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霧の夜の戦慄

The Upturned Glass004

The Upturned Glass
1947年
イギリス

ローレンス・ハンチントン監督
ジョン・P・モナハン 、 パメラ・ケリノ脚本
ジョン・P・モナハン原作
ジェームズ・メイソン製作

ジェームズ・メイソン 、、、犯罪心理学講師、マイケル・ジョイス(脳外科医)
ロザムンド・ジョン 、、、エマ(手術を受けたアンの母)
パメラ・メイソン 、、、ケイト(エマの妹)
アン・スティーヴンス 、、、アン・ライト
ヘンリー・オスカー 、、、コロナ―
モーランド・グレアム 、、、クレイ


「ひっくり返りやすいグラス」
君はデザインは良いが「不安定で割れやすいグラス」だ、、、主人公に接した医者が彼をパラノイアだと診断して述べたメタファー。
確かに謂えてる、、、。
邦題は「パラノイア」でもよかったかも、、、しかしこの映画、霧に包まれてからが実にピリピリ来る。

主人公のこの人はパラノイアであろうか?
被害妄想でも誇大妄想でも独裁者的でも無いと思うしナルシシズムもサタニズムも持ち合わせていないような、、、。
どこがどうパラノイアなのか、、、。
彼の講義を公聴した学生が言う、自分の犯罪を人前で誇示してしまう性格からか、、、確かに、ナルシシズム、、、。
「倫理的な確信から裁く者の高潔さがある」ときた、、、ここはナルシシズム以外の何ものでもない。

The Upturned Glass003

主人公は3つの脳外科病院を掛け持ちする専門医であり、学生対象の心理学講義も週一で受け持つ男である。
学生への講義内容は、「健全で立派な社会の一員」による犯罪心理についてのものである。
全て匿名で物語が克明に語られてゆくのだが、それは自分の今の生活そのもの~まさに自分自身のことなのだ。

不仲となって別居している妻が離婚を受け容れない。
そんな時期に、失明の恐れのある少女を手術で救ったことで、視力が戻るまでの期間、彼女の母エマと親しく付き合う事となる。
彼女の夫も地質学者で一度調査に出ると数年帰ってこないこともある。
彼の仕事に明け暮れる人生の空虚さをエマが埋めてゆく。
音楽とピアノの趣味が合い、互いの生活は潤いのある豊かなものとなった。それは確かだ。

しかし、彼も彼女も既婚者であり、愛し合っても結ばれない。彼女には元気に回復したアンという娘もいる。
ということから、二人は別れることに決めた。
だがすぐその後、エマが窓から落ちて死んだという知らせが彼のもとに入ってくる。

The Upturned Glass002

その死に彼は不信を抱き、調べてゆくと彼女の妹が事件に深く絡んでいる事を知る。
正義感から行動をとろうがそのままほったらかしておいても、特に何がどうなるものとは思えないが、彼は行動に出た。
パラノイア的に関わる。もう止まらない、、、。
講義では、彼は妹に復讐を果たし完全犯罪が成立したことで終わるが、講義を終えて車に乗ると少し巻き戻った時間流に乗り込む。
これから妹のケイトを乗せて夜の街に、売りに出されているエマの家へと向かうのだ。
わたしとしては、ここに接続したことに一番わくわくした。かなりのものである。唸ってしまう。
ここからが噺の世界ではなく、現実界であり講義は少し先の成り行き~完結までの物語を示していた。

さて、実際どうなったのか、、、
恐らくここからがもっとも面白い所なのだ。
第二章としてもよいくらい。
ヒッチコックのよく出来た映画と同等の質だと思う。
噺の通りには行かないのだ。姉の時のように自殺に見せかけることは、抵抗されて首を絞めてはどうにもならない。
鍵まで下に落とされドア部分を壊している。これも内側に誰かがいたことを容易に窺わせる。
何とか車に骸を乗せて、海に運ぼうとしたところ深い霧に覆われる。
深い夜霧の中を進む途上で、交通事故にあい瀕死の少女の手術を行うことになる。

常にネタバレを大々的にやってるわたしでもこの辺で止めておく(笑。
霧の中の雰囲気と謂い、晴れ渡る夜明けの断崖も見なければその雰囲気は掴めない。
ただ一つだけ、この医者はどんな危篤の患者でも飽くまでも救おうとする。そして腕が良いため救ってしまう。
この強い正義感と完全主義こそが、途中で乗り込んで来た医者の出した”パラノイア”という診断である。
強い正義感は、思い込みが激しく極端な単純化を起こし不安定で、どうすっ転ぶか分からない危険なものなのだ。
理想主義者であり、原理主義的でもある。テロ組織にピッタリか。


はめ込み画像がかなり目立った。
車の運転シーンでは仕方ないと思ったが、公園を散策するシーンにもあった。
ちょっとどうなのか、と思うところであった。
それから学生にどのようにしてあのようなストーリーを話していたのか~理解させていたのかという疑問も湧く。
言葉で長々と詳しい説明は難しい。映画(の形式)であるからあのように描けるのだ。
(この形式~表現における二重性はやはり気になってしまう)。

The Upturned Glass001


繰り返しになるが、正気の犯罪者を強調しているところこそパラノイアたる所以だ。
しかし犯罪者と認定されなくとも、この世に正気の者がどれだけいるか?
そもそも正気~正常とは何なのか、、、その辺を問題とすると議論が陳腐になるのでやめる(やるほどの意味も価値もない)。


なかなか強気で憎たらしいケイト役のパメラ・メイソンはこの映画の製作まで担当している主人公のジェームズ・メイソンの妻だということ。パメラは小説家でもあり、この映画の脚本も受け持っている。夫婦で相当入れ込んだ作品であることが分かる。
確かに力作であった。




質屋

The Pawnbroker001

The Pawnbroker
1964年
アメリカ

シドニー・ルメット監督
デヴィッド・フリードキン、モートン・ファイン脚本
エドワード・ルイス・ウォーラント原作

クインシー・ジョーンズ音楽

ロッド・スタイガー 、、、ソル・ナザーマン(元ポーランドの大学教授、質屋経営者)
ジェラルディン・フィッツジェラルド 、、、マリリン・バーチフィールド( 社会福祉事業家)
ブロック・ピータース 、、、ロドリゲス (ソルの質屋のスポンサー、スラム街のボス)
ジェイミー・サンチェス 、、、ヘズス・オルティス(ソルの質屋の店員)
セルマ・オリヴァー 、、、メイベル(ヘズスの恋人、娼婦)


ソルは金は光の次に絶対的なものだ、と言い放つ。
「わたしは神、芸術、科学、新聞、政治、哲学を一切信じない」
それらは、ホロコーストからわれわれを救うことが出来なかった、ということか。
最愛の妻と二人の子供を失い大学教授の職も追われ、彼はニューヨークのスラム街で質屋を営む。
自分から他者との間に関係を築くような事は全くなく、自分の殻に引き籠っている。
アウシュビッツのフラッシュバックに感情は乱れ、生き残ってしまったことに対する罪悪感に蝕まれてはいる。
(亡き友の妻とその父との関係や経済的援助を続けていることもあり)。
彼自身、亡き妻の妹家族と取り敢えず一緒に暮らしており、経済的には問題ない。

息苦しい程に貧しい人たちの吐息が充満する硬質な夜の質屋。
ニューヨークのスラム街の一角の小さな救命ボート。
だが、彼は誰にも心を開かず、自分のこころに踏み込んで来る者は例外なく排除する。
ヘズスが腕の認識番号のことが何であるか知らず、秘密結社か何かに入っているのかと尋ねる。
ソルはそれに答えて言う。「水の上を歩ける者しか入れない」

物でありながら物ではないモノ~メタレベルの物=価値の秤である金、に対する関わり方でその人間の人生も決まるところはある。
カフカの小説に出て来る会計士みたいな感じに思えたが、、、。
ドライであるようで意外にナイーブな人でもあった。
娼婦の館で稼いだ金の援助はいらないと断りにボスに逢いに行ったりする。
「腐敗と恐怖の生んだ金」であるからと。金の金であることを忘れている。
彼はいとも容易くロドリゲスにねじ伏せられる。「君の懐に入る金は全て出所は俺だ。売春宿の収益は大きい。ボーリング場、駐車場、貸家からも。その事実を知らなかったとは言わせない」「知らなかった、、、」で泣き崩れる。

葬り去っていた記憶が堰が切れたように押し寄せてきて、ソルは恐怖に慄くようになる。
(わたしもあるきっかけから、こんな状況を経験した)。
彼はあっさりと誘いを断ったマリリンのアパートを自ら訪ねてゆく。
自分でも何故だか分からない。これまでの固い自我が崩れてきたようだ。
しかし、彼の絶望は深く、彼女の差し向ける手に触れることもなくそこを立ち去ってしまう。
それからは、商売にも(お金に対しても)執着が無くなり自暴自棄になる。


彼は基本的に周囲の人々から慕われている。
特に店員ヘススからは神のように尊敬されている。
スラム街のボス、ロドリゲスからもプロフェッサーと呼ばれ一目置かれている。
マリリンからは、明らかに思慕の情が窺える。

The Pawnbroker003

彼と話したくて質屋に来る人も少なくない。
ほとんど金にならない物を持ってくる。
(恐らく彼らには何も残っていないのだ。それでも彼に逢いに来るのは何故か、、、)。

だが彼にはもうこの仕事に意味や価値は無くなっていた。
彼は再度、ボスに逆らい、手下から暴力を受ける。
自分の記憶~本当の自分を封印するものであった商売~金、それは決して彼にとって理想でも希望でも心地よくもなかったが、ここで完全にどうでもよい無価値なものとして崩壊する。自己欺瞞を止めると同時に彼に死を意識させる(死を半ば決意する)。


スローモーションとフラッシュバックによる封じ込めたはずの記憶の溢出。
クインシー・ジョーンズの音楽がストリングスと混じって演出を超えている。


最後、ソルを師匠と仰ぐ店員ヘズスが彼を凶弾から身を呈して守り、倒れる。
死ぬ間際にヘススは、「あなたを撃つなと言ったんだ、あなたを傷つけてはならない」と言い残し息を引き取る。
彼はヘズスの遺体に呆然として近づき縋って慟哭するのだが、実際に声は出てこない。
これまで彼に関わって来た(彼の質屋に救いを求めてやって来た)人々の顔がフラッシュバックされる。

だが、それらに応える瑞々しく迸る感情が彼には枯渇していた。


The Pawnbroker002

亡き親友の父が「お前は痛みを感じたか、血を流したか」と彼に病床で問うていた。そして、、、「ない」
「生き延びた代償は大きかったな。愛も情熱も憐みの情も失った、お前は生きる屍だ!」


ソルは手に長い針を刺し、血を流す。
その痛みで精神の均衡を辛うじて保つかのように、、、。
また生き残ってしまった。
生きる屍のように街に出てゆくソルの姿で終わる。


ロッド・スタイガーの前半の淡々とした客あしらひがとても面白かった。
この映画の生理的な感触がそこにある。
それに加えてクインシー・ジョーンズのジャズである。






名作だ。

ハイヒール

Tacones lejanos

Tacones lejanos
1991年
スペイン、フランス

ペドロ・アルモドバル監督・脚本
坂本龍一 音楽

ビクトリア・アブリル、、、レベーカ(TVメインキャスター)
マリサ・パレデス、、、ベッキー・デル・パラモ(母、人気歌手)
ミゲル・ボゼ、、、ドミンゲス判事、レタル(ゲイの歌手)、情報屋
フェオドール・アトキン、、、マニュエル(レベーカの夫、ベッキーの元恋人、TV局経営)
ミリアム・ディアス・アロカ、、、イザベル(マニュエルの愛人、サブキャスター)
ハビエル・バルデム、、、TVプロデューサー


この題で惹かれた。とがった感じ。
赤が印象的であった。
今日も女たちががみがみ騒ぐ。
自己主張できることは、きっとよいことだ。

再婚相手の自動車事故死を機に単身メキシコに渡り、15年ぶりにスペインに戻って娘と再会する母。
まだ現役の歌手である。地元の人気も衰えていない。
彼女のそっくりさんのゲイの歌手すらいる。
そして、母は娘が結婚した相手マニュエルのかつての恋人でもあった、、、。

ああこのパタンで来るか、、、と思ったらその線であった(爆。
気が重くなるのだが、仕方ないということで付き合う。
母~息子パタンとは異なる重くヒリツクしこりが顕になってゆくが、かなりクールな感触で展開する。

娘と母との複雑な愛憎劇であり、娘が全身シャネルで固めているのも母への対抗意識からであろう。
とても酷い母だが、ある面において(女性として)娘は彼女に深い憧れを抱いていたことは間違いない。
歳をとっても未だに華麗な雰囲気を纏っている。


どうもよく分からないのは、ミゲル・ボゼはドミンゲス判事になったり、夜のゲイの歌手になったり、情報屋となっていたり、レベーカに求婚したりするのだが、どういういきさつでそうなったのか。そもそもレベーカとの距離感覚、とその不思議な行動様式である。ここがしっくり流れないのだ。判事があそこまで自由に容疑者を連れまわせるのもどうなのか、、、妙な権限を持つ抽象的な存在なのだ。

ただ、それがあってもグイグイと惹き込んでゆくストーリー・演出である。
これはかなりのものだ。
女性囚人の間で突然始まるダンスが面白く素敵であった。
その一か所だけでなく、もっとミュージカルな要素が入ってもよかったのでは、、、
(いっその事ミュージカルにしてしまえば、もっと面白かったか)。


レベーカが別荘で撃ち殺されたマニュエルの犯人であることを自らの番組で涙ながらに告白して見せ、彼女は逮捕されるが、その後、撤回する。ドミンゲス判事の計らいで母と対面しこれまで抱いて来た彼女への想い~憎しみの情、確執を語る。
レベーカは母が自分の価値を否定して置き去りにしたことだけは絶対に許せなかった。
母は話しの全てを受け容れる。
そして帰りにレベーカは倒れ、妊娠していることを知る。
ドミンゲスがレタルそして情報屋であったことを知り、彼との子であることも疑いなかった。
結局、判事の力が大いに働いたらしく、レベーカは証拠不十分で釈放となる。
(その後、具体的に彼とどうなったのかは描かれない)。

レベーカにとって、自分が母に勝てたと想えたことは、マニュエルと結婚したことであった。
しかしそのマニュエルはレベーカに離婚を迫っていて、もはやどうにもならない状況なのだ。
二重に自己否定された彼女には、もうマニュエルの存在自体許せないものであった。

舞台終了後に母ベッキーは狭心症で倒れ、病院に運び込まれるが、危険な状態であった。
レベーカは真犯人は自分であることを打ち明けるが、死期の近い母が娘の罪を(自らの贖罪として)被ることにする。
彼女がもってきた犯行に使った拳銃を母が手で触る。

「ママといたころ、ママのハイヒールの音が
寝室を出て廊下に消えるまで眠れなかった、、、」

母は静かにベッドで息を引き取る、、、

「そのときから、いつかヒールの音が戻るのを
起きて待っていたのよ、、、」

レベーカは母の傍らに寝て彼女に縋りつく。





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3月生まれ

NATA DI MARZO003

NATA DI MARZO
1958年
イタリア

アントニオ・ピエトランジェリ監督

ジャクリーヌ・ササール、、、フランチェスカ
ガブリエル・フェルゼッティ、、、サンドロ
マリオ・バルデマリン、、、カルロ
ティーナ・デ・モーラ、、、ネーラ
エステル・カルローニ、、、フランチェスカのおばあちゃん

「3月生まれ」という題が魅力的でついつい観てみた。
はじめの出だしにびっくりした。
そんなところがあるのか!
二人が巨像の目から顔を出してふざけている。
そこから巨像の中を降りてゆく競争で燥ぐ。
直後からフランチェスカの回想シーンとなる。


フランチェスカとサンドロが初めて出逢ったのが、二人しか乗っていない路面電車であった。
この出逢いの場がまず特異であった。
運命的な出逢いとでもいうか。

誰の人生にもこんな恩寵ともとれる瞬間があった(ある)はず。
しかし、ことはそれで済まない。

電撃的に結婚してしまったからが大変~問題であった。
3月生まれは、その天候みたいに気まぐれ、と言われるそうだが、気まぐれなんて生易しいものではない。

NATA DI MARZO004

この女、医者に診てもらえ!と道端の娼婦が叫んでいたが、まさにそうだ。
度を越している。
我儘、傲慢、自己中、衝動的、、、。
最初の恩寵と思えた瞬間とは何であったか、、、眩暈がする。
自分にもそんなことがあっただろうか。
思い当たらない、、、まあ、子供の誕生とかがそれに当たるか。

ともかく、相手を攻撃する言葉ばかりをキャンキャン、ガミガミ機関銃のように放ち続ける。
尋常ではない。
やはり、医者にでも診せろと言いたくなる。
このヒロイン(17歳の設定)はフランス女優であるが、、、。イタリア語堪能なのだな。

結婚後、高級アパートに入り、建築家の年上の夫に好きなだけ甘えて暮らすが、、、
聖フランチェスカの祝いを何度も行ったり、高価な意味もない買い物で散財する。
そして、日中暇なことが辛いと夫をなじる。
わたしも仕事を辞めて、家事をやってはいても、日中家の様々なことや子供の世話などしていたら、全く暇などないが、、、。
メイドを雇っているから暇なのであれば、経済面も考え自分が家事仕事すればどうか、、、と思った。

が、元々仕事などする気は全くない女性である。
帰った夫にひたすら文句をいうばかり。
挙句の果てに、夫を試すような大嘘をついて困らせる。(単に気を引く程度ではない)。
赤ん坊が出来たと言って車を買わせる、、、若い恋人がいる等々。

NATA DI MARZO001

しかし、夫にも問題はある。
何と謂っても若い女性である。
彼女を一日中、家に縛り付けるのは無理がある。
彼女なりのこれからの自己実現もある。
勉強や仕事など彼女の自立に向けた支援も行う必要はある。
それを無視して閉じ込めることなど出来ない。
(よく聞くが、イタリア男性は結婚までは相手の人格を大切にしとてもマメに動くが、いざ結婚すると家に縛り付け男尊女卑的な封建的な態度をとると、、、その典型の旦那である)。
相手を猫かわいがりして甘やかすが、主体~一個の人格としては認めていない。モノのような扱いである。
(そう謂えば、日本のゴジラですと玩具を紹介され購入するが、あれはキングコングである。しかも極めて出来の悪いコングだ、、、ちょっと怒りを覚えた。ここで思い出した)。

彼女の狂態振りもここから来るストレスを大いに抱えているはず。
そこは彼女のサイドから考える必要はある。
それにしてもイタリア女性は(ヒロイン女優はフランス人だが)、基本的にみんなあんな風に気が強いのか?
やはりそういう気質~特性なのだろうか、、、。強気でズケズケと何の遠慮もなしに悪態をつく。
クラウディア・カルディナーレもそうなのかな、、、と心配になってしまった。(どういう心配なのか?)

NATA DI MARZO002

ジャクリーヌ・ササールは映画主演二作目の瑞々しい魅惑的な女優であるが、やけにこの役にはまっていた。
何と謂うか、ホント女性がめんどくさくなる映画でもあったなあ、、、と思う。
わたしであれば、もう序盤でジ・エンドである。

しかし、フランチェスカのおばあちゃんの語る「夫婦は2人の人間から成り立っているけれど、神様は一人分しか幸福を割り当ててくださらない。お互いに半分ずつ我慢するの」で、わたしもようやく安心する。「わたしは電気を上手に使い分ける。夫が寝るときは消して、彼が寝付いたら点して本を読むの。これが幸せな生活なのよ」イタリアでもおばあちゃんになるとこうなるのか、、、ある意味救われた気分にはなる。フランチェスカが実際どうなるかは分からないにしても、、、。

路面電車で出逢い始まった映画であったが、最後も路面電車(終電)で終わる。
散々、罵り合ったり別居したりで、忙しくも煩い映画であったが、別れを告げ乗り込んだ彼女の電車の後を、「フランチェスカ」と叫びながら夫が走る。
それを見て、彼女は電車に「止めて」と叫ぶ。「止めて」と言うと路面電車は止まるのだ、、、
電車から降りた彼女と夫はいつまでも抱き合っているのであった、、、。
(この先の保証はないが)。


彼女の他の映画も観てはみたい。これではあまりに彼女のイメージが、、、。
この映画の彼女のファッションは世界中にかなりの流行を呼んだとか、、、ササールカットとか、ササールコート等。
ジャクリーヌ・ササールは27歳で芸能界を引退したという。
大富豪と結婚したらしいが、この映画みたいにはなっていないはず(笑。
ズルズル長くやらず、綺麗な絶頂期に潔く辞めるというのは、素晴らしい選択だとは思う。





ハウリング

The Howling004

The Howling
1981年
アメリカ

ジョー・ダンテ監督
ジョン・セイルズ、テレンス・H・ウィンクルス脚本
ロブ・ボッティン特殊メイク

ディー・ウォーレス 、、、カレン・ホワイト(TVレポーター)
パトリック・マクニー 、、、Dr.ジョージ・ワグナー(精神科医)
デニス・デューガン 、、、クリス(テリーの恋人)
ジョン・キャラダイン 、、、アール・ケントン(オオカミ男)
クリストファー・ストーン 、、、ビル(カレンの夫)
ベリンダ・バラスキー 、、、テリー・フィッシャー(カレンの同僚)
ケヴィン・マッカーシー 、、、フレッド・フランシス(TVディレクター)
スリム・ピケンズ 、、、サム・ニューフィールド(オオカミ男)
エリザベス・ブルックス 、、、、マーシャ・クイスト(オオカミ女)
ロバート・ピカード 、、、エディ・クイスト(連続殺人鬼、オオカミ男)


狼男アメリカン」と同時期の作品。(こちらが少し早く発表される)。
特殊メイクのロブ・ボッティンとリック・ベイカー(狼男アメリカン)は師弟関係であるという。こちらが弟子にあたる。
(ロブが暗闇に変身したので、師匠は真昼に変身させたという)。
所謂ワンカットでラテックスフォームで作った造形を収縮・膨張させ変身のダイナミックな動きを撮ってしまうものだ。
これは「狼男アメリカン」の特典映像で大変な作業を見ることが出来た。
(この「ハウリング」の特典のバタリアンズという3人組のコメンタリーは絶対いらない。付けないで欲しかった)。
両者甲乙つけ難い出来だと思う。
こうしたVFXにはワクワクする。

The Howling003

怖さでは、この「ハウリング」が上である。「狼男アメリカン」はとてもビビットで見せ場は多かったが。
TVや電話その他の機器類はその年代を感じさせるが、特にそれによる古さを映画そのものに感じることはない。
不安と緊張感が持続するストーリーと演出は申し分なかった。
青ざめた感じのうらぶれた色調(ネオン等の光)が禍々しさを際立たせていた。


猟奇殺人事件の犯人エディに個人的に呼び出されたニュースキャスターのカレンは個室ビデオ屋で犯人に遭遇するが、駆け付けた警官に犯人は射殺され彼女は無傷で救出される。
しかしその時のショックでその犯人についての記憶を失くし(自己防衛で抑圧し)何も語れない為、暫く仕事から遠ざかることとなる。
カレンは精神科医の勧めで夫に付き添われ「コロニー」と呼ばれる保養所へ療養に行く。

この保養所が連続殺人鬼エディのいる場所であった。
オオカミ男/女は、銀の弾丸か火で燃やさない限り、切っても銃で撃っても直ぐに生き返ってしまう。
死んだはずの男が生きているのだ。エディも例外ではない。
コロニー全体がオオカミ人間の住処で、Dr.ワグナーを中心に人間社会との共存を模索していたことを知る。
だが、博士のやり方に異を唱えるオオカミ人間の派閥もあり、彼らは人間を片っ端から襲おうとしていた。
襲われた人間はオオカミとなる原理である。今は少数派であっても、やり方次第では増殖が見込まれるだろう。
ビルはオオカミから受けた傷が元でオオカミ化してしまい、マーシャと結ばれ完全体になってしまう。
夜空には禍々しい満月が、、、。

The Howling001


テリーがエディの部屋にあった風景画と同じ場所があることを突き止め、小屋を見つけ証拠となる品々を写真に撮り、真相に迫るが、現れた狼男に彼女は抵抗も虚しく殺されてしまう。この一連のシーンの緊張感はかなりのものであった。
彼らは、満月に関係なく変身は自由に出来、猛威を振るえるようだ。

The Howling002

結局、クリスが銀の銃弾を手に入れ、オオカミたちに捕らえられたカレンを間一髪のところで救い出す。
博士はこの時、自ら銀の銃弾を浴び、救われたと言って絶命するが、他の武闘派はどんどん襲ってくる。
クリスは銀の銃弾で次々に倒してゆき、後ずさりして行く彼らを建物に封じ込め火を放つ。
そして車に縋りつくオオカミを振り落として逃げるが、途中で出逢った仲間だと思っていた保安官や警官たちもオオカミで、彼らは銃を撃ってくるのだ。そうこの映画のオオカミ男は普通に銃を撃つのだ。
二人は車をやられパトカーに乗り移るがエンジンがなかなかかからずこの時、カレンは肩を噛みつかれてしまう。
どうにか彼らを振り切りニューススタジオまで戻るふたり。
しかしすでにカレンは自らの運命を自覚している。最後の晴れ舞台である。

本番のニュース番組でキャスターのカレンがオオカミ一族のことを喋り、自分の変身する姿をカメラを通しTV中継させ、この事実を顕に(ショッキングに)知らせる。
観た人はシンプルに信じる人もいるが特殊撮影で騙していると受け取る向きもあったが、当然世間は騒然となった。


カレンは怖いオオカミではなく可愛い犬になったように思えたのはわたしだけか?
クリスが冷静にスタジオのカレンを狙撃する。
犬なら人間との共存も問題ないし、撃ち殺すこともなかったはずだが。
これを機に、本格的なオオカミ一族と人類との共存を考えてみる場に移行するべきでは、、、と思った。
丁度良い(高視聴率)特集番組になったであろうに。
ディレクターはただ呆気にとられていて思考停止状態のようであった。


ところでマーシャはしっかり生き残っており、レストランでステーキをレアで注文していた、、、。
マーシャの怪しい笑みで終わる。


怖くて何とも物悲しい映画であった。

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ベイビー・オブ・マコン

THE BABY OF MACON002

THE BABY OF MACON
イギリス、ドイツ、フランス
1993年

ピーター・グリーナウェイ監督・脚本

ジュリア・オーモンド、、、赤子の母(姉)
ジョナサン・レイシー、、、コシモ・デ・メディチ三世
レイフ・ファインズ、、、司教の息子
フィリップ・ストーン、、、司教

これは、まずNHK・BSでは放映されない。買って来て観た。
ピーター・グリーナウェイは前から観たい監督であったので、、、。
なるほどねえ。


1659年のことだという。
イタリアの劇場で「ベイビー・オブ・マコン」というオドロオドロシイ舞台がはじまる。
吃音の餓鬼が預言をするところからもう尋常ではない空間構造を感じてしまう。
不妊と飢餓と貧しさに喘ぐマコンの街に美しい赤子が授かる。
奇跡の子と人々から崇められることになるその男の子は酷く醜い年増から生まれた(生まれる前は怪物が生まれると危惧されていた)。
しかし、その母の娘(赤子の姉)が自分がその子の母だと人々の前に名乗り出て、処女懐胎によってもうけた子供だと主張する。
娘はその子の聖性を頼みにその子から祝福を授からんとする人々から金品を受け取る。
金儲けを始めるのだ。教会(宗教)ビジネスであるか。
すると司教たち~教会が黙っていない。

だがその娘は堂々と自らが処女であることを調べさせる。
女たちは皆、口々に処女であることを認め、彼女は聖母の位置に着き、いよいよ奇跡の赤子の霊性は高まり人々はそれに縋ろうとする。
司教の息子は科学をもちだし、処女が子を産むはずがない、若しくは子供を何処からか盗んで来たのだと説く。
しかしその子が誕生してから街は豊かになり子供も生まれてくる兆しが現れる。
娘は生みの母と父を地下室のベッドに囲い幽閉してしまう。

白塗りのコシモ・デ・メディチ三世が観客として観劇に来ていたはずが、いつの間にか舞台上で子供を見たり触れたりしている。
次第に普通に観客が舞台上に登り、劇に絡んで来る。特にコシモは重要な場面で提案などして噺の成り行きを決めるほどの立場をもつ。
他の貴族も役をくれと金を払って舞台に混じってゆく。

一貫して「聖母子」を否定し批判を続ける司教の息子を娘は誘惑して堕落させようとする。
もうすんでのところで娘がその男を落とすとき赤子が牛を使って男の腹を刺し殺す。
娘は猛り狂って大きな鎌で牛を切り殺す。
司教は息子を殺されたことに怒り、娘から赤子を取り上げ教会で預かる。

教会もその赤子に目を付けていたことは明らかであり、これまでよりあからさまにビジネスを展開する。
しかもそのやり方は虐待による赤子の身体を蝕むような惨いやり方で商品化が成され、やがて人々も教会に批判的になる。
そんな折、例の娘がやって来て、赤子にこれまでの美しさが無くなっていることに悲嘆し彼を窒息させ殺してしまう。

何とか仕返しをしたい司教であるが、処女を罰する掟の無いその街では彼女に何もできない。
するとコシモが司教に知恵を与える。
その案通りに娘を処女を失う刑に処すればよいという事になった。
宗教的計算でよく分からなかったが、208回に渡り凌辱されることに決まる。
(コシモは途中で彼女に同情して泣いたりしてなかったかしら、、、要するに劇を面白くして愉しんでいるのだ)。
そしてその娘は刑の執行によってボロボロにされ結果的に血まみれで死んでしまう。

なお、その傍らで寝かされていた聖なる赤子は、周りの多くの人々(役者だか観客だか分からぬ者たち)によって衣服・装飾全てを次々に剥ぎ取られ、身体は切り刻まれ所謂、聖遺物として持ち去られていったのだ、、、。

これらの終盤は大概のスプラッター場面に鈍感になって来ているわたしでも観ていられないグロテスクさがあった。
全て人々の強欲の証である。こちらの方がグロテスクか。
そうだ、当然人々の凄まじいばかりの強欲が物質的に絢爛豪華に視覚化されたものだ。
実に豪奢なゴシック調の舞台装置であった。

恐ろしくどぎつく空虚極まりない劇が終わりを告げカーテンコールに、これまで死んでた役者も加わり挨拶をするが、死んだ牛はともかく、司教の息子と聖母がずっと死んだままで舞台に横たわっているのが気になった。
虚実が平坦に交錯する恐ろしく不気味で明るい空間が広がって行く。
そして驚くべきことに、、、観客席だと思っていた席も舞台の一部であり、拍手はその外から送られていたのだ!
飛んだ舞台~空間構造だ。
われわれは神の(超越的視座)からカメラによって彼らを具に見ることが出来たが、この観客席では観ることが可能なのだろうか?
オーケストラのコンサートではないのだ。

まあ、われわれの宇宙の構造だってどうなっているのかも分かっていない。
もっと驚くべき構造~余剰次元によって成り立っている感じである。
他次元から見ても、グロテスクに映る光景というのはありそうだ(笑。

THE BABY OF MACON001


観た後の余韻としては、「神々のたそがれ」(ゲルマン監督)あたりに近い。
また見ようとは暫くは思わない。だが、一度は見ておかないと損である作品であろう。







木と市長と文化会館 または七つの偶然

Les Hasards003

L'Arbre, Le Maire et La Mediatheque ou Les Hasards
1992年
フランス

エリック・ロメール監督・脚本・音楽


パスカル・グレゴリー、、、ジュリアン・ドゥショーム(ヴァンデ・サン=ジュイール市長)
アリエル・ドンバール、、、ベレニス・ボーリバージュ(小説家、ジュリアンの彼女)
ファブリス・ルキーニ、、、マーク・ロシニョール(小学校校長)
クレマンティーヌ・アムルー、、、ブランディーン・レノワール(政治社会学が専門、ジャーナリスト)
フランソワ・マリー・バニエ、、、ロジス・ルブラン・ブロンデ(政治雑誌編集長)
ギャラクシー・バルブット、、、ゾラ(マーク校長の娘)

BSで観た。最近のNHKは良いものを流す。フランスモノばかりで嬉しいではないか、、、。
(もう当分、西部劇はやめてね)。
緑の光線」に続きエリック・ロメールもの。

「7つの偶然」は7章から成り立っていて、どれも、もし、、、という噺で始まるからか。
洒落ていて小気味よい対話で心地よい。
喋りがここまで映画を作っているのを観たのは初めて。

市長が田舎に「文化会館」を作ることを巡っての噺である。
図書館、ビデオライブラリー、野外劇場、プールそして大きな駐車場をもった建物だ。
しかし、田舎に自然の景観を破壊してまで、緑の広場を無くしてまで、そんなものを建てる必要が果たしてあるかどうか、の議論が様々の場面で繰り広げられる。

登場人物は極めて良識のある普通の人たちだ。
自分の信念をもって率直に語り合う。
それが全く劇じみていない。
ドキュメンタリー調というか、すぐそこの部屋で話されているのを聞く感じである。

Les Hasards001
クールビューティを絵に描いたようなブランディーンが村の人々にインタビューする場面も面白い。
本当の村人相手である。
村の実情と彼らの置かれた現実が伝わって来る。ルポルタージュだ。
勿論、市長に2時間も政治信条や今後の計画・展望などを確認し、その反対派の代表格のロシニョール校長のエコロジスト的な発言も平等に聴いて記事を書く。

しかし内容の刺激度と面白さから編集長のブロンデはジュリアンの記事は全て没にして雑誌に載せる。
つまり校長側にスポットを当てた特集記事となった。
市長の噺は平凡で当たり障りがなく、他の政治雑誌に載っている記事にも似たような内容が見られるという理由からだ。
確かに彼の話を聞いて、左派がどうの右派がどうの言ったところで、政府から予算をせしめて自分の地元で目立つ事をして実績を得たい、よくいる市長の域は出ない。しきりに自然に配慮して村の経済的発展(脱農業化)を図ることを述べても、今更読者が興味を持つほどの内容ではない。
ロシニョール校長の噺の方がそれは圧倒的に読者受けする刺激がある。
(大概反対派の過激意見の方が面白いものだ)。

ここで当然、ジュリアンとブロンデ(親戚でもある)には距離が出来る。
だが、ブランディーンとの関係は良好なままだ。
お互いに大人である。市長も基本的に真摯な姿勢をもつ良い人ではある。


市長の娘ベガ、校長の娘ゾエの出逢いから俄然面白くなる。
10歳の娘ゾエは将来立派な代議士になることを父から期待されている娘だが、なかなかのもの。
(父に対しても論理的な批判が出来る。親の言ったことなども鵜呑みにはしない)。
コミュニケーション能力が高いと言ってしまえばそれまでだが、まず自分で考える能力があり、それを相手に上手い間を取って精確に伝え、相手の考えを巧みに聞き取ることが出来る。
はっきり言って、大人でもわたしの身の周りを見回してそれが出来る者は極少ない。
それは悲しい程、、、と謂うより絶望的とも謂える。
(認識の枠というものは恐ろしい)。

結局、彼女がベガのお父さんであるジュリアンに伝えたことは、緑の広場の大切さであった。
人が集まれる場である。人の真の交流の場が無くなってしまったことによる閉塞感と不活性化が村の現状を支配していたのだ。
基本的に外(都会)から人を呼ぶ目的の文化会館では、更に村人を疎外する方向性しか持ち得ない。
これは、村人からブランディーンが聞き出した話に必ず滲み出て来たことである。
10歳でちゃんとその現状を掴んでいる。
二人の対話を見ると、彼女はディベートも上手そうだ。

Les Hasards004
娘のお陰で文化会館建設が中止になったような父の喜びよう。
(建設予定地の地盤の補強に予算がかさみ中止となったのだが)。
親バカであるが、確かに娘は将来有望である。

Les Hasards005
市長の彼女ベレニスは都会大好きのパリ出身者であるが、最終的にジュリアンと田舎に住み、リゾート気分で休暇に都会に行って愉しむという選択にしたようだ。それも上手い方法かも知れない。
ジュリアンはその地に持つ広大な敷地を人々の憩いの場所に提供する。
最後はミュージカル調に良い余韻を持って終わる。
音楽のセンスも良かった。

「緑の光線」と甲乙つけ難いセンスの良い作品であった。



ティコ・ムーン

TYKHO MOON002

TYKHO MOON
1997年
フランス/ドイツ/イタリア

エンキ・ビラル監督・脚本
ブリジット・バルドー主題歌

ジュリー・デルピー、、、レナ(暗殺者)
ヨハン・レイゼン 、、、アニクスト(彫刻家)
リシャール・ボーランジェ、、、グレンバール(ジャーナリスト、新国連の暗殺者)
ミシェル・ピッコリ 、、、マクビーと次男エドワード(二役)
マリー・ラフォレ 、、、エヴァ(マクビーの妻)
ジャン=ルイ・トランティニャン、、、マクビーお抱えの外科医
ヤン・コレット、、、アルヴィン(マクビーの長男)
フレデリック・ゴルニー、、、コンスタンティン(マクビーの三男)


お洒落なフランスSF映画として以前から耳に入っていたので、購入して観てみた。
こんなのをBSあたりでやってくれたら有難いのだが、、、。
(最近、フランスモノを放映している。とてもよいことだ。昔の西部劇ばかりでは食傷気味なのだ)。

ベルギー・フランスを中心とした地域のマンガ~”バンド・デシネ”からきたものだという。
ちなみにフランスでは、マンガは「9番目の藝術」とされている。
アルファヴィル」を直ぐに想いうかべてしまうが、わたしはあちらの方が好きだ。車での移動がそっくり。これは素晴らしいと思う。

だが、とてもスタイリッシュでタマラ・ド・レンピッカを想わせる女性ファッションがレトロ未来派志向(嗜好)で味わいがある。
ジュリー・デルピーの赤い頭が何だっけと思ったら「フィフス・エレメント」のミラ・ジョヴォヴィッチだ。こちらの方が魅力的だが。

月面の都市の埃っぽいダークな世界は、多くの近未来SFものによく見られる。
いつも酸性雨の降るイメージとこのような砂漠のようなものに分かれるようだ。
前者の代表は「ブレード・ランナー」。

ともかく、極々普通の埃っぽい街と車と古臭い拳銃や電話で、空気と水が有料で、重力の調整がおかしい、などハリウッドやロシア映画からは出て来ないと思う。もっとそれっぽく(通俗的・常識的に)作ることに力を入れ、とてもありきたりな感覚を与えるに終わる作品になることが多い。その意味でゴダールの「アルファヴィル」は斬新だった。これもベースの世界観は素敵である。

噺はマクビーが月世界を支配している。マクビー一族というべきか。
マクビーは皆、首にコバルトブルーの痣があり、細胞に疾患を抱えている。
そのマクビーに臓器提供する人間がティコ・ムーンと呼ばれる。
主人公がそのティコ・ムーンである。
マクビーに頭を手術され記憶を消され、20年間、記憶喪失の状態なのだ。

マクビーは臓器移植を繰り返し永遠に生きるつもりでいるらしい。
プロメテウス」にもそのような独裁者がいたが、権力を握ると究極的にはそこに目が向くのか、、、不毛、、、。
ヒトの遺伝子と豚のそれは似ているというが、彼のベッドの傍らには”ナポレオン”という豚がいつも煩く鳴いている。

ティコ・ムーンは病院で焼死したことになっていたが、「ティコ・ムーン第二の生」という本が巷でバカ売れしており、その真相を確かめるためにマクビー一族の差し向ける秘密警察やそれに対抗する組織(新国連)が動きはじめ、物語が進行してゆく。

TYKHO MOON001

グレンバーは新国連からマクビー一族一掃の命を受けてやって来た暗殺者であるが、何故ティコ・ムーンとレナを守るのか、、、。
そしてどうやら「ティコ・ムーン第二の生」は彼の著作のようだ。
コンスタンティンは初めは首に痣の無い唯一のマクビー一族であったため、彼は密かに母エヴァとティコ・ムーンとの間の子供ではないかと疑っていた。その為、父からティコ・ムーンを守る為の護衛としてレナを雇っていた。
しかし、グレンバーと最後に相撃ちとなったところで、コンスタンティンの遺体には痣が鮮やかに現れていた。


ティコ・ムーンと恋をした殺し屋レナは月を離れる。
レナは「月を離れるのははじめて」と窓の外を眺めて呟く。
もうすでに赤色超巨星のベテルギウス(オリオン座α)は存在しないというから、超新星爆発した後という事か、、、
そもそも地球に棲んでいない事自体、ガンマ線バーストで地球が壊滅的打撃を被ったのか、、、?
いやその場合、月もどうなってるか分からない。質量変動は地球自転軸にも大きく影響するであろうし。
このドラマの設定時代はいつなのか、定かではない。ベテルギウスの変形は分かっていても超新星爆発の時期はまだ算出されていない。
ともかく二人は冬の大三角かダイヤモンドのあたりにある星に向かうそうだ。
700光年離れたところにリゲルがあるが、どの辺に行くのか、、、なんてどうでもよいか、、、。
ちなみに、車ではなく宇宙船に乗っていた。ゴダールなら車でトンネル潜ればその辺に出てしまう。



グレンバール(リシャール・ボーランジェ)が立ち振る舞いもセリフもとても決まっていた。
最後に死ぬ場面もスローでスタイリッシュであった。

スタイリッシュでお洒落な映画ではあり、「アルファヴィル」や「フィフス・エレメント」が好きな人なら観る価値はあると思う。
バンド・デシネのセンスの好きな人にも受けるであろう。


グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札

Grace of Monaco001

Grace of Monaco
2014年
フランス/アメリカ/ベルギー/イタリア

オリヴィエ・ダアン監督
アラッシュ・アメル脚本
クリストファー・ガニング音楽

ニコール・キッドマン 、、、グレース公妃
ティム・ロス 、、、レーニエ3世
フランク・ランジェラ 、、、タッカー神父
パス・ベガ 、、、マリア・カラス(天才オペラ歌手)
パーカー・ポージー 、、、マッジ(側近)
マイロ・ヴィンティミリア 、、、ルパート・アラン
デレク・ジャコビ 、、、デリエール伯爵
ロバート・リンゼイ 、、、オナシス(ギリシャ航海王)
ジェラルディン・ソマーヴィル 、、、アントワネット(レーニエ3世の姉)
ニコラス・ファレル 、、、ジャン・シャルル(アントワネットの夫)
アンドレ・ペンヴルン 、、、シャルル・ド・ゴール
ロジャー・アシュトン=グリフィス 、、、ヒッチコック

監督は、「エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜」の監督である。あの作品にもグレース公妃がピアフに労いの言葉をかけ彼女がいたく感動していたのが印象的、、、。あれは良い映画であり、マリオン・コティヤールの美を封印した壮絶な演技を堪能することが出来た。


確かに誰もが役を演じている。

ある場所からモナコを見渡す場面が映されるが、、、美しい国~街だ。
(わたしはモナコと聞くと「モナコグランプリ」であるが)。
だが、モナコは非常に難しい立場に立たされていた。
ロイヤルウエディングの華やかさなんて一時のもの、途轍もなく大変な運命を引き受けることとなる。
勿論、ある程度の想定と責任は感じていたにせよ、、、。
グレース・ケリーの御伽噺~モナコ公妃の役を如何に演じたかが描かれる。
(勿論、フィクションを交えての御伽噺である)。

ヒッチコックが宮殿にいきなり現れ、グレース公妃に映画の出演依頼をする。
その時、ケイリー・グラントはどうしてる?ああ、絶好調だ、なんて会話も出る。
モナコ経済に多大な影響力を持つオナシスのパーティ。
ヨーロッパ全体の安定が揺らぐ、フランスのアルジェリア紛争を巡り議論に加わるが、、、
アメリカ的な考えでフランス政治家と対立する。
きちんと意見を言う彼女だが、政治に意見を挟むと疎まれる。
ドゴールはモナコに企業全てに課税し、フランスへ納税しろと迫る。
軍事費を強硬にモナコに求めるのだ。
赤十字の婦人たちに舞踏会の準備より病棟の改修工事の方が大切だと訴えるが、相手にされない。
どうも生活はストレスだらけであったようで、例の曲がりくねった坂をスポーツカーで飛ばしまくっていたようだ、、、。

モナコは生活全てのライフラインはフランス経由であり、独自の産業も軍隊もないモナコの自立は元々難しいものであった。
国境を封鎖されたらもうフランスの意のままとなる。
ドゴールがどれだけヨーロッパで権力を握っていたかも分かる。


ヒッチの映画に出るか迷う。それは離婚にも繋がる可能性をもつ。
誰もが批判的であり、とても孤独である。
難しい立場だ。

彼女はモナコの真の公妃となる為、学ぶべきしきたりや作法を基礎からしっかり学びなおす(ついでにフランス語も)。
1000年間個人の自由を守る国として存続したモナコの「したたかさ」と「信念」の神髄を。
そう、学びは周囲のお膳立てで出来るものではなく、自ら欲したときでしか始まらない。

しかしそれは丁度機を得ていた、というかそこで始めなければ万事休すの状況でもあった。
ルイ14世もナポレオンもモナコをとれなかったが、あやうくドゴールにとられそうになる所までくる。
モナコの宮廷内に裏切り者がいて、不利な情報をマスコミなどに流していた。
レーニエ3世とグレース公妃の関係を悪化させモナコを混乱に陥れ、レーニエ3世の排除を企てていたのだ。

Grace of Monaco002

側近のマッジが裏切っていたことが分かり、その黒幕は、、、と探って行くと
アントワネットがドゴールの閣僚と逢っていたことが突き止められる。マッジは探偵を雇って調べさせていたのだ。
実は姉が王位を継承する条件でフランスにモナコを売り渡そうとしていた黒幕であったことが判明した。
(映画みたいにドラマチックな噺だ)。
裏切り者は国外追放だが、その前にグレースが各国首脳を招いた国際赤十字の舞踏会で最後の公務をさせる。
ドゴールを欺き、安心して会に出席させる公務である。まんまとドゴールはやって来た。
やはりモナコの伝統を引き継いだグレースのしたたかさである。

マリア・カラスとオナシスのことなども雰囲気的に感じることが出来た。
マリア・カラスの(が唄ったであろう)曲も聴けた。

最後はことばの力である。
ヒッチの映画出演を断った彼女の一世一代の演技である。
モナコを守るために世界へのアピールのチャンスである。世論を味方に引き入れるのだ。
(何もないモナコにとってはこれしかない)。
彼女の率直な等身大のこころの籠ったスピーチによって、首脳たちの盛大な拍手を得る。
彼女、徐々に品格が上がって行くのだ。
レーニエ3世との関係もしっかり修復される。
(ここまでやったのだ。それは当然であろう)。

「君は人生で最高の役を演じにモナコに来たんだ」(タッカー神父)やはりこれに尽きる。
そしてニコール・キッドマン文句なしの名演技であった。
これまでに見たなかでは、最高に凛として際立って美しい。
グレース・ケリーが演じられる女優は、ニコール・キッドマン以外にいないと思う。

Grace of Monaco003




ヒッチコックも最後まで彼女を暖かく見守るとても良い役であった。
(これはどうも脚色っぽい気がしたが、、、(笑)。
最初と最後がスタジオ撮りの場面で繋がっていたが、「泥棒成金」の車のなかのシーンであると思われる。





泥棒成金

To Catch a Thief001

To Catch a Thief
1955年
アメリカ

アルフレッド・ヒッチコック監督・製作
ジョン・マイケル・ヘイズ脚本

ケイリー・グラント 、、、ジョン・ロビー
グレイス・ケリー 、、、フランセス・スティーヴンス(富豪令嬢)
シャルル・ヴァネル 、、、ベルタニ(レストラン経営者、事件の黒幕)
ブリジット・オーベール 、、、ダニエル(泥棒娘)
ジェシー・ロイス・ランディス 、、、ジェシー・スティーヴンス夫人(フランセスの母)
ジョン・ウィリアムズ 、、、ヒューソン(保険会社社員)


ジョン・ロビーはかつて”The Cat”と呼ばれる金持ちの宝石しか盗まない泥棒であったという。
が、金になる立派な宝石は金持ちしか持ってないだろう、、、。
別に偉そうにするほどのことではあるまい。

フランセス~グレイス・ケリーがジョン・ロビーを誘って警察の車を振り切る為、スポーツカーで蛇行する道を猛スピードで切り抜けてゆくシーンがある。これそのものはスリリングで爽快であるが、大公妃となってから自動車事故で亡くなっていることを思うと複雑な気持ちである(このロケ地近くらしい)。

ケイリー・グラントがやけに脂ぎっていて、グレイス・ケリーがエレガントなドレスを次々に着替え美しいが、他の出演作に比べ気品とオーラがない。
それ以前に、よく出来た作品だとは思うが、ヒッチコックの映画にしては、仕掛けや密度が大変薄い感じがする。
リヴィエラの高級リゾート街といってもあまり臨場感はのぞめなかった。
合成映像~スクリーン・プロセスが多用されているところがやはり没頭する気を削ぐところはある。
面白い機知に富むシーンなどは部分的に幾つかあったが、、、。

噺も込み入ったモノでもなく、昔の自分の盗みの手口そっくりの宝石泥棒が出現し、誰もが”The Cat”を疑うが、本人は恩赦により「仮釈放」扱いの為、足を洗い真っ当な生活を続けている。
ジョン・ロビーは一体だれがかつての自分に成り済まし宝石強盗をしているのか探り捕まえようとする。
身の潔白をかつてのレジスタンス仲間や警察に示さねばならぬし、犯人の目的と一体だれなのかを是非とも知りたいのだ。
彼は保険会社の社員と富豪の母娘などを巻き込みながら、次に強盗が狙いそうな富豪の集まるパーティーで罠を掛ける、、、。
保険屋は盗まれた宝石を彼が全て取り返すというから必死に協力する(支払う保険料が巨額なのだ)。

To Catch a Thief003

宝石が盗まれたパーティーの屋敷の屋根から転落して死んだ男フッサールがベルタニのレストランで働いていた男であり、警察はそれで事件を幕引きにしようとした。だがジョンは真犯人は他にいると見た。彼は片足が不自由であったのだ。
実はフッサールの娘がジョンの手口で宝石を盗んでいたのだ。
最後は屋根から落ちそうになったダニエルが全てを告白する。
協力(庇護)者と見せかけていた、かつてのレジスタンスなかまを雇っているレストラン店主ベルタニがその黒幕であった。


スティーヴンス夫人が初めからやけにジョン・ロビーをかっていて、その器を評価する。
この辺、何を根拠としてそこまで信じられるのかよく分からない。女の勘か?
フランセスがやたらと積極的にジョンにアタックしてくるのも今一つ意味不明。
わたしのタイプよ!そう言われたら、それまでだが、、、(笑。
偽の”The Cat”からの警告のカードを受け取るが、この小物はちょっと稚拙な感じがした。
ヒッチコックにしては扱いも中途半端なのだ。
ただ、車のドライブで警官を出し抜いて、お昼にチキンの脚か胸?と聞いてチキンをがっつくところなどの流れのシーンはやはり巧みな感じがする。
全体にコミカルな雰囲気も漂う映画であり、内容的には緊張感があってよいようにも思えるが、展開にしても詰めが甘くかなり緩いことは否めない。

To Catch a Thief002

ジョン・ロビーのもとにフランセスがやってきて挨拶を交わし、さようならをしても彼女は去る様子がない。
「ここなら母も気に入るわ」ときた。
何とも、、、強引というか、彼女の力技が目立った。


ヒッチコックにしては物足りないと謂える。
キャストも充分魅力が発揮されているようには思えない映画であった。
(ケイリー・グラントの巨体が屋根の上を黒猫みたいに音もなく素早く滑り去るなんて想像がつかないし、グレイス・ケリーがまるでじゃじゃ馬娘みたいな性格である。おまけに母は新宿の母みたいな怪しげな感じ)。

To Catch a Thief004




緑の光線

Le Rayon Vert004

Le Rayon Vert
1986年
フランス

エリック・ロメール監督・脚本


マリー・リヴィエール 、、、デルフィーヌ
リサ・エレディア
ヴァンサン・ゴーティエ
ベアトリス・ロマン


BSで入っていたので先程、観た。
『緑の光線』という題に惹かれた。
最初SFかと思った。ゴダールに限らずフランスSFはなかなか手強い。
期待したが、全く縁のないものではなかった。
ジュール・ヴェルヌの『緑の光線』の噺は知らなかったが、そこから来ている。
バカンスの地が描かれていることもあり、絵は美しい。
ギリシャ旅行が友達のキャンセルで急にダメになったデルフィーヌがバカンスをどう過ごすのか、、、理想の彼をどうやってみつけるのかが淡々と描かれる。

7/4からバカンスの間、日記のように記される。
普通にバックに生活音が入って来てドキュメンタリーを見ている感覚にもなる。

デルフィーヌは少し鬱なのか、直ぐに泣く。友と噺をしながら直ぐに泣く、、、。相手は戸惑う。
友達は無いと(独りだとか)いいながらかなりいて、彼女のことを親身に心配し、バカンスの地を教えて泊まるところまで提供してくれたりする。
傍目にはかなり恵まれた環境~友人関係に想える。
「本当のバカンスが欲しいの~」ってなんだそれ?
独り旅を勧められるが、それも惨めで嫌だし、団体旅行なんてとんでもないという。
わたしにはよく分からぬままただ付き合う、、、。

Le Rayon Vert002

あのシェルブールにも誘われ周囲は彼女に暖かく気を遣うが、どうにも馴染めずすぐにパリに戻ってしまう。
かつての恋人のいる山にも行ってみるが、そこも直ぐに退散。
ともかく訳もなく虚しいみたいだ。これでは、確かに実存主義的ヒロインだ?
バカンスもこのままだと無くなってしまう。
何とか良い場所で良い出逢いはないか、と焦るデルフィーヌ。
こんなながれでもフランス映画は雰囲気で魅せてしまう。

カードに拘ったり、前に別れたジャン・ピエール(サルトルかい?いや、彼はジャン・ポール、、、それを言うならジュネかランパルか、メルヴィル、、、どうでもよい)のことをずっと彼氏みたいに言っている。
パーティやっても、肉は食わない魚も嫌だ、とか扱い難いお姉ちゃんではある。
肉は赤い血をもっているからとか、、、。
友人に「言葉の問題だわ」と言われ「味と印象よ」と否定しているが、わたしは言葉の問題であると考える。
理想の彼氏にしたって言葉の問題ではないか、、、。
結構、我儘なヒロインなのだ。
(ヒロインはちょっと地味な感じで周囲の女友達の方が華やかでもある)。
ともかく、「行動」を勧められる。

Le Rayon Vert003


「自分自身や他人との触れ合いを取り戻そう」
という緑の看板を見つける。
緑色のトランプも拾っているが、その緑は彼女の「今年の色」であるらしい。

極めつけは、どこかのおじいちゃんおばあちゃんたちによるジュール・ヴェルヌの『緑の光線』についての雑談のところだ。
ヒロインは彼らの対話を傍らで聴いている。
「水平線を切り裂く緑色の刃」の噺である。
「緑の光線を見た人は、自分と相手の気持ちが分かる」という。

その中にいる老人が立ち上がり得意になって原理を語る。
「それは空気の澄んでいる時に見える可能性がある。
大気のせいであの水平線上に見える太陽は光の屈折により実際には0.5度ほど下にある。
そして太陽が水平線に近づくほど光の屈折率は高くなる。
太陽が水平線に消えそうになる時、太陽はすでに水平線の下である。
プリズムと同様光の分散により、スペクトルの中で最も角度の強い青が大きく屈折し最後に周囲の空気の黄色に混ざり見えるのが緑の光線である」と。

デルフィーヌはその後やはり親切な友人に美しいビーチのあるリゾート地と義兄の持っている部屋まで貸してもらう。
随分、恵まれていると思うが、、、。
そこで出会ったスウェーデン人の美女と友達になるが、そこでも話しをしているうちに泣き出す。
やはりバカンス中の男性を交えその魅力的な女性が噺を盛り上げているうちにデルフィーヌは独りでその場から逃走する。
日本人なら義理でそこそこ愉しく立ち振舞ってから後でさよなら、であろうが間髪入れず気に入らなければ走り去る。
分かり易くてよいともいえるし、フランス人らしいといえばそうだが、、、。人に逢う事で自らの孤独が顕になるようだ。
それは理解できる。

そして最後に、、、駅でドストエフスキーの「白痴」を読んでいる時に気に入った男に出逢い自分から声をかける。
かなり積極的に誘い、その男の行くところについてゆく。
こざっぱりした港町のようだ。
そこで解放されたのか、自分のことを率直に喋る。

彼と岬に来て腰を下ろし話を続ける。
一緒に来ないかい、、、もう少し待って、、、。
彼女の見つめる先を知り、彼は悟る。
また泣き出す彼女と一緒に夕日の沈むのをじっと見守る。
そして見事に滅多に観ることの出来ない緑の光線を二人で見届ける。
(この女性はこれくらいの現象が味方しないと何の決断~相転換も出来ないのだ)。

Le Rayon Vert001

ここでもし光線が見れなかったら彼女は一生独りで暮らしただろうな、と思える。
強力な美しい現象というものは、確かに何かを変える契機になるものだ。
かなり緊張感のある心地よい映画であった。


ロリータ

Lolita001.jpg

Lolita
1662年
イギリス

スタンリー・キューブリック監督
ウラジーミル・ナボコフ脚本・原作

ジェームズ・メイソン 、、、ハンバート・ハンバート
スー・リオン 、、、ロリータ・ヘイズ
シェリー・ウィンタース 、、、ロリータの母
ピーター・セラーズ 、、、クレア・キルティ

ここでも「博士の異常な愛情」で3役熟していたピーター・セラーズの七変化が見られる。
この映画の異常さを見事に演出しているではないか。特に眼鏡をかけた黒い背広の出で立ちでのダンスの姿は異様な個性を感じる。まさにただものではない感がビシビシと来る。
噺は時々、ハンバートの独白のようなナレーションが入るところが、ちょっととぼけていて面白い。


はっきり言って主要キャストは皆かなりおかしな連中であり、まともなのはロリータだけか、、、と思える。
彼女の成育環境からみても、とても真直ぐに強く賢く生きている。しっかり自分を守れるところなど凄い。
(弱い娘なら、不良にでもなっているところだ。日本ではヤンキーか)。


ハンバート教授は夏を過ごすために田舎町で下宿の家を探す。
ヘイズ夫人の家は乗り気ではなかった(夫人のせいで)。
だが、庭で偶然出逢った少女に魅了される。いや、、、
ともかく教授の内なる何かが強烈に呼び覚まされたとでも言うべきか?

直ぐにその家に滞在始めるが、ロリータが気になってたまらない。
しかしその母ヘイズ夫人が教授に恋をしてしまうのだ。
(夫は7年前に他界している)。
ハンバートにとっては婦人が鬱陶しくて堪らない。
何とか、ロリータとの二人の時間を作りたい。何でも欲しいものを買い与え気を引こうとする。
しかし夫人は娘にどうやら女としての敵対心を抱いているようで、ロリータを自分のところから遠ざけようとしていた。

ヘイズ夫人はついに、娘への嫌悪とハンバートと一緒に過ごしたい気持ちからロリータをサマーキャンプに出してしまい、その後は全寮制の学校に送りそこから大学に入学させるという、徹底的に娘のいない生活を企んでいた。
教授はロリータと離れたくない為、ヘイズ夫人の求婚を受け容れる。そうすれば父として彼女と繋がる。
だが、ハンバートの日記を盗み読みした夫人が事の次第を知るに及ぶ。
ハンバートとしては、ピストルで彼女を事故死に見せかけようか考えるほど追い詰められていたところであったが、ヘイズは怒り狂ってに雨の中、表に飛び出した際に車に引かれて絶命する。
転がり込んだ幸運。

Lolita003.jpg

彼女を連れ戻し、それからはハンバートの天国かと思いきや、、、。
この男、詩を書き小説などを執筆し、人の機微や心理にも通じているはずなのに、ロリータを一個の独立した人格として扱えない。
酷い母親以上の関わりである。これで好かれるはずはない。
束縛が激しく帰りの時間や交友関係に煩く、自由や自立など微塵も認める気はない。
ダンスもデートも禁止、学校の演劇にも参加を認めようとしない。
完全に自分の物扱いなのだ。
つまり、美しい娘に純粋に恋をしたというのではなく、自らのエゴを彼女を通して実現しようとしたに過ぎない事が分かる。
言い争いが絶えない日々が続き、ロリータも発狂寸前となる。

Lolita002.jpg

そして学校を退学させ、彼女を独占するために車の旅で過ごす。
これには参るが、ロリータも尊敬するキルティに頼み心理学の教授としてハンバートを説き伏せようとしたり、叔父にしてインフルエンザで入院した病院から脱走をして成功する。何役ものキルティを愉しめ、面白くも気味が悪い。
ロリータはやはり彼女に無理強いするキルティからも離れ、純朴な青年労働者と結婚し子供までもうける。
アラスカに移住するための費用を無心する為ハンバートに手紙を出し、ロリータは結局13000㌦をドライにせしめる。
これは曲がりなりにも彼の彼女に対する親心でもあり恋心と取ってあげてもよいところか。もう最後の清算(家まで売って作っている)で後を考えていないともいえる。
そしてハンバートは、彼女とキルティとの一件を知り、自分が彼女にとってどれくらいのものであったかを悟り、絶望して泣きながら去って行く。


そしてハンバートは冒頭にも繋がるキルティ宅を訪れ彼を射殺する。
少女像の絵の裏に隠れたキルティに少女の顔に弾丸を浴びせ彼を殺す、、、象徴的な最後となった。
これこそ清算であろうか。


ロリータ・ヘイズのスー・リオンはまさに”ロリータ”のイデアに相応しい。
ピーター・セラーズの毒は癖になる。要注意だ。



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GOMA28

Author:GOMA28
絵画や映画や音楽、写真、ITなどを入口に語ります。
基本的に、日々思うことを綴ってゆきます。悪しからず。
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