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昼顔

Belle de jour002

Belle de jour
1967年
フランス・イタリア

ルイス・ブニュエル監督・脚本

カトリーヌ・ドヌーヴ、、、セヴリーヌ(ピエールの妻)
ジャン・ソレル、、、ピエール(夫、医師)
ピエール・クレマンティ、、、マルセル(若いチンピラ)
ミッシェル・ピコリ、、、マッソン(女好きの夫の友人)


「欲望のあいまいな対象」「自由の幻想」「ブルジョワジーの密かな愉しみ」「小間使の日記」など観てきたが、これは美しいがとても普通に観ることができた。頭を捻る部分がない。感覚は捻るが(笑。


カトリーヌ・ドヌーヴ繋がりで、、、。
馬車の鈴の音で始まる導入部。
現実とは真逆なサディスティックな性的夢想である。

所々で、「反撥」に似た幻想が見られるが、これは一種の妄想であり、白昼夢である。
現実が異様に克明に描かれ、ささくれ立って立ち現れている映像ではない。
「反撥」は優れてシュール・レアリスティカルな作品であったが、こちらでは現実と妄想が織り成す心象が印象的に描かれる。

非常に自制心があり理性的で優しい夫をもつ、放逸な性衝動に身を任せてゆく若妻がじっくりと描かれる。
カトリーヌ・ドヌーヴが最初から最後までひたすら克明に描写される点では、「反撥」と同じであるが。
夢に見るサディスティックな性愛の欲望を現実に解き放つとどのようなドラマが生まれるか、、、。

セヴリーヌは、夫の女好きな友人マッソンから聞いた高級売春宿に自ら足を運び内緒で務めることにする。
「売春は最も古くからある職業だよ。知っているかい?」彼女にとって少しばかり後押しとなっただろうか。
夢にも現れる欲望を補償する半ば無意識で意図的な行為であろう。
女主には、彼女の上品で貞淑な雰囲気が気に入られ直ぐに雇われる。
2時から5時までの契約できまり。
その働く時間帯から名前は「昼顔」となる。
娼館の女主のセンスはなかなかのものである。
客相手の百戦錬磨という感じで、話のもって行き方もうまい。

そこにやって来る客も飛んでもない性癖のある客がいて面白いことは面白いのだが。
日本人はどう見ても日本人ではない。
この時代でも、あんなイメージなのか?しかも支払いに「芸者カード?」を出して、断られ現金を出すという、、、。
笑えない変な設定だ。日本(人)のイメージがまだ随分デタラメで稚拙である。
著名な産婦人科医もかなりどぎついマゾヒストの客であり、各自に合わせた作法を心得ている必要があることを彼女は知る。
そして屍体愛好家の公爵家に呼ばれ屍体に扮することまで経験する。
彼女はその高級売春宿の稼ぎ頭にまでなっていた。

このドラマで強烈なスパイスを効かせているのが、銀の差し歯と仕込みステッキが凶暴さを際立てるマルセルである。
短絡的に人殺しをする衝動的で激情型の人間である。
単に危ないだけである。
しかし、セヴリーヌと相思相愛の仲になってしまう。
彼には夫にない粗野で粗暴なむき出しのエネルギーがある。
そういうところに惹かれたのか。
しかし、彼女は夫への愛は別の次元のものとしてしっかり持っているという。
だが、よりによってマッソンに娼婦の仕事を知られてしまい、きっと最後に罰せられると、罪悪感に苛まれる。
(これは絶対に誰かにバレるものだ。単に時間の問題だろう)。

彼女は娼館を止めるが、それに腹を立てたマルセルが彼女の高級な自宅に押しかけてくる。
経済的に恵まれていて、立派な夫もいる事を知る。
彼はセヴリーヌを独占したい為、夫を邪魔だとして銃殺を企てる。
自宅前で待ち伏せしたマルセルにピエールは撃たれる(確か3発)。
ピエールはそこから車で逃走を図るが、ポリスに撃たれ死ぬ。
直ぐに病院に運ばれたピエールは一命を取り留める。
彼女が予感していた罰は自分自身ではなく夫に下ってしまった。

最後、車椅子で口がきけず身体の自由の効かない夫に対し、始めて深い愛情を感じるセヴリーヌであった。
マッソンにより彼女の娼婦として働いた一件も夫に伝えられていた。
彼女の幻想で、最初と同じように馬車の鈴の音が響く、、、。
何故かとても安堵感を与える光景だ。

Belle de jour

反撥

Repulsion001.png

Repulsion
1965年
イギリス

ロマン・ポランスキー監督・脚本

「水の中のナイフ」「ローズマリーの赤ちゃん」「袋小路」どれもとても印象深い。
「袋小路」では特にフランソワーズ・ドルレアックの美しさが際立っていた。
凄い姉妹がいたものであるとつくづく思う。
もっとも姉の方は美人薄命であったが、、、。

雰囲気的には「ブラック・スワン」に近いものを感じた。向こうがこれに近いのだが。
デヴィッド・リンチに通じるものは勿論、濃い。

カトリーヌ・ドヌーヴ、、、キャロル・ルドゥー (美容院で働く)
イアン・ヘンドリー、、、マイケル(姉の妻子持ちの恋人)
ジョン・フレイザー、、、コリン(キャロルに一方的に言い寄る男)
イヴォンヌ・フルノー、、、ヘレン・ルドゥー (姉)


この狂気のディテールの描きこみは、まさにシュールレアリスムだ。
心的状況を克明にリアルに描写することで、異様な時空の歪みが出てくる。
カメラワークも秀逸だ。遠近法を加速させた扉から扉への視線とか、、、最初の目の接写などまるでこちらがブニュエル?
最後のとても意味ありげな(意味を持たせているが)キャロルの子供のころの写真のアップ、、、。
演出が饒舌。コンセントを入れずにアイロンがけしているところなど、、、細やかな狂気の描写。

まずキャロルの潔癖性が発端の症状として始まる。
彼女は姉の家に住んでいるが、姉の不倫の恋人がそこに寝泊まりしていることに対する嫌悪感が募っていた。
病理的には何とも言えないものだが、奔放な姉と愛人の恋愛関係が現実に彼女に引き起こした影響は小さくはない。
リビドーの強烈な突き上げと性に対する(その対象~男の醸す生理的な)嫌悪が綯交ぜになり、それを内面化して内向してゆく。
無表情にしきりに無意識に鼻をこする。
無気力と無感覚が彼女を支配してゆく。

美容院で客に怪我を負わせて、外に出られなくなるにつれ、症状は重くなる。
アパートの室内は荒れて行き、ジャガイモからは芽が出て、(ウサギの)肉料理はテーブルに放置されたまま腐臭を放ってゆく。
この引き籠りと無秩序ぶりは相当重度になっているが、姉は恋人と旅行に出て行ってしまっている。
独りで放置されると症状の悪化はおそらく加速するだろう。

カトリーヌ・ドヌーヴの端正で硬質な美が狂気を孕むと、かなり不気味で怖い光景を生む。
冷ややかで無垢な感触が、悍ましさを増幅する。
連動して歪む時空がその相貌を顕にしてゆく。
部屋のスイッチを切ったかと思えば、壁に大きな亀裂が走る。
不安な足取りを多くの手が絡めとろうとする。
時計の音の異様な響き。
突然、現れ彼女に乱暴する男の幻影。

情緒を完全に失った真っ白な顔。
彼女に熱い思いを寄せるコリンがその情熱を滾らせ部屋にやって来た時の人形のような冷えた対応。
こちらを窺っていた向かいの老婆が部屋の扉を閉めると同時に、彼の頭を鈍器で滅多打ちにして殺す。
無表情で屍を引きずりバスタブに沈める。

部屋を内側から釘で打ち付け閉ざす。
外に出て逃げないのだ!そんな選択肢は彼女には最早存在しない。
内側に尚も深く閉じ籠ろうとする。
この心的な状況こそ恐ろしい。

突然ブザーが鳴り響き、家主が扉をこじ開けて入ってくる。
彼は家賃が収められていないことに激怒し乗り込んで来たのだった。
しかしキャロルがすんなり家賃を手渡すと、今度は彼女に言い寄ってくる。
仲良くなれたら部屋代はタダだと言って抱き着いて来たところを剃刀で首を切りつけ、その後は滅多切りにして殺す。
ソファの向こう側に遺体は落ちる。

荒れ放題の電話線も切断されたアパートに姉と不倫相手が旅行から帰って来る。
ベッドの下から全く生気を失ったキャロルが発見される。
しかし姉の愛人に抱きかかえられてゆく姿は妙に怪しい笑みと言い、これからどう変貌してゆくのかまた不安をわれわれに植え付けるものだ。


これもロマン・ポランスキーの、ただものではない作品であった。



カッシーニ グランドフィナーレ

Cassini Grand Finale001

NASA(アメリカ航空宇宙局)とESA(欧州宇宙機関)の共同開発によって1997年に打上げられた土星探査機カッシーニ
当時、34億米ドルを使って送り出された。(これ以降、かけられる費用はどんどん減ってゆく)。
太陽電池ではなく原子力電池で運航、作動。(太陽光が僅かなため)。
ついに燃料もなくなり、いよいよ最期のミッションに入る。
時折、気になりNASAのHPを覗いていたものだが、、、。
まりのるうにいの絵でもお馴染みの土星である。
稲垣足穂の短編ではヒトでもある。
(輪っかをバーの入口に置いておいたら誰かに盗まれたとか、、、)。
ここでは、その土星専門機カッシーニ(パイオニアやボイジャーは通りすがりの探査)の噺を少しばかり、、、。

Cassini001.png
金星→金星→地球→木星の順に重力フライバイして土星に到達。
これが使える条件(並び)が600年に一度のチャンスであったという。
その後、搭載していた惑星探査機ホイヘンス・プローブをタイタンに着陸させ大気の組成・風速・気温・気圧の観測を行った。
カッシーニ=ホイヘンスのやったこと、、、。

○ホイヘンスプローブのタイタンへの着陸。
衛星エンケラドゥスの氷の噴煙の吹き上げを観測。
○土星のリングが30以上あり、自転速度もそれぞれ異なる活発で動的なものであることを発見。
○今もリングのなかから衛星が形成されている。現在62個の衛星が発見されている。
○タイタンが地球の他に唯一降雨があり、川、湖、海を持つことを発見。
○ただし、タイタンのメタンは生物由来ではないことも確認。
○2010-2011年の土星の北側で起きた大規模な嵐を調査。
○土星からの電波パターンは、土星内部の回転には拘束性がないことを確認。
○リングの垂直構造~捻じれ(外側の2本のリング)を明らかにする画像を初めて取得。
○環と環の隙間に存在し環の崩壊を防ぐ役割の衛星ダフニス(他4つ)の発見。
○衛星イアペトゥス表面で30カ所もの巨大な地滑り跡を発見。(大きさ比で表面地形の高低差が最も激しい)。
○土星両極の巨大なハリケーンを発見。
○北極の6角形の様子をカラー撮影。ジェット気流下の風に押されることで幾何学模様が形成され崩れないことが解明される。
Cassini Grand Finale003
環の間の衛星。
HEXAGON.jpg
ヘキサゴン。(モノクロ)
Cassini Grand Finale002
天然色の環。AとBリング。

そして、「グランド・フィナーレ」
土星本体と環との間へ飛び込み、通り過ぎる軌道を22回繰り返す!
さぞや荘厳なヴィジョン~「末期の目」であろう。

これまでに、2004年に土星に到着してから127回、衛星「タイタン」をフライバイし探査してきた。
4/22に最期のフライバイを行い、4/26から「グランド・フィナーレ」に入った。

この間、磁気と重力の精巧なマッピングと上層大気の接写を行う。
土星最近傍からカッシーニが見るはずの景色を夢に見たい。
9/15に土星大気圏に突入し流星のように燃え尽き、13年にわたる土星探査を終了する、、、。


今ほとんど宇宙の探査といえば、地球外生命の探査とも言える状況となっているが、、、。
例えば、タイタンの低温の炭化水素の湖に生命の可能性を探るとすれば、地球とは異なる化学の系を必要とすることになる。
生命の系という観点から見れば、太陽系に独立した起源を持つ2例目の生命が存在する探査を意味しよう。

Cassini-Huygens.jpg

知りすぎていた男

The Man Who Knew Too Much

The Man Who Knew Too Much
1956年
アメリカ

アルフレッド・ヒッチコック監督
主題歌「Que Será, Será」ジェイ・リビングストン作曲、レイ・エバンズ作詞、ドリス・デイ歌

ジェームズ・ステュアート、、、ベン・マッケンナ(医師)
ドリス・デイ、、、ジョー・マッケンナ(元ミュージカル歌手、妻)
クリストファー・オルセン、、、ハンク・マッケンナ(息子)
バーナード・マイルズ、、、エドワード・ドレイトン(イギリス人、暗殺組織員)
ブレンダ・デ・バンシー、、、ルーシー・ドレイトン(イギリス人、暗殺組織員)
ダニエル・ジェラン、、、ルイ・ベルナール(フランス人捜査官)


ピーター・ローレの怪演に魅せられる「暗殺者の家」のリメイク版である。やはりここでもオーケストラのシンバルを合図にターゲットを狙撃するタイミングを女性の絶叫が外す。
そこまでのオーケストラの演奏の高揚と見守る女性の不安と焦燥の作る関係の緊張が極まるところは、この映画の最大の見所であろう。
どちらもその舞台はロイヤル・アルバート・ホールである。
ただし、今回の演奏会場の尺の長さはかなりのもので、充分にこちらを焦らしそわそわさせる上では、オリジナルより練り込まれている。
(ここで暗殺が行われることが、こちらにはっきり明示されていなければ、音楽の昂まりとジョーの不安の増大とスナイパーの機を狙う呼吸が純粋に交わり、よりスリリングな感覚を味わえたと思うが)。

どちらが面白かっただろうか、、、と思い返すと、ピーター・ローレが出ていることもあるが「暗殺者の家」の方が好きではある。
こちらでは、そのローレに対抗する演者はドリス・デイか。(タイプと役どころは全く違うが、質的に)。

ヒッチコック監督が1934年にイギリス時代に「暗殺者の家」を撮ってから22年後の作品である。
しかも自身の作品のリメイクということもあって、とても熟れていることは感じられた。
「ケセラセラ」が、この映画の曲であることは初めて知った。(曲に全く興味がないためか)。


フランス領モロッコという舞台がまずまずエキゾチックであった。
砂漠の雰囲気は良い。もっと風景や風俗の物語への絡みがあってもよいと思った。
某国首相暗殺計画の黒幕は駐英大使だったというのも国レヴェルの政治的陰謀であるが、ヒッチコックの場合、軽みがあって重苦しくならない。それが道具立てのひとつであり主題でない分尚更。
ドリス・デイの演技がまた実に普通な感じで、ジェームズ・ステュアートと作るリラックスした空気感が素敵であった。
それもあり、不審な人物や不穏な空気を察知してからの緊張感の高まり、息子を誘拐されてからの悲痛に耐える姿の説得力もあった。

明朗快活で感覚も鋭いジョーにとっては、何故か周囲の視線が気になる。元歌手であったことも敏感になる原因ではあろうが。
夫はバスで会ったばかりの男ベルナールに上手く誘導され素性をたっぷり知られてしまう。何故か馴れ馴れしく直ぐに食事の約束までさせられる。だが、見知らぬ男が間違って部屋に顔を見せたとたん、彼はそそくさと約束を反故にして帰ってしまう。
かと思えば、同じアラビアンレストランに女性連れで現れ、何やら彼らを見つめ相談をしている。
となると、空気は随分と不穏になる。

ジョーは充分に尋常でない事態を感じているが、旦那の方はベルナールの無礼に対し怒ってはいるが、まだかなり呑気に構えている。ジョーとのうまい対比で、場に緊張感が生じて行く。
前半のこれから何かあるぞ、と言う雰囲気はそれらによって膨らむ。

そんな時に、ドレイトン夫妻を名乗るカップルがまた強引に彼らに割り込み、食事を共にしジョーのかつての活躍などについて話を盛り上げ始める。
ベルナールはマークする相手を間違っていたのだ。マークすべきは相手のドレイトンであった。
マッケナもこのドレイトンらを怪しまず(とりわけベンが無防備である)、マラケシュの市場で2家族でお祭り見物している時に、現地人に変装したベルナールがナイフで刺される。
マッケナ夫妻に縋るようにして、生き絶える。その時のダイイングメッセージが、イギリスで計画されている要人暗殺の情報であった。ベルナールは暗殺団を探るフランス人潜入捜査員であった。
彼の言い残した「アンブローズ・チャペル」がキーワードとなる。
完全にここでベンも巻き込まれた事を知るが、もう後の祭りである。
警察で事情聴取されるが、電話で息子ハンクが誘拐された事を知る。気を許していたドレイトン達が一味であったのだ。

早速イギリスに飛ぶ。「アンブローズ・チャペル」へ。
子供が人質で向こうには治外法権もある。警察にも頼れず、夫婦で切り抜けるしかない。
「アンブローズ・チャペル」が教会であることを知り、そこを訪ねるとドレイトン達がいた。
教会の神父をやっている。
息子はそこに拉致されていたが、助け出すことは出来ず連れ去られる。
向かうはロイヤル・アルバート・ホールである、、、。

結局、首相はジョーのお陰で掠り傷で救われる。
最後の大使館のディナーで、ジョーの「ケセラセラ」のピアノ弾き語りにハンクが口笛で応えるといっても、あの環境で双方の音が通るとは到底思えないのだが、、、。
いくつかちょっと、、、と感じるところはある。

確かに前作よりは、まとまっているが、面白味もいまひとつ。
「暗殺者の家」はピーター・ローレの存在自体~魅力が反則ではあるが(笑。


ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド

Cassini Grand Finale001

今日は映画は一本観るには見たし、カッシーニの”グランド・フィナーレ”(涙!に関しても実はひとつ書いてはみたのだが、わが家で初めてのゲーム機を導入し、そちらに夢中になってしまった(笑。


任天堂のスウィッチにソフト「ゼルダの伝説~」を差し込んで、取り敢えず慣れない仕草でやってみた。
わたしが何故これを導入したかというと、このゲーム機とソフト「ゼルダの伝説~」を”スヌーズレン”として捉えたからである!
これは、娘と「乃木坂46」の番組を見ていた時のCMで確信した。
いよいよわたしもゲームというものをやってみる時が来たのかも、、、という啓示とまでは言わないが胸のザワつきを感じたのだ。
娘達がいつも、iPadを目に近づけ何時間もオタクアニメを見ていることが気になっていた事もあり、異なる方向に目を向かせたいというお試しでもあった。(そのせいか、次女は視力が落ちている)。

であるから、わたし用ではなく、娘用である。
が、わたしも興味はかなりあるし、愉しみたい。
そうなのだ。
わたしはここのところ、、、どれくらいであろうか、、、愉しんだ記憶がない!
これは、恐るべきことであるが、本当なのだ。

しかし、定価より高いものを買うのは久しぶりであった。
定価は確か29800円のはずだが、ウェブ上ではプラス10000円が相場である。
わたしは、その中では一番安いところを見つけ、プラス7000円で購入した。
待っていても仕方がない。欲しい時が買い時なのだ。
とは言え、割高感は拭えない。
ひところのポテチ騒動を思い出すではないか。


テレビでゆったり三人分プレイヤー登録して、始めることにした。
セッティングは極めて簡単で、あっという間にできてしまった。
このパッケージには、取説がない。Apple製品みたいだ。良いことだと思う。
スティーブ・ジョブスの精神は広く定着してきた。全てのソフトマシーンは直感的な身体連動しなければ。

まず、わたしが手始めにお試しプレイをしてみたが、直感的に出来るところと、身体感覚的に慣れを必要とする部分があった。
ゲームをやり慣れているひとなら恐らく引っかかりないところかと思うが、キャラクターの前後左右を体感感覚的に操るのに、どうも違和感~慣れの必要があった。
わたしは、適当なところで終わり、次女~長女にプレイさせてみたが、はっきり言って彼女ら(小3)の方が遥かに上手い。
直ぐにガジェットに馴染んでしまい、どんどん使いこなしてゆくのには、ちょっと驚いた。
途中で止める際の、セーブの仕方にちょっと戸惑うが、問題はない。

パソコンについてもそうであったが、彼女らの感覚にとってそれらのマシンはほとんど違和感ない身体的延長のようだ。
次女にPower Mac9600の「縁日ソフト」(大昔の極めて素朴な2次元無料ソフト)と比べてどちらが面白かった?と聞くと。
笑いながら、こっちと答えたが、9600の方もまたやるよと言っていた。
わたしが思うに、どちらも捨てがたい、価値のある”スヌーズレン”で有り得る。
恍惚の時間を過ごせる点において、、、。
癒しの時間となるはず。
他にはわたしにとって、「亀」と遊ぶことと、「多肉植物」を弄ることくらいか、、、。


「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」
今後の、愉しい遊びの展開を、機会をみてまたご報告したい。


今日観た、「知りすぎていた男」と「カッシーニ~グランド・フィナーレへ」は後日、、、。

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末期の目

Michelangelo Pieta003

>美は緊張のなかにこそ
>拡張され
>鮮烈に受容される


かつてアンドレ・ブルトンは「美は痙攣的である」と述べていた。
まさにそれを想わせる。

緊張。のなかにこそ。拡張され鮮烈に受容される
これはアルタードステイツとも謂えよう。

わたしも「ことば失う」体験として、いまでも記憶に残るものがある。
音楽であるが、、、。
気がついたら鳴っていたものだ。
たちどころにアルタードステイツの状態に入っていた。

その体験は、不安と恍惚に全身の神経がざわめき立つものであった。
ゆったりした全能感と一体感とともに際どくスリリングな極彩色の想いに揺蕩う。
しかしいつまでもその状態には耐え切れない。
頭を巡らしその曲名~ことばを思い出す。
すると嘘のように眼前を七色に輝き煌く波模様を見せていた大河が消え失せてしまう。
色を失った現実が後に残骸となって残る。

そんな体験がこれまでに幾度かあった。
少なくともロックで2回、クラシックでも2回はあった。
しかし、かなり若い頃のことである。

つい先ごろ、亡くなったアラン・ホールズワースの名状しがたい複雑で柔らかな浮遊感をもったギターの音色にそれがあった(事後的に)。
その時は、何の誰の音か全く判別(命名)できず、とても危うい精神状態で身を任せた。
受容体としての自分という枠ギリギリまで薄くなったところでの感受は、その感動もあり得ないレベルに拡張していたことは確かである。
(それにしてもまた、天才と呼ばれる音楽家・演奏家が世を去ってしまった。ここのところ本当に相次ぐ)。
*フランクザッパがもっとも評価していた音楽家であり革命的なギタリストであった。

彼の曲をユーチューブでも聴き直してみたが、自身のソロアルバムより寧ろ他のアーティスト(グループ)のなかでのアンサンブルに、一際彼らしい、言葉の追いつかない美を垣間見た。
まるで人と違う誰にも似ていない奏法とフレーズも特徴である。
そのサウンドは、どこまでも上昇し昇華し溶け入ってゆく、、、。(とくにソフト・マシーン、ゴングがよかった)。
老いてからも円熟味が全てをカヴァーしていた。

それに近い以降の音楽体験は、わたしの日々更新する世界観の造形の方向性を、決定つけたことは確実であった。


そして、、、
今に舞い戻ると、、、。
音楽は余り聴かなくなっており、絵画や小説にもほとんど触れているとは言えない。


>掛軸や、彫刻
>其処に息衝く陽光、幽光。

川端康成の生活環境は、国宝級の調度品で設えられていたと、、、!。

>美とは、日々の生活に根付いてこその
>美なのかもしれません。


全くその通りで、わたしは日々、美が足りないという念を慢性的に持って生きている。
と言うよりそんな病にある。
「美」が足りないのだ。
もっと「美」を!これはまさに「もっと光を!」である。
人間存在は過剰を求める原理をもつが、過剰と欠如は表裏一体で欲動の発現を促す。

国宝級の調度品まで欲しいとは言わぬが、、、。
(鉄人の稀少フィギュアなら持っているが(笑)。
最近、何やら感動から遠のいた場所にいる。
受容体としてのこちらの問題~劣化が次第に大きくなっていることに気づく。
今現在のわたしの抱える最大の課題だ。

美に向かう欲動はとりもなおさず生命力~志向力を源泉とする。
きっかけは、亀の水槽で屈折して投影する虹であっても良い。
それを受け取る生命力の瑞々しさ(鮮度)が、いよいよ問題となってきているように感じる、、、。


死を意識した瑞々しく鋭利な眼と、ただ死に漸近的に近づく身体性にある衰えた眼とでは、、、。
何とか成らぬものか、、、。



          (全て引用は「エストリルのクリスマスローズ」より)


仮面ライダードライブ、シンデレラゲーム、心霊写真部リブート、女子高

これらを立て続けに観る。日曜日の話、、、。
無茶をした(爆。
死にそう(笑。

kamen001.jpg

「仮面ライダードライブ」は、長女とアマゾンプライムビデオで。
「シンデレラゲーム」と「心霊写真部リブート」は次女とTSU○AYAで借りて、、、。
怖いものが好きでたまらないのだ。そのうち普通にホラーを見出すはず。困った。
「女子高」は彼女らがピアノ練習している間にひとりで観た。

「仮面ライダードライブ」は、わたしも日曜朝8時から見たことが数回ある。
仮面ライダーなのにバイクに乗らずにスポーツカーを乗り回すのが新鮮であった。
しかしライダーキックを相変わらずやっており、ほっとした。
キックをやらなくなったら、もう何を信じて良いのやらとなってしまう。
バッタぽくなくなり、バイクも捨て、キックを決め技にしなかったらどこが仮面ライダーなのだ。
映画のため、やはりドライブ~主人公が中心にCG的にスケールアップした物語にまとめている。
メカの表現はかなり凝っていて面白かった。
今かなりの注目度の高い女優、だーりお(内田理央)さんが出ているが、とても生真面目な熱血警察官を好演している。
警視庁幹部の柳沢慎吾をやり込めるところは見所の一つか?
それに乗って上司の片岡鶴太郎が柳沢に釘を刺す。
ここは理想的な部下と上司の関係ではないか、、、と感心した。
ここで内田が意見した責任を自分がしっかり引き取ってそれを意味のあるものにしている。
なかなかこの立ち位置に身を置く上司はいない。

話はほとんど未来から来た息子を騙るロイミュードと主役のしんのすけの戦いである。(念のためクレヨンしんちゃんではない)。
今の時代のロイミュードなど一瞬しか出ない。
であるからやはり今人気上昇中の馬場ふみかなどセリフは一言であった、、、。
勿体無いが仕方ない。短い時間でまとめなければならない。
この「仮面ライダー」でわたしが魅力を覚えるキャラはチェイサーであった。
しかしキャラ設定が複雑でしっかり毎週観ている必要があるのだ(ちゃんとキャラの素性を知るには)。
ちなみに、わたしが仮面ライダーシリーズで(とは言え最近はほとんど見ることもないのだが)もっとも魅力を感じたキャラは、「仮面ライダーオーズ」のアンクである。役者の力量が凄かった。二役をやっていたが、この役者にはもっと色々と出てきてもらいたい。
三浦涼介という役者だ。『るろうに剣心 京都大火編』でもかなりの存在感を見せていた。
オーズでマドンナ役をやっていたのが高田里穂であり、、、次の「女子高」の実質主役である。

jyosikou001.jpg

何というか、女子高生の権力関係~イジメのけじめを卒業7年目の同窓会でつけてやろうじゃないか、、、という感じの物語である。
クラスメイトの「自殺」が元で廃校となった学校のクラス同窓会をその当時の教室で行うため、ダンス部の女子7人が夜集まってくる。実際、いそうな人達である。まだ、学校の電気は灯るのだ、、、。
集まると同時に早速険悪になる女子も出る。その直後教室の電気が消され、高田里穂が何者かに拳銃で殺される。
騒然となり、悲鳴が飛び交う。
今警察官となっている女子がその場を仕切り、残った者たちを他の部屋に移動させ、容疑者として拘束する。
その場で、誰彼ともなく高校生当時の思い出が彼女らから語られてゆく。
ちなみに、「自殺」したとされる女子は高田里穂の唯一こころを許した親友であった。

だが、6人それぞれの視座から個人的な世界を映し出すのではなく、どのエピソードも誰の目でもないカメラの目~超越的視座である。
特定の誰かの世界がそれぞれ綴られ、それが次々に死角をパズルのように埋めてゆき真相に到達するというタイプのものではない。
「バンテージ・ポイント」がそうであったが。

この思い出の中で大活躍なのが高田里穂であり、この濃いキャラだけはあまり現実的ではない。
その他の人々は如何にもという感じである。
しかし、いつまでも鑑識が来た様子もなく、彼女らの取り調べの警官も来ない。
ただ、その婦人警官ひとりで対応するばかりである。
オマケに推理したり仮説を立てたり、証拠物件のアクセサリーを自分で持っていたり、、、。
電気は点いているし、何か不自然だなと思って見ていたら、やはりどんでん返しが。
峯岸みなみが高田里穂は殺されたのではなく、親友を自殺に追いやった罪悪感から自殺をして見せて、それはわたしたち全員の罪でもあることを思い知らせようとしてやったことだと仮説を立てる。それを聴いて皆が納得する。
だがその話のなかで、高田里穂と死んだ親友のふたりの間でしか知らないアクセサリーの話が出てくる。
そこに隣室から高田里穂が現れる。
この会自体が婦人警官と高田里穂が犯人確認のため(高田の親友は実は殺されたという確証を得るため)、最初から結託して仕組んだ芝居であったのだ。
(ただこうなるとは、最初から想定内である。高田里穂が最初に殺されること自体がもっとも不自然であるから)。

最後に、不自然な筋・設定の運びの理由が分かるが、さっさと拘束を解かれて帰ってゆく彼女たちも変だなとは思わないのが少しふしぎであった。まあ考えるより早くその場を離れたい意識が勝るのは分かる、、、。
最後に残された峯岸みなみが下手人と判定され、彼女は自首するのか、高田里穂にその場で撃ち殺されるのか、婦人警官がそれを阻止して収めるのか、、、というところでエンドロールとなっていた。
女子のドロドロはよく描かれていた。
だが、敢えてわざわざドロドロ~ホラーを見たいとも思わない。

go.jpg

しかし次女は無類の怖いもの好きである。
仕方なく、心霊写真部リブートというのを観た。
ここには、仮面ライダーのひとつ前の時間帯にやっている戦隊もの「ゴーバスターズ」のヒロインで名を馳せた小宮有紗が出てくる。最近は映画で文芸ものまで広く活躍している。
この心霊写真部というのがなかなか脱力しているのか真面目なのかよく分からぬ高校生の部活なのだ。
こういう部活があっても、まず入らないなとは思った。
彼らの忍び込む廃墟の設定はまずまずであった。

ただ部長がどうにも微妙で真面目そうでいて如何わしく、この人を観察した方が面白いのでは、と思うのだが。
人形とかそこで死んで無縁仏となっていた霊のメッセージとか、、、実に使い古された種であり、都市伝説でももう出ては来ない類の噺であった。それに蘊蓄を垂れる部長がどう見てもウザイ(女子から見ると恐らく)。
そして後半、霊がその力を発動すると、主人公の女子以外の部員の皆が倒れブルブル痙攣しているのだ(爆。
その間、主人公の女子がビデオを確認してそのポイントを探り当て、解決することで皆ブルブルから解かれる。
これを吹き出したり笑ったりしては、まずいことを次女の横顔をみながら確認するのだ。
小宮さんは忽然と現れ、心霊写真部なぞに親切にいちいち危険の警告などをしに来てくれる謎の存在である。
後を追うと、さっと消えたりするところから、幽霊である可能性は高い。

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同じく戦隊もののヒロインで活躍していた山谷花純主演ものは更に微妙で荒唐無稽な設定である。
落ち目のアイドルが無人島みたいな場所に集められ、そこでカード探しをして、集めたカードで競い合い負けたら首に嵌められた首輪の毒針?に刺されて死ぬ。負けたところで首輪が点滅し始め自らの運命を悟るのだ。
最後に生き残った、たったひとりのアイドルは手厚くサポートされ成功が保証されることになっている。

一か八かで出したカードの優劣で決まるもの(原理的にはジャンケンに等しい)。
それでも山谷花純はずっと勝ち続ける。
当然である。それ以外の運びはあり得ない。
精神的に持たなくなるアイドルも勿論出てくるが、タフな子だが性格がモロに現れる子も次々に粛清されてゆく。
一体、誰が主催しているのかは最後まで謎のままである。
大体、何でこんなことをするのか、主催者側以外誰も知らないし、調べる余裕もない。
ただ、そのゲームは首輪もあり降りようがないため、続けるのみである。
このような極端で単純な設定にすると実に脚本も演出も楽であろう。

そして残るのは、山谷さんとなるが最後の相手は失踪していたはずの姉となり、唖然とする。
彼女は、最後に彼女の姉に勝って優勝するのだった。
それまでの不条理に耐えて生き抜いて来たのだが、全てが終わり安堵したのか、、、
苦渋の表情が消え、「今のお気持ちは?」のインタビューに可憐な笑顔を見せる。
良いエンディングであった。なかなかのホラーとなった。
これからどんどん出てきて欲しい女優である。

思い切り極端で単純な設定により押し切るおばけ屋敷的な映画もひとつではあろう。
ハンガーゲームもこの類である。


トイレのピエタ

Pietà004

2015年
松永大司:監督・脚本
手塚治虫:原案

野田洋次郎、、、園田宏(末期ガンの青年)
杉咲花、、、宮田真衣(女子高生)
リリー・フランキー、、、横田亨(園田と同じ病院に入院している患者、友人)
市川紗椰、、、尾崎さつき(新進画家、園田の元彼女)
大竹しのぶ、、、園田智恵(母)
岩松了、、、園田一男 (父)
宮沢りえ、、、橋本敬子(園田と同じ病院の親しい少年の母)


十字架から降ろされたキリストを抱く母マリアの聖母子像をピエタと呼ぶ。
サン・ピエトロ大聖堂に展示されているミケランジェロの作品がもっとも知られている。
「何故死んだ我が子をこんなに穏やかに優しい目で見つめられるのでしょうね」(橋本敬子)
息子は手術の甲斐無く死んでしまう。病院の友達には退院したと伝えられる。
Michelangelo Pieta003


手塚治虫が亡くなる前の日記の最後のページに書いていた作品の構想を元に製作された作品だという。
「浄化と昇天」
トイレにミケランジェロさながらのピエタ像を描ききって、胃癌で息絶える若者の物語だ。
(手塚治虫も胃癌であった)。

前半は冗長気味にだらだら怠惰な雰囲気で話が流れてゆく。
飄々としたリリー・フランキーによるところが大きい(笑。
重いものを抱えた掴みどころの無い役が上手い人だ。
杉咲花はやはり目力があって若手実力派という感じであった。
真衣が金魚とプールで泳ぐところは、なかなか絵として気持ち良い。
(本人も気持ち良さそうであった)。しかしプロット的に今ひとつ意味が分からないところではある、、、。
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彼女も日々、母親の愛には恵まれず、認知症の祖母のケアで息詰まっている。
ひょんなタイミングで園田宏の余命(3ヶ月)を知らされ、腐れ縁となった。
彼女は相手の余命がどうだなど、全く遠慮しない。
ただ、お互いに引き合うものがあるのだ。
「あんたなんか自分で生きることも死ぬこともできないじゃん!」
結構、正統できつい指摘を度々してくる。
感情がストレートに出るタイプ。
しかしそれに対して「そんなのわかってるよ!」と叫んで返す園田。
確かにそれ以外に何を答えられよう?

大学時代の彼女で今は絵描きとして賞にも輝き成功している尾崎さつきが彼らと対比する存在として現れる。
自分のやるべきことに一途で全く嫌味はないが、晴れ舞台を突き進んでゆく彼女はもう彼の世界の住人ではなかった。
ここで演じる市川紗椰嬢は、実際の彼女に近い気がする。
もう少し彼女の演技を見たかった。

元々自らをビルに張り付いた虫だという園田宏の覇気のなさは自然で良い。
しかし画家を諦めて高層ビルの窓拭きアルバイトというのも何か面白い。
これまで塗ってきた絵の具、全ての線や色を自ら拭き取っているみたいで。
決別したいと思ったらやってみたくなるバイトかも知れない。
しかし園田は作業中に突然倒れ医者に運び込まれて検査を受けると胃癌であった。

最初は副作用に悩まされながら抗癌剤治療を入院して続ける。
隣ベッドの怪しいオヤジ横田亨とも何故かウマが合う。
白血病の少年と心を通わせたり、その少年の死に際し、母親から少年の絵を頼まれる。
しかし絵を捨てた彼は彼女の懇願を退けるのだ。
その後、転移もみられ、医者に最後の日々の暮らし方を尋ねられた。
彼は退院して余生を自分のアパートで過ごすことにする。
実家には少しばかり顔は出すが、そこに戻る気はない。
これは、分かる。わたしがその立場でも絶対に実家に戻ることはあり得ない。

Pietà001
しかし間近に死を突きつけられたとは謂え、何がどう変わる訳ではなかろう。
恐らく何も変わらない。
何をか認識を得たり、見えてきたりするものではない。
体調が変わる(悪化する)としても。
(いや、余りにも体調の変化や苦痛~激痛が描かれていなかった気はする)。

真衣と横田の存在は大きい。
彼らは園田の生に火を灯したことは確かである。
絵を描く気になったのだ。
(わたしは、まだまだ、ならない(笑)。
天井向いて一心不乱に描くとところなど、まさにミケランジェロである。

Pietà002
横田のヴィデオにおさまりつつ、、、
「僕、いま生きてますよ」
このセリフで締まった!


絶命した園田を抱く構図の絵~聖母は紛れもなく真衣であった。

何でも最後は肝心である。


”RADWIMPS”というグループの音はまだ一度も聴いたことがない。
であるから、野田洋次郎というギター&ヴォーカルという人も初めて見た。
素人臭さが良い意味で生きていた。市川嬢と共に。

めし

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1951年
成瀬巳喜男:監督
林芙美子:未完の絶筆『めし』原作
脚本:田中澄江
監修:川端康成

上原謙、、、岡本初之輔
原節子、、、岡本三千代
島崎雪子、、、岡本里子
杉葉子、、、村田光子
風見章子、、、富安せい子
杉村春子、、、村田まつ
小林桂樹、、、村田信三

東京・大阪の戦後復興期の街の風景が何ともリリカルである。
どこの国の風景だろうか、、、と見入ってしまう無国籍な抽象性であった。
「くいだおれ」も不思議で感慨深い。

小津映画で完成された原節子のイメージとはまた異なる彼女の姿が見られるが、憂いに充ちた横顔がギリシャの彫像のようで美しかった。
こういう原節子も味わい深い。
小津作品での原節子のことをよく書いてきたが、「青い山脈」、「安城家の舞踏会」の原節子がもっとも生き生きしていて魅力が感じられる。どちらも小津映画ではない、、、。勿論、「東京物語」の彼女は素晴らしいの一言だが、あれは作品の出来具合の良さで、誰もが神々しく輝いている。
この映画もまた彼女の異なる魅力が引き出されていると思う。

聖女ではなく、生活に疲れ猫に孤独を紛らわす市井の主婦を演じる。
「所帯疲れよ」と自ら突き放したように騙る原節子である。これは新境地か。

前半はひたすら彼女が倦怠感と疲労の漂う表情で、イライラとしながら家事に追われている。
「まるで女中よ」と、夫の転勤で大阪に居ることにも不満があるようだ。
周囲からは何の苦労もない幸せな夫婦と思われている。
当人もそれに対し真っ向から否定するような素振りは一切見せない。
だが陰鬱な疲労感が日々鬱積してゆく、、、。

仕事を持って故郷の東京で働きたい。そう思うようになるが、そこへ里子が転がり込む。
彼女は親が設定した縁談が気に食わず家出してきたのだ。
所謂戦後の現代っ子であろうか。
この時期の映画にはしばしばこういう思い切り自由な女性が現れる。
その後の彼女の、大阪での羽の伸ばし方が尋常でなく、遊びほうけて周囲も呆れるばかり。
三千代も彼女に対して不満を抱きつつ、自分の影とも言えるその存在への関心は保ち続ける。

さんざん自由に振る舞い迷惑をかけていた里子が実家に帰るに乗じて、三千代も一緒に東京の実家に帰ることを決断する。
実際に東京で仕事を見つけて張りのある生活をするつもりなのだ。
しかし、実家で父親に叱られた里子が今度は三千代の実家にまたもや転がり込む。
これには三千代も驚きまた呆れる。
そこで里子は勝手で我儘な生活ぶりを繰り広げようとする。
だがその姿に三千代は逆に、日々の生活の反復の価値に気づかされ思わず笑ってしまう。
冒頭で林芙美子の文章を原節子のナレーションで騙る部分に重なる。
これが基本コンセプトなのだ。

ここでも列車の移動するなかでの想念と思考の推移が描かれる。
最後の夫と共に大阪に戻ってゆく列車内での自覚と認識が告げられる。
生活の川に泳ぎ疲れて漂いしかも戦って、今は居眠りしている夫の平凡な横顔を見ながら、この人に寄り添って生きることが自分の本当の幸せなのだ、、、と微笑みを漏らしつつ悟る。
諦観を超えた生きる価値を見出すくだり、、、如何にも帰りの列車の中が似合う。


しかし元に戻れば反復する日常が待っている。
われわれに出来るのは、如何にこの反復を更新して行けるかだ。
日々新たに、、、向き合ってゆくか。
この先も毎日、「めし」を食べてゆくわけだ。
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砂漠の流れ者

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The Ballad of Cable Hogue
1970年
アメリカ

サム・ペキンパー監督・製作
ジョン・クロフォード、エドマンド・ペニー脚本

ジェイソン・ロバーズ、、、ケーブル・ホーグ(砂金掘りの流れ者、駅馬車中継駅の主)
ステラ・スティーヴンス、、、ヒルディ(娼婦)
デビッド・ワーナー、、、ジョシュア(似非牧師)
ストローザー・マーティン、、、ボウエン(砂金掘りの小悪党)
L・Q・ジョーンズ、、、タガート (砂金掘りの小悪党)


久しぶりのサム・ペキンパー監督の作品。
「ゲッタウェイ」「ワイルド・バンチ」「ガルシアの首」「 戦争のはらわた」、「わらの犬」、、、などとても印象を深く残す作品ばかりであるが、わたしにとってはとくに「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」の演出・脚本も強烈なインパクトを残す。
わたしの一番のお気に入りは「ゲッタウェイ」であるのだが。
これも何とも言えない印象を残す作品となった。

初っ端から歌がたくさん唱われて、何か長閑な雰囲気の映画である。
最初の歌が流れたときは、これってミュージカル調の映画なのか?と思って見るのを躊躇したが、サム・ペキンパー監督のものである。
そのまま観る事にした。
いきなり主人公であるケーブル・ホーグが砂漠で仲間2人に身ぐるみ剥がれ、放置されてしまったところから始まる。
彼は水のないところで独り半死半生の苦闘を演じ、神にすがり神を呪いつつ諦めかけた時に水を掘り当てる。
そこからその場所を登記しインチキ牧師とともに小屋を建て、駅馬車の中継駅を経営する。
娼婦のヒルディとも恋仲となって、安定した幸せと言ってよい日々が過ぎてゆく。
しかし彼は、もうすんでのところで命を落としかけた仲間の裏切りに対する復讐心は失ってはいなかった、、、。

スローモーションや派手な撃ち合いなどは一切ない。
お洒落なタイトルバックは「ワイルド・バンチ」に準じていたが。
主人公が腰抜けと呼ばれているのだ。
実際のところ、腰抜けでも何でもない、心優しく商才ある堅実な男だが。
やはり変わった主人公ではある。

見終わってから、これも西部劇であったのだ、と気づいた。
もう車が走り出した西部劇時代の末期か?
砂漠で裸一貫、一花咲かせた男の奇妙な何とも悲哀のある人生が描かれ、象徴的な締めくくりで終わる作品である。
この監督のいつもの作風とは異なるとはえ、大変味わい深い魅了される作品であったが、何よりもケーブル・ホーグという男に惹かれてゆくのだ。
砂漠に留まり続けたところが良い。
わたしは、ここでこの男に強く共感し、より映画にのめり込んだ。
(ちょいと儲けたところでいそいそと街に移り住んだとしたら実に詰まらぬ男である)。

そして砂漠の地においてケーブルとヒルディとジョシュアの朴訥で細やかな話が織り成される。
ここは面白く、綺麗である。
ケーブルは善人でも悪人でもなく、ケチでもあるが優しく大らかでもある。
よく映画で描かれる、はっきりした主人公でないところに好感が持てる。
とてもユニークな普通の男なのだ。
(実際そうしたものであろうし、その方が馴染める)。

そして最後、自分が長年砂漠で待ち続けた敵の二人に自分の経営する駅で出逢う。
一人は射殺し、もうひとりはお情けで許し自分の後継者とする。
ここの攻防は派手さはないが、相手に姿を見せぬ上下(高低)の地形での毒蛇を使った作戦などでかなり楽しめた。
何れにせよケーブルはこころに誓っていた復讐は成し遂げたのだ。
ひとつの大きな目的を達してしまった。
そこへサンフランシスコで富豪となったヒルディが最新の車にお抱え運転手の運転でやって来る。
彼女にニューオリンズに一緒に行きましょうと誘われ彼は二つ返事で同意する。
ここで、彼を支えていた「復讐」と「砂漠」から彼は解かれてしまう。

運転手のサイドブレーキかけ忘れによる、交通事故死というこの時代としては突飛な事故死に見えるが、とても必然的で悲哀に満ちた死に思える。
その実、彼は周りが大丈夫というのにもうすでに自分の死を確信し、ジョシュアに生きてるうちに弔辞を詠ませるのだ。
ジョシュアの詩人としての資質が窺える、美しいスピーチである。
このシーンが一番こころに残った。
最後はもう本当に死んで葬式の場面に移っている、、、。

「戦い愛した砂が今、彼を覆い、、、永遠に留まることのない魂の流れの中に入る、、、彼にはある面では神のお姿に似たものがある、、、この砂漠で生きて死んでいったことを考えても、、、彼は並みの人間ではない。」

牧師の言葉を聴きながらひとりまたひとりと姿を消してゆくところが本当に物悲しくも美しい。




阪急電車 片道15分の奇跡

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2011年

三宅喜重監督
有川浩原作
岡田惠和脚本

中谷美紀 
戸田恵梨香 
宮本信子 
南果歩
芦田愛菜
有村架純

かなり凄いキャストだ!
特に中谷美紀さんは、「砂の果実」以降、女優としてもミュージシャンとしても随筆家としてもファンである。
その「砂の果実」のPVにおける彼女の美しさは絶大なもので、当時地球上の生物のなかで最も美しい存在であると確信したものだ。
そして最近、高偏差値進学中学に合格して女優業再開となった、芦田愛菜の原点みたいな姿も見られる。
この前見たTVでは、相当に美しく洗練されたちょっと歳以上に感じられる女の子になっていてびっくりした。
だいぶ以前であるが、尊敬する女優は、と聞かれて中谷美紀と答えていたのは覚えている。
そのとき、この子は大したものだ、とつくづく思ったことで今も記憶に残っている。(感動があると記憶は長期に残るものだ。海馬~短期記憶・メモリーから大脳辺縁系~長期記憶・ハードディスクへと)

そして流石に宮本信子さんの演技は素敵だ。
人間あのように歳を取れれば申し分ないと思う。
あのようなおばあちゃんであれば、是非ひとこと教訓なり叱咤激励なり思い出噺なり聞かせて頂きたくなるものである。
だがそのためには、相当な叡智がなければならない。単なる知識や経験ではない。
急にはああいったおばあちゃんに誰もがなれるものではない。
あの電車内で注意されたおばちゃん軍団のような人々では到底無理である。

南果歩さんのお母さんはとても良い感じだ。
PTA関係で凄まじくとんでもない不良おばちゃん軍団と行動を共にしなければならなくなった悲哀がとてもよく出ていた。
宝塚あたりのそれは、わたしはかつて二子玉川で見てきた。
実際、そういうものである。毎日のようにフレンチやイタリアンの高級レストランでおいしいランチを食べてるのは本当だ。
それが耐えられないのはよく分かるし、関係を断つと後が怖い。
家族が理解者であることは救われるが、ちょっと不自然な感じもあるにはあったが。
気弱で回りを気にする善良な主婦が十分に演じられていた。

そして今をときめく有村架純である。
「ビリギャル」面白かったが、ここでも伸るか反るかの受験生役で、こういうのが合っているのだろう。
この年頃の女優は女子高の怪談物に出ているケースが目につくが。
「女子ーズ」での活躍も面白かった。ニュートラルな女の子役でこの人の右に出る者はいないと思う。
直向きで可憐な役がピッタリだ。

戸田恵梨香はやはり上手いし自然である。
演じている感がない。
芸達者だ。
しかし、DVを受けても、というより受けることで、離れられなくなる一種の病的な心理規制も発現してしまうのか、、、見ていてそう感じられた。この物語のように外部の支援者に間に入ってもらうことがベストに思える。

それから、お宅学生のカップルである。
この二人がどうみても、もっとも幸せカップルであろう。
自分の趣味の道を素直に無理なく進んでゆくことが、結局は一番ベストな結果を生むのだ。
自分に嘘をつき、無理に外に合わせるだけ時間を単に空費し、時に取り返しのつかないところに追いやられる。
自然な形で自分たちにもっとも合う相手を見つけるのが最高だ。


このローカル線、、、。
ありふれた光景に見えてかなり異化された時空である。
登場人物たちは、孤独を電車の中で噛みしめることで、解放へと繋がってゆく。
そこにとても重要な触媒としてのおばあちゃんが介在する。(如何にも賢そうな孫の芦田愛菜と一緒に)。
おばあちゃんのちょっとしたお節介が、よい波紋となって他の登場人物たちに染み渡ってゆく。
中谷美紀や戸田恵梨香が癒され自分に向き合い、救われたことで、彼女らも他の人を癒し救ってゆく。
お宅カップルも救われたに違いない。
連鎖が優しく広がる。

これなのだ。
ローカル線であることも重要なファクターだが。
通常、このおばあちゃんのような、優しく賢いお節介というのはない。
誰もが自分の硬い殻の中に籠っている。人に構うなんてもっての外と思っている。
あっても大概目つきの悪い、批判や攻撃だ。単なる他罰主義丸出しの自己中心的な憤りだ。
でなければ、無自覚なコンプレックスの投影で人にとり憑いてくる輩もいる。
迷惑以外の何ものでもないし、人を更に孤独に孤立させる関係性しか生じない。
(こんな関係を深める光景がほとんどだ)。


しかし、ここでは、、、。
宮本信子と芦田愛菜のおばあちゃんと孫娘から広がる浄化と癒しの空間が電車という形で現出されている。
(これが街角や店などでは、効力を発揮しない。あくまでローカル電車という場所であることが重要である)。



PUSH 光と闇の能力者

PUSH 002

PUSH
2009年
アメリカ

ポール・マクギガン監督

クリス・エヴァンス 、、、ニック・ガント(ムーバー・念動力者)
ダコタ・ファニング 、、、キャシー・ホームズ(ウォッチャー・未来予知力者)
カミーラ・ベル 、、、キラ・ハドソン(プッシャー・記憶操作能力者)
クリフ・カーティス 、、、フック・ウォーターズ(シフター・物体の外観を変える能力者)
ジャイモン・フンスー 、、、ヘンリー・カーバー(ディヴィジョンのエージェント、プッシャー)
ニール・ジャクソン、、、ヴィクター・ブダリン(ディヴィジョンのエージェント、ヘンリーの右腕、ムーバー)
リー・シャオルー、、、ポップ・ガール(ウォッチャー、香港暗黒街のボスを父に持つ)


わたしは、こじんまりとした(小さくまとまった)作品は結構、好きな方だ。
だが、そういう作品ほどきっちりと締まったものでないと話にならない。

小粒な超能力者たちがざわざわ動いて結局何をしたのか分からない映画。
(昨日の超能力はそれなりに分かり、その人間の実存も充分に共感できたが、これは人がまるで木偶人形である)。
舞台は香港。
秘密組織ディヴィジョンから逃亡して潜伏している超能力者と、ディヴィジョンから送り込まれたエージェントに、香港暗黒街の組織の超能力者たちの、三つ巴の戦いである、ようだ。
ただ、何で戦ってるのか、彼らにどういう動機があるのか、金なら何で儲かるのか、よく分からなかった(笑。
そう、話自体さっぱり掴めずただ見ていただけなのだ、、、。

ダコタ・ファニングはそこそこ際立ち頑張ってはいるが、ナタリー・ポートマンみたいな圧倒的な存在感からは遠い。
妙に大人びていて生意気で頼りになるが危なっかしい少女というステレオタイプの役柄だ。
「レオン」は作品自体素晴らしかったし、、、やはり出演作は大きい)。
というより、今はもうこういった少女役は無理な年齢になっている。
正統派の美人女優として今後、伸びてゆく人であろうが。

PUSH 003
サイキックとは言え、ちゃんと能力発揮してるのは、ヴィクターくらいではないか?
彼はかなり派手だし。こういうもんだろうと思える。
だが、主人公他、誰もほとんどパッとしない。
主人公がもっともパッとしないのだが。
魅力がない。
キラというキャラ設定も情けないほど薄い。
キャシーだけは、このなかでは厚みを覚えるが、妙なポップアートみたいなのを描いてばかりで、今一つ深まらないし、広がりを欠く。全て原案・脚本・監督のせいであるが。
(こういうレヴェルの作品はスキップするべきなのだが、うっかりみてしまったため取り合えず備忘録と相成った)。

キャラが充分に動かせず、能力も有効な展開に繋がるという訳でもない。
(特にキラの場合)。
同じ種類のパワーでも個人差はあるようだが、実用レヴェルに達しているのは、ほとんどいない。
これを逆にうまく連合させてストーリーに練り上げれば、結構スリリングで面白味のあるものとなったのでは。
ひとりくらいミスタービーンみたいな人も加え、、、。
そうしたら、ぐっと入っていけるかも知れない。

それからナチス時代に研究・開発された超能力軍事兵器だそうだが、何でもヒトラー~ナチをブラックボックスにしてしまう安易さは勘弁してくれというところ、、、。ディヴィジョンという組織がそれを引き継ぐって、確かにそういった地下~秘密組織に対する憧れは誰もがもつところだが、安直である。
まあ、物語全体において安易であるが。
ウォッチャーなどを下手に設定してしまうと、プロット的に首を絞めることにもなる。
相当脚本を練る必要があるはず。


全体に、何を見せたいのかが、いまひとつ分からず中途半端感が最後まで続いた。

結局、何であったのか、、、?
余りのインパクトのなさに、もう見た内容も思い出せない。
いや、この記憶は消そう。
(記憶を消して身を守る場面があったが)。

ニックは中国の醬油を注射して大丈夫なのか、、、。
そんなところが気になってしまう。


PUSH 001
あ~あ、出る作品、選ばなけりゃ、、、と言っているようにも見える。



プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

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