な美意識のもと妥協を許さない姿勢が周囲との軋轢を生む。
これは必然でもある。
自分が非常に可愛がっていた彫刻家のイサム・ノグチを暫く家に住まわせたが、洗濯物を干したかどで大激怒したことは、有名である。
彼は風呂場も全て自分で造っていた。
彼の価値観にそぐわぬものは、同居不可能であり、彼は孤絶した。
「彼の美意識に拮抗し共感できる客はいなかったでしょうね~」
「伝わる人には伝わるし、伝わらない人には決して伝わらないのよ。伝えて変わるもんじゃないのよ」
「わたしも若いころ老人役をやったけど、何も変える必要なんてないと気づいたの。バーさんになったって、欲張りで見栄っ張りの人は絶対に変わらないし、そのままで良いのよ。年齢設定なんてすることないの」
全く激しく同感である!

魯山人は料亭を解かれた後、自分の工房に籠りひたすら創作を続けた。
自分の目指す美に拘り続けた人である。
「この世を少しでも美しいものにしたいと歩んだ」と魯山人は晩年を結んだ。
「家系のDNAもあるだろうけど、彼は美によって神の存在に近づこうとしたのでしょう」
司会者から「でも最後に分かってくれみたいな文を書かせてしまうなんて、可哀そうにも思いますね」と向けられると、「期待する方がおかしいわよ。孤独を受け容れてやっていくしかないでしょ」まるで彼女自身のこころの内を謂っているようだ。
自分に向けられ「わたしは何にも執着はない。自分のなかの綻びを繕いながら生きていると謂えるかな」

最後に彼女なら魯山人を理解出来たのではと向けられ「そうね。結婚した後、ずっと別居でやってけそうね」と少女みたいに笑っていた。
彼女の「用の美」というか、「当意即妙」振りも只者ではない。
秋篠宮 文仁親王と親王妃に拝謁する日に、ホテルで支度をし留袖を着ている時に帯締めがない事に気づいたそうだ。
普通なら、そこでパニックになりマネージャーに無理を言って用意させたり、少し前話題となった議員であれば秘書を怒鳴りつけて何とかさせるところであろう。しかし彼女は数学的な「合同」に囚われない。
彼女が冷静にしたことは、電気ポットのコードを抜いて帯締めにあつらえたことだ。
それで何食わぬ顔をして拝謁したそうだが、紀子妃は怪訝な顔をしてそこを屡々眺めていたそうだ(笑。

樹木希林ならきっと彼とも上手くやっていけると思われる。


これはどう見ても北大路魯山人を肴に樹木希林を語った番組であった(爆。






ニッポン無責任野郎

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1962年
古澤憲吾 監督
田波靖男、松木ひろし 脚本

主題歌『これが男の生きる道』、『ショボクレ人生』 青島幸男 作詞、萩原哲昌 作曲
宮川泰 音楽


植木等 、、、源均/平均
団令子 、、、丸山英子
ハナ肇 、、、長谷川武
草笛光子 、、、静子
谷啓 、、、中込晴夫
浦辺粂子 、、、、中込うめ
藤山陽子 、、、石沢厚子
由利徹 、、、宮前社長
犬塚弘 、、、王仁専務
人見明 、、、幕田常務
中北千枝子 、、、幕田由紀子
岡部正 、、、近藤
土屋詩朗 、、、板倉
世志凡太 、、、会津
中真千子 、、、芸者初太郎
中島そのみ 、、、マダム満江
桜井センリ 、、大原
安田伸 、、、小山
ジェリー伊藤 、、、ゲーリー


BSに昨日の「無責任時代」とともに入っていたので観た。
実に拾い物である。
テンポもよく、アナーキーでコミカルで痛快である。
それにしても、団令子はどうしても役名に「丸」をつけられるのだ。
確かに丸いが、そんなに拘るところでもなかろうに、、、昨日なんて「まん丸」である(爆。ちょっと酷い。

自由が丘には、ほとんど毎日通って(途中下車していた)時期もあったが、こんな風情の頃もあったんだと、感慨深い。
何と言うか、全てがこれから始まるぞ、といった潜熱を感じる。
そんなところに、改札で切符も渡さず(買っておらず)、ヒトの煙草を瞬時にせしめ、体当たりした男の会社をすかさず狙う、源均のお洒落なイントロから始まる。

その(株)明音楽器は、丁度次期社長の椅子を巡り、王仁専務と幕田常務が対立し両派に分かれて争っている最中であった。
そこに目をつけ、すかさず利用する均。
両者(両派閥)に目配せして、お世辞を言って手懐け、両方に上手い噺を持ち掛ける。

谷啓の堅物振りもハナ肇の翻弄され振りも鼻の下を伸ばしつつも独特な威厳を保つ由利徹も前作同様、しっかり決まっている。

前作では一番最後となったが、今回は始まって早々、英子(団玲子)との結婚を果たす。
無責任スタイルでグイグイ迫り、そのまま結構お似合い夫婦となって愉しく暮らしている。
銀行の通帳を一円で作り、会社の未収金の取り立て金を自分の口座に入れて、英子には200万預金があると見せかけ信用を得る。式では、出来るだけたくさんの人を(幕田常務 の愛人も)呼んでその会費にあて懐を潤す(ちなみに、昨日は香典泥棒であったが)。新婚旅行は遊園地で済ませるが、乗せるのがうまい均にまんまと乗せられ、英子もいつしかご満悦。
その調子で、何か事があってもスルリと切り抜ける。

特に、アパートが狭いと愚痴をこぼす英子の要望に応えて、自分が取り持った中込夫婦の嫁姑問題の解決の為、彼らに姑から離れて暮らす提案をし、自分のアパートを中込夫妻に貸す。引き換えに広い庭付き一戸建てにお手伝いさん(長谷川の母)付きで住まうことにする。英子もこれには大満足。厚子は前から二人でアパートに住みたがっていた。双方がウィンウィンということだ。更に中込邸の植木を根こそぎ引き抜き、駐車場にしてしまう。これで入った収入をおばあちゃんにも渡します、とそこまでやるかである。駐車場の車係も始めた母うめも元気が出て矍鑠としてきたことで前向きな性格となる。結果、中込夫婦とも和解する。
何という、、、。


だが、サックス奏者のゲーリーをステージからいきなり拾って来て、アメリカのスミス楽器の社長の弟にしたて、彼とはオクスフォード時代の学友だったとか訳の分からぬ出任せを言って信用させ(入社時に何も調べとらんのか?(怒)、自分が両社の提携の仲立ちをしましょうなどと持ち掛けるが、それを王仁専務も幕田常務も双方ともすっかり信用し、源均に気前よく賄賂を渡す。それは勿論、均のポケットに。
会社の接待費で派手に飲み食いして、それで集めた未収金500万は自分の口座に入れ、おまけに賄賂までせしめ、これは犯罪以外の何物でもない、が調べで分かってしまい、王仁専務、幕田常務双方からクビを言い渡されると、じゃあ退職金は2倍貰えるんですね、とくる。細かいことだが、500万で利子で大儲けみたいに言っていたが、凡そ現実味のない昔話である。
もっと細かいが、煙草を頻繁にポイ捨てしていたが、今やったら罰金ものである。
時代の違いを思い知らされるところだ、、、。

ここでもクビになると何の未練もなく、サッサと高笑いで出てゆく。
だが、宮前社長のぞっこんの芸者・初太郎の社長友達情報から、また新たなカモ~会社を探し出していた(笑。
何と言うか、、、。

均の強みは、周囲にいる綺麗どころと直ぐに打ち解け仲良くなってしまう性格だ。上司長谷川が好きな高級バーのマダム静子や王仁専務の恋人のマダム満江、、、などそして上手く長谷川と静子の仲をとりもち、堅物の中込と彼が思いを寄せる石沢厚子との
仲も取り持ってしまう。この辺の繋がりから広がるネットワークは結構大きい。
均は一年ほど、英子のもとを離れ独り出てゆくが、王仁専務も幕田常務も前社長・宮前から社長失格を宣告されており外部の資本「北海物産」に乗っ取られることとなった。
新社長が明音楽器に乗り込んで来た時、社長と共に秘書としてやって来た男が、何と源均であり、英子以下社員はビックリする。そして彼を雇った社長が、平均であった。


もうこちらも唖然である。


どうしてもこんな風なエンディングに持ち込みたいのだ(笑。


ルナティクス

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夜空に雲が垂れ込め、月が見えないことが多かった。
どうもじめついた日が続き、娘と外で遊ぶのも憚れる。
傘を差して歩くというなら、これまでもピアノや買い物の行き帰りにあるが、ただ散策と言うのは動機から言って設定が難しい。
雨の中の散歩に適した場所も今ひとつ。

それにしても雨が多すぎるのだ、、、。

どうせ雨が降るのなら、雨のしずくが月の光を反射したときに作られるという「月虹」(げっこう)を観たい。
いつか、、、絶妙な条件下で、運が良ければ、、、。
月にかかる虹を観てみたい。
死ぬほど美しいという月の虹~moonbow。

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写真で観ただけでもうっとりする。
「ゆらぎ」を光で観たらまさにこんな感じか。

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~moonbow


美しいものを観るには、やはりひとところにいては、物理的に観れないこともある。
これは確かで、NHKの「プラネットアース」など時折見ても、それは感じる。
しかしタイミングは難しい、、、。
そう遠くないうちに行こうと思っていた「九寨溝」はどうなっただろう。
あの翡翠のような「火花海」は、、、地震で決壊して水が流失してしまったことがニュースで伝えられたが。
これも水と光による究極の「ゆらぎ」の美である。

美は儚さと常に同居している。

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


今日は、はっきり言って暑い。
朝、外に出しておいたカメを入れた予備の水槽の水が風呂より暑くなっていた。
カメが暴れているはずだ。

晴れの取り得は洗濯物がよく乾くことと、夜までそのままなら、月が観えること。

今日の月齢は22.4、、、下弦の月(月相21)、、、三日月に近づいてゆく。
これもよい。

ちなみに、上弦の月(月相7)は28日。


ニッポン無責任時代

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1962年
古澤憲吾 監督
田波靖男、松木ひろし 脚本
主題歌『無責任一代男』、『ハイそれまでョ』作詞 青島幸男、作曲 萩原哲晶

植木等 、、、平均(たいらひとし)
重山規子 、、、佐野愛子
ハナ肇 、、、氏家勇作
久慈あさみ 、、、氏家時子
団令子 、、、まん丸
峰健二 、、、、、、氏家孝作
清水元 、、、、、、大島良介
藤山陽子 、、、大島洋子
田崎潤 、、、黒田有人
谷啓 、、、谷田総務部長
安田伸 、、、安井
犬塚弘 、、、大塚
石橋エータロー 、、、佐倉
櫻井千里 、、、青木
松村達雄 、、、富山社長
由利徹 、、、石狩熊五郎
中島そのみ 、、、麻田京子


驚いたのは、本作がとても好評であった為、この「無責任シリーズ」ものが30本も量産されたという。
わたしは題名だけで4,5作しか知らなかった。
面白いことは確かだが、そこまで続くか、、、流石に眩暈がする(笑。

ひとえに植木等の存在であろう。
彼に(映画の彼に)影響を受けたひとも多かったはず。
所ジョージなど、彼の息子ではないか。

しかしこの作品、60年代だから出来たものだと思う。
現代、このような映画を作る元気と無分別さと身軽さは何処にもない。
高度成長期の何となく希望の明日があるという日常意識が素地になっていると思う。

超然としたダーティヒーローものである。
いや、C調ヒーローなのか。

世の偽善と欺瞞を軽ーく手玉に取って、間違っても正義の為などではなく、刹那的な遊びこころを満たす為だけに解体して横断して行く。平 均(たいら ひとし)という名前からして人を食っている。
大きな掛け声と高笑いとともに、やってることは、ほとんど詐欺であり、お調子者では済まされない内容である。
ただ充分にお調子者で鼻の利く男ではあるが。
その為に、ひょんなタイミングでポンっと出世して人を驚かせる(笑。

「出世、出世」と口癖のように言って「ゴマすり」してほらを吹きまくり、接待で会社の金を使いまくるが、真面目な社員より成果をあげてしまう。彼の破天荒振りを煙たがり、生理的に反感を抱いていた同僚も彼に次第に惹かれ始める。女性にももてる(このことが運も多分に引き寄せている)が、結局管理~体制側に「クビ!」と言われると全く拘りなく素っ気ない態度で去って行く。
爽快さとともにストイックな意志も感じられた。

つまり出世や金など念頭になく、女性にも時計時間にも縛られたくない。
それがひとことで言うと「無責任」なのか。
出家僧(高僧)の趣きすら感じてくる。宗教性のない賢者(詐欺師すれすれ)であるか。
この軽みが要である。
自らの囚われを捨て、チャンスにフッと身軽に乗る。


この噺~映画は、下品な嘲りや違いを差別し虐めを基調にして作る傾向の強い現代のお笑い~エンターテイメントとは根本的に異なる、軽さと明るさおおらかさがある。
ミュージカル調に入る歌などもあざとく面白く、笑えるのだが、、、現状との距離も感じて意識してしまう。


この「無責任」~今、これを主張する基盤~元気がひとの精神にも社会にもない。
わたしも、ついつい責任を感じ余計なことをしてしまう、、、。


由利徹の存在が微妙なゆらぎを生んでいた。






蘇る金狼

Resurrection of Golden Wolf
Resurrection of Golden Wolf

1979年
村川透 監督
永原秀一 脚本
大藪春彦 原作


松田優作、、、朝倉哲也(東和油脂 経理部 社員)
風吹ジュン、、、永井京子(小泉の愛人)
成田三樹夫、、、小泉(東和油脂 経理部長)
小池朝雄、、、金子(同社 経理次長)
草薙幸二郎、、、竹島(同社 専務)
岸田森、、、石井(興信所 所長)
佐藤慶、、、清水(東和油脂 社長)
千葉真一、、、桜井光彦(鈴本の甥)
真行寺君枝、、、清水絵里子(清水社長の末娘)
結城しのぶ、、、牧雪子(バー・ルナのマダムで桜井の愛人)
南原宏治、、、磯川(市会議員で県の公安委員)


BSで入っていた。これは松田優作の代表作のひとつではないか、、、。
観ておいて損はないと思い、観てみた。
若い。
皆、若い。

何と謂うか、「松田優作」という感じの映画であった。時代感も色濃くしっかりあった。
だが、松田優作だけみれば「ブラックレイン」の佐藤浩史の方が遥かに強度は高い。


松田優作が、マセラティ・メラク、BMW520、ランボルギーニ・カウンタックに乗っていた。
ホントに贅沢な役柄だ。
特に、最後にカウンタックに乗りながら勝利に酔ってニヒルな高笑い?をしていた。
交通法規完全無視で。ここまで命知らずの無法なやり方で勝ち取ってきた。
全てが上手くいき、いまや悪徳企業の重役にまで上り詰めたのだ。
そりゃ、高笑いもでるわな。わたしもカウンタック乗りたい!(爆。

どこを切ってもギャグであっても虚無的に淡々と進む。
彼は普段はコテコテの黒縁眼鏡のサラリーマンであるが、夜毎ボクシングジムでパンチを鍛える男。
かつらと眼鏡を取ればワイルドな孤高の、、、野心家であろうか、、、外道な事をやって野望を遂げる男である。
彼特有の美学が感じられるが、意味不明な部分も美学なのかどうかが分からなかったりする。
(子分を皆殺しにしておいて、親分とのヘロインの取引にご丁寧に代金を支払っている。そのまま薬だけ軽く強奪できる状況ではないか、何でだ、、、というような)。

適度なカースタントもあり、ちょっとコミカルな千葉真一がいて暗躍するが、割とあっけなく殺されたり、、、。
岸田森が訳の分からぬ壊れた興信所 所長なのだが、やってることは、ほとんど殺し屋である。
彼も派手に自意識過剰に殺される(幅広くいろんな役をやる人だ)。
色々出てくるが、次々に殺される。松田優作はかなり近距離を走って抜けるが被弾しないし掠りもしない。
風吹ジュンとの関係は、確かにありそうなリアリティを醸しているが、意外性とか新鮮味はこれと謂って、ない。
(松田優作に対して風吹ジュンが何というか平凡な感じで物足りない気がしたのも影響するか)。

物語自体は、ハードボイルドの定番路線で、基本フォーマットに沿ったかたちであろう。
特に目新しさや逸脱感や驚きを得たというものでもない。
所謂企業ヤクザ映画か。


だがひとつ、些細な部分であるが、松田優作が麻薬元締めの市会議員磯川に詰め寄った際、銃を構えた用心棒に背後から狙われたときに捏ねた理屈が面白い。
「ちんぴらめ、後ろをふり向いてみろ、ゆっくりとだぞ~」と磯川に謂われた後だ。

「いいかね、この距離からあの種類の銃をぶっぱなせば、弾は完全に俺のからだを貫通して、あんたに当たるんだよ。それにだ、おれのからだを貫通するときは 弾は炸裂しない。だからまだ助かる見込みはある。ところがあんたのからだにくいこむときは、弾のつぶれがひどいから、間違いなく即死だな」
「無知だねえ、弾ってのはねえ、一番抵抗の少ないところを抜ける性質があるんだ。俺がからだの向きをちょっと変えるだけで、あんたの心臓めがけて飛ばせることもできるんだよ」
「試してみるか?」 「撃ってみな、撃ってみなよ、おい!」
これを聞いて躊躇して怯んだ隙に形勢逆転である(笑。
これには感心した。
大分以前、この部分は松田優作のアドリブだとか話を聞いた覚えがある。
ホントかどうか分からないが、、、凄いと思った。
そんな部分がこの映画には幾つもありそうな気がする。
彼独自のシチュエーションが脈々と流れているのだ。身体性が感じられる。

「わかった、撃つな、撃つな、たのむ、お願いだ、殺さないで」
というチンピラに対し「ダメ、ダメ」、「家族はいるのか、こどもは」
「いるいる、い~っぱいいるんだ」
「死んだほうが幸せになれるよ」
と躊躇わず撃ち殺す。
このときの「ダメ、ダメ」がとても彼らしい。親がこどもを窘めるような目線の言い方なのだ(笑。
この「ダメ、ダメ」は癖になるかも。

Resurrection of Golden Wolf002

絶対に撃たれないハードボイルドヒーローであるが、愛人に腹を刺されて死ぬというのも、必然的な流れであった。
ただ、絶命するまでがかなりの尺を取る。
松田優作の独り芝居の独壇場である。
瀕死の身でありながら、絞め殺した風吹ジュンを抱きかかえ階下(ここは教会の廃墟か)に投げ捨て、そこにふたりで海外に高飛びするための搭乗券の一枚をハラハラと落とす。
その後、彼独りで飛行場に入るが、俯瞰するカメラ視線で、鞄をさげて何もなかったかの如くの足取りで歩を進めるも、急に体のバランスを崩し腕脚の制御を失い無残に潰れ倒れ込む様子が映される。
これだけで充分、巧みで饒舌な表現だ。

また力を振り絞りぎこちなく起き上がって歩く。
飛行機搭乗中に明らかに体調の異変を悟った客室乗務員から声を掛けられるが、顔面蒼白で意味不明の事を口走り(もしかしたら、これもアドリブか)シートの中で精気を完全に失った人形のように崩れて事切れる。


やはり「彼の映画」だとつくづく思う。



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ヤモリ出現!

Yamori001.png

二ホンヤモリ現る。
決まって、いきなり鉢合わせと謂った出遭いとなる。
ビックリするが「守宮」または、「家守」であって、家の為になる縁起の良い生き物なのだ。
出逢った日は、「運が良い」とか言われてきたが、、、。
果たしてどうか?
娘たちもやって来て、キャーキャー騒ぐ。
昨夜、わたしは変な所で出逢ったのだ。

トイレにどうしていたのか(どうやって入ったのか)分からぬが、二階のトイレを開けた途端、チョロチョロと天井に駆け上がって行くのだ。
結構、大きかった。
わたしが感嘆の声をあげたので(悲鳴ではない(爆)、家族みんなが集まってきた(要するに暇なのだ)。
どうしたものかと思い、というのも上にヤモリがいては落ち着いて座っていられないので、小窓から外に出そうとしたがなかなか誘導には応じてくれない。
向こうにも都合というものがあるだろう。
かなりの、漸近的接近ともなった(笑。
そして暫くたつとスルスルと降りて、隙間に消えてしまった。
皆まちまちに好き勝手なことを言い始める。
長女は、明日宝くじを買えばとか、訳のわからぬことを勧めてくる。

思えば、これまでも、、、
朝雨戸を開けようとしたところ、雨戸とサッシの狭間のスリリングな空間で、ガラスに貼り付いていて目がばったり合うこともあったし、家の壁で見かけたかと思うと、スルッと脇に消えたこともある。
突然出逢うインパクトとふと脇に消えている消息の謎が、とてもこころを擽る。
決まって、確信に満ちた彼らの場所~隙間にサッと消えて行くのだ。
そこは、何処なのだ、、、。

隙間?ここでも見事に何処かに消えた。
とは言えトイレの何処かである。
屈んで確認するがそれらしいところも見えない。
絶妙な隙間がきっとあるのだ。
まさにそこが、、、余剰次元!
と謂って見たかっただけだが、、、好奇心が擽られロマンと不気味さが馨しい、、、トイレだが。
しかし、その隙間の広さが今物理学で言われている余剰次元の大きさに匹敵するではないか!

いよいよトイレの花子さんより面白い噺が出来そうではないか?
童話作家にチャレンジしてもらいたい!?


これは、そのうち落ち着いて考えてみることにして、今日はヤモリに絞りたい(笑。

Yamori002.jpg

ヤモリは昆虫を(害虫と言われる虫も含め)結構ダイナミックに無造作に食べる。
毒性は持たないし、可愛らしいと言えばそうだが超然とした顔と体と動作の生き物の為、昔から(日本では)それなりに親しまれている。
だが、いざペットとして飼うとしたら、水分のあげ方~水そのものは呑まず、木の皮とかを湿らせておく~や昆虫も生きているものしか食べない、など手間がすごくかかる。生きてる昆虫を毎日あげるって難しくないか?カメの方がずっと楽だ。
何となく粋で素っ気ない隣人同士で、すれ違いつつ付き合うのが一番無難な気がする。

彼らは蛇と同じく脱皮する。
このたまらない異物感。
しかも目の部分も膜状に綺麗に剥離するのだ。
そのまんま元のフェイスが残る形となる。
(原型が崩れず残ったものはそれは見事なものだ)。
ヤモリファンやマニアには、垂涎のコレクションとなるのでは、、、。

Yamori003.jpg

生理的な嫌悪を感じてしまう人には、もうほとんど害虫かエイリアンの一つであろうが。
ヤモリは、しっかり冬眠もする。
爬虫類だ。(好きな人は好きだ。ブロ友さんにもいる)。
チョット似ている(名前が特に似ている)イモリは、水気の多い井戸や池の近く、やはり民家近傍に住んでいる。
カエルの出るところにはよくいる。これは両生類だ。少し毒ももっている。


どうやらヤモリはもうトイレにはいないようで、玄関か何処かの塀に登って遊んでいるように思う。
夜行性だから、今頃アクティブにあちこち走り回り、猟に勤しんでいるのかも知れない。
しかし実際の所、何処でどうしているのやら、、、。

こんな変わった(別に変わってはいないか)~われわれも随分変わっているが~隣人がごくごく近傍に生活していて、時折われわれの世界にいる虫を食べるという作用も及ぼしている。
気を抜いている時に突然姿を見せて驚かせ、他者というものの存在を想い起こさせてくれる。
他の時間系というものも、、、。
若しくは、他のネットワーク。


ETはすぐ近くに、きっといつも、いる。



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プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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