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グランド・ブダペスト・ホテル

The Grand Budapest Hotel

The Grand Budapest Hotel
2014年
イギリス・ドイツ

ウェス・アンダーソン監督・原案・脚本・製作
アレクサンドル・デスプラ音楽
シュテファン・ツヴァイク(オーストリア)の小説にインスパイアされる


レイフ・ファインズ 、、、ムッシュ・グスタヴ・H(名コンシェルジュ)
F・マーレイ・エイブラハム 、、、ミスター・ゼロ・ムスタファ(グスタフの後継ぎ、現ホテルオーナー)
エドワード・ノートン 、、、ヘンケルス
マチュー・アマルリック 、、、セルジュ・X
シアーシャ・ローナン 、、、アガサ(ゼロの妻)
エイドリアン・ブロディ 、、、ドミトリー
ウィレム・デフォー 、、、ジョプリング
レア・セドゥ 、、、クロチルド
ジェフ・ゴールドブラム 、、、代理人コヴァックス
ジェイソン・シュワルツマン 、、、ムッシュ・ジャン
ジュード・ロウ 、、、若き日の作家
トム・ウィルキンソン 、、、作家
ビル・マーレイ 、、、ムッシュ・アイヴァン
オーウェン・ウィルソン 、、、ムッシュ・チャック
トニー・レヴォロリ 、、、若き日のゼロ


豪華キャスト。
注目のシアーシャ・ローナンやチョイ役でレア・セドゥを使っている。
贅沢である。

若き日のゼロと名コンシェルジュのグスタヴふたり(今風に謂えば相棒か)の珍道中いや奮闘劇である。


独特の映像美を愉しむ映画
何かをこの映画を通して知るというのではなく、映画自体を心地よく味わう為の作品である。
謂わば映画の快楽を知る映画と言えよう。
その点ではティムバートンを思い浮かべるところ。
ピンクや赤の目立つとてもお洒落でとてもアーティフィシャルな模型的世界が展開される。
現代と30年代、60年代の時間軸に分けて描いており、30年代は画面フォーマットがほぼ四角である。
こんな演出も心憎い。

ここでも伝統的な映画と同様、汽車が重要な場面で、主人公たちを運んで行く。
大切な話はそこでなされ、その進行が運命をも左右する。
雪の中、途中で彼らの行く手を止める者は、文化を破壊するファシストである。
主人公は、2度目の強制停車時に撃ち殺されてしまう。

ズブロフカ共和国という架空の国が舞台。
オーストリア・ハンガリー的な匂いがする映画だ。
丁度、カフカが小説を密かに認めていた時代に重なる。

じわじわと迫り来るファシズムの恐怖は描いているが、どこをとってもコミカルで軽快でスピーディな展開だ。
そして甘味な「絵」である。
脱獄シーンがこれ程、軽やかであっさりしたものは見た事ない。
逃避行中のコンシェルジュ同士のネットワークなども、とてもコミカルで面白い。
暗殺者に追われるロープーウエイやソリのシーンも、スリルとか臨場感・緊張感とは異なる独特の雰囲気と距離感を覚えた。
思い返せば殺害シーンがかなりあったにも関わらず、とても愉しい。

グスタヴは余りに有能なコンシェルジュのため、彼に心酔する大富豪に遺産を残されてしまい壮絶な遺産相続に巻き込まれる。
逆恨みの富豪の息子の陰謀にはめられ遺言を実行する弁護士他重要人物も次々に殺害されてゆく始末。
彼も何と富豪殺害の冤罪を着せられ逮捕、投獄される身となる。
だが獄中でも何故かコンシェルジュ風の役目をやりながら、獄中の人々にも慕われ首尾よく脱獄出来る。
逃走のため迎えに来たゼロが香水を忘れたことで激怒してみたり、お洒落なのか間が抜けているのか分からぬ部分もある。

その後もふたりで殺し屋に追われる、、、。
グスタヴはそのコンシェルジュとしての人望が余程篤かったのか、危ない目に逢いながらも人々のネットワークで逃げおおせてゆく。
ドタバタの群像劇なのだか、品が良く何かと綺麗なのだ。
相続した名画の裏に破棄された遺言のコピーが隠されていた事を知り、それによって彼は名誉を挽回し、文章通りに莫大な財産とヨーロッパ随一の名門グランド・ブダペスト・ホテルも自分の所有物となる。
文字通りの大金持ちとなり、ゼロはその後継人と決まる。
しかしファシズムの台頭と戦争突入により、グスタヴの国が消滅するに及んで、彼も消えゆく運命にあった。


何といっても、レイフ・ファインズとトニー・レヴォロリの息のあったコミカルだが気品ある掛け合いが愉しかった。
それが映画自体の軽快なテンポに見事に結びついている。
そして隅々まで行き届いたアーティフィシャルな絵作りである。


本当の意味で、ここちよく見易い映画であった。

多肉を整える

taniku.jpg


多肉植物を暫く放って置いたら、かなりの乱れが生じていた。
デタラメさが増大していた。
しかし、これは死に向かう無秩序ではなく、生への無意識の造形である。
かなり無慈悲に暴れまくっていた(笑。
廃墟に通じる感覚もある。

棚に収まりきらない拡張も見られ、枝ぶりを整理した。
盆栽みたいである。
基本は同じだと思う。
「整いました。」
TVで以前よく聞いたな、、、最近見ないが。


花殻や枯葉を全てどけていたら、虫喰われや病気も見つかった。
(乾燥しすぎていてもこのような事が起きる。風通しもビニルで保温していたためよくなかった)。
やはり株分けして増やしてしまったため、棚奥の余り目立たない鉢に異常があった。
昨年、大きな鉢で寄せ植えしてかなりの見栄えとなっていたものが、突然全滅したときは驚き唖然としたものだ。
常に何かが潜在的に進行している。
微分的に変化している。
そして忽然と相転換。

こちらも怠惰が過ぎた。


暴れていても、植物である。
われわれとは時間性が異なる。
声ももたないため、動勢を感じにくい。
ほとんどいつも、彼らは「静物」として確認される。
植物は「静物画」としていつも制作される。(食虫植物のように瞬時の動きを見せるものはあっても)。
また静物画として描かれた生きた動物の絵は見たことない(剥製は物である)。

やはり、植物とは生きられる時空が異なるのだ。
そんなことをふと想うが、実はこれは大変なことかも知れない。


彼らと意思疎通が出来たら、恐るべきことに迫れるのかも知れない。
分厚い「サボテンが喋った」と言う本を持っていたが、今はもう内容は思い出せない。


水をやる時期であるからたっぷりあげた。
肥料も少し。
周りのビニルの覆いを外した。
2階の窓辺でいつも確認しながら育てているものより、環境的には良くない。
外は冬の間は過酷であった。
寒気と強風である。
それに加えて密封。これは気にして風は入れるようにしていたが。
ほとんど、何かを共感し合うような間柄ではなかった事は確かだ。

亀にかまけていたし。
これからは、多肉にもっと濃密な共振時間を割こう。


彼らを眺めてボウっとしているだけで、確かに清められる感覚があるのだから。





理由なき反抗

Rebel Without a Cause

Rebel Without a Cause
1955年
アメリカ

ニコラス・レイ原作・監督

ジェームズ・ディーン 、、、ジム・スターク
ナタリー・ウッド 、、、ジュディ
サル・ミネオ 、、、ジョン・クロフォード(プラトン)
ジム・バッカス 、、、フランク・スターク(ジムの父)
アン・ドラン 、、、キャロル・スターク(ジムの母)
コーリイ・アレン 、、、バズ・グンダーソン(悪ガキのボス)
エドワード・プラット、、、レイ・フレミック(少年課刑事)


子供とは永遠に孤独なものである。

本質的に子供時代というのは、居場所は無い。

プラトンのように経済的にいくら満たされていたとしても、いつもたった独りである。
彼らはひりつく孤独が蓄積させるフラストレーションを暴力や危険なスリルを求める肝試し(チキンレース)で晴らす生活に身を任す。
折角、ジムとこころを通わせはじめたバズもその危険なゲームで命を落としてしまう。
孤独な仲間との共同体の暗黙のルールのうちで、やらないわけにはいかないのだ。
悪仲間と連み、奔放に生きているように見えて実はチームの掟にがんじがらめで、自由など微塵もない。
(学校のルールが鬱陶しいと、暴走族に入ったら余計に厳しい上下関係の規則に縛られるのと同様に)


ジム・スタークは父親の父権が弱く彼の理想の規範とはならない。ジムはプライドが高く、腰抜けと呼ばれると自分を見失うほどだ。
ジュディの父親は冷たく感じられ権威的で愛情が感じられない。
プラトンの父はずっと不在である。
ジムは好意を示してくれる刑事のレイにもすがるが、彼は忙しく肝心の時にはつかまらない。

3人は強く父を求めていた。
しっかり支えてくれる優しい父親像を求めていた。
そこで、プラネタリウム通りの空き屋状態の邸宅に3人で侵入し、一緒に住もうとする。
彼らは思う存分燥ぎまわり、頑ななこころを素直に解放することが出来た。
恐らく彼らに取り初めてのこころ安らぐ環境であったかも知れない。

ジムとジュディは恋人であり、同時に夫婦の立場であり、プラトンは彼らの息子(特にジムの息子)であった。
3人は理想的な疑似家族をそこで一時、形成した。

しかし、プラトンが一時心地よさから安心して眠ってしまった隙にジムとジュディは邸宅内の探検に行ってしまう。
そう、親というものは、必ず子供を置いて行ってしまうものなのだ。
仕事でなくとも、愛情がない訳ではなくとも、、、何故か置いていってしまうものなのだ。

プラトンが安らかな眠りから覚めると、周りには過酷極まりない現実があった。
ジムを探しに来た3人の悪童が、笑みを浮かべて彼を取り囲んでいるではないか。
(タチが悪いのは往々にしてチームのNo.2であることが多い)。
またもや悪夢が覆い被さって来た。
執拗にジムたちを標的化しバズというリーダー不在のチームの維持に躍起であるかのよう。
(直接的にはバズの仇討という名目であろうが)。

そしてプラトンにとって、、、何故、ジムはいないのか?自分を置き去りにして逃げたのか?
不安と恐怖に激しく動揺して逃げ回るプラトン。
彼の脆弱な自我は過剰反応と過剰な防衛行動を引き起こす。
ジャケットに忍ばせてきたピストルを衝動的に持ち撃ちまくるのだ。

彼らの一人を撃って怪我をさせてしまったことでプラトンの神経は余計に追い詰められてゆく。
警察も駆けつけてくる。
サーチライトが一斉に彼らを照らす。
神経を余計に高ぶらせる。
ジムが必死にとりなそうとするが、最愛の存在にまたもや裏切られたという感覚はなかなか回復しない。
というより、自分の殻を破ってから、初めての他者への信頼感が根底から揺らいでしまったのだ。
一人にするんじゃなかった、、、とジムは反省するが、誰が悪いというよりタイミングが悪かった。
(しつこいゴロツキが悪いのだが)。

そして取り乱して警察に銃口を向けたところで、彼は銃殺されてしまう。
(アメリカらしい。警察の前に出るときは、必ず頭の後ろに手を組まなければならないのだ)。

プラトンが何よりこころから欲していた父親~家族は、うたかたの夢と消えた。
ジムの父は彼の意思を理解し、私も強くなりともに立ち向かっていこうと抱き合う。
ジムは犠牲を払いつつ彼女と彼の「家族」を現実に獲得するに至った。


家族とはそれ程必要なものなのか、、、。
父息子関係とはそれ程重要なものなのか、、、。
私自身それらへの依存(期待)は無く育ってきたので、余りこの映画に実感を持ってなかった。
この父息子関係はハリウッドの十八番のようなのだが、これはアメリカの無意識でもあるのか、、、。

それからひとつ疑問なのだが、ジュディはバズの彼女であったはずなのだが、彼が断崖に落ちて死んだ直後からほとんど悲嘆に暮れる暇もなくジムと親しくなっていて驚いたのだが、そう感じたのはわたしだけか?
勿論、2人とも出遭った時から意識し合ってはいたが、ちょっとこのタイミングでの接近はあんまりな気がするが、、、。

アメリカンな感じのする映画であった。
しかし、ジェームズ・ディーンの存在感は圧倒的であった。
細やかな演技も素晴らしい。
プラトンも独特な役どころをよくおさえていたと思う。



裏切りのサーカス

Tinker Tailor Soldier Spy

Tinker Tailor Soldier Spy
2011年
イギリス・フランス・ドイツ

トーマス・アルフレッドソン監督
ジョン・ル・カレ『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(1974)原作
ブリジット・オコナー、ピーター・ストローハン脚本

ゲイリー・オールドマン、、、ジョージ・スマイリー(事件解決後のSIS現リーダー、コントロールの右腕)
コリン・ファース、、、ビル・ヘイドン(SIS幹部)
トム・ハーディ、、、リッキー・ター(SIS工作員、スカルプハンター)
ジョン・ハート、、、コントロール(SIS元リーダー)
トビー・ジョーンズ、、、パーシー・アレリン(コントロール亡き後のリーダー)
マーク・ストロング、、、ジム・プリドー(SIS工作員、帰国後フランス語講師)
ベネディクト・カンバーバッチ、、、ピーター・ギラム(SIS中堅幹部、ジョージと組んでモグラを探る)
キーラン・ハインズ、、、ロイ・ブランド(SIS幹部)
スヴェトラーナ・コドチェンコワ、、、イリーナ(ソ連情報部、リッキーと接触)
デヴィッド・デンシック、、、トビー・エスタヘイス(SIS幹部)
コンスタンチン・ハベンスキー、、、アレクセイ・ポリヤコフ(ロンドン・ソビエト大使館文化担当官、ソ連情報部員)
ロジャー・ロイド=パック、、、メンデル(ロンドン警視庁公安部の警部、ジョージと組んでモグラを探る)


何とこの作品もジョン・ル・カレ原作のスパイを巡る映画である。
わたしの贔屓のゲイリー・オールドマン主演であり、モチベーションは上がるのだが。
如何せんスパイもの(007みたいな痛快娯楽映画とは異なるもの)でシリアスかつ重厚なものは難しい。
特に忘れっぽいわたしにとって、次々に色々な名前が出てくると誰が誰だったか分からなくなる。
胸に名札でも着けていて欲しくなる。
更にこの映画は、説明的なものを極力排している正しい作り方だが、そのため聞き漏らすと分からなくなる。
(ふらっと眠ることも出来ない、、、当たり前だが)。

まずは、ジム・プリドーがコントロールに呼び出される。
ハンガリーのブタペストで、ハンガリーの亡命しようとしている将軍に接触して、サーカス(SIS:イギリス秘密情報部)の幹部内のモグラ(二重スパイ)の情報を聞き出すことを命ぜられる。
サーカスの内部情報がソ連側に筒抜けとなっている疑いが高く、モグラの炙り出しが急務となっていたのだ。

この映画は、終始モグラ探しのこれもまた、ひたひたと静謐の内に進展してゆく映画である。
ちなみに、ジョージ・スマイリー(ゲイリー・オールドマン)は、拳銃を一度だけ握りはするが引き金は引かずに終わる。
ジョージは、物静かで感情を抑え理知的な行動をただひたすらとるのみ、である。
それでいてこれ程魅せるのは、ゲイリー・オールドマンの魅力もあるが、原作・脚本の妙であろうし、実際の情報戦自体こういったものなのであろう。

そしてこの映画の緊張感の途切れることがないのは、冒頭のシーンが効いている。
ジム・プリドーがエージェントと待つカフェの周囲の人間全てがハンガリー情報部の人間であったのだ。
これをある瞬間、悟った彼の内心とは如何程のものか!
彼は突然、茫然自失という感じで歩みだすが、バーテンに後ろから撃たれてしまう、、、。
(この後、救護され命は助かるが拷問に次ぐ拷問である)。
この不始末の責任を取り、コントロールとジョージ・スマイリーは一旦職を退く。

冷戦時に作られたSF映画の、実は身の回りのヒトは皆エイリアンであったという恐怖の原体験はこのような現実から来ているのかも知れない。

策謀、裏切りのショックと不安が常に付き纏う。
それが常態となってゆく。
精神が擦り切れてしまう。
これを「寒い国から帰ってきたスパイ」のアレックスの上司が心配していたが、ここでも当然同様である。

本格的な話は、、、コントロールが謎の死を遂げるところから始まってゆく。
彼は死ぬ前にサーカスの幹部の誰かが、モグラであると言遺していた。
そのモグラ炙り出しの役が、かつてコントロールの右腕であり今は部外者で動きやすいジョージに回ってきた。
ここから先をいちいち述べても長くなるばかりである。
(大変面白い展開であることは間違いないが、もう疲れた(笑)。


結局、ジョージら3人のチームが、「ウィッチクラフト作戦」~「ソ連側の情報提供者を匿い情報を聞き出す作戦」を隠れ蓑にして、ビル・ヘイドンがカーラ(ソ連情報部幹部)と手を組み西の(イギリスの)情報を流していたことを突き止めるまで、密やかに稠密にそしてスリリングに展開されてゆく。
ちなみにビル・ヘイドンは、ジム・プリドーに射殺される。
他の幹部はまんまとビルに乗せられていたのだ。そのためアメリカからの信頼もなくしている始末であった。
幹部は全て任を解かれ、新たなチーフの椅子にジョージが座る。



ただ、二重三重の裏切りを仕掛けながらもしてやられている彼らではあったが「われわれは第三次世界大戦を前線で阻んできたのだ」という真摯なことばは本心からきたものかも知れない。

しかし、かつてジョージが一度だけカーラに西側への転向をひと晩かけて説得する際に言った言葉に遥かに説得力を覚える。
ーーーどちらの体制であれ、たいした価値はないと認める潮時だろうーーー
全く何を言っても取り合わなかったカーラがこの言葉だけには反応したらしい。

分かる。



寒い国から帰ってきたスパイ

The Spy Who Came in from the Cold001

The Spy Who Came in from the Cold
1965年
イギリス

マーティン・リット監督
ジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』(1963)原作

リチャード・バートン、、、アレックス・リーマス(イギリス諜報部員)
クレア・ブルーム 、、、ナン・ペリー(図書館勤めの共産党員)
オスカー・ウェルナー、、、フィードラー(東ドイツ、ムントの配下のNo.2の諜報部員)
ペーター・ヴァン・アイク、、、 ムント(イギリス、東ドイツの二重スパイ)
ルパート・デイヴィス、、、ジョージ・スマイリー(アレックスの親友のイギリス諜報部員)


「検問所」という境界は日本にはない。
とてもこの世離れした場所と言える。

ずっと待ちわびていた同僚のスパイが最後の「検問所空間」で、目の前で撃ち殺されてしまう。
そこは、物理的には地球の上なのだが、人間にとっては何処にも属さない場所なのだ。

そんな「境界」を巡る話だ。
「東西」、「社会主義と資本主義」などといってもどちらが、どちらということもない。
ほとんど似たようなものである。
主任の謂うように、どちらも冷酷非情さにおいては変わり無い。
ただ、厳然と「境界」だけがある。
命を賭けた越境行為があるだけ。

情報戦というより、そのゲームをより高度に複雑に維持し続けるためのゲームに白熱しているようだ。
ゲームのためのゲーム。
裏をかいたり、偽情報を見破ったりまことしやかに流したり、スパイを釣ってみたり、本当の情報を奪い取ったり、、、。
(勿論、今では更に巧妙な詐欺や裏切りやなりすましがウェブ上では行われているが)。
それが現実の場で、静かに淡々と行われてゆく。
間違っても派手なドンパチはやらない。
というより、やっては拙いのだ。絶対人の目に触れてはならない。
ここでもその失敗が尾を引いていた。

スパイは難しい役どころを引き受けて相手の懐に飛び込む。
アレックスの場合、もう役を干されて酒に逃げ、いつでも寝返りそうな元諜報部の取りまとめ役というもの。
(実際に東ドイツ諜報部にいるムントによって配下の工作員全てを彼は失っている)。
相手側としては、是非手に入れたい人材ではあろう。

痛い目に会いつつも首尾よく運んだかに見えたが、、、。
その後二転する。
目的はナチの党員で現在東ドイツの諜報部の権力者となっているムントをその配下の切れ者フィードラー の不満を利用して失脚させようというものであった。
しかし、その尋問の場にナンが呼ばれ、真の目的はムントの立場を守るために彼の画策に気づいたフィードラーを葬るものであったことが分かる。(ムントが二重スパイであることを突止めてしまったフィードラーをこそ葬るためのものであった)。
全てムント、弁護士側に情報~手の内は伝わっていた。

そしてこともあろうに拘留から彼らを解き、車と脱出経路を提供したのが何とムントであった。
ここで彼が完全にイギリス側スパイであることが判明する。
(ということはかつて彼の情報によって粛清されたアレックスの配下の工作員は単なる捨駒以外の何ものでもなかった)。
そして取引による脱出劇で、アレックスとナンは壁までたどり着くが、命の保証をされていたはずの恋人のナンは境界を渡ることが許されていなかった。
アレックスは、境界を跨ぎはするが、そこで一瞬スパイであることを忘れる。
呆然としながら撃ち殺されて下に落ちたナンの方に彼も降りてしまった、、、。


最後にアレックスも壁という境界で戸惑い撃ち殺される。

この映画は「境界」での「死」に始まり「境界」での「死」で終わる。
国家が幻想であることを思い知らされる映画であった。

古さなどは微塵も感じさせない作品である。


ブローニュの森の貴婦人たち

ORPHEE.jpg

LES DAMES DU BOIS DE BOULOGNE
1944年
フランス

ロベール・ブレッソン監督・脚本
ドニ・ディドロ『運命論者ジャック』原作
ジャン・コクトー台詞

ポール・ベルナール 、、、ジャン
マリア・カザレス 、、、エレーヌ
エリナ・ラブルデット、、、アニエス
リュシエンヌ・ボゲール、、、アニエスの母

最初に男女の胸の内の探り合いから始まった。
女は心にもないことを男に言う。
「もうあなたに対して心が冷えてしまったの。」
試すつもりで、偽りの「告白」をしたのだが、男の方もそれにピタリと同意してきた。
全く女にとっては想定外であった。
女は逆上して、男に「復讐」を誓う。

かつての知人であり、今破産して身を持ち崩し「踊り子」となっていた女性を、その実態を明かさず近づける。
「踊り子」はそのまま「娼婦」でもあった時代か?
女エレーヌは、男ジャンに彼女アニエスを、かつて裕福であったが没落した家庭の純粋無垢な女性として紹介する。
たちどころに彼女の虜になったジャンがエレーヌに恋の仲介を頼む。
ある意味、思惑通りに運んだとは言え、こうも容易く靡くとはエレーヌにとっては不愉快である。
エレーヌは、こうなってしまってもジャンにはまだ未練たっぷりでいた。

嫉妬と復讐心から、散々ふたりの関係に割り込んで苦しめてゆく。
無理に遭わせては、双方を遠ざけるのだ。
ジャンは焦らされ軽率に行動を起こし、アニエスは自分の過去を握るエレーヌの身勝手な横暴さに怒りと恐れを抱く。
ジャンには逢うことを何かと引き伸ばし妨害し、アニエスには、生活の支援をする名目でいいように操り、昔のことをばらすような脅しをちらつかせる。
結局、こころはふたりとも強く引き合いながらも、エレーヌによって引き裂かれるようになる。
この非常に冷酷で残忍な役がマリア・カザレスにはピッタリである。
究極のクール・ビューティである(笑。

エレーヌに運命を翻弄されることを嫌うアニエスは、先にジャンに自らの過去の有様を手紙に書き渡すが、彼はそれを受け取らなかった。
そのままふたりは結婚の運びとなるが、エレーヌは周囲にアニエスの以前の行いを吹聴する姿勢をはっきり示す。
その前に、ジャンにはじめて、ここぞとばかりに勝ち誇ってアニエスの過去を暴露する。
ジャンは取り乱し、エレーヌはウエディングドレスを着たまま心臓発作で倒れてしまう。
(今の感覚ではピンと来ないが、昔は「踊り子」が命取りであったのだろう)。

しかし、今にも死にそうな息絶え絶えのアニエスの真実の愛の「告白」を聴き、ジャンも愛を語り、生涯をともに暮らそうと誓う。

女性の、偽りの告白から真実の告白までを辿る映画であったか。
策に溺れた復讐の鬼が、最後に勝利したと勝ち誇った時に、真実の愛を芽生えさせてしまった、、、。


流れもよくとても見易い映画であった。
話もリアリティがあり、説得力があった。
マリア・カザレスは言わずもがな、エリナ・ラブルデットの瑞々しい魅力も印象的であった。
ポール・ベルナールの軽薄で鈍重なパーソナリティから最後の目覚めへの流れが、単純によかった。
というより、こちらとして安心するものだ。
(こうでなくちゃ、、、である)。



オリエント急行殺人事件

Murder on the Orient Express001

Murder on the Orient Express
1974年
イギリス

シドニー・ルメット監督
アガサ・クリスティ原作

アルバート・フィニー、、、エルキュール・ポアロ(名探偵、ベルギー人)
アンソニー・パーキンス、、、ヘクター・マックイーン(ラチェットの秘書・通訳、アメリカ人)
ジョン・ギールグッド、、、エドワード・ベドウズ(ラチェットの執事、イギリス人)
ショーン・コネリー、、、アーバスノット大佐(イギリス軍人)
ヴァネッサ・レッドグレイヴ、、、メアリー・デベナム(イギリス人教師)
ウェンディ・ヒラー、、、ナタリア・ドラゴミノフ公爵夫人(ロシア貴婦人)
レイチェル・ロバーツ、、、ヒルデガルド・シュミット(ドラゴミノフ公爵夫人のメイド、ドイツ人)
イングリッド・バーグマン、、、グレタ・オルソン(スウェーデン人宣教師)
リチャード・ウィドマーク、、、ラチェット・ロバーツ(裕福なアメリカ人実業家)
マイケル・ヨーク、、、ルドルフ・アンドレニイ伯爵(ハンガリー外交官)
ジャクリーン・ビセット、、、エレナ・アンドレニイ伯爵夫人
ローレン・バコール、、、ハリエット・ベリンダ・ハッバード夫人(アメリカ人)
コリン・ブレイクリー、、、サイラス・“ディック”・ハードマン(ピンカートン探偵社の探偵)
デニス・クイリー、、、ジーノ・フォスカレッリ(自動車販売業、イタリア人)
ジャン=ピエール・カッセル、、、ピエール・ミシェル車掌(フランス人)
ジョージ・クールリス、、、コンスタンティン医師(ギリシャ人)


「ナイル殺人事件」を前に観たが、そちらの方がわくわくしたのだが、、、。
アガサクリスティ原作としてみれば「情婦」の出来は格別だと思う。
それから過去の名作としてここのところ何本か見ているルネ・クレールの「そして誰もいなくなった」も忘れられない。

ともかくこの作品、役者が多い(笑。名だたる役者揃い、、、。
映画ファンには堪らないか、、、?

わたしは、イングリッド・バーグマンに全く気付かなかった、、、(爆
大した役作りと演技力だ。それに感心する。
「サイコ」のアンソニー・パーキンスが出ていれば、そりゃ何か起こりそうな気はしてくる。顔を見ているだけで不安になる(笑。
「ブルジョワジーの密かな愉しみ」のジャン=ピエール・カッセルが地味で実直な車掌に扮していた。
ここでは血気盛んな男を演じているがショーン・コネリーも枯れてきてからまた渋い味を遺憾無く発揮してくる。
そう言えば、ジャクリーン・ビセットが出るような映画は見てないな~と思った。
これからは、見てみよう。
とても高貴な美しさを発散していた。役所は、バークマンと正反対である。


わたしは、あまりこの名探偵エルキュール・ポアロに馴染めないのだが、、、。
それは生理的レベルのものである。
慣れれば面白い人なのかも知れないが。
どうも役を作りすぎている感じがする。

それにしても各役柄上の国も本当に多国籍である。
列車という交通機関に乗っているのだから、こうでなくてはならないが、この場合、西ヨーロッパと東ヨーロッパ・アジアを結ぶ列車の中である。
西欧人にとり異文化圏である「オリエント」へ向かう列車として、また東欧やアジアの上流階層の人々にとっては彼らと西ヨーロッパの貴重な交通手段であり、社交的な空間であった。

観客はあたかも彼らと同じ「オリエント急行」の乗客に加わる。
(列車映画とはその初期からずっと、その疑似体験感(臨場感ではない)こそが醍醐味であった)。
そしてポアロたちとともに観客も殺人事件の謎解き(又は嫌疑をかけられる)メンバーのひとりとなってゆくのだ。
と、いいたいところなのだが。
しかしそうした動き感覚がほとんど見られない。
脚本というより演出レベルか、、、。どうなのか、、、やはりセリフか?

全編がポアロの事情聴取ばかりで、終わりの35分くらいかけてのお馴染みの登場人物一同を一室に集めての謎解き解説。
回想とお喋りばっかり、説明し通しである、、、。
勿論、それだけでも映画は幾らでも成立はするが、、、その回想~イメージと噺がいまひとつ共振に欠け面白みが薄い。
悲劇的で悪辣な犯罪が元になっているのは分かるが、その悲劇性に身体性が伴わない。


確かに12人全員の犯行という件で、それぞれ犯行に至る深い思いが吐露されたあたりでは、共感できる流れは生じるが。
もしかして列車が大雪で止まっていたために、流れが悪かったのか?
そんな気がしてきた、、、。


最後の豪華キャストのワインのひとりずつの乾杯など、恐らくそこだけで感激する映画ファンもいることと想像するが、映画に疎いわたしとしては、あまりその辺のシーンに思い込みがない。
(短時間であったが途中で数回眠った、、、)。





ピアニスト

La Pianiste

La Pianiste
2001年
フランス

ミヒャエル・ハネケ監督・脚本

エルフリーデ・イェリネク原作


イザベル・ユペール、、、エリカ (音楽大学ピアノ科教授)
ブノワ・マジメル、、、ワルター(工学部そ学生、ピアノの才能にも恵まれる)


ーーーわたしには感情がないの。覚えておいて。ーーー

無感覚な表情。極度の内面化を感じさせる。
ある日、エリカの防御壁を壊すように強引に飛び込んでくる若い才能と自信に満ちた男子学生ワルターが現れる。
徐々に彼女の動揺が彼女を外に向かわせようとする。お化粧も服にも気遣うようになり、、、。
しかしワルターとの関わりが深まるに及び、親和的な親密性に自然に流れ込んでゆくわけではない。
彼女の母親との長年にわたり培ってきた特殊性が彼女に自分の感性・感情との生で直接的なアクセスを許さない。

固着した関係性から身悶えして抜け出ようとした決意の時。
まずは、彼女は不器用に自分の特異性を高らかに宣言しておく必要があった。
それからというもの、、、とてもシンドい自我の防衛と解体の幾重もの儀式が繰り広げられる。
それは、無様にえげつなく、消耗して擦り切れ果てて、、、深く傷ついてゆく過程を辿る。

ワルターが彼女に言い放つ、、、「狂っている」とは何か?
「病気だ」、、、も同じだが。
それは当人にとって自分でもよく分からないそんな「次元」の身体性における問題なのだ。

生理的・身体的な自分の制御不能で麻痺した反応に操られ、その及ぼす結果に生々しく半ば後ろめたく驚く。
特異な性癖。まさに癖である以上、意識コントロールの対象にない。
後で気が付くレベルの無意識的な行為だ。しかもそれは治したりするものではなく、当人もそう思ってはいない。

客観的にその現象から遡行すれば、主因は特定できる。
(その悍ましくも歪んだ関係性の中に神の目を持って入り込んでくる勇者でもいれば、俯瞰可能であろうが)。
しかし、いまさらそれが分かったところで、どうするつもりもなく、一体どうなるものであろうか、、、。
漆黒の依存関係ももはやそれが本質であるかのように関係化~身体化してしまっている。
(マゾヒスティックであり支配的でもある捻れた性的発露が見られる)。

言い換えれば「制度」と「初期」の問題であり、「人間」であり「女」であることから来る「宿命」でもある。
勿論、そこに人によって度合いの差がはっきり存在する。

エリカは、実に不自由ながら、制度と初期の問題を棚上げしたまま、死ぬまでやっていくつもりであったかも知れない。
男に何の気兼ねなく無表情でポルノショップに行くなどして、生身の関係とは隔絶した世界で生きながらえてゆく。
感性と感情を「縛り付けられた」まま過干渉の母親による性的な抑圧(オシャレ、交際の禁止)のうえでの「身を捧げた」音楽教育を受けて育った彼女。実際は、エリカこそが母親の欲望に身を捧げて人生を空費してしまった生贄にほかならない。
音楽大学のピアノ科教授としてその道での尊敬は受けており、彼女目当てで入学して来る学生もいる。
優秀な学生の個人レッスンも行っている。
ワルターもそのひとりだった。
しかし、生~性の充足感など微塵も期待できない母娘の生活が永遠に続く。
(無駄な買い物も許されず寄り道せずにタクシーでの帰宅を強要されて来た)。
ある意味空恐ろしい程に引き裂かれた自己だ。


しかし理性しかないという彼女が音楽を教える時の楽譜解釈は極めてエモーショナルでもある。
また音楽がどのようにエリカに作用して来たのか。
少なくとも音楽~芸術がなかったら、彼女は完全にとっくの昔に精神崩壊していたはず。

最後にエリカは全ての要求を引き下げ、無防備なかたちでワルターと交わる。
彼女は、恐らくはじめて「愛してる」とは言う。
だがどうにも快楽を享受できない。
彼は一方的な行為に呆れて帰ってゆく。
「先生、このことは、内緒にしておこう。ぼくは男だが、きみは女だ。」
彼にとってエリカとのここまでのシンドい恋愛沙汰は何であったのか、、、そしてエリカにとっても、、、。
これは結局、拷問の一種であったか?
この絶望は、彼女に最大級の痛手を負わせ、母親に覆いかぶさり「愛してる」という言葉に転嫁され、ベッドの上で激しく嗚咽する。


次の日の演奏会にワルターは「先生演奏楽しみにしてます。」と屈託のない笑みを浮かべて友達と会場に駆け込んできた。
何も引きずってはいない。

エリカはバッグに忍ばせてきたナイフで自分の胸を突き刺す。
その時の表情は、、、フランシス・ベーコンの顔のない苦悶の表情~掴みどころのないフィギュアであった。
(バスタブでの自傷行為からして暗示的ではあったが、、、母親はそれを生理と勘違いしている。そういう母親なのだ)。
血が溢れ出る。
彼女は平然と演奏会場を後に、街に出てゆく、、、。

例によって、コンサートホール前の長回し。


ミヒャエル・ハネケ監督、面白い監督だ。
だが、余り観たくはない。
毒には毒をという感じの挑発的映画だ。
(中途半端な薬より、出来の良い毒のほうが効用はある)。



イザベル・ユペール恐るべし。
フランスの女優の凄さを思い知る映画でもあった。
(フランスには、この手の凄い女優が何人もいる。)


La Pianiste002


アンナ・カレーニナ ~ キーラ・ナイトレイ

Anna Karenina004

Anna Karenina
2012年
イギリス

ジョー・ライト監督
トルストイ原作

キーラ・ナイトレイ、、、アンナ・カレーニナ
ジュード・ロウ、、、アレクセイ・カレーニン伯爵
アーロン・テイラー=ジョンソン、、、アレクセイ・ヴロンスキー伯爵
ケリー・マクドナルド、、、ダーリャ・オブロンスカヤ公爵夫人
マシュー・マクファディン、、、ステパン・オブロンスキー公爵
ドーナル・グリーソン、、、コンスタンティン・リョーヴィン
アリシア・ヴィキャンデル、、、エカテリーナ・シチェルバツカヤ

1948年版を見たが、今回の絢舞踏会の爛豪華さには参った。登場人物たちが人形のような装飾的な輝きに満ちている。
「舞踏会」そのものが楽しめる「絵」であった。
美術・衣装の勝利か?
田園~農業の草刈の光景も大変美的に撮られていた。
この映画、ただひたすら美しく絵作りしましょうというコンセプトに受け取れた。
中国の宮廷ものにも同様な質感があるが、ゼンマイを巻かれた間だけ優雅に踊り恋をするカラクリ人形界にも見える。
明らかにそんな演出だ。
ある意味、アンナたちの世界と、コンスタンティンの世界の対比を描く物語でもあるが、双方とも幻想的なまでに華美である。

構成そのものが華麗な舞台劇を観る思いである。
精巧極まりない模型(箱庭)を観るようでもあった。
それを特に際立たせる手法として、瞬時に舞台に切り替わったりするところには、何度もハッとさせられる。

映画(特に初期の映画に)につきものの列車が幾度となく挿入される。
感情の高まりの演出のイメージとしても現れる。
かなり大きく精巧な列車のジオラマでアンナの息子が遊んでいたが、その模型も随所で走っている。

肝心の愛憎劇としての部分であるが、、、生憎、わたしにはほとんどピンと来なかった。
アレクセイの感情を抑えた気品ある対応には、感心したが、アンナ他の恋愛感情の放出には感情移入は不可能であった。
ただ、客観的に眺めてはいたが、そうなのか、、、という感じで終わった。
一体何を苦しむ必要があったのか、、、?自己破滅型の人々なのか、、、貴族には時折そういうタイプは見受けられる。
何故ここまで転がってゆくのか、、、どういう顔で見ていたらよいのか、、、あれよあれよである。

普通に、美しいと感じる相手にはそう素直に思えば良いが、それを現実の恋愛対象に出来るかどうかは、最初からはっきりしている。
アンナは聖人と呼ばれる国家的に尊敬される夫と最愛の息子までいる。
その関係を破壊して周囲を滅茶苦茶にしてまで、果たして一目惚れのヴロンスキーに一途になるものだろうか、、、。
(愛情ではなくそれは単なる欲望であって、それをコントロールするのが知性の役目ではないか?)
おかげで、エカテリーナは将来の悲劇からは救われた形となったが。
(この話ではエカテリーナがもっとも良い道に進んだ気がする)。
1948年版もこんな感じであっただろうか、、、少なくともここまで白々しさはなかったはずだ。

Anna Karenina007



自分自身と周囲に追い詰められ列車に身を投げるアンナ。
これはかなり始めの頃から、象徴的に繰り返し暗示されてきた結末ではあった。
社交界(貴族の世界)の美徳と退廃のシステムからほんの一時逃れ、、、
緑の草原で読書しながら子供達の遊び回るのを、重荷から解かれたアレクセイが穏やかな視線で眺めていたのが印象的である。

わたしも、こんなシーンが理想だ。



隠された記憶

Caché

Caché
2005年
フランス

ミヒャエル・ハネケ監督・脚本

ダニエル・オートゥイユ、、、ジョルジュ・ローラン(テレビキャスター)
ジュリエット・ビノシュ、、、アンヌ・ローラン(出版社勤務、ジョルジュの妻)
モーリス・ベニシュ、、、マジッド (アルジェリア人、ジョルジュの幼馴染)
ワリッド・アフキ、、、マジッドの息子
レスター・マクドンスキ、、、ピエロ(ジョルジュとアンヌの息子)


首を切られ血しぶきを上げる鶏の絵から、ジョルジュは思い出す。
こんなふうに、何かの表象から、閉じ込められていた記憶が鮮明に蘇るなんてことがあるかも知れない。
特に5,6歳頃の記憶は、その人間にとって非常に重要だ。
知らずにそのヒトの精神の基調を形造っている。

そして極めて残酷な事件が勃発したにも関わらずそれは透明化してしまっている。
それが、あるとき唐突に現実に不穏な形で重なってくる。

ここでは、自分の家を長撮りされたビデオと、血を噴き出した人~鶏などの絵である。

明らかに強い悪意あるメッセージを発しているが、それが何を謂わんとしているのか、、、
何かの糾弾なのか、要求なのか、ただの精神的苦痛を与えるだけの嫌がらせなのか?

それが誰から発せられたのかは、車窓ビデオから撮された映像からジョルジュには見当がつく。
「やましさ」とともに深くこころの底に潜めた記憶。
自己正当化しつつ認めるしかない苦い記憶に浮かび上がる相手の姿である。

6歳のジョルジュは、使用人のアルジェリア人夫妻の、彼と同年齢の子が好きになれない。
アルジェリア独立運動のデモでその使用人夫婦は亡くなってしまう。
孤児となったその少年は、ジョルジュの家庭の養子に引き取られ育てられることになった。
しかし、ジョルジュは何度もその子マジッド を不利な立場に追いやる嘘を両親に告げ口する。
彼に鶏の首を撥ねさせ、血みどろになったマジッド を、自分を脅かそうとしてしたと告げ口をしたことで、彼は強制的に施設に送られてしまう。

それ以来、彼の件は誰の記憶からも消えてゆく。

しかし、途切れたにみえて潜在する記憶~想いが唐突に現実の文脈を食い破ってくる。
それはあたかもテロのように。(すでにフランスで二度もあったが、、、原因はフランスにこそある)。
マジッドは、人気TV番組のキャスターの顔に見覚えがあった。
彼はそれを見て不意に不快な気分に襲われ、吐き気を催し彼が誰であるかを悟る。

優雅で豊かな暮らしをする彼とは正反対の貧しい集合住宅に息子と身を寄せて暮らすマジッド。
よく、ここが分かったな。懐かしい。
彼の住居を突き止めたジョルジュは、彼に詰め寄る。
わたしに何の恨みがある?君らの苦しみなど、わたしには関係ない。
何故、わたしの家族を脅かすのか!
だがマジッドは、ビデオも血飛沫を上げる絵も全く知らないと断言する。
何が目当てだ、、、何が欲しい、金か?
そんなもの何もいらない。

しかし、その後もまた、備え付けたビデオで録画されただけの(編集無しの)ビデオが、彼の家だけでなく、彼の仕事場など周囲にも配送される。
(妻がそれを見てマジッドは嘘などついていないと判断するが、ジョルジュは、マジッドの異常性ばかりを声高に主張する)。

妻アンヌの浮気に抗議して友人宅に無断外泊した息子ピエロの誘拐嫌疑もジョルジュによって彼らにかけられる。
彼ら父子は一晩、警察に拘留されるが、次の日にピエロは友人の親に車で送られてくる。


後日、ジョルジュはマジッドに家に呼び出され、目前でナイフで首を切りマジッドは自殺を果たす。
この血の海のシーンは、もう記憶の彼方に追いやることは出来まい。
と、言わんばかりである。

マジッドの息子がジョルジュのテレビ局にやって来て、彼に問いただす。
わたしの父はあなたに教育を受ける機会を奪われた。でもわたしを独りで育て上げた。
あなたに「やましさ」はないのか、、、。
ジョルジュは如何にもフランス人的な身勝手な言い逃れでその場を逃れ去る。
(ヒエラルキーは個人レベルで、民族、国家レベルで存在するが、それは一種の「やましさ」の上に辛うじて成り立つ)。


エンディングで、そのマジッドの息子とピエロが仲良く語り合っているハイスクールの門?のシーンが暫く流れて消える。
長回しの多い映画である。


誰がビデオを撮り、絵を描いて送りつけたのかは全く明かされない。
話の方も犯人探しには関係なく進んでゆく。(警察も関心を持たない)。

何というか、極めて「内面化」を誘う内容であった。
告白を迫られる、まさに西洋的(キリスト教的)な制度性を強く感じる映画である。
確かにジョルジュは原罪的な罪は犯した。
だが、それが改めてかれを酷く(二重に)苛む禍と化してゆくのが見えている、、、。
彼自身の無意識と息子の関係から。


すでに取り返しがつかないが、、、。
マジッドに教育を受けさせてやるべきであった。
少なくともその場で得たものが、彼の催した吐き気を異なる次元に昇華させていた可能性は高い。
自殺(他殺)の形をとらない復讐~創造である。




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美女と野獣 ジャン・コクトー

La Belle et la Bête

La Belle et la Bête
1946年
フランス

ジャンコクトー監督・脚本
J・L・ド・ボーモン 「美女と野獣」原作
ジョルジュ・オーリック音楽


ジャン・マレー、、、野獣 / 王子 / アヴナン(兄の友達)
ジョゼット・デイ —、、、ベル(末娘の美女)
ミラ・パレリ —、、、フェリシエ(エルの姉)
ナーヌ・ジェルモン —、、、アデレード(エルの姉)
ミシェル・オークレール 、、、ルドビック(ベルの兄)
マルセル・アンドレ 、、、ベルの父親


リメイクも良かったが、こちらを見ると圧倒される。

無邪気な世界の物語のはじまりはじまりといった感であるが、、、
ある意味、ベルは無邪気であり、話もシンプルではある。
しかしジャン・コクトーならではの驚くべきシュールで美しく格調高い映像も極まる。

まず、夜道に失意の父親が野獣の城に迷い込む。(難破を逃れた貿易船を確認しに行ったがすでに債権者に押さえられていた)。
そこで、娘のベルが欲しがっていた薔薇の花を一輪盗む。
城の主である野獣は、大事に育てている薔薇を盗むならば死をもって償えと迫る。
(花盗人の命をもらおう、とは粋な野獣である)。
父の替りに野獣の差し向けた白馬に乗って、ベルは時間(時空)を横断し野獣の待つ城にゆく。
娘のベルは薔薇の身代わりで野獣の城に囚われの身となったのだ。

その城ではレリーフ・調度品が全て生きているかのように目を開けて見ている。
(これは呪いで物に変えられてしまった召使であったか、、、)。
見えない手もあるようだ。城全体が、、、城主の野獣もまた、やはり何かの力に囚われている。

これに限らずジャンコクトーの空間はいつも捻れている。それは時間性にも現れる。


その眼差しを私に向けるな。
(わたしにはその眼差しが耐えられない)。
野獣はそれから毎晩7時には「わたしの妻になっておくれ」とベルに願う。
ベルははっきり拒否する。
その醜さからだと、、、。
(ただし野獣は普通、人より美しいのではないか、、、稲垣足穂はそう言っていたが、実際見るとそうであろう)。
しかし、彼女はその野獣の真摯な人間性には惹かれてゆく。

暫く野獣と暮らす(彼は7時の食事にしか現れず暇を持て余す)ベルであるが、魔法の鏡で見た家に残してきた父のことが心配で堪らず一時帰宅させてもらう。
野獣の城が夜でも、父の待つ街は朝だという。
鏡、金の鍵、馬、右手にする手袋、薔薇、、、を彼女は野獣から譲り受け取る。
一週間後にまた戻ってくる信頼の証として野獣はそれらのアイテムを渡したのだ。
約束を守らないとわたしは絶望して死ぬと。

彼女は右手に手袋を嵌めると一瞬にして父親のベッドの部屋の壁から現れる。
(渡された品々はみなドラえもんグッズの先駆的代物であった)。
このVFXは今現在のものに比べても質的に素晴らしい。
芸術的な抽象性が高い。
(オルフェの鏡と同様、艶かしくもあり、本物らしさとはまた次元の異なる物理を感じる)。
それを言うなら、野獣のメイクもかなりのレベルだ。もう少しライオンみたいに綺麗にしてやっても良いかとは思うが。
音楽、効果音も絶妙に合っていた。

ベルは彼女を心配する父に言う。
彼は、もうひとりの自分と闘っている。
その目を見るととてももの悲しい。
彼は不思議な力に従っている、、、と彼女は見抜いている。

ベルの家は裕福であったが、父の貿易船が遭難し、ルドビックの放蕩のせいもあり、破産していた。
意地の悪い姉ふたりに兄とアヴナンたちは、ベルを上手く利用し、野獣の財宝を横取りしようと企てる。
白馬に勝手に乗り、まんまと城までやってきて財宝を盗み、野獣を退治しようとしていた。

ベルもまた、魔法の鏡で野獣が苦しみ死にそうな姿を見て、直ぐに手袋をはめ城に戻り野獣を介抱する。
アヴナンはルドビック同様自堕落な生活を送る男であったが、ベルに求婚した間柄ではあった。
だが、ここでは狡猾な男でしかなくなっていた。
その狡猾さが仇となり、財宝を守る彫像(女神ディアーナ)に矢で射抜かれ野獣の姿で絶命する。(ベルから盗んだ黄金の鍵を敢えて使わなかった)。

それと同時に、ベルの愛の眼差しによってアヴナンそっくりの王子として彼は蘇る。
まるで入れ替わったかのように。
森の精の呪いから解けたのだった。(森の精は結構恐ろしいのだ)。


全てが済んだウルトラマンのように、夜空に彼女は王子に抱かれ飛んでいった、、、。
その王国で、父はともに暮らせるが、ふたりの意地の悪い姉は、彼女のドレスの裾持ちとして仕えることになるそうだ。

めでたしめでたし、、、。

La Belle et la Bête 002


自由を我等に

À nous la liberté

À nous la liberté
1931年
フランス

ルネ・クレール監督・脚本
ジョルジュ・オーリック音楽

レイモンド・コルディ、、、ルイ(元脱獄犯蓄音機会社社長)
アンリ・マルシャン、、、エミール(ルイの親友)
ロラ・フランス、、、ジャンヌ(ルイの会社の社員)
ポール・オリヴィエ、、、ジャンヌの伯父

チャップリンの『モダン・タイムス』への影響ははっきり分かる。
「そして誰もいなくなった」(1945)のルネ・クレール監督の「巴里の屋根の下」(1930)の一年後の作品。
形式的には「巴里の屋根の下」に近いセリフのごく少ない、無声映画タッチの作りである。
ミュージカル調に歌が頻繁に入る。


流れが実に面白い。終始ドタバタのご都合主義の展開である。
刑務所内の作業風景が表れる。
馬の仕上げの部分を、おのおので作っているようである。そこそこ面白そうなものではあるが、、、。
(そこで脱走に必要な道具を調達するのは、常套手段か)。

ある晩、ルイとエミールのふたりが刑務所の脱走を決行するが、ルイだけ成功する。
ルイが刑務所の塀を乗り越え飛び降りたら自転車に接触して、その自転車を奪って逃げたら、自転車競争で優勝を飾ってしまった。
これは強運などというものではない。
お笑いである。
ここで誰もが、感動すら覚えるはずだ。
こんなアホなことあるはずもないが、それが当然の如く、ルイは露天商から蓄音機の大会社社長となってしまう。

エミールは出所するが野原で寝転がっていた為再度拘束され、自殺を図るが鉄骨が外れて逃げ出すことに成功する。
ふたりともありえない形で娑婆に出るが、エミールはいきなりある女性に一目惚れする。
(ルイは金でエミールは女性=愛か、、、)
その女性について行った先が、何とルイが経営する蓄音機会社であった、、、。
もうめちゃくちゃな流れである。

エミールもその工場で勤めることになるが、作業形態はオートメーションで、やることは刑務所内の作業と何ら変わり無い、というよりもっと単純繰り返し作業であった。部品を台に一つずつ取り付けてゆくだけの流れ作業である。
どうやらエミールに務まる仕事ではないようだ。確かに気が遠くなるものだ。
(チャプリンも注目するはず)。
それより、そこで働く彼女のことばかりが気になる。

そんなおり、偶然多くの取り巻きに囲まれた社長に出逢う。
(ヒゲを蓄えさしずめ、トゥールーズ=ロートレックみたいな顔である)。
ふたりは直ぐに相手を認識するが、ルイはエミールを警戒する。
ルイはエミールを疎ましく思い金を掴ませ追い出そうとするが、ふたりで話しているうちに、昔の友情を思い出す。

しかしエミールを招いた晩餐会で下品な真似をし、ルイの奥さんは愛人と邸宅を出てしまう。
窮屈で形に拘る世界に嫌気もさし、妻も単に重荷であったのか、出て行かれてルイは喜んでいる。
(ある意味、社交界の反感を買うか?)
この後、彼らは次第に追い詰められてゆく。
エミールと彼の見染めたジャンヌをルイは仲介しようとするが、すでに彼女には恋人がいた。
エミールはいたく落胆する。
ルイのところに昔の刑務所仲間が金をせしめようと脅しにやって来る。
彼らを一度は追い払うが、彼らが警察に密告して、ふたは結局、悪党と警察の両方に追われる立場となる。

ルイが蓄音機新工場操業スピーチを終えた後逃げようとしている時に、悪党のひとりがルイから盗んだ鞄から疾風に乗って札が次々に舞ってくる。その式典に列席した紳士たちがみんなでそれを取り合い走り回って大混乱となる。
それを尻目に、ふたりは警察と悪党を巻いて逃げる。


ルイの発明した全自動蓄音機組立機のおかげで、従業員は皆、歌を唱って釣りやパーティをして遊び惚けていたが、通常はリストラである。ここのところが荒唐無稽で面白い。


最終的にふたり揃ってあてのない旅路につく。
まさに「自由」を得たという気持ちか、、、。
少なくとも、「愛」と「金」の幻影からは解かれ、「自由」を謳歌している表情はふたりに見て取れる。

塀の外で真面目に働けば、自由が手に入るという規範~幻想に対する皮肉にはなっているが、、、。
窮屈さから抜ければ自由になるかどうか、、、である。


プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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