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志乃ちゃんは自分の名前が言えない

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2018年

湯浅弘章 監督
押見修造 原作
足立紳 脚本

南沙良、、、大島志乃
蒔田彩珠、、、岡崎加代
萩原利久、、、菊地強

うまく喋れない志乃。うまく唄えない加代。口が勝手に喋り捲る菊地。
その為に孤立する。
皆、当人にとってはのっぴきならない障害をもつ。

主演の2人は14歳であると。


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吃音に悩み周囲と距離を置く志乃。
何事にも消極的になってしまう。
担任から積極的に皆に関わり克服するよう頑張れと言われ。
母親は怪しげな催眠術のパンフなど持ち込んで進めてくる。
的外れなケアと忠告。

密かに唄の練習をしている加代を覗き見したことから志乃と加代は音楽を通じて関わり始める。

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音痴に悩む加代はミュージシャンが夢。
ギターを弾いて唄いたいが、歌がネックとなる。
志乃は喋れないが、歌は上手い。
ギター加代。ボーカル志乃でデュオグループを組む。
カラオケなどで2人で練習を重ねてゆく。
2人の関係はとても濃密なものとなり、志乃は随分滑らかに喋れるようになってきた。
自転車に2人乗りして走るほど親密になる。
(自転車が走破する風景も饒舌な演出となっていた)。

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そして人通りの少ない場所を選んで街頭ライブを敢行する。
最初はえらく緊張するが、これが上手くゆき何度もライブを重ねるうちに、2人に屈託のない笑顔が見られるようになる。
加代から新しい音楽の刺激を受け、志乃はそれをギターに合わせ唄い自らを解放して行く。
とても理想的なパタンが出来てくる。
レパートリーも増えてゆき、高校の文化祭での発表にも手応えを感じるレベルになってゆく。
日常的に2人で燥ぎ回る仲良しの光景もたくさん見られるようになる。
2人にとって最高の時間であり、特に加代は志乃の絶対的存在となっていた。

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菊地という異様なテンションの空気の読めないというより、コミュニケーション障害の男子が突然、2人の間に割り込んでくる。
俺もグループに混ぜてと、いつものように一方的にごり押しして来る。
彼もまたクラスではみんなから疎んじられる存在であり、居場所を探していた。

加代は周りに対し志乃ほど自己防衛的ではなく、菊地も受け容れる余裕があった。
しかし志乃は加代との関係は絶対的なものであり、他者の入り込む場所ではない。
だが、加代は菊地を第三項として取り込む姿勢を見せる。
それに勢いづいて菊地が思いっきり纏わりついてくる。
志乃は溜まらず、そこから逃避するしかない。
菊池は志乃にとって何にも代えがたい神聖な場所に土足でズカズカ入り込んできた疫病神に他ならない。

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ここで2人の関係は一気に崩れてゆく。
加代は志乃に詩を書くことを勧めオリジナル曲を創ることを提案するが、、、
志乃は学校を休み始め、彼女とのデュオ活動は停止し、菊池と暫く続けてはみたが結局加代は菊地を首にする。
菊地は自分の場所確保もあり、何とか志乃に接触し3人で仲良くグループをやろうと説得するが、志乃は菊池を受け容れない。
この菊池の自己中で独善的なしつこさは、終始ウザい。
中学生の頃、こういう友達とわたしは付き合っていたことがある。
ウザいが面白いので卒業まで長く続いた(笑。
(菊池は絶えず誰かにすがり自己承認を得たいタイプの人間なのだ。自分一人で何かにコツコツ取り組む人格ではない)。

だが彼は2人がやろうとしていることの価値をしっかり見抜き、その可能性に惹かれて自分もその渦中にいたいという願いから絡んでいたとも謂える。
実際、タンバリンしかできないが、音楽的に求める方向性は加代と重なっている部分があった。
(つまりは、無意識的に求めるレベルが近いということも意味する)。
ニルヴァーナやダイナソーJrの趣味が合い、音楽的趣向ですんなり話が合うのだ。
しかしこれでは、志乃は置いてけぼりではないか。これまでに2人で築いてきたものはどうなるのか。
これほど苦しい立場はなかろう。
居た堪れないのは当然である。

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苦しんだ末、志乃はデュオを辞める。
加代はそれを呑み込み、独りで活動を続行する。
自分独りで曲を書き、弾き語りで文化祭のステージに立つことになる。

加代は音痴なのだ。こちらまでがとても心細くなる。
志乃は体育館のそばで耳を澄まして聴いている。
しかしその不安定な音程のボーカルの力強く捻じれたサウンドが歌詞と相まって充分にひとのこころを掴む。
拍手喝采とはまた別のインパクトを齎す。
(異質な力に出逢った時、ひとは暫し無言で呆然となる)。


Makita Ajyu

2人の主演女優は凄かった。
恋愛ものでも何でも良いが、やるんならこれくらいやって欲しい。
生々しく真に迫った文句なしの演技であった。








バリー・リンドン

BARRY LYNDON001

BARRY LYNDON
1975年
イギリス

スタンリー・キューブリック監督・脚本
ウィリアム・メイクピース・サッカレー原作
ロイ・ウォーカー美術
ミレーナ・カノネロ、ウルラ=ブリット・ショダールンド衣装・デザイン
レナード・ローゼンマン音楽

ライアン・オニール 、、、レドモンド・バリー~バリー・リンドン
マリサ・ベレンソン 、、、レディー・リンドン
パトリック・マギー 、、、シュヴァリエ・ド・バリバリ
ゲイ・ハミルトン 、、、 ノラ(従姉)
レオン・ヴィタリ 、、、ブリンドン子爵
ドミニク・サヴェージ 、、、ブリンドン子爵(子供時代)
マーレイ・メルヴィン 、、、サミュエル・ラント牧師
ハーディ・クリューガー 、、、ポツドルフ大尉
レナード・ロシター 、、、ジョン・クイン大尉
デイビット・モーリー 、、、ブライアン・パトリック・リンドン(バリー・リンドンの子)
マリー・キーン 、、、 バリー・リンドンの母


映像と音楽がこれ程高度に融合した映画を他に知らない。
この映画はまず、それである。
いきなりヘンデルの「サラバンド」である。この荘厳な出だしでもう惹き込まれるしかない。
そしてシューベルトでエモーショナルに静かな美しい盛り上がりを見せる。
(シューベルトだけはバロックではないが)。
音楽でも18世紀の再現に成功している。選曲が見事だ。

更に蝋燭の光で映像を魅せる。
当時の夜の室内空間は蝋燭の灯だ。
その明るさの再現に徹底して拘る。
ラ・トゥールの世界を想わせる演出~撮影を見た。
技術的にはさぞ工夫が凝らされたであろう。
何よりレンズの選択が大変だったはず。

そして「アイリッシュ」である。
このアイリッシュはまだまだわたしにとって神秘の異郷である。
感覚的にも、とても興味深い。

BARRY LYNDON004

内容的には金と地位を如何にものにするかという形振り構わぬ欲望丸出しの主人公の話であり、そこに必ず決闘が関わる。
初めは純愛の要素もあったが、世間に揉まれるうちに打算しかなくなる。
そして粗暴な性格はより強まる。
それにしても銃による決闘は痛い。
ピストルは一度喰らったらそれまでである。
運試しだとしても余りに過激で危険すぎる賭けだ。
ギャンブルをこの上なく愛する主人公ならではとは言え、せめて剣にしておく方が無難だろうに。
(剣による決闘もしていた。剣の腕もたつ。喧嘩も強いが)。


物語は二部に分かれる。

第一部:レドモンド・バリーが如何様にしてバリー・リンドンの暮しと称号をわがものとするに至ったか

BARRY LYNDON002

18世紀半ば、アイルランドから物語は始まる。
バリー・リンドンの父は馬の売買の商談が拗れ決闘で殺害される。
彼は母の女手一つで育てられる。
自分も従妹ノラを慕って彼女の婚約者に決闘を申し込み、勝利を得るが村を追い出される羽目となる。
親戚は皆、相手のクイン大尉の年俸を期待しており、バリーを厄介払いするため彼のピストルには麻玉が仕込まれており、倒れた一時間後に大尉は息を吹き返し無事にノラと結婚した。

村を出てダブリンに向かうバリーであったが追剥に所持金と父の形見の剣と銃と馬を奪われたり、イギリス軍の補充兵となり7年戦争に従軍したり、グローガン大尉の下でミンデンの戦いに加わるが、大尉の戦士と共に軍から離れる決意をし脱走する。
将校の服と身分証を盗み(軍においてはそれが日常茶飯事であり、彼もそれに対し無感覚となっており)同盟国のプロイセンに上手く入り込む(途中、夫が戦争に出てひとり家を守るプロイセンの女性に食住の面倒を見てもらうが、この時期には女性を上手く利用するコツも手中に収めている)。
嘘を適当に並べプロイセンに侵入し接待を受けるが、ポツドルフ大尉に脱走兵であることを観抜かれ彼の兵卒にさせられる。
しかし武勲を認められ警察の下で働くことになり、スパイの嫌疑がかけられたシュバリエ・ド・バリバリと名乗る賭博師に近づき彼の行動を詳細に警察に報告することとなる。
だがバリーはシュバリエが自分と同郷であったことから二重スパイの形でシュバリエ側に付く。
シュバリエがいかさま賭博にケチをつけた貴族に対して決闘を申し込むと騒いだことから彼は国外追放となるが、その時バリーも一緒に逃げることに成功する。そしてヨーロッパの社交界をふたりで巡り、いかさまで大儲けをする。
そんななか、彼が素晴らしい条件を備えたチャールズ・リンドン卿の妻レディー・リンドンを見初める。


第二部:バリー・リンドンの身にふりかかりし不幸と災難の数々

BARRY LYNDON003

バリー・リンドンは、チャールズ・リンドン卿の病死の後にレディー・リンドンと結婚し莫大な財産を好きなように使える身分となる。
端から妻の存在をないがしろにして豪遊し放題であった。
彼女は前夫チャールズとの間に男の子を儲けていたが、彼はバリーの本質を見抜き、最初から嫌っていた。
バリーはレドモンド・バリーからいつしかバリー・リンドンに改名している。
更に貴族の称号を手に入れるため彼は周りの貴族に大盤振る舞いをして法外な値段で絵を買い取るなどでリンドン家の財産を蕩尽してゆく。

BARRY LYNDON005

奥方が全ての財産の権限を握っていることから、彼女が亡くなるとかすれば財産はブリンドン子爵に移譲されてしまい、自分は路頭に迷うことになる。彼女は全ての請求書に気前よくサインをしてくれるが、彼女のサインなしにはことは一切運ばないのだ。
しかしバリーの母を軽んじた放蕩振りと身勝手な散財にブリンドン子爵は激しく抗議しバリーを憎む。
(バリーがブリンドン子爵に過酷な体罰を続けていたことも大きい)。
そしてパーティーの最中、ブリンドン子爵の挑発に乗りバリーは激しい暴力を彼に加えてしまう。
その為、彼は有力者たちはもとより誰からも敬遠される身となり貴族の称号など露と消える。
バリーと妻との間に生まれた溺愛するブライアンは、落馬事故で8歳で死んでしまう。
悲しみに暮れる夫妻であったが、ブリンドン子爵の怒りは頂点に達していた。
バリーとその母が好き勝手な振る舞いを続けてきたのだが、レディーリンドンの精神的な支えとなっていたラント牧師を解雇したことで、ついにリンドン邸を出ていたブリンドン子爵は確固たる態度に出る。
彼はバリーに決闘を申し込んだ。

バリーは相手に対し温情の姿勢を見せたことが仇となりブリンドン子爵の銃弾で足を砕かれ片足を切断することになる。

松葉杖をついて力なく馬車に乗り込み、アイルランドへと追い返される。
当然の報いであろう。としか言いようもないが、その後の足取りは知られていない。
また賭博師に戻ったという噂であるという。

主役は全くヒーローでも何でもないが、この殺伐とした人生模様が高密度な18世紀の再現のなかで実に精緻に描かれていた。
その物語絵巻に圧倒されたとでも謂うべきか。











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リバー・ランズ・スルー・イット

A River Runs Through It002

A River Runs Through It
1992年
アメリカ

ロバート・レッドフォード監督
リチャード・フリーデンバーグ脚本

ブラッド・ピット 、、、ポール・マクリーン(弟)
クレイグ・シェイファー 、、、ノーマン・マクリーン(兄、語り部)
トム・スケリット 、、、マクリーン牧師(父)
ブレンダ・ブレシン 、、、マクリーン夫人
エミリー・ロイド 、、、ジェシー・バーンズ(ノーマンの恋人)
スティーヴン・シェレン 、、、ニール・バーンズ(ジェシーの兄)
ニコール・バーデット 、、、メイベル(ポールの恋人)


「理解することは出来なくとも、ただ愛することはできる。」
前提としてまず愛する姿勢があれば、純粋に受け容れることは出来る。
それがなければ、そもそも子供など育てられない。
他者に対してはどうか。
理解が無理でも、取り敢えず受け止めることは可能ではないか。
しかし、他罰主義を基本とした排他的な共同体であると(共通)感覚的に異質と認めた対象には攻撃性を発揮するだけ。
とりわけ無意識的に過ごしている無自覚な個体はそうだ。
他者に対する感覚~感性が乾涸びている。
この映画では、先住民は入れない酒場などが最たるもの。

兄ノーマンが、釣りも覚束ない初老となった現在、遠い過去を回想する形で進む。
語り部は終始ノーマンである。
舞台はモンタナ州ミズーラ。20世紀初頭から始まる、、、。確かにクラシックカーである。

A River Runs Through It007

川である。川面のきらきら光る透明な川。鱒釣りである。大きな鱒。
川~釣り~魚が生活の延長~一部である。
こうした環境があるのだ、、、。
糸が三者三様の静かでしなやかな弧を描く川釣りの光景はまさに絵であった。
しばし見とれる。

そしてその所作からして美しい。
周囲の風景のなかに見事に調和している。
釣りが芸術に高められている。
4拍子のリズムと謂い、型と精神をおもんじるところは、フライ・フィッシングがイギリス貴族から始まった格調高い紳士のスポーツであるからだ。
牧師のやるスポーツというところか。
牧師である父が二人の息子に教えたものだ。
恐らく聖書~宗教と同じレベルで生活の内に自然に沁みとおるように身に付いていったものか、、、。
素敵だ。

A River Runs Through It003

父はスコットランド出身の厳格な牧師であるが、高圧的な姿勢は全くなく物腰の柔らかな、知的で紳士的な人物である。
兄はちょっとお堅い感じだが弟のやんちゃには必ず付き合う真面目な秀才。
ダートマスの大学を出てシカゴ大の英文学教授におさまる。
弟はチャーミングなルックスと反骨精神で際立つ危険な魅力で人を惹き付ける。
釣りの腕前は芸術のレベルに達し、父兄をして天才と言わしめる。地元の大学を出て、ヘレナで新聞記者となる。

しかしいつしか弟のポールはとても危険なポーカー賭博の「ロロ」にのめり込んでゆく。
賭け事に凝って、大損を重ね、更にでかい賭けに打って出る悪循環だ。
丁度兄ノーマンが独立記念日に出逢い、付き合っていたボーイッシュで勝気な美女ジェシーにプロポーズした日を好機とみて危険な賭けの勝負に出る。ノーマンにシカゴ大から英文科へ誘いがあった日でもあった。
(このジェシーもとても大胆な賭けに出るタイプである。車道が混んでいるときに、鉄道の線路上を車で走破してしまうくらいの度胸なのだ。ノーマンは助手席で肝を冷やすしかない。堅実なノーマンには危なっかしい相手が常に寄り添うみたいだ)。
この日は、縁起は確かに良いに違いないが。

A River Runs Through It001

あくる朝、3人で例のごとく、川釣りに出る。
最初はノーマンにやたらと当たりが出て何匹も釣り上げてゆく。
父は安定しており手堅くいつも通りである。
ポールに焦りが出るが、兄にヒントを聞き、また彼独特の芸術的竿捌きで誰よりも大きな鱒を見事に釣り上げた。
その時のポールの得意満面な笑顔。
兄が写真に撮り、父兄で彼を褒め称える。
(これで更にポールに弾みがついたのかも知れない。おれはついている、と)。

A River Runs Through It004

まさか誰もこれがポールの最後の笑顔だなんて思いもよらない。
勿論、兄には弟に纏わりつく危険な影は感じ取っており、困ってることがあったら手を貸すと言っていたのだが、、、。

ポールの死の知らせが届き、ノーマンが警察に検死に呼ばれる。
銃で頭を殴られ右腕の骨を粉々に打ち砕かれて路に放り出されて死んでいたという。

父がポールの死について細々とノーマンに聴くが伝えられる情報はそれ以上はなかった。
厳格な牧師である父にとって、ポールは到底理解しようにもし難い存在であっただろう。
だが、その彼を絶対的に愛していたことはよく分かる。
父は、ポールは釣りが上手く美しかった、と語ったその後は、彼のことは口にしなかったという。


川~釣りを主体に流れてゆく物語であり、その流れのなかでの浮き沈みが静かに美しく描かれていた。
格調高く、釣りで人生を語る映画である。


マクリーン牧師のような父はわたしの理想だ。










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小さいおうち

chisai ouchi001

2014年

山田洋次 監督・脚本
中島京子 原作

松たか子、、、平井時子
黒木華、、、布宮タキ
片岡孝太郎、、、平井雅樹(時子の夫)
吉岡秀隆、、、板倉正治(平井の部下、デザイナー、時子の浮気相手)
倍賞千恵子、、、布宮タキ(晩年期)
妻夫木聡、、、荒井健史(布宮タキの親戚の青年)
橋爪功、、、小中先生(小説家)
吉行和子、、、小中夫人
室井滋、、、貞子(時子の姉)
中嶋朋子、、、松岡睦子
木村 文乃、、、ユキ(荒井健史の恋人)
市川福太郎、、、平井恭一(少年期)
米倉斉加年、、、平井恭一(晩年期)


赤い三角屋根のモダンな家が良かった。
良い家だ。
あの窓から眺める空や遠くの街の景色は格別だろう。
やがて戦争がそれを台無しにする。
これは確かに身につまされる。
絵に残したい。
(絵の本来の使命のひとつだ)。

生涯独身を通し現在初老に至った一人住まいのタキは、大学ノートに自叙伝を綴り始めた。
頻繁にやって来る親戚の丁度孫ほどの歳の健史が、それを読んでは感想を述べ、チャチャを入れては誤字を直す。
そんな形で創作は進んで行った。
(健史としては、自叙伝もさることながら必ず出してくれる美味しい豚カツ等の手料理目当てのところもあったか)。

chisai ouchi003

噺は昭和11年に始まる。
東京に上京した布宮タキは平井家に女中として雇われる。
平井時子と夫の雅樹。当時5歳の恭一の住むモダンで可愛らしい家に住み込みで働くのだ。
恭一が小児麻痺に罹り、タキが献身的な介護をするなかで、彼女への信頼は揺ぎ無いものとなってゆく。
やはり一人息子を安心して任せられ、息子からも最も頼られるということほど大きいものはない。
程なく主人の玩具会社の人間とは質の違う部下である板倉正治が家を出入りするようになる。
芸術的な感性の豊かな彼と平井時子は直ぐに「馬が合い」惹き合うようになっていった。
一方、タキは時子のことを好いており、平井家も自分にとって掛買いのない居場所となってゆく。
更に板倉に対しても好感を抱いていたことは間違いない(同郷の人であったことからも最初から親しさは感じていた)。

chisai ouchi004

タキが最初の頃は無口で動作もぎこちなかったが、標準語を習得し、徐々に饒舌に喋り出す。それと同時に所作も洗練されてゆく。
彼女の生活の充実感も感じられてくる。
この辺の変化が文脈に溶け込み自然に表されていた。

戦争がまだ現実味を持たない時期はさぞ居心地のよい屋敷であったに相違ない(東京オリンピックを見据えた展望もあり日本全体も浮かれていた)。
奥様、時子のブルジョア出のお嬢様特有の屈託のなさと自己肯定感は爽やかである。
彼女が如何に世間知らずのお嬢様であるかが分かるも、容姿端麗に加え穏やかな性格で誰に対しても気さくに接する人柄に次第にタキは惹かれてゆく。
主人雅樹は、人は良いのだがタキに戦時になったら若者は戦争に駆り立てられるからという理由で飛んでもない歳上の老人を婿に進めるようなセンスのまるでない実利一点張りの企業人である。見合い相手は時子がキッパリ断ってくれたようだ。
主人はさっぱりとした性格で別に実害はないため、こういう人だと思って付き合っている分にはよかったはず。

タキの当時の暮らし振りと現在自叙伝を書き進める彼女の姿を交互に見せつつ進展してゆく様が、まさにわれわれの心象〜想念が過去と現在の間を行き来するリズム~呼吸に共振するような極めて自然な流れに感じられた。

chisai ouchi005

タキは時子が板倉と逢瀬を重ねてゆくことに危機感を抱き始める。
戦争の機運がいよいよ高まり、巷が殺伐としてくるなかで世間体が気になりだす。
(時子は音楽に対する感性は豊かでも世間に対する感覚は疎い)。
そして自分と時子との関係が薄らいでゆくことに胸がざわつく。
平穏で住み心地の良い平井家が崩壊することへの恐れにも繋がった。
彼女は、板倉が召集令状を受け戦地に赴く最後の日に時子が板倉のもとに出掛けるのを思いとどまらせる。
替わりに手紙を書かせ、こちらに訪ねて来る分には噂も立たず問題ないと言って自分が手紙を手渡しに行く。
だが、その手紙は板倉に届けてはいなかったことが後に明かとなる。

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戦後、板倉正治の描いた赤い屋根の「小さいおうち」を布宮タキおばあちゃんは部屋に大切に飾っていた。
遺品整理の際、あっさり捨てられたこの絵の重要性が最後に分かるのだが、この絵とおばあちゃんとの接点が何も語られない。
それだけでかなりの尺を要するドラマチックなシーンともなるはずではなかろうか。
おばあちゃんの自叙伝は時子と雅樹夫妻が大空襲で庭の防空壕の中に抱き合うようにして亡くなっていたところで終わっている。
おばあちゃんは、ここで号泣して先に進めなかったようだ。
どこからかこの絵に纏わるエピソードが出てこないかと思ったが、板倉正治の記念館でもその特別な絵に関する情報は出なかった。そこで平井恭一がまだ存命であることを知り、彼を訪ねるが絵に関しては何も語られない。

少なくとも、おばあちゃんが有名な絵本作家として活躍する板倉正治を知っていたことは確かであろう。
そして訪ねるか連絡を取るか或いはただ絵本原画展とかもしくは回顧展みたいな展覧会で絵を購入しただけかも知れない。
意味深に部屋の絵を映しておいて、彼女にとってのその絵の今現在持つ意味やその絵を手に入れた経緯や作家となった板倉との関係などが全く語られないのもどうか、、、。

chisai ouchi006

目が見えなくなり脚も動かなくなった恭一を訪ねた健史とその彼女であったが、ここの件はいま一つに思えた。
毎日脚のマッサージを丁寧にしてもらい良くなって歩けるようになった誰よりもタキを好いていた少年が、何となく母の不倫に気付いていたとしても、タキの秘密や苦しみなど分かろうはずもない。 
健史にタキに何か言ってあげたいことはあるかと聞かれ、今知ったばかりの事実関係に対し、そんな事に悩まなくて良いと伝えたいと言うが、しかしそれ以前に、恭一はタキに何を話したかったのだろう。
ただ印象的だったのは、江ノ島を眺めにタキと板倉と3人で何度も浜辺まで訪れており、あの2人はお似合いだと思っていたと言う事だ。
この2人の間にも何らかの感情の交流が深まっていたに違いない。

この時子とタキと板倉の関係は何ともデリケートである。3人がそれぞれを好ましく思い、いたわり合っている。
その微妙なバランス関係が崩れるのをタキは誰よりも恐れていた。
絶妙のバランスを保ったあの赤い三角屋根のモダンな家を守ることが何よりも大切なのだ(戦争の不安も相まって)。
時子の暴走は、確実に世間の外圧からタキにとって掛買いのない場所を確実に壊す事は明らかだった。
だがそれだけではない。それならタキの提案通り板倉を家に呼べば、取り敢えずは当たり障り無くやり過ごすことが出来よう。
タキは板倉に手紙を渡さなかった。未開封の手紙が恭一の前で初めて開けられたのだから。
女中としての駆け出しの頃、レクチャーを受けた小中先生の意図を実行に移したのだと思われるが、、、。
きっと時子を守ろうとする彼女への熱い想いがそうさせたのだろう。

この三角形は、かなりダイナミックな揺らぎを保ちながら実質、大空襲で家が燃えて無くなるまで〜時子が亡くなるまでは続いたと言えようか。

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静寂の森の凍えた姉妹

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Grimmd
2016年
アイスランド

アントン・シグルズソン監督・脚本

マルグレート・ビルヒャムズドッテイル、、、エッダ(刑事)
スベイン・オラフル・グンナルソン、、、ヨイ(エッダの相棒)
ピエトゥル・オスカル・シグルドソン、、、アンドリ(エッダの弟、犯罪歴アリ)
ハンネス・オリ・アウグゥスソン、、、マグニ(犯罪歴ある知的障碍者)


暗い雪の中を歩いているうちにゆっくり睡魔に襲われるみたいな映画だった。
どんよりと寒々とした空の下で夢と現が混濁する感覚。
誰もが過去の記憶に繋がれ、過去の悪夢を呼び覚まされ、その悪夢を生きる。
病的に不気味に極めて曖昧に、事件を巡る物語は進行する。

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惨殺された二人の娘の母親は何故、娘の日記の犯人の特定に繋がる重要な部分を破りとってしまったのか。
娘の体に見られたという虐待の跡は誰によるものなのか。
夜の捜査中にエッダを襲った男は何者だったのか。
エッダは何故、アリバイがあるにも関わらず執拗に、犯罪歴を持つあの男に固執していたのか。
そもそも何故、その姉妹は森の中の目立つ道に抱き合うように寝かされ死んでいたのか~殺害されたのか。
警察がマグニに虚偽の自白をさせて濡れ衣を着せるが、こんな杜撰なやりかたが、ここでは通っているのか。
被害者の母に今度はお前を殺すという文字を切り貼りした、よくある脅迫状を送ったのもマグニの仕業と警察は決めつけたが、後に少年が愉快犯でやったことと分かる。しかしマグ二は自白した。それを絶対の決め手としている。
(白いバンを運転する男が容疑者なのに、車の運転の出来ない彼に罪を着せて、裁判で通るはずがない。)
目撃情報が曖昧なのは当然であり、目撃者の主観・先入観・思い込み・意図が入るのは当たり前だが、カップルでこれだけ情報に齟齬が生じるのは、何故なのか。ことによると犯人は複数か。
同僚たちに襲われ重傷を負ったアンドリのツートンカラーのスタジャンをエッダが目にして震撼するが、まさに目撃情報のスタジャンと同じ形であるにせよ誰でも着るようなものだが、あれで彼女は犯人を弟と断定したのか。
最後の弟が冷血な殺人犯の様相で二人の少女を連れ出すシーンはエッダの想像なのか、まさにその時の光景なのか。
確かに弟は白いバンを最近乗り回し、殺された姉妹に呼ばせていた「ライオン」というニックネームの根拠になり得る獅子座であった。が、それだけでは些か弱い。この光景が実際の光景なのかどうかで大きく異なるものだ。
彼は警察での取り調べでは全く何も語っていない~自白はしていない。

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北欧の怪しげな雪景色のなかで、過去に傷を持つ人々が次々と容疑者として挙げられ、エッダに執拗に怪しまれ続けて来た男はついに抗議の自殺をしてしまい、知的障害を持つマグニを、自白は誘導尋問であり当然冤罪であるが、犯人に仕立て事件終結を警察はプレスに宣言する。
エッダはそれに対し強い反発を示す。
そして彼女は、真犯人は過去の犯罪歴から同僚に疎まれ暴行を受け今現在意識不明に陥っている弟だと直覚し慄く。

結局みんなから怪しまれ排撃され酷い目に遭いつつも必死に耐えて来た弟が真犯人で終わるのか。
だが、終始この映画では何が確かなのか、登場人物全てが怪しく、やっていることも回収もされず曖昧なまま淡々と運んでゆく。
寧ろ、これが現実に近い光景なのかも知れない。
(あの警察の杜撰さはないが。それともアイスランドがこのような状況なのか?)

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よくあるこの手の犯罪劇(猟奇殺人)では、ずっと怪しまれている男がいて酷い目に遭ったりしながらも物語は進行して行き、最後の最後で、事件の捜査に率先して臨んでいる、とても真面目で模範的な警官が真犯人であったとかいうパタンがあるが。
ただこういう映画では、最終的にこちらがすっきり納得する明瞭な輪郭を物語に与えてゆく。
犯人の背景やそのパーソナリティ、彼なりの動機なども描かれ、意外であったが取り敢えず腑に落ちる形では結ばれるものだ。
(途中で大概、この手のものだと想定出来てしまうにせよ)。


この映画はそれぞれの人物の心象はエッダも含め、ほとんどはっきりしない。
だがはっきりしないのが普通である。
別にミステリーではない。
アイスランドの街の光景が独特の解像度をもつ映画であった。

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フェリスはある朝突然に

A Sunday on La Grande Jatte

Ferris Bueller's Day Off
1986年
アメリカ

ジョン・ヒューズ監督・脚本・製作

マシュー・ブロデリック、、、フェリス・ビューラー
アラン・ラック、、、キャメロン・フライ(フェリスの親友)
ミア・サ、、、スローン・ピターソン(フェリスの恋人)
ジェニファー・グレイ、、、ジーニー・ビューラー(フェリスの妹)
ジェフリー・ジョーンズ、、、エドワード・ルーニー(学生部長)
ベン・スタイン、、、経済教師
チャーリー・シーン、、、ドラッギー


シカゴは都会だということを改めて認識。
これ程気軽に観れる映画も珍しい。

Ferris Buellers Day Off001

フェリス・ビューラーという高校3年生が、ある日、学校をずる休みして、親友と彼女と3人で街に繰り出しやりたいことして暴れ回る噺である。(ある日といってもその日で9回目のずる休みで、学生部長は業を煮やしている)。
彼を怪しみ尻尾を掴んでお仕置きをしようとしている学生部長との攻防戦もあるが、全てにフェリスが上を行き、部長は散々な目に逢う。これが実にコメディというよりギャグマンガのノリなのだ。
ずる休みして彼女を誘い出すには極めつけの高級車が欲しいフェリスは、本当に病で寝込んでいる友だちキャメロンをたたき起こし、彼の父が実際には運転もせず、ただおむつで磨いているだけのスーパーカーを勝手に借りることにする。
キャメロンは父の言いなりになっていて自分を抑圧してしょっちゅう病気に逃げ込んでいる状況にあり、彼を父から解き放とうという試みもあり父の権威の象徴でもある世界に数えるほどしかないフェラーリ1961年型250GTに(キャメロンが必死に止めるにも関わらず)乗り込み突っ走る。

狼狽えるキャメロンを尻目に暫くフライ家の家宝で突っ走った後、適当な場所に駐車し怪しげな男に後を頼み、シカゴの待ちに3人で繰り出す。
ウィリス・タワーにお上りさんみたいに登って下を見下ろして気が大きくなったのか、ソーセージ王に成りすまして高級レストランで食事をし、シカゴ・カブスの試合を観戦するが、その時血眼になってフェリスを探している学生部長の目の前のTV画面に彼らが映っていたのを彼は見逃す。そう、見逃されるのだ。3人が食事をとったレストランにはこともあろうにフェリスの父が商談も兼ねて食事に来ていたのだが、うまく気づかれないようにかわしてしまう。

そしてお祭り?のパレードの車のステージに上がり歌を唄い出す。
これにはキャメロンも彼女のスローンも驚き何とか止めようとするが聞く耳を持たない。
思いっきり目立つが、波に乗ってやりたいことをするほど、強いものはない、という証明か。
そのまま中央突破である。あとの二人は呆れるばかり。
ジョンレノン(ビートルズ)の「ツイスト・アンド・シャウト」がホントに久々に聴けたが、こんなに良い曲だったのだと感慨深い。
やはりジョンのボーカルは聴かせる。声が良い。(俳優は実際には全く唄ってない)。
フェリスの人気と影響力は凄いもので、ずる休みの際に友人に腎臓が悪いと出任せに伝えたら「フェリスを救え」と謂う募金活動を始める友人も出ていた。
校内だけでなく街にもフェリスを救えと電光掲示板やポスター、壁面にペインまでされている始末。新聞にも取りざたされていた。後でどうするつもりだ。

街中で派手に遊びまくっているのに関係者には誰にも見つからない。
親にニヤミスすること何度あっても誤魔化してすり抜ける。
ここは、かつてのドリフのコント並みではあるが。
ここまで両親が騙されているのなら(フェリスを信じきっているのなら)平和でよいというもの。
(どんな映画でも、この両親程、平板で単純なキャラはあるまい。ちょっと呆れるが、まさに狙ったキャラなのだ)。
そして敵対するルーニー学生部長は噺を面白可笑しくするだけの道化に過ぎない。

フェリス・ビューラーはこんなに自由で何でも出来てしまうなら、別に学校をずる休みしなくとも学校で好き放題すれば良いのでは、、、とも思うが、外の世界でこそ何をかやらかしたいのだ。

Ferris Buellers Day Off002

「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(ジョルジュ・スーラ)が意味深に出てきたが、あれは結局、、、。
キャメロンの深層心理に何らかの影響を与えたのは確か。
(芸術~ポスト印象主義の威力か)。
光学理論に基づいた点描に、魂が吸い取られるような顔をしていた。
その後の彼の父の至宝であるフェラーリ1961年型250GTをぶっ壊すシーンに潜在的に繋がって行く。

ほとんどフェリスにそそのかされてやったようなものだが、その頃はもうキャメロンは父に反抗して自立にかける心づもりになっており、そのきっかけをくれたフェリスに感謝している。彼もこのはちゃめちゃな遊びを通して逞しさを身に付けた。

この引き寄せ力、巻き込む力は、感化させる力は、才能としか言いようもないだろう。
将来はタレント、アクター、歌手でも何でもスターとして成功することは間違いなし。

何ともやることなすこと良い方にとられ、彼の嘘を見抜き尻尾を掴もうとする人間は手ひどくやられてしまう。
何と恵まれた人だろうか。向うところ敵無しである。
唯一、彼のことを妬んで妨害しようとしていた妹も彼氏が出来た途端、兄の味方に変貌している。
大したペルソナだ(兄妹共に)。

Ferris Buellers Day Off003

噺全体は変わった作りもなく、特に異質で創意を感じるところもなく、寧ろ紋切り型にエンボス加工を施したような、開き直った感じを受けるのだが、そこが爽快で心地よく感じられるのかも知れない。
キャストがきっちりと嵌っていた。
それも大きな要素だ。
皆憎めない面々なのだ(笑。これは確かに大きい。


「人生は短い。たまには立ち止まって楽しめ。」よく言ったものである。
わたしはここのところ立ち止ったままであるが、ちっとも楽しんでいない、気がする(笑。
いい加減に、こころの底から愉しみたい。
ホントだ(爆。

Ferris Buellers Day Off004










ラストベガス

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Last Vegas
2013年
アメリカ

ジョン・タートルトーブ監督
ダン・フォーゲルマン脚本

マイケル・ダグラス 、、、ビリー
ロバート・デ・ニーロ 、、、パディ
モーガン・フリーマン 、、、アーチー
ケヴィン・クライン 、、、サム
メアリー・スティーンバージェン 、、、ダイアナ


アカデミー賞5部門受賞の『カッコーの巣の上で』のプロデューサー、『ウォール街』でアカデミー主演男優賞のマイケル・ダグラス。
『レイジング・ブル』でアカデミー主演男優賞、『ゴッドファーザー PART II』で同賞助演男優賞、アメリカ芸術科学アカデミー会員のロバート・デ・ニーロ。『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー助演男優賞、ナレーターや司会者(「時空を超えて」は毎週見ていた)としても高名なモーガン・フリーマン。『ワンダとダイヤと優しい奴ら』でアカデミー助演男優賞、トニー賞3回受賞のケヴィン・クラインの4人による主演である。
そして重要な彼ら(主にビリーとパディ)の相手役ダイアナことメアリー・スティーンバージェンは『メルビンとハワード』でアカデミー助演女優賞、ゴールデングローブ賞 助演女優賞を受賞している何れも高い評価を得ているベテランばかりを贅沢に揃えている。


酒は呑むがだれも煙草を吸わない。
芸はやっているにせよ、ちょっとした余暇を楽しんでいるようにも見えるモーガン・フリーマンを筆頭に、、、
一癖も二癖もある芸達者の爺さんたちのレイドバックした余裕の演技で、まったり愉しんで見れる。
しんどい映画は観たくないときにピッタリかも。

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しかし噺の内容や持って行き方~展開はもう、ハリウッドである。
その意味での王道に乗せられて観ることになる。
ああ、やっぱりこういう感じねえ、、、。
でもその出来上がった手法と卓越した技術によって満たされてしまう。
と、そんな感じだ。
別にそれでも悪くない。
よく出来たエンターテイメント~コメディに違いないのだ。

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実際、細かいところまでよく出来ている。小さなところで笑える。特にアーチーの小ネタである。
そして「老い」でここまで面白く愉しませることが出来るのは、脚本や演出もあろうが、このベテランたちの技量と存在感によるところであろう。
それ以外に何も言うことがない。
まあ、脇を固める若い役者にせよキャストはみんな良かった。

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この映画を観て、やはり私自身の日常を振り返って言えることは、「遊び」が大切であるということ。
カジノで無心に遊ぶことで、解放とツキが一挙に自分のものとなる。
「老い」の幼子のような無心さを体現していたアーチーにはそれが来た。
彼の儲けた金で、全員がホテルの最高のスウィートルームに入り、思う存分、豪遊できた。

理想的な「老い」は、この自我~自意識を上手く手放し、巧みにリフレッシュする術も秘めてくる。
彼ら(特にアーチー)を見て思った。

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「老い」における恋愛~性の問題と長い歴史をもつ親友との関係~友情。
このテーマは、そこに老人ならではの病気や薬そして心配する家族のことも絡め、かなりしっかり描かれていると思う。
とは言え、殊更重くはならず、コミカルにストレートに進む。
そう、単純にストレートであることが肝心だ。

大事なのは、自分に対しても人に対しても嘘や誤魔化しは効かないということ。
ビリーに借りがあるパディが彼に対して行った行為は、そのタイミングからすると大変思い切ったことであったが、親友を想えばそうせざるを得ないものであった。
その結果、ビリーは本当にこころから望む幸せを掴む。

この部分は軽妙に描かれていたが、とても重く受け止めるところであった。
絶対に日和ってはならない。
自分の信じるところをブレずに進むこと。
これ以外に、ない。
その意を固くした。

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ジュマンジ

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JUMANJI
1995年
アメリカ

ジョー・ジョンストン監督
ジョナサン・ヘンズリー、グレッグ・テイラー脚本
クリス・ヴァン・オールズバーグ原作

ロビン・ウィリアムズ 、、、アラン・パリッシュ
ジョナサン・ハイド 、、、ヴァン・ペルト/サム・パリッシュ
キルステン・ダンスト 、、、ジュディ
ブラッドリー・ピアース 、、、ピーター
ボニー・ハント 、、、サラ
ビービー・ニューワース 、、、ノラ
デヴィッド・アラン・グリア 、、、ベントレー


「ジュマンジ」は、絵本に登場したボードゲームだそうだ。
それを元に作った映画がこれである。
パニックファンタジーと呼ばれるもの。
「ジュマンジ」とは、ゲームを始めた者に奇想天外な災厄を齎すボードゲームなのだ。
(ボードの画面に緑の文字が浮かび上がり、その文章通りの災難が降りかかる。最近流行りのARを遥かに超えているが、そのボードゲームが捨てられたのは1869年であった)。

確かに。
あんな危険な魔物が次々に飛び出して襲って来ては命が幾つあっても足りないが、死人は出ていなかったような。
ゲームをやってる者だけでなく、関係ない者まで巻き沿いにしてゆくところが実に傍迷惑なゲームだ。
店など竜巻にやられたような被害で、そのうえに商品を略奪する者が沢山いるところがアメリカらしさか。
様々な動物が暴れ回り、不気味な食虫植物が蔓を自在に操り、床がアリジゴクと化したりと、当時のVFXをフルに使っての奇想天外な廃墟空間が実現されている。

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いじめられっ子アランがそのジュマンジを掘り出す。
父は大きな靴製造工場の社長であり、厳格な父の期待に反発を感じていた矢先に、世界の外への冒険を仄めかすコピーで誘惑するそのゲームに魅了される。
しかし友人のサラと実際にゲームをはじめたとたんに彼はジャングルに飛ばされこの世界から消えてしまう。
(つまりその時点で彼は失踪し実質死んだことにされ、サラはその時の事情を説明するも精神の異常を疑われ医者の世話になっている)。
26年後に、屋根裏部屋でジュディとピーターの姉弟(両親を事故で亡くし叔母にかつてのパリッシュの大邸宅を買い取ってやって来たふたり)がそのゲームを発見しやり始め、賽の目で5を出したところでアランが突然何処からともなく家に戻って来る。
その間、ゲームは単に中断していただけであり、サリーをそこに加えて4人でのゲーム再開となった。
ドラえもん流にそのゲームでいじめっ子をてんてこ舞いにして懲らしめるとかいう単純速攻な趣向ではない。

主人公不在の26年間の間に彼の周辺の人間は皆、悲惨な境遇に落とされ、肉親は工場を封鎖しすでに亡くなっていたという惨憺たるものであった。しかしアランも悲嘆に暮れている余裕はなく、今現在もゲームが進行中であり被害は町中に広がってゆく状況である。

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被害を食い止め、過去の惨劇に始まる現在を救うためにも、ゲームを続行し、あがらなければならない。
あがった暁には、「ジュマンジ」と唱えるのだ、、、。

やはりこのボードは、魔法のボードであろう。
ジュディの謂うようなマイクロチップの埋め込まれたくらいの代物ではない。
悪魔の呪いとかその手の産物であろう。
(だいたいいつ創られたものなのか?)
こういう設定だと、もう何でもアリで行ける。
(SFのように突っ込まれる心配はないため、怖いものなしである(爆)。

ともかく、賽を振る度に次々に(ちょいと間を持って)現れ襲い掛かる飛んでもないモノたちは、まずその予兆の僅かな時間からして怖い。
そしてそれに呑み込まれるが、ギリギリのところで助かる、と謂うより次の順番の者が賽を振って事態を替える。
だが、ボードそのものをペリカンに持ち去られ賽を振るのもままならない事態に陥ったりもする。
結構、スリリングな構成~展開で作られている。
VFXも含め当時としてはかなりのものに想えた。

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結局、このゲームを始めてから失った時間~ヒトとの関係~をゲームをあがったところで、全て取り戻したということか。
それにアランにとっては、厳格なだけと思っていた父の溢れんばかりの愛情を知り、ただの友達に終わったかも知れないサラの愛を得て妻にもしている。そして初めて紹介されるジュディとピーターについてはもう親しい友人であるし、彼らの両親の旅行を阻止することも出来た。充分すぎるゲームからのお祝いである。

それにしてもあがる前にハンターに撃ち殺されていた可能性もあり、危険極まりないゲームと謂えよう。
像の群れが車を踏みつぶして走って行ったり、植物の蔓でパトカーが二つ折りに潰されたりするなど、、、その後の映画にもかなりの影響~インパクトを与えているはず。

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ロビン・ウィリアムズは相変わらずと謂った感であったが。
この映画で子役時代のキルステン・ダンストを初めて見た。
利発な凛とした可愛らしさである。
ボニー・ハントもとても良い雰囲気であったが、やはり何よりキルステン・ダンストであろう。




ハートビート

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HIGH STRUNG
2016年
ルーマニア、アメリカ

マイケル・ダミアン監督・脚本
ネイサン・ラニアー音楽

キーナン・カンパ、、、ルビー(バレリーナ、MCA学生)
ニコラス・ガリツィン、、、ジョニー(イギリス人バイオリニスト)
ジェーン・シーモア、、、オクサナ(コンテンポラリーダンスの先生)
ソノヤ・ミズノ、、、ジャジー(バレリーナ、ルビーのルームメイト、MCA学生)
リチャード・サウスゲート、、、カイル(バイオリニスト、MCAの優等生、ジョニーのライバル)
アナベル・クティ、、、エイプリル(バレリーナ、MCAの優等生)
マーカス・ミッチェル、、、ヘイワード(スウィッチ・ステップスのリーダー)


8人も世界のトップダンサーが出演しているという、本格的なダンスが見られる映画ということで、観てみた。
これに似たダンス映画があったな~。最近忘れっぽいので、思い出すのに一苦労。
ポリーナ、私を踊る」だ。
こちらも本物のバレリーナがヒロインであった。(しかし彼女はクラシックバレエから自らの意思でコンテンポラリーの道を選ぶ。本作のヒロインはクラシックは得意だがコンテンポラリーが苦手という設定である)。
ヒロイン役のキーナン・カンパも、全米ユース・バレエ・コンペティションで金メダルに輝き、サンクトペテルブルクのワガノワ・バレエ・アカデミーを主席で卒業した人だそうだ。だから踊りをしっかり見せる事が出来る。細かいカット割りやスローモーションやら引いたり極端にアップにしたりの目まぐるしい演出無しにかなり長いショットで踊りの全貌を堪能できるのは有難い。
コンテンポラリーダンスやヒップホップを踊る人たちのキレも良い。
バイオリンも見た目は申し分ない技巧と迫力であった。

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主人公のバイオリニストのガリツィンはミュージシャンでもあると言う。
そうだこの系統と謂えば「フェーム」というのもあったが、自然発生的に食堂で始まる音楽・ダンス以外はつまらぬ映画であった。
もしかしたら「 ラ・ラ・ランド」とかも入って来るのか、、、これもかなりいまいちの映画であった。
同じ監督の「セッション」は大変凄いテンションで一気にもってかれたものだが、、、。

横道に逸れていても仕方ないので、頭~噺を切り替えたい。
とは言っても、話自体は特にどうというものではない。
実にベタな青春サクセスストーリーだ。
これほどまでに捻りのない噺も珍しい。
だが、グイグイ惹き付けられてしまうのは、踊り~音楽のテンションである。
(筋など音楽~ダンスを乗せるためのベースに過ぎない)。

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ヒロインのルビーと彼女のルームメイトのジャジーはどちらも奨学生である。
遅刻厳禁でとても厳しい校風なのにそのジャジーに誘われルビーもしょっちゅう夜遊びをしている。
夜遊びで出掛けたバー?でテーブル合わせてそのうえで踊り出したり、招待されたパーティで、主演二人(ルビーとジョニー)のダンスがなかなかの(これこそコンテンポラリーな)ステップで決まっていたり、ルビーを巡ってジョニーとカイルのバイオリンの超絶技巧をかけた一騎打ちが始まったり(どことなくカーブド・エアーのダリル・ウェイを思わせる弾き方)、、、その辺の自然発生的なイベントは面白かった。明らかに「フェイム」よりも見応え聴き応えはあった。
駅のホームで始まったストリートダンサー同士の対決は、強面同士の威嚇する迫力はあったが、どうも奇抜で意表を突くような動きがなくて盛り上がりに欠けた。

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イベントの始まる気配があり、そこに誰かが(主演者が)スイッチを入れると周囲のバンドマン、管弦楽奏者、ダンサーらがしっかりバックからアンサンブルや伴奏をつけてくる。これが結構絶妙なのだ。この映画の肝はそこにある。
ブレイクダンスもジャッキーチェンみたいにその辺の物を上手く使ったりしながらアクロバティックな動きでメリハリをつけてくる。
青春サクセスストーリーの枠を使い、思う存分クロスオーバーに音と動きのアグレッシブな美で魅せようとするものだ。
この重層する乗りがこの映画のもっとも肝心な部分と謂える。
どの場面を見ても、ソロは基本的にない。必ず絡む。絶妙に重奏してくる。そこにワクワクする。
地下鉄でジョニーがバイオリンのライブ(彼は大道芸という)をしている時も、列車や近くの工事(そこで働く彼らもストリートダンサー)の出す音~環境音に被せていた。

基本がクロスオーバーなのだ。
クラシックバレエ~バイオリン~ブレイクダンス(ヒップホップと謂うべきか?)
面白いのだが、最後の賞金がたんまり貰える何とか大会(弦楽器&ダンス・コンクールか)での出し物よりも上記の自然発生的な場~イベントのインプロビゼーションの方が格段に創造的でカオスで見応えは大きい。


エクス・マキナ」のメイドAIロボット役であったソノヤ・ミズノがヒロインのルームメイトで出ていたが、かなりの存在感を魅せていた。(「ラ・ラ・ランド」にもエマの同居人で出ていた)。
この日系イギリス人女優にはかなりの器を感じた。注目したい。

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最後にルビーの踊りを評してジプシーになったとバレエの先生が絶賛していたが、ジプシーの映画「ガッジョ・ディーロ」を観た後で感じるところでは、奔放なジプシーの域までは行っていない。コンテンポラリーの範囲内だと思う。
今一つテーマの創造性と躍動感に欠け、何とか形にまとめてみたという感じがする。
ストリートが身上のもの(偶然性の爆発)をステージに上げ、無理やりジャンルの違う表現、特にバレエという様式美と融合する難しさが露呈されていた。バイオリンの曲もクラシックでなくても良いが現代音楽と謂うよりポップスであり、ちょっとどうかなと思う。
あの拍手喝采スタンディング・オベーションはまず、ない。

キーナン・カンパがバレエの先生の前で独り残って踊るシーンが、地味ながらわたしとしてはもっとも印象深く、何より美しかった。

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アナスタシア・シェフツォワ(ポリーナ)もキーナン・カンパ(ルビー)両者ともにバレリーナとしても女優としても大変美しくオーラがあり、このような踊りで魅せる映画に今後も期待したい。


ハートビートはしっかり感じられる映画であった。
そのアンサンブルに。

心地よく観られるシーンの多い映画ではある。

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朝のスケート

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6時ちょっと前に車で出かけるようになってから、朝の開けるのがめっきり早くなった。
真冬は真っ暗だったのが、今朝はしらっと明るい。
車のライトは点けないで走れるが、何というか、薄ぼんやりした淀んだ白の中の走行。
力を全てに感じない。
空が原因だ。

5時起きして、オニギリを3種類作る。
シャケと海苔、鰻、卵とカリカリ梅、、、3つ作ってみた。
長女が休憩中に食べるオニギリ。
飲み物は、自販機の暖かいコーンスープで済ます。
彼女に聞いてみると、どれもおんなじくらいの美味しさだったという。
ただ前回は、カロリーメイトに冷たいスポドリだったから、それよりホッとしたとの事。

オニギリは確かにわたしもホッとするものがある。
栄養を摂れば良いというものではない、何とも言えない癒しが、ある。
丁度、菅野よう子の楽曲「お弁当を食べながら」に当たる。

さて、今日は帰ってから何をするか。
天気が良いので、公園を散歩でもするか。







ファビュラス・ベイカー・ボーイズ

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The Fabulous Baker Boys
1989年
アメリカ

スティーブ・クローブス監督・脚本
デイヴ・グルーシン音楽

ミシェル・ファイファー 、、、スージー・ダイアモンド
ジェフ・ブリッジス 、、、ジャック・ベイカー
ボー・ブリッジス 、、、フランク・ベイカー
エリー・ラーブ 、、、ニーナ
ジェニファー・ティリー 、、、モニカ・モラン
ザンダー・バークレイ 、、、ロイド

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ミシェル・ファイファーが全スコアを吹き替えなしで唄っていることが話題になった作品だ。
まず、声が良い。歌そのものも素敵だったが。
ブリッジス兄弟が兄弟役で出演している。これもやり易いのか、どうなのか、、、。

ビターテイストとはよく言ったものだ。ホントにほろ苦い劇であった。
才能があっても商業的な成功はまた別の話だ。
それも独りではなく、人と組んでやる仕事であれば、余計に大変なものになろう。
ギャラ絡みの損得や進む方向性の(微妙な)違い、性格などに起因する軋轢、、、いくらでも問題が発生する可能性はある。

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しかし何であってもまず、生きるために何とかしなければならない。
家庭があればなおさらである。
マネージメントの重要性が浮かび上がる。
縁の下の力持ちの存在は忘れてはならない。

要するにピアニストであれば、ピアノが上手に弾けるだけではだめなのだ。
趣味にピアノを弾くなら何の問題もないが、それを仕事としたとたんに、不可避的に多くの厄介な関係性が生じて絡まってくる。

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兄弟であれば絆は深いが、長年溜めこんできた不満の蓄積も重い。
そこに、有能な美女が加わり見事な成果をあげたとしても、そのままことはスムーズに行くとは限らない。
(人に認められ、音楽的にもセールス的にも良い結果が得られたとしてもである)。
その彼女の存在が新たな火種にもなる。
小さな拗れが大きな(取り返しのつかない)爆発にも繋がりかねない。

人の関係性~コミュニケーション~の難しさである。
日常会話や議論は、時に暴力装置として機能する。
ことばのその線状的構造から一気にある方法に過剰に突き進んでしまう。
ことばとは常に厄介なのだ。

そのことばの意味(一義性)によって入った亀裂を、詩や音楽、絵画などは埋めてゆく作用がある。
彼らも優れたミュージシャンである。
観客に対しては、美と癒しと安らぎを提供することが出来る。
だが、その送り手としての自分たちは、その音楽に慰められないのか。

いや、やがて音楽が、また再び彼らを結びつけることとなるはず。
音楽とは、そういうものだ。


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ミシェル・ファイファーは素敵だった。
ピアノの上であのように唄えるものではない。










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シカゴ

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Chicago
2002年
アメリカ

ロブ・マーシャル監督
ビル・コンドン脚本
ボブ・フォッシー・フレッド・エッブ原作
モーリン・ダラス・ワトキンス戯曲原作


レニー・ゼルウィガー 、、、ロキシー・ハート
キャサリン・ゼタ=ジョーンズ 、、、ヴェルマ・ケリー
リチャード・ギア 、、、ビリー・フリン(敏腕弁護士)
クイーン・ラティファ 、、、ママ・モートン(殺人棟長)
ジョン・C・ライリー 、、、エイモス・ハー


見事な構成の圧巻のミュージカルだった。
のっけからヴェルマ・ケリー~キャサリン・ゼタ=ジョーンズのダンスに圧倒される。

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劇中の(ロキシーの)妄想から始まる歌とダンスがとても自然でちょっとミュージカルに苦手意識を持つわたしにも全く違和感無いばかりか、テンションをより高めて惹きつけられる形式~演出であった。
唐突に歌が始まるミュージカルでは無い為、それが苦手な人にも、問題なく鑑賞出来るはず。
様々な工夫が凝らされた演出が憎い。噺に丸め込んだ時のマスコミたちが操り人形になっているところなど流石であった。
ロキシーがビリー・フリンのシナリオ通りに喋るところは、彼女が腹話術人形になっていたのにも唸った(笑いながらだが)。
いっこく堂を思い出してしまったではないか。
「目も眩むショーで客を丸め込め」、「歓声にかき消され、真実の声など聴こえない」、「追い込まれたらダンスを踊れ」、「魔法を皆に見せてやれ」、、、等々。
セリフもふるってるし、話の内容も爽快で楽しい。
凄い名曲とまではいかなくても、どれもよく出来たグイグイ惹き込む曲が続き、弛むところがない。
逞しくもチャーミングな収監された女性殺人犯たちの切れの良いダンスと歌がたっぷり堪能できる。

流石アル・カポネの街だと感心する。
スキャンダラスをチャンスに。
犯罪~殺人もショービジネスである!
ヒロイン二人が夫を銃で撃ち殺して裁判の最中。
下手をすると絞首刑にもなり得る。
そんな際どいなかでの敏腕目立ちたがり弁護士も交えての攻防を面白可笑しくスリリングに仕立てたミュージカル。
「それがシカゴ」という決めゼリフには笑う。

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ビリー・フリン弁護士の自信は途轍もない。
「おれを5000ドルで雇っていたらあのキリストも架刑に処されることはなかった」などと罰当たりなことを平気で言い放つ。
その辣腕のお陰でロキシーは、新聞・雑誌・TVなどメディアを通して一躍アイドルになってゆく。
裁判も勿論、有利に運ぶ方向に乗っていた。
しかしロキシー人気が高まった矢先に、浮気夫とその彼女二人の計三人を射殺した女が現れ、衆目はそちらに向き、ビリーもロキシーそっちのけで彼女に関わろうとした。それを見たロキシーが何と妊娠を訴える!
これで再び人々の視線はロキシーに注がれ、臭覚の利くビリーも駆け戻って来る。
これにはヴェルマやママも驚き呆れる。
随分、鍛えられたものだ。その点では、筋が良いというのか。大物の資質を備えている。

このショウマン弁護士のでっち上げ等ものともしないマスコミ操作術や陪審員を味方につけるあざとい手法が見事に実を結び、ロキシーに対する人々の同情は高まり、結局ロキシーもヴェルマも無実を勝ち取り自由の身となる。
だが、その直後、金持ちの娘が夫と弁護士を射殺し、マスコミは彼女に色めき立ち、ロキシーのことなど放置してそちらに向って行ってしまう。
メディアに乗らなければ、人気商売~ショウビジネスはお手上げである。

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不仲ではあるが、ビジネスのために、”ロキシーとヴェルマ”として二人は手を組む。
この競演ステージは極め付きであった。
何といっても”犯罪者デュオ”で売り出すのだ。話題騒然。
客も集まらないはずはない。
ダンスの小物に銃まで出て来て、ちょっとシャレにならないが。
これで間違いなく成功を収める。

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主演の二人の女優はとても素晴らしかった。
最初は、ロキシーにちょっと物足りなさを覚えたが、徐々にしたたかで蠱惑的な魅力を纏ってきて、ヴェルマと互角にやり合うところに行く頃には、こちらも彼女を応援していた。
冴えない感じの女子がママ・モートンやビリー・フリンとの駆け引きの中で揉まれ、強かな知恵と自信をつけて、このヴェルマの域にまで迫って来たのだ。

最後には、シンクロも鮮やかな本当に息の合った二人のダンスで締めくくる。
これは本番のステージであり、妄想~心に描いたイメージではない。
本当のカタストロフである。

キャサリン・ゼタ=ジョーンズにとってはこのような役作りは手慣れたものであろうが、レニー・ゼルウィガーがこれだけ踊るのはさぞや大変だったと思われる。ウエイトもかなり落として体を締めて来たことはよく分かる(「ブリジット・ジョーンズの日記」から見れば歴然としている)。
よく頑張ったというところか(爆。
リチャード・ギアも充分に怪しく、本来なら人気取りの高額弁護料をむしり取る悪徳弁護士なのだが、ここではヒロイン二人を助ける出来る男でもあった。
面白い役をきっちり熟していた。
クイーン・ラティファの貫禄と歌も大変印象的であった。

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これは気持ちよく面白い映画である。
ちょっと体調の優れない時に観ると、きっと元気になる映画に思える。








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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
出来ればパソコン画面(PCビュー)でご覧ください。

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