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炎の画家ゴッホ

Lust for Life

Lust for Life
1956年
アメリカ

ヴィンセント・ミネリ監督
アーヴィング・ストーン『炎の生涯 ファン・ゴッホ物語』
ノーマン・コーウィン脚本

カーク・ダグラス 、、、フィンセント・ファン・ゴッホ
ジェームズ・ドナルド 、、、テオ・ファン・ゴッホ
アンソニー・クイン、、、ポール・ゴーギャン


「生きる」
まさに、ただひたすら、自分の生を生きようとした(生き急いだ)フィンセント・ファン・ゴッホの悲痛な生涯の物語である。
こういう映画も作るアメリカの懐の深さを感じた。(ジョンウェイン=トランプみたいな側面はもつにせよ)。
ゴッホとは、”Reality”にどれだけ「絵」という唯一の武器で迫れるかに命をかけて挑んだ戦士である。
ポール・ゴーギャンも彼に劣らず自分の生を追及した人であったが、”Imagination”によって世界を再構築しようとした芸術家である。
この映画で作られたゴッホのイメージがデフォルトであろう。

「ゴーギャンとゴッホ展」に行ったことを思い出した。
以下、自分の書いたところからの引用。
「確かにゴッホはあくまでも目の前の対象に拘りぬくことからあのような表象を得るところまでに至り、ゴーギャンは対象をひとつの契機として永遠・普遍を要請するイメージをあのように構成した。」
ここが、激しい彼らの共同生活でのぶつかり合いでやはり鮮明になった。
部屋の中での激論も両者の資質の違いを際立たせていたが、外での制作中の諍いにもよく表れていた。
(とても上手い脚本だったと思う)。
ゴーギャンは表象の相対性を理念的に認識していたが、ゴッホにとって彼の五感に得られる表象はそのまま絶対で普遍なものだった。
このような場合、ゴーギャンが折れなければ、共同生活は無理だろう。

ゴッホとゴーギャンはそのまんまであった。
絵から抜け出してきたようなタンギー爺さんがこれまた良い味出していた。
ゴッホが施設を出た後、彼を治療観察する精神科医(エヴェレット・スローン)も肖像画そっくり。
勿論その他の、名もなき炭鉱夫やその家族、農民たち、、、。
アルルの桜やサンレミの松、、、そう映し出される場所や人が彼の描いた絵に重なる。
この撮影は随分骨の折れるものだったと想像できる。
(美術館・個人所蔵の作品を相当数かき集めたことが分かる)。
しかし、その場所や人々と照らし合わせるように見れるなんてそれだけでも贅沢である。

美しい映画であった。

この映画、弟テオ(の立場)に寄り添うことが多かった。
(ゴッホ、ゴーギャンの身になって考えることは可能だが、、、)
見守る立ち位置から、そこをもう少し気楽に行けないかね、、、とか思いながら心配して観てしまう。
ゴッホは、行く先々で人々から奇異な目つきで見られ拒絶される。
妹からも、兄さんのせいで、家族が変な目で見られると。
兄の価値を認め続けるのはテオだけである。

基本、ゴッホはゴーギャンより真面目で正直で繊細で強情で極めて不安定で危険だ。
経済的にも精神的にもテオの存在なくして絵を描き続けることは困難であったことは間違いない。
そしてテオの存在がなければ、ゴッホその人も作品もわれわれは知らずに終わった可能性が高い。
あれだけ、同時代に(ごく少数の才能を持つ者以外には)見向きもされなかったのだから。
テオの眼力と愛情なくして、今われわれが知るゴッホの作品はなかった。
(ゴッホ死後の作品収集・管理においても)。
テオの根気強く兄を信じ支え続ける暖かな眼差しなくしてこの物語自体が成り立たない。
ゴーギャンが言っていた、「わたしは君のように金を送って支えてくれる弟などいない」は非常に大きい。
絵を描かなかったら、ゴッホとは何であったか、、、。
伝道師を辞め(クビになり)、「絵」を発見してよかったと思う。
彼は絵によって命をすり減らしたのではなく、絵によってはじめて世界と真っ向から向き合い燃え尽きたのだ。
絵によって「生きる」ことが出来た。
それは幸せな一生であったはず。

彼は不吉な『鴉のいる麦畑』を描き、ピストル自殺する。
きっと映画のような光景だったろう。
「死は白昼にやってくる。」
その通りだった。

「兄さんかわいそうに、、、」
死を看取ったテオの言葉に同感である。
きっとどんな生であっても、最後というのはかわいそうなのだ。
愛していればなおのこと。



ぼくのバラ色の人生

Ma vie en rose001

Ma vie en rose
1997年
フランス、ベルギー、イギリス

アラン・ベルリネール監督・脚本

ミシェール・ラロック、、、アンナ・ファーブル(リュドヴィックの母)
ジャン=フィリップ・エコフェ、、、ピエール・ファーブル(リュドヴィックの父)
エレーヌ・ヴァンサン、、、エリザベス
ジョルジュ・デュ・フレネ、、、リュドヴィック・ファーブル(7歳のMtFトランスジェンダー)

1997年。かなり早い時期の問題提起か。


7歳のリュドヴィック・ファーブルは、自分を素直に出すと必ず周りがあたふたして、大騒ぎになったりする。
何故なのか、とても不思議なのだ。
理不尽なことに凄く叱られたりもする。
お姉ちゃんのピンクのドレスを着て何が悪いの?

Ma vie en rose002

所謂彼は、MtFトランスジェンダーと言われる人なのだ。
大きくなったら女の子になる、と夢見ている男の子。
わたしもそれくらいの頃は、鉄人になるとか、、、友達も似たような憧れを口にしていた。
何の悪気などあろうはずもない。本当に彼のなりたいもので、憧れなのだ。
彼女のいや、彼の弟が「それって猫を殺すことより悪いの!」と親に問いかけている。

まさにそこである。
例えバカ息子が猫を一匹悪戯で殺しても、学校に呼び出され転校を勧められたり、近所全ての家から署名が集まり転居を強いられたり、父親がリストラされたりはしまい。
大きくなって女の子になるの、、、という彼の極めて自然な感情は、動物の虐殺より遥かに罪が重いのだ!

この男の子がデンとしたもっそりした子なら明らかに異なるトーンの映画となろうが、天使タイプの可愛らしい子なのだ。
このまま女の子と言っても、普通の女の子より可愛いで通用するかも知れない。
些かそのせいで、物語は重く暗くはなり過ぎず、メルヘンチックに展開してゆく(笑。
だが、祖母のように今が可愛いからと言って、そのまま猫可愛がりしていて問題が解消するものではあるまい。
思春期になればこの子だって、明らかに男の体になって行く。髭だって生えてこよう。
こころが完全に女だとしたら、それ相応の折り合いをつけて行かねばなるまい。
当人はその深刻さには、まだまだ気づかないのは当然のこと。

Ma vie en rose004

彼自身の憧れへの想いが、家族たちを追い詰めている認識が深まるに従い罪悪感と現実逃避の欲望も強まる。
7歳であれば、まだTv番組のヒロインが助けてくれる白日夢にも浸ってしまうものだ。
冷蔵庫に隠れてみたりもする。おばあちゃんのところに逃げ込んだり、、、。
家族も彼を精神科に連れて行き、矯正を試みる。
世間体からしても、治さなければならないのだ。何とか真人間にしたいと。

しかし成果は上がらず、家庭が徐々に大変なことになって行き、理解者振っていた母親があからさまに彼を罪人扱いし始める。
切羽詰まって過敏になってゆく。
だがそれと同時に、当初生理的に嫌悪感を隠さなかった父親が、お前のせいじゃないと世間と闘う意志を表明する。
お父さんは逞しさと優しさを発揮し始め、家庭としては良い方向性が芽生えてくる。
家族や周囲の人間が(たまたま引っ越した近所の家庭に彼の逆パタンFtMの女の子がいたようで)、違いが受容され仲良くされる可能性が見え、その点では良いところに引っ越してきたものだ。
試練を通し、彼を掛け替えのない大切な息子だという肝心な事=愛を再認識する両親。

Ma vie en rose003

しかし、これから先、成長と共に自然な憧れ自体が内側から浸食されてゆくのだ。
その純粋なイメージがどう成長と共に獲得してゆく知識や認識によって、善く生きて行ける可能性に結び付けられるか?
周りからの偏見や疎外や抑圧、暴力から来る苦痛より、寧ろ自分の内的な葛藤と不条理な実存的苦悩の方がキツクのしかかってくるはず。
かなり壮絶な格闘が不可避となろう。
自分独自の強固な世界観の構築とその理解者の獲得に恐らくかかってくる。

いや、今現在なら理解者、支援者団体はかなりの大きな組織としてもあり、マイノリティであることから迫害を受けたり、差別されることもなくなってきただろう。人権はしっかり守られるし、この映画の時期からは確実に周りの状況は進展している。
肉親の思いは、時代の変化であっても、些か複雑ではあろうが。
外部の状況はそうである。
しかしあくまでもアイデンティティの問題である。
ムーブメントにおける理解者などで解消される次元ではない。
(そこまで行くと、普遍的な存在論ontologyともなってしまうが。必然的に)。


基本、周りがどうであろうが、馬鹿が何を吠えようがそんなことは、もともと関係ないのだ。
自分が自分にどれだけ折り合いをつけていけるか。
自分が何にも流されない、自分の主体として生きてゆけるか。
これは、同時にわれわれと重なる存在論的課題でもある。
(抱えるものが少し違うに過ぎない)。

大鹿村騒動記

oosikamura001.jpg
2011年
阪本順治 監督・脚本

忌野清志郎 主題歌「太陽の当たる場所」

原田芳雄 、、、風祭善(食堂「ディア・イーター」店主)
大楠道代 、、、風祭貴子(善の妻)
岸部一徳 、、、能村治(善の幼なじみ)
松たか子 、、、織井美江(村役場総務課)
佐藤浩市 、、、越田一平(バス運転手)
冨浦智嗣 、、、大地雷音(「ディア・イーター」アルバイト)
瑛太 、、、柴山寛治(郵便局員)
石橋蓮司 、、、重田権三(土木業)
小野武彦 、、、山谷一夫(旅館主人)
小倉一郎 、、、柴山満(白菜農家)
でんでん 、、、朝川玄一郎(食料品店店主)
加藤虎ノ介 、、、平岡健太(村役場職員)
三國連太郎、、、津田義一(歌舞伎保存会会長、貴子の父)


「大鹿歌舞伎」という300年の伝統をもつ歌舞伎を村をあげて守り続けている人々の話をユーモラスに描く。
キャストは、芸達者揃いであるが、歌舞伎の演技は実に素人臭く演じているところがミソ。
この「大鹿歌舞伎」は、長野県下伊那郡大鹿村に伝承されている地芝居であり、国の重要無形民俗文化財にも指定されている。

村人もエキストラで300人以上参加しているそうだ。
賑やかで盛大で如何わしくとってもキッチュで神聖な行事である。
何というか、地芝居というハレの場が、全ての矛盾や葛藤や秘めた想いを解放してしまう、、、。
そんな磁場の面白さを描こうとしているのか。
伝統ある村の独特の雰囲気が感じられ、風景(南アルプス)もそれらしく見える(笑。
しかしそんな村もリニアモーターカーの誘致を巡り喧々諤々の論争の火花も散る。
「大鹿歌舞伎」の稽古にも影響を及ぼす勢いであるところが面白い。
(誘致急進派の重田などは、歌舞伎とはっきりリンクするとまで言い放っている。元気な村だ)。
ちなみにこの食堂「ディア・イーター」では、鹿肉料理がメインである。
皆、それぞれの仕事中に、歌舞伎の自分の役の稽古を自主的にやっている。
この時期のこの村の日常なのか、、、。
定期公演が近づいてきた。
そんな折も折、、、

善のもとから駆け落ちして失踪した妻貴子がその相手の治と共に18年ぶりに村に帰って来る。
治は、貴子の記憶が無くなったから返すと連れてきたので、怒る前に呆れかえる状況。
そのままふたりを家に泊めることに、、、。
性同一性障害の大地雷音も「ディア・イーター」のバイト募集で入ってきて、俄かに活気ずく。
と言うかてんやわんやの状況になる。
そこへ風祭善の相手役を長年務めてきた越田一平が台風の土砂で事故を起こし芝居に出れなくなる。
その穴を埋めるのが貴子であった。
貴子は実は一平の前のその役の演者であり、不思議にセリフはしっかり覚えているのだ。
劇の稽古から本番まで、見事に記憶は戻っており、自分が治と駆け落ちしたことも思い出していた。
善と貴子は、この芝居で再び結ばれる、と思ったのだが、、、。

主軸となる風祭善~風祭貴子~能村治の複雑なやり取りに、織井美江(松たか子)と越田一平(佐藤浩市)や柴山寛治(瑛太)と大地雷音(冨浦智嗣)の演技が交錯する。そこにでんでんが良い味を付け加える。
最初、「大鹿村騒動記」という題名を見たとき、TVの2時間ドラマ的な印象を持ったのだが、所謂、映画であった。
芸達者な玄人が素人っぽい劇をやるところがやはり面白く、舞台の会場には相当な数のその村の素人エキストラが様々な表情で見に来ている。

さて映画であるが、映画特有の時間を味わうことは出来たが、内容的に面白かったかと言えば、さほど惹きつけられるところもなかった。感情移入して見られる場面もなく、基本的にほう、この人が出てるなあ、と思いながら見ていた。
「大鹿歌舞伎」が実際かなりの尺を取り演じられるのだが、そこが一番面白いところだったと感じる。
確かに熟して枯れて深くなった懐を感じる原田芳雄の示す愛情は、彼でなければ表現できないな、とは思ったが。
感心はするが、感動する類のものでもない。


村興しには、かなり役立った広報映画となったのではないか。
ありそうもない「騒動記」ではあったが、、、。


原田芳雄の遺作というのも、感慨深い。
(まだまだ元気な感じであるが)。
三國連太郎も忌野清志郎もその後に亡くなっている。

忌野清志郎の曲は、どれも皆彼と分かる曲とヴォーカルであり、ホッとする。


サイレント・ランニング

Silent Running001

Silent Running
1972年
アメリカ

ダグラス・トランブル監督

ジョーン・バエズ「リジョイス・イン・ザ・サン」音楽

ブルース・ダーン、、、フリーマン・ローウェル
ドローン1(デューイ)
ドローン2(ヒューイ)
ドローン3(ルーイ)


ロボットが独りで誰もいなくなったドームで植物の世話をしているといった光景は、既視感というか郷愁を感じさせる。
J・Gバラードの小説などにもこのような光景をたびたび観た記憶がある。
「天空の城ラピュタ」のロボットも忘れ難い。
「結晶世界」誰か映画化しないのだろうか?きっと凄まじい傑作SFができると思うが(誰に頼むかの問題だが)。
おバカSFばかりでは、ちょおっと寂しい。
ジョーン・バエズも興味ないなあ、、、。


最近のまともなSFと言ったら、インターステラーオブリビオンオデッセイエクス・マキナくらいか、、、。

”Silent Running”という映画があることは、知っていたが特に見る気もなくそのままでいた。
今回、BSの録画でたまたま見てみた。

生物学者が、植物の不調に際し、日照状況に気づかないということがあろうか?
(最初からそれら全ての諸条件を完全に取り込んだ装置でプログラミングされた管理がなされているはずではないのか?)
光に関しては観葉植物の鉢植えの世話など一度でも経験した人なら、素人でもまず気にする要素だ。
この博士とこれまでの研究に根本的な疑問を投げかける摩訶不思議な部分である。

ロボットが極めて初歩的な歩行型作業ロボットに見えるが、プログラムカードの差し替えで、船体メンテナンス、人の足の手術、カードゲーム、更には仲間同士の何やらコミュニケーションまでとっている、というのはその形体からしてもあり得ない。
特にあの「手」である。巧緻性などまずない。
このロボットの二本のカギ爪で複雑・繊細極まりない作業をどうやってやるのか?
しかもプログラムの差し替えで動くロボットである。
自立系AIですらまだまだ遠いコミュニケーションなどどうやって可能としているのか。
ロボット同士で意思疎通なんて200年は早いわ。
はっきり言ってかなり出来の悪いロボットだ。それだけのことをさせようとするなら、鉄腕アトム(ATOM)くらいのを出してもらいたい。

あのドーム内の電力の供給もあり得ないもので、どこからあれだけのエネルギーを得るのか。
しかも場所が土星近辺ときている。
太陽エネルギーなど全く見込めないが、本体と切り離されてもそのほぼドームだけといった形の、何処かに原子炉が備えられているのか、、、。どう考えても構造上本体側になければおかしいであろう。
ドーム側では、あったとしても太陽光パネル程度だろう。しかし宇宙空間のその位置において設置意味がない。

植物も実を付けたものを食べるところまで出来ており、もう地球に持って帰ってそれをどう根付かせ増殖していけるかのレベルではないか?そもそも実験ドームの中にこんもりした林まで作ってどうするのか?
そんな増殖(幻想も含め)をする前に、研究実験の詳細なデータのやり取りがしっかり当局との間でなされ管理されてきているのか?
その場所を人類の住処とするような巨大な空間~宇宙コロニーとするというのならともかく、単なる大きめの実験室であろう。
動物との共存形態も研究しているのか、、、ウサギやカエルまでいるが。それは地球にまず植物を繁殖させてから後の問題であろうに。
どうも研究テーマがはっきり見えてこない。単なるフリーマンのフリーな趣味のレベルとしか思えない。


宇宙空間に長いこといればそりゃ退屈だし、ジャングルみたいなものが作れればそりゃ楽しかろう。
いずれにせよ、そこを恒久的な環境としてずっと維持しようとする発想が分からないし、そんな自由がそもそも与えられているのか。
もう取り憑かれている。
実験結果のデータや成果のサンプルやらを持って一刻も早く帰還して、母体の地球を何とかすべきではないのか?
目的はそもそもそれではないのか?
土星近辺でわざわざ行ってきたその8年間の研究自体が、どういう意味をもつものなのか、説明があってほしい。

肝心の地球環境が飢えも病気も職業の心配もなく、何処もぴったり24℃に設定されているという環境の状況、納得できるメカニズム~システムの説明もなければ困る。わたしはこんな世界歓迎だが。(ほとんど霊界を想わせるとは言え(笑)。
それとの対比で、この宇宙植物実験施設の意味合いや価値が明瞭となり、われわれもその世界間の軋轢や理想や展望について思いめぐらせる余地が生まれてくるはず。

どうもなにやらはっきりしない。
凝ったガーデニング趣味に取り憑かれたフリーマンの妄想を描いたホラー映画という位置付けなのか?
また同乗する3人のクルーがほとんど何かの専門家には見えない連中であったが、何のために乗っているのか?研究者でもなく似たような妄想癖もなければ、フリーマンの趣味に8年間付き合わされては到底やってられないだろう。
盆栽趣味でもあれば、一緒に楽しめるところだろうが、そんな感性の感じられる連中ではない。
彼らとしてはさっさと退却したいはずだ。

変わった映画だ、、、。

ともかく、フリーマン(どうもわたしの贔屓しているモーガン・フリーマンとこんがらがる)は、自分の育てた植物園が破壊処分されるのが許せないのだ。そりゃ、8年間手塩にかけて育てた世界が無慈悲に宇宙のチリとされるとあっては、頭には来よう。
しかし、それよりもまず、当局に(クライアントに)要求された研究成果はあげられたのか、なのである。
問題はそこのみである。それが明瞭に語られない点がこの映画の致命的な点と言える。
期日までに成果が上げられなければ、法的な契約問題も含み、普通それまでである。
破壊・帰還命令が出るということは、明かされぬにせよそれなりの理由もあるだろうし(政治・権力の面からも、、、それだけかも知れぬが、、、珍しいことではない、ゴルバチョフによるソビエト連邦版スペースシャトルの航行中断もまさにそれである)せめて個人レベルで許される範囲で、役に立ちそうな苗でも持って素直に帰還すべきであろう。
別に船員がゲス野郎であっても殺すほどのものでもない。

恐らく宇宙空間に長く滞在するうちに、理解者のなさや何やら研究が圧迫されていることからくる被害者意識で妄想が膨らんでいたところに、研究打ち切り命令が来たため一気に暴走とあいなった、というところか。


テーマは、宇宙空間における孤独な存在の内に巣食う妄想の肥大と爆発である。
文字通り爆発して終わり。
切り離されたドームに植物に水をやるロボットが一体。であるが、、、。
後は、多分土星周回軌道上に吸収されて細かい輪っかを構成するチリの一部として周回する運命だろう。



海街diary

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是枝裕和 映画・脚本
吉田秋生『海街diary』原作
菅野よう子 音楽

綾瀬はるか、、、香田幸(香田家長女、看護婦)
長澤まさみ、、、香田佳乃(香田家次女、銀行員)
夏帆、、、香田千佳(香田家三女、靴屋店員)
広瀬すず、、、浅野すず(香田家四女に引き取られる、中学生、サッカークラブチーム所属)
大竹しのぶ、、、佐々木都(三姉妹の実母)
堤真一、、、椎名和也(幸の勤める病院の医師、不倫相手)
風吹ジュン、、、二ノ宮さち子(海猫食堂の店主)
リリー・フランキー、、、福田仙一(山猫亭の店主)
樹木希林、、、菊池史代(大船のおばちゃん)


原作は全く知らないが、映画として心地のよい優しく爽やかな作品であった。
何とも言えぬ郷愁に満ちてもいる。
少女漫画やライトノベル原作のもので、映画化されるとより素敵なものになる例は少なくない。


十四年前に女をつくり家族を捨て出て行った父が亡くなった。
(幸田家は、母も再婚して家を出ており、三姉妹で暮らして来た)。
その父は再々婚して、山形に暮らしていたことを香田家の三姉妹は知り、次女佳乃と三女千佳で告別式に行く。
そこで、出迎えた中学生の娘が、腹違いの妹に当たるすずであった。
長女の幸も遅れて現れ、すずを目の当たりにし、彼女の置かれた境遇とこれまで抱えてきたものを察する。
別れ際、幸が鎌倉で一緒に暮らそうと提案すると、すずは「行きます」と即答するのであった。
すずは、鎌倉の生活に直ぐに馴染んでゆく、、、。

確かに海街だ。
音楽がとてもよく合っている。
流石は菅野よう子の楽曲。
余りにピッタリだと映像~世界に吸い取られてしまう。
波の音が煩くない程度に離れた家は過ごしやすそう。
海風も直接来ないようだし。
庭も広く、梅の木もある。
梅酒を漬けたり、新鮮なしらす丼やアジフライを食べたり、、、ユニークなちくわカレー?。


四人姉妹でも歳が適度に離れている点、よかったか。
もっと近かったら、多分こんなに仲良く一緒には住めそうもない。
ここでは、三女千佳が生な衝突を緩和する役目を引き受けている。
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キャストは、それぞれピッタリであった。
個性がとても自然で活き活きしている。
皆を取り仕切るしっかりもので包容力も豊かな長女の幸。
幸とはぶつかるものの、仕事熱心で恋愛にも積極的な魅力溢れる次女の佳乃。
姉たちと張り合うことがなく、自分の世界を楽しむ前向きな三女の千佳。
そして、居場所を求めてやって来たすず。
ここにいる人たちは、誰もが細やかでセンシブルで優しい。
diary006.png
すずは、何処にいてもわたしここにいていいのかな、、、といつも自問自答している。
ずっとそうして生きてきたのだ。
こころに重荷をもちながらも無邪気で透明で溌溂としている。
しかも聡明で分別もある。
サッカーチームの風太とも仲良くなり、海猫食堂のさち子や山猫亭の仙一にも可愛がられる。
彼女はようやく、気兼ねなくずっと一緒に過ごせる姉妹とその場所を見つけた。
同時に三姉妹にも掛け替えのない妹となる。

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誰のせいとかじゃない、という言葉がよく聞かれる。
運命を受け容れつつも、、、受け止めきれないものを抱え。
親たちの都合で、子供時代を奪われた。
ゆっくり取り戻そう。
こんなところがよい。

姉妹にそれぞれのほんのりとした恋もあったり、、、。
桜を見て、もうすぐ死ぬと分かっていても、綺麗なものを綺麗と思えることがうれしい。
と言っていたという、亡くなった姉妹の父と食堂の店主さち子。
皆が刹那の美しさをずっとこころに刻み込もうとする姿が美しい。
そういうものだと思う。
今この瞬間、刹那の美に支えられて、生きるのだ。
四姉妹が庭でする花火にすべてがある。


広瀬すずがかなりの女優だということを知った。
微妙な立ち位置にいることが多いが、長澤まさみはやはり綺麗だ。
ここでも樹木希林は、ただいるだけですでに凄い。






狂った果実

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1956年
中平 康 監督
石原 慎太郎 原作・脚本
武満 徹、 佐藤 勝 音楽

石原裕次郎 、、、滝島夏久
津川雅彦 、、、滝島春次
北原三枝 、、、恵梨
岡田眞澄 、、、平沢フランク
ハロルド・コンウェイ 、、、恵梨の夫、外人

発声がはっきりせず、セリフが棒読みで早口なため、何言ってるのか分からん。
ただ、暇で金に余裕のある兄ちゃんたちが、ダラダラと遊んで日々を送る話。

音楽がちょっと面白かった。
音響効果に似た音である。
モノトーンの虚無的な水面の表情によく合っていた。

この水面に象徴される光景で全てが覆いつくされていた。
水面にかかるエネルギーが均衡状態を保っていたが、その水面は次第に不安が充満してくる。
突然激しくその水面を切断し水しぶきを上げてヨットを威嚇し廻旋し始めるボート。
ボートを操る青年は理性のタガが外れ狂気の眼差しになっている。
そして獲物を狙い定めたボートは一直線に全速で突っ切って行く。
青年を裏切った二人の男女は、どちらもボートに轢き殺される。

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ノンポリな幼い春次の表情が、ヨット上に二人の姿を認めるや否や、狂気に染まり暴走を始めるところはこの映画でもっとも印象的なシーンだ。
夏久にとって恵梨は、初めは弟を心配して近づいた女であったのだが、自分の愛する対象となってしまっていた。
恵梨は弟の初恋の相手であったが、彼女にはすでに外国人の夫がいた。
彼女の素性も知ったうえで弟に黙って、夏久は恵梨との関係を持ってしまい、深みに嵌って行く。
兄弟同士でありながら、こんな関係になってしまったのも、恵梨の魔性の為か、、、
そういうことだろう。恋は人を狂わすのだ、、、そうなのか、、、たぶん。
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徐々に静かに意識下に不穏な対流が生じ始める。
(こちらも緊張感が感じられるのだが、、、演技がいまひとつで、、、入り込めない)。
恵梨が弟、春次に送った手紙を先に読み、弟の代わりに夏久が恵梨を奪ってヨットで逃避行に出てしまう。
(ここに出てくる面々は皆、その類である。所謂、太陽族?という海辺を中心にアロハシャツにサングラスで享楽的な生活を送る連中のようだ)。


暗黒の海が無意識の欲望の重みに一瞬泡立ち、また静まりかえる。
水面には砕け散ったヨットの残骸が浮かぶ。

春次はそのままボートを飛ばして何処にいくのやら、、、。


もう少し役者の訓練をしてから撮影に臨んだ方が良かった。
映画自体、なかなかよい映画であるのだし、惜しい。
フランスのヌーヴェルヴァーグを感じさせるところがある。
だがいかんせん、役者が素人過ぎた。
北原三枝だけ、プロレベルという感じなのだ。
素材的に、岡田眞澄がやたらとカッコよいではないか(役柄もそうだが)、、、。
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わたしはスターリンそっくりさんの彼しか知らなかったため、これは新鮮な発見であった。

この中で唯一純情な役をやっている津川雅彦には笑ってしまった。
誰にでもこういう時期はあるんだということを認識できる映画でもある。




コララインとボタンの魔女

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Coraline
2009年
アメリカ

ヘンリー・セリック監督・脚本

コラライン・ジョーンズ(少女)
メル・ジョーンズ(コララインの母親、ライター)
チャーリー・ジョーンズ(コララインの父親、ライター)
黒猫(コララインと冒険をともにする)
ワイボーン(コララインの相棒の少年、大家の孫)


デジタル3Dとストップモーション・アニメを組み合わせた作品。
さぞ、手がかかっただろうな、とは思うが手がかかり過ぎて何にも気にせずすんなり観られるものとなっている。
しかし気になるのは、手法よりどのような世界観が作られているかである。
基本、観たいのは、そこだけ。

築50年の屋敷に越してきて、両親は(パソコン)仕事に忙しく余り彼女にかまってくれないため、寂しく感じている。
大家の孫ワイボーンは、その家には子供は近づいてはならないという不吉な言い伝えを彼女に教える。
あるとき、父親に家中の扉について調べておくように言われ、ひとつひとつ調べてゆくと封印された小さな扉を見つける。
(その扉は、鍵を開けても向こうはブロック塀であり、完全に塞がれていた)。
もうここで、この先の展開は読めてしまう。ただしこの映画は独特のホラータッチをもっている。

人形を作ったり、糸をほどいてまた人形を作て行く流れをみせるところなど、気味の悪い直截さがある。
光と影の扱いだけでなく色においても原色がぶつかるように使われている。
夜主体の映像が多いが、ナイトメアテイストを強く打ち出すことに成功している。

実際、思った通りの噺の流れになって行く。
そこに工夫があり、驚きやワクワクがあるかどうか、だけの問題となる。
夜ベッドに入ったとき、小さな飛びネズミの誘導で小さな扉の向こうにトンネルが開けていることを知り、そこを抜けるともう一つの家そっくりの空間が広がっていたのだ。

その家には見慣れたはずの自分の母と父がいるが、何故かとても優しく、何でも言うことを聞いてくれる。
母の料理は上手だし、父はピアノを弾いてくれる。ただし、彼らの目はボタンなのだ。
だが、居心地が良い為、さして気にせずそこで楽しく時を過ごすことになる。
手のかぶれもその母に塗ってもらった泥で治ってしまった。

ベッドに入って眠りにつき、朝目覚めると、元の家の本当の両親のいる家に戻っている。
最初は、ボタン両親の家は夢の中の出来事と思っていたのだが、実際にその小さな扉を鍵で開けることによって、自力で入って行けることを知る。この世界は本当なんだ、と彼女は感動する。

見世物小屋やサーカスなどで楽しんだり、ご馳走を食べて過ごしているうちにずっとそこにいてもよいように思えてくる。
だが、その為には母や父と同じように、目をボタンに変えなければならないと言われ、どんな色のボタンがよいか聞かれる。
針も細いからそんなに痛くないよと言われて驚き、コララインはそこを脱出しようとする。
以前そうして他にも目玉を取られた子供がいることも知る。

いざ、抜け出そうとすると、ベッドに入っても眠れない。
自力で抜けようとしても、正体を現した魔女に行く手を阻まれなかなか本当の家に出られない。
やっとのことで、彼女はボタン目のワイボーンや猫の手も借りて元の家に戻る。

しかし、そのときには、両親がボタンの魔女にさらわれていた。
エイプリルとミリアムという占い師に貰った石のアイテムをもって、コララインは、意を決してもう一度逃げてきた魔界の家に戻ってゆく。
両親を取り戻すべく魔女とゲーム対決をするのだ。
そこにはボタン目のワイボーンもいて、コララインを助ける。

石のアイテムで、子供から取り出した目玉をみつけながら、魔女との攻防戦を繰り広げるコラライン。
徐々に魔女の作った世界の時間が解体してゆく過程の表現は目新しくスリリングであった。
このような表現は、不思議の国のアリスでも既視感はあるが、ここの独自性はかなりのものだ。
やはり、これはVFXを魅せる映画である。
ギリギリのところで両親を復活させ、目玉を返し子供たちを昇天させ、鍵を守り魔女を古井戸に突き落とす。

噺そのものは、別にどうということもない。
奪われたものを魔女から取り返し、迷う魂を救い、執拗に追いすがる魔女を相棒のワイボーンや彼の黒猫との連携で、封じ込める。
しっかり予定調和に締めくくられる。

ただ、何ともキャラクターの造形が余り可愛らしくなかった。
歪な造形の面白さを狙った感じではあるが。
可愛らしいファンタジーではない。
ゴシックホラーとまではいかない。
ゴシックホラーテイストのファンタジーというところか、、、。


隣の次元の我が家に行って遊び惚けるコララインとは、まさに宿題後回しで任天堂スイッチでゼルダ伝説に興じるうちの娘と同期する。彼女らもそれに興じているときは、もう行ってしまっている。だがそこがいくら楽しかろうが、、、
しっかり我に戻って、宿題やピアノ、読書もしてもらわない事には、、、こちらの生活の現実にもっと深く根を下ろしてそこでの充実を楽しんでもらわなければ、、、。
なかなか戻らないコララインたちで、困ったものである。



下妻物語

shimotsuma.png

2006年
中島哲也 監督・脚本
嶽本野ばら 『下妻物語 ヤンキーちゃんとロリータちゃん』原作
菅野よう子 音楽


深田恭子 、、、竜ヶ崎桃子(ロココ時代に憧れるロリータ少女)
土屋アンナ、、、白百合イチゴ(スケバン暴走族少女)
宮迫博之、、、桃子の父(ほぼヤクザのペテン師)
篠原涼子、、、桃子の母(たかのゆりビューティコンテストで惜しくも優勝を逃す)
樹木希林、、、桃子の祖母(桃子の理解者)
岡田義徳、、、磯部明徳(BABY, THE STARS SHINE BRIGHT社長兼デザイナー)
小池栄子、、、亜樹美(イチゴの敬愛する先輩)
阿部サダヲ、、、産婦人科医・一角獣の龍二(桃子の母の再婚相手・亜樹美の彼氏)
水野晴郎、、、何故か代官山のコンビニに現れる

菅野よう子が音楽担当と言うことで観ることにした。
が、音楽そっちのけで、物語に入り込んでしまった(笑。

これは友情物語か?!
しかし異様に面白かった。
土屋アンナはやはり芸達者である。
彼女の曲とMVはiTunesで随分買った。
ミュージシャンとしては、やたらカッコいいが。
深田恭子は、この時分が一番良かったな、とは思う。
ロリータ役が実にはまる。
飄々としていて、「行ってしまった感」の強い役が彼女にはピッタリだ。
ここでは、茨城県下妻のポンパドゥール夫人か。

”BABY, THE STARS SHINE BRIGHT”というロリータファッションブランドに憧れ、そのブランドのドレスで身を固める竜ヶ崎桃子は、茨城県の下妻市から足しげく代官山に通うロココ主義の17歳。
ロココ様式は、過度な装飾性とその宮廷趣味が退廃的と揶揄もされるが、繊細・優美な曲線模様にはやはり魅了される。
ブーシェ、フラゴナールなどわたしの大好きな画家でもある。
この映画を観て、そのうちにブーシェ、フラゴナール特集をやりたくなった(笑。
(わたしの注目するヴィジェ・ルブランもロココ風新古典主義とも呼べる美しい女性画家である)。
彼女にとっての「ロココ」とは、ロリータファッションに身を包んでひたすら着飾り、自分が満足ならそれでよし、というもの。
他人は関係ない。人は皆、独りで生まれ、独りで考え、独りで死ぬもの、友達など必要ない、という固い信念に貫かれている。
父親はいかさまペテンで稼いできた男だが、彼女に刺繍の腕は磨かせていた。
そのおかげで、天才的な刺繍の腕とファッションセンスは身につける。
離婚のとき、裕福な再婚相手を見つけた母が桃子を引き取ろうとするが、彼女はヤクザまがいの父といた方が「面白そう」という理由でそれを断っている。この場合の「面白そう」はかなり過激な選択を勇断させている。やはり独特の感性で、彼女ならではの理屈は通している。

一方の白百合イチゴはしっかりした裕福な家庭の娘なのだが、気が弱くいじめに遭い悩んでいるところに暴走族のトップの亜樹美に励まされ、自分もその暴走族に入って活躍することとなった。
暴走族の名前は”舗爾威帝劉”ポニーテールである!
(この手の当て字はひところ流行ったものだ(笑。少年漫画誌などで、、、わたしもみていた魁男塾(爆)。

桃子が父親の以前集めておいたバッタモンのヴェルサーチを売りにだしたところ、それに食いついてきたイチゴと、それぞれ身勝手な振る舞いをしながらの交流がズレつつも進展してゆく。
二人とも唯我独尊タイプである為、噺は合わないのだが、桃子は怖いスケバンスタイルで凄むイチゴにいつも言いたいことを臆面もなく言い放つ。その度に、てめ~っと言われヘッドパッドで失神させられるのだが、全く懲りない独特の感性をもっている。
別に根性がある分けではない。
他者が存在しない為、自分のその時々の思いをストレートに何に対しても言ってしまうというところか。
この二人に基本、対話は成立しない。

イチゴが先輩亜樹美の引退パレードに着てゆく服に感謝の意を記した刺繍を入れる為、代官山に伝説の刺繍屋を探しに二人で向かうが見つからない。(代官山に詳しいということで無理やり桃子は連れて行かれたのだが)。
諦めて帰るときに、代わりに桃子がイチゴの特攻服の刺繍をさせて欲しいと、申し出る。
イチゴは、全面的にその作成を桃子に任せる。
桃子は3日かけて、それを丹念に仕上げる。
その仕上がりは想像以上の素晴らしいもので、イチゴはいたく感動する。
その姿を見て生まれて初めて桃子は物を人のために作る喜びと感動を味わう。
恐らく、ここが肝なのだ。
自分の創造したものが他者のこころを揺さぶったという経験は、何にも代え難い。
これは、何にも代え難い。
そしてその創造行為に共感した二人の間に強い友情が自然に生じてきても何もおかしくない。
観ているこちらも嬉しくなる。
あの頑固に自分の主義に固執して閉じてきた桃子が、他者に対してこころを開いてゆく過程が殊の外優しく描かれてゆく。
こういう風な、友情物語なら、わたしも許せる(爆。

基本的にドタバタコメディ路線だが、主役の二人が綺麗で可愛らしい為、どんな場面でも決して絵が汚くならないのがよい。
途中でアニメなども入り、演出も面白く全く飽きさせない。
脇を固める俳優陣もベテラン個性派で、二人を上手く盛り立てている。
目立ち過ぎないところも良い(笑。

しかしジャスコの扱いには笑った。わたしもイオンには時折行くが、何も企業からクレームはつかなかったのか?
この土地では、生まれてすぐにジャスコのジャージを着せられ、死ぬときもジャスコのジャージで死ぬ、、、これは凄い。唸った。
この手の名言は、そこかしこに散りばめられている(爆。
深田恭子のナレーションの効果も良かった。
菅野よう子の音楽がどんなだったか、頭に残っていないのがうかつだった、、、。

阿部サダヲのリーゼントはやり過ぎに思うが、別にこの物語では不自然には感じなかった。

最後に水野晴郎氏に合掌。


めぐりあう時間たち

The Hours003

The Hours
2002年
アメリカ

スティーブン・ダルドリー監督
フィリップ・グラス音楽

1923年
ニコール・キッドマン、、、ヴァージニア・ウルフ(『ダロウェイ夫人』執筆中)
スティーヴン・ディレイン、、、レナード・ウルフ(夫)

1951年
ジュリアン・ムーア、、、ローラ・ブラウン(専業主婦)
ジョン・C・ライリー、、、ダン・ブラウン(夫)

2001年
メリル・ストリープ、、、クラリッサ・ヴォーン(雑誌編集者)
エド・ハリス、、、リチャード・ブラウン(詩人、小説家)
クレア・デインズ、、、ジュリア・ヴォーン(クラリッサの娘)
アリソン・ジャネイ、、、サリー・レスター(クラリッサの同棲相手)


音楽がフィリップ・グラスであったことが、この映画を観る決め手となった。

やはりフィリップ・グラス以外の何者でもない音楽であった。
映像も音楽に見合った充分な影を纏った美しいものであった。

生きる場所(時空)の異なる3人の女性の運命的なめぐり逢いを描いたものとしたいのか、この邦題は。
しかし、「時間」に安易に「たち」等とつけるのは、余りに安易である。安物トレンディドラマじゃあるまいに。
何とも気色悪い。


一番重い役を見事に熟していたのは、ローラ・ブラウンのジュリアン・ムーアだった。
これは難しい役どころだろう。
1950年代の女性の立場、、、戦地から帰ってきた夫を慈しみ支えて暖かな家庭を築くという理想~超自我、をさほど抵抗なく引き受けられる神経の持ち主も多くいたことであろう。
しかしローラは、外見は何不自由ない幸せな家庭の模範的主婦として暮らしていながら、埋めようのない空虚~疎外感に追い詰められていた。
彼女は、世間体もとても気にして生きていただろう。特に夫に対するペルソナにおいては神経をすり減らしていたかも知れない。
その微妙な深部での揺れ動きは、幼い息子には敏感に感じ取られていた。
彼は長じて詩人となる感性豊かな少年である。
その彼が感じた母親の深い葛藤がさらに彼の感性と想像力を鋭敏にしてしまったことは、ある意味不幸でもあったか。
その暗部とは、何か?

例えばそれが具体的に、性同一性障害であったりするかも知れない。
統合失調症や躁うつ病という形で診断されてしまう場合もあることだろう。
だが、実はそれが、何であるかを言うことは出来ない。
実存と一口に言ってしまえばそれまでだが、、、。

ローラは、息子が追い縋るのを振り切って独りホテルに行き、そこで薬を飲んで自殺を企てる。
きっかけは子宮に腫瘍のできた友人が「子供を産まなければ一人前の女ではない」と言って泣くのを見て思わず抱き寄せキスをする。だがそれを彼女に拒まれたように敏感に感じたことが、その行為への引き金なったようだ。
人が自殺を決めるときなど、そんなものである。
しかし自分の寝ているベッドが水に呑み込まれそうになる幻覚に襲われ彼女は思い直す。
息子の下にもう一人の子供を授かったことに気づいたのだ。
ローラは一旦家に戻り、その妹を出産してから家族を捨て失踪する。
彼女は自分も知らない国、カナダの図書館に勤め、初めて独りで暮らす。
思い切った行動だ。勿論、世間から一方的な非難の対象となろうし、許されるものではない。
全くローラ・ブラウンらしからぬ異様な行為として窺える。


現代でも、過剰な(ウーマンリブ的な)自己主張をするわけではないが、いつも微笑みは湛えたまま、どこかで「本当に生きたい」と密かに強く望んでいる女性(男も当然)はいるものだ。
これは普遍的なものである。
ローラ・ブラウンの表情をした女性は確かに普通に何処にでもいる。場合によっては本人もそれと気づかず。

The Hours002

2001年の表向きは何の抑圧もないような素振りで、同性愛の相手と暮らしている自由なキャリアウーマンのクラリッサであっても、しっかりとした自立を勝ち得ているかと言えば、そうではない。かつての恋人でありエイズになった詩人の身辺介護をしながら彼に依存し、それを自分の存在意義の一つとして生きている。
彼の文学賞受賞パーティで、花を沢山買いパーティの為の料理や支度を念入りにし、彼を元気づけようとするが、彼の元恋人(男性)が現れ、話をするうちに感情的に混乱を極める。
自分の問題に触れる。自分が思いの他、解放も自立もできておらず、実は日々不安に苛まれていることに気づく。
彼はクラリッサをダロウェイ夫人とも呼んでいた。
パーティの迎えに訪れたとき、彼女の目の前で詩人リチャード・ブラウンは、アパートの窓から投身自殺する。
「君の為に生きて来た。でももう行かせてくれないか」と言い残して、、、。

ヴァージニア・ウルフは、もっとも自覚的で創造性のある女性である。
この物語自体が、彼女の『ダロウェイ夫人』の執筆に同期して流れてゆく。
(他の二人の女性ローラとクラリッサもヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』を読んでいる)。
ヴァージニアが精神を病んだことから、夫レナードの計らいで田舎に居を移して療養生活を送っていた。
夫は出版業を営みつつ妻の執筆の援助と健康の回復を願っている。
だが彼女は自分の身を医者に任せたり頼る気など微塵もない。
彼女に必要なのは静養や保護ではなく、刺激に満ちた場所なのだ。
自分で物事を判断し決定して生きたい。
自立した個として自分を解放して欲しいことを夫に渇望する。
彼はそれを承諾し、彼らは元居たロンドンに戻ることにする。
しかし、彼女はその後、「私たちほど幸せな二人はいない」という書置きを残し川に入水自殺する。
(ローラの資質からすれば、空間的な距離を置くことで解決を図ろうとするが、ヴァージニアの場合、創造的な垂直性を要請する。ローラの場合の水は、新たな生命を守る羊水の象徴として現れたかも知れぬが、ヴァージニアの水は、創造性の枯渇~石を身に纏っての水没=下降の場となろう。もっとも彼女らしい選択である)。

非常に果敢に自覚的に闘い続けたヴァージニアが(そのためもあろうが)自死し、慎ましくひっそりと主婦の立場にいたローラが一人、他国の地で生き抜いてきたのだ。
ローラのかつて捨てた家族は皆亡くなっており、高齢となった彼女がたった独り生き残ったのである。
息子の死の知らせを受け、彼女はクラリッサの家に招かれてやって来た。
ローラ・ブラウンこそリチャード・ブラウンの母なのだ。
勿論、彼女は息子の文学賞を受賞した小説を読んでいる。
小説の中で自分は殺されており、それにはショックを受けてはいた、、、。

しかし、老女は騙る。
「後悔してどんな意味があるのでしょう。ああするしかなかった。誰も私を許さないでしょう。それでも私は死ぬより生きることを選んだのです、、、」
その確信の強さは絶対的なものであり、社会のあらゆる価値を凌駕する力を目に湛えていた。

クラリッサは、それを前にして何ひとつことばは出てこなかった。
その老女を見詰める事だけで精一杯であった。

The Hours001

クラリッサの若い娘であるジュリアが、リチャードの昔の恋人の男性と年老いたローラ・ブラウンの両者を「気持ち悪い」と評していた。
確かに彼らは反社会的であったりマイノリティであったりする枠以前の、実存的欲求に直結した生々しさを湛えている。
ヴァージニアは、それを生み出す創造者の側の立場である。


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グレートレース

The Great Race001

The Great Race
1965年
アメリカ

ブレイク・エドワーズ監督

実際に行われた”1908 New York to Paris Race”を原案としているという。

ナタリー・ウッド 、、、マギー・デュボワ(新聞記者)
トニー・カーティス 、、、レスリー・ギャラント三世(著名なスタント・パフォーマー)
ジャック・レモン 、、、プロフェッサー・フェイト(博士)
ピーター・フォーク 、、、マックス・ミーン(フェイトの助手)
ドロシー・プロヴァイン 、、、リリー・オーレイ(歌姫)
キーナン・ウィン 、、、ヘゼキア・スターディ(レスリーの助手)


昔こんな風なアメリカTVアニメがあって、ボヤっと見ていた。
”チキチキマシン猛レース”だったか、、、この映画より後の放送であったから、結構参考にしていそうだ。
毎回、レースをするだけの番組。
優勝者も毎回違う。
始まって終わるのが、レースの開始からゴールまでというシンプルさがよかった。

この映画も特に何がある分けではない。
フェイト博士の改造車が車高が異常に高くなるところは面白いが、その他は大砲を備えているくらいである。
しかも抜きつ抜かれつの白熱レースと言う訳ではない。
レースそっちのけで、あちこちでパーティに招かれては事件に巻き込まれ、ギャグ調の大暴れを繰り広げるばかりなのだ。

間抜けなフェイト博士の助手を刑事コロンボがコミカルに演じている(笑。
笑うしかない基本に忠実なギャグが散りばめられている。
古いが、ツボは抑えている。
腹を抱えての大笑いではなく、生理的にクスっと笑ってしまうものが多い。

ただ、マギー・デュボワたちのウーマンリブ運動はちょっと煩いし、あからさまなアメリカ万歳も白けるところか。
その辺は、こんなに強調(誇張)して話に盛り込む必要はないと思われる。
無論、これもギャグの内ではあるが、どれほどの意味があるのか。
寧ろ、ヒーロー、レスリー・ギャラント三世対アンチヒーロー、プロフェッサー・フェイトの競争だけに絞った方が面白いのではないか。
最初の気球や飛行機、ボートなどのコミカルな演出はとても面白かった。
あれを延々とやり続けるのは流石に無理だろうし、その後アメリカ~パリ間のレースで決めるというのは、よいと思ったが、その展開はやはりチキチキマシンスタイルで行って欲しかった。

パーティで延々と殴り合いをしたり、北氷洋での流氷の上で立ち往生したり、ロシアの宮廷での陰謀に巻き込まれるところなど、ちょっと寄り道が多すぎるというか、そちらのナンセンス・エピソード主体で「レース」の面白さスリリングさなど微塵もないところは凄く残念であった。
尺の長い寄り道エピソードにしてもさほど面白いと言う訳でもなく、見た後ですぐに忘れてしまう程度のものだ。
パイの投げ合いなど、もうどれだけ観てきたことか、、、
辟易する。


いづれにせよ題は変えたほうがよい。
全く期待に反したものであった。
それに映画の尺が長すぎる。
「八十日間世界一周」にも似た感覚であった。この映画は1956年上映であり、この映画の影響は受けているように思える。
ただ尺の長いことは、マネしないで欲しい。
短く圧縮できるところは、是非ともしてもらわないと。
後の短いTVアニメ”チキチキマシン猛レース”の方が、ずっとそれらしい。


長い時間をかけて観終わり、全体として面白いとも何とも言えない印象であった。
ナタリー・ウッドが水辺でギターの弾き語り(The Sweet Heart Tree)するシーンなどは僅かながら良いなと思えるところであった。
これから観る映画ではないな、と思う。
笑いの装置においても、何にしても感性における「古さ」を感じた映画であった。

The Great Race002



ジャッキー・ブラウン

JACKIE BROWN002
JACKIE BROWN
1997年
アメリカ

クエンティン・タランティーノ監督・脚本


パム・グリア 、、、ジャッキー・ブラウン(スチュワーデス、銃器密売人の売上金の運び屋)
サミュエル・L・ジャクソン 、、、オデール・ロビー(銃器密売人)
ロバート・フォスター 、、、マックス・チェリー(保釈金業者)
ブリジット・フォンダ 、、、メラニー・ラルストン(オデールの愛人)
マイケル・キートン 、、、レイ・ニコレット(捜査官)
ロバート・デ・ニーロ 、、、ルイス・ガーラ(オデールの相棒)


最後まで、ルイスがロバート・デ・ニーロということに気づかなかった。
そもそも彼にお願いする役か?
何でも完璧に熟す人であるが、このどうしょもない小者感も只者ではない。
ほとほと凄い人だ。
わたしは「レナードの朝」の成り切り様に魅せられファンになったが、他のどれも同等の凄さだ。
「タクシードライバー」「アンタッチャブル」のカポネなどもとりわけ印象は強烈だ。
怖い役が嵌っている気はするが、、、「グッド・フェローズ」とかも、、、。
そう、「未来世紀ブラジル」にも出ていた。最高のオールラウンドプレイヤーには違いない。
「マイ・インターン」の彼が一番好きなのだが。
(余り映画の本数を観ていないわたしでも、まだまだたくさん彼の出演作は知っている)。
マックス・チェリー役の二枚目が本来なら彼ではなかろうか、、、。

ここでのブリジット・フォンダのどうしょもなさも大したもの。
ロバート・デ・ニーロとどっこいどっこいのヘタレ様である。
「ルームメイト」の彼女は、美しく凛として、同性からも憧れの的の存在であった。
それから見ると、もうどうでもよい堕落振りであるが、よくこの軽い存在を演じ切ったものだ。
最後は余りにあっけなく撃ち殺されるし。
(実は、「バーバレラ」を観て、ブリジット・フォンダの方がちょっと気になりこの映画にしてみたのだが、こんな役なの?と驚いたのが実際のところ)。

JACKIE BROWN001

それを言ったら、サミュエル・L・ジャクソンなんて救いようもない大ヘタレではないか、、、。
きりっとした役でのオーラとはかけ離れたチンピラオーラ出しまくりである。
これも彼とは気づかなかった(笑。
ちょっと劇画調の悪役だ。殺され方もコミカルなドギツサもあり、どうやらこの辺がこの監督の持ち味なのだろう。
役者の使い方は勿論のこと。
この荒廃した場末感、、、コンプトンをハリウッドだと思ってやがる、、、によく出ている。
コンプトンの殺伐とした雰囲気は「ストレイト・アウタ・コンプトン」でしっかり味わえたものだ。
しかも「日本」が趣味よくノスタルジックに一コマの写真で出てくる。
その扱い方にかなり洗練されたセンスが窺えた。
他のこの監督の映画も暇があったら観てみたい。
(恐らくこの作品は「指定」のない、この監督としては珍しい映画である為、地味な位置にあるのかも知れない)。

この映画、金の運び屋ジャッキー・ブラウンがそのボスに当たるオデールから命を狙われる立場となったところで、形勢逆転を図る。人生ももう先が見えてしまっており、ここで思い切った賭けに出た、というところだ。
警察とオデールの双方を騙し、まんまと大金を横取りしたうえで、オデールを警察に始末させる。
そして金を持ってスペインに高飛びだ!


彼女に好意を寄せる保釈金業者のマックスをパートナーに引き入れたことで、事は上手く運んだのだが、計画自体は結果的に成功したという感が強い。
メラニーやルイスが都合よく殺されていなければ、警察から逃れることは厳しいものであったろう。
勿論、最後にオデールが捜査官レイに撃ち殺されるとも限らなかった。
腕とか撃たれて逮捕されていたら、間違いなく彼女は破滅だ。
すべてがジャッキーにとって都合の良い方に流れて行った結果である。
高飛びするときにマックスを誘うが、彼はそこまでは出来ない。

呆気なく人を殺すが、それほどの残虐さや血なまぐささもなく、スリルやサスペンスがあるわけでもない。
だが、閉塞感に苛まれ、希望の見出せない人生にもう一花咲かせたい(笑、というのも実感として沁みるところだ。
あのマックスとしても、ジャッキーを手伝ったことで良い夢を見させて貰ったよ、という感じに思える。
最後に死んだオデールの車で空港に向かうジャッキーの表情は、夢が叶って嬉しいというより、哀愁に満ちていた。

JACKIE BROWN003

「110番街交差点」はこの映画のエンディングで聴くとかなりイケている。
(最初でも鳴っていたが)。


創作活動に着手

sands of time

今日は、独りで公園に出かけ、本当にぼんやりと一日のほとんどを過ごした。
気持ちがスッキリし、ものを作る状態にもってこれそうだ。
やはり自分のすべきことは創造活動に尽きる。

ぼんやりしながらも何とも言えないワクワク感が充満してきた。
そもそも時間とは、自分と無関係に切り離された世界の事象がひたすら立ち去って行く感覚から零れだしたものだ。
それが時間観念として、外在化した。

作品の制作に埋没している場所に時間を感じることはない。
時間が進んでいない可能性もある。
つまり身体がエントロピーの矢から外れている。

芸術家で恐ろしく長生きするひとは少なくない。
彼らは何処かで時間から離れて腰を下ろしているのだ。
逆に夭折する人も少なくない。やはり有り得べき時間性を無視したかのように。

時間・空間という自明性からの超克こそが存在の目標である。
自分の生を自分が支配することの究極的な地平であろう。
つまりは他者に一切何の依存も干渉も受けずに自立(自律)が成立すれば、自分の外に白々しい測りをみる必要などない。

まずは、心構えとしては、全てをありのまま受け容れ、それを評価しないことだ。
ただ、自分のフィルターを通してそれがアウトプットされるままに見守り驚き、愉しむこと。
そもそもただ人を批判したくてたまらず監視する(暗黙の)システムが時間と分かちがたく結びついてきた。

まさに時間の無駄である。
何のために生きているのか、意味もない。
それこそ人生はクズに等しい。

何にも左右されずに作るべきものを作る。
それだけでよい。
それ以外に、ない。




プロフィール

GOMA28

Author:GOMA28
日々思うことを綴ってゆきます。
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ることもあります。
悪しからず。
コメント、メッセージ頂ければ嬉しいです。

*当サイトはリンクフリーです。

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